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さてさて、このあたりからさらに難しくなってまいりますが、スウェーデンボルグの神概念について書いてある部分をまとめていきましょう。 科学者だった頃のスウェーデンボルグは神のことを「無限なるもの」と規定していたそうです(158)。宇宙や自然など、物質的な有限存在が存在するためには、その原因・根源として無限なるものが仮定されないとまずい。しかし、ではその無限なるものと有限なるものの関係は? 有限なるものは、無限なるものからどうやって派生したのか? ってことになると、もう探求不能ということになってしまう。 そこで過渡期のスウェーデンボルグは、「目的因」という概念を選択する。つまり何らかの目的があって、事物の生成が行われたに違いないと考えるわけね。 ちなみに目的論的自然観というのは、早くはアリストテレスに見られるものなんですけど、近代科学ではこういう見方はしない。それは自然の擬人化だから。近代科学は目的論を捨て、機械論的自然観で押していって発展したんですな。で、この機械論的な発想からすると、「物事の生成には目的がある」なんてことはナンセンスなのであって、ただ、こういうことがあったからこういうことが引き起こされた、というのを積み上げていく方法をとった。ちなみに、この考え方からすると、「目的因」という言葉はおかしいので、その代わりに「始動因」という用語を使います。「原因ー結果」という結びつきにおける「原因」を指す言葉であって、物事の発生の起源についてだけ触れた言葉となります。 だけど、無限なるものから有限なるものが生じたという場合、機械論では説明がつかないので(何でそうなったの?という問に答えられないので、)スウェーデンボルグ的にはもう、目的論を採用するしかなかったと。 で、彼は無限なるものに内在する目的は、「人間」である、と考えた。神の宇宙創造の目的は人間の創造である、と断言しちゃう。(だから、聖書の創世記で、神は人を作ったわけね・・・) ふーむ。ちょっと意外。そうなんだ・・・。人間って、神にとって究極の目的だったのね・・・。 とにかく、宇宙ってのは、非人格的で人間に関与しない神によって創られ、それ自体の物理的法則によって発展した、という「理神論」の立場と、スウェーデンボルグの神観は全然違うわけ。 で、後期の「神学的時期」におけるスウェーデンボルグは、神とは「生ける神人」である、と考えるのだそうで。 有限なるものである人間の知性では、神の存在を確実に理解することはできないと。ただ「神は存在し、神は唯一だ」という普遍的真理が、人間の霊魂に「流入」する形でしか理解できない。その意味で神の存在は「啓示された事実」である(160)というわけ。 でまた、神は神人であり、神的な人間であるからこそ、神は自分に似せて人間を創られたと。だから神は無限の人間であって、有限な人間の原型であると。 ただし! 神は神人だと言っても、これは「神は人間の性質を持っている」という意味では全然ありません。そうではなく、神は純粋な「愛」と「知恵」であり、愛と知恵こそが神であるという意味で神は人格であり、神人と言うべきなのだと。また神はエッセ(本質)とエキシステレ(本質的な形)であり、根源的な実体と形態である。換言すれば、神は全知・全能・遍在であって、空間的に無辺際・時間的に永遠であって、時空を超え、かつ時空の内に遍在する。一方、有限なる人間(つまり我々)は、神の愛と知恵、すなわち「生命」の受容体であり、人間の生命とは、受容された有限な愛と知恵であると。(162) で、自然界にある万物は、神の本質である愛の対象として、神の知恵を通して創造された、とスウェーデンボルグは考えます。愛とは、自分の外にいる他者を愛し、他者と一つになることを欲し、他者を幸福にしようと願うことであるのであって、愛の自己投影的かつ自己表象的機能が知恵であり、愛は知恵の中に自己実現へと向かう自分自身を見る。その意味で神的な知恵とは、神的な愛の活動であり、宇宙とは、知恵という自己表象・自己実現活動をしている無限の愛そのものであると。 わかる? この理屈? で、スウェーデンボルグによると、宇宙は三重構造になっていて(97頁の図参照)、宇宙の中心には神的存在と神的生命がある。その周辺部には、神的なものと照応した(しかし低次の)霊界があり、霊界の周辺、つまり宇宙の最外部に、霊界に照応する(さらに低次な)自然界がある。照応によって結びついた三重の宇宙は、無限の愛に由来する自己表象機能によって一つのものとして活動している。ということは、自然界というのは、単なる物体の集合ではなく、神的なものが霊的なものを通じて生み出しているものであり、つまりは神々しいものであると。 なるほどね。私もね、前々から「自然ってのは、やけに美しすぎるな」と思っていたのよ。自然の背後に、ラスボスとして神様がいるからそうなんだと思えば、納得だわ~。 さて、こういう神概念から、スウェーデンボルグはキリストの誕生の理由を説明するんですな。 キリスト誕生の頃、霊界での善悪の均衡が崩れつつあったと(霊界のバランスについては、前回のまとめを参照のこと)。で、悪の方が優勢になっていたため、人間の自由意志に対し神が何等かの介入をしないと、人間は霊的に滅びる寸前だったんですな。そこで、この善悪のバランスの崩壊を食い止めるために、神は介入する気になられたと。 だけど、神様が直で介入する・・・つまり無限者が直で有限界に顔を出すというのは実質できないので、介入するに当たって、まずは有限な人間性を獲得する必要があったと。ちなみに人間の霊魂は父親に由来し、肉体は母親に由来する、というのがスウェーデンボルグの男女観なので、神様が人間の肉体を手に入れるには、女性であるマリアを使うしかない。だから処女降誕によって(これを近代科学は否定するが、スウェーデンボルグは必然と考える)、イエスが地上に生まれたと。で、これによって無限者の神は、人間同様、あらゆる罪の誘惑や試練に会うことができるようになりました。そしてこれらすべてに打ち勝つことで、地獄の霊たちを人間の自由意志を侵害しない程度まで屈服させ、悪の優勢を打破したのでありまーす。 これをスウェーデンボルグは「イエスによる救済」と言うわけだけど、つまりこれは神自身の人類への完全な愛からなされた神的な行為であったと(172)。 ちなみに、このスウェーデンボルグの救済観は、通常のキリスト教教義における贖罪観とはまるで違います。 じゃあ、通常のキリスト教における贖罪ってどういうのかといいますと、こんな感じ:父なる神は正義の神だから、アダムが犯した罪によって原罪を背負った人類を許せない。しかし、その一方で神は愛の神だから、人類を救いたいところもある。そこでどうするべえと思った神様は、愛する独り子であるイエスを地上に遣わし、彼一人に人類全部の罪を負わせ、イエスが十字架上で苦しむのを見て、正義から発する自らの怒りをなだめ、以後、イエスの贖罪の意味を信じる者だけを一方的な恩寵によってその原罪から免除する気になりましたとさ。で、その救いを実現するために、聖霊の働きを使うことにしたのでした。(166) 改めてこの「贖罪」の論理を読むと、かなりアホっぽい話だよね! で、スウェーデンボルグも、従来のキリスト教会が主張するこの手の贖罪話を、「キリスト教の根本的な誤謬」であると断罪しちゃうの。カッコいい!! 彼曰く、「愛と正義の神が、その両方の要求を満たすべく最愛の独り子を人類の罪の身代わりに罰して殺すなんてひどい教理を、原始キリスト教会では誰一人として抱いていなかった」と。愛の神が怒ったり、罰したり、殺すはずがない! そんなことをマジで考える聖書解釈は、人間の性質を神に帰した字面だけの解釈であーる! 神が、自分の愛する子を殺して喜ぶ自虐的なマゾであるはずがなーい! だから、スウェーデンボルグのキリスト観は、「贖罪者(Redeemer)」じゃなくて、「救済者(Savior)」なわけね。彼の解釈では、救済は唯一神の全人類への無限の愛からなされた全能の業なんですから。 ちなみに、このキリスト観からすると、創造者なる唯一の神は、人類救済のために受肉して地上に降りてキリストとなったわけだから、キリストにおいて神は神人であり、ゆえに神は一人格であると。もちろん聖霊とは、無限の神性が神的人間性を通してすべての被造物へ発出する神的発出であって、「父・子・聖霊」は、一なる神の三つの側面に過ぎない。それは人間において心と体と活動が一つであるのと同じ。そういうものなのに、それを別々な三人格と見なす従来のキリスト教会は・・・アホだ! ってなわけで、スウェーデンボルグからすると、従来のキリスト教会は、アホの集まり、間違ってばっかり、ってことになるのでございます。 で、スウェーデンボルグは従来の教会の教えに対して怒り心頭なんですけど、中でも怒り心頭だったのは、カルヴァン/ルターの主張する「予定説」ね。人間が救われる/救われないの別は、神の自由裁量にある、という考え方。この考え方によると、救いに選ばれない者は、どんな善行を積んでも地獄に堕ちるということになってしまう。この教説に対してスウェーデンボルグは烈火のごとく怒ったといいます。曰く・・・: 「予定説は、直接的な慈悲による即時の救いに対する信仰から生まれ、またそれは、霊的な事柄に関する人間の絶対的無力と、自由意志の欠如を信じる信仰から生まれる。これは現代の教会の信仰が生んだ子供である。それは飛び回る火の蛇から生まれている。人類のある部分は地獄に落ちるよう予定されている、というこの考え以上に有害で残酷な考えを、我々は神に関して抱いたり信じたりすることができようか。主は万人の創造主にして救済主であり、ただ主こそが万人を導き、何ぴとの死も欲することはない。したがって新しい教会の信仰は、予定説を怪物として忌み嫌う。(新教会教理概要66)」 ボルグ・パイセン! 忌み嫌っちゃってください! ちなみに、カルヴァンはジュネーヴで神権政治を行っていた際、スペインの医者で『三位一体説の誤謬』や『キリスト教の復元』をものしたミカエル・セルヴェトゥスーーある意味、ボルグ・パイセンの先駆者――を異端の罪で火炙りにしてますからね。ひどい奴だ。 それからプロテスタントのもう一人の要であるルターは、「信仰による義認」説というのを唱えていて、人はただ信仰によってのみ救われるとし、カトリックでは通用する「外面的に善行を見せびらかして、その実、悪いことをする」人間を糾弾したわけですが、この義認説を押し進めていくと、どんなに悪いことをしていても、死ぬ直前に「贖罪を信じます~」と言えばそれで済んじゃう的なことにもなるわけで、スウェーデンボルグはルター的な救済観も批判しております(「神は人間の行為を何ら顧慮せず、ただ信仰のみを顧慮するという説は、かの予定説を牝狼として生まれた子供である。しかしこの説は、誤った、不敬虔で狡猾なものである」(184)。 もっとも、スウェーデンボルグの故郷、スウェーデンはルター派が国教ですからね。それを批判したってんで、晩年、ちょいと苦労することになるわけですが。 しかし、ボルグ・パイセンは、多少の苦労はいとわない。正しいと信じることをし、その道を突き進むのであります。 パイセンが批判する従来教会の誤謬というのは、三位一体説、代理贖罪説、予定説、信仰のみによる義認説のほかにもう一つ、奴隷意志説(人間は原罪を背負っているので生まれつき悪しか行えないアホだ、という説)というのもあるんですけど(180)、こういうのはすべて聖書の字義的な解釈、ねじ曲がった解釈によると主張します。 で、パイセンによれば、聖書は、悪を避け、善を行い、主なる神を信じること以外、何も教えていない、と言います。この三つが無ければ宗教は存在しない。なぜなら宗教とは、生命にかかわるものであって、生命とは悪を避け、善を行うことだからだと。(185) いやあ、ボルグ・パイセンはすごいな。パイセンのキリスト教なら、わしも入信したい。 で、このボルグ・パイセンの考え方すべてを踏まえた上で、人間はどうやって生きて行けばいいのか。パイセンが主張する「真のキリスト教」を生きるとは、どういうことなのか。 繰り返しになりますが、ボルグ・パイセンによると、神のみが生命であって、人間はそれ自身ではどんな意味でも生命を持っていない。ただ神から流入する生命を受け入れる有限の器でしかない。だから、人間の生命とは、各個人がその受容機能に応じて受け入れる愛そのものと言える。神が無限の愛の主体であるならば、人間は有限な愛の主体である。だから、人間の心の深奥には、愛があるのであって、この愛がその人間全体を統御し、規定する根源であると。また人間の知性的機能は愛から発したもの、愛が形をとったものなので、愛が対立すれば、認識のすべても対立することになる。そう、人間には良い愛もあれば、悪い愛もあるっつーことですね。 で、この人間に備わった受容体には「意志」と「理解力」の二つがある(175)。 神の愛が神的な知恵を通して人間の霊魂へと流入する際、人間がそれを意志の中に受容すれば、それは「善」と呼ばれ、理解力の中に受容すれば「真理」と呼ばれる。つまり、意志は善の受容体であり、理解力は真理の受容体であると。 また意志や愛の本質は自由であり、理解力の本質は合理性なんですな。そして自由とは、自発性のことであり、愛し、意志し、意欲し、目的を遂げる能力であって、一方の合理性とは、物事の真偽・善悪を識別し判断する能力を言う。人間は生まれつき、この二つの能力を与えられていて、それが奪われることは決してないんですと。(176)また人間が理解力の中に受容するものは善でも悪でもなく、ただ人間が意志の中に受容し、実行するものだけが、善にも悪にもなりえると(177) で、この悪について、スウェーデンボルグは、人間が悪に傾倒し勝ちであることを経験的・観察的事実として認めております。しかしそれはアダムの犯した原罪とか、そういうのとは関係ない。また人間に先立って作られた天使も悪魔もないのだから、罪や悪は人間以外のものに由来するのではないと考える。悪や罪は、人間の自由意志によってなされる神的秩序の転倒以外の何ものでもないと。換言すれば、悪とは、本来は尊いものとして与えられた自由意志の濫用であると。(177)だから、その責めを負うべきは本人であって、神が罰するのでもなく、また神の子が負うものでもない、ということになる。 となれば、人間は悪について学ぶのに、神学的・形而上学的思索なんて必要ない。ただ自分たちの内部にある具体的な悪を認めて反省し、これを取り除く具体的な努力をするのみだと。 で、神様というのは、ホントに慈悲深いので、人間が神的秩序を転倒した場合ですら、人類の自由意志を破壊しない程度に介入して、悪を善の方に矯正するように導いてくれると。 また悪はそれ自体、地獄を創るわけですけれども、そこにいること自体が罰になるわけですな。一方、善はそれ自体ですでに報われており、天界を生み出している。自らの内部に善を受容して天界を生み出し、この状態を生きることが救いとなるわけ(178)。 その意味で、スウェーデンボルグの説く「信仰」は、従来のキリスト教会の説く信仰とは大分異なってくることになります。 ボルグ・パイセンのいう信仰とは、イエスの十字架への信仰とか、そういうのじゃないのね。そんな概念的なものではなく、もっと直接体験的なものなわけ。 それを簡単にいえば、自分を常に愛し導いてくれる絶対愛の神に対する信頼、これに尽きる。 もうちょい詳しく言いますと、先に述べたように、人間には意志と理解力という受容体があるわけですが、信仰は真理に属し、理解力に関係する。一方、愛は善に属し、意志に関係する。よって、救われるためには信仰だけでは不十分であって、信仰の生命である愛が実践されなければならない。 実践が重要ってことですな。 人間が神を信頼し、隣人を愛するのは、それによって天国に行くための切符を手に入れるためではない。そうではなくて、自己愛に死に隣人愛に生きること自体が天国なのであって、そこにおいてこそ確固たる内なる幸福が実現するからなわけ。 おお、内なる幸福の実現! 自己啓発思想との親和性ですなあ・・・。 ただし、この幸福を永続的に享受するには、新生というプロセスを生涯にわたって続けていかなければならないと。 で、その新生のプロセスですが、ボルグ・パイセンによると、新生のプロセスにおいて時間的には信仰が愛に先立つが、重要性においては愛が信仰より優位を占める。また信仰を欠く愛は盲目的・偽善的になり、愛を欠く信仰は本当の信仰ではなく、記憶の信仰であって、信条への固執に過ぎない。真の信仰は、愛の実践のうちに働き、愛は生きて働いている信仰であり、信仰の生命であると。 パイセンはこう言っておられます:「仁愛(キリスト教でいうところの愛・善き業・隣人愛)とは、各人が従事する勤めや仕事や職業において、正当かつ忠実に行動することである。なぜなら、こうした人の行うすべてのことは社会に役立ち、その役立ちこそが善だからである」(187) はい、ここでまたキーワード出ました。「役立ち」。人の、社会の役に立つこと。これが善だと。ボルグ・パイセンの教説が、あまりにも平易・直截だというのは、こういうシンプルな教えゆえなんですな。 だけど、シンプルでいいじゃないか! シンプルのどこが悪い?! そう、スウェーデンボルグの言う真のキリスト教とは、一般にキリスト教に対するイメージとしてある神秘的・秘義的なものをすべてはぎ取った、当たり前のことなんですな。だからこそ、それは現代的かつ普遍的なものであり、またそうなりえると(188)。だって、「宗教はすべて生命にかかわることであり、宗教の生命は善を行うことにある」(189)という、シンプルな言葉に収斂しちゃうくらい、シンプルなものなんですから。 ・・・とまあ、こういったことが、高橋和夫さんの書かれた『スウェーデンボルグの思想』(講談社現代新書)には書いてあると。 大分、長々としてまとめになってしまいましたが、最初にも述べたように、新書版の解説書として、とってもよく書けていると思います。これ読むと、とりあえずボルグ・パイセンが何を主張したのか、ということが、曲がりなりにもわかるもんね。これを一読再読した上で、他の専門書を読めば、理解力が大分違ってくるのではないでしょうか。少なくとも私にとっては、非常に、非常に、いい勉強になりました。 ということで、この本、教授のおすすめ! です。もう絶版のようですので、古本屋か図書館に急げ!
