全23件 (23件中 1-23件目)
1

2004年の中越地震で被災し、引っ越した東北で東日本大震災を体験した知り合いがいる。震度7に2回も遭遇するなんてどういうことだろう?こんな言い方は失礼だが、彼のくじ運の悪さというか、良さなのかもしれないが、その話を聞いたときは驚いた。考えてみると、熊本には、3回も震度7を体験させられた人がたくさんいるわけだ。これもまた失礼な言い方になるかもしれないが、3回もの生きる死ぬにかかわる強烈な出来事は、経験としてプラスに働くようになるのだろうか、それともトラウマとして残ってしまうのだろうか。ぼくは1回だけ、死ぬかもしれないという体験をしたことがある。30代前半のころだ。9月だったか、1泊2日で伊豆の下田へ取材に行った。仕事を終えて伊豆急下田の駅に向かうバスに乗った。前の日から強い雨が降っていた。もう一泊しようと思ったが、翌日は朝から打ち合わせがあったので、「これくらいの雨なら大丈夫だろう」と帰ることにしたのだ。バスに乗り込んだら、雨はますます強くなった。山間の細い道を駅に向かう。左側は崖、右は川。川はあふれそうな猛烈な勢い。ゴーゴーと音が聞こえてきそうな荒々しさだ。バスにはぼくと運転手を含め10人くらいが乗っていた。登山帰りのかっこうのおばさんたちのグループと若い男性2人。こんな雨でも電車は動いているのだろうか。東京への帰り道が心配になるほどの豪雨になっている。「あれ。どうしたのかな」バスが止まった。ぼくは後ろの方の席にいた。ワイパーがせわしく動くフロントガラス越しに前を見た。えっ!がけ崩れだ。土砂が道をふさいでいる。バスでも乗り越えるのは難しそう。仕方がない、戻るしかないな。Uターンできるのだろうか。後ろを見た。えっ! えっ! えっ!後ろも道がふさがっていた。それも崖沿いにあった家を飲み込んでいるではないか。バスは前にも後ろにもいけない。ここで夜明かしだ。明日になったら救助がくるだろう。まだ割と余裕があった。そんなときに、大きな音とともにバスが激しく揺れた。崖崩れだ。バスに直撃。バスは濁流が流れる川に向かって、ずずっと横滑りした。もう一撃あれば、バスごと荒れ狂う川に流さる。恐怖が突き上げてきた。もう余裕はない。ほかの乗客もバスの外へ出て、右往左往している。どうしていいのかわからない。みおんなパニックだった。再度がけ崩れがあれば、ぼくの名前はこの豪雨の被害者として新聞に載ったに違いない。一番冷静だったのは運転手だった。地元の人だった。「ここを登れば蓮台寺の駅がある。そこまで歩けば大丈夫だ」彼は崩れた崖の横の比較的緩やかな斜面を登り始めた。ほかの人はどうしていいかわからず、おろおろしている。二番目に冷静だったのはぼくだった。「運転手さんについていくよ。ここを登るよ」ぼくが声をかけると、ほかの人たちもぼくのあとに着いてきた。運転手さんに先導してもらって、蓮台寺の駅にたどり着いた。3時ごろに登り始めて着いたのは5時。雨に濡れてびしょびしょの体だった。たぶん、運転手さんがバスから無線で連絡してくれたのだろう。蓮台寺の駅にレスキュー隊がやってきてくれて、ぼくたちを救出してくれた。このブログを書いていて「あれっ」と思ったことがある。35年ほど前の話だが、ぼくは今の今まで、崖崩れでつぶれた家の人たちのことを考えたことがなかった。数十メートル後ろで家がつぶされていたのに。作業小屋だったのか民家だったのか、そこも記憶はないが、民家だったら、人が生き埋めになっていたかもしれないのだ。もう自分たちのことで精いっぱいだった。そして、助かったら、良かった良かったで精いっぱい。あのとき生き埋めになっていた人がいたとして、ぼくには何もできなかった。しかし、そこに意識が向かなかったことに、あれっという思いがあって、今、ぼくは不思議な感覚の中にいる。バスの運転手から連絡はいっているだろうけれども、もっと「大変だ! 住宅がつぶれて人が生き埋めになったかもしれない!」と大騒ぎしても良かったのではないか。レスキュー隊の人に話しても良かったではないか。それも、そのことに気づいたのは35年後とはどういうことだろう。熊本で大地震があって、イオンの爆発でも、スタッフの人たちはお客さんを安全なところに誘導して、ほっとしてお店に戻って亡くなった方もいるそうだ。自分の身も危険なときに、人のために動ける人を、ぼくは尊敬する。バス会社が手配してくれた宿に着いて、お風呂に入ったときの幸せ感。おむすびがおいしかった。ビールは最高。その陰で、35年間、土砂に埋もれた家のことは覚えていても、その下にいるかもしれない人のことは考えたこともなかった。今更ながら、もしあの家の下で亡くなった方がいたら、ご冥福を祈りしたい。でも、なんで今。たぶん熊本の地震が引き金だろうが、これまでの災害では思わなかったことを、今回は・・・。なんでだろう???
2026年07月31日
コメント(0)

暑い暑いと言いながらも、去年に比べるとましなような気がする。毎朝6時くらいには犬を散歩させている。玄関を開けて外へ出ると、この時間なら、気持ちいい風に包まれることが多い。去年は、風はあってもむっとした熱風だった。近くに小学校があって、裏門のところに大きな木がある。名前はわからないが、さわやかな木陰を作ってくれるありがたい木だ。今年は、その木の下を歩くたび、うるさいほどのセミの声が降り注いでくる。去年もセミの声はあったが、こんなにも響き渡るような大音量ではなかった。昼間はセミの声が消えてしまっていたのではないかと思うほど静かだった。暑さでセミも鳴く元気がなかったのが、去年の夏だった。ぼく自身のことで言えば、今年は昼間でも外で働こうという気力がある。暑さがやわらいだわけではなく、体力が向上したのかもしれないが、ぼくは暑さの質に違いがあるのではと思っている。テレビやネットを見ると、猛暑だ酷暑だ40度超えだと騒いでいるが、数字は参考にしつつ、自分の感覚やまわりの状況を大事にして動いていきたい。日向だと耐えられない暑さであっても、日陰に入ると、ぐっと過ごしやすくなる場合もある。「今日は38度だから」と気おくれするのではなく、日陰でできることをやってみる。ぼくはそうしている。ヤギたちは上手に涼しい場所を選んで休んでいる。気持ちよさそうに目を閉じて、口をもぐもぐ動かして、暑い日中を過ごしているのだ。数字に右往左往してきた人間たちも、そろそろ野生のカンを取り戻して、自分の感覚で動くことをしていかないと、自然の猛威に押しつぶされてしまう。AIもいいが、人間はもっと優秀な感覚をもっているのだから。
2026年07月31日
コメント(0)

昨日は母の命日だった。亡くなってから4年になる。3年近く一人暮らしだった。近所の人が良くしてくれたが、さみしかっただろうと思う。母をひと言で言うと、「過剰な心配性」だった。近所の人も口をそろえて言う。何か事故があったニュースを見ると、すぐに電話がかかってくる。「あんたな、こんなことがあったんやに。気をつけやんとあかんよ」とにかく、悪い方悪い方へ考えるタイプだった。娘がこう言った。「おばあちゃんはお父さんのこと、鳥かごに入れて、ずっとそばに置いておきたいんじゃない」それくらいいつも心配心配だった。うっとおしいと思うことがどれほどあったか。友だちに愚痴を言うと、「心配してくれるのは母親くらいや」と、薄っぺらい反応しかない。もうちょっと深く考察してほしいものだ。ぼくは、子どもにとって母の言葉は大きいと思う。心配してくれるのはありがたいことだが、度が過ぎると、母親の言葉がまるで現実に起こったことのように頭にインプットされ、トラウマとして残ってしまうのだ。だからと言って母親だけを責めることはできない。母親の母親、つまりぼくの祖母だが、母に輪をかけてひどい心配性だった。母も祖母から、「あれは危険」「気をつけなあかん」とさんざん言われて育ったのだと思う。心配性の親が心配性の子どもを作る。ある小学生は動物が嫌い。特に犬には近づけない。実は、その子の母親も犬嫌い。「犬は怖い」と小さな子どもに植え付けていた。話を聞くと、おばあちゃんも犬嫌い、動物嫌い。ひいおばあちゃんも。このままだと、この家系はほぼ永遠に動物嫌いが続くだろう。別に犬が嫌いでもかまわないけれども、心配性も不安も恐怖も怒りも喜びも。感情の多くが、親、その親、さらにその親・・・の感情や行動、価値観を学習して作られたものなのかもしれない、と考えてみてはどうだろうか。ぼくも心配性だ。母から学習したものだろう。そう思うと、自分の性格だと思い込んでいいたものを、少しは客観的に見ることができる。だからと言って、親を恨むのではなく、学習したものだから、何とか変えることもできるはずだと、情報の上書きを試みればいいのだ。「心配」を「大丈夫」に変えればいい。母の命日、仏壇に手を合わせ、お墓参りをして、母のことを考えていた。大事に育ててくれた。ありがたいことだ。しかし、この歳になっても、親の価値観に縛られているところもある。「心配」という縄で次の世代も縛るのは、できるだけなくしたい。母も苦しかったに違いから。それも感謝の気持ちだ。
2026年07月30日
コメント(0)

