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サッカーワールドカップ。日本代表はブラジルに負けてしまった。夜中の試合を見るほど熱心なファンではないが、やっぱり勝ってほしかった。なぜブラジルは強いのか、ネットを調べたら、ブラジル人は子どものときから裸足で木登りをしていて、手と同じように足が使えるからみたいな記述を見つけた。でも、今の子たちは靴をはいているんじゃないだろうか。それでも強いというのは、木登りというのは、あくまでもたとえであって、道端に落ちているものは何でも、蹴って遊ぶという文化があるのではないだろうか。テレビで、ブラジルの貧しい地区の子どもたちが、ペットボトルでサッカーをして遊んでいるのを見たことがあるが、蹴れるものと空き地があれば、彼らは一日中でも遊んでいられるのかもしれない。そんな文化によって、手と同じように足が使えるようになり、そこに道具や戦術、ルールが加わって、サッカーというスポーツになったわけだ。日本では、あくまでもサッカーをやるためにクラブチームに入ったりするわけだが、彼らは、まず蹴るという日常があって、そのあとにサッカーがあるのではないか。ニュージーランドはラグビーが強い。よく知らないけれども、ニュージーランド人は小さいころから、連係プレーのある鬼ごっこみたいな遊びをしていたのではないか。日本ではあくまでもスポーツとして始めるのだが、彼らは遊びとしてボール蹴りがあったり鬼ごっこがあって、その先にサッカーやラグビーというスポーツにつながるのかもしれない。中国やロシアだと、小さいころに才能があると思われると、オリンピックで金メダルを取るための英才教育が施されると聞くが、遊びの延長にスポーツがあるという方が健全な気もする。日本では、ぼくらのころは、遊びというと野球だったり相撲だったが、今は遊びというより、クラブや道場で鍛えられるわけで、遊びとスポーツの関係が変わってきた。世界中でそういう傾向があるのだと思う。勝ち負けにこだわれば、それも仕方がない。大きなお金も動くし。その分、やる側も主催する側も見る人も、余裕がなくなってきたような気もするけれども。ラグビーは、これからU20の試合、日本代表の試合が続くので楽しみだ。
2026年06月30日
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サッカーの盛り上がりの陰で、ラグビーもがんばっている。先日は、ジャパンフィフティーンという日本代表の予備軍が、マオリオールブラックスという、ニュージーランドのマオリ族の血を引く選手たちのチームと試合をした。ニュージーランドといえばオールブラックス。漆黒のジャージが世界のラグビーをリードしてきた。マオリオールブラックスのメンバーにはオールブラックスに選ばれたことのある選手もいれば、次の主力と期待される若手もいる。かなり強いよ。正直なところ、「勝てないだろう」と冷ややか気持ちはあった。いや、負けはいいけど、「完敗だったらどうしよう」と不安をもっていたという感じかな。これから毎週、日本代表はイタリア、アイルランド、フランス、オーストラリアと、世界のトップクラスとの連戦がある。その前哨戦と言ってもいい試合だった。この試合で目を覆うような光景が繰り広げられたら、次からの試合への興味がガタ落ちだ。昔の弱っちい日本代表に戻ってしまうのか。春の国際マッチではその兆しがあったようにぼくは感じたから余計に、見るのが怖くてたまらない。勝つために厳しい練習に耐えてきた選手には失礼な話だが、我が心を落ち着かせるには、80パーセントのあきらめと20パーセントの期待で見るのがちょうどいい。ラグビーの試合は60年以上も前から見ているけれども、強豪国とのテストマッチでは、試合途中から脱力感に襲われてばかりだった。完全にトラウマ。南アフリカに勝っても、ワールドカップでベスト8に入っても、いつまでも抜け出せないでいる。来週からの大一番。全部勝ってほしいというのは高望みすぎるが、リーグワンの準決勝、決勝のようないい試合を見せてくれたら、トラウマも解消されるかもしれない。リーグワンでは世界一流の選手と敵であり味方として戦ってきたのだから、力はついているはずだ。マオリとの試合を見たら、惜しくも負けたけれども、21歳の伊藤龍之介選手のような若手が堂々と試合をしているもの。これからが期待できそうな気がしてきた。来年はワールドカップ。サッカーの試合を見ていると、日本代表は、個人の技術だけでなく、コンビネーションにしても、相当なレベルに達しているのではないかと、素人ながら思えてくる。主力選手がけがで抜けても、きちんと控えの選手で補える選手層の厚さもすごいし。サッカーの方が先を行っているが、ラグビーもサッカーの勢いをもらって、大いに飛躍してもらいたいものだ。U20のジュニア・ワールドチャンピオンシップでも、日本代表はニュージーランド代表に前半は同点という健闘ぶり。後半に突き放されたが、若い選手ががんばっていて、頼もしい限りだ。
2026年06月29日
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青森に続き、山梨を中心に関東地方に大きな地震があった。山梨には4年ほど住んだ。ヤギを飼うきっかけとなった地だ。桃やすももの栽培にもチャレンジした。山梨県甲州市。今の生活の基礎を作ってくれた懐かしいところだ。震度5弱。被害がなければいいが。それにダブル台風も心配だ。昨日はたくさんの雨が降った。今日も降っている。台風は東海地方から関東地方に進んでいいく。こんなにも自然災害が次々と起こるのは、「地球の自然治癒力が低下しているからだ」という説がある。自然治癒力とは何か?たとえばすり傷をしたとき、消毒くらいはしてもたいていの場合、放っておく。出血もすぐに止まりかさぶたができて皮膚が再生し、またもとの状態に戻ってしまう。それをコントロールしている力のこと。地球にも自然治癒力はあるはず。地球も老化しているだろうし、環境も汚染されて、健康体ではなくなっている。一刻も早く自然治癒力を回復させないと、地球は死を迎えるかもしれない。たぶん、最悪の事態にならないため、地球は自然治癒力を存分に働かせていると思う。地震や台風、大雨というのは、自然治癒力が発露しているからこそ起こっているのではないか。ただ、このまま地球だけの力に任せておくと、いずれは健康体に戻れるとしても、その過程で厳しい現象が次々と起こってくる。そこで人間という存在の出番となる。人間がいなければ地球は元のきれいな惑星に戻ると言う人がいるが、それはそれで真実だろう。しかし、人間も意味があってこの地球に存在している。養ってもらっているばかりではなく、地球の役に立つこともできるはずだ。人間には場のエネルギーを高めたり調整する役割があるのではないか。たとえば、人が住まなくなった家は早く朽ちると言われている。実際にそうだと思う。家という場のエネルギーを、そこに住む人が高め、調整しているからこそ、家は長持ちするのだ。ただ、ゴミ屋敷にしてしまう人もいるわけで、正しく使えばという条件はつくわけだが。地球はわれわれが住む家でもある。ここをどう使うか。正しく使えば、地球のエネルギーは高まり調整され、大きな災害なしに自然治癒力が高まるのではないか。戦争で殺し合うのは正しい生き方か?森を壊して大地を掘り起こすのは?海を汚すのは?放射能を吐き出すのは?お金のためなら何でもするという行動パターンは?地球も人間を排除したいとは思っていない。ともに幸せに生きる道を模索している。ぼくたち人間が、地球のふところの深さや寛容さに甘えたり、利用するだけでなく、地球のやさしさに応えないといけない状況にある。そうしないと、自然治癒力はもっと激しい形で発動されることになる。ぼくたちには、地球のためにやれることがいっぱいある。それは、回り回って、ぼくたちのためにもなる。
2026年06月27日
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青森で震度6強という大きな地震があった。九州では大雨。東北地方や九州は自然災害が多いイメージがある。日本列島は、方角で言うと、東北から南西に伸びている。その真ん中あたりに東京という首都があるわけだ。東京から見て東北地方は丑寅の方角。鬼門と言われる。九州はな南西。こちらは裏鬼門。ぼくの勝手な解釈だが、鬼門も裏鬼門も、日本を守る役割があるのではないか。日本列島をひとつの城と考えれば、敵は鬼門、裏鬼門を攻めてくる。大変な攻防が、そこでは繰り広げられるわけだ。日本列島は、東北地方と九州で大きな自然災害を食い止めている。災害が多いというのは大変だけれども、日本を守るという意味では、東北地方や九州はとても重要な場所であり、そこに住む人たちは、大切な役割を担っているという考え方もできる。ぼくは三重県という比較的穏やかな地方に住んでいる。大した被害がなくて良かったと、それで終わらせてはいけない。守ってくれている地方を疲弊させてはいけないのだ。鬼門、裏鬼門が崩されると、日本はズタズタになってしまう。今回のようなダブル台風+梅雨前線が東京を襲うというのは、そんなになかったはずだ。鬼門、裏鬼門がかなりのダメージを受けていて、日本列島が危険水域に達しているかもしれない。日本列島を自分の体だと考えて、肝臓が大きなダメージを受けているときに、心臓は「自分でなくて良かった」と思うかどうかだ。ぼくが住む三重県北中部地方にも、さっきまで「竜巻注意報」が出ていた。全国的に大荒れの状況だが、ここはワールドカップではないが、総力戦で守り切るしかない。「がんばれ! ニッポン」「がんばれ! 地球」だな。
