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オタール・イオセリアーニ「ここに幸あり」シネ・リーブル神戸 《オタール・イオセリアーニ映画祭~ジョージア、そしてパリ~》に通っています。まあ、あっけにとられる日々です。感想が書けません(笑)。 今日の作品は舞台がパリですから、フランスの話なのですが、なんか調子狂う感じで、やっぱり、あっけにとられましたね。見たのはオタール・イオセリアーニ監督の「ここに幸あり」という作品でした。 主人公(?)のヴァンサンというオッサンが、なんとフランス政府の大臣なのですが、クビになっちゃうんですよね。政争だかに敗れて。 で、どうも、みんな失っちゃうんです。仕事や地位はもちろんですが、家とか、妻とか、まあ、きっと名声とか・・・。 で、どうなるかというと「それでいいのだ!」 なのでした(笑)。ただの呑気なバカボンのパパなんですね。アゼン! これがフランスなのだ!じゃなくて、これがイオセリアーニなのだ! なのですね。 友だちがいて、お酒があって、歌があって、時間があって、街角の木陰にテーブルがあって、なんか文句あるか? スクリーンに漂っている、そのあたりのノンビリした間というか、空気というかが何とも言えませんね。 見ているこちらも「それでいいのだ!」 というしかないですね(笑)。 まあ、そうなんですけど。やっぱりアゼン!でした(笑)。 というわけなのですが、どうも、してやられている感じですね。オタール・イオセリアーニ恐るべし! で、やっぱり、拍手!ですね(笑)。監督 オタール・イオセリアーニ製作 マルティーヌ・マリニャック モーリス・タンシャン脚本 オタール・イオセリアーニ撮影 ウィリアム・ルプシャンスキー美術 エマニュエル・ド・ショビニ イブ・ブロベ音楽 ニコラ・ズラビシュビリキャストセブラン・ブランシェ(馘首された大臣ヴァンサン)ミシェル・ピコリ(ヴァンサンの母)ジャン・ドゥーシェオタール・イオセリアーニリリー・ラビーナアルベール・メンディヤニック・カルパンティエエマニュエル・ド・ショビニ2006年・121分・フランス・イタリア・ロシア合作原題「Jardins en automne」日本初公開 2007年12月1日2023・03・13-no039・シネ・リーブル神戸no188 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.03.13
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アレクサンドレ・コベリゼ「ジョージア 白い橋のカフェで逢いましょう」元町映画館 アレクサンドレ・コベリゼというジョージア出身の新しい監督の「ジョージア 白い橋のカフェで逢いましょう」という作品を観ました。若い監督の習作という印象を持ちました。 お互い、見ず知らずの男と女が、一日に三度出会うという偶然の結果、「白い橋のカフェで逢いましょう」という約束を交わしながら、なんと、翌日の朝、そのお二人が、揃いも揃って、昨日までの「顔」を失ってしまうという、まあ、いってしまえば無茶苦茶なストーリーで映画は始まります。悪魔だか魔女だかの祟りなんだそうです(笑)。 アイデアはまことに面白いのですが、ナレーションで説明しないと何が起こっているのか、まあ、わからないことが難点でした。無理やりですね、あなた(笑)。映画学校の先生に叱られません? 外国映画のの場合は特にそうなのですが、登場人物の顔認証があやふやな老人は、やっぱり、そう呟きたくなる展開なのですが、不思議なことにそんなに白けてしまうわけでもありませんでした。顔を失った二人がどう出会い直すのかというわけですが、実はこの映画で引き付けられたのは、そのストーリー展開ではありませんでした。 映画の始まりのシーンは、なにか意図でもあるのか、カメラが地面をジーッと意味ありげに映し続け、徐々に引いていってまわりの世界に戻ってくるというニュアンスなのですが、その世界というのが、多分、小学校の校門の登校風景でした。子供たちが、三々五々学校にやってくる様子が、かなり延々と映し出されます。 