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「騒乱江戸湊(97)」 (対決) 明日は休みます。「なんとご貴殿が爆破すると申されるか、焔硝はいかがなされる?」 主水の問いに求馬が破顔で応じた。「既に、猪の吉が地下蔵より盗みだしておりましょうな」「恐れいった、ところでそれがしは下谷御徒町に疎うござる」 主水が顔をしかめ、求馬に助言を求めた。「ご安心下され、猪の吉を助勢にだします」「それは心強い」「嘉納殿にお願いがあります。火盗改方の天野監物殿と若山豊後の両名をお借りいたしたい」 求馬の言葉に主水が不思議そうな顔をした。「鳳凰丸の襲撃は石川御用地と六万坪地の二か所から行います。その一方の指揮を若山豊後殿に任せたく思っております」「成程、こ貴殿と若山豊後が襲撃の指揮を成されるか。して天野監物は?」「嘉納殿より、火付盗賊改方長官の山部美濃守殿に奥山の指揮を天野殿に任せて頂くように進言願いたいのです。彼は地下蔵にも精通しております」「切れ者の山部殿の説得は難しい、阿部正弘さまにお願いいたそう」「そう願えれば安心にござる」 求馬と主水が顔を見つめあった、ようやく決着の時が訪れたのだ。「嘉納殿、明日は存分に働きましょうぞ、それがしはこれにてご無礼いたす」 求馬が痩身を立ち上げた。「日本橋にお戻りか?」 主水の問いに求馬が首を振った。「これから船手組の組頭、向井将監殿に会いに行きます」「待たれえ、時刻も早い。それがしも同道いたそう」 主水が気軽に立ち上がった。主水は麻の単衣姿、求馬はいつもの黒羽二重の着流し姿で肩を並べ、霊厳島の向井将監の役屋敷にむかった。 船手組の役屋敷は五ヶ所に散らばっていた。浜御殿、霊厳島、新堀川口、永代橋、万年橋であった。組頭の向井将監は役高二千四百石の大身で、代々世襲で向井将監を名乗ってきた。 霊厳島の役屋敷を訪れと、永代橋の詰所に居ると言われ、二人は川風を受けながら永代橋の船手組詰所に着いた。 主水が門前で名乗りあげ、向井将監に伝えるよう水主同心に語りかけた。 日頃は大目付が直々に訪れることはなく、水主同心が慌てて駈け去った。「これは大目付殿、自らかような場所に参られるとは何用にございますな」 四十半ばの骨格が逞しく赤銅色の顔をした男が、塩辛声で出迎えた。「お勤めをお邪魔いたし申し訳ござらん、貴殿に紹介する人物をお連れいたした」 主水の言葉が止むのを待って求馬が進み出た。「それがしが伊庭求馬にござる、未だに素浪人の身にこざる」「ご貴殿が伊庭殿にござるか、船手組組頭の向井将監にござる。明日の晩に大船襲撃の指揮を執られると、老中首座さまより報せがござった」 将監が磊落に語り、値踏みをするように求馬の痩身を眺めている。「向井殿、御不審な点でもござるか?」 主水が二人を取り持つように語りかけた。「明日の手配りをお聞かせ願いたい」「船手組のお勤めは、大川の東河岸と永代橋の警備、特に堅川と小名木川への闇公方一味の逃亡阻止。さらに重大なお勤めは大船の爆破にござる」 主水が求馬に代わって答えた。「なんと、大船を爆破されると申されるか?」「左様、伊庭殿は大船に一番詳しい人物にござる」 主水の答えを聴き、向井将監が求馬に顔を向け質問を発した。「ならば伊庭殿にお訊ねいたす。どのような手立てで大船を爆破いたします」「お聞かせいたす」 求馬が懐中から一枚の絵図を取り出した。 それは若山豊後に描かせた絵図であった。 求馬が乾いた声で鳳凰丸の動きと侵入経路、更に回頭し停泊する様子を詳細に指を差し説明した。それは見事なほど理路整然としていた。「毎晩、丑の刻に侵入しておりましたか」 向井将監が唸るように言葉を吐いた。石川御用地から監視を続けたと聞いた時に、向井将監は求馬の力量を確信した。言い替えれば船手組の怠慢である。「して襲撃の手順をお教え願いますか?」 求馬は襲撃の方法を仔細に語り終え、猪牙船二十艘と船手組の選りすぐりの手練者六十名を要求し、さらに短弓と鈎綱の用意を頼んだ。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 30, 2011
