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荒このみさんが書いた『風と共に去りぬ アメリカン・サーガの光と影』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきます。これこれ! ↓風と共に去りぬ アメリカン・サーガの光と影 [ 荒 このみ ] その前に、この本の成立事情について述べておくと、著者の荒このみさんは、この本に先立つこと数年、2016年12月に岩波文庫から『風と共に去りぬ』を6巻本として訳出されたんですな。それ以前、『風と共に去りぬ』と言えば新潮文庫版の大久保康雄訳が長い間親しまれてきたわけですが、この岩波文庫版はその新訳ということになるわけ。 で、その6巻本の各巻巻末に「解説」が付いているわけですが、その6つの巻末解説を一冊にまとめて6章とし、それに書下ろしの章を一つ加えた7章建ての本として新たに出版したのが、本書『風と共に去りぬ アメリカン・サーガの光と影』ということになる。つまり、この本は荒このみさんが『風と共に去りぬ』の新訳を出した、その副産物と言っていい。 となると、これはちょっと面白いことになるんです。 というのは、実は岩波文庫版の新訳が出る1年半ほど前、2015年3月~6月に、新潮文庫から鴻巣友季子さんの訳で、大久保康雄訳に代わる新訳が出ているんですな。そしてその後鴻巣さんは、2018年12月に『謎とき『風と共に去りぬ』――矛盾と葛藤にみちた世界文学』という本を出している。もちろんこの本は、鴻巣さんが『風と共に去りぬ』の新訳を出した、その副産物になる。これこれ! ↓謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学 (新潮選書) [ 鴻巣 友季子 ] つまり、ここ数年の間に、期せずして『風と共に去りぬ』の新訳、それもどちらも名のある訳者による新訳が二種類出て、かつ、それぞれの訳者がその副産物として考察本を出しているわけ。ひゃー、もう、バチバチじゃないですかっ!! さて、そういう背筋の凍る話はとりあえず措くとして、まずは荒さんの考察本の方のお話し。 本書の「はじめに」というところを読むと、荒さんと『風と共に去りぬ』という小説の馴れ初めの話が出てまいります。それによると荒さんもまた、中学2年生の時に大久保康雄訳(と言っても、新潮文庫版ではなく、家にあった世界文学全集の一冊として)でこの小説を読み、非常に感銘を受けられたと。ある意味、この小説との出会いが、その後荒さんをアメリカ(文学)研究へと駆り立てた原動力にもなったというのですから、これは荒さんにとって決して小さくない出来事だったわけですな。 ところで、中学生の時には大久保訳をまるのまま受け容れていた荒さんだったわけですが、その後アメリカについての知識、あるいはこの小説の舞台となったアメリカ南部や南北戦争についての知識が深まった後でこれを再読した時、果たしてこの訳が著者マーガレット・ミッチェルの意を汲んだものなのか、疑問に思うところが多々出てきたと。で、そのことが今回、新訳を出そうという意図につながり、かつ、その新訳の学術的ベースとなったアメリカ/アメリカ南部の歴史や、そこに生きた女性たちの女性史などの知識を、「解説」という形で世に問うことにもなったわけ。 ですから本書は、『風と共に去りぬ』という小説を文学的に分析し、荒さんなりの解釈を提示する、ということに意を用いているのではなく、むしろこの小説の背景となる歴史的・文化的状況を解説するという点に力点があるということになる。その意味で、鴻巣さんの『謎とき『風と共に去りぬ』』が主として「文学的アプローチ」を採っているのに対し、荒さんの『アメリカン・サーガの光と影』の方は、この小説に対して「文化的アプローチ」を採っている、という風に言うことも出来るでありましょう。 では、そんな荒さんの「文化的アプローチ」とはいかなるものか? 例えば『第2章 スカーレットとそのDNA』を見ると、本作の主人公スカーレット・オハラが、貧しい階級のアイルランド人を父に持つ設定であることに荒さんは注目する。確かに「主人公がWASPではない」という設定は、一般の日本人からすると、言われなければ気が付かないレベルの話であるわけですが、そこから荒さんはまずアイルランドという国の歴史を繙き、この国が17世紀以降イギリスからの圧力にさらされ、押し寄せる英国国教会(プロテスタント)勢力によってカトリック教徒であるアイルランド人たちが生来の土地を追われたこと、また19世紀半ばの「じゃがいも飢饉」によって多くのアイルランド人がアメリカへの移住を余儀なくされたことについて述べ、さらに移住した先のアメリカでも厳しい差別を受け、同じく差別されていた黒人と同等以下の扱いを受けながら、工業国として発展しつつあったアメリカの底辺を担う労働力として使われた悲劇的な歴史を詳述していく。そしてそうした差別の中で、それでも社会的底辺から少しずつ地保を築いていったアイルランド人たちが居て、スカーレットの父親であるジェラルド・オハラがまさにそうした「裸一貫からの叩き上げ」であったことを明らかにしていく。つまり『風と共に去りぬ』の中で、オハラ家はアメリカ南部の大農園主の一家として登場するものの、その実はいわば「成金」であって、周辺の名家、例えばスカーレットが思いを寄せるアッシュリー・ウィルクスの生家・ウィルクス家のような代々の名家ではないんですな。 でまた、故郷の土地を追われて移住を余儀なくされ、その移住先のアメリカでも苦労を重ねてきたアイルランド人のジェラルド・オハラだからこそ、彼がようやく手に入れた「タラ農園」(「タラ」という農園名も、アイルランドの地名に由来する)に執着するのも無理はないのであって、ある時スカーレットが激情に駆られて「タラ農園だろうがどこだろうが欲しくなんかない。農園なんて意味がないわ」と口走った時、ジェラルドが「土地こそこの世で永遠のものだ。おまえ、そいつを忘れるな!」と彼女を激しく叱責したことの背景には、ジェラルド自身の奮闘の歴史のみならず、アイルランド民族全体の苦難の歴史があったはずだ、という荒さんの指摘は、非常に説得力がありました。また「農園なんて意味がない」と憎まれ口を叩きながらも、父母亡き後、スカーレットが孤軍奮闘してタラ農園を切り盛りするようになり、やがてはこの農園だけが彼女の心の支えとなっていくのも、スカーレットが父親から受け継いだアイルランド人魂/叩き上げ魂があったゆえ、という風にも言えるかも知れない。また本作もう一人の主人公たるレット・バトラーが、初対面のスカーレットに対し、「あなたはレディではない、そして私はレディには興味がない」と言い放つのも、スカーレットの中に一般の「サザン・ベル」とは異なる「コモン・マン(=平民)」としてのガッツあふれる資質を認めたせいであって、それはまたチャールストンの名家に生まれながら、そうした上流階級の仕来たりに馴染めずに親から勘当されたバトラー自身の気質にも合っていたからだ、という荒さんの解釈もまた、私には非常に説得力があった。 その他、例えばオハラ家のある「タラ農園」。これ、先程、スカーレットの父親のジェラルド・オハラが苦労して手に入れたもの、と言いましたが、じゃあ、ジェラルドはどうやってこの土地を入手したのか、ということを詳述した第4章も相当面白いよ。 実は、オハラ家のタラ農園があったジョージア州北部の土地は、ジェラルドが手に入れるほんの30年ほど前までは先住民チェロキー族の領土だったんですな。それを、ジョージア州政府とアメリカ連邦政府が「明白な運命」という錦の御旗の下、軍隊を派遣してチェロキー族の人々を西方に追いやり、力づくで奪い取った上で、白人の入植者に抽選で分け与えた。そうやってそこを「白人の土地」にしてしまおうというわけ。で、後にタラ農園になるその土地も、とある入植者のモノになっていたんですけれども、何としても自分の土地を持ちたいと思っていたジェラルドは、その入植者とこの土地を賭けたポーカーの勝負を挑み、まんまと勝つことで、この入植者からこの土地を手に入れることに成功したと。その意味でジェラルドは、自身、故郷アイルランドを追われた経験があるものの、他方でアメリカ政府の対インディアン政策に乗っかる形で、チェロキー族から故郷を奪っていたことになる。荒さんはその辺りの、アメリカ政府の対インディアン政策と、その政策によって悲惨な運命を辿ることになったアメリカ先住民たちについて詳述しながら、タラ農園の存在の背景に、二重の土地奪取の物語があったことを明らかにしていく。で、そうやってインディアンから奪い取った南部の大農園が、今度は南北戦争の敗北によって荒廃するわけですけれども、そういう歴史の流れを踏まえてみると、その悲劇もまたアメリカという国が抱えた因果応報の一部なのかなと・・・。 つまり、『風と共に去りぬ』という小説は、登場人物それぞれが抱えた歴史的・文化的背景まで探っていくと、全ての筋書きがちゃんと理由があってそうなっていることが分かるんですな。そういう意味でこの小説は、アメリカという国家の歴史が丹念に編みこまれた小説になっているのであって、決して単純な「恋愛小説」なんかではなく、「アメリカン・サーガ」と呼ぶべきものであると。しかも、描かれたアメリカという国がまた、インディアン問題、黒人奴隷問題など、様々な問題を内包した国家であるわけで、それを丹念に描くことは、光輝く側面だけでなく、暗い影をも描くことになると。 なるほどね~。 というわけで、この本はその「アメリカン・サーガの光と影」という副題の通り、『風と共に去りぬ』という小説に対して文化的アプローチをとることによって、この小説がいかに深くアメリカという国を描いているかを明らかにすることにまずは成功していると言えましょう。そしてそれはまた、通常「通俗小説」と見なされ、アメリカ文学研究の対象になることの少ない本作の再評価を促すことにもつながるのではないでしょうか。 ついでに言うと、文章もとても平易で、一般読者もすらすらと読めるものになっているのも美点。岩波書店の本だからと言って、構えて読む必要はまったくなし。また、冒頭に『風と共に去りぬ』の粗筋を紹介している部分があるのも、読者サービスとして素晴らしい。 ということで、荒このみさんの『風と共に去りぬ アメリカン・サーガの光と影』、教授のおすすめ!です。
July 31, 2021
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またまた仕事がらみではありますが、ジョージ・ギッシングの書いた『ヘンリー・ライクロフトの私記』なる本を読んでおります。これこれ! ↓ヘンリ・ライクロフトの私記 (岩波文庫) [ ジョージ・ロバート・ギッシング ] これさあ、昔、中学か高校の頃、父に勧められて一回読んだことがあったんですわ。 なんかね、父の世代の人間にとって、この本はなんだか英語学習における一つの通り道みたいなところがあったらしく、これを英語の原文で読み切ることが、英語を志す者にとってのバイエルみたいな感じで、誰もが読んでいたらしい。で、また読んでみてその内容に感動する、というのも通り道になっていたと。 だから、多分、父も若き日にこれを読んで、感動して、その感動を「この本は面白いぞ~」的なコメントと共に私に伝えたのだろうと。 で、子供の頃の私も、父に言われて岩波文庫版を読んでみたと。 そしたら、これがまた貧乏くさい話でさ。文筆業で極貧生活をしていたヘンリー・ライクロフトっていう男が、初老に至って友人からちょっとした遺産を譲り受け、田舎に家を借りて、それなりに不自由なく暮らせるようになり、赤貧生活をしていた頃のことを懐かしみながら、今の生活を細々と楽しむ、的な話なのよ。 あー、貧乏くさい! 俺はもっと、豪奢な生活を目指すぜ!! それから幾星霜。私も、それこそ過去を振り返るヘンリー・ライクロフトほどの年齢になって、それでこの本を読み返したら、自分がヘンリー・ライクロフトほどにも恵まれた境遇になっていないことに気づいて驚愕するという・・・。だって、田舎に家もってのんびり余生を楽しむほどの余裕が、今の私にはないんだもん。赤貧洗うが如きロンドン時代の若きヘンリー・ライクロフト同様、「いついつまでにこの書評を書いて、いついつまでにあっちの書評を書いて、いついつまでにこの論文書いて、いついつまでにあの論文書いて・・・」っていう締切に追われるばかり。のんびり道端の野草に目をやる余裕すらないという。で、このまま働き続けて定年を迎えて、果たして退職金と年金だけで残りの人生をうまくやりくりしていけるだろうかっていう、そんな不安にも苛まれているっていうね。 はあ~。情けない。 その情けない自己憐憫感。それを存分に味わいながらこの私記を読む。ひょっとして、それこそがこの本の醍醐味なのかもね。 ま、自己啓発思想的には、この本、「足るを知る」系なのかな? というわけで、なんか、切ない思いをしながら、この本を再読しているワタクシなのでありました、とさ。
July 30, 2021
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今日はワクチン接種の2回目。周囲では、2回目の方がキツかったという人が多かったので、ちょっと心配しましたが、今のところ、むしろ1回目より楽なぐらい。さほど腕も痛くないし。ただ、夜から明日にかけて熱が出ることもあり得るので、ここは一つ、水分を多めにとって用心することにします。今日は、柔術の稽古もパスしちゃったし。 しかし、今日は柔道が素晴らしかった! まずはウルフ・アロン選手、今日の彼は技が切れていた! 危ないところがほとんどなかったし、自分の組手になった途端に技をかける、その速さも良かった。決勝戦も、常に組み勝っていたし、最後の大内刈りも抜群のキレ! 完璧な勝利でした。 そして女子の濱田尚里選手がまた素晴らしい出来だった!! 私は元々寝技が好きで、オリンピック前から寝技女王のハマショー推しだったのですが、ワタクシの期待を裏切ることなく、いやいや、ワタクシの期待を遥かに超える寝技力で相手を圧勝。決勝なんて、ほとんど汗をかく間もなく、最強の相手をあっという間に手籠めにして「任務修了」してしまったんですから、もう、最高!! ハマショーの完璧な寝技を見て、今後、日本人選手がもっともっと寝技に力を入れてくれるといいなあ。 っつーことで、今日はコロナ対策も万全、柔道も万全な一日となったのでした。
July 29, 2021
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坪内祐三さんのどの本だったかに、坪内さんがどこぞの女子大で講師を務めていた際、植田康夫という人の書いた『ベストセラー考現学』という本を教科書代わりにしていた、ということが書いてあったので、ひょっとして何か読んで益するところがあるかしら?と思い、読んでみました。 で、出だしのところで、ベストセラーという言葉がいつごろから使われるようになったか、という話があって、それによると1895年にアメリカの雑誌『ブックマン』が「よく売れる本」の新刊本リストを掲載したのが、ベストセラー調査の端緒であると。なるほど、『ベストセラー」という概念は、19世紀末に生まれたってことですな。ちなみに日本に目を向けると、『週刊朝日』が1946年にこの言葉を使ったのが最初で、以後、数年のうちに一般の言葉になったとのこと。(7) で、植田さんが引用している瀬沼茂樹氏の『本の百年史』という本によると、明治時代のベストセラーの筆頭に来るのが、いわゆる「福澤本」で、(福澤自身の日記によると)『西洋事情』は15万部売れたと。しかも、当時はまだ著作権とか出版権というものが確立していなかったため、京阪方面においてはこの本の偽版が盛んにおこなわれていたのだそうで。ゆえに、偽版を加えると「二十万、乃至二十五万は間違いなかるべし」と。また『文明論之概略』は数万部、『学問のすゝめ』は毎篇二十万部、17篇合わせると340万部になるとのこと。(8ー9) そしてその福澤本と並んで、あるいはそれ以上に売れたのが中村正直の『西国立志編』で石井研堂の伝記によると、摺師・製本師など100人余が朝晩の別なく働いても需要に追い付かず、門前で最速する声が喧しかった。それでも足りず、プレミアがついて、市価は出版元で売り出す値段の数割高だったそうで。(9) このほか、内田正雄の『輿地誌略』という世界地理書の翻訳もよく売れた。これは『西洋事情』と同系統の本であり、小学校の教科書に用いられたことで、広く普及した。(10-11) さて、対象松から昭和初期には「円本ブーム」がくる。これは改造社の『現代日本文学全集』が端緒で、360万部の予約購読を獲得。これに刺激されて次々と円本全集が出たため、読書革命が生じた。(13)なお、円本に関しては本書120₋145頁に詳細がある。 昭和も戦後になると、『日米会話手帳』が空前のベストセラーに。四六判截判(94mm×131mm横長)、32頁の小冊子で、一冊80銭。これが初版30万部、最終的には360万部を売り切った。大日本印刷の輪転機を一週間借り切って印刷したとのこと。(14) ・・・と、この辺までが私の興味と重なるところで、あとは、今の仕事とは直接重ならないという意味では、今読まなくてもいい本だったかな・・・。 とはいえ、書いてあることが面白くないということではなく、単純な興味から全編面白く読ませていただきました。昭和のベストセラー史をざっと振り返る上では、なかなか役に立つ本なのではないかと。 例えば1980年代初頭に山口百恵の『蒼い時』と、黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』が出て、「タレント本時代」が到来する、とかね。で、この流れの中で、タレントに代わって執筆するゴーストライターが出てくる。永ちゃんの『成りあがり』とか。 で、その後、80年代後半になると、今度は俵万智の『サラダ記念日』と安部譲二の『塀の中の懲りない面々』がベストセラーになって、逆に「無名ライター時代」が来る。 ついで、今度は吉本ばななと村上春樹(『ノルウェイの森』)のヒットで、文芸復興が来るんだけど、この二人の共通点は、「読者の共感」と「装丁を含めたプロデュース力」。 一方、80年代末には「業界本」のヒットが相次ぐ。先の安部譲二の本もある意味業界本だけど、これに加えて江本孟紀の『プロ野球を10倍楽しく見る方法』とか木村繁の『医者からもらった薬がわかる本』とか。 そのほか、70年代以降のマンガ人気とか、角川の『八つ墓村』に端を発する文庫本ブームとか、出版をめぐるあれこれについて、色々書いてあります。読めば、ああそうだったよなあ、ということばかり。 だけどまあ、重要なのは、「古典や教養主義との訣別は、1970年をさかいに顕在化した」(155-156)ってことかな。これは、私自身の記憶によっても、またアメリカのヒッピー文化との絡みで考えても、そうなんだろうなと。 ま、あまりにもテキトーなまとめですけど、私にとって、この本から得た現時点で必要な知識はそんな感じでした。完全に学術的な本ではないけど、情報源としてはそこそこ使える本でした。
July 28, 2021
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連日、オリンピックでの快挙の報が届いております。 昨日は、柔道男子73キロ級で大野将平選手が二連覇の金!ということで、私も大興奮。最後の試合は、大野選手らしからぬ苦戦で、手に汗握りましたけれども、最後はやはり技を繰り出して勝利を掴み取ったところはさすが、さすが。インタビューでリオでの金メダルの後、モチベーションを失うようなところがあったと言っておりましたが、この人にしてそういう苦労をしておったのかと。その上で、それを乗り越えての今回の勝利ですから、より大きな価値があるとも言えましょう。お見事! 一方、女子の芳田司選手は、一日を通していい柔道をしていただけに、準決勝での負けは悔しかったでしょうけれども、最後、勝って掴んだ銅メダル、立派なものです。よく頑張りました。 しかし、昨日のハイライトは、やっぱり水谷準/伊藤美誠ペアの卓球混合ダブルスでの金メダルでしたかね~。日本卓球界の悲願、中国を倒しての快挙、素晴らしかった。 それにしてもあの伊藤美誠選手の天衣無縫の天真爛漫ぶりというのはすごい! プレッシャーなんて何の話? と言わんばかりの躍動、厳しい試合中にも笑顔を絶やさないところ等々、観ているだけで楽しい! だけど、今回、私がそれ以上に評価したいのは水谷準選手よ。いやあ、彼は今回、男を上げたねえ! プレーの質、伊藤美誠選手とのコンビネーションの良さはもちろんよ。それはもう見事の一語。だけど、それだけじゃない。やっぱりベテランの味というのか、長くこの世界で第一線で活躍してきて、さらに目の手術をしたりして色々苦労してきた、そういうものの積み重ねの上に築かれた人間性の厚みっつーか。それが素晴らしかった。 例えば勝利インタビューの時に、スタジオで解説をしていた福原愛さんに、「愛ちゃん、やったよ~」って言ったその一言。 あれはさあ、ただ単に日本代表選手団のメンバーとして一緒に闘ってきた福原愛さんに挨拶したっていうだけじゃないよね。 まあ、福原さんにはこのところプライベートのところで色々あって、中にはそういうことに批判的な人もいて、この時期に表舞台に復帰してテレビに出ることに対していい顔をしない人もいるだろうってことを踏まえての話でしょ。福原さんだって、もしからしたらそういう空気に晒されて、ちょっと萎縮しているところもあったかもしれないわけで。 そこで金メダルの快挙を成し遂げた水谷選手がさ、ああやって福原さんに公然と気持ちのいい挨拶をしたのは、「ここに味方がいるよ~」っていうことじゃん。「(人がどう言おうと)あなたはそこに居ていいんだよ~」っていうメッセージじゃん。それを日本の卓球界を長年引っ張ってきた、そして今、中国の壁を突き破って日本卓球の新たなページを開いた男が言ったわけでしょ。 いやあ、優しい、いい男じゃないの、水谷選手ってのは。優しさとは強さであるという、その見本みたいな行為だよね。「愛ちゃん、やったよ~」のあの心優しい一言で、私は水谷隼という漢に惚れたぜ。もう私なんか、水谷選手のあの一言で、愛ちゃんの禊は済んだことにしちゃうもん。男一匹、水谷がいいって言ってんだからもういいんだよ! っつーわけで、色々感動するやら、感心するやら、日本選手の活躍から目が離せないワタクシなのであります。
July 27, 2021
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あんまり大学の仕事がヒマなもんで、なんか書評の仕事の依頼とか来ないかな~、っていうか、これほど書評向きの天才ライターがヒマしているのに、どうして世間は放っておくのかな~って思って、先日、通勤途中に神社に立ち寄ったのよ。で、書評の仕事が来ますように、ってお願いしたんだけど、そしたら途端に書評依頼が来た。 とはいえ、それは所属学会からの依頼だったので、もちろん引き受けたけれども謝金発生せず。で、どうせならお金のもらえる仕事が良かったな~、だってわしの文章は金を出す価値があるからね~って思ってたら、今日、今度は某新聞社から書評の依頼が来た。 祈るだけで願いが叶う。神社とは、げに恐ろしいところよのぉ。 ということで、にわかに忙しくなっちゃった! 自分の研究のために読まなきゃいかん本もたーくさんあるし、馬力を上げて頑張ろう!