その後、再び地面に戻って、主人公の女性が落とした書籍を男性が拾って手渡すというシーンで、物語の始まりというわけでしたが、その後、顔を失った二人の出会いというメインストーリーとは、ほぼ、関係のない、サッカーをして遊んだり、服を脱いでポチャポチャの可愛いハダカになって走り回ったり、という子供たちのシーンが、繰り返し挿入されるのですが、なんというか、これがスゴイ!のでした。 音もセリフもほとんどありません。だからといって、主人公二人の回想というわけでもなさそうです。彼ら二人のまわりの世界でのエピソードにすぎないのです。なんなんだこれは! と、もう一度つぶやき直しながら、ボクは、そのシーンに、理由は分からないのですが堪能してしまったのです。 見終えて、何度考え直しても、この子供たちの遊びのシーンとメインのストーリーはどうしても結びつきません。確かに、二人が二人であることを再発見する、いわゆる「オチ」は用意されています。しかし、この、若い監督の才能は、意味の分からないまま、映画のほぼ三分の一を占拠している、この子供たちのシーンに輝いていました。 まあ、あのイオセリアーニの故郷ジョージアの若者のすることですから、という納得もあったかもしれませんが、この監督、そのうち、きっと(?)、今度は〇! まあ、そういう作品を撮りそうですよ。それまでノンビリ待ちましょうね(笑)。 センスの塊のような監督ですが、物語には興味がないようなのは、ジョージアという土地の空気なのでしょうかねえ。ボクは嫌いではありませんが(笑)。監督 アレクサンドレ・コベリゼ脚本 アレクサンドレ・コベリゼ撮影 ファラズ・フェシャラキ美術 マカ・ジェビラシビリ衣装 ニノ・ザウタシビリ編集 ベレナ・ファイル音楽 ギオルギ・コベリゼキャストギオルギ・アンブロラゼ(ギオルギ・前)オリコ・バルバカゼ(リザ・前)ギオルギ・ボチョリシビリ(ギオルギ・後)アニ・カルセラゼ(リザ・後)バフタング・パンチュリゼ(カフェのオーナー)2021年・150分・G・ドイツ・ジョージア合作原題「Ras vkhedavt, rodesac cas vukurebt?」2023・06・03 ・no66・元町映画館no171
2023.06.05
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オタール・イオセリアーニ「素敵な歌と船は行く」シネ・リーブル神戸 イオセリアーニ映画祭の3本目です。大きなお屋敷から少年がボートを操って水路を伝い、街に出かけてゆくシーンから映画は始まりました。 で、そこからのこの少年の行動のわけわかりません、学生アルバイトなのか、ゆすりたかりなのか、物乞いなのか。ああ、家では坊ちゃんのなりをしていますが、街に出るときは、まあ、ただの不良少年です。ピストルとか持ち出してスーパーマーケットで強盗とかやっちゃうのですが、つかまって、一応、映画を見ている感覚では、すぐに出所しきます。 もう一人の登場人物は父親です。鉄道模型の好きな、まあ、ただの好きではなくて、所謂、鉄ちゃんのおじさんです。部屋の中を列車が走りまわっています。ああ、もちろん模型ですよ。お金持ちのようです。でも、何をして食っているのか不明です。やたらタバコを吸って、酔っ払っています。時々庭なのでしょうね、鉄砲を持ち出して狩猟をしたりしています。息子が連れ帰ってきたホームレスのオッちゃんと意気投合して飲んだくれの生活を続けますが、上の写真は住みついた(?)ホームレスのオッちゃんと、なんと、イオセリアーニ本人が演じている父親です。 三人目は母親です。どうも実業家のようです。まあ、いけ好かないおばさんです。で、家の中に、変な鳥がいます。多分、コウノトリの一種だと思いますが、奇怪な表情で立っています。鳴いたり飛んだりしません。上の写真は父親をいたぶっている(?)母親と、家の中にいるコウノトリです。 で、外の世界ですが、デカい単車にのってカフェとかの娘に言い寄る鉄道員らしい男と、まあ、そのカフェの娘が、まあ、目立った登場人物です。で、娘は、なぜか、少年のお屋敷に逃げ込んできていたりします。 他にも、犬とか、変な動物とかが、突如、出てきます。ヘリコプターがなんで飛んでくるのか忘れましたが、自動車やバイクもいろいろ出てきます。なんなんでしょうね。 要するに、知らない人が暮らしている、ちょっと地理感覚の通用しない街と、どうも、その街から少し離れたところにあるらしいお屋敷で暮らしているお金持ちを、ぼんやり眺めているという風情の映画です。