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「騒乱江戸湊(96)」 江戸城の老中御用部屋で首座の阿部正弘と、大目付の嘉納主水が密談を交わしている。「明日の丑の刻が勝負と伊庭が申しましたか?」 阿部正弘が柔和な口調で訊ねた。「左様、詳しいことはそれがしの下城後に知らせるとのことにございます」「・・・何も解らずに明日に備えよと申されるか?」 阿部正弘の若々しい顔に苛立ちの色が浮かんでいる。「嘉納殿、明日に備え拙者から火付盗賊改方、両町奉行所、船手組等の関係先に待機を命じておきましょう。更に各組から遣い手を選んでおきます。貴殿は伊庭の情報を待って、詳細を直ちに知らせて下され」 阿部正弘がここで即断したのだ。「首座殿、話が済みました。それがしは緊急事態ゆえに下城いたします」 嘉納主水は城を辞し屋敷に戻った。途中に根岸一馬が日本橋へと向かった。 城に残った阿部正弘は閣僚を集め、それぞれに指示を与え、大名火消と町火消に出動を命じた。江戸の町を守る、これも彼の使命のひとつである。 主水が屋敷に戻り衣装替えを済ませ、麻の単衣姿で書院に座った。 首座が万全な態勢を整えてくれる。あとは伊庭求馬の話を聴き闇公方一味の捕縛と鳳凰丸の占拠を謀る、それが自分の務めと感じていた。 半刻後に根岸一馬と伊庭求馬が屋敷に現れた。「ご苦労に存ずる、まずは座られよ」 主水が二人に労いの言葉をかけた。 それに応じ求馬は座布団に腰を据え、直ぐに江戸湾で見た鳳凰丸の動きを報告し、決行日を明日と決めた根拠を述べた。「鳳凰丸は毎晩、江戸湾に侵入しておりましたか。今夜も来ますな」 主水が巨眼を光らせ求馬に同意を求めた。「左様。風の強い日を予測することは困難です。よって闇公方の仕掛けを待つことはござらん。我等が先手を打ちましょう」 求馬が平然とした態度で主水に自分の考えを述べた。「伊庭殿、こたび事件を解決する策は出来ておられるか?」 主水が改まった口調で求馬の考えを問いただした。「まず奥山の地下蔵ですが、奴等が江戸の町を火の海にするためには、あの場所が一番の要となります。奴等が決起するなら金で集めた浪人を率い必ず、地下蔵に向います。それを阻止するために火付盗賊改方は日暮れを待って奥山一帯に待機するよう命じて下され」「成程、地下蔵の武器を奴等に渡さねば我等の勝ちですな」 主水が濃い髭跡をさすって冷えた茶を飲み下した。「一方の下谷御徒町の隠れ家ですが、町奉行所で監視を行うように依頼して下され。必ず指揮を執る人物が奥山に向います、それを発見したら先行し、奥山の火付盗賊改方に伝令を走らせて下され、それなれば集結する浪人共を一網打尽にすることは簡単にござる。更に刻限を定め奴等の隠れ家を包囲いたす」 「その刻限は?」「余り早い手入れは鳳凰丸に知れる恐れがあります。鳳凰丸は丑の刻(深夜二時)に江戸湾に侵入します、手入れの刻限は九つ(深夜零時)と心得てくだされ」 求馬にはただひとつ危惧があった。闇公方の正体は薩摩藩主の斉興の血筋を引く新納帯刀である、彼に従う浪人は小勢であっても手練者の集まりである。薩摩藩邸などに逃げ込まれたら一大事である。あまり早い手入れは考えものと求馬はそう判断をしたのだ。「嘉納殿、闇公方の捕縛は貴方にお願いいたします」「ようやくそれがしの出番が参りましたか、大目付とし必ず新納帯刀に引導を渡してやりましょう」 主水の肉太い頬が緩んでいる。 求馬も茶を啜り話の続きを語った。手入れが始まれば奴等は神田川から両国橋を潜り抜け、大川を横切って六万坪地から江戸湾に逃れる筈。それを阻止せねばならない。「嘉納殿、船手組に下知をお願いいたす。竪川、小名木川に奴等を入れてはなりません、それ故に大川の東側を封鎖して下され。そうなれば奴等は仕方なく大川に出て永代橋から江戸湾に逃走しましょう」「・・・・承知いたした。それがしが猪牙船でもって闇公方を追いつめましょう。じゃが、鳳凰丸はどうされる?」 主水が気負った言葉を吐き、暫くし肝心の質問を発した。「ご心配は無用にござる、それは船手組とそれがしが爆破いたします」 求馬が常と変わらぬ顔つきで答えた。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 29, 2011
