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NTLive ルパート・グールド「ディア・イングランド」シネリーブル神戸 久しぶりのナショナル・シアター・ライブです。上映館のシネリーブル神戸が、座席の改修工事とかで10日ほど休館していたので、この映画館に来るのも久しぶりでした。なかなか快適、贅沢な座席に変わっていましたよ(笑)。 で、演目はルパート・グールドという人の演出で「ディア・イングランド」という、どうも、サッカーを舞台でやる! お芝居らしいですが、「サッカーを舞台でねえ?」 まあ、「何でも見てやろう!」 という気分ではありましたが、実は、まったく期待していませんでした。だって、チェーホフやシェイクスピアをやるならともかく、サッカーですからね、何を期待していいのかもわからないじゃないですか。 で、これが、大当たり! 画面を見ていて、地元のイギリスというか、イングランドでは大うけだったのが画面の観客の様子からもよくわかりました。たぶん、実在の選手とかに似ているのでしょうね。もっとも、このお芝居の、ちょうど前の時代のベッカムとか、ウェイン・ルーニーあたりの名前は聞いたことがあるというのがやっとで、今では、イングランドの選手の名前どころか、日本代表選手の名前さえ知らない、サッカーなんて忘れて10年以上経った、70歳目前の老人が、舞台上の試合結果にワクワクし、選手や監督のセリフに、なんと、涙を流してしまった出来栄えで、拍手!、拍手!でした。 さすが、お芝居の国イギリスですね。ほんの小さな舞台の上で、ワールドカップの試合を再現して見せていて、もうそれだけですごいのですが、且つ、現在の世界で、多分、最も重要な思想的課題の一つである「ナショナリズム」について、かなり本質的な問題提起と、未来に対する希望を呼び掛けているドラマとして出来上がっている印象で、単に、「イングランド万歳!」 ではないお芝居になっているところに感心しました。やっぱり拍手!ですね。 ところで、これが今年のナショナル・シアター・ライブのチラシです。1本はチェーホフの新解釈のようですが、あと2本は新作ですね。楽しみです(笑)。演出 ルパート・グールド原作 ジェームズ・グレアムキャストジョセフ・ファインズ(ガレス・サウスゲート)ウィル・クローズ(ハリー・ケイン)アダム・ヒューギル(ハリー・マグワイア)ダラー・ハンド(マーカス・ラッシュフォード)エベニーザー・ギャウ(ブカヨ・サカ)ジーナ・マッキー(ピッパ・グレンジ)2024年・160分・イギリス原題National Theatre Live「Dear England」2024・04・12・no057・シネリーブル神戸no237追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.04.14
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NTLive C・P・テイラー「善き人」シネ・リーブル神戸 ここの所、毎月、出かけているナショナルシアター・ライブです、今日はC・P・テイラーという人の戯曲、「善き人」です。 セシル・フィリップ・テイラー、1981年に42歳で亡くなった、イギリスのユダヤ系劇作家の遺作のようです。アウシュヴィッツ以後の世界、所謂、戦後演劇の世界では、今や古典的戯曲といっていい作品だと思います。映画にもなっています。原題は「GOOD」ですから「善い・・・」ですね。「GOD」ではないのですが、なんか、ちょっと引っ掛かります。 で、舞台に登場するのは3人の俳優だけでした。デヴィッド・テナントという男優が主役のハルダー教授だけを演じますが、エリオット・リーヴィー、シャロン・スモールというお二人は、リーヴィーが主人公が出会うすべての男性(ユダヤ人モーリス・アイヒマン・ナチスの将校・他)を、スモールが、同じくすべての女性(母・妻・愛人・他)を演じていました。舞台は壁で囲まれた空間で、壁際がベンチ、あるいはベッドになっています。 場面の転換は、照明に浮かび上がる人物の姿とセリフによるものだけで、映像も書割も使われていません。音響はクラシックの楽曲が、時折、背景的効果音として聞こえてきますが、ラストシーンでは収容所のユダヤ人たちの合唱が舞台全体を包み込むように演出されていました。 生真面目な文学研究者であるハルダー教授が、「安楽死」に関する論文によって、ヒトラーに見いだされ、ナチスの批判的協力者から、ホロコーストの推進者へと変貌していく経緯と、老いた母と長年連れ添った、しかし、わがままな妻を捨て、若き愛人との暮らしを選び取っていきながら、水晶の夜=クリスタルナハトを目前にして不安に苛まれるユダヤ人の友人モーリスを見捨てていく姿を重ねて演じていく舞台です。 同じ舞台に居続けている主人公ハルダー教授の「ことば」と「すがた」が「善き人」であり続けようととすることの欺瞞を浮き彫りにしていく、デヴィッド・テナントの静かな演技には目を瞠りました。「われわれの想像力はアウシュヴィッツを経験した。われわれはその地点から後戻りしてイノセントになるわけにはゆかぬ。」 今年、2023年に亡くなった、作家大江健三郎の若き日の発言ですが、彼がこの発言をしたのは1972年でした。C・P・テイラーがこの戯曲を書いたのが1981年だそうです。 今、目の前の社会には「イノセント」というようなことばでは、とても言い表せそうもない「無知蒙昧・夜郎自大」の「善き人」たちがあふれていると感じるのは、老人の勘違いでしょうか。 ヨーロッパの映画や演劇が繰り返しアウシュビッツをテーマにするのは、必ずしもユダヤ資本による自己正当化の結果ではないでしょう。しかし、一方にガザの現実もある訳で・・・・。 見終えて、納得した舞台でしたが、何となく不安が湧き上がってくる帰り道でした。世の中、どうなるのでしょうね。 まあ、何はともあれ、主演のデヴィッド・テナントは勿論ですが、エリオット・リーヴィー、シャロン・スモール、さすがのお芝居でした。拍手! シンプルな舞台構成で、役者の内面の表現をクローズアップした演出家ドミニク・クックにも拍手!でした(笑)。作 C・P・テイラー演出 ドミニク・クック出演デヴィッド・テナントエリオット・リーヴィーシャロン・スモール2023年・136分・G・イギリス原題National Theatre Live「Good」2023・10・29・no133・シネ・リーブル神戸no209!
2023.11.01
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NTLiveジェレミー・ヘリン演出「ベスト・オブ・エネミーズ」シネ・リーブル神戸 久しぶりのナショナルシアター・ライヴでした。お友達の入口君と見ました。ジェレミー・へリンという人が演出した「ベスト オブ エネミーズ」です。 たぶん、原題には「ザ」がついていそうなものですが、「好敵手」とでもいう意味でしょうかね。同名の映画だか、テレビドラマだかがあるようですが、それとは関係ないドラマのようでした。 1960年代のアメリカが舞台のお芝居で、今では、日本でも当たり前のように放映される、所謂、国政選挙をネタに視聴率を稼ごうとする、まあ、ボクにいわせれば軽佻浮薄の極みにしか思えないようなテレビの討論番組のお話でした。 アメリカですから大統領選挙ネタですね。ケネディ兄弟の暗殺とか、ニクソン、レーガンという、超保守派の登場とか、まあ、他所事ながら、懐かしい話題で展開します。 舞台に登場するのは、たぶん実名だと思いますが、共和党支持の保守派ウィリアム・F・バックリーJrという人と、民主党のリベラル派ゴア・ヴィダルという人です。ゴア・ヴィダルという人は、なんとなく聞き覚えがありました、フェリーニの映画に出たり、政治がらみの毒舌が有名な小説家だったと思いますが、小説作品は知りません。 舞台は、全体がテレビ局のセットでした。二人の討論が、いかに劇的効果を狙った「やらせ」の「テレビ番組」としてつくられていくかということが演じられ、二人の私生活が重ねられていきますが、テーマというか、芝居の眼目は「テレビ」というメディアの作り出す虚構の暴露ということのようです。ニュースは嘘である! というわけのようですが、ボクの印象では、今更、そんなこといわれてもなあ・・・・? というか、ちょっと古いんですね。「なあ、この戯曲、最近書かれたん。」「そうやなあ、演出家も若手やな。」「あの二人が、テレビで評判になったことで、テレビが、出来事の事実性をではなくて、受けるための伝え方を見せるメディアになったというのは、まあ、劇的なんだろうけど、古くね?」「うん、チョット、空振りやな。」 まあ、見終えて、そんなことを喋りながら、枝豆とかハゲ(お魚の名前ね)の煮つけとかつつきながら秋の夕暮れの楽しいひと時を過ごしました。 入口君は学生時代からの付き合いで、今では、どこかの大学生に舞台のビデオかなんか見せて、お芝居を論じている、まあ、そっち方面のプロですが、昔から、シマクマ君を観劇に誘ってくれるやさしい人で、この日もシマクマ君が乗る高速バスの乗り場まで送ってくれて、手を振りながらいうのでした。「今日は、つまらん芝居を誘ってすまんかったね(笑)。」「いや、見るだけの価値はあったよ。ありがとう(笑)。」「じゃあ、またね。」 そうはいってもイギリスのナショナルシアターで演じられ、映画にまでして見せている芝居ですからねえ。今、何が受けているのかを知るだけでも見る価値はあるわけです。 でもね、なんというか、この芝居の展開や、セリフからボクが受け取った世界認識というのでしょうか、問題意識というのが、ちょっと図式に見えてしまったことも事実ですね。 テレビというメディアの問題は、今や、ネット的なメディアの問題を前提にしないのであれば、まあ、「ただの時代劇?」 ということになってしまうんじゃあないかということを、かなり痛切に感じたお芝居でしたね。何といっても、元だか、現だかの、大統領とか、総理大臣とかいう人が、個人的に配信できるメディアで大衆扇動はする時代ですからね。その上、陰にまわれば言論弾圧だって、平気でやってるんじゃないかという時代のようですからね。いや、ホント、何をかいわんや! ですね。やれやれ、トホホですね(笑)。演出 ジェレミー・ヘリン原作 ジェームズ・グレアムキャストデビッド・ヘアウッド(ウィリアム・F・バックリー・Jr)ザッカリー・クイント(ゴア・ビダル)2023年・160分・G・イギリス原題National Theatre Live「 Best of Enemies」2023・10・11・no123シネリーブル神戸no207 ・NTLive!