正直に言うと、まあ、ほどんど訳が分からない世界です。うーん、脈絡のない世界というほうがいいかもしれません。 予想なんてとてもできない出来事が不意に起こるのです。「まあ、それもありか・・・(笑)」 困ったことにそういう気分にはさせられます。別に、幸福になったりはしません。チラシにはノンシャランとかユーモアとか書いてありますが、ノンシャランとユーモアを感じられる人は、かなり優雅な心の持ち主だと思います。ボクのような貧乏性の小理屈人間には強敵です。「なんなんですか、この映画?」 そう思っていると終わりました。 困ったことに、明日も来そうです。脚本・編集・出演:オタール・イオセリアーニ撮影:ウィリアム・ルプシャンスキー音楽:二コラ・ズラビシヴィリ出演:ニコ・タリエラシヴィリ、リリ・ラヴィーナ、フィリップ・バス1999年・117分・フランス・スイス・イタリア・原題「Adieu, Plancher des Vaches!」2023・03・12-no036・シネ・リーブル神戸no181
2023.04.27
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ラナ・ゴゴべリゼ「金の糸」元町映画館 ノートパソコンのキーボードを打つ手が映し出されて、打っている言葉が聞こえてきます。「すばらしい言葉、失われたときを求めて。」 そう呟いて手を止めたところでカメラは引いていって、赤毛で、80歳はゆうに超えていると思われる女性が映し出されました。見ている映画はラナ・ゴゴベリゼ監督の「金の糸」です。 女性は自らの人生を振り返る「野の花」という作品を執筆中であるらしいエレネ(ナナ・ジョルジャゼ)という作家です。今日が79歳の誕生日ですが、誰もそのことに気づいてくれません。足元が不自由であるらしく、室内でも杖をついて歩いています。 娘夫婦と暮らしているらしいのですが、彼女のそばに来るのは孫娘のエレネだけのようです。孫娘の母親はアメリカに留学中のようで、彼女は祖母の家に預けられている少女のようです。 その日、アルチル(ズラ・キプシ)という老人から、エレネに電話がかかってきます。エレネのかつての恋人です。電話の向こうの男は車いすに座ったまま受話器を握っています。 立て続けに、同居している娘夫婦の姑ミランダ(グランダ・ガブニア)という女性が引っ越してくることが娘から伝えられます。老人性痴呆を発症したらしい姑をひとりにしておくことはできないというのが娘夫婦の言い分です。ミランダとの同居を拒否するエレーネに、娘の口から家計の苦しさが宣告されます。 老作家エレネ、元共産党の幹部ミランダ、電話の向こうの、元恋人アルチルという老人三人の映画でした。 映画の舞台であるジョージアという国は、シマクマ君が地理を習った頃はグルジアと呼ばれていて、ソ連邦の一地域でした。黒海の沿岸の国で、あのスターリンの故郷だったと思います。1991年、ジョージア共和国として独立し、現在、ロシアとは国交を断っているはずです。2022年、ウクライナを相手に戦争を始めたプーチンには、もう一つの目障りな国かもしれません。 老人たちが暮らしているのは首都トビリシの旧市街のようですが、主人公エレネは家の前の通りを、タバコをくゆらせながら、ベランダから眺めているだけという設定でした。 ベランダで娘から禁じられた煙草をくわえ、「金継ぎ」という陶器の修復法さながらに「失われた時」を思い浮かべる彼女の姿は、ベランダ越しに団地の四季の移り変わりを、日々ぼんやり眺めているシマクマ君には、とても他人事とは思えないのですが、あらわれた二人の老人は、彼女が「金継ぎ」しようとする「失われた時」に、新たなひび割れを加えていくところがこの作品の妙味でした。 91歳だというラナ・ゴゴベリゼ監督は、ソ連邦当時のジョージアで最初の女性の映画監督ヌツァ・ゴゴベリゼという人の娘だそうです。1937年の大粛清で父は処刑され、母も流刑になるという幼児体験からラナ・ゴゴベリゼ監督の人生は始まったようです。その彼女が劇中でエレナに託したのは、おそらく90年を超える、彼女自身の「失われた時」の「金継ぎ」の夢だったと思いました。 