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「影の刺客」(51)夕暮れを迎え、やや天候が落ち着きを見せ始めたが、雪は止むこともなく降り続いている。 刻限はまだ暮れ六つ(午後六時)を過ぎた頃だが、人っ子一人見当たらない。人々はこの雪で家に閉じこもっているのだ。 一人の武士が高下駄を履いて神田橋の一軒の船宿に入ってきた。「誰ぞおらぬか?」「へい」 船宿の藤屋の主人が寒そうな顔を現した。武士は山岡頭巾を被り顔は分からないが、立派な紋服姿で雪よけの合羽に首巻をしていた。「済まぬが、虎の門まで船を仕立ててはくれまいか」「この天候で店は早仕舞いにございやす」 主人が気の毒そうに断った。「急用ができての、酒代ははずむ」 小柄な体躯の武士であるが頭巾から覗く眼が鋭い。「誰か虎の門まで行ってくれる者はいねえかえ、酒代は弾むとの仰せだ」「あっしが引き受けやすぜ、酒代と聞いたらじっとはしてられねえよ」 藤屋の兄貴分の五郎蔵が二つ返事でうけた。「お侍さま、囲炉裏端で四半刻(三十分)ほど待ってておくんなさいな。船の用意をいたしやすから」「前金じゃ」 武士が懐中の財布から一両を差し出した。「こいつは豪勢だ、直ぐに用意をいたしやす」 五郎蔵が髭面を崩し、船の用意に姿を消した。 四半刻ほど経たのち、小型の屋根船が粉雪の舞う濠に向かって漕ぎ出した。 船の周囲を葦簀張り(よしずばり)として雪塞ぎがほどこしてある。「旦那、寒さ凌ぎに熱燗を一本用意してめえりやした」「それは助かる」 五郎蔵も厳重な身支度をして竿を操っている。「飲み屋がございやすなら、お待ちいたしても構いませんがね」「帰りはよい」「分かりやした」 屋根船が数寄屋橋御門をぬけた、虎の門までは直ぐである。「ちらりちらりと 振る雪さえも 積り積りて 深くなる」 武士が低い声で都都逸を唸る声が聞こえてきた。「旦那、粋な文句ですな」「逢うて心の 曇りも晴れて 二人で眺める 蚊帳の月」 五郎蔵が竿を操り寒さを忘れて聞き入っている。「旦那、虎の門に着きやすが、何処に着けやす?」「その方に任せる」「畏まりやした」 屋根船が船着場に着いた。常の日ならまだ船着場の横の待合小屋に、人々が待ち受けているのだが、この悪天候で誰も見当たらない。 周囲は雪が積り闇を明るくしている。「滑りやすから気をつけておくんなせえ」 五郎蔵の声を背にうけ武士が身軽く船着場に飛び降りた。「有難うございやした」「ご苦労であったの」 声と同時に腰間の大刀が鞘奔り、五郎蔵の右肩を袈裟に斬り下げた。 悲鳴をあげる間もなく五郎蔵は水音を響かせ濠の底に沈んだ。 見事な剣さばきである、武士は血糊を拭い何事もない素振りで、粉雪の舞う道に高下駄の音を響かせ消えていった。 再び武士が姿をみせたのは、神明門前町の一角にある古寺であった。 武士は迷うこともなく古寺に足を踏み入れた。 厳重に目張りをした庫裏には、得体の知れない男等が円座に座り、車座となっていた。江戸を騒がせる曲者達であった。 武士は無言で正面に腰を据えた、躰から血の臭いが漂った。「人を殺めてまいりましたな」 頭分の甲戌がさりげなく訊ねた。「船頭を始末してきた。甲戌、配下は十四名じゃな」 武士は乾いた声で答え甲戌に声をかけた。「はい」「今日はこの天気で助かった。嘉納主水めこの辺りに目を付けよった、雪が止めば探索が始まろう。今から板橋宿に身を隠せ」「板橋宿にございますか?」「そこで二日ほど英気を養うのじゃ。これは当座の資金じゃ」 武士が懐中から百両の切餅を床に置いた。「有難く頂戴いたす」 甲戌が無造作に懐に入れた。「三日後には再び老中首座の屋敷を襲撃いたせ」「全員でことにあたりますか?」「そうじゃ、全力でことに当たれ、ただし、定信の命はとってはならぬ。奴にはまだ遣ってもらうことがある」「襲撃には引き時がござる、引き上げの時期はいかがいたします?」「白河藩には遠藤又左衛門という江戸家老が居る、腕は神道無念流の達人として知られておる。その男が現れたら引き上げよ」影の刺客(1)へ
Oct 31, 2011
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「影の刺客」(50)彼等は古寺の庫裏に散らばり、焚火を囲んで酒盛りをしていた。 どうせ昼間は動けない、これが彼等に幸いしたのだ。 火付盗賊改方は目前で探索を打ち切ったのだ。 生き残りの十五名は次の命令を待っていたのだ。 (十章) 天野監物と若山豊後も連れだって帰路についていた。今日は雪避けの蓑を着込み、珍しく足袋を履き厳重な足拵えをして菅笠を被っていた。「ひでえ天気だぜ」「こう冷えてはたまりませんね」 粉雪が筑波おろしの風にのって容赦なく体温を奪ってゆく。「豊後、麹町で一杯やるぜ」「いいですね」「返事はいいが、おめえ銭をもってんのかえ」 天野監物が鼻水を手の甲で拭って訊ねた。「まだ正月明けですよ、一朱は持っていますよ」 豊後が頬を真っ赤にして白い歯をみせた。 この時代の一両は十六朱で、一朱は今の価値なら一万円位の価値があった。酒が二百文、蕎麦が十六文位であったので十分に飲める。「天野さんも、いくらかもってんでしょうね」「あたぼうよ」 二人は粉雪の舞うなかを掛け合いで道を急いでいた。「天野さん、あの店はどうです」 豊後が麹町の中程にある小汚い店を指差した。 暖簾が風に煽られ千切れそうにはためいている。「もう、待てねえよ、入るぜ」 二人が駆け足で店に飛び込み、三和土で蓑と笠に積もった雪を払い、囲炉裏の脇の醤油樽に腰をおろした。「親父、熱燗を二本頼むぜ」 二人が湯呑に注ぎ一気に咽喉に落とし、ようやく人心地がついた。 「肴はなにがある」 天野監物が囲炉裏に手をかざし性急に訊ねた。「へい、この天気ですよ。棒鱈(ぼうだら)の煮物なんてどうです」「刺身はねえのかえ」「これでは魚が手に入りやせんよ」 親父がお手上げの顔をした。「仕方がありませんね、まずそれを二人分頼みます」 豊後が鱈の干し物の煮物を頼んだ。「けっ、古漬はあるかえ」「へい、大根に白菜ならございやすよ」 親父が寒そうに答えた。「ひどい日に探索となりましたが、中止でほっとしましたよ」 若山豊後が煮物に箸をつけ、ほっとした様子をしている。それを横目で眺めた天野監物が苦い顔をした。「こうした日が危ねえんだ。おいらは昔、散々と苦い目にあったぜ」「奴等が動きだすと言われますか?」「分からねえが南に目をつけるなんざあ、流石は嘉納さまと感心したが、探索中止は痛いぜ」「奴等に散々引き回され、南は手つかずでしたからね」 豊後が言葉を切り、大根を噛み小気味よい音を響かせた。「今になって思うと組頭を襲ったことも、南から目をそらせるための小細工に映るぜ」「伊庭さまが頑張ってくれましたよね」「豊後、今日の探索も案外と伊庭さまの入れ知恵かもしれねえな」 天野監物が独酌しぽっりと呟いた。「天野さん、昨晩、お会いしましたよ」「なにっ、おめえは一言もそんな話はしなかったな」 天野監物が豊後を批難するような言葉をなげた。「お頭には死骸とともにお知らせしましたよ」「なにっ、また遣りなすったのか?」 驚いている天野監物に若山豊後が、昨夜の西の丸の事件を語った。「驚いた人じゃな、一橋家に潜入されたか?」「伊庭さまの独断でしようね」 若山豊後が断言した。 天野監物が無言で湯呑をもて遊び、何事か思案している。「豊後、これまでの事件の詳細は軽輩者の我等には聞こえてこぬな。おいらの推測だが、この事件はもっと根が深い事件かもしれねえな」「老中首座の松平定信さままでが襲われなされましたね」「そじうゃ、幕閣のお偉いさんばかりが狙われておる」 外はますます荒れ狂っているようだ、表戸が軋み音をあげている。「伊庭さまは一橋治済さまを黒幕と疑われた。そうだろ豊後」「それが白と分かったが、そこに例の曲者が待ち受けていた。話がうま過ぎますね。奴等の本当の狙いは一橋さまかも知れませんね」「最近の一橋さまは日の出の勢いじゃ」「上様の実父であり、最近は御三卿の田安家に五男の斉匡(なりまさ)殿を入れ、田安家を継がせられましたね。それを疎ましく思う者が居ったとしても不思議ではありませんね」「豊後、案外とその線が濃厚かもしれんな」 二人が囲炉裏の脇で熱燗を飲みながら密談を交わしている。「旦那、申し訳ねえが、今日は店仕舞いにさせて頂きやす」 親父が寒そうに熱燗を二本置いて奥にもどった。「心配するな、これを飲んだら退散するぜ」「済みませんな、こんな天気なんで勘弁してくだせえ」 二人は熱燗を空け、身支度を整え四谷の大木戸へと向かった。 渺々(びょうびょう)と粉雪が横殴りに吹きつけるなか、二人は全身雪だるまとなって四谷左門町へと急いだ。影の刺客(1)へ 明日はお休みします。
Oct 29, 2011
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「影の刺客」(49) 素早く求馬が身構えた、粉雪が容赦もなく降り注いでくる。「一橋家を窺うとは、貴様等は江戸を騒がす曲者の一味か?」「我等の邪魔をする者は許さぬ」 声が途絶え、吹き付ける粉雪とともに両側から凄まじい攻撃をうけた。 求馬が左からの大刀を撥ねあげ、大きく前方に跳躍し、同時に前を塞ぐ敵に必殺の拝み打ちを仕掛けた。 相手が不気味な苦悶の声をあげ雪道に転がった。 それを横目にし、求馬は雪道を滑るように神田御門へと駈けた。 その背後から雪を踏みしめる音がし、「キエッ」 背後に迫った曲者が大きく跳躍し、求馬の頭上に刃を振りおろした。それは大川から吹き付ける粉雪とともに襲いかかってきた。 求馬がわずかに躰をひらき躱した。その隙を逃さず相手が求馬の背後から、頭上を右に跳躍し着地した。 それを求馬は待っていたのだ、痩身が風のように素早く相手に向かった。 正面に向き直ろうする敵に、その時を与えず相手の頭蓋を一撃した。 確かな手応えを感じ、血糊を弾きとばし正眼に構えをとった。 曲者は仰向けに雪道に倒れ、血潮が雪を黒く染めてゆく。「遣るのう」「わしが伊庭求馬じゃ、江戸を騒がす曲者の一味なら遺恨もあろう。存分に相手をいたす」「なんと、・・・伊庭求馬とな」 正面の黒装束の男から微かながらも驚愕の声が洩れ聞こえた。「貴様等は新手の助太刀とみた、一橋治済さまを襲うつもりか?」 求馬の冴えた口調に抑され、曲者の輪が広がった。残った黒装束がじりっと求馬の痩身を中心に左に廻りはじめた。 真っ白に景色を変えた西の丸に壮絶な殺気がみなぎった。「曲者」 遠くから声が聞こえ、神田橋方面から、火盗と描かれた御用提灯が揺れながら近づいてくる。「散れ」 正面の男の下知で、さっと残りの者が殺戮の輪を解き四方に散った。 正面の曲者は正眼に構え、じりっと村正の刃圏の外に逃れ、そのまま後ずさりをし身を躍らせ、見事に背後の土塀を越えて消え去った。 求馬は敢えて痕を追わず、村正を鞘に納め大きく息を吐きだした。 乱れた足音が近づき、「伊庭さまではありませぬか?」 火付盗賊改方同心の若山豊後の声である。「若山さんか、付近に二名の死骸がござる。確かめて下され」 若山豊後が蓑合羽に身を包み近寄り、捕吏に声をかけた。「死骸を改めよ」 捕吏が倒れている曲者の死骸に駈け寄った。「今頃、ここで何をしておられました?」「嘉納殿のお屋敷から戻る途中に、一橋家に侵入いたしたが、この場で待ち伏せを喰らい申した。曲者は六名、うち二名は討ち果たしましたが、残りは逃げうせました」 求馬が平然とした態度で仔細を若山豊後に述べた。「若山さん、二人とも新しい彫り物をしております」 死骸を改めていた捕吏の声がした。「なにっ、どんな彫り物じゃ」「乙卯(きのとう)と乙未(きのとひつじ)の彫り物にございます」「伊庭さま、奴等は新手を呼び寄せたようですね」「左様、老中首座殿を襲った連中でござろう」「そこまでご存じですか」 若山豊後が驚きを隠さず求馬の横顔をみつめた。「それがしはご無礼いたす、逃げた曲者を捕えるは不可能。明日になれば大目付殿より、新しい下知がござろう」 そう言葉を残し、求馬は粉雪の舞う町に消えて行った。 翌朝も江戸の町は粉雪が舞い、冷え込んだ朝を迎えていた。 火付盗賊改方は坂下御門の番屋で嘉納主水から、新たな命を下された。 捕吏も含め二、三名が組となり、愛宕神社を中心として西の久保下谷町から、江戸湾よりの芝口南、三島町に散らばり増上寺の周辺に群がる古寺を包囲する格好で捜索をはじめた。 とくに増上寺の周囲は門前町が軒を並べ、慎重な探索が行われることとなった。そのまま網を絞るように、赤穂浪士で名高い泉岳寺までの南に探索の輪を広げるつもりであった。 併し、この日は稀にみる悪天候に見舞われ、探索は昼で打ち切りとなってしまったのだ。 江戸湾からの強風と筑波おろしで眼も開けれない情況であったのだ。 彼等が諦めて引き上げた手前に神明門前町があり、その古寺には刺客道の曲者が、息を堪えて潜んでいたのだ。影の刺客(1)へ
Oct 28, 2011