2026年06月26日
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我が村は限界集落だと思っていた。限界集落というのは65歳以上が50%以上が高齢者になった集落のことを言う。ざっと数えてみると、65歳以上は3割くらい。どうして限界集落と思ったかというと、村を歩いていて、若者の姿を見ないからだ。姿を見せるのは、若くても50代か。30代も20代も10代もいるのだが、朝早くから会社や学校に行き、帰ったら家に閉じこもって、ほとんど外に出ない。畑仕事をしているのも、村の集まりに出てくるのも年寄りばかり。3割くらいは40代以下なのだが、村では透明人間だ。村にお嫁さんがきたという話は聞かないし、赤ちゃんが生まれることもないだろう。あとは移住者。我が家も移住者のようなもので、あとは2~3軒、外から来た家族がある。これからのことを思うと、亡くなったり施設に入る高齢者は増えるだろう。人口は減っていく。若い人たちはどうするのだろうか?とりあえず村に住んで、会社に通うのか。畑をやる人も、草を刈る人もいなくなる。村が村として機能するぎりぎりのところだ。そういう意味では限界集落だ。高齢者の役割は、若い人たちが暮らしやすいベースを作っておくこと。我が家には3人の娘がいる。ぼくは、彼女たちがこの村を舞台に暮らしを成り立たせていけるための準備をしている。娘たちもそのつもりでいてくれる。先のことはわからないが、うまくいってもいかなくても、とにかくやってみることが大切だ。村の中でひとつのことが動き出せば、まわりに振動が伝わる。再来年から自治会長をすることにした。動いてみようと思う。26軒ほどの小さな村。再来年に向けて地ならしをしながら、もっと若者の姿が日常的に見られるようにして、元気な村としてよみがえらせたい。徐々に手札が集まってきた。ぼくの最後の大仕事だ。
2026年06月25日
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このごろよく本を読む。小説だったりノンフィクションだったり絵本だったり。『52ヘルツのクジラたち』『帰ってきたジロー』『イン・ザ・メガチャーチ』『きみ去りしのち』『答えは風のなか』『もやしもん1』などを最近読んだ。今は『炎と水』という中村哲さんを描いたノンフィクションを読んでいるところだ。以前は資料として本を読むことが多かった。今は、読みたいとぴぴっときたのを読むようにしている。ぼくが重宝しているのが、週に一度、非常勤講師として行っている高校の図書室。定時制だから、入るのは閉まる間際。賞をとった話題の本が入ってすぐ右の棚にずらっと並べてある。これがありがたい。30代くらいだろうか、明るくて感じのいい女性の司書が、少しでも生徒が図書室を利用してくれるようにと、あれこれ工夫をしている。ぼくは応援しているが、なかなか努力の成果は見られず、ぼくが行く金曜日の夕方は、ほぼ閑古鳥が鳴いている状態だ。本屋大賞の『イン・ザ・メガチャーチ』は、そこで目に止まって借りることにした。時間はかかるけれども、リクエストすると購入してくれるのも助かる。『炎と水』は2860円する。今、本も高くなってきているが、2000円を超えると手が出しづらくなる。図書室でリクエストしたら、「注文しておきます」とあっさりとOKしてくれた。おかげさまで、本当にいい本に出あうことができた。ワクワクどきどきしながら読んでいるところだ。もうひとつ図書室や図書館で借りる良さがある。2週間という期限があることだ。自分で買うと、暇なときに読もうと本棚にしまったままになることがよくある。2週間はちょうどいい長さかもしれない。時間を見つけて少しずつ読んでいく。『イン・ザ・メガチャーチ』は話題の作品だが、ぼくにはなじみのない題材で、一気に読み進めることはできなかった。本屋大賞をとるような作品は、あるところから物語に飲み込まれてしまって、やめられない止まらない状態になってしまうものだ。ところが、この本に関しては、わからない言葉も多いし、ところどころでピピッと心が反応するのだが、長続きしない。若い人たちには「そうそう」と共鳴できるものがあるのだろう。それでも、ちょうど2週間で読了した。そのあと借りたのが『炎と水』で、これは大当たりだったし、次は何を借りようかと、読み終えるのが楽しみで仕方ない。図書室さまさまの、読書への目覚めだ。
2026年06月23日
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稲も順調に育っているようで、村の北にある田園地帯は鮮やかな緑が広がっている。この時期、ぼくが子どものころはホタルが乱舞していた。それが当たり前の光景で。子どもたちはビンや袋に捕まえたホタルを入れて家に持ち帰る。そして、当時はどこも蚊帳を吊っていたので、その中へ入れて、ホタルが発する薄青い光に包まれて眠るのだ。翌朝はホタルの死骸がまわりに散らばっていて、子どもなりに命のはかなさを感じたりしていた。「坂の下で車を止めてハザードをたいていると、ヤブからホタルが飛んでくるんですよ」一昨年、50代の村人が教えてくれた。「ホタル? 本当に」田んぼに農薬をまくようになり、ホタルは激減した。確か黄色だったような記憶があるが、農薬の噴霧器に長くて太いホースがついていて、一人は噴霧器を担ぎ、もう一人は田んぼをまたぐように伸ばしたホースの端をもって、穴の開いたホースから農薬をまき散らしながら移動していく。そんな姿があちこちで見られた。ぼくたち子どもは、農薬を吸わないように息を止めて、白い煙の中を走り抜けた記憶がある。息は止めていても、農薬の刺激臭が鼻ばかりではなく、口の中、耳の奥にまで残るような不快感があったのを覚えている。そのせいばかりではないと思うが、ホタルは姿を消した。黄色いホースで消毒をするこの時期の風物詩も見なくなったところを見ると、虫という虫を一網打尽にしてしまおうというやり方はしなくなって、もっと環境に配慮した農薬の使い方が主流になっているのかもしれない。ホタルが復活しているというのはうれしい話ではないか。一昨年、田んぼの南にあるヤブ沿いに軽トラを止めてハザードをたいたら、いくつかの青白い光を見ることができた。去年はタイミングが合わずに、いつの間にかホタルの季節が終わってしまった。今年は、どうしても見ようと思って、雨の合間を見計らって、娘たち、近所のご夫婦と一緒に出掛けて行った。7時半ごろ、暗くなるのを見計らって坂を下り、軽トラのハザードをたいて、ホタルの光が灯るのを待った。ヤブの茂みの中に目を向ける。「いた。あそこあそこ」娘が指を指す。ハザードの光に反応したのだろうか、木の葉の陰に青白い光がついたり消えたりしている。うれしくなってくる。「こっちにもいるぞ」少しずつ光が増えてきた。「氣歩の腕に止まってる」びっくりだ。乱舞ではない。おずおずと姿を現す感じで、「こいつら悪いやつらではない」と信号が伝わったか、少しずつ増えてきた。草の茂みや道路で光っているやつもいる。田んぼの方を見ると、穂先で静かに光っている光がいくつかある。放置されたヤブの中で、彼らは静かに命をつないできた。あの無差別攻撃のような農薬散布にも耐えて生き抜いてきた。ひと晩で死んでいくようなはかない命。弱っちいホタルたちが、力強くこの地でがんばってくれている。乱舞するホタルは明るく前向きのエネルギーをくれるが、ぽつりぽつりと光を見せてくれるホタルたちは、ひとつの物語を紡いでいるように思えてきて、また違った意味で元気と勇気を与えてくれる。人が本来もっている「かなしみ」にアクセスしてくれているような気がする。来年は、このホタルを見ながら、気の合う仲間たちといろんなこと語り合ってみたい。田舎には田舎ならではの財産がある。この地域も団地が広がり、バイパスが走り、スーパーができ、狭い道を車が通り抜けていく環境になったけれども、田舎ならではの佇まいはまだまだ残っている。にぎやかになる部分と、昔ながらの落ち着きと、うまくミックスされた場所になればいいな。ぼくの、残された人生の使い道を教えてくれているような、ホタルの光だった。ありがとう!