記憶と現実の混濁の中で、牛小屋になっている嘗ての政治局の会議室をさまようミランダの姿を見ながら、ぼくは、90年の歳月をかけて、歴史に対する寛容にたどり着き、新たな歴史への希望を訴える監督を感じましたが、その映画とロシアによるウクライナ侵攻の最中に出会うという皮肉な現実もまたあるわけで、見終えて座り込みながら、当てもなくボンヤリしてしまいました。 三人の老人たちに拍手! 孫のエレネを演じた少女に拍手! 90歳を超えた今、希望を語ろうとしたラナ・ゴゴベリゼ監督に拍手!でした。監督 ラナ・ゴゴベリゼ製作 サロメ・アレクシ脚本 ラナ・ゴゴベリゼ撮影 ゴガ・デブダリアニ音楽 ギヤ・カンチェリキャストナナ・ジョルジャゼ(エレネ)グランダ・ガブニア(ミランダ)ズラ・キプシゼ(アルチル)ダト・クビルツハリア2019年・91分・G・ジョージア・フランス合作原題「Okros dzapi」「THE GOLDEN THREAD」2022・04・10-no51・元町映画館no115追記2022・04・19 偶然、同じ時に見た若い人の感想を聞いていて、若い人たちの知識とか経験から、共産主義とか、スターリン主義とか、60代後半の老人には、20代にかなり切実な問題だった20世紀の歴史に対する評価が抜け落ちてしまっていることに、少し驚きました。 たとえば、この作品は、ジョージアという国の、ソビエト時代の弾圧、独立後の反動、民族主義、そして、今、ウクライナで露わになっている、旧、宗主国ロシアによる覇権主義に対する、見る人それぞれの歴史知識とそれに対する考え方なしには、主人公エレネの金継ぎの夢の切実さは迫ってこないんじゃないでしょうか。 映画は映像によるイメージとして描かれますが、そのイメージを読むのは見ている人間の「脳」なわけで、「脳」の読みを促すのは、そのバックグラウンドなわけですから、見ることによって生まれる「わからなさ」の理由である無知をなんとかしようという努力は不可欠なのではないでしょうか。知識が見ることをゆがめることもありますが、深めることもあるとぼくは思います。
2022.04.17
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ゲオルギー・ダネリア「クー!キン・ザ・ザ」元町映画館 あっけらかんとした脱力感、、まあ、一言で言えばそういうことになりますかね。 初めて聞く名前だったのですが、ゲオルギー・ダネリヤという監督が1986年に撮った『不思議惑星キン・ザ・ザ』という実写版SF映画を、2013年にアニメ化した作品だそうで、実は元町映画館は「実写版」と「アニメーション版」の二本を同時上映するという、映画館の鏡のようなプログラムを組んでいらっしゃったのですが、二本目を見終えると終バスが怪しくなるとかなんとかいうことを理由にトンズラしてしまったというわけでした。 面白くなかったのか?というと、そういうわけではないのですが、「脱力感」溢れる、あまりにもおおらかな展開にポカンとしてしまったというのが正直な感想でした。 丁度、同じ週に「JUNK HEAD」というSFアニメーション映画を観ました。共通して感じたのは、見かけ上の「幼児性」なのですが、作り手の意識は対極にある感じがしました。 「JUNK HEAD」では「幼児性」は作り手の自己意識の内実をかなりストレートに表現している印象でしたが、この映画の「幼児性」というのは、まあ、典型的なのが「クー」と「キン」という二語だけで、コミュニケーションが成り立つところだと思いましたが、それは「表現意図」によってかなり周到に選ばれた方法だと感じました。 この映画の場合の表現意図といえば、やはり、ディストピアとしての全体主義社会批判だと思うのですが、「クー・キン」という「ことば」の使用、(まあ、これはかなり俊逸なアイデアだと思うのですが)といい、「アリャ・マア?」的なワープといい、登場する飛行体といい、キャラクターといい、「ナルホド、ナルホド・・・、イヤ、ナンデ!?」という感じで、完璧な脱力ワールドに仕立てているところが、思想的こわばりのようなものを忘れさせていて、「大人の映画」という印象を持ちました。 で、実は、「JUNK HEAD」同様、こちらの映画も妙に醒めた気分で見てしまいました。理由はよくわかりませんが、一つ考えられることは、ぼく自身の「年齢的」・「思想的(?)」こわばりを捨てきれていないというか、子供の目になりきれなかったからでしょうね。 脱力する代わりに、居眠りしてしまう(寝てませんが)感じでした。まあ、そういうわけで、こちらを見終えて、もう二時間というのは、どうも、爆睡に終わるいやな予感がしまして、しっぽをまいてトンズラと相成ったわけなのでした。トホホ。監督 ゲオルギー・ダネリア共同監督 タチアナ・イリーナ音楽 ギア・カンチェリキャスト(声)ニコライ・グベンコ(ウラジーミル・チジョフ)イワン・ツェフミストレンコ(トリク)アンドレイ・レオノフ(ウエフ)アレクセイ・コルガン(ビー)2013年・92分・ロシア・ジョージア原題「Ku! Kin-dza-dza」2021・08・20‐no79・元町映画館no84
