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誰とは言いませんが、試験の出来まで日本国民全員に知られるなんて、気の毒ですなあ。それに、この事態の中、かの地で高い家賃を払いながら暮らすってのも、あっという間に自己資金が底をつくような・・・。 もうこうなったら、いっそ法曹界はあきらめて、ユーチューバーになるってのはどうだろう。ピース綾部的な感じで、お二人のお洒落なお洒落な最先端NYライフ満喫の様子を日々、我が国に伝えるというのは? 綾部に出来るなら、王子なら絶対に出来る! アンチも含め、潜在的な視聴者はものすごい数居そうだし、たちまちユーチューブ長者じゃないか? どうせ何やったって批判されるんだから、この際、180度どころか270度くらい開き直って。 さて、それはともかく、短い週末の滞在を経て、これから名古屋に戻ります。短い間でしたが、母の顔も見れたし、姉や姪っ子の顔も見れたし、BBQで楽しませてあげることもできたし、まずまずの首尾だったのではないかと。 夜、名古屋の自宅に戻る頃には、選挙結果も大方出て、大騒ぎになっていることでありましょう。それも楽しみに。
October 31, 2021
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どうせ実家に戻っているもので、多少なりともイベント的なことをやろうと、今日は夕方から実家の庭でバーベキューをしました。 前は、8月の夏休みの時にやっていたのですが、8月に外でバーベキューやると、蚊はいるし、暑いし、結構大変なんですよね。それに比べてこの時期のバーベキューだと、むしろバーベキュー・コンロの近くが暖かくていい感じ。それに、なによりも食欲の秋ですからね。食べるものが美味しい! ただ一つ、生のトウモロコシを使って焼きトウモロコシを作れないのが玉に瑕なんですけど、そこは仕方なく中つ国産のパウチ・トウモロコシで代用。その代わりと言ってはなんですが、サツマイモを使っての焼き芋があるので、そこは秋のバーベキューの醍醐味かと。 父が生きていた頃は、父もバーベキューを楽しみにしてくれていたのですが、今は仏壇の中からの参加となってしまいました。せめてビールを供えて、一緒に楽しんでいる体にしましたけどね。 今日のハイライトは・・・自分的にはカルビだったかな。今日はちょっと趣向を変えて、鰻のかば焼きを作るみたいな感じで、焼いてはまたたれに付け、また焼いてはたれに付け、というのを数度繰り返してみたのよ。そしたら、これがまたいい感じでしっかりと味がついて、何度も蒸し焼きにされる感じで肉も一段と柔らかくなり、絶品の焼き加減となりました。やっぱり、炭火の炎に舐められた肉ってのは、旨いね。 というわけで、秋の一日、ホーム・パーティーを楽しんだ我が家だったのであります。
October 30, 2021
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ちょっと老母のことがありまして、週末、実家に戻っております。 で、その母のことという中に、今計画している母の句集のとりまとめというか、出版準備の作業が含まれていたのですが、その中でも特に、「今度出す句集のタイトルを考える」というのがありまして、これに相当、時間がかかるのではないかと思っておったんですわ。 ところが、これが案外簡単に決まってしまった。 と言うのも、句集を出す本人である母自身が「句集のタイトルは『花筏』にしてちょうだい」という明確なリクエストを出してきたからで、そんなにはっきり決まっているなら、もうそれでいいよな、ということになった次第。 そうですか、『花筏』ねえ。 でも、まあ、そう言われてみると、なんだかとってもいいタイトルであるような気がしてきた。 花筏ってのは、要するに散った桜の花びらが川を流れていくということで、晩春の季語にもなっているわけですが、それは、別な言い方をすれば桜という花の人生(花生?)の最後の輝きということでもある。そう考えると、90歳にならんとする母の人生の最晩年のひと輝きになればとの思いで編んでいる句集のタイトルとしては、まさにふさわしいのではないかと。ちなみに、このタイトルの元になる母の句は、 いつか来る帰らぬ旅や花筏 というもの。まあ、帰らぬ旅に出るのもそう遠くないなあ、という意味ですな。 ってなわけで、タイトルも決まり、推敲も済んだので、あとは実際の組版作業に入るのみ。もう一つの山場は、やはり「表紙デザインをどうするか」ということになるんですけど、そこはそれ、私のセンスでばっちり決めてあげましょう。 かくして今回の帰省の用事が一つ片付きました。まあ、めでたし、めでたし。
October 29, 2021
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前からちょっと気になっていたんだけど、ドミノ・ピザが販売している「ピザ・ライスボウル」なるものを食してしまいました。 「ドミノ・スペシャル」と「照り焼きチキン」を買って、家内と半分ずつ食べたんですけど、ふうむ、なるほど、という味。まあ、要するにピザ味のドリアだと思えば遠からず。そういうものとして、想像通りの味でした。想像以上のおいしさ!・・・とまでは行かなかったけど、想像通りくらいのおいしさではあったかな。 とはいえ・・・。 私は前からドミノ・ピザについては少々意見がありまして。 テイクアウト用に注文して、10分ばかり待たされるんですが、注文の品をスタッフの人たちが作っている、その様子が客から見えるのよね。 で、その様子を見ていると、どこの店舗でも大体そうなんだけど、まあ、スタッフの方たち(たいていは大学生くらいのアルバイト?)が、楽しそうにおしゃべりしながら作っているわけ。じゃれあいながら、と言ってもいい。 しかも、それ、客から見えるところでやるんだよね。冗談を言い合ったり、爆笑したりしながら作っているのが客から見える。なんかね、それがどうも、私にはしっくりこないわけよ。 ラーメン屋さんとかでも、大将がラーメン作っているのが見える店なんて沢山あるけど、そういう場合、大将はもくもくとラーメン作っているじゃん? スタッフとじゃれあいながら作ってないよね? ま、私はプロとして食事を作るのって、そういうもんだと思っているので、ドミノ・ピザのあの楽しげな感じがどうも納得できないところがあるんだなあ。 その辺ね、ドミノ・ピザの上の方の人たちって、どういう風に考えているのかなと。一度、上の方の人たちは、一般の客として、ドミノの店でテイクアウトしてみればいいのに。 ま、そういう楽し気な雰囲気が好き、という人もいるかもしれないから、一概には言えないかもしれないですけどね・・・。
October 29, 2021
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昨日ほのめかした「面白い本」というのがコレ。山之口泉さんが書かれた『父・山之口貘』。 そもそも私が山之口貘という詩人のことを知ったのは、つい最近で、荒川洋治さんの『文学の空気のあるところ』という本の中で、荒川さんが一章を充てて山之口さんのことを書かれていたのを読んだためでした。 で、この荒川さんの本がまあとっても素敵な本で、今年読んだ本の中でもダントツのベストなんですけど、山之口さんの詩を紹介しながら、山之口さんのことを上手に解説しております。で、荒川さんが紹介してくれる山之口貘の詩が、すごく良いのよ。例えばこんな詩:「座蒲団」土の上には床がある床の上には畳がある畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽といふ楽の上にはなんにもないのであらうかどうぞおしきなさいとすすめられて楽に坐つたさびしさよ土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに住み馴れぬ世界がさびしいよ ううむ。いい詩だねえ・・・。私なんぞ、ついぞ詩というものを味わったことのない無粋な人間にすら、この詩はずーんとくる。「さびしさよ」と「さびしいよ」という言葉、どちらも「よ」で終わるけど、用法が違う。その用法の違う最後の「よ」が、すごくいい。 あと、これはどう?:「夜」僕は間借りをしたのである僕の所へ遊びに来たまへと皆に言ふたのであるそのうちにゆくよと皆は言ふのであつたのである何日経つてもそのうちにはならないのであらうか僕も 僕を尋ねて来る者があるもんかとおもつてしまふのである僕は人間ではないのであらうか もーう・・・。書き写しているだに、こっちまで泣きたくなってくる。「僕は人間ではないのであらうか」。私だって、いや、誰だって、人生の中でこんな風に嘆いた夜の一度や二度はあるでしょう。忘れているだけでね。 さて、荒川洋治さんの本の中で山之口貘という詩人のことを知り、またその娘さんの山之口泉さんという方がお父さんの思い出を綴っていて、それがまたとてもいい、という事も書いてあったので、私はついその本も買ってしまつたのである。 で、その『父・山之口貘』という本を読んでみたんだけど、これがまた、確かに荒川さんの言う通り、とーーーってもいい本だつたのである。 文人の実の娘の書いた思い出の記というのは、大抵、傑作になるもので、この本もその例外でなく、娘の目から見た詩人・山之口貘の姿が実によく描かれているんですなあ。生活人としては甲斐性がないところがあって、生涯、貧乏と縁が切れなかった人だけれども、詩を作ることへの情熱と真摯な取り組み、異常とも思えるほど粘り強く、自分の納得のいくまでとことん推敲に推敲を重ねて言葉を抉り出していく様、自分の詩集を出すことへの一途で無邪気な思い、そして一人娘である泉さんへの親ばかとも言えるほどの優しい愛情、そして理解の無い妻に対する忍従とそれなりの愛情、故郷・沖縄への思い、淡くしかしそれでいて血の通った友人たちのの交友など、泉さんの筆によって綴られる山之口貘の魅力的なこと! もう、これは私がいくら説明したって、泉さんの文章を読んでもらうにしくはないので、ちょっとでも興味の湧いた人は是非、この本、読んで下さい。これこれ! ↓父・山之口貘新版 [ 山之口泉 ] とってもいい本でした。教授の熱烈おすすめ!です。
October 27, 2021
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今日は仕事を離れて、ちょっと面白い本を読んでいたのですけど、これについてはまた後日。 で、あんまり面白いので、急いで読み終わるのが惜しくて、同じところを何度も読み返したりしてまさに味読していたんですけど、そんなこともあって、今年は今のところ、割と充実した読書生活を送ったような気がするな~とか思って、ちょっと自分なりに振り返ってみたのですが、そしたら意外な事実が分かった。 充実どころか、ろくに本を読んでないのね。割と面白かった本が二、三あったものだから騙されていたけど、全然そんなことない、ということが分かった。殺伐たるものですよ、我が読書生活は。 大体、数を読んでない。私は自分なりの目標として、年間100冊を読むことを課しているのですが、本来であれば10月終りの時点で80冊くらい読んでないとおかしいわけですよね? だけど、実際には60数冊しか読んでない。今年は目標の100冊まで届きそうにない。 でまた、その60数冊の内容が良くない。まあ、仕事がらみで必要に応じて読んでいるので、こちらの好みの本を読む時間がないということもあるのですが。 だから、これは読んで良かったな、と思える本なんて、片手の指で数えられるほど。1年間で、だよ! いやはや、情けないものでございます。 だったら、年間何冊、感動的な本を読めばいいか、なんて分からないけど、少なくとも若い時、高校・大学の学生時代には、もっともっと、目を瞠るような思いで本に首を突っ込んでいたような気がするなあ。あの頃は、年間、何冊くらい読んでいたんだろうか。そして、何冊くらいに感動していたんだろうか。 そういう風に思うと、アレだね、定年後の人生が楽しみになってきますな。引退したら、若い頃のように、読みたい本だけ読み、それを何度も繰り返し読むんだ。 そう思うと、定年ってのは悪くない制度なのかもね。
October 26, 2021
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なんか寒い・・・。 いやあ、ついこの間まで半袖で過ごしていたのに、何なのこの急転直下の気候変動は。夏物の後、秋物を通り越して冬物になってしまった。今日なんか、大学でコートを着ている学生を見かけたもんね。 例年だと、11月の終りくらいに、「そろそろコートを着るか、それとも12月の声を聞くまで我慢するか」なんて悩むのですけど、今年はその悩みが一か月早まりますな・・・。 かく言うワタクシ、今日はついに私の冬の装いパターンであるコーデュロイのジャケットを着てしまったという。 ああ、今年もコーデュロイを着る季節となりましたか。 でも、さすがに厚手のジャケットだけに、着れば暖かく、肌寒さも何のその、という気になってくる。もちろん、もう少しするとこれだけでは足りなくなるんだろうけれども、今のうちはまだ、ね。 今日はコーデュロイの懐かしい肌触りを楽しみながら、早くも晩秋の装いを楽しんでいたワタクシだったのでした。
October 25, 2021
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竹田誠二という人の書いた『テイヤール・ド・シャルダン』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう・・・と言いたかったのですが、残念ながら、これはそういうレベルの本ではありませんでした・・・。 テイヤール・ド・シャルダンってのは、フランスのイエズス会士で、かつ考古学者であり、北京原人の発見者の一人(ウィキペディア)であり、ゆえに進化論者なんですな。実際、進化論者のジュリアン・ハクスリー(オルダス・ハクスリーの兄ちゃんであり、「ダーウィンの番犬」と呼ばれたトマス・ヘンリー・ハクスリーの孫)の友達だったそうだし。 はい。この時点で面白い人物であるわけですよ。だってイエズス会士でありながら進化論者って・・・。聖書によれば、神は天地創造の時点で完璧な人間を創ったんじゃなかったの? 聖書を信じるなら、進化論はありえないし、進化論を信じるなら、神による天地創造はありえない。なのにその両方の信者であるって、どゆこと? ま、そのこと自体、超興味深いのですが、私としてはテイヤール・ド・シャルダンという人が「神秘主義的進化論」を奉じていたという点に関心があるんですな。と言うのも、「人間を含む宇宙は、神という収束点(彼自身の言葉を使うならば「オメガ点」)に向って進化している」という考え方って、アメリカ1970年代のニューエイジ進化論に近いものがあって、それがこの時代のアメリカ文化の中に彼の名が意外に浸透していることの理由なんじゃないか・・・なんてことを推測しているから。 で、その謎を解くにはテイヤール自身が書いた『現象としての人間』を読めばいいんだろうし、そうするつもりではあるんだけど、その前に軽く予備知識を仕入れておこうと思ってこの本を読んじゃったのが運の尽きだった、っていう。 そもそも本書の著者の竹田氏は、テイヤール・ド・シャルダンの研究者じゃない。東京農大(国立の東京農工大じゃないよ)を出た高校の生物の先生か何かで、いかなる意味であれ、著名な神学者/思想家の生涯を語る資格がない。 でまた、小学生相手におとぎ話でもするのかというような書き出しから始まって、段々混迷を増し、ほとんど意味をなさない文章を羅列し出すありさまで、この人に本を書く能力がないということは火を見るより明らかなのね。 例えば、本書に並べられた次のような文章から、読者は一体、どのような意味を汲み取ればいいというのでしょうか?:〇そして数年後、カモシカの歯の裏に付着した一個の人間の歯が、中国に渡ったテイヤールによって発見されました。そのような関係で、ヨーロッパ各地の旧石器遺跡を広く調査していたテイヤールを、中国に招いたのです。〇ミサでのパンとぶどう酒による聖変化は、宇宙をご自分の栄光に与えて欲しいという神への熱い思いを示しています。聖書と地球が語っている神の壮大なプロセスの中で、ミサは、進化と神秘の秘跡であることに、テイヤールは気づいたのです。〇総合に向かう宇宙の形成は、盲目的なエネルギーの発展ではなく、複雑化と同時に起こる意識化を通じて、人格的なものに向かい、より人格的な完成を目指すものです。その潮流自体が達成されるのは、単に生命的なものにとどまらず、ある熱烈な信仰という熱エネルギーがどうしても必要となります。〇創造と受肉の普遍性について、古生物学者としての東洋を経験したテイヤールは、西欧文化の中にあるダイナミズムのみが、究極的に想像と受肉によって、再臨に向かう前進を通しての超越と考えていました。