2026年06月22日
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6月第三日曜日は父の日。ネットで調べると、1950年代には父の日はあったようだ。しかし、当時の父親と言うと、朝早くから夜遅くまで働いて、あまりしゃべらないし、笑わないし、威張っているし、怒ると怖いし、家族とは一線を引いて生きている存在だったのではないか。うちはそうだった。「お父さん、いつもありがとう」と気軽に言える存在ではなかったのだ。その分、子どもたちは父の言動に重みを感じていた。正しいことも間違ったこともあったと思うが、知らない間に影響を受けていた。その影響から距離を置きたいということで、子どもの自立が促された面もあるのだろう。今は父親の存在感は薄っぺらになっていると思うのはぼくだけだろうか。父としてのぼくが薄っぺらだからそう思うのかもしれない。うちの父親は、本当に器用な人で、家の不具合は自分で修理するし、ぼくの散髪も中学校を卒業するまでは父がやってくれた。手動のバリカンで髪の毛を切るだけでなく、かみそりでていねいに顔も首筋も剃ってくれた。今でも覚えているが、父に顔を剃ってもらいながら思ったことがある。「ぼくは大人になれるのだろうか」何もできないのに、このまま大きくなって大丈夫だろうかと不安になったのだ。父の器用さの一割でももらっていたら、ぼくの人生は違うものになったかもしれないと今でも思う。しかし、ぼくが幸せだったのは、父がぼくに器用さを求めなかったことだ。ぼくの特性を見抜いていた。自分は15歳から農業をして、器用さを生かして職人になり、いい仕事をするので、まわりから一目置かれていた。しかし、ぼくに同じことをやれとは一切言わなかった。「これからは勉強が大事や」ぼくがいい成績をとってくると喜んだ。たくさんの大豆を畳の上に置いて、そこから3粒だけ取り出し、「この3粒に入らんとあかん。あとのは烏合の衆と言うんや」ニコニコしながら持論を展開する。ぼくは、中学校のときも高校のときも、4番になったことはあったが、3粒には入れなかった。それでも、国立大学に入り、大手の企業に就職したので、ここまでは父も満足してくれただろう。ぼくが父の影響を受けたとしたら、サラリーマンという生き方ができなかったことだろう。最初の会社が2年、次の会社が3年。これがぼくのサラリーマン生活のすべてだった。父としては計算違いだったかもしれないが、ぼくは自分の腕を生かして家族を支えてきた父の背中を追った気がする。不器用なぼくだったが、ひょんな縁で文章を書く仕事に就くことができた。父にとってのブロック工事が、ぼくにとってはライターだったわけだ。できないことが多いと思っている人でも、一つや二つはどんぐりの背比べで少しだけ頭が出ているものがあるはず。自分では見つけられなくても、人が探り当ててくれることもある。そこに足を踏み入れれば、自分なりに満足のできる生き方になる。ぼくはそうだった。ぼくには3人の娘がいる。31歳、28歳、26歳だが、みんな独身で、勤めてもいない。かと言って、親に全面的に頼っているわけでもない。進むべき道を模索し、3人ともある程度の見通しが出てきた。うらやましいことに、得意なことが見つかり、着実にステップアップしている。自分のやりたいことを自分のペースでやりつつある。妙なことに、3人のやりたいことが、うまくリンクできそうな気配が出てきた。それも、3人ともぼくの父が大好きだった、小さな村に住み、そこを舞台に、彼女たちは人生を作り上げていこうとしているのだ。父のやってきたことがぼくにつながり、さらに娘たちに伝わる。やることはそれぞれ違うのだが、根底にある精神は引き継がれている。面白いなと思う。さぞかし父も喜んでいることだろう。今日の父の日。別に何かをやるわけではない。ぼくは軽い存在の父親だが、ぼくがやろうとしていることは、娘たちに確実に伝わっている。そのことを、こうやってブログに書いて確認できただけで、ぼくにとっては、うれしい父の日である。少なくとも、我が娘たちは、自分の得意を生かしてイキイキと日々を過ごせるようになった。これが父親として一番の幸せなのかもしれないな。
2026年06月21日
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死後の世界を信じている人はどれくらいの割合なのだろうか?AIに聞くと、2025年に35か国を対象に調査が行われたそうだ。それによると、ほとんどの国で「死後の世界はたぶんある、あるいは確実に存在する」と過半数の人が答えているとのことだ。しかし、日本では「死後の世界がある」と答えた人は3割前後だった。国別に見ると、インドネシアが約85パーセント、アメリカ合衆国が約70パーセント、フィリピンが約75パーセント、日本が約30パーセント、スウェーデンが約38パーセント。どんな質問だったのだろうか?AIに聞いてみた。質問 あなたは死後の世界があると思いますか?選択肢 絶対にある たぶんある たぶんない 絶対にない「死後の世界」は定義されておらず、回答者の解釈に任せられている。上のパーセンテージが4つの選択肢のうちのどれを選んだ人なのかはわからないが、キリスト教やイスラム教の人なら、「天国」「地獄」という考え方があって、死後の世界がイメージしやすいのではないか。日本人も、死んだら終わりだと言いながらも、きちんとお墓参りに行ったり、仏壇に手を合わせたり、困ったことがあるとご先祖様に助けを求めたり、行動を見れば、「信じているんじゃないの」と思うことはいっぱいある。この間の競馬で、レースの直前に突然の大雨が降って、ぬかるんだ馬場が得意な馬が勝つというドラマがあった。そのとき、勝利馬に乗った武豊騎手が、「天国のオーナーが雨を降らせてくれた」と本気で思ったとコメントした。武さんが日ごろから死後の世界を信じているかどうかは知らないが、信じてないと答える人であっても、亡くなった人が何らかの形で我々とつながりをもっている、助けてくれている、という感覚があるのではないだろうか。お正月にはあんなにもたくさんの人が初詣に行くわけだ。初日の出に手を合わせたり、困ったときの神頼みだったり、死後の世界ばかりではなく、ぼくたちが五感で感じ取れない高次元の世界があることを、深い部分で知っているのではないか。だから、違う形の質問をすれば、もっと高い数字になったのかもしれない。ぼくは死後の世界はあると信じている。たくさんのご先祖様の影響を受けて生きている自分を感じることも多くなってきた。いろいろな人との出会いの中には、ご先祖様が演出してくれているのではないかと思うことが少なくない。死後の世界、本当にあるかどうかは死なないとわからないが、わからないなりに、亡くなった人とのつながりを意識しながら生きていると、いいこと悪いこと、身のまわりで次々と起こる出来事を、上手に受け入れて、消化することができる。要は考え方で、ぼくはあると考えた方が、ワクワクする。生きている間だって、一瞬先のことはわからないわけで、それが生きる楽しみでもある。死んだらどうなるのか、知らない世界なので不安もあるが、もっとエキサイティングなドラマが待っている気がする。
2026年06月20日
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月に一度か二度、仕事で東京へ行く。だいたいいつも、5~6時間かけての小旅行だ。日帰りする場合もあるけれども、だいたい、夜、一杯飲んでからだから、そのまま帰るのはちょっときつい。しかし、一泊するとなると、今はホテルが高くて、安ホテルを探すのが大変。経済をとるか体調をとるか。どっちも大事だが、疲れはあとにも響く。結果的に、経済にもマイナスになる。ということで一泊を優先することが多い。ただホテルは安ければいいというものではない。ラブホテルを改装したところとか、カプセルホテルはくつろげなくて、できれば避けたい。ネットでいろいろ検索して、1万円以下で決めることにしている。できれば名前をよく聞くホテルがいいかなというところ。東横インとかアパホテルを探す。とにかく、安価でゆったりできるたびがしたい。その一番が、プラットこだま。グリーン車に乗る。のぞみの普通車の変わらない値段だから、時間はかかっても、急ぐ旅ではないので、これがいい。空いている。座席も広い。ビールがサービスでつく。ビールを飲んで寝る。起きてから本を読む。名古屋から東京で2時間半だから、ちょうどいい塩梅なのだ。これが今、東京へ行く一番の楽しみ。こだまの中で、ステキな小説を何冊も読んだ。備え付けのウェッジという雑誌も、なかなかレベルが高い。ご自由にお持ちくださいとのことだから、いつももらってくる。ということで、あんまり移動は好きではないけれども、しなければならない移動なら、快適に動きたい。あとはホテル。何かいい方法があるはずだ。そのうち、ぴっとひらめくさ。
