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6月29日はOKGセンター外科受診で、午前中に終わりそうだったので、その足で、赤穂の方に1泊で旅行に行こうかという話になった。家内が友人との旅行で行ったことのある、赤穂の「銀波荘」がよかったとのことで、そこを予約した。急な予約だったので、残念ながらオーシャンビューの部屋はダメだったが、何とか宿泊予約できた。OKGセンター外科の受診は予定通り昼頃終わったので(こちら)、家内に運転してもらって赤穂へ。私の病気のこともあるので、ここ半年は遠距離運転は家内にしてもらっている。感謝。ピンポイントの梅雨の晴れ間2日間でラッキーであった。午後2時を回った頃、赤穂の町に着いて、赤穂城跡を散策し、大石神社を参拝。ちょうど夏越しの祓いの「茅の輪」くぐりの準備中だった。そういえば、明日は6月30日。癌が発見されてから、すでに7か月強経っている。赤穂城跡大石神社史跡大石良雄宅址ホテル銀波荘に午後3時頃チェックイン岬を散策伊和都比売(いわつひめ)神社たたみ岩大石名残の松きらきら坂のんびりとお風呂に入って夕食。岩ガキ会席岩ガキハモのお吸い物と岩ガキハモしゃぶしらすと若芽の釜飯美味しく、ボリュームたっぷりの夕食だったが、抗がん剤治療の副作用で、十分に楽しめなかったのは残念であった。夕食後は部屋でのんびり床に就き、サッカーW杯ブラジル戦は、時々目を覚まして途切れ途切れで見た。結果は残念。朝風呂を浴びた 海と一続きのようになった露店風呂が素晴らしい朝食チェックアウト10時までのんびりした。体調があまりよくないし、気温も高そうだったので、無理せずに、真っすぐ帰ることにした。昼過ぎには自宅に戻ることができた。この旅行を企画し、ずっと運転手をしてくれた家内に大感謝。今の癌が発見されて3度目の一泊旅行となった。楽しい旅であった。よろしかったらぽちっとお願いします。
2026/06/30
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今日はOKGセンター整形外科の診察を受けた。6月25日に同センターの泌尿器科の診察を受け脂肪肉腫の手術での摘出はできないとの診断だったので(こちら)、粒子線治療の可能性はないのかと聞いたところ、「では整形外科の予約をとりますので、また来てください。」ということになり、今日の外科での診察となった次第である。OKGセンター自体では粒子線治療はできないが、重粒子線治療施設であるOJRセンターと連携していることは確認済みなので、繋いでくれるだろうと思ったからである。今日の整形外科での診察の結果、「あなたの脂肪肉腫が重粒子線治療の対象となり得るかどうかは、こちらでは判断できません。OJRセンターの予約をとりますので、都合の良い日を教えてください。予約がとれれば、必要書類などを、ご自宅に送りますので、レターパックをコンビニで買って、係に渡してください。」とのことになったので、指示の通りにした。今日はこれだけ。何度も足を運ぶ必要があるが、分業しているので止むを得ない。診察は午前中に終わるので、終わった後、家内と赤穂への一泊旅行に出かけることにしていた。診察後、家内に運転してもらって、赤穂方面へと向かった(こちら)。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/29
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御朱印 第一冊 2011(平成23)/3/5~2011/7/18 その1(いずれも家内同伴で) 第一番 紫雲山 頂法寺(六角堂)2011(平成23)/2/13京都府京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248宗旨:天台宗 宗派:単立 本尊:如意輪観音(秘仏)創建年:伝・用明天皇2年(587年)開基:伝・聖徳太子西国三十三所第18番 洛陽三十三所観音霊場第1番 聖徳太子霊跡第25番 通称寺の会(六角堂) 第二番 請願寺 2011(平成23)/2/19京都府京都市中京区新京極通三条下ル桜之町453宗派:浄土宗西山深草派 寺格:総本山 本尊:阿弥陀如来創建年:伝・天智天皇6年(667年) 開山:伝・恵隠 開基:伝・天智天皇(勅願)新西国三十三箇所第15番 洛陽六阿弥陀めぐり第6番 法然上人二十五霊場第20番 西山国師遺跡霊場第9番 真盛上人二十五霊場第6番 第三番 護浄院(清荒神) 2011(平成23)/2/26京都府京都市上京区荒神口通寺町東入ル荒神町122宗派:天台宗 本尊:清三宝大荒神創建年:伝・宝亀3年(772年) 開基:伝・開成皇子正式名:常施無畏寺護淨院 別称:清荒神札所等:京都七福神(恵比寿) 京の七福神(福禄寿) 通称寺の会(清荒神) 第四番 行願寺(革堂) 2011(平成23)/2/26京都府京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町17山号:霊麀山(れいゆうざん) 宗派:天台宗 本尊:千手観音創建年:伝・寛弘元年(1004年) 開山:伝・行円 開基:伝・一条天皇(勅願)正式名:霊麀山 行願寺 別称:革堂札所等:西国三十三所第19番 都七福神(寿老人) 京都七福神(寿老人) 神仏霊場巡拝の道第114番(京都第34番) 第五番 新長谷寺(真如堂境内) 2011(平成23)/3/5京都府京都市左京区浄土寺真如町82宗派:天台宗 本尊:十一面観音 開山:伝・藤原山蔭 第六番 金戒光明寺 2011(平成23)/3/12京都府京都市左京区黒谷町121山号:紫雲山 宗派:浄土宗 寺格:大本山 本尊:阿弥陀如来創建年:伝・承安5年(1175年) 開山:法然正式名:紫雲山金戒光明寺 別称:くろ谷さん 白河禅房札所等:法然上人二十五霊場第24番地図よろしかったらぽちっとお願いします。次回「御朱印」→
2026/06/28
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京都市の鉄道史~その14~15.京都駅 今まで述べてきた鉄道路線の現存路線には多くの駅があり、それぞれの駅に歴史があるが、京都の玄関ともいえる京都駅だけは詳しく触れておきたい。1)初代京都駅 初代京都駅は明治10年2月、官設鉄道の神戸/京都間の全通開業に合わせて開業し、明治天皇を迎えて京都駅で鉄道開通式が執り行われた。外国人技師設計による赤煉瓦のモダンな建物で(図1)、七条停車場、七条ステーションと通称されたが、「ひっちょのステンショ」の愛称で呼ぶ庶民も多かった。ただ、七条通に面していたわけではなく、現・塩小路通のすぐ南側に位置していた。当時は、西洞院通から本町通にかけては、七条通が市街の南端だったので「七条停車場」などと呼ばれたのであろう。現・京都駅からは、かなり北側になる。 この地は当時の繁華街三条通から遠く寂れた地域だった。用地買収の容易さもあって、この地が選ばれたのであろう。田んぼや畑の中に“レンガ造りのハイカラな駅舎”という風景が、当時の京都人の驚きと興味を誘ったという。図2は南西側から撮影した写真で、プラットフォームの後ろに駅舎が見える。線路の本数も限られている。駅ができたばかりの頃の写真であろう。 しかし、その後、明治13年7月に官設鉄道が大津まで延伸され、明治28年2月には路面電車京都電鉄も乗り入れるようになり、明治28年9月には奈良鉄道、明治30年11月には京都鉄道(現・山陰線)が開通し、当駅周辺は急速に発展していった。明治37年頃には、京都駅二階西側に都ホテルの西洋料理出張店が開業したという。2)二代目京都駅 大正4年11月に京都で大正天皇の御大典(天皇の即位式である即位の礼とそれに伴う一連の儀式)が執り行われるのに合わせて、二代目駅舎が、大正3年8月に竣工した。総檜造の木造ルネサンス様式の建物で豪華な貴賓室を供え、本屋の中央には時計が配置されたていた(図3)。駅舎は初代駅舎より南側に建設されたため、貨物ヤードや機関区は梅小路に移転し、初代駅舎跡地は駅前広場の拡張に使われ、そこには、ひょうたん池や噴水のある庭園も造営された。 しかし、昭和25年11月18日、駅構内の食堂からアイロンの不始末により出火し、駅舎は全焼してしまった(図4)。 3)三代目京都駅 大きな京都駅は京都の市街を南北に分断するというので、駅全体を高架にしようという構想が昔からあった。しかし焼失した駅舎を急いで再建する必要があったため、高架化の構想が実現しないまま今日を迎えている。こんな背景のなか、昭和27年5月、三代目駅舎が完成した。鉄筋コンクリート造の2階建てで、中央に8階建ての塔を供えたデザインで、装飾とよばれるものはほとんどなく、合理的な設計だった(図5)。皆さんの記憶にある駅舎であろう。床面積は2代目よりも7倍大きく、当時はまだ高かった蛍光灯も多用された。 駅の中の最大の特色は、本格的に物販店や食堂を取り込んだことである。当時の駅はどこもせいぜい売店や弁当販売店があった程度であった。2階に上がると「京都駅観光デパート」があり、約30のお店が並んでいた。元祖「駅ナカ」といってもいいのではないかと思う。 昭和35年頃に新幹線駅が、京都駅に併設されることが決まったが、用地確保のため、駅の南側にあった機関車留置線などは駅の東側に、客車留置線は新設の向日町運転区に移転した。それでも用地が不足したため、新幹線駅は八条通側に最大で12m程度張り出している。4)四代目京都駅 平安建都千二百年記念事業として、四代目京都駅舎への改築が計画された。国際コンペ方式がとられ、黒川紀章氏や安藤忠雄氏らも参加するなか、原広司案が最終優秀作品に決定した(原広司氏は、他に梅田スカイビル、札幌ドームの設計も行った)。これに基づき建設が行われ、平成9年9月に地上六階地下3階の四代目駅舎が全面開業した(図6)。「京都は歴史への門である」を設計主旨とし、京都のまちとの連続性を重視して条坊制(碁盤の目)を表現した外観を取り入れ、玄関口としての象徴である「門」を烏丸通と室町通に配している。 当初は、「古都京都にふさわしくない」などの批判的な意見もあったが、現在では、その斬新なデザインが、古都でありながら新しいものも追求する京都の玄関口としてふさわしいとの評価を得て人気を博している。 なお、この京都駅ビルの高さは60メートルである。これは京都市中心部では、京都タワーの131メートルに次ぐ高さである。ご存知のように、京都市中心部は景観保全のため、高さ31メートルを上限とする厳しい高さ規制がある。これに引っかかるが、京都駅ビルは駅前のランドマークとして、特例的に高さ約60メートルまで認められた。5)京都駅こぼれ話① 京都駅の駅長は何人? 京都駅に駅長と呼ばれる人は何人いるか? JR、近鉄、地下鉄の3人と答えてしまいそうであるが、正解は4人。JRはJR西日本と、東海道新幹線を扱うJR東日本の2社が乗入れており、それぞれに駅長がいるからである。では、国鉄分割民営化の前は何人だったか? 国鉄分割民営化は昭和62年、京都市営地下鉄北大路 /京都間開業は昭和56年である。地下鉄開業のほうが早い。ゆえに正解は3人である。② 日本最長のプラットホーム 京都駅の0番ホームは日本一長いホームとして知られている。558メートルある。だが、在来線でそんなに長い車両はない。正確にいうと、0番ホームの西に関空特急はるか専用の30番ホームが続いており、0番ホームの長さが323メートル、30番ホームが235メート、合計で558メートルというわけである。新幹線のホーム(400メートル強)よりもずっと長い。 なお0番ホームは、豊臣秀吉が築いた御土居跡の盛り土を利用して作られたものと、かつてはいわれていた。しかし、近年の発掘調査によって、御土居そのものではなく御土居に附随する堀の跡であることが判明した。③ 1番ホームがない 烏丸口に最も近い0番ホームは、かつては1番ホームだったと記憶している方も多いと思う。そして、0番ホームから、すぐ南のホームを見ると2番ホームとなっている。現在、京都駅には1番ホームがないのである。どういう経緯でこうなったのであろうか。 乗り場番線と運転番線を統一したからである。乗り場番線とは乗客案内用の番号、分かりやすくいえばホーム番号のこと。運転番線は運転士らが職務上使うもので、ホームの有無にかかわらず、線路ごとにつける。 平安建都千二百年記念事業で、京都駅は大改修が行なわれ、前述の四代目京都駅舎が建築された訳だが、線路やホームの改修も行われ、最も北側の運転番線1番の線路を廃止し1番ホームを南側に拡張した。新しい1番ホームの使う運転番線が2番となった。しかし、乗務員が誤ってホーム番号ではなく、運転番線を利用者に案内するケースがしばしば起こってしまった。 そこで、平成14年20年3月のダイヤ改正で乗り場番線と運転番線を統一することにした。1番ホームの南側には貨物列車や回送電車通過専用のホームのない運転番線3番の線路がある(図7)。1番ホームの線路を運転番線1とすると、2番ホームの線路は運転番線3になるので、2番ホームは3番ホームに変えなければならない。3番ホーム以降も同様に全部変えなければならない。これでは、駅側も客側も混乱するし、経費・時間もかかるので避けたい。また、JR西日本の山陰線以外の在来線のホームは10本あった。ホームのない運転番線が1本あるので、1番ホームの運転番線を1として、運転番線に合わせてホーム番号をつけると11番まで必要になる。ところがJR東海が新幹線のホームに11番から14番まで使っている。11番が重複してしまう。それも避けなければならない。 そこで、運転番線を2番ずつ繰り上げたのである。運転番線2番は0番にし、そのホームは1番から0番にした。2番ホームの運転番線は2番になるので、2番ホームは2番ホームのままである。以降のホームも同様、変える必要はない。これが京都駅に1番ホームがない理由だったのである。④ 山陰線のホームは何故31番~34番なのか 山陰線のホーム番号には、31番から34番が割り当てられている。これは、JR西日本の遊び心によるものである。「さんいん」の語呂合わせから、31番線とし、北側に順次番号を割り当て31番~34番にしたのである。分割民営化後だからこそできたことだろう。「はるか」のホームはその南にあるので、30番が割り当てられた。JR西日本在来線ホーム番号は0番~10番(1番はなし)と「はるか」と山陰線の30番~34番、JR東海の東海道新幹線ホーム番号は11番~14番。すなわち、0番から34番のうち、1番と15番から29番が欠番となっているのである。また、「34」という数字は、乗り場に振られているものとしては日本で最も大きな数字である。⑤ 二代目駅舎時代の上屋(うわや) 上屋とはホームの雨除け屋根のことである。京都駅で現存するホーム上屋は大正3年に完成した二代目駅舎建設時に設置された上屋である。明治の西洋様式を引き継ぐ優美な曲線、カーブを描く支柱、深く大きな屋根、そして鱗状にびっしりと軒部分を覆う軒飾り。当初より白くペンキで塗られた軒飾りは、格式のある京都駅ならではの装飾である。2、3番線ホーム、4、5番線ホーム、京都駅ビル下の1番線の東側において、優美な軒飾りを見ることができる。支柱に使われている鉄骨は明治に初めて鉄道が敷設されたときに英国から輸入されたと思われる刻印入りの線路が使われている。建築遺産ともいうべき歴史を誇る「ホーム上屋」である(図8)。16.最後に 14回にわたって、京都市(その周辺も含めて)の鉄道の歴史を紹介してきた。拙文におつきあいいただいた方々に深く感謝申しあげたい。いつも当たり前のように利用している京都の鉄道であるが、鉄道に乗る時、ひとときスマホを操る手と目を休めて、その歴史に思いを馳せていただければ幸いである。 【参考文献など】・作間芳郎「関西の鉄道史」(成山堂)平成15年1月8日発行・老川慶喜「日本鉄道史 幕末・明治篇」(中央公論社)平成26年5月25日発行・同上「同上 大正・昭和戦前篇」(同上)平成28年1月25日発行・同上「同上 昭和戦後・平成篇」(同上)平成31年2月25日発行・京都市交通局「さよなら京都市電」((株)毎日写真ニュースサービス社)昭和53年9月30日発行・立風書房「京都の市電」(立風書房)昭和53年2月10日発行・京都新聞社「京都市電物語」(京都新聞社)平成20年9月30日発行・島本由紀「京都の鉄道史40話」(アスニー山科講演会)令和7年4月16日・Love Kyoto, Love ホームページ・各関連鉄道会社、路線、駅(過去のものを含む)のWikipediaサイト・現存各関連鉄道会社のホームページよろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京都市の鉄道史」
2026/06/27
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昨日はOKGセンターに行って、やはり「手術は無理です」ということで帰ってきたが、K病院から出してもらった腫瘍CT/MRI撮影のCDを返却してくれた。K大学病院では返してくれなかったのに。前の脂肪肉腫のとき、自分のPCでCT画像データを見ていたので、今回もそれを見てグラフにしてみた。脂肪肉腫を発見したのが、2025/11/19抗がん剤治療を始める約1ヵ月前のが、2025/12/19抗がん剤第5クールを終わった時点のが、2026/4/27その約10日後のが、2026/5/8去年11月と12月、1ヵ月しか間がないが、腫瘍径が約4センチ大きくなっている。いかに悪性度が高いかを示している。お腹の「しこり」を、かかりつけ医に診てもらったとき、「様子見でいいんじゃないですか」と言われたが、心配なのでK病院に紹介状を書いてもらった。かかりつけ医の言った通り、様子見していたら今頃どうなっていたであろうか。抗がん剤治療5クールでの縮小は2~3センチ程度で、期待ほど小さくなってはいない。その後、第6クールをしているので、もう少し小さくなっているかもしれないが。不思議なのは、4/27から5/8にかけて数ミリだが小さくなっていること。K病院のY先生に「少し小さくなっています」と言われて、半信半疑だったが、私自身も画像を見て小さくなっていることが確認できた。この間に抗がん剤治療はしていない。抗がん剤治療は、多少タイムディレイで効くことがあるのかもしれないし、誤差の範囲かもしれない。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/26