May 31, 2021
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昨日に引き続き、高橋和夫著『スウェーデンボルグの思想』の私的まとめをしていきます。 さて、人間が霊界に行くとどうなるか、っつー辺りの続きなんですが、前回も言及したように、霊界では心の内部が直接、外部に流れ出て、そこに独自の環境を現出させてしまうと。で、それは取りも直さず、霊界では心の意図を隠せない、ということを意味するんですな。自然界だと、悪意があっても、良い行動によってそれを隠すことはできますが、霊界ではそれができない。意図と行動が一致してしまう世界なわけ。 そこで、霊界に入った新参の霊は、少しずつ自分の本性を現わしてしまうことになる。 じゃあ、人間の本性ってのはどうして決まるかと言うと、一番優勢な「愛」が何か、によると。 スウェーデンボルグによれば、愛は四つに大別されるのだそうで、一番上が「神への愛」、以下、高級な方から順に「隣人愛」、「世俗愛」、「自己愛」がある。神を信じて神の戒めを守り、隣人愛を実践するのが神への愛であり、広く社会や国家、さらには人類に向けられた愛が隣人愛、富・名誉・地位への執着が世俗愛、そしてエゴイズムが自己愛であると。(110) で、自然界では表面的な善によって、どの愛が優勢かを隠せるわけですが、それが霊界に行くと、「剥奪」というプロセスによって化けの皮がはがれまして、本当の性格があらわになり、それにしたがって、霊界の中で一番居心地のいい場所に移動することになる。 かくして剥奪によって優勢となった愛に突き動かされて、善人は天界へ、悪人は地獄へ向かうのですが、ここで重要なのは、それを誰か絶対者・審判者が決めるわけではなく、自分の自由意志でそれぞれ自分の居場所に向かう、ということですな。ただし、天界といい、地獄といっても、それは場所を指すのではなく、状態を指すのであるので、天界とか地獄のある場所があるわけではありません。善人や悪人は、それぞれそういう状態を自分の周囲に現出させてしまう、ということですな。 で、天界に行った人達が、要するに天使なわけで、別に羽根が生えるわけではなく、普通の人間の形をし、そこで互いに相互扶助的にそれぞれ職業を持って生活している。天使といえども、時にエゴが顔を出し、憂鬱な状態に陥ることもあるが、たえざる努力による精神的向上があり、想像を絶する美に満ちた世界なんですと。ちなみに、天界に生きる天使たちは、一個の人体における個々の機能のように、別々であっても相互に関連し、助け合いながら天界を動かしていのだそうで。もちろん、彼らは同一言語を話すので、意志疎通もバッチリ! あ、それから、年を取ってから天界に行った人たちも、日々、向上していくので、どんどん若くなり、美しくなるらしいです。つまり、天界で年を取るということは、若返るということなんですと。 そこ、行きてぇ~! っていうか、ワタクシは絶対そこに行けると思う。自信ある。やった~。 一方、ワタクシが行きそうもない地獄の方ですが、別にサタンがいるわけでも鬼がいるわけでもない。そりゃ、地獄に行く連中は、そこが自分たちにあっている、そこにいると居心地がいいと思っているからそっちに自主的に行っているわけですから、一応、彼らなりに楽しい世界らしい。ただ、そこにいる全員が、エゴイストで、自分さえよければいいと思っている連中で、そういう連中が社会を構成しているわけだから、やっぱり結果的には阿鼻叫喚の世界になってしまう。だから、傍から見たら、まさに地獄絵図になるみたいです。 ちなみに自然界には、天界や地獄からの影響、すなわち「流入」が絶えず行われていて、自然界が地獄からの流入で悪人ばかりにならないように、天界も頑張っているらしい。ただ、天界からの流入は、自然界の個々の人間に刻印された善(進行・真理・仁愛など)に働きかけるので、そういうモノを持っていない人には、天界といえども、影響を与えることはできない。ただし、そういう悪人相手の場合でも「外なる拘束」をかけることはできる。つまり、外面を気にして、とか、名声を失うのを恐れて、とか、そういうよからぬ理由であれ、人間が善く生きられるように拘束をかけることは出来ると。 なるほど! 本当は悪いことをしたいんだけど、人の目があるからそれをしないというのは、あれは悪人に対して天界が働きかけていたのか! ちなみに、受胎によって両親から枝分かれした新たな人間の霊魂は、一旦生まれると不滅であり、死後も生き続けるのだけれど、一度霊となった人間が自然界に逆戻りすることはないので、いわゆる「生まれ変わり」とか、「輪廻転生」と言う現象は存在しないんだそうで。ただ、何百年、何千年と生きている例が、何かの理由で自然界の人間の記憶に自分の記憶を送り込むということはあるので、前世の記憶を持つ人がいるというのは、それに起因するんですと。 とまあ、ここまで述べてきたのが、スウェーデンボルグによるあの世の仕組みね。 さて、それでは神学者となったスウェーデンボルグが一体何をしたか、っつー話の続きになるんですけど、前回も述べたように、彼は聖書研究をしたんですな。 で、スウェーデンボルグは、聖書を「聖言」とそうでないものを厳密に区別します。 「聖言」というのは、純粋な「照応」によって書かれた神的な宗教文書。つまりほんまもんであります。特に創世記の第十一章までは、原聖書と言うべき、最も古い啓示的文章としてスウェーデンボルグは重視するんですな。 で、旧約聖書の中で聖言でないのは、「歴代誌」「エステル記」「ネヘミヤ記」それに「箴言」。一方、新約聖書の中で聖言と言えるのは、四福音書と黙示録だけで、あとは全部聖言とは言いかねる。 で、聖言で書かれた文書は、純粋な照応で書かれており、字面の意味や歴史的意味の奥に、内的で霊的な意味が必ずある。 じゃ、実際に照応を踏まえて、創世記の聖言を読んでみましょう。 創世記冒頭で、「神は天と地を作った」と書いてある。字面だけ読むとそういうことになるわけですが、はい、実は全然違いまーす。 スウェーデンボルグによると、ここでいう「天」とは、「内的な人間」もしくは「霊的な心」を指し、「地」とは、「外なる人間・自然的な心」という意味に他ならない。内なる人間というのは、人間が先天的に持ってはいるけれども意識はされない宗教性のことですな。一方の外なる人間とは、霊性を欠く、粗野な自然状態の人間のこと。つまり、スウェーデンボルグによれば、人は人として生まれるのではなく、最初はダメダメだけど、段々、霊性を獲得して、ちゃんとした人間になっていく、そういうプロセスを踏む存在だ、と聖言が言っている、と、捉えているわけ。 で、外なる人間は自己愛や世俗愛に満ちたダメダメな奴なので、それを聖言は、「地には形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあった」と描写すると。 で、第三節で聖言が「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」と述べている、その「光」が照応(不連続な近接)によって表しているのは「知性・内なる照示・無意識の意識化」などであり、よって「光があった」というのは、つまり人間の内部に隠れていた霊性や宗教性が自覚され、この自覚が自己中心性や世俗性を後退させる、という意味であると。これによって、虚無の中にいた外なる人間に、救いの手が差し伸べられたというわけ。 さて創造の二日目。「天によって水が上下に分けられた」ってなことが書いてあるわけですが、ここでいう「水」とは、「理解力・知性・知識」のことであり、「天」とは「合理的なるもの」を指すんですと。前回ちらっと書いたように、合理的なものは、自然的なものと霊的なものの中間にある啓発的側面であるわけですが、先程の光に照らされたことによって、合理性が活性化され、低次な自己と高次な自己を区別できるようになったと、まあ、そういうことが書いてあると。 三日目。「下の水が、乾いた地と海に分けられ、地には青草が生えた」ってなことが書いてある。これは照応によるとどういう意味か、と言いますと、「理性的な内省によって低次の自我の中に宗教的知識が芽生えた」と言う意味なんですと。ただ、これはまだ弱いものなので、単なる「青草」なんですな。でも、一応、少しだけ進化したことは確か。 四日目。「大きい光と小さい光と星を作った」とあるわけですが、このうち「大きな光」というのは、内なる宇宙に輝く太陽、すなわち「愛」ですな。これによって人は、内なる愛に覚醒することになる。なお「小さい光」は「信仰」を、また「星」とは、宗教的知識全般を指すのだそうで。 五日目。「水や地に住む生き物と鳥を作った」とあるのは、三日目に作られた青草よりもっとパワフルなものが目覚めたということ。魚は低次の自我に浸透してきた宗教的情愛を、爬虫類は感覚的思考を、鳥は知性を、それぞれ表すらしい。この時点で、外なる人間が生動的な生命を帯び始めた、ということですな。 さて、六日目ですが、ここでいよいよ人間が登場する。これはつまり、照応的に言えば、人がようやく信仰や、さらには愛から真理を語り善を成す状態を指すんですと。つまり、ここにおいて霊的な人間が完成すると。なお、ここで男と女が登場しますが、「男」は理解力のこと、女とは「意志」のことを表すのだそうで、意志と理解力(または自由と合理性)は、スウェーデンボルグによると、人間の心の本質的な構成要素なんだとか。男と女が揃うこと、つまり、知的でかつ情緒的であることが完全な、霊的な人間であると。 つまり創世記とは、自然的な人間から霊的な人間に至る漸次的再創造のプロセスを、実は、表していたと。これって、実は進化論なわけですよ。スウェーデンボルグはダーウィンに遥かに先立って、進化論を論じていたと。 ま、とにかく、こんな具合に、スウェーデンボルグは聖書を読み直していくわけね。そして、聖書の本当の意味はこうなんだよと、世の人々に教えたわけよ。 で、こんな具合に聖書の正しい読み方を提示しつつ、スウェーデンボルグは、聖書を誤ったやり方で読んできたことによって生じたキリスト教の弊害を断罪していくわけ。これがまた面白いんだけど、今日も大分長くなってしまったので、この続きはまた明日、ということにいたしましょう。
May 30, 2021
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先日、ヘレン・ケラーの『私の宗教』を読んだこともあり、その勢いに乗ってスウェーデンボルグ研究者の高橋和夫さんが書かれた『スウェーデンボルグの思想』という本を読了しました。ので、ちょいと心覚えをつけておきます。 この本、実は初読ではなく、再読。前にも一度読んだのですが、今回あらためてじっくり読んだら、前に読んだ時よりよほど面白かった。やっぱり本というものは、二度読み以上しないと、本当のところは分からないもんですな。で、今回再読してみて、難解なスウェーデンボルグの思想とその遍歴をざっと理解するための本として、本書は相当に上手に書かれているなという印象を受けましたね。 自分のための心覚えなので、本書の内容を順序立てて解説するというより、自分の仕事に役立つようにポイントを絞って記すので、これだけ読んでもチンプンカンプンかもしれませんが、そこはそういうものとしてご海容下さい。 まずスウェーデンボルグの思想は19世紀には欧米では知られていたものの、日本での伝播は20世紀に入ってから。まず内村鑑三が『余は如何にして』の1885年4月19日の日記の中で、自分がスウェーデンボルグの思想にいかに大きな影響を受けたかを述べております。また賀川豊彦も実践的宗教としてのキリスト教という点で、スウェーデンボルグへの共鳴していたらしい。 しかし、やはり一番影響が大きかったのは鈴木大拙による紹介ですな。大拙は1910年にロンドンで開催された国際スウェーデンボルグ学会に日本からただ一人参加しているんですけど、スウェーデンボルグの宗教観は、仏教にも通ずるところがある、というのが、鈴木大拙を引き寄せた大きな要因だったと。(7-11) さて、そのスウェーデンボルグですが、前半生は科学者・発明家として過ごすわけね。特に、彼の前半生の仕事であった鉱山業に関連する冶金学とか、そういう方面での業績が顕著。ただニュートンに対抗して『原理論』なんてものも書いていて、その中でも「原子論」が興味深い。彼はモノの最小単位を微粒子と考えており、さらにこの微粒子の本質は運動と力であると考え、「力は事物に先立ち、事物は力の示現である」としている(45)。つまりエネルギーとは、外部から付与されるものではなく、物質に内在するものであるということであって、この辺り、現代科学の知見と近いところがあり、また自己啓発思想が採用するエーテル説などとも共通する部分かもしれません。 ちなみに、こういう考え方をスウェーデンボルグは実験や観察から引き出したのではなく、科学的想像力・形而上学的思索の結果として導き出しているのであって、こういうところにスウェーデンボルグの思想の方法論が見えてくるわけ。でも、大胆だよね。思索するだけで、物質の本質を見抜いた!とか言い切っちゃうんだから。昔はそれでよかったんですかね? その後、スウェーデンボルグは1736年から5年間、「第4次外国旅行」に出ますが、この旅の目的は解剖学を学ぶため。といって人体組織の機能を勉強するのが目的ではなく、「霊魂(アニマ)」の所在と働きを突き止めることが目的だった。その意図するところは、デカルト的な心身二元論の克服。つまり、愛とか知性といった精神的・霊的な事柄は、機械論的な概念では説明できないと考えていたため、それをどう哲学的に解決するかを解明しようとしていたんですな。(57)要するにスウェーデンボルグは、「人体は霊魂が治める王国」(62)であるという信念を最初から持っていたと。 で、10年に亘る人体研究の末、彼は脳こそが霊の活動の中心であることを突き止めるわけ。彼は意識的な精神作用の中心が大脳皮質の灰白質にあることを突き止めており、例えば「大脳の最も高い葉が足の筋肉を支配し、その最も低い葉が顔の筋肉を支配する」(63-64)と記している。で、これはカナダのペンフィールドが1955年に発表した大脳の機能的分布図の見解と一致しているというからすごい。また現代で「ニューロン」として認識されているものを「ケレベルラ」と呼んで把握するなど、その脳解剖学は現代のレベルでみても相当のものであったと言っていいでしょう。 とはいえ、スウェーデンボルグの解剖学は、医学的なものというよりは、霊魂の所在と仕組みを明らかにしようとしていたのであって、この点について彼は死後出版された『合理的心理学』の中にまとめております。 それによると、人間の心には4つの階層(69頁図を参照)から成り、中心部に霊魂(アニマ)があり、それを取り巻くように「霊的な心」があって、これが純粋知性を司る。