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欧陽詢が書丹したと記されている「姚弁墓誌」ようべんぼし
隋帝国の大業7年10月21日(西暦611年)。
以下、長文になるので興味のない人は読まないように!
西安碑林で拓本を採る仕事をしていた人が持っていた拓本を手放した中の一葉。
この姚弁墓誌は下半分しかない。2007年に見つかったようである。
原石の上半分?が逸失していると考えられる。いまでも見つかっていないらしい。原石の碑面が正方形だったのか、長方形だったのかは分からない。この石の現在の所在も不明。
淑徳大学の拓本デジタルアーカイブにある、同名墓誌銘の写真↓ (4分割の右上)
重刻となっているので、拓本を元にした復刻本から採られた拓本と思われるが、その復刻碑石も失われている。
この淑徳大学の拓本の文字は不鮮明ながら全く欧陽詢らしくない。しかし欧陽詢書丹と書いてある。。
さて、私の拓本に話しを戻すと、
虞世基(虞世南の兄、618年に煬帝暗殺のクーデターにより殺害される)による撰文、欧陽詢の書、萬文韶の刻と書かれている。虞世基は煬帝に仕えた五貴と呼ばれた5人の中の1人で、最も信頼された忠臣である。また萬文韶は褚遂良の雁塔聖教序を刻した人としても知られている。雁塔聖教序は皇帝の勅命事業のインドの仏教経典翻訳事業の一環なのでこの刻者は当世超一流の彫り師だったに違いない。つまり、墓誌銘に関わる隋時代後期のスーパースター3人の合作本なのである。凄すぎるのである!!
文字は欧陽詢が55歳の書で、この楷書は小さいが超絶技巧と言える。
欧陽詢•虞世南•褚遂良の三人を、“初唐の三大家”と呼ぶが、欧陽詢と虞世南は青壮年期を隋時代にて送っているので、“隋代の書家”と呼ぶ方が正解である。ただ、これまで隋代に書された名品が知られずにいたので、晩年の唐代の書で、“初唐の三大家”と呼ばれていた。しかし2007年?、この欧陽詢の「姚弁墓誌」が発見されて隋の時代でも圧倒的な楷書を書いていたことがわかる。本物ならばだけど。。
このヨウベンという人物は軍を任された優秀な将軍のようだ。
大野修作さんという京都女子大学漢文学/書道学博士さんが下記のように述べている。
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先日 知人から欧陽詢の新出土の「姚弁墓誌」を示されて、解題を書くよう依頼されましたが—見して正直なところ、驚きました。この「姚弁墓誌」というのは、すでに世に知られた拓本が存在します。それは京大の人文科学研究所が蔵するもので、「京大人文研究所蔵拓本資料集」として、アーカイプ化されており、パソコンでダウンロードして見ることは可能です。しかし今回出土したものは=拓本のコピーしか見ていませんが=原刻その物と思われるような全くの別物です。普通、同一の人物で、撰文者が同じでしかも書丹者まで同じであれば、墓誌が二種類あることは考えられませんので、どちらかは模刻、または偽造されたものであろうということになります。ただ今回の出土の情況や人手の経路は詳しくはしらされていませんし、文物の流通に関しては分からないとしか書けないことをお断りしておきます。従って本稿では示された拓本から、現在言えることを限りなく正確に述べることを主眼にしたいと思います。これは書道史の把握にとって有益で刺激的な資料と考えたからです。
