今を生きる LIVE NOW:露草日記
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一年前に移動してきた方は、看護師暦がもうすぐ20年近くなるというのに、訪問看護の対象になる方の全体像を見ない、見ようとしない。 前回の一階だけの記録を当てにして、その一回にされたケアを「どうやった?」ってささっと聞きだして、自分のやり方でケアしてくる。 慢性疾患をたくさん持っている高齢の方は、自宅で生活しているから急性期病棟に入院しているほど状態の変化は激しくないのだけれど、高齢だというだけでいつ何時様々な負の出来事が起こるかもしれないというスタンスを持っていないと急変に対応できない。 と同時に、姿勢や覚醒状況、排便や食事など日常の生活が普段通りできているのかを確認しないと、脈拍数や体温が前回と同じでも、変化が起き始めているということがある。 どこまでが大丈夫で、どう様子を見ながら、ご本人とご家族に了解いただきながら、必要なケアをしていくかは、もうその場の状況で即判断しなければならないことがる。 同僚に言われたことだけをして帰ってくるのであれば、訪問看護ではないと断定してもよいのではないか。 この方、残念ながらご自分の非は決して認めない。あーだ、コーダと言訳をする。なぜ、問題があるのかと指摘されたのかと、考えを広く深くめぐらすことができない。 患者に痛みを与えるようなケアをしながら、そのことを指摘すると指摘した私に対して「あなたは人間関係を良くしようと思っていない」と逆切れ。 周りの同僚も、間違ったことをしたんだよ、と一言も言わない。患者に不利益が起こったのに、何故何事もなかったようなふりをしてそのことを指摘しないのか。何のために看護師の仕事をしているのか、お給料の分だけ働いたつもりになっているのかもしれないが、そのお給料は患者さんからいただいている利用料金で成り立っているのに。お金だけの問題でなく、その人の命の可能性を伸ばすのではなく、可能性を減弱させているのだ。 そういうケアに対して、怒りを感じられないというのは、不正を見て見ぬふりをしているのと同じ。 何か発言すると、その発言によって人間関係が悪くなるのが嫌だと、あとでコッソリ言う。 自分が気分よく働くだけの範囲内だけで、仕事をしたいのか。患者の人権を守る、そこまで大そうなことは言わなくてよいから、せめてその患者さんの苦痛を少なくするとか、安楽に過ごしていただくためにはどうするかとか、そういうことを話し合えないような職場はくそくらえ。 だったら、看護師を辞めてしまえば、と言いたくなる。 でもね、私みたいに孤立してもいいから言うべきことはいう、という主義をもって平気で職場にいられるのはそう多くないのかも。 私の両親も自分の意見を持ち、世の中とは別のことも信念さえ持てばそれをやり遂げる人だった。頑固だとか、厳しすぎると疎ましく思ったこともあったし。小学校の高学年の時、担任の先生は「自主的に生きろ、自主的に行動しろ、自分の意見を持て」と口を酸っぱくして自分の頭で考えることを強調した。しかし、中学校の担任は、「自主的に行動する」ことを嫌っていて、中学生になってから半年もしないうちに「自主的」という言葉は消えていった。 他人の考えなのに、自分が考えたことと勘違いしてしまうこともあるかもしれない。右ならえで強い力や大きい声で発言する人の追随してしまうのが日本的と言ってもよいのだろうか。 そんなこんなで、他罰的な考え方をしがちなあの看護師に対して、反射的な感情の表明はやめることにした。この方の考え方の道筋、感情的になるときの具体例、どんな人にどんな対応をしているのか、じっくり人物像を見極めることにした。教えようとしてお節介になるのは中止。 患者さんのことをどのように考えるかについては、本人の問題としないで、自分の問題として提起したりあれやこれやいろいろ作戦を考えようと思う。直線的な思いにとらわれるのは、ひょっとして私もそうなのかもしれないし。 他人と過去は変えられない、ですもんね。
2016年04月18日
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