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荘子です。今日はシュレーディンガーで。参照:寓話と公案とシュレーディンガーの猫。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5055≪私は以前、『道徳経』の異なった二種類のドイツ語訳を持っていた。私の記憶では、両方読み比べて初めて、それが同じ短編(Werk-lein)を翻訳したものだと分かった次第であった。(ついでながらこの〔ドイツ語の〕縮小名詞にする後綴leinは、その本を軽んじるつもりで用いたものではない。この名高い原典の簡潔さ故に、ウィットのつもりで〔私が〕、驚きの気持ちを表現したくて書いたまでのことである。老子は『道徳経』を税関の検閲を待つ間に記したといわれる)≫(『わが世界観』エルヴィン・シュレーディンガー著 現実とは何かより)・・・シュレーディンガーも『老子道徳経』を読んでいます。むしろ、ここで重要なのが、この直後でして、≪たとえ最高の教養をもった人同士であっても、相互の了解にとってまことに超えがたい壁が現実にある。それは感覚作用の特性だと言えよう。そのような特性が第一に重要だというわけではないし、それについては幾度も論及したので、これ以上述べる必要もなかろう。たとえば次のような疑問をよく耳にする。いわく「君が芝生の緑を私と同じように見ているというのは、本当に確かなことだろうか」と。このような疑問に答えるのは不可能であり、むしろそれが意味ある問いかどうかというと、逆に問いただしてみたくなる。二色型色覚者(彼らのことを部分的色盲あるいは赤緑混同者と、不正確に呼ぶ場合が多い)も太陽スペクトルを正常な三色型色覚者が識別する正確な色帯として見ているのである。その見え方を三色型色覚者の側から言えば、一対の補色(それをA、Bとしよう)を濃い鈍色のAから中間の灰色を経て濃い鈍色のBにいたる、全ての組み合わせで重ね合わせること(絵の具板の上に〔色を〕重ね塗ることではない)によって、スペクトル合成して見ているということになろう。 右に述べたことは客観的に確認することができる。だが、二色型色覚者が、可視部の赤色の端と紫色の端とをどのように見るかは、正常な三色型色覚者の色感覚との比較で確かめられたことではない。これを理論的に推論すれば、【原則的に確立されていないことに対して推論を言うのは戯言だと決め付けずに、容認していただけるならば】、二色型色覚者は長波長(赤色)の端で濃い黄色を見、その濃さが中性色(灰色)の点まで減少して見え、そこから先は次第に濃くなってゆく青色を見るであろう。≫(同上)いわゆる「クオリア(qualia)」についてシュレーディンガーが語っている部分です。参照:Wikipedia クオリアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2同時に、荘子の逍遥遊篇の冒頭の「天之蒼蒼、其正色邪(天の蒼々、其れ正色か)」と秋水篇の最後の「濠上問答」そのものです。『天之蒼蒼、其正色邪。其遠而無所至極邪、其視下也亦若是、則已矣。』(『荘子』逍遥遊 第一)→空が青々としているのは、「本当の空の色」なのだろうか?限りなく遠いところにあるから青く見えるのではないだろうか?鵬の高みから見下ろせば、この大地は青一色なのだろう。『連叔曰「然、盲者無以與乎文章之觀、聾者無以與乎鐘鼓之聲。豈惟形骸有聾盲哉?夫知亦有之。是其言也,猶時女也。」』(『荘子』逍遥遊 第一)→連叔は言う。「確かに、盲者は文章を目で感じ取ることは出来ず、聾者は鐘の音を耳で感じととることはできない。ただ、それは肉体において見えないとか聞こえないなどという話だ。知者と呼ばれる人の中にも、真実を見ることや聞くことが不自由な者がいる。それは、あなただ。『民食芻拳、麋鹿食薦,且甘帯、鴟鴉耆鼠、四者孰知正味』(『荘子』斉物論 第二)→人間は、家畜を食べ、シカは野草を食べ、ムカデはヘビを美味いとするし、トビやカラスは鼠に舌鼓を打つが、ヒト、シカ、ムカデ、カラスのうち、本当の美味を知っている者はだれだろう?参照:長岡半太郎と荘子。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5007『荘子与恵子游於濠梁之上。荘子曰「魚出游従容、是魚之楽也。」恵子曰「子非魚、知魚之楽。」荘子曰「子非我、安知我不知魚之楽。」恵子曰「我非子、固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之楽全矣。」荘子曰「請循其本。子曰女安知魚楽云者、既已知吾知之而問我。我知之濠上也。」』(『荘子』秋水 第十七)「濠上問答」と言うよりも、湯川秀樹さんのいう「知魚楽」つまり「魚のクオリアを知る」という表現の方が早いですね。ここは、湯川さんの随筆から引用します。 ≪色紙に何か書けとか、額にする字を書けとか頼んでくる人が、あとを絶たない。色紙なら自作の和歌でもすむが、額の場合には文句に困る。このごろ時々「知魚楽」と書いてわたす。すると必ず、どういう意味かと聞かれる。