キリスト教が、明日の宗教に変貌するために、このダイナミズムの根源を、よく見るように繰り返し強調しています。〇人間の信仰をキリスト教化することは、宇宙の収斂する特性を明るみにすることです。このことは、テイヤールの「神の場」について、最も大きな啓示でした。このテイヤールの考えは、極めて独創的な仕事を問題にしていました。〇神は、自己の存在を主張することによってこそ、三位一体の形で、自己に対して、相互的関係を持っています。自己中心でなく、自己の正反対の地点に、各種の対立を出現させないというのには、何の価値もないけれども、このものの結合作用を受容されるという潜在的な性質によって、存在の可能性があり、多数性多様性とについてのビジョンこそ、根本的なビジョンであるといいます。 まあ、武士の情けでこれ以上は止めておきますが、上に挙げたような感じの、日本語ではないし、意味もなさない文章の羅列にどこまで耐えられるか、というのが、この本を読む読者に突きつけられたチャレンジなのであります。 でまた、誤字・誤記を指摘し始めたらきりがなく、誤解の類も果てしがない。例えば、アメリカのグランドキャニオンのことを「ユダ州東部」などと書いていますが、「アリゾナ州北部」の誤りね。そもそも「ユダ州」なんて州はアメリカにはないし。イエス様にもゆかりの深い「ガリラヤ」なんて地名も、「ガラリヤ」なんて書いてある。人名もすごくて「オッペン・ハイマー」なんて書いてあるけど、これはひょっとして「ロバート・オッペンハイマー」のことなのか?? 構成もひどくて、全体でわずか170頁しかない小冊子であるにもかかわらず、「テイヤールがどこそこで生まれました」というバースデー・ストーリーが「7頁」と「138頁」と「152頁」の3回出てくる。つまり170頁の小冊子の中に、テイヤール・ド・シャルダンの伝記が3度繰り返されるのね。信じられないわ~。 しかもね、テイヤールが古生物学者として、あるいは考古学者として「北京原人」の発見に寄与した、という話は、3回の伝記の中で一回も出てこないという・・・。そこ重要なのに~。 で、そういう肝心な話は出てこないのに、自分が中国の万里の長城を訪れた時の話とか、そういうどうでもいい個人的な思い出話はちょくちょく出てくるっていう・・・。 はあ~。こんな本を世に出すというのは、犯罪行為に近いと思う。読み始めて5分後にそのことに気が付いたものの、逆に、あまりにもひどいこの本の有様に興味が出てきて、どこまでひどい本なんだろうという関心から、最後まで読んじゃったけどね。まあ、自業自得とは言いながら、その時間、返して欲しいわ。 ということで、秋の夜長、久しぶりにトンデモ本を読んでしまって、最悪の日曜の終わり方になってしまったのでした。もう、『鬼滅の刃』でも見て、気分直しでもしなくちゃやってられないわ~。これがその「冗談としか思えない奇書」 ↓テイヤール・ド・シャルダン【1000円以上送料無料】
October 24, 2021
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ゴーピ・クリシュナが書いた『クンダリニー』(原著:Kundalini, The Evolutionary Energy in Man, 1970)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 「クンダリニー」、あるいは「クンダリニー覚醒」というのは、ヨガ系の本とか、チャクラがどうのこうのという系の本を読むとよく出てくる用語でして、あるいは臨死体験系の本でも「臨死体験によってクンダリニー覚醒が起こるのではないか」的な文脈で出てくる話なんですけど、実際のところ、どういうものなのかしら?と思って、この本を読んでみたと。 で、本書『クンダリニー』は、クンダリニー覚醒を実体験した人物による自伝でありまして、実際にクンダリニー覚醒が起こるとどういうことになるのか、実体験した人物の口から聞くことができるという意味で、非常に稀有な書物ということになる。何となれば、クンダリニー覚醒については、古いヨガ系の本などに神秘のベールをまとわせた形で曖昧にほのめかされる程度で、実際に最近それを実体験した人の話というのはほとんど存在しないから。 さて、で、クンダリニー覚醒を体験したゴーピ・クリシュナ(1903-84)とは果たしてどんな人物なのか。ヨガの行者なのか、はたまた仏教とかヒンドゥー教の高僧なのか? と思ったら、ただの役所勤めの小役人でした。 ゴーピは、神童とかそういうのではなく、まあそこそこ賢い子として少年時代を過ごすのですが、宗教的傾向はほとんどなく、むしろ宗教上の言説は科学的考察に耐えられないだろうと考える無神論的な傾向すら自ら助長するようなタイプの少年だったと。で、それに加えて教育熱心だった母親の期待を一身に担うのが重荷となったのか、17歳で大学生だった時、学業と関係ない本にうつつを抜かした結果、進級試験に落ちて落第するんですな。で、自分に期待してくれていた母親には申し訳ないし、自分自身不甲斐ないしで、あれこれ悩んだ結果、己を律するための一つの方策として瞑想を始めるわけ。 と言って、どこかの寺で修行してとか、そういうのではなく、いわば本で読んだりした知識に基づき、自分流に結跏趺坐して、夜明け前に瞑想をし、あとは役所勤め(カシミール州公共土木局)のサラリーマンをやるという、ごく普通の社会人だったと。 ところが瞑想を始めて17年が経ち、34歳となった頃、いつものように通勤前のひと時を瞑想に費やしていた時、突然、クンダリニー覚醒が起こったと。その様子は以下のようなものだったそうです:「私は一点の意識となり、広々とした光の海の中にひたっていた。視界がますます拡がっていく一方、通常、意識の知覚対象である肉体が遠くどんどんひきさがっていって、ついに全くそれが消え去ってしまった。私は今や意識だけの存在になった。身体の輪郭もなければ内臓もない。感官からくる感触もなくした。物的障害がまるでなくて、四方八方にどこまでも拡がる空間が同時に意識できるような光の海につかっていた」(7)。 ふうむ、クンダリニー覚醒が起こると、こういう感じになるわけね・・・。 で、これはまさに至福の体験だったそうなのですが、じゃあ、クンダリニー覚醒を体験した人は、その後、とっても幸せになれるのかというと、実は全然違う。もうね、この直後から、ゴーピは七転八倒の苦しみを体験することになります。 端的に言えば、体調の悪化。疲労感は半端なく、体力は無くなり、いかなる意欲も無くなり、食欲も失せてとにかく何も食べられないのでやせ衰え、ゴーピは生死の境をさまようことになるんですな。と言って医者に診て貰っても原因不明で手をこまねくばかり。また、当然、ヨガの本とか、そういうのをむさぼり読んで、古のヨガ行者たちがクンダリニー覚醒をした時にどう対処したか、というようなことを知ろうとするのですが、そんなことを書いた本は一つもなかった。で、結局、ミルク一杯とか、パンを一切れとか、そういったごく少量の食物を2,3時間おきとか、そういう頻度で規則正しく取れば、体の拒絶反応なく食物を体内に入れられるというようなことを自身の身体と相談しながら模索しつつ、ようやく生命の危機を脱するといった始末。 で、そうやって一旦は命拾いしたものの、精神的にも異常をきたし、仕事には身が入らなくなったことをはじめ、妻や我が子に対する愛情すらも感じられなくなるなど対人関係もおかしくなり、そういう面でも塗炭の苦しみを体験することになる。 しかし、ゴーピは真面目な人なので、そういうのもあれこれ自分なりに模索しながら回復に努め、数年かけて身心の健康を取り戻すわけ。そして、不調の間、瞑想的なことをしようという気にもならなかったのですが、健康の回復と共に、また瞑想をしたいという気分も取り戻すようになり、ついうっかりまた瞑想しちゃうと。 そしたら、またクンダリニー覚醒して至福体験をするんですけど、その後、またもや生死の境をさまようようなことになる。 なんかね、この自伝を読んでいると、クンダリニー覚醒ってのは、果たしてそれを体験した人間にとって幸福なことなのか、疑問に思えてくるというね。むしろ罰ゲームみたいじゃない? でも、まあ、そういうとんでもない心身の不調に襲われながらも、クンダリニー覚醒をしたことによって、ゴーピの認識力はアップします。 具体的に言いますと、自分の頭辺りから後光が射しているのが分かるんですと。それから、目にするものすべてが銀色に輝くようになり、実相界の在り様の一端が常に見えているような認識力を獲得したと。ただ、言ってもその程度のことでありまして、ゴーピの場合、クンダリニー覚醒の結果、千里眼を獲得したとか、未来予知ができるようになったとか、病人を治せるようになったとか、そういう超能力を獲得するようなことはなかったのだそうで。 でも、とにもかくにもクンダリニー覚醒をした人間として、一体、自分の中で何が起こったのかを理解しようとゴーピは努めるんですな。そして自分自身の実体験の中から、おそらくこういうことが起こったのだろうということを解明する。 で、それによると、どんな人間にも尾てい骨の突端、生〇器の奥辺りに、クンダリニーと呼ばれる一種のエネルギーが三重にとぐろを巻いた蛇のような形で存在していると。で、普段はそれは眠っている状態なんだけれども、瞑想修行の結果であれ、あるいは人によってはそんな修行をしなくとも、何らかのきっかけで覚醒することがある。で、クンダリニーが活性化すると、背骨の脇辺りを通じて脳天の方にエネルギーの塊が一気に駆け上り、脳髄にドカンと急激なエネルギー充填が起こる。 で、脳髄がこの急激なエネルギーの高まりに耐えられないと、発狂してしまったりする。ハタ・ヨガの実践者が特異な身体の鍛え方をするのは、いざクンダリニー覚醒が起こった時の衝撃に耐えられるだけの体力を保持するためだったんですな(133頁)。で、ゴーピの場合、そこまでの準備もないまま、突然クンダリニー覚醒が起こってしまったので、あのような心身の異常が起こって生死の境をさまようことになったのだと。 ちなみに、クンダリニー覚醒について云々する書物には、身体に備わる6つのチャクラが順に一つずつ開いて行って・・・とか、そういう説明をしているものも多いけど、実際にクンダリニー覚醒したゴーピに言わせると、あのチャクラがどうのこうのというのは、実際に起こることとはあまり関係がないらしい。確かに、その瞬間は背骨に沿って存在するいくつかの神経叢が、駆け上がるエネルギーの奔流に触れてまるで蓮の花の千の花びらが開くように開花していくように感じられるので、そのような説明になるのは分かるけれども、それは実体験を不完全な言葉で描写するとそうなる、というだけの話で、最初にチャクラありき、のものではないのだとか。 ところで、ゴーピの自己観察によると、クンダリニー体験というのは、明らかに人間にとっての「進化」の過程だというのですな。 ゴーピによると、クンダリニー覚醒が尾てい骨の突端、生〇腺の周辺から発生するというのは故無きことではなくて、そもそも進化というのは新しい子孫を生み出すことから来るわけですから、生〇線が重要な役割を果たすのは当然であると。 で、具体的に言えば、生〇腺の分泌が異様に増え、それが原材料となってある物質が精製され、それが進化しつつある体の変化のためのエネルギー源として使われると。その辺り、ゴーピ自身の説明を読んでみましょう: 「私は脊椎下部に、身体全体につながっている神経を刺戟している急速で微細な動きをはっきり感知していたが、これにたいする私の考え方はこうである。つまり、目に見えないある機構の働きで、休眠状態にある器官が、それまで何ともなかったところで急に機能し始め、〇液を高力価の光輝く微細な生命素子に変換させ、脊髄にそう気道や神経線維などを通して、他の方法では達しえない頭脳をはじめ諸器官に送り、それぞれの細胞を賦活させたにちがいない。/(中略)普通人の場合、その中心は固いつぼみの状態にあって、生〇腺からの分泌物にごく微量含まれている高力価の神経滋養素でつちかわれており、通常の生〇器機能に干渉することはない。しかし、進化した個人の場合、その中心が完全に開花して、既存の意識中枢にかわって機能するように仕組まれていて、その活動を維持するためには以前より強力は生命エネルギー源が要求されるので、神経細胞の働きにより特殊器官でごく微量ずつ抽出されては、すぐさま脊椎管を通じて頭脳に輸送されるらしい。/もし、その中心が事故などで機の熟す前に機能しはじめたりすると、神経連絡路が十分整備されておらず、また繊細な脳細胞もまだ強力な生命素子の流れに慣れていないために、破滅的自体が起こる可能性がある。その場合、身体の敏感な組織が回復不可能な損傷を受け、その結果、奇妙な病気になったり、気狂いになったり、あるいは死にいたることさえある。/この種の緊急事態において、破局を避けるために自然に具わっている唯一の道は、〇液に含有されている高貴成分をふんだんに使う以外にはない。その精製成分は、頭脳や神経組織や主要臓器に送りこまれると、事故で損傷したり、死滅しそうな細胞に、肉体の中で生命を救う最も強力な回復滋養剤としての役割を果たすのである」(166-8)(その他、157頁も参照せよ) ホントかね? じゃ、女性の場合はどうなんだろう? まあ、それは置いておいて、先を続けますと、かくしてクンダリニー覚醒をしたゴーピが進化した人間として何か特殊な能力を発揮したかと言いますと、あまりそういう事はないのですけど、一つだけ、一時期、詩を作るようになった、ということがある。 ゴーピはもともと詩を作るような文学青年でもなかったのですが、クンダリニー覚醒体験の後、ある時期、急に詩が作りたくなって、下手な詩をひねっていたんですと。 と、その内、突然、詩の一節がゴーピの前に、それこそネオンサインみたいに降ってきたと。それはゴーピが自分で作るような下手っぴな詩ではなく、すぐれた詩だったというのですな。 で、最初はゴーピの言語たるカシミール語で詩が降ってきたんですけど、そのうちに英語の詩が降ってくるようになり、次にウルドゥ語、パンジャブ語、ペルシャ語となり、ついにはドイツ語の詩が降ってきたと。ゴーピは、カシミール語、英語、ウルドゥ語、パンジャブ語、ペルシャ語までは何とか分かるのですが、さすがにドイツ語は習ったことがないので、最初は面食らうんですけど、とにかくドイツ語の詩が降ってくるんだから仕方がない。で、その後さらにフランス語、イタリア語、サンスクリット語、アラビア語の詩が降ってくるようになったと。(214-225) ま、これはちょっと「生まれ変わり」言説で出てくる「異語」の話に近づいて来るわけですよ。習ったこともない言語を突然話し出すという。つまり、人間の言語というのは、その人が習ったり学んだりするから話せるようになるのではなく、宇宙の中に「知識の源泉」みたいなものがあって、そこにアクセスするから話せるようになるのであって、根源的にはどんな人間でもあらゆる言語を話せるはずだ、っていう一つの例なわけ。 ま、そうは言っても、降ってくる詩は一部分なもので、それを完成させるためにはそれ相応のエネルギーが要求されることもあり、ゴーピはその後、詩人として立つ、ということはなかったんですけど、このこと一つとっても、この世の天才というのは、本人が自覚するしないは別として、部分的にでもクンダリニー覚醒した結果、宇宙の叡智にアクセスできるようになった人物の謂いである、というのが、ゴーピの確信になっていくと。 で、ならばクンダリニー覚醒するのは、人類の中でもごく一部の選ばれた人たちだけなのかというと、ゴーピ自身はそう考えてはいない。というのも、ゴーピ自身、自分が平凡な人間であることを自覚しているからで、基本、誰でもクンダリーニ覚醒することは出来ると考えているんですな。 で、そういう風に、仮に世界中の人たちがクンダリニー覚醒したら、もう、天才は天才としての働きをするし、凡人は凡人で、宇宙の真理を知り、(戦争や原爆の開発などを続ける)従来の人間の愚かさから脱することは出来るので、世界全体が進化することになる。それこそが、ある意味、宗教の本当の意味なのであって、ならばどうすればクンダリニー覚醒するのか、安全に覚醒するための方法は何か、といったことを、今こそ、真剣に、科学的に探究すべきなのではないか――これが、覚醒体験をしたゴーピが世間の人々に広く伝えたいメッセージであると。本書はこの事を伝えるために書かれたのであり、ゴーピは役所勤めを辞め、クンダリニー覚醒の意義と方法を伝えるための活動に従事するようになるんですな。 とまあ、本書の内容はこんな感じ。 でね、私が思うに、ゴーピがクンダリ二ー覚醒して、大変な思いをしていた頃ってのは、第二次世界大戦の前夜であり、またその後であるわけね。だから、当然、原爆のことも知っていたし、インド国内の民族紛争なども、地方の役人として対処を迫られ、自分の親族もそうした部族紛争の結果、辛酸を舐めたわけですよ。そういう人間の愚かな所業を一方で見ていたことが、このままじゃいかん、人間はもっと進化して、愚かな状態を脱しなければ、という風な思いにつながり、それが自身のクンダリニー覚醒体験とつながって、「人間の進化」というものに思いを馳せるようになったと。 だから、ゴーピの考える「人間の進化」というのは、非常に個人的なわけね。個人が、一人一人の人間が個別に進化することにより、社会全体が進化できると。 はい。この考え方は、何かに似ております。そう、アメリカ1960年代の、ヒッピーたちの「意識改革/意識拡張」の考え方にそっくり。 ヒッピーたちは、当初、LSDなどの薬品を使って意識拡張し、宇宙の真理を悟ることで、社会全体が進化するだろうと考えたわけですが、その頼みの綱のLSDが違法化されてしまう。だもので、それに代わるものとして、アメリカでは1970年代に入ってヨガとか、瞑想とか、ボディワークとか、合気道とか、そういうのが流行し、若者たちはその大本である「東洋思想」というものに傾倒していくわけですが、そんな中、ゴーピ・クリシュナの「クンダリニー覚醒」についての体験記が1970年に出版されたわけでしょ? 当然、飛びつきますわな。 ま、そういう流れの中で、個人改革によって社会改革を成し遂げるというヒッピーの夢が、1970年代の「ポストLSD時代」に、東洋思想という形をとってアメリカ社会に流行していった。まあ、そういうことだったんじゃないでしょうか。 ということで、この本がアメリカ社会に対して与えたインパクトの意味とか、そういうことが分かったので、私としては読んで非常にためになる本でありました。これこれ! ↓クンダリニー [ ゴーピ・クリシュナ ]