2026年06月19日
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家族で食事に行くと、「この間いったお店の〇〇より、こっちの〇〇の方がおいしいね」妻や娘たちがうれしそうに語り合っている。同じメニューのものを食べて味を比較しているのだ。「お父さんはどう?」「いや、どっちもおいしいな」口をもぐもぐさせて味わっている様子を見せる。「たぶん、お父さんはわからないよ」妻がバカにするが、妻は正しい。わからないのだ。こういう会話がよくあって、ぼくは自分の味覚は音痴だと思い込んでいた。最近、どうも違うのではと思うようになった。ぼくの場合、食べた瞬間のおいしいまずいはわかる。しかし、それが記憶に残らない。この間食べた〇〇と言われても、すでに前に食べたものの味は、上書きされて消えてしまっているので、比較のしようがないのだ。妻に「あれをしてね」と頼まれたとする。車に乗ろうとすると、「忘れてた。これもお願い」と追加で頼まれる。その瞬間、上書きされてしまうことがある。最初の頼まれごとがどこかへ消えてしまうのだ。すべてが上書きされるわけではないが、あまり興味のないことは、どんどん消されていく構造になっているらしい。本を読んでも、ぼくはすぐに内容を忘れてしまう。最近では『52キロヘルツのクジラたち』。2年くらい前に読んで「いい小説だ」と思った。しかし、段ボールから出てきて久々に対面した青い表紙の本。読んだことは覚えているが、内容はスポーンと切り離されてしまっていた。だから、もう一度読んだ。読みながらもストーリーを思い出さないのだからすごい。だけど、二度感動できたわけだから、ありがたいと言えばありがたい。大事な話をしてくれた人がいて、「なるほどそうですか。すごいですね」と本気で感心していたのに、次に聞いたときに、まるで初めて聞いた話のように、「あらー。そうですか。知らなかった」と平気で言えてしまうこともある。相手が怪訝そうな顔をするので、「しまった」と焦るのだが後の祭りだ。たびたびそんなことがあるので、「前にも聞いた」ことが相手の反応からわかるようになってきた。でも、本当に覚えてないのだから仕方がない。興味のあることでも、ときどき上書きされることもあるのだろうな。さすが、小学3年生のときに、担任の先生から「忘れ物の天才やな」とあきれられただけのことはある。そんなことが日常の中でありふれているのだが、ぼくにとっては大事な性能なのかなと思ったりもする。たぶん、パソコンやスマホで言うストレージがぼくは少ないのかもしれない。だから、情報が過多になると、脳が不具合を起こしてしまう。情報が消えるというのが、ぼくがぼく自身を守るには必要不可欠な性能でもあるのだ。いわゆる「情報断捨離」を、脳が勝手にやってくれる。「忘れっくてダメですね」ではなくて、そういう仕組みなのだと知って動けばいい。スケジュールはメモ帳でカバーできる。過去の記録は簡単な日記をつけている。あとは、忘れても大したことはない。何十年もそうやって、特に支障なく生きてきたのだから。それが最近の発見。今日も、新幹線で東京から帰ってくるとき、涙をにじませながら読んだ本がある。とてもすてきな小説だった。さすがにどんな話だったかきちんと覚えている。しかし、数日すると忘れてしまうかも。重松清さんの著書だった。ぼくは彼のファンでこれまでも何冊も読んだ。いい内容だったということは覚えていても、ストーリーは忘れてしまっているのがほとんどだ。味と一緒で、そのときに「すてきだ」と思えれば十分だ。評論家になるつもりはないのだから。
2026年06月18日
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日曜日、宝塚記念という競馬のレースを見た。阪神競馬場の2200メートル。春のグランプリと呼ばれる。暮れの有馬記念が一年の総決算なら、宝塚記念は上半期の日本一決定戦とも言える大レースだ。一時期の競馬熱はすっかり冷めたが、それでも大きなレースがあるとテレビのチャンネルを合わせる。競馬には馬券が当たる当たらないという楽しみ方もあるが、それ以上に、数分のレース、あるいは競走馬としての数年の中に、いろいろなドラマが詰まっているのを見るのが、ぼくは面白かった。血統もはまる人ははまる。自分の人生と重ね合わせて、一頭の馬を応援し続ける人もいる。寺山修司の本の影響があると思うが、競馬場というのは、路地裏の古びた小さな居酒屋。そこには、かなしみを心の中にしまって、笑顔で相手をしてくれる女将さんがいて、ちょっと下心をもって、ぼくは通っている。そんなシチュエーションが浮かんでくる。酔った勢いで心に秘めた思いをほのめかすのだが、いつもはぐらかされてしまう。男でさんざん苦労してきた女将だから、男をあしらうのはお手のもの。と言っても、情は深くて、悩み事や愚痴は真剣に聞いてくれる。実は、このお店に通ってくるのは、色恋のあるなしはあっても、女将さんの大ファンばかり。毎日、まじめにつつましく暮らしていて、お金が入ると、このこの店で散財していくのだ。みんながライバルだが、ときには火花を散らしつつ、妙に仲がいい。気分よく酔っぱらうと、大声を出して、「おけら街道」を歩いていく。ところが、あるとき、路地裏のお店が閉まった。そして、繁華街で営業するようになった。新しいお店は大人気。たくさんのお客さんが入って、それも、若いカップルや、おしゃれな人たちもやってくる。メニューも今風のものが増えてきた。路地裏でぐだぐだ言いながら飲んでいた連中にとっては、とても敷居の高いお店になってしまったのだ。女将さんも忙しく立ち働いていて、従業員も増えて、なかなか昔みたいに、「実はさあ・・・」と相談を持ち掛けることもできない。そんな感じで、ぼくは競馬から離れていった。若いころから「アンダーグランド」が好きだった。華やかな場所だと、まぶしくて逃げ出したくなる。だけで、「女将さん、どうしているかな?」と気になって、ときどきのぞいてみるのだ。日曜日の宝塚記念での人生の比喩というべきドラマは、路地裏の居酒屋を思い出させてくれた。本馬場入場が始まったとたんの豪雨。テレビの画面からも、そのすごさは伝わってきた。本馬場入場からレースが終わるまで、馬たちが馬場にいる間だけ猛烈な雨が降ったのだ。良馬場があっという間に重馬場になるような激しさだった。そして、重馬場が得意なメイショウタバルという馬が勝利した。勝った馬は優勝候補の一角だったけれども、レース直前の豪雨は間違いなく大きな味方になった。雨が降らなければ、追い込んできた本命馬に交わされていたかもしれない。本命のクロワデュノールはぬかるんだ地面が得意ではない馬だ。10分ほどの雨が、馬にも、騎手にも、馬券を買った人にも、大きな影響を与えた。路地裏の居酒屋に集まった競馬好きは、このレースから「運命」を感じ取り、それぞれが勝手な解釈をして語り合う。女将さんは、競馬と雨について口角泡を飛ばしている客を見ながら、「私にとってあのときの突然の雨はどういう意味があったのだろう」「雨に泣いた馬の方が私は好きだな」かつて自分の身に降った豪雨を思い出したりする。びしょ濡れになってさまよっていたあのころの自分がよみがえってくる。口には出さないけれども。久々に思い出に残るレースだった。
2026年06月16日
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こういう流れ、どう思われるだろうか?知り合いの姪っ子は元ドッグトレーナーで、今は一杯飲み屋をやっている。面白いお店で2時ごろにオープンして、6時ごろには閉店となる。たまには昼間っからお酒でも飲むのもいいし、我が家のワンコたちの気になる行動を相談できるしと思って訪ねた。散歩中、気に入らないことがあると動かなくなる子。何かの拍子に大喧嘩をする姉妹。常に食べ物を要求する子。聞きたいことはいっぱいある。そろそろ帰ろうかと思っていたときに、一人の老人が入ってきた。「おい、これ食べるか?」釣りが大好きな人で、いいのが釣れるともってきてくれるらしい。今日の釣果は30センチほどのイサキ数匹。「こんなにもたくさん」恐縮するママさんに片手をあげてさっと帰っていく。なかなか粋なおじいちゃんだ。「こんなにも食べられないからもっていく?」「いいんですか? でも、うちだれもさばけないから」躊躇したが、ひょっとしたらあそこでやってくれるかもというお店はある。我が家の近くにある総菜屋だ。前に友だちがさばいてもらったと聞いたことがあった。惣菜のほか、お弁当、お菓子、野菜が並べられているお店だ。息子が調理を担当して、お母さんと嫁がお客さんの対応をしている。上手にさばいてくれた。2匹もらったので、1匹は生の刺身、もう1匹は少しあぶってあって、白子はてんぷらにしてくれた。本当においしくいただいた。