これは「荘子」の第十七篇「秋水」の最後の一節からとった文句である。原文の正確な訳は私にはできないが、おおよそ次のような意味だろうと思う。 ある時、荘子が恵子といっしょに川のほとりを散歩していた。恵子はものしりで、議論が好きな人だった〔編者注:恵子は荘子と同時代の思想家で名家(論理学派)の代表者だが著作は伝わっていない。おちゃめな役で『荘子』によく登場する〕。 二人が橋の上に来かかった時に、荘子が言った。「魚が水面にでて、ゆうゆうとおよいでいる。あれが魚の楽しみというものだ」 すると恵子は、たちまち反論した。「君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるはずがないじゃないか」 荘子が言うには、「君は僕じゃない。僕に魚の楽しみが分からないということが、どうしてわかるのか」 恵子はここぞと言った。「僕は君でない。だから、もちろん君のことはわからない。君は魚ではない。だから君には魚の楽しみがわからない。どうだ、僕の論法は完全無欠だろう」 そこで荘子は答えた。 「ひとつ、議論の根元にたちもどって見ようじゃないか。君が僕に『君にどうして魚の楽しみがわかるか』ときいた時には、すでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうかを知っていた。僕は橋の上で魚の楽しみがわかったのだ」 この話は禅問答に似ているが、実は大分違っている。禅はいつも科学のとどかぬところ話をもってゆくが、荘子と恵子の問答は、科学の合理性と実証性に、かかわりをもっているという見方もできる。恵子の論法の方が荘子のよりはるかに理路整然としているように見える。また魚の楽しみというような、はっきり定義もできず、実証も不可能なものを認めないという方が、科学の伝統的な立場に近いように思われる。しかし、私自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子の言わんとするところの方に、より強く同感したくなるのである。 大ざっぱにいって、科学者のものの考え方は、次の両極端の間のどこかにある。一方の極端は「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方であり、他の極端歯「存在しないことが実証されていないもの、起り得ないことが証明されていないことは、どれも排除しない」という考え方である。 もしも科学者の全部が、この両極端のどちらかを固執していたとするならば、今日の科学はあり得なかったであろう。デモクリトスの昔はおろか、十九世紀になっても、原子の存在の直接的証明はなかった。それにもかかわらず原子から出発した科学者たちの方が、原子抜きで自然現象を理解しようとした科学者たちより、はるかに深くかつ広い自然認識に到達し得たのである。「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方が窮屈すぎることは、科学の歴史に照らせば、明々白々なのである。 さればといって、実証的あるいは論理的な完全に否定し得ない事物は、どれも排除しないという立場が、あまりにも寛容すぎることも明らかである。科学者は思考や実験の過程において、きびしい選択をしなければならない。いいかえれば、意識的・無意識的に、あらゆる可能性の中の大多数を排除するか、あるいは少なくとも一時、わすれなければならない。 実際、科学者の誰ひとりとして、どちらかの極端の考え方を固守しているわけではない。問題はむしろ、両極端のどちらに近い態度をとるかにある。≫(「知魚楽」『湯川秀樹著作集6』より)『無窮、無止、言之無也、與物同理、或使、莫為、言之本也、與物終始。道不可有、有不可無。道之為名、所假而行。或使莫為、在物一曲、夫胡為於大方?言而足、則終日言而盡道。言而不足、則終日言而盡物。道、物之極、言、默不足以載。非言非默。議其有極。』(『荘子』則陽 第二十五)→無限の止めなき世界は言葉で言い表すことはできず、ただ物の理と一になるしかない。有為であるとする説と、無為であるという説は、議論のきっかけにはなるが、結局のところ、物にとらわれたままで、終始するだけだろう。「道(tao)」とは、有るということもできず、無いということもできない。「道」という名前すら仮のものに過ぎない。有為の説も、無為の説も、物の一部分について語っているのであって、天の大いなる働きには、何の関係もない。もし言葉が真実を説明するのに十分な道具あったとしたら、一日中話し続けてその全てが道について表現できるということになるが、言葉が不十分な道具であるとすると、一日中話し続けても、全て物を語っているにすぎない。道いうのは物の究極であり、言葉と沈黙のみでは把握することはできない。言葉と沈黙にもよらずして、その極まりあるところを議論せよ。「西洋科学の構造に東洋の同一化の教理を同化させることによって解き明かされるでしょう。一切の精神は一つだと言うべきでしょう。私はあえて、それは不滅だと言いたいのです。私は西洋の言葉でこれを表現するのは適さないということを認めるものです。」(エルヴィン・シュレーディンガー)参照:量子力学と荘子。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5057荘子の造化とラプラスの悪魔。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5087秋水篇の世界。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5068今日はこの辺で。