霊的な心を取り巻くのは「合理的な心」であって、これが意思決定・判断・思考・想像を司る。さらにそれを取り巻くように「自然的な心(アニムス)」があり、これは記憶や感覚、情動や本能を司り、これら四階層の心が肉体の中に封じられているのが人間の人体であると考えたんですな。 で、人間が生まれる時には、霊魂が、自然の最も内的で精妙な原質である「霊的流動体」を使って、懐胎によって肉体を形成すると。そしてその霊魂は肉体の内部で脳や神経を形成し、外界の自然からの働きかけを受容できるようにして、それによって自分自身を「意識的な心」へと変容させる。この意識的な心こそ、先に述べた合理的な心であり、それは霊的な心と自然的な心の中間に位置し、双方の情報を受容しながら、自由に考え、判断し、意志し、行為すると。 で、ここが重要なところなんだけど、スウェーデンボルグに言わせると、この中間点、すなわち「合理的な心」こそが、人間の「真正な自己」であると言うわけね。で、道徳的な性格も、この合理的な心に由来すると。つまりより下位の心であるアニムス(自然的な心)に属する本能とか情動を、霊魂から発する高次な心によって抑制しなければ、それは悪徳となるし、逆に欲望や情動を正しく秩序づけることができればそれは美徳になるというわけ。 つまり人間は善人にも悪人にもなれるっちゅーことですな。いや、むしろ悪人になる傾向の方が強いかもしれない。しかし、理性によってそれを糺し、善人になることができる。それはひとえに「自由意志」にかかっていると。だから、スウェーデンボルグは、自由意志と理性こそが人間を人間たらしめる能力であると考えるわけ。 いいねえ、この考え方。好きだわ~。 ちなみに、このスウェーデンボルグの理性観は、特殊です。というのは、後世の哲学は「純粋理性」とか言っちゃって「理性」なるものを絶対視し出すわけだけど、スウェーデンボルグは理性をそこまで高く買ってない。彼は理性を「混成された知性」とも呼び、理性のさらに内奥に、理性を超越しつつ、理性を原理付けるようなもう一つの知性、すなわち「純粋知性」なるものを措定し、これを霊魂の直接的な所産と考えたんですな。 で、この純粋知性は、「合理的な心が経時的に把握するものを同時的に把握する」というのですから、要するに「直観」ですよ。「どんなことでも、それをただちに真または偽と認め、確からしいという曖昧な認め方はしない」っつーんだから。初めから完全であるので、経験によって完全にされる必要すらないと。(71)かくして、霊魂は純粋知性を通して、思考や推理の能力を意識的な心に付与するばかりでなく、想像や感覚の作用を究極的に統制していると。 この辺りの「直観」という考え方も、自己啓発思想っぽいよね! っていうか、アレじゃない、エマソン的と言うべきなんじゃないかと。 ま、とにかく、こうした一連の思弁を通して、スウェーデンボルグは、「霊魂」なるものを、「純粋な英知であり、霊的な本質にして霊的な形態」であるとし、「自然の原初の存在と形態とである純粋知性を超越しつつ、かつその純粋知性に隣接するもの」と考えたと。とにかく、いっちゃん偉いもの、というわけですな。 さて、上に述べてきたようなことを記した『霊魂の王国』なる本を完成させるため、スウェーデンボルグは1743年7月から翌年10月まで、第5次外国旅行をするのですが、この間、彼は日記を書いていて、その日記は彼の死後86年も経ってから発見される。これが後の『夢日記』と言われる奴ですが、これを読むと、彼の科学者から神学者への転身のプロセスが見て取れる。 結局、彼は霊魂の謎を解くべく解剖学などに勤しんだわけですけれども、そういう科学的な探求では限界があると知ったわけね。まあ、それは21世紀の死生学だってそうなわけで、人間死んだらどうなるか、というのは科学的研究では解明できない。そういう意味での限界に到達してしまったことが、彼にとっては宗教的危機となって、それが「他の誰にもまさって無価値であり、最大の罪びとである」「頭のてっぺんから足のつまさきまで不潔」「みじめな被造物」といった自己認識に結び付き、中世の修道僧のような生活をし始めちゃう。 で、またそんな精神状況と肉体状況の中で、彼は1744年4月頃からイエス・キリストをたびたび幻視し始めるわけ。 決定的だったのは、1745年4月の経験だった。なんと、彼がロンドンの某ホテルで昼食をとっていたら、そこにイエス・キリストが現れて、只の一言、「食べすぎるな」と言ったんですと。(83) ひゃーーー! 飯食っている時にいきなりイエス様に「食べすぎるな!」って言われるの??!! 食事をしようと思ったら、急に田中邦衛が出てきて、「食べる前に飲む!」って言われるよりビックリするじゃん。それは確かに、かなりな経験だわ・・・。 ま、この「食べすぎるな」というのは、科学的知識を積み重ねたところで、俺のことは分からんぞ、という風に解釈すべきらしいですけどね。実際、その時イエスは、スウェーデンボルグに「私は主なる神、世界の創造主にして贖罪主である。人々に聖書の霊的内容を啓示するために汝を選んだ。この主題に関して何を書くべきかを汝に示そう」とも約束されたと。 とにかく、イエス様にそう言われちゃったんで、素直なスウェーデンボルグは以後、科学研究から足を洗いまして、神学研究の方に邁進していくことになると。 ちなみにその時、スウェーデンボルグ、59歳よ。今の私とあんまり変わらない。普通の人なら、そろそろ定年後のこと考えようみたいなタイミングで、まったく新しい世界に飛び込んでいくわけだから。すごいよね・・・。 さて、スウェーデンボルグの最初の神学業績はと言いますと、1749年から1756年にかけ、ロンドンで八巻本として(匿名)出版された『天界の秘義』というやつ。これは『創世記』と『出エジプト記』の逐語的解釈書でございます。 そう、ここも重要なポイントなんだけど、スウェーデンボルグってのは、神学者とは言い上、基本的に聖書の研究者なのね。結局、彼はどこからどこまで「研究」しちゃう人なのであって。だから、教祖的な人ではぜんぜんない。それどころか、聖書研究するに当たって、その前段階としてまずヘブライ語をマスターするところから始めるわけだから根性が違う。しかも、『天界の秘義』を書くに当たって、準備本として2000頁の聖書索引と、同じく2000頁の習作(下書き)を書いたってんだから、もう、常人の域を超えております。 とはいえ、そこもまた常人の域を超えたところなんだけど、スウェーデンボルグはこの本を書くに当たって、文献学的な意味での聖書研究だけをしたわけではない。それと同時に、実際に(実際に??!!)霊界に出入りしてですね、それで向こうの人にインタビューなんかしたりした経験からも学んで、これを書いているわけですよ。 ま、仮にそのことを信じるならば、もはやこの本は否定できないし(だって、実際にあの世の人達に聞いたんだもん!)、信じなければ、この本は基地外が書いた本ということになる。 ま、信じないとすると、もう、スウェーデンボルグのことを考える意味自体が無くなるので、ここは一つ、大船に乗った気になって、信じるとしましょうか。 で、じゃあ、そのスウェーデンボルグの聖書解釈ってどういうものか、ということなんですけど、その前に、その前提としての、彼の霊界概念を紹介しておきましょう。 神学者に転じたスウェーデンボルグは、かつて科学者として取り組んだ霊魂の問題に新たな観点から取り組むわけですが、『合理的心理学』を書いていた時は、思索によって書いていたわけですよ。しかし、今や、実地にあの世に出入りできるようになってますから、思索というより実際の観察によって書いているわけね。 で、それによりますと、死後の世界ってのは相当面白いところのようでありまして。 人間が死ぬと、肉体を脱ぎ捨て、三日後に霊界に蘇るらしいのよ。しかも、生前の記憶やら性格やら、みんなそっくり携えて移行する。だからね、あの世でも、感覚としては、この世と全く同じ感じで生活するみたいよ。生前学者だった奴は、やっぱりあの世でも学者になるらしい。しかも、霊界には自然界と同じように太陽も月も、森も川も、家も町も、獣も鳥も魚も、みーんなある。そんな調子だから、中には自分が死んだことに気づかない奴もいるくらい。 だけど、霊界と自然界では当然、異なるところもあると。 霊界にあるものは、すべて霊的なものなので、自然界にあるもののように固定してはいない。霊界の人間、すなわち「霊」は、各人が自分の周りにスフィアを持っているんだけど、それが今そこにあるものを現出させているんですな。だから、霊界のある町に住んでいる人たちが一斉に移動すると、そこにあった町自体が消滅してしまうと。もちろん、霊界にあるものだって、「実在的外観」を持っているので、触れば固いんですよ。確固とした存在感がある。だけど、それは霊の内面から発出したものなので、霊がそこに居なくなれば、そのモノも無くなってしまう。 また自然界は時間や空間の制約を受けるので、願ったものが瞬時に現出するなんてことはないわけだけど、霊界ではその制限がなく、状態しかないので、状態が変化すれば・・・つまり霊の内部の状態が変われば、その状態に即した(=照応した)事物が瞬時に産出したり、消失したりすると。 面白いねえ。自己啓発思想における「引き寄せの法則」に近いねえ。自己啓発思想でも、身の回りのものは、その人が念じたものに過ぎない、と言う考え方をするわけだけど、そのルーツはここにあるわけね。 で、もう一つ面白いのは、霊界においては、場所の接近は内的状態の接近に照応していると。つまり、似た者同士は引き寄せ合うわけ。逆に似ていないものは、霊界の空間的にも離れたところに位置することになる。これも、引き寄せの法則に近い。 だから、霊界においては、善と悪は離れたところにあると。 霊界において、天界と地獄は対極に存在するわけね(106-7)。で、その中間地帯というのもあって、それが「霊たちの世界」と呼ばれる場所。つまり霊界は三つの階層からできていると。 そう、スウェーデンボルグの霊界概念には、ちゃんと地獄もあるんですな。 ちなみに、自然界というのは、霊界と不連続に照応している。つまり、自然界は霊界の不活発で固定的なレプリカ(108)なんですと。 だから、霊界の方が先に存在していて、自然界の方がその後で出来たわけ。で、今なお、霊界からのエネルギー流入により、自然界は維持されている。この流入が無ければ、自然界なんて、「無限の死体」だと。 ひゃーーー。霊界と自然界の仕組みって、そうだったのね~!! ・・・と驚いたところで、もう大分長くなりましたから、この続きはまた明日、ということにいたしましょう。
May 29, 2021
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かのヘレン・ケラーが書いた『私の宗教』(原題:My Religion, 1927)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 これ、ヘレン・ケラーが47歳の時に書いた本なんですけど、どうなんですかね、今時の若い人ってヘレン・ケラーのこと、知っているんですかね? 私なんぞの若い頃は、奇跡の人・サリヴァン先生の導きによって「盲・聾・啞」の三重苦を克服した人ということで、とにかくとんでもなく偉い人なんだ、というイメージを叩き込まれた反面、そっちのイメージが強すぎて、実際にどんな人だったかよく知らない、っていう感じでしたけどね・・・。 でも、あらためてこの本を読んで、ちょっと興味が出て、色々ググったら、ヘレン・ケラーって「優生学支持者」なのね。超・意外。障害者には安楽死を、とか主張した人なんですって。マジか・・・。植松某みたいなこと言っているじゃん。かなり幻滅~! 第一、その主張って、自分自身に跳ね返ってこないのか?? ヘレン・ケラーは生まれつきの障害者ではないから、自分はいい、ってことなのか・・・。 まあ、それはともかく、この本ですよ。これは、実は、スウェーデンの見神者、エマニュエル・スウェーデンボルグを徹底的に讃える本でありまして。そう、ヘレン・ケラーは、熱心なスウェーデンボルグ主義者だったのでありまーす。 ま、幼い時から、その素養はあったんですな。例えば、子供の頃、ヘレン・ケラーは、羽化したばかりの蝶に「見とれ」ながら、心がふわ~っと飛んで行って、アテネの街を30分ばかりさまよったと。で、我に返ったヘレンは、サリヴァン先生に「私、今、アテネに行ってたの」と言ったとか、言わなかったとか。つまり、魂は肉体の制約を受けないという体験を、小さい時からしていたと。 一方、彼女は、聖書の熱心な読者ではあったものの、そこに描かれた「裁く神」のイメージには辟易していた。神様ともあろうお人が、「お前ら、みんな地獄に落とすぞ!」とか言ってやたらに脅すばかりで、ちっとも人の幸福に貢献していないじゃん、と。あと、当時のアメリカで一般的だった「三位一体」の神学、すなわち「父なる神」「子なるイエス・キリスト」「聖霊」を等しく崇めるべき、という考え方にも馴染めなかった。なに、その三分割?ってわけで。 そんな時、彼女はサリヴァン先生と同じく、彼女の人生に多大な貢献をしたジョン・ヒッツなるおじいちゃんに出会います。この人は、アレクサンダー・グラハム・ベルが開設した「ヴォルタ局」で聾啞者のための活動をしていた人ですが、孫みたいな年頃のヘレンをとーっても可愛がって、何くれとなく世話をしてくれたんですな。で、このおじいちゃんが、ヘレンの旺盛な知識欲を癒すべく、これ読んだらいいんじゃないの、ってことで、スウェーデンボルグの著作の点字本を差し入れてくれたと。 ちなみにこのジョン・ヒッツさん、旅の途中のヘレン・ケラーと駅で落ち合って、束の間の再会を楽しんだ後、ハグして別れようとしたら、その途端に死んじゃったんですって。善意の塊みたいな人だったようですが。ヘレン・ケラーもビックリしたでしょうなあ・・・。 ま、とにかく、そんな感じで、恩義のあるとっても素敵なおじいちゃまがその存在を教えてくれたスウェーデンボルグの本を読み始めたヘレン・ケラーは、どはまりしたと。 なんたってスウェーデンボルグは、従来の神学者とは桁が違う。なにせ18世紀当時として最先端の科学者であったのに、天界に自由に行き来することが出来るようになり、晩年の四半世紀は、彼自身が実際に見た天界の様子や天使の様子、天界に住んでいる人々のことなどを証言しつつ、新しい神学を興した人であるわけだから。 それまでにも預言者ってのは沢山いたし、近い所ではオリバー・ロッジ卿のように、霊媒の助けを借りて、死んだ息子レイモンドの天界での様子知り、それを世に伝えようとした人はいるけれども、スウェーデンボルグはもう、四半世紀もの間、自由に天界に出入りして、自分の目で直接見たこと、聞いたことを我々に告げているんだから、従来の預言者・霊媒とはまるで比べ物にならない。