熊本での震度7には驚いた。10年前の2016年にも震度7の大地震があった。それも1日おいてまた震度7という考えられないような被災だった。震度7。めったに起こらないような大揺れだ。震度7が初めて観測されたのが1995年の阪神・淡路大震災だった。それ以降31年で8回観測されている。阪神・淡路大震災(1995年)、中越地震(2004年)、東日本大震災(2011年)、熊本地震(2016年 2回)、北海道胆振東部地震(2018年)、能登半島地震(2024年)に続く、8回目の震度7が熊本で起こった。8回中3回が熊本というのもどういうことなのだろうと思ってしまう。しかし、ほかの地域は大丈夫かと言えばそれはない。どこも同じ災害に見舞われる可能性は十分にある。「震度7の地震はどこにでも起こるよ。そして、その被害は、これまでの8回で十分にわかったでしょ」そんなメッセージとして聞く必要があるのではないか。イオンの爆発も、「原発だって簡単にあんなふうになるよ」という警告に聞こえた。2011年にぼくたちは体験しているのだから、何が大切か、真剣に考える。そうでないと、いよいよ待ったなしの危機になる。うちの近くでなくて良かったと胸をなでおろしたとしても、そんなのは一時的なもの。今日あるいは明日、自分の住んでいるところが昨日の熊本と同じ状態になっても不思議ではないのだ。自分事と考えて行動しないといけない。まずは自分の家。わが家は、5人の家族と、ヤギ6頭、犬7匹、ネコ7匹、ニワトリ3羽がいる。熊本のような地震があっても、動物たちを見捨てるわけにはいかない。実家は築30年ほど。作ってくれたのは、父親が旅行中に露天風呂で出会って、この人ならと感じて頼んだ大工さん。父親も腕のいい職人だったので、話をするだけで大工さんの腕を見抜くだけのセンスはあったはずだ。いい材料も使った。だから、震度7にも耐えてくれるはず。しかし、ライフラインは心もとない。停電したらどうする?隣に太陽光発電所(ソーラーシェアリング)を建てたから、そこから電気をとればいい。夜は困るので、蓄電機を用意しないと。水は?村には井戸水を使っているところもあるので、みんなでシェアするか。うちの井戸も水が出るようにしないと。雨水をためて濾過するシステムが必要かも。田舎だからどこにも米の備蓄もあるし、野菜は畑でとれる。何とかなるだろう。次に村。わが家はこれから、倉庫を犬たちが遊べる場所に改装しようとしている。エアコンもつける。ここに太陽光発電の電気をつなげば涼しく過ごせる。村の人全員は無理だが、少しは役に立つだろう。公民館があるが、古いし耐震性が十分とは思えないので、避難所にはならない。ここを災害時にも快適に過ごせる場所にすることも考えないといけないだろう。お金のかかることなので、簡単には進まないだろうが、一人暮らしの人でも、いざというときにはここがあるからという場所があったらどんなにか安心できるか。正直、これまで震度7の大地震が8回あったが、今まで以上に危機を感じる。ぼくの場合は、自分の家族と動物たちがどうすればいいかがメインで、村のことも少しは考えているレベルだが、さっそく動かないといけないなと思っている。被災された方、猛暑の中、どんな思いで過ごされているのか。亡くなった方もけがをされた方もいる。ほんの一部でしかないけれども、心痛が伝わってくる気がする。安っぽい慰めくらいしか言えなくて申し訳ありませんが、がんばって乗り越えてください。
2026年07月29日
コメント(0)

作家の東野圭吾さんが亡くなったニュースには驚いた。大腸がんだったとのこと。享年68歳。ぼくも東野さんの作品はずいぶん読ませてもらった。とんでもなく感動した作品は思い出せないけれども、どれもワクワクしながら、一気に読み進めることができた。すばらしい作家さんだったと思う。小説家の方がよくおっしゃるが、あるところまでいくと、作中の人物が勝手に動き出すそうだ。作家は、登場人物に命を吹き込む役割なのだろう。だから、自分自身のエネルギーを高く保っていないといけない。あるいは、まさにチャネラーのごとく、宇宙からのエネルギーを中継する力が必要だ。同時に、緻密な設計図があって、それをもとに、思考を重ね、イメージを膨らませて、文章表現の技術も高め、その上で、宇宙からの命が降りてくるのを待つ。そんな気がする。ぼくも文章を書いて生きてきた者として、死ぬまでに一度は、そんな体験をしたいものだと思う。東野さんには、たくさんのすてきな作品を残してくださったことに感謝するとともに、ご冥福を祈りしたい。ありがとうございました。
2026年07月28日
コメント(0)

数日前、懸案事項だったことが3つ解決した。まずは倉庫の改装。予定では5月末から工事が始まっていたはず。しかし、事業も兼ねた場所にするため、市の許可が必要だということになり、設計士さんや行政書士さんにも入ってもらって、あちこちの部署に何枚もの書類を出し、「もうええ加減にしてくれ」とめげそうになっていた。その許可が下りた。これで工事がスタートできる。予算はかなりオーバーしてしまうが、まあ仕方ないか。2つ目がネコ。いずれは保護しようと野良ネコに餌付けしていた。わけありのネコで、どうしても面倒を見たかったからだ。そのネコが、なんと我が家の古い納屋で4匹の赤ちゃんを産んだ。どうしたらいいのか思案していた。暑い日が続く。親ネコだけなら耐えられるかもしれないが、生まれたばかりの子ネコはどうだろう。死んでしまうかもしれない。次女と相談して、「保護しよう」ということになった。でも、やったことがない。かまれたり引っかかれたら嫌だなという気持ちもある。「やるしかない」次女は腹を決めた。ぼくがサポート役。一度目は失敗。だけど、子ネコだけは保護できた。親ネコは子どもが心配だから、遠くまで逃げない。段ボールに入れた子ネコたちのところに近づいてきた。そして、ついにゲット。ホッとした。3つ目がエアコン。2019年につけた10畳用のエアコンの効きが悪い。フィルターも掃除もした。それでもダメ。亡くなった母が購入したもので、たぶんここで買っただろうという電気店に電話をした。その日の夕方には来てくれた。冷風が出るところにほこりがたまっているのではと、手でごしごしこすってくれた。固まったほこりが落ちてきた。それで直った。今はとても快調に動いてくれている。同じ日に3つも解決するとは。うれしくなってきた。いい流れだ。この調子で進んでいきたい。
2026年07月27日
コメント(0)

家内と長女が1泊2日で山梨へ行っていた。山梨は、コロナ禍のころ、東京から移住して、4年間過ごした。そこでヤギを飼った。桃やすももの無農薬栽培にもチャレンジした。生活ががらりと変わった、とても思い出深いところだ。ちょうど桃の収穫の時期。山梨には何ヶ所かはね出し(贈答品にはならない)桃が買えるところがある。見かけも味も別に問題があるわけではない。少し傷があったり、へこみがあったりするものが、とても安く買えるのだ。彼女たちが行った一番の目的ははね出しの桃を買うこと。そして、山梨でお世話になった人にも会ってきて、なかなか充実した2日間だったようだ。桃はこちらでお世話になっている人や、近所の人に配った。すごく喜ばれた。わずか4年しかいなかったが、桃はぼくたちにとっても特別な果物だ。春には桜の前だと思ったが、濃いピンクの花が咲く。それが一面に広がっているところがあちこちにあって、あの桃色を見ると幸せを感じる。今のような収穫の時期には、「山梨では桃とぶどうはもらうもの」と言われているように、近所の人が「これ食べて」と届けてくれる。4年間でこれまでの人生60数年分の桃をいただいた。高級ブドウのシャインマスカットも十分すぎるほど味わった。そういう面では本当にぜいたくな生活をした。だから、桃をプレゼントして喜んでもらえると、ぼくたちも幸せになる。鈴鹿で生まれ育って、名古屋の大学へ行き、富山県の会社に就職して、また鈴鹿、名古屋でアルバイト生活、再就職。そして東京へ出たのが28歳のとき。埼玉県にも長く住んで、山梨、鈴鹿と続く。大学を出てからは、サラリーマンを少しやり、東京ではライター業、山梨へ行ってからヤギを飼い、果樹を育てるという体験をし、鈴鹿ではヤギばかりでなく、犬もネコもニワトリも一緒に暮らしている。さて、これからどうなっていくのか。住む場所が違えば文化や習慣も違う。会社を辞めなければ東京で暮らすことはなかった。コロナがなかったら山梨へは行っていない。家族で、「あそこにいたときには」と話すのも楽しい。一ヶ所でずっと暮らすのもいいと思うが、ぼくは、いろいろな地域で過ごせて良かったと思っている。楽しい人生を送らせてもらっていることに感謝したい。
2026年07月25日
コメント(0)