翌日、安くおいしくさばいてもらったお礼に買い物に行った。そこで、ヤギのことをお話した。「ヤギですか? 見たいな。4歳くらいの子ども、喜ぶかしら」かわいらしいお嫁さんがとても興味をもってくれた。「無茶苦茶喜びますよ。ぜひ連れてきてください」そんなことを言いながらも住所を教えることもなく、レジをすませたのが昨日の話。さて、今日。なんと、お店を切り盛りする3人が、お子さん連れでヤギを見にきてくれたのだ。お店は休みなのだと言う。形が悪くて販売できないニンジンをたくさんもってきてくれた。3人の子どもたちはしゃぎぶりはそばにいるだけでうれしくなる。ヤギたちもニンジンは珍しく、次々とねだる。「そうだ」ぼくは7月1日の「西本真司先生のお話会」のチラシを渡すことにした。健康の話だからおばあちゃんがいいだろうと、一枚だけ見せた。しばらくチラシをじっと見ていたおばあちゃんの言葉にぼくは仰天した。「この人、潰瘍性大腸炎なんです」隣でお嫁さんがうなづいている。「えっ、あなたが・・・」今は調子いいのだが、つらい思いもしましたとお嫁さんが言う。これってどういうこと?西本先生は、若いときに潰瘍性大腸炎で苦しみ、さまざまな方法で完全に治癒させた経験をもっている。そして、今はたくさんの潰瘍性大腸炎やクローン病で苦しみ人たちを診療し、200人を超える患者さんを薬を飲まなくても生活できるところまで回復させているのだ。もちろん、先生と同じように治癒した方もいる。潰瘍性大腸炎の治癒成績は日本一の名医だ。「ぜったい話を聞いた方がいいよ」ぼくはすすめた。彼女にとって大きなプラスになる話が聞けるはずだ。「行きます」と彼女は明言しなかった。ぼくはこれまでたくさんのイベントを開催してきたが、ときどき、「この人のために企画したんだ」と思うことがある。今回もそれだ!7月1日、彼女はきてくれるだろうか。
2026年06月14日
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努力なしで成果を出しても、なかなか自信につながらない。ぼくは高校生のときに思い知らされた。高校一年生の2月だったと記憶している。ラグビー部に入部させられた。「させられた」というのは、やりたくてやったことではないという意味だ。だいたい、生まれつき運動神経がなくて、小中学校の体育の成績は2とか3だった。中3のとき、牧野先生という変わり者の理科の先生が転任してきた。ずんぐりむっくり。やさしいんだか怖いんだかわからない四角い顔をしていた。彼は、ラグビーが大好きだったのだと思う。行く先々の中学校でラグビー部を作って、生徒たちを指導していた。だけどその当時、ラグビーを指導する先生がいなかったので、牧野先生が移動すると、ラグビー部も解散するという繰り返しだった。常に、三重県には一校だけラグビー部があったのだ。ぼくはラグビーというスポーツのことはまるで知らなかったが、三重県に一校だけというのにひかれて、4月から3年生が部活を引退する8月ごろまで入部した。ただボールをもって走るだけ。試合相手もいないし、面白かったのかどうかも覚えていない。それが運の尽きというか、高校に入ると、しつこくラグビー部に勧誘された。断り続けていた。だけど、生来の人の好さが出てしまう。毎日毎日、ぼくのところへ顔を出す先輩。最初はうっとおしくて逃げていたが、だんだん気の毒になってくる。仕方なく入部することになってしまった。少ない部員。何もわからないのに試合に出される。タックルするのは怖いし、タックルされれば痛いし。グランドを走り回るだけでも疲れる。もちろん、試合はぼろ負け。ラグビーをするモチベーションなどゼロなのに、また次の週に試合があったりする。ずるずると楕円のボールに振り回されながら2月になった。タックルの練習。2人一組になって、1人がボールをもって走り、もう1人がタックルをする。嫌な練習だ。タックルはしてもされてもヒザをすりむく。帰宅してから風呂へ右足を突っ込むや傷がしみ。左を入れるとこっちも痛い。「もうやめたい」とため息をつく。ぼくがボールをもって走った。「これで練習も終わりだ」とりあえずけがをしないようにしよう。ぼくの相手は、体もでかくてタックルもうまい上級生。嫌だ、嫌だと思ながらボールを抱えて走り始めた。そしたら、先輩は「親の仇」とばかりに、ぼくの足を目掛けて飛び込んできた。先輩の方がぼくの太ももに突き刺さる。長い両手が両足を締め付ける。ぼくは紙切れのように後方にぶっ倒れた。その拍子に、後頭部を強打したようで、ぼくは意識を失った。あとから話を聞くと、口から泡をふいていたらしい。脳震盪だった。ぼくが気づいたのは、担架に乗せられ救急車に運ばれる途中だった。事情を聞こうとしたが、言葉が出ない。そのまま病院へ行き、3日ほど入院した。実は、このあとが面白い。成績が急上昇したのだ。2年生になって実力試験というのがあった。それまでのぼくの成績は、学年で50番とか60番。特にがんばって勉強をしたわけでもないのに、実力試験の結果はびっくり。なんと4番だったのだ。なぜ急上昇したのか。頭を打ったからとしか考えられない。2年生のときの成績は常に一桁台だった。だけど、努力した結果ではないので、自信にならない。「そのうち化けの皮がはげるさ」白けている自分がいた。3年生になって、魔法の威力は薄まって、30番前後に落ち着いたが、自分としては居心地のいいポジションだった。そんなわけで、今でもぼくは自信はない。ただ、運はいい。思わぬ出会いによって、道が拓けていくという人生が続いている。ラグビーは、大学でも社会人でもやるはめになり(これも高校のときと同じ経緯だった)、30代になってからは草ラグビーチームを作り、骨折を機にプレーからは離れたけれども、末の娘がラグビー部のマネージャーになったことから、60歳で娘の学校のお父さんラグビーのチームに入って、2~3試合に出て、ラグビープレーヤーを卒業した。運動音痴のぼくが、よくやったと思う。ラグビーをやったことは、ずっとへたくそだったけれども自信につながった。へたくそだったからこそ、まわりについていくため努力したのかも。
2026年06月13日
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ぼくの20歳くらいの人生設計。大学は国立大学に入ったわけだから上出来。劣等生でいじけた日々を送っていたが、大学を出たら、名の通った大企業に入ろうと目標を立てた。どんな仕事がしたいかなんて考えてもいない。強いて言えば、世界中を股にかけた仕事をしたかった。なぜなら、かっこいいから。英会話の学校へも通ったことがある。だけど、続かなかった。就活は必死にしたわけではなかったが、クラスで一番に決まったんじゃなかったかな。教授とは距離を置いていたので、自分で動いて就職を決めた。名前を言えばだれでも知っているような大企業だった。そこで世界を回って、出世して、給料をたくさんもらって、いい生活をしよう。そのつもりだった。しかし、そうは問屋が卸さない。海外勤務の可能性はほぼない部署に配属された。1年もすると、自分はサラリーマンに合ってないのではと思うようになった。「もう辞めたい」と両親にこぼすと、「石の上にも三年やぞ」と諭された。ぼくは反論した。「固い石の上に座って足が痛くて逃げ出したくても、三年もいればあきらめるんや。おれはあきらめたくない」何をあきらめたくないのかわからなかったが、とにかく、このまま30歳になり40歳になっていくというシナリオは、本能が拒否した。今振り返ると、サラリーマンが嫌というのはきれいごとで、結局、仕事ができなかった。ミスというか、やることがいい加減なのだ。きちんと答えを出さずに、「これでいいや」とごまかしてしまう。手抜き仕事。結局、上司や先輩に迷惑をかけることになる。自己嫌悪にもなる。「もいういいや」と投げやりになる。大企業は2年で辞めて、アルバイト生活を1年やって、次に小さな会社に3年いた。小さな会社でも、やっぱりやることがいい加減で、「もう辞めだ」と飛び出してしまった。もし再々就職をしても、同じことだったと思う。ぼくがラッキーだったのは、そのあと、フリーランスになれたことだった。自由業。組織に属さない。個人事業主。それも文章を書くというあこがれの仕事につけたのだ。ぼくががんばったわけではない。ある人との出会いから、東京へ出ることになった。東京の生活も、ぼくにとってはあこがれだった。ぼくを東京へ導いてくれた人は、文章など書いたことのないぼくに、定期的に仕事をくれた。それでぎりぎり安定した生活ができた。最初のころに書いた文章など支離滅裂で、何度も何度も書き直した。すぐにクビになっても仕方ないレベルだったのに、編集担当の先輩は根気よく、ぼくにアドバイスしてくれた。フリーの良さは、頼まれた仕事をそれなりにこなすことで、仕事量に合ったギャランティがもらえること。人と深くかかわるのが好きではない性格なので、よほど気の合う人ならいいが、夜遅くまでお酒を飲むとか、麻雀をするとか(ぼくはできない)、会議で長時間意見を交わすとか、そんな場からすぐに逃げ出したくなる。「これ、いついつまでにやってくれる」「はいわかりました」それくらいの会話で仕事をもらって、及第点の原稿を書いて渡す。「ちょっとこの部分直してよ」「はいわかりました」手直しして「はい、オッケー」となる。翌々月くらいに原稿料が振り込まれる。そんな仕事のやり方が、ぼくには快適だった。「いつか、自分の名前で本が出したい」そんなことも思ったこともある。しかし、実現するなんて考えるのもおこがましい。漠然としたあこがれであって、夢のひとかけらにもなっていない。「そんな生き方で人生うまくいくはずがないよ」だれもがそう言うと思う。うまくいった人生かどうかは答えを出せないが、ぼく自身は、これまでの70年、けっこう面白かったと満足している。でも、大した努力もせずに、ジグソーパズルのピースが、パチパチとはまっていくのは、なかなか自信につながらない。自信がなくて、いつもびくびくおどおどしているのに、いつも結果オーライになるという、おめでたい運をもっている。ありがたい話だ。自信はもてなくていいから、感謝は忘れないようにしないと。