2021.08.30
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テンギズ・アブラゼ「希望の樹」元町映画館 映画com グルジアの名匠、テンギズ・アブラゼ。「祈り」三部作の第二作。「希望の樹」を見ました。「懺悔」、「祈り」、「希望の樹」の順番で見たのですが、「懺悔」で、なるほど、そういう戯画化と風刺を狙った映画監督かと少し高を括りました。 ところが「祈り」で打ちのめされてしまいました。抽象度が高くて付いていけていない、わからん、そんな感じでした。 でも、「希望の樹」で少し希望を取り戻しました。ちょっと、わかったような気がするとでもいえばいいのでしょうか。もっとも、これらのシリーズが「三部作」と銘打たれている理由は、イマイチわかっていません。 「祈り」は、いわば抽象、光と闇を交差させた詩的なイメージの連鎖のような映像が心に残る作品でしたし、「懺悔」は、寓話性が如実に表現されている映画で、映画の中で展開される「物語」が現実社会の「戯画」として描かれている印象を強く持ちました。ただ、その中で愚かしい独裁者のシンボルと、抵抗する人間のシンボルである墓を暴く女性に対して、教会への道を探す老婆の存在が何を意味していると受け取っていいのか、腑に落ちたとはとても言えません。 社会と人間に対する映像作者の眼差しが、ある種の共感を持ちながらも、滑稽さや痛快さとともに、「人間」という存在の哀しさ、愚かしさを、批評的に見据えているという印象が記憶に刻まれる体験でした。 さて「希望の樹」です。 真っ赤な芥子の花が一面に咲き乱れる草原に少年と横たわった馬がいます。老人が現れて少年に馬を殺すこと命じます。それが始まりのシーンでした。 村の長である同じ老人が、掟を破った女性を、泥でぬかるんだ暗い道を引きずりまわし、死を宣告する。それが最後のシーンでした。 新しい社会を主張するアナーキスト、「希望の樹」を探す夢想家とその娘、美しい少女と貧しい少年の恋。それが、美しい芥子の花が咲き乱れるこの村で抹殺され、滅びてゆくものです。 明らかな風刺、サタイアとして描かれている世界なのですが、ぼくには笑えませんでした。それは、おそらく、この惨たらしくも「美しい」世界が、決して過去や他国の比喩ではない緊張感で襲い掛かって来たからだと思います。 先に見た「懺悔」で、失われた「教会」への道をとぼとぼ歩いて去ってゆく老婆に対する共感と、この映画で、一応、主人公のように扱われている若い二人の「恋」を断罪する、村の長である老人への、ある種、絶望的な反感がぼくのなかでぶつかり合いました。 二人は同じものの裏表であることは明らかなのですが、ぼく自身の中で、この反感と共感の共存している理由を解かない限り、少女の処刑を指揮する「村の長」を断罪することができないことを厳しく問いかけた映画でした。 それにしても、考えてもわかりそうもないのですが、考え続けざるを得ない、大きな問を突き付けた三部作だったと思いました。 監督 テンギズ・アブラゼ 原作 ギオルギ・レオニゼ 脚本 レヴァズ・イナニシュヴィリ テンギズ・アブラゼ 撮影 ロメル・アフヴレディアニ 音楽監修 ビジナ・クヴェルナゼ ヤコブ・ボボヒビ キャスト リカ・カヴジャラゼ(聖少女マリタ) ソソ・シャチヴリアニ(牧童ゲディア) ザザ・コレリシュヴィリ(金持ちの息子シュテ) コテ・ダウシュビリ(長老ツィツィコレ) ソフィコ・チアウレリ(放浪の日傘の女プパラ) カヒ・カフサビ(革命の予言者イオラム) オタル・メグヴィネトゥフツェシ(希望の樹を探す夢想家) テミナ・トゥアエヴァ(胸の大きな娘ナルギザ) 1976年 ジョージア カラー 107分 2019・11・08・元町映画館no39ボタン押してね!