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今日は、「脂肪肉腫」の治療についてK病院で紹介状を書いてもらったOKGセンターに行ってきた。かなり遠方である。ありがたいことに家内が車を運転し、行動を共にしてくれた。感謝。K病院で手術できず、K大学病院でも手術はできないとの返事だったので、どこに聞きにいっても同じだろうとは思うが、「がん」専門の病院なので、希少がんとはいえ、ある程度の症例を診ているはずで、そこにダメと言われたら2次薬物療法に集中して取り組みやすい。そんな踏ん切りをつけるのが目的だった。ごくわずかだが、手術してみましょうか?という期待がなかったわけではないが。やはり結果は、手術はできないとのこと。粒子線治療はできないか?とも聞いてみたが、消化器系の臓器に接触しているので、難しいとは思うが、泌尿器では判断できないので、別の日に整形外科に来ていただきましょう。ということで、6月29日に再度OKGセンターに出向くことになった。OKGセンターは昔はOSBセンターだった。10年以上前だが、そのとき一度目の脂肪肉腫のセカンドオピニオンでOSBセンターに行って、粒子線治療に出会い、片方しかない腎臓を温存したうえ完治することができた。まさに救世主。でも前回は腎臓の裏、今回は色んな消化器に接触している。ダメなのは百も承知だ。ただ、踏ん切りをつけるために行く。6月22日にK病院でのAI療法第6クールを退院したが、翌日が副作用のピークだった。今日も回復方向にあるのは実感している。第5クールのような輸血をしなくてはいけないような破綻はなさそうだ。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/25
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京都市の鉄道史~その13~12. 新時代の鉄道1)東海道新幹線 東海道新幹線の実現可能性調査は昭和31年から行われ、昭和33年12月に建設計画が閣議決定された。在来線の狭軌ではなく、高速運転が可能で、輸送効率に優れる広軌(標準軌)が採用されることになった。昭和34年4月に着工し、昭和39年10月1日、初回東京五輪の9日前のに開通した。世界初の高速鉄道で、「ひかり」が4時間で、東京/新大阪間を結んだ。その後、高速化が進み、平成4年3月に登場した「のぞみ」がさらなる改良を進め、東京/新大阪間は約2時間20分(令和2年3月時点)で結ばれるまでになっている。 京都駅には、「ひかり・こだま」時代も「ひかり」が停車し、「のぞみ」登場後も「のぞみ」が停車する駅となっている。2)東海道新幹線 数々の「京都飛ばし」 今でこそ、すべての新幹線列車が京都駅に停車するが、初期段階ではそもそも京都を通さないという計画だった。できる限り東京~名古屋~大阪を直線的に結んで到達時間を短くしようとすると、京都府の南部を横切ることになり、京都市は通らない(第一の「京都飛ばし」)。一方でそのルートだと鈴鹿山脈を長さ10kmを超えるトンネルを掘らねばならない。しかし、それは当時の技術力や限られた工期ではとても難しく、結果的に、後に冬季の雪に悩まされることになるが、名古屋から北寄りに向かう関ケ原経由のルートが選ばれ、結果的に京都市を通ることになった。もちろん当時の京都の政財界による熱心な新幹線誘致活動が後押ししたのは間違いないだろう。 京都市を通ることになったが、当初は在来線駅とは離れたところに「新京都」駅を設置する案が有力だった(第二の「京都飛ばし」)。そのときどこがが新京都駅の候補地となったのであろうか。図1に示すように、奈良線稲荷駅北方附近に設置する案(南案)、五条烏丸附近地下に設置する 案(北案)が有力であった。当時は地下鉄がなく市電が走っていた時代。五条烏丸では市電で京都駅と行き来をしなければならない。在来線で京都駅と結べる南案の方が有力だったようだ。これら案に地元行政や財界が猛反発し、陳情を重ね、なんとか昭和35年頃、土壇場で現駅併設にこぎつけた。ただ、建設用地の確保が必要だった。そのため、駅の南側にあった機関車留置線などは駅の東側へ、客車留置線は新設の向日町運転区(のちの京都総合運転所)に移転させた。それでも若干用地が不足したため、新幹線駅は八条通の上空に最大12m程度張り出している。 もう一つの問題は「ひかり号」が通過扱いとなっていたことである(第三の「京都飛ばし」)。これも、地元の強力な陳情があって、開業まで1ヵ月少々の昭和39年8月18日にようやく京都駅停車が決定したのである。 前述した「京都飛ばし」に比べると、相当軽い「京都飛ばし」だが、第四の「京都飛ばし」もある。「のぞみ」は平成4年3月運行開始したが、東京発の「のぞみ」一番列車301号は、京都と名古屋を通過したのである(当時の時刻表が図2)。これは、夜間の保線作業後直後には徐行運転が必要で、その時間を挽回して、新大阪に到着させるためであった。ただ、その後の保線作業改善で平成9年11月のダイヤ改正でこの問題は解消した。2)京都市営地下鉄(京都市高速鉄道) 地下鉄建設の話は、昭和43年に開かれた京都市交通対策審議会から始まったといってよい。将来的には市電を廃止して地下鉄とバスに再編していくという議論が始まったのである。議論を経て、昭和47年2月の京都市会において全会一致で地下鉄建設が決められた。昭和47年10年に運輸大臣から工事施工の認可が下り、当初は、昭和53年3月に北山/竹田間が全線開業の予定だったが、北山/北大路間、京都/竹田間の用地買収交渉遅れといった事情により、ひとまず北大路/京都間を先行着手することにし、昭和49年11月29日に起工した。そして、ようやく昭和56年5月、烏丸線北大路/京都間を開業させた。 昭和63年6月、烏丸線京都/竹田間が開業。同年8月には、近鉄京都線と新田辺駅まで相互直通運転を開始した。近鉄との相互乗り入れは当初から計画に入っており、大阪の地下鉄御堂筋線のようにレールの横にもう1本集電用レールを敷く「第三軌条集電」ではなくパンタグラフによる集電が必要で、それだけトンネルの断面も大きくなり、建設費が高くつく要因の一つになった。その後、下記のように延伸開業した。・平成2年10月、烏丸線北大路/北山間開業・平成9年6月、烏丸線北山/国際会館間開業・平成10年10月、東西線二条/醍醐間開業。 京阪京津線が御陵から京都市役所前まで乗入れ 開始 ・平成16年11月、東西線醍醐/六地蔵間開業・平成20年1月、東西線二条/太秦天神川間開業 図3は昭和53年の京都市高速鉄道計画路線図(全体構想)である。このうち太秦天神川~洛西ニュータウン~長岡の路線と竹田~三栖の路線は実現していないし、今も具体的な計画はない。一方で北山/国際会館間は当時の計画にはなかった区間である。【北大路駅の秘密の線路】 ところで夫婦漫才として人気を博した春日三球・照代さん(図4)はご記憶にあるだろうか。三球氏の「…しかし、地下鉄の電車をどっから入れたんでしょうねぇ。それ考えると一晩中眠れなくなるの」が定番のネタであった。その答えが、昔、京都市営地下鉄で見ることができた。開業当初の路線は、前述のように北大路駅/京都駅間で、全線地下であった。全線地下の場合、車庫をどうするのかというのが問題になる。何両も連結した編成を何本もどこに止めておくのか、どこで検査をするのかということである。実は北大路駅にはホームからは見えない線路が西側にもう1本あり、そこで日頃の検査をしたのである。今も国際会館行きの電車に乗って、北大路駅に着く直前に、西側に線路が分かれているのが見ることができる。その先に車両検査用の「秘密の線路」が1本あったのである(図5)。そしてこの線路の天井に約25m×5mの穴が開けられていて、ここから電車を1両ずつクレーンで吊り下げて地下に下したのである(図6)。現在では、地上に竹田車庫があり、ここで検査や新車両の搬入が行われている。 3)嵯峨野観光鉄道 嵯峨野観光鉄道は「トロッコ列車」としてよく知られる。平成元年3月に、電化複線化のため新線に切り替えられて廃止されたJR西日本山陰本線嵯峨駅/馬堀駅間の旧線を、観光鉄道として利用するため、平成2年11月に設立された会社で、平成3年4月に開業したトロッコ嵯峨駅/トロッコ亀岡駅間の嵯峨野観光列車(図7)を運営する。廃止以来使用されていなかった線路を短期間で整備するため、社員全員でレールや枕木の交換、草刈りなどの作業が行われた。JR西日本の完全子会社ではあるが、日本民営鉄道協会にJRグループ及びその関連会社として唯一加盟している。よろしかったらぽちっとお願いします。←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/24
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京都市の鉄道史~その12~11.ローカル私営鉄道1)京都電燈株式会社・・・京福電鉄と叡山電車の原点は電力会社 明治20年、京都電燈会社が設立され、明治26年に京都電燈株式会社(以下、京都電燈)に改称された。京都電燈は、関西から北陸をテリトリーとし、明治24年稼働の日本初の一般供給用水力発電所である蹴上発電所からの電力を背景として、電灯の本格普及、京都市の産業振興に大きく貢献し、日本初の事業用電車である京電を明治28年に走らせる原動力ともなった。その後、九頭竜川に水力発電所を作り、大正3年に越前線(新福井/大野口間)を開通させた(図1)。 当時は、夜間は照明用に需要があっても、昼間は需要が少なく、昼間の余剰電力活用のため、電力会社が鉄道経営をすることも珍しくなかった。 この動きと並行して、明治40年8月に神戸川崎財閥により、嵐山電車軌道が設立され、明治43年3月には、嵐山駅/京都駅(現・四条大宮駅)が開通した。これを大正7年4月に京都電燈が合弁し、嵐山電鉄部の下に置いた(図2)。 さらに京都電燈は大正14年9月に、叡山電気鉄道部平坦線(出町柳駅/八瀬駅間)(図3)、同年11月、嵐山電鉄部北野支線(北野駅/高雄口駅[現・宇多野駅])間)(図5)、同年12月に叡山電気鉄道部鋼索線(ケーブルカー)(西塔橋[現・ケーブル八瀬]/四明ヶ嶽[現・ケーブル比叡]間)の営業を開始した(図4)。大正15年3月には、北野支線高雄口駅/帷子ノ辻駅間が開通し、嵐山本線と結ばれた(図5)。 京都電燈は、昭和2年12月に京阪電気鉄道との合弁会社として鞍馬電気鉄道を設立し、昭和3年12月に山端駅 (現・宝ヶ池駅)/市原駅間を開業させ、昭和4年12月市原駅 /鞍馬間駅を開業し全通させた(現・叡山電鉄鞍馬線)(図6)。また、昭和3年10月に、比叡山に架空索道線「叡山空中ケーブル」(高祖谷[こうそだに])駅/延暦寺駅間)を開通させた(図7)。 福井では吉崎電気鉄道(大正12年設立)の経営に、大正14年頃から参加し、昭和2年に三国芦原電鉄に社名を改め、昭和3年12月に福井口駅 /芦原駅(現・あわら湯のまち駅)間を開業し、翌年1月、三国町駅(のちの電車三国駅、現・三国駅)まで延伸した(図8)。 時代が経過し、戦時の配電統制令により、昭和16年に、発送電部門と配電部門の譲渡命令が出された。鉄道事業などの陸上輸送部門は、昭和17年3月に設立された京福電気鉄道に譲渡、配電部門は関西配電(関西で電気供給事業を営む大阪市・神戸市・京都市の3市を含む合計14事業者が統合されてできた会社。関西電力の前身)と北陸配電(北陸電力の前身)に譲渡され、発送電部門は日本発送電(株)に譲渡された。京都電燈は清算に入り、昭和19年に清算が完了した。 JR京都駅前に関西電力京都支社の建物があるが(図9)、元は京都電燈の本社だった建物である。武田吾一が設計し、昭和12年に竣工した。戦後は米軍のEighth Army Recreation Center や貿易庁のホテルラクヨウ(朝鮮戦争の帰休兵専用のホテル)などとして使用された。 2)京福電気鉄道・・・「福」は福井の「福」だったのだが 京都電燈から鉄道事業を引き継いだ京福電気鉄道(以下、京福電鉄)に、昭和17年8月、京都では鞍馬電気鉄道、福井では三国芦原電鉄が合流し、それぞれ鞍馬線(図10)、三国芦原線となった(図11)。昭和19年1月には叡山空中ケーブルを廃止した。さらに福井では、昭和19年12月、永平寺鉄道(大正13年設立)(金津[かなづ])駅/永平寺駅間)、丸岡鉄道(大正2年設立)(本丸岡駅/長田町駅間)を合弁し、それぞれ永平寺線、丸岡線とした(図11)。昭和25年頃には京都と福井で合わせて120.9 kmもの路線網を擁することになった。 昭和31年7月には、架空軌道線を復活させ、「比叡山ロープウェイ」(ロープ比叡駅/比叡山山頂駅間)を開通させた。昭和34年4月に比叡山頂遊園、昭和39年10月、八瀬遊園(平成13年11月閉園)、昭和39年12月、比叡山人口スキー場(平成14年9月廃業)と集客のための施設を開業していった。 一方で、1960年代から1970年代にかけて、福井地域の不採算路線・区間の廃止が行われた(図12)。・昭和43年11月、丸岡線(本丸岡/西 長田間)廃止・昭和44年9月、永平寺線の一部(金 津/東古市[旧・永平寺口]間)廃止・昭和49年8月、越前本線の一部(勝山/ 京福京福大野[旧・大野三番]間)廃止 また、昭和35年頃、京阪電鉄は、近畿日本鉄道との間で奈良電気鉄道をめぐって株式の争奪戦となっていたが、京阪は自社の持つ奈良電気鉄道の株式を近畿日本鉄道に譲渡し、代わりに近畿日本鉄道は自社の持つ京福電鉄株を京阪に売却することになり、昭和37年7月、京福電鉄は京阪グループ入りした。令和7年3月31日時点で、京阪ホールディングスが43.17%の株式を保有する親会社となっている。 昭和60年7月、叡山本線・鞍馬線の経営状況悪化により、叡山電鉄を全額出資子会社として設立し、昭和61年4月、叡山本線・鞍馬線を叡山電鉄として分離した。分離独立で経営再建を図ったのである。 このような経営努力のなか、平成12年から平成13年にかけて、越前本線で半年の間に2件の列車衝突事故を起こしてしまう(死傷者計、55名)。国土交通省中部運輸局から福井地区各線の列車運行停止を命ぜられた。京福電鉄は事業継続が困難になったとして、永平寺線の残存区間(東古市[旧・永平寺口]/永平寺間)を平成14年10月に廃止後、平成15年2月に福井地区の鉄道事業(越前本線・三国芦原線)を廃止して撤退、えちぜん鉄道(第3セクター会社)へ事業譲渡した。 最盛期には120 kmを超えた営業路線は約13 kmとなった。以降、京福電気鉄道は、鉄道事業については、嵐電を中心とした事業に集中することになるが、平成20年1月の京都市営地下鉄の太秦天神川延伸開業により地下鉄と接続することにより旅客数が増え、さらに近年はインバウンド旅行客の増加もあり、堅実な経営がなされている。なお、叡山ケーブルの高低差561mはケーブルカーでは日本最大を誇る。 図13~図16に、現在の京福電鉄の路線、及び、かつては京福電鉄の路線だったが、現在は他社によって運行されている路線を現在の所有会社名とともに示す。 ここで、比叡山のロープウェイについて触れておこう。前述のように、京都電燈は昭和3年10月に、「叡山空中ケーブル」を開通させた。それを引き継いだ京福電鉄は、昭和19年1月に叡山空中ケーブルを一旦廃止した。しかし、戦後しばらくして、昭和31年7月に、架空軌道線を復活させ、「比叡山ロープウェイ」を開通させた。しかし、同じ場所に復活させた訳でなく、図17(次ページ)に示す昭和3年開通(初代)の「叡山空中ケーブル」は高祖谷(こうそだに)駅/延暦寺駅間、昭和31年開通(第二代)の「比叡山ロープウェイ」はロープ比叡駅/比叡山山頂駅間とルートが全く異なっていた。初代はその駅名が示すように、延暦寺参拝を主目的としたもので、高祖谷駅は、ケーブル駅から約500メートル離れており、しかも山道であり、図18に示すように、籠も利用された。 第二代は、ロープウェイ駅をケーブル駅の近くに造り、比叡山頂と結んだ。昭和34年に比叡山頂遊園を開園する予定があり、昭和33年には比叡山ドライブウェイが開通し、比叡山頂駅から延暦寺へのアクセスも可能になることを見込んでのルートにしたものと思われる。初代の高祖谷駅は、図19のように今も廃墟として残っている。3)叡山電鉄 前述した昭和60年7月の叡山電鉄の京福電鉄からの分離独立の理由は経営状況の悪化であるが、この経営状況の悪化は、昭和53年10月の京都市電の全廃がもたらしたといわれている。沿線から市中心部に直結する路線バスに客が流れ、叡山電鉄の利用客が一気に減少した。これを救ったのが、平成元年10月の京阪電車鴨東線(三条/出町柳間)の開業であった。出町柳での電車での連絡が可能となり旅客数が倍増した。しかし、累積損失の解消をするまでには至らず、京福電鉄傘下での再建は不可能と判断され、京阪からの特別融資を低利で受けることなどを目的に、平成3年10月に株式の60%を京阪に売却、その後、平成14年3月に京阪電車が残りの全株式を取得し、叡山電鉄は京阪の100%子会社になった。4)鞍馬寺鞍馬山鋼索軌道 鞍馬寺の参詣者の利便を図るために、宗教法人鞍馬寺が運行するケーブルカーである。山門駅/多宝塔駅を結ぶ。昭和32年1月開業。鉄道事業法による許可を受けた鉄道としては、唯一宗教法人が運営している鉄道である。また総延長は0.2kmで、鉄道事業法に基づく路線では、日本一短い路線である。車両は1台のみで、歴代「牛若號」を名乗る。現車両は4代目。 鉄道事業法による許可を受けた鉄道としては、現在唯一の運賃無料の鉄道といわれているが、実際には諸堂維持のための寄付金(200円)が必要である。乗車券は「寄進票」と呼んでいる。また、乗車することが宗教活動と見なされるため、「寄進票」は非課税扱いである。山門駅は「普明殿」という数あるお堂の一つで、内陣には「鞍馬山尊天」や、毘沙門天尊像が安置されており、信仰上も重要な場所となっている。 ところでケーブルカーは単線で、上方駅と下方駅の中間点だけ複線になっていて、そこで上に向かう列車と下に向かう列車が停止せずにすれ違う方式が多い(鞍馬山鋼索軌道は列車1台のみなので異なるが)。すれ違い時に、瞬時にポイント切替をしないといけないはずだが、どのようにやっているのであろうか。 通常の列車の左右両車輪には内側にフランジがついており、これでレールから脱線せずに運行することができる(図21)。しかし、このフランジがあるので、分岐では線路を動かして、進むべきレールに誘導する必要がある。例えば、図22で手前から来た列車を右側の線路に進ませたい場合は、写真のままのレールの状態でよいが、直進させたい場合は、矢印の方向にレールを動かす必要がある。これをポイント切替という。ケーブルカーはこのポイント切替が不要なのである。実は、ケーブルカーの車輪は図23のように、外側の車輪の両側にフランジがあり、内側の車輪にはフランジがないのである。すれ違い部の線路は図24のようになっている。2台の列車はすれ違うとき、それぞれ決まった側を走ることになる。このような理由からポイント切り替えが不要なのである。素人考えだが、スピードも普通の電車ほど速くないし、ケーブルで引っ張られているので、このような構造の車輪でも問題なく運行できるのであろう。5)愛宕山(あたごさん)鉄道 愛宕山鉄道は京都市電同様、過去に廃止されてしまった鉄道である。京阪電気鉄道と京都電燈の共同出資会社(昭和2年8月設立)による敷設で、愛宕山の愛宕神社に向かう参詣路線として建設され、昭和4年4月に平坦線(通常の鉄道)、同年7月に鋼索線(ケーブルカー)が順次開業された(図25)。 また同社の手により、昭和4年、山麓に清滝遊園地が開園、園内にはテニスコート、ローラースケート場もあった。また同年、愛宕山には愛宕山遊園地が開園、直営ホテル、飛行塔、スキー場、テント村もあり賑わった(図26)。 昭和初めの世界恐慌で業績が下降し、その後、戦時中の軍需物資不足に伴いレールを軍に供出したため、昭和19年2月に鋼索線が、同年12月に平坦線が廃線となり前述の観光施設も閉鎖された。戦後、当時の親会社であった京阪神急行電鉄や京福電気鉄道に再建や合弁を申し入れたが、両社とも自社の戦後復興に手一杯で支援はできなかった。このため再建を断念し、昭和34年10月に会社を解散した。 平坦線の嵐山駅は京都電燈(現・京福電鉄)の嵐山駅に併設され、図27のように2線を使っていた。現在は使われていない北側(建物のある側)にもプラットフォームの屋根があるのは、その名残であろう。 平坦線の清滝トンネルは戦時下、三菱重工業の分工場として、航空機の部品工場となった。 供出されたレールなどは武器弾薬になることなく野積みされたまま終戦を迎え、鋼索線の機材は、傘松ケーブル(天橋立鋼索軌道)の復活(昭和26年8月)などに転用され、平坦線のレールは京都市電梅津線(昭和20年新設)に払い下げられたと伝わる。 平坦線は現在道路として残るが、清滝トンネル部分は単線であったため、信号による片側通行となっている(図28)。近年では心霊スポットとしても知られている。 図29は運行当時の鋼索線の写真である。清滝に鋼索線清滝川駅の跡が残っおり、往時を偲ぶことができる(図30)。 ←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→0