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「影の刺客」(48)(この娘、白痴か) と、求馬は美しい顔を恍惚に歪める娘をみて悟った。 いかにも好色で知られた治済らしい生身の姿をみつめ、求馬は反吐(へど)のでる思いで屋根裏から眺めていた。 まさに生々しい男女の淫靡で生臭い光景である。 考えれば曲者を操る黒幕としてもっとも怪しい人物が、一橋治済である。 求馬が覆面を取り出した。座敷に一陣の風が吹き抜け、座敷の中央に覆面姿の求馬が佇んでいた。「何者じゃ、そちが世間を騒がす曲者か?」 蒼白な顔色で治済が、白痴の娘を抱きかかえ怒声をあげた。 部屋の中は汗ばむほど暑く、火鉢が三個も置いてあり南部鉄の湯沸しから湯気が噴き出ている。「曲者の黒幕は、貴方さまではございませぬのか?」 痩身を着流しにした求馬が乾いた声で訊ね、傍らの脇息に腰を据えた。「わしは知らぬ」 大きく首を振り否定する治済に抱きすくめられた娘が、まじまじと覆面姿の求馬を見つめている。黒々と輝く眸子が煙ったような光を宿している。「そなたは誰じゃ」 幼いない問いかけである。「それがしはこの屋敷を襲って参った曲者にござる」「姫をこの場から連れ出して下され」 豪華な打掛けの裾前を乱し、白磁のような太腿を晒し隠そうともせずに娘が懇願した。それはこの世のものとは思われない淫猥な見世物であった。求馬は娘を無視し治済に乾いた声をおくった。「真の事をお伺いいたす。もし、隠すつもりならこの場で姫を犯す」 その言葉に治済の顔が歪んだ。「姫に手をつけることは許さぬ」「何をお考えか、この座敷はそれがしが支配いたした。貴方さまも姫の命もそれがしの手のうちにある」 覆面越しの求馬の眼が無感情に治済の顔に注がれている。「嘘ではない。また、この姫は上様ご愛妾のお千代の方の妹君じゃ。わしが中野磧翁から側女として貰いうけたのじゃ」「それはご盛んなことにござるな、まさに種馬じゃ」 求馬が覆面の中から笑い声をあげ揶揄した。 西の丸入りを望み、我が子の将軍家斉に懇願し、大御所を名乗ろうと大いなる野望をもつ男が、黒幕を必死で否定する姿に嘘は見られない。「もしも黒幕と分かったならば必ず一命はそれがしが貰い受けますぞ」「わしも一橋治済じゃ、嘘は申さぬ」 脂汗を滴らせ必死で治済が抗弁している。「ならば、それがしは退散つかまつる、なれど大声を出されるな。我等の仲間が見張っております、裏切れば死があるのみ」 求馬の声が終わるや、「わらわも一緒に連れて行ってたもれ」 お佳世が治済の膝から逃れ、求馬に抱きついた。それは柔らかな女体で匂い袋の芳しい香りと雌の匂いがした。「姫は治済さまがお嫌いかな」「爺はわらわに嫌なことばかりする、お佳世は嫌じゃ」「治済さま、この姫の云うとおりにいたしましょうか」「ならぬ、お佳世はわしの宝じゃ」 治済が必死で懇願する姿が滑稽にみえた。「御三卿の実力者の貴方さまが、このような小娘に溺れるとは笑止。見れば常人ではござらんな」 言葉が途絶えると同時に、求馬の拳がお佳世の鳩尾を突いた。 ぐったりと崩れ落ちた女体を抱きとめ、求馬の躯にいいしれぬ欲情が奔りぬけた。まさに白痴美の女体は男を迷わす妖艶な生き物であった。 求馬はぐったりしたお佳世の躯を畳みに横たえ、痩身を躍りあげた。「夢々、今宵の件は忘れないで頂く。それに女遊びはほどほどになされ、上様の女好きも貴方さま似にございますかな」 痛烈な皮肉を浴びせ痩身が屋根裏に消え去った。 あとは治済が痴呆のように天井を仰ぎ見ていた。 深々と降りしきる雪が粉雪に変わり、西の丸一帯は白銀の世界へとさま変わりしていた。 一橋家の土塀に求馬が音もなく現れ、鋭く周囲を観察し帰路につこうと痩身が宙に舞った。 それを待ちかねたように粉雪を裂いて大刀が煌めいた。 村正が空中でそれを弾き返し、着地と同時に土塀の翳を疾走した。 角を曲がれば神田御門に抜けれる。その逃げ道を塞ぐように黒装束の男達が立ち塞いでいた。「貴様は何者じゃ」 地の底から湧き上がるような不気味な声が、求馬の痩身を包み込んだ。影の刺客(1)へ
Oct 27, 2011
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「影の刺客」(47)「嘉納殿、年末に品川宿で数名の浪人共が騒動を起こした事件がございましたな、それがしは奴等の仕業と思っております。そこから推測出来ることは、江戸の南の外濠周辺に奴等の隠れ家があるような気がいたす」「成程、南なら品川に向かうに便利ですな、ここは伊庭殿の勘に頼って探索の輪を南に絞ってみますか」 主水が納得顔をしている。「嘉納殿、江戸の南には門前町が多い、まずは泉岳寺から増上寺までの古寺をシラミ潰しに当たってみて下れ」「我等の探索の落とし穴にござるな、早速、あの近辺を重点的に当たらせてみましょう」 主水の眼差しが炯々と輝いた。「その前に再び事件を起こしてくれるなら、もっけの幸いですがな」 求馬が薄い笑みを浮かべた。「だが、奴等の狙いがまったく分からないことが不気味に感じなれますな」 主水が求馬の顔を正面からみつめ、何か質問したいような顔をしている。「ご貴殿や町奉行所を攪乱する策とは思われませんか?」「奴等は半数を斃される犠牲を払ってまでも、一芝居うったと申されるか?」「目的を達成するための覚悟の犠牲とは考えられませぬか」 求馬がすばりと言った。「それだけ大物を狙っておると云うことになりますな」 主水と求馬がお互いの顔を見つめあった。 語りながらも胸の中に言い知れぬ不安が駆け巡っていた。「奴等の狙う真のお方とは何方じゃ」 主水が冷えた酒で咽喉を潤し腕組みをして考え込んだ。「嘉納殿、今回の首座殿の襲撃が陽動策としたら、何方が考えられます」 求馬が乾いた声で訊ねた。「それなれば御三家、御三卿、もしくは恐れ多いことながら上様のお命かと」 書院に一瞬、寒風が吹き抜けたような思いがした。「それとも幕府を倒す企みかも知れませんな」「なんと」 主水が思わず絶句し、見る間に顔面が紅潮した。「万一、それが狙いなら背後の黒幕は大層な大物となりますぞ」「嘉納殿、それがしに思うところがござる。そこを捜ってみましょう」 求馬が瞑目し、低い声で告げた。「面倒をおかけいたすが、よしなにお願いいたす」 主水が眉間にしわを寄せ、求馬の返答に応じた。 半刻後、求馬は痩身を寒風に晒しながら帰路についていた。 初雪が夜空から舞い落ち、見る間に路上を白一色におおい隠した。 雪のために屋敷町は無人のように物音ひとつしない、求馬は周囲を眺め道を変えた。ここを抜けると神田橋に出ることになる。刻限はまだ五つ半を少し廻った頃と思われる。 真新しい雪を踏みしめ、直ぐに神田橋に着いた。彼は躊躇なく神田橋御門に歩を進めた。 ここは数年前に田沼意次の上屋敷があった場所である、求馬は内濠をめがけ痩身を進めた。 この屋敷跡の裏、言い換えると西側一帯に一橋家の屋敷がある。 求馬が足を止め、一橋家の土塀を見つめた。塀の上にも雪が積もっている。求馬の痩身が躍りあがり、土塀を飛び越え屋敷の庭先に降り立った。 彼は屋敷の裏手に廻り、屋根裏に侵入した。凍みるような寒気が襲ってくるが、隠密として鍛えた求馬にとっては、なんの妨げにもならない。 何故、この屋敷に侵入したのかは自分でも分からない、衝動的な行動であった。自然に躰がそうさせたのだ。 流石に御三卿の屋敷だけはある、立派な門扉が眼についた。そこには家紋がない、それが御三卿の特徴であった。 求馬は屋根裏の太い梁を伝って奥へ奥へと進んでいた。 「嫌じゃ」 突然に若い娘の甲高い声が聞こえた。 天板のすき間から視線を落とした、求馬の頬に苦い笑いが刻まれた。 部屋の主は、まごうことなく一橋治済であった。豪華な衣装をまとい、膝の上に若くて美貌な娘を抱きかかえていた。「お佳世、わしを焦らすでない」 治済は孫のような年頃の娘の衣装の裾を割って、手を差し入れている。その度に娘は喜悦の声を洩らし、身を揉んでいる。「ここが、お佳世には心地よい筈じゃな」「うん」 こっくりと肯いた娘の顔を観た求馬が内心で唸った。稀なる美貌をもった娘である、気品にあふれこの世の人とは思えぬ臈(ろう)たけた顔立ちで治済の成すままに肉体をいたぶられている。 その娘の美しい眸子が虚ろに見えた。影の刺客(1)へ
Oct 26, 2011
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「影の刺客」(46)「藩士の方々の死骸を改めさせていただく」 主水は闘死した藩士の死体を詳細に調べた、以前はかなり腕が落ちたと感じたが、それらと比べ斬り口が格段に凄味をみせていた。{また新手を加えおったか) それが主水の直感であった。「厄介な事件じゃ」 主水は死骸の検視を終え、定信に結果を報告し屋敷を辞した。 既に武家屋敷は夜から夜明けを迎える刻限となっおり、屋敷の門前には小者が、箒で道を清める姿が散見される。「根岸、伊庭殿と繋ぎをとってくれえ」 屋敷に戻り下馬するや、主水が用人の根岸一馬に命じた。「畏まりました」「今宵の七つ半(午後五時)以後におこし頂け」 その日の暮れ六つ(午後六時)まえ、孤影がうっそりと日本橋を背に北の駿河台へとむかっていた。それは伊庭求馬の姿である。 目の前に越後屋呉服店の大きな店舗が、赤々と灯りを点し新年の商いに余念がない。店の前には着飾った女達が店先から商品の値踏みをして騒めいている。 一方、新年の仕事を終えた職人等が急ぎ足で家路に急いでいた。 この日本橋を中心として南の京橋までの往来が、江戸の目抜き通りとして知られている。辻駕籠が軒下で客待ちをする姿が見えた。 豆腐売りの振売りが桶を前後にゆらし、駈け去ってゆく。 火除け地の傍らには辻売りの、稲荷寿司を商う店が店開きをしている。 そんな喧噪をぬけ、孤影は神田駿河台の武家屋敷に踏み込んだ。 昨夜の事件は瓦板や読売で承知しいた。 道の両側の屋敷が豪壮な門構えに変わってきた。いずれも大身の旗本屋敷である。鬱蒼と繁った松や杉、欅などが夜空を覆い隠している。 求馬が足を止め、周囲に一瞥を与えた。これは彼の長年の習性である。そのまま脇門を軽くたたいた。 素早く門番が顔をみせ、求馬の痩身が嘉納屋敷に消えた。「お呼びだていたし申し訳ござらん」 髭跡の濃い顔の主水がいつもの席から声をかけた。「そろそろお呼びだしの頃かと心得ておりました」 求馬が応じ、主水の前に腰を据えた。 二人の前には膳部が置かれ、平目の刺身にカワハギの煮付けと小鉢物が並んでいる。用人の根岸一馬が自ら熱燗を運んできた。「ご造作をおかけいたす」 求馬が軽く会釈した。「何もござらんが、一献かたむけお話がしたいと思いお誘いいたした」「さらば遠慮のう頂戴いたします」 二人の独酌がはじまった。「首座殿の襲撃事件にござるが、何か分かりましたか?」「残念ながら、何も分からぬ有様にござる」 求馬の問いに主水が無念そうに事件のあらましを述べた。「曲者には変化がございましたか?」「藩士の死骸を検分いたしたが、斬り口が数段凄まっておりますな」「新手の人数を呼び寄せましたな」 求馬の疑問に主水が無言で肯いてみせた。「嘉納殿、我等の手で曲者の手練者を半数倒しましたが、それでも新手を加える力量をもつ黒幕の正体は何者でしょうな」「大目付として数々の事件に係りましたが、何者か見当もつきませんな」 二人は沈黙し暫し独酌している。「それに白河藩江戸家老の遠藤殿の話では、曲者は七名とお聞きいたした。遠藤殿は藩士三人一組として警備にあたっておったと申されたがの」「遠藤殿と言えば名うての遣い手ですな、それでもは藩士が八名もやられましたか」 主水が杯を干し肯いた。「嘉納殿、昔のことにござるが奥州にはあのような手練者の集団が居ることは耳にいたしたが、数年前のことにござる」 求馬が杯を手にし遠くを見る眼差しで呟いた。「伊庭殿、白河藩も奥州の地にあります。今回の集団がご貴殿の申された集団なら、何故、首座殿を襲いますかな?」「それがしにも解りかねます、だが、人数が増えたことは確かにござる」 求馬が主水の問いに思案顔で応じた。 その後、二人は一刻半(三時間)ほど事件について語りあった。「伊庭殿、なんの根拠もなくあれこれ推測しても無駄なことですな」「左様、警備には限界がござる。まずは奴等の巣を発見することが先決にござる、今までの探索の遣り方を考え直すことから始めましょう」 求馬が乾いた声で提案を口にした。「拙者は火付盗賊改方に江戸周辺の探索強化を命じましたが、これといった成果もござらん」「先日の山部美濃守殿の襲撃時に捜索の輪を広めるよう、天野監物殿に申しておきましたが、それも分からずじまいですかな?」「残念ながら」 主水が自嘲の声を洩らした。影の刺客(1)へ
Oct 25, 2011