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「騒乱江戸湊(95)」「そうか豊後、おいらにも分かったぞ、大川の東側の堀割りに奴等を入れてはならねえんだ。東河岸を固めれば、奴等は大川を使い永代橋から江戸湾に出なければならんな」「そうなんです。永代橋に厳重な警戒網を敷けば、奴等は袋の鼠です」 二人の会話を耳にしながら、求馬は停泊する鳳凰丸を凝視している。 暫く思案し、二人にむかって意見を述べた。「お二人の申される通り、闇公方一味の逃走経路は若山さんの言われた通りでしょうな。それがしは鳳凰丸の襲撃方法をいろいろと練ってきました」 求馬が気負いのない声を二人に浴びせた。「出来ましたか?」 二人が興奮の声をあげた。「この石川御用地と六万坪地の岸部に、目立たないように船手組の船を潜ませます。鳳凰丸が回頭を終え船尾を永代橋に向け、投錨し停泊した時が襲撃の時となります。石川御用地からは鳳凰丸の右舷を狙い出撃いたす」「六万坪地はいかが成されます」 二人が興味を浮かべ訊ねた。「六万坪地からの船は鳳凰丸の舳先に向い、左舷を襲い鈎綱を利用し船上に乗り移ります」「こいつは面白くなったぜ、鈎綱とは思いつかなかった。それを使い乗り込むなんて考えもしなかったぜ」 天野監物が興奮し若山豊後の手を握りはしゃいでいる。「お二人とも船上をご覧なされ」 求馬が厳しい声をあげ顎をしゃくった。「あれは火縄銃ですな」 鳳凰丸の船上には警護の男等が、火縄銃を抱え警戒にあたる姿が見えた。「こいつは厄介だぜ」 天野監物が低く呟いた。「ご案じめさるな、我等は短弓でのぞみましょう。舷側に張り付けば銃は役にたたなくなります」 求馬が小鬢(こびん)を風に靡かせ答えた。「成程、船体の膨らみが死角となりますな」 若山豊後が納得顔で答えた。 江戸湾が薄明るくなってきた。鳳凰丸の帆がするすると張られ、錨が引き上げられ、巨体がゆっくりと動きだした。 見る間に速度をあげ三人の視界から、品川沖に姿を消し去った。 その様子を見つめ、求馬が興奮も示さず二人に決行日を告げた。「勝負は明日の丑の刻と決めました」「それは真にございますか?」「そのように嘉納殿を通じ、首座殿を説得いたす」 既に求馬は何時もの態度に戻っていた、彼は愛用の煙管を銜え紫煙を吐きだし、明るくなった江戸湾の海を見つめ言葉を続けた。「お二人に申しあげる。襲撃の指示は老中首座殿から各部署に伝達をお願いします。お二人はその指示に従って下され」 こうして三人が日本橋に着いたのは、四半刻後のことであった。 船着場に猪牙船をつけ、天野監物と若山豊後は組屋敷へと向かった。「お二人ともお忘れあるな、明日の丑の刻が勝負にござるぞ」 二人は求馬に小腰を折って挨拶し去っていった。 求馬はゆったりとした歩調で近くの一文字湯に向かった。朝風呂に浸かって汗を流してゆこうと思ったてのことであった。「ご浪人、珍しく朝風呂ですかえ」 番台の禿親父が声をかけた。求馬の存在はこの辺りでは有名のようだ。なんせ独り身のお蘭の家に、居候を決め込んでいるのだから。 湯船に浸かり汗を流し、求馬は辻売りの蕎麦で腹拵えを済ました。 これから嘉納主水を訪ねる積りであった。今の刻限なら登城前と思った。 案の定、門前には駕籠が止められていた。 求馬は朝日を浴びながら駕籠に近づいた、野鳥がかしましく囀っている。「これは伊庭さま、いかが成されました?」 根岸一馬が登城のための紋服姿で現れ、驚き顔をした。「いよいよ勝負時と心得、登城前に押しかけて参った」「伊庭殿、この早朝に御出でとは何か分かりましたな」 主水が大紋長袴の一般礼服姿を門前に表し声をかけた。