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もう、一月も終わってしまいます。どうも、ジョブズの引退報道の時にジョブズが禅宗であると報道されたようでして、ヒット数が600とか、結構な数字になってます。へっぽこブログへようこそ。そしていずれはさようなら。それと、東国原知事が退職いたしまして、東国原さんについて書こうとも思っていたんですが、河野新知事がまたもや鳥インフルエンザ。養鶏場が巨大なので、一度感染すると被害の規模が大きいのは当たり前。またヒステリックな報道で農家が自殺なんぞしないことを祈ります。先週は、関門海峡を越えましていろいろ行ってきました。もうすでに単なる観光地になってしまった京都の晴明神社やその他もろもろがちょっとは使えそうかなと。ちょうどジョブズの話題にも重なるし。そろそろたまってきた分は、推敲の予定です。 尼崎にも行って、立花駅から徒歩圏内に「マリー美容室」なる素敵なお店をチェッキュウいたしましたが、写真には撮れず。 当ブログは、今年も立花麻理応援ブログであり・・いや、執着はいかんよ。執着は。それから、四国に渡ってうどんうどんうどん。確実に今回は、うどんから摂取したエネルギーによって更新されています。せやから、今日はしんどいねん。次も荘子でおま。ほな、今日はこの辺で。
2011.01.24
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ほいきた、荘子です。あんまり権威主義に陥ると荘子ってのは面白くないんですが、坂本竜馬が『荘子』好きで、100年前まで荘子読みは多かったって話をしました。参照:荘子、古今東西。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5038『その間、竜馬は、自分の亀山社中の下関支店にしている阿弥陀寺の大町人伊藤助大夫方を旅宿としていた。 竜馬はこの支店の名を、 「自然堂」とつけた。この男は、釈迦も孔子も尊敬しなかったが、ただふたり、ふるい哲学者のなかでは老子と荘子を尊敬していた。なにごとも自然なるがよし、という老荘の思想にあやかって自然堂とつけた。(中略)岡三橋は、感心したような解せぬような顔をして、何度も首を振っていた。いわゆる勤王奔走の志士が、老荘思想という虚無思想をもっているということが、ふしぎでならなかったのだろう。』(司馬遼太郎『竜馬がゆく』巻6 秘密同盟より)芭蕉も竜馬も漱石も出したので、この人は推測できるでしょう。次なる荘子読みは、『俳句、 短歌といった日本のふるい短詩型に新風を入れてその中興の祖となった・・』(渡辺謙風に二割方鼻に抜いて読むべし。) 正岡子規(1867~1902)であります。参照:Wikipedia 正岡子規http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F今回は『坂の上の雲』より引用いたします。------(以下引用)------------------------- 子規は、どんどん成長している。まだ共立学校で英語と数学をまなんでいたころ、この学校には漢文の授業もあり、『荘子』を教えていた。 これが子規の哲学への開眼になった。 「あしは、あの荘子の講義にはびっくりしたぞな」 と、子規は、予備門に入ってからも、真之に何度も言った。漢文といえば孔子孟子といった儒学の世界のもので、老子荘子というような異端の学問は田舎の漢学者はめったにやらない。 「さすが花の都じゃとおもうた。予備門の予備学校で荘子をおしえられるとは、きもをつぶした。荘子は、人間とはなにか、世の中とはなにか、生命とはなにか、を考えさせる」 このため、大学では法律をやらずに哲学をやろうと思った。大政治家の夢は、かんたんにやぶれた。 「ところが、秋山よ」 と、猿楽町の下宿で子規は言うのである。子規は大ためいきをつきながら、 「哲学も、あしにはややこしいなあ」 といった。理由は、語学であった。予備門の講義にも哲学概論があったが、この教科書が英語であるうえに、なんとも砂を噛むようにおもしろくない。 「あしには、物事をつきつめてゆくあたまがあるようにおもわれるが、、ただしそれは多分に直感的で、その直感を道理として組織化してゆくことにはどうやら欠けているらしい。将来の大哲学者になるのは、むりじゃな」 「べつに、そう、せっかちに自分をきめつけィでもよかろうがな」 「少年老イヤスク学成リガタシ、せっかちにゆかねば男子はどうなるものぞ」------------------------(引用終わり)-----(文芸春秋刊 司馬遼太郎著 『坂の上の雲(1)』「七変人」より)子規の相手している、秋山真之さん(1868~1918)も、『老子』『荘子』を読んでおいでです。ま、あの家は特にお父さんが(笑)。