2011.09.30
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荘子です。ユングが書いた鈴木大拙の『禅仏教入門』の序文というのは、いろんなところに使われています。参照:荘子と進化論 その90。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201109040000/例えば、≪西欧社会は、ここ数百年の間に自然科学の目覚しい発展を見、人道主義的社会制度を作り上げてきた。その点では、オリエント社会(原文ママ)よりも遥かに進んだと言えよう。しかし、人間の内なる心の面では、今日、最も学ばなければならないのは、我々西欧人なのである。鈴木大拙氏の『禅宗入門』の序文に寄せて、C.G.ユングは、次のように述べている。「周知のように、心をいやすという問題は、二千年以上にもわたって、危険を冒してもやまない東洋人の心を真剣にとらえてきた。そのための方法や哲学的学説が、おおいに発達した。西欧でも同じことがいろいろ試されてきたけれども、東洋に比べたら屁でもないものになってしまった。(原文ママ)」その上、アジアのことを知るにつれ、全ての象徴形式が、我々の心にどのような意味を持つのか、それを解く鍵は、インドとチベット、それに中国と日本の、ヨーガの伝承形式にある、ということがだんだんと明らかになってくる。本書の第二章と第三章をみれば分かるように、偉大な文明が持つ神話体系にあっては、モチーフの重要なものは、皆同じものであって、その多くは、元を辿ると、歴史的に同じ源に由来するものであった、と思われる。≫(『神話のイメージ』ジョセフ・キャンベル著)・・・これは、ユングの弟子であり、ジョージ・ルーカスの師、ジョセフ・キャンベルの著作からです。彼の場合だと、ネイティヴ・アメリカンの思想や、インドの思想(特にクリシュナムルティ)の影響も強いですが、ユング心理学を通して、東洋思想の理解を深めた人なんです。キャンベルは、世界中の神話を取り扱っていますが、基本的には非ヨーロッパ文明圏の思想から世界を俯瞰しているタイプの人です。その土台にユングがいます。参照:Wikipedia ジョーゼフ・キャンベルhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%ABエヌマ・エリシュと老荘思想。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5051たとえば、『スター・ウォーズ』でルーク・スカイウォーカーが目隠しをして稽古をするシーン。こんな修練は、西洋では見られないものです。日本か中国かのどちらかですよ。参照:Luke begins his traininghttp://www.youtube.com/watch?v=uIMXsacUlDAいわゆる「心眼」ってヤツです。The Tao of Kung Fu #18 - "Disregard how others see you." http://www.youtube.com/watch?v=JLilMtzOUbA&feature=related『一若志,無聽之以耳而聽之以心,無聽之以心而聽之以氣。聽止於耳、心止於符。氣也者、虚而待物者也。唯道集虚。虚者、心齋也。』(人間世 第四)→「志を一つにせよ。声を聴くのに耳ではなく心をもってせよ。そして、心ではなく氣をもってせよ。耳は聴くに留まり、心は知るに留まる。氣はすべてのものを受け入れることができる。雑念がないがゆえにすべての本質は虚にのみ集まる。無心でいるがゆえに、心斎といえるのだ。」参照:武道と田舎荘子。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5013・・・こういうのですよ。≪宗教的な変容の過程を理解するにあたって、禅仏教のもっている価値はこのようにきわめて大きいのであるが、それが、西洋の人間にとって、どれだけ役に立つかという点になると、おそらく価値は非常に小さいものではないかと思われる。なぜなら、西洋には、禅に必要な精神的前提条件が、欠けているからである。ひとりのすぐれた師匠とその不可解なやり方に対して絶対的な信頼を寄せるような人間が、われわれ西洋人のなかにだれかいるのであろうか。すぐれた人間的個性に対してこのように尊敬を払う習慣は東洋にしかみられないのである。≫(「禅の瞑想」『ユング心理学選書 東洋的瞑想の心理学』創元社より)参照:Qui-Gon & Obi-wan talk http://www.youtube.com/watch?v=l9gG3XiCU7Y&feature=relatedジェダイの騎士における師弟関係というのは、まさにそうですよね。