ヘレン・ケラーは、そういう風に見たわけね。で、そんなウルトラ級の超絶すごい人が、「天界の仕組みってのは、こういうものだ」って言っているんだから、それを信じて従うしかないだろう、というのが、ヘレン・ケラーの本書における主張なわけ。 なるほど。 で、ここで「ヘレン・ケラー、アホじゃん?!」って言うのは簡単です。だけど、そう簡単に、そうと決めつけられないところがある。 これは、本書のまえがきで鎌田東二さんという人も指摘しているんですけど(ちなみに、この人の書いたこのまえがき・「視力を越えた視力」という一文は、とてもいいです)、スウェーデンボルグとヘレン・ケラーには、非常に重要な共通点がある。 考えても御覧なさい、ヘレン・ケラーは2歳で視力・聴力を失い、完全なる暗黒の世界にいたわけですよ。ただ食って寝るだけの、動物的な生。否、動物でももっと生き生きしているはずですから、それ以下ですな。それが、サリヴァン先生の超人的な努力により、「水」を表現する言葉がある、ということを幼いヘレン・ケラーは気づくわけ。そしてその小さな突破口から、ヘレン・ケラーの暗黒世界に光が灯され、彼女は言葉なるものの存在を知り、思考することを知り、それを表現することを知る。ついにそこに世界が現れたわけ。 そういう経験をしている人からしたら、スウェーデンボルグの経験は、実にリアルなものと映ったでありましょう。スウェーデンボルグもまた、長くこの世の暗黒の中に居て、ある時、天界を見ることとなり、その突破口から、天界というものがあるんだ~、ということを知り、そこからあれよあれよと新しい世界が広がったわけだから。スウェーデンボルグもまた、ヘレン・ケラーと同じように、ある時、天界に目覚めたわけですよ。 ヘレン・ケラーは本書の中で、こう言っております。「眼が見えず、耳が聞こえない者にとって、霊の世界を想像するのは難しいことではありません。大多数の人々にとって霊的な事象が漠然としていて、遠いものであるのと同じように、障害をもつ私の感覚にとっては、自然界のほとんどすべての事象が漠然としていて遠いのです。(190)」 確かに、それはそうだろうなと思うわけですよ。だからヘレン・ケラーには、スウェーデンボルグが天界のことを身近なものにしていったプロセスを、自分自身が自然界を理解した体験から推して、理解することができた。ここだよね、この本のポイントは。 で、そのスウェーデンボルグが見た「新しいエルサレム」というのは、従来の聖書が教える「裁く神」の世界とは全然違っていた。スウェーデンボルグは、自身が目にした天界の仕組みから聖書を読み直し、その新しい「読み方」を発見した。で、そのスウェーデンボルグ流の読み方で聖書を読めば、あーら不思議、最初から聖書には、ちゃんと天界のことが書いてあったじゃなーい! で、もちろん、それによれば「三位一体」なんてウソ、ウソ。神様は一人しかいませんでした。イエス・キリストはその神様が降臨しただけだから、「父なる神と子なるイエス」なんて二分割はありません。 それに神は善そのものであって、天界に悪なんてものはない。どんな悪人でも、天使たちがコーチングしてくれて、少しでも善の方に向かうよう、トレーニングしてくれるから心配なし! 天界では、誰もが人の役に立つようなことをしながら暮らしているんだけど、考えてみれば、わざわざ死んで天界に行くまで待つ必要はない。この世においてだってそれと同じことをして悪いことはない。この世を、天界までの準備段階と考えれば、この世にいるうちに、天界におけると同じように、善意をもって善をなし、人の役に立つよう頑張ればいい。この世のすべての人間がそれをやったら、それこそが、新しいエルサレムの降臨よ! 天国は、この地上にある! ちなみに、この「人の役に立つ」ということが、天界及び地上の新エルサレムのキーワードなもので、それでヘレン・ケラーは「どうあがいても人の役に立たない人たち」、すなわち障害を持った人たちを安楽死させるべき、と考えていたんでしょうな。 とにかく、ヘレン・ケラーが幼い時から抱いていた聖書への疑問、聖書が描く神様像への疑問は、スウェーデンボルグの主張の中で、すべて氷解したのでした。だから、彼女がスウェーデンボルグに夢中になるのも、当然なのよ。ポジティヴじゃなきゃ三重苦を乗り越えることなんかできないわけで、そういうポジティヴ体質なヘレン・ケラーからすれば、聖書を、天界を、ポジティヴに捉え直したスウェーデンボルグは、とんでもないヒーローに見えたことでありましょうから。 しかし、もちろんヘレン・ケラーは賢い人なので、ただアホみたいにスウェーデンボルグを持ち上げているわけではない。伊達にラドクリフ(女性版ハーバード大学)を卒業しているわけじゃないのね。 スウェーデンボルグを批判する人達のことも、彼女は重々承知している。一方、彼女と同じく、スウェーデンボルグに魅せられ、彼を高く評価する人達の言説も重々承知している(本書第三章は、エマソンやヘンリー・ジェイムズをはじめとするスウェーデンボルグ派の人達の言説集と言ってもいい)。つまり、ヘレン・ケラーは、スウェーデンボルグの本を熟読しているのみならず、古今東西の神学書・哲学書なんかを読み漁って、スウェーデンボルグをめぐる賛否両論を知っているわけ。 しかも、それ、全部、点字で読むわけだから! 勉強家だよね~。 で、そういう風に賛否両論を知った上で、やっぱり自分としてはスウェーデンボルグは偉大だと言うほかない、と主張しているんですな。 とまあ、そんな感じで、本書は「スウェーデンボルグ推し」一点張りのヘレン・ケラーの、ファン心理満載の本だったのでした。 だけど、スウェーデンボルグって、知る人ぞ知るというか、ある意味、眉唾の人じゃん? 天界に自由に出入りできたとか言われても、信じる人もいれば、信じない人もいる。だから、ヘレン・ケラー好きの人達の間でも、この本のことは割と無視されているというか、「なかったことにしておこう」的な扱いを受けているようです。 だけど、読んで見ると、逆にこの本を読まないと、ヘレン・ケラーという人は理解できないんじゃないかな。そんな気がします。 ということで、スウェーデンボルグのことを考える上でも、またヘレン・ケラーを理解する上でも、この本は必読だと私は思います。興味のある方は是非。これこれ! ↓私の宗教 ヘレン・ケラー、スウェーデンボルグを語る 《決定版》 [ ヘレン・ケラー ]
May 28, 2021
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今年の1月に受けた人間ドックの結果で、腫瘍マーカー(シフラ)の数値が悪く、肺がんを恐れて再検査していたのですが、2月に受けたCTスキャンでは異常なしと出、先週再度受けたシフラでも数値が劇的に下がっていて、結局、おとがめなしということになりました。今日、その結果を聞いてほっとしちゃった。 それが今日の「いいこと」の一つだったんですが、今日はもう一ついいことがありまして、それは何かと言いますと・・・ 恩師本、ついに脱稿いたしました~! 先週末、脱稿するつもりだったのですが、そこでまだ修正点が出たので、再度、推敲し直し、今度こそ脱稿と思っていたところ、さらに修正点が見つかり・・・という感じで、結局、さらに二度の推敲を経て、ようやく今日、出版社の方に原稿を送った次第。疲れた~。 本当はGW中に脱稿しようと思っていたので、およそ一カ月の遅れですが、まあ、そのくらいの遅れはよくあることで。 ま、この先、校正の段階でさらなる推敲・修正をする可能性はありますが、今後、そこまで大きな修正があるとも思われず、一仕事終わった感じはしております。 この本は、恩師自身の文集に私の思い出の記をプラスする形、すなわち私の著書としてではなく、「編著」として出す予定なのですが、そういう形で本を出すのも初めてなもので、いい経験になりました。 今年の初めにこの本の出版が決まってから5カ月間、この仕事に忙殺されてきましたが、これがようやく片付いたので、今後は、自分自身の仕事に邁進出来る状況となりました。そっちの方も頑張らねば!
May 27, 2021
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某出版社から「親展」と書いた封書が届いたので、何かと思ったら「印税を支払うので、口座教えて」という内容でした。 やった~! 印税! 素敵な言葉! 大好き! だ・け・ど・・・。 これ、単に項目執筆しただけのものなので、どうせ数千円だよな・・・。ま、別に印税欲しさにやった仕事じゃないし、たとえ雀の涙とはいえ、自分の書いたものがお金になるってのは、嬉しいことなので、やっぱりバンザーイって感じだけどね! さて、そんなことを思いながら、たまたま本屋さんに寄ったら、入り口付近の新刊本売り場に、こんな本が置いてあった。これこれ! ↓取材・執筆・推敲 書く人の教科書 [ 古賀 史健 ] なに、この分厚い本! そうか、これが今流行りの「レンガ本」と言われる奴か・・・。 それにしても、この殺風景な表紙デザイン・・・。わざとだろうけど、わざとにしてはちょっとあざといねえ。 ちょうど今、自分でも執筆・推敲の真っ只中にあるだけに、ちょっと興味があって手に取ってパラパラめくったんだけど、うーん、三千円以上払って買うほどのことはないかな・・・。 とはいえ、家に帰ってからアマゾンで見ると、ごく最近出版された本なのに、レビューが山ほどある。辛辣なコメントもあるけど、好意的なレビューも多い。 まあ、一般に自己啓発本に言えることだけれど、中に何が書いてあるかよりも、誰がそれを書いているのかが重要になってくる。著者の古賀史健氏というのは、『嫌われる勇気』を書いたベストセラー・ライターだからね。実績のある人が書けば、世間的には反響が大きいわけですわなあ。逆に言うと、古賀氏よりワシの方がライターとしては腕がいいよ、と自分では思っていても、ワシの書く本は売れないわけだ。 そこがね。何とも辛いところでありまして。 あー。いつかワシもこういうレンガ本が飛ぶように売れるようになる日が来るのでしょうか。 ま、来るかどうか分からないけど、とりあえず、今やっている仕事に最善を尽くすしか、ワシにできることはないからね。頑張ろうっと。
May 26, 2021
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佐久間文子さんの書いた『ツボちゃんの話:夫・坪内祐三』という本が最近、出たようですね。全然知らなかった・・・。 で、この本、昨年亡くなった評論家の坪内祐三さんの奥さんである佐久間文子さんが、その坪内さんの思い出をつづったものらしいのですけど、本の出版に合わせて、文芸誌の『新潮』の5月号に、一部が掲載されている。 で、授業の合間に図書館に行って、『新潮』掲載分の冒頭だけ読んだのですが、坪内さんが亡くなられた前日辺りから、亡くなられた当日の話が書いてあって、ひえ~、そんな感じだったんだ~というのがよく分かった。 まあ、家で亡くなったのだから、その時の状況は奥さんしか知り得ませんからね。その奥さんだけが知っている状況が、今、読めるわけだから、これはもう、読むしかないでしょう。 っつーことで、『新潮』誌でそれ以上読むのは止めにして、とりあえず本を買ってまとめて読むことにいたしました。早速注文かけちゃった。 ところで、前にもこのブログに書いたことがありますが、私は一度だけ坪内さんと鼎談をしたことがあり、その後一緒に2軒ほど飲み歩き、長々と話をしたことがありまして。 で、その時、全部おごってもらったんですけど、それはちょっと悪いなと思って、後でお礼として、坪内さんに名古屋名物の「鈴波の西京漬け」という、お魚の西京漬けを贈ったことがあったんですわ。 で、それに対して坪内さんは几帳面に礼状を送ってきてくれたのですが、さっき『新潮』の佐久間さんの文章を読んでいたら、坪内さんは魚の西京漬けが大好物だった、という話が出てくる。 で、亡くなる直前にもそれを食べていて、しかし余程体調が悪かったのか、全部食べられなくて残してしまい、食べ物を残すことが嫌いだった坪内さんはすまなそうに佐久間さんに「残してごめん」と謝った、というのですな。 その部分を読んで、おお、そうか、坪内さんは魚の西京漬けがお好きだったのかと。全然そんなことを知らずして、たまたま私はそれを坪内さんに贈っていたんですな。どうりで、丁寧な礼状が来たわけだ・・・。 まあ、他人からしたらどうでもいいことですが、ワタクシ的には、坪内さんに鈴波の西京漬け贈って良かったなと思って。そう思ったら、なんだかちょっと嬉しかった。 坪内さんは私より5歳ほど年長ですけど、まあ、話しているとアニキみたいな感じで、結構話も弾んで、「釈迦楽さん、何か書きたいものがあったら、いつでも言ってね。『en-taxi』は僕の一存でどうにでもなる雑誌だから、いつでもページを空けて待ってるよ」なんて言ってくれて。坪内さんが今も生きていてくれたらなあ、なんて思うことは、今でもしばしばあったりして。 そんなことも含め、この本、手元に届くのがますます待ち遠しくなってきたワタクシなのであります。皆様も是非!これこれ! ↓ツボちゃんの話 夫・坪内祐三 [ 佐久間 文子 ]
May 25, 2021
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先日、親友に勧められて読んだポール・アダムの『ヴァイオリン職人の探求と推理』が面白かったので、同じ作家による第二作目、『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』を読み始めております。これこれ! ↓ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密 (創元推理文庫) [ ポール・アダム ] そしたら、これがまた結構面白くて。 まあ、仕事が忙しいので、面白いからと言ってこの本ばかりを読んでいるわけにもいかないんですが、寝る前の5分、10分とか、そういう細切れの時間を使って少しずつ読んでいると、これがまたいいんだなあ。そういう読み方の方が、むしろ、いつまでも楽しみが引き延ばせていいかも。 コロナ禍で、色々ストレスのたまる日々ですが、そういう日々の生活の中に、読むのが楽しみな本が手元にあると、ストレスに対する抵抗力っていうか、なんかそういうのがつくような気がします。要するに、手元に「駆け込み寺」がある、みたいな? なんだかなあ・・・と思ったら、とりあえず寝っ転がってその本を開けば、しばしの楽しい時間が過ごせる、みたいな? そういう意味で、ポール・アダムのこの本、今の私にはちょうどいい駆け込み寺のような気がします。興味のある方は是非!