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「影の刺客」(45) 二人が食後の煙草を一服しながら喋りあっている。「旦那、これからどういたしやす?」「やがて動く、それをわしは待っておる」 求馬の言葉になにやらひっかかるものが感じられる。「旦那、何か心配事でもありやすんで?」「奴等の狙いが首座殿か、それとも他にあるのかそれが読めぬのじゃ」「他とは何方です」「一橋治済殿じゃ」 求馬が驚くべき名を告げた。「大層な大物を狙っておりやすな」 猪の吉の顔つきが変わった。「どちらを狙うかにより、奴等の背後に潜む黒幕が知れよう」「それはどういう意味にございやす?」 求馬が嘉納主水から知らされた幕閣の動きを語った。「風聞とは申せ上様が父親の一橋治済さまを大御所に推すなんぞは、可笑しな話でありゃすな」「松平定信さまは反対なされておられと聴いておるがの」 求馬の話に猪の吉が反応を示した。「あっしの仲間が仕入れた話なんですがね、大奥の権力者は上様ご寵愛のお千代の方らしいですぜ。なんでも女好きの上様に何人もの女を取り持って大奥を支配していると嘆いておりやした」「何で嘆いておる?」「へい、そうした女達が首座さまの寛政の改革を無視し、贅沢な品を注文するそうです。それがばれれば首が飛ぶが、言いなりにならねば大奥の商いに支障がしょうじると言っておりやしたな」「お主の仲間とは誰じゃ」「大奥ご用達の小間物問屋の坂崎屋の番頭をしておりやす」「そうなると事じゃな」 求馬の双眸が細まった。「どういう意味でございやす?」「男とは女の睦言(むつごと)に弱い生き物じゃ。上様とて例外ではない」 それを耳にしたお蘭がクスリと鼻で笑った。「成程、松平定信さまは苦しくなりやすね。閨事での言葉を上様が本気で取り上げられると事は重大ですな」「上様に大奥、それに一橋治済殿の三者が結託すけぱ、治済殿の大御所に反対を唱える首座殿には、荷が重いことになる」「なにか良い手はありやせんかね」「我等に何ができる」 求馬が苦笑で答えた。 こうして年が暮れ、寛政五年(一七九三年)の年が明けた。新しい年を迎えた江戸の町は活況を呈しはじめた。新年の行事として、職人の仕事始め、商人の初荷、魚河岸の初売りが行われるのだ。 町火消の出初式が行われ、見物の人々でごったがえした。 一月七日は人日(じんじつ)である、この日は七草粥を食し人々は健康と節句を祝った。この日の深更に再び事件が勃発したのだ。 それはこともあろうに西の丸の老中首座、松平定信の屋敷が何者とも知れない曲者に襲われたのだ。 この日にかぎり火付盗賊改方の警護がゆるんでいた。だが屋敷内には白河藩屈指の手練者が警備をしていた。曲者は七名であったという。 彼等はいつもの黒覆面黒装束姿で突如、屋敷の主人の寝室を狙って忍び込んできた。 暗闇のなかで壮絶な闘いが始まり、半刻ほどで退散したが白河藩士の六名が斬り合いで闘死し、二名が重傷を負った。 曲者は寝所に入るを叶わず逃走したという。 その一報をうけた嘉納主水は、ただちに騎馬で駈けつけた。「主水か、この寒夜に大儀じゃ」「お怪我はございませぬか?」「藩士の守りが固くて助かった」 白練りの寝衣装に厚い綿入れの着物を羽織った、定信が篝火の火の粉を浴びて沈痛な表情を見せていた。「嘉納さま、ご苦労に存じます」 四十年配の鋭い眼差しの武士が現れ主水に声をかけた。 厳重な身形をした、白河藩江戸家老の遠藤又左衛門である。 小柄な体躯ながらも敏捷そうな印象をもった男である。彼は白河藩きっての剣豪で知られた腕をもっていた。 若い頃、江戸の斉藤弥九郎道場で神道無念流を学んだ男で、智謀もあり定信の信任の厚い家老であった。「遠藤殿、曲者をどう見ました?」「凄腕ぞろいの曲者にござった。それがしは警護の藩士を三名一組とし、屋敷の警備を行いましたが、無念にも八名の死傷者をだしました。それに引き際は見事の一言にござった」 遠藤又左衛門が無念そうに答えた。「ご貴殿も曲者と闘われましたか」「浅手を負わせましたが、逃亡され申した」 そうした会話の最中でも、強盗提灯を翳した藩士が屋敷内を巡回する様子が見られる。流石は白河藩士だけはある行動である。 影の刺客(1)へ
Oct 24, 2011
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「影の刺客」(44)「わしはいぬる、乙丑(きのとうし)そちは配下と共に甲戌の命に従え、反抗は許さぬ。さらぱ行け」 甲戌が無言で境内を駈け抜け、七名の男が足音を消して闇に消えた。 微かに錫杖の音が聞こえたが、それも途絶えた。「今度、失敗ったら己等の命はないものと知れ」 しわがれ声が風に乗って響いた。 一人残った男が網代笠を上向かせ闇の中を見つめた。ぞっとする鋭い眼をみせ、墨衣が怪鳥の羽のように闇夜に広がった。「わっ-」 境内から恐怖の悲鳴があがった。その辺りで眠っていた乞食が二名逃げようとした。墨衣の男が宙に躍りあがり、錫杖に仕込んだ刃が乞食の躰を十文字に奔りぬけた。 なんの感情もない非情な振る舞いであった。 悲鳴が夜空を震わせ血の臭いが漂った時には、網代笠の男の姿は消え失せていた。 あとは寂とした風の唸り声が聞こえるのみであった。「もしも、わたしが鶯ならば、主のお庭の梅の木で、惚れましたえ―たった一声聞かせたい」 風に乗って猪の吉の渋い声が流れてくる。 筑波おろしが大川を渡り、寒さがいっそう身に凍みる。「こりゃあ、綺麗だね」 お蘭の家の玄関にも門松が飾られていた。 足を止め暫く眺めていた猪の吉が、大きなくしゃみをした。「猪のさん風邪を引くよ、なかにお入りな」 お蘭が表戸から顔をみせ招きいれた。「今晩はでござんす。立派な門松ですね」「不景気を吹き飛ばす意味で大盤振舞いさ」 今晩もお蘭は小粋な衣装をまとっている。 玄関先で埃を払い、猪の吉が彼女の後ろ姿を惚れ惚れとみつめた。後ろ髪から襟元にかけての襟足がなんとも艶めかしい。「一人身じゃあ、眼の毒、気の毒、倅毒てな眺めですな」 小股の切れ上がった尻がまたなんともたまらない。「猪のさん、あたしのお尻がそんなに珍しいのかえ」「滅相な」「いつまで一人身を通すのさ、いい加減で女でも作りなよ」「師匠、おっしゃりますがね、あの小便長屋に女が来る訳がありやせんよ」「もっとましな長屋に住んだらどう、あんたは元大泥棒の頭だろう」「そいつは言いっこなし」 お蘭にけなされ、ほうほうの体で奥座敷に逃げ込んだ。 相も変わらず求馬は、ギャマンを填めた丸窓から夜の大川を眺めていた。その傍らに猪の吉が座った。「何か分かったか?」「全く動きがありやせんよ、江戸から去ったんではねえかと案じておりやす」「わしはそうとは思わぬ、奴等は機会を窺っておるのじゃ」 求馬が白面の横顔を晒し断言した。「猪のさん、今晩は久しぶり天麩羅(てんぷら)だよ」 お蘭が箱膳を並べ、つぎつぎと大皿に盛りつけられた揚げたての天麩羅を載せてくれた。「こいつは旨そうだ」「はい、一献」 お蘭の酌をうけ熱燗を飲み干した。五臓六腑に染みわたり猪の吉の顔がほころんだ。「冬はこいつに限りますね」 大皿には定番のサイマキ海老に、江戸湾でとれた魚介類と野菜の天麩羅が美味しそうな匂いを放っている。「猪のさん、一人身では漬物も食べれないだろ。昨日、漬けた浅漬だよ、薄かったら醤油でもかけておくれな」 丼に白菜、大根、人参の浅漬けが彩よく盛り付けられている。「こいつはいいね」 猪の吉が心から嬉しそうに箸をつけた。 求馬と猪の吉がお蘭の酌で黙々と飲み食いしている。 それを眺めるお蘭が顔をほころばしている、何時も二人だけの食事では飽き足りないのだ。威勢のよい猪の吉が混じると、夕餉も一層美味しく感じられるのだ。「喰った喰った、もうあっしは満腹寺だ。師匠、酒だけは飲めやすから」 猪の吉の剽軽な声に促され、空の大皿をもってお勝手にむかった。 あれだけの天麩羅をぺろりと食べた、二人の食欲に呆れながらのことであった。影の刺客(1)へ 明日はお休みいたします。
Oct 22, 2011
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「影の刺客」(43)「定信、良くぞ余の浅はかな考えを諫言してくれたの、礼を申すぞ。危うく親不孝の汚名をきるところであった」 家斉が真摯な顔つきで礼を述べた。「勿体ないお言葉に存じます」「余の今の言葉は独り言と思うてくれ、余もこの話を忘れる」「ご賢明なる決断、定信、恐れ入ってございます」 定信が家斉をみつめ莞爾(かんじ)とした笑みを浮かべた。「上様は名君におなりなされ、定信は先が楽しみにございます」「よう申した。余の一時の迷いを許せ」 定信は心穏やかに御座の間を辞し、御用部屋へと足を急がせた。「首座殿、いかがにございました」 加納久周が廊下の途中で待ち受けていた。「加納殿、一応は納得を頂いたが背後には治済殿が居られる、上様の御威光をかさに何事か画策するやも知れませぬ、その動きがありましたら、それがしにお知らせ願いたい」「畏まりました」 側用人の加納に見送られ、御用部屋の座布団に腰を据え、定信は沈黙しもの思いにひたった。(早いうちに手をうたねばならぬな、治済殿は御三家、御三卿を己の支配下におさめられる腹かもしれぬな) そうした思いが脳裡をよぎった。定信の危惧は的を得ていたのだ。 治済の反撃はすぐに始まった。家斉の愛妾、お千代の方への働きかけを始めたのだ、その橋渡しとなった人物が中野清茂であった。 彼はこの頃から名を改め中野磧翁(せきおう)と称していた。 大奥から陰湿で不穏の動きが始まったのだ、お千代の方は家斉の女好きに乗じ、数名の美女を家斉に近づけた。 家斉は生涯に四十数名の愛妾を持っことで名を轟かすが、お千代の方の計画にまんまと乗せられた。 お千代の方はこれにより、大奥を支配する絶対的な権力を得たのだ。愛妾となった女達は、こぞって定信の寛政の改革を批判した。 寛政の改革とは田沼意次の放漫な賂(まいない)政治からの脱却を目指したもので、財政緊縮策と奢侈の禁止であった。その影響は大奥まで及んでいた。大奥の女達も奢侈を禁じられ大いに不満を募らせていたのだ。 定信は老中首座として幕政の要としてのお勤めと、若年の家斉の将軍補佐役を兼ねていた。 その家斉の成人の日が徐々に近づいいたのだ。 師走の未(ひつじ)の二十八日には、門松飾りが江戸の町を彩っている。 数日で新年を迎えるために人々は心を浮き立たせていた。 その日の四つ半(午後十一時)頃、雑司ヶ谷の北にある鬼子母神の近くの古寺に、得体の知れない男達が秘かに集結していた。 この一帯は欅の古木や大銀杏並木におおわれ、人気のまったくない場所であった。境内の鐘衝堂の横に七名の男がうずくまっていた。 いずれも網代笠(あじろがさ)を被り、墨衣をまとい錫杖(しゃくじょう)を手にしている。風が銀杏並木を揺らして吹きぬけた。 群れの中央に一人の男が立ち上がった、墨衣が風に煽られている。「甲戌、報せをうけて参上した」 しわがれた不気味な声が流れた。「頭領、申し訳ございませぬ」「三十名の手練者が半数も討たれしか?」「拙者の落ち度にございます」「聴けば嘉納主水の下で元公儀隠密の手練者の伊庭求馬なる男がおると訊く」「庚牛も奴の手にかかり果て申した」 甲戌の無念そうな声が風にのって流れた。「わしは乙(きのと)組の六名を連れて参った。今からそちの配下じゃ。今度はぬかるでない」「畏まってございます。伊庭求馬の命も奪いますか?」「忘れるでないぞ、我等はこの時のために営々と武を研いてきたのじゃ。犬死にのためではない、何故、松平定信が屋敷を襲わぬ」「年内に屋敷を襲い、定信を亡き者にいたします」「誰が殺せと命じた」「はっ?」「甲戌、定信はまだ殺してはならぬ、我等には利用価値がある。屋敷を襲い家臣共の命を数名絶つのじゃ、それを終えたら一橋治済の命をもらい受けよ。これがわしの下知じゃ」「何故にございます?」 甲戌が驚きの問いを発した。「質問はならぬ、これが我等の刺客道の勤めと心得よ」「畏まりました」 またもや銀杏並木を突風が吹きぬけ、小枝を揺らしていった。影の刺客(1)へ
Oct 21, 2011