2023.10.13
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NTLive クリント・ディア―「オセロ OTHELLO」 シネ・リーブル神戸 シネ・リーブル神戸で月に1回のペースで上映されているショナルシアター・ライヴを欠かさず観ていますが、2023年、6月のプログラムは、シェークスピアの悲劇「オセロ」でした。3時間を超える舞台です。 クリントン・ディアーによる演出は、メジャーな劇場での初の黒人による演出となり、シェイクスピア学者ジャミ・ロジャーズ博士が「英国シェイクスピア史における大きな節目」と評価した注目作。 なのだそうです。ボクは日本の現代演劇もほとんど見たことがありませんし、もちろん外国の舞台なんて全く知りません。このナショナルシアターのプログラムだけが、かろうじて演劇とのつながりなのですが、このプログラムではシェークスピア劇の現代的演出の舞台が上演されることが時々あります。イギリスでのシェークスピアの受け取られ方というか、文化の伝統に対するズレのようなものを感じるのはそういう時です。 シェークスピア劇なんて戯曲としてしか読んだことのないボクには、現代的に解釈されているシャークスピアに、ネタはシェークスピアですが、語られているのは現代的なテーマだったりするわけで、時に、ついていけないことがあるというわけです(笑)。 今回の演出でも、ムーア人であるオセロに対する人種的な差別や、デズネモーナや、イアーゴーの妻ですが、エミリアに対するミソジニーっていうのでしょうか、女性蔑視がくっきりと表現されていて、舞台の雰囲気がとがっている印象を受けました。 例えば、まあ有名なオセローの嫉妬というか、湧き上がる猜疑心も、単に男女の問題ではない、人種的偏見に対する猜疑心を引き金でとしながら、一方で、信用ならないものとしての女性に対する疑いで下支えしているかの心理の動きが、かなり鋭角的な印象を感じさせてしんどかったですね。 その分、イアーゴーの悪辣な使嗾が、異常にリアルで、演じていた俳優も上手なのですが、面白いというよりも疲れる舞台でした。 ここのところ、舞台の転換とかでも、とてもテクニカルに映像が使われる舞台を続けてみたのですが、映像で見る限り、生の舞台での視覚体験をしてみたいなあと思わせるスピードとリアルでした。いやはや、シェークスピアって、こんなに疲れるっけ? まあ、そんな感想の舞台でした。映像で見ていることを忘れさせる臨場感というか、中でもイアーゴーをやっていたポール・ヒルトンという役者さん、イヤ、ホンと、すごかったですよ(笑)。演出 クリント・ディアー原作 ウィリアム・シェイクスピアキャストジャイルズ・テレラ(オセロ)ロージー・マキューアン(デズネモーナ)ポール・ヒルトン(イアーゴー)ターニャ・フランクス(エミリア)2023年・185分・イギリス・リトルトン劇場原題 National Theatre Live「Othello」2023・06・23・no75・シネ・リーブル神戸no
2023.06.23
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NTLive「ライフ・オブ・パイ」シネ・リーブル神戸 2023年6月のNTLiveナショナルシアターライヴはマックス・ウェブスターという方の演出で、「ライフ・オブ・パイ」というお芝居でした。 「パイの物語(上・下)」(竹書房文庫)というカナダのヤン・マーテルという作家が2001年に発表してブッカー賞を受賞した世界的ベストセラーがあるそうです。 で、それを10年ほど前にアン・リーという台湾の監督が「Life of Pi」という題名で映画化してアカデミー賞の監督賞をとったらしいのですが、その原作の戯曲化がこの舞台でした。もちろん、というのもなんですが、ボクははそんな経緯も、小説も映画も知らないで観ました。 実に、現代的というか、舞台上に登場する様々な動物たちがパペットというのでしょうか、人形であることと、映像を活用した舞台転換が、実に面白い舞台でした。ボクは映画で見ているわけですが、舞台が大海原に代わっていく、実にリアルな映像の使い方が、実際の劇場で観ているとどんなふうになっているのか、とても興味深く感じました。 インドからカナダに移住する動物園を経営している家族がトラとかオランウータンとかの動物たちと同乗していた、なんと、日本の貨物船が太平洋上で沈没して、パイというニックネームの少年がたった一人生き残って、その少年に日本の運輸省だかの役人が事情聴取するという設定のドラマでした。 太平洋ひとりぼっちという話がありましたが、リチャード・パーカーという名前の、これが、実にでかいベンガルトラとパイという少年の、太平洋二人ボッチの話でした。 本筋とはあまり関係ないのですが、オカモトという名の、病院で寝ているパイくんの事情聴取をする日本人が、なんというか、まあ、いかにもうざい日本人なところが、英国の観客の皆さんは笑っていらっしゃるようなのですが、ちょっと笑えないリアル感が漂っていたのですが、演劇の舞台としてはよくできたファンタジーで、トラとの二人ボッチの展開の具体的な場面の作り方も、結果的に明かされる謎解きも納得でした。 人は、自らの存在のどこかに野生のトラを飼って生きているというわけでした。主人公のパイくんを演じたハイラム・アベセカラという俳優さんと、たくさん出て来たパペットたちとパペット使いの人たちに拍手!でした。 見終えて、帰って来て、「Life of Pi」という映画のほうはトラの実写版で撮っているようなのですが、ちょっと、そっちも見てみたいなという気分です。太平洋を漂う救命ボートにベンガルトラと少年の二人です。面白そうですね。 ああ、ちょっと蛇足ですが、付け加えておくと少年とトラはお友達ではありません。いつ、襲い掛かってくるかわからないという関係ですよ。演出 マックス・ウェブスター原作 ヤン・マーテル脚本 ロリータ・チャクラバーティキャストハイラム・アベセカラ(主人公パイ)ミナ・アンウォーミナ・アンウォーラジ・ガタクラジ・ガタクニコラス・カーンニコラス・カーン2023年・139分・イギリスNational Theatre Live:「Life of Pi」2023・06・09-no69・シネ・リーブル神戸
2023.06.10
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NTLive リンゼイ・ターナー「るつぼ」シネ・リーブル神戸 アメリカの劇作家アーサー・ミラーの戯曲「るつぼ(The Crucible)」を、上演劇場はちょっとわかりませんが、リンゼイ・ターナーという人が演出した舞台をNTLiveで観ました。 前回の「かもめ」が期待外れだったので、あまり期待せずに見たのですが、ものの見事に打倒されました。 「かもめ」を見ていて「好きな劇作家のお気に入りの戯曲だからといって実際の舞台が面白いとは限らない。」 ということを、まあ、当たり前なのですが、感じたのですが、この舞台はアーサー・ミラーという劇作家も好きな人ではあるのですが、話の筋なのか、演出なのか、役者たちの演技力なのか、実際のところ理由は定かではないのですが、戯曲が書かれてから60年たった2023年という今をたらたら生き続けている徘徊老人に、異様な衝迫力で迫り続ける展開で、主人公のプロクター夫妻(ブレンダン・カウエル アイリーン・ウォルシュ)の、とりわけ、夫ジョン・プロクターの最後の決断の姿には胸打たれました。 アーサー・ミラーが、有名な「セールスマンの死」を書いたころの作品で、1690年代のアメリカの農村で起こった魔女裁判を描いているのですが、戯曲が書かれた1950年代、猖獗を極めていたマッカーシズム=赤狩りを批判した作品だと解説されているようですが、「いま」という時代に、ドン、ピシャリ!という印象を持ちました。 映画.COM 上の写真は劇中で、少女たちが悪霊を見る、まあ、モノに憑かれたシーンですが、舞台上の所作、演技としてのイメージを超えて、現代社会そのものを活写して迫ってくる印象で、ある意味、ゾッとしましたが、おそらく演出の狙いなのでしょうね。 いやはや、俳優さんや演出さんにも拍手!ですが、やっぱり、アーサー・ミラーはスゴイ!ですね。拍手!でした。 今年に入って、演劇の専門家を名乗っている(?)旧友と一緒に観ているのですが、便利でいいですね。ボク程度が疑問に思うことは、大概、解説してくれるのです。やっぱり、ナショナルシアター・ライヴ、当分、見続けそうです(笑)。演出 リンゼイ・ターナー原作 アーサー・ミラーキャストブレンダン・カウエル(ジョン・プロクター:実直な農夫)アイリーン・ウォルシュ(エリザベス・プロクター:ジョンの妻)エリン・ドハティ(アビゲイル:プロクター家に奉公していた17歳の美しい少女)ラシェル・ディーデリクス(メアリー・ワーレン:プロクター家に奉公している黒人の少女。18歳。)ニック・フレッチャー(パリス牧師)フィサヨ・アキナデ(ヘイル牧師:魔女狩り裁判のエキスパート)2023年・186分・G・イギリス原題National Theatre Live「The Crucible」2023・04・16-no053・シネ・リーブル神戸
2023.04.22
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ナショナル・シアター・ライブ(National Theatre Live)ジェイミー・ロイド演出「かもめ」シネ・リーブル神戸 2023年2月のナショナルシアター・ライヴは「かもめ」でした。いわずと知れたチェーホフの4大悲劇の一つ、あの「かもめ」のリメイク(?)、現代風アレンジ(?)でした。 ナショナルシアター・ライブを観つづけていると、いろいろ新しい演出に出会います。この舞台では、登場人物たちの配置と、前半部での舞台の作り方が新しい工夫だと思いました。 登場人物は、確か、全部で10人、見かけ上ですが、男性が6人で女性が4人でしたが、ライトが点いて芝居が始まると舞台奥の壁際に、10人の登場人物が、それぞれ、等間隔にパイプ椅子に座って並んでいらっしゃいます。そこから、パイプ椅子を自分で持って前に出てきて、置きなおし、そこで二人とか三人とかの会話、ないしは一人でのセリフが始まります。ひたすら、セリフによって、セリフを語っている人の場がつくられ、場面の転換は語り手が椅子を持って下がり、別の椅子の人物が別の場の会話を始めます。要するに、徹底したセリフ劇というわけです。 もう一つの、舞台の作り方が新しいというのは、役者がいる舞台が客席以外がすべて壁とりかこまれていて、あたかも大きな箱なのでした。マア、世界は閉ざされているということなのでしょうかね。 そういえば、原作の「かもめ」も、どこかの田舎の村のお屋敷という閉鎖空間だったなというようなことを思い出しながら観ていましたが、前半部の最後に、大半の人物が客席にはけていくのを観ていて、なんだか騙されたような気がしました。で、後半には、舞台奥の壁が取り払われていて、観ている人で考えていただきたということだったのかもしれませんが、ぼくには、ますます訳の分からない演出というふうに見えてしまいました(笑)。 出だしの、登場人物たちが入り乱れての会話シーンは面白かったですね。一人一人の人物の個性が、それぞれのセリフ回しで主張されているイメージで、「おお、これはどうなるのだろう?」と期待しました。 ところが、チェーホフの原作のストーリーをなぞりはじめた頃から失速してしまいました。外の世界にあこがれる美しい娘ニーナ、彼女を誘惑する作家ボリス、ニーナに恋する劇作家コンスタンの三人が、まあ、この戯曲の主役という演出だったと思いますが、なんだか薄っぺらいのでした。「私はかもめ」 この戯曲の原作をを読んだ人が必ず思い浮かべる名セリフだと思いますが、なんだか、浮いていましたね。ヤー・チャイカだったっけ?こちら、かもめかな?そんなことをいった宇宙飛行士がいたなあ… と、まあ、見当違いの感慨に浸っていると幕が下りました。 現代的解釈という宣伝文句がチラシにあったような気がしますが、形式的な工夫のために理が勝ちすぎて、チェーホフの深い哀感を見失ったお芝居だったと思いました。ちょっと、残念な舞台でした(笑)演出 ジェイミー・ロイド原作 アントン・チェーホフ脚本 アーニャ・ライスキャストエミリア・クラーク(ニーナ)トム・リース・ハリーズ(コンスタンチン)ダニエル・モンクスソフィー・ウーインディラ・バルマ(イリーナ)2022年・146分・G・イギリス・ハロルド・ピンター劇場原題 National Theatre Live「The Seagull」2023・02・20-no023・シネ・リーブル神戸
2023.02.22
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ナショナル・シアター・ライブ(National Theatre Live)トム・ストッパード「レオポルトシュタット」シネリーブル神戸 久しぶりのナショナルシアター・ライブです。観たのはトム・ストッパードの戯曲「レオポルトシュタット」で、パトリック・マーバーという人の演出です。 トム・ストッパードという人は、ボクがナショナルシアター・ライブを初めて観た「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」という、シェークスピアのハムレットに登場する人物のお芝居の作者で名前は知っていました。 今回は、ユダヤ人であるストッパード自身のルーツに着想を得た戯曲だそうですが、85歳で、イギリス人である老脚本家が、どんなふうにルーツに迫るのか、興味津々という気分でやって来たシネリーブル・神戸でした。 題名の「レオポルトシュタット」はオーストリアのウィーンの街の名前だそうです。1899年、この街で暮らすユダヤ人の家族が、おそらく、大きなお屋敷なのでしょうね、住居の一室につどっています。キリスト教徒ならクリスマスのお祝いでしょうか、過ぎ越しの祭りの集まりのようです。舞台の上の登場人物の数の多さに、目を瞠ります。それぞれが思い思いにしゃべっていて、子供が思い思いに、そのあたりを走りまわっている印象です。上のチラシの上半分の写真のシーンです。 その場を取り仕切っているのは、おばーちゃんのようです。19世紀の最後の年のウィーンです。登場人物たちは、思い思いに近況を語りますが、ユダヤ人の神話的歴史とヨーロッパでの迫害の歴史が、この部屋の人たちの心の底に流れていることを告知するかのような一幕です。 そこから、1900 年、 1924 年、 1938 年、 1955年と5幕の構成で同じ部屋が舞台になっていましたが、うかつなことに、この部屋のある街がレオポルトシュタットだと気付いたのは5幕目の1955年のシーンでした。 1899年の第1幕からは55年、4幕の1938年からでも17年たち、第二次世界大戦後、ようやく独立が認められたオーストリアのウィーン、そのユダヤ人の街、レオポルトシュタットの屋敷に帰ってきたのは、第4幕、1938年に子供だった二人の男の子と、アメリカに渡っていて無事だった女性(名前がよくわかりませんでした)の三人だけでした。 ここまで、あんなに大勢いた登場人物が、ここでは、たった三人です。さすがのボクにも、その理由はわかりました。とんでもない時代が過ぎていったのです。 数学好きだった少年ナータン(上の写真であやとりをしている少年です)、はアウシュビッツで、家族をすべて喪いながら、奇跡の生還を果たし、今では大学で教える数学者で、この屋敷で暮らしているようですが、収容所暮らしの結果でしょうか、実年齢よりずっと老いた風情です。 もう一人の青年レオは、イギリス人のジャーナリストと再婚した母に連れられて渡英した結果、イギリス人のアイデンティティで今日まで生きてきているようです。自分の本名がレオポルドで、ユダヤ人だということさえ知らない様子です。 ドラマのクライマックスは、幼い日の記憶をすべてを忘れてしまっていたレオが1938年のあの日、一族がそろった最後の日のことを、ナータンから手の傷を指摘されることで、ありありと思いだす場面でした。 うまいものです。50年を超える家族の歴史と、1000年にわたるユダヤ人迫害の歴史を、レオとナータンの再会の、哀切な喜びのシーンによって、見ているぼくに焼き付けていくかのようでした。 一族の一人一人が、どのような最期を遂げたかが、延々と続くかに思える名前と死因の朗読で舞台は暗転しますが、こころに残る舞台でした。 20世紀の前半、第1次世界大戦、第2次世界大戦という二つの大戦の敗戦国としての歴史を潜り抜けたウィーンという街と、ヨーロッパにおけるユダヤ人の歴史と文化を、もう一度復習する必要を強く感じました。本当に、何も知らないまま馬齢を重ねていますね(笑)。 何はともあれ、原作者のトム・ストッパードと演出のパトリック・マーバーに拍手!でした。役者たちもなかなかよかったのですが、多すぎて名前がわからないので。まとめて拍手!ですね(笑)演出 パトリック・マーバー原作 トム・ストッパード装置 リチャード・ハドソン衣装 ブリジット・ライフェンシュテュール照明 ニール・オースティン音楽 アダム・コークキャストエイダン・マクアードルフェイ・キャステローセバスチャン・アルメストアーティ・フラウスハン2022年・PG12・イギリス・ウィンダムズ劇場原題National Theatre Live「Leopoldsta」2023・01・17-no006・シネリーブル神戸