これも東洋です。参照:ベスト・キッドと荘子。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5064ベスト・キッド http://www.youtube.com/watch?v=OGhSMu0bjck≪老子が「俗人昭昭、我独り昏のごとし」というとき、それは私が今、年老いて感ずることを表している。老子は高い洞察を得た人の典型であり、価値と無価値を見、経験した人である。そして、生涯の終わりにおいて、彼自身の存在、知ることのできない永遠の意味へ戻ろうとした人である。全てを知った老人の原型は永遠に真実である。このような型は、どのような知能の程度においても現われ、それが年老いた百姓であろうと、老子のような偉大な哲学者であろうと、特徴は常に同じである。それは、老年と極限である。しかし、そこには私を満たすあまりにも多くのものがる。すなわち、植物、動物、雲、昼と夜、そして、人間の永遠性。自分自身に対して不確かさを感ずれば感ずるほど、これら全てのものに対する親密性が私の中に育ってきた。実際、私を外界から離別していた疎外性が、私の内界へと転移され、私自身に対する思いがけない無知を、明らかにされたように思えるのである。≫(『ユング自伝』追想より)『ユング自伝』が、老子への思いで最終的に結ばれているのを見ても分かるように、ユングにとって老子は、必要不可欠の鍵です。ユングが、彼の夢の中に度々でてきた「フィレモン」と、老子のイメージを重ねています。アーサー王のマーリンや、指輪物語の灰色のガンダルフといった年老いた賢者のイメージです。参照:Wikipedia 元型http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%9E%8B他にもユングのいう原型としてのグレートマザー(Great Mother 太母)の「谷間のイメージ」と、『老子』の「谷神は死せず。これを玄牝と謂う。玄牝の門、これを天地の根と謂う。」という言葉と対比するだけでも分かるとは思えますが・・。参照:八雲とユングと胡蝶の夢。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5049で、マスター・ヨーダというのは、ユングのいう老賢者(Old wise man)の典型的なパターンを踏襲しています。『スター・ウォーズ・シリーズ』というのが、そもそもユング心理学を応用したかたちとしてある以上、マスター・ヨーダが老子や荘子の言葉をしゃべっても、なんら不思議ではないと私は思うのです。 参照:ヨーダ(Yoda)と荘子(Zhuangzi)。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5026荘子の道と、仏性、良知。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5027個人的には、ヨーダのモデルに諸説ありますが、鈴木大拙の可能性もありえるかなと思っています。思想もさることながら、風体と文法がよく似ています。・・・ただし、アメリカの場合、禅と鈴木というと、鈴木俊隆(Shunryu Suzuki 1904~1971)さんという、サンフランシスコで禅を広めた方もいらっしゃいますので、アメリカで鈴木老師(Suzuki roshi)というと、鈴木俊隆さんの方です。混同されやすいのでお気をつけを。スティーブ・ジョブズの場合、「Suzuki」と言われてどちらを連想するか聞いてみたいです。参照:Shunryu Suzukihttp://en.wikipedia.org/wiki/Shunryu_Suzuki参照:当ブログ スティーブ・ジョブズと禅と荘子。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5010当ブログ スティーブ・ジョブズと禅と荘子 その2。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5077ジョブズがルーカスフィルムからピクサーを買収したとき、こういうやりとりがあったそうです。≪(GMの会長だったロス・ペローが会社を追い出されたことにより)ジョージ・ルーカスにとっては、突然、あてにしていた買い手が消えたことになる。スティーブは、このときを待っていた。ルーカスとの交渉を熱心に進める。二人の交渉はスムーズだったはずだ。ふたりとも交渉成立を強く望んでいたし、心の平穏を重視する価値観も共有していた。ルーカスは「私は敬虔な信者ですよ」と信仰への傾斜を表現している。メソジストの家で育ったが「ここはマリン郡です。ここではみんな、仏教徒なんです。」ともいう。ルーカスとスティーブは波長が合うはずなのだ。≫(『スティーブ・ジョブズ-偶像復活』ショービジネスより) あんまり言われないですけど、ジョージ・ルーカスは仏教徒です。禅や老荘に知識があっても何の不思議もないのです。今日はこの辺で。
2011.09.18
