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占守島の戦いは、終戦後の無駄な戦いなどではない。それどころか、大いに意義のある誇りある戦いであった。
そもそも、なぜソ連は、火事場泥棒的に対日参戦したのか? 実は1945年2月、米英ソはヤルタ協定で、スターリンは対日参戦の見返りとして、南樺太・千島列島をソ連領とする密約を交わしていた。だがその後、ルーズベルトの急死など情勢の変化で、それが破約寸前だった。そこで千島・樺太の占領を既成事実化するために、火事場泥棒参戦を強行したのだ。しかもスターリンは北海道北部の占領をトルーマンに要求し、拒否されていた。つまりソ連軍は千島列島を一気に攻め下がり、北海道の北半分までを占領するつもりだったのである。
しかしソ連軍は、最初の一歩で大きくつまづいた。占守島における実質十数時間の戦闘で、日本軍の戦死者三百数十名に対して、ソ連軍は海上で3000、地上で4000に上る甚大な被害を出し、一週間釘づけにされた。その後、千島列島は占領され、不法占拠されたまま今日に至るのだが、北海道にはソ連が到着する前に、米軍が進駐。 北海道の分割占領だけは阻止された のである。
当時、ソ連政府機関紙イズベスチャはこう述べた。
「占守島の戦いは、満洲、朝鮮における戦闘より、はるかに損害は甚大であった。 8月19日 」
だが、日本にとって占守島の戦いは、大東亜戦争最後の大勝利であり、侵略者から国土を守った偉大な戦いであったと記録せねばならない。
この戦いが戦後長らく忘れられていたことを英霊に詫び、感謝を捧げようではないか。
軍隊生活はマニュアルで動く
戦争もまた、意外に日常的である。一般の理解では戦争とは血湧き肉躍るもので、軍人は命を惜しまず勇敢で、毎日緊張しているものだというイメージがある。もちろんそれは虚像ではないが、そういう部分だけが戦争映画になっている。 極端なことを言えば、軍人になっても退役するまでの40年間、実戦が一回もない人のほうが多いし、実戦があればすぐに死んでしまう人がいる。30年間訓練して、10分間でお終いということはたびたびである。海軍の戦争などは、敵弾が直撃すれば軍艦は沈没してしまうから、本当にすぐ終わる。ところが、実戦で勝つためには10年も20年も、とにかく毎日訓練ばかりしていなければならない 。訓練にはスケジュール表やマニュアルが表があって、そのとおりにやっている。当然、馴れた人には退屈なものだ。新兵や、士官学校に入った最初の頃は面白いが、中尉、大尉くらいになると、毎日同じことをするのは退屈であるらしい。
軍隊は官僚制度の典型である。すべてが文章化され、数値化されている。社会のあらゆる階層の人を集めて働かせるためには、画一化と標準化が欠かせない。まず、言語を統一する。ズボンと言ったりパンツと言ったりしていては通じが悪い。たとえば靴は「軍靴」ということに決まっている。最初はそれを覚えるだけで忙しいが、覚えてしまえば、あとは楽だ。靴といったら軍靴だけで、他の靴は存在しないから、ひじょうにシンプルな生活になる(正確に言うと帝国陸軍の兵隊には三種の靴が支給された。教練・外出・戦闘に用いるのが編上靴、営内で履くヒモのないつっかけが営内靴、部屋の中で履くスリッパは上靴[じょうか]で、どういう場合にそれを履くかはしっかり決められている。間違えると殴られる)。
陸軍士官になると、連隊に勤務する。2万平方メートルぐらいの土地に練兵用のグラウンドと兵隊が生活する建物があって、将校は近くの官舎から馬に乗って出勤する。門を通る時は、中尉には中尉の、少佐には少佐の厳格な敬礼があるので、それを受ける。部屋に入ると本部からきた書類が山ほどあって、返事を書く。
スケジュールががっちり決まっている。毎朝8時には朝礼があり、その時は服装を整えて整列しなければならないが、今日は雨天時の服装を着るのか晴天時の服装を着るのか悩む。週番士官が判断して、早めに通達しなければならない。
兵隊に敬礼の仕方を教えたり、四列縦隊での歩き方を教えたり、鉄砲の手入れや撃ち方を教えたりしなければならない。兵隊は2年間いるから、2年間をいくつかの期間に分けて、軍隊のイロハを教えていく。三ヶ月経つと一等兵になる。それを勤務評定して、1年後には2、3割を上等兵に上げる。物覚えのいい者が出世していく。2年で満期除隊になるから、短期大学のようなものだ。それでまた次が入ってくる。2年間に教えることが、マニュアルで完全に決まっている。それをきちんと教えたかどうかを調べる検閲がある。連隊長の検閲があったり、師団長の検閲がある。その時にはきちんとやってみせないと、小隊長や中隊長が叱られる。兵隊が失敗すると自分の勤務評定が悪くなるというわけだ。それから、対抗試合のスポーツをしょっちゅうやっている。中隊対抗とか小隊対抗、分隊対抗で、繰り返しスポーツをする。なにしろ20歳前後の男ばかりを集めているのだから、スポーツでもやらさないと元気が余ってしまう。