October 23, 2021
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仕事の合間にこんなYouTube映像を見つけちゃった! これは凄い。何事にせよ、プロの技ってのは、素晴らしいものがありますな。これこれ! ↓驚くべきプロの技の数々
October 22, 2021
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今年前半のワタクシの労力の大半を費やしたと言っても過言ではない恩師本ですが、販売が開始されてようやく1週間。 既に読まれた方からは、ほぼ絶賛に近い賛辞を得ております。中には過去に私が出した本の中で一番好きだと言ってくれる人もいたりして、私としては嬉しい限り。 ・・・なんですが、結局、「既に読まれた方」というのは、私の友人や先輩であり、私と恩師の両方を知っている人達ですから、ある意味、この本を面白いと思ってくれるのも当たり前というか・・・。 だから、やはり問題は、私のことも知らなければ恩師のことも知らない、そういう一般読者が、一人の学者とその弟子の物語をどう読んでくれるか、って言うことに尽きる。果たしてそういう一般読者にとっても、この本は面白いものなのだろうか?? ということもあって、私としてはこの本の一般読者の評判が非常に気になるんですわ。もちろん、何としても高評価を得たい、そうでなければ恩師に申し訳が立たない、っていうところがあるのでね。だから、ついついこの本の評判が気になって、エゴサーチしちゃったりして。 ということで、いつもはあまりそういうことはしないんですけど、ここでもう一度、自己宣伝を。この本、傑出した文学者の激烈な人生の跡をたどったものとして面白いはずですので、是非、お買い求めになるか、地元の図書館にリクエストを入れて下さいませ!これこれ! ↓エピソード アメリカ文学者 大橋吉之輔 エッセイ集 [ 大橋 吉之輔 ] とはいえ、こんな風に、既に終わった仕事に拘泥するのは学者の態度としてはあまりよくないんですよね。学者の本分は研究なんだから、一つの仕事が終わったら、ちゃっちゃと先に進まなくちゃ! ということで、夏休み前からずっと資料を読んできたあるテーマについての論文を、今日、ようやく、重い腰を上げて書き始めた次第。とりあえずは、フローチャートを作り始めたんですけど、出だしは好調。何となくスラスラと筆が進んでおります。 もっとも、いつもそうなんだよな! 最初はスラスラ行くのよ。で、途中のどこかで壁にぶち当たると。そこからののらりくらりの七転八倒が辛いのであって。 でもまあ、とにかく、最初の一歩は踏み出したぞ。週末も頑張って、歩を進めて行きましょう。
October 21, 2021
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エーリッヒ・フォン・デニケンが書いた『未来の記憶』(原題:Erinnerungen An Die Zukunft, 1968)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 先日、グラハム・ハンコックの『神々の指紋』という本のことを本ブログに書きましたが、フォン・デ二ケンのこの本は、『神々の指紋』のネタ本というか、先行作品とも言うべき、科学的偽史本と言いますか、オカルト的トンデモ本でございます。 まあ、書いていることはハンコックのそれと似ていて、人類の古代遺跡などから伺われる古代文明は、ある意味、現代の科学技術すら超えているところがあると。しかも、いくつかの遺跡に描かれた図像や、聖書を含む神話的文書に、明らかに宇宙船や宇宙人来訪の記録と思えるものが残っていると。 実際、そういう古代遺跡には、アポロ宇宙船の飛行士たちが身に付けた宇宙服そっくりに描かれた「神」の絵や、ロケットそっくりの乗り物の絵などが描かれているのに、現代の考古学者や科学者は、それが実際に地球に来訪した宇宙人を描いたものだ、という風に仮定してみようとすら思っていない。 だけど、もしこれらの遺跡の絵が本当に宇宙船であり宇宙人であると仮定し、彼らが地球人に高度な文明を伝えた(あるいは、類人猿/未開人に彼らのDNAを植え付け、ホモ・サピエンスを作り出した)と考えれば、古代に高度な文明が突然現れたことなどの説明がすべてつくのではないか? ま、これがフォン・デニケンの主張ですな。 なにしろこの本が出版されたのは1968年ですから、アポロ11号の月面着陸の前年です。宇宙旅行というものが現実味を帯びてくると同時に、宇宙に関する科学者たちの、そして一般人の興味・関心がマックスになっていた頃ですよ。そういう熱い時期に、「宇宙には、地球人以外にも知的生命体が存在するんじゃないのか?」ということを、一般人にも分かりやすい形で言い出したわけですから、この本が世界中で売れたのも分からないではない。フォン・デニケンに言わせると、この本(及びその続編)は32か国語に翻訳され、全部合わせると6300万部が売れたってんですから、『神々の指紋』以上の超絶ベストセラーだったわけでありまして。 とはいえ、ウィキペディアの情報によりますと、このフォン・デニケンという人は各種詐欺行為で入獄もしたような、かなりいかがわしい人であったらしい。ので、6300万部が売れたとかいうのも「本当か?」というところもあるのですが、就職先のホテルの金を使い込んだ(その金で本書を書くための旅行をしたそうですが)、その借金も本書の印税で弁済したそうですから、ある意味、大したもの。 とまあ、色々インチキ臭いところはあるんですけれども、1968年という出版年も踏まえた上で言えば、確かに当時として(あるいは今読んでも)かなり面白い本であっただろうな、という気はする。 確かに、フォン・デニケンが言うように、もし、人類の文明の黎明期にですよ、高度な文明をもった宇宙人が宇宙船に乗ってやってきて、古代人の前で圧倒的な武力をデモンストレーションして見せたとしたら、その古代人は、その驚きをどう表現するか。壁画に宇宙船と宇宙人を描く、「神」が空から降臨したと神話の中で語る、神としか思えない宇宙人に言われた通りに、自分たちの暮らしを変える、ってなことになるんじゃないでしょうか? で、その宇宙人がその後も定期的に地球を来訪し、自分たちが伝えた文明の進展を観察し、それが意に添わぬものであったとしたら、その民族をまるごと抹殺するかして一度チャラにし、あらためて実験をする、などということもあったのではないか? そしてその大殺戮が、生き残った古代人の手で、終末的な神話としてさらに伝えられたのではないか? そんなことも絶対になかったとは言えないし、少なくとも現代の考古学では説明のつかないことの上手い説明にはなっているわけで、ならばこれを一つの仮説と考えて、それを追求するというのも、科学や学問のあるべき形なのではないかと。アホな空想として一顧だにせず無視するのではなしに・・・。 ま、ワタクシとしては、別にフォン・デニケンの肩を持つつもりはなくて、ただ、この時代にこういう宇宙人言説が現われたということ(それは歴史上の事実なわけだから)、またそういう言説の人気が高まったということの背景に、現実世界への飽きたらなさと、現実世界に対するオルタナティブへの希求という機運があったのではないか、そしてそれは、いわゆるニューエイジ思想の一端なのではないか、ということに興味があるだけなんですけどね。 で、そういう観点からすると、フォン・デニケンのこの本、結構面白い。しかも、1935年生まれの彼はまだ存命で、しかも、リドリー・スコットの2012年の映画『プロメテウス』は、フォン・デニケンの言説の影響を受けていると、スコット自身が認めているというのですから、なおのこと面白い。その意味で、この本、教授のおすすめ!と言っておきましょう。
October 20, 2021
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今、名古屋辺りでは、お昼の時間に『鬼平犯科帳』の再放送をやっているのですが、これ、つい見ちゃうんですよね・・・。 まあ、私なんぞの子供の頃は、月曜から日曜まで、大概の放送局でゴールデンタイムに時代劇をやっていたものでありまして、それこそ『銭形平次』、『大岡越前』、『遠山の金さん』、『木枯し紋次郎』、『月影兵庫』、『三匹の侍』、『子連れ狼』、『水戸黄門』、『大江戸捜査網』、『必殺仕置人』とか、まあ沢山あったもんですよ。 で、まあ、それぞれに面白かったんですけど、今思い出してみて、これらの中でもう一度観たいと思うものがあるかというと・・・うーん、あまりないかも。 だけど・・・。 『鬼平』だけは、今見ても面白いんだよね。 で、どうして『鬼平』だけ別格に面白いのかと考えるんですけど、ううむ、やっぱり、中村吉右衛門の魅力かなあ。 ハンサムかどうか、という点から言えば、大岡越前の加藤剛とかの方がよほどハンサムだと思うのですけど、中村吉右衛門の何とも言えない人間的魅力が、つい、見たいという気を起させるんだよね・・・。人間世界の明るい部分も暗い部分もぜーんぶ知り尽くした上での度量のでかさ、というかね。まあ、簡単に言えば、「いい男だねえ・・・」っていうことになるわけで、まさに男が惚れる男。となれば当然女も惚れる男であるわけで。 もちろん、最後のジプシー・キングスによるテーマ・ソングもいいんだけどね。時代劇にジプシー・キングスを使ったことだけでも、スタッフを褒めたいわ。 そうね、いずれ定年で引退したら、『鬼平犯科帳』のDVD・ボックスセットでも買って、飽くほど見尽くそうかな。全巻セット【中古】DVD▼鬼平犯科帳(73枚セット)第 1、2、3、4、5、6、7、8、9 シリーズ▽レンタル落ち 時代劇
October 19, 2021
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グラハム・ハンコックが書き、全世界で600万部が売れた大ベストセラー『神々の指紋』(原題:Fingerprints of the Gods, 1995)を読了したので、心覚えをつけておきましょう。ちなみにグラハム・ハンコックってのはイギリスのジャーナリストですが、1950年生まれで、世代から言うとバリバリのベビーブーマーですな。 さて『神々の指紋』なんてタイトルからして、噴飯物のオカルト本なのかと思って読み始めたのですが、そこまでのオカルトではなく、一応、科学的な根拠も提示している本ではありましたね。 じゃあ、どういうことを言っておる本かと言いますと、マヤとかエジプトとか、いわゆる古代文明の跡ってのが世界各地にある。で、特にエジプトのピラミッドが顕著な例ですが、あれをどうやって作ったのかは、いまだに謎な部分が多いわけですな。実際にあれと同じものを作ろうとしたら、現代の最新の建築技術をもってしても相当苦労することになるし、ほとんど再現不能と言ってもいい。 しかも、我々が「ピラミッド」だと思っているあのピラミッドの前後にも、ピラミッドは作られているんだけど、そういうのは作り方が下手過ぎて、今は瓦礫の山になっている。もし通常の文明の進化通りにあれが作られたのなら、あのピラミッドが作られる前に相応の準備段階があっただろうし、さらにあれを作った後、同等かそれ以上の建築技術が維持されたはずなのに、そうなってないと。 つまり、突然、アレを作る技術がポーンと出てきて、その後廃れたと。それは一体なぜなのか。 常識的に考えれば、あの技術は、エジプト文明の中で発展してきたのではなく、どこか他所から、他所の遥かに進んだ文明の使者から伝えられたとするのが一番納得いくのではなかろうか? さて、こういう話になると、「ははーん。ここで異星人が地球にやってきて・・・という話になるんだな。で、その異星人が、神話に記された『神』なんだ」と思うじゃん? でも、意外なことに、ハンコックはそういう結論には飛びつかないんだなあ。その代わり、失われた高度な文明が地球のどこかにあったはずだ、という推論には行きつくのね。さて、そうなると異星人に続くあるあるで、「アトランティス大陸が・・・」とかいう話になるに違いない・・・。 ところが、ハンコックは、アトランティス大陸とか、そういうのが存在しない、ということは、科学的調査の結果から見て明らかだと言い切る常識は持っているんですな。 だけど、高度な文明を持った人類が居たはずだ、という考えは捨てない。となると、この地球上に、高度な文明が存在し、かつ、まだ発見されていない大陸があるはずだ、ということになる。 で、ハンコックは、「それは南極大陸だ」と結論づけるわけね。今は氷漬けになっていて、調べるわけにもいかないけど、1万年以上前には、そこに高度な文明があったであろうと。 じゃあ、その文明はどうして失われたのかというと、おそらくは地殻変動によるものに違いないと。 かつて南極大陸は温帯にあったんだけど、それが地殻変動で位置がずれて極地に位置することになってしまった。それで急激に氷漬けになって、文明が滅んだと。もちろん、この時、地球規模の地殻変動によって全世界的に気候の変化や地震・火山の噴火、そして大洪水が起こったはずで、それは世界各地の神話に共通して残る「ノアの箱舟」的な神話の裏付けであろうと。 ま、そういうことが全世界的にあったわけですが、その中で南極大陸にあった高度に進化した文明の担い手たちは船に乗って世界各地に散り、そこで高度な文明を広めた。その結果出来たのが、マヤ文明(実際にはマヤよりもっと古い文明)であったり、エジプトの文明であると。エジプトの古代文明の跡からは、船が出てきたりするし、またピラミッドと天文学との関係からして、この文明が航海技術に長けた人々によって創られたことは間違いなく、それはエジプトのような内陸の土地からは生まれようがないので、やはり船に乗ってやってきた人々から伝わったとしか考えられない、とハンコックは言うんですな。 で、そう考えると、「あの」ピラミッドやスフィンクスが作られた年代というのは、現在のエジプト考古学の研究者がとなえる定説よりもはるか前、紀元前1万年以上前ということになるのだけれど、スフィンクスに残る風化の跡(それは明らかに豪雨によって作られたのであって、エジプトに豪雨が降った時期を考えると紀元前5000年ということはない)からすると、やはりその1万年以上前、という説の方が、現在の考古学の推定より正しいのではないかと思われると。 それに、1万年以上前ということになると、ちょうどその頃は、スフィンクスの像の真正面にしし座が昇るのであって、そのこととも符合する。もし現在の考古学の推定通り紀元前5千年にスフィンクスが作られたのであれば、その頃はおうし座が真正面に昇っていたのだから、スフィンクスもまたライオンの像ではなく、雄牛の像になっていたはずだと。 で、ではピラミッドとは、一体何なのか、ということですが、エジプト考古学は「ファラオの墓」と言うけれど、ハンコックはそうではないだろう、と推測する。ピラミッドは非常に数学的に作られているので、あれは言語に拠らないメッセージに違いないと。つまり、かつて高度な文明があったけど、それは地球上の天変地異によって失われてしまった。それと同じことが繰り返されるはずだから、気をつけろ、というメッセージに違いないと。 で、じゃあ、次の天変地異はいつ来るのかというと、2160年周期で考えると、魚座の時代(春分の時に太陽が昇る真東に現れる正座が魚座だった時代)から、みずがめ座に代わる時だろうと。 つまり、今、だろうと。 実際、神戸の大地震を含め、今、世界のあちこちで天変地異が見受けられる。これは来るべき次の大災害の前兆なのではないか? だとしたら、現代文明の担い手である我々は、人類の大半が死ぬような大災害に備えつつ、この文明の在り様を1万年後の新人類に伝えるためのメッセージを残すことを、そろそろ考え始めておくべきなのではないか?? とまあ、それがハンコックがこの本を通じて読者に託しているメッセージなのであります。 というわけで、結局、「アポカリプス、ナウ」という本なのであって、典型的なベビーブーマーの世代にはびこる終末思想の一例と。まあ、そういうことになるわけですな。 で、通読して感じたことは、ベストセラーの割に、非常に要領悪く書いてあるということ。もっとサクサクと、「失われた大陸アトランティスは、実は南極だった!」とか、「ピラミッドを作ったのは、現代よりも進んだ文明を持った古代人だった!」とか、そういう眉唾のことを書いてある本なのかと思ったら、意外にぐずぐず、ダラダラ、あーでもない、こーでもないって具合に書いてあるんですわ。ある意味、退屈な本。よくこんな調子でベストセラーになったな・・・。 あと、そういうぐずぐずの書き方ではあるものの、内容的にはまともなところがあって、むしろ現代のエジプト考古学とかの専門家が、いかに根拠の薄い定説に固執しているか、というハンコックの批判は、それなりに傾聴すべきところがあるのではないかと、素人ながらに思わされるところはある。実際にどうなのかは分からないけれども。ウィキペディアなんかを見ると、「ハンコックの説なんか、誰もまともにとりあげちゃいない」ってな批判的なことが書いてありますけどね。 というわけで、大部な本ですが、読んで面白く無くはない本ではありました。それに、ベビーブーマーの終末思想の例として、そのあたりのことを述べるのに必要なものではあったので、私としては読む必要があったわけだし。そういう意味で、読んで無駄ということはなかったですね。これこれ! ↓【中古】神々の指紋 上・下巻セット