May 24, 2021
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ジョージ・ギャラップ・ジュニアが書いた『死後の世界』(原題:Adventures in Immortality, 1982)という本を読みましたので、心覚えをつけておきましょう。 著者の名前から勘づく通り、これ、ギャラップ社の創設者の跡継ぎが書いたもので、ギャラップ社によるアメリカ人の死生観アンケート調査の結果に基づく考察集ですな。ちなみに邦訳は俳優の丹波哲郎氏。もっとも本当に丹波さんが訳したかどうかは分かりませんけどね・・・。 で、この本、1980年から翌年9月まで、ほぼ1年半にわたる調査の結果をまとめたものなんですけど、本書によると、ジュニアが「人間、死んだらどうなる?」という素朴な疑問を主題にした調査を計画したのは「数年前から」だそうですから、例のエリザベス・キューブラー・ロスとレイモンド・ムーディが引き起こした1975年の「死後の世界ブーム」に触発されてのものであるのはほぼ明らかでしょう。もっとも「天国は存在すると思いますか?」的な、死生観を主題にした調査というのは大規模なものだけでも1952年、1965年、1980年と定期的に行っているようで、そういう過去の調査との比較がなされているところもある。 で、さすがギャラップ社と思うのは、なにせ統計調査のプロ中のプロですから、間違ってはいないんでしょうけれども、実際の調査から割り出したパーセンテージをアメリカ総人口に直で掛けて数字を出しちゃうところ。だから、「今回の調査で出た割合からすると、全米では2300万人(15%)が死にかけた経験を持ち、そのうちの800万人が特異な臨死体験を経験している」とか、言い切ってしまうわけね。それでいいんか? と思うけれども、多分、いいんでしょう。知らんけど。 で、この調子で数字を挙げていくと、例えば幽体離脱の経験者は、生死をさまよう経験をしたうちの9%だから、200万人。この上なく平和な気分を味わった人は11%だから250万人。明るい光を見た人は5%だから40万人。自分の人生を走馬灯のように一瞬に見た人は12%だから300万人。なにか生命体に出会った人は8%だから60万人。トンネルをくぐった人は3%だから20万人・・・とか、そんな感じで数字が出てしまう。 で、こういう数字を見ていて思うのは、先のムーディやロスの調査(あるいは立花隆の本)の印象では、臨死体験をした人の大半が暖かい光に包まれたり、トンネルをくぐったり、幽体離脱をするのかと思ってしまいがちなんですけど、ギャラップ社の調査からすると、必ずしもそうでもないなと。そういう体験をするのは、臨死体験をした人の中でも、割と少数派なんだなということが分かります。その辺は、ちょっと注意しておかないといかんのでしょうね。132‐133頁の記述によると、臨死体験者のうち、天国を見た、多分見たと言う人を合せてもたった29%、すなわち3人に1人しか、幸福な体験をしてないわけだから。 ちなみに幽体離脱をしたと答えた399人のうち、90%は、死にかけた時ではなく、別な時に体験したと答えたとのこと(231頁)。 あと、「天国の存在を信じるか」という問いに対してイエスと答えるアメリカ人の割合は、1952年、1965年、今回(1980年)の調査でほとんど変わらず、大体、70%だと。ただ男女で若干の差があって、女性の方が75%、男性が66%となっている。女性の方が、若干、信心深いわけですな。 あと地域差もあって、東部では61%、極西部では58%なのに対し、中西部で76%、南部で86%、深南部で89%という結果になっている。まあ、こう言ってはアレですけど、文化的に進んだ地域で低く、文化的に遅れている地域で高いということにはなるわけ。同じことは学歴にも当てはまるので、中卒の人は77%、大卒で60%となっている。逆に年令にはあまり差が出ず、若い人に低く、年寄りに高いという傾向は、さほど見られないとのこと。 一方、天国の存在に対して「地獄の存在を信じるか」という問いを立てると、これは天国の場合より一般に低くて、1952年には58%、1965年には54%、1980年には53%となっている。やっぱり死後のことを考える時、天国は視野に入れる人が多いけど、地獄のことは考えたくないんでしょうな。学歴の高い人ほど地獄の存在を信じないんですけど、カトリックの人(48%)よりプロテスタントの人(61%)の方が地獄の存在を信じているというのはちょっと面白い。プロテスタントの方が、宗教的に自分を律することが厳しいということなんでしょう。 後、面白いのは、各国間の比較で、1968年の調査で、地獄の存在を信じるアメリカ人が65%いたのに対し、ギリシャが62%、西ドイツ25%、イギリス23%、フランス22%・・・だったとのこと。つまり、アメリカとギリシャがダントツで高く、その他のヨーロッパ先進国では低いと。 こういう点にかけてのアメリカとギリシャの共通性というのは面白くて、例えば「悪魔の存在を信じますか」というアンケートをやると、アメリカ人の場合、信じるが60%、信じないが35%、分からないが5%になる。で、ギリシャも大体同じで、信じるが67%、信じないが21%。分からないが12%。まあ両国とも信じる人が結構いる。ところが西ドイツの場合、「信じる」は25%、イギリスは21%、フランスは17%となって、アメリカ・ギリシャと比べて断然低い。 何だろう、このアメリカとギリシャの共通性って。他の面で、両国がそれほど似ているとは思いませんけどね・・・。 さて、話題変わって臨死体験をした後の話ですけど、これは大半の人が、それを経験したことによって死への恐怖が薄らぐとか、他人に対して優しくなったとか、そういうことを答えているんですな。怖いのは、死そのものではなく、死への過程であるということが分かったと。また死ぬことの意味が分かったために、逆に、今生きていることを大切にしようという風に考える人が多いわけ。だから、臨死体験ってのは、決して悪いものではないんでしょうな。 ・・・とまあ、そんなことがあれこれ書いてあるんですけど、数字的な説得力はあるとしても、これを読んだからといって死後の世界のことが分かるというわけでもなし、期待したほどのアレではなかったかも。 つまり、何でもそうですけど、同じ経験から何を引き出すかは、人によって異なるのであって、キューブラー・ロスのように、臨死体験の実例から哲学的なことを引き出しちゃう人の話を聞くと、はは~!ってなるけれども、ギャラップ調査のように淡々と数字だけ出されると、「案外、大したことないな」という印象になってしまう。そういう意味で、キューブラー・ロスの話だけ聴いて、すぐに「臨死体験=あの世の実在/魂の不滅の証明じゃ~!」などと騒いではいけない、ということでしょうな。 っつーわけで、この本、キューブラー・ロスの本のように面白くはないけれど、面白過ぎる臨死体験本への戒めという意味で、一読の価値あり、という感じです。ま、もともとそういう方面に興味のある人にしか、アピールしない本ではありますけどね・・・。これこれ! ↓【中古】死後の世界 人は死んだらどうなるか ギャラップ 知的生きかた文庫
May 23, 2021
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アーネスト・トンプソン著『近代スピリチュアリズム百年史』という本を読んだ・・・と言うより、チラ見したので、心覚えをつけておきます。 いや、本書のタイトルからして、ちゃんとしたスピリチュアリズムに関する歴史書なのかと思って読み始めたんですけど、うーん、これ、素人が手を出してはいかん本ですな。 つまりね、このアーネスト・トンプソンなる人は、もう、ゴリゴリのスピリチュアリストで、霊界の存在とか、霊魂の不滅とか、そういうのを完全に信じ切っていて、そうした真実が、例えばキリスト教会などによって隠されてきたと、そう思っているわけ。だけど、そういう反対勢力の画策にも拘わらず、真実は露わになりつつある!ってな立場からこの本を書いていると。ドン引き~!! まあ、そういう意味で、もちろんトンプソンが正しいという可能性が無くはないとしても・・・通常の常識人からしたら、この本のすべては基地外のたわごとですわなあ。 スピリチュアリズムという思想がこの世に存在するのは事実であって、それがどうして発生したのか、またどのような経緯で発展し、今はどうなっているのか、ということに私は興味があるわけ。だから、そういうことについての学術的な本かと思ってこの本を手にしたんだけど、それが大間違いでございました。この本を書いているトンプソンも、それを訳している桑原何某というのも、基本、基地外のカテゴリーです。名前が桑原だけに、くわばら、くわばらって感じ。しかも、出版元が「でくのぼう出版」だからね! その時点でこれが基地外本だということに気づくべきであった・・・。 ただし、基地外本には基地外本なりのメリットがある。 例えば本書には有名な霊媒(つまりは、腕のいい詐欺師ですわなあ)の名前がずらりと挙げられているし、その霊媒に騙されてそういうことを信じ込んだアホな人たちの名前もずらりと並んでいる。こういうのは一応、事実ではあるわけだから、この業界のメンツを知るにはちょうどいい。 例えばシャーロック・ホームズで有名なアーサー・コナン・ドイルの名前も当然挙がっているし、あと著名なイギリスの物理学者であるオリバー・ロッジ卿なんかの名前も挙がっているわけね。 特にオリバー・ロッジの場合、この人はラジオの発明者なんですけど、この人は宇宙がエーテルで出来ているってなことを言っているわけで、宇宙エーテル説がラジオの発明とリンクしているというところに、何とも言えない妙味があるわけね。しかもコナン・ドイルと同じで、この人もレイモンドという息子を第1次世界大戦で亡くしていて、その死んだ息子と話をする、というところから、霊界のことを信じるようになったようですけど、この辺りのエピソードは、色々使い道があるわけですよ。 ある意味、オリバー・ロッジ卿のことを知っただけでも、この本をチラ見した価値があったかも。 あと、もう一つ面白かったのは、エタ・リート夫人という霊媒の話で、この人は、タイタニック号で遭難死したW・T・ステッドという人(この人自身が著名なジャーナリストにして霊媒師。この人の人生そのものが相当面白い)の霊のお筆先みたいなことをしたらしい。タイタニック号の遭難者が、あの世から当時の事情を証言した、なんて話は、楽しいねえ。使えるねえ。 結局、この本、面白いんじゃん?! ま、とにかく、本書はそういう類の本でした。私もこの研究をしていて、色々な本を読みますけれど、さすがにこの本は、面白く読むにはハードルの高い本だったのでした。さすがにおススメはしないよ! ↓近代スピリチュアリズム百年史 その歴史と思想のテキスト [ アーネスト・トムソン ]
May 22, 2021
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立花隆さんの書いた『臨死体験』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、文春文庫版で上下二巻、総ページ数で言うと1000頁近いこともあって、読むのに苦労しちゃった。休み休み読んでいるうちに、ほとんど3カ月くらい掛かったという。 で、この本は「人間、死んだらどうなるか」ということについての立花さんご自身の疑問・興味から調査・執筆となった本なわけですが、何しろ書いているのが田中角栄研究とか、共産党研究などで知られるジャーナリストの立花さんですから、関連文献の調査とか、関係者へのインタビューとか、そういうのはよくなされております。だから1000頁近いものになってしまうんですけどね。 で、本書を読みますと、そもそも「臨死体験」というものへの人々の関心が高まるようになったきっかけを作ったのがエリザベス・キューブラー・ロスで、彼女が「ターミナル・ケア」とか「サナトロジー」といったことについての講演を盛んにしだしたことでこうしたことへの世間の注目が高まりつつあった。そこへもってきて、レイモンド・ムーディという医師が1975年に書いた『かいまみた死後の世界』という本がドーンと出て、これがアメリカ国内のみならず世界的な大ヒットとなったことで、臨死体験とか死後の世界といったことが世間に知られるようになったんですな。 つまり、臨死体験とか死後の世界とか、そういうことへの興味・関心が高まるのはロスとムーディーをきっかけとし、1970年代半ばから始まった、ということですな。無論、死後の世界への興味というのは、人類始まって以来あったわけですが、大規模な、時代的な観点から言えば、1970年代半ばというのが一つのターニングポイントであったと。 それ以前、「人間、死んだらどうなるか」というのは、例えば哲学的な問題であったんですな。例えば古代ギリシャのエピクロス学派は「人間は死とは無関係である。なぜなら、あなたが死を恐れているうちは、まだ死はやってきておらず、本当に死がやって来た時には、あなたは既にいないのだから、あなたと死が出会うことはない。故に、死を恐れることは無意味である」として、死のことを考えること自体を否定してしまった。そう言われればその通りなんだけど、これが哲学が「死」を扱う一つの方法であるわけね。 あるいは、「人間、死んだらどうなるか」ということは、宗教の扱う問題でもあった。それによれば、死んだら天国とか地獄とかそういうところに行くんだよ、ということで処理されてしまう。もちろん、その後に「だから悔い改めよ」とか、そういう教育的な話になってくるわけですが。 しかし、哲学的にせよ宗教的にせよ、それまで「死んだその先」というのは、分からないものであったり、分からないから「天国・地獄」といったような仮説を立てるしかないものでしかなかった。 ところが、1970年代半ば以降、つまりキューブラー・ロスとかレイモンド・ムーディとかが登場してきて、臨死体験をした人々の証言が次々と明らかにされだし、どうやら「死後の世界はあるらしい」というのが分かってきたので、これまでの死に対する考え方に大いなる動揺をもたらしたわけですな。 まあ、基本、臨死体験をした人たちの証言というのは、死後の世界はとっても明るくて、気持ちのいいところらしいという点で共通している。実際、臨死体験をした人々というのは、死ぬことを怖がらなくなるわけね。あんな素敵なところだったら、いつ行ってもいいわ~、みたいな感じになっちゃうので。 これは、ある意味、人類にとっての福音になるわけですよ。もし、これらの臨死体験が、ほんとに死後の世界の実在を証明するものであるならば・・・。 あと、臨死体験をした人の中には、その後、特別の能力を獲得する人も多いんですな。 例えば知識欲が高まった、学習能力が高まった、勘が良くなった、なんてのはよくある話で、さらには音が色彩として感じられるようになったとか、色を音として聴くようになったとか、ESPを獲得したとか、UFOを見るようになったとか、宇宙人と交信できるようになった、なんてことを大真面目で言い出すひともいる。 こういう臨死体験後の特殊能力の獲得に関しては、「クンダリーニ仮説」というのがあって、これは臨死体験の研究家の一人、ケネス・リングという人が言っていることですが、もともとクンダリーニというのはヨガ用語で、生命の根源的エネルギーのことを指す言葉なんですな。もともと宇宙はプラーナというエネルギーによって出来ているのだけど、これが個々の人間の中に封じられると、クンダリーニと呼ばれるわけ。で、通常、このクンダリーニは会陰近くにあるチャクラに眠っているんだけど、ヨガの修行によってチャクラが一つ一つ開いていって、最終的に頭頂部のチャクラが開くと、人は宇宙との合一を果たすことができると。いわゆるクンダリーニ覚醒という奴ですな。 インド的な観点から言うと、宇宙のエネルギーがすべてであって、個々の存在物はその仮象に過ぎない。で、臨死体験をすると、それはヨガの最終段階を経たのと同じ状態に置かれるので、宇宙との合一が果たされ、先に述べたような様々な特殊能力も獲得できてしまうと。 ま、そういう話になってきちゃうわけですよ。この辺りの話になると、まさに自己啓発思想の発想になってきちゃうわけですが。 だけど、そういうクンダリーニ覚醒を含め、臨死体験をした人達の経験を科学的に証明するのは、とっても難しいのね。だって、証言しかないんだもん。その人が本当に死後の世界を見たのかなんて、実証できるはずがない。 あと、臨死体験者が見る「あの世」の信憑性を揺るがすようなこととしては、文化の違い、ということもある。 例えばキリスト教徒の臨死体験者の多くは、あの世の光景を「光あふれる世界」と描写し、かつ白い着物を着たイエス様がいた、と証言する。一方、日本人の臨死体験者は、三途の川を見たと言う人が多い。さらにインドの臨死体験者は、インドの神話に出てくるヤムラージ(天国に行くか地獄に行くかの選別者)に会う人が多く、要するに育った環境によってあの世の描写が異なるんですな。 それはつまり、その人が文化的に蓄えていた記憶が、そういう光景を作り出したということであって、それは実際の光景ではなく、脳内現象に過ぎないのではないかと疑わせるところがあるわけ。 そういうこともあって、一般に、科学者と呼ばれる人たちは、臨死体験を、死後の世界を証明するものではない、と見なします。彼らの多くは、「脳内現象説」をとる。 で、その脳内現象説の一つの根拠となるのが、「側頭葉てんかん」なんですな。 