2020.04.04
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ザザ・ハルヴァシ「聖なる泉の少女」元町映画館 テンギズ・アブラゼ「祈り」三部作を見ながら。予告編に出てきた映画がこれでした。水鉢の中の白銀色の鯉を触る、美しい女性の映像に惹かれて、元町映画館にやってきました。 「水の女」の映画でした。映画を見終わって歩きながら、ぼくの頭の中には、まず、海の向こうではオフィーリア、この国では中上健次の同名の小説のヒロインが浮かんできましたが、とりわけ、折口信夫の「水の女」の解説が、ボンヤリとした記憶として浮かび上がってきました。 映画の中では、山の中の貧しい村にあって、「火」をあやつり、「水」の霊力をつかさどる「父」と、その「父」を捨てた三人の兄に対して、「父」のもとに残った末の妹として、「水の女」として生きる女性ツィナメ、通称ナメが登場します。予告編で見た、あの美しい女性です。 兄たちは、それぞれ、一人はキリスト教の神父の、一人はイスラム教の聖職者の、そしてもう一人は無神論の科学者の道を歩んでいますが、彼らのもとに水を届け続けるのが末の妹ナメの仕事の一つです。 三人の兄弟と父の設定には、「家族」の歴史の、それは宗教の歴史と言い換えてもいいかもしれませんが、古代から現代へと至る、映画的な企みが潜んでいて興味深いのですが、やがて、その貧しい村の上流にはダムが建設され、騒音が響き続け、父の「水」が枯れてしまうという結末を迎えます。 ダムの建設と父の霊力の喪失という物語は、現代文明と土俗という対比で、映画をわかりやすくしていますが、ぼくが惹かれたのは、「水の女」ナメの姿でした。 水が枯れ始める中、水鉢の鯉とナメの交歓のシーンから、やがて山の湖へ鯉を放し、その鯉とともに消えてゆくナメの姿は、折口信夫がとなえた、まさに、神話的な「水の女」そのものの現前とでもいう、静かな興奮をぼくのなかに残してゆきました。 いくつもの、歴史の層を重ね合わせることが企まれた映画であることは間違いありません。しかし、ぼくにとっては、静かな山の村の闇に燃え上がる松明の炎と、降りしきる雪の中をみずうみに消えてゆく、銀色の鯉に化身した美しい女性のイメージが、くっきりと刻み込まれた映画でした。 きっと、記憶に残る映画になるでしょう。監督・脚本 ザザ・ハルヴァシ撮影 ギオルギ・シュヴァリゼ美術 アカキ・ジャシ音楽 ヨーナス・マクヴィーティスキャスト マリスカ・ディアサミゼ アレコ・アバシゼ エドナル・ボルクヴァゼ ロマン・ボルクヴァゼ ロイン・スルマニゼ 原題「NAMME」2017年 ジョージア・リトアニア91分 2019・11・24・元町映画館no24追記2019・11・27折口の「水の女」は、こちらからお読みになれます。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.27
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テンギズ・アブラゼ「祈り」元町映画館ソビエト連邦、ジョージア(グルジア)映画界伝説の巨匠テンギス・アブラゼ。渾身のトリロジー。「祈り」(1967)・「希望の樹」(1976)・「懺悔」(1984)。 偶然ですが「懺悔」を見る機会があって、それからずっと待っていました。元町映画館の受付嬢に聞くと、「そのうちやると思いますが?」という返事でした。それが実現しました。2019年11月4日。カレーパンをかじりながら、いつも座る席に座りました。 見たこともない岩山のふもとに人間がうずくまっています。セリフなのか、ナレーションなのか、「ことば」が唱えられて、字幕を追いかけても、映像を見ていても、物語は浮かんできません。 モノクロの画面の中で「光」が「影」を浮かび上がらせます。「光」の中に浮かぶ男の表情が一体何を意味しているのか、知りたがって見ているのですが、結局わかりません。 