July 26, 2021
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仕事がらみで『チベット死者の書』という本を読んでいるのですが、まあ、これが退屈で。 有名な本ですから、書名くらいは知っている人も多いと思いますが、これ、チベット仏教における葬送の儀の手引書みたいなもので、人が死に瀕している時、その人を無事悟らせて極楽へ送るべく、しかるべき手順に従って死の床でこれこれこういうお経を唱えなさい的な本なんですな。 で、なんでそれを読んでいるかっつーと、そこで述べられている、「死にかけている人は、実際にはこういう状態になっている」という説明が、西洋でいう臨死体験の研究成果と非常に似通っているから。そこがね、非常に面白いといえば面白いわけ。 だけど、実際には仏教のしちめんどうくさい本だからねえ。読むのは大変よ。短い本ではあるのですが。 しかし、そういう内容面とはまた別に、この本にはワタクシ的に非常に面白い側面がありましてね。その辺りについては、また本書を読了した際にご報告することにいたしましょう。 というわけで、読書の方はなかなか進まないのですが、オリンピックの方は非常に面白い。 何といっても阿部一二三&詩兄妹の同日金メダルね。特に詩の方の決勝の相手が、勢いのあるフランスの選手だったもので、手に汗握りましたけど、後半相手がバテバテになったところで寝技で仕留めて一安心。お兄ちゃんの方も無理に勝ちに行かず、冷静に技ありを奪っての勝利。素晴らしい。 そして、今日はもう一つ、将棋の藤井聡太二冠が叡王戦の初戦に勝利と。ファンとしては楽しいことばかり。 こう楽しいことが次々起こるのでは、研究の方がなかなか進まないのも仕方ないよね・・・。
July 25, 2021
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昨日は東京オリンピック開会式・・・だったのですが、私はさほど興味がなかったのでパス。 しかし、一夜明けてネット経由で情報を見ると、色々あったみたいですね。芸人の悪ふざけは要らなかったんじゃないかとか、最終聖火ランナーを現役選手が務めたことの是非とか、バッハと聖子の挨拶は長すぎるんじゃないかとか、自国開催なのに開会式が夜中では日本の子供たちが見られないじゃないかとか、天皇陛下の開会宣言で誰かさんたちがボケっと座っていたのは国の恥なんじゃないかとか。 特に陛下がお立ちになられたのに、隣に座っていた連中がそのままぼーっと座っていて(しかもその座り方が・・・)、しかも陛下がお話しになっている途中でガサガサ立ったというのは、何をかいわんや、ですな。 一方、オリンピック競技のピクトグラムを「がーまるちょば」がアナログに再現したのは素晴らしかったという評判を見て、実際に映像を見たのですけど、確かにあれはなかなか良かったね! 楽しい出し物でした。お見事! そして初日の楽しみと言えば、やはりお家芸の柔道。高藤選手は最後まで我慢強く戦って見事金メダル1号を獲得。若い時からテクニックが素晴らしく、勝つ時はきれいに勝つ反面、負ける時もきれいに一本負けを喫するところがあって、大舞台で苦杯を舐めてきただけに、ついに金を獲ることが出来て本当に良かった。ただ、決勝戦で相手選手に出た3枚目の指導は・・・ちょっと早かったんじゃないかな? 決勝戦なんだから、もう少し、その先が見たかった。 一方、女性48キロ級の渡名喜選手は惜しかった。世界ランク1位を相手に決して競り負けてはいなかっただけに、ゴールデンスコアになだれ込めばもしかしたら・・・というところでしたね。次、頑張ってもらいたいもの。 ところで、聞くところによると、アルジェリアの柔道選手が、イスラエル選手との対戦を嫌って棄権したそうですが、これは良くないねえ。唾棄すべき行い。そんなの認めてたら、オリンピック憲章が泣くじゃないの。そういう棄権をした選手は、国際大会への出場を永久停止にすべきではないかと。おふざけでないよ、と言いたい。 まあ、とにかく、格闘技好きとしては初日から手に汗を握りましたが、その他の競技も含め、明日からも楽しみ!
July 24, 2021
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私はもともと夏バテしない体質であることが自慢だったんですが、今日、いきなり夏バテしまして。 今日・・・と言うより、昨日の夜から、かな? 昨日は柔術の稽古の日だったのですが、さすがにこの暑さの中で稽古をすると、汗の量が半端なく、道着がずぶ濡れになって重くなるくらいの汗をかいたのですが、そのせいか、家にたどり着く頃にはなんだか魂が抜けたようになっちゃって、慌ててミネラルやビタミンのサプリを飲んだり、お酢系のドリンクを飲んだりして回復にこれ努めたんですけれども、なかなか疲れが抜けず。で、今日もなんだか力が抜けちゃって、本を読んでいてもすぐに寝てしまう体たらく。 で、あー夏バテだーーーなどとぼやいていたら、家内曰く、この状況、なんだか既視感があると。 そしたら、確かに昨年の夏もやっぱり夏バテして、ぐだぐだしていた時期があったのでした。 「俺は夏バテしない」という自分神話は、もう通用しないということか・・・。 しかし、そこはそれ、「ザ・ポジティヴ」と呼ばれるワタクシ。鬱病の同僚と廊下ですれ違ったら、その人が私を見た瞬間、あまりのポジティヴ・オーラに立ち眩みして倒れたという伝説を作ったほどの男ですから、この状況にも雄々しく立ち向かってやろうじゃないの。 とりあえずニンニクでも食おう。栄養ドリンクを飲もう。合谷でも押そう。夏バテ対策、やれることは何でもやろう。 明日は立ち直るぞ!
July 23, 2021
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あーーーー嫌なモノを観ちまった・・・。『ミッドサマー』。なんか嫌な予感はしてたんだよな~。これ、素人がカルト集団の中にうっかり入ってしまう話でしょ。その時点で、嫌なことが起こるの確実じゃんか。 実際、すごく嫌なことが起こります。災難っていうか、ほぼ事故だよ事故。もらい事故。 ネタバレなので、まだ観てない人はここから先、読まないで欲しいんだけど、なんか精神不安定な女が居て、しかもその妹ってのがさらに精神不安定で、この妹が両親巻き込んで心中自殺するのよ。ということで、この女はいきなり身寄りが一人もいなくなりました。 で、この女には彼氏がいるんだけど、何しろ不安定な女なんで、彼氏さんもいささか参っているのね。だけど、まあ、とんでもない不幸があった直後だから、すぐには別れ話も出来ず、ぐずぐずと付き合っている。 それで、その彼氏さんの大学(院?)の仲間の一人がスウェーデンのなんとかいうカルト集団の出身で、その集団が90年に一回行うとかいう夏祭りがあるから一緒に見に行かないかとか言うので、人類学とか心理学とかが専攻のその彼氏も含め、男同士4人で夏にスウェーデンに行こうって話になったんだけど、そしたらその女が、「あーら、私は仲間外れなの」ってごねるので、面倒くさいからその彼氏さんは仕方なく、この女も連れていくことにしたわけ。 で、スウェーデンのそのカルトに着いてみると、外部から来たのはアメリカから来たその4人(カルト出身者は除く)と、イギリスから来たカップルのあわせて6人だけ。 さて、このカルトでは72歳を超えると、一生のサイクルは終了しましたってことで、崖から飛び降りて死ぬことになっていて、夏祭り初日に早速、この二人が公開飛び降り自殺をするのね。その内、一人は死にきれなかったので、係の人が大きなハンマーで頭を打ち砕きました。 で、これを見て驚いたイギリス人カップルは、こんなところに長居できるもんかと、カルト集団の土地を出ていこうとするのですが、残念! 二人とも殺されました。で、二人の死体は後で犠牲の儀式に使うことに。 で、残るアメリカ人4人のうち、一人はうっかりこのカルトが大切にしていた倒木におしっこひっかけちゃったので、残念! 殺されました。この人(の死体)も後で犠牲の儀式要員にされまーす。 で、残るアメリカ人3人のうち、一人は、このカルトの文化に興味を持ちすぎ、大事な聖書みたいなのの写真を撮ろうとしたもんで、残念! 殺されました。この人(の死体)も、儀式で使われることに。 で、残るアメリカ人は、件の女とその彼氏さんなんですけど、この彼氏さんは、星占いの結果、ちょうどいいってんで、変なクスリを飲まされ、カルトのメンバーの若い女と無理やり番わされることに。たまにこうして外部からの血を入れるのが、カルトの維持にはいいらしく。 一方、件の女は、なぜか女だけのダンスパーティーで踊る羽目になり、そのダンパのダンス競争で一等になって、「祭りの女王」にされちゃいました。 だけど、あれ? 彼氏がいないぞってんで、彼氏を探しにいったら、番いの儀式の真っ最中で、大ショック。 さて、この祭りでは、4日目だか5日目の目玉行事として、9人の人間を生贄にすることになっているんですけど、イギリス人二人、アメリカ人二人は既に殺してあるし、カルトの中でも既に二人亡くなっていて、さらに二人のボランティア(!)が出たので、これで8人確保。あと一人足りない。 ということで、アメリカ人の彼氏さんと、もう一人カルトの中からの候補者と、どっちを生贄にするか、ダンパの女王に決めてもらうことにすると。 で、件の女は、他の女と番ってた彼氏を生贄に指名。かくして彼氏さんは、一番残忍な方法で殺されることになりました。 で、外部から来た人間の中でただ一人生き残ったこの女が、最後、にやりと笑って映画は終わります。わたし、妹も両親も彼氏も失ったけど、ここで「カルト」というファミリーを見つけましたわ~、みたいな。 何コレ??? いやあ、どうなのよ、コレ。映画評とか見ると、とても高評価で、伏線たっぷりの女性が喜ぶ女性向けホラーなんだそうですけど、マジか。ワタクシに言わせれば、シチュエーションから何から、基地外映画としか思えんぞ。変な女に引っかかって、無残に殺された彼氏さんの立場にもなってみろって。異文化体験どころか、単なるカルト犯罪の犠牲者だろ。 うーん、この映画、ディカプリオが出た『ザ・ビーチ』、それからナイト・シャマランの『ヴィレッジ』と並ぶ、ワタクシの選ぶワースト映画に決定だ! 今年に入って観た映画の中では断トツで最低の映画。よく考えてみれば、この3本の映画、全部「人里離れた平和の楽園・・・かと思ったら地獄でした映画」じゃん。最悪だ・・・。 あー、もう、『ミッドサマー』を観ていた時間は、人生の無駄遣いだった。147分、返してくれ!!ミッドサマー 【DVD】
July 22, 2021
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このところ明治末期の自己啓発雑誌『成功』にまつわる論文を読んでいるのですが、またまたちょっと面白い論文を見つけましたので、心覚えをつけておきます。永谷健という研究者が書いた「明治後期における「成功」言説と実業エリート」(『三重大学 人文論集』35号、2018年)という論文なのですが。 例えば松下幸之助の有名な自己啓発本『道をひらく』をはじめとして、実業界の成功者の伝記や自らの成功体験を綴った執筆物が自己啓発本として読まれ、ベストセラーになる、ということは今でも多いわけですけれども、そういう風習は一体いつごろから発生したのか、というのは、自己啓発思想史を考える上で一つ、興味深い問題でありまして。で、本論を書かれた永谷先生に拠りますと、こういうことは明治以降、もう少し厳密に言うと明治38年頃から、日本が産業化していく過程で生じてきた現象であると。 それ以前は事情が全く異なります。それ以前、商業的な成功を収めた者は「奸商」とか「御用商人」とか呼ばれて、むしろ悪評高い存在――すなわち「プレモダンな賤商意識」の中でやっかみ半分に蔑まれてきた存在だった。つまり商業的成功者は、どこかの時点で軽蔑の対象から尊敬の対象へ切り替わったはずなのであって、それが明治38年頃だったと。 例えば明治22年の『国民之友』の記事は、明治維新後に成功した商人を「藩閥政府の寄り木たる、食客たる御用商人達」と決めつけ、「政府を透して人民の租税に衣食せし者」などと悪口を書いているし、明治23年の『日本人』という雑誌には、実業界の人々を「今日商業社会に勢力ある者は・・只他を倒し、己を利せんことに汲々たる狡猾卑劣者流」と罵っている。でまた、マスコミが財閥などをクソミソに攻撃したことをきっかけに、三井銀行や第一銀行の取り付け騒ぎなども起こるなど、成功者の側からも、厳しい世論を意識せざるを得なくなるような状況が続いていたと。 ところがこれが明治30年半ばになると、日本に「成功ブーム」が訪れるんですな。で、明治35年10月10日に創刊された『成功』誌がこのブームをあおる一方、もう一つ、明治30年6月10日創刊の『実業之日本』誌も、それまでは普通の経済誌であったものが、明治36年から若年層を想定読者に据えた成功を推奨する啓蒙雑誌へと変貌し、この二誌が中心となって、日本の若い世代に「成功」への憧れを植え付けることになると。 一つ不思議なのは、この明治30年代半ばの成功ブームが、日清戦争後の戦勝ブームが終わり、企業倒産が相次いで失業者が増えるといった恐慌のさなかに起こったということ。 キンモンスなどの研究者は、この理由について、「不況の代替もしくは代償という意味を含んでいた」と解釈する。つまり好景気で一旦過熱した人々の野心が、その後の恐慌によって行き場を失い、その行き場のない野心の受け皿として、成功言説が普及したのであろうと。 しかし本論の執筆者である永谷さんは、キンモンスの指摘も妥当かも知れないけれど、もう一つ、直接的な要因があったのではないか、と指摘しております。 じゃ、その直接的要因とは何かと申しますと、明治34年9月、時事新報が紙面に掲載した「日本全国五十万円以上の資産家」という大特集。これは日本の資産家を網羅的に調査して、三井三菱等の財閥系はもとより、渋沢栄一とか、大倉喜八郎とか、安田善次郎とか、そういう明治期の代表的な成功者の資産を調べ上げたもので、いわば日本における最初の「資産家リスト」だった。で、この記事は、当時、相当ショッキングだったらしく、同類の記事が他のメディアにも踊った他、この記事を引用した書物なども数多く出されたとのこと。 で、もちろん、こういう資産家たちに対して批判的な言説もあったものの、恐慌期にもこれだけの資産を持っている人たちがいるということに対し、「大したもんだ・・・」という素直な驚きを抱いた向きも多かったと。 で、先に述べたように、この頃『成功』や『実業之日本』などの雑誌が成功ブームをあおっていたという話をしましたが、これらの雑誌は創刊当時、海外の著名な富豪や成功者の経歴や苦心談、成功の秘訣などを載せていたんですな。 例えば『実業之日本』誌は、海外富豪の伝記としてトーマス・クック(旅行業)、ウィリアム・ヘスキス・リーヴァ―(石鹸製造)、ジョン・モルガン(金融業)、ジェームス・ワット(発明家)などについての記事を掲載していたし、明治35年9月から11月にかけ、アメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの著書『The Empire of Business』の抄訳を「致富の栞」という欄の中で6回にわたって掲載し、これをまとめた『実業の帝国』(小池靖一訳)を本として売り出してベストセラーにするなど、同誌の発展は、いわば海外富豪の成功談によると言っても過言ではなく、先に述べたように、こうしたことがきっかけで同誌は編集方針を「成功礼讃路線」へ舵を切ることになるわけ。 でまた、こういう成功者たちの成功へのプロセスを語る上で、投機的な成功を求めることなく、貯蓄を重視し、倹約を旨とし、勤勉に勤めたから、こういう成功を収めたのだ、というような、非常に道徳的な側面が強調されたと。 同じ頃、明治35年に『立志成功:致富商策』(商業講習会纂)という本が出て、この本も成功するためには「心術の修養」が必要で、その心術は「専心」「正直」「勤勉」「忍耐」「節倹」「細心」「果断」「度量」であるとし、それぞれの徳目に秀でた成功者として、たとえば「専心」に秀でた人としては古川市兵衛とヘンリー・ハイド、チャールズ・シュワッブが挙げられ、「勤勉」は渋沢栄一、「果断」は大倉喜八郎やロスチャイルド、「度量」は岩崎弥太郎やコーネリアス・ヴァンダービルトを挙げるといった調子で、その業績を紹介していった。 とまあ、そんな感じで、大富豪っていうのは、ずるい連中だから大富豪になったのではなく、徳が高いから大富豪になったのだ、という、富豪礼讃の言説に変化していくわけ。で、その中で、海外の富豪・成功者だけでなく、日本の富豪・成功者もその例として挙げられていくようになってきたのであって、ここにおいて(日本の)実業家たちは、自らの成功事績を正当化するチャンスが与えられるようになった。 要するに、ここが、商業的・経済的成功者が、「奸商」とか「御用商人」といった悪評を脱した契機だったんですな。で、それと同時に、彼らの発言は、成功の具体的なノウハウとかそういうことより、むしろ「着実」「正直」「勤勉」「健全な成功を期すること」等々、道徳的教訓を垂れることへとシフトしていく。 では、なぜ実業家たちは、そういう発言をするようになったのか。そしてまたなぜメディアは、実業家たちからのそういう発言を引き出そうとしたのか。 永谷先生に拠りますと、ここで「高等遊民」の問題を踏まえる必要が出てくるんですな。 実は明治38年頃から高等教育進学者の就職難問題というのが生じてきていたと。で、この問題は明治40年代に入って(日露戦争終結後の恐慌により)さらに深刻化する。事実、例えば東京高等商業学校の卒業生の中で就職未定者の割合の推移をみると、明治36年から42年の7年の間に、17.8%、11.6%、13.4%、34.8%、33.5%、27.8%、36.9%となっていて、相当深刻であることが分かる。 で、要するに、高等教育を受けた者たちは、たいてい大手へ、具体的には銀行や大企業に就職しようとするんですな。つまり俸給生活を狙う。と、そこで競争率が高くなって、落ちこぼれて就職できない若者が増えると。この、高等教育は受けたけれど、就職先がなくて遊んでいる連中こそが「高等遊民」であったわけでありまして。 じゃ、どうすればいいか? そんなのカンタン、俸給生活を狙うのではなく独立自営すればいい。要するに、起業すればいい。そもそも独立自営のためには、必ずしも高い学歴は必要ない。そんなものよりも、着実・正直・倹約・勤勉にやればいい。事実、日本の富豪の多くは、そうやってきたんじゃないか。 ここにおいて、この時期の日本は、高等教育を受けた若者の目を俸給生活志向から引き剥がし、実業界へと向けさせ、もって就職難を解消し、「高等遊民」の数を減らすために、日本版カーネギーとも言うべき一連の成功者たち、すなわち渋沢栄一とか安田善次郎とか、そういう実業界のヒーローを必要としたわけですな。 とまあ、そういう事情があって、日本の成功した実業家たちの言説が、自己啓発本となっていく契機が生まれたと、永谷先生は喝破しておられるわけ。 なるほどね~。非常に説得力あり。夏目漱石がしばしば描く「高等遊民」と自己啓発思想が、こういう風に交差するわけか~。 ということで、このあたりの事情について理解する上で、非常に役に立つ論文だったのでした。勉強になりました。
July 21, 2021
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東京オリンピック、いよいよ始まりますね。 このオリンピック開催が決まった時、「お・も・て・な・し」の人とか、フェンシングの人とか、飛び上がって抱き合って喜んでたなー、とか、そういうのが走馬灯のように思い出されますが、それから幾星霜、ロゴの盗作問題から始まって、森会長の女性蔑視発言を通過して、昨今のいじめ問題に至るまで、まあ、これほどすったもんだの多いオリンピックってあったんだろうかと・・・。 それでも、それがもうじき始まる。ってことは、表面に出ないところでひたすら頑張って、汗をかいて、誠心誠意、開催に向けて骨を折っている人達がたーくさんいるということでありまして、もちろん、この日のために努力を続けてきた選手たちもそうですが、そういう人たちのためにも、この大会がなんとか成功裡に始まって、無事、終わってもらいたいものでございます。 ちなみに私の当面の興味は、やっぱり柔道なんだよなー。阿部兄妹は揃って金を取れるのか、とか、高藤はどうなんだとか、大野はどうなんだとかもさることながら、女子の浜田尚里選手に興味津々。浜田の寝技はすごいからね。あれが世界を穫れるのか。 始まっちゃえば、やっぱり、2週間、日本選手の成績に一喜一憂することでありましょう。やるとなった以上、楽しみたいよね!