最近は、朝の5時に起きて、5時半には実家に向かう。1匹ワンコ(トイプー)の面倒を見ているので、ミタラシという名前のちっちゃな犬と15分くらいの距離を歩く。驚くのは、すでに数人のお年寄り(ぼくよりも7~8歳は年上)が、畑で仕事をしていることだ。「おはようございます。早いなあ」「あっついから朝のうちに仕事しよと思て」毎朝、同じあいさつを交わす。うちの両親もそうだったが、田舎の年寄りはよく働く。することがないからと言う人もいるが、そんなことはない。近くの公民館で、ヨガをやったり、健康マージャンを楽しんだり、パソコンを習っているおばあちゃんもいる。今は大相撲名古屋場所をやっているが、相撲好きのおばあちゃんは、毎年一回、名古屋まで出かけていって、相撲観戦をしている。同じような年齢の仲間4人と、10時ごろから人もまばらな升席に座って、ビールを飲みながら、相撲を肴にわいわいやっているのだそうだ。畑仕事も、お年寄りにとっては相撲観戦と同じような趣味かもしれない。楽しみながら畑をやっている人は、イキイキしている。何月には何の種をまき、苗を植える。きちんとルーチンがある。この野菜が得意だというのもあるみたいだ。数人で種や苗のお店へ行き、買い物をするのも楽しい。「あそこの200円のソフトクリーム、おいしいよ」そんな情報をくれたりする。車を運転する人も決まっている。なかなかいいネットワークが作り上げられているのだ。80歳を過ぎると、そろそろ畑仕事もきつくなる。長年、近くの団地から、うちの村の畑を借りて野菜を作っているおじいさんがいる。ぼくが村に戻ってきたときには広い畑と狭い畑と、かなりの面積で耕作をしていた。雑草がほとんどない、きれいな畑だった。しかし、去年、大きい方の畑は返した。今年は狭い方の畑も荒れてきている。なかなか草が刈れない。今年は耕してもいないし、野菜の姿もちらほらしか見えない。朝早く、おじいさんの姿を見ることがある。一生懸命に鎌で草を刈っている。しゃがんで作業をしているので、細くて小柄なおじいちゃんの姿は草に隠れて見えない。草の上の方が動いているので、おじいちゃんが草を刈っているんだとわかって、声をかけたりする。「なかなか進まへんわ」おじいちゃんは嘆くばかりだ。シャツはすで汗でびしょ濡れだ。この間はさすがに見かねて、草刈り機で刈ってあげたりした。体力が急激に落ちてきているようだ。そろそろ畑からも卒業だろうか。そうやって畑をやる人が減っていく。5時ごろから働いている元気なお年寄りも、いつまでもやれるわけではない。田舎の畑や田んぼは消えていく。農業も企業化して、野菜が工場で作られる世の中になっていくのか。あるいは、もっと輸入に頼るのだろうか。田舎の景色が変わっていく。
2026年07月23日
コメント(0)

35度くらいの気温では驚かなくなった。このままだと40度が当たり前になるのかもしれない。子どものころ、夏の夕方、庭に出て、縁台に腰かけてスイカを食べたときの記憶。父親が線香花火を買ってきてくれて、暗くなると、小さな赤い球から火花が散るのに夢中になれたときがあった。あのころの夏には風情があった。今の夏は、悲しいかな、「暑い」のひと言で言い表せてしまう。ぼくはまだ、田舎に住んでいるから、ときどき涼しい風が頬をなでることがあって、それだけのことでほっとひと息つける。コンクリート砂漠の都会。クーラーの涼を求めてさまよう難民たち。かつてはぼくもその一人だった。ちょっと油断すると周囲を覆い尽くす雑草には参ってしまうが、もう目をつむろう。秋になって元気をなくすまでのがまんだ。蚊やアブに刺され、むかでの出現におびえる。これも愛嬌さ。それでもやっぱり。ぼくは田舎の方が好きだな。ははは。あんなに田舎が嫌いだったのに。人は年を重ねれば変わるもの。
2026年07月21日
コメント(0)

我が村の最年長は95歳のおじいちゃん。2番目がその奥さんで93歳。最年長おじいちゃん、この暑い中、毎日、畑に出ている。おばあちゃんの姿もときどき見る。おじいちゃんの口癖は、「もう何にもできん。生きとるだけやわ」いやいやそんなことないでしょ。きちんと立派な野菜を育てている。「畑のことはひろっさんに聞けば何でもわかる」80歳のおばあちゃんの話だ。95歳のヒロシおじいちゃん。みんなからはひろっさんと呼ばれている。早朝、お寺の入り口でひろっさんに会った。「おはようございます」あいさつすると、ゆっくりとぼくの顔を見る。「おはよう。毎日、お参りしとるんやわ」ひろっさんの姿を見る時間と場所から想像すると、まず、彼はお寺参りをする。鍵がかかっているから、御堂に上がる階段の前で手を合わせるのだろう。それからお墓に向かう。台車のようなものを押して歩く。腰が曲がっているので、ほとんど地面ばかりを見ながら歩く。耳が遠いので、車がきても気づかない。ひろっさんのことを知っている人は、ひろっさんの姿を見ると車を止めて、彼が気づいて横によけてくれるのを待っている。クラクションを鳴らしたりはしない。お墓参りのあと、たぶん家で朝ごはんだと思う。ひと休みしてから畑へ行く。今は暑い時期なので、朝食前に畑仕事をしているかもしれない。暑い夏以外は、昼ごはんを挟んで、ずっと畑にいる。そして、4時前には帰る。大好きな「水戸黄門」をテレビで見るためだ。お風呂へ入って晩ご飯を食べて、早くに布団に入って、また翌朝、お寺参りからのルーチンが始まるのだ。淡々と日々を生きるすごさを、ぼくはひろっさんから感じている。たまに話をすることがある。彼が決まって言うことがある。人生唯一の悔い。ひろっさんは長い間、村の世話役(自治会長)を務めてきた。村を支えてきた功労者だ。「あのな。わしはな・・・」ぽつりぽつりと話始める。うちの村には、南北に2本のメイン道路がある。ひとつは昔からある道。車もすれ違えないほど狭い。もうひとつが、少し西側を走る、車がぎりぎりすれ違える道。ぼくが村を出てしばらくしてできた新しい道だ。新しい道ができて、西側に位置していた家にも、救急車や消防車が入れるようになった。いざというときには、この道は役に立つ。広い道を作るに当たって、リーダーシップをとったのがひろっさんだった。田舎の人は、地域のためとは言っても、自分の土地を提供するのは嫌がる。一軒一軒説得して回って、市役所とも話をして、やっとのことで工事が始まった。大仕事だったと思う。さて、ひろっさんの悔いとは。もう一本の狭い道についてだ。昔からある道。この道も広くしようと、ひろっさんは動き始めた。何十年も昔の話だ。新しい広い道ができたものの、残念ながら、その道は村を抜ける寸前で行き止まりになっている。だから、メイン道路にはなりえないのだ。村を便利にするためには、古い方の道を広くしないといけないと、ひろっさんは考えたのだ。うちの父親はひろっさんのいい相棒だった。当時は20世帯くらい。毎晩毎晩、手分けして説得に回ったのだろう。「ほんとにそれだけが心残りや。一人だけ賛成してくれんかった。それで道を広げれんかった。反対した奴ももうとっくに死んでしもたけどな。説得できんかった。もうちょっとやったのにな。一人でも反対する人があるとうまくいかん」ひろっさんはため息をつく。たぶん、あの道を広くするとしたら、そのときがラストチャンスだったと思う。今だったら、道の両側から家や倉庫やブロック塀が迫っていて、広げるのは無理だ。とりあえず、西側の新しい道を作ったことで、どうにか緊急車両がすべての家の前まで行けるようになった。それだけでも大した功績だと思うが、ひろっさんは納得していないのだろう。吹けば飛ぶような村ではあるが、たくさんの人の苦労があって維持されてきた。ぼくはひろっさんの次の世代として、村の今と未来を考えていかないといけない立場だ。ご先祖様をたどれば、たくさんの方々が、この村で喜怒哀楽の暮らしを送ってきた。その事実の積み重ねが、今にあるわけで、ひろっさんがとぼとぼとお墓に向かって歩いていく姿を見ると、彼の曲がった背中に、村の歴史を感じてならない。どうすれば、ご先祖様が喜んでくれるのか、ぼくにはわからないけれども、ご先祖様たちから何か託されているような気がしてならない。とにかく、特徴のある村にしたいと思って、今は動いているところだ。ひろっさんが、「あいつが帰ってきて村が変わってきた」と喜んでくれれば、ぼくのやっていることは間違いないと判断することにする。
2026年07月20日
コメント(0)