「明日の丑の刻が勝負時と判断いたしました。首座殿にはその旨をお伝え下され」「待たれえ、詳細をお聞かせ下され」「嘉納殿、登城の刻限にござる。鳳凰丸は毎晩江戸湾に侵入しております。その為の警備を整えるようお伝え願います」「真にござるか?」 主水が驚きの声をあげた。「お帰りの刻限に再度、お邪魔いたす。仔細はその場にて」 求馬の痩身がすいと駕籠脇から離れて行った。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 28, 2011
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「騒乱江戸湊(94)」「いよいよ闇公方一味との、最後の闘いとなりましたな」 天野監物と若山豊後が興奮の面持ちを見せている。二人にとって長い日時であった、それだけに感激もひとしなのであろう。「さて、鳳凰丸の様子をお聞かせ願いますかな」 求馬が表情も変えず、不精髭のはいた天野監物の顔を覗きみた。「仰せのごとく丑の刻に鳳凰丸は品川沖から侵入してきます。常に舳先を品川に向け、一刻半ほど停泊し七つ半(午前五時)には品川沖に去ります」「三回ともそうでした、あの船は同じ行動を繰り返しております」 若山豊後も興奮ぎみに告げた。「ご苦労でした。明日も同じ刻限に現れましょうな、鳳凰丸は闇公方一味の救出を目的とし、丑の刻に江戸湾に侵入するのでしょう」 求馬がこともなげに断言した。「奴等はいつ動きます?」「天野さん、奴等は江戸の町を火の海にするまで動きません」「なんと-」 若い豊後が憤りを現している。「それも風の強い晩にことを起こします。それがいつかは解りません」「なんとしたことじゃ」 二人が地団太を踏んでいる。風の強い晩を予測することは困難である。それは三人とも分かっていることであった。 「お二人にお願いがござる。明日、それがしを石川御用地にお連れ下さらんか」「・・・もう打ち切りではこざいませんのか?」「天野さん、闇公方一味を殲滅しても鳳凰丸に引導を渡さねば、この一連の騒動は終わりません。その意味で鳳凰丸を一度見たいものです」「分かりまた、ご案内いたします」 翌日の晩、三人が日本橋を出発したのは深夜である。猪牙船で石川御用地に着き、求馬は前方に広がる江戸湾を眺めている。 波の打ち寄せる音にまじって潮の香りが漂い、薄闇の江戸湾が一望できる。 求馬は御用地の先端の岩に腰を据え、愛用の煙管を銜えている。「現れましたぞ」 若山豊後の緊張した声がした。 求馬が江戸湾を透かし見た、品川沖から真っ直ぐに大船が迫ってくる。まるで巨大な岩を連想させる光景である。途中から巨大な帆が巻き上げられ、ゆっくりと回頭をはじめ、船尾を永代橋に向けて停泊した。 この石川御用地のやや南東の位置に投錨したことになる。「お二人にお訊ねいたす。停泊を見たのはこれで四回目ですな、鳳凰丸の停泊の位置はどうですか?」「四度とも同じ場所にございます」 火盗改方の二人が口を揃えて断言した。「そうですか」 求馬は東に霞んで見える富岡八幡宮を眺めている、そこは寛永四年に大川河口の砂洲を埋め建てられたもので、深川の総鎮守で深川八幡とも言われる場所である。 富岡八幡祭りは、江戸の三代祭りのひとつで勇み肌の神輿渡御(とぎょう)として知られていた。「いかが成されました」 二人が求馬の様子を見て不審そうに声をかけた。「富岡八幡宮の大川寄りには三十三間堂がありますな。北に本所、深川を控え、さらに東に向えば埋立地の六万坪地に行き着きます。みなされ鳳凰丸は、三十三間堂を横に見て、船尾を永代橋に向け停泊しておりますな。ならば打ち手はござる」 求馬が乾いた声で勝算があると宣言したのだ。「分かりましたぞ」 若山豊後が興奮した声をあげた。「豊後、おめえは何が分かったのじゃ」「天野さん、闇公方の逃走経路ですよ」「なんだと豊後、おめえにそれが分かったと言うのかえ」「天野さん、両国橋をぬけ竪川か小名木川に入れば横川と合流します。そのまま南に進み、三十三間堂から江戸湾に向いば大船の左舷に出ます」 若山豊後が興奮しながら説明した。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 27, 2011