July 20, 2021
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『成功』という明治時代の雑誌についてあれこれ調べていく中で、また一つ面白い論文があったので、ご紹介がてら、その内容をまとめておきましょう。 その論文というのは、加賀谷真澄さんという秋田県立大の先生が書かれた「明治三〇年代の渡米熱 ――貧困問題、労働問題、『成功』雑誌との関係性ーー」という論文で、2014年に『秋田県立大学総合科学研究彙報』に出たもの。 明治時代に入った日本は、西洋先進国に追いつこうと、様々な分野で近代化を急いだわけですが、その過程で貧困問題・労働問題など、かつてない社会問題が生じてきた。で、明治政府はこうした問題の解決策についても、西洋諸国を手本にしようとした、というのですな。 で、明治初期に出てきたのが、「貧困問題・労働問題を一挙に解決するんだったら、移民を進めたらいいんじゃね?」という考え方。これは、アダム・スミスやジョン・スチュアート・ミルなど、イギリスの経済思想の影響で出てきた話。例えば1883年、『東京経済雑誌』に、この雑誌の創設者である田中卯吉という人が「植民制」という記事を書いていて、この中で田中は北海道・台湾・南洋への植民を進めるべきことを主張している。で、その参考文献として、アダム・スミスの『富国論』を挙げていると。 ちなみに、1870年代から80年代にかけて、日本ではミルの『経済学原理』とかアダム・スミスの『国富論』をはじめとして、数多くの経済書が翻訳されていたのに加え、例えば松本直己という人が『経済審論』なる編訳本の中でミル/フォーセット/ケーリーなどの経済論を紹介し、特に「移民論」などという項目を立てていることからも明らかなように、イギリス/西洋経済学における移民論が、つとに紹介されていたことが分かるんですな。 で、こうした移民推進論がこの時期の日本で盛んに注目された背景には「松方デフレ」があった。簡単に言うと、西南戦争の出費を賄うために政府が紙幣を印刷し過ぎ、インフレに陥ったので、時の大蔵卿・松方正義が出回り過ぎた紙幣を回収して燃やしちゃってデフレを導入したもので、物価、特に農産物の価格が下がり、農民が食っていけなくなって、食い扶持のない農家の若者が大挙して都会に出てきちゃった、っていう話。だから、この時代、経済不況もさることながら、都会に若者が多くなりすぎて、就職氷河期時代になってしまったと。だから、この職のない若者どもをどうするか、というのが、経済問題の上にかぶさっていたわけね。 ちなみに福沢諭吉も『西洋事情』(1866-70)の中で、イギリス及びヨーロッパ諸国の繁栄は、植民地の領有、および植民地と本国との自由貿易によって成り立っている、と述べているし、また『時事新報』において「朝鮮国に資本を移用すれば我を利すること大なり」とか「○○(中国のこと)行きを奨励すべし」などの主張をしていることから見ても、日本の国土の狭さや人口の多さ、貧困問題を解決するにはヨーロッパ列強の真似をして植民地を持ち、そこと自由貿易するっきゃない、という考え方を持っていたことは明らか。・・・なんですけど、1884年以降、福沢諭吉の移民論は、主として「アメリカへ行け!」というものに変化していくんですな。イギリスやヨーロッパ諸国とは異なり、アメリカならば働きながら学業を修めることができる。だから、中流の知識階級の子弟に向って、福沢は「とりあえずアメリカ行っとけ」ってなことを言い出したと。 このほか、日本の下層民をアメリカに送って経済問題を解決しろと主張した武藤山治の『米国移住論』(1887)とか、学生の渡米を促し、アメリカに第二の日本を建設せよと主張した石田隈次の『来れ日本人』(1887)とか、貿易振興のための海外拠点を作ることを主張した本も出るし、加えて榎本武揚も1893年に「植民協会」なるものを起ち上げ、もう北海道とかの殖民じゃ足りない、「海外に我国の植民あれば彼ら自ら本国の物品を受容するのみならず外人をして之を受容するの道を知らしめて以て大いに通商の端を開くべし」と主張するなど、日本に移民ブームが、とりわけアメリカへの移民ブームが生じるようになるんですな。で、実際、アメリカ向け旅券発給数も、1880年にはたったの35件だったのに、約10年後の1891年には10,501件に膨れ上がっている。またその行き先もハワイではなく、アメリカ本土が多くなっていったと。 で、このタイミングで1901年に刊行され、日本でベストセラーになったのが、片山潜の『渡米案内』ね。 ただし、片山潜のこの本における主張は、先の福沢諭吉の植民奨励とはちょっと異なる点がある。福沢は、日本の国土の狭さと人口の多さを鑑み、また最終的には日本と植民地との通商を視野に入れて(慶應義塾に来るような)中流階級の子弟に向って海外へ行け、と発破をかけたわけですが、片山はそうじゃない。片山は、日本の国土の狭さとか人口問題とか、そういうのは問題視してない。そういうのは、日本国内の農地拡大だけで対処できると。 片山は、そういう経済学的な見地からではなく、むしろアメリカに行くことで自主独立の逞しい精神を身につけるために、換言すれば「個人としての自己実現」のために、アメリカに行け、と言っているわけ。だから、片山が呼びかけているのは、(かつて自分がそうであった)農村の若者なのでありまーす。なぜなら、(かつて自分がそうであったように)農村の貧しい若者の方が、都会のちゃらい若者よりガッツがあるから。片山の言を引きましょう: 「吾人が其移住すべき人に就いて言はば、東京に在る富裕なる所の学生よりも、寧ろ労働に従事せる人を以て宜しきものと看做すものなり、何となれば意志薄弱なる学生が金を握って移住するよりも却って農家の子弟が無一物にして移住するも、其忍耐力の強きことを信ずればなり」 ってなわけで、片山のベストセラー『渡米案内』は、現代の『地球の歩き方』のごとく、「渡航前の準備から現地についてからの生活設計、異国で暮らす心構えなど、物心両面にわたる具体的なアドバイス」であったと。 そもそも片山自身、無一物でアメリカに行って来た苦労人だけに、帰国後、彼のもとには渡米の志を持った若者たち――その多くは人力車夫や新聞配達をしながら学ぶ苦学生が多かった――が引きも切らなかったそうで、そこに渡米案内的な本に対する需要があることは明らかだったんですな。 実際、『渡米案内』は「一週間に二千部も売れる」と言った調子でベストセラーとなり、また片山同様、渡米経験のある著者による類書(例えば1901年に刊行された本だけでも、一柳松庵の『渡米の栞』、島貫丘太郎の『渡米案内大全』、渡部四郎の『改正増補 英会話と職業編』など)も次々と出てこれをきっかけに日本では渡米ブームが生じることになった。で、これら一連の渡米案内書の序文などを見ると、海外移=国益であるということを踏まえた上で、「個人の成功」というものに力点が移っていることが分かると。 つまり、「国益」から「個人益」へと、シフトしていたんですな。 で、その片山潜は、ここから日本の労働組合史に大きな足跡を残すようになるわけですけれども、彼の檄によって多くの若者たちが実際にアメリカを目指したことのうちには、労働者階級を含め、どの社会階層の人間であれ、幸福を追求することができるという、アメリカ仕込みの考え方が片山にはあり、それが自己啓発としての渡米という形でも表明された、っつーことでもある。 で、折しもこの頃、オリソン・マーデンの『サクセス』誌(1898)を範として村上俊蔵が『成功』誌を起ち上げると。『成功』誌は、経済的には中流以下の十代、二十代の若者が購買層となっていて、自己資金がない中での神学相談や英語の独習法の相談、あるいは渡米相談などが読者欄に寄せられていた。 この『成功』誌には、幸田露伴、巌本善治、徳富猪一郎、井上円了、志賀重昴などが特別賛成員として名を連ね、海老名弾正、加藤博之、井上哲次郎、新渡戸稲造などが名誉賛成員となり、さらに片山潜などの社会主義・労働運動関連の人たちまで執筆者として加わっていた。彼らが加わっていたのは、チャンスに恵まれない若者たちが、渡米することで立身を成し遂げることを推進するという意味合いがあり、貧困・労働問題と、成功という要素が、ここで手を結んだ。例えば横山源之助が『労働世界』という雑誌に連載した「鉄骨児」という小説も、社会不平等に抗議する鉄骨漢の主人公が海外雄飛を目指す物語で、この時代の労働問題と自己実現の結びつきを示すものとなっている。作者の横山は、毎日新聞の記者で、日本の労働問題や若者の現状に詳しかった。それが、この小説に反映していると考えられる。 以上、明治後期の渡米ブームには、明治初期の移民振興とはまた異なるモーメントがあった。 ・・・というような内容。面白いでしょ? 『成功』という雑誌が創刊された背景を知るという点で、ワタクシには非常に役に立つ論文でありました。勉強になりました。
July 19, 2021
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臨死体験についての本をあれこれ読んでいるところなんですけど、その一環としてケネス・リングの『いまわのきわに見る死の世界』(原題:Life at Death: A Scientific investigation of the near-death experience, 1980)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 アメリカにおける近年の臨死体験ブームというのは、まずはエリザベス・キューブラー・ロスのサナトロジー(死生学)が火をつけ、ついで1975年にレイモンド・ムーディが出した『かいまみた死後の世界(Life after Life)』がベストセラーになったことで一気に高まった、ということは、既にこのブログにも書き記したところ。で、特にこのムーディの本が決定打となり、例えば『National Enquirer』とか『Readers' Digest』とか、そういった庶民的な新聞・雑誌が取り上げたり、ドキュメンタリー映画「死線を越えて戻った人たち」なる疑似ドキュメンタリー映画まで作られたりして(175)、この話題は非常にホットなものになっていたと。 ま、これは私が思うことですけれども、1970年代半ばと言えば、ヒッピー・ムーヴメントは既に下火となっていた代わりに、その置き土産としての「意識改革ブーム」はまだ進行中、ニュー・エイジの連中がチャネリングだ、カルマだ、生まれ変わりだ、ってなことに夢中になっていた時期。そういう文脈で考えれば、「人間は死んだらどうなる?」ということへのアメリカ人全般の興味が、ムーディの著作で一気に噴出したことも納得でございます。 で、ケネス・リングですけれども、彼はコネチカット大学の心理学の先生だったのですが、当時ちょっと研究対象を見失っていて、何を研究したらいいか、思い悩んでいたんですな。そこへムーディの本がドーンと出て、これを読んだら(もともと興味はあった)臨死体験について、自分でも研究してみたーいっていう気持ちに火がついたと。 で、これだ! わしが研究すべきはこれだ! と大いに発奮した彼は、1977年5月からの13カ月間、臨死体験者へのインタビューに打ち込み、100人ちょいの臨死体験者の詳細なデータを取って、自らも本を書いた、それが本書であると。 だから方向性としては先行するレイモンド・ムーディの研究とあまり変わらないんだけれども、ケネス・リングとしてはムーディの研究のアラが気になっていて、つまりムーディの研究と称するもの(プラス、エリザベス・キューブラー・ロスの研究)は、結局、「エピソード集」に過ぎないではないかと。確かに、臨死体験をした人に取材して聞き取った体験談は面白いのだけど、死にかかった人のうち、何パーセントくらいの人がそういう特殊な体験をするのか? 男女差はあるのか? 死にかかった原因(病気? 事故? 自殺?)によって、臨死体験の内容は変わるのか? 死にかかった人の宗教的バックグラウンド(カトリック、プロテスタント、それ以外、無神論者)によって臨死体験の内容は変わるのか?・・・といったことについての、きちんとしたデータが取れてない。これでは、科学的なアプローチとは言えないではないか・・・というのが、リングのムーディに対する、そしてロスに対する批判なわけ。 その辺り、リング自身の批判的発言を抜き出しますと、こんな感じ:「キューブラー・ロスのデータも、ムーディのデータも、いまだに科学的分析あるいは評価ができるような形では提示されていないということである。すでに述べたように、キューブラー・ロスは、彼女の研究成果というものを広範に話しているけれども、要約的な説明と例証的な事例があるだけで、素材について科学的な判断を下せる確たる証拠はほとんどない。ムーディの著作のほうは、彼自身が、苦労した言い回しながら率直に、自分の調査は科学的な研究とみなされるべきではないと断っている。彼が提示したニア・デス現象は、高度に選別されているようには見える。しかし、彼の”標本抽出手続き”は本質的には恣意的でしかなく、なんら統計的な分析がなされていない。このように、彼らが述べている研究成果は、きわめて示唆的で、それを知った多くの人たち(私を含めて)を信じさせるものではあるが、厳密な評価の基準に照らすと、”死後の生命”の問題はもちろん、死の世界へ足を踏み入れたという経験さえ、科学的に立証されていることにならない。」(11-12) だから、自分はその辺をしっかり調べて、より科学的に厳密に臨死体験なるものを調べよう、というのが、本書におけるリングの立場なんですな。 あともう一つ、リングが問題点として指摘しているのは、キューブラー・ロスとムーディが引き起こした臨死ブームのおかげで、それに1世紀ほど先立つ科学的研究の成果がかき消されてしまったこと。リングによれば、臨死体験とか死後の世界については、「心霊研究」と呼ばれ、今は「超心理学」と呼ばれている分野の研究者によって、既に研究が始められていたと。例えばニア・デス現象については、スイスの地質学者アルバート・ハイムが報告している(これについては1970年代にラッセル・ノイス・ジュニアとレイ・クレッティによってアメリカで翻訳が出て再注目された。ただしハイムの報告について、ノイスやクレッティは、この現象について人格喪失(=死の恐怖に対する自己防衛反応)が生じたためと解釈している。なお、ノイスとクレッティの研究はチェコのスタニスラフ・グロフやジョン・ハリファックスにも影響を与え、彼らは臨死体験とLSDなどの薬物の人体への影響の類似性に注目し、共同で『死との遭遇』なる本を出している)し、エドマンド・ガーニイとかF・W・H・マイアーズ、あるいはウィリアム・バレット卿などの初期の研究者たちや、カーリス・オシスやアーレンダー・ヘラルドソンなどによって引き継がれてきた。こうした研究の蓄積が、ロスとムーディへの注目が大きすぎたために、ないがしろにされてしまったことは遺憾であると(12-13)。 ということで、リングは臨死体験を、より科学的に研究していくわけですけれども、じゃあ彼がまず最初に何をやったかと申しますと、死にかかった人の何割かが体験する、いわゆる臨死体験の中から幾つかの共通点を抽出し、さらにそこに比重をかけて点数化して、高得点獲得者を「コア体験経験者」と認める、という分類をするわけ。 ではその共通点(及びその比重)とは何かと言いますと、次の通り:①死んでいるという主観的感覚(比重 1)②安らぎ、無痛、気持ちがいい等の感じ (2)③身体が分離する感覚 (2)④暗い場所へ入っていく感覚 (2)⑤誰かに会う/声を聞く (3)⑥自分の人生を振り返る (3)⑦光を見る、光に包まれる (3)⑧美しい色を見る (1)⑨光の中に入る (4)⑩目に見える霊魂に会う (3) ちなみにリングの挙げた上記10項目に対し、ムーディの臨死体験は15項目ありまして、それは以下の通り:①死んでいるという主観的感覚②音を聞く③暗い場所(トンネル)へ入っていく感覚④身体が分離する感覚⑤自分自身の物理的肉体の傍観者的知覚⑥現況への慣れ⑦新しい自分の状態が持つ特殊能力の自覚⑧誰かに会う/声を聞く⑨光の精に会う⑩光の精が、人生の総括を促す⑪自分の人生を一瞬のうちに映像として振り返る⑫現世と来世の境目に至る⑬現世に戻る判断をする⑭死後の世界の安らぎに心奪われ、現世に戻ることへの葛藤が生じる⑮意に反して再び自分自身の物理的肉体と結合し、蘇生する ま、大体一緒ですわな。実際、リングもコア体験の一般的なパターンを134-136頁に示していますが、これはムーディが示したパターンとほとんど同じものになっている(ただし、ムーディの方にある「大きく不快な音を聞く」というのは、リングがインタビューした被験者の中ではほとんど見られなかったとのこと)。 で、リングの方は10項目の体験項目に比重(つまり、数字の大きい体験の方が、より本質的と考えている)をかけた上で、被調査者に対してこれら10の各項目を感じれば「1」を、感じなければ「0」を自己採点させるんですな(ただし②~④に関しては感じれば「1」、強く感じれば「2」)。で、この計算法で行くと最低0点、マックス29点(30点のような気がするのですが、なぜか29点で計算されている)となるので、このうち6点以下の者は「コア体験なし」、6点から9点をとった者は「中庸の経験者」、10点以上を「深い経験者」と評定すると。 で、リングのインタビューした102人をこの評定で分類すると、27人が深い経験者、22人が中庸の経験者、53人が非経験者となる。つまり、臨死体験者の内、コア体験をしたのは約半数、ということになるわけ。死にかかった誰もが、あの世の入り口に差し掛かった、という感覚を持つわけではないのね。なお、医療関係者からの紹介でインタビューした人だけを見ると、39%の人がコア体験を持っていて、これは同様の調査を行ったセイボム/クロイツィガーの結果(43%)とほぼ同じ。 ちなみに、コア体験をするかしないかには、性別の差はありません。 臨死体験をする年齢ですが、これは病気で死にかけた人と、事故や自殺で死にかけた人で、20才くらいの年齢差がある。まあ、事故や自殺する人は若い人に多いので、そうなるわけ。しかしコア経験をするかしないかは年令にはあまり関係がない。 一方、臨死の原因によってはある程度、発生頻度が異なってきて、病気で死にかけた人にコア体験をするケースが多く、その次に事故、最後に自殺となっている。特に女性の場合、病気で死にかけた場合にコア体験をすることが多いんですな。一方、男性の場合は、逆に事故や自殺の時にコア体験をすることが多いと(141)。なお、事故によって臨死体験する場合は、人生回顧のフラッシュバックやフラッシュフォワードを経験することが多くなるという特徴もある(169)。 また自殺の場合は、ちょっとコア体験にも特徴があって、自殺者のコア体験では、トンネル体験とか、光を見る体験、誰かに会う体験をすることがないと。こうした特殊性にはいくつかの仮説があって、例えば自殺者は自殺を試みた時点で何らかの精神的トラブルを抱えていることが多く、また自殺行為をする際、アルコールや薬物の影響を受けていることも多い。そういうことがあるため、病気や事故による臨死と同列に考えてはいけないのかも知れない、ということである。 宗教的バックグラウンドについて言うと、これはコア体験をするかしないか、あるいは深いコア体験をするかしないかには全くかかわらないということがデータから明らかである(172)。 一方、ニア・デス体験について、あらかじめの知識を持っていることが、コア体験をするかしないかに影響するかどうか、について言うと、予備知識がある方がよりコア体験をしそうに思われるものの、これはむしろ逆で、予備知識のある人の方がコア体験をすることが少ない、という結果になっている(176)要するに、特に影響を与えるものではない。 臨死体験後の効果について言うと、これはコア体験者も非コア体験者も同じで、人生観がポジティヴに変わることが観察されるとのこと(182)。生きる意味を改めて(あるいは初めて)考え直す契機となり、結果、よりよく生きよう、物質的豊かさを追求するのではなく、愛を中心として生きよう、という風に変わるらしい。 また宗教観の変化については、より宗教的にはなるけれども、既成宗教団体への帰属意識は薄れる傾向が明白で、自分は神を直接見たのだから、もう教会などの権威には従わないという考え方に変わる人が多い。つまり宗教的というよりは霊的に変わる(196)傾向がみられる。 死後の生命についての認識については、コア体験者と非コア体験者で鮮やかな対比があり、体験者は死をまったく恐れなくなる傾向が顕著となる(197)。 一方、リング/ムーディ/セイボムの研究では、臨死体験をした人が「地獄を見た」という証言をした者は一人もいない。オシス/ハラルドソンの研究でも、一例しかない。ただモーリス・ローリングズの研究では地獄を見るケースを多々報告しているが、ローリングズの研究は、キリスト教への改宗を促す意図を持った研究なので、そこは割り引いて考えないといけない。