2023.01.25
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ナショナル・シアター・ライブデヴィッド・ヘアー「ストレイト・ライン・クレイジー」シネ・リーブル神戸 久しぶりのナショナル・シアター・ライブでした。演目は「ストレイト・ライン・クレイジー」、デヴィッド・ヘアーという人の戯曲で、「英国万歳」の監督ニコラス・ハイトナーの演出でした。 アメリカの、いや、世界最大の都市、ニュー・ヨークを作った男と呼ばれているらしい、ロバート・モーゼスという人物の、まあ、伝記というか、第2次世界大戦下の1940年代から1980年代まで、真っすぐな定規を手にニュー・ヨークの地図に線を引き続けた男の栄光と時代に裏切られていく悲哀を描いたとでもいえばいいのでしょうか、胸を打つ人間ドラマでした。 どこかに社会派ドラマと宣伝されていましたが、結局、誰も気づけなかったし、今でも繰り返されている、いわゆる「開発型」の都市計画の陥穽に人生丸ごと落ち込んだ人間の悲哀をレイフ・ファインズという役者さんが見事に演じていました。 ちょうど、ぼくなんかの「父親」に当たる世代の人物だと思いましたが、都市計画に限らず、産業構造の構築から教育行政までが「ストレイト・ライン・クレイジー」な意識や思想によって作り上げられてきた半世紀の歴史を彷彿とさせるお芝居でした。 お芝居で描かれていくニュー・ヨークのことは、行ったこともない異国の大都市というイメージだけの印象ですし、ロバート・モーゼスという名前も初めて耳にしたわけで、まあ、何にもわかっていない観劇でした。 ぼくたちは、その世代の人たちが「未来」に描いた「理想」を追いかけて作り出したはずの都市や社会で生きているわけですが、「ストレイト・ライン」の便利さや快適さを享受しながらも、どこかで、これが「理想」なのだろうかという懐疑の影が色濃く覆い始めた現在に生きているわけで、それが、主人公ロバート・モーゼスの姿に悲哀を感じた所以でしょうね。 脇役(?)の州知事アル・スミスや秘書たちの演技も俊逸で、納得のいく舞台でした。マア、やっぱり、ロバート・モーゼス役のレイフ・ファインズに拍手!ですが、ぼくは、名前がわからないのですが秘書役の女性がいいなあと思いました。拍手!ですね。 それにしても、安定した面白さというか、イギリス演劇のレベルの高さに、今回も納得でした。拍手!ですね。作 デヴィッド・ヘアー演出 ニコラス・ハイトナー出演レイフ・ファインズ2022年製作・171分・G・イギリス原題 National Theatre Live「Straight Line Crazy」2022・10・22-no119・シネ・リーブル神戸
2022.10.29
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ナショナル・シアター・ライブ スージー・ミラー「プライマ・フェイシィPrima Facie」シネ・リーブル神戸 今週の始めだったでしょうか、シェイクスピアの「ヘンリー5世」を観て、ちょっとコケタ感があって、腰が重くなっていましたが、今日が、おそらく、上映最終日ということでやってきました。現代劇です。 予備知識はゼロです。ジャスティン・マーティンという演出家もスージー・ミラーという劇作家も知りません。 題名は「 Prima Facie」、主演はジョディ・カマーという女優さんです。この人の名前にだけ、なんとなくな記憶がありました。リドリー・スコットの「最期の決闘裁判」という映画で、役名は忘れましたが、マット・デイモンの妻を演じて、アダム・ドライバーに凌辱される女性を演じた人です。 で、今回のお芝居は2022年にロンドンのハロルド・ピンター劇場で上演された演目だそうです。 「Prima Facie」という題名は、法律用語らしいですね。「証拠」というのは反証されなければ正しい、あるいは事実として扱われるという意味だそうですが、ようするに、「やっていない」とか「やった」とかいうことについて加害者が出してきた証拠は、被害者が加害者に対して反証しなければ、加害者の主張が通るということらしいです。 「あれはレイプでがない、あなたはこうこうこういう合意のサインを出していた」と加害者が状況証拠を主張した場合、反証できなければ「被害」は消えてしまうというわけです。 で、このお芝居の論旨というかテーマは「レイプ被害者は合意を反証できるのか?」だと思いました。現代という時代の悪しき男性性というか、ご都合主義の身体言語解釈というか、インチキな真実を巡るスリリングな法廷ドラマでした。 二人だけの、密室ともいうべき人間関係の場の出来事の「反証不可能性」をことば巧みに暴くことで、プライマ・フェイシィという法理論を巧みに操り、やり手の弁護士として名を成していく女性弁護士が、彼女自身が「被害者になる」という反転というか、劇中で起こる立場の変化をどう演じるかというのが、見どころでしたが、見事でしたね。 2時間の間、労働者階級からケンブリッジを出て階段を駆け上ってきた「エリート弁護士」、自分をエリートにしていった法という根拠によって「人間」であることを否定される「女性被害者」、誰もが疑わない法理論の非人間性に対して告発の戦いを挑む「孤独な人間」、ただ、ただ、語り続け、もちろん同一人物ですが、この三人の女性を演じ続けるジョディ・カマーに圧倒されました。 全くの一人舞台です。複数の登場人物を感じさせる演技が不自然でないことにはじまって、法廷、事務所、私室、トイレ、取調室、机と椅子の移動による、実に巧みな場面転換から、脱いだり着たりの衣装交換、素っ裸でレイプされているその場面まで、あたかもそこに男がいるかのように、全部、一人で演じ続ける演出の巧みさと演技の華麗さに、イヤ、ホント、感心しました。2時間ぶっ通しですよ。まあ、素っ裸にはなりませんが(笑) 実は、そっちの方は、あんまり関心がなかったことなのですが、ネット上で香川某という俳優のスキャンダルが燃え上っていますが、あの話題そのもののようなドラマで、話題性においてもど真ん中のストライク!でした。 まあ、好みの問題はあると思いますが、動きの少ない一人芝居ではなくて、演技し続け、語り続ける、実にアグレッシブな舞台でした。 久しぶりに見ごたえのある舞台でした。まあ、やっぱりジョディ・カマーに尽きるのでしょうね。拍手!拍手!でした。 演出ジャスティン・マーティン原作スージー・ミラー音楽レベッカ・ルーシー・テイラーキャストジョディ・カマー(テッサ)2022年・122分・G・イギリス原題National Theatre Live「 Prima Facie」2022・09・08-no101・シネ・リーブル神戸
2022.09.09
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シェークスピア「ヘンリー五世」シネ・リーブル神戸 8月の下旬から、2週間自宅隔離生活でしたが、ロイヤル・ナショナル・シアターで上演されたシェークスピア史劇「ヘンリー5世」がシネ・リーブル神戸で始まったので、なんだか元気はないのですがやってきました。 シェークスピアの、少々、長ったらしい歴史劇ですが、現代に翻案した演出で戦争論というか、権力論というかに焦点を当てた構成で、主演のキット・ハリントンが、番組の最初のインタビューで言っていましたが「ウクライナを彷彿とさせる舞台」を展開していました。 で、面白かったのかというと、期待外れでした。シェークスピアの歴史劇を現代化して演出する舞台は、イギリスではよくある演出のようで、ナショナルシアター・ライブを見始めて、もう、何度目かなというくらい見ていますが、要するに好みの問題があるとは思うのですが、「あたり!」という印象には、なかなか出会えませんね。 今回も、音楽や、舞台の映像処理は面白いのですが、なにせ、話が冗長で、英語がわからないシマクマ君には、ダルイことこの上ない舞台でした。 残念でした。実は2022年の100本目の映画館で、その上、なんとなくな快気祝い気分もあったので期待して出かけて来たのですが、ちょっと落ち込み加減の帰り道でした。 でも、いいこともあるものです。いつもは通らない元町商店街を歩いていて、旧知の友人と10年ぶりに再会したのです。嬉しかったですね。旧知とはいっても、彼はまだ20代の青年ですが、思いのほかの結婚の報告とか、お互いのコロナ体験とか、立ち話とはいえ、「久闊を序した」上に、再会を約束して別れました。元気が出ました。やっぱり、徘徊しないとだめですね(笑)。演出 マックス・ウェブスター原作 ウィリアム・シェイクスピア装置 フライ・デイビス音響 キャロリン・ダウニング照明 リー・カラン音楽 アンドリュー・T・マッケイキャストキット・ハリントン(ヘンリー五世)2022年・G・イギリス・220分原題:National Theatre Live: Henry V2022・09・05-no100・シネ・リーブル神戸
2022.09.06
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ナショナルシアター・ライブ サリー・コックソン「ジェーン・エア」KAVC シャーロット・ブロンテの原作がどんなお話だったのか、はるかな記憶のかなたに埋没していて、思い出せませんが、まあ、何とかなるだろうと思ってやってきたアートヴィレッジでしたが、話の筋は舞台が始まって、案外、すぐに思い出しました。 2015年の舞台の中継です。演出はサリー・コックソンという女性で、演目は「ジェーン・エア」です。 舞台にはジャングルジムのような大きなセットがあります。梯子でよじ登るか遠回りする坂道で登らないと上に行けない空間設定で距離とか高さを表現しているようです。 そのセットもそうですが、生まれてきた赤ん坊の表現の仕方から、旅に出て馬車で移動する演技、数人(女性4人、男性2人)の出演者による複数の人物の造形、挿入される歌声まで演劇学校の卒業公演のようなというか、あんまり見たことはありませんが、新劇ふうで、若い人という印象でした。 舞台でできる「演劇的表現」を総復習しているニュアンスの構成は、子供のための演劇入門という感じすが、そこはやはり、演目が「ジェーン・エア」ですから、クライマックスは泣かせました。 ジェーンの出生から、成長、ローウッド学院での生活、家庭教師という職業、ロチェスターとの出会いと別れ、そして再会と結婚までの長丁場です。まさに、19世紀イギリスの闘う女性の半生ですね。劇中の名セリフは、おそらく小説からそのまま採られたものでしょう、実に感動的です。 マア、そういう訳で、久しぶりに「ジェーン・エア」を読み直した気分でしたが、それにしても、すごい話ですね。いやはや。とはいうものの、もう一度読み直そうとは思いませんでしたね(笑)。 演出のサリー・コックソンさん、いろいろ工夫を重ねながら、結果、案外「古典」的な舞台に落ち着かせたところに拍手!でした。演出 サリー・コックソン トム・モリス原作 シャーロット・ブロンテキャストマデリン・ウォーラル(ジェーン・エア)ローラ・エルフィンス(ヘレンほか)クレイグ・エドワーズ(ロチェスターほか)2015年・210分・G・イギリス原題:National Theatre Live「Jane Eyre」2021・12・20‐no134・KAVC
2021.12.24
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ナショナルシアター・ライブ サイモン・ゴドウィン「十二夜」KAVC 最近、ドキュメンタリーの傑作を続けてみている気がしますが、今日は劇場中継です。2017年の上演作品で、その年のナショナルシアター・ライブにライン・アップされた「十二夜」、シェイクスピアのお芝居です。 好きがこうじて研究者になってしまったお友達とアベックで見ました。どこかの大学で、どんなふうにかは知りませんが「演劇」を教えている男で、40年前に彼が学生演劇で俳優だったころからの友達です。 芝居が始まりました。演目はシェイクスピアなのですが、現代劇の様相です。イギリスの芝居の面白いのは、いくら現代劇に仕立てても、台詞はシェイクスピア通りらしいところです。字幕には、昨日予習をして記憶にのこっているセリフが書きだされていきます。 隣の席で「フフ、フフ」と笑い声が聞えます。今のところ、何処が面白いのかぼくにはわかりません。ぼくはといえば、始まる直前に夕食を食べたことがたたってか、眠くて仕方がありません。 休憩まで、前半をうすボンヤリ見ていて、とりあえず一服と思って立ちあがると、隣の男はスケッチブックのようなものを取り出して舞台の様子をスケッチし始めました。もう、何十回と一緒に芝居を見てきて、いつもの事なのですが、妙に生真面目な顔なので笑ってしまいそうです。まあ、笑っても彼は気にしないでしょうがね。 後半が始まって、ようやく気付きました。このお芝居の見どころは、執事マルヴォーリオを演じているタムシン・グレイグという怪女優なのでした。もちろん、上の写真でもわかる通り彼女は美しい女優さんなのですが、今見ている劇中で、本来男性が演じる執事マルヴォーリオを演じているグレイグさんは「怪女優」というしかないセリフ回しと立ち回りで、このお芝居の本筋だと思って見ていた道化や主人公たちを圧倒していました。 男と女の双子を、それぞれ勘違いして恋するという、いってしまえばドタバタ喜劇なのですが、予習して原作を読んだ時には脇筋だと思っていた執事の怪演で「ああ、そういうことなのかな。そっちがメインでやっているのかな。」と、おっかなびっくりしながら見終えたのでした。「マルヴォーリオやけど、ほんとは男がやるねんけどな。今日の女優さんよかったやろ。」 件の友人の別れ際の一言でしたが、「ハヨいえよ!」と心では思いながら、一安心というわけでした。予習は間違ってましたが、本番は何とかクリアという感じの観劇でした。 帰宅すると、そっち方面の好きなピーチ姫が帰っていたので、その話をすると「シェイクスピアって、まあ、そういうパターンやろ」と軽くいなされてしまいました。 チラシとかを見直すと、彼女、タムシン・グレイグが主役の位置づけでした。いやはや、そういうことだったんですね。 それにしてもタムシン・グレイグの怪演に拍手!でした。本場には、スゴイ俳優がいるものですね。演出 サイモン・ゴドウィン ロビン・ラフ(共同監督)原作 ウィリアム・シェイクスピアキャストタムシン・グレイグ、タマラ・ローレンスダニエル・エズラオリヴァー・クリスフィービー・フォックス2017年・イギリス・197分・原題「Twelfth Night」2021・12・15‐no132・KAVC