2026/06/23
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6月16日、K病院に入院し、脂肪肉腫のAI療法の第6クールを受け、今日22日、予定通り退院した。AI療法のドキソルビシン抗がん剤は一生で使える量が規定されており、前回のM病院での治療も含め、今回で最終回になる。可能な限り腫瘍は小さくしたうえで、次の抗がん剤治療に進みたいと思い、第6クールを受けた。1月13日から第1クールを受け、1週間入院+2週間自宅療養の繰り返しなので、順調にいけば、5月中旬に終える予定だったが、インフル罹患や第5クールでの副作用からの快復入院もあり、1ヵ月強遅れてしまった。「むくみ」対策は、1日目からの利尿剤使用、医療用着圧ソックスの使用で対応したが、第3クールの体重増加2.6kgには抑えられなかった、第4クールより少ない3.7kg増加に抑えらた。体重は、退院の日も増えてしまったが、これから点滴はないので、これ以上上がることはないだろう。血液関係は、退院後もしばらくダメージを受けるので未知数だが、白血球は問題ないように思う。赤血球関係は、ヘモグロビンで見ている。相変わらず低空飛行だが、今の体調から考えると、第5クールのようなことはないと思う。血小板も低空飛行だが、何とか持ちこたえて欲しい。帰りに泌尿器科に寄って、Oがんセンターへの紹介状やら、CT画像CDなどを受けとった。ようやく先方と調整がとれたようだ。セカンドオピニオンではなく、診察という形になった。保険適用になり、費用を抑えられるのでありがたい。6月25日診察予定。恐らくK大病院同様、一診療科だけでの初診では判断できず、他科も含めた検討が必要になり、もう一度出直すということになるだろう。手術での摘出はむつかしいとの判断になると思うが、それはそれでいい。2つの大きな病院で診てもらった結果。そうであれば、迷いなく2次の抗がん剤治療に進める。こちらの効果を期待している。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/22
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京都市の鉄道史~その11~ 10.その後の官設鉄道・京都/大津間の推移と、京都市駅以南地域の複雑な路線敷設経過など1)東山トンネル・新逢坂山トンネルの開通 官設鉄道東海道線の明治22年7月の陸路による新橋/神戸間全通までは前述した。以降、輸送力増強のため、明治23年には、京都/大阪間、明治31年には京都/馬場駅(現・膳所駅)間の複線化が完了した。しかし、京都/馬場駅間については、急勾配が連続する区間で、依然として輸送のネックとなっていた。そこで明治43年に、勾配を緩和し、かつ直線的に京都と大津を結ぶため、東山トンネルと新逢坂山トンネルを掘削する計画が出された。経費などの関係で着工は遅れ、ようやく大正4年になって着工された。新逢坂山トンネルは大正4年2月着工、大正8年9月竣工、東山トンネルは、大正5年7月着工、大正10年5月に竣工した。これにより、大正10年8月、京都駅/馬場駅間の現行線が開業し、現・山科駅、現・大津駅が開業した。【東山トンネルの送風機】 東山トンネルや新逢坂山トンネルが開通した頃、鉄道はまだ蒸気機関車の時代であった。全長2km近いトンネルの中を煙を吐いて走るので、運転をする機関士や機関助手が酸素不足から倒れることもあった。またトンネル内には線路を保守する作業員も入っていることもある。客車はトンネルに入ると乗客が窓を閉めるのは常識だったが、時にデッキに立っていた乗客が煙にまかれ、転落して亡くなるという事故もあったようだ。 そこで少しでもこの状況を改善するために東山トンネル内の煙を強制的に外に出そうという工夫がなされた。図Aに示すように、今熊野側のトンネルの入り口の上に大きな送風機を設置し、列車が東山トンネルを通過すると風を送って山科側に煙を排出した。トンネル自体は山科側が高いので、煙は山科側に出された。今熊野側は人家も多いので、当時まだまだ人口の少なかった山科側に出そうということもあったであろう。図Bの写真のように、東山トンネルの今熊野側には送風機のための空気の取り入れ口の跡(小さなトンネル形状の部分)が今も残っている。 <2)京都市駅以南地域の路線変遷 この新路線の登場により、京都駅地域から伏見地域にかけての路線に動きが生じる。時代を遡って時系列で経営母体、路線の変遷を下記に示す。・明治13年7月、官営鉄道、京都/大津間(東海道線の一部)全通(稲荷駅・旧山科駅経由)・明治29年4月、奈良鉄道、京都/奈良間全通(現・近鉄京都線、現・JR奈良線を結ぶルート)・明治38年2月、奈良鉄道が関西鉄道に譲渡される・明治40年10月、関西鉄道は鉄道国有法により国有化。旧・奈良鉄道の京都/奈良間は官営鉄道奈 良線となる。・明治43年4月、京阪電気鉄道、天満橋/五条間開業上記の変遷を図1に示す。・大正10年8月、官営鉄道東海道線の京都/大津間が東山/新逢坂山トンネルで結ばれる。 官営鉄道奈良線の京都/伏見間廃止。伏見/桃山間の旅客営業廃止(貨物支線に変更) 稲荷/桃山駅間に官営鉄道新線開業。官営鉄道奈良線が、現在のJR奈良線のルートになる。 官営鉄道旧東海道線の稲荷/馬場(現・膳所)間廃止上記の変遷を図2に示す。・昭和3年9月、官営鉄道貨物支線伏見/桃山間が廃止。・昭和3年11月、伏見駅経由の官営鉄道旧・奈良線の廃線跡を利用して奈良電気鉄道が京都/西大寺(現・大和西大寺)間を開業・昭和38年11月、奈良電気鉄道は、近畿日本鉄道に合弁され、その京都線となる。上記の変遷を図3に示す。 このように京都駅以南地域の各路線は旧線の配線、新線の敷設、経営母体の変化など、複雑な経緯を経て現在に至っている。3)旧東海道線の痕跡 前述のように、大正10年8月、官営鉄道東海道線の京都/大津間が東山/新逢坂山トンネルで結ばれると、稲荷駅/馬場駅(現・膳所駅)は廃止となった。その痕跡を今でも見ることができる。 図4は昭和30年の山科南部の地形図である。直線的に南西方向から北東方向に延びる築堤の存在が確認できる。これが旧東海道の跡地の一部なのである。廃線にになったのは、大正10年なので、廃線から30年経ても築堤のまま残っていたということである。 廃線となった旧東海道線を現在の地形図に重ねてみたのが図5である。山科南部では、名神高速道路の位置とほぼ一致する。筆者の推定でしかないが、敗戦後も図4の築堤部分などは、国有地として持たれていたのではないかと思う。それを名神高速道路工事の際に利用したのであろう。 図5の旧・山科駅の場所の名神高速道路の法面(のりめん)には、図6に示すように「名神起工の地と旧東海道線山科駅跡」という掲示板を見ることができる。名神高速道路は旧東海道線の跡地を利用しただけでなく、旧山科駅跡はその起工の地にもなったのである。 また図5の「分岐点」の位置の家並に、旧東海道線の痕跡を見ることができる。図7の赤線で囲った家並は周囲の家並と建てる方向が大きく異なっている。また、これら家並はほぼ一直線上に並んでいる。旧東海道線の跡地を利用して建てられたためである。4)大津付近の路線の変遷 大津付近の路線の変遷も興味深いものがある。図8に、明治22年7月までの路線の動きを示す。・明治13年7月、官営鉄道 神戸/大津間全通。稲荷駅経由の南回り、馬場(現・膳所)でスイッチ バック・明治15年5月、太湖汽船連絡船大津/長浜間就航。長浜経由で神戸/金ヶ関(敦賀港駅)間が結ばれ る・明治22年7月、官営鉄道 関ケ原/馬場間開業。陸路新橋/神戸間全通・同月、役目を終えた太湖汽船連絡船は運行終了・同月、官営鉄道大津/膳所間は貨物線に(一時期、旅客業が復活した時期もある)図9に、その後から大正3年までの路線の動きを示す。・大正元年12月、京津電気軌道の三条大橋駅/札ノ辻駅間全通・大正2年3月、大津電車軌道が浜大津/膳所間開業。路線は官鉄貨物線を利用。大津電車軌道が標 準軌(1,435mm幅)であったのに対し、官鉄は狭軌(1,067mm幅)であったので三線軌条化・大正3年2月、大津電車軌道は石山寺方面に延伸し膳所/螢谷駅間開業図10に、その後から大正14年までの路線の動きを示す。・大正10年3月、江若鉄道が三井寺/叡山間開業・同年8月、新逢坂山トンネル東山トンネルが竣工し、東海道線が現行線で開通・大正14年2月、京津電気軌道が京阪電気鉄道に合併。京阪電気鉄道の京津線となる・同年4月、江若鉄道が三井寺/浜大津間開業。叡山/浜大津間が繋がる・同年5月、京阪電気鉄道が札ノ辻/浜大津間開業。三条/浜大津間全通図11に、その後の路線の動きを示す。・昭和2年1月、大津電車軌道は太湖汽船と合併。琵琶湖鉄道汽船となる・同年9月、琵琶湖鉄道汽船は三井寺/坂本間開業。江若鉄道に対抗。坂本/石山間全通・昭和4年4月、京阪電気鉄道が琵琶湖鉄道汽船を合併。京阪電気鉄道の石山坂本線に・昭和6年1月、江若鉄道が近江今津まで延伸・昭和22年1月、江若鉄道が膳所まで乗入れ。官鉄(国鉄)貨物線には、国鉄(貨物)、京阪電気鉄 道、江若鉄道の3社が乗入れることになった・昭和44年11月、国鉄湖西線の具体化に伴い江若鉄道廃線。同時に官鉄(国鉄)貨物線廃止 馬場駅(現・膳所駅)でのスイッチバックや大津電車軌道(現・京阪石山坂本線)との合流部分の痕跡は、現・JR膳所駅に残っている(右図)。5)湖西線 その後の、京都地域での国鉄(現・JR)在来線の大きな動きとしては、湖西線となる。湖西線は昭和49年7月に開通した。しかし、琵琶湖西岸を走る官営鉄道の敷設計画は、大正時代からあり、大正11年4月に、浜大津/三宅(現・小浜線神中駅)間が、官営鉄道予定線になっていた(現在の山科/近江塩津間ルートとは異なる)。しかし、実現にはいたらず、昭和の時代まで待たなければならなかった。 一方で江若鉄道が、大正10年3月に、三井寺(後の三井寺下)/叡山間を開業した後、順次延伸し、昭和6年1月には近江今津まで延伸開業した。ただ、社名が示す若狭への延伸はかなわなかった。 時代を経て、昭和37年5月、浜大津/近江塩津間が、国鉄の調査線となり、数度の変遷を経て、昭和41年12月、山科/近江今津間の第一次認可が下りた。このルートで国鉄が開通すると、問題になるのは、ほぼ並行して走る江若鉄道の経営である。最終的に、江若鉄道は廃止し、その路線を国鉄が買い上げて転用することで決着した。ただ、競合路線の買い上げで江若鉄道を救済することが真の目的でだった。しかし、江若鉄道のルートは昭和前期のままで、カーブが多いこともあり、実際の転用率は低かった(約50km中31kmのみ転用)。江若鉄道は昭和44年11月に浜大津/近江今津間を廃止した。これで江若鉄道の鉄道事業はなくなったため、同時に江若交通と社名を変え、路線バスを運行する京阪グループの会社として存続している。このような経過を経て、昭和49年7月に湖西線(山科/近江塩津間)が開通した。 湖西線は、関西と北陸の短絡という目的から高速走行を狙う路線とされたため、ほとんどの区間がトンネルや高架線、盛土、切土などの立体構造となっており、湖西線内に踏切は設置されていない。これらのことより、高速走行が可能なため、新型車両の試験運転によく利用される。国鉄時代の昭和60年11月26日には、381系電車による高速試験で日本の在来線の最高速度記録である179.5 km/hを記録し、これは現在も破られていない。 反面、強風の影響を受けやすく、減速運転や運休、琵琶湖線への迂回運転が数多く発生している。 過去には強風による列車の横転事故が発生している。昭和54年10月には、北小松駅/近江舞子間で、貨物列車が強風で横転、平成9年6月には、比良駅付近で貨物列車が強風で横転した(図13)。 JR西日本では、平成20年から平成31年にかけて防風柵(図14)を設置。運転規制の時間は約6~7割程度減少したといわれている。 ←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/21
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京都市の鉄道史~その10~ 9.私鉄電車の興隆(続き)3)近畿日本鉄道① 大阪電気軌道(大軌) 京都市に乗り入れる私鉄として近畿日本鉄道を最後に取り上げる。JRを除く民営鉄道では、日本で最長の501.1kmの路線網を持つ。 母体は、明治43年9月に大阪と奈良を結ぶ路線を敷設すべく設立された大阪電気軌道(以下、大軌)である。 生駒山トンネルの難工事を経て、大正3年4月に上本町/奈良間(現・近鉄奈良線)を開通させた。しかし、生駒トンネル掘削の難工事による多額の出費が原因で経営難となり、沿線の生駒聖天から賽銭を借りて当座の経費を賄うほどに窮迫した。主要利用客である生駒山参詣者の人出がお天気次第なので運賃収入もお天気次第、という意味で「『大阪電気軌道』でなく“大阪天気軌道”」、空気のように頼りない経営状態から「『大軌』でなく“大気”」、と揶揄されたことさえあった。その後、経営努力と利用客の増加により辛うじて大軌は再建し、大正5年3月には一応の債務整理を完了した。 経営が軌道に乗ると大軌は奈良盆地内に路線網を拡張していく。・大正10年1月、天理軽便鉄道(現・近鉄天理線)買収・大正12年3月、大和西大寺/橿原神宮前間(現・近鉄橿原線)全通・大正15年6月、 菖蒲(あやめ)池遊園地開園(平成16年6月閉園)・昭和2年7月、布施/八木間(現・近鉄大阪線の一部)全通この時点での大軌の路線図を「図①-1」に示す。 その後、大軌は伊勢方面への進出や、共同出資も含めた新線の敷設、合弁などにより、規模を拡大する。・昭和2年9月、伊勢方面への敷設免許を所持している大和鉄道から敷設免許の譲渡を受け、参宮急行電鉄(以下、参急)を設立・昭和3年11月、京阪電気鉄道との折半出資の奈良電気鉄道(奈良電。現・近鉄京都線)により京 都/西大寺間を全通・昭和4年1月、八木/桜井間開通・昭和4年3月、伊賀電気鉄道を合弁し、大軌の伊賀線とする・同月、生駒山山上遊園地開園・同年8月、吉野鉄道を合弁し、吉野線(現・近鉄吉野線)とする・昭和5年12月、信貴線(山本/信貴山口間)(現・近鉄信貴線)開業・同月、参急の桜井/山田(現・伊勢市駅)が全通し、上本町/山田間の直通運転を開始し、伊勢方面への進出を果たした。この時点での大軌(参急、奈良電を含む)の路線図を「図①-2」に示す。 さらに大軌は名古屋進出を目指す。・昭和11年1月、名古屋進出のため、大軌は関西急行電鉄(以下、関急電)を設立・昭和11年9月、参急が伊勢電気鉄道を合弁し、桑名/大神宮前間を伊勢線とした・昭和13年6月、参急が参急中川/江戸橋間を全通させ伊勢線に接続・同月、関急電が桑名/関急名古屋(現・近鉄名古屋)間を開業この時点での大軌(参急・奈良電・関急電を含む)の路線図を「図①-3」に示す。② 関西急行鉄道への改組 戦時体制下にあっても大軌グループの業績は大きく伸張し、積極的に子会社や他の電鉄会社を組み入れ、規模をさらに拡大していった。・昭和15年1月、参急が関急電を合弁・同年8月、参急は養老鉄道を合弁し養老線(桑名/揖斐間)とした・昭和16年3月、大軌と参急の合弁により、関西急行鉄道(以下、関急)に改組・昭和17年8月、関急が新松阪 - 大神宮前間(元・伊勢電気鉄道の一部)廃止。・昭和18年2月、関急が大阪鉄道を合弁(現・近鉄南大阪線・道明寺線・長野線)・昭和19年4月、関急が南和電気鉄道(尺土/南和御所[現・近鉄御所])、現・近鉄御所線)を合弁この時点での、関急(奈良電を含む)の路線図を「図②-1」に示す。➂ 近畿日本鉄道へ・・・南海との合弁会社の名前がスタート 昭和13年8月に施行された陸上交通事業調整法により、国からの強い要請を受け、戦時下の昭和19年6月、関西急行鉄道と南海鉄道が合弁、近畿日本鉄道(以下、近鉄)が設立された。 戦後、近鉄発足の4年目の昭和22年6月に、旧・南海鉄道の路線を南海鉄道(旧・南海鉄道の系列会社高野山電気鉄道から改称)へ譲渡し、関西急行鉄道時代の路線に復したが、社名は近畿日本鉄道のまま残った。近鉄は、その後も業容を拡大させていく。同時に不採算路線の多くが、近鉄本体の路線ではなくなり、上下分離方式などで子会社として運営が続けられている。・昭和33年7月、2階建て車両付きの「ビスタカー」登場・昭和36年1月、伊勢線(元・伊勢電気鉄道)の残りの区間である江戸橋駅 - 新松阪駅間廃止・昭和38年10月、京阪との折半出資だった奈良電気鉄道を合弁、京都線となる・昭和39年10月、信貴生駒電鉄を合弁、生駒線、田原本線となる・昭和40年4月、三重電気鉄道を合弁、志摩線・北勢線・湯の山線・内部線・八王子線となる。