とはいえ、このことをもって「臨死体験で地獄を見るケースは皆無」と言い切るのも科学的態度とは言えない。今後、調査が進めばそういうケースも出てくるかも知れない、という程度にしておくのが妥当ではないか(213)。 本書第10章において、リングは臨死体験の解釈について、色々な仮説を提示しながら、その妥当性を検討します。 例えば「心理学的説明」として、「自我感喪失」という仮説がある。これは先にちょっと触れたノイエ/クレッティの研究の解釈ですが、彼らは事故死における臨死体験の研究の結論として、死が差し迫った時に、その恐怖から自己を防衛するためにエゴを自分の肉体から追い出そうという意識が働き、それが人生回顧パノラマなどを見せることになるのではないか、というもの。 あるいは「願望的思考」という解釈があって、死に瀕した場合、それを安らかな旅に変えたいという心理的要求が発生し、近しい人の幻影を見させるのではないかというもの。ただし、これはキューブラー・ロスによって否定されている。ロスによれば、もしこの仮説が真であるなら、幼い子が死にかける時、親の姿を幻視するはずなのに、そういうケースはない(親が既に死んでいる場合は、親が迎えに出てくることがある)ので、この仮説は成り立たないと。 あるいは、コア体験は夢か幻覚ではないか、という仮説もあるが、これは体験者が口を揃えて「あれは現実だった」と述べていることから否定されると。 また「薬学的説明」では、病気で臨死体験をする際、麻酔薬などの薬が投与されていることが多いので、その影響ではないか、とするもの。あるいは、死にかけた時に脳に酸素が行き渡らなくなることの影響や、大脳が一時的に錯誤をするのではないかとか、エンドルフィンの影響ではないかとか、色々ある。しかし、これらの仮説は、証明されるところまで行っていないので、リングとしては今のところ採用できないと考えているらしい。 では、リング自身はどう解釈し、どういう仮説を取るのか。それが本書最終章に当たる第11章で語られております。 で、この第11章を読んだ私は、思わずぶっ飛んだのでした。 だってさ、リングはここまで、「先行研究であるロスやムーディの研究は、単なるエピソード集で、科学的検証がなされてない。だから自分は、科学的アプローチでこの問題に取り組む」と、声高に宣言していたわけじゃないですか。そしてここまでの論述は、その宣言通り、統計的にも手堅い手法で、しかも統計的に小さな値であっても無視することなく、「統計的には小さいが、そういう可能性を完全に否定するものではない」というような謙虚な態度でデータを扱っていたわけでしょ。だから、リング自身が臨死体験を解釈するに当たっても、謙虚な謙虚な解釈になるのだろうと思っていたのよ。 ところが。 第11章に至り、リング自身のこの問題への解釈を披露するに当たって、なんとリングは、「超心理学的ホログラフィー仮説」というものを採用したのでした。 つまり、ここまでやってきた科学的調査の結論として、コア体験というのは、実際に肉体から「何か」が抜け出た結果生じた実体験であろうと。そう考えると、全ての現象の説明がつくと。 えええーーーーーー! リングは「魂」の実在を言っているの? そうなの??!! マジかぁーーーー!! そしてその証拠としてリングは、(クルッコールとかハウトなどの先行研究によると)人が死にかけると、その身体から何か雲のようなもの(ハウトの用語によると「アストラル・ボディ(星気体)」)が抜け出るのが霊能者には見える、ということを持ち出して来る。しかも、それプラス、ロバート・モンローなど、肉体から離れる経験をした人の話は、従来からたーくさんある、というようなことも、自分の仮説をサポートするものとして出してくる。 マジか・・・。リングは科学者かと思っていたら、実はオカルティストだったのか・・・。 その辺り、リングが開き直っているところをお読みください: 「コア経験の初期の段階を、身体から抜け出る事実があることによると解釈する立場を明らかにするために、私は、肉体から抜け出る経験が現実であることを証明しようとする経験的な証拠が豊富にあること、それらの証拠は、われわれの得たニア・デス経験体験者たちの叙述に一致すること、死は物理的な肉体から第二の肉体――生き写し――が分離することをともなうというきわめて暗示的な証拠があることを示してきた。ここで、私は、この解釈は超心理学的接近と切り離せないあらゆる弱さを免れないものであるということ、したがって、そういう見地から評価されなければならないということを繰り返しておきたい。 この分離説をとるとき、密接的な関係がある明らかにされなければならない問題がある。読者の中には、私が断固避けてきていても、私は、霊魂の概念を裏口から入れようとしていると考える人がいるかもしれない。確かに、死のときに肉体から離れる”何か”について語ることは、ほかのどういういい方をするにしても、霊魂のことを話しているように聞こえるかもしれない。私としては、心理学――私の専門分野――の根源的な意味は、”霊魂”あるいは霊魂の化身(サイキ)の研究ということであるのを思い出したほうがいいかもしれない。オシスとハラルドソンは、この問題について”もし経験的事実がそれを要求するならば、霊魂の概念を考えるべきときである”といっている。ムーディも、似たような立場をとるようである。」(272) 他の研究者も勝手に巻き込んで、心理学者は霊魂の学者なんだから、霊魂説を取るのは当たり前じゃ、みたいなことを言っております。盗人猛々しいとは、まさにこのこと! で、さすがに、死者の肉体から魂なり霊魂なりが出てくるという話を科学者としてするのは、いささか憚られたせいか、リングはここで「ホログラフィー」という話を出して来る。 つまり、人間は3次元の地球上においては確固たる存在のように見えるけれども、実は単なるホログラフィーであって、池に小石を投げ入れた時にできる波紋の重なり合いのようなもの。で、死とは、3次元の世界から4次元の世界へのホログラフィー的移動に過ぎない。コア体験でよく出てくる「トンネルのような暗い場所を通過する」というのは、まさにこのホログラフィー上の、3次元から4次元への移行の過程に他ならないと。 で、こうしたホログラフィー仮説は、リングに言わせると、「近代思想の歴史において最も重要な知的開発の一つ」であるかもしれないと。リング自身の言葉をお聴きください: 「と、ここまでいえば、私がとろうとしている方向は明らかであろう。しかし、私自身の口で、はっきり説明させてもらおう。私は、コア経験を、人をホログラフィー的領域へ導く神秘的経験の一つの型だと仮定している。この意識の状態においては、時間や空間が普通持っているような意味を失って、人が感じることになる新しい現実の秩序――周波数領域――がある。つまり、死んでゆく行為は、意識が普通の外に見える世界から純粋に周波数だけで構成されるホログラフィー的現実へ移行することになるのである。」(278) あーーあ。言っちゃったよ。っていうか、行っちゃった。あっちの世界に行っちゃった。 で、こういう風ですから、コア体験の時に人はとある「存在」の声を聞くけれども、あの「存在」とは、実は自分自身の声であった、と、リングは喝破します。自分というより、「高められた自分」。つまり・・・神。人間は、もともと神の一部であったのだ、と。 えー、何この大団円? ダースベーダーは、実はルークの父親だった、的な? ということで、ワタクシはこの本を最後まで読んできて、かつてないほどの衝撃を受けたのでした。 この本のレビューとか見ても、別にそんなこと書いてないですけど、これほどの「やっちまった本」って、そうはないよ。えー、どうしてみんな、この本に仰天しないの? 驚いているのはワタクシだけ? この手のジャンルの研究をしていると、しばしば驚くべき本に出くわすものですが、今回はとりわけ、驚かされてしまったのでした。
July 18, 2021
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ヤフー・ニュースを見ていて、なんだかとんでもない画像を発見。これはインパクトあるわ~! これ、「まさゆめ」というタイトルのプロジェクトらしいですけど、東京に突如出現した得体の知れない顔、シュールでいいね! どの角度から見ても、どういう背景で見ても、とてつもないインパクト。例えば、新宿の高層ビル街の中にこれが浮かんでいたとしても、見ものだったんじゃないかな。実物を見たかった! これさあ、東京オリンピック目当てで日本にやってきた大勢の外国人の観光客が見たら、さぞ、大受けだったんじゃね? 残念! ちなみに私が「まさゆめ」の画像を見て、「あー、あれに近い!」と最初に思い浮かんだのは、ルドンの「眼玉」ね。 その他、マックス・エルンストとか・・・ あるいはルネ・マグリットとか・・・ はたまた、サルバドール・ダリとか・・・ 日本で言えば、福沢一郎とかね・・・ こういう「空中に浮かぶ顔」って、シュール・レアリスムの主題としては、ある意味、陳腐ではあるんだけど、従来のものは2次元だからね。それを今回、3次元で実現したというのは、素晴らしい。 それにしても、ただ風船状のものに顔の絵を描いただけでは、ああまでリアルな顔にはならないだろうと思うのだけど、顔の造作を立体的に、それもあの大きさで実現するってのは、相当な技術が必要だっただろうね。 でまた、顔そのものもいいよね! あれが見慣れた顔、例えばマリリン・モンローとか、明石家さんまの顔だったら、さほどシュールにならないだろうし。あの、西洋人のようで西洋人でない、東洋人のようで東洋人でもない、双方をミックスした、例えば東欧人とか、中南米のインディオとか、その辺の人の顔(かな?)というところがいい。 要するに、リアルなのにリアルじゃない、リアルに根差しながらもリアルから逸脱する、そんな「合理的に説明のできない夢の世界」を再現するところにシュール・レアリスムのキモがあるわけで、そういう観点からすると、あの、どの国の人とも特定できない顔を選んだところも、今回のプロジェクトの成功要因があるんだろうな。 今の日本が陥っているコロナ禍のシュールで不安/不安定な状況を、こういう得体の知れない巨顔図像で表現したわけだ。いや、実にあっぱれ、あっぱれ。見事な芸術的活動として、久々に快哉を叫びたい。 ・・・とまあ、そんなことを考えながら、この図像・ニュースに対する一般人からのコメントを読んでみたんですが・・・ 「気味が悪い」「悪趣味」「不愉快」「子供が見たら泣く」「こんなのアートじゃない」「アートだとか言って、いい気になってるだけ」「こういうのは止めて欲しい」「もっと明るい、きれいなものを作れ」「こんなのに税金つぎ込むな」とか、そんな否定的コメントばかり。100のコメントのうち、97くらいがこの種の否定的コメントだったという・・・。 ひゃーーーっ!! ほとんどの人が「まさゆめ」プロジェクトを全否定??!! そうなのか・・・。 ふーむ。やっぱりな。いつもそうなんだよ、ワタクシと世間では大体意見が合わない。私がいいと思うものは、たいてい世間はきらいだという・・・。私の感性は、多分、どこか狂っているのでありましょう。 実際、こういう一般の反応こそが自然なんだろうね。昔、絵といったら宗教画か肖像画であった時代に印象派が出て、宗教とは無関係の、しかも人が描かれていない戸外の風景画とかを描いた時、一般の人は「こんなの絵じゃなーい!」って言ったわけだし。 ゴッホが絵具を厚塗りして糸杉や星月夜を描いた時も、モジリアニが首の長ーーーい白目の少女を描いた時も、ピカソが「アビニヨンの娘たち」を描いてキュビスムをスタートさせた時も、一般の人は「気味悪ーーーい!」って言ったわけだから。それが普通よ、普通。否定こそが、見慣れぬものに対する人間のナチュラルな反応。 そういう意味では、「まさゆめ」を作った人たちも、この渦巻く否定コメントの嵐を「そうそう、これが普通の反応だ」と思わないとね。
July 17, 2021
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今朝は大学院時代の恩師の訃報で起こされました。 アメリカ文学者の山本晶(やまもと・しょう)先生は、私の大学院博士課程での指導教授。学部時代から修士課程にかけては別な先生の下で勉強していたのですが、たまたまその先生が、私が博士課程に進学するタイミングで他大学に移籍されたので、博士課程になってから山本先生のもとに預けられたような形になったんですな。 そういう意味では、私は外様も外様。山本先生の多士済々の教え子の中でも、隅っこの方で小さくなっていた感じ。 それでも先生は、私のような隅っこ暮らしの者にも何かと目をかけて下さいまして。博士課程修了後、就職して東京を離れた後も、私が学会発表をしたり、本を出したりする度に感想をお手紙に記してくださったりしたものでした。「あなたの学会発表の面白さたるや、東京でも評判を聞きますよ」などと嬉しいことを言ってくださったこともありましたっけ。 思い返せば、山本先生は、私にとって、「褒めてくれる人」でありました。他にあまり褒めてくれる人がいないだけに、そのことが強く印象に残っております。最近のことを思い出しても、一昨年、とある鼎談に出た際には、最年長で司会的な役割を果たした私に対して「話の回し方が絶妙で、良い鼎談の見本のようだった」と褒めて下さった。また昨年、とある雑誌に小文をものした時も、早速メールを下さって、「話の持って行き方がウマい!」と。 もちろん、それは大半がお世辞なんですが、それにしてもああ気持ちよく褒めてくださると、褒められる側としては気分がいいもので、何か仕事がまとまる度に先生にお見せしたくなる。またお見せするとなると、恥ずかしいものは見せられないので、恥ずかしくないものに仕上げようという気持になる。 そんな感じで、いつの間にか、山本先生にお見せして褒められるために、私は随分一生懸命、仕事をしたような気がしています。山本先生はそうやって、外様で隅っこ暮らしの私を育ててくださったんだなと。 この9月に出す予定のとある本に関しても、その資料の探索について、私は山本先生に助力を仰ぎ、先生はそれに応えて様々な形で骨を折って下さいました。そのおかげもあって、その本はもうすぐ世に出ることになったわけですが、その完成を見ずに先生が鬼籍に入られたことは、私にとっては残念の極み。7年越しの努力の末に刊行までたどり着いたこの本をお見せして、「よくやった!」と褒めていただきたかった! そう言えば、これは厳密には「褒められた」ことにはならないのですが、院生時代のある時、先生とお話ししていて、たまたま話題がお酒のことになった時、私が「酒は嫌いではないけれども、コップ1杯のビールで真っ赤になってしまうほどアルコールには弱い」というようなことを申し上げると、先生は驚いたような顔をされて、「ええ! 私はてっきり、釈迦楽君は大酒呑みなんだとばかり思っていた」と仰られたことがありまして。 先生が何を根拠に私を大酒呑みと勘違いされたのかは分かりませんが、一合の日本酒で千鳥足になるワタクシを「大酒呑み」と誤解して下さったことが妙に嬉しくて、あれもまた一つの「先生に褒められた」記憶になっています。 思えば、楽しく、ありがたい思い出ばかり・・・。 本来であれば、ご葬儀に駆け付けたいところですが、コロナ禍のこともあり、ご家族のみでの葬儀をされるとのこと。不肖の弟子としては、遠く名古屋で先生のことを考えながら一日を過ごし、もってご冥福をお祈りしたいと思います。合掌。
July 16, 2021
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昨日のブログで、ついうっかり「ステージ101」という言葉を発してしまったせいで、つい、我ながら懐かしくなり、YouTube で検索したら、最終回のエンディングを見ることができました。で、当然見ちゃったんですけど、なんかもうすごいというか、鳥肌ものでした、色々な意味で。これこれ! ↓ステージ101 エンディング 涙を越えて そもそもこの「ステージ101」という番組ですが、まあ、基本、「ヤング」の番組なわけですよ。ヤングのための、歌番組。 そんなの当たり前じゃん、と思うなかれ。昔の歌番組なんて、それこそ藤山一郎とか、三橋美智也とか、春日八郎とか、三波春夫とか、フランク永井とか、菅原洋一とか、もちろん演歌系の人たちとか、ほぼ全員大人の世界で、若者なんかの出る幕はなかったんですよ。 で、その後、少しずつ若い連中が出るようになり、新御三家とか、花の中三トリオとか、そういう時代になった。 だけど、その段階での若い歌手もまた、商業的市場に組み込まれた歌手という意味では、年配の歌手と変わらない。彼らはプロなんですな。 一方、「ステージ101」に出てくるヤングたちは、プロ・・・ではない。ここ出身でその後プロになった人達は何人かいるけど、大半はそうじゃない。ごく普通の、その辺の兄ちゃん、姉ちゃんたちが、普段着で出てくる。少なくとも、そういう演出でステージに立っていたと。 そういう意味で、よりリアルな「ヤング」だったわけ。そういう、どこにでもいそうな兄ちゃん、姉ちゃんたちが、舞台で歌い踊り、それが放送される。そこに、プロ歌手の歌番組とは異なる魅力があったと。 でまた、番組タイトルの「ステージ101」というのが、また良かった。収録スタジオの部屋番号をそのまま、番組タイトルにしたところが、当時としては画期的にオシャレだった。そのあたりからも、スターになれない大部屋俳優たちの、決して出番の回ってこないミュージカルの練習風景をそのまま放送したような雰囲気が生じたというか。 まあ、とにかく、彼らは「ヤング」だったわけですよ。 そのヤング感がね、先に上げたYouTube からほとばしり出ていて、それが私には何とも鳥肌ものだったと。まあ、懐かしいと同時に、こんなに恥ずかしいものをよくやってたな的な面映ゆさもあるんだけど・・・。 今は、もう、テレビを見ても、結局、ガキンチョしか出て来なくて、大人の方がよっぽど少数派ですけど、「ステージ101」の時代は、まだ大人が主流文化を担っていて、その片隅のさらに片隅の方で、ようやく「ヤング」なるものの存在が意識され始めた頃だったわけですよ。それまでは、若者なんて物の数にも入っていなかったのであって。 そういうヤングの台頭期。それが「ステージ101」の時代だった。 そういうことを、今回、改めて思い出しました。ただそれだけのことですけど、なんか、自分がおじさんになってみて、自分たちの文化が片隅に追いやられている様を体感するだに、おじさん(おばさん)文化が主流だった昔の方が良かったな・・・なんて、ちょっと思いますね。せっかくおじさんになったのに、片隅に追いやられちゃうんじゃ、おじさんになった意味がないもんな・・・。
July 15, 2021
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セルジオ・メンデスのヒット曲に「愛をもう一度(Never Gonna Let You Go)」という曲がありますが、あれ、普通に聴いていると普通に聴こえるけれど、音楽をやる人が分析すると、ものすごく複雑なコード進行をしているんですってね! これこれ! ↓最も複雑なポップソング このYouTube を見て、俄然、セルジオ・メンデスが懐かしくなったワタクシ、思わず、彼のヒット曲集を購入し、懐メロ状態で聴いております。これこれ! ↓ユニバーサルミュージック セルジオ・メンデス/グレイテスト・ヒッツ 【CD】 久しぶりに聴くセルジオ・メンデス。いいね。自分の若かりし頃を思い出すサウンドだねえ。 まあ、「マシュケナダ」とか「愛をもう一度」とかももちろんいいんだけど、「Fool on the Hill」もいいよね! ビートルズのこの曲のカバーの中では、セルジオ・メンデスのこのバージョンが一番いいんじゃない? それにしても、セルジオ・メンデス(とブラジル66)のコーラスって、たいてい、男声と女声がユニゾンなんだよね。異なるメロディーをぶつけてハモるのではなく、どこまで行ってもユニゾン。そこがまた独特のサウンドになっていて面白いんだけど、一昔前、NHKの伝説の歌番組、「ステージ101」なんかでもこういうサウンドのものが多かったような気がする(曖昧な記憶)。そう言えば、「ピンキーとキラーズ」も「日本のブラジル66」たらんことを目指していたそうですけど、そういうことを考え合わせても、当時、ブラジル・サウンドが日本のポップス界を席巻した時代があった、ということなんですかね。狙いとしては、悪くないと思うけどね。 ま、私ももう、最近は懐メロばっかりだよ! 60年代、70年代、80年代のポップス・ロックだけで、もう私は満足だ。新しいものは、もう、要らないな。
July 14, 2021