長岡半太郎さん(1865~1950)とも年代が近いし、もちろん、夏目漱石(1867~1916)もそうですけど、あの年代って、荘子をはずせないんですよ。100年前までは当然のごとく読まれているんですよ。荘子は。参照:長岡半太郎と荘子。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5007≪只々前言を縮めて荘子書中の見る所の哲理を挙ぐれば、第一 道なる者ありて無始無終に存在すること第二 萬物は変遷消長しも止まらざること第三 萬物の大原因は終に知るべからざること第四 是非善悪美醜は終に知るべからざること等なるべし。≫(正岡子規『莊子ヲ讀ム』(明治24年)より 一部旧字体を修正。またカタカナ表記をひらがなにしています。 )そのものズバリ『荘子を読む』というエッセイが正岡子規にはありまして、荘子について熱く語っています。≪支那の哲学は欧州哲学の如く論理に因り秩序を整へて以て其哲理を説きし者なし。故に今日より之を憶測するもの多くは一語一句を帰納して一法則一原則を作る弊あり。日本支那の学者又然り。西洋の学者老荘を論ずる者往々誤謬ありと聞く、さもあるべし。然れども荘子の如き猶其哲理を模索し得べき所少なからず、請ふ少し之を論ぜん。(中略)荘子の宇宙の原理を説く、人或は佛家の眞如と同じと称す。其眞如と似たるや疑なけれども其眞如と同じとするは之を大早計といはざるべからず。荘子は未だ嘗て「非有非空。非非有空。眞如即萬法。萬法即眞如。」と云ふが如き判断を下せしことあらず。其大宗師に於て道を論ずる句の如き「夫道、有情有信、無為無形。可傳而不可受、可得而不可見。自本自根、未有天地、自古以固存。神鬼神帝、生天生地。在太極之先而不為高、在六極之下而不為深。先天地生而不為久、長於上古而不為老。」云々とあれども此道と云ふ者は如何なる者なるか、其道と萬物との関係は如何なるか、之を明らかにする由なし。然るにここに憶断を下して「眞如即萬法。萬法即眞如」と云ふは則ち非なり。≫(同『莊子ヲ讀ム』より )正岡子規が言っているのは、大乗仏教と荘子との関係です。大乗仏教の「真如」ってのは、荘子の「無為自然」「道」と同じじゃないか、という昔から日本人を悩ませている事柄についてです。子規の場合は、荘子の言っていることが坊さんと同じだと証明する手段がない以上、決め付けられん。と、言っているんです。参照:Wikipedia 真如http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82しかし、ですよ。>唯識(ゆいしき)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感に対する識別作用(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。>あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。荘子の「胡蝶の夢」と「渾沌の死」の寓話は、大乗仏教における唯識ではないですかね?参照:Wikipedia 唯識http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98当ブログ 荘子と進化論 その70。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201101020000/スプーンなんてないんじゃないんですかね?参照:08 There is no spoon ! http://www.youtube.com/watch?v=PyyhWF-bbQU&feature=related荘子と進化論 その52。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201005230000/水槽の脳の仮説を通せば、荘子の言っていることと坊さんが言っていることは同じだと言えると思いますよ。Are you a brain in a vat? http://www.youtube.com/watch?v=ursdoT66JlU「古之人、其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者、至矣盡矣、不可以加矣。其次以為有物矣、而未始有封也。其次以為有封焉、而未始有是非也。是非之彰也、道之所以虧也。道之所以虧、愛之所以成。果且有成與虧乎哉?果且無成與虧乎哉?」(『荘子』斉物論 第二)→昔の人の知恵は行き着くところまで行ったものがある。どこにまで至ったのか?最初から存在などない「無」であり、至れり尽くせり、なにものを加えることもできない境地に達していた。それに次ぐ知恵は、物が存在するとしながらも、それを人間の知のはたらきの枠にはめることはできないとした。さらに、それに次ぐ知恵は、物は人間の知のはたらきの枠にはめることができるとしながらも、そこに是非の判断を加えない境地にあった。是非の判断が入ると、道(tao)は破壊されていき、道が破壊されていくところから愛憎の情念が湧き上がる。果たして、道に完成や破壊というのがあるのか?完成も破壊もないのか?今日はこの辺で。