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「影の刺客」(42) (八章) 江戸城の中心は本丸である。そこは将軍の日常生活の場であり、幕府の政務を司る場所でもあった。 本丸には三つの顔があった。ひとつは政事を執行する表の場所と、将軍が政務をみめ中奥、御台所を中心とする大奥の三区画に分けられていた。有名な西の丸は大御所と将軍世子の生活する場所であった。 老中や若年寄の執務する御用部屋は、将軍が政務を行う中奥の間に近い場所にあった。 御用部屋は寂として声もなく、それぞれの月番の老中が書類に眼を通している。中央には首座の席があり、松平定信は重要書類を前にしていた。 「首座殿、上様がお呼びにございます」 将軍家斉の側用人の加納久周が、緊張した顔で訪れてきた。「何かの、直ぐに参るとお伝い下され」 素早く身形をととのえ、ゆったりとした足取りで御用部屋から御座の間に近づいた。「首座殿、本日は難問を申されますぞ」 御座の間の近くで待ち受けていた、側用人の加納がひっそりと声をかけた。「難問とな」「左様、上様は一橋殿を大御所にするお考えにございます」「なんと、治済(はるさだ)殿を大御所に為さるつもりか?」 柔和な顔つきの松平定信の顔が曇った。「いかが為されます」「断じて許すことは出来ませぬ。加納殿、お心配り恐縮に存ずる」 定信が礼を述べ御座の間の前に片膝をつき名乗った。「上様、松平定信にございます」「定信か、入れ」 定信が小腰をかがめ、するすると御座の間に身を入れた。上座には十一代将軍の家斉(いえなり)の若々しい顔が定信を見つめていた。 なにやら緊張した雰囲気を醸している。「もそっと前に参れ」「御免こうむります」 臆する様子もみせずに定信が家斉の前に座った。 二人は暫く四方山話に花を咲かせた。二人とも八代将軍の吉宗公の血筋を引く親戚同士である。「定信、これから話す言葉は余の戯言(ざれごと)として聞いてくれ」 家斉が顔を引き締め定信を見つめた。「はて、上様はなにか重大なことを仰せになられますか?」 定信が扇子で太腿を軽くたたいた。「西の丸に父上をお迎えしたいが、定信の意見はどうじゃ」「父上さまとは一橋治済殿にございますか?」「左様じゃ」 家斉が緊張を顕にみせ定信の返答を待っている。「それがしも昔は治済殿と同じ御三卿の出にございました。御三卿のお勤めは徳川家の血筋を絶やさぬことが目的にございます。それ故に御三卿が作られ申したが、政事に関与せず、これが掟にございます」「・・・・」 孝心の厚い家斉が苦々しい顔をしている。「治済殿を西の丸にお入れ申すと言うことは、大御所に為って頂くと言う意味にございます。これは上様のお考えにございますか?そのような徳川宗家の仕来りを破る暴挙は、断じてなりませぬ」 定信が腹の底から威圧するような声をあげた。「そのような事は知っておるし、考えてはおらぬ」「上様の孝心の厚さはこの定信も承知いたしております。が、西の丸の件や大御所の件は、治済殿もご辞退いたす筈にございましょう。押して西の丸にお迎えするお考えならば親不孝と申すものにございます」「そちは老中首座としての意見を述べておるのか?」 家斉が険を含んだ眼差しで訊ねた。 定信は柔和な視線を家斉に当て自説を述べた。「それがしは田安家に産まれ、今は白河藩十一万石の養子の身にございます。幸い上様の覚えめでたく老中首座の要職に就いております。これはとりもなおさず、御三卿の身分を外れたことを意味します」 定信は老中首座としての意見と暗に述べたのだ。「しかしながら徳川家の血筋を引く者といたし、上様のお考えには賛成出来ませぬ。上様が将来、将軍職を辞し大御所さまにおなりになるのは大賛成。これが徳川家の仕来りにございます」「将軍でない者は西の丸に入ってはならぬと申すか?」「御意に」 松平定信が平伏した。 重苦しい雰囲気が御座の間に漂い、家斉が何事か思案している。 暫く沈黙が続いたが、思いのほか明るい声が返ってきた。 定信が平伏したまま顔だけを上向けた。影の刺客(1)へ
Oct 20, 2011
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「影の刺客」(41)「女、わしの物を銜えろ」 甲戌の言葉に相方の女が驚いた顔をした。あれだけの騒ぎを起こしたにもかかわらず、男根が隆々と首をもたげて脈打っている。「旦那っ」 喜びの声をあげ、女が大きく下肢をひろげ男根を飲み込んだ。 最早、一匹の雌である。「亭主、目障りじゃ。死体を放りだせ」 甲戌が女の腰に手を添い、腰を揺すりながら命じた。「へい」 亭主が驚いて使用人に命じ、旅籠の男共が死骸をひきづり部屋から去った。わっと下卑た笑い声が沸き起こった。「ああ-」 甲戌が女の秘所に精を放出したようだ、女が歓喜の声を洩らした。 そのままの姿勢で、「皆、今夜の余興は終わりじゃ。すぐに町方が現れよう、我等に非はないが痛くもない腹を捜られるのも面倒じゃ」 女共が未練そうに座敷から去った。 男達は身繕いをととのえ車座となって酒を飲みだした。「御免なすって」 四半刻ほどたった頃、四十才ころの眼の鋭い十手持ちが姿をみせた。「わっちは品川宿を与かります、目黒の鉄蔵と申しやす。先刻、この座敷で二人のお侍が斬られなすったと聞いて出向いてまりやした」 襖の翳には数名の手下が潜んでいる気配がする。「詳細は、この屋の主人から聴いてもらおうか」 甲戌が大杯を干し言い放った。「ご浪人さまには何の落ち度もないとおっしゃるんで」「左様、突然に大刀を持って乱入いたしたので是非もなく斬り捨てた。嘘と思うなら女共と主人から聴くのじゃな」「失礼ながら、既に事件のあらましは承知いたしておりやす。お前さまがたはどちらからお出でになられやした」「我等の素性改めかな」 甲戌の体躯から炎のような殺気が吹きあがった。 目黒の鉄蔵が慌てて眼をそらした。「親分、我等に非があるような吟味はすておけぬ」 甲戌と鉄蔵の視線が火花を散らし、鉄蔵が視線を外した。「折角のお楽しみを邪魔をいたし、申し訳ありゃせんが、役目柄お訊ねいたしゃす。どちらに行かれます」「江戸では面白い儲け話がない、我等は明朝この屋を去り京に向かう。面倒はかけぬと誓っておこう」「分かりやした、江戸の別れの晩をゆっくりと楽しんでくだせえ」 鉄蔵が廊下に出て手下を連れて去った。 その晩の深更、一行は忽然と姿をくらました。 目黒の鉄蔵が地団駄踏んだことは言うまでない。 この一件が翌日、町奉行所と火付盗賊改方にもたらされた。 特に火付盗賊改方は敏感に反応した。 頭の河野権一郎は、天野監物と若山豊後を呼び出し、品川宿で起った事件を詳しく述べた。「あの曲者の残党ですな」「天野、おめえもそう思うか」「人数といい腕の冴えといい奴等に相違ありませんね」 不精髭の天野監物が顎をさすり断言した。「天野さん、奴等は江戸を離れたのでしようか?」「豊後、分かんねえよ。江戸に戻ったのか、ほとぼりの醒めるまで江戸から離れたのか」「両人、いずれにせよ警戒を厳重にいたせ」「お頭、伊庭さんの申されたように警備の輪を広げましよう」 天野監物が進言した。「西に眼をつけさせるために組頭さまを襲ったなら、もう一度洗い直す必要がありますね」 若山豊後が思案顔をしている。「おめえ、何か臭うのかえ」「我等は江戸の東と北を重点的に探索しましたね、ところが伊庭さんは南の永田町や、西の四谷に眼を向けられました」「そうじゃな、北は神田橋周辺で東は深川じゃ。それに今度は西の四谷か」「本格的に手を染めていない場所は、江戸の南ということですね」 若山豊後の言葉に天野監物が鋭い眼差しをした。「おめえ達二人は南を捜ってくんな、あとは手分けをし探索の輪を広げる」 河野権一郎が断を下した。「配下は何名にございます?」「天野、人数が不足しておる。南は二人であたってくんな」「えらいとばっちりだぜ」 天野監物と若山豊後が寒そうに、首巻姿で赤坂溜池を横目にみて赤坂御門から外濠に沿った田町を東に向かっていた。 外濠の対岸が永田町である。「天野さん、何か考えがあって南に向かうのですか?」「馬鹿め、美味くて安いうどん屋を見つけたのさ」 二人は筑波おろしをまともに浴び、腹ごしらえのために道を急いだ。影の刺客(1)へ
Oct 19, 2011
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「影の刺客」(40) 癸巳がもどったのは昼の八つ半(午後三時)頃であった。「どうであった?」 甲戌の問いに癸巳が顔を歪ませ無念さうに報告した。「矢張りお頭の推測どおりにございました。山部邸に押し入ったところに、伊庭求馬が現れたようにございます」「・・・」 甲戌が眼を光らせ天井を仰ぎ思案している。「伊庭を襲いますか?」「いや、我等は頭領の命ずる仕事をこなす。邪魔をすれば相手となるが、あくまでも刺客道をつらぬく」 この男達の刺客道とは、請け負った仕事をやり遂げるということであった。 その日の夕刻、甲戌は宿の亭主を呼び出した。「何事でありましょう」 甲戌をはじめ宿泊の男達は、いずれも一筋縄ではゆかない雰囲気を醸しだしている。目前の甲戌はさらに獰猛で冷たい眼をした男であった。 亭主が不安顔で訊ねた。「今宵は大いに遊びたい。酒肴の用意と良き女子を十名頼む」「貸切にございますか?」 亭主が狡猾そうに甲戌をみつめた。「そうじゃ」 亭主の前に小判が十枚投げ出された。「承りました」 亭主がほくほく顔でもどって行った。 大広間でどんちゃん騒ぎがはじまった。女の嬌声と笑い声が響き、男等のだみ声が混ざりあっている。「酒が足りぬ」「そこの女、わしの側にこい」 続き座敷の武士があまりの騒がしさに眉をひそめている。 数人が女と媾合(まぐあい)ながら酒を飲んでいる。女達も異様な空気にのまれ、全裸となり男の男根を口に含み、淫靡な姿態をみせている。 頭の甲戌は上座に腰を据え、女を抱えて杯を干していた。 女は衣装をはだけ太腿をひらき、甲戌の太い男根を秘肉の奥まで銜えこみ、嬌声を洩らし腰をゆすっている。 その度に女の愛液に濡れた一物が見え隠れしている。 そうした獣に等しい行為が大広間の至る所にくりひろげられていた。「女、代われ」 交代で女を変えて楽しむ者もいる。全ての男が眼をぎらつかせ媾合、酒をあびている。明日の命のない男が欲望を吐き出しているのだ。「もう、我慢ができぬ」 隣の座敷から二人の武士が大広間の襖を開け眼を剥いた。 こうこう真昼のような灯りの下で、破廉恥をとおりこした獣の宴が二人の武士の前に演じられていた。「恥を知らぬか」 武士の一人が顔を赤らめ大声を張り上げた。「なんじゃ、お主等は」 女の乳房に顔を埋めていた一人がニヤケ顔をあげた。「これが武士のすることか、うるさくて叶わぬ」「お主も抱いてみるか、ほど良い女陰(ほと)をしておるぞ」 男が女の乳房を揉み、ニヤリと凄味のある笑いをうかべた。「愚弄いたすか、このような獣の振る舞いは許さぬ」「黙れ、我等の遊びの邪魔をするつもりか?」 肺腑をえぐるような声をあげた甲戌がゆらりと立ちあがった。「貴様がこの場の頭か?」 隣室の武士の一人が、怒り声をあげた。「そうだとしたらなんとする」 甲戌が着物前をはだけ、隆々とした一物を晒しながら近づいてきた。長身の体躯から殺気を立ちのぼらせた無腰の姿である。「大刀を取れ」 二人の武士が不気味な雰囲気に襲われ声を荒げた。「そのような腰の据わりでは人が斬れるか」 甲戌の揶揄いに一座の男女が腹をかかえ笑い声をあげた。「許さぬ」 声と同時に白刃が甲戌めがけ振り下ろされた。 交わったままで女達が恐怖の声をあげた。 甲戌の躰が二本の大刀を潜りぬけ、二人の武士の背後に廻りこんだ。それは瞬時の出来事であった。「ぐっ」 苦悶の声を発し武士の躰から血潮が噴きあがっている。 甲戌の手には脇差が握られている、すれ違いざまに相手の脇差を抜き取り、二人の武士の脇腹を斬り裂いたのだ。 どっと朽木のように武士が畳に転がった。 甲戌にとっては児戯に等しい業であった。 騒ぎを聞きつけ亭主が駈けつけ、その場の光景を眺め腰をぬかした。「亭主、この二人は無腰のわしを殺そうとした」 甲戌が血塗れの脇差を放り投げ、己の場所にもどり酒をあおった。「わしが嘘を申したかどうかは、ここの女共に訊ねてみよ」 番頭や小間使いの者が集まり、死体となった二人の武士を見つめた。誰の眼からも血濡れた脇差が二人の武士の持ち物と分かる。 影の刺客(1)へ
Oct 18, 2011
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「影の刺客」(39)「お見事にございます」 若山豊後が興奮の叫び声をあげた。 血糊を拭った懐紙が舞い上がり、四谷左門町の夜空に散った。「猪の吉、死体を改めてくれ」「合点で」 猪の吉が火を点し死体を改めている。「伊庭殿、また助けて頂きましたな。感謝を申しますぞ」 山部美濃守が丁重に挨拶をした。「何も申されますな、それがしの勤めにござる」 求馬が乾いた声でさえぎった。「旦那、この男は六間堀で相手をした男です。刺青は庚午で、もう一人は癸亥の刺青が彫ってありゃす。暗殺が成功したら身を隠すつもりのように思われますな」「・・・」 求馬が猪の吉に視線を移した。「切餅一個を持っておりやす。内藤新宿でも逃げ込む魂胆のようですな」 猪の吉が切餅を求馬に放った。 天野監物が傍らに寄り声をかけた。「なんでこの曲者が組頭殿を襲うと思われました?」「天野さん、これら曲者の仲間は江戸のどこかに隠れております。奴等がご貴殿等に一泡吹かせる積りで山部美濃守さまを襲うと推測いたしたまでにござる。それ故に猪の吉と平河天神で見張っておりました」「左様にございましたか、奴等は何処に隠れておりましょうか?」 天野監物が求馬の勘の良さに感心して訊ねた。「それがしの関与すべき問題ではござらん」「それは」 天野監物が声をつまらせた、言われてみればその通りである。 このお勤めは火付盗賊改方が行わねばならぬことであった。「探索の輪を広めなされ。奴等はご貴殿等の動きをよんで動いてござる」 求馬が天野に乾いた声でつげ、猪の吉に顎をしゃくって去っていった。「天野の旦那、あっしも失礼いたしやす」 猪の吉が挨拶の声を残し、求馬の跡を追って闇に消えた。 (七章) 品川宿は日本橋を起点とし東海道の一番目の旅籠町として大いに栄えていた。目黒川を挟んで南品川宿と北品川宿とに分かれていた。 旅籠の数は一千六百軒といわれ、江戸の吉原か品川宿かと比較される一大遊興の地として知られていた。海辺よりには貸し座敷が軒を並べ、造りが土塀造りのために土塀相模と呼ばれていた。 その一角にある岡崎屋に十一名の男達が宿泊した。 彼等は十五畳ほどの座敷を貸切とした、座敷から見る江戸湾は青黒い海にに白波が荒れ狂い、寒々とした光景を見せつけている。 目前には品川灯台が浮かび、遥か先には佃島が霞んで見えた。 彼等は冷酒を数杯のみ、直ぐに眠りについた。 朝の五つ半(九時)に威勢のよい読売の声で目覚めた。「大変だよ、お江戸はたいそうな騒ぎだよ。町奉行所にならんで治安を守る、火付盗賊改方長官の山部美濃守さまが昨夜襲われなすったよ」 一同が起き上がって耳をすました。「さあ買ってくんねえ、詳しく書いてあるよ。なんせ長官の山部さまのお屋敷が襲われなすった、さあ買ってくんな」 売り子の興奮する声が聞こえてくる。「曲者は二人だそうだ」「それでどうした」 客の声もする。「曲者は首を刎ねられ即死だそうだ、さあ買ってくんな」「お頭、庚午め失敗したようですな」 配下が一斉に甲戌の顔を見つめた。「火付盗賊改方なんぞに敗れる庚午ではない、さしずめ伊庭求馬が現れたに違いあるまい」「どういたします?」「一晩泊まって様子をみる。癸巳(みずのとみ)、火盗改方を捜って参れ」「畏まりました」「三十名おった者が十一名となった。我等は明日、再び神明門前町に戻る。頭領のご指示を仰がねばならぬ」 甲戌が鋭い眼差しで一座に申し渡した。「お叱りがきつうございますな」「仕方があるまい。己未(つちのひつじ)、貴様が知らせに走ってくれ」 指示を与えた甲戌の背筋に、不意に戦慄ば這いのぼるのを感じた。「皆、今宵は憂さ晴らしに女を抱き大いに飲むぞ」 甲戌はすでに平静にもどっていた。影の刺客(1)へ