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皆さん、マンゴーってお好きですか? 私は、まあ昭和の人間ってこともありまして、どうもバナナとパイナップル以外のトロピカル・フルーツにはあまり魅力を感じない方でありまして、やれ「パッション・フルーツ」だ、「グアバ―」だ、とか、そういうのは、「別になくてもいいかな~」程度に思っているところがある。で、マンゴーもしかりで、「人が珍重するほど、そこまで旨いものかぁ~??」って思っていたんですわ。 ところが。 先日、「業スー」こと「業務スーパー」に行った時、たまたま冷凍食品のコーナーで、冷凍マンゴーのパックを見つけまして。皮を剥いて、半分に切ったものが凍らせてあって、それがビニールのパック詰めになっていたんですな。 で、どうせ「中ツ国」の産物だろうと思ったものの、なんだか妙に気になって、一応手に取ってみると、幸い、かの国の製品ではなかった。ふむ、そうなのか。 だったら・・・一回くらい、買ってみる? 350円くらいのもんだし。 で、買ってみた。 で、食べてみた。すると・・・ う、まーーーーーい!!!! 旨いじゃんか、これ!? えーーーー。こんなに旨いものだったの、マンゴーって? 私はその冷凍マンゴーを、朝、プレーン・ヨーグルトに添えて食したのですが、その凍ったマンゴーが口の中で次第に溶けていく際の、えも言われぬ風味の虜になってしまったのであります。 なるほど、これか! この深い味わいを、人々は賞味しておったのか・・・。 かくして、ついこの間まで「マンゴー? 別に~」とか言っていたワタクシが、今や「マンゴーはないのか? マンゴーはいずこ??」と騒ぐほどの状態に。業スーのおかげで、すっかりマンゴーファンになってしまったのでした。 ということで、冷凍マンゴー、今さらながら教授のおすすめ! です。業スーが近くにある方は、急いでゲットしてみてください。これこれ! ↓業スーの冷凍マンゴー
July 13, 2021
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日本における自己啓発思想のことを調べていると、今から120年くらい前に創刊された『成功』という雑誌のことがよく出てまいります。で、それは19世紀末のアメリカで創刊された『Success』という雑誌の影響の下に刊行されたんですが、共に「成功」という概念を打ち出して両国に成功ブームを巻き起こすことになったのですから、現象としてはなかなか興味深い。 っつーことで、この両雑誌についてはもうちょい詳しく調べなきゃな、と思っていたのですが、ふと、そう言えばこの両雑誌について、日本の研究者で調べている人はいないのかしら? と思い、ちゃちゃっと調べてみたら、とりあえず数件のデータが出てきた。で、こりゃいいってんで、とりあえずそれらを取り寄せて読み始めてみたと。 そしたら、一つ、非常に優れた論文があったのよ。あまりにも優れていたので、ちょっとビックリ。っていうか、これ一つ読んだら、もう後は読まなくてもいいじゃん、っていうくらい出来が良かった。 その論文のタイトルは「日米両国の成功雑誌に関する一考察」というもので、『アメリカ研究』誌の1987年号(21号)に掲載されている。言うまでもなく『アメリカ研究』はアメリカ学会が出している紀要ですから、日本のアメリカ研究関連で一番重みのある学術誌。著者は粂井輝子氏で、津田塾を出て白百合女子大で教鞭を執られていた方。この人はアメリカ学会が選考する学術賞である「清水博賞」の第1回受賞者だそうですから、優れた研究者であることが窺われます。もっとも私はそういうことは一つも知らずに、ただこの論文だけをいきなり読んで、単純に「よく書けているなあ~!」とえらく感心してしまっって、後で調べて、著者の実績を知ったのでした。 ということで、後学のためにこの論文の内容を箇条書き風にまとめておきましょう。ま、私自身にとって後で役立つようにまとめているだけなので、ちょいと分かりにくいかもしれませんが、そこのところは悪しからず。〇アメリカという国は、一般のイメージとは異なり、社会的上昇傾向が特に著しかったというわけではないのだが、それでも「機会と成功の国」というイメージが強く、それゆえに移民を惹きつけてきた。で、そんな中、『Pushing to the Front』(1894) や『Rising in the World, or, Architects of Fate』(1896) などの著書で知られるオリソン・マーデンなる人物が1897年12月に創刊したのが『Success』誌。〇マーデンは1850年、ニューハンプシャー州の寒村で生まれた。幼くして両親と死別。近隣の農家や牧師の家で手伝いとして働くなど、薄幸な少年時代を過ごす。そんな中、屋根裏部屋でサミュエル・スマイルズの『Self-Help』を見つけてむさぼり読み、これが本人も言う通り「人生の転換点」となる。以後、いつの日かスマイルズのように人の助けになる本を書きたいと心に決め、そこから苦学してボストン大学やハーバード大学で幾つもの学位を取得。また学業の傍らホテル業に進出し、学業を終える頃には2万ドルもの大金を手にしていた。ところが1890年代の「ネブラスカ・ブーム」(何ソレ?)に惹かれて当地でホテルを建設するも、火災でホテルは焼失。しかもアメリカのスマイルズたろうとして書き溜めていた5000頁に及ぶ原稿も失うことになる。この時マーデン44歳。〇火災後、ボストンに戻って再び執筆に取り組み、1894年に『前進あるのみ』を完成。アメリカだけで250版、25か国語に翻訳され、日本だけでも100万部が売れたという(もっとも、モットの手になるアメリカン・ベストセラー史には、この本の記録なし)。なお、この本は明治大正期に中学・高校の英語の副読本として広く採用されたという。また1896年の『Rising』では、「品位の確立と価値ある達成」というマーデンの哲学がよく打ち出されていた。少なくとも初期のマーデンは、人格の陶冶を単なる金儲けよりも重視していたことが窺われる。〇で、これら二つの著書の好評が、マーデンをして、『サクセス』誌の創刊を思い立たせた。彼は自説をさらに世に広めるべく、Louis Klopsh の資金援助を得、1897年12月にこの雑誌を創刊。当初「人生における成功」というタイトルを想定していたものの、それでは金儲けを目指すというニュアンスが強すぎるということで、よりシンプルな「成功」にすることに。〇『サクセス』誌はニューヨークのサクセス社から刊行された。B4版の大きさで、月刊・約40頁(ただし、1898年12月からの1年間、週刊であった時は16頁)、1冊10セント・1年1ドルだった。創刊号の表紙には青年時代のリンカーンが読書をしている図が描かれるなど、最初のうちは時の政治家や文人が表紙を飾った。1900年代半ばになると、表紙は多色刷りとなり、ロマンチックな図柄(?)が多くなったという。内容は以下に人生の目標を達成するかに集約され、著名人の談話や伝記、古今の逸話、金言、論説・読者からの質問闌などで構成された他、詩や小説、書評、科学欄、健康欄などもあった。初期の執筆陣の中にはセオドア・ドライサーも含まれ、1900年代以降、家庭欄なるものが登場、また立志伝の割合が減り、小説が増えて「総合家庭雑誌」としての色合いを強めるようになる。さらに時代の要請からか、マックレーキング記事も増えていった。〇立志伝などに登場するのはエジソン、リンカーン、ブッカー・ワシントン(その他例あり)など多岐にわたり、誌の方針として分野を限らず、個人的願望の達成をした人を取り上げたことがわかる。〇本誌の創刊当時、アメリカでは既に一代で財を築くといったアメリカン・ドリームの時代が終わりつつあり、成功の機会の減少が嘆かれていた。しかし『サクセス』誌は「機会はどこにでもある。アメリカは機会の別名に過ぎない」と獅子吼、『Acres of Diamonds』の説話を説き、機会の不足を嘆く前に、自分の足元にある機会を拾え、と主張した。そして読者はこの主張に奮い立った。(とはいえ、「正直者がこれだけ懸命に働いているのに、どうして暮らしが豊かにならないのか」と、同誌に質問してきた読者もいて、それに同誌が満足のいく回答を返すことはできなかった。)〇読者からの質問欄から推測するに、本誌の読者層は全米(+カナダ、イギリス)の10代半ばから20代の青年層で、圧倒的に男子が多い。職業的には小学校教員・商店員・事務員・農家など、社会的上昇意欲の強い人々で、現状に不満を持ち、弁護士や医者、電気技師や速記者などになるための専門知識の獲得を目指し、そのための資格や条件について問うものが多かった。〇1898年半ばまでには発行部数は5万部に迫り、1906年には30万部に到達。全米の主要都市に支部を置いたほか、ロンドンにも編集支局ができたという。〇1900年代半ばまでの『サクセス』誌は、「品性の確立」と「職業を通しての自己実現」という二つのテーマがあった。この二点を実現すれば、その人は周囲の社会をも益すると。マーデンは金を儲けたり名声を得ることよりも、品性の確立こそが第一であるとし、金儲けを人生の至上目的とするような当時のアメリカの風潮にはきわめて批判的だった。また、自分の性格や本性にあった職業を見出し、そこで才能を開花させ、自己実現を図ることを重視した。色盲の人が画家を志しても意味がないように、自己の特質や性向を無視して努力しても水泡に帰することをしばしば主張した。〇R. Huber によると、当時の成功物語の著者たちが結局は金持ちになることを人生の最終目的に設定していたことと比べ、マーデンがそれに反対していたことは、実に特異なことであったという。『前進あるのみ』などの著書で知られ、『サクセス』などという雑誌を創刊したことから誤解されがちであるが、マーデンの主張は、金儲けではなく、自分にあった仕事に精を出すことによる人格の陶冶であった。その意味では、Cawelti が指摘するように、マーデンの成功理念は社会的上昇移動とは無関係であり、「保守的な中産階級プロテスタント倫理の伝統」に近い立場だったと言える。同誌が成功を標榜しながら、公立学校やYMCAなどからも推薦されたのは、このようなマーデンの成功理念ゆえであった。こうしたことの背景には、マーデンが禁欲的なニューイングランドの寒村に育ったことなども影響しているかもしれない。〇ところが、マーデンの理念がそういうものであったとしても、『サクセス』誌の読者が本誌に期待するものもそうであったとは限らない。むしろ読者が考える「成功者」とは、逆境や障害を跳ね返し、苦学して有能な医者・建築家・実業家・政治家として成功し、莫大な年収を得るようになった人のことであった。〇そして『サクセス』誌には、こうした読者の期待に応えるような記事もあったし、1898年10月に月刊誌から週刊誌に変貌した際にも、新方針として「実業の確立」「所得倍増」「名声獲得」などのノウハウを伝授すると告知している。従来からのマーデンの成功理念と矛盾するようなこの方向転換がいかにしてなされたのか、それに対してマーデンがどのように関与し、あるいはどのように感じていたのかは不明。〇しかし、1905年頃からマーデンにも変化が見られ、彼はニューソートに傾倒していく。これは、機会の国アメリカにおいて、善良なアメリカ市民が成功するための方策として、他に選択肢がなくなったからかもしれない。とにかくマーデンはこの頃から精神力を重視し始め、何事にも積極的に取り組めば道は開けるという論調のことを言うようになる。〇こうした方向性のマーデンの論調を決定づけたのが、1911年の「Great Within」の論説。火事場の馬鹿力のように、人間にはその内部にすごい力が存在する。歴史上の偉業の数々は、どれも皆、この偉大な内部を活用した結果である。偉大な内部は、「真実・美・愛の源泉」であり、「人間に内在するこの神性は究極的な勝利を収めるであろう」とマーデンは主張した。ただ、どうすればこの力を活用できるか、その具体的な方法論は示すことができなかった。〇このようなこともあり、1911年、『サクセス』誌は廃刊となる。マーデンは元々、政治家の汚職は青少年に幻滅を与えるとして汚職を糾弾してきたが、1900年頃からアメリカの雑誌界に吹き荒れたマックレーカーキングの動きは『サクセス』誌をも巻き込み、マーデンの人の好さに付け込んで同誌を乗っ取ったマックレーカーたちは、同誌誌上でも金融資本攻撃を繰り返したため、結果、有力銀行家が『サクセス』誌への貸付を削減し、廃刊に追い込まれたのである。とはいえ、そういうことが無かったとしても、いずれにせよマックレーカーたちの暴露記事により、当代の成功者たちの仮面が次々とはがされていた時期だけに、成功者の具体例を示しながら、読者に感動を与えるという『サクセス』誌の編集方針は、既に崩壊していたし、加えて大衆に強くアピールするような大物成功者の数も減っていた。『サクセス』誌の中で、偉人伝の割合が減り、マーデンの筆になる(具体例を欠いた)抽象的な論説が増えたのもそのせい。かくしてマックレーキングと家庭記事の割合が増えた『サクセス』誌は、他の一般の全国紙と競合するようになり、そうなれば淘汰されてしまうのも当然。〇ただし、『サクセス』誌は、1918年、シカゴの実業家の後援を得て再刊されることになる。〇一方、日本では明治35年(1902年)10月、村上俊蔵によって『成功』が創刊される。〇明治期に入って身分制度が廃止され、社会移動が活性化。個人の社会的上昇が国家の増強と重ね合わされ、立身・出世という言葉が盛んに称揚されて、門地家柄の低い者が身を立て名を挙げると、成功者としてほめそやされた。そして日露戦争の頃には、成功に憧れる風潮が日本全土に広まり、成功に関する著作が盛んに刊行されていた。〇創刊者の村上俊蔵は明治5年に浜名湖北岸の富裕な農家に生まれた。1890年頃には父の命で東京で法律を学んでいたが、興味が持てず、むしろエマソンに心酔し、文筆で立つことを志すようになる。父の命に背いたことから一時人力車夫になるなど苦学する場面もあったが、父が倒れたことで家業を手伝うことに。6年後、東京に使いに出された村上は、偶然『ビスマルクの卓上談話』なる本を見つけ、試みに訳出・出版したところ好評を得、これを機に再度上京。松島剛のもとで『学窓余談』誌の編集に携わる。〇1899年頃、松島の家で偶然、マーデンの『サクセス』誌を見つけ、その内容に感銘を受け、「天性と天与の才に従い、自己の大志を形成し、人生を計画せよと我々を指導してくれるだけではなく、企業心と自助の精神を養うように導き、成功の秘訣と自己訓練の最上の方法を教示してくれる。要するに、強い男らしさを明示してくれる」と述べている。そこで村上は松島の『学窓余談』の改革を提案するが、松島に受け入れられず、そこで自ら『成功』誌の創刊を考えるようになる。つまり、村上が『成功』誌を創刊するに当たって、直接のインスピレーションとなったのが、マーデンの『サクセス』誌であった。〇『サクセス』誌は1904年8月号において、「日本の弟――いかにサクセス誌がエネルギッシュな若い日本のジャーナリストを発奮させて、同一路線のもとに雑誌を発行させるに至ったか」という小さな記事を載せた。ここには村上からマーデンに宛てた手紙が引用され、この手紙によって先に述べた村上の前半生が窺われる。〇『成功』は東京本郷の「成功雑誌社」から刊行される。B5版の大きさで、原則月刊50頁。1巻は6号からなる。定価は10銭・郵税1銭。年間98銭・郵税12銭。創刊号の表紙はリンカーンの横顔の肖像が月桂冠で飾られ、『成功』の誌名の上に「立志独立進歩之友」と記された。リンカーンに続いては、グラント将軍、アレキサンダー・ハミルトン、J・P・モルガン、アンドリュー・ジャクソン、セシル・ローズなど、英米の政治家が表紙を飾った。初めて日本人が表紙を飾ったのは、3巻4号の野口米次郎。日露戦争が勃発すると、日本の軍人が表紙を飾るように。終戦後はカーネギーやグラッドストーンなど、再び英米人が中心となるが、幸田露伴、嘉納治五郎、牧野伸顕なども登場。〇内容は各号ごとに変化はあるが、立志・史伝欄に偉人伝が載り、自信欄には村上の論説が載った。村上は「自助庵主人」または「村上独浪」というペンネームを使った。1巻の立志欄はバンダ―ビルト、カーネギー、ロックフェラー、フランクリン、アスター、ゴールドと、5名の西洋人すべてアメリカ人で占められた。登場する人々に関し、画家・学者・政治家に関しては「立志」、実業家に関しては「富豪・○○王」という称号が付された。ただし6巻からは日本の政治家・学者・文人ばかりとなる。これは、西洋人にまつわる記事が『サクセス』誌を出典としていて、その『サクセス』誌に偉人伝が減少してきたためと考えられる。〇『成功』誌の読者層は、R・P・ドアーによれば「官吏軍人志向の中産階級の学生たち」であったとされ、たとえば学習院の学生でこれを読まない者がない、とされるなどしたというが、同誌の読者投稿欄を見ると、中産階級の子弟というよりは、高等小学卒の商店員とか地方の小学校教員などが多く、その質問の多くは苦学して上級学校に進学するか、あるいは独学で英語・法学・政治学などの知識を身につけるか、はたまた渡米すべきかなど、経済的に苦しい中でいかにして更なる教育を身につけ、どういう職業につき、どういう風に将来を展望すべきか、といったようなものが多く、実際には中流以下の青年層が主な読者層であったことが窺われる。ゆえに、日露戦争勃発後に発行回数を増やしたところ、経済的負担が増すとの苦情が多くあったという。〇『成功』誌は、明治期の知識人層にも好感を持って受け入れられていた。創刊号から特別賛成員として幸田露伴、巌本善治、徳富猪一郎、井上円了、海老名弾正、新渡戸稲造などが名を連ね、執筆陣には片山潜などの社会主義思想家も加わった。軍人の名も見える。つまりキリスト教・仏教・自由思想・儒教思想・民友社・政教社・社会主義者・軍関係者など、立場の異なる多方面の大家が誌面を飾った。かくして同誌は着実に部数を伸ばし、明治41年には東洋一の部数を誇るまでに。明治39年末までには、読者欄へ毎月数千通の質問が寄せられた。〇『成功』誌が『サクセス』誌以上に多方面からの支持を得たのは、同誌が「自助的人物の養成」というものを掲げていたから。村上は、英米が先進国となったのは、その国民性の中に「自助・独立・勤労」の精神がよく浸透していたからであり、これこそが英米の精神的支柱であり、かつ、発展のカギであると見ていた。ゆえに日本がこれから発展していくためには、自助的精神に満ちた人間を涵養する必要があると考え、『成功』を創刊したわけだが、これが当時の日本の風紀頽廃を憂う人々、勤労を尊び社会改革を求める人々の間に広く共感されたのだった。〇村上曰く、日本は「自助的人物少くして徒に安逸に日を送り居る者多き」状態であり、「積極的人物少くして、隠居的若者多き」状態であり、「土着の念徒に盛にして海外を家とするアングロサキソン的根性なき」状態であり、「資財乏しくして独立の計を為し得る者少く、国命も亦危き」状態であると。つまり個人の自立と国運の伸長とを合わせて独自の自助論を展開していた。この点、マーデンが自助精神をあくまで個人レベルの問題として扱ったのと好対照をなす。〇またマーデンが人生の最終目的を品性の確立に求めたのに対し、村上は品性の有用性を強調した。つまり、「品性で得た信用は富に勝る」とか「人格は商業の手形のようなもの」とか。加えて村上は、富を得ることに対する寛容性がマーデンより高かった。拝金主義は否定したものの、精神的修養とその結果としての物質的安楽は、車輪の両輪であって、どちらが欠けても良くない、という考え方だった。〇村上が、一方でマーデンを範としながら、他方で社会的上昇願望や到富思考を容認したのは、おそらくマーデンの思想に対する理解が充分でなかったからと考えられる。村上は『サクセス』誌を定期購読していなかったし、マーデンとの書簡の往復が始まってから、急に村上が人格陶冶を言い出すところからも、それは窺われる。もっとも村上とて、同誌に修養欄を設けたり、宗教による安心立命を重視するなど、元々精神面を重視していたところもある(だからこそ、松村介石らからも評価された)。しかし、伝統的に儒教精神の強い日本では、金銭や労働に対する蔑視感情が国民の中にあったため、村上としては労働の神聖の自覚、実業の重視などをしなければ、世界的大国民にはなれないと考え、精神面ばかりを重視する日本の儒教的伝統文化からの脱却を志す必要があった。〇村上にとって日本国民の消極性、文弱の傾向、煩悶の流行は、社会主義思想と共に、国家衰微を招く者であった。そこで村上は一方で宗教による精神の安定を重視しつつ、史伝・立志欄においては先人の成功談を載せ、スマイルズやマーデンの著作を推奨して読者の自助精神を鼓舞した。〇しかし国土広大なアメリカとは異なり、国土が狭く人口の多い日本では、誰もが立身出世を志せば、蝸牛角上の闘いにならざるを得ない。そこで、国内における機会の少なさを見て取った村上は、広く海外に機会を求めよと説いた(「日本国、兵は強しと雖も富未だ微なり、富漸く殷なるも、土地は狭し宜しく地を選て海外に往け、敢て米州の地と言はんや、又敢て東洋諸島と言はんや、天与の地未だ人工の加へられざるもの、世界到る所にあり」)。そして日露戦争勝利後は、同誌に「海外活動」の欄を設けるなど、海外移住の必要性を説いた。(村上が南極観測隊の白瀬中尉の支援者であることに注意)。この点、「機会を求めて海外に行かずとも、ここには利発な精神の持ち主には機会が豊富にある」とした『サクセス』誌の方針とは真逆と言える。(もっとも『サクセス』誌は、敢えて機会渉猟の場を国内に限定したため、国内に機会が少なくなるにつれ、もっと内側に、すなわち内面精神に機会を求めるニューソートに傾倒していくことにもなる)〇村上は、上に述べたような思想の下、明治39年5月に『探検世界』を、また明治41年5月には『殖民世界』を創刊し、『成功』誌よりもむしろそちらの方に主筆としての精力を傾けるようになり、他方、『成功』誌本体は、次第に「受験誌」的な性格を強めていくようになる。〇『成功』誌は、村上が白瀬南極探検隊の後援に資金をつぎ込んだことと、新機軸の『探検世界』『殖民世界』の不振によって廃刊の道を辿ることになる。(新雑誌の不振は、1900年代末から無資産者の北米への渡航が事実上困難になったことにも影響されている。)強烈なナショナリズムから発した村上の外向的な成功の夢は、かくしてはかなくも散っていった。・・・ざっとまとめると、こんな感じかな。それにしても僅か10頁前後の論文にしてこれだけの内容。素晴らしいの一語です。粂井輝子、おそるべし。いい学者さんです。 ところで、『成功』の創刊者・村上俊蔵が、南極探検の白瀬矗中尉を支援していたってのは、個人的にちょっと面白かった。 というのも、私が通っていた玉川学園小学部では、白瀬矗中尉の出身校である山形県の某小学校と交流があり、毎年(・・・ではなかったかもしれないけれど)、向こうの学校の児童が玉川学園を表敬訪問するという行事がありまして。小学生同士、名刺を作って交換したり、いっしょにドッジボールをしたりしたものでございます。ドッジボールに関しては、妙に向こうの児童が弱くて、たちまちのうちに全員アウトにしてしまって時間が余って困ったことをよく覚えております。 だから、今時の日本人は白瀬中尉のことを知らないだろうけど、私は知っていたのよ。その白瀬中尉を、村上俊蔵が支援していたということを聞いて、なんだか妙な縁を感じてしまった次第。ま、これは大して意味のない付け足しですけどね・・・。