October 18, 2021
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なんかさあ・・・寒くない? この間まで「気温30度、10月とは思えぬ暑さ」とか言っていたのに、急に寒くなってきた。嫌だねえ、最近の日本って。夏の後に冬、冬の後に夏じゃん。春とか秋とか、ちょうどいい季節ってのはないのかねえ? とはいえ、寒くなればなったで、楽しみなものもある。 今日、我が家の夕食は今季初のおでん。夕方、近所のスーパーに材料を買いに行ったのですが、考えることは誰も同じというべきか、おでんの材料が山積みになっていて、多くの人が買っておりました。 秋から冬にかけて、我が家では週末に鍋物をすることが多いのですが、そろそろそういう時期になってきたのかな。なんだかんだ言って、もう10月も後半、今年も残すところ二ヵ月半だからね。 さてさて、このところ私が個人的に推しております、大橋吉之輔先生のエッセイ集『エピソード』ですが、まあ、数日前にアマゾンでの販売が始まったばかりということで、今のところ売れているんだかいないんだか、さっぱり分からない状態。これでメディアに書評が載ると、大分違うのですが、書評ってのは本の販売が始まってから二、三カ月経たないと出始めないもので、当分先の話。 でもまあ、本ブログでは時折、宣伝がてら載せさせていただきます。いい本なので、皆さん買ってね!これこれ! ↓エピソード アメリカ文学者 大橋吉之輔 エッセイ集 [ 大橋 吉之輔 ]
October 17, 2021
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報道によると、エディ・バウアーが日本市場から撤退するとのこと。 ううむ。そうですか。 エディ・バウアーが日本に出店し始めた頃、店の雰囲気とかも含め、なんとなくアメリカっぽくて割と好きで、当初は結構な頻度で服を買ったような気がします。 が! そのアメリカらしさというのが、服の裁断にも及んでいて、日本人が着ると、ちょっとずつ合わないところがある。例えばズボンのチャックの付き方とか、シャツの袖ぐりが広すぎるところとか・・・。 しかも、ユニクロなどと比べるとどことなく割高感も否めない。そんなこんなで次第に足が遠のいていき・・・。 最近、どこの店舗を通りすがりに覗いても、店員さんが暇そうだったしなあ。 フォーエヴァー21とかもそうだけど、鳴り物入りで日本に進出しても、結局、定着しない店って、あるよね。一方、マクドナルドのように完全に定着したものもある。H&Mとか、どうなんだろう、定着できるのかな。 まあ、でも、お店が潰れるってのは、何となく淋しいもので。エディ・バウアーの撤退も、ちょっと寂しいな。
October 16, 2021
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海野弘著『世紀末シンドローム ニューエイジの光と影』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 海野弘さんという人、元は平凡社の編集者で、アール・ヌーヴォーの紹介者として有名。著書も多く、テーマ的に私と関心の近いところに居る人ですが、いかんせん、研究者ではないんだなあ。だもので、色々と資料を読まれているし、時に鋭い考察も見せてくれるんですけど、本全体として何が言いたかったのか漠然としてしまうところがある。あっちの資料から引き、こっちの資料から引き、面白いでしょ、で終わってしまうというか。 ということで、アメリカのニューエイジ現象についての解説書として、この本はとても面白くはあるのですが、一つのストーリーとしてまとまっていないので、こちらとしてはつまみ食い的に面白い個所をピックアップしていくような読み方しかできないところがある。ということで、以下、私個人として興味のあった個所を箇条書き風に集めていきますが、私の仕事に必要な箇所を自分の都合で取り上げているだけなので、他の方が読んで面白いかどうかは不明です。〇「ニューエイジ運動は、トランスフォーメーション(変容)を第一義的な体験としているのが特徴である。ニューエイジャーは、古い、受け入れがたい生活から新しいエクサイティングな未来への変身を熱心に求め、体験しようとするのである。そのような変身の最も顕著なモデルはヒーリングである」(20)〇「〈潜在能力〉もニューエイジのキーワードである。人間は無限の能力を持っている。だがポテンシャルであるから、それを開発して、変身しよう、というわけだ」(21)〇「すべてのものは全体のなかで生きている。知識もまた、ばらばらではなく、全体のなかに組織化されていなければならない。ニューエイジャーはこのような全体的な知識欲に憑かれている。この知識欲は、彼らが非常に本好きであることにつながっている。(中略) ニューエイジャーがぶっキッシュであるのは、本というメディアがニューエイジのネットワークを広げるのに向いているからなのだろう。ブック・ショップがコミュニティー・センターとなっていることが多い」(23)〇「ニューエイジは人間を肉体、精神、霊の三種のものとして考える。それは、肉体と精神という有限の人間を超える永遠の霊を信じることである。八六九年のコンスタンチノープルで開かれた第八回キリスト教会議で、不死の霊的存在について語ることは異端とされ、人間は肉体と精神から成る二元的なものとされた。霊的なものは有限な精神に付随するものとなり、神性を否定されてしまった。超感覚知覚(ESP)を否定し、人間を物質的、肉体的麺からとらえる近代科学の支配に対して、ニューエイジは霊的な目覚めを語ろうとするのである」「霊とか霊魂といったことばには、アレルギーを感じる人も多いだろう。〈ニューエイジ〉というと、新宗教、カルトといったイメージが浮かび、拒否反応を示す人もいる。それに対してトレベリアンは、ニューエイジを宗教の復活や宗教運動ではなく、意識の変革であると述べている。」(45) ↑ここは、今回本書を読んで一番ためになったところ。西欧社会では伝統的に肉体と精神を切り離して考える二元論が主流なのに、その一方で、臨死体験とか生まれ変わりといった話題になると、霊魂の存在を否定することが多いのはなぜだろうと思っていたのですが、彼らは「精神」と「霊魂」は別物だと考えていたわけね。つまり「肉体」と「精神」は厳密に分別するけれど、その二つが一緒になって「人」を構成するのであって、だから人は死ぬと肉体も精神の両方が一緒に無になり、それとは別に霊魂が残るとは考えない(ことにした)わけですな。〇スーザン・ボードによると、1970年代まではダイエットの標的は余分な体重だけだったが、80年代に入ると、ふくらんだもの、たるんだもの、突出した部分が攻撃されるようになった。なぜ、突出した部分を嫌うようになったかというと、人間の突出した部分(それは女性的な部分でもある)に悪霊・怪物が住み着くというオカルト的な感覚があったため。ゆえに、映画でも『フライ』のように、人間の体から魔物が出てくる系の映画が80年代には盛んに作られた。でっぱりの少ない、スリムな体が理想となった。(62-70)〇レイチェル・スウィフトによると、80年代に現れたダイエット法は3万種以上。(80)〇「ヘルマン・ヘッセやカレル・チャペックの庭仕事の本が不思議なほど売れている。これもまた、ニューエイジ・シンドロームの一つと考えることができる。庭いじりという自然との対話が人間の癒しとなっているのだ」(126)〇「ともにアンチ・モダニズムであるとしても、ポストモダンとニューエイジ/エコロジーは対照的である。たとえば、ポストモダンは、ジャン=フランソワ・リオタールが言ったように、大きな物語が解体した、と考えている。これに対し、ニューエイジは自己実現の大きな物語を語ろうとするのだ。ケン・ウィルバーはその代表である」(170) 「大まかにいうと、八〇年代は、フランスを領地とするポストモダンの時代のように見えた。そのキーワードは、デコンストラクションであり、〈逃走〉である。大いなる物語を解体し、終焉に逸走することが鮮やかに見えた。/その現象の典型であったのが、浅田彰『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』である。無方向に、蜘蛛の子を散らすように逃走してゆくことの爽快さが語られているが、今読むと妙になつかしい。しかし、フランス風逃走と解体のパフォーマンスもいつしかあきられてきて、物語を読みたいな、とか、全体を知りたいな、といった潜在的願望が広がり、ポストモダンの終りなき逃亡の下にできた大きな空白にするりとすべりこんでいったのではないだろうか」(178) ↑この指摘もなかなか面白い。確かに、ニューエイジ(あるいは自己啓発思想全体)は、人間を、スペースの上でも、また時間軸の上でも、より大きな枠組みの中に位置づけ直そうとする試みという風に言える。つまり、今生だけでなく前世や死後の世界の中で考えるとか、個人としてではなく宇宙の一部として捉えるとか。〇ゴードン・メルトンによるニューエイジ年表が、本書185ページから194ページまであり、整理に役立つ。〇「フリッツ・パールズが開発したゲシュタルト・セラピーは、人はものごとを孤立した要素として知覚するのではなく、知覚のプロセスのなかで意味をもった全体に組織するという仮説に基づいている。体験を統合し、環境と調和した形で自らを実現するという、ホリスティックなゲシュタルトの完了が目指される。クライアントの体験を解放し、全体との調和をもたらすために、心理的アプローチに微ディーワークを加える」(227) ↑パールズのセラピーがなぜ「ゲシュタルト」という名前を冠するのか、その理由がこの説明からよく分かる。〇「身心の全面的解放のための最も強力な方法はサイケデリックスの使用である。しかし、LSDが規制されたので、グロフと妻のクリスティーナは、「酸素過多、誘導的音楽、ボディワークを取り交ぜて、速く深い呼吸によって、比較的短時間の間に驚くほど強烈な体験を生むセラピーを開発した(カプラ前掲書)」(228) ↑要するに60年代にLSDの時代が終わった後、その代替物として考案されたのが、各種ボディワーク(あるいはヨガとか瞑想)ということになろうか。〇「ニューエイジのあいまいな、オカルト的部分を排除し、トランスパーソナル心理学を明確に理論づけようとしているのがケン・ウィルバーである。すでにとりあげた『トランスパーソナル・ヴィジョン』第一号に訳された「ベビーブーマー・ナルシシズム・ニューエイジ」というインタビューで、いわゆる〈ニューエイジ〉とはっきり一線を画そうとしている。」(231) ↑このインタビューは使えそうなので、一読の価値はあるかも。〇「ニューエイジは、ベビーブーマー、つまり六〇年代世代の産物である、とウィルバーは言う。その特長はナルシシズムでありミーイズムである。ベトナム戦争が終わると、彼らは反戦運動を捨てて、ヤッピーに転じる。(中略)ウィルバーは、六〇年代とヤッピーからニューエイジが発生したとする。これは、ニューエイジの社会学的研究に沿っている。彼はニューエイジの本質をナルシシズムと即時的満足のセットと見る。そこには四つの真理の種子が投げ込まれている。まず東洋宗教である。鈴木大拙の禅などが中心である。真理の種子というのは、それ自体、真理であり、正しい方向を潜在的に含んでいるのであるが、しばしば、誤用され、悪用されてしまう。東洋宗教や神秘主義もナルシスティックな目的に御用される。ジャック・ケルアックたちの〈ダルマ・バム〉がそれだという。六〇年代に東洋宗教はカフェテリア・モデルとして商品化されてしまった。 第二の真理の種子は「グローバルな進化」である。これも確かに起こりつつある変容ではあるが、未だ物質的なもので、心的ないし霊的なものではない。それを霊的変容であるととりちがえて、安易な終末論が唱えられている。 第三は「パラダイム」である。これは知覚と認識を支配する超理論である。ニューエイジャーはパラダイム・シフトにより、即時的満足、即時的変換、地球的変換が今すぐはじまると考えている。 第四は「サイケデリックス」である。これによって、短時間に魂の変化をもたらし、霊的なものを垣間見るかもしれない。 以上の四つの要素を勝手に組合わせて、今、世界に大きな変容が到来し、それはグローバルな霊性を含み、新しいホリスティックなパラダイムを包括している、という推論が導かれる。重要なのは、「このわたし」がそこに加わっているというナルシシズムである」(232-3)〇「ニューエイジの一つの柱であったのは、近未来に霊的な革命が到来し、〈ニューエイジ〉が始まるという思想であった。その一つの期限は、紀元二〇〇〇年というミレニアム(千年紀)であり、今まさにその前夜と考えられる。 しかし、すでにのべたように、ケン・ウィルバーは近未来の大いなる変容をはっきり否定し、ニューエイジャー的あいまいさから、トランスパーソナル心理学を区別しようとしている。これは、「ニューエイジは八〇年代に終わったとする見方につながるだろう。 一九八七年の〈ハーモニック・コンヴァージェンス〉はニューエイジのピークであった。ニューエイジャーは、霊的革命の到来を待ち受けたが、なにも起こらなかった。ここでブームがさめてしまったというのである」(244)〇「そして、いよいよニューエイジの終末論である。その代表としてとりあげられるのは、パリのデザイナーであり、ニューエイジのグルとしても有名なパコ・ラヴァンヌである。ファッションとニューエイジというのも興味深い取合わせである。パコの考えは次のようにまとめられる。/『第二のキリスト教の千年紀の終りに、人間は、おどろくべき変容、これまでの人間の体験のすべてが、ほんの準備でしかなかったような変容にさしかかる。(中略)しかし、その変容においておそろしい混乱を地球は体験し、人類の生存もあやういかもしれない。それまでにない規模の台風、地震、火山の爆発がきたらひどいことになる。地球生命体ガイアは、彼女に与えられた損害に復讐を企てる。われわれは1999年に近づくにつれ、アンチキリストの支配に入ろうとしている。その数は反転し、ひっくりかえせば6661となり、野獣を示す数と聖なる一者を意味するのだ。来るべきアポカリプスは、すぐれた種の進化を記しづける浄化体験となるだろう。ホモ・サピエンスはホモ・スピリチュアリスになるのだ』。パコは六〇年代に、メタリックな宇宙ファッションで世界をおどろかしたが、それはニューエイジの予告だったわけである。/パコ・ラヴァンヌによって示されたように、一九九〇年代には、ニューエイジはファッション化した、といえるかもしれない。SFと神秘主義が結び付けられ、ポピュラー文化に登場したのである。」(246-9) ↑パコ・ラヴァンヌがそういう人だったとは、ちょっと驚きだ。〇「ニューエイジはあらゆる束の間の流行現象のごった煮であり、とりとめない。クリスタルやチャネリングの流行は、このところ〈ネイティヴ・アメリカンの知恵〉の流行に移りつつある。/「しかし共通分母は存在する。簡単にいうと、ニューエイジはアポカリプティックであり、終末を信じているのだ。」