2021.12.21
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ナショナルシアター・ライブ「ウォー・ホース 戦火の馬」KAVC 先週に続けてのナショナルシアターライブ「WarHorse~戦火の馬」は数年前から、世界中で評判の舞台だそうです。 M・モーパーゴという方の原作で、「児童文学(?)」作品の舞台化だそうです。かなり意気込んでやってきたKAVCでしたが、期待を裏切らない舞台でした。 ナショナルシアターライブというプログラムは、実際の舞台の実写版の映画化で、まあ、ぼくのようなどこにも行く気のないくせに、お芝居とかが結構好きだったりする人間には絶好の企画なのですが、このお芝居は、幕が下りたときに、何とか、あのかぶりつきあたりでもう一度見たいと思ったのでした。 理由は明らかで、感動の主役が三人がかりで操っている「馬の人形」だからです。日本の古典芸能に人形浄瑠璃という、まあ、すごいものがありますが、あれと同じです。人形に命が宿り始めるのです。そりゃあ、やっぱり、すぐそばで見たいじゃないですか、とまあ、そんな気分でした。 貧しいアルバート少年の家に仔馬のジョーイがやってくる経緯を面白おかしく描く馬市のシーンから舞台は始まります。 舞台の上の人形のジョーイもまだ仔馬です。なんだか動きがぎこちないのが、少々心配です。 やがて少年アルバートの献身的な「仔馬育て」によって「ジョーイ」と名付けられた仔馬は「名馬」に育ってゆきます。ところが、その「ジョーイ」が、第1次世界大戦の戦場に軍馬として駆り出されてしまいます。 「ジョーイ」の身の上を案じる一心のアルバート少年は、年齢を偽り志願兵として出征し、戦場で馬を探します。 「馬」と少年アルバートとの出会いと別れ、そして奇跡的な再会の物語と言ってしまえば、まあそれだけのお話なのですが、舞台上では、馬が人形なのです。パペットというそうで、操り人形のことです。そこが芝居の面白さの肝だと思いました。スピルバーグが舞台に感動して映画にしたそうですが、おそらく舞台の感動とは違うと思いました。 このお芝居が始まった当初、見ているぼくはかなり冷静で、「ああ、この人形遣いたちが見えなくなったら、この芝居は成功なんだな」とか、余裕をかましていましたが、本当に見えなくなるのです(もちろん見えてますよ(笑))。 第一次大戦の戦場を舞台にしていますから、有名な塹壕を掘るシーンや、キャタピラのお化けのようなマーク1型戦車も登場します。まあ、そういう面白さもありますが、なんといってもパペットの馬が、生き物の「息」を始める舞台を、できればかぶりつきで見てみたいものです。お芝居と映画の違いについて、うまくいえるわけではありませんが、こういうところがやはり違うなと、つくづく思いました。きっと、生の舞台はもっとすごいに違いない、そう思いました。 映画の感想で言えば、もちろん、人形であることを忘れさせてくれたジョーイの演技と三人の馬使いに拍手!でした。演出 マリアンヌ・エリオット、トム・モリス原作 マイケル・モーパーゴ脚色 ニック・スタフォード主演 SIÔN DANIEL YOUNG上映時間 約175分(休憩あり)イギリス2021・10・18‐no96 KAVC
2021.10.28
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ナショナル・シアター・ライブ『メディア』KAVC 久しぶりのNational Theatre Liveです。コロナ騒ぎのの余波ということなのか、単にプログラムを見損じているボンヤリのせいなのかわかりませんが、1年以上見ていなかった気がするのですが、今日は勇んでやってきたKAVC、神戸アートビレッジセンターです。 演目はギリシア悲劇、エウリピデスの「王女メディア」です。怒りだか嫉妬だかに狂い、わが子を殺す王女の話ですが、そのメディアを演じるのはヘレン・マックロリーというイギリスの女優さんです。 彼女がこの役でこの映画の舞台に立って、評判をとったのは2014年です。ところが、そのヘレン・マックロリーが、今年、2021年の4月に52歳という若さで亡くなってしまったのです。で、その追悼プログラムとして再上映されたのが、今日の「メディア」です。 古典演劇なのですが、現代的な構成で、ギリシアの神話的な悲劇というよりも、現代の「家庭劇」のおもむきで展開していました。 口から出まかせで、どうも、その場の自己都合で生きている夫と、そんな男のために家族も兄弟も捨ててきた妻という関係ですが、去った夫が、今、最も愛する「あたらしい女性」と、夫との間に出来た「二人の子供」を殺すということで、裏切りに対する「復讐」を実行するという「心理」は、とても家庭劇のサイズでは収まらないですね。そこがこのお芝居の見どころの一つだったと思います。 その、「夫」の浮気に見捨てられ、凡庸な家庭不和のなかに取り残された「妻」であった女性が、一気に、復讐鬼というか、魔性の女というか、「神話」の高みへと駆け上っていくところを見事に演じたヘレン・マックロリーという女優の演技がすごかったですね。 当たり前ですが、あんまり現実的ではない、どちらかというと象徴性に満ちた「嫉妬」なのですが、本当に怒った女性の恐ろしさを堪能しました。 それは、ぼくが「おとこ」であるからなのか、単に気が弱いからそう感じたのかどうかわかりませんが、お芝居のラストあたりで「いや、これで、本当に、愛する、まだ幼い二人の息子を彼女は殺せるのだろうか」と、いぶかしんでいると、暗転した舞台に悲鳴がとどろき、血まみれのメディアが再登場した、その形相に、イヤ、ホント、震えあがりましたね。 お芝居にはカーテン・コールという挨拶の儀式がありますが、ヘレン・マックロリーが血まみれの衣装で、笑いながら登場したのを見て、もう一度、震える気分でした。 「いやあ~化けるもんですねえ。」 それにしても、いい女優さんですね。亡くなったことが、本当に残念です。あまりにも若くなくなってしまったヘレン・マックロリーという女優さんを悼みながら、拍手!演出 キャリー・クラックネル ロス・マクギボン原作 エウリピデス脚本 ベン・パワー音楽 アリソン・ゴールドフラップ ウィル・グレゴリーキャストヘレン・マックロリー(メディア)ダニー・サパーニ(ジェイソン)ミカエラ・コール(ナース)マーティン・ターナードミニク・ローワン2014年・99分・G・イギリス原題:National Theatre Live: Medea2021・10・11‐no92・KAVC
2021.10.15
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ジェイミー・ロイド「シラノ・ド・ベルジュラック」神戸アートビレッジセンター ナショナルシアター・ライヴを、ノンビリ見続けて3年たちました。大阪まで行けば見落としはないのですが、地元のアートビレッジで見られるものを見ようという気分です。 アートビレッジは公営の施設ということもあってか、コロナ騒ぎの影響でプログラムが変わったような気がしますが、今回は久しぶりのナショナルシアター上映会で、演目は「シラノ・ド・ベルジュラック」でした。 ここの所、映画でも「シラノ」をやっていましたが見ていません。まあ、古典演劇の一つでしょうね、スジはぼくでも知っています。「鼻の男」の「悲しい恋」のお話です。まあ、騎士道物語の一つといってもいいのでしょうか。 今回のライヴ版シラノは現代劇でした。主人公シラノは鼻なんか気にならないダンディーで、ロクサーヌが別の若い男に恋して、シラノに惚れないのが、なぜだかわからない容姿です。 で、シラケちゃいました。なんかひどい感想ですね。 以前、シェークスピアの、確か、マクベスを現代化して「傭兵」の話にしていたお芝居がありましたが、イギリスの現代劇では、こういう演出はよくあることらしいですが、見ている側がついていけないと終ってしまいますね。 今回のシラノは、舞台とかもシンプルで抽象的、役者はマイクを装着していて、動きは現代の青年です。その上、詩的なセリフがラップ調で畳みかけられます。 ある意味、見どころはタップリなのですが、シラノは「言葉」の芝居だと思うのです。英語を耳だけで理解できればまだしもですが、字幕だよりの目に映る「セリフ」だけは原作のままの「古めかしい」ものですから、そのギャップについていけませんでした。 ナショナルシアター・ライヴで、外国語の芝居をおもしろがって観てきましたが、初めての挫折でした。というわけで、これは、お芝居に対する悪口ではなくて、ぼく自身の観劇失敗の記録です。あしからず。原題「Cyrano de Bergerac」上演劇場「プレイハウス・シアター」上映時間 3時間6分(休憩約20分含む)作「エドモン・ロスタン」脚色 マーティン・クリンプ演出 ジェイミー・ロイドキャストジェームズ・マカヴォイ他2021・03・26-no30神戸アートビレッジセンター
2021.03.30
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ナショナル・シアター・ライヴ 2020 ノエル・カワード「プレゼント・ラフター」神戸アート・ヴィレッジ 久しぶりのナショナル・シアター・ライヴでした。ノエル・カワードという人の「プレゼント・ラフター」というお芝居でした。 「さあ、ここで笑って!」とでもいう意味なのでしょうか。正真正銘の「喜劇」でしたね。 登場人物相互の愛憎関係といい、女優になりがっている女性の登場といい、脚本家志望の「狂気」の青年といい、まごう方なきの喜劇で、英語がわからないぼくでも笑えるつくりでした。 なのですが、最後の最後には、ちょっと物悲しいというか、ギャリー・エッセンダインという、真ん中に立ち続ける、最悪な男のありさまが他人ごとじゃないと、65歳を過ぎた老人に思わせるのですから大したものでした。 つくづく、英語ができたら、もっと面白いだろうなあ、と思うのはいつものことですが、俳優たちの「存在感」を揺らぎがない「空気」で見せつづける舞台は、やはりレベルが高いのでしょうね。 映画.com 写真はギャリーと離婚(?)しているにもかかわらず、「仕事のためよ」 とかなんとかいいながら、ちっとも出て行こうとしない別れた妻リズとの、にらみ合いですが、お芝居全部が、このにらみ合いの中で展開していたようです。これはこれで、かなり笑えるシーンなのですが、ホント、夫婦って何なんでしょうね。演出 マシュー・ウォーカス作 ノエル・カワードキャストアンドリュー・スコットインディラ・バルマエンゾ・シレンティキティ・アーチャーソフィー・トンプソン2019年・180分・イギリス原題:National Theatre Live「Present Laughter」2020・11・16神戸アート・ヴィレッジ追記2020・11・26 これで、神戸アートビレッジでのナショナルシアター2020のプログラムは終了なのですが、「真夏の夜の夢」を見損ねたが、返す返すも残念でした。プログラムの日程を度忘れしていて、一週間も気付かなかったことにショックを受けています。 物忘れがひどくなっていて、ちょっとヤバいんじゃないか、不安になっています。追記2023・04・26 神戸アートヴィレッジ・センターが 、ナショナルシアター・ライブに限らず、所謂、映画上映をやらなくなって2年たちました。月に何度か通っていたこともあって映画の上映を支えていた方と顔見知りになり、少しお話もするようになっていたのですが、最後の会話は転勤、配置換えのお話でした。お元気でいらっしゃるのでしょうか。 センターの活動方針の変更は採算が理由だったのでしょうが、採算を理由にすると文化は滅びますね。 ときどき、前を通ることがありますが、センターの中に人影を見かけることはありません。儲からないところは潰せばいいという印象を市民に与える文化行政の街に住んでいることをさみしく思う市民のいることを忘れないでいただきたいですね。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.26
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ナショナル・シアター・ライヴ 2020アンドレア・レビ「スモール・アイランド」神戸アートヴィレッジ 第2次世界大戦から1948年にかけてのイギリスを舞台に、英語教員になる夢を抱いて植民地ジャマイカから宗主国イギリスに旅立つ女性ホーテンスと弁護士を目指す男性ギルバートという二人の若者と、リンカンシャーの「農民社会」のしがらみから逃れたい一心で、「紳士」である銀行員の男性と結婚した、牛飼いの農民の娘である女性クイニーの3人の苦難の人生の物語でした。 ジャマイカという国は、ボルトとかパウエルという陸上競技のスプリンターか、ボブ・マーリーのレゲエという音楽のイメージしかありませんでしたが、1961年に独立を果たすまで、イギリスの植民地国家であり、先住民たちは絶滅し、奴隷として「移入」されたアフリカ系の「黒人」が90%以上を占める社会だそうです。 「スモール・アイランド」という題名は、まず、二人の若者が生まれ育った「ジャマイカ」というカリブ海の島を指すのですが、やがて、彼らが憧れた「イギリス」本国をも指していることが明らかになります。 最後に、このお芝居を見終わった人たちは、己の所属する「階級」や「人種」を「常識」として、「他者」を排斥することで、一見、平穏な生活を送っているこの「場所」こそが、「スモール・アイランド」と名指されていることに気付くことになります。 リア・ハーベイとガーシュウィン・ユースタシュ・Jr.が演じるジャマイカからの移民の二人の熱演も素晴らしいのですが、エイズリング・ロフタスの演じるクイニーの大胆で、コミカルな演技が印象に残りました。なにせ、舞台上で赤ちゃんを産み落とすのですからね。 このお芝居でも、印象に残ったのは「音楽」でした。おそらく、ジャマイカの民俗音楽なのでしょうね、中米風なエキゾチズムもありますが、舞台のテンポとムードによくマッチしていました。 ブレイディ・みかこの著作や、映画「レ・ミゼラブル」が活写するヨーロッパの伝統社会の「歪み」に鋭く切り込みながら、「人間」の存在の「肯定性」を美しく描いているこういうお芝居が上演されている、ヨーロッパ文化の分厚さをつくづく感じた舞台でした。 演出 ルーファス・ノリス 作 アンドレア・レビ 翻案 ヘレン・エドムンドソン キャスト リア・ハーベイ(ホーテンス) エイズリング・ロフタス(クイニー) ガーシュウィン・ユースタシュ・Jr.(ギルバート) 2019年・207分・イギリス 原題「 Small Island」 2020・08・17・神戸アートヴィレッジセンター追記2020・08・23ブレイディ・みかこの「子どもたちの階級闘争」(みすず書房)・「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社)、ラジ・リの映画「レ・ミゼラブル」の感想はこちらからどうぞ。 ボタン押してね!にほんブログ村