士官はスケジュール表に従い、兵隊をグラウンドへ連れ出して、12時まで各種の練習をする。12時になったら解散で、兵隊は大喜びで食事に行く。自分も将校食堂へ行って飯を食う。食事が終わったら午後のスケジュールがあって、5時になると終わる。今の自衛隊であれば、夕方5時にラッパを吹いて日の丸を降ろすと決められている。兵隊はそれから就寝まで、食事・入浴・掃除・洗濯・兵器、服、靴の手入れなど生活上の仕事をするので忙しいが、将校は自宅へ帰るだけだからヒマである。家に帰っても軍隊の町は寂しいところが多いし、夜の街に繰り出すような月給はもらっていない。将校が、あまり変な人と付き合うと悪い評判が立つから、軍人は軍人同士で付き合う。一階級上の人から、今夜、将棋を指しに来いと言われたら、喜んで行く。町の人や出入り業者が釣りに行こうと誘ってくれても、それは接待にあたるかどうかで悩む。そんなふうに毎年同じことをして暮らしているが、新聞を読んでも戦争は起こりそうもないし、緊縮財政で軍事予算は削られるし、そろそろ中尉になる歳なのに、昇進は一年繰り延べになってしまう。
平時の軍隊生活は退屈の極み
日露戦争が終わってから昭和12年まで、軍人はだいたいそういう生活をしていた。構造不況業種の生活である。唯一の刺激と言えば、東京の参謀本部が戦車との共同作戦要領や対戦車戦のマニュアルを起案したので、説明するから将校2、3名を東京へ出せ、という指令が来た時などである。これは大喜びで行く。「ほう。これが戦車か」というわけだ。時には、敵の戦車は装甲が厚いから操縦席の前にある天視孔という穴を狙って撃て、などという実行不可能なことを教わって帰ってくる。それでも連隊へ戻ってきたら、彼はいちばんの戦車通になっている。それでマニュアルを見ながら兵隊を集めて訓練する。戦車はないから、オート三輪や大八車にベニア板を貼ってそれを戦車に見立てて、グラウンドで同じことをやる。それは戦前の帝国陸軍の話で、今は事情が違うだろうなどと思ってはいけない。教材が最新鋭の対戦車ヘリコプターであったり、装輪装甲車とか多連装ロケットMLRSであったりするだけの話である。そんなことをしているうちに、中学校時代の友だちと比べると自分の月給がひどく安いということに気がつく。しまった、軍隊なんか入るんじゃなかった、と思っているうちに、あまり出世しない人は40歳ぐらいで退官の危機が迫ってくる。軍人は定年が早くて、アメリカでも44、45歳になった時、中佐か大佐で終わりである。スケジュールどおりに刺激がないままやってきて、気がついたら44、45歳で中佐か大佐で辞める。それを越えて少将になる人は、100人に3人ぐらいしかいない。中将になっても、53、54歳で定年退職となる。大佐、中佐で終わった人は、その後、退役将校の会に入る。英語では退役軍人をベテランというが、アメリカにはベテラン関係の会社や組合がたくさんある。ベテランになった軍人は何百万人もいるから、ベテラン・ゴルフコースとかヨットハーバー、ベテラン旅行会社にベテラン生命保険、ベテラン新聞からベテランのための墓地まで、何でもある。そこの社員や役員になって勤めたり、あるいは民間へ天下って軍需会社の顧問になったりする。おおよそ世界中の軍人は退屈している。世間の人を見て、うらやましいと思っている可能性も大きい。彼らは、もともと優秀で健康な人たちである。そういう人たちが退屈している。だから、規律が緩んだ国では軍人がゆすり・たかりをしたり、自分たちでも商売をしようということになる。それが悪いというわけではない。軍隊とはそういうものである。
「百年兵を養うはただ一日の用にたてんがため」であるという諺があるが、これはヒマだということだ。
毎日が退屈だから、ケジメをつけるために国旗を上げ下げしたり、演習や検閲をたびたびして、無理矢理緊張を作っている。そこだけ人に見せて、見えないところでは要領よく鼻くそをほじっている。
軍人を侮辱しているのではない。人間とはそういうものなのである。
(人間はなぜ戦争をするのか・日下公人)