老師の言葉 0
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久々に、キホといるかのはたけへ行った。今年はこれで最後になる。作物はうまくできたとは言えないが、ずいぶんと楽しませてもらった。年明けには大根を収穫しよう。太くなってくれないけど。梅の木の剪定をした。何十年も放置された木だから、とんでもなくいびつになっている。それを剪定などしたことの手に負えるはずがない。でも、できるだけ日当たりを良くして、風も通るようにと、枝を切ってみた。車の中でキホと、「お前にとっての今年は漢字一字にすると?」と聞いてみた。すかさず「夢」と返ってきた。今年は、市内の障がい者施設で働き始め、いるかのはたけもがんばった。どちらもずっとやりたいと思っていたこと。彼女の夢だった。それがかなった。これからもっと大きな夢に向かって進んでいける手ごたえを感じているようだ。ぼくにとっても、いるかのはたけは思わぬ展開だった。夢がかなったのかもしれない。夢をかなえるコツは、日々、さまざまな夢がかなっていることを確認することが大切だ。夢というと、大きなことを考えてしまって、夢はかなわないものと思ってしまうが、自分をよーく観察すると、小さな夢はたくさんかなっているはずだ。ぼくも、子どものころには、運動会でリレーの選手になるのが夢だった。でも、足が遅くて、そんなのはかなうはずのない夢だった。しかし、大学でラグビーをやって、そこそこ足が速くなって、就職してから、ついにその夢がかなった。部署対抗のリレーがあって、その選手に選ばれた。大きな会社だったので、部内予選があって、ぼくはそのころ、足が軽くて、ばんばんと走れて、トップスリーくらいに入ったと思う。第三走者だったかな。トップでバトンをもらって、本当に気持ちよく走った。トラック一周200メートル。歓声が追いかけてくるような感じだ。面白いのは、翌年は急に体が重くなって予選落ち。本当に一瞬の輝きだった。夢がかなって、それで良しということなのだろう。キホと話をしていて、そんなことを思い出した。ぼくたちは、「夢はかなうんだよ」ということを、毎日の生活の中で教えてもらっている。それに気づいて、喜んで、感謝できる人は、またもっと大きな夢がかなう。
2018年12月23日
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どんなことも本気になって取り組めば応援がつく。まわりの人たちはもちろん、ご先祖様とか守護霊様も間違いなく応援してくれる。応援してほしければ、まずは何をやりたいのを明確にすること。それが決まってなければ応援のしようがない。やりたいことが見つかるよう応援してほしいなら、真剣になってやりたいこと探さないと。そうすると、だれかのアドバイスとか、出会いがあって、物事が進み出す。やりたいことが見つかったら、できない理由を探さず、それに向かって、できる準備からしていく。自分がご先祖様とか守護霊様だったら、一所懸命にがんばっている子孫を見れば、応援したくなるはずだ。体があってもなくても、気持ちとか情は同じだ。できることが違うだけ。最後に、失敗を糧にしていくこと。人の失敗もありがたくいただいてしまう。失敗の中にこそ、たくさんの成功の種が眠っている。世の中は、すべてうまくいくようにできている。どんなときも自分を守ってくれている存在がある。それを信じてやり続ける。ぼくも、いろいろな人や見えない力に応援されてここまできたし、これからも、背中を押してもらって、道案内してもらって、気持ちよく、人生のすばらしいクライマックスに向かっていく。
2018年12月22日
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昔、真氣光の研修講座で「知行合一」という言葉を習った。知っていることと行動が一致しないといけない。知っていることは行動で示そうということ。この言葉をずっと意識して生きてきたけど、ぼくの場合、とても消極的な「知行合一」だった。どういうことかと言うと、自分ができないこと、できてないことは言わないようにしてきた。知らないふりをしてきた。できることだけを言っているわけだから、行動も難しくない。知らないふりをしながら、知らないのだから行動しなくていいと逃げてきた。来年はちょっと前進しようと思う。積極的な「知行合一」に向けて。知らないふりを減らす。たとえば部屋を整理整頓する。これはぼくにとってはむちゃくちゃ苦手なこと。だけど、部屋をきれいにした方が気持ちいいし、運気も高まるというのは、絶対に間違いない。知っていることだけど、見ないふりをしてきた。行動もしない。だから、いつまでもぼくの部屋はぐちゃぐちゃだ。自分の生活を見直すと、ずいしょにそういうところがある。これを減らそうと思う。自分が知ったことで、納得ができたことに関しては、行動へとつなげていく。やってみよう!