(トンプソン、前掲書)/それは、私的・個人的変容に熱中しているのであるが、究極的には〈全体〉を目指し、地球の救済が目指される。トンプソンは、オカルト、東洋、マヤなどからの借用にもかかわらず、ニューエイジの本質は、アポカリプティシズムであると見ている。やがて審きの日が来て、古い世界は滅亡し、選ばれた、目覚めた人々による新しい世界が始まるのだ」(250)〇しかし、ファンダメンタリストもニューエイジも、結局はアウトサイダーの宗教であって、メインストリームにはなり得ない、とトンプソンは言う。これらの思想は、既成の宗教や思想を全否定するか、それらすべての統一を主張する。西欧世界では、一つの宗教による支配はない。カトリック、プロテスタント、ユダヤ教、イスラム、仏教などが共存し、形而上学、哲学、科学も共存している。互いのちがいが尊重されているのである。これらの境界をこわそうとするのは、知性への侮辱と考えられる。/アポカリプティシズムは、知性への全面的侵害と見ることができるだろう。トンプソンは、一般社会、明るい知性から拒否された暗黒の知の流れる地下の川、それが流れ込む闇の湖のようなものを考えている。それを社会学の用語で〈カルティック・ミリュー〉(カルトの環境、カルトの湖)と彼は呼ぶ。ニューエイジが呑み込んでいる雑多な要素を〈カルトの湖〉としてくくるのである。社会から拒否された、あらゆる雑多で異質なものがここに流れ込んでくる。そして、互いに異質でありながら、ここでは一緒に混ざりあい、区別しがたくなる。」(254)〇しかし、別なレヴェルでは、ニューエイジはより過激な形をとってあらわれている。トンプソンがあげているのは、オウム真理教の事件とスイス、カナダにおける太陽寺院の事件である。オウム真理教については、彼はこの本の別の一章でくわしくのべているが、まず、ニューエイジの運動として位置付けていることが重要である。(255)〇もちろんノストラダムス本は前からあったが、大出版社がまともに取組むことはなかったし、今ほど多くの著者がポピュラー・ヒストリーやポピュラー・サイエンスの本に、アポカリプティックな要素をしのばせることはなかった。しかし、一九九五年に出たグラハム・ハンコックの『神々の指紋』は一挙にベストセラーのチップになった。これは日本においてもそうであった。(中略)/人々はハンコックの本を買って、その説をそのまま受けとるわけではない。しかしまったく意味もなく買うのではなく、既成の、レールが敷かれた世界とその科学や歴史に不満があり、オルタナティヴな解釈を求めて、ハンコックを買うのだ。オーソドックスで、ゆっくりとした変化ではなく、アポカリプティックな、一挙の変化を人々は欲しがっている。その欲求不満が、世紀末現象としてのニューエイジを呼び出しているのである。(256-7) ↑このあたり、ニューエイジの底流に、やはりドロップアウトしたヒッピーのメンタリティが流れていることを指摘しており、その連続性に気づかせてくれる。〇ではなぜ、人間はアポカリプスの幻想を抱きつづけるのだろうか。それは人間が死すべき存在であり、避けがたい死への不安を感じているからだ、とトンプソンは言う。紀元二〇〇〇年が迫っている。いずれにしてもそれは、私たちがそこで死すべき世紀である。(258) ↑これも鋭い指摘。死への恐怖とその焦りからアポカリプスは、そしてニューエイジは始まる。だから、ニューエイジの考察の後で、死の恐怖に対する自己啓発思想を考えなければならない。 ・・・とまあ、こんな感じかな? あらためて振り返って見ると、(他者からの引用が多いとはいえ)、私自身の研究にとって必要な情報が結構あったことが分かります。そういう意味で、私にとっては、大いに参考になる本でした。これこれ! ↓世紀末シンドローム ニューエイジの光と闇 [ 海野弘 ]
October 15, 2021
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日本アメリカ文学会の創立にも深く関わられた伝説のアメリカ文学者、大橋吉之輔先生のエッセイ集『エピソード』がついに世に出ます。 装丁は緒方修一さんの手になるもの。クオリティがものすごい! 取次ぎを使わない出版社から出ているので、日本中の書店に一斉平積み!という感じにはなりませんが、アマゾンなどでは既に発売になっております。 以下、版元ドットコムが提供している本書の情報をアップしておきましょうこれこれ! ↓大橋吉之輔エッセイ集 エピソード どうよ! 読みたくなってきたでしょう? 編者の某という人のことは良く知りませんが、とにかく、大橋先生の文業は素晴らしい! 特に最晩年のエッセイは、鬼気迫ると言っても過言ではありません。 騙されたと思って、是非ご一読下さい。教授のおすすめ!です。これこれ! ↓【送料無料】 エピソード アメリカ文学者 大橋吉之輔 エッセイ集 / 大橋吉之輔 【本】
October 14, 2021
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アマゾンのCMで、共働きで忙しいすれ違い夫婦の日常を描いたの、あるじゃないですか。これこれ ↓アマゾンCM これの意味が分からない男って、相当多いらしいですよ。 家内が友人から聞いてきた話なのですが、このCMを一緒に見ていた旦那さんに、「これどういう意味か分かる?」と尋ねたら、全然分かっていなかったんですって。 で、それをきっかけに、色々な人に尋ねたところ、やはりこのCMの意味が分からない世の男性陣というのは非常に多いらしい。 ということで、私の家内が私に「どういう意味か分かる?」というので、「いや、分かるも分からないも、夫婦共働きで、双方忙しくて、なかなか夫婦でゆっくり過ごす時間がないと。それで、その日も奥さんからアレやらコレやらを会社帰りに買っておいてくれと頼まれたのだけど、夫は思い切ってそその頼まれた買物をアマゾンで注文することにして、それで空いた時間を奥さんと過ごすことにして、新婚時代に戻ったような気分を二人で満喫したってことだろ?」と答えると、家内曰く「満点。」。 あのね。私を誰だと思っているの? これでも文学の研究者、文学の徒だよ。文学ってのは、人の心、人の感情の動きを解釈する学問だ。こんな分かりやすいCM一つ、解釈できないでどーすんだって。 と、自慢げに答えたものの、しかし、今、この国の中で、私以外の世の多くの夫たちが、このCMの言わんとするところがまるで分からないという状況って、あんまり望ましくないよね! 他人の動向を見て、彼らがなぜそういう行動を取るのか、想像すらできないというのは、人間の在り方としてどうなんだっていう・・・。 ね。だからさ。今、日本に必要なのは、文学的教養なんじゃないのかい? 文学というものを軽視するから、アマゾンCM一つ分からない人達が、この国に続々と誕生しておるんじゃないのかと。 情けないねえ。 新政権になって、岸田さんは「人の意見を聞く」ことを売りにしているようですけれども、それだったら、あーた、釈迦楽教授の言うことを聞いて、「役に立たない」という愚かな理由づけにより日本の大学から伝統ある「文学部」を潰してきたこれまでの文部科学省の愚行を改め、文学教育にもっと力を注ぎなさい。
October 13, 2021
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研究室で使っているパソコンの調子が、最近、とみに落ちてきまして。 ウィンドウズ7だったか8だったかとして買って、10にアップグレードして・・・というような使い方をして、5年たったんですけど、もう起動に時間が掛かって仕方がない。パソコンなんて、5年で使いものにならなくなってくるんですかね? 愛着がわくとか、そういうアレじゃないよね、そうなってくると。 というわけで、そろそろ買い替えを検討中。 研究室パソコンは富士通を2代使ったのですが、ちょっと飽きてきた。それに、もう、富士通にしてもNECにしても、中身はアレだっていうじゃない? どこかの国の製品。 だったら、いっそヒューレット・パッカードとかデルとかにするかなあ・・・。 この二つのうちでは前者が好きなので、その辺りで検討しましょうかね。
October 12, 2021
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今年の春、慶應義塾大学の名誉教授となられたアメリカ文学者・巽孝之先生が監修され、総勢50名もの研究者が一堂に結集して作り上げた大部な研究書『脱領域・脱構築・脱半球』がこの度小鳥遊書房(たかなし・しょぼう)から上梓されました。 巽先生の幅広い研究領域それぞれにおける研究仲間からの寄稿によって成り立つだけに、ここに収録された数多の論文のうち、私の理解の及ぶものの数なんてたかが知れておりまして、今はまだ、そういう中でも特に私がつとにその実力を存じ上げている先生方の論文をつまみ読みしただけですが、それだけでも素晴らしいものでした。 しかし、やはり本書の一番の読みどころは、巽先生ご自身がお書きになっている「はじめに」という文章。高校生の時に見たベケットの不条理劇に批判的精神の何たるかを教わったという「原点」の話から始まり、その後先生ご自身が身を投じられた70年代、80年代、そしてそれ以降の文学批評理論の動向をダイナミックに回顧しつつ、そうした様々な批評理論間の切磋琢磨は決して足の引っ張り合いではなく、更なる認識の高みへの飛躍の準備であったこと、またそうした思想の熟成にはそれに応じた時間が掛かるのであって、そのゆっくりとした時間の進行に耐えることが研究者と研究者を取り囲む環境の双方に必要なのだということを明示しつつ、人文学の未来への指針を示し、またそこに希望を託すというもので、さほど長い文章ではないのにこれだけの内容を盛り込むそのあまりにも華麗なレトリックに眩暈さえしてくるという。読んでいて、これこれ、これが巽先生の文章だよなという感を強くした次第。 で、巻末にある下河辺美知子先生の「あとがき」も、巽先生のこれまでのご業績や人となりを紹介するものとして読み応えがあったのですが、もし私がもう一つ、巽先生のご業績・お人柄の特異点を挙げるとするならば、巽先生が先輩であると後輩であるとを問わず、他の日本人研究者の業績に常に関心を持ち続け、かつ、それを正当に評価し続けていらっしゃる、ということでございます。 外国文学の研究者というのは、えてして外国かぶれなところがありましてね。アメリカ文学研究ならばアメリカ人研究者の、イギリス文学研究者ならばイギリス人研究者の研究を重視するあまり、日本人研究者による先行研究にまったく注意を払わないという人が結構いる。例えば、そういう人が研究書を上梓した場合など、参考文献に日本人研究者の論文や著書が一つも載っていない、なんてことがよくある。 そういうのは非常によくないと私なんぞは思っているのですけれど、そこへ行くと巽先生は違う。あれほど膨大な量、文学作品と研究書を熟読し、著名な外国人研究者たちとも丁々発止の議論を繰り返す中でご自身の論座を定めていきながら、その一方で日本人研究者(作家やアーティストも含む)の研究や発表・作品に目を通し、その中でいいものについてはちゃんとご著書の中に言及・参照されている。御自身より年長の先輩方の業績に親しまれていることはもとより、大学院を出たばかりのような若手の研究動向もよく見ておられて、正当に評価されている。ああいう目配りの広さは、日本では、巽先生以外にはちょっと見られないのではないかと思います。 私は先生の直接の教え子ではないし、普段名古屋に居るもので、そうそう頻繁にお目にかかるわけではないのですが、それでも私が学会の全国大会で発表したり、シンポジウムに出たりした時には、後で「面白かったよ」というような感想を伝えて下さることがあって、「えーーー、聴いていて下さったの?」とビックリさせられることがある。私の研究、私の芸風は、巽先生のそれとはかなり違うのですけど、それでも先生が遠くで見ていてくださっているというのは、私にとって研究活動上の大きな励みになっております。 まあ、私に限らず、この業界にいる誰もがそう思っているので、これだけ大勢の優秀な研究者たちによるオマージュ本が完成するわけですけどね。 ということも踏まえまして、巽孝之先生の研究仲間の先生方や、先生の影響下に育って行った若手研究者たちの総力をあげたこの本、教授のおすすめ! です。これこれ! ↓脱領域・脱構築・脱半球 二一世紀人文学のために [ 巽孝之 ]
October 11, 2021
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エリザベス・キューブラー・ロスの書いた『死、それは成長の最終段階』(原題:Death: The Final Stage of Growth, 1975)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、邦題の副題に「続 死ぬ瞬間」とあるように、著者の前著である『死ぬ瞬間』(1969)の続編的な位置づけの本でありまして、まだロスが「死の五段階受容プロセス」を主張していた頃の著作です。なので、まだ「生まれ変わり」とか、そういう方面に行っていない頃の言説をまとめたものになっております。 で、この本はロス本人が書いている部分もあるのですが、ロス以外の何人かの書き手の文章も含めて編纂したものであって、いわば寄せ集め的なところがある。要するに、『死ぬ瞬間』を出してアメリカに「死生学」なるものが流行し始めて、ロスの考え方に同調する人たちがぼつぼつと現れ始めたことを受け、そういう人達の協力を得て作った本、ということなんでしょうな。 ということで、本書では(ロスの言説に共感を持っているという共通性を持ちながら)様々な立場の人間が、それぞれの立場に基づいて「(アメリカで)死ぬと言うことは、どういう経験か」ということを綴っているわけ。 で、それを読んでいると、まあ、アメリカのみならず今、死ぬということがなかなか難しい状況になっておるのだな、ということがよく分かる。 アメリカの1970年代半ばの病院状況は、今では日本を含めた世界の病院状況と同じと考えていいのだと思いますが、人は病が重くなっていよいよ危ない、もうすぐ死ぬ、ということになると、病院に入院させられちゃうわけですよ。昔のように、自宅で、見慣れた部屋で、家族や友人たちと日々接しながら人生最後の時を過ごすというわけには行かなくなってきた。 で、その、病院というところがまた、人間が最後の時を迎える場所にしては、非常にキビシイ場所であると。 まず入院するとなった時点で、患者からすべての権利は剥奪されるわけですよ。病院の規則が、神の掟みたいになってくる。例えば病院では、色々なことで患者は「待たされる」わけですけど、この待たされる状況自体、病院と患者と、どちらがボスなのか、どちらが服従者なのかということを明確に伝えてくるわけですな。 で、医者は、病気を治すことを職業としているので、「もう治らない患者」というのは自分の技量なり使命なりに挫折感をもたらす存在でしかない。はっきり言えば悪夢なわけですよ。それは看護師にとってもそうなので、なるべく関わりたくない存在ということになる。できれば自分が勤務交代した後、非番の時に死んでくれないかなあ、っていう。 ある意味、この世を去る瀬戸際、人間の生にとって一番大事な時に、そういう血も涙もないシステムの中に孤独な状態でぶち込まれる――これが、現代の状況だと。 で、そういう病院の在り方をあらためて読者に知らしめた上で、本書は「それ以外の道」を示す。例えばアラスカ・インディアンのコミュニティにおける、最後の時の過ごし方、とかね。 それによると、アラスカ・インディアンの人達ってのは、自分はもう間もなく死ぬな、っていうことが正確に分かるらしいのね。だから、そういう風になったら、かねて準備していたように、自ら自分の葬式の手はずとか整えて、友人知人親戚を集めてそれぞれに最後のメッセージを伝え、あらかじめ指定した時間通りにあの世に旅立ち、あらかじめ準備していたように伝統的な葬儀を行う。それはそれは見事なものであり、また死ぬ本人にとっても、周囲の人々にとっても納得のいくものなのだそうで。また、伝統的なユダヤ教徒には、やはり特有の人生の終え方、終えさせ方というのがあるようで、こういう「他のやり方」から学ぶべきところは多いのではないか、ということが示されるんですな。 で、その後、現代の病院システムの改善点を考える論文とか、身内の死を経験した人たちの経験談とか、若くして亡くなった人の生前の手記とか、そういう雑多な(とはいえ、死ぬ経験を考えるという点では統一したテーマの)文章があれこれと来る。 そして最終章となる第6章は、エリザベス・キューブラー・ロス本人が書いているのですが、そこでは「死」というものが、いかに人間を成長させるか、ということを、「ミス・マーチン」という老女の死を引き合いに出しながら綴っている。 