「邪悪」とか「狡猾」という言葉が浮かびますが、ナレーションされている「ことば」がそう語っているわけではありません。 彫の深い表情の男が立っています。これが、最初に出てきた男なのか、どうか、それもよくわかりません。 異様に美しい女性が白い服を着ていて、こちらに歩いてきます。火が焚かれています。 家族なのか、4人の人影が遠ざかっていいきます。もやがかかったように霞んでいる画面に人影がかすかに動いています。 あれはヒジャブというのでしょうか、黒い布で頭を包んだ女性。蝋燭の光のなかに美しいヒジャブの女性が浮かび上がってきます。 高鉄棒か、と、フト思いましたが、首に巻く縄が見えました。 絞首台です。 そこに、あの美しい白い服の女性がやってきます。彼女を吊るす準備をしている男がいます。 眠い。彼女は吊るされたのでしょうか。ゆっくり眠りの中に沈んでいくのを感じながら画面を見ています。 大勢の人間が墓穴を掘っていました。丘一面に墓が掘られています。実際にぼくは眠り込んでいたのでしょうか。墓を掘るシーンなんて、本当にあったのでしょうか。 映像はやがて、一番最初の岸壁に戻ってきます。狡猾な男が闇に消えてゆきます。彫の深い男が岩の底の方にうずくまっています。 突如映画は終わりました。 受付のおにーさんと目が合ったので思わず言ってしまいました。「ちょっと、続けて『希望の樹』は無理やわ。参った。全く話が分からんかった。映像が、眠りに誘うだけや。自分でも起きてるのか寝てるのか、トホホやね。」「パンフレットいかがですか?(笑)」「イヤ、シャクやから、歩きながら考えるわ。希望の樹は金曜日やんな。」「お待ちしてますよ。」「ありがとう。じゃあね。」歩きながら思い出されるのは、不思議なシーンと、意味ありげな顔の表情。「あかん!もう一遍見たる!・・・また寝てまいそうやなあ。トホホ。」監督 テンギス・アブラゼ原作 バジャ・プシャベラ脚本 アンゾル・サルクバゼ レバズ・クベセラバ テンギズ・アブラゼ撮影 アレクサンドレ・アンティペンコ 美術 レバズ・ミルザシュビリ音楽 ノダル・ガブニアキャスト スパルタク・パガシュビリ ルスダン・キクナゼ 他1967年78分・白黒 ソ連・ジョージア 原題「Vedreba」2019・11・04・元町映画館no23ボタン押してね!
2019.11.09
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テンギズ・アブラゼ 「懺悔」元町映画館二階 黒の小部屋 「3月20日午後5時30分、元町映画館二階・黒い小部屋。カナラズコラレタシ。」という謎のメールを受け取った、徘徊老人シマクマ君。そのままどこかに連れ去られて・・・てなことは、もちろん起こらない。 ロシア映画を定期的の集まってごらんになっているグループの定期上映会に、お誘いいただいて、昨年見損ねた、テンギズ・アブラゼ「懺悔」を見ることができた。 下調べしたところによれば、ソビエト連邦崩壊直前に、グルジアで作られた反スタ映画として評判になった作品らしいのだが、そういう関心、反スタ映画だからみようかというような、は、今まで、ぼくにはあまりなかった。 少し小さめのスクリーンで映画は始まった。 中年の女性が、クリームでバラの花を作って、ケーキを飾っている。大きなケーキには、教会と思しき建物の飾り付けがのっかっていて、隣のテーブルで髭の男がケーキにかぶりついて「うまいうまい」といっていたと思うと、新聞に載っている写真を見て、大げさに「立派な人を亡くした。」とか何とか、わざとらしい誉め言葉を大声でがなり立てはじめている。ケーキを作っていた女性が、なぜか冷ややかな表情で、その男を見ている。 市長が死んだらしい。 葬儀があって、埋葬がある。葬儀を済ませた息子夫婦がベッドに入る。幼児と母親のようなみだらな場面がと、期待し始めたところに、庭から犬の奇妙な鳴き声が聞こえてくる。裸の妻が庭を見下ろし悲鳴を上げる。 埋葬したはずの市長の遺骸が庭に帰ってきている。 