2018年12月21日
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「本当にやるべきことは、お金がなかろうが、時間がなかろうがやるからね」ある人に言われた。お金さえあればこんなことやるのに、と思うことは多い。でも、条件つきの案件は、もし条件がそろってもうまくいくことは少ないそうだ。「できない理由を探しているようでは無理ですね。心の底ではおっかなびっくりで、できたらそんな冒険をしたくないと思っているんですから。本当にやりたいと思ったら、今の状況でできることから行動しないと」そうも言っていた。本当にその通りだと思う。どんな形であろうと、一歩踏み出すことで、状況が変化してくる。そしたら、また新しい状況の中でできることをやる。その繰り返しの中で、徐々に形が整ってくる。応援してくれる人も出てくる。娘がキッチンカーをやりたいと言っている。口だけなのか、本気なのか、様子を見ていると、けっこう動いている。起業のセミナーに出かけたり、今度はある大きなイベントでキッチンカーのアルバイトをする。どんなふうにキッチンカーが出店しているのか、ビジネス街にも見学に行くのだと言っている。一緒にやろうと言っている友だちともミーティングをしているようだ。そうやって自分で動いていれば、こちらも応援してあげたいという気持ちになってくる。最近、ぼくにも農業の関係でいろいろな話が舞い込んでくるけれども、五日市でいるかのはたけを始めてからのことだから、曲がりなりにも行動をしたことが起爆剤になっているのだろうと思う。来年は、さらなる行動の年にしよう。なんでもかんでも動くのではなくて、きちんとチョイスして。動くか動かないかの判断ができるくらいの体験は積んでいるから大丈夫だと思う。
2018年12月19日
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PayPayなんていう、中国のパンダの名前みたいなのが、騒ぎを起こしている。お金を支払う新しい仕組みのようだ。クレジットカードで買い物をするのと何が違うの? って感じだけど、そんなのにみんなが群がる。20%が還元されるサービスがあるからと言っても、きちんと大元は儲けているんだから。踊らされて、お金を吸い取られてしまうという仕組みさ。こういうときこそ、現金を大事にすべきだと思う。数字のやり取りだけの虚像の世界は、必ず崩壊してしまうから。昔の貨幣経済には、金というしっかりした後ろ盾があった。それが紙切れになり、今は数字だけ。今の貨幣経済は砂上の楼閣のようなもの。お金についても、もっとしっかりと考えていかないといけないなと思う。
2018年12月18日
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テレビで、あおり運転で人を死なせた奴の判決が出るという話をしていた。ひどい事件だと思う。注意されて腹が立ったんだろうな。だからと言って、あそこまでやっていいのか。やっぱり異常だよ。それをどう裁くのか。厳しい判決が下されるんだろうな。それは当然だと思う。ただ、こういう問題は、それでは解決しないんだよな。よく、「二度とこういうことが起きないように」と、被害者が裁判を起こしたりするけれども、悲劇は繰り返されている。なんでなんだろうね。人っていうのは争い事が好きで、殺し合いをするようにできているのかね。世界を見ると、あちこちで戦争が起こっている。たくさんの人を殺した方が正義だ。そういう大きな社会があって、その中で暮している個人は、やっぱりその影響を受けてしまう。そういう世の中だからこそ、人を傷つけず、だれもが幸せに生きられる社会を作ろうとすることが、成長や発展につながるのかもしれない。世の中の悪しき潮流に流されず、一人ひとりが、何が大切かということを考え、行動していかないといけないんだろうな。本当に人間というのは大変な修行をしているよ。J・S・ミルという人が、「自由論」という本の中で、こんなことを言っているのだそうだ。「真の自由は他人の幸福を奪わず、自分自身の幸福を追求することである」いいことを言う。簡単なことではないけれども、何かをするときには、ちょっと考えてみるといいかもしれないな。
2018年12月14日
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お尻に火がつかないと動かない。「待つこと」が自分の本質とは言え、ときどき、これでいいのかと思うこともある。小さいときからそうだった。いつもぼーっとしていて、自分から進んで何かをやることはなかった。何か外からの働きかけがないと、昨日のように今日を生き、明日のこともあまり考えない。そんな子どもであり若者だった。それでも何とかくうまくいってしまう。大学も、最初に受けたところを落ちて、2番目も落ちて、一番可能性が高かった3番目も落ちて、ここは受からないだろうと思われていた最後の大学に受かった。卒業して、サラリーマンをやめて、フリーのライターになって、それほど才能があるわけでもなく、がんばるわけでもないのに、60歳を過ぎても生き残っている。努力とは無縁の人生を生きてきた。努力しないで生きてきた人間が、もし努力をしたら、人生はいい方向にがらりと変わるのだろうか?それとも、リズムが狂ってダメになってしまうのだろうか?一生に一度くらい全速力で走るのもいいのかもしれない。でも、今まで通りに、細く長く生きるのもありだし。やっぱりこのままいこう。それが自分らしさだ。10年後も同じことを言っているかも。こうやって70歳、80歳まで生きられたら、それはそれで最高の人生だ。
2018年12月13日
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「できる」と思ってできることがあるし、「できる」と思ってできないことがある。「できない」と思ってできることがあるし、「できない」と思ってできないこともある。できると思えばできるんだ!願いはかなう!という教えは、一番上の現象「できると思ってできること」からくるもの。単純に考えてみて、世の中の現象の4分の1は、そういう関係になっている。しかし、すべてが「できる」と思えば「できる」ものではない。だいたい、西洋の思考は「因果関係」。「『できる』と思う原因があって、『できた』という結果が生まれる」と考える。だから、「できる」と思えば「できる」という法則がまことしやかに語られる。世の中の4分の1は、そうなっているから、それを題材に、すべてのことを当てはめようとする。一番下の「できない」と思っているから「できないんだ」という考え方にもつながる。だけど自分の体験を見直して、冷静に考えてみると、二番目も三番目もあるはずだ。