昨日書いた物置きの改装の件だが、なかなか物事が動いていかないときは、立ち止まるときだと思っている。思ったようにいかないと、ついついがんばって何とかしようとするが、動かないものはどうがんばっても動かない。それでも、ちょっとだけ角度を変えて取り組んでみると、すーっと前進したりすることがある。願えば叶うという神話があるけれども、願いは「我」でもある。この世は、我を超えた大きな力が存在していて、その力は、自分が本当に進むべき道へ導いてくれるものだ。叶わない方がいい願いもあるわけで、間違った願いに固執していると、さまざまなトラブルに見舞われて、ストップがかかるものだ。うちの妻は、生まれ育った札幌で一生を過ごすとつもりだった。大きな会社でたくさんの給料をもらって、結婚もするつもりなく、おいしいものを食べたり買い物をしたり海外旅行をしたりして生きていくという、決して高尚ではない人生設計を立てていた。それが彼女の願いで、20代後半までは順調だった。ところが、あるとき交通事故にあった。車で帰宅するとき、交差点で信号無視の車に左横からぶつけられて、車はひっくり返るほどの衝撃で大破。大けがをしなかったのが不思議くらいの大事故だった。ひどいむち打ち症になって、つらくて苦しい1年間を過ごすことになる。そんなときに、一枚のチラシを母親の知り合いが届けてくれた。それが真氣光という気功との出あいだった。わずか15分ほどの治療、それもビデオから氣を受けるという信じがたいような施術で、どれだけ苦しんだかわからない首や頭の痛み、倦怠感がきれいに消えてしまったのだ。彼女は大企業を辞めて、真氣光の会社へ就職する。困っている人を助けたい、世の中を少しでも良くしたい、真氣光の中川先生の手助けをしたいという、彼女の「やるべきこと」が表に顔をのぞかせたのだ。勤務先は東京。小さな会社だ。ここで札幌から出ない、大企業で働くという願いがひとつ崩れた。さらに、ぼくと知り合って結婚する。一生独身、そして経済的に苦労しないという願いを反故にすることに。子どもが生まれて、生活の浮き沈みはもっと激しくなる。彼女は都会生活が好きで、大きなデパートのないところには住まないと公言していた。コロナ騒ぎが彼女の願いを崩す。山梨に移住することになったのだ。ぼくが言い出したわけではない。妻が決めて積極的に山梨移住に向けて動き出した。ヤギを飼ったのも、彼女の発案。自分の人生設計(願い)はどんどん崩されていく。そしてついには、ぼくの実家のある鈴鹿に越した。これも彼女が言い出しっぺだ。「これしか選択がなかったのだから仕方がない」と妻は言う。大きな力は、仕方がないと思えるような形に追い込んでいき、願いなんて粉々になってしまう。しかし、どこか居心地の良さを感じさせてくれるのが、大きな力の演出なのだ。ヤギだけでなく、犬やネコ、ニワトリもいる。大きなデパートなんかない。ぼくにはまったく不満がないが、妻はこの生活に満足しているわけではない。まだ、かつての「願い」に未練があるのはよくわかる。しかし、ここまでどうやって運ばれてきたかを、冷静に見直してみれば、ちっぽけな我を手放すしかないとわかるはずだ。ぼくたちが置かれている状況の中で、上手く行っていることは何か? を見れば、これから進むべき流れがぼんやりと姿を現すはず。今まで進んできた道も大きなヒントになる。そこに一手を打てば、物事は一気に動き出す。今、ぼくたちはそういう節目にいる。焦ることはない。間もなく扉が開く。これまでの流れからすると、扉の鍵は妻が握っているはずだ。
2026年07月19日
コメント(0)

物置きの改装を準備している。父親から聞いたのは、1959年の伊勢湾台風のとき、うちの山の杉の木が何本も倒れたそうだ。それを材料にして作ったものだということは、築60年以上の古い建物だ。壊して新しいのを建てるという選択もあるかもしれないが、じっくり見回してみると、立派な柱や梁が、筋肉むきむきの腕のような趣で、台風でも地震でもどんとこいと言わんばかりに、建物の強度を保証してくれている。ところどころ崩れているが、少し黒ずんだ土壁はやさしい老女のように、暑さ寒さから中を守ってくれている。この昔ながらの部分は残した上で、入った人がほっとできるような空間はできないものだろうか。そんなことを念頭に置いて、父親のなじみだった工務店に相談した。父親と仲の良かった社長はすでに鬼籍に入り、息子さんが跡を継いでいた。縁とは面白いもので、その新社長、リフォームを得意としている。彼が施工した建物の写真を見せてもらったが、「和風」「自然」「癒し」をテーマにした、まさにぼくの好みとぴったりだった。父が引き合わせてくれたのだろうか。若いころ、父が前社長に引き合わせてくれたことがあった。そのときに言ったのは、「あいつはログハウスとか変わった建物に力を入れとるんや。お前と話が合うんと違うか」まだ「癒し」の世界に足を踏み入れる前の話だから、なぜ、ログハウスとぼくと結び付けたのか、いろいろ話をする中で、ぼくの嗜好をかぎ取っていたのかもしれない。確かに当時のぼくはログハウスにはひかれるものがあった。あるいは、変わり者同士、気が合うと思ったのか。そのことが記憶にあって、ぼくはその工務店に何十年ぶりかで電話をした。妻や娘と話して、改装をお願いすることを即決した。何度か打ち合わせをして、1階はヤギの見学に来たり、ドッグランで遊ぶ人たちが休む場所にすることにした。次女のキッチンカーで料理や飲み物を購入してもらい、おしゃべりでもしながらゆっくり味わう空間にすればいい。2階部分は図書室にする。仕事柄、ぼくはたくさんの本を持ち帰ってきた。かなり減らしたが、それでも何百冊とあるのではないか。それを壁面にずらりと並べようと思う。興味ある人に読んでもらえば、段ボールに入ったままだった本も喜んでくれるだろう。4月12日に契約をした。5月末から工事が始まって、今ごろは完成しているはずだった。ところが、大きな問題が行く手をはばむ。この地域は市街化調整区域に指定されているのだ。農林漁業をすることが優先されている場所で、市街化が抑制されており、建物の新築や増築、改装などに関して、さまざまな制約が設けられている。市役所と何度も話をしたが、特にうちのように、事業化を見据えたものに関しては、がんじがらめの規制がいくつもある。村が少しでも活性化するように、人が集まるような場所を作ろうというのは、市街化調整区域を管理する立場からすれば、言語道断、何を寝ぼけたことを言っているんだと、すばっと切り捨てられる事案なのだ。ビジネスを伴わない単なる改装なら問題はないが、資産家の年寄りが、故郷のために財産を使おうというのならともかく、日々の生活費を稼がないといけないわが身。家族が力を合わせて働き、そこそこの生活をして、その上で故郷の役にも立つという最高の計画だった。「次はこの書類を出してください」「ここを確認してください」市役所から返事があると、がくっと下を向く。それでも粘りに粘って、市役所の中にも応援してくれている人も現れ、親身になって手伝ってくれる人とも知り合うことができた。もうひと息のところまだ。最前線でがんばってくれている次女は、市街化調整区域の制約についてはだれよりも詳しくなったのではと思えるくらい、情報をたくさん集め、知識が豊富になった。ここまできたのだから、何とか踏ん張って、実現させたいと思う。「ハードルが高ければ高いほど燃えるんです」ぼくはそこまで強くないが、そういう人は間違いなくいて、面白いことを成し遂げている。うちの場合は、5人力プラス仲間の応援で目の前のハードルを乗り越えていく。あの物置きが、ステキな場所に様変わりしている姿をイメージしながら、市役所の要求を粛々とこなしながら、次のステージに進んでいきたいと思う。
2026年07月18日
コメント(0)