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荘子です。前回の続き。参照:荘子と進化論 その90。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201109040000/今日は鈴木大拙と荘子について。というわけで、ジョン・ケージ(John Cage 1912~1992)です。「偶然性の音楽」や「不確定性の音楽」を提唱した前衛芸術家。この人は、明確に鈴木大拙の教え子です。参照:Wikipedeia ジョン・ケージhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B8 ジョン・ケージとダニエル・シャルルとの共著『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』から引用いたします。≪シャルル:このあいだ、フーアン神父の講義を聞いたんですが、彼は思考には三つの型があると言っていました。絶えず二元性を想定するが、決して二元性を解消しない西洋思想。叡智の思想であり、二元性の各々事項は互いにもう一方の事項の補完物であることを示す中国思想。そして二元性の二つの事項はただ一つの同じものであると想定するインド思想。あなたのことを私はインド的というよりむしろ中国的だと思うのですが・・・。ケージ:そうです、というか、そうなりました・・・。シャルル:どのようにしてそうなったのでしょう。ケージ:私が東洋に真剣に関心を抱き始めたのは、1945年以降、1946年と47年の間の頃だったと思います。東洋思想を全般に勉強したあと、1951年まで三年間鈴木大拙の講義を聞きました。彼はコロンビア大学で教えていて、私は彼の講義をとても気に入っていたんです。鈴木大拙は、『荘子』を読むよう、たびたび勧めました。それでその頃、私はくりかえし『荘子』を読みましたよ。私は心からこの書物に、この思想に感服しました。『荘子』はユーモアに溢れているし・・・。さまざまな様相のなかでも混沌が不安より好ましいものとされています。鈴木大拙は『易経』をそれほど評価していませんでした。重要な書物とみなしてはいたんでしょうが、まるごと認めるべきではないと思っていたようです。彼が引用して聞かせてくれた書物のうち、彼自身は『荘子』を一番好きだったに違いない。私は『荘子』をずいぶん勉強したものです。≫(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』(第二の対話 鈴木大拙と『荘子』より) 鈴木大拙は、教え子たちに『老子』や『荘子』を読むことを勧めます。ジョン・ケージは特に荘子の影響が濃厚です。彼も、ユングと同じような理解で老荘や易経にあたっています。映画『マトリックス』のネタ元、「タオ自然学(The Tao of Physics)」の著者、カプラも鈴木大拙、老荘、易経ですね。ジョン・ケージも、道教と近代科学についていろいろと発言していますので、『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』と『タオ自然学』を対比すると面白いです。参照:量子力学と荘子。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5057この『ジョン・ケージ 小鳥たちのために(John Cage, Pour les oiseaux)』の序文に、≪ジョン・ケージは、この対談集の題名を決めた。この題名は、ただ自分の名前で言葉遊びをしてみるという楽しみから選ばれたと彼は私に語った。1976年末現在、『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』は印刷中である。五年前と同様に私はこれらのテキストが『荘子』に関する多様で比べるものの無い解説を形づくっていると信じている。私の質問は、いずれにしろ、一言でいえばジョン・ケージの道家思想とでも呼べるものを明らかにすることだけを目標としていた。≫(『ジョン・ケージ 小鳥たちのために』「序にかえて」より)と、あるように、この本はジョン・ケージと、老荘思想との関係に迫っています。タイトルそのものが、『荘子』と、ジョン・ケージの姓、ケージ(Cage:籠)を使った言葉遊びです。『荘子』の「籠」というと、『且夫失性有五。一曰五色亂目、使目不明。二曰五聲亂耳、使耳不聰。三曰五臭薫鼻、困?中?。四曰五味濁口、使口寓爽。五曰趣舍滑心、使性飛揚。此五者、皆生之害也。而楊、墨乃始離跂自以為得、非吾所謂得也。夫得者困、可以為得乎。則鳩?之在於籠也、亦可以為得矣。且夫趣舍聲色以柴其?、皮弁、鷸冠、?笏、紳修以約其外、?支盈於柴柵、外重??、完完然在??之中而自以為得、則是罪人交臂、?指、而虎豹在於?檻、亦可以為得矣。』(『荘子』天地 第十二)→人の本性を失わせるには五つのものがある。一つは五色が目を乱し、目を用いながら明といえなくする。二つは五聲が耳を乱し、耳を用いながら聡いといえなくする。三つは五臭が鼻を詰まらせ、額を痛めてしまうこと。