2020.08.24
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ナショナル・シアター・ライヴ 2020ステファノ・マッシーニ作「リーマン・トリロジー」神戸アートヴィレッジ 新コロちゃん騒ぎでプログラムが変わって、漸く上映になった評判の作品「リーマン・トリロジー」を神戸アートヴィレッジセンターで見ました。 平日ですが、お盆休暇に入っているのかもしれません、221分の上映時間ですから、ちょっと覚悟がいるのですが、アートヴィレッジにしては客席が埋まっていました。まあ、十数人というところですが。 演出がサム・メンデスという人です。最近、この人が監督した映画を見ました。今年(2020年)の3月に公開された「1917-命をかけた伝令」ですね。お芝居を見るのは初めてです。 構成、舞台装置、音響、俳優たちの演技、すべて新しいアイデアにあふれていました。見ごたえのある舞台だったと思います。でも、ぼくは少々眠かったのですね 1840年代、ドイツからユダヤ系の移民としてヘンリーがニュー・ヨークにやって来ます。次いで弟のフィリップ、末っ子のマイヤー。 映画.com 最初にやって来たヘンリー・リーマンはサイモン・ラッセル・ビールが演じています。写真の前列左の小男です。二人目のフィリップをベン・マイルズが演じていて、後ろの長身です。三人目のマイヤーがアダム・ゴドリー。前列の暗い表情の男です。 アダム・ゴドリーは初めて見るかなと思いますが、残りの二人は知っていました。サイモンは「リチャード2世」をナショナルシアターで見ました。鬼気迫るというか、これぞ役者という演技でした。ベン・マイルズは最近見た「ジョーンの秘密」で息子のニックだった人です。表情を動かすことなく、困惑からいたわりへと変わった心の表現が見事でした。 それから、この舞台では俳優もなのですが、舞台袖でピアノを弾いているピアニストが印象に残りました。お名前はわからないのですが、ソロのピアノが、効果音というよりも場面の展開や導入にとてもいい役割を演じているのです。 さて、見るからに芸達者な、この三人が、兄弟たち、息子たち、そして孫に至るまで、「リーマン家の人々」の150年を演じます。 なるほど、大したものだと納得させながら、舞台が進行してゆき、「納得」は「驚き」に変わります。 彼らが演じるのは「リーマン家の人々」だけではありませんでした。この150年、アメリカで生きたすべての人間、あどけない赤ん坊も、夢見る少年も、恋する乙女も、自殺する銀行員も、みんなこの三人で演じて見せるのです。 衣装を変えるわけでも、小道具で説明するわけでもありません三人は「リーマン・ブラザーズ」として仕事を始めた当時の、フロック・コート姿のままです。 映画.com 舞台にしつらえられた装置は大きなガラスの箱です。摩天楼のオフィスを彷彿とさせますが、波止場もアラバマの事務所もすべてこの中にありました。三人の俳優はこの箱の中で、生き替わり、死に替わりしてゆく人間になり替わり、「アメリカの夢」を語り続けるのです。 箱の奥のスクリーンには時代を象徴する様々な映像が光の錯覚のように映し出され、ガラス状の箱の素材に反射します。 南北戦争、世界恐慌、そして林立するニューヨークのビルディング、映像と抽象的な舞台装置が「場所」と「時間」をイメージさせる演出は、劇場で見てみたいパノラマです。 箱の中には、多分、段ボールなのでしょう。いくつもの小箱があって、それが「鞄」から「聳え立つビルディング」さえも表現する小道具になっています。その扱いのスムーズさが見事です。 物語はドイツから渡ってきた、貧しいユダヤ人の三兄弟がアラバマで「綿花」の仲買商をはじめるところから綱渡りがスタートします。 1840年頃のヨーロッパ、マルクスがエンゲルスと会った頃のドイツからやって来て、新天地アメリカのアラバマ、奴隷制度に支えられた「南部」農業地帯で生産される「商品=綿」を「北部」の工業地帯に売りさばく「交換過程」の中に莫大な利益が潜んでいることを発見したリーマン・ブラザーズが、やがて世界有数の投資信託銀行へと成長するという「アメリカン・ドリーム」の物語でした。 ナショナルシアター公式ページ 夢の綱渡りを支え続ける合言葉は「Trust me!(私を信じてください)」でした。三代にわたる「リーマン家の人々」の成功、150年の間信じられ続けてきた「アメリカの夢」、「資本主義の不滅神話」がある日、突然、崩壊し、舞台の幕は降ろされました。 「Trust me!」という魔法のことばが、魔法を失う日に、「リーマン・ブラザーズ」という会社には「リーマン家の人々」は、ただの一人もいませんでした。「Trust me!」を「信用」して綱から落ちた人々は、一体何を信じていたのでしょう。 最後の最後になって、舞台の上には「ガラスの箱」を見あげる大群衆が登場するというアイロニーにみちた終幕でしたが、彼らが何者で、彼らが見ていたのはいったい何だったのか。 しかし、延々と語り続けられる「叙事詩」にも似たセリフの洪水は、英語のできないぼくのような観客には少々つらい舞台でした。それにしても三人の役者と、軽やかなピアノには感心しました。 演出 サム・メンデス 作 ステファノ・マッシーニ 翻案 ベン・パワー キャスト アダム・ゴドリー サイモン・ラッセル・ビール ベン・マイルズ 2019年・210分・イギリス・ピカデリー劇場 原題「The Lehman Trilogy」(リーマン三部作) 2020・08・12神戸アートヴィレッジボタン押してね!にほんブログ村
2020.08.20
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ビッキー・ジョーンズ「フリーバッグ」神戸アート・ヴィレッジ 一昨年くらいから公開されたプロブラムを欠かさず見ていた「ナショナルシアターライヴ」だったのですが、これまた新コロちゃん騒ぎでストップしていました。神戸では、アート・ヴィレッジが上映してくれていたのですが・・・・。 そのアート・ヴィレッジが再開して、6月のプログラムに入っていたのがこれです。 先日もやって来たのですが、今日は受付にある体温県の仕組みを見せてもらいました。ちょっと小型ですね。裏側に液晶の画面があって肖像がうつります。一緒に温度も測れるそうです。 さて、ナショナルシアターです。今日はフィービー・ウォーラー=ブリッジという女優さんの「一人芝居」、「フリーバッグ」です。イギリスではBBCで、テレビドラマ化していて、人気番組なのだそうです。テレビでも主演はフィービー・ウォーラー=ブリッジらしいですが、一人芝居は舞台の場合だけのようです。 始まりました。舞台の中央に椅子があって、女優さんが座って喋りはじめました。どこかの会社の入社面接のようです。 映画.com こんな感じです。途中、何度か椅子から降りて、床に立つこともありますが、ほぼ、座ったままでしゃべり続けます。場面転換は「セリフ」と「間」で変わりますが、そのあたりの話術はちょっとしたもので、英語がわからないぼくにも理解できます。 ただ、一人芝居ということで、しゃべり続けられる英語に、ことばが理解できないぼくにはやはり「眠気」がやって来ました。性的なスラングが連発され、場面としてもかなり怪しげなシーンが演じられますが「眠気」は去りませんでした。もしも、自宅で横になって観ていたりすれば確実に寝てしまっていたと思います。 ちなみに「Fleabag(フリーバッグ)」の「Flea」は「蚤」のことで、「みすぼらしい人、ボロ宿、ノミのたかった動物」という意味なのだそうです。「フリーマーケットflea market」を「蚤の市」と訳しますが、あれも「蚤」なのですね。知りませんでした。 で、芝居で主人公が「フリーバッグ」なのは何故かという問題の答えは、ちょっと難しいですね。案外、彼女を取り巻く「世界」こそが「フリーバッグ」かもしれません。 所謂「ウェルメイド・プレイ」(well-made play)と総称されるタイプのお芝居で、オチもちゃんとあります。三谷幸喜という人のテレビ番組みたいな感じですね。(あんまり見たことはありませんが。)舞台に充満している嘘くささの中から、奇妙なリアリティを醸し出す女優さんの力量も大したものだと思いました。 大昔の話ですが、ボブ・フォッシーの撮った「レニー・ブルース」という映画を思い出しました。スタンダップ・コメディアンを描いた、あの映画の主人公は悲惨な最後を遂げるわけですが、このドラマの「悲惨」な主人公を演じているフィービー・ウォーラー=ブリッジは、とても「健全な人」だと思いました。演じている人の批評的ポジションは案外「上から目線」な印象でした。ぼくが「ウェルメイド・プレイ」だというのはそういう理由ですね。 というわけで、最後のセリフは、予想通り「Fuck!」でした。イギリスのお客さんは爆笑でしたよ。もちろんボクも笑いました。演出 ビッキー・ジョーンズ 作 フィービー・ウォーラー=ブリッジ キャスト フィービー・ウォーラー=ブリッジ2019年・88分・R15+・イギリス原題「 Fleabag」2020・06・26神戸アート・ヴィレッジ・センター 当日のポスターはこれです。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.07.01
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ジョセフ・L・マンキウィッツ「イヴの総て」ナショナル・シアター・ライヴ 2019 学生時代から、足掛け40年、「お芝居」とか、「映画」とか、自分ではもう読まないとか言ってますが「小説」とか、「あれ、面白いよ。」と声をかけ続けてくれているおにーさんがいます。通称「イリグチ」君。「ああ、シマクマ君?ナショナル・シアター見に行きましょか?」「うん、行くつもりやってんけど、じゃあ会場でね。」やって来たのが神戸アートヴィレッジ。演目は「イヴのすべて」。 原作はジョセフ・L・マンキウィッツという監督の映画ですね。マンキウィッツという監督はエリザベス・テーラーが主演した「クレオパトラ」とか、カーク・ダグラスとかが出ていた「大脱走」とか撮った人です。 この芝居は、1950年公開で、その年のアカデミー賞を受賞した映画「イヴのすべて」の劇場版です。 劇中、大女優「マーゴ」を演じているのはジリアン・アンダーソン。彼女に寄生虫のように取り付いて、やがてその地位を手に入れるであろう若き女優の卵「イヴ」を演じるのはリリー・ジェームス。演出はイヴォ・ヴァン・ホーヴェ。 映画が始まって、しばらくして、思い出しました。主演のジリアン・アンダーソンは「欲望という電車」の主人公ブランチ・デュボアを演じていた女優さんですね。あのお芝居での、この女優さんは微妙な表情の変化が印象的だったんですが、今回もその演技には堪能しました。 演出は舞台の進行と映像を組み合わせる斬新(?)ものでしたが、果たしてうまくいっていたのかどうか、判定は難しいでしょうね。 その場に、つまりは見えている舞台上に、今いない人物の行動をカメラが追うんですね。ドアの向こうに消えた人物がそこで何をしているのかを、観客に見せるわけです。 映画では当たり前ですが、お芝居でのこの演出は見ている人によって感想が変わるでしょうね。ぼくはいかにも「映画」のリメイクの舞台だなあと思いながら、何だか、舞台で見るお芝居としては「五月蠅い」ものを感じました。 映画が終わって、新開地の商店街を歩いていると「イリグチ」君が、しゃべり始めました。「ナショナルシアターゆうてもな、やっぱり玉石混交やねん。あんな、チェーホフの芝居で木い切る音は聞こえてくるけど、切ってるとこ見せたりせえへんやろ。」「あの映像のこと?」「うん、あれはあかんなあ。」「わかりやすいいう面もあるんちゃうかな?」「うーん、お芝居としてはどうかな?ぼくは納得できまへんな。」 いろんなジャンルで、「わかりやすさ」が「おもしろい」につながる傾向があります。感想も言いやすい。学校図書館の司書さんや本屋の店員さん、その結果なのか出版社のキャッチ・コピーもが「泣ける本」、「怖い本」、「すぐに・・・できる」という具合で、「わかりやすさ」が氾濫しています。 「これはちょっとおかしいぞ。」 そういう視点は、やはり大切なのではないでしょうか。60年以上も前の映画が舞台になって甦るときに、今という時代の「病理」が、その方法において浮き彫りになっているというのは、なかなか興味深いと思いました。 作 ジョセフ・L・マンキウィッツ 演出 イヴォ・ヴァン・ホーヴェ キャスト ジリアン・アンダーソン リリー・ジェームズ 原題「All About Eve」 上演劇場「Noel Coward Theatre(ロンドン)」 収録日「2019・4・11」 2019・12・14アート・ヴィレッジ追記2020・01・07 同じナショナルシアターライブにシリーズ「欲望という名の電車」の感想はここをクリックしてください。ボタン押してね!ボタン押してね!イヴの総て 【BLU-RAY DISC】世界名作映画■栄冠のアカデミー最優秀作品賞【新品DVD10枚組】日本語字幕
2020.01.06