ぼくの場合、確かに本を出すというのは夢だった。でも、「できる」なんて思ったことはなかった。「そんなことできるものか」というのが、ほとんど100%だった。でも、できてしまった。それも20冊以上。なぜそうなったかわからない。ぼくは、「因」と「果」の間に、もうひとつ方向を決める要素があると思う。それが「縁」。これはたぶん東洋的な考え方。因縁という言い方がある。「因と縁」が「結果」を生み出す。因は種にしか過ぎない。種を播いたって必ず実がなることはない。縁が必要だ。どういう土壌に種をまくか、水はどうか? 光は? 気温は? 風は? 虫たちは? 栄養は?いろいろな要素が絡まって、芽が出て、葉が出て、花が咲いて、実がなる。これが縁。ぼくにとって、本を書きたいという夢は種。20代後半からの、さまざまな出会いが縁となって、夢は実現した。ぼくは思う。無理に「できる」などと思わないで、「先はどうなるかわからない」「すべてのことは意味があって起こっている」ということを信じることだ。「できる」と思えばできる! なんて力まないで、できるときにはできるし、できないときにはできない、できてもできなくても、いい方向に進む一歩だと、気楽に考えればいいと思うけどね。
2018年12月11日
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安心して生きられる根拠ってあるのだろうか。仕事が順調だから?家族が仲良くしているから?貯金があるから?健康だから?そんなの、いつ崩れるかわからないのに、人は、大した根拠もなく安心していられる。逆に、不安になる根拠は?仕事がうまくいかないから?家族が不仲だから?お金がないから?病気だから?これだって、安心の根拠と同じくらいもろいものだと思う。明日のことはわからない。大会社がつぶれることもあれば、突然、とんでもない災難に見舞われることもある。たくさんのお金があるにもかかわらず、お金がなくなる不安をもって生きている人もいる。健康であっても、病気になるのではないかという不安にさいなまれている人もいる。貧しさや病気が人生を大きく変えて、楽しい日々を生きる人もいる。もともと幸せとか不幸せなんてのは自分の思い方次第で、客観的な基準などないのだから。安心も不安も、主観でしかない。諸行無常。世の中は常に移り変わるもの。いいときも悪いときもあるさと、腹をくくって生きていこうと思う。
2018年12月06日
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次々といろいろなことが起こってくる。いいことばかりならいいが、だいたい、都合の悪いことが、いいこと以上にあるものだ。それをどう受け止めるか。嘆いたり愚痴ったりしてしまいがちだが、そんな受け止め方だと、負の連鎖に巻き込まれてしまう。常に変化の中で、ぼくたちは生きている。その変化は、自分が起こすこともあるだろうし、予期せぬところから起きることもある。どちらにせよ、変わるべきときには、変わるべき出来事があるのだ。ピンチであればあるほど、そこで立ち止まって、しっかりと考える必要がある。やっと一本の原稿を仕上げた。ある人のヒューマンドキュメント。会社の社長で、取引先が倒産したあおりを受けて、大ピンチに陥った。そのときに、それまでおんぶにだっこだった経営を、自立した経営に変えるという勇気ある行動をとった。決して簡単な道ではなかったが、彼は腹をくくった。そしたら、応援団が次々と現れて、会社は立ち直った。会社がつぶれるかもしれないという大ピンチになったからこそ、その社長は方向転換ができた。自立することができた。この間、廊下に置いてあった椅子に左足の小指をぶつけた。痛かった。小指の爪が半分はがれた。どんなことにもメッセージがある。家内の勉強している占いだと、足先にトラブルがあったときには、方向性を見直しなさいという意味があるのだそうだ。方向性。しっかりと自分の心を見つめてみると、確かに心当たりはある。いい流れに乗っているのは間違いない。ちょっとだけ修正すれば、もっといい感じで流れていけるはずだ。まずは、今日、やるべきことを、しっかりとやろう!
2018年11月30日
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12月9日、帯津良一先生をお迎えして「講演会&忘年会」を開催する。2年前、家内と2人だけの会社「オフィスオハラダ」の5周年を記念して始まった会で、今年が3回目となる。毎年参加してくださる方もいれば、初めての方もいる。おかげさまで、きちんと40人くらい、定員ぴったりの人数が集まってくださる。今年も週末で締め切る。2年前、会場をどうするか困っていたとき、自然栽培の卸業をやっている松浦さんという方に連れられて、大手町の居酒屋へ行く機会があった。鴨川で自然栽培をやっているおーちゃんも一緒だった。自然栽培の食材を使っているお店で、大西さんという社長と松浦さんは親しくしていた。おいしい料理にお酒。いい気分になったころ、大西さんが顔を出してくれた。初対面だったけれども、氣と氣が絡み合うのがわかった。いわゆる氣の合う人だった。彼に「こういうイベントをやるんだけど、いい会場知りませんかね?」と聞いてみた。そしたら彼は、「うちを使えばいいじゃないですか」と思ってもみなかった提案をしてくれた。でも、忘年会はここでいとして、講演会をどうするかだ。すると、「もう一軒お店があって、講演会ができるようなスペースが作れて、40人くらいなら入れますよ」とのこと。もう「お願いします」と即決。ずいぶんとサービスもしてくれて、最高の場所が見つかったわけだ。こういう現象に出あうたびに、「いったい、どういう力が働いて、こんなにうまくいくのだろう」と思ってしまう。何か努力をしたわけでもない。ただ、困っていることを口にしただけのこと。そのお店だって、誘われるままに着いていっただけのこと。どうしても、がんばらないといけない、努力しないといけないという思いが、抜けない。そうすると、がんばらない、努力しない自分はダメなんだと、自分を責めてしまう。でもね。現実を見ると、何もがんばらなくても、努力しなくても、うまくいっているわけだ。それだったら、それでいいじゃん。がんばりとか努力の呪縛から、早く逃れないと。本当は神様がうまく按配してくれている。それに乗っていけばいいだけのこと。余計にがんばるから、しなくていい努力をするから、うまくいかない。「その通り」神様は、日々の出来事を通して、宇宙の法則を見せてくれているのに。すべてのことはうまくいくようにできている。うまくいかないのは、神様が作ってくれた流れにさからうからだ。素直に流れに従って生きればいいのだ!