誰かが墓を掘り起こしている ケーキを作っていた女性の仕業だったことが明らかになり裁判が始まる。冷笑を捨て、戦うことを決意した意志の化身のような表情で女性が宣言する。 「眠らせない。」 ここから、映像は、たえず「滑稽」な印象をまといながら、過去の物語を語り始める。シャボン玉で遊んでいた少女と窓を閉めた父親。そこからすべてが始まっていた。 流刑地から流れつく大木に刻印された無実の父の名前。独裁者の前にひれ伏す美しい母。少女が広場に向かって飛ばしたシャボン玉の未来がはじけてゆく。 風船のように膨らんでゆく全体主義の中で、民衆はやがて「歓喜の歌」の大合唱へと昇華してゆく。ベートーヴェンが「悪」のサタイヤとして響き渡る不気味。独裁者を称える「歓喜」が美しく響き渡る空虚。 回想と現在、現実と幻想、二種類の映像が重ね合わされ、「父と子」の葛藤が映像の主題として描かれ始める。独裁者とその息子は同じ顔をしている。独裁者は戯画化され、歴史は愚かしく繰り返されていく。 「眠らせない!」「美しく偽られた父と子の醜悪な神話」を暴く叫びは少女の記憶からほとばしり、怯むことを拒否した女性の眼差しこそが美しい。 甘い砂糖菓子の教会が飾られたケーキを作っている女性の窓の下を老婆が通りかかる。 「教会への道は?」 教会への道は、失われた教会とともに失われている。しかし、道はある。ゆるく登ってゆく坂道を老婆が歩いてゆく。 「老婆はどこへ行くのだろう。」 告発者の女性を英雄視しなかったこと。独裁者自身の懺悔とともに民衆の懺悔の不可能性を神の不在という視点で描いたこと。歩み去る老婆を描いたこと。 「いったい誰が、何を、誰に『懺悔』することができるのか。」 映画が終わって、部屋が明るくなった。集まった人たちの感想を聞いて街へ出た。 印象に残るシーンは多いけれど、裁判所で自分に撃ち込まれた銃弾の行く方を尋ねたシーンは何だったんだろう。亀山郁夫の「大審問官スターリン」(小学館)で、なんか読んだ気がする。レーニン暗殺未遂の銃弾。関係ないか?「鉄の男」スターリン、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。信じられない狡猾さで権力を手に入れ、神のように君臨し、死んだあとは張りぼてのように捨てられた。グルジアは、故郷であったにかかわらず、権力への階段を上り始めた男が手を血で染めた、最初の虐殺の地。それ故にだったか?偶像として聳え立つ権力の偽りを、最初に暴く場所でもあった。「やったんちゃったかなあ?」記憶の中に、さ迷い歩くように浮遊する、あやふやな記憶といい加減な知識。「それにしても、グルジアか?」「うーん、あやふややなあ。もう一回読んでみようかな?もういいかなあ?」 神戸駅まで、いつもより遅い道を歩きながら、ふと、そんなことを考えていた。 監督 テンギズ・アブラゼ Tengiz Abuladze 脚本 ナナ・ジャネリゼ テンギズ・アブラゼ レバズ・クベセラワ 撮影 ミヘイル・アグラノビチ 美術 ギオルギ・ミケラゼ 音楽 ナナ・ジャネリゼ キャスト アフタンディル・マハラゼ:(一人二役) (ヴェルラム・アラヴィゼ・独裁者) (アベル・アラヴィゼ・その息子 ) イア・ニニゼ(グリコ・アベルの妻?) メラーブ・ニニッゼ(トルニケ・独裁者の孫) ゼイナブ・ボツバゼ(ケテヴァン・バラテリ) ケテバン・アブラゼ(ニノ・バラテリ) エディシェル・ギオルゴビアニ(サンドロ・バラテリ) ナノ・オチガバ(ケテヴァンの子供時代 ) ダト・ケムハゼ(アベル・アラヴィゼの子供時代) ベリコ・アンジャパリゼ(老女) 原題 「Monanieba」 1984年 ソ連 153分 2019・03・20・元町映画館no7ボタン押してネ!にほんブログ村【中古】 大審問官スターリン /亀山郁夫(著者) 【中古】afb価格:2090円(税込、送料別) (2019/5/20時点)
2019.05.20
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