次に墓誌の内容ですが、通行本は画像が不鮮明で、空格の字が多くなってしまいましたが、幸いなことに、この墓誌は有名なものであったために、全文(といっても途中いくつか空格がある)が明代の都穆『金薤琳瑯』という金石書に載っています。これによりほぼ全文の復元が可能ですが、同書の按語に、文意が通じせず当時の通行本も寄せ集め的なものに過ぎないとあり、明代にすでに原石は無く、拓の文意も通じにくくなっていましたので、今回の新出本は貴重な資料と考えられます。これをもとに考えて行きますと、墓誌の主人公である姚弁は、列伝は立てられていないまでも正史にその名が見えます。『隋書』巻三の煬帝上に「(大業七年)三月丁亥、右光禄大夫・左屯偉大将軍姚弁卒」とあるのがそれで、通行本が「左光禄大夫」と記すのは誤りで、新出本の二〇行目の「右光禄大夫」の方が正しいということが分かります。先祖を遡って、一行目の「祖泓は晋の滅ぼす所と為り、子孫播越して武威に居り」と記すのは、姚弁の五世の祖は姚泓であることが、通行本に「五世姚泓」とあることで知られます。そして十六国時代にキョウ族出身の姚萇が興した后秦が東晋の劉祐に攻められ、在位二年目の姚泓が晋に下り、建康で斬られて滅びた史実を記したものでしょう。子孫が涼州の武威に逃亡して系統をを保ったとありますが、新出本の一行目下の方から通行本二行目にかけて、「曽祖讃は撫軍左軍将軍、武威太守たり。碩量偉才を以て時を佐け…」とあるので、曽祖の姚讃が武威の太守として一族の長であったことが分かります。父の姚竇も散騎常侍にまで至った人であり、新出本の三行目下の方に「弓は百歩の奇を殫り、剣は万人の気に適して名を馳す」とあるので、武力を以てのし上がった人物であったことが察せられます。
姚弁自身は北周の保定四年(五六四)に起家し、天和二年(五六七)に江南遠征に従軍して戦功挙げ、おそらく建徳五年(通行本では保定と作るが、金薤本では空格で、ただ五年と作る)の晋州遠征、同六年(五七七)の定州遠征に従って北斉を滅ぼすのに功があり、大都督、安陽県開国子、食邑四〇〇戸、検校武侯兵事を授けられ、戦功により順調に栄達しました。五八〇年に北周が尉遅迥を滅ぼした武陟の合戦で大功をあげ、翌年の隋の開皇元年(五八一)には開府儀同三司に列せられ、公爵と食有一〇〇〇戸を授与されています。以後、出身地の武威を守り、突厥の侵攻をよく防ぎました。開皇三年に突厥は涼州に侵入しますが、姚弁は行軍督尉として突厥を前後に挟み撃ちし、昼夜攻囲して戦功を立て、開皇五年(五八五)に左武衛を授けられます。新出本九行目では「驃騎将軍霍去病の功も滅如たり」と、霍去病以上の戦いぶりであったといいます。開皇六年には雲州道水軍総管を授けれれ、同年、使持節に補わせれら、開皇一〇年には険功畳州総管・河州刺史となりました。開皇十二年(五九二)には左武侯将軍・涼州総管・涼州牧、開皇十六年には使節雲州総管諸軍事、開皇十八年には原州道行軍総管、開皇十九年には環州道行軍総管と、各地転任しました。『隋書』巻二高祖紀に、「開皇十六年五月丁已……蔡陽県公姚弁を霊州総管と為す」とあるのは、通行本に依れば「雲州総管」の誤りであるといえますが、金薤本では「霊州総管」に作っており、新出本にこの部分がないために、どちらが正しいかは即断は出来ません。金薤本が『隋書』を見て書き直した可能性があるからです。通行本に見えるのはここまでで、その後は、新出本と金薤本で復元しかありませんが、新出本は可半分しかありませんし、銘の部分があったりしますので、伝記事項は多く書かれていません。
姚弁は更に仁寿年間に蔡陽郡開国公と爵を進め、食邑は一五〇〇戸に増えました。『隋書』巻二高祖紀に「仁寿三年二月戍子、以大将軍・蔡陽郡公姚弁為左武侯大将軍」とあるのが、それでしょう。煬帝の大業年間に改めて左武侯大将軍を授けられますが、大業三年、母の死を以て官を去りました。しかし同年四月よりの煬帝の北地巡行に従い、さらに煬帝の江都巡幸に際しては京師の留守を任されています。そして『隋書』に依れば、「大業七年三月丁亥」に右光禄大夫・左屯衛大将軍の地位を以て姚弁は世を去りました。新出本に「癸丑朔二十一日葬」とあり、同年一〇月二一日に葬儀が行われました。葬儀に際しては、朝廷より故姚弁に対し、金薤本では「賜物八百段、粟麦一千石、諡曰恭公」とあることから、反物八〇〇反と粟麦一〇〇〇石が贈られました。粟麦一〇〇〇石は重臣の扱いであると言われますので、開国の勲臣として人生を全うしたことがうかがえます。