2026年06月12日
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振り返ってみて、ドカーンと人生観が変わるほど感動したことはあっただろうか?あまり思い浮かばないけれども、大学に合格したとき、これはうれしかったな。うれしいと感動は違うのだろうか。よくわからないが、あのときのことはよく覚えている。4校を受験して、1校目は不合格、2校目もダメ、3校目も番号がなかった。最後のひとつは第一志望の大学だったが、ぼくの成績からすると「無理だろう」と思われていたし、自分でも思っていた。ところが、意外にも試験がすらすらとできて、内心では「いけるかも」と期待できる出来だった。ただ、滑り止めのつもりで受けた大学も落ちていたわけで、「今度は大丈夫」とはなかなか口にできない。まわりには「ああ、浪人だ」と自信のないことを言っていた。発表の日、母親と大学まで行った。母はバッグに入学金を用意していた。入学金と言っても大学のではない。結果発表が終わったら予備校の手続きに行こうという算段だったのだ。正門に合格者の番号が張り出されていた。あるか、ないか。ドキドキしながら探したら、なんとぼくの番号があるではないか。うれしかったな。当時、その大学は、第二志望で受ける人が多かった。だから、ぼくみたいに大はしゃぎする受験生はいなかったようで、掲示板の前にいた係の人も「良かったですね」と一緒に笑顔で喜んでくれた。ところが合格すれば幸せかというとそんなことはない。受験生にとっては合格がゴールだから、受かれば天国、落ちれば地獄だけど、天国気分も長くは続かない。ワクワクして入った大学、夢にまで見たキャンパスライフだったが、ぼくには不向きだったことに、それほど時間はかからなかった。教養科目はそこそこだったけれども、専門科目の授業となると、さっぱりわからない。統計学やらコンピュータ、ぼくには何をやっているのか皆目理解ができないのだ。工業大学なんてぼくの入るところではなかった。理系人間ではなかったことが判明したのだ。後悔しても後の祭り。そのころは、学校の成績でしか自分の価値が測れないような狭い視野しかもっていなかった。高校まで成績は上位だった自分が劣等生でいることはつらいものだ。どんな気持ちで通っていたのか覚えていない。よく不登校にならなかったものだと思う。合格したときのうれしさが貯金になっていたのだろうか。喜びのエネルギーがどんどん減っていった。だけど、どんなことでもそうだけれども、あとになって考えれば、無駄なことは何もない。実際、劣等生体験はぼくの今の生き方、考え方に大きな影響を与えているわけで、人を多面的に見られるようになったのも、ダメな自分を支えるためには、小さな長所を見つけて、自分を慰めるしかなかったことが原点にある。学力一番と考えていた薄っぺらな人間が、少しは物事を幅広く見ることができるようになった。高校生の自分を振り返ると、いい大学を出て大きな会社に就職して、出世してたくさんの給料をもらうことが成功であり幸せだと、本気で思っていたもの。大学でさっそくのドロップアウト。会社へ入っても長続きしない。迷路をさんざん歩き回った。だからこそ、迷路から抜けたとき、視界がぱーっと広がった。それが28歳のときに東京へ出たときかな。30代以降、平坦な道ではなかったけれども、山あり谷ありのエキサイティングに生きる環境が押し寄せてきたのだ。ぼくの好みの生き方だった。すてきな人ともたくさん会うことができた。自分の適性を見て道を決めるとか、自分らしく生きるというけれども、不適な道で転んだり、自分らしさなんてまるでわからない暗闇で右往左往するのも、ひょっとしたら必要なことかもしれない。そういう意味では、いい大学に入ったと言えるのかな。
2026年06月11日
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バイオリズムというのかどうかはわからないが、人によって、人生の流れというのがあるのだろう。20代がピークという人もいれば、70歳を過ぎて花が咲く人生もある。いい悪いはないと思うが、たまには振り返ってみるのも面白い。ぼくの場合、28歳から面白くなった。東京へ出てからだ。それまでは、土の中に眠る幼虫のようなもので、自分の進むべき道を少しずつ定めていたのかなと思う。まともに文章を書いた経験もないのにフリーライターになった。サラリーマンはぼくには向いてなかった。フリーになって、すーっと肩の荷が下りた。土の中から外へ出ることができた開放感があった。30歳のとき1ヶ月ほどヨーロッパをぶらぶらし、海外へ行ったからといって生き方、考え方が変わるわけではないと、白けた気持ちで帰ってきた。しかし、32歳のときに行った中国で人生が大きく変わった。師と呼べる2人の先生に上海で出会った。そこから、この世の中は、目に見えたり機械で測定できたり科学で説明がつくものだけではないことを知るようになる。30代は、中川雅仁先生という師と世界を回り、帯津良一先生という師の指導を受けながら、代替療法(西洋医学以外の治療法)によるがん治療を取材した。イルカとも出会った。イルカの縁で30代半ばで結婚。40代で3人の娘を授かり、収入もたくさんあって、この世を春を謳歌していた。ところが、好事魔多しというやつ。中川先生の急死で、収入が激減、目先のことばかり考えるという時期がしばらく続いた。しかし、中川先生、帯津先生に教えられたことは大きな財産で、彼らの斬新な考え方をベースにした文章が評価されるようになり、仕事の幅も広がって、徐々に生活も上向きになった。50代にはイルカと泳ぐツアーを組んだりして、家族で動くという流れが出てきた。それが今につながっている。60代は激動だった。父が亡くなり、妹、弟までぼくより先に逝ってしまい、母も旅立った。これまでの中で最大の試練だった。コロナ騒ぎがあって山梨へ引っ越し、ヤギを飼い、4年後には鈴鹿に帰った。妹や弟が元気だったら故郷に帰ることもなかっただろうと思うと、あのつらさや悲しみにも意味があったと、今だからこそ思えてくる。いろいろあったが、無事に70歳を迎えることができた。今は5人の家族とヤギ6頭、犬7頭、ネコ3匹、ニワトリ3羽がいて、にぎやかに暮らしている。さてこれから何年生きるのかはわからないが、身の丈にあったチャレンジをしていきたい。自分が本来もっている力の60~70パーセントは使うこと。それだけのことを80歳までやれば、もともと自己評価が低い方だから、面白いことができるはずだ。このブログのタイトルを「人生の楽しみは後半にあり」としたけれども、振り返ってみると、楽しいことはいっぱいあったが、今が一番楽しいし、これからもっと楽しくなるかもしれないと、ワクワクしている。貝原益軒先生が言われたように、人生は後半にこそ幸せが詰まっていると思って、60代70代80代を生きた方がいいな。人生の後半、晩年は楽しかったなと思えたら、自分の一生を肯定できるもの。
2026年06月09日