・昭和45年3月、鳥羽線が全通。大阪や名古屋などから賢島駅までの直通運転が可能となった。・同月、難波線が開業・昭和61年4月、長田駅 - 生駒駅間が開業・平成6年4月、志摩スペイン村(パルケエスパーニャ)が開業・平成18年3月、生駒駅 - 学研奈良登美ヶ丘駅間が開業。長田駅 - 学研奈良登美ヶ丘駅間をけい はんな線とする・平成19年10月、伊賀線および養老線をそれぞれ伊賀鉄道、養老鉄道(いずれも近鉄の子会社 で、第二種鉄道事業者)に運営を移管。線路や車両などは近鉄が第三種鉄道事業者として保 有。(現在は、伊賀鉄道、養老鉄道は、それぞれ伊賀市、一般社団法人養老線管理機構が第三 種鉄道事業者)・平成27年4月、内部・八王子線を四日市あすなろう鉄道(近鉄と四日市市が出資)に運営移管現在の近鉄路線図を「図③-1」に示す。④ 澱川橋梁(よどがわきょうりょう)は何故故単純トラス橋(橋桁がない)なのか? 近鉄京都線で西大寺方面に向かい、桃山御陵前を過ぎて宇治川を越えるときに、澱川橋梁と呼ばれる鉄橋を渡る(右図参照)。この鉄橋は単純トラス橋と呼ばれる構造で、主構にトラス(三角形の集合体)を用い、2つの橋台でトラス構造の桁を支えている。すなわち橋桁がなく、橋桁がない分、強度を確保するためにトラス構造としているのである。単純トラス橋では日本最長の161.4mを誇り、近鉄京都線の前身、奈良電気鉄道敷設時の昭和3年10月に完成したもので、国の登録有形文化財に指定されている。橋桁を使えば、簡単な構造で、しかも安価に架橋できるのに、何故、単純トラス橋としたのであろうか。 奈良電気鉄道線の建設計画では、当初は橋脚を立てて架橋する予定であった。ところが、架橋を予定した地点の周辺には帝国陸軍第16師団の練兵場があり、架橋地点は渡河訓練場として使われる予定だった(右図参照)。師団側は橋桁が訓練の妨げになることから、難色を示し本省へ伺いを出した。 しかし、奈良電気鉄道側は、そのようなやりとりで時間が経過するのを食い止めないといけないという事情があった。ちょうどこの時期、即位したばかりの昭和天皇の御大典が京都御所で執り行われ、式典の終了後、各施設の拝観や御陵の参拝などが国民に認められることとなった。そのため、沿線に伏見桃山陵が存在し、開通の暁には大阪電気軌道奈良線へ乗り入れるだけでなく大和西大寺から橿原線へも直通し、京都と橿原神宮前を直結する計画であった奈良電気鉄道は、大きな旅客需要が期待される。この絶好のチャンスに、何としてでも全線開業を間に合わせる必要に迫られていた。そこで、師団側の回答を待たずに、橋桁のない単純トラス橋で架橋することを決断した。最大の難問であった鋼材については昭和3年1月に納入との目途はたったものの、主要鋼材到着後にそれらを工場で加工し、工場で一旦仮組みした後に分解、輸送し現場で再度組み立てるという、大規模構造物建築で常識とされる手順を踏んでいたのでは、昭和3年11月に予定された御大典までにこの橋梁を完成させ、路線そのものの開業にこぎ着けることは到底不可能であった。そこで建設陣は、実際に橋桁の製造を担当する川崎造船所兵庫工場での仮組工程を省略し、加工済み部材を現場にて直接組み立てることを決断した。当時の最新技術を惜しみなく投入し、人智を尽くして工期短縮のための努力が重ねられた結果、本橋梁は、御大典を約1ヶ月後に控えた昭和3年10月16日に完成した。そして、奈良電気鉄道線そのものは同年11月12日に完成し、京都での即位の礼の儀式が全て終了した同月15日、京都 /大和西大寺間34.5kmが全線開業した。←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/20
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京都市の鉄道史~その9~ 9.私鉄電車の興隆(続き)2)阪急電鉄① 箕面有馬電気軌道 阪鶴鉄道の国有化について前述したが、阪鶴鉄道には申請しながら国有化されなかった池田/豊中/十三/大阪の路線があった。これを利用すべく、明治40年10月に箕面有馬電気軌道が設立された。これが、阪急電鉄の前身である。明治43年3月、現在の宝塚本線・箕面線にあたる梅田駅/宝塚駅間、石橋駅(現・石橋阪大前)/箕面駅間を開業した。 実質的な創業者は三井銀行から阪鶴鉄道に入り、阪鶴鉄道国有化後、その清算人となった小林一三(いちぞう)であった。路線は郊外の田園地帯を走り、通常の乗客数は少ないと予想されたため、小林は過密化や工場の公害で住環境が悪化している大阪都心部に住むより、郊外の自然豊かな自社沿線に住宅を建てて住み、電車で都心へと通うのが理想的だと宣伝し、沿線開発に力を入れた。明治43年6月には、日本初の住宅ローンを活用した戸建て住宅の分譲販売も行った。また、明治44年5月に宝塚新温泉(後の宝塚ファミリーランド)を開業、大正2年7月には宝塚唱歌隊(現・宝塚歌劇団)を結成するなどレジャー事業による集客にも力を入れた。後には、大正9年11月に梅田に阪急ビル(旧館)を建て、食堂を開業し、大正14年6月には、同ビルに直営マーケット(阪急百貨店の前身)も開業している。小林は現在では当たり前になっている鉄道会社が沿線開発を行って、自ら鉄道需要の創出を行うという私鉄ビジネスモデルの基礎を作り上げたという点で特筆される。② 阪神急行電鉄・・・・阪急京都線は京阪電鉄の路線だった!! 大正7年2月、箕面有馬電気軌道は社名を阪神急行電鉄に改称。この社名には「京」の字が入っていないことに注目したい。もともとは、京都方面に進出する計画はなかったと思われる。現在阪急路線になっているが、過去はそうではなかった路線もあり、以下に、どの会社(特に京阪)がどの路線を開業したかも含め記述する。・明治40年8月 阪鶴鉄道、鉄道国有法で国有化。池田/豊中/十三/大阪の免許は国有化されず・明治40年6月 箕面有馬電気軌道 設立・明治43年3月 箕面有馬電気軌道 梅田/宝塚間 石橋/箕面間開業・明治43年5月 京阪電気鉄道(以下、京阪) 天満橋/五条間開業・大正2年6月 京阪 中書島/宇治間 開業・大正4年5月 京阪 五条/三条間 延伸開業・大正7年2月 箕面有馬電気軌道は社名を阪神急行電鉄に改称・同年年11月 北大阪電気鉄道設立・大正9年7月 阪神急行電鉄が神戸本線十三/神戸(後の上筒井)、伊丹線塚口/伊丹間を開業・大正10年4月 北大阪電気鉄道が十三/淡路/豊津間(現阪急京都本線・千里線の一部)を開業・同年9月 阪神急行電鉄が西宝線(現・今津線の一部)宝塚/西宮北口間を開業。・同年10月 北大阪電気鉄道が豊津/千里山間を開業。この時点での阪神急行電鉄・京阪・北大阪電気鉄道の路線図を図②-1に示す。 大正10年時点で、淀川右岸(西岸)には、国有鉄道は走っているが、図②-1に示すように、まだ私鉄は走っていない。この淀川右岸を利用して、大阪/京都を結ぶ路線を敷設することを目論んだのが京阪である。・大正11年6月 京阪が淀川右岸での大阪/京都間路線を敷設・営業するための子会社として新京 阪鉄道を設立(以下、新京阪)・大正12年4月 北大阪電気鉄道が新京阪に鉄道事業を譲渡・大正14年2月 京津電気軌道は京阪と合弁、京阪の京津線に・同年5月 京阪京津線の札ノ辻駅/浜大津駅間が開通し、京津線全通・大正14年10月 新京阪が天神橋(現・天神橋筋六丁目)/淡路間を開業・大正15年12月 阪神急行電鉄が西宮北口/今津間を開業。西宝線が全通。今津線と改称・昭和3年1月 新京阪が淡路/高槻町(現・高槻市)間を開業・同年11月 新京阪が高槻町/京都西院(現・西院)を開業。第二京阪線ともいえる路線を実現。 桂/嵐山間(現・阪急嵐山線)も開業この時点での阪神急行電鉄・京阪・新京阪の路線図を図②-2に示す。 昭和4年米国を発端にして起こった世界恐慌が日本にも波及し、昭和恐慌が起こり、人口稀薄地域を走る新京阪は経営状況が急速に悪化した。・昭和5年9月 京阪は再編のため、新京阪を合弁・昭和6年3月 京阪が西院/京阪京都(現・大宮)間開業。関西初の地下鉄・昭和11年4月 京阪神急行が神戸本線西灘(現・王子公園)/神戸(現・神戸三宮)間を開通さ せ、神戸本線全通この時点での、阪神急行電鉄と京阪の路線図を図2-③に示す。③ 京阪神急行電鉄⇒阪急電鉄 乱立する鉄道・バス事業者の整理統合促進のために、昭和13年8月に陸上交通事業調整法が施行された。これにより、戦時下の昭和18年10月、阪神急行電鉄は京阪電鉄と合弁し、合弁会社の名称を京阪神急行電鉄(株)とした。また、昭和20年5月、 京阪神急行電鉄が交野電気鉄道を合併した。この時点で、図③-1のような路線図になったのである。 戦後の昭和24年、京阪神急行電鉄の旧京阪側は、京阪神急行電鉄からの分離・独立に舵を切り始め、合弁の前の状態に戻すことを主張した。これに対し、旧阪神急行側は、昭和19年から開始された旧・新京阪線の旧・阪神急行電鉄阪急梅田駅への乗り入れ実績を踏まえ、旧・新京阪路線を阪急側の所属とすることを主張した。旧阪急側の役員の頭数の方が多かったこともあり、京阪神地域の将来を見据え、京・阪・神の一社による円滑な接続という考え方から、旧・新京阪路線は阪神急行電鉄側へ割譲されることになり、昭和24年12月、京阪電気鉄道は分離独立した。旧・新京阪線は、京阪神急行電鉄京都本線・嵐山線・千里線となった。すなわち、現阪急京都本線・嵐山線・千里線の大部分は、もともとは京阪グループが敷設した路線なのである。・昭和38年6月 京都本線大宮/河原町間延伸開業。・昭和48年4月 阪急電鉄(株)に商号変更。図③-2に昭和48年4月時点の阪急電鉄・京阪の路線図を示す。④ 阪急嵐山線は戦前は複線だった 右の写真は阪急嵐山線の先頭車両から筆者が撮影した写真である。嵐山線は現在は単線であるが、戦前までは複線だった。戦時下の金属供出で単線化されたが、戦後も輸送能力に不足をきたすことがなかったので、単線のまま運行されている。写真を見ると分かるように、複線の名残で、路盤や架線柱は複線分の幅がある。橋台や橋桁が複線分の幅のままで、残っている部分もある。⑤ 新幹線の線路を走った最初の営業列車は、阪急電車 東海道新幹線の線路を走った最初の営業列車は、新幹線の列車ではなく、阪急電車の列車だったいうエピソードである。テレビ番組で取り上げられることもあり、ご存知の方も多いと思う。 東海道新幹線と阪急電車が、図⑤-1の写真のように並走する区間がある。図⑤-2に示す京都本線の大山崎/上牧間である。 新幹線は高架で建設されることになったが、この高架化工事により、並走する阪急線が地盤沈下する恐れがあることが分かり、阪急線も高架化することになった。昭和38年4月から12月の間、先に完成していた東海道新幹線の高架線路を阪急線工事中の仮線として用いて、仮設の駅ホームを設置して暫定的に阪急の車両を走らせていた。 ←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/19
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K病院で脂肪肉腫のAI治療の第6クール入院の3日目だが、まぁまぁ順調かなという感じである。入院前にK病院泌尿器科から電話がかかってきた。「18日に泌尿器科に来てもらって、話を聞きたいことがある」との電話がった。それで今日夕刻泌尿器科に出向いた。6月20日にOガンセンターへの紹介状を書いてもらうお願いをしたが、Oがんセンターからは「Oがんセンターは透析の治療は行っていません。もし、残った右腎臓も切除するような手術であれば、透析が必要になるので、できません。その辺はどうですか?」との質問だったようだ。CT画像を見る限り、腫瘍は腎臓や尿管にはくっついてないようだ。また透析になったら、2日に1度病院通いが必要で、色んな健康上のリスクも大きい。即座に「透析が前提の手術なら、手術はしません。通院での2次抗がん剤治療に臨みます」と答えた。Oがんセンターでも手術はできないと言われる可能性は99%だと思う。K大学病院でもNoと言われたのだから。残り1%はOがんセンターは、軟部肉腫の治療実績が多く、ひょっとしたら手術ができるかもという期待があるからだ。2カ所に聞きに行って両方からダメと言われたら、通院による2次抗がん剤治療に迷いなく取り組める。その効果が大きい。K病院泌尿器から、セカンドオピニオンと通常治療の両方の申込書を書くように、言われて両方書いたが、まだどちらになるのかも分からないし、Oがんセンターに行ける日を退院後の6月24日から30日の1週間にしたが、この日程でOKかどうかも分からない。一両日中にはっきりするはずだ。]←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/18
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昨日K病院に入院して、第6クールの抗がん剤治療が今日開始となった。朝Y先生が来てくださって、昨日の血液検査と尿検査の結果を下さった。血液検査や尿検査の結果についてはY先生からは何もコメントがなかった。でも自分で結果をグラフ化すると心配な点がいくつか見えてくる。下記は腎機能関係。クレアチニン値が上がり続けているのが心配。また、尿酸値が抗がん剤治療後下っている。尿酸を下げる薬を前から飲んでいるので、いい方向なのだが、下がり過ぎも心配である。でも、10年前のM病院での同じ抗がん剤治療の結果も、同様の傾向を示しているので心配ないであろう。抗がん剤治療を止めれば次第に元に戻るであろう。赤血球関係は前回より下がってしまった。もう戻らないのだろうか。血小板は下限値ギリギリアウトだが、これくらいは問題ないであろう。今回の抗がん剤治療でどうなるかだ。白血球は標準値内。Y先生は2日目からの利尿剤を考えていたようだが、初日からお願いしいた。左手薬指の治療は終わったが、特に朝、「むくみ」が酷いので安全サイドでお願いした。ところが手違いで、利尿剤なしでのスタートになった。利尿剤注射を再度お願いしたが、抗がん剤や輸液点滴中の利尿剤の注射は好ましくないとのことで、手持ちの錠剤の利尿剤を服用して対応した。今日の午後、会社時代の同期S氏がお見舞いに来てくださった。3月にも来ていただいているので2回目だ。談話室で30分ほど談笑した。病状は厳しいことは伝えたが、私が案外元気そうなので、少し安心してもらえたようだ。家族以外と話す機会がほとんどないので至福の時間だった。何とかガイドにも復帰したいし、S氏らとも酒を酌み交わせるようになりたい。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/17
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「脂肪肉腫」のAI(2種類の抗がん剤の頭文字)療法を第5クールまで、K病院で続けたが、第5クールで強さを最大限にしたためか、副作用からのリカバリーが全くできず、K病院で診てもらったところ、白血球、赤血球、血小板ともガタガタになってしまった。2週間ほど入院し、赤血球や血小板の輸血やら白血球を増やす注射をしてもらって快復を図った。できるだけ腫瘍を小さくしたかったので、私からY先生にお願いしたこともあり止むを得ないところがある。第5クールまでの抗がん剤治療で、多少腫瘍は小さくなったが、K病院では手術での摘出は危険過ぎてできないとのこと。最初に言われたことと変わらなかった。K大学病院を紹介してもらったが、やはりK大学病院でも、手術による摘出はできないと言われた。K病院に戻って、腫瘍内科のY先生と相談した。1回残っている第6クールのAI療法をやって(ドキソルビシンという薬は一生に使える量が決められており、以前の軟部肉腫の分も含めると、これで最後になる)少しでも小さくしたうえ、通院による次の2次薬物療法(AI療法のように積極的に腫瘍を小さくするのではなく、大きくなるのをできるだけ遅くする、いわば消極的な療法)をしてはどうかという提案があった。第5クールでグロッキーになったときには、二度とAI療法はしたくないと思ったが、回復してみると、できるだけのことはやってみようという気になった。今日入院して、明日から5日間AI療法をし、来週月曜日血液/尿検査の結果がOKであれば退院の予定だ。そして、副作用からの快復を待って、7月上旬から中旬に通院で2次薬物療法をする予定だ。その副作用次第だが、通院なのでガイド会に復帰できる可能性は残されている。そこからいつまでガイドができるか、いつまで生き永らえることができるかだが・・・・これと併行して、Oがんセンターにも紹介してもらい、手術ができないか、粒子線療法や放射線治療の可能性がないかは聞きたいと思っている。これについては18日に泌尿器科のK先生ともう一度話をすることになる。多分、Oがんセンターでも、手術も粒子線も放射線もダメだと思うが、それはそれで構わない。2次薬物療法しかないと腹をくくって治療に臨むことができる。これが大切なのだ。今回も食事は病院食ではなく、「持ち込み食」(病院食ではなく、自分の好きなものを、自分で持ってくる、あるいは、買ってくるなどして食べる)を認めたいただいた。K病院には、コンビニがあって、弁当やパンなど買うことができるので、病院の外まで行って買う必要はない。それでも買いに行くのは面倒だが、食事へのストレスが小さくできる(いやいや食べるストレスが最小限に抑えられる)ことのほうが大切だ。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/16