テレビドラマはあまり見ないけれども、「日曜劇場」は楽しみにしている。間もなく始まるのが『VIVANT』の続編。前作は3年前。妻と長女と、ああだこうだと展開を予想しながら見ていた。ネットニュースで流れてきたのが、原作者で演出を担当する福澤さんにパワハラがあったという話。でも、パワハラとかセクハラとか、ほかにもいろいろなハラスメントがある。だいたい、ハラスメントって何なんだ?「嫌がらせ」のことらしい。意図的な嫌がらせならパワハラと認定されても仕方ないが、仕事ができなかったり、大きなミスをすれば、上司からしかりつけられたりするわけで、果たしてそれを「パワハラ」と騒いでいいのかという疑問がある。まだ25~6歳のころの話。こんなことがあった。ぼくは名古屋にある小さな会社で営業マンをしていた。大手の自動車部品メーカーに商品を卸していて、在庫を最小限に抑えるという経営方針から、「すぐにもってきてくれ」「3日以内に」短納期の仕事がどんどん入ってくる。一番売り上げの多い会社だったので、「できません」なんて返事はできない。しかし、こちら側の現場も段取りがあって、「これ急ぎでお願いします」と発注すると、「またか」「そんなのできるか」とぼろくそに言われて、納期が遅れれば、大企業の購買係からはひどい言葉でののしられる。つらい苦しい板挟みだ。下請けの悲哀に何度悔し涙を流したことか。「なんでこんなことを言われないといけないのか」と、歯を食いしばりながら車を運転していると、涙がボロボロこぼれてくるのだ。これくらいはぼくたちの世代の人なら体験しているだろう。ぼくがあきれ返ったのは、1982年(昭和57年)。中日ドラゴンズが8年ぶりに優勝した。今日勝てば優勝だというので、ぼくは仕事が終わるや栄に出て、街頭テレビの前にいた。そして、優勝が決まった瞬間、大声をあげて万歳を繰り返していた。そしたら、目の前に長いマイクが伸びてきて、「おめでとうございます! 今の気持ちは?」とインタビューされた。「最高です! もう最高!」涙目になりながら興奮の声を返した。夜、喜びを反すうしようとNHKのスポーツニュースを見ていた。そしたら、「最高です! もう最高!」栄で興奮しているぼくの姿が映し出されたのだ。翌日、営業に回った。例の大企業には毎朝顔を出す。「おはようございます」とにかく元気にあいさつをすることは心がけていた。むすっとした顔をした購買担当者が出てきた。いつもむすっとしているので慣れっこなのだが、彼のこの日のひと言目は、「お前、今日から出入り禁止」なんじゃそりゃ。納期の遅れもないのに。「はあ」素っ頓狂な声を上げたと思う。理由の言わず、彼は部屋へ戻っていった。「おい、おい」もう一人の購買担当者が声をかけてくれた。「お前さあ、昨日テレビでおおはしゃぎしていただろ。あの人も課長も巨人ファンで、スポーツニュースを見て怒りまくっているよ。しばらく姿を見せない方がいいぞ」一週間、ぼくは出入り禁止になった。会社の上司にも、「何やってるんだお前は」と叱られた。無茶苦茶理不尽な話だと思うがどうだろうか。今でもあの購買係の仏頂面は覚えている。職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるものこれがパワハラの定義。営業マンとお客さんの関係で、関係性の優劣は明確だし、業務上の範囲を超えているし、ぼくの就業環境も害された。職場ではないから、カスタマーハラスメントになるのか。ぼくは、小さな会社の営業マン時代の3年間で、企業社会の構造がよくわかった。大企業中心の社会に疑問をもつようになったのだ。その後、「西洋医学だけが医療じゃないんじゃないの?」「農薬や化学肥料を使う農業ってどうなの?」「便利さばかりを追求していいんだろうか?」「人間が一番という考え方もおかしいよ」「動物たちにも植物たちにも意思や言葉がある」「障がい者たちの才能を生かしたい」といった考え方になっていったのは、あの3年間の理不尽さがあって、現代の価値観や常識に対して、クエスチョンマークをつけることができたからだと思う。本当にそういう意味では、とても貴重な体験だったのだが、ああ、あのころはハラスメント漬けだったなあ。
2026年07月17日
コメント(0)

本格的な暑さが到来だ。今朝から、朝の6時集合になった。それでも日はしっかり照って、村の人と顔を合わせると、「暑いなあ」というあいさつになる。ワンコたちの散歩から始まる。夕方になっても気温が下がらない。だから、散歩は朝だけにして、長めに歩くことにした。ぼくはチワプーとトイプードルを連れて行く。まっすぐにきちんと歩くチワプーと、多動気味で、右に左に行き先が定まらないトイプー。こっちは両手を広げたり交差させたり、止まったり引っ張られたり、とにかく落ち着かない散歩だ。帰ったら朝ごはん。ヤギのお世話。このころには、外へ出るとじりじりと肌が焼ける。今日はそのあと、次女と一緒にヤギたちのエサになる草を取りに行った。次女は草刈り機の扱いが上手だ。しかし、今日は肩掛けベルトの留め具が壊れていて、新しいのと取り換えたりしてスムーズに進まない。外で直そうとしたものだから、その分、暑さのダメージも大きい。やっと数日分の草を集めてきたら、汗びっしょり。着替えてスイカを食べてほっとひと息入れた。これが11時くらい。もう一日分働いた。筋肉は消耗していない。暑さは、何に影響があるのだろうか。全身が倦怠感というか脱力感に包まれる。家に戻ったら、次女は頭が痛いと横になっていた。軽い熱中症だったかもしれない。まだ今日は風があって、ぼくの記憶では、去年の暑さには届かない、「ましな方」だ。ここ数年、35℃超えが当たり前になっている。暑さ、大雨、台風などなど、地球は確実に病んでいる。
2026年07月15日
コメント(0)

50年ぶりに故郷に帰ってきたのが一昨年のこと。ぼくが子どものころは陸の孤島のような村だった。30年ほど前からか、様相が変わってきた。山が切り拓かれて団地ができたのがきっかけで、徐々に我が村の近辺に住宅が立ち並ぶようになってきたのだ。自転車で少し走れば、田舎の家とは趣の違うしゃれた家が、広い道路が碁盤の目に整備された街並みにおさまった空間に出あえる。まだ銃が口は広がっていくようで、今でも造成が行われていて、かつてはだれも足を踏み入れなかったような山も、土がむき出しになり、トラックが土煙をあげて出入りしている。昔からの古い集落は空き家だらけになっているが、その周辺には新しい家がどんどん増えているという、ちょっとアンバランスな状態になっているのだ。いずれは我が村のような古い集落は姿を消してしまうのだろう。さらに10年近く前に、バイパスが近くを通り、車で移動するには便利になった。秋には、バイパスの横に大きなスーパーができる。「ぼくが住んでいるところはすごい田舎なんです」昔のイメージがあるから、ついついそんなふうに紹介してしまうが、実際に来た人は、ポツンと一軒家のようなところを想像してしまうのか、「思ったより都会じゃないですか」と期待外れの表情を見せる。うちの村へ来るときには、北側から入るといい。南側は、今言ったように団地が広がりつつあるけれども、北側からくると、田んぼがずっと広がっている中に、まっすぐな農道が伸びていて、突き当りがこんもりした山になっていて、細くて急な坂がある。トンネルのように竹や木々が上を覆っているので、この先に家なんてあるのだろうかと不安になるようなところだ。ある若い人は、「トトロの村に来たみたい」と喜んでくれた。坂の頂上部分、「トトロの村」の入り口にヤギたちがいる。昔ながらの古い家が何軒か立っているので田舎の風情がある。もう少し整備すれば、このロケーションはなかなかの売りになると思う。この坂を降りたあたりで、6月にはホタルが見られる。別の若い人はこう言った。「何か東南アジアの農村に来たみたいです」感慨深げにヤギスペースのまわりを歩いていた。彼は世界各国を旅行したことがあるそうだ。この村には、いろいろな要素が詰まっていて、住んでいる人にはわからない価値を、外から来た人が見つけてくれる。実は、この春から村の人たちに声をかけて、2ヶ月に一度くらいの割合で飲み会をしている。10数人が集まってくれる。先日、「村の外の人たちにも声をかけましょうか」と提案した。みんな賛成してくれた。9月にはバーベキューをする。村の外の人も数人が参加してくれる。長く住んでいると、自分の村のいいところが見えてこない。しかし、自分たちが価値を見出さないところに、外から来た人は感動してくれると、住んでいる場所が嫌いな人はいないわけだから、うれしいもので、故郷を見直すきっかけにもなる。外の人と触れ合うことで、前向きになれる村人も出てくるだろう。この村を舞台に、いろいろなイベントをしていこうと思う。人が集まれば知恵も出てくる。さっき言ったように、南側から入って北側を見て回ったり、逆に北側から入って南に歩いていくとか、ひょっとしたら、この村の楽しみ方というのがあるかもしれない。↓この間の大音寺でのイベントには32人もの方が集まってくれた↓ヤギたちが出迎えてくれる
2026年07月14日
コメント(0)