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昨日は朝から曇り空。9時ごろから雨になるとの天気予報。自治会の草刈り中に振り出しそうな気配だ。 10時ごろには本降り。予定を切り上げて終了となった。ゴミ集め隊の女性陣も含めて20人ほど。何軒か来ないところもあったけれども、たかだか26軒の自治会。それぞれ事情もある中で、天気も悪い中、これだけ集まったこと、だいたい予定通りに草が刈れたこと、上出来だと思う。 帰宅したあとは雨の日曜日をゆっくり過ごすことに決めた。 動いてないと悪いことをしているような貧乏性。休むときには休むというメリハリをもたないと、確実に衰えている肉体が悲鳴を上げる。 ちょうど、午後からはラグビーのリーグワンの決勝戦があった。ビールでも飲みながら楽しむことにした。 東京も雨模様らしく、濡れたボールのせいか、ハンドリングエラーは目立ったけれども、目を離せないいい試合だった。 特に目立ったのが、オールブラックス勢だ。 スティーラーズのレタリック、サヴェア、レイナートブラウンのキャリーはすごい。タックルされてからも数メートルは前へ進む。あとオフロードパスの技術。 スピアーズでは、スティーブンソンというフルバック。突破力は脅威だった。彼でもオールブラックスのレギュラーではないわけで、ニュージーランドラグビーの底知れぬ強さを見せつけられる彼のプレーだった。 両チームともディフェンスが良かった。スティール(ジャッカル)でピンチを防ぐシーンが何度もあった。ゴール前の白熱した攻防。守る側の集中力の方が勝っていたように見えた。 日本のラグビー界は、ニュージーランドばかりではなく、南アフリカからもオーストラリアからも、世界トップレベルの選手がたくさん来ていて、見ごたえがある試合が繰り広げられている。 敵であれ味方であれ、超一流の選手と試合をするといいうのは、日本人選手も気持ちは昂るだろうし、強烈な刺激になっているはず。 アタックにしろディフェンスにしろ、日本人同士では体験できない強度、激しさを跳ね返せる力がついてきたのではないか。 この高いレベルの中でレギュラーポジションをとるという環境こそ、世界レベルの選手を育てる根っ子になると思う。 上ノ坊や植田、木田、根塚など、将来有望な選手が両チームにはいる。 昨日のようなエキサイティングな試合を体験すれば、どんどん成長だろうし、レベルの高い試合が増えれば増えるほど、ラグビーファンも増えるはずだ。 カタカナの名前が多いのもいいではないか。オールブラックスやスプリングボクスの選手がそろう中でレギュラーをとれる日本人選手がいれば、応援する側も大いに盛り上がるはずだ。 あるいは、日本人が中心のチームもあって、世界的なスター軍団に奮闘すれば、それも物語になるではないか。スーパーラグビーでサンウルブズが勝ったときを思い出す。 かつては、カタカナ名前が増える日本代表には違和感があった。だけど、それがラグビーというスポーツの特長であり、ナショナリズムが世界の潮流になっている今だからこそ、あらゆる国の人たちに門戸を開くシステムは大事なのではと思えるようになってきた。 ラグビーが大好きなぼくとしては、お花畑と言われるかもしれないが、世界中の人たちが仲良くなれる手段のひとつとしてラグビーが役に立てば、こんなうれしいことはない。 スポーツが権力者にいいように利用されてきた歴史もある。大衆をコントロールする上で、大きな影響力もつのがスポーツだ。それなら、より良い社会を作るために使うという手もあるはずだ。 オリンピックだって、「平和の祭典」と言われてきたのだから。 建前だけでない祭典を、ラグビーが主導権をとって進めていく。 そんなことも少しだけ頭の隅で考えながら、リーグワンの決勝戦を楽しませてもらった。
2026年06月08日
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今日6月7日は自治会の草刈り。年に2回あるが、雑草は容赦なく伸びるているし、やる側はどんどん高齢化していて、作業の効率も年々低下している。参加するのは15人程度(男性)。若くて40代。1人か2人いるかな。50代が7人。60代は3人。70代4人。村のはずれにある駐車場に集まり、春に花見をした広場から始める。そこが終われば、西に向かって坂の両脇の草、坂を下りると田んぼが広がる。上をバイパスが通り、下はバイパスに沿ってまっすぐ北に向かって伸びる道路。この道路の田んぼ側は草が繁っている。さらに、左右にくねった昔からの道の両側も草が迫っている。15人で作業をして、半日で終わるかどうか。60代、70代でも日ごろから農作業をしている人たちだから、テキパキと作業を進めていく。軟弱なぼくにはかなりきつい午前中となる。正直、前の日から気が重い。昼に戻ったら、ビールを飲んで昼寝するのを楽しみにがんばるしかない。草刈りに参加する次の世代は、ほとんどが村外へ出てしまっている。ぼくも50年間そうだったが、村の草がどうなっているか、頭の片隅にもないと思う。田舎はどこも同じだ。ほかの自治会はどう対処しているのだろうか。行政に知恵はあるのだろうか。今は元気な60代、70代も、数年後には体力が落ちて、「そろそろ草刈りも引退か」かとなってくるはず。ぼんやりと年を取っていくのではなく、ぶつぶつと嘆いているばかりではなく、現実をしっかりと見つめて、これからのこと、どうすればいいのか、考えないといけない。ぼくは、再来年から自治会長をやることになっている。長く村を離れていたので、それくらいのことはやらないといけないだろうと、去年の総会で手を挙げた。高齢化の問題は、大事なテーマとして背負うことになりそうだ。あそこはちょっと違うぞ、手助けしてあげようと、まわりの人たちが魅力を感じてくれる村にしないといけない。今のうちから、少しずつ準備をしていかないと。
2026年06月07日
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週刊文春の高市首相についての記事が波紋を呼んでいる。秘書が総裁選挙で対立候補を中傷する動画を流したかどうかでもめているのだ。Zoomの会議の音声を手に入れて公開した文春。首相の答弁は、のらりくらりと交わして、あいまいなグレー色合いで絵を仕上げようとしている。やったかどうか、音声が自分のものかどうか、本人は知っているわけで、正直に話せば終わることで、白か黒かすぐにはっきりさせることができるはず。本当は難しい話ではないのだが。大人の事情なんだろうな。子どものころは、「うそをついてはいけない」「間違ったらきちんと謝る」と教えれていたのに、大人になると、平気でうそをつく。つきとおそうとする。日本のトップに君臨する人なら、潔く白か黒かはっきりさせてほしいものだ。「大人の階段のぼる」という歌があるが、大人になることは成長することだという大きな勘違いがある。大人になると、本当に大切なものが見えなくなって、どんどん浅知恵、ずる賢さが身について、堕落していくのが人間の進化の仕組みなのか。そうやって年を取ってきた自分が嫌になったとき、人は、ひとつの方法として認知症になるという道を選んだりするのではないか。過去を忘れるための逃げ場所として。大人が子どもを見習う。子どもから学ぶ。そうならないと、世の中は劣化するばかりではないか。この間、うちの村で、道路に古釘をまき散らした人は、どんな気持ちでやったのだろうか?これから世の中はどうなっていくのか。
2026年06月06日
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ぼくはおかげさまで健康に過ごしている。数年前、母親を病院に連れて行ったときに、暇つぶしに待合室にあった血圧計に腕を突っ込んでみた。そしたら、180/100くらいの数字が出た。「そんなバカな」東京の東久留米市に引っ越したときだから、その10年ほど前に、市の検診を受けたことがある。何の問題もなかった。血圧も正常だった。もう一度測定した。同じような数字だった。ずっと健康でいた人は、問題が見つかるとびびってしまうもの。ぼくはそうだった。今にも血管が破裂するのではないかと恐怖と不安が膨らんだ。あれから5~6年たつ。今はやや高めというところで落ち着いている。血圧が高いとすぐに降圧剤ということになる。しかし、血圧が高くなるというのは、体の機能に問題がある場合もあるのだろうが、たいていの場合、必要があって高くなっているのだと、ぼくは思っている。ぼくの場合、血圧が高くなるころ、父が亡くなり、その翌年には妹、弟が相次いで旅立った。父は高齢だったから覚悟していたが、妹、弟の死はショックだった。腰が抜けるというのを初めて体験した。500円玉大のハゲができた。ぼくにとっては体験したことのないストレス。たぶん、心身の危機的状態にあったはずだ。それに耐えるには、全身にこれまで以上の血液を流す必要があった。だから、血圧が高くなった。もしあのとき、高い血圧にびびってしまって降圧剤で血圧を下げていたら。ぼくは、あのストレスに耐えられず、体調を崩していたのではないか。ぼくの勝手な解釈だが、あまり安易に薬に頼るのは良くないと、若いころから思っていた。人間にはもっとも適切な状態に体や心を保とうとする力が備わっている。近年は自然治癒力と呼ばれている。自然治癒力を十分に発揮させるにはどうしたらいいのか。7月1日、小さな村の小さなお寺でのお話会。詳細はこちら。統合医療、ホリスティック医学を実践する医師・西本真司先生には、薬ばかりに頼らず健康に生きる方法など話していただこうと思う。