2018年11月29日
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コンビニで買い物をしてお釣りをもらうと、ぼくは必ずそのコインの製造年を見る。コイン磨きを始めてから、こいつはいつ生まれたのだろうということが気になる。ぼくの印象では、昭和49年生まれの10円玉とよく出会う。ぼくとの関連性からか、それとも世の中にたくさん出回っているのか。だけど、45年も前の10円玉だから、それほどたくさん残っていることもないと思う。そうなると、昭和49年というのは、ぼくにとっても大事なキーワードかもしれない。昭和49年と言うと、3月に高校を卒業して4月に大学入学。大きな年だったのは間違いない。コインたちの生まれた年を見て思うのは、こいつらがんばってるなということ。昭和49年に生まれた10円玉は、45年間、どんな旅をしてきたのだろうと、10円玉の半生に思いを馳せる。あのころ公衆電話は10円玉を入れた。ぼくも実家へ電話をするときには、10円玉をいくつも用意してかけたものだ。こいつも一度や二度は公衆電話に入ったことがあるだろう。そのとき、だれとだれがどんな話をしていたのだろうか。そんなことを想像する。そして、ご苦労様だったなと言って、財布にしまい、支払うときには、もう一仕事しておくれと、送り出す。今は数字ばかりが動く時代。コインやお札たちも生きづらくなってきた。もっともっと感謝されないといけないお金たち。でも、悪者にされたり、乱暴に扱われたり、かわいそうなものだ。お金を大事に扱ってあげたいと思っている。
2018年11月28日
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ものごとというのは、うまくいくことといかないことがある。どうしても、うまくいかないことに目が向いてしまう。そして、そこで前へ進めなくなったり、自分を責めてしまったりする。意識してうまくいっていることの方に目を向ける。ここで大切なのは、事実を見ること。もちろん、妄想、空想で人生を好転させていく人もいるけれども、これはかなり高度な技術が必要だ。それよりは、現実を見て、こんなにうまくいっているじゃないかと感じる事実を探す。いるかのはたけでのこと。なかなか思ったようには作物が育ってくれない。初年度のことだし、自然栽培という難しいことに挑戦しているわけで、うまくいかないのは当たり前とは言え、小さなままなかなか育っていかない大根を見ていると、ちょっと悲しくなってくる。でも、ひょんなことで見つけたキウイの木。ずっと放置されていた木で、そばにあったのに気づかなかった。これは何の木だろうかと、枝の間からのぞいてみた娘が、「キウイがなっている」と、大発見をした。まさに自然栽培を超えた野生のキウイ。たくさん実がなっている。昨日も10個くらいとってきた。まだまだなっている。これってどうだい?ワクワクすることだし、うれしいことだし、うまくいっていることじゃないか。その上、近所の家で庭木の手入れをしていたおじさんと話す機会があって、その人は、剪定に詳しいことがわかった。ウメの木の剪定に挑戦しようと思っていた矢先に、そんな人に出会うとは。これもうまくいっていることだ。その上、そのおじさんは、大きな大根を3本もくれた。別のおじさんは、聖護院大根をくれた。うまくいっていることばかりじゃないか。作物は思ったように育ってくれないけれども、違うものが育っている。ここに目を向ければ、幸せが満ち満ちてくる。今日は、娘が、聖護院大根を使って千枚漬けに挑戦。大根の漬物も作ると張り切っている。これまたすごいではないか。そんなこと、はたけをやっていないとやることはなかっただろうと思う。この事実に目を向けて喜んでいると、次の展開が起こってくる。事実が事実を呼んで、昨日の妄想が明日の現実になってくるのだ。面白いではないか。
2018年11月24日
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安全管理を専門にしている友人から興味深い話を聞いた。ヒューマンエラー(人為的なミス)をいかになくすかということは、工場の安全ではとても重要なこと。しかし、ゼロにはできない。まず「人はミスをする」ということを前提として考えないといけない。安全管理では、できるだけミスをしないようにすることと、もし、ミスをしても、それがトラブルにならないように未然に防ぐことが、とても重要なテーマとなる。そのひとつとして指差呼称が有効だとされている。ある実験では、何も対策をしないときには2・4%のミスがある作業について、今からやろうとすることを言葉にすると、ミスが1%に下がる。指を差すという動きだけで確認しながらやると0・8%になる。さらに、言葉と指差をあわせると0・4%になると言うのだ。これを聞いて、ぼくが「使える」とひらめいたのは、「ありがとう」とか「祈り」も、体と言葉の両方を使った方が効果的だということだ。手を合わせるだけでもいいし、写真を見るのでいいし、言葉だけではなく、そこに行為をつける。さらに、声に出すこと。それも元気よく。もうひとつが、できるだけ、感謝や願いや祈りは具体的な形で言うこと。「ありがとう」と心の中で言うよりも、言葉に出した方がエネルギーは強い。それも元気にはきはきと言った方がいい。さらに、動きをつける。手を合わせる、柏手を打つ、何かをもつ、文章にするなど。そして、具体的に。単に「ありがとう」だけではなく、人や出来事、何に対して「ありがとう」なのか、どうありがたいのか、今後どういう状態になればもっとありがたいのか。そんなことも言葉にすると、ものごとはどんどんといい方向に進んでいく。開運の秘けつだ。安全管理と開運と、まったく関係のないような分野だが、でも、密接にかかわっているところがある。すごい発見をしたと思う。