実は臨死体験と非常によく似た症例を示す病気として、「側頭葉てんかん」というものがある。脳の側頭葉に障害が生じ、電気信号の暴走が生じることでこれが起こるのですが、側頭葉てんかんが起こると、患者は臨死体験に非常によく似た体験をすることがある。全部が全部同じというわけでもないんですけどね。だけど、全体としては非常に似ている。 ま、そういうこともあるので、科学者たちは「臨死体験」というのは、臨死(あるいは臨死に近い肉体的極限状況)に伴う強烈なストレスが、脳内に誤った電気信号を発生させ、それによって患者はあの世的な虚像を見るのだろうと。 ちなみに、そういうことについては、脳科学の推進者として名高いワイルダー・ペンフィールド(1891-1976:「体部位再現図」で有名な人!)が既に証明しているんですな。だから、ペンフィールドは自分の家の庭石に「NO'OΣ(ヌース)=脳」という言葉をペンキで書いていた。ヌースというのは「心」という意味。つまり、当初ペンフィールドは、心というのは脳内現象ですべて説明できると考えていたわけね。(もっとも、ペンフィールドは1976年に死んでますから、臨死体験についてはまったく知らなかったらしい) で、こういう脳内現象説は、そこそこ説得力もあるし、そもそも人間の脳というのは未だ謎だらけなので、まだ科学的に解明されていない仕組みが沢山あり、それが解明されれば、臨死体験も科学的に説明できるようになるだろうという見込みを持っているわけね。 しかし、脳内現象説にとってどうしても説明できない現象が、臨死体験にはある。それが「体外離脱」という側面なんですな。 臨死体験をする人の多くは、しばしば、体外離脱を経験する。つまり、死にかけている自分自身を天井から見下ろす、という奴ですな。もしこれが本当に生じているのであれば、人間の魂は肉体とは別にあるということ、すなわち、身心二元論が成立することになり、それは取りも直さず「人間の本質は当然魂の方にある」ことにもなってしまう。この場合、当然、脳内現象説は否定されるわけね。 だけど、この体外離脱は、証言者は沢山いるにしても、科学的に実証できるかというと、やっぱり難しいということになる。例えば、体外離脱した結果、患者には絶対に見られないところにある何かを見た(例えば、患者がそれまでに見たことがない場所に赤い靴が落ちているのを体外離脱中に見て、実際に確認したら確かに赤い靴が落ちていた、というようなケース)は、若干あるにはあるけれど、決して数は多くなく、そういうことがあるから脳内現象説は完全に否定された、と言い切るのはまだ難しい。 とはいえ、少数ながら、これはどう見ても体外離脱したとしか考えられない例も、あることはある。 となると、どういうことになるかっつーと、臨死体験者が見る「あの世」とは、実際にあるのかも知れないし、脳の異常が引き起こした幻想かも知れない。どちらが正しいかまだ分からない、ということになる。ちなみに、先に例に挙げた脳科学の先駆者ペンフィールドも、晩年には心身二元論の方に傾き、例の自宅の庭石に書き記した「NO'OΣ(ヌース)=脳」という落書きの上に、大きな「?」マークを書き足したのだとか。 ま、立花さんの立場も、結局のところ「色々調べてみたけれど、どちらが正しいのか、今の時点では分からない」と言うところに落ち着いたと。 この本が述べていることは、要するにそういうことでございます。いやあ。私だったら数ぺージでまとめるところを、立花さんは1000頁も費やすわけね。ご苦労さま。これこれ! ↓臨死体験 上 (文春文庫) [ 立花 隆 ]臨死体験 下 (文春文庫) [ 立花 隆 ] で、本書を読んだ感想ですけど、とりあえず臨死体験とか死後の世界ブームが1975年以降の話であること、そのきっかけを作ったのがレイモンド・ムーディとエリザベス・キューブラー・ロスであることが確認できたことは大きかったし、この分野の主要研究者が誰であるかも分かったし、その辺は役に立ちました。あと、臨死体験の中でも特に「体外離脱」現象が、あの世のあるなしを決めるキモになり得るということが分かったこともよかった。もっとも、私に言わせれば、もう一つ、「過去生の記憶」も、そのキモになるだろうと思うのですが。 上の諸点が明らかになっただけでも、大収穫よ。立花隆に感謝、感謝。 だ・け・ど・・・ やっぱり1000頁は長いな! 取材力とか、意気込みがすごいのはわかるけど、ダラダラ書きすぎ。もうちょい刈り込んでくれないと・・・。 あと、最近よく立花隆のことを「知の巨人」と言う肩書で持ち上げるのを見かけるんだけど、それもなあ・・・。知の巨人って、立花隆タイプの人のことを指すのではないと思う。立花隆は・・・単なる太り過ぎのジャーナリストですよ。腹が出過ぎと言う意味では、確かに知の巨人ではあるけれど。
May 21, 2021
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最近、学生にレポートを課したりした場合、提出されたレポートを読んでいると、それが游明朝体で書かれたものであることが増えたような気がするのですが、どうなんすかね? まあ、私はこれまでフォントといえば、日本語は「MS明朝」、英語は「Century」を使うことが多かったのですが・・・っていうか、それしか使ってこなかったのですが、これだけ游明朝が増えてくると、何となく気になりまして。 ちょっと調べると、游明朝体というのは、縦書きにした時に美しく映えるように設計されているのだとか。ふうむ・・・。そうなのか。 で、確かに、パソコンのスクリーン上で見ても、游明朝はクセがない。游明朝で書かれた文章を、MS明朝に直すと、なんだか少しギラギラしてぎこちなく見えてしまう。好みから言っても、確かに游明朝体は私の好みかもしれない。 うーん。どうすっかなあ。この際、覚悟を決めて、これからは游明朝体を主に使うと決めるか・・・。 ま、こういう点については保守的なワタクシ。もう少し逡巡してから、MS明朝 vs 游明朝問題に決着をつけたいと思うのであります。
May 20, 2021
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今年中に本になる予定の恩師本、それの推敲をまだやっております。もう、何度目の推敲なのか、数えられないほど。 で、先週末の推敲で、もう直すべきところは全部潰しただろうと思い、紙に打ち出して、最後にもう一度・・・と思いながら読み始めていきなり直したいところが目に付くという。何で前に読んだ時には気づかないんだよっていう・・・。 で、これはまずいと、さらに読み進めていくと、次から次へと直すところが出てきて、結局、今回も100カ所くらい直す羽目になったのでした。 何回推敲しても、その都度、100カ所くらい直すところが見つかるという。もうこの1ヵ月くらい、ずっとその繰り返しだよ。一体いつになったら、脱稿できるのか。自分でもまったく見当がつかない。 まあ、直すと言っても、微妙なところを直すわけよ。「嫌な記憶を思い起こさせる」を「嫌な記憶を呼び起こす」に変えるとか、そういう類。こういうのが何十ページかの文章の中に潜んでいて、幾たびもの推敲の目を逃れて紛れているわけ。それを、例えば三十度目くらいの推敲の時に見つけて修正すると。 だけど、また三十一度目に推敲した際、別な箇所に同様の修正点が見つかるのよね~。もう、果てしがない。 だけど、そこを直せば、文章の質は一歩上がるからね、確実に。それは確実なんだ。だから、三十二回目の推敲をするし、三十三回目の推敲もするし、修正点が見つかる限り、五十度目の推敲も、百度目の推敲もする。何度でもする。 私が自分の文章を公にするまで、一体何度の推敲をするか、人が知ったら気が遠くなると思う。家内だったら泣くと思う。 まあ、とにかく今日も推敲、明日も推敲だ。三度立て続けに読んで、それでも修正点が見つからないとなるまで、推敲は続く。願わくば、5月中にこの作業が終わることを祈念しつつ。
May 19, 2021
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今日、教務に教室の鍵を借りに行ったら、たまたま同じく鍵を借りに来ていらした家政学のY教授(女性)に出会いまして。 実はこのY先生、勤務先大学に勤め始めたのが私と同期なんです。つまり、同期入社(入学?)。ということは、Y先生と私は共に29年に亘ってこの大学に勤めてきたということになる。 私たちと同じ年に本学に勤め始めた先生は、たしか12,3人居て、その年は採用が多かった年なんですけど、しかし、その時から今日までの間に他大学に転出される方もおられるので、同期入社で今も残っているのは数名程度。そういうこともあって、専門は全然違うんですけど、お互い、何となく同期意識はある。だからY先生とも、キャンパス内で出会ったりすると、互いににこやかに挨拶するし、時間があれば立ち話の一つもするわけですよ。 昨年度から続くコロナ禍の中で、オンライン授業も増えているので、キャンパス内で同僚とすれ違うことも少なくなり、ましてや他専攻の先生となると、なかなか会うチャンスがない。そういうこともあって、今日、珍しく出くわしたY先生と、「あら~、お久しぶり。生きておられました~?」なんて軽口をたたき合って別れたんですけど、世知辛い世の中で、何となく気安い感じがする同期入社の同僚がいるというのは、いいもんだなと。 一般の会社だと「同期のよしみ」というのはものすごく強いと聞きますが、個人経営者の集まりである大学教授陣の間でも、やっぱり多少はそういうのがあるなと、思ったことでございます。
May 18, 2021
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青山学院大学名誉教授・高田賢一先生が昨年4月に亡くなられていたことを知りました。享年74。 高田賢一先生にお目にかかることになったのは、私が学生時代のこと。先生は私の通っていた大学に非常勤講師として授業を受け持たれていて、その授業を私がたまたま受講したことがきっかけでした。 当時、私も元気な盛りでしたから、授業中にもよく発言し、時に先生の解釈に異を唱えたりして、まあ、目立つことをしていたわけですよ。それで高田先生も面白い奴と思ってくれたのか、私の師匠に「先生のところに、やけに元気な奴がおりますなあ」と言ったとか言わなかったとか。 そういうことがあったもので、その後私が名古屋の方の大学に就職してからも、私のことを気に掛けて下さり、先生が編者を務める本の企画などによく誘っていただいたものでした。 例えばミネルヴァ書房から出ている『たのしく読めるアメリカ文学 作品ガイド150』であるとか、『英米文学にみる家族像』、『英語文学辞典』などに寄稿することが出来たのも、高田先生のおかげ。特に『たのしく読めるアメリカ文学』は、私が公刊される書物に文章を載せた最初のものであり、その意味で、ある意味、私のデビューは高田先生のお引き立てによると言えるかも知れません。これこれ! ↓たのしく読めるアメリカ文学 作品ガイド150/高田賢一【3000円以上送料無料】 先生に最後にお目にかかったのは、1999年の秋だったか、北九州大学で行われたアメリカ文学会の全国大会で研究発表をした時のこと。私の発表を聴いていて下さった高田先生が、発表後に声をかけて下さったのでした。久々にお目にかかった先生の御髪がロマンス・グレイを通り越して真っ白になられていたことに驚いたことをよく覚えています。 あれから20年以上。どういうわけか今日、ふと「そういえば高田先生は、今、どうしていらっしゃるのかしら? もちろん、もう定年を迎えられたのだろうけれども・・・」というような思いが浮かび、ネットで先生のお名前を検索して、それで先生が昨年の4月に亡くなられていたことを知った次第。 学生時代から私のことを買っていただき、一時期は色々お世話になったのに、その後、少し疎遠になってしまって、大変、失礼なことをしてしまいました。こんなことになるなら、もっとこちらから積極的に学会等でお目にかかれるよう、動けばよかった。 他大学の、何の縁もゆかりもない学生だった私に目をかけて下さった高田賢一先生のご冥福を、今更ではありますが、お祈りしたいと思います。合掌。
May 17, 2021
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エアコン用コンプレッサーの不具合のが見つかった愛車ルノー・キャプチャーの修理が終わったので、今日、ディーラーに引き取りに行ってきました。 ようやく代車のトヨタ・〇ーリス(旧型)から解放される~! この代車にはまるまる1週間乗ったんですけど、ひどいクルマでしたよ・・・。 〇ーリスと言えば、Cセグメントのクルマなんだから、フォルクスワーゲンで言えばゴルフ・クラスに相当する。しかし、ゴルフ7を「21世紀のクルマ」とするならば、初代〇ーリスは「戦争直後の大八車」に近い感じがしましたね。運転感覚は何か極端に重いものを引きずっているようで、ハンドリングはグリコのおまけ程度。一度道路のキャッツアイを踏んだのですが、キャプチャーだったら「タタッ」という軽い衝撃で収束するのに、〇-リスで同じことをしたら「ダダダダッ」と大音声がして、フロアが割れたかと思うほどの衝撃をくらいました。 いいクルマって、100メートル走ればそれとわかるし、角を一つ曲がればそれとわかる。 でも〇ーリスは、100メートル走り、角を一つ曲がっただけで、「金輪際、このクルマには乗りたくないな」と強く思わせるものがありましたねえ・・・。 そんな初代〇ーリスを、新車当時、200万以上の値段付けてトヨタは販売していたんだよねえ・・・。 トヨタの社長の章男さんは「カーガイ」だと言うけれど、私は信じないな。もしそうなら、ゴルフ7を前にして、こういうクルマを売れるはずがない。恥ずかしくて。 で、あまりの出来の悪さに驚いて、初代〇ーリスが販売されていた当初、新車紹介番組はどんな感じで扱っていたんだろうと思い、当時の番組を見返してみたと。そしたらその某自動車評論家は「なかなかいいですねえ」とか言って、このクルマを褒めているんですよね・・・。 まあ、褒めないと業界から抹殺されるから仕方がないのかも知れないけど、そういうことを考えるとアレだね、自動車評論家ってのは、基本、信用できないね。 またそう考えると、故・徳大寺有恒さんが『間違いだらけのクルマ選び』という本を書いて、当時の日本車をクソミソに批判したことは、大したもんだったんだなと、改めて思わされますな。もっとも徳大寺さんも、この本を出すに当たって本名の杉江博愛を使わず、「徳大寺有恒」というペンネームを使って正体を隠す必要があったんですけどね。 まあ、とにかく、キャプチャーが戻ってきて良かった。1週間ぶりに運転してみて、運転の味わいが〇ーリスとは大違いなことに、改めて感じ入ったことでありました、とさ。
May 16, 2021
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今日は朝も早よから姉と協力して、89歳になる老母のワクチン接種予約にトライしました。 まず、朝8時半から姉が電話で予約を試みたのですが、何度かけても通じない。その連絡を受け、今度は私がネットで予約してみたところ、こちらはうまく行って、何とか1回目の摂取予約をすることができました。 しかし、我々がいるからいいようなものの、老母はネットなんか扱えないし、ワクチン接種の一番簡単な予約方法が、肝心の年寄りに手の出ない方法だってのは、どうなんですかね・・・。 しかも、予約したと言ったって、1か月後の話だからね。89歳の老人のワクチン接種が1か月後だとしたら、それより若い我々の接種が一体いつになるのか。先の見えない話ですなあ・・・。
May 15, 2021