July 12, 2021
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仕事がらみですが、昨夜1979年のアメリカのSF(?)映画『アルタード・ステイツ 未知への挑戦』というのを観ましたので、心覚えをつけておきます。以下、ネタバレ注意ということで。 まあ、ネタバレと言っても、このカルト映画を今後観る人がそう沢山いるとは思えませんが、監督はケン・ラッセル、主演がウィリアム・ハート、そして子役でドリュー・バリモアが登場。ドリュー・バリモアはこれが映画デビュー作ですね。この3年後に『E. T.』に出て全米的な人気を得るので。数年後に『蜘蛛女のキス』でブレークすることになるウィリアム・ハートも、これがデビュー作なのかな? 冒頭、科学者のエド(ハート)が妙な水槽タンクに浮かんでいるところから始まります。このタンクは「アイソレーション・タンク」と言いまして、体温と同じ温度の塩水か何かを入れてあって、浮力がつくようになっている。で、重力や光や音や皮膚感覚を含む外界からの刺激を遮断する形でこのタンクの中に浮遊し、かつ、何らかのドラッグを飲んで瞑想すると、何らかの意識拡大が起こる(らしい)。 ちなみにこのアイソレーション・タンク、ジョン・C・リリーという実在の研究者が1954年に開発したもので、この映画の影響もあって一時は世界中で流行したものでございます。日本でも相当数が売れたと、立花隆が言っていた。開発者のジョン・C・リリーは、オルダス・ハックスリーの影響を受けて物理学から生物学に転向した人で、自分が開発したアイソレーション・タンクに幻覚剤(ケタミン)を飲んで入って自ら意識拡張を試みたらしい。その後、イルカとの意思疎通を研究していたこともあり、ティモシー・リアリーとはお友達。この時代の自己啓発思想がらみでは非常に面白い人物であります。 まあ、そういうことも含めまして、要するに本作の主人公のエドは、ジョン・C・リリー同様、自らを実験台にしてこのアイソレーション・タンクに浸り、そこで何が起こるのかを実験していたわけ。役どころとしては、いわゆる「マッド・サイエンティスト」ですな。 で、その結果、どうやらこのタンクに入ることで、人間のDNAに記録された数百万年だかの人間進化の過程を遡ることが出来るらしいということが判明するんですな。で、このことから、エドは人類の一番最初の状態に戻り、人類の起源に一体何があったのか、その唯一の真実を突き止めたいと考えるようになると。 その後エドは、人類学者のエミリーと結婚(この結婚のいきさつもえらく唐突なんですけど・・)し、ドリュー・バリモアを含む何人かの子供ももうけるのですが、自らが発見した実験の可能性への夢を捨てきれず、エミリーとの離婚も視野にいれつつ、実験の強行を試みる。 で、人類史遡上実験の新機軸として、エドはメキシコに行き、当地のインディアン部族が儀式に使っているマジック・マッシュルームの採取をする。で、部族が彼のために作ってくれた魔女のスープみたいなのをアメリカに持ち帰るわけ。 で、このキノコ・スープを飲んで例のアイソレーション・タンクに入るのですが、なんと! 彼の目論見通り、エドは人類の原点への遡上を開始するのであります! が! 人類の原点への遡上・・・それは要するに、類人猿への退化を意味したのだった! かくして類人猿に逆戻りしたエドは、タンクから飛び出して実験室を脱走、野犬に負われて夜の街をさまよっているうちに、動物園に入り込んでしまう。そして動物園にいた鹿だか羚羊だかを襲ってむさぼり食っていたところで元のエドに戻り、動物園の警備員に通報され、警察の留置所に入れられていたところを、妻や研究仲間に身請けされると。 で、その後もう一度、エドは類人猿に退化しそうになり、それを止めようとした妻エミリーも、エドに触れた瞬間、なぜか彼女もまたDNAに変化が生じたのか、もろとも退化しそうになるのですが、そこでエドが我に返り、エミリーも救われる。そして、人類の根源にまで行ってみたけれども、そこに期待していたような意味での永遠不変の真理などというものはないことを発見したエドは、もはやこの実験を続ける意味なしと考えるようになる(らしい)。で、なぜか両者裸のエドとエミリーがしかと抱き合った(この映画では、この二人はやたらにこういう状態になる)ところで、ジ・エンドと・・・。 何コレ??????? カルト映画だとは聞いていたけれども、聞きしに勝るカルトぶり。『2001年宇宙の旅』で、旅の果てにボーマン船長が新しい人類、「スター・チャイルド」に生まれ変わったのとは逆に、本作の主人公のエドは、人類の起源に遡って、結果、サルに退化するという。進化の方向が逆?! ま、それはともかくとして、アイソレーション・タンクによる意識拡張とか、マジック・マッシュルームを求めてのメキシコに行きとか、男女がやたらに裸になることとか、1960年代後半以降のドラッグ・カルチャーやヒッピー・ムーブメント、そして意識拡張による人類の発展を目指すニュー・エイジ・カルチャーなどの映像化を試みたという点において、記録より記憶に残る怪作と言えましょう。 あと、CG無用の得体の知れない特殊効果映像とか、噴飯ものの奇々怪々な映像にも満ちておりまして、そこも相当笑えるかも。まあ、よほどの物好きの方でない限り、おすすめ出来ない映画ではありますが、一部のマニアにはそれなりに高評価を受けている映画ではありますので、怖いもの見たさで観てみるというのも一興かと。 それにしても、本作のタイトルは『アルタード・ステイツ』ではなく『オルタード・ステイツ』にすべきではないだろうか? 英語の発音的に。altered は「オルタード」と発音すべきであるということ、当時、誰も気が付かなかったの??これこれ! ↓アルタード・ステーツ 未知への挑戦 [字幕][ウィリアム・ハート]|中古DVD
July 11, 2021
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バーバラ・ハリスという人の書いた『バーバラ・ハリスの臨死体験』(原題:Full Circle, The Near-Death Experience And Beyond, 1990)という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 少し前に立花隆さんの『臨死体験(上・下)』を読んだ時に、この本のことが何度か言及してあり、立花さん自身、著者のバーバラ・ハリスにインタビューした、というようなことが書いてあったことに加え、本書は一応「立花隆訳」となっている(実際には(元?)妻の橘雅子氏が下訳したものを監修)のだから、それなりにしっかりした本なのかな、と。 で、立花隆が書いた序文によると、本書の著者であるバーバラ・ハリスは、もともとミシガンの自動車業界で働くお金持ちの夫(自家用飛行機を持っているほど)の妻で三人の子の母、いわばごく普通の「有閑マダム(久々に聞いたな、この言葉・・・)」だったのが、持病が元で結構大きな手術をすることになり、その過程で臨死体験をして、結果、人生観が変わってしまった。最初は自分の体験の意味が分からなかったのだが、その後、レイモンド・ムーディの『かいまみた死後の世界』を読んだり、これをきっかけとして始まったアメリカの臨死研究の研究者たちとの交流によって、そっち方面のことに夢中になってしまい、資格をとって死にゆく人々に対する介護に打ち込んだりする一方、家のことはおろそかになり、物質主義的な夫との間に溝が出来てしまって結局離婚・・・と、まあ、そういう数奇な運命をたどるんですな。で、そうした一連の経緯を綴ったのが本書『バーバラ・ハリスの臨死体験』ということになる。 ちなみに、ではバーバラ・ハリスが体験した「臨死」はどのようなものだったかというと、これが典型的な臨死体験で、昏睡状態→体外離脱→死んだ祖母の存在を感じる→トンネル体験:ブーンという音と出口の光→しかし光の方には行かず、離脱した体に戻る、というもの。で、その後バーバラはもう一度臨死体験をするのですが、その時は自分が赤ん坊の時からの重要体験シーンをすべて回想するという、これまた臨死体験の典型的なケースを身をもって体験する。ちなみにこの時、昏睡状態にあったにも関わらず、周囲の看護師たちの行為(バーバラから見えるはずのない別室での行為も含め)を見るという現象も起こっております。 で、臨死体験後のバーバラは、価値観の変化と共に、特異体質の獲得をする。例えば彼女が手を当てると他人の頭痛が治るとか、これから起こることが予想出来てしまう予知能力が高まるとか、あるいは彼女が近くに居ると電子機器が壊れるとか。 で、なんじゃこりゃ? とか思っている内に、運命の時が訪れる。1981年の秋、たまたま手にした『オムニ』という雑誌のバックナンバーに、コネティカット大学のケネス・リング博士らによる臨死体験研究の成果を特集した記事を発見するわけ。で、これを読んで、自分が体験したものが、典型的な臨死体験だったんだ! ということに気づいたバーバラは早速ケネス・リングに手紙を書き、またケネス・リング博士は彼女に自分の著書である『いまわのきわに見る死後の世界』を送ってくれるなどして、両者の間に文通が始まると。 で、以後、ケネス・リングやブルース・グレイソン、エリザベス・キューブラー・ロス、その他、この方面の研究者たちとの交流も深め、自らも大学の授業を聴講したりして知識を増やし、やがてテレビのトークショーなどにも出演するようにもなり、さらには臨死研究の団体である「IANDS」の運営に手弁当で携わるようになる。またその過程で、いわゆる「クンダリニー覚醒」のことを知るようになり、自分が臨死体験の後、人を癒す力を得てしまったのは、クンダリニー覚醒の結果だったのかぁ! などと考えるようになる。まあ、この世界にどっぷりはまっていくわけですな。しかし、この運動に夢中になるにつれ、夫との溝は深まる一方で、結局、離婚と。 だけど、その後もこの運動に身を捧げ続け、また別れた三人の子供たちも長じてから母親の行動に理解を示すようになる。だから、今は幸せ・・・ってのが、本書の原題である「Full Circle」の意味なんでしょうな。一周回って、元の幸せに戻りました、的な。 さて、そんな内容の本書ですが、総ページ数443ページという大部な本の割に、読み終わって私が得た情報というのは極めて少なかったという・・・(爆!) というのも、この本、まず書き方が酷い。先日読んだ『簡易生活のすすめ』という本もそうですけど、著者はその辺の素人で、アカデミックな研究書を書くような訓練を受けていない人なわけですよ。そういう素人がぐだぐだと書くもんだから、その内容のお粗末さたるや・・・。 そもそもこの本は、著者バーバラ・ハリスの個人的な体験記であるにもかかわらず、「私は・・・」ではなく、「バーバラは・・・」という三人称スタイルで書かれているわけ。例えば「秋になってバーバラはコネティカットのケネス・リングに会いに行った」みたいな感じで、自分を客観視したような書き方になっているのよ。そのこと自体、著述の方法としてものすごく不自然。だけど、不自然なら不自然なりに、全巻通して「バーバラは・・・」で通すならまだ分かるのだけど、ところどころで普通に「わたしは・・・」と書いてあるところもあったりして、三人称による間接話法と、一人称による直接話法が混在するという。一体なんでこんなヘンテコリンな書き方にしたのか? 意味が分からないよ。 結局バーバラ・ハリスという人は相当に情緒不安定な人で、しかもその感情によって行動が左右されやすい人なんですな。だもので、当初の計画としては全巻を通じて三人称で客観的に書こうとしたのだろうけど、プライベートなことに触れるような箇所になると感情的に激してきて、突如三人称から一人称になってしまうんでしょう。でも、そういう著者の感情のゆれに付き合わされる読者は、たまったもんじゃないですよ。「わしは一体、何を読まされているんだろう? 臨死体験にまつわる貴重な情報なのか、それとも情緒不安定な中年女性の感情の上下動なのか??」っていうね。もう、ほんと、疲れる。私としては、離婚した夫に同情するわ。バーバラ・ハリスによると、夫は金儲けや出世にばかり気を取られた物質主義的な人で、臨死体験の後ではもはや愛想が尽きたようなことが書いてあるけど、客観的に読めば、なかなか思いやりのある、ごく普通のいい夫ですよ。やれ学会だ、会合だって全米を飛び回って家庭生活を顧みなくなってしまったアンタの方に、家庭崩壊の根本的な原因があるんじゃないの?? っていうか、立花隆はよくこの本を訳そうとしたもんだな。まったく、人迷惑な。 というわけで、この本から得るところは極めて少なかったのですが、それでも何とかかき集めた情報を羅列しておくと・・・〇アメリカの臨死体験研究は、レイモンド・ムーディの『かいまみた死後の世界』(1975)から始まるが、初期の研究が臨死体験の具体的事例を集めるエピソード集作りに終始したのに対し、第二世代となるケネス・リング、ブルース・グレイソンらコネティカット大学のグループは、臨死体験の科学的研究を志し、これが主流となっていく。(5)〇ケネス・リングやブルース・グレイソンら第二世代の研究者たちは、臨死体験後の人格変貌に興味があり、臨死体験によって人類が進化を遂げるという理論を「オメガ元型仮説」と呼んでおり、そのモデルの一つとして、臨死体験後に特殊能力を身につけたバーバラ・ハリスに興味を持った。(7)〇1975年に『かいまみた死後の世界』なる大ベストセラーを書き、臨死研究ブームに火をつけたレイモンド・ムーディは、ヴァージニア大学精神科で、ブルース・グレイソン博士の下で研修医をしていた。いわば弟子の方が先に有名になり、その後で、師匠の方がこれに刺激されて臨死体験研究に入っていった。(91)〇バーバラ・ハリスはホリスティック・メディシンの指導者、イズラエル・トペルとウォルト・ストールから勧められてマリリン・ファーガスンの『アクエリアン革命』を読み、これに大きな影響を受けて、自らもアクエリアン革命に参画しようと決意した。(181)〇臨死体験研究はスタ二スラフ・グロスのサイコスピリチュアル研究とも関連がある。エサレン研究所でサイコスピリチュアルのワークショップを開催していたグロスのところにバーバラ・ハリスも参加しているし、またケネス・リングもまたエサレン研究所で臨死体験の研究会を開催している。(305)〇ケネス・リングは『オメガに向って』を執筆し、臨死体験研究に「人格変貌研究・人類進化研究」という新たな方向性を打ち出した。(408) ・・・とまあ、このくらいかな。500ページ近い本を読んで、得た情報がこれだけ。まったく・・・。 とはいえ、これだけの情報ではあっても、興味深いところはある。 要するに、臨死体験の研究、すなわち死後の世界はあるかとか、そういった研究が、最終的には「人類進化」の方向へ、つまりアクエリアン革命に向かうっちゅーところがね、実にこう、趣があるわけよ。 死後の世界が実際にあるかどうかなんていうスピリチュアルなことは、実はどうでもいいわけよ。そうではなくて、敵は本能寺にあり、本当の狙いは「人類進化」だったっていう。『2001年宇宙の旅』が描いたスター・チャイルドの誕生、新人類の誕生こそが、臨死体験研究の真の狙いだったと。 つまり、1960年代後半のヒッピーたちの夢、あるいは1970年代のニューエイジャーたちの夢だった「水瓶座時代の到来と新人類の誕生」が、1975年以降に展開する臨死体験研究の中に引き継がれたっていうこと、これが「臨死体験研究」研究のキモと見た。バーバラ・ハリスが自らの特殊能力の獲得をクンダリニー覚醒と結びつける――つまり、ヨガと結びつける――のも、これがニューエイジャーの夢の一部であることを考えれば、即、納得できるのであって。 問題は、このからくりに気が付くかどうか、だよね。気が付かなかったら、一般人がこの方面を研究したって、あんまり意味はない。スピリチュアルに興味があれば、また別だけど。 というわけで、この本自体にはあまり価値はないけど、上のようなことを考える上でのヒントにはなったので、読む価値はあったかな。 そういう意味で、この本、まあまあの収穫だったのでした。これこれ! ↓【中古】 バーバラ・ハリスの臨死体験 / バーバラ・ハリス, 立花 隆 / 講談社 [文庫]【宅配便出荷】
July 10, 2021
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このところ読んでいる本がどうもつまらない本ばっかりだったので、気晴らしにとある本を読みだしたら、これがまーーー面白い! 今年はまだ半分過ぎたばかりだけど、多分、今年読んだ最高の本となることでありましょう。 その本とは、荒川洋治さんの『文学の空気のあるところ』。これこれ! ↓文学の空気のあるところ [ 荒川洋治 ] これ、坪内祐三さんの『昼夜日記』の中で絶賛されていた本なんですけど、確かに素晴らしい。 これは書下ろしの本ではなく、荒川さんが文学講演会みたいなところでお話をされた、その内容を書き起こしたものでありまして、だから、全編、書き言葉ではなく、語り口調なんですな。それもあって、まるで荒川さんの肉声を聞いているみたいに、耳から脳みそに直で入り込んでくる。ほんとに分かりやすく書いてあるわけ。 だけど、その分かりやすさというのは単純さでは全然なく、内容的には非常に繊細かつ奥深い話なのよ。だけど、その深い話がすーっと抵抗なく心に入り込んでくる。 でまた、ホントに面白い話になっていて、よく文章の中に(笑)っていうのが入っているヤツがあるじゃないですか。あれ、ワタクシ、通常はすごく嫌いなんですけど、この本に関しては、あの(笑)のポイントで全部爆笑しましたから。ということは1ページ読む毎に3回くらい爆笑したということなんですけどね。 まあ、味わいのある、絶妙な面白さ。面白がらせようというわざとらしい面白さではなく、思わず吹き出してしまうような面白さ。最上質のユーモア。可笑しいんだ、これが。 各章のテーマはもちろん、文学をめぐるあれこれなんですが、荒川さんは詩人ですから、どうしても詩の話が中心になっている。で、私は普段、詩を読む人間ではないのですが、荒川さんの案内に従って読んでいくと、これがまた、なるほど詩の良さ、素晴らしさってのはこういうものか! というのが目ウロコで分かってくる。ほんと、面白いですよ。これ、本で読んでこれだけ面白いんだから、講演会を直に聴いていたら、さぞ、面白かったことでありましょう。 全部読んでしまうのが惜しくて惜しくて、チビチビと、同じページを2回、3回読み直しながら読んでいるのですが、それでも面白過ぎて、1日で読み切ってしまいそうな感じ。こんなに楽しい読書をしたのは、久しぶりだわ。 内容についてさらに解説したいのですが、私ごときが解説したら、せっかく荒川さんが深く面白く述べておられることを台無しにしてしまいそうですので、それは止めます。とにかく、こんなに面白く、楽しく、深く、感銘を受けながら読んだ本は久しぶり、というワタクシの興奮だけをお伝えして、後はもう、皆さんに実際に読んでもらうことにいたしましょう。 いやあ、荒川洋治おそるべし。すごい!! 素晴らしい! 面白い!!もう一度おすすめ! ↓文学の空気のあるところ [ 荒川洋治 ]