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京都市の鉄道史~その8~ 9.私鉄電車の興隆1)京阪電気鉄道① 京阪電気鉄道本線開通 官設鉄道だけでは、将来急増するであろう大阪/京都間の交通量に対応しきれず、官設鉄道の対岸の淀川左岸を走る電鉄が必要であるとの考えから、明治30年代に複数のグループから鉄道敷設の計画が出された。1つが渋沢栄一らの関東グループ、もう1つが村野山人らの関西グループである。数回の話し合いを経て一本化することになり、社名を「畿内電気鉄道(株)」とした。ようやく明治39年8月、特許が下り、社名を「京阪電気鉄道(株)」とした。申請した路線の起点は「天満橋南詰」、終点は「五条大橋東詰」であった。予定路線上の塩小路通から五条通間は人家が多く、用地買収に困難を極めたが、幸いにも、京都市から「鴨川/琵琶湖疏水(鴨川運河)間の堤防を拡幅して、そこに線路を敷設したらどうか。これに加え、市電の三条/塩小路間の特許を有償譲渡する。」という提案があり、これを受け入れ用地買収不調問題を解決した。しかも将来の三条への延伸も可能となった。そして、明治43年4月15日に天満橋/五条間の営業が開始された。右図のように七条駅手前に急なカーブがあるのはこのような経緯によるものである。淀川左岸の交通は、それまで前述の「淀川汽船」に頼っていたが、これを機に淀川汽船は衰退していく。しかし、淀川汽船は昭和37年までの長きにわたり、淀川の水上交通を担った。 京阪は開業の年の秋に、香里園遊園地で第1回菊人形展を開催し、大正元年には枚方公園を開業し、第3回菊人形展を開催、以降、一部の時期を除きこの枚方公園で「開催されることになった。この枚方公園が現・枚方パークへと繋がっていく。 また、大正2年、五条/三条間の敷設特許が下付され、大正4年10月、三条駅まで延伸開業した。 京阪電鉄は、軌道条例適用のため、路線の3分の1が道路併用軌道であった。京街道を縫うように線路が敷設され、「京阪カーブ式会社」と揶揄された。 明治38年7月18日に京都で帝国陸軍第16師団が編成された。第16師団は深草地域に駐屯し、京阪電鉄と交差する位置に、第一、第二、第三軍道を建設した。踏切があっては活動に支障が出るとのことで、第16師団は京阪電鉄は立体交差化することを強制された。今も、京阪本線は3つの旧軍道の下を通るかたちで立体交差している。② 京阪宇治線開通 中書島/宇治間の特許は宇治電気軌道が持っていたが、京阪電鉄はこれを明治43年11月に買収し、京都府への路線敷設申請を明治45年7月30日に行った。偶然この日に明治天皇が崩御され、8月6日になって御陵の場所は伏見桃山にするとの発表があった。翌大正2年7月30日には明治天皇御一年祭が行われ、多くの参拝者が見込まれる。この地と申請中の宇治線は近い。何とか間に合わせたい。宇治線の路線敷設は大正2年1月に認可が下り、全力で建設が行われ、同年6月1日に開通させることができ、御一年祭に間に合わせることができた。6ヶ月弱という超短期間での建設であった。③ 京阪京津線 明治39年3月、京都中心部と大津市を直結する電気鉄道敷設を目的に「京津電気軌道(株)」が、三条大橋町/大津市御蔵町間の軌道敷設を申請した。ほぼ同時期に同区間の申請が、京電によって提出された。同年、内務省は両者の合流を要請し、京電が京津電気軌道に合流し、明治40年1月、京津電気軌道に三条大橋/浜大津間の特許が下付された。明治44年4月に工事施行認可が降り、工事に取りかかり、大正元年12月、三条大橋/札の辻間が全通した。 大正12年頃、京津電気軌道の奥重三郎社長が京阪電気鉄道との合弁に乗り出すも、反対する役員も多く、一部役員には京都電燈(現・京福電気鉄道)との合弁に取り組む者まで現れた。京阪電気鉄道側は、鉄道大臣や京都府知事に、大阪/大津間の直通運転による経済面、能率面での国家的利益を強調して具申した。このようなこともあり、大正14年2月、京津電気軌道は京阪電気鉄道と合弁し、同社の京津線となった。また同年5月には、札ノ辻駅/浜大津駅間が開通し、京津線が全通した。 今は京都市営地下鉄への乗り入れで地下を走るが、昔は、京津線は三条/御陵間は、三条通上を走っていた。だが、もっと前は、そのうち東山通/蹴上間は三条通上を走っていなかったのである。 図Aは明治42年の地形図に加筆したものである。まだ京阪本線も開通していない時期である。三条通は狭く、京電線が木屋町通及び疏水沿いを走っていただけである。 図Bは大正11年の地形図に加筆したものである。前述のように大正元年12月に、京津電気鉄道三条大橋/札の辻間が全通した。また東山通が拡幅整備され、大正元年12月から大正2年3月にかけて、市電東山線の一部が開通した。さらに、大正5年10月には京阪本線が三条駅まで延伸された。 このときの京津電気鉄道は、三条大橋から東山通までは、拡幅された三条通を走っているが、東山通以東は未拡幅の三条通を避け、より北側を走っていた(茶色の線)。推測の域を出ないが、東側に住宅が密でない地域があり、用地買収がしやすかったということがあるかもしれない。 図Cは昭和13年の地形図に加筆したものである。前述のように、大正14年2月、京津電気軌道は京阪電気鉄道と合弁し、同社の京津線となった。昭和6年2月に東山三条駅以東が拡幅なった三条通に移設された。 三条通北側の旧路線の痕跡は今も見ることができる。図Dの太い点線が旧線跡である。細い実線の長方形が2つあるが両方とも建築物である。細い点線は、いびつな形をした駐車場である。いずれも廃線跡に建築されたため、回りの住宅に対し、方向が約45度程度傾いている。 図Eの黒線で囲った部分は、今も道路として利用されている。 ④ 京阪石山坂本線 大正2年3月、大津電車軌道が、現在の石山本線の大津駅(現・びわ湖浜大津駅)/膳所駅(現・膳所本町駅)間を開通させた。これは直前まで官設鉄道が東海道線の一部として、旅客営業をしていた大津駅/馬場(現・膳所駅)間を三線軌条化(軌間の違いがあるため)したものである(官設鉄道は貨物線として、国鉄時代も含め昭和44年まで利用)。以降、膳所駅から順次延伸され、大正2年6月には、浜大津駅/螢谷駅(現・石山寺駅)間が開通した。大正11年5月には三井寺駅/浜大津駅間が開業した。大正14年2月に京阪電鉄傘下となった京津線は、大正14年5月、札ノ辻から浜大津まで延伸開業し、浜大津で京阪京津線と大津電車軌道との連絡が可能となった。 大津電車軌道は昭和2年1月、太湖汽船と合弁して、琵琶湖鉄道汽船となり、同年9月に坂本駅(現・坂本比叡山口駅)/浜大津駅間を開通させた。競合する江若鉄道(その名の通り、最終的には近江と若狭を結ぶことを目的に敷設された鉄道であるが、この鉄道で近江と若狭が結ばれることはなかった)に対抗のため、複線で直線的なルートで建設された。 大津大津電車軌道は、昭和2年5月に、後に近江鉄道八日市線となる湖南鉄道を買収している。これらは、琵琶湖への勢力を拡大してきた京阪鉄道への対抗策として行われたものであった。将来は堅田から草津まで琵琶湖南岸を半周する路線とすることを目指していた。しかし、投資が回収できなかったことから、昭和4年4月、主路線は京阪電気鉄道の傘下に入ることになり、旧・湖南鉄道の鉄道路線は、八日市鉄道(昭和19年3月に近江鉄道に吸収合弁された)に、汽船部門は京阪系の太湖汽船(前出の太湖汽船とは別。現・琵琶湖汽船)に譲渡した。⑤ その後の京阪電鉄(京滋を中心に)・昭和18年10月、昭和13年8月に施行された陸上交通事業調整法により、政府からの勧告を受 け、阪神急行電鉄と合弁し、京阪神急行電鉄(株)が発足・昭和20年5月、交野電気鉄道の事業を譲り受け、交野線とする・昭和20年12月、奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)が、丹波橋駅/三条駅間乗り入れ開始・昭和22年4月、京阪本線の電車が奈良電気鉄道の丹波橋駅/京都駅間乗り入れ開始・昭和24年12月、京阪神急行電鉄より、京阪本線・交野線・京津線・石山坂本線が分離譲渡され る形で、京阪電気鉄道(第二代)が発足・昭和29年9月、京阪線の特急でテレビカーの運行開始・昭和36年7月、江若鉄道(現・江若交通)に出資して子会社化・昭和43年12月、近鉄京都線(旧・奈良電気鉄道)の相互乗り入れを廃止・昭和37年7月、京福電気鉄道を子会社化・昭和62年5月、東福寺駅/三条駅間を地下化・平成元年10月、鴨東線(三条駅/出町柳駅間)開業・平成9年10月、京都市営地下鉄東西線の開通に伴い、京津三条駅/御陵駅間を廃止。京都市営地 下鉄に御陵駅から乗り入れ・平成14年3月、京福電気鉄道より叡山電鉄全株式を取得して完全子会社とする⑥ 京阪本線と奈良電気鉄道相互乗入れ 上記にあるように、昭和20年12月、奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)が、京阪本線丹波橋駅/三条駅間の乗り入れ運転を開始し、昭和22年4月、京阪本線の電車が奈良電気鉄道の丹波橋駅/京都駅間の乗り入れ運転を開始している。それらは、昭和43年12月に廃止になっているので、今は相互乗入れ運転は見られない。では、どうやって、丹波橋駅で相互乗入れしていたのだろうか。 図1の赤線が相互乗入れのために使われていた線路である。今は、これら相互乗入れのための線路存在しないが、その痕跡を見ることはできる。 図2-A、図2-Bは、それぞれ現在の京阪丹波橋駅及び近鉄丹波橋駅の北側及び南側の航空写真である。丹波橋駅北側の西側の乗入れ線(京都方面への乗入れ線)の痕跡が分かりやすい。 図2-Aの赤の矢印の方向に向けて撮った写真が図3である。矢印①のように乗入れ線の一部が残っている。その向こう矢印②にい位置に白い屋根が連続しているのが見えるが、乗入れ線跡が自転車置き場として利用されている。 丹波橋南側(前ページ図2-B)は、乗入れ線跡が道路、住宅地として利用されているのが分かる。乗入れ線跡上に建てられた住宅が、回りの住宅に対して斜めに建てられている。 では何故、昭和43年12月に相互乗入れは廃止されてしまったのであろうか。昭和43年(奈良電気鉄道でなく、すでに近鉄になっている)に近鉄が輸送力向上のため、架線電圧を600Vから1,500Vに昇圧することになったのである。ところが、京阪は昇圧に対応できなかった。京阪本線には京都市電(架線電圧600V)との平面交差が4箇所あり、昇圧ができなかったことが一つの理由であるといわれている。なお京阪は市電廃止後の昭和58年10月に1,500V化している。⑦ 10年間だけ運行された「おとぎ電車」 大正9年、宇治川への大峯ダム建設のため、資材・作業員運搬用に宇治方面からダム建設現場まで鉄道が敷設された。大正13年に大峯ダムと下流の志津川発電所が完成した後も志津川発電所(天ヶ瀬駅)/大峯ダム(堰堤[えんてい]駅)間3.6kmは、業務用として残された。 京阪電鉄は、児童福祉法に基づく遊戯物として運行するため、昭和25年10月に堰堤駅付近に「宇治川遊園」を開設、「おとぎ電車」の運行を開始した。行楽シーズンの休日には乗り場に乗車を待つ観光客の列ができるほど人気を博した。 しかし下流への天ヶ瀬ダム建設で水没することになり、昭和35年5月に廃止された。←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/15
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前回の軟部肉腫の治療のころから、どうしても運動不足になるので、散歩を日課としてきた。歩数計で計りだしたのは、2015年5月からだから、粒子線治療が終わってからだ。その頃の目標は、5000歩/日。その後、2016年8月に、今のシニア観光ガイド会に入り、ガイドやその行き帰りで歩くようになり、平均で12,000歩/日くらいになった。それで散歩の日課は止めた。でも、平均で8,000歩/日から10,000歩/日くらい歩いていた。コロナのとき、ガイドでの外出がほとんどなくなり、そのときは、在宅時は散歩をして、平均8,000歩/日を確保した。コロナの状況がましになって、ある程度ガイドで外出するようになり、2021年3月に、在宅時の散歩は再び中止した。その後は、平均8,000歩/日以上をキープしてきた。ところが昨年11月「脂肪肉腫」が発覚し、ガイドに行くことはなくなり、在宅での散歩もしなくなったので、下のグラフの赤丸ように、過去90日間平均でも5,000歩/日程度まで落ち込んだ。そのとき、運動不足と腫瘍による血流悪化によるものだろうか、足にむくみが出始めた。これではいけないと思い、一念発起して、また平均8,000歩/日を目標に散歩をし出した。黒丸のように、また8,000歩/日まで戻っている。しかし第5クールのあと、体調が戻らず、ちょっとした坂もしんどくなった。血液検査の結果、白血球、赤血球、血小板ともガタ減りだった。しんどいはずである。入院をして輸血などで、白血球と血小板は正常値に戻った。赤血球も、ある程度戻った。この状態で無理をしてはいけない、でもある程度運動はしなければと思い、今は4,000歩/日に目標を落とし散歩をしている。下のグラフの青丸のように直近は過去90日間の平均が4,000歩/日になっている。いつか少し歩くのもしんどくなる日が来るであろう。それまでは、このレベルを目標にしたい。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/14
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京都市の鉄道史~その7~8.電車の時代(続き)12)市電の復興と安定時代 戦中戦後、市電は老朽化した車両や軌道も多くあったが、京都は大規模空襲を受けることがなかったので、継続して運行することができた。昭和24年頃から経済がようやく安定し、まず車両の改良に全力を傾注し、旧型車両を廃車して、大型車両を新造した。ビューゲル集電装置を付けた車両も登場し、軌道改良工事も全線にわたって行われた。その後の復興は目覚ましく、それに対応すべく戦争で止まっていた路線延長が次々と行われ、昭和33年9月の今出川線の白梅町までの延伸をもって、大正14年の都市計画による市電路線が完成し、総延長は76.83kmとなった。乗車人数では昭和38年が最高であるが、営業距離では、昭和32年頃が、市電の全盛期といえよう。 この時代の市電のエピソードをいくつか紹介する。市電のうちN電はオープンデッキだったので、混雑時、車外乗車(ぶら下がり乗車)する乗客も多かった。危険なので、昭和21年8年7日、府警察本部は車外乗車の一斉取り締まりをした。早朝1時間で54人が拘束されたという記録が残っている。 昭和24年~昭和33年まで宝ヶ池公園には市営競輪場が存在した。うち昭和24年12月~昭和30年8月には、競輪開催日に市電の京福電鉄叡山線(元田中~山端[現・宝ヶ池])への乗り入れが行われた。市電と京福電鉄では、乗降口の高さが違うので、山端駅には市電専用のプラットホームが設けられ、今も宝ヶ池駅でその名残を見ることができる。 市電を通すための道路拡幅工事で最後まで残ったのが、今出川線千本今出川~北野白梅町であった(右図の赤丸)。北野天満宮の前を走る線である。私鉄路線との競合もあり、複雑な経緯を経て開通に至った。 地図Aは、明治22年の地形図。線路は全くない。赤丸は北野天満宮の一の鳥居である。 地図Bは明治42年の地形図。明治33年5月、京電堀川北野線が下ノ森まで延伸(水色の線)。その北に新道(茶色の線)が敷設される。 地図Cは大正11年の地形図。明治45年5月、新道を使って、京電堀川北野線が北野天満宮前まで延伸された。 地図Dは昭和3年の地形図。大正14年、京都電燈が北野駅/高雄口駅(現・宇多野駅)間(大部分が現・京福電鉄北野線の路線)を開業した。 地図Eは昭和3年の地形図。西大路通が北野白梅町まで敷設されている。昭和11年11月、市電西大路線が北野白梅町まで営業開始。現・今出川通も敷設されている。 地図Fは昭和26年の地形図。西大路通の北野白梅町以南も敷設され、昭和18年10月、市電西大路線、北野白梅町/円町間営業開始。これで市電西大路線が全通。京都電燈の鉄道部門はは昭和17年に京福電気鉄道に譲渡され、京都電燈北野線は、京福電鉄北野線となり、昭和18年10月に北野白梅町駅が営業を開始した。 地図Gは昭和36年の地形図。昭和32年市電堀川北野線(旧・京電堀川北野線)の北野駅を今出川通南に移設。同年4月、市電今出川線の千本/紙屋川町駅間営業開始。 地図Hは地図Gのその後を示している。昭和33年9月、京福電鉄北野/北野白梅町間が廃止され、そこに同月、市電紙屋川町/白梅町間が敷設され、市電今出川線が全通する。ここに、大正14年に立てられた都市計画路線が漸く完成することとなった。 13)自動車車時代の市電、そして廃止へ 昭和35年はマイカー元年と呼ばれた。京都府下の自動車台数は、年率3割のペースで増え、この年8万6,600台に。市電のダンゴ運転が目立ち始めた。これに加え人口のドーナツ化、人件費高騰もあり、廃線による合理化へと進んでいった。まず、昭和36年8月、狭軌で定員が少なく採算性の悪いN電堀川北野線が廃止された。ラッシュ時の急行電車、ワンマン電車など色々手を打つも、打開策にはならず、一方で自動車はどんどん増え、昭和40年12月には、ついに軌道敷を自動車に全面開放するに至った。ますます輸送効率は悪くなり、もはやなすすべなく、 昭和45年3月の伏見線・稲荷線の廃止を皮切りに廃線は進み、ついに昭和53年9月30日、最後まで残った外郭線が廃止され、京電時代も含めて80余年にわたる京都の路面電車の歴史に幕が下ろされた。 14)祇園祭と京都市電 京都三大祭の一つ祇園祭の山鉾巡行のルートは時代とともに変化している。昭和41年以降、前祭(さきまつり)、後祭(あとまつり)が同日開催となり、四条烏丸を出発して四条河原町へ、河原町通を北進し河原町御池へ、御池通を西進し新町御池で解散、この半時計回りのルートとなった。巡行日には、このルートのうち、四条通は昭和47年1月まで、河原町通は昭和52年9月まで市電が走っていた。巡行当日は、巡行区間の市電は運休となったが、市電の架線より高さの高い山鉾は、どうやって架線を張る線を避けて巡行していたのだろう。 答えは、四条通は南側から、河原町通は東側から架線を架け、山鉾は架線を避けて四条通は北側、河原町通は西側を巡行したのである。今は市電が廃止されて、巡行は道路の中央寄りを通り、「辻回し」も交差点中央付近で行われるが、当時は道路の端の方を巡行し、「辻回し」も交差点の角近くで行われた。「辻回し」は今でも高度な技術・経験が必要だが、当時はもっと大変だったであろう。また、道路の端を巡行すると、傾きによって、山鉾は自然に歩道側に近づいていく。今以上に、進路微修正も大変であったろう。 山鉾のうち長刀鉾以外は、四条烏丸交差点を西から東に横断しなければならない。そこには市電烏丸線が通っていた。山鉾はどうやって烏丸線の架線を避けて横断していたのだろう。答えは、山鉾を通すために市電烏丸線の架線の一部を切断(正確には特殊な金具で接続してある架線を取り外した)したのである。 では巡行の当日、架線の一部が切られてしまった烏丸線は運休したのであろうか。いや営業したのである。しかも、四条通の南北で折り返し運転をするのでなく、架線切りをした部分も含め、通常通りの運行をしたのである。いったいどのようにしたのか。巡行の切れ目を見計らって架線のない部分を惰性で運転するという「離れ業」をやったのである。走ってきた電車が架線のない区間に入る直前に、車掌がビューゲル(屋根の上の集電装置)のひもを引っ張って下ろし、電車の惰性で四条通を横断させていたのである。 ところが、例えば歩行者が急に飛び出してきたりしてブレーキをかけて止まったところが架線のない場所だったら電車は起動できない。そこで写真のように交通局の職員や警備の警官が乗客が乗ったままの電車を押して、無電区間から電車を「脱出」させたこともあった。今は昔の話である。15) 京阪伏見稲荷駅から伏見稲荷に向かう道路上の無駄に幅広い橋 京阪伏見稲荷駅から伏見稲荷大社に向かう参道は、途中で琵琶湖疏水(鴨川運河)を渡る。その橋の幅は、前後の道路より倍ほど広くなっている(A図)。広くなっている部分は、ただの広場になっている。いわば、無駄に幅の広い橋になっているのである。実は、ここは昭和45年3月まで運行していた市電稲荷線の稲荷駅跡なのである。「B図」の赤い線が稲荷線、赤い四角が稲荷駅のあった場所である。 「C図」が在りし日の市電稲荷駅である。実は赤丸の部分の線路と、南側(写真の右側)のプラットホームは今もそのまま「D図」のように残っている。 そしてこの稲荷線は、稲荷駅の西側(図の左側)で京阪本線と平面交差をしていた(E図)。時々、衝突事故が起こったようである。 ←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/13