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アラン・ベネット「アレルヤAllelujah!」 久々のナショナルシアターライブ。今回は、以前見た「The Madness of George III」、邦題が「英国万歳」のアラン・ベネットの現代劇「アレルヤ」。 これが、「さすがナショナルシアターライヴ!」とうならせるお芝居だった。題名からの想像は、キリスト教の国の宗教に対する風刺かなんぞであろう、とたかをくくっていたのだが、大違い。れっきとした現代社会風刺のブラックコメディ。まあ、コメディと言えるかどうかは、かなりきわどいのだけれど、ブラックであることは間違いない。 舞台は、後期高齢者、および、要介護高齢者で、かつ治療行為が必要な老人たちの入院病棟。 登場人物たちは医者や看護師及び、その他の病院関係者、病人の家族以外はすべて老人。演じる役者も、当然老人。この老人の俳優たちが素晴らしい。英国の観客たちはテレビや映画でおなじみの老優たちの快演、いや怪演か?に大喜びの様子だが、そんなことは全く知らない、ぼくのような客でさえ、思わず拍手したくなるような「名演技」。 一人で歌う歌、二人で踊るダンス、コーラス、集団のダンス。どれも素晴らしい。テンポとかリズム。車いすの老人が踊り始める楽しさ。痴呆ではないかと疑われている老婆が、朗々と歌うアリア。お芝居の流れとぴったりマッチしていて不自然がない。何しろ老優たちのダンスの動きをする身のこなしが、無理がなくてスマート。 「英国万歳」(クリックしてみてください)でも「王」の病気と権力への欲望との絡みが、筋運びの大きな要素だったのだが、この芝居も「老人」という身体的、社会的弱者と政治家や家族、医療従事者という社会的強者の絡みが現代社会の実相として描かれていて、ベテラン看護婦がベッドを確保するために、をあらわにする「お漏らし」した老人を処分していくというサスペンスは、他人ごとではないリアリティーを持っている。 最後に処分される男性と処分する看護士が、二人でダンスをするシーンは、この社会に「生存」している人間の哀しさを露わにしてしまうのだが、「クローン」の哀しさを小説化したカズオイシグロの「わたしを離さないで」(早川文庫)(クリックりてみてください)に通じる深さを感じさせるものだった。 この芝居を「アレルヤ」、「主をたたえよ」と題したアラン・ベネットも、明るく軽快な演出のニコラス・ハイトナーも、ただ者ではないと納得した舞台だった。作 アラン・ベネット演出 ニコラス・ハイトナー出演 サミュエル・バーネット サーシャ・ダワン ピーター・フォーブスほか多数原題「Allelujah!」 上演劇場:ブリッジ・シアター(ロンドン)収録日:2018/9/20(公開は2019/11/1) 2時間45分 2019・8・13ボタン押してね!やんごとなき読者 [ アラン・ベネット ][送料無料] ミス・シェパードをお手本に 監督ハイトナー、脚本アラン・ベネット
2019.08.30
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「 King Lear」デューク・オブ・ヨークス劇場 今回のナショナル・シアター・ライブはシェークスピアの「リア王」。四大悲劇の一つなんだそうですが、ぼくでもあらすじは知っていました。しかし、「そして誰もいなくなってしまう」終幕へ向けて、延々4時間の舞台だということは知りませんでした。その舞台で、ほとんど、出ずっぱりの「リア」を演じる俳優は、イアン・マッケランという名優なんですが、なんと80歳を越えている人なんですね。 2018年秋、ナショナルシアターライブで見た『誰もいない国』でパトリック・スチュアートという、これまたジーさんと、なんというか「ふしぎな狂気」に満ちた舞台で共演している姿を初めて見て印象深かったのですが、今回、二度目の出会いで圧倒されました。 「すごい!マッケランって、すごい!」 またまた、おバカな感想を書いていますが、延々と、わかりもしない英語のセリフを追いかけてきて、ほとんど最後のシーン。「リア」が、死んだ「コーデリア」のからだを抱えて泣き叫ぶのですが、一緒になって泣いているぼくは、いったい何者だったのでしょうね。 千両役者なんていう言葉がありましたね、イギリスではこういう役者のことをなんていうのでしょう。 まだ、十代の頃、大好きだった「ピンク・フロイド」というロック・バンドがありました。彼らに「One Of These Days」という原題なのですが、「おせっかい」というアルバムに「吹けよ風、呼べよ嵐」をいう曲名で収録されている名曲があります。悪役プロレスラー、アブドーラ・ザ・ブッチャーのテーマで有名になった曲ですが、ぼくはこの曲が「リア王」の嵐の場面から作られたと信じていました。 「One of these days, I'm going to cut you into little pieces(いつの日か、お前を細切れにしてやる)」 これが、曲の中の唯一のセリフ、歌詞とは言えません、なのですが、こんなセリフは「リア王」にはなかったようでした。どうも、ぼくの思い込みだったようですね。 はははは。 それにしても、イギリスの人たちは、今でも「リア王」とか大好きなんですよね。俳優も観客もいい雰囲気作ってますね。うらやましい限りです。 演出 ジョナサン・マンビィ 作 ウィリアム・シェイクスピア キャスト イアン・マッケラン 原題「 King Lear」 映画製作年 2018年 イギリス 229分 上演 デューク・オブ・ヨークス劇場 2018/9/27 2019・06・27ボタン押してね!リア王 (光文社古典新訳文庫) [ ウィリアム・シェイクスピア ]原子心母 (完全生産限定盤) [ ピンク・フロイド ]懐かしいですね。おせっかい [ ピンク・フロイド ]「エコーズ」がいいんですよね。
2019.07.25
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アラン・ベネット 「英国万歳!」ナショナル・シアター・ライヴ 2019 イギリスのアラン・ベネットという劇作家が、1995年ころ書いた戯曲「英国万歳!」。ノッティンガム・プレイハウスという劇場で、2018年の11月に上演されたライブ。映画にもなっている演目らしいが、何も知らないで見た。 面白かった。コメディの範疇に入るお芝居だと思うが、「狂気」の王を取り巻く家族、臣下、何よりも三人の侍医のふるまいのバカバカしさが、笑っていられない「怖さ」にまで至るところを見せているところが、まずスゴイ。 そこでは、「狂気」はむしろ、王にではなく、この医者たちの側に漂っていて、治療という名の虐待を無理やり施され、イジメぬかれてゆく王の悲惨が、これでもかとばかりに繰り広げられる。 が、その底には「権力に対する欲望」の滑稽なまでの、「醜さ」がちゃんと描かれていて、それが、この演劇の「現代性」を感じさせるところだった。 しかし、それにしても、ジョージ三世を演じるマーク・ゲイティスという役者の、鬼気迫る演技。ほぼ全編、延々といじめられ尽くす場面から、雄々しく復活するラストまで、スゴイもんだと感心した。ホント、ご苦労様でした。 イギリスの人たちというのは、ホントに「王様」が好きなんだと実感したが、この国で「王家」を題材にこれをやる人が誰もいないのは何故なんだろう?いや、ホント! 演出 アダム・ペンフォード 作 アラン・ベネット キャスト マーク・ゲイティス エイドリアン・スカーボロー 原題「The Madness of George ?」 2018年 イギリス「ノッティンガム・プレイハウス」 176分 2019・06・23ボタン押してね!
2019.07.14
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ルーファス・ノリス 「マクベス」神戸アートヴィレッジ 映画com すっかりおなじみになってきたナショナルシアター・ライブ。今回はオリヴィエ劇場という、たぶん大きめのホールの映像。演目はシェークスピア悲劇の定番です。 シェークスピア戯曲「マクベス」演出:ルーファス・ノリス 流石のぼくでも話の筋は知っているわけで、その上、アートヴィレッジが開催している「シェイクスピア演劇の面白さとマクベスの見どころ」というカルチャーにまで参加して、おベンキョーした上での鑑賞だったから・・・ いつものように、解説と紹介の映像が流れて、「核戦争後の世界」として設定された時間に「マクベス」が登場するという、まあ、歴史に縛られない、今風といえば、そういえる演出らしいですね。 大きな橋のような装置が目を引いて、魔女がやってきます。いつの時代でも魔女はでてくるのです。でも、ちょっと派手かな?「Fair is foul,and foul is fair,」「きれいは、きたない。きたないは、きれい。」 聞きたかったこのセリフを、魔女たちが、どこで言ったのか聞き取れませんでした。字幕なんか見てたって、耳に届かない、いや耳が届かない音はしようがないのです。英語ができないのに英語の芝居を見るのはつらいものです。言葉の不自由を実感します。お芝居の面白さというのは、意味じゃなくてそこに現れる世界を身体で感じることだとは思うのですが、その世界が遠いことを痛感します。 舞台の人物たちは、あたかも内戦を戦っているゲリラ兵のようないで立ちです。そういう服装のマクベスとマクベス夫人の語り合いが始まります。 眠い。参った、文字通り「劇場でお昼寝」になってしまいそうです。。気持ちがついていきません。舞台の上の「マクベス」が、妙に線が細くて頼りない男に見えるんです。 設定された舞台とシェイクスピアの「ことば」が紡ぐ世界に素直に入っていくことができません。「なんか、ズレてへんか。マクベスって、こんな男やった?」 そんな疑問が、しきりに湧いてきます。 手に染み付いた血をこすり落とそうとする、マクベス夫人の演技は印象的です。しかし、破滅する「悪」というより、リアルに「弱い人間」の不幸を感じてしまうんですよ、見ていて。「そうなんかな?なんか、チガウ気がするなあ。」 「男性」や「男の子」役の女性俳優の起用、体に障害のある俳優、そのほかにも現代的な演劇の演出の工夫はあちらこちらにあります。ビニール袋の生首も、ガムテープで張り付ける鎧も、きっとそうなんでしょうね。ビニールかなにかを仙台の七夕の飾り付けのようにたくさん垂らして背景化した森の視覚効果も面白いんです。 中でも、身体から首を切り落とし、頭のない死体をころがしたまま、切り落とした生首をささげる工夫は、俳優の頭はどうなっているのか、思わずも一度舞台を見つめなしました。。 そういう工夫、それも舞台の面白さなのですね。 そういえば、先日見た映画「バイス」の中でチェイニー夫妻が突如シェークスピアのセリフを語り合うというシーンがありました。アメリカやイギリス、英語文化の中の人たちにとってのシェークスピアは、どうも、うかがい知れない広さと深さがあるようなんですね。 シェークスピアのことばのリズムや抑揚は、おそらく、イギリスの人たちにとっても古い言い回しだと思うのですが、現代を模した戦場で響き渡るセリフとして、イギリスの舞台の中の観客は、当たり前として受け入れているようです。 こちらでいえば、江戸時代の初めころの、たとえば「曾根崎心中」という人形浄瑠璃や「忠臣蔵」とかの歌舞伎のセリフが、そのリズムや抑揚も維持されたまま、現代演劇として上演されることは、日本では、ちょっと考えられません。 パロディかなにかのようになってしまうようなイメージしてしまいます。もちろんイギリスにも古典的な舞台はあるのでしょう、でも、彼らにとっての「文化としてのシェークスピア」は、もう少し「今」に浸透しているのでしょうね。そういう感じの興味をボンヤリ考える舞台でした。「ええっ?結局、おもろなかったん?」「まあ、そういうことかな?マクベスとかの長い台詞についていけんかったというのが正直な感想かな?でも次はイアン・マッケランのリア王やから。」 「今回もロリー・キニアって、有名な俳優やろ。」「でも、よう知らんからええねん。」「なんや、それ!?」 なんというか、現代イギリスの舞台感覚に敗北という印象の舞台でした。 演出 ルーファス・ノリス 作 ウィリアム・シェイクスピア キャスト ロリー・キニア (マクベス) アンヌ=マリー・ダフ (マクベス夫人) 原題「National Theatre Live: Macbeth」 2018年 イギリス オリヴィエ劇場 160分 (2019・04・24・アートヴィレッジ)ボタン押してね!にほんブログ村にほんブログ村
2019.04.28
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エドワード・オールビー「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」KAVC シマクマ君、おなじみのナショナルシアターライブ2019。今回はE・オールビーの名作「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」。エリザベス・テラー主演で映画にもなった有名な作品。見たことはないが、戯曲は読んだことがあるとたかをくくって出かけた。おなじみになったアートヴィレッジの地下劇場に今日は4人。なにせ3時間を超える大作(?)、上映時間を見ると二の足を踏む人がほとんどかもしれない。 「まいりました!」 マーサを演じたイメルダ・スタウントンのすごさを実感した。 三匹の子豚が「狼なんかこわくない」と歌うディズニーのアニメに遠慮して「ヴァージニアウルフなんて…」とやった1960年代の戯曲が全く古くない。 パーティー帰りでかなり酔っぱらっている中年夫婦。いつものように、なのだろう、大声で、いがみ合うシーンから舞台は始まる。そこに、パーティーで知り合った、希望に満ちた若いカップルがやってくる、。時間は真夜中の二時。 何もかもが、非常識で、いかがわしい。 酒を飲み続ける4人の登場人物。大声で、夫をののしり、若い男に媚びるマーサ。怒りに耐え切れないジョージ。飲みつぶれる若い妻ホニー。 繰り返し歌われる「狼なんかこわくない!」。 すべてがはぎとられたマーサ。「怖い」の一言で一晩中つづけられた罵り合いが終わり、白々と夜が明ける。 暗転し舞台は終わる。 マーサとジョージの夫婦が罵り合いながら守ろうとしていたもの、二人の現実を支えている虚構をはぎ取れるだけはぎ取ってみれば、そこに「空虚」しか残らないことを否応なく思い知らされる。 イメルダ・スタウントンの最後の表情がすべてを語っている。 「私たちは、実は空っぽなんだ。」 「人間は哀しい」 この、空っぽに震える表情を作るために、いや、この顔を観客に納得させるためといった方がいいか。この女優は三時間、出ずっぱりで叫んでいたのだ。うーん。 こういう感動が演劇にはあると初めて経験したような気がした。 アートヴレッジを出たところでボンヤリタバコを喫っていると、元町映画館の受付でよく出会う女性が自転車で通りかかりながら声をかけてくれた。 「コンニチワアー」 「いまね、ここで、バージニアウルフ見ててん。イメルダ、なんちゃら、すごいわ。カンドーや」 「スタウントンですね。また寄ってくださいね。」 「うん、ありがとう」 ぶあつい雲が出て、少々怪しい。兵庫駅まで歩いていると、最後のシーンが繰り返し浮かんできた。演出 ジェームズ・マクドナルド 作 エドワード・オールビー ハロルド・ピンター劇場(ロンドン) キャスト イメルダ・スタウントン (マーサ) コンリース・ヒル (ジョージ) イモージェン・プーツ (ニックの妻ホニー) ルーク・トレッダウェイ (新任教授ニック)原題National Theatre Live: Edward Albee「 Who is Afraid of Virginia Woolf?」 2017年 イギリス 210分 ボタン押してね!