先週は夏休み前の最後の授業だった。工業高校の定時制に、週に一度、非常勤講師として通っている。学業という面で言えば、レベルは高くない。意欲をもって勉強する子もほとんどいない。「高卒の資格くらい取っておこう」くらいの気持ちで入学してきたのだろう。ほかに行ける学校もなく仕方なく入学し通っている子たちだ。昼間はバイトをして、夕方5時半から80分授業が2コマ。終わると8時35分。それを4年間。気分が乗らないと、「今日くらい休んでいいだろう」と思うときもあるはずだ。一度休むと、学校へ行くのが面倒になったりする。興味のない授業はつまらない。先生の側だって、ぼくも実際にやってみてわかったけれども、やる気のない生徒に向かって話をするのは、気持ちが乗らないもの。適当に80分を過ごすのは生徒ばかりではないのだ。かと言って、熱血の先生はうっとおしいわけで、どっちにしろ、彼らにとって平日の夕刻は、遠い世界の出来事のように他人事として流れていく。それが週に5日。高卒の資格くらいというモチベーションではなかなか続かない。お金がもらえる分、アルバイトの方が面白いわけで、結局、学校へ来なくなる子も少なくない。ぼくが所属する科の4年生の場合、12人が入学したが、6人が退学した。残った6人も好きで通ってきているわけでもないが、それでも4年間通っただけでもほめてあげないといけないのではと思うのだ。昨日は休み前なので、4年生は雑談の時間にした。ヤギやワンコの話、これからは世の中が大きく変わって農業が大事になる気がするという話、イルカのことも少し話した。教壇に立つぼくの前にいるのは3人だけ。だけど、真面目に聞いてくれる連中なので助かる。一人、ほとんどしゃべらない子がいる。寝ることもなく、よそ見もせずにきちんと話を聞いている。しかし、授業の内容がわかっているかと言うと、ほとんど理解していない。わからないのに毎日学校へ来て、居眠りもせずに話を聞いているというのも、またすごいことだ。この子の良さを見つけてあげたいと、いつも観察している。今日は発見があった。「お金を稼ぐのも大事だけど、もし農業がダメになったら食べ物が手に入らなくなるよ。輸入という手もあるけれども、世界中で食糧不足になったら、米や野菜を売ってもらえなくなる。そんなことあり得ないと思うかもしれないけれども、東日本大震災のときには東京でもスーパーの食料品の棚が空になったし、去年は米が足りないと大騒ぎになった。日本人がお腹いっぱい食べられるようになったのは、高度経済成長以降のことで、その前は食べ物がなくて餓死する人もたくさんいたわけで、また同じようなことになる危険性だってあるわけだ。自分の身は自分で守る。家庭菜園でいいので、食べ物を作るということを意識した方がいいと思うよ」そんな話をした。「でも、若い人は農業をやろうと思わないものな。農業やりたいと思うかい?」順番に聞いてみた。「いえ」と2人が答えた。3人目が無口な子だ。「君ならどう?」その子に問いかけた。こっちをしっかり見ているけど声は出ない。「農業は嫌いですか?」首を横に振った。「えっ、農業やりたいと思っているの?」うなづいた。ひょっとしてひょっとして、その子は4年間で初めて自分の意思を表示したのではないか。たしかにたしかに、その子が企業でうまくやっていけるとは思えないが、畑や田んぼで作物を育てている姿はイメージできる。人とは話せなくても、動物や植物とは気持ちを通わせることができるかもしれないのだ。「一度、うちに遊びにおいで。ヤギもいるし犬もいるし、畑もあるし。将来の参考になるかもしれないよ」下を向いてしまった。本当は来たいのだと思う。でも、それをぼくに伝えるのは、ちょっとハードルが高いか。ぼくができるのはそこまでだ。これから半年、週に一度だが授業がある。もう少し密なコミュニケーションができたら。畑で働く若者が一人増えるかもしれない。
2026年07月12日
コメント(0)

ある乳がんの患者さんの話。まだ早期の状態だったこともあり、主治医からは手術をすすめられた。主治医からすれば、早期なら手術で治るとわかっている。医者という立場からすれば正しい選択を伝えたわけだが、言い方がビタミン剤を注射しましょうくらいの軽い感じで言われたので、どう返事をしていいのか彼女も戸惑ったようだ。医者にとっては日常のことだけれども、彼女としては命にかかわる大事なのだ。それに女性にとっては、早期のがんとは言え、場所が胸だから、メスを入れることに抵抗があって当たり前だ。今は温存療法が主流と説明されても、彼女はすぐには「はい」と返事ができなかった。彼女はほかの医者にも診察をしてもらうことにした。できれば手術はしたくない。だから、西洋医学だけでなく、東洋医学や代替療法(西洋医学以外の治療法)まで視野に入れた治療をしている医者を探した。彼女が「この人なら」と感じたのは帯津良一先生だった。たくさんの著書があって、何冊か読んでみると、温かな人柄が伝わってくる。「こうしなければいけない」という医者にありがちな押しつけがない。「患者さんに寄り添う医療が大切だ」とどの本にも書いてあった。この先生なら手術をしたくない気持ちがわかってくれるだろうと期待をもって診察を受けたのだ。帯津先生は、手術や抗がん剤といった西洋医学の治療を否定しているわけではない。先生が考える、患者さんの現状にもっとも適した治療法を提案してくれる。しかし、手術が適していると思って伝えても、どうしても手術が嫌だという人も多い。先生は自分の考えを伝えた上で、「家族と相談して一週間後に返事を聞かせてください」と言って、その日の診察を終えるのだ。一週間後、「やっぱり手術をしません」と考えが変わらない人だったら、手術以外の方法を一緒に考えてくださる。彼女の場合も、先生の見立てだと、手術が一番の選択だった。決して難しい手術ではない。そのことを手術は嫌だという彼女にどう伝えるか。先生は言った。とっさに出た言葉だそうだ。「あなたみたいな美人ががんで死ぬなんて、私には耐えられないな」思ったことが口からぱっと出たのだろう。これが彼女の心を動かせた。「わかりました。手術を受けます」彼女は今も元気に働いているそうだ。ときどき帯津先生の診察も受けている。いくら初期と言っても、がんと診断されて平気でいられる人は少ない。動揺するし悩む。揺れ動く心に、どんな言葉が響くか。帯津先生のような粋なひと言が言えるのは、センスだろうな。だれでも言えるものではない。医学部では教えてくれない。こういう医者が増えたらいいなと、先生に会うたびに思う。
2026年07月10日
コメント(0)