四つは五味が口を濁らせ、口を使いながらそれを気づかなくさせること。五つに取捨選択の多さが、心を乱し、人の本性に落ち着きを持たせないこと。この五者は、皆生きることへの害である。楊子や墨子は、自らの本性を得たと、つま先だてて走り回っているが、これは私の言う人間の本性ではない。もし、何かに駆りたてられて走り回る彼らが人間の本来のあり方ならば、籠の中の鳩やフクロウもまた、本性のままに従っていることになる。是非の判断や、五色、五声で内なる心を垣根で囲い、皮の帽子や、カワセミの冠を被り、笏を腰にさして束帯をし、その外面を取り繕い、外から衣装で締め上げ、あくせくとしている彼らが、人間本来のあり方だとするならば、罪人が、縛られ、指かせをはめられているのも、人間本来のありかただということになる。・・・おそらくは、これでしょう。天地篇は特に音楽についての記述が多いので。『澤雉十歩一啄、百歩一飲、不?畜乎樊中。神雖王、不善也。』(『荘子』養生主 第三)→沢のキジは十歩に一度エサをついばみ、百歩に一度水を飲む。そんなキジでも籠の中に閉じ込められる事を望まない。人間で言えば王様のようにエサや水にありつけても、心がそれを善しとしないからだ。参照:当ブログ 曳尾塗中と籠の中の鳥。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5085『荘子』逆読みのススメ。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5070『此謂王徳之人。視乎冥冥、聽乎無聲。冥冥之中、獨見曉焉。無聲之中、獨聞和焉。故深之又深、而能物焉。神之又神、而能精焉。』(『荘子』天地 第十二)→王徳の人は、闇の中の闇を見、静寂の中の聲を聞く。闇の中の闇で一人、暁を見て、静寂の中で一人、調和のある声を聞く。故に、深層の中の深層で物を把握し、霊妙の先の霊妙で、その精を成しうる。天地篇には「無聲の聲(Sound of silence)」もあります。『「古之人、其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者、至矣盡矣、不可以加矣。其次以為有物矣、而未始有封也。其次以為有封焉、而未始有是非也。是非之彰也、道之所以虧也。道之所以虧、愛之所以成。果且有成與虧乎哉?果且無成與虧乎哉?有成與虧、故昭氏之鼓琴也。無成與虧、故昭氏之不鼓琴也。』(『荘子』斉物論 第二)→昔の人の知恵は行き着くところまで行ったものがある。どこにまで至ったのか?最初から存在などない「無」であり、至れり尽くせり、なにものを加えることもできない境地に達していた。それに次ぐ知恵は、物が存在するとしながらも、それを人間の知のはたらきの枠にはめることはできないとした。さらに、それに次ぐ知恵は、物は人間の知のはたらきの枠にはめることができるとしながらも、そこに是非の判断を加えない境地にあった。是非の判断が入ると、道(tao)は破壊されていき、道が破壊されていくところから愛憎の情念が湧き上がる果たして道に完成や破壊があるのか?完成も破壊も無いのか?これは、伝説の琴の名人、昭氏の琴に喩えられるだろう。完成や破壊の区別が生じるのは、昭氏が琴を「弾いたとき」である(これにより、是非の判断が生じ、人為に差し挟まれる)。完成も破壊も無いのは、昭氏が琴を「弾かない」ときである。参照:John Cage "4'33" http://www.youtube.com/watch?v=hUJagb7hL0EThe Sounds of Silence John Cage and 4'33"http://solomonsmusic.net/4min33se.htm・・・ステージで演者が何もしないとどうなるか?聞く側は芸術だと認識するんです。日本でいうと古墳時代に、陶淵明が「無弦の琴」(今で言うと「エアー琴」(笑)を持ち歩いたという逸話があります。第二次大戦後のアメリカで同じことをやって、音楽に革命をもたらしたという、不思議なものです。もちろん、この境地は「知的財産権」なんていうチンケなものからも無縁です。参照:Wikipedia 陶淵明http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%B7%B5%E6%98%8E荘子から陶淵明の草枕。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5086『大人之教、若形之於影、聲之於響。有問而應之、盡其所懷、為天下配。處乎無響、行乎無方。挈汝適復之撓撓,以遊無端、出入無旁、與日無始、頌論形?、合乎大同、大同而無己。無、惡乎得有有。睹有者、昔之君子、睹無者、天地之友。』(『荘子』 在宥 第十一) →大人の教えというものは、影が実体によりそうような、声の響きが共鳴するようなものだ。自分から問いかけずに、相手から問われると答え、相手の意見が出尽くしたところまで配慮する。じっとしている時は音もなく、行動する時は予測がつかない。俗物たちを導きながら、物事の根本に立ち戻り、日月の巡りをも超える、形にとらわれず大同の世界にいる。大同であるが故に無であり、無私であるが故に執着がない。有を見てそれに拘泥する者は昔の君子であり、(物にとらわれない)無を見る者は天地の友なのだ。参照:John Cage about silence http://www.youtube.com/watch?v=pcHnL7aS64Y釣鐘に とまりて眠る 胡蝶かな 蕪村今日はこの辺で。