それによると、ミス・マーチンというのは、若くして実業界に身を投じ、厳しいその世界の中で切った張ったの過酷な生存競争を繰り広げてきたのですが、その代償として、兄妹とは疎遠になり、心を打ち明けられる友人もない状態になってしまった。そしてそういう個人的身辺状況の中で、「余命3カ月」の病に倒れることになってしまったと。 で、そんなミス・マーチンですから、入院当初、おそろしく評判が悪かったというのですな。看護師には当たり散らす、医者には食って掛かる。ロスも彼女の病院における評判があまりにも悪いので、本当にそんな非人格者が存在するのかと思って本人に会ってみたところ、看護師たちや医者が言う以上にひどい患者だった。 ところが。 その後、ミス・マーチンは残された三カ月の余命の中で、人間的な成長を遂げるんです。例の五段階の死の受容プロセス、すなわち「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」という段階を経て、自分の死を受け容れ、それと同時に自分の来し方を振り返って反省し、人間性を取り戻すわけ。そして「自分はこの三カ月で40年分以上の人生を生きた。40年前に今の境地に達していれば良かったのに、とは思うけれども、とにかく成長できて良かった」という事を述べ、皆に愛されながら死出の旅に旅立っていったと。 で、ロスはこうした事例に触れつつ、「死こそ、人間を劇的に成長させる契機に他ならない」ということに気づくわけ。というか、単なる契機というのではなく、死こそが人間の成長に欠かせない要素だと述べるんですな。なぜなら、死が無かったら、人間の一生には目的がなくなるから。以下、引用しましょう: 人が目的のない虚しい人生を送ってしまう原因のひとつは、死の否認である。なぜなら、永遠の命をもっているかのように生きていると、今しなければならないとわかっていることを先延ばしにしがちだからだ。明日の準備として今日を生き、昨日の記念として今日を生きていると、一日一日は無為に過ぎるだけだ。逆に、朝目覚めたときに今日が人生最期の日になるかもしれないと十分理解していれば、人は成長するために、もっと本当の自分になるために、そして他の人間と接するために、その大切な一日の時間を使うものだ。(332-3) で、ロス曰く、死はそういう漫然たる意味のない人生を突破するための契機になるわけだけど、死を活用するためには、人は「帰依」することが必要だと。: 死に瀕している人びとは、人生の新たな変容の段階にいる。ミス・マーチンのように、もはや自分は恐怖のなかであがくか、壁にあたって後ずさりするか、絶望してあきらめるしかないと考えるかもしれない。しかし、たとえ末期疾患にかかっていると診断されても、私たちが人間であることには変わりはなく、生を経験するという意味で大きな成長を遂げる可能性は残っている。だが、よりよい方向へ大きく変化するのには、必要なことがある。何かに「帰依」する人間になるということだ。宗教的な教義や儀式に帰依するという意味での帰依ではない。ここでいう帰依とは、一つの行為あるいは一連の行為を意味し、新たな状況のなかで心を開いて本当の自分を経験するということである。死に瀕しているという経験に対する型にはまった解釈を、そのまま受け入れることではない。この意味で、ミス・マーチンは帰依したといえる。彼女は末期状態だとわかった後もあいかわらず、何でも思い通りにするために大声を出したり憤ったりする金持ちの老婦人を装っていた。病気になるまで、彼女は現実に目を向けずに生きていた。彼女は、実業界に入ってまもないころ、成功するには必死に努力しなければならなかったころに、自分を枠にはめてしまっていた。状況が変化してからも、彼女はその同じシナリオにしたがって生き続けていたのである。実業界で成功しなければと思うあまり、多くの人たちと同じように彼女も一つの役割に囚われ、「自分だけの経験」をする能力を捨ててしまったのだ。 彼女は病院で自分の身に起きていることに、ある日突然きちんと目を向けるようになったわけではない。だんだんと、ありのままの自分、死が近いという新しい状況に置かれている自分を経験することに、身を任さざるをえなくなったのだ。自分自身を経験するために、数々の障害を乗り越えていくかどうかは彼女の意志に委ねられていたし、必ずしも乗り越えなければならなかったわけでもない。それでも、彼女はあえて、そのときの感情、自分の存在意義、夢、空想、考えに正面から取り組もうとした。人間として自分をいたわり、喜びと悲しみ、愛と憎しみ、混乱と明晰、孤独と共存を知っている存在として懸命に自分を評価するようになった。このように自分のアイデンティティを経験するのに懸命になることは、人生のあらゆる変容の基本である。もし誰かがノイローゼになって自己破壊的な生き方をしているとしたら、最初に行うべき治療は、いまの状況で自分自身をありのままに経験できるようにすることだ。人生を良い方向に変えようと思えば、まず、全身全霊をああげて自分自身のアイデンティティを経験しなくてはならない。つまり次の質問に本気で答えなければならない。私は誰なのか。いまここにいる私とは? これが宗教的な帰依の第一段階である。(319-20) で、これを帰依の第一段階としたロスは、続けて帰依の第二段階として会話・対話をあげております。自分の本当の気持ちを表現し、自分にとって一番大事なことはないかを誰かに伝える、ということですな。そして第三段階として、人生の最後の一歩を意味あるものにするために、具体的な青写真・シナリオを作り、自分の経験に一貫性を持たせるということをあげる。要するに自分は誰かを知り、そのことを対話を通して人に伝え、自分の人生に意味を持たせる、という三段階。 死というのは、人にこの三段階を踏むことを促すという点で、人間の成長の最後・最大のチャンスであると、まあロスはそう考えているんですな。そしてその促しに応じて、「死ぬまで十分に人生を生きる」ということが、人間にとって一番重要なことであると。 ま、本書が主張しているのは、つまるところ、そういうことね。 で、この本、最後の最後でもいいこと書いてあるんだよなあ・・・: 宇宙において人間がいかなる存在なのかを理解すると、人間は成長してそれを受け入れられるようになるだろう。だが、その答えはこのページには記されていない。答えはあなたのなかにある。内面の強さの源になり、それを伝える道になれるのはあなたなのだ。しかし、すべてを得るためにはすべてを捨てなければならない。何を捨てなければならないのか。それは、本当の自分でないものすべてである。選ばずして選んだもの、価値を測らずして価値を与えたもの、自分自身で判断せず誰かから押し付けられて受け入れたものすべて、そして、自分や他人を信頼したり愛したりできなくしている自己不信である。では、何を得るのか? それは他でもない、真の自己である。心穏やかで、本当の意味で愛し愛される自己、自分がどうあるように決められているのかを理解している自己である。自分自身であるためには、他の誰であってもならない。「他人」(誰であろうと)に認められることを諦め、自分の価値判断基準からみて自分が志を達成したかどうかという点から、成功や失敗を自分で評価しなければならない。これほど簡単なことはないし、これほど難しいことはない。 それでは、自分を外部から規定されることを拒絶し、みずから規定するための力と勇気はどこにあるのか。 あなたが恐れずにしっかりと現実を見据えれば、力と勇気はすべてあなたの内部に見つかる。そしてそこに導いてくれるのが死だ。なぜなら、この世での時間が限られたものであり、いつ終わりが訪れるのか知る由もないことに気づき、十分理解したとき、私たちはいやがおうにも、一日一日をかけがえのないものとして生きるようになるからだ。今こそ成長を始めなければならない。一歩一歩、不安を感じない程度の歩調で、しかし積極的に歩んで、自分というものに到達できるよう成長しなければならない。思いやり、愛、勇気、忍耐、希望、信念をもって生きていれば、自分の中に力と指針を求めたときだけに差し出される救いの手に気づくようになり、あなたは報われるだろう。人間が「到達しうる最高のレベルの不動と静寂の場所をみつけると、天の力が人間の中に流れ込んで、人間を創り直し、人類救済のために人間を使うようになる」(334-5) ううむ。結局、答えは自分の中に既にあるのか・・・。 で、こういうロスの主張を聞いて、私なんぞはすぐに感動しちゃって、ロスはいいこと言うなあ、と思う。単純な感想ですみませんけれども。 エリザベス・キューブラー・ロスはね、死生学の創始者の一人である反面、その主張のバックグラウンドが科学的ではないとか、浪花節的過ぎるとか、色々批判・揶揄されることも多いようなんですよ。だけど私は、彼女の言っていることは基本的に正しいしと思うし、それは死に往く人々と接してきて彼女が掴んだ一つの真実なんじゃないかと思います。 と同時に、こういうロスの書いたものを読んでいると、当然、自分がそういう状況になった時、自分が「余命〇ヵ月です」って突然宣告された時のことを想像しちゃうわけですよ。 その時、「お! チャンス到来。そうか、ロスが言ってた人間的成長の最後・最大のチャンスがいよいよ俺のところにも来たぜ! おーし、成長の3ステップを着実に踏んで、光り輝く人間として死んでみせるぞ!」ってなるかなあ? ロスの言う理屈は正当なものだと思うけど、その理屈を実地でやるとなると、果たして自分にできるのか、っていう。そこが一番重要なのに、それをやれる自信がないっていうね。 ダメじゃん、俺。 まあ、しかし、この成長の最後のステップを(私のような凡人が)踏むためには、もう一つ、必要なものがあるような気がする。それは希望です。死んだ先にあるのが、「無」ではなく、「新生」である、という希望。要するに、肉体はここで死ぬけれども、魂は継続する、という希望ね。 そのことに気づいたからこそ、ロスはこの後、そういう「魂の不滅」言説の方に走っていく(そのために、一層、科学者たちから馬鹿にされる)ことになるんじゃないかしら。 そう思うと、一層、科学者たちがいかにロスをバカにしようとも、私はロスを支持する、と言いたくなるな。 ということで、この本、色々考えさせられることの多い(しかし、読んでいて苦しくなる)本であったのでした。教授のおすすめです。これこれ! ↓死、それは成長の最終段階 続死ぬ瞬間 (中公文庫) [ エリザベス・キューブラー・ロス ]
October 10, 2021
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今日はとっても嬉しいことが一つ。日本を代表するアメリカ文学・文化研究の泰斗の大先生から、私家版の歌集をご恵投いただいちゃった! 限定50部のうちの一冊だからね。超貴重。 で、またその内容が素晴らしかった! その歌集の序に曰く、先生はお若い時から詩に魅せられてきたのだけれども、自分で詩を作ることは難しそうだということで、創作ではなく研究を取り、学者になられた。だけど、お年を召してからふと三十一文字を弄んでいるうちに、ひょっこりとそこに魂が表出することに気づかれた、というのですな。 で、なるほど、これは面白い。歌というのは面白いな、ということで、次々と歌を詠んでいくうちに、この度の歌集にまとまったと、まあそういう具合であったらしい。 でまた、ここがその先生らしいところなのですが、アメリカ文学を代表する作家であるフォークナーの作品を読んでいる内に、その作品の登場人物たちが先生の心の中に入り込んでしまった(あるいは逆に先生がその登場人物たちの心に入り込んでしまった)もので、この際、その登場人物の心を歌に詠んでみたと。 ううむ。その実験精神。遊びの心。お年を召されても、こうやっていつも新しいことにチャレンジし、言葉と遊びながら格闘する、そういうスタンスが実に伸び伸びとしていて、気持ちがいい。 先生は、いくつになられても子供のように自由だなあ・・・。日本で一番偉い先生が、一番文学を楽しんでいらっしゃる。初めての積み木に夢中になって、思うままに心に描いたものを積んでは崩して遊んでいるようじゃないの。 そんな先生の歌集をいただいて、私は今日一日、とても愉快な気分を楽しんでいたのでした。 先生には名のあるお弟子さんが沢山いらっしゃるし、私はどういう点から見てもその先生に直接に教えを受けた弟子ではないのですが、どういうわけかいつも気に掛けていただいて、本当の教え子さんたちからしたら「何でコイツなんか」と嫉妬されそうなんですけど、何か通じるものがあると感じていただいているのであれば、ありがたいことだなと。 その先生の自由さ、天衣無縫の遊び精神、文学魂、そういうものを、学閥とは離れたところで、私は継承していこう――。先生の歌集を手にしながら、そんなことを考えた次第。
October 9, 2021
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昨夜、のんびりしていたら、緊急地震速報が鳴りまして。あれ、すごいね。ホントに予知できるんだね。 名古屋でも結構、ゆらゆら、何時までも揺れておりました。で、名古屋でこれだけ揺れるのなら、震源地に近い関東地方はひどかっただろうと思ったら震度5とか。さすがにビビッて実家にラインしたら、姉から「大丈夫」との連絡が。ひとまず安心しました。 しかし、日本ってやっぱりすごいと思うのは、震度5でもあの程度の被害で抑えられたということ。これがロスだったら、こんなもんじゃすまないし、別の場所だったらもっとひどいことになっていたはず。 と、一時は感心していたんですけど、今日になってニュース見てたら、公共交通機関の乱れで、やっぱりえらいことになっておりました。 あれさ、こういう時のための「在宅勤務」なんじゃないの? ここぞっていう時だと思うのだけど、やっぱり無理してでも出勤するんだ・・・。 せっかくコロナで働き方の見直しをしたはずなのにね。そういうところは、なかなか変わらないのかな。
October 8, 2021
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ジョン・ホワイトという人の書いた『死と友になる』(原題:A Practical Guide to Death and Dying, 2nd edition, 1988)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 本書の著者であるジョン・ホワイトは、(吉福伸逸さんの解説によれば)トランスパーソナル系ライターで、ケン・ウィルバーをその初期に評価し、世に出した人の一人(実際、本書の中でもケン・ウィルバーのことを「意識研究のアインシュタイン」(240)などと持ち上げている)だそうですが、まあ、「ケン・ウィルバーの紹介者」ということを彼の「業績」に数えるとしても、まあ、基本的にジョン・ホワイトという人はジャーナリスト的なライターであって研究者ではない。だからこの本も研究書ではなく、良きにつけ悪しきにつけジャーナリスティックな本ということになる。ハッキリ言って、本書の原題が体を表しているように、「死や死ぬことに関する実用的ガイドブック」というところが精一杯のところでしょう。 で、本書が指南するのは、いわば「上手な死に方」と言いましょうか、死を恐れずに死ぬ方法とその練習法の伝授でございます。 死ぬのはね、そりゃ誰だって怖い。だけど、その「怖い」という本質は何か? まだ死んだことないのに、なんでそんなに死を恐れるのか? そう考えると、結局、人は「習慣」とか「文化」によって死を恐れているということになります。葬式に行けば、誰もが悲しんでいて、中には泣いている人もいる。そういうのを実際に、あるいは映画の中で何度も見ているうちに、「そうなんだ、人が死ぬってのは悲しいんだ」と学習してしまう。で、そういう悲しいことがなんと! 自分の身にも降りかかるらしい、となったら、それは当然、恐怖となって襲ってくる。そうやって人は、経験したこともない死というものを恐れているんだと。 で、死を恐れるあまり、死に近づく年令になってくると、人は皆、気もそぞろになっちゃって、まだ生きているうちから、その生の喜びを十全に味わうことが出来なくなってしまう。そしてさらに悪いことに、「死」について考えることも恐ろしくなって、死の準備をしようなどという気も起らなくなってしまうと。 そこで、本書でジョン・ホワイト氏が提唱するのは、死というものを、元気なうちからもっと知ろうと努めようと。そして死とはどういうものかを突き止め、そのことによって、無駄に恐れることを止めましょうと。ま、そういうことですな。 で、なにせこの本は「実用ガイド」ですから、ちゃっちゃと実践練習に入ります。 例えば第1章では、人間だけが死を恐れるのであって、つまりは死とは肉体の崩壊ということ以上に心理的なプロセスなのだ、ってなことを言い、死後の生命を信じなかったフロイドですら、自分の死期が近づくと「英国心霊学会」の会員となり、「もう一度人生を生き直すとしたら、こんどは精神分析ではなく、心霊研究に献身しようと思う」と語った(6)というようなことにも触れながら、死への恐れという「敵」の本質を簡単に紹介した後、次に第2章では、霊媒の存在とか体外離脱体験とか、転生とか臨死体験とか、そういう例を引きながら、死後にも人格は続くんだから、そもそも死を恐れる必要はない(ということが科学的に証明されている)ということを読者に告げると。 