Oct 17, 2011
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「影の刺客」(38)「おのれ」 庚牛が罵りの声を洩らし、構えを変え攻勢に転じようとした時、眠りのなかに静まっていた、四谷町一帯に半鐘の音が響き渡った。「曲者か」 山部美濃守の屋敷からどっと家臣が繰り出し、付近の火付盗賊改方の面々もおっとり刀で飛びだしてきた。 庚午が覆面ごしから、血走った眼で周囲の様子に眼を走らせた。「最早、無駄な足掻きじゃ」 求馬の声に、「伊庭、驕るな、まだ勝負はついてはいない」 庚午が冷酷な声で応じた。「あそこじゃ、黒装束の男が曲者じゃ」 山部美濃守の家臣が駈けつけ、庚午の周囲を包囲した。「こなくそっ」 家臣なかの二人が無謀にも攻撃を仕掛けた。 庚午が無造作に大刀を振るった、血潮を噴き上げ二人が地面に倒れた。「手強いぞ」 その早業をみた一同が、どっと包囲網を広めた。「手出しは無用にござる」 求馬が冴えた声で止めた。「伊庭殿か?」 廊下に山部美濃守が大刀をさげて現れ、驚きの声を洩らした。「貴方さまを暗殺せんと襲って参った曲者の一味にござる」 求馬が山部美濃守の前に立ち、庚午を牽制しつつ事情を説明した。「わしを火付盗賊改方の組頭と知っての狼藉か?」 山部美濃守の問いに、庚午が野太い声で応じた。「貴様を暗殺し江戸の町を恐怖におとしめようとしたが、伊庭に邪魔をされた」「小癪な、皆共、こ奴を逃すな」 山部美濃守の下知で火付盗賊改方の猛者が周囲を厳重に固めた。 一同に交じって天野監物と若山豊後も姿をみせていた。「天野さん、伊庭さまの秘剣が見られますね」 若山豊後が興味を示し、天野監物に語りかけた。 包囲網の輪の中に求馬と庚午の二人が対峙している。剣鬼と化した庚午が軽々と片手上段の構えで佇んでいる。 求馬はそれを受け、左下段の位に村正をつけた。切っ先が地面れすれである。求馬が半眼でじりっと間合いをつめ始めた。 求馬の黒羽二重の裾が風に煽られている。 庚午も求馬の接近に応じ、求馬の刃圏に一歩踏み込んできた。 吹き上がる殺気を感知した、火付盗賊改方の背筋に戦慄が奔った。「おう―」 獣の咆哮をあげた庚午が求馬の右肩を狙い、袈裟斬りを送りつけた。 それに応じ村正が生き物のように下段から上段に跳ねあがり、相手の大刀を弾き飛ばし、庚午の頭上を空竹割にすべく素早い一颯を繰り出した。受ける太刀と攻める太刀が白い光芒を放ち交差した。見事に二人は相手の業を封じてみせたのだ。二人の位置が完全に変わり間合い二間となった。「天野さん、二人とも遣りますね」「豊後、静かにしなよ」 二人の視線の前で再び間合いが詰まるのが見えた。 お互いの切っ先が触れんばかりに接近し、庚午が求馬の痩躯を水平に右から左に大刀を奔らせた。 黒羽二重の裾をあおらせ求馬は、庚午の大刀の上に身を躍らせた。 求馬の足の下を白い光芒が奔りぬけた、求馬は腰の脇差を手裏剣のように放った。脇差がが唸りながら庚午の胸板を襲った。 予期せぬ攻撃をうけ庚午が無意識に大刀で払い落とした、その僅かな隙を見逃さず、村正が上段から必殺の勢いで振り下ろされた。 右肘を上にむけ受け流した庚午の横腹が無防備となた。 求馬は着地と同時に渾身の力を込め、庚午の脇腹を水平に薙いだ。村正の切っ先が庚午の躰を強かに斬り裂いた。 苦痛の声を洩らした庚午の脇腹から、血潮が噴きあがっている。 求馬は血濡れた村正を正眼とし、苦悶する庚午の姿を見つめている。「地獄に逝くがよい」 乾いた声を浴びせ、仁王立ちとなっている庚午に対し、求馬が片手なぐりの一颯を浴びせた。庚午の首が血の帯を引いて闇夜に舞い上がった。 地面に首が落下すると同時に、庚午の巨体が地響きをたて崩れおちた。「おう―」 瞬間、見守っていた面々から太い吐息が洩れた。影の刺客(1)へ明日はお休みします。
Oct 15, 2011
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「影の刺客」(37) 覆面姿の武士が足音もなく古寺から去った。残った男達が気配を消し、頭領の甲戌のまわりに集まった。「お頭、誰が山部美濃守を殺ります?」「それはお前の仕事じゃ。庚午(かのえうま)、深川では辛組を全滅させ、お前の庚組も残りはお前一人となった。失敗は許さぬ、癸亥(みずのとい)を連れて行け」 庚午とはこうごのことで、癸亥はきがいの呼び名であった。「山部美濃守の暗殺に成功したら、繋ぎがあるまで内藤新宿に隠れておれ」 頭領の甲戌が切餅一個を放り投げた。「癸亥、行くぞ」 二人が同時に円座から立ち上がり、筑波おろしの吹きまくる暗闇に消えた。「頭領、二人で大丈夫かの」「心配はない、庚午は我等の仲間でも最強の男じゃ。我等は品川に走る」 十一名の男が煙のように古寺から消え去った。 容赦もなく筑波おろしが吹き付けるなか、黒装束の二人が東にむかって疾走している。 闇に鬱蒼と繁る樹木に覆われた杜があらわれた。平河天神である。「旦那、図星ですぜ。現れやしたよ」 杜に姿を隠しているのは、求馬と猪の吉の二人であった。「矢張り現れよったか」 黒装束の二人が平河天神の前の道を足音を消して駈け去った。 求馬と猪の吉が素早く跡を追った。 男等は麹町七丁目から九丁目へ抜け、四谷御門を渡って行く。「旦那、奴等は何処に行く積りでしょうな?」「このまま進むと四谷塩町に入るの」 二人は執拗に追跡を続けた。「猪の吉、奴等は四谷左門町の御先手組の組屋敷を襲うかもしれぬな」「なんですって」 猪の吉が驚きの声をあげた。 黒装束の二人は闇夜のなかを疾走し、力を緩めない。このまま進むと、田安家の別邸に近い四谷の大木戸に至るのだ。「野郎、止まりやしたぜ」 二人が物陰に身をひそめ黒装束の二人の行動を凝視した。「猪の吉、狙いは火付盗賊改方の山部美濃守殿のお屋敷じゃ」 求馬が闇の先を見つめ低く呟いた。「これは迂闊でした」 二人の視線の前に広大な屋敷が静かに建っている、尾張大納言五十四万石の上屋敷である。 その周囲に在住する御家人は極貧の下級武士であった。辺りは灯火を消し、暗黒の世界となっている。 黒装束の男が山部美濃守の屋敷に音もなく姿を消した。「猪の吉、お主は火の見櫓(やぐら)に昇り半鐘を打ち鳴らせ」「旦那は?」「わしは山部殿の屋敷に駈けつける」「合点承知」 猪の吉が敏捷に火の見櫓に駈け寄っていった。 それを横目に見て求馬が着流しの裾を翻して山部邸にむかった。 刺客の二人が足音を忍ばせ、屋敷の周囲を探り人気のないことを確認している。「癸亥、格子戸を開けよ」 庚午が命じ大刀の柄に手を添えて庭先に片膝をついている。 癸亥がなんなく格子戸を外した。覆面の二人がニヤリと眼を光らせた。「そこまでにいたせ」 唐突に冷めた声を浴びせられ、二人が躰を反転させ身構えた。 庭の翳に着流しで痩身の浪人がうっそりと佇んでいる。「貴様は伊庭求馬か?」「深川六間堀では、ようも逃げ遂せたものじゃ」 庚午と癸亥が抜刀し、求馬の痩身を前後から挟み包囲した。 庭先に殺気が充満し、頭分の庚午が大刀を正眼に構え、一方の癸亥は上段に構えをとっている。「貴様等の背後に居る者は一橋殿か?・・・それとも中野清茂か?」 求馬が挑発するかのように言葉を投げかけた。「伊庭、貴様に何が解る」 庚午が正眼の構えを崩さず摺り足で接近を始め、間合い三間で二人が対峙した。癸亥が己を犠牲とする必殺の構えとなった。 静かな闘いの最中に突風が吹き抜けた。 無言の懸け声とともに庚午が猛然と攻勢に出た、一閃、二閃と猛烈極まりない攻撃である。村正が下段から跳ねあがりことごとく受け流した。 それを待ち受けていた癸亥が背後から、求馬の痩身を両断すべく上段から受け太刀のない、凄まじい一撃を浴びせてきた。 求馬は軸足を回転させた、刃がすれすれに求馬の躰を奔りぬけた。それと同時に村正が生き物のように伸び、癸亥の左脇腹を存分に斬り裂いた。苦痛の声を堪えた癸亥の頭上に、村正が円弧を描き振り下ろされた。 癸亥が本能的に躱そうしたが、求馬の力量が勝り頭蓋から胸元まで両断され脳漿を噴き上げ、凍った大地に倒れ伏した。影の刺客(1)へ
Oct 14, 2011
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「影の刺客」(36)「嘉納殿、なぜ首座はあのような話をされたのでしょうな」 求馬が主水に問いかけた。「拙者も治済さまが大御所にせよと上様に迫られたことは耳にしております。それに反対されたのが首座殿、あくまでも風聞にござる」 主水が幕府の極秘を語った。「嘉納殿、あの穏健な首座の命を狙う目的は、案外とそのあたりにありそうですな」 嘉納主水が太い腕を組んで考えこんだ。「それがしが内密に捜ってみましょう」「有難い、伊庭殿、一橋治済さまの近辺を洗ってくれますか?」 主水が嬉しそうに訊ねた。「承知にござる。上様は女好きと聞いておりますが、本当にござるか」「無類の好き者にござる、父親の治済さまに似たのでしょうな。徳川家にとっては喜ばしきことにござるが、いささか度が過ぎておりますな」 主水が苦い顔をした。「ご愛妾の方はおられますか?」「御台所さまは薩摩の島津重豪(しげひで)さまの姫さま、今の大奥で一番の権力者は愛妾のお美代の方さまにござる」「成程、幕臣の中野清茂殿の養女にござるな」「左様、なかなかの女狐と聴いております」 主水が苦虫をかみつぶしたような顔で答えた。「中野清茂殿の屋敷は何処にござる?」「西久保下谷町にござる、外濠に近こうござるな」「永田町に隣接していますな」 求馬が冷えた杯を飲み干し膳部に置いた。「ご馳走になりました、それがしはこれにて失礼いたす」 求馬が腰をあげた。「待たれ、火付盗賊改方が支配に入ったら、何処から手をつけますかな」 主水の顔つきが真剣にみえる。「事件はすべて千代田のお城の北に起こっております。まずは外濠の北を洗ったらいかがにござる、それがしは南に網を張りましょう」「中野清茂殿かの」 求馬が薄く破顔した。「嘉納殿、首座の警備と一橋家への警戒もお忘れなく」「畏まった」 主水の野太い声を背にうけ、求馬は座敷から去った。 (六章) 浅草の歳の市が終わり、今年も残り少なくなってきた。 筑波おろしが容赦なく隙間から吹き込んでくる。ここは増上寺の東にあたる神明門前町の、とある古寺である。 庫裏の正面に頭巾で顔を隠した痩せ形の武士が座り、円座に腰をおろした男達が車座となって座っている。「松平定信をいつまで生かしておくのじゃ。殿のお怒りも激しい」 声が覆面でくぐもって聞こえる。「申し上げます。火付盗賊改方を支配においた大目付の嘉納主水が些か煩わしくなっております」「それに元公儀の隠密の伊庭求馬に半数が討たれ手薄となっております」 口を開く男も沈黙を守る男も、全て獰猛な面構えで凄腕と知れる者達である。武士が声を発した、痩せた体躯から凄まじい剣気を漂わせている。「既に半数を失い、頭領の甲戌(きのえいぬ)としてはいかがいたす」「近々、江戸の者が仰天いたす騒ぎを起こします」 眼光鋭く答えた男が頭領である、眼が不気味な光を宿している。「何を遣ると申す?」「上様の側用人の加納久周(ひさのり)の命を奪います」「それはならぬ、上様が信頼される側用人じゃ」「ならば、貴方さまからお命じ下され」「嘉納主水と火付盗賊改方は、そち達が北の外濠の何処かに隠れ潜んでおると考えておる。この門前町に目をつけさせてはならぬ、東の一帯に奴等の関心を引き付けるのじゃ」「何処にござる?」「四谷じゃ、そこは御先手組の本拠。火付盗賊改方もそこに住み暮らしておる、奴等の足元を襲うのじゃ」 武士の言葉に頭領の甲戌が反応した。「火付盗賊改方長官の山部美濃守を暗殺いたしますか?」「面白い、何名で殺る?」「二名で結構」「ならば今宵、山部美濃守を処分いたせ。仕事が済んだら内藤新宿で女と酒で憂さ晴らしをして待機いたせ、決してここに戻ってはならぬ。残りの者はこれより品川宿に隠れよ」「畏まりました」「これは殿からの軍資金じゃ」 頭巾の武士が懐中から、四個の切餅を床に置いた。「これからも励むのじゃ。拙者も殿も期待しておる」「心得てございます」「甲戌、伊庭求馬を侮るなよ。奴は常に我等の裏をかく」「存じております。奴の手で大半の仲間が斃されました」 甲戌が冷めた声で応じた。長身の体躯をもつ姿から不気味な殺気が湧き上がっている。「今宵の首尾を楽しみにいたしておる。拙者はこれでいぬる」影の刺客(1)へ