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昨夜、ひっさびさにジョン・フォード監督の『わが谷は緑なりき』を観ました。NHKのBSでやっていたのを録画しておいたもので。ずっと前に観た映画ですが、結構忘れているところもあって、面白く観ることができました。 まあ、1941年制作、アカデミー賞総なめの映画ですから、今更ネタバレもなにもないんですけど、ウェールズの炭鉱の町に暮らす「モーガン家」という、父親・息子たち全員が鉱夫という一家の物語を、末っ子のヒューの視点から描くというものでありまして。 炭鉱と言えば、いつの時代も「スト」と「落盤事故」ですよ。モーガン一家も、炭鉱の景気がいい時は実にほのぼのと暮らしていたんですけど、不景気になって賃金が落ちる、その結果ストライキが計画される、スト賛成派とスト反対派で仲間割れが起こる、そのうち落盤事故があって家族の誰かが犠牲になる・・・ってなことに否応なく巻き込まれていく。 それで色々浮き沈みはあるんですけど、昔気質で頑固だけど人間味のある親父さん、気丈でいざという時は百人力の太っ腹のお袋さん、そして働き盛り・男盛りの5人(+ヒュー)の息子たち、そして美しい一人娘アン・ハラッド、それに長男の出来た嫁ブロンという家族構成ですから、そうした浮き沈みの中、色々と悲しいこと辛いことは起こるにしても、それでも逞しく家族一丸となって乗り越えていく・・・、そんなヒューマン・ドラマでございます。 はあ~。いい映画だねえ。何度観ても・・・。最近の映画って、みんな実話に基づいたノン・フィクションみたいな映画ばっかりだけど、フィクションの持つ力ってものを、もう少し見直した方がいいんじゃね? ヒューがモーガン家で初めて学校に通うようになった時、炭鉱から来た子供ということで、学校で他の生徒や先生から虐められる。喧嘩に負けて、ボコボコになって帰宅したヒューを見た親父さんは、すぐに友人のボクサーのダイという男を呼んできて、ヒューにボクシングを仕込む。翌日、ヒューはボクシングを使ってガキ大将をやっつけ、一目置かれるようになるんですけど、今度は先生にボコボコに鞭打たれる。しかし、帰宅したヒューは、いきり立つ親父さんや兄たちに向って、自分は大丈夫だから何もしないでくれ、と頼み、それを聞いた兄たちは、「ヒューも男になったもんだ」と感心する。 ところが一連のやり取りを聴いていたダイは我慢ならず、翌日、学校に乗り込んで、ヒューをめった打ちにした先生を逆にのしてしまうと。 もちろん、そんなこと実際に起こるはずないし、起こったら大問題でしょう。面白いお話し、作り物のお話しに過ぎない。だけど、そういうフィクションこそが、「よくやってくれた!」という爽快・痛快な感情を呼び起こしてくれるわけじゃん? しかも、ヒューの仇をとってくれたボクサーのダイは、その後、ボクサー時代のことが元で失明してしまうのですが、しかし、物語の最後、ヒューの親父さんが落盤事故に巻き込まれ、誰かが救出に行かなくてはならないとなった時に、その目の見えないダイが、「(ヒューの親父さんとは)兄弟分だから」と言って、救助隊に名乗り出るわけよ。泣かせるじゃないの・・・。 この映画の随所に出てくるそういう人情劇、作り物の人情劇、それこそが、映画の醍醐味ってもんじゃないのかなあ。「物語る」って、そういうことでしょ。今、そういう作り物の物語が作れないから、実話に頼ってしまうのであって。想像力の欠如だよね・・・。 ところで、本作は、視点を提供するヒューが、この炭鉱を離れるに当たって、「昔は良かった」と往時を懐かしむナレーションから始まるんですな。だから、全ての物語は、過去の話なわけ。で、そのナレーションの中で、ヒューは「お袋さん愛用のショールに身の回りのものを包んでこの町を出る」というようなことを言う。 なるほど。つまり、落盤事故で親父さんを失い、上の5人の兄たちは既にウェールズを出て、カナダやニュージーランドに行ってしまったのだから、モーガン家の唯一の男はヒューだけ。だから、ヒューはお袋さんが亡くなるまではこの炭鉱で働き続けて家計を担ったわけですな。で、お袋さんが亡くなったのを機に、もう未来がない炭鉱を離れたと。 一人で離れたのかな? いや、いや。ひょっとして・・・ 長兄のイヴォールの嫁で、後家さんになっていたブロン・・・。ヒューは最初にブロンを見た時、恋に落ちた、とはっきり映画の中でも描かれ、イヴォールが亡くなった後は、ブロンが寂しがるもので、ヒューがイヴォールの代わりにブロンの家に入ったことになっていたんですよね・・・。 ならば、ヒューがこの炭鉱の町を離れる時、兄嫁のブロンを連れて・・・ってこともあり得るよね。いや、絶対そうでしょう。それが一番自然だし、八方丸く納まるし。 そういうことも含め、なかなか良くできた映画ですわ。 それにしても、この映画、1941年の作品ですから、私が生まれる20年以上前の作品ということになる。 そう考えると、今時の大学生にとって、『スター・ウォーズ』とか、その辺の映画が、私にとっての『わが谷』と同じ位置づけということになるわけね・・・。はあ~。 歳は取りたくないものですなあ・・・。これこれ! ↓送料無料【中古】わが谷は緑なりき [DVD] FRT-113
May 14, 2021
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別用で図書館を徘徊し、書架を物色していたら、たまたま富山太佳夫さんが2003年に出された『文化と精読』という本の背表紙が目に留まりまして。富山さんの書かれた『ダーウィンの世紀末』とか『シャーロック・ホームズの世紀末』といった本をかつて愛読していた私としては、懐かしくなりまして。この本を手に取ってパラパラめくっていたわけ。あら、この本、名古屋大学出版会から出ていたのね、などと思いながら。 で、本書の「あとがき」のところをざっと読んだのですが、そこになかなか面白いことが書いてあった。それによると、1986年にアメリカのPMLAの会長職にあったJ・ヒリス・ミラーが、会長講演の中で今後の文学研究の方向性は多分こうなる、という予想をしていると。で、その予想というのが、(1)90年代半ばには、言語学と文学の教師のポジションが増える(2)アメリカは多言語化、多文化化に向かう(3)アメリカの共通文化は、書物ではなくなり、映画・テレビ・ポップミュージックなどになる(4)産学協働が進む(5)女性が文学研究の仕方に永続的な変化をもたらす(6)学部学生のための教育の役割と効率が再考される(7)各国の国民文学に関し、伝統的なカノンが崩壊・再構成され、新たなカノンには非文学も含まれる(8)文学研究の中に比較文学・女性学・アフロ=アメリカン文学・カルチュラルスタディーズ・映画研究・批評理論のような脱領域的な研究の重要性が増すというものだったというのですな。 すごいね。この予想、ほぼ全部当たっているじゃん! で、富山さんはヒリス・ミラーのように、アメリカの人文系学会のトップが早くからこういう見取り図を明確に持っていたことを評価しつつ、翻って我が国の状況を見ると、日本の英文学者の中に、こういう時代の流れに対処しようという姿勢が見えないことに不満を漏らすんですな。これまでだって日本の英文学は、イギリス・アメリカの状況から10年遅れてついていくというのがやっとだったけど、1960年代以降、アチラの学問の進歩が速過ぎてどんどん取り残され、今や手も足も出ず、追いつこうとするふりもできないまま、ただただ茫然としているだけじゃん、と。 その一方、日本の若手の英文学者の間では海外で博士号を取ったり、国際学会で英語で研究発表するのが流行していて、そういうことをするのに一生懸命だけど、それはそれでどうなの? と富山さんは疑問を呈する。そんなの、海外で流行っている文学理論を生半可にちょっと齧って、英作文とスピーチ・コンテストに夢中になっているだけだし、英米人の猿真似をして悦に入っているようじゃ、植民地根性に過ぎないではないかと。 ・・・とまあ、キビシイことをおっしゃっているわけですよ。でも、まあ、その通りなんだけどね。私もこの学会の片隅に居るものとして、お言葉ごもっともと反省せざるを得ない。もっとも、この歳になると、反省したってもう遅いけどね! それにしても、久々に富山節を聴いたなあ。この人は昔からこういうキツイことをガツンと言う人で、私なんぞ恐ろしくて近づきがたいところがある。この人の本は好きでよく読んだし、学会での発表とか講演などもよく聞きに行ったものですが。そういう講演とかもすごく面白く、啓発的でね。 しかし、どうなんだろう、最近の若い学者さんたちは、富山さんの本を読んでいるのかなあ。それとも、富山さんも既に過去の人なのか。かの傑作『ダーウィンの世紀末』も絶版だしなあ。富山さんほどの研究者ですら、もはやその本が若い人に読まれないとなると、私ごときが何を書いて何を出版しようが・・・って感じだよね・・・。 ま、でも、久々に富山さんの本をチラ読みして、ためになりました。これこれ! ↓文化と精読 新しい文学入門 [ 富山太佳夫 ]シャーロック・ホームズの世紀末/富山太佳夫【3000円以上送料無料】
May 13, 2021
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先日、書斎用に新たにラックを買って、少し部屋を整理した、という話をしましたが、その際、出てきたのが「VHSテープ問題」。そう、まだビデオテープが録画媒体の主流だった頃に撮りためたVHSテープをどうするか、っつー悩みでございます。 まあね、もうVHSビデオを見なくなって大分経つわけですよ。今や時代はDVDさえ通り越してブルーレイですからね。っていうかむしろそうした媒体すら介さず、ビデオのハードディスクに溜めて観る、という方が多いくらいなものでありまして。 でも、VHS時代のテープには、これはまたこれで、コンテンツだけでなく、「思い出」までもが記録されているわけですよ。 例えば、関東地方のテレビ番組で観たいものがある時など、わざわざそっちに住んでいる友人に頼んで録画してもらったりね。そうなると、そのビデオは単に番組を録画してあるだけでなく、ある意味、友情をも記録しているということになる。友人の筆跡でビデオのコンテンツ名を示してあるVHSテープを捨てるということは、その友情をも捨てるような気がするじゃないですか。そういうことは、義理・人情に生きるワタクシには容易にはできないわけ。 だけど、そうは言っても、もはや無用の長物となった大量のVHSテープ。狭い書斎に置いておくには、あまりにも場所ふさぎになってしまったことも事実。 そこでついに私も思い切り、大きなゴミ袋2つ分のVHSテープを捨てることにしたのでございます。 ちなみにVHSテープって、可燃物扱いなんですよね。つまり、紙屑や生ごみと扱いは一緒。まあ、考えてみればテープは燃えやすいからね。思い出は、燃えてしまうのね・・・。 もうだいぶ以前に、大量のカセットテープを捨てた時もそうでしたけど、記録媒体って、なかなか長期間、もたないもんですな。カセットテープにあれこれ録音していた時は、意識の上では「これは半永久的に残そう」と思って録音していたはずなのにね。 ということで、大量の録画済みVHSテープを処分して、清々したところもあり、ちょっと寂しいところもあり、という私なのであります。
May 12, 2021
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まあ、いずれそうなると思っていましたが、愛知県も明日から非常事態宣言発出ですか。 とはいえ、なんか非常事態にも慣れてしまって、あんまり緊張感ないね・・・。 大学側からは、「受講者数が教室のキャパシティの3分の2を越えない限り原則対面でやれ、だけど、教員の判断で適宜オンデマンドでやれ」って、意味不明な通知が来ましたけど、結局、どっちでやればいいの? 昨年の今頃は、もっとずっと新規感染者数は少なかったのに、キャンパスをロックダウンして学生の登校自体を止めていた。それなのに今は、どっちでもいいよ的な感じで、緊張感のかけらもなし。 ま、私は学期が始まる時から、大人数の授業に関しては、「非常事態宣言出たらオンデマンドにするからね」と学生に周知して置いたので、明日からは少人数の授業だけ対面でやることにしますけどね。 ワクチンも全然見通し立たないし、今年度一杯は、きっとずっとこんな調子なんだろうな・・・。
May 11, 2021
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自宅書斎は、既に書棚のキャパを大幅に越しており、仕方なく書棚から溢れた本を床に平積みしていたのですが、それが部屋をどんどん侵食して、ほとんど足の踏み場もないほどになっちゃった。 でも、もう手の施しようがないので、そのまま床に置いた本の層がそのまま厚みを増すのに任せていたのですが、先日、イケアにポスターの額を買いに行った時、たまたまスチール製のラック(4段)をたった2500円ほどで売っているのを発見し、買っちゃったんですわ。これこれ! ↓レールベリ で、それを家内に手伝ってもらいながら組み立てて、床に直置きされていた本をそのラックに収納していったところ・・・ あら~! 結構な収納力! 床に水平に置いていた本をラックを使って垂直に並べ替えたら、大分すっきりして部屋が広~くなりました~。 うーん、素晴らしい。本というものは、やっぱり床に平積みするものではなく、書棚的なものに縦に収納するものですな、元来。 とはいえ、床に置いてあった本がまだ全部収納出来たわけではないのですが、これであともう一個、同じようなラックを買えば、残りの本も縦に整理することが出来そう。よーし、今度もう一度イケアに行って、同じラックをもう一つ、飼ってこようっと! そう言えばルパン三世も、「札束ってのは、縦に積むと案外場所を取らないんだよね」って言ってましたわ。本も札束と同じなのね。 っつーことで、久しぶりに少しは足の踏み場のある書斎を取り戻し、かなり気分のいい私なのであります。
May 10, 2021
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愛車ルノー・キャプチャーのエアコンの効きがイマイチ良くないもので、これは多分、ガスが抜けたんだろうと、その辺のカー用品屋でガスを入れてもらおうかと思ったのですが、それでもやっぱりディーラーに持って行くかと思いなおして、今日、ディーラーに入庫してきました。 で、ワタクシはてっきりガス抜けだと思っていたので、修理するったって、ものの1時間だろうと高をくくり、ディーラーの傍にあるイオンに行って昼食をとって、さらに「vanda record」なる謎のCDショップで、プリンスの謎の新譜(この店には、私ですら見たことのないようなプリンスの新譜が山ほどある)を買ったりして上機嫌でディーラーに戻ったら、そこで悲劇に見舞われてしまったという。 エアコンの効きが悪かったのは、ガス抜けのせいではなく、コンプレッサーの故障だそうで、修理に13万円かかると・・・。 13万円。軽いめまい。マジか。 しかし、これから夏に向って暑くなる中、エアコンの効きが悪いのではどうしようもない。泣く泣くキャプチャーを入院させることにし、代車を借りて帰ってきた次第。 ちなみに代車はトヨタのオーリスでした。 いつも思うことですが、どうしてルノーのディーラーは、代車にルノーの新車を出さないのか。代車に乗って、それが気に入れば、買い替えるかも知れないのに。 で、とにかく旧型のオーリスに乗って帰ってきたんですが、変なデザイン。変なっていうか、特長が無さすぎて、コメントできない。クルマなんて、かっこいいデザインにすればいいのに、なんでわざわざこんな無趣味なデザインにするんだろう? 意味不明だわ。 しかも、これ、CVTだよね・・・。まあ、昔のCVTと比べると、少しはダイレクト感が増した感じはするけど、所詮はCVTだからな。とりあえず前に進むだけのクルマ。運転が楽しいというもんではない。 楽しくねえ~と思いながらしばらく運転して、この運転感覚、何かに似ているなと。 あれだ。タクシー。タクシーの乗り心地に似てる。それも、プロパンガスで走る奴。コラムシフトの。 毎日、通勤でタクシー運転するのイヤだ~。 修理が終わるのは一週間後だそうですけど、明日からしばらくタクシー生活か・・・。トホホ。
May 9, 2021
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このGWは割と時間的に余裕があったので、今日の夕食は私が作ることにしました。 作ったのはスープカレー・・・と言っても、from scratch で作ったのではなく、お手軽にスープカレー用のスープを流用したんですけどね。使ったのは、モランボンのスープカレー用スープ。これこれ! ↓モランボン/ごろごろ野菜で作るスープカレー用スープ で、まずは玉ねぎ半分をみじん切りし、これを10分ほどかけて飴色になるまでオリーブオイルで炒め、炒め終わったら取り除けておきます。その傍ら、ジャガイモ2個とニンジン1本を適当な大きさに切り(私はやや大きめに切り、面取りしました)、電子レンジでそれぞれ5分ほど加熱して竹串が通るところまでにします。 次に鶏もも肉を適当な大きさに切り、それをオリーブオイルで炒め、きつね色に焦げ目がついたら赤ワインを少々入れ、アルコールを飛ばします。ついで先ほど電子レンジで加熱しておいたジャガイモとニンジンを投入、さらにナス1本分とピーマン4個をやや大きめに切っておいたものも加えて、ピーマンとナスに火が入るまで5分ほど炒め合わせます。 そしたら、先のスープを投入し、さらに炒めておいた玉ねぎを投入し、5分ほど煮ます。それで完成。スープカレーですから、通常のカレーと違って、煮込めば煮込むほど旨くなるというものでもないので、スープを投入したらもう5分で完成です。だから、トータルの調理時間で考えても、大体、45分くらいで出来上がるのではないでしょうか。 で、深めのさらにスープカレーを盛り、別盛りのライスをスープに浸しながら食したのですが・・・ うまーーーーーい!! これは旨い!! 簡単にあっさり作った割に、お味は本格的。しかも味に深みがあり、なかなかの出来。私としては会心の出来でした。 ま、主たる勝因は、やっぱりモランボンのスープカレーの素が良かったのではないかと。これ、かなりおススメですよ。マジで。ぜひ、お試しください。作り方も簡単ですから、世のお父さん方も休日あたり腕を振るって、たまには奥さん孝行してはいかがでしょうか。モランボン/ごろごろ野菜で作るスープカレー用スープ
May 8, 2021