2018年11月21日
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得意なことをやればうまくいってほめられる。苦手なことをやれば失敗して文句を言われる。学校では、何でもそこそこできる人間を作ろうとする。だから、得意なことはできるから置いといて、苦手なことをあるレベルに上げることが、学校教育の役割。となると、苦手なことを重点的にやることになる。となると、面白くない。だから、学校は嫌いだということになる。「好きなことばかりやってちゃダメだ」と、うちの娘たちは学校で言われ続けた。だから、長女と三女は不登校になり、次女は徹底的に先生に反発をした。ぼくは、学校にも親にも迎合してきて、そういうものだと何の疑問も感じなかったし、世の中、おかしいぞと思ったのは、大学を出て、大きな会社に勤めて、そこを辞めて、そのあと小さな会社で営業をやったときだった。おかげで、社会のあり様を、けっこうきちんと見られるようになったと思う。あのころは、つらかったし腹も立ったけど、あの経験によって、けっこう洗脳が解けたかもしれない。娘が学校へ行かなかくなったときも、まさに青天のへきれきだった。でも、それによって、社会のことをもっとまともに見られるようになった。娘たちは、まだ若いのに、いいところを見て生きていると思う。親もあまりうるさく言わなかったし、あまり学校にこだわらなかったからだとぼくは見ているのだけど。世の中、正しいと教えられていることが、実は正しくなかったということは、いくらでもある。自分の信じた道を行くこと。それが正しいかどうかもわからないけど、納得して崖から落ちる分にはいいじゃないか。そんな覚悟も必要だ。得意なことをやってほめられていると、けっこう、苦手なこともやれるようになったりする。ぼくは、得意なことをやってほめられる道を選ぼうと思う。
2018年11月17日
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原発については、二度と、福島のような事故を起こさないということが最重要の課題だと思う。さまざまな奇跡とも思えるような偶然が重なって、”あれですんだ”のが福島の事故だった。「もし・・・」と考えたときに、最悪の事態だと、東京も避難地区に。そうなると4000万人が避難することになって、関東や東北は人が住めない地域になってしまっていたそうだ。次にどこかで起これば、日本という国は、国民が住む上でも、国際関係でも、経済も、政治も、すべてが破滅だ。「そうなれば、高齢者問題も米軍基地の問題も、消費税も、景気のことも、すべてがなくなるけどね」と、皮肉っぽく話す人もいる。二度と起こさないためには?まともに考えたら原発をやめることだ。しかし、いろいろな考え方があるようで、福島を教訓にして、より安全な原発を作り、コントロールしていくことで世界に貢献する。そんなふうに、何とも超プラス思考で語る人もいるわけだ。失敗を教訓に成長することはとても大切なことだ。しかし、原発は違うんじゃないの?とぼくは思う。失敗をすると取り返しがつかないこともある。もし、失敗したらどんなことになるか、目の前に大変な状況を見ることができるわけだから。東京には事故以前と同じ生活が戻っているけれども、ひとつでも偶然が違う方向に転んだら、原発の近くに住んでいた人と同じことになっていたのだから。そんなに高度な想像力がなくてもイメージできるはずだ。そう考えると、失敗を教訓に再稼働するというのはどう聞いても詭弁だな。原発のおかげ・・・というのはいっぱいあったと思う。でも、そろそろ次の段階へ、感謝して原発とはお別れした方がいいんじゃないかな。どんな生活を自分は望むのか。楽しい仲間と一緒に弁当をもって畑へ行って、ひと仕事したら、みんなでわいわい言いながら、おむすびを食べる。なかなかリッチな時間で、ぼくは、そんなふうに生きていきたいな。肉体労働をして帰宅して、ビールを飲んで、早めに寝てしまう。ぐっすりと眠れる。朝は太陽とともに起きて、また働く。そういう生活をするには何が必要かということ。お金はどうするの?エネルギーは?ぼくは、そんな視点から考えていこうかな。
2018年11月12日
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「私は運がいいんですよ。困ったことがあると、困った困ったと思っていると、必ず助けてくれる人が現れる。それも大勢でね」と、とある大企業の会長さん。「どんな程度に、困った困ったと思うのですか?」と聞くと、「まあ、一日何も食べないでお腹が空いているので、困った困ったというくらいですよ」具体的に何に困っているのかは明確にしていたようだ。たとえば、まだ中小企業だったころ、「会計はどんぶり勘定ではなくてしっかりやらないと、でもどうすればいいかわからない。困った困った」と思っていると、有能な会計士が現れたり、「売り上げが上がらない、困った困った」と思っていると、優秀な社員が入ってきて、ばんばんと打って売ってくれたり。そして、もっとも大切なこと。どんなに困っても「志」は見失わなかった。ここだね。彼の会社のテーマは「美」。美を通して、従業員を幸せにする、顧客を幸せにする。どんなに苦しいときも、この志はぶれなかった。志は宇宙に響く。そして、その響きは地上に降りてきて、同じような志をもつ人の心を打ち、縁をつなぐ。さてさて、我が志は?