Oct 13, 2011
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「影の刺客」(35) そもそも御三卿とは、八代将軍吉宗の子孫の処遇から起こった制度で、彼等が将軍本家や御三家の親藩や外様の大藩などへの養子先がみつかるまでの仮の宿であった。 それ故に御三家とは異なり、領土ももたず世継ぎがなくても家名を残してきたが、家柄は御三家に準じていた。 さらに屋敷は江戸城の内郭にあることが特徴であり、田安家と清水家は、北の丸に並んで屋敷を与えられていた。 その為に田安御門から内濠を抜けることが出来た。一方、一橋家は東の神田御門内に与えられ、一つ橋御門から抜ける位置にあったのだ。 主水は行列を帰し、求馬と肩を並べ無言のままに昌平橋を渡り、神田明神下同朋町へと足をむけていた。 二人は御曲輪内の西の丸の松平定信の屋敷からの帰りであった。「冷えますな」 主水が寒そうにしている。「屋敷は近いが同朋町に軍鶏を喰わせる店がありましてな」「初めて嘉納殿とお会いした場所も軍鶏屋にござったな」 求馬が往時をしのぶ眼差しをしている。「そうでござったな」 数年前の出来事が二人の胸を去来している。求馬は今よりも荒んでいた、そうした時期にお蘭と運命の出遭いをしたのだ。 彼女は嘉納主水の密偵として働いていたが、運命の悪戯で求馬と一緒に生活を始めることになり、今の境遇に至ったのだ。 主水は求馬が人並みの男に変わってゆくのが嬉しかった。 その時の恩を求馬は忘れてはいない。 道行く人々が好奇な眼で二人を眺めている。大身の旗本風の髭跡の濃い武士と、痩身を黒羽二重につつみ着流しで歩む、二人が対照的に見えるようだ。そんな町並みのなかを二人は足を急がせた。「この店がそうでござる」 主水が小道を伝って一軒の小奇麗な店先に足を止めた。 軍鶏鍋の看板と屋号を刻んだ看板が風にゆれている。 主水が店内に身を入れると、なかから威勢のよい声が迎えた。「いらっしゃいませ、これは御前さまお久しうございます」「座敷は空いておるか?」「はい、御前さまのご案内を頼みますよ」 主人の声で中年の仲居が奥の座敷に二人を案内した。 座敷に腰を据えた主水が、真っ先に熱燗を注文した。「お鍋は何時もの鍋でよろしゆうございますか?」「亭主に任せる、とりあえず酒じゃ」 仲居がかしこまって座敷を去った。「ここの鍋は寄せ鍋風でござってな、なかなかと美味うござる」 主水が煙管を取り出し、傍らの火鉢から火を点し紫煙を吐きだし、一服するや器用に火種を手の平に転がしながら次の煙草に火をつけ二服目を吸っている。 そうした間にも二人は先刻の松平定信の言葉の意味を考えている。 仲居が熱燗を数本、盆にのせ手際よく二人の前に並べた。「酒は切らすなよ」 主水が例のごとく念をおしている。「畏まりました」 仲居がてきばきとむした仕草で小鉢物を並べ、南部鉄の鍋に軍鶏肉を入れ、鍋の準備に余念がない。 二人は無言で熱燗を飲み仲居の手際よい手さばきに視線を送っていた。十分に灰汁をすくい、鍋の具を入れた仲居が主水を仰ぎみた。「あとは我等でやる」 ひっそりと襖を閉じた仲居の足音が遠ざかった。「さて、食べながらお話をいたそう」 主水が髭面を崩し、取り皿に軍鶏肉を入れ一切れ口にした。「美味い、伊庭殿も食べられよ」「頂戴いたす」 暫く二人は鍋にむかった、評判どおりの鍋である。 その間に仲居が何度も訪れ、鍋の具と熱燗を置いていった。「嘉納殿、先刻の首座のお言葉をどう思われます?」「上様と闘っておると申されたが、あながち根拠のないことでもありません。上様は稀にみる親孝行者、御尊父の治済殿の申されることは何をおいても聞かれるお方にござる」「ならば治済さまが黒幕でござるか?」「それは分かりかねますな、なんせ権力欲の強いお方じゃ。田沼意次に接近いたし、上様を世継ぎとされた。その後は田沼意次排斥の急先鋒となられ排斥するゃ、定信さまを老中首座に推挙された」 求馬は無言で主水の話を聞きながら酒を飲み続けている。「いまは御三卿の一橋家と田安家を支配されておられる。なんせ種馬の如くお子をつくられる、御三卿の最後の清水家や御三家にも触手を伸ばしておると聞き及びます」「徳川本家と親藩をすべて自身の血筋とし支配する積りですかな」「あのお方なら、考えられますな」 求馬の問いに主水が苦笑で応じた。影の刺客(1)へ
Oct 12, 2011
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「影の刺客」(34)「さて伊庭、そなたこの度の事件の背景をどうみておる?」「あのような手練者を揃えることは至難の業、奴等だけではなく背後に得体の知れない者が潜んでおると推測いたします。更に奴等を隠しおうせる力量は恐るべしと勘考いたします」「何が申したい」「首座のお命を絶ち、己が権力の中枢に昇らんとする曲者が、どこかに居るものと推測いたします」 求馬がひたっと定信の柔和な顔をみつめた。「そちが申すなら、あながち見当違いではあるまいな」 松平定信の顔つきが真剣にみえた。「心当たりでもございますのか?」 主水が低く訊ねた。「安永の時代、田沼意次の甥が一橋家の家老に抜擢されたことがあったの、主水は承知しておろう」 脇息にもたれた定信が大きく吐息を吐きだした。「田沼意次は十代将軍の家治(いえはる)さまの信頼を得ておった。それを退けたのは、わしじゃ」 主水と求馬は無言で定信の言葉に聞き入っている。「今の上様の父上は一橋家の現当主の一橋治済(はるさだ)殿じゃ。一時は田沼意次との癒着を噂されたご仁じゃ。・・・存外とわしは上様と闘っておるやも知れぬな」 老中首座として絶対的な権力を掌握している、松平定信が驚くべきことを口にしたのだ。 主水の顔に驚きの色が奔った。「貴方さまは上様の信任を得て首座となられた。それは田沼の賂(まいない)政治から脱却する、寛政の改革を願う上様の御心であった筈。その上様に疎まれましたのか?」 求馬が乾いた眼で定信をみつめ、不敬なことを訊ねた。「わしにも確たる証拠はない。だが時々そんな思いに取りつかれるのじゃ」 定信の眉間に深い縦じわが浮かんでいた。「首座殿はそれを真と思われてか?」「主水、わしの言葉を忘れてはならぬ、それを土台といたし今回の事件を考えてみよ。伊庭、そちもじゃ」 求馬が無言で肯き無表情に口を開いた。「今の幕閣人事は貴方さまが登用された方々ですな、もし一橋さまが咬んでおられるしたら、どなたと思われます?」「老中も若年寄もわしが選んだ人物じゃ、彼等はわしを裏切らぬ」 定信が自信を込めて断言した。「ならば捜るまで、火付盗賊改方の件は宜しくお願いいたします」 主水の体躯から殺気にちかい気迫が湧き出ていた。「直ぐに若年寄の堀田正敦に下知いたす」「ならば早速、捜査にかかります」 嘉納主水が佩刀の政国を手に立ち上がった。「首座にお訊ねいたす。万が一、一橋さまが黒幕と知れたら成敗しても構いませぬか?」 求馬の問いに松平定信は平然とした態度で応じた。「伊庭、そちなら事件の全容を隠し闇から闇に葬る術を知っておろう」 その言葉は許すという意味を含んでいた。「心得申した」 低い声で答え求馬が痩身を立ち上げ、軽く挨拶し虚無の翳をひきずり廊下に消えた。その跡を追うように主水が足音を響かせ去っていった。 二人が去ったあと定信は火鉢に手をかざし、過去から現在までの出来事を脳裡に蘇らせていた。 現将軍は十一代の家斉(いえなり)で今年十八才となっていた。彼は一橋家の治済の長男で幼名を豊千代といった。 十代将軍の家治(いえはる)の世継ぎの家基(いえもと)は若くして病没し、天明六年に、乞われて十四才で将軍となった。 これにより一橋治済は、将軍公の実父として隠然たる力をつけた。 治済は家斉擁立に力を尽くした田沼意次を嫌い、それを排斥するために、御三家、御三卿と結び田沼を排除し、御三卿の田安家の出身の定信を老中首座に迎えたのだ。 翌年の天明七年には、定信の実家の田安家を己の五男の斉匡(なりまさ)に継がせている。こうして治済は一橋家の当主でありながら、将軍の実父であり、御三卿の田安家まで己の傘下としたのだ。 一方、将軍の家斉は稀にみる孝心の強い人で、治済の影響をもろに受けていた。最近、人づてで聴いた事柄が気になる。 治済は己を江戸城西の丸に迎え、大御所にするようにと家斉に迫っているという。その時は一笑にふしたが、いまになって思うと笑いごとでは済ませる問題ではないと定信に思えるのだ。影の刺客(1)へ
Oct 11, 2011
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「影の刺客」(33) (五章) 季節は師走を迎え、人々は年の瀬の慌ただしさにつつまれていた。 江戸の町を震撼させた騒動も、ひたっと止んでいた。 幕閣をはじめ火付盗賊改方や町奉行所の関係者は、不気味な予兆と感じとっていた。未だに十数名の曲者が江戸の何処かに潜伏し牙を磨いているのだ。 そうした中で西の丸の松平定信の屋敷は厳重な監視下にあった。 西の丸からくたびれた身形の二人が姿をみせた。「豊後、今日のお勤めは終わりだ」「天野さん、こうも寒くては叶いませんね」 二人とも厚手の布を首巻とし、番町の武家屋敷を風にあおられながら引き上げていた。 二人とも素足である、貧乏御家人では役目を終わると足袋も履けないのだ。二人の懐中には足袋が隠されている。「こうも冷えてはもたねえな、そこらの店で蕎麦でも啜ろうか」「わたしは手元不如意で素寒貧ですよ」「お互いさまだが、今日はおいらが払ってやる」「珍しいですね」「傘張りの給金が入るんでな」 天野監物が情けなそうな顔をして言った。「それは駄目ですよ、奥方にお渡しせねば」 若山豊後の腹の虫が、ぐぅ-と鳴った。「なんとかならあ」 二人は途中の小汚い蕎麦屋の暖簾を掻き分けた。「親父、蕎麦と大徳利で熱燗を一本頼まあ」 天野が湯呑に熱燗を注ぎ分けた。「頂きます」 二人が同時に口をつけ大きく吐息を吐きだした。「生き返りますね」「豊後、おいら達はつまんねえ人生を送っておるな」 天野監物の本音のようだ。「仕方がありませんよ、ご先祖の家を守ることが我等の勤めです」「けっ、三十俵二人扶持の家をかえ」 二人が愚痴をこぼし、熱燗をちびちびと飲みながら蕎麦を啜った。「天野さん、この事件は年内に片がつきますか?」「分からんよ、たかが十三人の馬鹿者共に振り回され頭にくるぜ」「それにしても奴等は何処に隠れているんでしようね」 豊後が箸で二、三本の蕎麦をつまんで啜りこんだ。 天野監物がそんな豊後の様子を横目にみと吐き捨てた。「組頭も頭もだらしがねえよ、あれだけ伊庭さんが頑張ってくれたのによ。進展がねえなんて信じられねえ」「これからも、伊庭さん頼みですかね」「馬鹿め、火付盗賊改方の意地をみせる時じゃ」「どうしたら意地をみせられます」 豊後の顔に興味の色が浮かんだ。「奴等は外濠から神田橋の北に隠れ潜んでおると思うがな」「もう一度、現れてくれれば何かを掴めるかも知れませんよね」 豊後の言葉どおり、それが関係者一同の思いであった。「親父、邪魔をしたな」 天野監物がなけなしの銭を払い表に出た。 二人は麹町を通り、四谷左門町へとむかった。 道々、通り過ぎる商店や町屋、棟割長屋の住人が忙しそうに立ち働いている。十二月八日はお事始めがはじまる、この日が正月準備の開始日で、十三日は恒例の煤払い、それが済むと深川八幡の歳の市、浅草の歳の市が開かれ一気に年の暮れへと進むのてあった。 西の丸の老中首座松平定信の屋敷である。周囲は火付盗賊改方や応援の徒組の面々が厳重に警備をしていた。 屋敷内は白川藩士により、さらに警護は厳しさを増している。 屋敷の奥座敷では松平定信と大目付の嘉納主水に、伊庭求馬の三人が会談を行っていた。 脇息に身をもたせ炭火が赤々と盛られた火鉢で手を炙る、松平定信の前に嘉納主水が腰を据え、部屋の片隅に伊庭求馬がうっそりと座っている。「主水、事件の進展はみられないか?」「深川の一件から奴等は鳴りを潜め動きを止めております」 主水が濃い髭跡をみせ野太い声で返答した。「これから、いかがいたす?」「大目付の職掌は大名、旗本の法度遵守の監視にござる。従って自前の探索組織を持ってはおりませぬ、この権限で今回の事件を解決することは極めて無理がござる」「主水、そちの言い分は分かるが、そちには隠し玉がある。そこの伊庭求馬じゃ」 三千五百石の大身の旗本を呼び捨てにする老中はかっては居なかった。しかし、松平定信は八代将軍の吉宗の曾孫で御三卿のひとつ田安家の出身であった。 そうした意味で十万石以下の譜代大名で構成される、老中職を勤める大名は大身の旗本に気を配っていたが、定信はそれらを超越した権威をもっていたのだ。「伊庭殿、一人では捜索、捕縛は到底無理にござる」 主水の言葉に定信が求馬に視線を移し、「伊庭はどうじゃ」「首座の申されることは無理、それがしは一介の浪人にござる」「申すな、そちは元公儀隠密の手練者で聞こえた男じゃ」 松平定信が温和な視線を求馬にむけた。「それがしは嘉納主水殿を唯一の友として手伝っております。そうでなければ何もいらざることに首を挟む謂れはござらん。嘉納殿の申される通り事件を解決するには手足となる者は必要にござる」 求馬が平然とした態度で言い放った。「分かった。若年寄と相談いたし、事件の解決まで火付盗賊改方を大目付の支配下に置くがどうじゃ」「組頭の山部美濃守殿のお考えもありましょう」「山部は切れ者として評判の男じゃ、自身の出世のためなら否とは申せまい。主水、これで良いの」「承知にござる」 嘉納主水が髭面を引き締めかるく頭を下げた。影の刺客(1)へ明日はお休みします。