2011.01.10
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平成23年が明けました。初夢で蝶になった人がいたら・・・・きっと、変人ね♪さて、荘子です。『インセプション』の着想の元にボルヘスの『円環の廃墟』があり、その向こう側に荘子がいるということの続きを。参照:荘子と進化論 その69。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201012240000/もう一度、↑を読んでいただいたうえで、話を進めます。まぁ、これでも分かりにくいので、荘子の話をかいつまんでいくと、『「天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無所至極邪。其視下也亦若是、則已矣。其視下也亦若是、則已矣。」』(逍遥遊 第一)→空が青々としているのは、本当の空の色だろうか?それとも遠く離れているからそう見えるだけではないだろうか?⇒ここでは、視覚について。『「偃,不亦善乎而問之也!今者吾喪我,汝知之乎?汝聞人籟而未聞地籟,汝聞地籟而未聞天籟夫!」』→「偃よ。お前には隠せないな」ふと我に返った彼は答えた。「今、私は無になったのだよ。いやいや、お前は人籟(じんらい)が聴こえても、地籟(ちらい)は聴こえないだろう。地籟が聴こえても天籟(てんらい)は聴こえないのだな。」(斉物論 第二)⇒ここでは、(無心でいるときの)聴覚について。『仲尼曰「一若志,無聽之以耳而聽之以心,無聽之以心而聽之以氣。聽止於耳、心止於符。氣也者、?而待物者也。唯道集?。?者、心齋也。』(人間世 第四)→仲尼はこういった。「志を一つにせよ。声を聴くのに耳ではなく心をもってせよ。そして、心ではなく氣をもってせよ。耳は聴くに留まり、心は知るに留まる。氣はすべてのものを受け入れることができる。雑念がないがゆえにすべての本質は虚にのみ集まる。無心でいるがゆえに、心斎といえるのだ。」⇒ここは、感覚器官である耳と、その知覚の受容器官である心のはたらきについて。『夫言非吹也。言者有言,其所言者特未定也。果有言邪?其未嘗有言邪?其以為異於?音,亦有辨乎,其無辨乎?』(斉物論 第二)→言葉というものは、口から吹き出す音というだけではない。言葉というのもには意味がある。しかし、言葉が特定されていないとしたら、その発した言葉は「言った」と言えるのか?それとも「何も言っていない」ことになるのか?意味の通じない言葉を発したとして雛鳥のさえずりとは違う、と言ったところで意味があるのか?⇒ここでは、認識された音声による知覚と知識の共有について。荘子の内篇というのは、人間の知覚そのものに対する深い観察があります。『惠子謂莊子曰「人故無情乎?」莊子曰「然。」惠子曰「人而無情、何以謂之人?」莊子曰「道與之貌、天與之形、悪得不謂之人?」』(徳充符 第五)→恵子は荘子に質問した「聖人と言われる人に感情がないというのは本当ですか?」荘子曰く「そうです。」恵子は質問した「感情がないのに、聖人は人と言えるのでしょうか?」荘子曰く「道(tao)は人に姿を与え、天は私に肉体を与えています、それだけでも、人間と呼べないのでしょうか?」⇒ここは、人が人を認識するということについて。『喜怒哀樂、慮歎變?、姚佚?態。樂出?、蒸成菌。日夜相代乎前、而莫知其所萌。已乎已乎!旦暮得此,其所由以生乎!非彼無我,非我無所取。是亦近矣。』(斉物論 第二)→喜怒哀楽や思慮、嘆き、恋、恐れ、うきうきしたり、ゆったりしたり、啓いたり、形になったり、音楽が空っぽの笛から奏でられたり、蒸し蒸しした気からキノコが生えたり。日夜繰り返す感情の変化は一体どこからやってくるのだろう。いや、止めだ、止めだ。そんなことを考えるのは。この変化はなにかきっかけがあるようだが、相手がいるから私という存在があり、私を抜き取ってしまうと何もなくなる。これが道に一番近いのだ。⇒ここでは、人の感情の始まりについて。さらに、『若有真宰,而特不得其?。可形已信、而不見其形、有情而無形。百骸、九竅、六藏,?而存焉,吾誰與為親?』(斉物論 第二)→主宰者がいるようだが、はたらきとしてあらわれるだけだ。形として見えない。情があるようで形はない。人間は百の骨、九つの穴、六つの臓器を備えているが、そのどれを偏愛することがあるだろうか?⇒これは、もはや、「あれ」ですよね。ちなみに「思」という漢字の上の田の部分は、「田」ではなく、赤ちゃんの頭のてっぺんのペコペコ動く部分、「泉門」「ひよめき」から象られています。