2018年11月08日
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うまくいく人にはうまくいく理由がある。うまくいかない人にはうまくいかない理由がある。まず、行動力がないとダメだな。頭で考えてばかりで動けないと、何も進んでいかない。完璧主義とか苦しいよね。10回やって2回成功すればいいやくらいの気持ちで動けるといいんだけど。ただ、逆に無闇に動くのも考えもの。将棋みたいに何十手も先を読む必要はないけれども、二手か三手くらいは先を見ながら動かないと。考えなくてもセンスとか経験で見えている人もいるけれども、普通は意識してみようとしないといけないよね。それに、突然変異はそうそう起こるものではない。棚からボタモチを狙うなら、どこの棚からボタモチが落ちてくるかをキャッチしないといけないし、落ちてくるまで信じて待つ根気、忍耐力が必要だ。ちょっかんが大事だと言うけれども、ちょっかんには、直感と直観がある。直感は、思いつきと言ってもいいだろうな。脈絡もなくぱっと頭に浮かぶ。霊感なんかもそうかもしれない。これでうまくいくのは、限られた能力者。だいたいの直感は、自分の都合で考え出したものが多い。まあ、うまくいかないことが多い。直観は、積み重ねた体験や知識の上に生まれてくるもの。長い間、どうすればいいだろうと考え続けてきて、なかなか答えが出ないで、ちょっとリラックスしたときに、ぱっとひらめきがやってくることがある。それは直観。大発明とか大発見とか、そんなことが起こってくる。自分がやってきたことがエネルギーとしてある段階まで高くなれば、ぱっと浮かぶ。自分のやってきたこと、それがどこまでエネルギーとして高まっているか、それによって、低いレベルの直観もあれば、高いレベルの直観を得ることができることもある。うまくいかない人は、自分都合の直感で動く。うまくいく人は、直観が生まれる準備をしているものだ(そのことを意識しているかどうかは別だけど)。ぼくは、なぜこんなに人の縁に恵まれるのか。自分ではうまく分析、説明できないけれども、直観が働いていからだと思う。この直観をもうワンランク、ツーランク上のものにまで磨き上げれば、とんでもなくすごいことが起こってくるはず。とりあえずは、やろうと思ったことはやってみる。これは、自分に都合のいい直感かもしれない。そのままではうまくいかない。でも、やりながら体験と知識を蓄積していけば、そこで直観が働くようになる。
2018年11月06日
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世の中を変えていくひとつの方法を垣間見させてもらった。ビジネスの最前線でバリバリとやってきて、ある年齢になってから、住みやすい社会を作ろうと目覚めた人の、何とも言えない魅力的な発想と、それを実現していく行動力。ほのぼのとした温かな人間性も大事な要素だ。人も物も土地もお金も、上手に使われたら喜ぶ。知り合いの紹介で、山梨を訪ね、そこで10時くらいから2時くらいまで、いろいろと話をして、心にひとつのピースがはまった。扉の鍵が開いて、そこからたくさんの可能性が飛び出してきた気がする。神様は、ぼくに何か大仕事をさせようとしている。だから、これまでたくさんのすてきな人たちと会わされてきた。文章を書くという武器を授けてもらった。すべての体験は、ぼくにとっては財産だから。この宝物をどう使って、どんなふうに世の中の役に立っていけばいいのか。そのうち答えが出てくると思う。楽しくなってきた。本当に昨日はいい出会いを作ってもらった。
2018年11月05日
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夏目漱石は、1905年に「吾輩は猫である」を発表して、1916年には49歳で亡くなった。作家として活躍したのは10年くらい。それで、あんなにたくさんの名作を残している。天才だった、才能があったと言ってしまえばそれまでで、ぼくは、人は10年もあれば、大仕事ができるのだと思う。名を残すとか、社会を動かすとか、そんな大それたことをやる必要はなくて、自分が満足できる仕事(趣味でも何でもいい)をやり切れる。40代50代でたそれがれてしまっている人もいるけど、これからだよね。60代も10年間、何かをやり切ってみてもいい。70代、80代、90代でも、「もうできない」なんて言わないで、「まだできる」と、何でもいいから、やってみるといいよね。ぼくは、田舎でくすぶっていたころ、東京に1ヶ月くらいいたことがあって、新宿のある占い師にこう言われた。「あなたは文才がありますね。それも半端じゃないよ。夏目漱石のような素質がある」すごいでしょ。もうひとつ占ってもらったことがあったけど、それは1、2ヶ月後にはぴたっと当たったからね。うれしかったね。今、ぼくがライターという仕事をしているのは、そういう布石がある。でも、その才能は発揮されてない。漱石も死ぬまでの10年だったから、ぼくも、最後の10年に、夏目漱石並みの文才を発揮しようと思っている。そろそろ点火しないとな。いくつになっても、年寄りくさいことなんか言わないで、ちっちゃなチャレンジを続けていこうよ。魂は絶対に喜ぶから。