2011.09.08
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ユングと老荘思想の続き。参照:荘子と進化論 その89。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201108290000/1928年、ユングが、マンダラのような絵を描いていたときのこと。一冊の本が贈られてきました。≪私は直ちにその原稿を貪り読んだ。というのは、その論文はマンダラと中心の周りの巡行とについての私の考えに対して、思いがけない確証を与えてくれたからである。これは私の孤独を破った最初のことがらであった。私は類似性に気づき始めた。私は何ものかと、そして誰かと関係を打ち立てることができるはずだ。この偶然の一致、この「同時性」を記念して、あまりにも中国風な印象を私に与えたこの絵の下に、私は次のように記した。「1928年、この黄金色の固く守られた城の絵を描いていたとき、フランクフルトのリヒャルト・ヴィルヘルムが、黄色い城、不死の体の根源についての、一千年前の中国の本を送ってくれた。」≫(『ユング自伝』より)『太乙金華宗旨』という道教の経典。これをきっかけに、さらにユングは東洋思想の研究にのめりこんでいっています。『易経』や『老子道徳経』はもっと早い段階で入手していましたが、さらに深い理解を示すようになったのはこれ以降だと思われます。リヒャルト・ヴィルヘルム(Richard Wilhelm1873~1930)という人は、「ドイツの租借地であった青島(チンタオ)を拠点にして、キリスト教の布教活動をしていた宗教家」という肩書はあるんですが、彼は中国人に洗礼を施しませんでした。むしろ、積極的に中国文化を研究、翻訳する作業に没頭しています。(ヴィルヘルム訳のドイツ語版『論語』は、森鴎外も持っていたそうです。)『太乙金華宗旨』をユングに贈った頃には、リヒャルト・ヴィルヘルムは、フランクフルト大学で教鞭をとっていました。(ちなみに、ハイデガーが『存在と時間』を発表したのが1925年です。)参照:ハイデガーと荘子 その3。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5022ピーター・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker1909~2005)は、そんな時代の数少ない証人です。≪そうした遥か昔の頃には、日本やましてその文化について、ヨーロッパではほとんど何も知られていなかった。中国への関心は大きかった。たとえば、ロンドンにおける「私の発見」の数年前に学生として又若手のジャーナリストとして、ドイツのフランクフルトに住んでいた頃、私はその当時の偉大な中国研究者の一人であったリヒャルト・ヴィルヘルムが大学で清朝について行った講義にしばしば出席していた。大きな講堂はいつも満杯だった。ヨーロッパではすでに、中国美術の著名な収集家がいくつか存在していた。しかし日本の歴史に関する本は皆無であった。また、浮世絵以外の日本美術は、ヨーロッパの人々にとっては全く存在していなかったのである。私の読めるヨーロッパの言語で書かれた日本に関するものはほとんど無く、まして日本の美術について読んだり眺めたりできるものはもっと少なかった。≫『「私達の」日本美術』より ピーター・F・ドラッカー)・・・受けていたんですよね。この人。ヴィルヘルムの授業を。参照:『論語』と『荘子』のドラッカー。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5078で、鈴木大拙(1870~1966)です。日本以外では“Daisetsu Teitaro Suzuki”で“D.T.Suzuki”と表記されることが多いです。日本の禅仏教の紹介者であり、「東洋の心」を指し示せた数少ない日本人。釈宗演や西田幾多郎との間柄、漱石の『門』で「羅漢のような居士」のモデルでもあったりと、日本国内でも話題には事欠かない人ですが、彼の世界的な影響というのは、壮観の一言です。参照:A ZEN LIFE - D.T. Suzuki (Excerpt) http://www.youtube.com/watch?v=RVp9i4QIUUUWikipdeia D.T. Suzukihttp://en.wikipedia.org/wiki/D.T._Suzuki≪禅仏教についての大拙・鈴木貞太郎(Daisetz Teitaro Suzuki)の諸著作は、現代仏教に関する知識を世界に広めた最近10年ほどの著作の中では、最も優れたものに数えられる。また禅そのものはパーリ語聖典の集まりに根をもつ仏教という大木から生じた枝の中でも、最も重要なものの一つである。