2019.04.17
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ピーター・モーガン「ジ・オーディエンス 」 神戸アートヴィレッジセンター 神戸アートヴィレッジでナショナルシアターライブを上映したり、カルチャーを開いたりしてくれていて、このシリーズにすかっりハマってししまいそうだ。先週「アマデウス」に感激して、その勢いで今週は「The Audience」 まず、オーディエンスの意味が解らなかった。王の謁見、まあ家来とかと出会うことだろう、という程度の知識。 イギリス現代史に、さほどの知識があるわけでもなく、ポスターの女優さんを知っているわけでもないし、もちろんピーター・モーガンが『クィーン』(原題: The Queen)の脚本家で、『クィーン』という映画が、アカデミー主演女優賞をはじめ、大評判だったことももちろん知らない。 だから、全く期待していなかった。まあ、エリザベス女王のそっくりさん女優の、地元ウケの芝居だろうと、たかをくくっていた。 スクリーンにイギリスの劇場の観客席が映し出されて、暗くなる。最初のシーンから、ちょっと意表をついている。一人の執事、ふたりの召使。椅子を並べるだけで、面白い。女王(ヘレン・ミレン)が登場する。 「見ろ、やっぱりそっくりさん芝居じゃないか。」 日頃、関心があって、よく知っている人というわけではないから、あてにはならないのだが、舞台に立って、歩いて、座って、話しかけている女性が、ぼくの中の写真や映像のイメージとしてのエリザベス2世に、本当に、よく似ている。 劇場の実況中継なので、あっちの客たちの反応がわかるのだが、エリザベスと会う首相たちについても、登場すると、とてもウケている。笑いが起こって、それがほとんどコメディのような反応だ。 「きっと、この首相たちも似てるんだ。うーん、知らんし。あっ、チャーチルや。うーん、ジーさんやな、葉巻の人しか知らんし。これはサッチャーやな。あんまり似てないのに、みんな笑うなあ。しゃべるたびに、妙に受けるな。そうか、言いそうなことを言うてんのか。嫌われとんのや、きっと。」 女王の衣装や、それを年齢と一緒に着替えて見せる、女優の早替わりとか、若いときのふるまいから、老いてゆくヘレン・ミレンのうまさにも引き込まれてゆく。少女時代のエリザベスと、バーサンになった彼女の、舞台の上での二重写しのシーンの作り方も面白い。「イギリスのお客さんたち、おお喜びやないか。」 などという客観的気分はだんだん忘れて、舞台のとりこになっている自分が、少々照れ臭い。 役者たちのあいさつも終わり、映画のエンドロールが回り始めて、驚いた。ぼくはイギリスとエリザベス女王のファンになっていた。 自国の、生きている王族の長を主役に据え、実に、堂々とその「伝記的」・「人間的」真実に迫ろうとするピーター・モーガンの脚本もすごいけど、演出したスティーヴン・ダルドリー、演じる役者も、機嫌よく見ている客たちもすごい。それを許した、エリザベス2世もすごい。 人間に対する、とても上等な信頼がそこにはあるにちがいない。何とも言えない、いい気分になる舞台だった。 帰ってきて、調べてみると、首相たちもよく似ていた。「そりゃあ、笑うはずだ。」「そうか、サッチャーはエリザベスと同い年で、そりゃあ、言い合いになっても不思議じゃないわけや。その上、先に死んでる。女王さんも、ある意味、寂しいんやろうな。いや、芝居やし。」「なんか、ええ国やなあ、イギリスは。」「ジ・オーディエンス The Audience」 出演:ヘレン・ミレンHelen Mirren・リチャード・マッケイブRichard McCabe 他 演出:スティーヴン・ダルドリーStephen David Daldr y 脚本:ピーター・モーガンPeter Morgan上映時間:2時間38分 ※途中休憩あり 受賞 トニー賞2部門受賞 演劇主演女優賞 ヘレン・ミレン 演劇助演男優賞 リチャード・マッケイブ2018/10/18追記2020・01・08「アマデウス」の感想はここをクリックしてください。にほんブログ村にほんブログ村
2019.04.15
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ジェームズ・ゴールドマン「フォリーズ」 神戸アートヴィレッジセンター ナショナル・シアター・ライヴシリーズ、2018年最後のプログラム。「フォリーズ」をアートヴィレッジ神戸でみた。 最初に演出家ドミニク・クックのインタビューがあって、続けてスティーヴン・ソンドハイムという作曲家のインタビューがあった。二人とも有名な人らしいが、ぼくは知らない。でも、こういうインタビューを番組につけてくれると、なんか、わかったような気がして、ほっとする。 ブロードウェイのミュージカルの再演で、イギリスの俳優たちによって演じられたらしい。全くの素人なので、恐る恐る見る感じだったが、十分堪能した。 物語の筋云々など、まあ、どうでもいい感じで、音楽とダンスの素晴らしさが、きっと見所なんだろうと納得した。 若いころダンサーだった八人ほどの老婆が登場人物。その当時から40年から30年経っているという設定。太っていたり、どうも足が弱っていたり。アメリカの人って、こういう感じの「同窓会」ものが、結構好きなんだな。映画でも小説でも結構あると思う。 で、老婆に若い女優が扮しているのか、本当に老婆なのかといぶかしく思っていると、その女優たちが勢ぞろいして踊りはじめる。途中で、当時の彼女たちに扮した若いダンサーたちがすり替わっって華麗なタップダンスになる。 やっぱり老婆なんだ、やっぱり無理なんだと思っていると、最後には堂々とそろってタップを踏んで踊りはじめるではないか。 スゴイ、スゴイ! このシーンがあるだけでも、ぼくにはこの映画は見た甲斐があったというもんだ。 ドラマとしては二組の不幸なカップルの話なんだけれど、主役(?)のサリーを演じているイメルダ・スタウントンという女優さんは、イギリスでは実力派の女優さんらしい。味のある演技で受けていた。(後で気付いたことだが「輝ける人生」のサンドラね。やっぱり上手なんだ。だんだん、役者さんを覚えていくのも楽しみ。) でも、ぼくは、その敵役(?)フィリスを演じたジェイニー・ディーという女の人(写真の右の人)の動きに惹かれた。大柄な人だと感じたが、実際はわからない。ダンスも歌も、なんか、ほれぼれしてしまった。アップのようすでは、そんなに印象的な美人というわけでもないのだけれど、動き出すと、色っぽいし、すごい美人に見える。なんでだろう。まあ、単なる好みかもしれない。 昔「四季」で「コーラスライン」を見たことがあるが、その後日談のようなもんだ。でも、こういう「人生ドラマ」を、何の臭みもなくやれるアメリカってのは、いや、イギリス(?)はすごいなあ。 実際、言葉がわからないので、字幕にくぎ付けふうになって、ただの映画や、お芝居のときよりも、なんか、不便を感じてしまった。意味なんか関係なく、雰囲気に浸ればいいのだろうけれど、それが、なかなかできない。落ち着いて歌を聞いたりダンスを見たりしていられない感じがしたのが、初体験だった。 外に出るといよいよ冬の寒さが待っていて、徘徊老人には、どうもつらい季節到来であるらしい。トホホ・・・原題「Follies 」 2時間35分(休憩なし) 上演劇場:ナショナル・シアター オリヴィエ劇場 脚本:ジェームズ・ゴールドマン 音楽:スティーヴン・ソンドハイム 演出: ドミニク・クック 出演:イメルダ・スタウントン、トレイシー・ベネット、ジェイニー・ディー2018-12-10追記 2019・06・19 イメルダ・スタウトンは、映画「輝ける人生」、この「フォーリーズ」と同じナショナルシアタ―・ライヴで上映された舞台「ヴァージニアウルフなんかこわくない」で再会して、すっかりファンになりました。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) どれもそうなのですが、最初のイメージを乗り越えていくような演技はすごいですね。どういっていいのかわかりませんが、役者を見に行きたいと思わせてくれる人です。今後も出演作を探すのが楽しみですね。 題名をクリックしてみてください。感想を書いています。
2019.04.09
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ピーター・シェーファー 「アマデウス」 神戸アートヴィレッジセンター 神戸アートビレッジセンターで、日本人には映画で有名な「アマデウス」の劇場版ライブを観ました。 ミロシュ・フォアマン監督が映画版でアカデミー賞を取ったのは1984年でした。ぼくにはどちらかというと「カッコーの巣の上で One Flew Over the Cuckoos Nest 」の監督なのでしたが、「アマデウス」にも、感心した覚えが、かすかにあります。 今回の舞台では悪人サリエリをルシアン・ムサマティというチラシの写真に写っている黒人の俳優が演じていて、これが、実に、すばらしかった。「サリエリを演じる私の肌の色を気にするのは、あなたの偏見だ。」 ライブ盤のインタビューでの、彼の発言ですが、舞台を観終えて心から納得しました。 彼こそが、神聖ローマ帝国、ヨーゼフ2世の宮廷で、イタリア人宮廷音楽長として、ほしいままに、そあいて、こずるく権力をふるい、古典派音楽の育ての親という名声を生きた男に間違いありませんでした。 神が宿っているとしか考えられないモーツアルトの天才と遭遇しながら、悪魔のような対決を挑み、モーツアルトを破滅に追いやった男であり、モーツアルトには及びもつかぬ自らの音楽的凡才と、内実のない名声だけの凡庸な宮廷楽師の人生に絶望し、「モーツアルトに毒をもったのはあのサリエリだ」と自ら、ウィーンの町にうわさを流しながら、あくまでも人の注視を欲望しながら狂死する男、アントニオ・サリエリその人でした。 俳優が、舞台上で演じられる人物へ変身してゆく。これは、演劇や映画においては普通のできごとですが、やがて、劇中の人物が俳優に憑りつき、俳優が消えてゆく。そんな舞台というものがここにあったということかもしれません。 音楽も素晴らしい。様々なアレンジが、そうか、モーツアルトだと思いださせながら、もう一度舞台を彩ってゆきます。演奏者たちは、音楽を演奏しながら、芝居を演じているのです。スゴイ! 昔、「上海バンスキング」というお芝居で、ジャズの演奏家と俳優が音楽と演劇のセッションのような舞台を繰り広げたことを思い出しましたが、「アマデウス」はクラッシック音楽です。演奏者たちの曲芸まがいのからだの使い方と、音の出し方が、天才をまき散らすモーツアルトのイメージを掻き立てるように舞台が進行するのです。 その舞台を、今や怪人と化したサリエリが黄金の衣装でさまよいながら、狂っていきます。喉掻き切って倒れたのを見てほっとしたのもつかの間でした。もう一度起き上がって、たくらみの成就を確信しながら、不敵にもこううそぶくのです。「モーツアルトに毒をもったのはこのサリエリだ」 ウィーンの街にうわさが広がっていく中、舞台は幕を閉じます。 普通の顔に戻った俳優たちのカーテンコールを観ながら、ため息が出ました。字幕でセリフを追うような見方しかできない芝居で、今までになかった体験でした。唸って、座り込まされている自分が驚きでした。 「世界は広い。」 つくづくそう思いました。 アートビレッジを南に下がっていくと阪神高速の高架があります。高架の下の歩道を歩きながら、誰もいないのをいいことに鳥刺しパパゲーノのテーマ(?)を口笛で吹きながら、新長田まで歩きました。「ぱぱぱぱ、ぱぱ、ぱぱぱぱ」 見る人が見たらヤバいですね。神戸なんて狭いもんなのです。しかし、何とはなしに気分がよくて、うきうきしてある行きました。 別に、このお芝居でパパゲーノの「パパパパ」が出てきたわけじゃないので、あしからず。あっ、パパゲーノは「魔笛」の鳥刺し、こんな絵になってますね。 「魔笛」はこれですね。まあ、誰でも知ってるか? 原題「Amadeus」「アマデウス」 3時間15分(休憩20分含む) 上演劇場 ナショナル・シアター オリヴィエ劇場 作: ピーター・シェーファー 演出: マイケル・ロングハースト 出演: サリエリ:ルシアン・ムサマティ モーツアルト:アダム・ギレン2018-10-09・神戸アートヴィレッジセンター 追記2023・02・19明日、久しぶりにナショナルシアターを見に行きます。演目は「かもめ」です。で、この記事を思い出して修繕しました。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2019.04.09
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ピーター・モーガンPeter Morgan 「ジ・オーディエンス 」KAVC 神戸アートヴィレッジでは「ナショナルシアターライブ」を上映したり、カルチャーを開いたりしてくれていて、このシリーズにすかっりハマってしまいそうだ。 先週「アマデウス」にカンゲキして、その勢いで今週は「The Audience」。 まず、オーディエンスの意味が解らなかった。王の謁見、まあ、家来とかと出会うことだろう、という程度の知識。だからと言って、イギリスの社会や現代史にさほどの知識があるわけでもなく、ポスターの女優さんを知っているわけでもないし、もちろんピーター・モーガンが『クィーン』(原題: The Queen)の脚本家で、『クィーン』という映画は、アカデミー主演女優賞をはじめ、大評判だったことももちろん知らない。 だから、全く期待していなかった。まあ、エリザベス女王のそっくりさん女優の、地元ウケの芝居だろうと、たかをくくっていた。 スクリーンにイギリスの劇場の観客席が映し出されて、暗くなる。最初のシーンから、ちょっと意表をついている。一人の執事、ふたりの召使。椅子を並べるだけで、面白い。エリザベス女王(ヘレン・ミレン)が登場する。 「見ろ、やっぱりそっくりさん芝居やないか。」 日頃、関心があって、よく知っている人というわけではないから、あてにはならないのだが、舞台に立って、歩いて、座って、話しかけている女性が、ぼくの中の写真や映像のイメージとしてのエリザベス2世に、本当に、よく似ている。 劇場の実況中継なので、あっちの客たちの反応がわかるのだが、エリザベスと会う、首相たちについても、登場すると、とてもウケている。笑いが、起こって、それがほとんどコメディのような反応だ。「きっと、この首相たちも似とんねや。うーん、知らんし。あっ、チャーチルや。うーん、ジーさんやな、葉巻の人としか知らんし。これはサッチャーやな。あんまり似てないのに、みんな笑うなあ。しゃべるたびに、妙に受けるな。そうか、言いそうなことを言うてんのか。嫌われとんのやな、このおばはん。」 女王の衣装や、それを年齢と一緒に着替えて見せる、女優の早替わりとか、若いときのふるまいから、老いてゆくヘレン・ミレンのうまさにも引き込まれてゆく。少女時代のエリザベスと、バーサンになった彼女の、舞台の上での二重写しのシーンの作り方も面白い。「イギリスの客は、喜ぶんやろおなあ。」 などという、第三者的な気分はとうに忘れて、舞台のとりこになっている自分が、少々照れ臭い。役者たちのあいさつも終わり、映画のエンドロールが回り始めて、驚いた。ぼくはイギリスとエリザベス女王のファンになっていた。 自国の、生きている王族の長を主役に据え、実に、堂々とその「伝記的」・「人間的」真実に迫ろうとするピーター・モーガンの脚本もすごいけど、演出したスティーヴン・ダルドリー、演じる役者も、機嫌よく見ている客たちもすごい。それを許した、エリザベス2世もすごい。この国の皇族ではこうはいかない。人間に対する、とても上等な信頼がそこにはあるにちがいない。何とも言えない、いい気分になる舞台だった。 帰ってきて、調べてみると、首相たちもよく似ていて、それぞれに評判のゴシップも満載されていたようだ。「そりゃあ、笑うはずや。」「そうか、サッチャーはエリザベスと同い年で、そりゃあ、言い合いにもなるな。その上、先に死んでる。女王さんも、ある意味、寂しいいんやろうな。いや、芝居やし。」「なんか、ええ国やなあ、イギリスは。」「ジ・オーディエンス The Audience」 出演:ヘレン・ミレンHelen Mirren・リチャード・マッケイブRichard McCabe 他演出:スティーヴン・ダルドリーStephen David Daldry 脚本:ピーター・モーガンPeter Morgan2018-10-18 上映時間:2時間38分 ※途中休憩あり 受賞 トニー賞2部門受賞 演劇主演女優賞 ヘレン・ミレン 演劇助演男優賞 リチャード・マッケイブ ヘレン・ミレンさんには、こういうのもあるようです。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!