July 9, 2021
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『簡易生活のすすめ』という本を読んでみました。 で、これによると、明治時代の日本で「簡易生活」というのが流行ったと。まあ、文明開化と共に、これまでの日本人の生活における種々の面倒臭い慣例を排し、家事の仕方、服装、客人への対処等々に合理的な処置法を導入していこうという主張だったようで。 で、そのきっかけとなったのが、フランスのシャルル・ワグネルという人の書いた『The Simple Life』という本だったと。 この本は明治28年、すなわち1895年に刊行され、当初はパッとしなかったものの、アメリカでシオドア・ルーズベルト大統領の愛読書となったことから人気が沸騰、100万部の大ベストセラーとなると。で、その余波は日本にも及び、明治33年(1900年)に翻訳が出てこれまた人気沸騰。その後、明治39年(1906年)に、この本の影響下、上司小剣(かみつかさ・しょうけん)なる人物が『簡易生活』なる雑誌を創刊、日本にも簡易生活という概念が普及した。 とはいえ、上司の「ワグネルにはワグネルの簡易生活主義あらん。我輩には我輩の簡易生活主義あり」という言葉からも窺えるように、ワグネルの提唱した「シンプル・ライフ」の概念は、解釈・実践する日本人の側の状況によって段々その趣が変化し、日本独自の「簡易生活」概念が生まれていく・・・ ・・・というようなことがあったらしい。 さて、ここまでは面白いでしょ? まあ、私もここまでは面白いと思ってこの本を読み始めたわけでありまして。 そもそも私が何でこの本を読み始めたかと言いますと、日本人の自己啓発思想の変遷という観点から、「立身出世・金儲け」といった方向性の自己啓発思想とは異なる、別な方向性の自己啓発思想の在り様を見たかったから。 確かに、イケイケどんどんで、社会的/経済的出世していこうというのではなく、逆に、今風の言葉で言えば「断捨離」とか、そういう、ミニマリズム的な生活を目指す自己啓発思想というものが日本には古来からある。古来というのは、例えば『方丈記』とか、そういう伝統ね。そしてそれは今日でも仏教系の自己啓発思想に残っているし、あるいはまた近藤麻理恵さんの「片付け」思想とかにもつながっていると、私には思われるわけ。 で、そういう断捨離的な方向性の自己啓発思想の、近代的な顕れの一つに、明治時代の「簡易生活ブーム」があったというのならば、それは是非、チェックしておきたい・・・ワタクシはそういう風に考えて、この本を手にしたわけですよ。 しかし・・・ 全然ダメ、この本。 この本で、多少なりとも参考になったのは、先に私がまとめた部分だけで、後はもう、要領を得ない駄文の羅列でしかなかったという。 だってさ、そもそも「簡易生活」流行のきっかけがフランスのシャルル・ワグネルの『The Simple Life』という本であったというのなら、まずはこの本の内容を紹介し、その来歴を明らかにすべきじゃない? なのに、この本について、わずか一行しか書いてないもんね。どういうこと、それ? それに、その後の日本における「簡易生活思想」の展開についても、些末な、そして見当はずれなエピソードしか書かれていない。そのくせ個人的に簡易生活を実行したら結構役に立ったとか、そんなどうでもいいことはちょこちょこ書かれていたりして、その隔靴掻痒ぶりたるや、もう、イライラしてくる。でまた、「こういう風に書いたら面白いでしょ」的な(しかも全然面白くない)文章も散見されるなど、多少なりとも学術的な展開を期待したワタクシとしては、がっかりさせられることばかり。 主題は面白そうなのに、その面白さが何一つ味わえないという。主題が持つポテンシャルの一割も引き出せていない本だったのであります。 大体、ワグネルの本のタイトルを『The Simple Life』とか言っているけど、この人フランス人なんだから、原著は『La Vie Simple』であるはず。その刊行年が1895年なのはいいとして、そのアメリカ版は1904年の発行でしょ。その辺の事実関係のチェック、どうしてしないの? そういう基本的なことがダメダメだと、学術的価値なんか生じませんYo! っていうか、著者がダメダメなのは致し方ないとして、この本の編集者は一体何をやっているのよ。その辺、著者に対してダメ出しなきゃ、編集者がついている意味ないじゃん。 というわけで、面白そうな本だなと思ったものの、実際に読んでみたら、すっからかんだったのでございました。 ただ、この本のおかげで「シャルル・ワグネル」という人物及びその著書の存在を知ったので、そのことだけは感謝しておきましょう。でも、そこから先は、この本を読むより、当のワグネルの本を読めばいいことだよね・・・。【中古】 簡素な生活 一つの幸福論 講談社学術文庫/シャルルヴァグネル(著者),大塚幸男(訳者),祖田修(その他) 【中古】afb
July 8, 2021
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今日、コロナ・ワクチン(ファイザー)接種の第1回目をやって参りました。 先に打った人から「痛いとか痛くないとか言う前に、あっという間に終わって、え? もう終わり?って感じだよ」というようなことを聞いていましたが、実際に体験してみると、まさにそんな感じでありました。あっけないほどのもの。 で、今のところ、副反応的なものはなく、熱も出ないし、倦怠感もそれほどない。ただ、若干、打たれた箇所が「ここに打ったんだよな」と感じられる程度に痛みがありますが、それも腕を動かすに支障が出るほどのことでもない。母も姉も特に副反応はなかったと言っていましたが、我が家系はこのワクチンに対して過剰に反応することはないようです。 しかし、まあ、これから熱や倦怠感が出始めることもあり得るかなと思い、今日の柔術の稽古はお休みしておきました。用心、用心。 ッつーことで、今日はもう午前中からずっと本を読んでいるのですが、これについてはまた後程、報告したいと思います。
July 8, 2021
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以前から読みたいと思っていた本、坪内祐三さんの奥さんが書かれた『ツボちゃんの話』を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 雑誌で読んだ時も引き込まれましたが、やっぱり冒頭の、坪内さんが亡くなられた当日の話が、まず印象的。 毎月20本もの原稿を抱えても平気の平左だった坪内さんが、その日に限って「原稿が書けないから遅くなる」と電話してきたこと。にもかかわらず、さほど遅くならずに帰宅したこと。好きなおかずだったのに、その日に限って晩御飯を残してしまったこと。慣れていたはずなのに、その日に限って「(テレビの)録画ができない」と言い出したこと、等々、後から考えると妙なことが色々続くのですが、それらがすべて急死の前兆だったなんて・・・。些末なのにリアルで、ちょっとゾッとしてしまう。 で、そういう、坪内さんが亡くなった日の話から、今度はぐっと遡って、佐久間さんが初めて坪内さんと出会った頃の話になり、またその後結婚して奥さんの立場から見た坪内さんの日常の話に入っていくのですが、その辺りの話も私には非常に面白かった。 例えば坪内さんの本の読み方とか。佐久間さんによると、坪内さんが本を読む時、重要と思うところに小さな付箋を貼るというのですが、それが1冊の本について、せいぜい10カ所くらいだったそうで。いやあ、さすが。要するに、その本のキモを一瞬で掴んでしまうということでしょ。そういう本の読み方が出来る人だからこそ、あれだけの仕事を残せたってことでしょうな。すごいわ。 あと、記憶力も相当良かったようで、興味のある人や事についての情報をことあるごとに積み上げていき、そうやって積み上げた情報があるレベルに達した時、それを縦横に活用して文章を書いていく、そういうインプットとアウトプットに関するノウハウが素晴らしかったらしい。 それから、損得関係なく、人に対するサービス精神が横溢していたという話も、なるほど坪内さんというのはそういう人であったか、という感慨を強くしましたね。 一方、繊細な人だったようで、しかもその繊細さにちょっと独特なところがあり、妙なところに地雷原があって、それを踏んでしまった人に対して猛烈に怒った、という話。坪内さん的には、怒るにも一貫性のある理由があるのだけど、傍目には、どうしてそんな些細なところに烈火のごとく怒るのか分からない時があり、しかも最晩年の二、三年は、体調の悪化もあって、感情のコントロールができないことが多かった、なんて話を読むと、ちょっと困ったちゃんな人だったのかしら? なんて思いますが、しかし、それはそれで坪内さんの個性だったんだろうなと。近くに居た佐久間さんや、その怒りの矛先に居た人にとっては、ちょっと辛かったかも知れませんが。それでも、後々まで尾を引く怒り方ではなく、そういう意味では粘液質ではなかったとのこと。まあ、良くも悪くも江戸っ子的、なんでしょうな。 とまあ、読み進めるうちに、ふうむ、坪内さんとはそういう人だったか、と思うことばかり。 境遇的には私と似ているところがあるなあ、と思うところが色々あって、例えば定職に就いたのが29歳の時、というのは私も同じだし、最初の本を出したのが39歳の時、というのも私と同じ。取った文学賞が、坪内さんは講談社エッセイ賞で、私は日本エッセイスト・クラブ賞ですから、そこもちょっと似ている。また坪内さんは『変死するアメリカ作家たち』という本を出しているぐらいで、ベースにアメリカ文学研究がある、というところも、私からすれば非常に親近感がある。そう言うことも含め、もうちょっと早く、出会いたかったものでございます。 とにかく、本書を読んでますます坪内さんに興味が出てきました。 となると、坪内さんが最も力を注いだ本であるという『靖国』とか、あるいは『文学を探せ』あたりも、読みたくなってまいります。前者はともかく、後者はもう絶版なんですね。古書価がちょっと高いですが、まあ、ここは一つ、奮発することとしますか。ツボちゃんの話 夫・坪内祐三 [ 佐久間 文子 ] 『中古』文学を探せ
July 7, 2021
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世はマリトッツォ・ブームである。 そのことは承知しているのだが、いまのところ、どれがマリトッツォの正解なのか、イマイチ、分からない。 ティラミス・ブームの時は、割と最初のうちに「これが本場のティラミス」というのを食べたので、それを基準にして、「これはいい線行ってる」とか「これは日本人好みに変えたパチモンである」とか自信をもって判断したものだが、マリトッツォに関しては今のところまだ「本場の・・・」というのにたどり着いていないので、どれが本物でどれがパチモンなのか、よく分からない。 最初に食べたのは、確か、カルディで売っていた冷凍の奴である。まあ、そこそこ旨かった記憶がある。だが、あれは本場のものなのだろうか? 一番最近食べたのは、ヤマザキの奴で、これはなんだか、単なるオレンジ・ピール風味の生クリーム・パンのようであった。これは本場の味なのだろうか? そもそもマリトッツォに定義はあるのだろうか。土台となるパンはブリオッシュでなければならないとか、生クリームにはオレンジ・ピールが入っていなければならないとか、カスタード・クリームを使うのは邪道であるとか、そういうのはあるのだろうか? っていうか、そもそもマリトッツォは、爆発的に旨いものなのだろうか? ひょっとして食べすぎると胸やけするだけの菓子なのではないだろうか? そこのところも、私には今のところ確信が持てない。果たしてこれは、ティラミスのごとく、日本に深く定着するものなのか? それとも一時的なブームで終わるのか? と言いながら、実は昨日もカルディでマリトッツォを買ってしまった・・・。 果たして、マリトッツォの正解探しは報われるのか、それとも徒労に終わるのだろうか??
July 6, 2021
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昨夜、アマゾン・プライムでサム・メンデスの戦争映画『1917』を観ました。以下、ネタバレ注意ということで。 ま、戦争映画って、悲しく悲惨な話になることが多いので、さほど好んでは観ない方なのですが、この映画に関しては、ほとんどカット割り無しの、まるで最初から最後までワンカットのような編集で撮られているというのが話題でしたので、そのあたりのことも含めて興味があったんですな。で、プライムで観られるなら、観ちゃおうかなと。 粗筋は、きわめてシンプルでありまして、敵のドイツ軍の退却に乗じ、致命的な攻撃を仕掛けようとしている友軍に対し、「これはドイツ軍の罠だから、攻撃を中止せよ」という伝令を伝えるため、二人の若い兵士が中立地帯を抜け、さらに撤退した(はずの)敵陣を通り抜けた先に駐留している1600名の兵隊たちの元に向かう、そのミッションを最初から最後まで写す、というもの。伝令に出た二人のうちの一人は、自分の兄がその1600名の友軍の一人であり、兄の命を救うためにも絶対にこのミッションを果たさなければならないというところがある、というのも見どころの一つとなっております。 で、ただ単に伝令がメッセージを伝えに行くだけという、きわめてシンプルなミッションだからこそ、ワンカット・ノンストップという特殊な演出が効果を発揮するわけですが、もちろん、シンプルとはいえ危険なミッションではあるわけで、途中、二人の伝令には、様々な艱難辛苦が待っている。 そういう艱難辛苦を通過して、一つの仕事をやり遂げるとなると、当然、それがそのまま、若者たちの通過儀礼というか、成長譚となっていくわけでありまして、実際そうなんですけど、なにせ戦争映画ですから、その通過儀礼・成長譚は、「何かを得ていく」過程というよりは、むしろ「多くのものを失っていく」過程となる。そのやるせなさがね、要するに戦争の無意味さ・不条理さの言い替えになるわけですな。また、そうした不条理を越えて、それでもなお若者は何かを得る、というところもあって、そこが人間の強さの表現にもなっていると。 というわけで、なかなか見せる映画ではありました。一見の価値はあると思います。でも、近年の印象的な戦争映画としては、やっぱり私は『ダンケルク』の方が好きかな。1917 命をかけた伝令【Blu-ray】 [ ジョージ・マッケイ ]
July 5, 2021
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幸田露伴の『努力論』(1912年/明治45年)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ・・・と言いたいところなんですけれども、その前に、久々、骨のある本を読んで疲れた~。内容的にすごく面白いのだけど、何せちょっとばかり古い日本語で書かれているので、辞書を引き引き読まざるを得なかったんだもん・・・。それにしても、今から百年ちょっと前に達意の日本語で書かれた本がスラスラ読めないなんて、なんというザマでありましょう。アラ還の、しかも読書のプロたる私に読めないんだから、若い人、そして普段本をあまり読まない人にはもっと読めないでしょう。日本人として、情けないことでございます。 それはさておき、そもそもなんでワタクシがこの本を読んだかと申しますと、そりゃ当然、自己啓発本研究の一端でありまして、20世紀初頭の日本における、しかも大文豪の手になる自己啓発本とはいかなるものか? というのが知りたかったと。 で、そもそも本書が書かれた事情とは何かと言いますと、露伴本人による巻末の「跋」によると、「(執筆の)主意は當時の人々の功を立て業を成さんと欲するあまりに、不如意のこと常に七八分なる世に在りて、徒に自ら悩み苦みて、朗らかに爽やかなる能はざる多きを悲み、心の取りかた次第にて、然様に陰惨なる思のみを持たずとも、陽舒の態を有して、のびのびと勢よく日を送り、楽しく生を遂げ得べきものをと、聊か筆墨を鼓して、苦を轉じて楽と為し、勇健の意氣を以て懊悩焦燥の態度を拂拭せんことを勸めたまでであつた」(281)とある通り。要するに、1912年/明治45年頃の日本では、出世主義が日本国内に蔓延しておって、しかもそうは言ってもそれを望む全員が出世できるはずもなく、結果、多くの人々が懊悩しておったと。そこでその出世したくともできない人々の暗き眉を少しでも開いてあげようというのが、露伴が此度筆を執った理由であると。 ここにおいて、なるほど、明治末期の日本ってのは、それほど立身出世主義が蔓延していたのか、ということになるわけですが、それで思い出すのは、露伴と同時代人の漱石が書いた『門』(1910)のこと。この小説の中で、主人公の宗助が歯医者に入って待合室で待っている時、その待合室に『成功』という雑誌が置いてあったというくだりがある。このことと露伴の『努力論』の跋を考え合わせると、確かにこの時期の日本では、それこそ『成功』のような立身出世主義を奉じる雑誌が盛んに出ていて、人々はそれに踊らされていたのであろう、ということが判明するわけですよ。そしてその『成功』という雑誌は、アメリカのオリソン・マーデンが創刊した『Success』の日本版ですから、アメリカの人々を出世欲・金儲け欲に走らせたマーデンの影響は、太平洋を越えて日本にまで届いていたことになるわけですが、そういうことがワタクシ的には非常に興味深いわけね。 で、そういう事情からすると、露伴が書いた『努力論』なる自己啓発本は、言うなれば、当時の日本の巷に出回る自己啓発本にすっかり当てられて、自己啓発本中毒になってしまった同胞への解毒剤として出されたものであったと。だから、これを単なる自己啓発本と考えてはいけないわけですな。行き過ぎた自己啓発思想を中和するための自己啓発本だったのだから。 いやあ。この時点で既に十分面白いじゃないの! まだ本文読んでないのに。 で、そういうことを勸案すると、露伴の『努力論』を、「死ぬほど努力しろ!」という叱咤激励の本だと勘違いしてはいけないことになります。ここ、ポイントね。 例えば、『努力論』というと、必ず引用される個所があって、それは本書冒頭の「序」にある一節なんですけど、こう書いてある: 努力は好い。併し人が努力するといふことは、人としては猶不純である。自己に服せざるものが何處かに存するのを感じて居て、そして鐵鞭を以て之を威壓しながら事に従うて居るの景象がある。 努力して居る、若くは努力せんとして居る、といふことを忘れて居て、そして我が為せることがおのづからなる努力であつて欲しい。さう有つたらそれは努力の眞諦であり、醍醐味である。(中略) 努力して努力する、それは眞のよいものでは無い。努力を忘れて努力する、それが眞の好いものである。(4-5) で、これだけ読むと、もうなんだか、努力を努力と感じないほどの三昧の境地に至って初めて努力というものだ、的な感じで、まあ、露伴自身もここではそのつもりで書いているのだろうけれど、それが本書の主旨であるかのごとくに受け取ってしまったらいかんわけよ。露伴の執筆意図は、先にも述べたように、出世出世で出世の鬼みたいになっている日本人に、そんなにシャカリキになるなよ、というつもりでこの本を書いているのだから。 実際、本書の中で露伴が努力について云々している部分というのは案外少なくて、後はむしろ、自然や人の世の仕組みというものをよく理解して、それに自分を合せて賢く生きろ、と言っているように思われます。 具体的に、各章毎に何が書いてあるか、箇条書き風にしていくと・・・「運命と人力と」: 人は運命のことをよく言うし、失敗者は猶更、失敗の原因を運命に帰する。一方、成功者は運命のことは言わず、自分の成功の要因を自分の努力に帰するけれども、ある意味、両方とも正しいと言えるし、両方とも間違っているとも言える。確かに運命はあるが、その運命に負けず、あるいはその運命からさらに学んで努力したものが結局は成功するのだ。「着手の處」: 勉強するとなると、どこから手を付けるかが問題で、そこを良く考えないといけない。「自己の革新」: 歳が改まると誰しも「今年こそは自己革新してやる!」との志を持つけれども、結局、毎年同じような過ごし方をしてしまうことが多い。本気で自己革新するつもりなら、大いに発奮して、断固、昨年とは違う自分を作り出すべきである。そうでもしなければ、今のままでしかない。