Oct 8, 2011
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「影の刺客」(32)「猪の吉、灯りを点してくれ」 求馬の言葉に応じ、猪の吉が懐から蝋燭を取り出し灯りを点した。 寺の内部は嵐が去ったように荒れ果てている。「檜垣殿、それがしは老中首座の松平定信さまと大目付の嘉納主水殿の要請で動いております」 求馬が灯りの翳に腰を据えて檜垣大善に身分をあかした。「それは承知してござる。この事件は拙者には荷が重うござる、今夜の件を殿にお伝いし、事件の解決を貴殿にお任せ願うようにお願いしてみます」 檜垣大善が安堵したように渋い声で応じた。「これで話は終わりましたな、猪の吉、斃した曲者の人数をあたってくれ」「合点承知」 猪の吉が素早く闇のなかに駈けだして行った。「全部で八名にござる」 檜垣大善が明快に答えた、流石は目付を勤めるだけの男である。「逃げ去った男が一味の頭のようですな、だが報告によれば女子が居る筈」「女子にござるか?」 檜垣大善が驚いた声をあげた。「左様、さしずめ頭の女か他の組との繋ぎの役目をになう女子かと推測いたす」 求馬が檜垣大善に説明した、瞬間に双眸を光らせた。「隣に隠れておる者、そちが今の女子じゃな」 求馬の声が無人となった庫裏に響いた。「流石ですねえ、見破っておられましたか」 蓮っ葉な言葉が返ってきた。声に艶が感じられる。「出て参れ」「捕まれば死罪ですか」「それは吟味次第じゃ」 忍び足で隣の部屋から友禅染めの襦袢(じゅばん)をしどけなく纏った女が姿をみせた。白い豊な下肢と豊満な乳房を半分ほど顕にした妖艶な姿をした女であったが、切れ長の眼が野生の獣を連想させる。「そちが頭の女か?」「旦那、それはお門違いですよ。あたいは誰の女でもありませんよ」「ならば繋ぎを役目としておるか」「はいな、その間は仲間の男に抱かれることがお勤めですよ」 答えると同時に隠しもった匕首を、求馬の胸をめがけ突きかけた。 求馬が身を捻り女を宙に放り投げたが、巧妙に身を回転させ着地した。「ほう、忍びの業も身につけておるか」「捕らわれて死罪なんかなっちゃあご免だね」 女豹のような眼差しをみせ匕首を腰だめに構えている。「そちは人を何人も殺めてきたの」「大きなお世話さ、女が地獄で生き残るには仕方がなかったのさ」 姿勢を低め片膝をついて啖呵をきった。 太腿が顕になり、襦袢の間から秘毛が黒々と見える。「女、匕首を捨てお縄にかかれ、お上にも慈悲があろう」 檜垣大善が諌めるようになだめすかした。「あたいを舐めるんでないよ」 声が途絶えると同時に躰ごと求馬の痩身にぶちあたってきた。村正が灯りを反射し刀身が煌めき、女の肩口から血潮が噴きあがった。 一呼吸ほどそのままの姿勢を保ち、崩れるように床に倒れ伏した。「惨(むご)いのう」 大善の声を無視し求馬が白く豊かな臀部を襦袢で覆った。 寺に戻ってきた猪の吉が驚いて訊ねた。「旦那、この女は?」「曲者の一味じゃ。どうであった」「へい、曲者はこの女をいれて九名ですな」「刺青は確認したか」「抜かりはありやせんぜ」「刺青?」 檜垣大善が不思議そうに二人の会話に耳を傾けている。「見たままの刺青の種類を申せ」「申しあげます」 猪の吉が八名の干支の刺青の名を告げた。「八名は辛組と庚組とみやした」 求馬は眼を閉じて聴いていたが、報告が終わると目蓋を開いた。「庚午(かのえうま)がおらんの、逃げた男がそいつじゃ。辛組は全滅したが、庚組は頭の庚午が残りおったな」「今夜出張ったかいがありゃしたね、これで大川の東の一党は全滅ですな」「そうじゃな、逃げた庚午はどこぞに潜んでおる仲間と合流しような」 三人が古寺から闇夜に出た。朧月が中天に輝き、刻限は子の刻半(深夜)を廻った頃と思われる。「我々は引き上げますが、檜垣殿ご貴殿はいかが成される?」「こんな古寺に居ってもしょぅがない、ご一緒仕りたい」「それじゃあ、一緒に引き上げやしょう。帰りに小名木川警備の役人にこの件をお知らせして戻りますか」 無言で求馬が肯き、猪牙船が六間堀から小名木川へとむかった。「世の中に、いらない金は、かねがね気兼ね、あの~明けの鐘」 猪の吉が竿を操りながら気持ちよさそうに唸っている。「猪の吉殿は粋な唄をしっておるのう」 檜垣大善が猪の吉の声に酔いしれている。影の刺客(1)へ
Oct 7, 2011
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「影の刺客」(31) 突然に求馬の背後に廻りこんでいた曲者に声がかけられた。それは例の勤番侍で猪の吉が驚いて眼を剥いた。 彼は大刀を斜め上段に構え、素晴らしい足さばきで曲者に接近している。 とっさに振り向こうとした曲者が、瞬時に袈裟に斬られた。 それをみた曲者の一人が求馬の左首に切っ先を送りつけてきた。 村正がそれに応じ、下段から曲者の大刀を摺りあげた。 火花が散りさっと二人が飛びのき、二間の距離を保って相対した。「死んでらうぜ」 猪の吉が飛礫を握り求馬の傍らに歩み寄った。「くそっ」 曲者に動揺が奔り、構えを上段に移し捨て身の攻撃を仕掛けてきた。 求馬は右肩すれすれに刃を躱した。虚しく闇を斬り裂き崩れた体勢を建て直そうとした曲者に、村正が見逃さずに咽喉首を薙ぎ斬った。 曲者は血潮を噴き散らせ地面に転がった、辺りに血の臭いが漂った。 その様子を横目にみた勤番侍が猛然と古寺に駈け込んでいった。「とう-」 肺腑(はいふ)をえぐるような懸け声が響き、鋼と鋼のぶつかりあう音が聞こえてきた。 求馬と猪の吉が古寺に踏み込んだ。 なかでは勤番侍と二人の曲者が斬り結んでいた。 曲者の一人は一目で凄腕と知れる男で、圧倒する勢いで勤番侍を押しまくっている。腕に格段の差があった。「猪の吉、飛礫じゃ」 求馬の声に促され猪の吉が、自慢の飛礫を投じた。 曲者は余裕で柄頭で飛礫を弾き飛ばし、勤番侍の右脇腹を狙い刎ね斬るように大刀が奔りぬけた。 勤番侍が素早く後退したが避けきれず、脇腹の着物が斬り裂かれた。 その様子を見た残りの曲者が間髪を入れずに、踏み込みざま猛烈な突きを仕掛けた。勤番侍が身を床に投げ出し攻撃を避けた。 曲者がえたりとばかり床に転がる、勤番侍を仕留めるべく大上段に大刀を振り上げた。「その勝負はそれまでじゃ」 求馬が乾いた声をなげ痩身が三間の距離を駈けぬけ、村正が白い帯を引き、曲者の首が宙に舞い上がった。「かたじけない」 勤番侍の声を背にうけ、最後に残った凄腕の男に必殺の秘剣をみまったが、ふわりと躱された。「貴様の顔は忘れぬ」 抜き身を片手とした男が太い声を発した。「最早、逃げ切れぬ」 求馬が素早く踏み込みざま左下段から、男の右脇腹を薙ぎあげた。ぞくに言う、あげ袈裟である。 曲者は左足を軸に大きく半身となり、見事に求馬の秘剣を防ぎ、足元に何かを投げつけた。 閃光が辺りに奔りぬけ、古寺の格子戸に身を投じ外に逃れ去った。「しまった」 求馬が思わず慚愧(ざんき)の声を洩らした。すんでのところでまたもや逃してしまったのだ。「お侍、大丈夫ですかえ」 猪の吉が勤番侍に声をかけた。「済まぬな」 床に腰を据えた勤番侍が礼を述べている。 求馬が血濡れた村正を懐紙で拭いながら質問をした。「ご貴殿は、それがしの隠れ家を見張り、この度は助太刀を成された」「お侍、火付盗賊改方の検問をどうして潜りぬけられやした?」 二人の疑問に武士は寂びた声で説明をはじめた。「老中松平信明が家中で目付をいたしおる檜垣大善と申す」「矢張り、そうでござったか」「殺気もみせずに、それがしを見張るには何か訳ありと存じておりました。ご貴殿の言葉が真なら、訊ねることはござらん」「あっしには合点がいきませんぜ」「猪の吉と申されたな。殿は襲撃者を我藩であげるようにと拙者を国許から呼び出された、しかし、拙者は事件の複雑さを何も知らない。そこで伊庭殿を見張り、その動きについて参れば曲者の元に辿り着けると考えたすえのことにござる」「それで合点がいきやしたが、あっしが付けておることはご存じでしたね」「知っておったがまくのに苦労いたした。済まぬこでござった」「それにしても大層な腕前ですな」 求馬が感嘆の面差しで誉めあげた。「いささか天道流を遣います」 檜垣大善が柔和な口調で身分をあかした。影の刺客(1)へ
Oct 6, 2011
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「影の刺客」(30) 唐突に後ろから風が吹き抜け、求馬の相貌が提灯の灯りの前に顕となった。「それがしは伊庭求馬と申す。天野さんか若山さんは居られぬか」 乾いた声が小名木川に響いた。「なんと申された」 慌てた声を発した改方が御用提灯を近づけた。「これは、失礼しました。伊庭さまとも知らず迂闊に存じます。天野も若山もここには居りませぬ」「西の丸警護につかれましたか、通らせて頂く」「ご存分に。一艘通るから空船を開けよ」 火付盗賊改方が下知を下した。「猪の吉、船をだせ」 ここに空船を数艘ならべ大綱で結び川を遮断していた、その開いた箇所から二人の乗った猪牙船が東にむかった。「六間堀に入りやすか?」「入って籾蔵(もみぐら)の前の橋に船を着けよ」 猪牙船は松平遠江守の屋敷を左折し、籾蔵の前の橋げたに猪牙船を舫い、二人が橋の上にあがって周囲を見廻した。 西が六間堀町で東は荒地となっている。「旦那、あの勤番侍はどうしやすかね」 猪の吉が嬉しそうに訊ねた。「さてのう」 求馬が興味なげに煙管をだし一服しながら、東の方角を見つめている。「旦那、東から手をつけやすか?」「そうじゃな、そこらは大風で無人の家や古寺がある。奴等が隠れるならば東方面じゃ、見つけだしたらすべて斬る」 そう告げた求馬の痩身から殺気が盛り上がてきた。 猪の吉が先頭にたって二人が漆黒の闇の中に足を踏み入れた。 頭上には樹木が空を覆い隠し、ざわざわと葉音が騒がしく鳴っている。「旦那、荒れ放題ですな」 二人にとり闇はなんの妨げにもならない暗闇でも眼が利くのだ。「旦那、あそこに古寺がありやす。灯りが洩れておりやすぜ」 猪の吉が右手を懐中にいれ忍び足で近寄って行った。「猪の吉、待ち伏せじゃ」 求馬が低い声で注意を与えた。人の気配と共に微かな殺気が二人を包み込んだ。「誰じゃ、貴様等は」 前方の闇の中から忍び声が伝わってきた。「貴様等か、江戸の町を騒がす曲者は」 求馬が冴えた声で応じ、猪の吉は朽ち果てた大木の翳に身を隠した。「貴様は何者じゃ」 感情のない声が聞こえ、それが一層、不気味に感じられる。「貴様等の仲間を斬り捨てた浪人じゃ、名を伊庭求馬と言う」「貴様か、我等の仲間を手にかけた男は」 枯葉の音が微かに聞こえ、忍び足が四方から迫り、二人を遠巻きに包囲した。猪の吉の飛礫(つぶて)が闇に飛翔音を響かせた。 苦痛の声が洩れ曲者の一人が地面に倒れる音がした。 猪の吉が自慢の飛礫で敵の一人を仕留めたのだ、百戦錬磨の猪の吉ならではの先制攻撃であった。「油断するな、手強い相手じゃ」 その声に応じ、着流し姿の求馬の孤影がゆったりと古寺に近づいた。「キエッ-」 猛烈な懸け声が夜空を震わせ、凄まじい攻撃が求馬に襲いかかった。求馬は予期したごとく半身で躱し、愛刀の村正が闇夜に舞った。 存分な手応えを感じた瞬間、血飛沫が噴きあがった。「遣るのう」 求馬を囲むように五名の手練者と知れる曲者が、大刀を八双に構えて包囲綱をちぢめてきた。 求馬は村正を下段に移し自慢の逆飛燕流の構えに入り、凄まじい猛禽のような殺気を痩身から吹きあげた。 敵の構えが上段に変化をはじめた、求馬の愛刀の村正も徐々に弧を描きはじめた。「小癪な男じゃ」 声と同時に三名の男が俊敏に踊りあがり、刃が三方から求馬の痩身を両断すべく、風斬り音を響かせ襲いかかってきた。 それを見た猪の吉の手から飛礫が放たれ、中央の男が空中で額に直撃を受け、躰を地面にたたきつけ地響きをあげた。 その瞬間に求馬の痩身が大きく跳躍し、村正が一閃、二閃と宙を裂いた。 一人は右胸を左首にかけて袈裟に斬りあげられ、苦悶の声をあげ、さらに一人は頭蓋を絶ち割られていた。 求馬が着地するや、ふたつの死骸が音を響かせ地面に転がった。 残りの二人が求馬の前後に廻りこんだ。前面の曲者は大刀を脇備えに構え、背後の男が大上段に大刀を構えた。 それは捨て身の攻撃を示唆する構えであった。 じりっと刃圏が狭まり潮合が定まってきた。「一人を数名で襲うとは卑怯なり」 突然、求馬の背後の曲者に渋い声がかかった。影の刺客(1)へ