2026年06月05日
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今日も、気だるい体を引きずっての終盤戦だ。昨夜はよく寝たのに、寝たりない感じがする。朝から頭がぼんやりしていた。ここしばらく、そんな朝から始まり、昼、夜と一日中シャキッとしない日が続いている。事業計画書を作らないといけない。行政書士に頼んであるのだが、「わからないところがあるので」とメールがくる。基本次女がやってくれているのだが、ぼくにしかわからないこともある。テキパキと仕事を進めないと気がすまない次女なので、こっちがぼーっとしているのにかまわず、これはどう? あれは? と矢継ぎ早に質問してくる。言葉が耳の入り口で躊躇していて脳に届かない。気のない返事をして叱られる。「適当にやっておいて」本当はそう言いたいが、立場上、一所懸命な振りはしないといけない。次女のやる気をそいでしまっては大変だ。老いぼれたかな。そう思うこともあるが、ちょっと待てよ。若いころからそうだったじゃないかと思い直す。子どものころからそう。面倒なことはやらない。「忘れました」ですまそうとする癖。小学校3年生のとき、山口先生という丸顔の女の教師から、「あなたは忘れ物の天才だね」とありがたくない称号をいただいた。ぼくは、ずっと山口先生の言葉が頭に残っている。「ぼくは忘れ物の天才なんや」その気になってしまって今に至っているような気がする。家族にはあきれられているが、忘れっぽいというのは、こだわりのなさにもつながるから、「大らかな人だ」といい評価になったりする。今のぼーっとした状態。これも、子どものときから。何を考えているかわからない、ぼーっとした子だった。勉強も集中できない。ちょっとやってはよそ事に目が向く。机に向かっているから、親は勉強していると思っていたが、ぼくが好きだったのは、自分で架空の野球チームを作って、手帳にメンバー表を書いたり、ドラフト会議をやってみたりしていた。相撲の番付(架空)も作った。しこ名を考えるのが好きだった。だけど、けっこう予言的なものもあって、プロ野球と社会人野球の間に、鈴鹿〇〇とか名古屋××というセミプロチームを作って、地域ごとにリーグ戦をやるという仕組みを考えたりしていた。今でいう独立リーグだ。プロに入るにはもうひと息という選手が活躍する場を作ってあげたいという思いだった。よく言われた。忘れ物が多かったり、ぼーっとしているのは、異次元とつながっているからだと言われたこともある。そんなたいそうなものではないけれども、現実から離れた何かを考えたいたような気もする。なかなか愛すべき性質ではないか。ぼーっとしつつ、何かをキャッチしている。そう思うことにしよう。
2026年06月04日
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ぼくは26軒しかない小さな集落に住んでいる。生まれ育った故郷だ。そこに小さなお寺がある。大音寺という。400年くらいの歴史があるはず。だけど住職さんもいなくなり、檀家もたったの11軒。高齢者が交代で掃除をしたりして、何とかきれいなお寺を維持している。若い人たちは村から出てしまっていて、70代80代が動けなくなったらもうどうしようもない。廃寺にした方がいいという意見もあるが、放置しておくわけにもいかないし、壊すとなれば資金が足りるはずもない。完全に手詰まり状態だ。ぼくは考えた。このお寺にほかの地域から人が集まるようにすればいい。「この村いいね」「楽しいことをやっているな」そう思える人を作っていくのだ。そして、窮状を知ってもらう。人が集まれば知恵も出る。そこでまずは「お話会」「音楽会」「勉強会」を始めた。去年は4回やった。今年はすでに3回やっている。村の人たちも、「何かやっているぞ」くらいは気にしてくれているように思う。7月1日には、和歌山県でクリニックを開業している西本真司先生が来てくださる。詳細はこちら。「伊勢神宮にお参りに行くので、ついでの寄りますよ」と言ってくれた。伊勢から和歌山に帰るのに、ついでということはないと思う。少しでも力になろうと、ありがたい申し出をしてくださった。村の人たちにも、この先生の話は聞いた方がいいよと伝えているところだ。まあまあの反応なのだが、参加するのは数人かな。でも、これまでのイベントを通して、我が村や寺に興味をもってくださっている方もいて、何人かが「参加します」と手を挙げてくれている。ありがたいことだ。西本先生はもともとは麻酔科医で、痛みの専門家だ。しかし、今はホリスティック医学と言って、人間まるごと(体、心、魂)を診る医学を実践している。西洋医学からスピリチュアルまで、広く深く勉強されている先生だ。そのきっかけは、ご自身が潰瘍性大腸炎という難病を患ったことだ。大学病院に勤務していた若いころの話。西洋医学では大腸の全摘しか方法はなかった。しかし、西本先生は東洋医学、気功、心理療法、食事療法など、さまざまな治療法を駆使して、手術なしで完治させたのだ。試行錯誤の日々だったようだ。苦しみの連続。臨死体験までしている。でも、自分で決めたことを信じ、やり続けた。今、先生はホリスティック医学の中心的な存在だが、その根底には自分の体験がある。体験プラス理論。先生のもとへは、全国から難病で苦しむ人が訪ねてくる。一人ひとりていねいに診察し、たくさんの人が完治、回復といった結果を得ている。西洋医学は肉体レベルの治療に関しては高度に発展した。しかし、それだけでは不十分。病気には心が関係しているということは少しずつ言われるようになってきた。さらには、魂という宗教的なところまで踏み込まないと、病気の本質はわからないというのが西本先生の考え方だ。難病を体験したからこその迫力あるお話。ぜひ、聞いていただきたい。うちのお寺も応援していただきたい。7月1日 14時~16時場所:大音寺(鈴鹿市越知町782)参加費:2000円(学生1000円)詳細はこちら。
2026年06月03日
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ちっちゃな村なのにいろいろなことがあるものだ。ある日、自治会長が犬を連れて散歩していた。夕方だと思う。自治会長の家は、村一番の広い道沿いにある。その道を南に少し歩き、左に曲がると、長さ50メートルほどの狭い路地に入る。路地の左は住宅、右が畑。車は通れない。この路地はいわくつき。ちょっとしたトラブルがあったばかりだ。自治会長もトラブルについては聞いていたが、あまり首を突っ込みたくなかった。今の時代は怖い。どんなことで逆恨みされるかわからない。正義を振りかざすと、とんでもないしっぺ返しがあったりするから。変な行動する人にはだれもが警戒して当たり前。「なんやこれ!」路地に入った自治会長はびっくりした。道にばらばらと錆びた釘が散らばっているのだ。10本20本ではない。ざっと見て100本はありそうだった。この路地は、手押し車の老人や自転車が通る。自治会長のように犬の散歩のコースにしている人もいる。路地脇に住むおばあちゃんに手伝ってもらって、釘を拾って歩いた。たまたま落としたという状況ではない。だれかが意図をもって、釘をまいたのではと思われた。何か月か前にあったトラブルと関係があるのだろうか。昨日は、おまわりさんに来てもらった。大ごとにはしたくないけれども、きちんと記録には残しておいた方がいい。再度そんなことをされたり、さらにエスカレートすると困る。だれが何のために。*************静かな村が少しずつ騒がしくなっている。山が崩されて住宅が広がり始めたのはかなり前のことだ。見知らぬ人が、散歩やジョギングでこの村を通り抜けていくのは当たり前になってきた。中勢バイパスが開通し、近くにランプができた。狭い道を車がむりくり通り出して、徐々に広くなってきたところもある。道路に隣接する我が家の山は1メートルほど削られてしまっている。新しい団地からランプに行く近道として重宝されているようだが、我が家の側から見ると、いろいろな弊害がある。「木の枝が邪魔だ」道路を通る人が文句を言う。山が道路になりゴミが捨てられ、文句を言いたいのはこっちなのに。秋にはランプのそばに24時間営業のスーパーができる。渋滞もあるだろう。我が村の狭い道が抜け道として案内されることも考えられる。年寄りや病人がよたよたと歩いている道だ。自転車で畑に行く人もいる。村の人たちは便利になることを喜んでいるが、プラスにはマイナスが付きもの。釘騒ぎどころではないようなことが起こらないことを願いたい。
2026年06月02日
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