「惜福の説・分福の説・植福の説」: 賢く福を得るには三つの方法がある。一つは「惜福」。10儲かったら10使うのではなく、その一部を残すとか、金を借りるにしても、10借りて返済する目途があったとしても、8だけ借りて余裕を持たせるとか、常に余裕をキープすること。ある意味、「ケチをしろ」ということだが、徳川家康はこのケチケチ作戦に秀でていた。二つ目の「分福」は、10の幸福があったら、それを独り占めしないで、余分の福を周囲の人に分け与えること。豊臣秀吉は、この点に秀で、功のあった家来に十分に褒美を取らせたから、あのように心強い味方を得ることができた。分福は惜福よりも優れた考え方だが、しかし、そこにあるだけの福が尽きたら、どちらにしても尽きてしまう。そこで未来に福の種を蒔くという意味での「植福」こそ、最良の策。今、井戸の恩恵を被っているのは、昔その井戸を掘った人がいるからである。それならば、例えば今日、果樹を植えれば、将来の人がその果実の恩恵を受けられるがごとく、今自分が何か良いことをして、それが未来の人に役立つように図るべきである。「努力の堆積」: 偉人の功を見ると、いかにも天才が苦労もなくパッと成し遂げたように見えるが、よく見れば実はその前段にとんでもない努力をしていることが分かる。そういう努力の積み重ねの先に、天啓が与えられるのだから、まず、何はともあれ努力の堆積を心掛けるべきである。何しろ「努力は人生の最大最善なる尊いもので」あり、「努力より他に吾人の未来を善くするものはなく、努力より他に吾人の過去を美しくしたものはない。努力は即ち生の充實である。努力は即ち各人自己の發展である。努力は即ち生の意義である。(83)」「修學の四標的」: 学問を志すとなれば、まずは目標を設定しなければならない。私見によれば、学問の目標は四つある。つまり「正」「大」「精」「深」の四つ。 まずは「正」。学問の王道を外れたような説を出すと、ちょっと注目されたりもするが、それは結局、長続きはしない。やはり学問の真正面を衝くようなところを研究すべきである。 次に「大」。子供の時に持ち上げられなかった石も、大人になれば軽々と持ち上げられるようになる。同様に、まだ学門を始めたばかりの時に手近な目標を定めたりするのは愚かなことで、ある程度進んでから、大きな目標を掲げないとダメ。 「精」というのは、学問はゾンザイではダメ、ということ。俺は細かいことは気にしない、なんていう態度で学問をしていたら、とうてい大成はしませんよと。 最後は「深」。先に「大」のところで、目標を大きく設定せよとは言ったけれど、自分の才以上の目標を設定してしまったら、広く浅くの学問になってしまう。たとえ非才の身であっても、身の丈に合った分野を深く深く考究していけば、それなりの成果を出すことができるのだから、自分に出来る範囲の学問分野を設定したら、後は出来るだけ深く研究することを心掛けるべきである。「凡庸の資質と卓絶せる事功」: 人生の志にしても、あるいは日常のことにしても、自分の性分に合ったものでなければいけない。逆に好きこそものの上手なれで、自分の性に合った志を選んで精進すれば、誰しもなにがしかの貢献を社会に対して出来るものである。高望みをしてはいけないが、自分の身の丈に合うものの中では、常に最上のものを得ようと努力すべきであって、それこそが凡人の生きる道である。「接物宜従厚」: ものを扱うにせよ、人と接するにせよ、相手の性質・取り柄をもっとも生かすような接し方、すなわち良さを「助長」するような態度で接すれば、ものは最高の性能を発揮してくれるし、人はあなたのまわりに集まってくる。逆に、ものをゾンザイに扱い、相手の良さを殺すような接し方をしていると、ものは壊れ、人はあなたのもとから去っていくものである。「四季と一身と」: 「人は其の内よりして之をいふときは、天地をも籠蓋し、古今をも包括しているものである。天地は廣大であるが、人の心の中のものに過ぎぬ。古今は悠久であるが、やはり人の心の中に存するものである。人の心は一切を容れて餘りあるものである。人ほど大なるものは無いのである。併し其の外よりして之をいふときは、人の天地の閒に在るのは、大海の一滴の如く、大沙漠の一砂粒の如きものであり、又人の古今の閒に在るのは、大空の一塵の如く、大河の一浮汪の如きものである。人は空閒と時閒との中の一の幺微(えうび)なるものに過ぎぬのである(113)」 っつーわけで、人間というのは宇宙の一構成要素であるとすれば、当然、大宇宙の影響を受けるわけであって、とりわけ四季の影響を受ける。冬には縮こまり、春になれば「はる」という言葉からも推測されるように、膨れてくる。春夏には身体の成長が、また秋冬には心霊の成長が促進されるようである。だから、各人とも、天地と我が身の関係性を考察し、それに合った行動を取るべきである。「疾病の説」: 病気をせずに一生終わる人は極めて少ないのだから、自分もいずれどこかの時点で病気になることをあらかじめ承知しておくのが賢いというべきである。また一人の人間の病が社会に悪影響を及ぼすこともあるのだから、劣悪な種を断ち切ることも肝要(130)。ところで、病気は用心していてもかかることがあるけれども、例えば埼玉や茨城など寄生虫の巣窟として有名なところに行って不用心に野菜を食すなど、すべき用心をしなかったことから病気になることもある。それは愚かと言うべきであって、病気を防ぐための知識を身につけ、可能な限り病気にならないよう心掛けるのがよろしい。かのコッホも、京都を訪れた時、往来を肥桶を担いでいく人の姿を見かけて以来、一切、野菜を食べなかった。 他方、生まれつき虚弱な人、自分の責任ではないところで病にかかったり怪我をしたりして、まともに働けない体になってしまう人も居る。これは気の毒なことであって、こういう人は、国が国の予算で彼らを収容する施設を作り、面倒を見るのが当然と言うべきである。悪人を牢屋に囲い、三度の飯を与え、風呂に入れ、寝る場所まで提供しているのに、気の毒な病人をほったらかしにし、税金まで取るとは何事であろうか。「静光動光」: 光にもじっと動かぬ光と、チラチラ揺らぐ光があるように、人の気にもどっしりとした気もあれば、散漫な気もある。 で、「散る気」というのはやっかいなもので、人が一つの仕事をし遂げるのをこれほど邪魔するものはない。しかし、大抵の人はこの散る気の餌食になっている。新聞を読みながら朝飯を食う、碁を打ちながら商売をする。こういうのは皆、散る気による。これでは大事業など出来るわけもない。凡人が凡人で終わるのは、大概の人が散る気をそのままにするからである。これが人の常。 しかし、ここに「順人逆仙」ということがある。凡人と同じことをしていたら、凡人のまま終わるが、凡人と逆のことをすれば、人に卓越することができる。散る気を抑え、張る気を養成すれば、凡人を脱することができるに違いない。 とはいえ、癖となってしまった散る気を矯正するのは、癖がついたのと同じだけの時間をかけないとなかなか難しい。それでも、とにかく、何事によらず、今やっていることを終わるまできっちりやってから次のことをする、という習慣をつけなくてはダメ。「二ツも三ツも為さねばならぬ事を擇みて、自分は此の事を為しながら死す可きなのである、と構へ込んで悠々乎と従事するが宜しいので、そして実際壽命が盡きたら其の事の半途で倒れても結構なのである。全気で死ねば、即ち̪尸解(しかい)の仙なのである。(176)」 いずれにせよ、例えば自分の性に合ったことに専念するなどの工夫も含め、散る気を押さえ、物事に集中して取り組むにしくはない。「進潮退潮」: 同じ海でも、朝の海と日暮れ時の海は異なる。事物ですら、時間を経れば同じものとは言えない。ましてや人間となれば、常に同じ状態ではない。 例えば「気の張り」ということがある。例えば火事場の馬鹿力などというのも、気が張っているためにその人の最高の力を発揮したということであろう。つまり、気を張るということが、人として非常に重要であるということになる。「深夜に書を讀み學に従う場合の如き、更闌け時移って、漸く睡を催して来るに際して、意を奮ひ志を励まして肯て睡らぬのは努力である。學を好んでおのづからに睡を思はざるのは、気の張りである。努力は『力めて気を張る』のであり、気の張りは『おのづからにして努力する』のである。二者の閒に相通ずるところの存するのは勿論で有るが、不自然と自然との差が有り、結果を求めるのと原因となるとの差が有る。努力も好い事には相違無いが、気の張りは努力にも増して好ましいことである。(中略)張る気を保つていることは中々困難である。(186)」 一方、張る気の反対が「弛む気」であり、これが良くないのは当たり前として、その他に「逸る気」とか「亢る気」とかもあって、そういうのにも陥りがちである。さらに「張る気」に似ていながら別物に「凝る気」がある。その形は張る気に似ているけれども、目的地に急ぐあまり右も見ずに突き進むとか、勝負にこだわるあまり、碁の一局面だけに集中してしまって、他の側面に心が向かわないようなのが凝る気のなす仕業と言える。例えば武将でも武田勝頼のごとく、豪勇で聡明であっても、凝る気に満ちていたために、戦となれば是非に凱歌を奏せずんば退かじとばかり不利な戦であっても悪戦苦闘してしまうため、結局は天下を取ることは出来ない。もし勝頼が単なる一部将で、秀吉の如き人の部下として秀吉の指図で戦うのだったら、素晴らしい戦功を立てたに違いない。 ではどうして張る気を育成し、これを保つべきか。 まず自分の正しいと思うことをやる。「我と我が信との一致」ほど、張る気を興す要因はない。また「意の料簡」というのも張る気を興す。商家の妻が夫を亡くし、自分がしゃんとして家を保持しようと志した時などの気の張りがこれ。また例えば、自分の母親の病気を治してやろうと、寂しい夜道もものともせず駆け抜けるようなとき、いわば「情の感激」によっても気は張るものである。その他、学問的な要因たる「智の光輝」とか、芸術作品に触れた感激に起因する「他人の張る気に影響を受ける場合」など、張る気を生じさせるものは幾つかある。 他人の張る気に影響されると言えば、逆に、優良ならざる気を持った人が集会した際、共鳴作用によって散る気、逸る気、暴ぶ気などが起こって手に負えなくなることもある。 このほか、境遇の変化も、張る気を興す要因となり得る。ただ境遇の変化と言っても、良い方に変わる場合、悪い方に変わる場合、良いとも悪いともないが、とにかく境遇が変わる場合の3つがあって、それぞれに張る気の出方は変わってくるが、植物が一定の地に在り続けるとやがて枯れるように、環境を変えることで、張る気を出し、停滞状況を打破するということはあり得る。例えば転地療法などは、これを善用した例と言える。もっとも、狐の首丘の例もあるように、環境を変えると、元の環境を恋しく思う心も生じることがあって、転地療法が逆効果になることもありえるが、それでも悪しき停滞を選ぶよりは、環境を変えた方がいい場合の方が多い。 また女子の身体的周期からも明らかなように、月の周期、年の周期、一日の内の周期ですら、人に影響を与えているのは疑えない。例えば人が夢を見る際、眠りに入ってすぐとか、もうすぐ起きる時に多いのは、身体の中の血液が時間の推移と共に移動することの影響であろう。また動植物の中で、昼に活動するもの、夜に活動するものの別があるのも、やはり宇宙運行の影響と言える。だから、こういう宇宙と人体との間の相互作用によくよく注意をこらし、それぞれの時期に一番やるべきことを心掛けるようにすべきである。「説気 山下語」: 「天下を通じて一気のみとは南華経の言である(251)」が、こういう考え方から説き起こすならば、宇宙というのは一つの気がそれぞれの物体に変化したものと考えることもできる。たとえば「にほひ」というものは、香りという意味のみならず、モノから発せられる気を指すものでもある。中国には「望気の術」というものがあるくらいで、人や戦況の「にほひ」から勝ち負けを予測したりできるともいう。鉱山が発する「気」から、そこに鉱脈があることを知る、なんていうこともある。また波の荒い海岸や、松林に落ちるカミナリなどが発生させるオゾンなども、「気」と同じものと言えるかどうか分からないにしても、やはり人体に影響を与えることが知られている。 また時間も「気」で数えることができる。 さらに、人から発する気だけでなく、人の中に表れる気というのもあって、印堂に黒気あるものは不幸である、などということも言われている。 また人に器と非器があり、この二つが合わさって人となるという説もある。端的に言えば器は臓器、非器は魂とも言える。死に瀕して蘇生した場合、身体と心の分離が見られたというような説もあるが、これはおそらく、まだ微量の血液が経めぐっていたためのことではあるまいか。いずれにせよ、器と非器は別物ではなく、どちらかが一部欠ければ、他方も同じ分だけ欠ける。もっとも代償作用があるので、同じ分だけ欠けると言い切ることもできないが、双方があって一つであることは間違いない。身心は二即一(275)である。 宇宙の仕組みも完全には判明していないし、人間の心が身体を離れて存在するものかどうかも今のところはまだ分からない。ただ、宇宙の中に存在するものの間に相互に気の関連があることは事実であるのだから、この気というものの相互作用を理解し、うまくとらえ、活用することで、一人の人間としても幸福となり、また社会全体としても幸福となれる、これこそが「気の道」である。 ・・・とまあ、こんなことが書いてある。 どう? 本書『努力論』というのは、「努力こそすべて、努力しろ!」の一点張りの本ではない、ということは分かるでしょ? むしろ、最後の方なんか、宇宙エーテル説とか、チャクラっぽい話とか、臨死体験の話とか、もう、自己啓発思想のオンパレードじゃん。これを明治45年の時点で書いていたの? 凄すぎる。っていうか、これ、古今東西の自己啓発思想に通じていないと、絶対に分からないハナシだと思うぞ。プラス、オゾン発生の原理とか、夢を見るのはREMの時だとか、そんなことも知っていたわけでしょ? そう言うことも含め、凡百の『努力論』の解説本では、この本はとても解明できない。少なくとも、ワタクシ程度の実力がないと、露伴の言っていることを正確には理解できないと見た。 ま、それはともかくとして、本書前半は、フランクリン流の自助努力型自己啓発本であるとしても、後半部分に差し掛かるにつれ、人間は人間だけの努力でどうなるものではない、人間を取り囲む宇宙・自然の気と共に動かなくてはダメ、というようなことを言っていて、スピリチュアルな自己啓発思想にかなり接近している。さすがは大露伴、とても一筋縄ではいかないところが面白い! とまあ、そういうことが分かっただけでも、この本を読んだ甲斐がありました。これこれ! ↓努力論改版 (岩波文庫) [ 幸田露伴 ]
July 4, 2021
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今年度、私は専門の授業はすべて対面でやっておりますが、一般教養の語学の授業に関しては、対面授業とオンデマンド授業を並列開講しておりまして、どちらで受講してもいいという形で、学生に受講の仕方を選ばせていたわけ。スタート時点では、対面を選ぶ学生が半分、オンデマンドが半分くらいだったかな? しかし、その後、愛知県に緊急事態宣言が出されたので、ひと月半ほど、一律にオンデマンドになってしまった。 で、先々週かな? その「緊急事態宣言」が解除されたことを受けて、再び対面授業とオンデマンドの併用を復活させたと。 すると・・・どうなったと思います? 3クラス、総勢100名ほどの受講生の中で、復活した対面授業に参加したのは6名でした~! つまり比率は6%。 まあ、これが現実ですな。基本的に大半の学生は対面授業の復活なんか望んでいないと。キャンパスに来て友達と会ったり、部活したり、踊り場でダンスの練習をしたりするのが出来ればいいので、何も授業までキャンパスで受けなくてもいい――これが今の学生のホンネよ。 それにオンデマンド授業にはオンデマンドなりのメリットがあって、自分の好きな時、都合のいい時に受講できますからね。加えて自分のペースで受講できるし、分かりにくいところは何度でも聞き直せる。 加えて、私が作成したオンデマンド教材は、出来がいいからねえ・・・。誰でも楽しくポイントを押さえた学習ができる。 っつーことで、私も心置きなく授業はオンデマンドに任せ、自分は精一杯、研究方面に力を注ぐという、双方一両得の状況が現出したのでした。めでたし、めでたし!
July 3, 2021
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たまたまアマゾン・プライムで何か映画でも・・・と思って物色していたら、『インサイド・マン』が無料で見られるようになっていたので、そう言えば前に見て、割と面白かったよなあ、と思い、見始めたところ、これが非常に面白くて、つい最後まで見てしまったという。 で、前に見た時に、自分がこの映画に何点を付けたか、気になってチェックしたところ、「79点」としている。 うーーん。案外、侮っていたもんですなあ。今回見直してみて、採点し直すとしたら、「85点」は差し上げたいところ。 実際、よく出来た映画ですよ。銀行強盗の話で、実際に強盗に成功する話であって、その面だけ見ると道徳的にどうなんだということになるわけですけれども、実は賊がその銀行を狙ったのには、ある意味で世直し的な側面もある。泥棒にも一分の理ありというわけでね。だから、泥棒の話でありながら、観客は胸のすくところがある。 しかも、ことを実行するにあたって、一人の死者も出さないというところがまた非常によろしい。それでいて、一連のシーンに適度の緊張があって、決して退屈はさせない仕組みにもなっているという。 でまた、要所要所にいい俳優を配していて、そこがまたいい。そして、主役となるデンゼル・ワシントンとクライブ・オーウェンがそれぞれにいいのよ。警察側の交渉人のワシントンは、決して正義漢一本槍ではなく、一方、強盗のオーウェンは、決して悪漢一本槍ではない。対峙する双方が、それぞれに清濁併せ呑むの気配があってキャラクターとして実に魅力的。ついでに言えばもう一人の主役、ジョディ・フォスター演じる一流弁護士がまた、彼女の常の役柄とは異なって、相当に腹黒いところがあるという描き方もなかかなよろしい。 監督のスパイク・リーが得意とする人種差別ギャグも、度を越さない程度に炸裂していて面白いし、先ごろの『ブラック・クランズマン』などより『インサイド・マン』の方がよほど快作となっております。 いやあ、ほんの出来心で観たにしては、相当に楽しませてもらいました。 っつーことで、再評価してしまった『インサイド・マン』、教授のおすすめ!です。これこれ! ↓インサイド・マン 【Blu-ray】
July 2, 2021
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準備中の恩師本、先日、表紙を担当してくださるデザイナーさんが決まったのですが、出版時期についても今年9月刊が決まりました~! おー、目出度い、目出度い。今年は1月にも本を出したので、一年に2冊の著書を出すことになるわけだ。勤勉! ところで、本というのは何月に出版するのがいいのか、というのは、いつも気になることでありまして。 よほどの多産作家なら話は別として、私レベルのライターですと、原稿がいつ仕上がるかによって、それが仕上がった時点から出版準備が始まるわけだから、最終的に何月に出版になるか、事前に計算できないところがある。簡単に言えば、毎回、出たとこ勝負ってことですな。 だけど、私の数少ない経験から言うと、本当はその年度の前半に出した方がいいのではないかと。具体的には、4月あたりがベストなのではないかと。 例えば、「その年に出た話題作」とかを決める場合、11月あたりで締め切るケースが多い。つまり、12月を越えて出版された本は、その年の出版ではあっても、実質的には翌年に出る本と一緒の扱いになるわけ。 とはいえ、翌年の時点では、その本は「前年に出た本」ということになるので、新鮮味に欠けてしまって、話題作には選ばれないことが多い。だから年末に本を出すというのは、あまりよろしくないわけね。 逆に4月くらいに出すと、書評が出るのが6月か7月。その書評を見て読者は本を選んで読むから、読者がそれを読むのは8月とか9月。で、10月くらいに「11月締切で、今年面白かった本を〇冊、挙げて下さい」なんていうアンケートが来るので、4月頃に出た本が、読者的には一番印象に残ることが多い、という寸法なんですな。 その伝で行くと、9月刊だと、書評が出るのが早くても11月とかだから、うーん、ギリギリですな。 まあ、しかし、それでも12月とかに出るよりは、9月の方がまだ有利。9月に本を出したことはまだないですが、さて、今回の本がどの程度、世間様に受け入れられるか。ちょっと期待してしまいましょう。
July 1, 2021
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