「実は週刊新潮に『週間食卓日記』というのがあって、そこで私の食生活が紹介されました」わが師である帯津良一先生がうれしそうに話してくれた。今年の2月に90歳を迎えた現役バリバリの医師だ。ほとんどの患者さんが深刻ながんの人だから、エネルギーも使うだろうが、肌はピカピカ、いつもニコニコしていて、専制はきっと、エネルギーを使っても使っても減らないタイプらしい。気功をやっているから、常に補給していて不足することはないのだろう。さて記事だが、面白い。まずタイトルがいい。「朝からビール三昧。休肝日なくとも90歳まで無病息災」まさにその通りだ。6月9日から15日までの一週間の先生の食生活。「生ビール」が何回出てくるだろうか。一日一回なら7回ですむが、先制の場合は、出張だったり休日で診療がないときには、朝昼晩と生ビールをいっぱいやるのが楽しみになっている。この一週間では、9日に香港から帰国。火曜日だけど3回、水曜日は1回だが木曜日は昼に知り合いと食事をしたということで昼夜の2回。金曜日は1回。土日は北上に出張だったので6回生ビールが出てくる。一週間で合計13回も生ビールが出てくる。朝からビール三昧というのは当たっている。最後の献立評論家の方が採点をしている。「こんなに生ビールを飲んでいてはボロカスに言われるかと思った」普通はそう考える。でも、先生は悪びれない。言いたい人には言わせておけばいいという主義だ。そしたら、なんと100点満点で98点という高得点をつけてくれた。まあ、ずっと休肝日なしで、コロナで陽性になって地域の病院に入院させられたときも、「酒が飲めないなら帰る」と自分の病院でお酒の飲める入院生活を送った人だ。90歳まで大した病気をしたこともない。そんな人に、「お酒もほどほどにしてください」というのはおかしな話で、先生の元気な今が、98点という高得点につながったところもある。先生のお酒との付き合い方は、ひとつにはだらだら飲まないというのがある。6時ごろに飲み始めれば、だれが相手であろうと8時には引き上げる。好物をつまみながら、好きなお酒を飲む。話を合わそうとしない。沈黙が続けば静かに飲む。人のうわさ話や悪口は言わない。説教もしない。自慢話もない。それでいて、相手の人が愚痴を言ったり、不平を漏らしても、うんうんと黙って聞いている。「酒を愛することが大切だ」いつもおっしゃっているが、まわりを気にして飲むのは酒に失礼だという迫力がある。これだけ自分が愛しているお酒なのだから、体に悪いはずがないという、確固たる自信にあふれているのだ。ここまで慕われたら酒もさぞかしうれしいだろう。こういう飲み方をしてこそ、貝原益軒が言うような「天の美禄」になるのだ。新潮の記事を読んで、あらためて恐れ入りましただ。ぼくは、月に一度、先生と一献傾ける幸せな時間をもらっている。少しは先生に近づけないかと思うのだが、ここまでの度量の大きさは、ぼくには無理だな。
2026年07月09日
コメント(0)

定時制の授業ではプリントを配って、問題を解いてもらう。しかし、静かに問題に取り組むような連中ではない。わーわーと話をしたり、動き回ったり、無秩序状態だ。中には静かにしているなと思うと、AIで出した答えをそのまま書いて、「できました」とどや顔をしているのもいる。良し悪しは別にしてこれからはAIの時代になるから、ひとつの解決法としてありなのだろう。だけど、やはり危うい現実でもある。ぼくなりの考え方もあいつらに知らせたい。でも、まともに話しても耳を貸さないのは火を見るより明らかだ。この間、「ドラえもん」の第一巻を読んだ。1969年に連載が開始されたそうだ。60年近く前のこと。なぜドラえもんを読もうと思ったか。ドラえもんが出す道具が、あのころから見ると未来、つまり現代を予言したものだという話を聞いたからだ。確かに、ドラえもんの定番であるタケコプターはドローンだ。どこでもドアはVRかもしれない。こんな話があった。のび太がゴロゴロしていると、ママから「庭の草を抜いて」と命じられた。のび太はこのままゴロゴロしていたい。でも、やらないとママにこっぴどく叱られる。困ったときのドラえもん頼み。ドラえもんものび太には甘いので、面白い道具を出してくれた。その道具を使えば影を切り離すことができる。影はご主人様の命令に忠実。こんな都合のいいものはない。のび太は草抜きだけでなく、宿題をやらせたり、片づけをやらせたり、「わーい、楽ちんだ」と大満足だ。しかし、この道具を使うときの制約がある。30分以上は使ってはいけないというものだ。30分以上使うとどうなるのか。影がどんどん本体の人間に近づいて、本体の方が影に近づいていくのだ。そして、ついには本体と影が逆転してしまう。ゴロゴロしているのび太は影にならなければならない。楽ちんだと喜んでいたのび太。とっくに30分は過ぎている。姿を見ると、あれあれ、影のように黒くなっているではないか。影はのび太の命令をきかず、好き放題やり始めた。のび太は影になっていく。さてさて結末は?ぼくはAIで答えを出している生徒に、この話をしてあげた。そして言ってやった。「ドラえもんは予言書だ。未来の出来事が書かれている」「お前も影の話と同じで、AIに頼り過ぎていると、いつの間にかAIに命令される側になってしまうぞ。それでいいのか」きょとんとしていた。わからなくていいけど、ドラえもんを例に出すと、確かに聞く耳はもってくれた。第2巻を買うかどうかはわからないが、「ドラえもん」の予言を読み解くのは面白いかもしれない。
2026年07月07日
コメント(0)

あのとき違う選択をしていたらどうなっていただろうか?たまにそんなことを想像するのも面白い。よくパラレルワールドという。そんなのがあるのかどうか、ぼくにはわからないが、想像や妄想の世界では、いくらでもパラレスワールドに旅することができる。20代のころ、2年だけサラリーマンをしたが、「こりゃダメだ」と方向転換を考えた。だけど、何をやっていいかわからない。そこで教師になろうと決めた。ぼくは工業高校の教員免許をもっていた。しかし、大学で専攻したのは経営工学で、工業高校にはそんな科はない。統計学や情報処理、生産管理、システム工学、会計学、人間工学といった科目があったがさっぱりわからなかった。まして、工業高校だと機械や電気、電子、建築のことを勉強する。ぼくにはチンプンカンプンだ。とても工業高校の教師など務まらない。それで、玉川大学の通信教育で「中学社会科」の資格を取り、それで採用試験を受けた。中学校の社会科なら得意かもしれない。しかし、当時は教員になりたい人が多くて、中学社会はもっとも倍率が高かった。受かるはずがない。違う道を模索して、結果オーライだったが、文章を書く世界へと足を踏み入れたのだ。今思いがけなく、工業高校の非常勤講師をしている。ぼくが担当するのは機械科の機械設計という科目だ。設計などしたことがない。だけど、そんなぼくでも、やれることがある。設計をする際の基礎となる数学、物理学を教えればいいのだ。三角関数や力のモーメントといった、基礎的なものなら、何とか教えられる。長く工業高校の教員をやってきた友だちに聞くと、機械科を卒業した人が電気のことを教えたり、畑違いの科目を担当するのは当たり前で、みんなやりながら覚えていくらしい。そうしたことを総合すると、20代のとき、工業高校の資格で採用試験を受けても、何とかやっていけたかもしれないのだ。中学社会よりははるかに受かりやすかったはずだから、その気になれば実現していたパラレルワールドだ。三重県には、桑名工業、四日市工業、四日市中央工業、津工業、松阪工業、伊勢工業などがある。ぼくはそのどこかに配属されて、教員生活をしたわけだ。工業高校にはやんちゃな生徒が多い。どういうふうに彼らと向き合ったのか。非常勤をしていて、やんちゃはいないが授業はまともに聞こうとしない生徒がほとんど。ぺちゃくちゃしゃべったり、歩き回ったり、こっそりスマホを見たり、寝ている奴もいる。ホワイトボードに数式を書くと意識が違うところへ飛んでいく連中ばかり。ぼくは基本的にはあれこれ言わないようにしているので、まったく秩序のないクラスになってしまっている。いろいろ経験してきて70歳になったぼくは、この無法地帯は無法地帯でいいと思って、授業を少しずつ進めながら、一人ひとりと話しながら80分を過ごしている。しかし、20代のぼくはこれに耐えられないと思うな。「静かにしろ!」「うるさい!」と怒鳴っていたかもしれない。勉強などしたくない奴らに勉強を教えるのは、とんでもないストレス。勉強を教えることとは違うところに自分の存在意義を見出さないと、確実にパンクする。クラス担任になったら、勉強以外のことでも振り回される。ひょっとしたら、パラレルワールドのぼくは精神的に病んでしまっていたかもしれない。となると、今の世界のぼくは、ベストの道を選んだのだとホッとしたりする。パラレルワールドにいるぼくに対しても、「大変だよな」とやさしい気持ちになれる。この世界で、ぼくたちはいろいろな体験をする。メインの道ではなくて、脇道に入ることもあるが、その脇道というのは、もしパラレルワールドがあるなら、その世界の自分にとってはメインの道なのかもしれない。小さなつながりをもって、パラレルワールドとはかかわっていて、そこが横のつながりをもてるドアになっているのではと思ったりする。週一回、片手間の教師だけれども、ぼくのやっていることが、少しは別の世界の自分の役に立てればと思う。
2026年07月06日
コメント(0)