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今日もK病院に行った。でも「脂肪肉腫」の治療とは直接関係ない内容。1年に1回の胃内視鏡検査。受付を済ませ、問診を受け、胃の粘膜を洗う薬を飲み、喉の局所麻酔剤を飲んで、しばらく待った。10分くらい待って、検査室に案内され、検査開始。ベッドに横になり、プラスチックの胃カメラ導入口を咥える。いよいよ胃カメラ挿入。さすがに喉を通過するときは、苦しかったが、あとは何とか切り抜けた。30分くらいで終わったであろうか。終わって消化器内科A先生の診察。「良性のポリープがあるが、今のところ放置でよい。あとは問題なし」とのこと。そもそも何故この定期検査を始めたのか、私も記憶があいまいだったので、A先生にカルテを見ていただいたところ、「近所の掛かりつけ医のO医院さんの紹介で、お腹の調子がよくないとのことで胃カメラをしたのが最初」とのことだった。良性が悪性に変わる可能性もあるので、1年後の胃カメラの予約をして帰ってきた(その時、生きているかどうか、あるいは検査を受けることができる状態かどうか分からないが)。帰宅してダイヤリーを見てみた。2024年3月に近所のO医院で紹介状を書いてもらって、4月に胃カメラと腹部エコーをK病院でしている。胃カメラでは、「検体2個をとった」と書いてあったが、その後、これについては何も書いてないので、特に異常はなかったのだろう。恐らくそのとき、「2020年に大腸ポリープ切除手術をして、だいぶ経つので、大腸内視鏡検査もしておきましょう」となって、その年の5月に大腸内視鏡検査をしている。内視鏡検査で小さなポリープは見つかったが、今すぐどうのこうのということはなかった。ただ、そのときのコメントに「十二指腸が何か押されている。内部超音波する」とある。それが、今の脂肪肉腫の兆候だったのかという気もするが、内部超音波の結果は書かれていない。どうもなかったのだろう。それに、その6月には、前の軟部肉腫の経過観察でCT撮影をしているが、異常は発見されていない。粒子線治療後10経過したので、それが経過観察の最後だった。経過観察をもう1年続けていたら、今の脂肪肉腫が早期発見されたかも。「経過観察続けてください」と食い下がればよかった。後の祭である。その後、2025年6月に胃カメラ。異常なし。8月に日帰りで、大腸ポリープ切除手術をして5個のポリープをとっている。胃カメラ、大腸カメラの件は、経過をまとめてみてスッキリした。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/12
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京都市の鉄道史~その6~8.電車の時代(続き)8)京都市電の誕生 京都の街路は、明治時代になっても、江戸時代そのままの狭い道路であったが、経済活動の伸長で、都市計画の必要性が叫ばれ始め、第二代京都市長の西郷菊次郎は、道路拡築とその道路への市営電気鉄道敷設事業、上水道整備事業、第二疏水事業を京都市の三大事業とし、明治39年に市会に提出し、同年11月、市会で第二疏水と上水道建設の予算が可決された。そして、明治40年3月、市会は、「道路拡築並電気軌道建設費」を可決した。西郷はそれら活動の陣頭指揮に当たった。なお西郷菊次郎は、西郷隆盛の奄美大島潜居時代の妻・愛加那(あやな・あいかな)との間にできた長男である。 狭い京都の街を京電・市電両方が走れば、当然ながら重なる箇所が出てくる。市当局は軌道の共用を京電に申し入れたが、京電は即日拒否した。困り果てた市当局は、当時の西園寺公望首相と原敬内相に軌道共用許可申請書を提出し、苦難の末、明治45年4月に許可を得ることができた。そして、明治45年6月11日、市電が共用区間外でまず開業した。9)市電の斜め路線 右図が市電開業当初の市電路線図である。碁盤の目の京都の街なので、市電路線も南北、東西に真っすぐ路線が敷設されて当然のように思うが、斜めに走る部分が3ヶ所ある。道路拡幅の際、それぞれ事情があってこうなったのである。 まず①は、東本願寺前である。京都市は烏丸通りを拡幅したうえ、真っすぐ市電を走らせる予定であった。ところが東本願寺から待ったがかかった。東本願寺の主張は、「翌年親鸞聖人大遠忌がある。多くの門信徒が集まる。歩道脇を電車が往来するのは危険である。」ということであった。東本願寺は、迂回用土地と建設費を寄付してまで迂回させたので、このような台形型の路線となった。 次に上図②であるが、丸太町通の松屋町通から智恵光院通の少し東にかけての路線が斜めになっている。ここが斜めの道になった理由は、丸太町通の松屋町通の少し西から千本通にかけて、京都監獄(京都刑務所の前身)があり(下左図)、そこを避けざるを得なかったためである。大正11年11月に「京都監獄」から「京都刑務所」に改称され、昭和2年1月に現在の山科区東野に移転した。跡地は、昭和3年に昭和天皇大礼記念京都博覧会の際、その西会場として活用された。下右図は、昭和3年の地形図であるが、博覧会が終わった後の測量であろうか、京都刑務所跡地のほとんどが空き地となっている。拡幅された丸太町通に市電が走り、当時あった京都刑務所を避けるために屈曲しているのがよく分かる。 次に最上図③であるが、まさしく45度の斜めの路線である。この京都での完全斜めの道路の経緯については話題になることも多い。全く新しく造られた道路であり、通りの名は「後院(こういん)通」という。 何故このような45度斜めの道路が新たに造られたかについては諸説あるが、最も有力のは「西高瀬川沿いの材木商反対説」である。千本三条の南には、西高瀬川(自然の川ではなく運河)の水運を利用する材木商が多く集まっており(右図参照)(今も多くの材木商がある)、町が分断されると反発したためだという説である。別の説は、「人口過疎地域回避説」である。右図を見ると分かるように、千本通の南の方は家屋が少ない。それよりも、人口の密な大宮通を走らせた方が集客が望めるということを市側が考え、斜めの道で結んだという説である。さらに、もう一つの説は京都鉄道(後の山陰本線)との競合を避けるためという説である。 交差点上で、南北の道路が微妙にずれているところがある。烏丸丸太町である(右図)。交差点北側の道路は、京都御苑の西側石垣があるので、西側に拡幅し、交差点南側では、ずっと南に東本願寺があるので東本願寺東側の延長線を道路の西端として、東側に拡幅したために発生したズレである。10)京電の市電による買収 市電は路線を次第に拡大していった。京電は狭軌1,067mmに対し、市電は広軌(標準機)1,435mmだったので、共用区間では、三線軌条(片方の車輪用のレールが共用で、もう一方の車輪用のレールが別)が数箇所に出現することになった。市電は広軌で輸送能力に優れ、新型車両ということもあり、乗り心地もよく、あらゆる点で京電に優った。京電は、単線の複線化、新線の敷設、車両の新造・大型化や二割引景品付き回数券などで対抗したが、次第に疲弊していった。 市民は、京電と市電両線にわたって往来する場合、二重に通行税を徴収され、さらに京電・市電共用の区間が多くあり乗り間違いが多発するなど、極めて不便であった。折しも、大正4年に大正天皇御即位御大典が京都で開かれることになり、大勢の人々が入洛する見込みであったので、交通機関の統一は緊急を要する課題となった。疲弊した京電線の車両、軌道の修復や料金制度の均一化を図るには、市営とするのが最良であるとして、市電が京電を買収をする機運が高まった。双方の意見が対立することもあって、結果的には御大典後になってしまったが、ついに大正7年7月、京電は市電に吸収されることになり、京電は25年の歴史に幕を閉じることになった。11)市電の成長と戦時下対応 京電を買収した市電は旧京電部分の路線の整理、広軌化を進めた。最終的に狭軌で残ったのは、北野堀川線のみであった。大正中期から昭和初期が、市電黄金時代であった。 昭和時代に入ると、外郭線の延伸が図られた。戦時中の昭和18年10月、西大路線の延伸工事で外郭線の工事がほぼ完了した。昭和7年4月には四条大宮/四条西大路間にトロリーバスが導入され、昭和11年には女性車掌も誕生した。第二次世界大戦末期には、洛西工業地帯への産業戦士(工員)の通勤のため、昭和20年3月に、梅津線(西大路四条~梅津間)を開通させた。不要不急の蹴上線を廃線とし、その機材でやり繰りしたといわれる。また、同時期、兵士動員による人手不足を補うため、女性運転手が採用された。 【N電】 京電の買収時、市電は狭軌の電車を京電から引き継いだが、市電が運行していた広軌の電車との車体番号重複を避けるため、車体番号の前に「N」をつけて区別した。この「N」は狭軌=Narrow gauge に由来している。旧京電路線は「N電」の愛称で呼ばれた。【京都駅前のループ線】 昭和2年4月22日、京都駅前にループ線が設置された(下の写真)。何故ループ線にしたのか。当時の市電は集電装置(架線に接触させ、架線から電気を得る装置)が、トロリーポール式であった。トロリーポール式の欠点の一つは折り返し運転するとき、「ポール回し」という人手による作業(右下の写真)が必要なことであった。その作業をなくすため、大正末期には両進行方向にトロリーポールを付けた車両が登場したが(ループ線の写真の下の左の写真)、折り返し運転時に、片方のポールを下げ、もう一方のポールを上げる必要があるので、ポール回しはないものの、架線に嵌める人手作業が必要なことに変わりはなかった。その作業を不要にするために設置されたのがループ線であった。 その後、折り返し運転時に手動作業が不要なビューゲル型集電装置を搭載した車体が主流となっていくなか、昭和27年9月20日にループ線は廃止され、以降は3線折り返し式になった。 このビューゲル型集電装置は、下図のように折り返して走り出すと、架線との摩擦力で、自力で倒れる方向が変わる。【昭和11年、女性車掌誕生。 今なら、あり得ない採用条件】 昭和11年には女性車掌が誕生した旨、記したが、その採用条件は、下記のようなものであった。・容姿端麗・独身・身長五尺一寸(155cm)以上 今なら考えられないような採用条件だが、身長155cm以上というのは市電ならではの特殊事情による。前述のポール回しの作業が車掌担当の仕事としてあったからである。競争率はなんと17倍という高さで、超人気の女性の職業であったことが分かる。【トロリーバス採用の真相】 道路を拡幅して市電路線を拡張してきた京都市だが、何故か四条大宮/四条西大路間だけには、トロリーバスを採用した(昭和7年4月)。日本初のトロリーバス営業運行となった。何故、四条大宮/四条西大路だけそうしたのであろうか。 よく言われるのは次のような理由である。・トロリーバスは、架線は必要だがレールが要らないので建設費が安い・輸送能力も約50人と、当時の通常のバスを3、4倍上回る・財政の膨張に頭を痛めていた京都市が「交通量が少ない地域での建設費節約」を理由にトロリーバスを採用 しかし、実は次のような取引き(トランプ大統領流に言うと「ディール」)があったとも言われる。 新京阪鉄道(京阪電鉄の子会社。以下、新京阪)は、昭和3年11月、十三/ 西院(仮駅)間を全通させた(現・阪急電鉄京都線の一部)。新京阪はさらに京都市中心部を目指し、四条大宮への進出を企てる。四条大宮付近は当時からすでに人口密集地で、線路を敷設するには、高架化が必要で、新京阪はその立ち退き補償など約600万円の費用捻出に苦慮していた。そこで新京阪が財政の膨張に頭を痛める京都市に300万円を支払い、市に地下鉄化を認めさせ、かつ、地下鉄に対し地盤強度の問題をもたらす市電敷設を将来しない約束をとりつけたというものである。そして、京阪電鉄(昭和5年3月、新京阪を合併)が昭和6年3月、地下線により、西院 /京阪京都(大宮)間を開業した。日本初の地下鉄である。そして、昭和7年4月、京都市が四条大宮/西院間にトロリーバスを走らせた。このような経緯から、四条大宮/西大路四条間(昭和37年5月、松尾橋まで延伸)だけ、トロリーバスが走ることになったというのである。←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/11
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6月8日、K大学病院に私の脂肪肉腫の手術摘出ができるかどうかの結論を聞きにいったが、結論種手術はできないとのことだった。ショックだがいたしかたない。今日は、その返事を持って、K病院に行ってきた。まず、採尿、採血をしたうえで泌尿器科へ。K大学病院の返信封筒を渡して説明した。いつも通り、エコーで腎臓の腫れを診てもらった。いつものように異常なし。次の治療は2次化学療法になるが、それしかないと思う。それしかないことを納得したうえで今後の治療に専念できるよう、もう1箇所診てもらうことに心に決めていた。前回に泌尿器科のK先生には話はしておいたが、Oがんセンターへの紹介状を書いていただくようお願いした。診察になるか、セカンドオピニオンになるかは、Oがんセンターにコンタクトしてみなければ分からないとのことで、2種類の申込書を書いた。セカンドオピニオンは保険適用にはならないので、45分の面談で4万5千円くらいかかる。納得ずくの2次化学療法に進むためには止むを得ない出費である。次に腫瘍内科へ。まずは、前のCTから1ヵ月ちょい経過しており、腫瘍が大きくなっているような気もするのでCT撮影をお願いした。先生も納得してくださって、CTをすぐ予約してくだっさった。「それを見て次どうするか判断しましょう」ということになった。CT撮影の結果、「1ヵ月前より小さくなっているようにも見えるが誤差の範囲かも。少なくとも大きくはなっていない」とのこと。先生から、2次化学療法のための色んな薬の説明があったが、「まず、やらいまま残っている、ドキソルビシン+イホマイドの抗がん剤治療(AI療法)の第6クールをする手もある。小さくなるかどうか分からないが可能な限り小さくすることにトライして、そのうえで2次化学療法に進んでもいいのではないか。第5クールは薬をフルにして輸血まで必要な状態になったので、やるとしたら、薬を弱くしたうえで」という話があり、私も、それが後悔しない一番いい方法と思えたので、それで進めることにした。6月16日(火)入院、6月22日(月)退院の予定。Oがんセンター訪問は、退院後の6月24日~6月30日のいずれかの日ということで申込書を書き替えてもらった。多分Oがんセンターでも、「手術は不可能。2次化学療法を勧めます」ということになると思う。そうしたら、抗がん剤治療からの快復を待って、K病院で7月中旬から、7月下旬にかけて、通院で2次化学療法を始めることになる。血液検査の結果は下記。赤血球関係が、まだ元に戻っていない。もう1回抗がん剤治療をすることになるので、もう一度低下して、また元に戻るのに時間がかかると思う。2次化学療法に入れば、薬によりけりかもしれないが、元に戻らないままということになるかも。白血球は問題なし。血小板は、今回は下限よりややマイナスだが、上下動が激しいので、あまり気にとめる必要はないだろう。腎機能の指標クレアチニンが減少傾向だったのが、上昇傾向にあるのが少し気になる。赤血球、血小板関係白血球、リンパ球クレアチニン、尿素窒素←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/10