2018年11月02日
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夢でうなされたという話をしたけども、夢というのは便利なもので、寝ながらにしていろいろな体験ができる。死ぬ夢を見れば、ああ、死ぬときというのはこんな心持ちなんだなと、疑似体験ができる。クマに襲われるとか、崖から落ちるとか、宇宙に飛び立つとか、取りあえず、命に別状のない、安全な状態の中だから。いわゆるバーチャルリアリティってやつだな。現実生活は現実生活、夢は夢。割り切って、夢を大いに楽しめばいいと思う。ぼくは妄想が大事だと思っている。たとえば、寝る前に妄想を楽しむ。現実にはありえないことを妄想の中で実現させてしまう。妄想の中では、絶世の美女と恋に落ちたっていいわけだ。王様になっても、神様になってもいい。何か夢があるなら、その夢が簡単にかなってしまっていい。何の制約もない世界。それが妄想。人の迷惑をかけることもないし、責められることもない。犯罪にもならない。自由に羽根を伸ばせる。こんなすてきな世界はないのに、それをうまく使わないのはもったいない。現実世界は汲々と生きればいい。何かとやりにくいところだ。でも、現実世界をがんばって生きたご褒美に、妄想で思いっ切り羽ばたく。妄想の中くらい、自分を自由にしてあげたいじゃないか。
2018年10月31日
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「正しい」「間違っている」で判断しないといけないと思っていると、生きるのがしんどくなる。ぼくたちは、一瞬、一瞬、道を選択をしながら生きている。正しいかどうかなんて考えていたら前へ進めない。それに、「正しい」か「間違っている」というのは、だれにもわかるものではない。正しいと思っていたことが間違っていたり、間違っていると思っていたことが正しかったり。そんなのは状況によってコロコロ変わる。大事なのは、「これで良かった」と思える人生を生きる! という意志だろう。そして、選んでしまった道は、もう引き返せないし、引き返して選び直せるとしても、後ろばかりを見ている生き方を変えないと、違う道を歩いても、また「別の道を行けば良かった」と後悔することになる。お釈迦様が言うように、生まれた瞬間、ぼくたちは「生きる」という苦に足を踏み入れる。苦を生き抜かないといけないのだ。その覚悟をもって、ぼくたちは生まれてきているはずだ。しかし、浮世の風に吹かれるうちに、「お金があったら苦から逃れられる」「地位があったら苦はなくなる」という錯覚に振り回されて、どんどんと覚悟を忘れてしまう。正しいことはひとつもなく、間違いばかりの世界に、ぼくたちは生まれてきたのかもしれない。だから、この世は苦に満ちている。だけど、マイナス×マイナスがプラスになるように、間違いがひっくり返って正しいとなる場合もある。マイナス+マイナスは、いつまでたってもマイナス。日々の積み重ねを、足し算ではなく掛け算にする。一瞬のうちに逆転が起こる。足し算を掛け算にするにはどうするのか。間違いだらけの世の中で、「正しい」を作り出せるのは自分の意志と行動しかない。かなりエネルギーが高まらないと、足し算は掛け算にならない。エネルギーを高めるには、継続覚悟行動変化幸福感を高める感謝を深める生かされている自分を感じる大きな試練を克服する死を意識する自分を知る非日常に自分を置く修行をするなどなど。一度、プラスに転化することを覚えてしまえば(エネルギーが高まれば)、マイナスがやってきても、すぐに掛け算でプラスに変えてしまうことができるよう、「-1」を常に心にもって生きられる。すごい人になれば、「-2」とか「-3」とかで、マイナスを大きなプラスに変えてしまえる。まあ、欲張らずに、まずは「-1」をどうやったらもてるか、あるいは、「0」をもって、まずは原点に戻すか。そこに目を向けるといいだろう。ぼくもときどき「これで良かったのだろうか」と不安になることもある。しかし、いいか悪いかは、これからの自分次第で、今、過去を振り返っても答えは出ない。これからの生き方で、過去の評価は変わってしまう。マイナスをプラスに変えていくことだ。だれにでもできる。その気にさえなれば。
2018年10月24日