Oct 5, 2011
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「影の刺客」(29)「御免なすって」 表戸の開く音と同時に猪の吉の陽気な声がした。「お入りな、今晩は寄せ鍋だよ」「こいつは嬉しいね、ごちになりやす。しかし、何時見ても師匠は色っぽいね」「有難う、そう言ってくれるのは猪のさんだけだよ」 玄関先でお蘭と猪の吉がかけあいをしている。「旦那が待ってますよ」「いくら惚れても、情死はいやよ、死ねば腰から、下がない」 猪の吉が下品な都都逸を唸りながら、座敷に顔をみせた。「猪の吉、今晩はご機嫌じゃな」 求馬が呆れ顔をしている。「へい、旦那、今夜はあの勤番侍と決着をつけやすよ」 そう言った時だけ、猪の吉の顔が引き締まった。「まだ見張っておるか?」「この寒空でまるで蛭(ひる)のように執拗にねばっておりゃすよ」 二人の話題が勤番侍に移った。「あいよ、猪のさん」 お蘭が茶を置いてお勝手に戻っていった。 その夜、三人は久しぶりに寄せ鍋を囲んで酒を酌み交わした。「美味いねえ、この白子に蛤の大きなこと」 三人は酢醤油に薬味の葱で大いに食べた。この頃から酢醤油は庶民の間でも重宝されていたのだ。 久しぶりにお蘭が顔を染めている。「師匠、飲むとますます色っぽくなりやすね」 猪の吉が揶揄いながら、盛んに酌をする。「猪のさん、あたしを口説こうなんて思っても無駄だよ」「冗談を、そんなことをしたら首が胴から離れやすよ」「たまには口説いて欲しいよ、最近の旦那は薄情でね」 求馬が素知らぬ顔で独酌している。「嫌なお方の親切よりも、好いたお方の無理がいい。て、師匠、昔からそう言われておりやすぜ、嫌だ嫌だと言いながら、そっと隣に添い寝する」 猪の吉がまた揶揄った。「意地悪な猪のさんだね」 お蘭が顔を赤らめている。「猪の吉、あまり酔ってはならぬ」「分かっておりやすよ、何処で勝負しょうか思案橋てところです」「馬鹿め」 求馬の罵り声に、お蘭が吹きだした。 求馬と猪の吉が表に出たのは五つ(午後八時)を過ぎた頃であった。 町人の亭主と子供は床に就き、女房は一日の疲れを癒すために湯屋に向かうのが、町人の一日の生活であった。 この刻限になると吉原では遊女が、ようやく客との閨事を始めるのである。町木戸が閉められるまで一刻はある。「いい風ですな」 酔った二人にとって夜風は酔いを覚ますに丁度よい。「猪の吉、猪牙船の用意を頼む」「分かっておりやすよ、行き先は深川六間堀ですね」 猪の吉が着物の裾を端折り船着場へと駈けていった。 求馬は黒羽二重の着流し姿でうっそりと歩んでいる。彼の視線は軒下に隠れる勤番侍の姿を捕えていた。 侍から殺気が感じられないことが不審に思われる。 求馬は船着場から猪の吉の待つ猪牙船に乗り込んだ。「小名木川ですね」 猪の吉が器用に棹を操り、猪牙船が桟橋を離れた。 船は永代橋を南にみて新大橋にむかって波をきった。「旦那、橋には町奉行所の役人が張り番をしておりやすね」 猪の吉の言う通り、永代橋、新大橋、両国橋に御用提灯の明かりが点滅している。「嘉納主水殿の手配りじゃ。取り逃がした曲者は六間堀の近辺におる」「察するに小名木川の万年橋と竪川の一の目橋は火付盗賊改方が見張っておりやすね」「そうじゃ、後ろの勤番侍はとう切り抜けるかの」 求馬が可笑しそうに含み笑いを洩らし、船が万年橋を潜りぬけた。「その船、止まるのじゃ」 火付盗賊改方の御用提灯が点滅し、大声が川面に響いた。「猪の吉、船を寄せよ」 猪の吉が声の方向に向かって猪牙船を近づけた。「この刻限に何処に参られる」 舳先に座った浪人姿の求馬に役人が居丈高に問うた。「それがしは六間堀まで参る」「ここからは何人(なんびと)も通されぬ、戻られよ」「そこもとの名を名乗られよ」 求馬が乾いた声で訊ねた。「我等、火付盗賊改方に尋問かの」 鼻先で嘲笑うような声であった。影の刺客(1)へ
Oct 4, 2011
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「影の刺客」(28) 求馬の仮住まいのお蘭師匠の家を見張るように、一人の勤番侍が物陰で風を避けていた。豊後を見るや、そっと姿を消した。 豊後は気にも留めず瀟洒な玄関に辿りつき、「御免」 と、小粋な表戸を軽くたたき案内(あない)を乞うた。「はいな」 色っぽいお蘭の声がし、カラリと表戸が開いた。「あら若山さま、お久しぶりですね。旦那にご用ですか?」「はっ、おいでになられますか?」 若山豊後が艶っぽいお蘭をみつめ顔を染めた。「何時もの座敷におられますよ、勝手に入って下さいな」 豊後が足の埃を手拭で拭い、奥の座敷へとむかった。「若山さん、失敗(しくじ)ったようですな」「・・・」 求馬が豊後の心中を見透かしたように声をかけた。「そう堅くならずにお入りなされ」 豊後が恐る恐る座敷に身を入れた。 表から振り売りとお蘭のやり取りが聴こえてきた。「師匠、このネタを見てやってくだせえよ」「アンコウかえ、それに白子もいいね」「今夜は鍋でどうですかえ、旦那としんねこでさっ」 それを耳にした求馬が苦笑いを浮かべた。「伊庭さま折角のお骨折りを無にいたし、申し訳ございません」「貴方の訪れで察しはついておりました」 求馬が大川に視線を向けそっけなく答えた。「どうして失敗りました?」 豊後が細かく仔細を報告した。「左様か、様子を確かめ踏み込む前に消え失せましたか、完全に奴等に裏をかかれましたな」「申し訳ございません」 若山豊後が面目なさそうに肩をおとした。「奴等が上手であったと申すしかござるまいな」 豊後が無念そうに、丸窓のギャマン越しから大川を見やった。「若山さん、奴等は隠れ家を何か所か用意しておりますな。そうでなければ、そのように素早くは動けません」「一から出直しとなりました」「それで火付盗賊改方としての方針はいかがじゃ」「組頭さまは若年寄の堀田正敦さまのもとに行かれました。天野さんは大目付の嘉納さまを訪れております」「これからは老中首座の身辺警護が勤めとなりましょう、そうなれば奴等の思うつぼとなりましょう」 求馬がうなだれた豊後に醒めた声をおくった。 お蘭が茶を置いて去り、微かな化粧とお蘭の匂いが鼻孔をくすぐった。「まずは茶なぞ飲んで心を鎮められよ」 求馬が湯呑を掌につつむようにし、茶を啜り思案に耽っている。 豊後は茶を啜りながら求馬の言葉を待った。「奴等の目的は老中首座の暗殺、しかし、あまりにも手際が良すぎる計画です。そこに疑念が湧きますな」「どうせよと仰せになられます?」「それがしにも見当がつきかねる、だが取り逃がした一党はまだ深川六間堀の周辺に潜んでおると推測いたす」「我等は六間堀から竪川、小名木川の隅から隅まで捜査しました」「見落とした場所はござらぬか?」「我等の探索が甘いと申されますか?」 若山豊後が気色ばんで反論した。「それがしから見れば大いに甘い」 求馬が豊後の胸の内を無視し、ずばりと言いきった。「若山さん猪の吉から聴いておりますが、逃した奴等は辛組、庚組の二組、女を含めても十名くらいですな」「左様に」「あとの組は甲組、己組に癸組の三組で総勢十二名にござる」「まだ隠れ家が判明せぬ三組の総勢は半分ですね」「そうです、逃した曲者は惜しいが奴等は大川の西側に潜みおる。そう考えるなら、竪川と小名木川の警護を万全にし奴等を東西に分断いたす」「成程、念を入れ永代橋、新大橋、両国橋の警護を万全にいたせば、半数は大川を渡ることが叶わぬことになりますね」「左様じゃ、これくらいの警護なら町奉行所でも可能にござるぞ」 求馬の下した結論を聞き、若山豊後の顔が赤く染まっている。「伊庭さま、我等は深川の曲者に気を使わずに首座さまの警護に全力を尽くせば良いことになりますね」 求馬は無言で肯いた。「有難う存じました。立ち戻り組頭さまに今の件を報告いたします」 若山豊後が慌ただしく立ち上がった。「あら、帰られますの、折角、お鍋を用意しておりますのに」「申し訳ございません。今度、ご馳走にお邪魔いたします」 お蘭に礼を述べ、豊後がすっ飛んで行った。「折角、三人分用意したのに」「お蘭、心配は無用じゃ、おつっけ猪の吉が顔を見せよう」「岡惚れしたのは、わたしが先よ、手出ししたのは、主が先」 風にのって猪の吉の歌声が聞こえてきた。影の刺客(1)へ
Oct 3, 2011
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「影の刺客」(27) 一方、山部美濃守の組屋敷では、火付盗賊方の猛者が厳重に身形を整え、茂助等の帰りを待ちながら闘志を燃やしていた。 ようやく曲者の隠れ家を発見したのだ。 茂助等が戻り、間違いなく曲者が隠れ潜んでいると報告してきた。 一行は用意した猪牙船に分乗し、坂下門から繰り出した。 九十九間の長さを誇る両国橋を潜り竪川に乗り入れた。 先頭の猪牙船には天野監物と茂助が乗り込み、本所相生町の北詰から、六間堀へと船を乗り入れた。一方、お頭の河野権一郎は迂回して弥勒寺近辺に接岸し、両側から包囲する態勢で古寺を囲んだ。「茂助、間違いはなかろうな」「先刻、調べたばかりてぜすぜ、寺には女をいれ十名ほど隠れ潜んでおるはずにございやす」 茂助が自信たっぷりに答え、天野監物が采配を振った。 それを合図に火付盗賊改方が忍び足で古寺に踏み込み、一行は唖然として寺内を見渡した。寺は誰一人居ない無人となっていたのだ。「茂助、本当に奴等はここに隠れていたんだな」「見て下さいよ、この庫裏の痕を」 茂助の言う通り庫裏には大徳利が散乱し、人の居た気配が残っている。「旦那、隣の部屋では女を抱いていた男が居た筈です」 それを耳にした若山豊後が襖を蹴破り部屋に飛び込んだ。 そこには布団が一流れ敷かれ、敷き布団が皺(しわ)を見せている。 豊後が布団に手を当てた、「まだ暖かい、畜生め見て下さいよ」 豊後が布団の一か所を指差した、そこには男女の情事の証の男が放った液体の痕が濡れて見えた。確かに茂助の言う通り、ここで女を抱いていた証拠である。 組頭の山部美濃守が顔面を朱に染め、怒りを抑えている。「この真昼間じゃ、そう遠くには逃れられめえ。竪川周辺と六間堀に小名木川周囲をあたってくんな」 天野監物の命令で茂助と弥七が配下を連れて散っていった。「矢張り、ただの鼠ではねえな」 天野監物と若山豊後が寺を一周し呟いた。数名の男が潜んでいた痕が残されていた。「組頭、茂助等がここに忍んできたことを感ず付かれたのです」「伊庭殿の好意を無にしたの」 山部美濃守と河野権一郎が、憤りを抑え無念の思いを語りあっている。「面目ありません、これからは松平定信さまの警護を万全にいたします」「河野、そちらは任せるぞ。わしは若年寄さまにお会いしてくる」「分かりました」 山部美濃守の視線が天野監物と若山豊後にそそがれた。「天野は大目付の嘉納主水殿に、この一件をお知らせしてくれ」「畏まりました」「豊後は伊庭殿に報告じゃ」 山部美濃守がてきぱきと指図を終え、猪牙船で戻っていった。「豊後、このような曲者は初めてじゃ。常に裏をかかれる」「わたしも同感です。こんなにも早く動く奴等は初の経験ですよ」「おいらはこの足で嘉納さまを訪れる。おめえは伊庭さまに今回の詳細をお知らせしてくんな」「分かりましたが、猪のさんに合わせる顔がありませんよ」 若山豊後が悄然としている。「めそめそするんじゃねえよ、こうなったらお知恵を拝借するしかあるめえ」 天野監物が怒りを鎮めて古寺から去った。 豊後は引き上げを命じ、猪牙船で大川にむかった。今日も空は秋空で澄み渡っている。一つ目の橋を潜ると回向院の周囲は人ごみで沸き立っている。今年最後の身延山(みのぶさん)久遠寺(くおんじ)の出開帳で秘仏を拝もうと集まった人々である。 昼間は見世物が並び、茶店が賑わうほど人々でごったがえしていた。 若山豊後は猪牙船を器用に操り大川に漕ぎだした。澄んだ川面に小波のような縮緬じわが浮き出ている、風が出てきた証拠である。 今も高瀬舟や荷船が師走をひかえ忙しく上下している。 豊後は船を新大橋の西に向け、永久橋、箱崎橋へと漕ぎ進み、日本橋へ向かうために右折した。ここから日本橋になる。 目指す船着場に猪牙船を舫い、敏捷に土手に駈けあがった。 季節がら日本橋は旅人が群れをなしていた。 豊後の目の前を天秤棒を担いだ振売りが駈け去ってゆく。朝、一稼ぎした振売りが再び日本橋の魚河岸から、新鮮な鰯や蛸や蛤を仕入れて棟割長屋に商いに行く姿であった。 桶には豆腐、蒟蒻が一杯に盛られ、ご丁寧に白菜、椎茸、葱までもが入っていた。さしずめ寄せ鍋の材料を売り歩くようだ。 豊後がいつもの角を曲がり眼を細めた。影の刺客(1)へ明日はお休みします。
Oct 1, 2011
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