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京都市の鉄道史~その5~8.電車の時代(続き)4)京都電気鉄道(京電)の延伸 その後京電は順調に路線延伸を進め、開業10年で約50kmの路線を敷設した。(下の路線図参照) 京電の路線図を見ると、高瀬川沿い(木屋町通)、堀川沿い(堀川通)など水路や川沿いを走る区間が多い。木屋町通を通さず、幅の広い河原町通を通せばいいのにと思うかもしれない。しかし、当時の河原町通は木屋町通同様、狭い通りであった。 両側に人家があると、電車を走らせるには、道路幅4間(7.3m)が必要だったが、人家が片側だけなら三間(5.5m)で足りたという。そこで道路拡幅の必要の少ない水路沿い、川沿いが選ばれたのである。 堀川通を通る京電は、四条通以南は、四条通を経由して西洞院通を走っていた。何故、堀川通りをストレートに南下しなかったのだろうか。当時の地形図を読み解くと見えてくる。堀川通は万寿寺通り以南は道らしき道がなかった(筆者推定では本國寺境内)。一方で、西洞院通は中央に西洞院川が流れていた。この川を暗渠にして、道幅を広げ電車を走らせたのである。5)告知人制度 京電運行当初、日本初の路面電車であることから、慣れない通行人や人力車との接触事故が絶えなかった。そこで、京電開業直後の明治28年6月に府庁第67号電気鉄道取締規制が公布され、電車には「告知人」と呼ばれる人を同乗させることが義務付けられた。「告知人」とは、雑踏、交差点、橋上などで電車の先五間(約9メートル)以内を先行し、昼は旗、夜は提灯を持ち「電車がきまっせえ。あぶのおっせえ」と叫びながら線路を走る、いわば交通整理要員である。告知人は、12歳から15歳の少年で構成されていて、「先走り」と呼ばれた。しかし、告知が終わると走っている電車に飛び乗ったりと危険なうえに、汗とほこりにまみれての重労働で、少年が電車にひかれる事故も相次いだため、この制度は明治37年に廃止された。京都では長らく、子供を叱るときに「電車の先走りにするで」という言葉が使われていたといわれる。 6)京電時代の数々のエピソード・京電は琵琶湖疏水の蹴上水力発電所で発電される電気を使っていた。琵琶湖疏水では、毎月1日と15日に通水を止めての「藻刈り」があり、発電所が停止するため、その日は 京電の定休日となった。また発電所の保守点検のため年に数日の送電停止が行われ、電車も 運休していた。これを解消するため、明治32年に東九条村(後の京都市南区東九条東山王町)に自社の火力発電所が設置され、運休もなくなった。・京都の夏は暑く、よくオーバーヒートした。炎暑の日は作業員がウチワでモーターに通風をし た。・当初はT字型レールではなく溝型レールであった。未舗装の道路を走るところは、石がレールに 転がりこむことも多く、竹の先で石を頻繁に掃除しなければならなかった。・停留所はあったが、それ以外のところでも、手を上げればどこでも止まってくれて、乗車でき た。・当時の電車の写真を見れば分かるように、運転台はむき出しであった。運転手は雨の日はミノ をまとって運転した。・京電は、停車時は1回、発車時は2回、ポール(集電装置)外れ時など緊急停車時は3回、車 掌が鈴を鳴らすという規則を決めた。これから「チンチン電車」という愛称が生まれた。しか し、いつ頃からか規則にはない4回鈴を鳴らす運転手が増えたそうだ。4回の鈴は「通りを美 人が歩いていますよ」という合図だったらしい。まだ電車のスピードも遅く、道幅も狭く歩行 者との距離感も近く、バスやトラックも走っておらず見通しがきいた古きよき時代のエピソー ドである。・人力車の車夫にとって路面電車は商売がたき。人力車による電車への嫌がらせ走行も多く、そ れによる車夫の死傷者も多かった。電車の脱線事故があると「車夫の嫌がらせ」という噂も飛 び交った。・汽車を動かす人は機関手と呼ばれていた。では電車を動かす人を何と呼ぼうかと京電が考えた のが「運転手」であった。「運転手」という呼称は京電が考え出したものだった。7)今も道路幅に残る京電の痕跡 京の街中には、京電が電車を通したり、停留所を設置したりするのに道路を拡幅したため、部分的に道路が幅広くなっている箇所が多く残っている。いくつかの例を下記に示す。 ←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/09
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K病院で紹介状を書いてもらって、5月19日にK大学病院泌尿器科に行って、脂肪肉腫の摘出手術ができないか尋ねました。泌尿器科だけでは判断できないとのことで、外科、放射線科とも相談して、6月4日に返事するので、「また来てください」ということになりました。しかし、もう少し時間が、欲しいという連絡があり、今日に延期になり、今日、K大病院に行ってきました。 結果は、やはり手術はできないとのこと。ある程度予想していたとはいえショックです。K病院に戻って、2次化学療法をすることになります。ただ併行して、また紹介状を書いてもらって、希少癌の治療例の多いOがんセンターには診てもらいたいと思っています。後悔しないように。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/08
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京都市の鉄道史~その4~8.電車の時代・・・・日本で初めて営業用電車が走った京都1)電車時代の曙 世界で最初に人が乗車した電車が走ったは、1879年(明治12)のドイツのベルリン工業博覧会だったとされている(シーメンス社製)。その2年後の1881年(明治14)、やはりベルリンにおいて世界最初の営業用電車が路面電車として運転を開始し、さらにその後1883年(明治16)にフランスとイギリスで、1888年(明治21)にアメリカで電車の営業運転が開始された 日本では日本では明治23年、東京上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会で、東京電燈会社がアメリカから電車2台を購入し、公園内を約300m走らせたのが電車披露の端緒となったが、東京での営業運行は明治36年まで待たねばならなかった。2)琵琶湖疏水と水力発電所 この間に営業用の電車を日本で最初に走らせたのが、京都電気鉄道である。明治維新後の京都の衰微が、そのきっかけとなった。。 幕末の禁門の変の大火で京都の街は壊滅的な打撃を受けた。そこに明治維新。首都は東京に移り、天皇も東京に移られ、それに伴い公家も多くの商人も東京に移り、京都の人口は35万人から20万人余りに激減するなど、京都は衰微の一途を辿った。それに対して、様々な復興策が打たれたが、その一つが「琵琶湖疏水」であった。 明治14年に第三代京都府知事に就任した北垣国道(くにみち)は、琵琶湖から引いた疏水で灌漑をし、上水道を整備し、水運に利用し、水力を利用した工場を興こすことを計画した。北垣の目に留まったのが、工部大学校(後の東京大学工学部)の田邉朔朗(さくろう)の書いた卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」であった。北垣は若干21歳の田邉をこの工事の責任者に抜擢した。 田邉は明治18年6月、工事に取り掛かる。当初は、上知令で手にした南禅寺の旧境内地などに工業団地を造り、琵琶湖疏水の水による水車動力での工場稼働を企てていた。しかし、ある日田邉は、雑誌で米国での水力発電成功のニュースを知り、明治21年、高木文平(京都商業会議所[現・京都商工会議所]初代会長)とともに渡米し、水力発電とともに電車をも視察した。帰国後、水車動力から水力発電に切り替えるべく田邉は北垣を説得し、水力発電所建設許可を取り付けた。殉職者17人をだす難工事の末、琵琶湖疏水は明治23年4月に完工した。そして翌年5月、日本初の一般供給用水力発電所である蹴上水力発電所が稼働した。これが、京都が日本初の営業用電車を走らせる原動力になったのである。またこれにより、電気を送電すれば、工場は疏水のそばに建設する必要がなくなり、工業団地になる予定だった旧南禅寺境内の土地などは別荘地として売り出された。無鄰菴や對龍山荘などの「南禅寺界隈別荘群」として南禅寺回りが京都らしい景観を保つことができているのも、この田邉のひらめきと実行力の副産物なのである。さもなくば、今頃は南禅寺の回りに工場群が建ち並んでいたであろう。明治45年2月稼働の第二期蹴上発電所は今も関西電力の現役発電所である。3)京都電気鉄道 田邉といっしょに米国の水力発電や電車を視察した高木文平は明治26年、電気鉄道敷設を国に出願し、翌年2月、京都電気鉄道(株)(以下、京電)を設立し、自ら社長に就いた。同年、狭軌(2本のレール間の幅1,067mm)による敷設の認可を受け、京都岡崎の地で開かれる第4回内国勧業博覧会の開催に間に合わせるべく工事に取り掛かり、明治28年2月1日、東洞院塩小路/伏見下油掛間、同年4月1日に東洞院塩小路/南禅寺間を開通させた。博覧会の開催が4月1日からだったので、まさに滑り込みの開通となった。 東京、愛知、大阪、奈良も敷設出願していたが、まず最初に認可されたのは京都だった。では、何故京都になったのか。第4回内国勧業博覧会が京都で開かれることになったのが大きな要因の一つである。内国勧業博覧会は、第1回(明治10年)、第2回(明治14年)、第3回(明治23年)とも東京上野で開催された。第4回(明治28年)は、京都と大阪の誘致合戦となった。もちろん京都の熱心な誘致活動の賜物であったが、平安遷都千百年祭という目玉があったのが京都での開催の決め手になった。この博覧会訪問者の輸送手段の確保が急務であった。もう一つの大きな要因は蹴上発電所が既に完成し、電気が確保できていることが大きかった。道路幅は狭いながらも碁盤の目の街路で線路を敷設しやすいことも、京都への認可下付を後押しした。 京都駅から勧業博会場を結ぶ東洞院塩小路/南禅寺間の敷設を急いだのは分かるが、何故、まだまだ沿線の人家の少なかった東洞院塩小路/伏見下油掛間の敷設も急いだのであろうか。答えは、船で大阪から博覧会見物に来る客を当て込んだということである。すでに東海道線は明治22年7月にに全通していたが、並行して、淀川には淀川汽船が就航していた。当時、官鉄大阪/京都間の運賃は片道27銭、淀川汽船の運賃は上り12銭、下り10銭と、運賃面では水運の方が競争力があった。また、淀川左岸(南東側)の人々は、交通手段を水運に頼らざるを得ないという側面もあった。そのため、伏見からの客が相当見込めたのだと考えられる。 当時の伏見下油掛は京都市ではなく、紀伊郡に属していた(京都市伏見区となったのは、昭和6年4月)。京電が私鉄だったから、この路線が成り立ったのであろう。京電は後に京都市電に買収されるが、もし京都市電から出発していたら、この路線は誕生しなかったかもしれない。 京都駅南の東洞院塩小路交差点南西角に、「電気鉄道発祥地」の碑が建つ。当時、東海道線は全通していた。この石碑をよく読むと、伏見下油掛町への京電路線は「鉄道踏切南側」から出ていたと刻んである。現・京都駅は、この石碑よりずいぶん南に位置する。線路の本数が当時は今より少なかったであろうが、当時の京都駅が今の京都駅の位置にあったら、この石碑より、かなり南の方から出ていたはずで、ここが「電気鉄道発祥の地」と宣言するのは無理があるように思ってしまう。 当時の地形図と現在の地形図を七条通を基準に重ねてみよう。当時の京都駅は、現・京都駅より、かなり北にあり塩小路通に面するくらいの位置にあったことが分かる。当時の線路数は今よりかなり少なかったであろうから踏切は短く、伏見へ向う路線の乗降場は右下図の「B」くらいの位置にあったと推定される。しかし、そこには現在建物が建っており、当たらずとも遠からずの現位置「A」に石碑を建立することにしたのであろう。 この南禅寺方面と伏見下油掛方面の2路線の乗り換えは、このように踏切を渡らねばならず不便であった。特に明治30年3月に東海道線の京都駅/大谷駅間が複線化されると、踏切による遮断回数が増え、より不便となったため、明治34年4月に高倉通に木製の陸橋(高倉陸橋)が架けられ、伏見方面も京都駅北側からの発着になり乗り換えが容易になった。 この陸橋は、その後2度架け換えられ、現在の陸橋は高倉跨線橋と呼ばる。その北のたもと、塩小路通高倉交差点南西に知る人ぞ知る、京都のラーメン二大巨頭と言われる、行列の絶えないラーメン店「本家第一旭」と「新福菜館本店」がある。このうち「本家第一旭」は、昭和22年に、この地に出店したラーメン店で、「本家 第一旭 たかばし本店」とも呼ばれる。この陸橋をいつの頃からか、人々が「たかばし」と呼ぶようになり、そのたもとにお店を開いたためつけられた名前である。←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/07
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京都市の鉄道史~その3~6.私設鉄道の勃興 明治19年から数年間は「企業勃興」の時代と呼ばれる。この時期に多くの私設鉄道が開業した。すでに開業していた日本鉄道(明治16年7月開業)、南海電気鉄道の前身である阪堺鉄道(明治18年12月開業)に加え、明治19年から明治25年に鉄道敷設を出願した会社のうち、28社が開業した。「鉄道熱」の時代を迎えることになった。この時代に開業した会社のうち京都に関係の深い奈良鉄道、関西鉄道、京都鉄道について以下に述べる。1)奈良鉄道 奈良鉄道は、明治26年4月に設立された。建設は京都から進められ、明治29年4月に京都/奈良間が全通した。現在の近鉄京都線の京都(七条)/伏見間とJR奈良線の桃山/奈良間を結んだルートであった。また、奈良/桜井間はこの区間を建設していた初瀬(はせ)鉄道を、奈良鉄道が明治30年4月に合弁し、明治32年1月に奈良/桜井間を全通させた。明治37年、後述の関西鉄道への合流を決め、翌明治38年2月に鉄道事業一切が関西鉄道に引き継がれた。 現・近鉄京都線京都/伏見間は、もとは奈良鉄道であり、後述するように後に官営鉄道となる。それが現・近鉄京都線の一部となった経緯は後述する。2)関西鉄道 関西鉄道は明治21年3月設立で、東海道本線の通らなかった、三重県・滋賀県の旧東海道沿いを中心に自社で路線を敷設するとともに、上記のような奈良鉄道の合弁も含め、数社を吸収合弁し、近畿南部に巨大な鉄道網を構築した。現在のJR関西本線、JR奈良線の一部(桃山/奈良間)と近鉄京都線の一部(京都[七条])/伏見間)を結ぶ路線、桜井線、草津線、片町線(現・学研都市線)、和歌山線、紀勢本線の一部(亀山~津)と広大な地域に路線を持っていた。 「廃線歩き」で有名な大仏鉄道(愛称)も関西鉄道の一部であった。合弁により、木津経由の賀茂/奈良間ができたので、わずか9年の運行後、明治40年8月に廃線となった。その直後、同年10月には、後述するように、鉄道国有法により関西鉄道は国有化された。3)京都鉄道 JR山陰本線(現・京都/園部間の愛称は「嵯峨野線」)も私鉄から出発している。 京阪神と舞鶴を結ぼうとする2つの鉄道会社に対して、明治20年代後半に敷設免許が下付された。京都~綾部~舞鶴~宮津、綾部~福知山を目標とする京都鉄道と、大阪~福知山~舞鶴を目標とする阪鶴鉄道である。この2社が競合する福知山/舞鶴間は、京都鉄道に認可が下り(明治28年11月)、阪鶴鉄道は、神崎/福知山間のみの認可となった(明治29年4月)。京都鉄道が競合部分の免許下付を受けることができたのは、熱心な誘致運動の賜物といわれている。 しかし、京都鉄道は、断崖絶壁を有する保津狭の難工事もあり、資金難に陥り、明治32年8月に京都/園部間を開通させるのが精一杯となり、明治33年11月に園部以遠の免許取り消しを願い出た。一方で、明治34年10月に舞鶴鎮守府が開庁し、京阪神から舞鶴へ通じる鉄道の建設は国策遂行上必須となり、京都鉄道の免許取り消しを認め、政府は明治35年、福知山/綾部/舞鶴間、園部/綾部間を自らの手で敷設することにし、明治37年11月、福知山/綾部/新舞鶴間の官設鉄道を開通させた。福知山/新舞鶴間は阪鶴鉄道に貸与され運行されたが、明治39年4月施行の鉄道国有法により、明治40年8月、京都鉄道、阪鶴鉄道とも国に買収された。 先に舞鶴/阪神間が結ばれたため、園部/綾部間敷設は後回しとなり、開通したのは、国有化後の明治43年8月であった。 京都鉄道の社長は田中源太郎で、京都銀行の前身「亀岡銀行」、「京都電燈」の創業者でもあった。八瀬にある紅葉で有名な現・瑠璃光院の初代オーナーでもあり、その庵は三条実美が命名し「喜鶴亭」と呼ばれた。現在は、岐阜市に本坊を置く「浄土真宗無量寿山光明寺」の支院で、春秋に特別公開されている。 また、その本宅は亀岡にある七代目小川治兵衛作庭の日本庭園を持つ邸宅で、現在は国の登録有形文化財に指定され、「楽々荘」という名で知られる。何度か所有者が変わり、現在の所有者は株式会社GANKOで、その「がんこ京都亀岡楽々荘」として営業されている。 また、伊東忠太(築地本願寺、橿原神宮、平安神宮、明治神宮、本願寺伝道院、祇園閣などの設計でも知られる)設計による二条駅舎(兼京都鉄道本社)が明治37年6月に開業した。この木造駅舎は、荘厳な社寺を彷彿とさせる造りや貴賓室も設置された立派な駅舎として全国的に知られていた。田中源太郎によれば、当初はレンガ造りの計画だったが、二条城に近いので景観に配慮して和風建築に改めることにし、日本初の私設鉄道である日本鉄道の宇都宮駅(2代目)駅舎が優美であったため同社に問い合わせを行い模範としたという。明治期の和風駅舎建築として唯一の現存例であり、京都の近代化を象徴する建物でもあることから平成8年4月に、京都市指定有形文化財に指定され、幅を縮小して梅小路蒸気機関車館に移築された。後に梅小路蒸気機関車館が改装・拡張され京都鉄道博物館としてオープンを果たした際には、ミュージアムショップに改装された。 なお、田中源太郎は、大正11年4月3日、国有化後の後身である山陰本線の園部発京都行き列車に乗車中、保津川橋梁上(現在はトロッコ列車〈嵯峨野観光鉄道・嵯峨野観光線〉の線路上)で起きた脱線事故に巻き込まれ、列車もろとも保津川へ転落して亡くなった。皮肉な後日談である(諸説あり)。享年69歳であった。 7.私設鉄道の大合同と国有化1)私設鉄道の大合同 前述のように、明治20年代から30年代にかけて私設鉄道の請願が相次ぎ、各地で乱立の様相を呈していた。井上勝鉄道局長官は、請願を吟味し、免許の可不可を上申していたが、それでも経営難に陥る会社が少なくなかった。乱立の弊害を抑えるため、私設鉄道の合同が図られた。既に第6章の(2)で述べた内容であるが、関西では明治30年2月浪速鉄道が、明治33年6月に大阪鉄道が、明治37年8月に紀和鉄道が、同年12月に南和鉄道が、明治38年2月に奈良鉄道が、それぞれ関西鉄道に合併されるなどし、関西鉄道は大阪、名古屋、京都、奈良、和歌山を結ぶ近畿の一大私設鉄道会社となった。2)私設鉄道の国有化 私設鉄道の大合同と並行し、大手私鉄の国有化の議論も明治20年代から盛んとなった。明治24年7月、井上鉄道庁長官は「鉄道の建設は常に日本全国を見渡したネットワークとして考えるべきで、それぞれの鉄道の上げた利益で評価すべきものではなく、鉄道によって得られる間接的な利益で評価すべきであり、鉄道の事業は国家の大計と考え、私設鉄道に任せるのでなく、国家的事業とすべきである。」という趣旨を第1次松方内閣に提出した「鉄道攻略ニ関スル議」で述べている。このような考えに基づき、鉄道国有法が立案されたが、反対の立場をとる関係者も多く、その成立は難航した。しかし、ついに明治39年3月、閣議決定を経て鉄道国有法が公布された。国有化のため買収の対象になったのは、全国で17社、関西では、山陽鉄道、関西鉄道、阪鶴鉄道、京都鉄道、参宮鉄道、西成鉄道の6社が対象となった。関西鉄道、阪鶴鉄道、京都鉄道の国有化については第6章で述べた。対象外となったのは、南海鉄道、高野鉄道、河南鉄道、近江鉄道の4社であった。←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/06