午後から雨が降り出して、夕方はWOWOWでラグビー観戦。ネーションズカップと言って、世界のベスト12のチームが、北半球と南半球に分かれ、北半球対南半球で6試合ずつ戦うという新しい世界大会だ。いつものことながら、日本代表戦は、絶望したくない、長いため息は嫌だ、という防衛本能が働き、負けることを前提に見る。80パーセント負け、20パーセント勝ちの割合かな。いい試合をしてくれたら御の字という思いで、熱くなりがちな胸を冷ましているのだ。ジャパンの大敗をどれだけ見てきたことか。そんな世代の人間だから。相手はイタリア代表。かつては対等のレベルだったが、この春はスコットランドにもイングランドにも勝っている。レベルアップが著しいチーム。先制のトライはイタリア。開始5分。テレビで見た限りは、簡単に抜かれてしまっている。これじゃ勝てないよ、と負け犬がささやく。しかし、そこからのジャパンは違った。スクラムも負けてないし、モールにも耐える。タックルもいいし。21歳のSO伊藤龍之介が途中から目立ち始めた。キャプテンのディアンズの推進力は勢いを与える。小さなウイング2人もいい動き。課題のハイボールも負けていない。ディアンズのトライ、広瀬→松永のトライ、そしてPKで17点。イタリアはPKを加えて10点。前半をリードする。後半。次の点数が大事だ。だいたいジャパンは後半が始まってすぐに痛い目にあい、ずるずると負け戦になってしまう。ところが、やったじゃないかベン・ガンター。トライだ。彼のパワーには紙一重の危うさがある。すごいスティールをしてピンチを助けることも多いが、ペナルティになることもよくあって、ハラハラする。タックルも強烈だが、ときどきハイタックルになってイエローカードをもらう。今回も「ああイエローだ」と頭を抱えてしまうシーンがひとつあった。きっとギリギリの高さだったのだろうな。だけど、あの激しいプレーは日本代表にはなくてはなららい武器だ。そのあとPGを決めて合計27点。おお、後半はイタリアを0点に抑えているではないか。あと2トライは取れた試合だった。ぜいたくな感想だ。日本代表が強くなったのか。それともイタリアの調子が悪かったのか。次のアイルランド戦でどんな試合をするか。「イタリアが本調子じゃなかったんだよ。ミスが多かったもの。アイルランドには歯が立たないよ」負け犬はまだまだ黙ろうとしない。「ジャパンは強くなった!」アイルランド戦で証明しておくれ。そして、ぼくの中の負け犬をだまらせてくれ。↓50年近く前のぼくの雄姿(?)
2026年07月05日
コメント(0)

どうしたら田舎を元気にできるか?難しいテーマだと思う。若者が出て行き、どんどん高齢化していく田舎。「仕方がない」とあきらめている田舎人が大半ではないか。「何とかしなければ」と思っても、何をしていいかわからないという人も多い。「自分が生きている間だけでも存続していればいい」という自己中心的な人もいる。全国を見渡せばうまく活性化できているところもあって、本が出ていたりする。しかし、それはあくまでも参考で、真似したからと言って、うまくいくものではない。村にも特徴があるし、動く人たちの特性もある。己を知って行動しないと、だいたい迷路に迷い込み、雲散霧消という結果に終わってしまう。ぼくが故郷へ帰って1年半になる。うちの村の人たちはみなさん働き者。せっせと田んぼや畑で働き汗を流す。ただ、姿を見るのは50歳以上ばかりで、20代30代の若い人たちもいるのだが、彼らは朝早くに会社へ行き、遅くまで働いて、休みの日は家で休むか、外へ遊びに行くというライフスタイルで、村での交流はほとんどない。このままでは、田畑は荒れ地になったり、太陽光のパネルが並ぶという状態になってしまう流れは明らかだ。そうならないためにはどうするか?たぶん、村の若者には田畑を耕そうとする気持ちはない。親世代も、子どもに農業をやらそうとは100パーセント思っていない。となると、外から農業に意欲のある若者を呼び寄せるしかない。そのためには、村に「行ってみようかな」と思わせる魅力をもたせないと。ということで、ぼくは大音寺という住職のいないお寺を活用することを考えた。檀家も11軒しかないし、存続が風前の灯。しかし、数少ない檀家が力を合わせてがんばっているおかげで、荒れ寺になっていない。人を呼べるイベントをしよう!そんなことを思い立って、去年からお話会や音楽会を企画してきた。おかげさまで、20人くらいの人が集まってくれる。ほとんど外の人だが、村内で完結するよりも、外からの刺激があった方がいい。昨日は、水曜日にもかかわらず、32人もの人が集まってくださった。西本真司先生という、ホリスティック医学と言って、西洋医学だけでなくさまざまな治療法を駆使しながら、肉体のみならず、心や魂の部分まで癒していこうという医師がお話をしてくれた。ご本人も、20代のころに潰瘍性大腸炎という難病で苦労した経験がある。何しろ、主治医からは「99・999パーセント治りません」と言われたほどの重症だったのだ。再発を何度も繰り返したようだが、薬を徐々に減らしながら、東洋医学や代替療法(西洋医学以外の治療法)を使って、完治させた。その経験をもとに、今はたくさんの難病患者さんの治療を行っている。なかなかこういう医師とは出会えるものではない。ぼくは、真氣光という気功のグループがきっかけで、西本先生がまだ闘病しているころに知り合った。その縁で、今回、わざわざ来ていただくことになったのだが、歌あり、笑いありの先生の話は、病気でつらい思いをしている方の気持ちを確実に楽にする。質問もたくさん出て、2時間半という長時間のお話会だったが、みなさんとても喜んでくださった。こういうことを続けていくと、少しずつ協力者が増えてくる。すばらしい活動をしていたり、高い志をもっている人のネットワークができる。彼らに、このお寺を好きになってもらい、活用してもらい、村を応援してもらう。知恵もたくさん出てくる。労働力にもなってくれる。そんなふうな将来をもくろんでいるのだ。年内にあと3回くらいは楽しいイベントを企画したい。すぐには変わらないが、徐々には変化していくはずだ。まあ、少なくともぼくは楽しめているから、あまり大きなことは求めず、一歩一歩進んでいこうと思う。昨日はいい一日だった。
2026年07月02日
コメント(0)

今日はこれから人間をまるごと診るホリスティック医学を引っ張っている、和歌山市で開業している西本真司医師のお話会がある。我が村に小さなお寺がある。住職がいなくなって20年くらいたつだろうか。檀家も11軒ほど。お年寄りが力を合わせて寺のお世話をしている。年に2回くらいしか使わないお寺だが、きれいに維持されている。しかし、お世話する檀家も高齢化。世代交代もうまくできてないため、だんだん負担になってきている。これからお寺をどうしたらいいのか。みんなで前向きでない話し合いが続けられてきた。そんなところへぼくが帰ってきた。「お寺は村の柱。なくしてはいけない」理想論をぶち上げ、「俺が何とかする」なんて偉そうなことを言った。すぐにいい案が浮かぶはずがない。ただ、人が集まれば知恵が出るというモットーが、ぼくにはある。「俺が人を集める」イベント企画はいろいろやってきた。知り合いも多い。と言うことで、去年4回。今年はぼくが主催のイベントを1回、知り合いが2日間のイベントを開催してくれた。会場費は3000円。お寺に人を集め、収入にもなることを形にするという第一段階は、まあまあのスタートだと思う。こんなことをしていますよと発信していたら、古い知り合いの西本先生が、7月1日に患者さんとお伊勢参りに行くので、帰りに寄りますよとうれしい申し出をしてくれた。伊勢から鈴鹿、そして和歌山となると、果たして帰り道なのか。わざわざ時間を作ってきてくださるのだと思う。ありがたいことだ。でも、水曜日だしどれだけの人が集まってくれるだろうと、不安もあった。少人数しか集まらなかったら、お忙しいのに、わざわざ来てくださる西本先生にも申し訳ない。しかし、大音寺でのイベント、応援してくれるエネルギーがあるとしか思えないが、とてもスムーズに人が集まるのだ。さっき参加者名簿を作ったが、28名が申し込んでくださっている。ほとんどが村外の人だ。大音寺にこんなにもたくさんの人が集まるのはあり得ないことだ。人の集まりがあって、村のことを知ってもらって、何かここでやりたいと思う人が出てきて、少しずつ村が活性化していく。来年は、このお寺と近隣の家を使って、朝市をしようと考えている。「あそこでは面白いことやっているよ」そう思わせる仕掛けをしていく、村を巻き込んでいきたい。平日の昼間にこんなにも人が集まってくれるというのは、ぼくにとっては大きな自信にもなった。西本先生のおかげだ。
2026年07月01日
コメント(0)
全23件 (23件中 1-23件目)
1