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先日、刈谷市美術館で開催されていた「ミロコマチコ展」に行った時、気に入った絵のポスターを買ってきたのですが、今日はそのポスターを自分で額装してみました。 美術展に行って思わずポスターを買ってしまったものの、額装する手間が面倒臭くてついついそのままになってしまう、というのはよくあるパターンですが、せっかくのゴールデンウィークで、しかもどうせ遠くには行かれないのだから、と思い、今日は思い切って額装の作業に取り掛かったというわけ。 とはいえ、B2サイズのポスターですから、まず額を買わなければならない。 っつーことで、家の近くにあるイケア(こういう時、イケアが近くにあるってのは便利ですな!)に行き、このサイズの額を買ってきたと。もちろん、イケアですから安いもので、お値段1200円ちょいだったかな? まあ、中身が印刷のポスターですから、こんなものでいいでしょう。 で、家に戻って絵を入れようとすると、案の定、ちょっとだけ額の方が小さい。そこで仕方なく上下左右を少しずつ切り落とし、ぴたりとはまるサイズにして、それで額装してみたところ・・・ おーー! なかなかいいでないの。黄色主体の絵だったので、黒い額縁がよく映えます。・・・いや、逆か。黒い額縁なので、黄色主体の絵がよく映えます。 で、それを、今まで別な絵が飾ってあった玄関のところに入れ替えて飾って見ると、ミロコマチコのダイナミックな絵がマッチしてなかなかよろしい。 で、ついでに家の各所にかざってある絵も他の絵と入れ替えて、いわば絵の衣替えを一気にやってしまいました。 うーん、このところさぼって、ずっと同じ絵が飾ってあったので、久しぶりに別の絵に変えると、なかなか新鮮でよろしい。やっぱり、たまに入れ替えて、気分を変えないといけませんな。 ということで、今日は新入りの絵が入ったり、絵の選手交代があったりして、我が家の趣が一新し、気分も新たになりました。なかなかいい一日になったのではないでしょうか。
May 7, 2021
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友人のTが面白いと言って贈ってくれたポール・アダムの『ヴァイオリン職人の探求と推理』という本を読んでみました。確かにTの言う通り、面白かった。以下、ネタバレ注意です。 本作の主人公ジャンニは、イタリアの腕利きのヴァイオリン職人で、素人演奏家でもある。で、月に一度、やはり素人の演奏家である友人たちとカルテットを組んで演奏をするのを楽しみにしているんですな。 で、そのカルテットのメンバーは、ジャンニの他にアリーギ神父、警察官のグァスタフェステ、幼馴染で同じくヴァイオリン職人(ただし職人としての腕はジャンニとは比べ物にならない)トマソ。で、いつものように四人で月に一度の楽しい一夜を過ごしたと。 ところが、演奏が終わって解散した後、トマソの行方が知れなくなる。そしてその後、彼は自分の工房で死体となって発見されるんですな。生涯、悪行に手を染めたことのないトマソが一体なぜ? 事情を調べていくうち、トマソが「メシアの姉妹」と呼ばれる幻のヴァイオリン、それも現在行方不明のストラディヴァリの傑作の在処を突き止めようとしていたことが判明する。彼には、才能溢れるヴァイオリニストの孫娘が居たのですが、トマソの現在の財力では彼女を支援することは無理。そこで、幻の名器を発見し、それを売った金で、何とか孫娘を支援できないかと考えた末の行動だったらしい。そしてその探索の途中で何者かに殺されてしまった。 かくしてトマソの長年の友人であったジャンニは、警察官の友人(そしてジャンニにとってはいわば息子のような存在でもある)グァスタフェステと協力しあいながら、トマソが追い求めていた幻のヴァイオリンと、トマソを殺した犯人の探索に乗り出す・・・。 ・・・というようなお話なんですが、本書の読みどころは何と言ってもジャンニという主人公のキャラクター。63歳の熟練のヴァイオリン職人ならではの人生経験の豊富さもさることながら、妻を失った悲しい記憶、そして一度だけ手を染めた贋作の過去など、様々な要素が重なり合って、単なる謎解き以上の面白さを醸し出しております。 ま、推理小説としては、ちょいと甘いところもありますが、それを補うだけのヴァイオリン談義もあり、また登場人物それぞれの描き分けも良くて、楽しい読書となりました。先だって読んだギョーム・ミュッソの『パリのアパルトマン』より、こっちの方がワタクシは好きかな。 っつーことで、ポール・アダムの『ヴァイオリン職人の探求と推理』、教授のおすすめ!と言っておきましょう。これこれ! ↓ヴァイオリン職人の探求と推理 (創元推理文庫) [ ポール・アダム ]
May 6, 2021
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先日、栗原心平さんの「ごちそうさまチャンネル」を見ていたら、「鰆の味噌漬け」の作り方を紹介しておりまして。これこれ! ↓鰆の味噌漬けの作り方 で、これを見ていたらあまりにも簡単そうだったので、実際に作ってみた。 で、二日ほど漬けた後、今日、食べたのですが、これがね、かなり美味しかったです。 もっとも反省点は幾つかあります。 まずね、二日は漬けすぎですね。味噌の味が沁み込み過ぎて、ちょっとしょっぱくなってしまった。このレシピなら一日漬けるだけで十分でしょう。 あと、今回使った鰆が、少し時期が遅かったのか、あるいはたまたま買ったものがそうだったのか、少し脂の乗りが悪く、パサパサした食感になってしまった。だから、鰆にこだわらず、その時期その時期で最も脂乗りのいい魚を選んで漬ければ、もっと美味しかったかも。 でもね、味の方向性としてはかなり良かった。魚の味噌漬け系がお好きな方は、ぜひお試しください。
May 5, 2021
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今日は今年中に刊行予定の恩師の文集につけるワタクシ自身の「思い出パート」の推敲にいそしんでおりました。 まあね、推敲ったって、すでに百回くらい推敲しているのよ。だけど、まだ推敲する。すると、やっぱり直すべきところが出てくるっていうね。もうその繰り返しを延々とやるわけ。 何を推敲するかっていうと、結局、ワタクシ自身の文章上の手癖を消すことをやっているんですわ。 アメリカの作家、トルーマン・カポーティは、ワタクシの文章道の師匠の一人なんですけど、カポーティ曰く、文章というのは癖のない、水のようにサラサラしたものを上等とすると。これはもう、至言なのでありまして、ワタクシが目指すところもまさにそれ。まったく引っ掛かりがなくて、サラサラ、小川のように流れる文章になるまで、磨きに磨くのよ。大吟醸みたいに、元のコメの30%くらいになるまで磨く。 今日の推敲で、そのサラサラを邪魔する引っ掛かりを、100カ所くらい取り除いたかな? 今の時点では、これで終了と思っているけど、明日読み直すと、また100カ所くらい直すべきところが見つかるはず。全然減らないの。だから、それを際限なく繰り返すと。 まあ、ほかの仕事もありますから、これに取り掛かっていられるのも5月いっぱいと思っているのですけど、その間、まだあと20回くらいは推敲するので、合計、2000カ所は直すことになるでありましょう。 それが恩師の供養だからね。絶対に手を抜かず、最後までやり抜きましょう。それがワタクシのレゾン・デートルなのだから。
May 4, 2021
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このゴールデン・ウィーク、なんだかミョーに暇なワタクシ。その分、普段なかなか読めない、仕事と関係ない本を読もうと思っているんですけど、今日読んだのは関口良雄さんの書いた『昔日の客』という本。ま、ちょっと前に夏葉社が復刻して、ちょっと話題になった本ですな。 ちなみにこの本、父が生前に読みたいと言っていたので、私が買ってあげた本なんですわ。そしたら父がえらく喜んで、読んで面白かったと、いつまでも話題にしていた。そういうアレがあるもんで、父が亡くなって蔵書を処分した時、脇に取り除けておいたんですわ。だから、この際、父の供養だと思って読んでみようと。 この関口良雄さんというのは、東京の大森に「山王書房」という古本屋を営んでいた人なんですけど、馬込文士村が近かったので、近所にやたらに文士が住んでいて、関口さんはそういう文士たちと親しかった。本人も「銀杏子」なる俳号を持つ俳人だったんでね。で、そんな文士たちとの交流を、古本稼業のエピソードとと組みあわせて綴ったエッセイ集が本書『昔日の客』でありまして、これが関口さんの唯一の本。それも残念ながらこれが出版される少し前に本人が亡くなってしまったので、死後出版の本ということになります。関口さんって、59歳で亡くなっているんですな。今のワタクシとほぼ同じ年ごろですわ。 ではこの本、どんな感じかと申しますと、本書冒頭、正宗白鳥の思い出が語られる段がありまして。正宗白鳥ファンだった関口さんが、商売そっちのけで白鳥の本を沢山集めたので、こんなに集めましたよ、というところを白鳥本人に見せに行ったと。で、一旦は白鳥の奥さんに追い返されそうになったりしながらも、すったもんだの末、なんとか本人に会うことが出来たのだけど、結局、2冊分だけ署名してもらえた。そんなことがあった後、そのエピソードを白鳥がどこかの対談で語り、「俺の本なんか大して売れないけど、この間、俺の本をしこたま持ってきた奴がいた。そいつは俺の署名を欲しがって、どうせそれで本の価値を上げようという腹なんだろうけど、そうは言っても本を買うというのはそれなりに評価してくれたわけだから、ありがたいもんだ」というような風な言い方をした。白鳥が言及したのは明らかに自分のことであり、値を吊り上げるために署名させたというのはひどい誤解だが、ありがたいと思ってくれたんだから、やはり嬉しかったと。まあ、そんな風にまとめてあるエッセイなわけ。 で、これを読んで、ワタクシはちょっと嫌な気分になりましてね。これは、要するに正宗白鳥に「本屋風情」とあしらわれた話でしょ。それを書いたら白鳥の人格を貶めることにもなるし、その一方、白鳥にそんなことを言われて、それでも嬉しかったと書くのは卑屈だ。そういうことを書いて公刊するのは、あんまり趣味のいいものではないのではないかと。そんなことを書いてしまう関口さんは、ひょっとして柳田国男に「本屋風情」とののしられたことを得意げに書いて本にした岡茂雄と同じ手合いじゃないの? っつーわけで、アレ、ひょっとしてこの本、わしの嫌いなタイプの本なんじゃね? と思いながら読み始めたんですけど、嫌な感じがしたのは冒頭のそのエッセイだけで、その後、大分持ち直して、最終的には「割といい感じのエッセイ集だった・・・かも」というあたりまで回復したという。 それにしてもこの本が書かれたころの・・・というのは昭和30年代から40年代のころ、ということですが、そのころまではまだ日本ものどかだったというのか、ちょっとした紹介(例えば知人の名刺とか)があれば、いきなり作家の家に押しかけて面談を申し込むなんてことが可能だったんですな。例えば今、長年のファンだし、所蔵本に一筆書いてもらいたいから、とか、そんな理由で村上春樹に会いに行こうったって、そんな簡単に会えないでしょう。彼がどこに住んでいるかすら、秘密になっているでしょうし。 でも、その頃は、そういうことが可能だった。関口さんも、だれかの紹介で誰それの家に行ったら、たまたま何かの宴席になっていて、初見なのにいきなりその宴席に連なる羽目になり、勧められるままに大酒飲んでいい気分になり、放歌して大騒ぎとなり、家に帰ったのは深夜だった、なんてことを書いていますが、そんなこと、今、ある??って感じです。 でもそういう風だったから、関口さんは古本屋をしながら、色々な人と出会い、色々な人と知り合い、色々な人にかわいがられ、色々な人と楽しいエピソードを築くことが出来た。で、そういうエピソードを書いたら、面白いものが出来たと。 いい時代だったんですなあ・・・。 とまあ、そういういい時代の、いい人たちのお話でございます。特に、関口さんが非常なる敬意と愛着をもって書いている尾崎士郎さんとか、尾崎一雄さんとか、野呂邦暢さんなんかの思い出の記なんかは、それぞれの作家の魅力ある人柄を伝えるものとして、出色のものと言っていい。 それから、そもそも私がこの本を読もうと思った動機に、父のことがあることもあってか、本書の中では関口さんが自身のお父さんのことを書いた「父の思い出」というエッセイが特に心に沁みました。また本書は死後出版になってしまったこともあり、あとがきは関口さん本人ではなく、関口さんの息子さん、関口直人さんという方が書いているのですが、この息子さんのあとがきがまたとても素晴らしい。 というわけで、本書『昔日の客』、結果としては読んでよかった本でありました。教授のおすすめ!と言っておきましょう。さすが夏葉社。これこれ! ↓昔日の客 [ 関口良雄 ]
May 3, 2021
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人間ドックの結果が悪くて、2月に病院に行かされた時、医師から「とりあえずひと月1キロずつ、3か月で3キロ痩せて」って言われちゃったんですけど、そう言われると、素直なワタクシはすぐ実行するわけよ、ダイエットを。 で、着実に成果は出ております。もう3キロくらいは軽く痩せてやったわ。 その気になれば意思の強いワタクシ。痩せるなんて簡単で、入り口を狭めて、放出を増やせばいい。つまり糖質制限して、日常の運動量をアップさせたわけですよ。そしたら、あっという間に痩せちゃった。 ウエストも今は76センチがゆるゆるで、73でちょうどいいくらい。あともうちょっと頑張って70センチくらいまで落としておこうかなと。 いや、単に体重を落とすだけでなく、今年こそは脂肪肝を完治してやろうという野望もありまして。そっち系に効くというサプリも飲み、そっち系に効くという「あずき」も食べ、そっち系に効くという「肝臓マッサージ」もし、そっち系に効くというツボも押し・・・という具合に、できることはすべてトライしております。 ま、攻めの姿勢ですよ。「ザ・ポジティヴ」と呼ばれる男の威信をかけて、やれることはすべて前向きに試みる。 5月の半ばあたり、もう一度医者に行く予定なんですけど、今から結果が楽しみでございます。
May 2, 2021
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石黒由紀子さんの書いた『猫は、うれしかったことしか覚えていない』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 これ、昨日、「ミロコマチコ展」で買ってきた本で、本文は石黒さんが書き、本文に添えられたイラストをミロコさんが書いたという意味で、ミロコ本でもあるんですな。 で、冒頭、本書のタイトルの意味が語られるのですが、石黒さんがとある事情で飼い始めることになった猫が、ある時、急に元気がなくなったと。 で、病院に連れて行って、開腹手術したら、梅干しの種が出てきた。ま、猫ちゃんが梅干しの種をおはじきみたいにしてチャイチャイと遊んだあと、飲んでしまったらしく、それが腸に詰まったらしいんですな。 で、その時、お医者さんに、今後もこの猫は梅干しの種を飲むだろうから、気をつけなさいと言われたというわけ。 つまりね、猫ってのは、梅干しの種で遊んで嬉しかったことだけ覚えていて、その後、その種を飲んでしまったがために嘗めた辛酸のことは全く覚えていないと。だから、次に梅干しの種を見つけたら、やっぱりチャイチャイ遊んで、そのうちにそれを飲み込んでしまう可能性が高いと。 で、石黒さんはそういう猫のメンタルを知って、猫ってすごいなと感心したわけね。人間も、そうであったらいいのにねと。 ま、そんな感じで、猫と暮らしてみて初めて発見する、そんな猫ちゃんの羨ましいメンタルを、石黒さんがエッセイとして綴ったのが本書であります。これこれ! ↓猫は、うれしかったことしか覚えていない (幻冬舎文庫) [ 石黒 由紀子 ] ま、そんな感じで、猫を実際に飼っている人からしたら、「あるある~」って感じでしょうし、猫を飼ったことがない私のような人間からしたら、「へえ~」ってなる、そういう本です。 考えてみたら、凄いよね。人間って、猫を飼ったことがある人か、飼ったことがない人か、どちらかしかないわけで、そのどちらにもアピールするんだから、つまり地球上の人間すべてにアピールしていることになる。 アメリカ文学に関してはどうなんだろうね。アメリカ文学だって、読んだことある人とない人の二種類しかいないはずだけど、アメリカ文学に関するエッセイ書いたって、読んだことない人には「興味ねえ~」って言われ、読んだことある人には「もう知ってる~」って言われて、そのどちらにもアピールしないっていう。 猫飼おうかな。猫飼って、猫エッセイ書こうかな。 ちなみに、この本には著者の石黒由紀子さんの年齢が書いてない。私はいつも言うのですが、それ、あかん。本を書く人間は、何歳の人間がこれを書いているのか、常に明らかにしなさい。 で、ウィキペディアで調べると、私とほぼ同年代だということが判明。そしてさらに驚いたのは、石黒由紀子さんの配偶者は『盲導犬クイールの一生』を書いた石黒謙吾さんだということ。凄腕のブック・プロデューサーだよね・・・。 ふうむ。そうか・・・。だったら、私もプロデュースしてもらいたい。 常軌を逸したアメリカ文学者の、『この本、読んだはずなのに覚えていない』とか、そんな感じのエッセイだったら書けそうなので、石黒さーん、お声かけしてちょ!
May 1, 2021
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