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今日は、「脂肪肉腫」でも「白内障手術」でもなく、左手薬指の傷の治療で、K病院形成外科に行ってきた。 傷がひどくなったのは、4月28日。前々日に、抗がん剤治療後でしんどいのに、庭いじりをしたのがいけなかった。手袋をして作業をしたが、最後、抜いた植栽をゴミ袋に入れるとき、面倒で手袋をしていなかった。木の枝の切れ端が左手薬指に刺さったのだろう。最初はどうもなかったが、2日間でどんどん腫れてきて酷い状態になった。 同時に、脂肪肉腫の5回目の抗がん剤治療から1週間経っているのに、しんどくて、食欲もなかったので、K病院で診てもたっらところ、抗がん剤の副作用で、白血球、赤血球、血小板ともガタ減りであった。それで、普段なら問題ない傷が、酷い状態になったのであろう。 輸血や点滴による快復のため2週間入院した。同時に形成外科の先生に指の傷の治療もしていただいた。血液の状態も、指の傷も次第によくなっていった。5月12日に退院後も、指の傷のほうは、毎日、消毒剤とガーゼを替えた。退院後は、5月15日と22日に外来で形成外科の診察を受け、22日には「だいぶよくなったので、今までと同じように毎日消毒剤とガーゼを替え、あとは2週間後に来てください」と言われ、今日、行ってきたというわけである。 今日の診察で、「これで治療は終了です。もう、消毒剤は不要です。薬指がちょっと曲がりにくくなっていますが、使うことで、次第に完全に曲がるようになります。」とのことだった。 これで問題の一つは解決した。下記は、治療中の指の写真であるが、最後のピースが昨日の指の写真である。 肝心の「脂肪肉腫」のほうは、K大学病院で次回6月4日に手術可否の回答をもらう予定だったが、K大学病院の泌尿器科から電話があって、「他科の先生との相談に、さらに時間が欲しい」ということで、6月8日に行くことになった。せっかく、右目白内障の手術を一旦キャンセルしたのに。6月8日まで、気持ちが落ち着かない。ドキドキである。←前回「闘病記」 次回「闘病記」→
2026/06/05
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京都市の鉄道史~その2~4.神戸/大津間開通1) 神戸/大阪間開通 神戸/大阪間の工事は、新橋/横浜間の工事に遅れることわずか4か月で、明治3年8月に開始された。モレルが伴ってきたジョン・ダイアックとジョン・イングランドが技術指導にあたった。明治5年、モレルの後任として、リチャード・ピカース・ボイルが着任し、神戸に駐在し、阪神間の鉄道建設を統括した。阪神間にはトンネルは不要のように思われるが、石屋川、芦屋川、住吉川という3つの天井川があり、それぞれにトンネルが掘られた。石屋川トンネルは明治4年7月に竣工し、我が国初の鉄道トンネルとなった。明治7年2月竣工の武庫川橋梁(全長255m)が我が国初の鉄橋となった(新橋/横浜間にも鉄道橋はあったが木橋であった)。こうして、明治7年5月21日から神戸/大阪間の営業が開始された。一日8往復、神戸/大阪間の所要時間は1時間15分であった。2) 大阪/京都間開通 大阪/京都間の工事は政府の財政難もあり、開始が遅れ、ようやく明治6年12月にダイアックを中心として開始された。明治9年7月、大阪/向日町間開通。中間駅は高槻だけ。明治9年8月に中間駅として、吹田、茨木、山崎が加わり、9月5日には京都大宮通りに仮営業所を設けて一日6往復で大宮/神戸間(うち1往復だけ大阪止め)で営業を開始した。京都駅は大宮仮停車場の東約800mの場所に明治10年2月に竣工した。赤煉瓦造り2階建てで中央が小さい塔のようになった左右対称の建築であった。初代京都駅である。2月6日、明治天皇の行幸をあおぎ大阪、神戸、京都で開業式が挙行された。初代京都駅は「ひっちょのステンショ」(七条のステーション)の愛称で市民に親しまれた。 何故、京都駅は七条通近くに造られたのであろうか。当時の京都の中心は、モダン建築が今も多く残る三条通であり、それらモダン建築の分布をみると、三条通のなかでも烏丸通/河原町通間に集中している。ここが明治期の京都の中心だったと考えられる。国土地理院公開の京都駅近辺の最も古い地形図である明治22年版を見てみよう。初代京都駅ができた12年後の地図である。西洞院通から本町通にかけての市街地の最南端は七条通であることが分かる。土地買収がしやすくて、かつ烏丸通/河原町通間に近いこの場所が選ばれたのではないかと、筆者は推定している。3) 京都/大津間開通・・・日本人だけによる初の鉄道敷設 明治11年、内務卿大久保利通は海運網と連絡する鉄道を重視する政策に転換し、大津/京都間、敦賀/米原間の鉄道敷設などに予算を振り向けた。 大津/京都間を直線的に結ぼうとすると、東山、逢坂山に長いトンネルを掘る必要があり、それを避けるため、大津への路線は現在の東海道本線とは全く異なるルートとなった。京都から鴨川の左岸を南下し、稲荷の南で東山の切れ目(大岩街道)に沿って東北方面に折れ、山科盆地を東北に向かって進み、逢坂山に665mのトンネルを掘り、大津への急勾配を避けるため一旦馬場(現膳所駅)に向かい、スイッチバックして大津(現京阪浜大津駅付近)に至るというものであった。これらが、それぞれ我が国初の山岳鉄道トンネル、スイッチバック方式路線となった。工事は明治11年8月に始められたが、この工事は、顧問の外国人技師1人を除き、すべてが日本人の手によって行われた。そして担当責任者全員が井上勝が明治10年、大阪駅舎2階に開いた工技生養成所の出身者であった。 まず、明治12年8月、京都/大谷間開通。逢坂山トンネルは死者4人をだす難工事であったが、明治13年7月、大津まで延伸開業し、神戸/大津間が全通することになった。京都/大津間は日本人の手のみで成し遂げた最初の鉄道敷設工事であり、日本の鉄道土木工事における技術の自立という点からみて画期的であった。 今も、旧逢坂山トンネルの遺構が残っている。東北側トンネル入口の中央上部には、三条実美(さねとみ)公揮毫の「楽成頼功」の扁額が見られる。「工事に関わった人々の功に頼って落成した」という意味だが、「落成」では「落盤」などを連想させるため、「楽成」というポジティブな言葉に変えているのが面白い。工事に携わった人々が、犠牲者を伴う難工事の末このトンネルを完成させ、これが楽しい世の中に繋がるという意味を伝えたかったのであろう。このトンネルは戦時中は軍需工場に転用された。また、昭和35年に鉄道記念物指定された。現在では京都大学防災研究所地震予知研究センターの施設として利用され、防災のために有効活用されている。 「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり」の歌い出しで有名な歌は明治33年に世に出た鉄道唱歌東海道編であるが、その45番で「大石良雄が山科の その隠家はあともなし 赤き鳥居の神さびて 立つは伏見の稲荷山」と山科と伏見稲荷が歌われている。その伏見稲荷部分を刻んだ歌碑が、JR稲荷駅の「JR稲荷駅ランプ小屋」(準鉄道記念物)の傍らに建つ。今この歌碑だけ見れば、何故、奈良線なのに鉄道唱歌東海道編の歌碑があるのかと不思議に思うだろうが、これは、当初の東海道本線が前述のように稲荷を通るルートをとったことによるものである。 大動脈の鉄道が通ったこともあり、より大くの参拝者が伏見稲荷を訪れるようになった。地元では、古老が語る次のようなエピソードが語り継がれている。『列車が稲荷駅に停車するたびに、乗客たちはこぞって朱の鳥居に向かって合掌し、車窓からプラットホームへ賽銭を投じた。 駅長はそれをていねいに、逆さにした鍔広(つばひろ)帽子に拾い集め、夕方になると本殿の賽銭箱に収めに行った。』 今は昔のエピソードである。 さて、これで神戸から大津(現・びわ湖浜大津)まで開通したが、大津/琵琶湖東岸間については、時間のかかる鉄道敷設ではなく、琵琶湖を利用した鉄道連絡船が選択された。 明治14年9月に、琵琶湖湖上輸送を担う太湖汽船が設立され、明治15年5月、日本初の鉄道連絡船が大津/長浜間に就航した。琵琶湖東岸から敦賀に至る鉄道ルートについては、明治17年4月に長浜駅/金ヶ崎駅(かねがせき)(後の敦賀港駅)間が全通した。これにより、連絡船経由ではあるが、神戸(太平洋側)と敦賀(日本海側)が鉄道によって結ばれることになった。 5.東海道線全通1)東西両京接続の当初計画は中山道 東西両京間(東京/京都間)を中山道で結ぶべきか、東海道で結ぶべきか、明治時代初めから種々調査、測量が行われた。当初は東海道で考えられていたようだが、これら調査・測量により、東海道は海運がすでに整備されており東海道経由では二重投資になる、東海道には峻険な箱根の山があり、富士川・安倍川・大井川・天竜川などの大河もあり工事が容易ではない、中山道にすればその沿線の産業開発が進み日本経済にも有益である、また戦時に攻撃を受けにくい(当時は飛行機はなく、艦砲射撃しか考えられなかった)などの理由から中山道経由が優位となっていった。さらに、日本最初の私鉄である日本鉄道が、明治16年7月、上野/熊谷間を開通させ、翌年には高崎まで延伸することになっていた。西側では、明治16年5月、長浜/関ヶ原間が開通し、翌年には大垣まで延伸されることになっていた。このような状況下、ついに政府は明治16年8月、高崎/大垣間の中山道経由の鉄道敷設を決定した。 そして、明治18年10月、高崎/横川間が開通したが、横川/軽井沢間の碓氷峠の工事が困難を極めた。一方京都側では、明治16年5月に長浜/関ケ原間、明治17年5月に関ケ原/大垣間、明治20年1月に大垣/加納(現岐阜)間など延伸が続き、同年4月、長浜/武豊(知多半島北部東岸)間が全通した。このうち加納/武豊間は中山道から外れている。物資を名古屋方面から運ぶための支線の位置づけであった。2)東海道線へのルート変更 この頃、東海道へのルート変更を主張したのが、二等技師であった原口要であった。原口は中山道ルートを調査・測量し、工事が極めて困難であることをつきとめた。また、箱根の難所も御殿場経由で迂回すれば、それほどの難工事でないことを発見した。この報告を聞き、井上勝鉄道局長官は中山道の再調査を命じ、その結果中山道経由では、完成までさらに7、8年の期間を要するという結論に達した。 井上は両京を結ぶルートを中山道から東海道に変更する「中山道鉄道ノ儀ニ付上申」を明治19年に提出し、7月13日の閣議で可決され、東京/名古屋間約400kmにも及ぶ幹線鉄道のルート変更(しかも着工後の)が行われることになった。日本の鉄道史上、空前絶後の出来事であった。その後、着々と工事が進み、明治22年7月には琵琶湖連絡船に頼っていた琵琶湖東岸部分も、関ケ原から馬場駅(現膳所駅)が開通し(同月に長浜/米原間が開通し、関ケ原/長浜間は、関ケ原/米原間にルート変更された)、ついに新橋/神戸間が陸路全通した。 東海道本線の西側部分が三重県経由の旧東海道ルートではなく、岐阜県経由の中山道ルートになったのは、敦賀と京阪神を結ぶことや、名古屋地域の港(武豊)とも結ぶことが優先されて路線が敷設されており、東海道経由と決まった際、既存の路線をできるだけ利用するという経緯があったからである。また、長浜は現在では北陸本線上の駅であり分岐は持たないが、最初は関ケ原と直接結ばれていたということである。下記地図で、明治22年7月に深谷/米原間が結ばれた後は、深谷/長浜間は貨物支線になった後、明治32年12月、廃線となった。←前回「京都市の鉄道史」 次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/04
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京都市の鉄道史~その1~1.はじめに 京都市には、JR在来線4線(東海道本線・山陰本線・奈良線・湖西線)・東海道新幹線、そして阪急・京阪・近鉄3社の大手私鉄が乗り入れている。嵐電、叡電といった京都市内だけを走る地元密着のローカル鉄道も走っている。また、昔は市電も走っていた。京都は日本最初の営業用電車が走った街でもある。愛宕山鉄道という第二次世界大戦中に廃線となった鉄道もある。そして、昭和末期には、ようやく地下鉄も営業を開始した。時代の流れのなかで、経営母体が変わったり、京都駅以南のように、目まぐるしく路線のやりくりが行われたところもある。それら京都市の各鉄道(関係する関西圏の鉄道も含む)の歴史を「えっ、そうだったの?」というトリビアなエピソードの数々を交えながら振り返る。2.プロローグ1) 『別段風説書』(べつだんふうせつがき)が伝えた欧米の鉄道事情 世界で初めて公共交通手段として営業的に成功を収めた鉄道は、イギリス産業革命の最終局面にあたる1830年に開業したリバプール/マンチェスター間、約70kmの鉄道であった。鉄道はその後急速に欧米諸国に伝搬し、ほぼ20年後の1849年には、世界の総営業距離は約3万kmに達した。 これら情報は、バタフィア(現在のインドネシアのジャカルタ)のオランダ領東インド政庁が毎年提出した『別段風説書』によって江戸幕府に伝えられた。また、ペリー提督の来航もこの書は予測していた。2) ペリーの献上品に蒸気機関車の模型があった 『別段風説書』の予測通り、嘉永6年(1853)6月にペリーが浦賀に来航し、日本に開国と通商を求めた。大統領の親書を渡していったん退去するが、翌年嘉永7年(1854)2月に回答を求めて再び来航した。このとき、ペリーは将軍への献上品の一つとして蒸気機関車の模型を持参し、幕府の応接掛(おうせつがかり)の前で運転をしてみせた。 また、ロシア使節プチャーチンもペリー初来航直後の嘉永6年(1853)7月に通商を求めて長崎に現れたが、やはり蒸気機関車の模型を携えていた。これを見学した一人が佐賀藩精錬方雇(せいれんかたやとい)の中村奇輔(きすけ)であった。中村は田中儀右衛門(「からくり儀右衛門」と呼ばれた)らと研究し、2年後の安政2年(1855)、蒸気機関車の模型を製作し、模型ではあるが、日本で初めて「鉄道」を走らせることに成功した。3) 日本人で初めて鉄道に乗ったのは・・・ 海外渡航が禁止されているなかで、アメリカにわたって実際に鉄道に乗った日本人がいた。ジョン万次郎こと中浜万次郎である。中浜万次郎は土佐の漁師で、天保12年(1841)に遭難しアメリカの捕鯨船に救助されアメリカに渡った。万次郎は、1850年、カリフォルニアの金山に入ることを目的に、サクラメントで鉄道に乗った。初めて鉄道に乗った日本人ということになる。プチャーチンが蒸気機関車の模型を日本に持ち込む3年前の出来事であった。中浜万次郎は、帰国後の取り調べで「1日に300里(1,178km、江戸・福岡間距離相当)走った」と語っている。4) 江戸幕府など使節の欧米派遣 その後、開国を経て条約の批准などで欧米に向けて幕府の使節が派遣されるようになる。 安政7年(1860)、日米修好通商条約批准書交換のため、70数人の使節団がアメリカに派遣され、パナマ/アスピンウォール間で鉄道に乗り、使節団の一人で仙台藩士であった玉虫誼茂(やすしげ)は『来航目録』に「其の奇巧の精密、只々驚き入るのみ」と書いている。 文久元年(1862)、幕府は修好通商条約批准のため、欧州にも使節団を派遣した。福沢諭吉はこの使節団に随行し、マルセイユ/パリ間などで鉄道に乗った。途中立ち寄ったリヨンの繫栄の要因が鉄道の要地であることを見出し、鉄道は政府ではなく、株式会社によって敷設されていることも知った。(福沢諭吉『西航記』) 渋沢栄一は慶応3年(1867)、パリ万国博覧会に出席するため、フランスに向かい、やはりマルセイユ/パリ間などで鉄道に乗り、『航西日記』に「その便利なのに感心し、国家はかかる交通機関を持たねば発展しない。・・・」と記している。 長州藩は西欧の科学技術を学ぶため、文久3年(1863)、伊藤博文、井上馨など5人の若者(後に「長州ファイブ」とよばれる)を英国ロンドンのユニバーシティー・カレッジ・ロンドン(UCL)に留学させた。その中に井上勝(まさる)がいた。井上は鉱山・鉄道の分野を学び、明治維新直後の明治元年1月に26歳で帰国した。この井上が明治4年(1871)に鉄道頭(てつどうのかみ)に就任し、以来、明治26年に鉄道庁長官を辞任するまで、ほぼ20年間にわたり、鉄道専門官僚として、日本の鉄道システム構築の陣頭指揮をとった。井上勝は「日本の鉄道の父」と呼ばれた。3. 日本の鉄道の夜明け1) 明治政府による廟議決定 幕末時期、薩摩藩や幕府が西欧列強国と手を組み鉄道敷設を計画する動きも見られたが、順調には進まず、やがて明治維新を迎え、鉄道敷設の決定権は明治新政府の手に委ねられることになった。海外からの働きかけもあったが、いずれも「外国管轄方式」に近い計画であったため、明治政府はすべて拒否し、「我内国人民合力を以って」敷設するという「自国管轄方針」を決定した。政府はまず国内の民間資本を調達し、外国人技術者を雇用して敷設するという試みをするも、うまくいかず、国内の民間資本導入による敷設はあきらめざるを得なかった。そして、明治2年11月、イギリス資本導入を前提とした鉄道敷設計画「幹線ハ東西両京を連絡シ枝線ハ東京ヨリ横浜ニ至リ、又琵琶湖辺ヨリ敦賀ニ達シ、別ニ一線ハ京都ヨリ神戸ニ至ルヘシ」が決定した。2) 広軌か狭軌か 海外資本による敷設に根強い反対論は残っていたが、伊藤博文、大隈重信ら、いわゆる開明派官僚が強力に鉄道敷設を推し進め、ついに明治3年3月に東京/横浜間、同年8月に神戸/大阪間の工事が開始された。この区間から工事が開始されたのは、大きな港があり、物資輸送上利点があることと、大都会に近いためである。イギリスから外国人技術者団が招聘され、エドモンド・モレルが建築技師長に就任した。まず、軌間(左右のレールの幅)を決める必要があった。イギリスなどの西欧諸国では、1,435mmの広軌が採用されていたが、植民地などの経済発展が遅れている地域では、敷設コストの安い1,067mmの狭軌の方が適しているとの論がイギリスで優勢であったため、モレルは狭軌を進言した。前出の井上勝も、同じコストでできるだけ距離を延ばせる狭軌を押し、狭軌が採用されることになった。しかし、狭軌採用は、後の工業化進展で輸送力不足を招くことになり、井上勝も後に「先見の明なきを愧ず(はず)」と『鉄道時報』で述懐している。3) 汽笛一声 新橋/横浜間開通 明治5年5月7日、品川/横浜間23.8kmが仮開業し、当初は一日2往復の列車が走ったが、徐々に増便された。そして同年9月12日(1872年10月14日)、明治天皇臨席のもと開業式が行われ、新橋/横浜間29kmが正式開業した。一日9往復で、導入された機関車10両すべてがイギリス製であった。この10月14日は、現在「鉄道の日」となっている。建築技師長のモレルは、建設工事のさなか肺結核の病に倒れ、開業を目にする前に30歳という若さで亡くなった。横浜の外人墓地に夫人とともに眠っている。次回「京都市の鉄道史」→
2026/06/03
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