昔の中国人は、頭と心臓、これで何かが起きていると考えたんでしょうね。で、で、「既使我與若辯矣,若勝我,我不若勝,若果是也?我果非也邪?我勝若,若不吾勝,我果是也?而果非也邪?其或是也,其或非也邪?其?是也,其?非也邪?我與若不能相知也,則人固受其甚闇。吾誰使正之?使同乎若者正之,既與若同矣,惡能正之!使同乎我者正之,既同乎我矣,惡能正之!使異乎我與若者正之,既異乎我與若矣,惡能正之!使同乎我與若者正之,既同乎我與若矣,惡能正之!然則我與若與人?不能相知也,而待彼也邪?」(『荘子』斉物論 第二)→私とあなたが議論するとして、あなたが勝ったならば、私が「非」であなたが「是」なのか?私が勝ったならば、私が「是」であなたが「非」なのか?どこが「是」で、どこが「非」なのか?お互いに正しいとか、お互いに間違っているということは無いのか?私はあなたではないので、私はあなたの全てを理解することはできない。つまり、お互いがお互いを理解できない、真っ暗闇の部分がある。それなのに、誰に、どちらの主張が正しいと判断させるのだ?となった後に、ぼんやりとした影・モウリョウの話が入り、そして、→昔、荘周という人が、蝶になる夢をみた。ひらひらゆらゆらと、彼は、夢の中では当たり前のように蝶になっていた。自分が荘周という人間だなんてすっかり忘れていた。ふと目覚めると、彼は蝶の夢から現実の人間・荘周に戻っていた。まどろみの中で、自分は夢で、蝶になったのか?実は、蝶の夢が自分の現実ではないのか?そんな考えがゆらゆらとしている。自分は蝶だったのか、蝶が自分であることなんて・・自分と蝶には大きな違いがあるはずなのに・・これを物化という。根源的な問いの先に「胡蝶の夢」があるわけです。我々は言葉を駆使しているけども、その言葉によって、『あなたがいる「現在」は「夢」でないと証明できますか?』と投げかけているんですよ。紀元前の人が問いかけているんです。すなわち、あなた、夢見ていませんか?ということです。>ある科学者が人から脳を取り出し、脳が死なないような特殊な成分の培養液で満たした水槽に入れる。脳の神経細胞を、電極を通して脳波を操作できる非常に高性能なコンピュータにつなぐ。意識は脳の活動によって生じるから、水槽の脳はコンピュータの操作で通常の人と同じような意識が生じよう。実は、現実に存在すると思っている世界は、このような水槽の中の脳が見ている幻覚ではなかろうか?参照:Wikipedia 水槽の脳http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%A7%BD%E3%81%AE%E8%84%B3Are you a brain in a vat? http://www.youtube.com/watch?v=ursdoT66JlU・・・英語版のWikipediaには載っているんですが、プラトンの洞窟の比喩にも近いです(日本語版にはないですね)。デカルトもやっているけど、浅いのなんの。圧倒的なのはやっぱり仏教思想か荘子です。同じアナロジーでも、数多のフラグメントが頭の中でデフラグされる「夢」に置いた荘子は、ちょっとシャレになっていない。参照:洞窟の比喩http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9E%E7%AA%9F%E3%81%AE%E6%AF%94%E5%96%A9Brain in a vat Wikipediahttp://en.wikipedia.org/wiki/Brain_in_a_vat↑ここにもちゃんと胡蝶の夢が入ってますよ。03 What is Real http://www.youtube.com/watch?v=ON9yQpR0y30&feature=related『インセプション』でも、『アバター』でも、『マトリックス』でも、同じなんですよ。古くて新しい問題なんです。「?且彼方??泉而登大皇,無南無北,?然四解,淪於不測;無東無西,始於玄冥,反於大通。子乃規規然而求之以察,索之以辯,是直用管窺天,用錐指地也,不亦小乎。」(『荘子』秋水 第十七)→荘子はすでに地泉を踏み越えて大空までも目指している。南でもなく北でもなく爽やかに世界と溶け込み、東でもなく、西でもない、真っ暗な世界の始まりから、大いなる自然の営みと共にあるのだ。ところがあなたは、ちまちまとした分析で彼を推し量ろうとし、つまらない理屈で彼を追いかけている。その様は、小さな穴から空を覗いたり、錐を刺し込んで地の深さを測るようなものだ。なんとちっぽけな了見だろう。我々は、日々、朝三暮四を繰り返す、井の中の蛙なのですよ。今日はこの辺で。
2011.01.02
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