以上が墓誌の主人公の姚弁の経歴のあらましですが、以下それを撰文した虞世基と、それを書丹した欧陽詢について見て行きたいと思います。虞世基(?~六 一八)は會稽余姚(逝江省)の人で、虞世南の兄でもあります。父の虞茘は文人でありましたが、文弱に流れた貴族ではありませんでした。厳格ながらも睦まじい虞家のなかで、世基、世南兄弟は育ち、当時最高の学者である顧野王について学問を学びました。その令名は陸機・陸雲兄弟に比せられるほどで、世南は書を智永に学び、兄の世基は政治家としても文書家としても名高い徐陵の知遇をえて、彼の弟の女を妻とした。彼が仕えた煬帝は暴虐な君主のイメージが強いのですが、その感性は鋭敏で、若い頃より江南の文化とそれをはぐくんだ風土に傾倒しました。煬帝が虞世基のような人物に引き付けられるのは、ある意味当然で、江南文化を代表する知性と教養を身につけた虞世基に惚れ込みました。虞世基は一四年間、碑文にある「内史侍郎」の職にとどまり、煬帝の圧倒的な信任を受け続けました。そのことにより煬帝暴虐に関わったとして、隋末に反乱を起こした宇文化及びに殺害されますが、この墓誌が書かれた大業七年ころは、栄華の絶頂期にいました。
欧陽詢(五五七~六四一)ですが、潭州臨江(湖南省)の人。隋の煬帝に仕えて太常博士となり、唐の高祖と親交があったために拔櫂されて給事中となり、太祖が即位すると弘文館学士となり活躍することは周知のことです。この墓誌は彼が「太常博士」として煬帝に仕えた隋代のもので、書道史的に見ても貴重なものと考えられます。欧陽詢の楷書の碑としては、温彦博碑、化度寺邕禅師塔銘、九成宮醴泉銘、温彦博碑の四碑が著名なものとして知られますが、いずれも唐に入った貞観五、六年から一一年に書かれたと見られます。皇甫誕碑も貞観の末頃と考えられ、欧陽詢の七〇代後半から八〇にかけての最晩年の書しか、著名な楷書の碑としては知られていません。
しかしこの墓誌は大業七年(611)の書で、欧陽詢五五才のまさに壮年期のものといえ、碑文全体に力感が漲っています。化度寺は「淵穆」、醴泉は「華貴」、温彦博は「竣潔」、温彦博は「森秀」と評されますが、この墓誌には若さと力が感じられるといって良いでしょう。また逆にあまりにシャープ過ぎて、単調であるようにも感じられます。例えば「武」の字は三度碑文に見えますが、どれも同じ調子で、「九成宮」の「武」には表情があるのとやや異なります。また想像をたくましくすれば、「蘇慈墓誌銘」とよばれる隋代を代表する墓誌がありますが、この墓誌と筆致が極めて近いことがうかがえます。梁啓超などはそれを欧陽詢の若書きの書という説を立てていますが、この墓誌を見るというなずける点もあります。
『隋書』巻二には姚弁と蘇慈は一緒に出てきますので、欧陽詢を含めた三者は同じ親しい交遊圏の人であったと推察されます。
最後通行本と新出本の関係と刻者について見て行きたいと思います。通行本は金薤本に収める全文の本分で、文章の途中で終わっていますので、おそらく「姚弁墓誌」を石の両面に模刻したものの前半の片面であったと推察され、後半は散逸したと考えられます。今回出土したものはおそらく原石の下半分と思われますが、ただ拓本が原石からの拓本であるかどうかは即断はできかねます。はじめにも触れたとおり、石がやや摩滅しているように感じられ、新出本は、あまりにシャープなので補刻されているのではないかという思いも捨てきれないからです。刻者の萬文韶は褚遂良の雁塔聖教序を刻した人としても知られ、おそらく当時とすれば最高の刻者でしょう。しかし詳しい伝記は分かりません。ともかく新出土本の姚弁墓誌は虞世基の撰文、欧陽詢の書、萬文韶の刻という三拍揃った極めて貴重な資料といえるでありましょう。