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わが家にはたくさんの本がある。このごろはあまり買わないようにしている。資料として必要な本があれば、図書館で借りる。そうでもしないと、部屋が本まみれになって収拾がつかない。買った本は読むかというと、半分も読まない。そのまま本棚で開かれることもなく保管されている。面白そうだと思って買った本だから、何か縁があるはずだ。このまま読まずに捨てたり古本屋に売るのもどうかと思う。仙人と呼ばれた人が、生の玄米を食べながら1週間で書き上げたという、8巻にも及ぶ大書がある。買ったのは20年も前になるだろうか。1ページも読んでない。全8巻で25000円。安い本ではない。何か気になって買ったのだと思う。ぼくにとって必要なことが、そこには書かれているのではないだろうか。ひょっとして、60歳を過ぎた今のぼくが読むようにと、若かりしぼくが買いそろえたのかもしれない。あの当時のぼくでは理解できないことが、そこには書かれているのかもしれない。8巻の立派な本が鎮座していて、そのまわりには、装丁がしっかりした、ある大宗教家の思想がまとめられた本が数冊ある。これはいただいたものだけど、読まないともったいない。これから、本を読み、本を書き、農業をして、夜はお酒を楽しむ。読む本はたくさんあるし、書きたい題材もたくさんあるし、畑を始めたし、お酒は好きだし。最高じゃないか。そんな人生もいいかもしれない。
2018年10月23日
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肉体には本質はない。人間の本質は魂で、肉体は乗り物でしかない。スピリチュアルな世界ではよく言われることだ。肉体というのは、とても精密にできているけれども、とてもあやふなやものだということが、肉体の作られ方を考えたらわかる。肉体というのは細胞の集まりで、細胞がどうやって肉体を作っていくかは遺伝子によって決まるわけだ。もともとは一個の受精卵。それが細胞分裂をして、数十兆の細胞になって人体を作る。細胞分裂のときに遺伝子はコピーされる。つまりは細胞もコピーによって作られる。コピーどころか、コピーのコピーのコピーのコピー・・・・。大量に印刷されてばら撒かれた版画みたいなもの。それも大本の版を使って印刷されたのは最初の数枚で、あとはコピーのコピーという横着さ。だいたい、受精卵だって、父親の遺伝子と母親の遺伝子から始まるわけだが、その遺伝子だって、どれだけコピーされているかわからない。それがもともとの版とは言えないかもしれない。コピーのなれの果てが、ぼくたちの体というわけだ。コピーは、とても便利で優れた技術だが、本物ではない。コピーされるたびに、劣化していく。コピーだから、そこに「個」はない。もし、ぼくたちが「個」として生きているとしたら、コピーではない本質の部分、個を決めるものは、肉体以外にあるはずだ。肉体以外の何かが、ぼくたちを「個」として成り立たせている。コピーだから肉体をぞんざいに扱っていいということではない。コピーだからこそ、もろいところもあれば、ミスもあったりする。慎重に扱わないと、すぐに壊れてしまう。いろいろと不調が出てくる。肉体を大切にしつつ、でも、本質はここにはないことを知る。本質って何だろう?魂だとしたら、魂って何だろう?神って何だろう?そんなことを考えるのは、人間だけの特権だと思う。(ひょっとしたら動物や植物も考えているかもしれないけど)正しい答えなんか、だれにもわからない。自分の好きなように考えればいい。正しい答えなんか求めなくてもいい。自分なりの答えを探す。考えるも人生、考えないも人生。目先のことに振り回されず、いのちの深い部分に目を向けて生きると、人生の中身は濃くなると思う。
2018年10月22日
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一人で車に乗るときはラジオを聴く。ときどき、いい話に出あう。旅人のたかのてるこさんがお話していた。たくさんの本を書いている有名人だそうだが知らない人だ。いいこと言っていた。「いじわるをする人って自分が幸せじゃないからだね。幸せなら人にいじわるしないもの」自分自身の変化で、それがよくわかったと言う。嫌なことを言われたら、「ああ、この人大変なんだな。つらいんだな」と思えるようになったそうだ。そんな話を聞きながら運転をしていて思い出したことがあった。たかのさんの話とは直接関係はないのだが、触発されて記憶が引き出されたのだろうな。ずいぶんと昔の話。尊敬する恩師からこんなことを言われた。唐突に教訓めいたことを言う人だった。「今日は昨日とは違う新しい日や。昨日という古い一日を生き抜いて、今日という新しい日を生きられることに感謝せんとあかんぞ」ぼくは「はい」と答えた。なぜそんな話になるのかさっぱりわからなかったが、そう答えるしかない。「もうひとつ言うとく」ぼくは神妙に聞いている。「今日は昨日とは違う日や。違う日に生きるお前も昨日とは違わんとあかん。ちょっとだけでええ。昨日と違う自分になることを意識せなあかんぞ。意識して、ちょっとだけ違う自分になるんや。わかるか」「はい」・・・と答えるしかない。「それを続けてみい。どんなことになると思う?」無言でもじもじするぼく。「やったらわかる。やってみい」アバウトな記憶だけど、そんな感じだった。それっきりのことで、ぼくはすっかり忘れていた。あのときはよくわからなかったし。でも、今ならわかる気がする。必要なときに、必要なことが引き出される。一日一日に感謝し、昨日とちょっと違う自分で今日を生きる。ちょっと意識してみよう。どうなるか?やってみたらわかる。
2018年07月26日
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