続く第3章では、そうは言っても大半の人にとっては、やっぱり死は怖いことなので、この際、死ぬのは怖い、自分は死を恐れているということを、おおっぴらに認めちゃいましょう! ってなことを提案し、第4章では、今度は逆に、「ユーモアこそ、死の恐怖に立ち向かうための方策」とかって言いながら、死に関するジョークを並べ、死を恐れることを笑う、という練習をする。 第5章では、病気とかで死に瀕すると、痛みを感じることも多いけれど、そもそも痛みというのは身体的なことであって、必ずしも精神とは関わらない。だから、心頭滅却すれば火もまた涼し的に、痛みなんてものはどうにでも対処できるもんだし、最近ではいい痛み止めもあるよ、ってな情報を出す。 第6章はさらに過激になってきて、それでもまだ死が怖いっていうのなら、いっそ、空想上でも死を体験してみよう! ってなことを言い出す。体験したことがないから怖いのであるなら、いっそ、自分が死んで、体が腐敗していく、そのプロセスを空想してみよう、と。つまり、死に親しむ、という態度を養うということですな。 で、そうやって自分の死を体験した後、第7章では次の練習法として「自分自身の死亡欄を書いてみよう!」というプラクティスをジョン・ホワイト氏は提案しております。で、実際に自分の死亡欄を(事細かに想像しながら)書いてみると、当然、「充実した生涯だった」と書きたくなるわけで、そう書いた後、実際の今の自分の人生と比べて見ると、いかに自分が充実した生を生きていないかがよく分かる。そうなると、死亡欄に書かれたような充実した生き方をしなくちゃ! という気になるわけで、それが死にゆくことの体験をするメリットの一つであると。で、次の第8章では、死亡欄ではなく、自分自身の葬式を想像してみよ、と指示するのですが、これも効果としては第7章のそれと同じですな。 次の第9章・10章では死の恐怖を和らげるためのエクササイズとして「瞑想」を勧めております。西洋人は、自我の崩壊を恐怖として捉えるし、セルフ・コントロールを失うことに強い抵抗があるけれども、瞑想という東洋的な智慧によって、そういう自我やセルフ・コントロールを手放す練習をし、宇宙との一体感を抱けるようになると、おのずと死の恐怖も無くなるよと。 第11章では、聖者や英雄がどのように見事な死を遂げたかを知ることで、見習うべき死に方があるよと。 第12章では、死の恐怖に対処するための互助組織として「フェニックス・ソサエティ」という団体があるよ、という紹介。第13章では、死に備えて「自分が死んだら、こうして欲しい」ということを計画だて、それを遺族に伝えておきなさいよ、という話。第14章では、病院で死ぬという選択肢の他に、ホスピスというものもあるよ、という情報が中心で、その中にはラム・ダスが1977年に設立した「The Dying Project」とか、「エリザベス・キューブラー・ロス・センター」などがあることや、その活動内容などが紹介されている。 第15章では体外離脱体験(体外離脱というのは、英語で言う「エクスタシー」、古代ギリシャ語の「ekstasis」と同義であって、至福を指す言葉でもある)をすると死の恐怖がなくなるという事実に基づき、ロバート・モンローが開発した「M-5000コース」のような体外離脱技術の習得を勧めるという内容。モンローによれば、誰でも睡眠中に体外離脱しているし、通常でも15%、練習をつめば100%の人が体外離脱できるようになるとのこと。またポール・トウィッチェルが1960年代に設立した「エッカンカー」でも、魂の旅をするためのテクニックを紹介しているよと。 第16章ではイアン・スティーヴンの過去生研究を紹介し、人間が何度も生と死を繰り返しているということから、死など恐れるに足らず、ということを述べている。 第17章では、死の恐怖の一環として、「天国」とか「地獄」というヴィジョンがあるけれども、あれは実際の地名ではなく、人の心の内にあることなんだよ、というようなことが諄々と諭されております。 第18章では、ダ・フリー・ジョンの言説などを引用しつつ、人間というのは大いなるものの一部なのであって、それらとは分離した「個々の人間」などという概念こそが妄想なのだから、人間が死ぬと言ったって、それはいわば妄想なのだから恐れるには足らない。ただ、大いなる存在に合流するだけだよ、と。で、この18章をもって、本書の死のレッスンは終了いたします。 まあ、要するに、スピリチュアル方面の言説を寄せ集めた上で、死など恐れるに足らず、ということを述べているわけですけれども、それに説得力があるかどうかとかいうことより、人々がどれほど死を恐れているか、それゆえ、どれほど沢山の死への対処法がこれまでに案出されてきたか、そしてスピリチュアルはどういう風にしてそういう恐怖への処方箋を出しているかということの見本市みたいな感じですな。そういう見本市として読めば、その方面の整理がつくというメリットはあるんだけど、所詮、その程度の本と。 ということで、あっさり読み終わりましたけど、「エクスタシー」とは体外離脱の意だ、というくだりは、ちょっと使えそうだな、なんて思った次第。私にとって役に立ったのは、その一点だったかな・・・。
October 7, 2021
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今日は今シーズン初、サンマが夕食の食卓に登場しました。いやあ、秋ですなあ・・・。 サンマ好きのワタクシ、なんつーの? 食べている内に真剣になっちゃうのよね。武道の試合をしているような感じになるというか。一騎打ち、みたいな。 ということで、サンマを食べている時は、夢中で相手と向き合い、最終的には、よく漫画とかである「頭と尻尾と、あとはそれをつなぐ骨」だけになった状態になるまで闘い尽くすのを常とするというね。 まあ、私に食べられたサンマは、見事、成仏しますよ。食われたサンマの方だって、「ここまでにしてくれたら、逆に礼を言う」みたいな感じになってくるんじゃないかと。 ということで、私は今日、小さい秋を一つ、見つけたのでございます。 次はあれだよね、今シーズン初のおでんを食べたりすると、いよいよ冬か? みたいな感じになってくるのでありましょう。 日本ってのは、季節ごとにその季節を代表する味というのがあって、目出度い国でありますな。
October 6, 2021
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うちの大学では、月末になると、各教員が今までに発表した論文に対するダウンロード数を通知してくれることになっておりまして。 で、それを見ると「あーーー・・・」と思うのだけど、私に関して言うと、純粋に文学作品を論じたものに対するダウンロード数は大体一桁なんですな。「3ダウンロード」とか「7ダウンロード」とか。 で、中に「0ダウンロード」なんていう悲しい論文もあったりするんだけど、それはトニ・モリスンの作品を論じたものであることが多い。私の書いた論文はいい論文なんだけど、トニ・モリスンという作家がダメなのね。ノーベル賞作家だけどね。彼女にノーベル賞を上げたことは、ホントに間違いだったと思います。 もう、彼女の作品なんか、読む人いないでしょ。もともとダメダメな作家だから、忘れられるのも早い、早い。 その反対に、常に3ケタ・ダウンロードを記録するのが、自己啓発本についての論文ね。 この結果を見ても一目瞭然、今、世間は、文学なんぞに興味はなく、自己啓発本には興味があるってことですな。 で、そういうこともあるのだろうけれども、私の自己啓発思想研究はやたらに人気があって、しばしば出版社からオファーをいただきます。 で、今日も大手出版社からオファーをいただきました! いつも本を出すとなると、出版社を探すのに苦労しちゃうんだけど、自己啓発本関連のことだけは苦労知らずって感じ。 でも、せっかくオファーをいただいても、肝心の研究がまだ先が見えない状況でね。まだまだ完成までに2、3年はかかりそうだし。 だからオファーをいただくのは超ありがたいんだけど、即答で「よろしくぅ!」とは頼めないっていう。そこが心苦しい限りでありまして。 まあ、でも、とにかく注目されているというのは嬉しいこと、次々とくるオファーに快く応じられるよう、頑張らねば!
October 6, 2021
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ダニエル・クレイグが007を演じるものとしては最終作となる『007 No Time to Die』を観てきました! ので、まだご覧になっていない方は、以下、絶対読んじゃだめよ。 ダニエル・クレイグ・ファンであり、彼こそが007役にふさわしいと思っているワタクシとしては、これから先、クレイグが007としてスクリーン狭しと活躍してくれないことをいかに寂しく思っているかっていう話でありまして、それだけに、この最終エピソードがどういうものになるのか、大いに期待しておったわけですよ。コロナで公開が延びたことも、その期待をいや増す結果となったわけでありまして。 で、その過重な期待にこの映画は応えられたのかと言いますと・・・ No! Nooo! Noooooooooo!! 全然ダメ。脚本が全然なってない。 ダメっていう話になると、前作の『スペクター』もかなりひどくて、悪役のクリストフ・ヴァルツが全然怖くないし、とっても間抜けなので拍子抜けしちゃったんですけど、今回の悪役ラミ・マレックがまた全然怖くないのよね・・・。でまた、この程度の奴に全員簡単に殺されちゃうスペクターの残党どもがまた間抜けで間抜けで。スペクターって、世界の暗黒面を取り仕切る悪の総元締めだったんじゃないの? それがその辺の半グレより簡単にパーティで浮かれているところを全員そろってやられてやんの。情けない。お前ら、ワルの誇りってものはないのか! それに、ラミがどうしてわざわざセドゥーにかまうのか、理由がまったく分からないし、どうしてセドゥーが収監中のヴァルツに会える唯一の人なのかも分からないという。それに、どうしてCIAのフェリクスともあろう人が、あんなにあからさまに怪しい同僚アッシュに簡単にやられちゃうのかもわからないし。まあとにかく、脚本に無理がありすぎて、ちゃんちゃらですよ。 それにクレイグ様の死にざまが・・・。納得出来ん! っつーことで、この程度の映画がクレイグ007の最後かと思うと、わたしゃ悔しくて悔しくて。 今回、唯一、光っていたのは、アレだね、パロマちゃんだけだったね。一方、女版007の方は全然魅力なし。 はあ~。悲しい。 しかし、これでクレイグ様卒業として、次のボンド役は一体誰がやるのだろう? 誰にでも出来る役ではないから、キャスティングも難しいでしょうなあ。 でも、まあ、エンドロールで「James Bond will return.」って出たからね。次は次で、期待しましょうかね。
October 4, 2021
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西平直さんの書かれた『シュタイナー入門』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 シュタイナーと言えば? そう教育。「シュタイナー教育」は「モンテッソーリ教育」と並ぶオルタナティヴ教育法として有名ですからね。かく言う私もシュタイナー教育に縁がないわけでもない。玉川学園出身だからね。玉川の創立者・小原国芳先生は、シュタイナー教育に強い関心を抱いていらしたので、「自学」の重視とか、「生徒自身が時間割を組む(同一教科の連続も可)」とか、玉川の教育システムの中に、シュタイナー教育的な側面が入り込んでいるところが多々あるんですな。 でも、実際にシュタイナー教育ってどういうの? って言うと、普通知らんでしょ? ルドルフ・シュタイナーの思想に基づく教育法が最初に実地に試されたのは、1917年、シュツッツガルトにおいて「自由ヴァルドルフ学校」というのが開設された時(97)。以後、現在では世界に700校、日本では1987年に「東京シュタイナーシューレ」が開かれたと(16-7)。俳優の斉藤工さんって、確かここの出身でしたよね。 で、そのシュタイナー教育の特徴はどんなものかと言いますと、まず「エポック授業」というのがある。午前中の二時間、算数なら算数、理科なら理科、社会なら社会、ぶっ通しで授業をやる。それも毎日毎日、4週間ぶっ続けっていう。ある科目を集中してドーンとぶち込むわけね。で、4週間経ったらその科目はいったん終了して、また別な教科を4週間ぶっ続けで毎日午前中の二時間通しでやる。で、さらに4週間経ったら、その科目も終了して、また別な教科を4週間・・・という具合に進めていく。 ということは、最初に算数を学んだ後、次にもう一度算数を学ぶまでに半年とかそのくらい間があくことになるわけよ。実はこれがキモなのね。つまり一度集中してガーっと勉強し、その後一旦その内容を忘れると。で、次にもう一度学ぶ時には、前にやったものを思い出さなくてはならないんだけど、その「思い出す」という過程が、非常に教育効果が高いという。 一度忘れたことを思い出すという作業を繰り返すことで、本当の意味でその教科が子供の頭脳に刻み込まれる。シュタイナー教育は「集中」と「忘却」と「思い出し」のスパイラルを重視する教育法なんですな。とはいえ、全ての教科でこれをやるのではなく、例えば外国語のように毎日少しずつ勉強した方が効果が高い教科については、午後の単発の時間を使って勉強するんですと。うーん、よく考えられているねえ。 しかし、この「エポック授業」システム以上にシュタイナー教育のキモとなっているのが「八年間一貫担任制」ね。 「八年間一貫担任制」はシュタイナー教育の最大のウリなんだけど、これは普通の学校みたいに毎年担任が変わるのではなく、8年間ずっと通して一人の担任が子供たちの成長を見守るというシステムなんですな。つまり、担任は、担当する子どもたちのことを通常の学校よりもよほど長いスパンで面倒を見ることになり、その分、より深く個々の子供たちの個性を知り、それに応じた指導をすることができる。個々の子供の長所を知り、それを伸ばすことで短所を埋め合わせていくという形で。同時に担任は子供たちに対して確固たる権威を発揮し、子供たちはその権威に畏敬の念を抱き、服従することになる。 これは、言うは易く行うは難しで、担任も大変ですよ。子供が成長するにつれ、自分自身も成長しないと、子供に対して「権威」を維持できないんですから。毎年担当する子どもが変わるから、毎年マンネリでいいや、ってわけには行かないんですな。シュタイナー教育というのは、そうやって教える側も教わる側も、ともに成長していく。そういう教育システムなわけ。 で、ここが重要なんだけど、こういう「八年一貫担任制」は、テキトーにそう決められているわけではなく、シュタイナーの思想というか、人間観に根差す重要なコンセプトなんです。 と言うのはですね、シュタイナーによれば、人間の人生ってのは「7年周期」になっていると。7年周期でステージが変わっていくというのですな。で、学齢期の子供というのは「第二期」に相当するわけですよ(ゼロ歳からの7年が第一期なので)。そしてその第二期は「信頼できる大人に従う体験」をする時期だと。だから、担任は「信頼できる大人」として、子供たちを従わせなければならない。 と、そう説明すると、「ではなぜ、『七年一貫担任制』ではないの?」と思うでしょ? ここがまたすごいところなのよ。つまりね、7年間の後の1年間は、「巣立ちのために担任と戦う時期」として設定されているんですと。7年間、権威的存在に畏敬の念を抱き、従った後、いきなり「はい、明日から独り立ちね」っていうわけにはいかないので、1年間かけて今まで従属してきた権威(担任)に立ち向かい、独立するための力を養う時期と決められているんですな。 ふうむ。よく考えられておりますなあ。 はい、ここで日本の一般的な小学校のことを考えてみましょう。 平成以後の小学校って、「子供に自発的に考えさせる」ことを重視しているので、小学生低学年の時点から「あなたはどう考えますか」って問うのよ。つまり、第二期の時点で既に子供たちを独立させようとする。だけど、シュタイナーによれば、人間は一度権威に従うことを学んでから、その後で独立すべきなのであって、最初から早期に独立させようとすると、ひ弱な独立心しか確立できないというのですな。 私は、この点について、シュタイナーの考え方が正しいと思いますねえ・・・。 とまあ、こんな感じでシュタイナー教育というのは、教育というものについての考え方として、非常に優れたものを持っている(ただし、簡単に実現できる、とは思いませんが)わけですが、勘違いしてはいけないのは、ルドルフ・シュタイナーというのは「教育家」ではない、ということですな。