われわれは、まず第一に、著者が禅を西洋人に近づけてくれたことに対して、第二に、彼がこの課題を果たすに当たって示したすぐれたやり方に対して、いくら感謝してもしきれないほどである。東洋の宗教的な諸観念は、ふつう、われわれ西洋のものとは非常にちがっているので、単なる言葉の翻訳でさえ、しばしば非常な困難にぶつかる。特殊な概念の意味する内容は、場合によっては、翻訳だのしないままにしておく方がいいくらいである。たとえば、どんなヨーロッパ語への翻訳もうまくできかねる中国の「道(Tao)」という言葉を思い出してもらうだけでも、このことは明らかだろう。もともと原始仏教の経典そのものが、ヨーロッパ人の理解力には全く分かりにくいものの見方や概念を含んでいるのである。たとえば、原始仏教で言う「業(Kamma サンスクリット語はKarma)」という概念の意味する内容について、何か完全に明晰な内容を思い浮かべたり、あるいは考えることができるようになるまでには、一体どれほど精神的(あるいは風土的)な前提や準備が必要か、とても見当がつかないくらいである。私が禅というものについて知っている全てに従っていうと、ここでもやはり超えることのできない異質さをもった、一つの中心的な考え方が問題になってくる。この独特な観念は「悟りSatori」とよばれ、ドイツ語ではErleuchtung(明るくすること、照明、開悟、神来)と訳される。「悟りは禅の存在理由(レゾン・デートル)である。悟りなくして禅は禅ではない。」と鈴木は言っている。西洋の神秘主義者が「開悟」Erleuchtungという言葉によって理解しているもの、もしくは宗教的意味でそのように呼ばれている内容について把握することは、西洋の悟性にとってもそれほど困難なものではないかもしれない。しかしながら、東洋の「悟り」は、ヨーロッパ人にとっては、追求することがほとんど不可能な、特殊な種類とやり方による開悟なのである。≫(「禅の瞑想」『ユング心理学選書 東洋的瞑想の心理学』創元社より)これは、ユングが鈴木大拙の「禅仏教入門」のドイツ語版の序文に寄せたものでして、現在は英語版にも転載されているようです(英語版は1934年、ドイツ語版は1939年)。参照:Wikipedia An Introduction to Zen Buddhismhttp://en.wikipedia.org/wiki/An_Introduction_to_Zen_Buddhismインドから中国へ仏教が伝来したときに、老荘思想の観念が取り入れられたことと、仏教が中国化していく過程で老荘の哲学的な部分を取り入れた結果として、禅と浄土は老荘思想の影響を色濃く残しています。また、鈴木大拙は、『老子道徳経』の英訳のためにポール・ケーラス(Paul Carus 1852~1919)に招かれた方だという土壌もありまして、老子の西洋での人気を知っておりますし、西洋に発信する場合にも、東洋のこころを体現するものとして、老荘思想を織り交ぜながら禅を説明しています。ユングもこれを非常に強く意識しています。参照:アバター(AVATAR)と荘子と鈴木大拙。http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5044参照:Jackie Chan vs Jet Li in The Forbidden Kingdom (Full fight scene in High Quality) http://www.youtube.com/watch?v=kzwaqN2-JjA仙人と坊さんに、区別のつかない部分があるんですよ。 河合隼雄さんの『ユング心理学と仏教』で、『ユングの生涯とタオ』の著者、デイヴィッド・ローゼンと河合隼雄さんとの書簡のやりとりがなされています。ローゼンが最初に 「底の石 動いて見ゆる 清水哉」と漱石の俳句を引用しているのも、鈴木大拙の『禅と日本文化』にある「禅と俳句」を意識してのことでしょう。 『ユング心理学と仏教』には、ユング研究所で禅の十牛図を使っているマーヴィン・スピーゲルマンというユンギアンも出てきます。これは、ユングがセルフの概念を提唱する際や、心理療法活用に際して、タオだけでなく禅からも取り入れている結果だと思われます。ユングに関係する人は特に老荘→禅ルートで思考する人が多いです。両極から無極へ至る思考があるんです。参照:Wikipedia 十牛図http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%89%9B%E5%9B%B3ピーター・ドラッカーの、禅を基軸にした日本人論は明らかに鈴木大拙のの影響が見られますし、ドラッカー夫妻が、日本の山水画や禅画を集めた山荘コレクション(Sanso collection)の趣味も鈴木大拙の『禅と日本文化』に触発されたものでしょう。『禅とは、西洋的な意味における哲学(Philosophie)でないところのすべてのものである。』(同上 C.G.ユングの言葉)今日はこの辺で。
2011.09.04
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