2019.04.07
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テネシー・ウィリアムズ「欲望という名の電車」神戸アートヴィレッジセンター ナショナル・シアター・ライブ第3弾はテネシー・ウィリアムスの戯曲 「欲望という名の電車(A Streetcar Named Desire)」でした。 エリア・カザン監督が「風とともに去りぬ」のヴィヴィアン・リーにマーロン・ブランドを抜擢して作った映画が有名で、ヴィヴィアン・リーが二度目のアカデミー賞・主演女優賞をはじめ、いろんな賞を獲った映画なのですが、今では、マーロン・ブランドの出世作としてのほうが有名かもしれません。彼が下着の肌シャツを普段着にして着ていたのが、いわゆる、Tシャツの元祖だと言われるていますが、マーロン・ブランドってそんなに人気があったんですかね。 1951年につくられたこの映画を三宮の名画座「阪急文化」だったか、元町の「元映」だったかで観た記憶があります。まあ、マーロン・ブランドが若いことに驚いた覚えしかありませんが。1970年代後半に学生だったぼくは、「ゴッド・ファーザー」のドン・コルレオーネや「地獄の黙示録」のカーツ大佐をすでに観ていましたから、当たり前なのですが、暗い俳優という印象は変わりませんでした。もちろん映画の筋など、全く覚えていません。 同じころ新潮文庫でテネシー・ウィリアムスの戯曲を数冊読みました。「焼けたトタン屋根の上の猫」とか、題名がおもしろいので読んだはずなのですが、今回のお芝居のための予習でネット上を確認してみましたが、こっちもストーリーはほとんど忘れていました。黄色い、薄い文庫本だったことは覚えています。40年以上も前の話です。 画面が暗くなって、芝居が始まりました。劇場の中央にしつらえられたセットに、一人の女がやってきました。主役の女優ジリアン・アンダーソンです。何かしゃべり始めます。「A Streetcar Named Desire」だけが聞き取れてあとは字幕です。「ここが天国なのか墓場なのか」と叫んでいます。声が上ずっている感じがして、まわりの人たちから、一人だけ浮いています。 「この女優、ひょっとして大根?」 ふと、そんな、ありえない印象が浮かんで、一瞬しらけたのですが、一幕の間、ずっと上ずっているように聞こえました。まあ、英語はわからないので、音だけの話なのですが。 何度か暗転があって、そのたびに、大きな音の音楽と登場人物も舞台もいっしょに動く面白い転換が何度かあって、休憩があって、相変わらず女優の声は耳障りで‥・・・、そう感じていたはずなのに舞台が繰り返しゆっくりと回りつづけ、ブランチ・デュボア(ジリアン・アンダーソン)の「来ないで」というセリフが響きわたるあたりで、舞台に見入っているぼくのニュアンスが微妙でした。「ああ、彼女は、もう充分壊されているのに、なぜ、このうえ、こんなことまでされなきゃならないんだろう。」 舞台では、新しく子どもが生まれる夜。家に帰った夫はふたりきりになった妻の姉と・・・・。 芝居が終わり、劇場が明るくなっても、しばらく立ち上がれませんでした。「そうか、はじめからの演出か、演技だったんだ。」 だんだんと、狂気に向かっていたんじゃなかったのです。狂気の激情と表情の冷静。嘘だと知られていることを知りながら、嘘をつき続ける狂気。 舞台に終わりが来て、ジリアン・アンダーソンがカーテンコールで見せた表情を見て、初めて気づきました。 「すごい、始まりから終りまで嘘をつき続けた女優!」 「とんでもない芝居だったんだ!」 劇場から神戸駅に向かってトボトボ歩いていると、「だって私は、いつだって、見ず知らずの方のご親切に支えられて生きてきたんですから……。」というブランチ・デュボアの最後のセリフの字幕が頭に浮かんできました。 病院に連れていかれながら、彼女がいったそのセリフのトーンだけが、ひくく、かすかに聞こえて、芝居は終わりました。 今さら言うまでもありませんが、見事な構成の戯曲で、ジリアン・アンダーソンの納得の演技でした。拍手! 神戸駅前の花壇の煉瓦に腰を掛けて煙草を喫いました。元町あたりのビルに夕日が反射してまぶしく輝いていました。で、駅舎の上の、まだ青い空に白い月が出ていました。 中々立ち上がれない気分でした。隣に座っていたオニーさんが、ケータイ電話を相手にケンカを始めました。なんとなく、いたたまれなくなって立ち上がって駅に向いましった。ヤレヤレ‥‥。 出演 ジリアン・アンダーソン、ベン・フォスター 他 演出 ベネディクト・アンドリュース 作 テネシー・ウィリアムズ上映時間 202分 2014年/イギリス/配給:カルチャヴィル2018-08-22追記2020・01・06 ジリアン・アンダーソンのお芝居「イブのすべて」を観ました。彼女のなんか危ない感じの演技が、ぼくは好きですね。題名をクリックしてみてください。追記2022・08・08 映画でもお芝居でも、自分が何を面白がったり、どんなことに感動したりしているのかよく分からいのですが、舞台や、映像という作りごとの中に生身の自分とは違う、作りごとの「人間」として、自分の表情や体の動きをつくりだす俳優という仕事は、スゴイですね。舞台とはまた違いますが、最近見た「灼熱の魂」という映画のルブナ・アザバルという女優さんにも、そんな感じを持ちました。大変でしょうね、イヤ、ホント。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) ボタン押してね!にほんブログ村にほんブログ村テネシー・ウィリアムズ しらみとり夫人・財産没収ほか (ハヤカワ演劇文庫) [ テネシー・ウィリアムズ ]欲望という名の電車 名作映画完全セリフ集 (スクリーンプレイ・シリーズ) [ テネシー・ウィリアムズ ]
2019.04.06
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NTLive トム・ストッパード「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」 大阪ステーションシネマ JR大阪駅にあるステーションシネマという映画館に初めて行きました。11階だかの屋上から、大阪の北東部が見張らせて、そのうえ、真下に開発中の大阪も見えて、驚きました。 そもそも、ナショナルシアター・ライヴでの観劇がはじめてです。ステーションシネマにも初めて行きました。イギリスの芝居のライヴ版映画「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」を見てきました。 見ないとわからないことなのですが、劇中の旅芸人の一座の座長やっているデヴィッド・ヘイグという人だと思いますが、与太っている感じが、怪優ともいうべきふるまいで、サイコーでした。 シェイクスピアの「ハムレット」の登場人物を主人公にしたお芝居で、トム・ストッパードという演出家は有名な人らしいです。向うでは一流の戯曲作家で、この作品は演出家としての出世作だそうです。 古くからの友人に誘われて行ったのですが、持つべきものは友ですね。劇中の二人は、どうも不幸をしょっていたようですが、ぼくは、二人連れで行ったこの「ナショナル・シアター」の映画のシリーズにはまりそうです。 その友人から、この戯曲をストッパードという人は60年代に書いたと聞いて驚きました。「イギリスまで行かんかて、大阪で見れるゆうこっちゃ、まあ映画になってるけどな。」「さよか。なかなか、便利で、よろしな。ぼくはあんたとちごて、はなから、イギリスなんか行けへんし、字幕なかったら、なんのこっちゃ皆目わからんがな。」 ああ、映画「ハリーポッター」の少年ダニエル・ラドクリフが主役の二人のうちの一人でした。大人になっていましたけど。まあ、ぼくは、そっちの映画を見ていないので、「そうっでっか」ていう感じでしたが。 映画は原題「Rosencrantz & Guildenstern Are Dead」 で、2時間45分(休憩20分)の、結構、長丁場でした。字幕と3時間近く付き合うのは、疲れますが、飽きるわけではありませんでした。ぼくは、原作の翻訳本で、まじめに予習していきましたが、英語ばっかりでしゃべってますが、舞台の方が百倍おもしろいのが不思議でしたね。戯曲で読んでいると、やっぱり筋を追ってしまうからでしょうか。 原作戯曲の翻訳はハヤカワ演劇文庫「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」(小川絵里子 訳)で読めます。とりわけ戯曲を読むのが好きなわけではありませんが、なかなか便利な文庫です。上演劇場:オールド・ヴィック劇場 作:トム・ストッパード 演出:デヴィッド・ルヴォー出演:ダニエル・ラドクリフ、ジョシュア・マグワイア、ルーク・マリンズ、デヴィッド・ヘイグ これはこれで懐かしいですね。下が原作の翻訳です。 しかし、梅田界隈、JR大阪駅界隈というべきか、の変わり方に、徘徊老人も、ちょっとビビってしまった一日でした。2018-06-21追記2023・01・27 トム・ストッパードの「レオポルトシュタット」を観て、この投稿を思い出しました。もう5年以上も前のことなのですね。このところ、落ち着いて翻訳文庫を読む余裕もありません。何を焦っているのか、月日が経つのがとても速いのです。自分の本棚のどこに、どの本があるのかもわからないようなありさまで、それはそれで、得も言われぬ不安を掻き立てています。 一度、落ち着いて、何をやりたいのか、考えることも大事なような気がしている、今日この頃です。マア、それにしても、人と会わないとダメですね。寒さに負けていては飽きません(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) にほんブログ村にほんブログ村
2019.04.06
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NTLive ハロルド・ピンター「誰もいない国:NO MAN‘S LAND」KAVC出演 イアン・マッケラン、パトリック・スチュワート、オーウェン・ティール、ダミアン・モロニー 2016年・イギリス 演出 ショーン・マサイアス 作 ハロルド・ピンター ナショナルシアター・ライブ第2弾はノベール文学賞の劇作家ハロルド・ピンターの「誰もいない国」。 今回のナショナルシアターライブは神戸アートヴィレッジセンターで見た。というのは、KAVCがハロルド・ピンターの芝居を観る前に、「ナショナル・シアター・ライブ 『誰もいない国』解説講座」と銘打って、日本でのピンター研究、紹介、翻訳の第一人者、喜志哲雄さんの3週にわたっての解説講座という面白い企画をやっていて、それに参加しちゃったのだ。。以下がその概要 講師 喜志哲雄(京都大学名誉教授) 第1回 ピンター劇の現実認識 『部屋』、『誕生日のパーティ』などの初期の作品を採り上げて、現実がこれらの作品でどのように捉えられているかを吟味する。 第2回 ピンター劇の言葉 『管理人』や『昔の日々』の台詞を材料として、ピンター劇の言葉が従来のリアリズム劇の言葉とどのように異なっているかを検討する。 第3回 集大成としての『誰もいない国』 『誰もいない国』の現実認識と言葉の両方を吟味する。この劇の中心人物二人は詩人ということになっており、ピンターは言葉の使い方について種々の実験を試みている。 というわけで、この講座に通って鑑賞するという模範生を演じたわけなのだが、まず、この講座が面白かった。 ヤン・コットの『シェイクスピアはわれらの同時代人』、ピーター・ブルックの『なにもない空間』の翻訳者として、四十年前から名前だけは知っていた喜志哲雄さんだが、八十歳を優に超える高齢ということもあって、「大丈夫なのかなあ?」と少しばかり心配して参加したが、全く杞憂。 ユーモア、社会現象に対する鋭い皮肉を交えながらの講義、なによりも、素晴らしい、その「声」。やはり、授業は声だ。 第二回には「煙が目にしみる」をはじめとする劇中歌を、「あの、私、酔っ払ってるわけではありませんが」と、てれながらも、自ら歌うというサーヴィスぶりで、聞いていたぼくは心の中で拍手喝采。恐れ多くて、親しく話しかけたり、お礼を言うようなことはできなかったが、久しぶりに本物の学者の「講義」に出会えてラッキーだった。 さて、お芝居の方はというと、向こうでは有名な役者らしいのだが、この、主役の二人が素晴らしい。 詩人を自称する詐欺師イアン・マッケランと、地位を得た作家だが、認知症の老人パトリック・スチュワート(詐欺師とか認知症は、ボクが、そう思っただけで、実際にそうなのかは、もちろんわからない。)の会話。何が本当のことか、ホントにわからない世界がじわじわと浸透していく。そのわからなさが、見ているぼくに微妙な緊張を強いる。次に、やってくるのが困惑。 「エッ、どうなってるの?どうして追い出さないの?」 調子よくしゃべり続ける訪問者に対して、怒りを発する老作家の表情から目が離せなくなる。そこに、作家の同居人たちの意味不明な長広舌が加わる。この英語のセリフのやり取りに、字幕を見ながらのぼくは、うろたえてしまうでした。 「この人たち、どうなってるの?誰に、何を、語りかけているの?ええっ!誰もいない国って、ひょっとして、そういうこと?認知の作家の、妄想だけじゃなくて?みんな、そうなの?」 困惑とともに暗転、幕。 会話中心の展開なので、予習がないと何が起こっているのか、きっとわからなかった。実際、何もわからなかったし、なにも納得しなかった。しかし、変なものが残った。何だこれは。 「これがピンターなんだなあ。」 「シブイナー!」 チラシの写真は、パトリック・スチュワートが禿の親父で、イアン・マッケランが白髪の眼鏡ね。 この映画には、幕が下りて、カーテンコールが終わって、出演者と演出家が、劇場の観客の前でおしゃべりをするというオプションがついていて、それがまた面白かった。 しかし、「英語が出来たらよかったのになー」とつくづく思ったのでありました。追記 2019・06・30イアン・マッケランの「リア王」を、ナショナルシアターライブで観ました。マッケランが素晴らしい俳優で、とても、あれこれ言える人ではないと知りました。「リア王」については別の記事を書くつもりですが、この芝居の二人について、よくわかっていなかったことを痛感して、返す返すも残念です。 まあ、こうやって、見ていくしかないんでしょうね。イアン・マッケランの「リア王」の感想はこちらをクリックしてください。 ハロルド・ピンターの早川演劇文庫は1~3があります。ただ、「誰もいない国」は新潮社の全集に当たらないと読めません。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑) 2018-08-21にほんブログ村にほんブログ村
2019.04.06
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