教育学の研究者とかではまったくない。もっと広く奥深い彼の思想を、教育面に応用したらこうなる、というだけの話でありまして。 じゃあ、シュタイナーの思想って何? ということになるわけですけど、ここから先がちょっとね、オカルトっぽくなります。彼はね、ブラヴァツキーの神智学協会の会員だったんですね。ブラヴァツキーの後を継いだアニー・ベサントが、会員のリードビーター牧師がインド・マドラスの海岸で見つけてきたクリシュナムルティ少年を「キリストの再来」とか持ち上げ始めた1913年になってようやく神智協会とは袂を分かち(この時シュタイナーは52歳)、「人智学」を起ち上げたくらいなもので。 だけど、じゃあシュタイナーというのは、オカルティストなのかっていうと、これがまた全然違います。神智学系の人たちは、科学では解明できない神秘があるって考えるわけですが、シュタイナーは、神秘はあるんだけど、それは理性的な思考や推論によって追求していけば解明できるはず、と考えていた。 例えば細胞というものの存在は、目には見えない。しかし、顕微鏡というものが発明された暁には、その存在が確認されたわけですな。それと同じように、神秘の世界/霊的な世界は、今はまだ確認できないかもしれないけど、それは存在しないということではなく、かつ人間には確認できないという類のものでもなく、顕微鏡的な理性的な手段がこの先現れれば確認できるものであると、まあ、そう考えていたわけね。その意味で、シュタイナーはオカルト的に見えるけれどもそうじゃないっていう。 でも、一見するとオカルトに見えるから、残念ながらルドルフ・シュタイナーの思想は、正しく評価されないところがある。そこが、シュタイナー信奉者からすると歯がゆいところでもあるわけ。 ま、いいや。とにかくそのオカルトっぽいシュタイナーの思想を垣間見てみましょう。 シュタイナーはこの世の存在が四つの要素で出来上がっている、と考えるんですな。その四つの要素とは、「物体(物質体)」「生命(エーテル体)」「意識(アストラル体)」「自分(自我=私)」。ほら、エーテル体とかアストラル体とか、オカルトっぽくなってきたでしょ? で、石とか土とか、そういう鉱物みたいなのは、「物質体」しか持ってない。だから、生きてない感じ。次に植物になると、これは物質体+エーテル体で出来ているので、生きている感じがする。でもまだ意識はない。眠っている生命、みたいな感じですな。で、動物のレベルになると物質体+エーテル体+アストラル体なので、感情を持つ生き生きした生命体となっているんだけど、まだ自我がない。 で、人間だけが、「物質体+エーテル体+アストラル体」にさらに超感覚的実体、霊的実体である「自我」を持ち、この自我がエーテル体、アストラル体に働きかけ、また記憶を保持するので、時間的連続性の自覚のある存在としての人間になり得ていると。だから、人間だけが特別の存在なのね。 で、なんで人間だけがそんな特権的な存在なのかと言いますと、人間には地球の進化(シュタイナーは、地球もまた進化する、という地球進化論者なのよ)に携わり、仲介する、重要な立場を与えられているから。この辺りの話は面倒くさいのでちょっと端折りますが、詳しく知りたい方は本書142ページ以降をご参照下さい)。 さあて。このように人間を物質体、エーテル体、アストラル体、自我の4要素に分けると、色々なことが解明できるのよ~。ここがシュタイナーの思想のめっちゃ面白いところでありまして。 例えば人は眠るでしょ。あれはですね、「物質体+エーテル体」と「アストラル体+自我」が一時的に切り離された状態なのでした~。だから記憶と意識がなくなるんですね~。だけど、眠っている間、アストラル体は物質体から飛び出てアストラル界(地球以外の宇宙(=星の世界)で物質界よりもはるかに広大!)に戻っておりまして、そこで活発に活動していると。で、その自由になったアストラル体がエーテル体に働きかけた結果、人は睡眠中に夢を見ると。で、この時アストラル体は、物質体の感覚器官と結びついていないので、外的環境と正しい関係を保てない。だから、夢のストーリーは現実離れするんですな。 またエーテル体が身体を離れ、物質体だけになってしまうと、それは死ぬということで、物質体としての身体は屍として崩壊します。しかし、エーテル体は崩壊せず、アストラル体と結びついてしばらく生き続ける・・・そう! これこそが「臨死体験」現象なのでありまーす! 臨死体験とは、シュタイナーの理論によれば、「エーテル体+アストラル体+自我」が一時的に「物質体」から切り離された後、どうしたわけか再び「物質体」に戻った場合に体験された現象だったのだ! なるほど~! ちなみに、正座した時とか、足がジーンと痺れるでしょ。あれはエーテル体が一時的に物質体から切り離された時に起こる現象なんですと。 あと、シュタイナーによれば、男性のエーテル体は女性的であり、逆に女性のエーテル体は男性的なんだそうで(126)。この辺が、ユングの「アニマ/アニムス」説と連結するところ(もっともユングとシュタイナーは同時代人であったにも拘わらず、互いに相容れなかったとのこと)なんだそうですが、これって、もうちょい押していけば、ジェンダー攪乱の問題とかの説明にもなるのかもね。 で、この人間を構成する四要素の話というのは、さらに広がって、シュタイナーの「ライフサイクル説」にもつながるんです。 どういうことかと言うと、シュタイナーは、人間の成長と死と再生を、この四元素との絡みで考えているから。 シュタイナーによると、人間はまず物質体として生まれ、第一期の七年期を過す。そして第一期の終り頃、具体的に言うと乳歯から永久歯に生え変わる頃、エーテル体が脱皮(脱皮か!)すると。で、次の第二期の七年間が終わって第三期に入る頃、アストラル体が脱皮する。同じくその状態で7年が過ぎ、第四期に入る頃、自我が脱皮して一人前の人間となる。つまり人間が自我を持った一人前の人間になるのが21歳ごろ、ということになるわけ。 で、このようなシュタイナーの理論を踏まえると、先に述べたシュタイナーの教育理論がなぜあのようなものになっていたのかが判明するわけですな。つまり学齢期にあたる第二期には、エーテル体の成長を促すことに集中すべきであるというわけ。その時期にアストラル体とか自我の成長を促そうとしたって、それは時期尚早、結果も出ないし、出たところで不完全なものにしかならない。だって、タイミングが合ってないんだから。一方、社会人として巣立つのは自我が脱皮する二十歳過ぎからだとするシュタイナー理論は、現実の状況にもよく合っていると言えましょう。 さて、そんな感じで立派に人となった人間は、しばらく充実した成熟期の人間としての時期を過すわけですが、そんな人生も後半に入りますと、成長の過程とちょうど逆のプロセスが始まります。 で、まず晩年に入ってまずアストラル体が7年ほどかけてエーテル体から養分を奪う。次の7年でエーテル体が今度は物質体から養分を奪うと。で、エーテル体が物質体から完全に養分を奪い取ると、そこで人間は「物質体としての死」を迎えるんですな。これが、つまりは人間の死ね。 しかし、シュタイナーは人間が物質体としての死を迎えた時点ですべてが終わると考えていたわけではないんですな。ここがまた面白いんですけど、彼は人間の「死後の成長」ということを言うわけですよ。 つまり、死ぬことによって物質体としての身体はこれで崩壊するけれども、まだエーテル体+アストラル体+自我は残っている。だから人間は死後もしばらくは意識や自我を保ち続けるわけ。ただし、アストラル体は物質体を失った以上、それ自体で新たな経験を積むわけにはいかない。そこで、アストラル体は過去の人生の記憶を映像として再生し、その記憶としての人生を経験し直す。 で、その際、時間は逆に流れるんですって。だから死ぬ直前から赤ん坊時代に向って逆の人生を辿り直すと。 で、ここがまた重要なんだけど、この逆回転の人生を歩んでいる中で、逆の立場を経験するんですと。つまり、物質体として生きていた時代に誰か他人を傷つけたことがあったとすると、この逆回転の記憶の中では、「傷つけられた側」の気持ちを経験することになる。そうやって、前の人生で自分が何をやらかしてきたのか、その意味を完全に理解していくんですな。またそのことで、赤ん坊の時まで記憶が遡った時点で一切の欲望が浄化されると。 とまあ、そんな作業をしながら、死後7年かけてまずエーテル体が分離する。そして次の7年をかけてアストラル体が分離する。 すると残るのは純粋な自我のみ。で、この状態でしばらく存在した後、やがて新たなるアストラル体が形成され、自我と結びつく。さらに7年かけて新たなエーテル体が形成される。で、この新装なった「エーテル体+アストラル体+自我」のワンセットが、新たなる物質体を得た時に、人間は「再生」する。そしてまた次の人生が始まると。その際、先の逆回転の記憶の再生の中で「他人を傷つけたこと」の罪の意識は生き続けるので、次の新しい人生の中では、それを償うような行動を取ることになると。 ひゃー、つまりシュタイナーの理論は、臨死体験を説明するのみならず、「魂の不死」とか、「生涯の回顧」とか、「(浄化された上での)生まれ変わり」も説明するわけですよ。しかも、前世の宿題が持ちこされて次の人生のカルマとなる、という考え方も持っていたっていう。カルマがあるってことは、別な言い方をすれば、「生きる目的がある」っていうことですな。 すごくない、この考え方。いや、すごいわ。 とはいえ、客観的に見れば、そんな死後を含めた人生のサイクルのことなんて、どうしてお前に分かるの? そんなのただのオカルトじゃん、っていうことになるわけですけど、そういう批判に対し、シュタイナーはそうではないと断言する。シュタイナーは断固として、自然科学的な〈原因―結果〉の因果律を徹底させていけば、今回の人生の原因を、どこか、それ以前に求めざるをえない。そして今世の結果を、どこか、それ以後に求めざるを得ない。それは、自然科学的な因果律に従ったことである(137)と主張するんですな。で、彼はパスツールを持ちだしながら、生命は生命からのみ生じる、無生命物質から生物が自然発生することはない。それは現代科学が明らかにしていることであり、ならばそれと同じく「自我(私)」も「自我(私)」以外のものから生じるはずがない。それは自然科学の立場のまま、ただレベルを変えて認識した結果、そういう結論にならざるを得ない、と言うわけ。 この「理性と明晰な判断によって超感覚的世界を認識する」ということこそ、シュタイナー思想のキモでありまして。彼は神智学協会の会員ではありましたが、当時話題のスピリチュアリズム(心霊主義)に対しては完全に否定的だったんですな。 ともかく、そんな具合ですから、シュタイナーは人間の生命を、今生だけに限って見てはいないわけ。で、そのことがまた、彼の教育論にも反映するんですな。つまり、担任となって子供たちの面倒を見ることとなった人間は、子供を子供として見るのではなく、彼らはこれまでにも様々な人生を経てきて、それぞれが宿題を抱え、生きる目的をもって再生してきた存在であり、そういう存在として彼らにリスペクトを払わなければならない、ということになるわけ。先に、シュタイナー教育のシステムの中で、担任となった者は「権威」として子供たちを従わせなければならないと言いましたが、それはただ頭ごなしに命令するということではなく、子供たちに対してリスペクトをもって接しつつ、この時期に必要なこととして「従うことを学ばせる」、という意味なんですな。霊界で高い霊的指導者に指導されてきた、その仕事を今生で引き継ぐのが教師の仕事だ、というね。 とまあ、自己啓発思想の研究をやっている者の目から見ても、ルドルフ・シュタイナーの思想というのは超面白い。その面白さを知っただけでも、本書を読んだ甲斐があったというもの。 本書には上で紹介してきたことの他にも、シュタイナーについての伝記的な事実、例えば彼の前半生はゲーテの研究者として有名だったとか、偏屈なキャラではなく、人のいう事も聞くし、人からも話を聞かれるような陽キャラだったとか、晩年、教育のみならず、有機農業とか、そういう方面まで多面的な活躍をし、有機農業の研究では、一時、シュタイナーの信奉者であったルドルフ・ヘスに見込まれて、ナチスの農業政策に取り込まれそうになったとか、人智学的医学の研究に関して、今日も石鹸などの製造で名高い「Wheleda」社は、シュタイナーの思想の影響下にあるとか、面白い話が満載。またシュタイナーの思想は非常に面白いのに、そのオカルト的な側面ゆえに今日ではイロモノ的な扱いしか受けていない事情とか、そういったことについても言及があって、シュタイナー思想の特異性についてもちゃんと言及がある。 で、本書の著者である西平さんが、ゴリゴリのシュタイナー主義者ではない、というところがまたいいんですわ。西平さんは、特に教育方面でのシュタイナーの業績を評価しつつ、そのオカルト的側面については、自分では完全に納得してないし、それを丸ごと鵜呑みにするだけの覚悟もないから、本書はシュタイナーの入門書ではあってもそれ以上ではないということを、本書の中で何度か明言しておられる。その点、まあ、一般の読書人の感性に近いので、それだけ一層、信頼できるところがある。 というわけで、私としてはこの本、大いに楽しみ、かつ大いに勉強させていただきました。実際、シュタイナーの入門書として、立派に成り立っていると思います。教授のおすすめ!と言っておきましょう。これこれ! ↓『中古』シュタイナー入門 (講談社現代新書)
October 3, 2021
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「アニキ」ことK教授から、上等な栗を沢山おすそ分けしていただいたので、今日は家内にそれを茹でてもらいました。大半は甘露煮に、4分の1くらいはそのまま茹で栗として。 栗は美味しいんですけど、鬼皮と渋皮を剥くのがね・・・。家内も手が痛くなるまで、沢山の栗を苦労して剥いておりました。 ところで、亡くなった私の父は、生前、栗が好きでね。若い頃は羊羹に砂糖をかけて食べるほど甘い物好きな人でしたが、栗に関しては栗本来の自然な甘みがいいと言って、甘栗やら甘露煮よりも、むしろ何も味を付けない茹で栗をそのまま食べていた。 で、好きこそものの上手なれではないですが、あまり台所に立つことのない昭和の男だったのに、栗を剥くのだけは上手でね。包丁を器用に使って、鬼皮をみしりみしりと剥き、渋皮をほろりほろりと剥いで、まるまると転がり出た栗の実をポイっと口に放り込む。この一連の流れを、飽きもせず繰り返していましたっけ。 で、私が感心して父が栗を剥くのをじーっと見ていると、たまに「ほれ」って言って剥いた栗の実を私の手に乗せてくれる。いや、食べたいから見ているのではなく、父が栗を剥く手つきがあまりに見事だから面白くて観ていただけだし、それに父が好きなほどには私は栗好きではないので、僕はいいよ、父さん自分で食べなよ、と思うのですが、それでも父が「ほれ」と言って栗をくれるそのタイミングがあまりにも絶妙なもので、いつも私は断る機会を失し、ありがたくもらった栗を食べることになるのでした。 家内が栗を剥くのを観ていて、そんなことを思い出した次第。 しかし、栗が出回るなんて、秋ですなあ・・・。
October 2, 2021
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新著が出たということで、ごく限られた内輪の方々には一般の販売開始に先立って謹呈して置いたのですが、今日はその反応の第一陣が吹き荒れ、大興奮の一日となりました。 今回の本は、私自身の研究書ということではなく、基本的には私の恩師へのオマージュ本なので、恩師と私のことを両方知っている方々だけに送らせていただいたのですが、さすが錚々たる読み手の方々だけに、その反応が凄かった。 で、色々感想を言っていただいたのですが、その中には、私自身も漠然としか感じていなかったことをズバリと言ってくれたものもあったりして、嬉しいと同時に驚かされたというか。あ、そういう風にこれを読んでくれるのかぁ・・・というね。 中でも、多くの人が指摘してくれたのは、恩師の文章と私の文章が非常によく響き合っている、ということ。その他、一般によくある「追悼文集」とは趣が異なり、ほとんど他に類を見ない本になっているのではないか、というようなことを言ってくださる人もいて、それは私自身の「なんか・・・変な本になっちまったなあ」という実感にも合致して、非常にうれしかった。 とまあ、そんな感じで、色々な方とメールで意見交換をしていたので、なんだか嵐のように慌ただしい一日になった次第。そう言えば、今日は実際に嵐が日本列島を通過したのでしたね。 とにかく、最初の手応えはよし。後は一般販売が数日後に始まってからの大勝負に賭けることにいたしましょう。
October 1, 2021
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