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「騒乱江戸湊(93)」 屋根裏に潜む求馬が顔をそむけて躱した。小柄が右頬を掠め柱に突き刺さったが、求馬は微動だにせず気配を絶っている。 長年、隠密稼業でつちかった求馬ならではの業である。「可笑しか、何者かの気配がしたとばってん」 地獄の龍が不審そうに天井を眺め、気配を窺っている。「龍五郎、気の所為じゃ。もう少し気持ちをおおらかにいたせ」「それは解ってごわすが、おいにはそげなことは出来もはん」 五十嵐次郎兵が鋭い眼差しで無言で天井を指さした。 地獄の龍が肯き、二人が同時に小柄を放った。「かっ」 「かっ」 と小柄の刺さる音が響いた。「可笑しか」 二人が首を傾けている。「両名が外すとは気の所為じゃ。おおかた鼠でも居たのじゃろう」 闇公方が大杯を置いた。 求馬はまだ同じ場所に潜んでいた。彼の躰すれすれに小柄が突き刺さっている。先刻、同様にわずかな差で躱していたのだ。「龍五郎、何時でもこの屋敷から引き上げが出来るように準備をいたせ」 闇公方が野太い声で下知を下した、彼も不審に感じたようだ。「畏まってごわす」「五十嵐、奥山の件じゃが浪人共は何時でも決起が出来る態勢か?」「御前の意のままにございます」「風の強か夜に江戸を火の海にいたせ」 闇公方が薩摩訛りで下知を下した。その言葉を聴き求馬は気配を消し屋根裏から消え失せていた。(一章)「根岸、いよいよ闇公方が動きだすぞ」 駿河台の嘉納主水が一通の書状を読み終え、用人の根岸一馬に声をかけた。その書状は求馬が投げ入れた書状であった。「これより西之丸に参る」「お駕籠の支度をいたします」「無用じゃ」 主水が身支度を改め屋敷を忍び出て行った。彼は人も知る居合の名人である。愛用の同田貫のすわりが腰に心地よい。 西之丸の内側に老中首座の屋敷がある。その一室で阿部正弘と対していた。 主水が求馬の書状を差しだし、正弘が読み終えるのを待っている。「矢張り新納帯刀が闇公方の正体でござったか。それにしても伊庭はたいした男にござるな」 阿部正弘が賞賛の言葉を口走った。「首座殿、風の強さは解りかねますな、直ぐにも対策を建てねばなりませぬ」「それは嘉納殿にお任せいたす」 阿部正弘がきっぱりと言ってのけた。彼は自分の力を知っている。ご政道のことなら、誰にも負けない自負はあるが、こうした騒動には向いてないのだ。「畏まりました。奥山の監視は火付盗賊改方といたし、町道場の監視は町奉行所に任せます。首座殿は船手組に大川と江戸湾の監視を命じて下され、すべては首座殿の下知としてお願いいたします」「承知いたした」 阿部正弘が肯いた。 こうして時を置かずに老中首座の阿部正弘の下知が、火付盗賊改方、南北の両町奉行所と船手組に発せられた。 船手組は大川と江戸湾警護を命じられ、町奉行所には南北の定町廻り同心、臨時廻り同心、隠密廻り同心が朱引地の町道場を監視下に置いた。 火付盗賊改方は長官の山部美濃守の指揮で、浅草寺から奥山一帯を監視下に置き、江戸の町は厳重な厳戒態勢となった。 河野権一郎は下谷御徒町の堀割りに配下を置き、監視の眼を光らせていた。 これは大目付の嘉納主水じかの命令であった。 季節は七月を迎え、生暖かい風が大川の川面を吹き抜けていた。 そんな晩に天野監物と若山豊後の二人が求馬を訪れてきた。 石川島で鳳凰丸の監視に入って四日後の晩であった。「お蘭さん、黒鯛を持参いたしましたぞ」 二人は応対に出たお蘭を、いつの間にかそう呼びようになった。「まあ、見事な鯛だこと」 玄関先で賑やかなやりとりをしている。「お蘭、お入り頂け」「はいな、旦那、見事な黒鯛を三匹も頂きましたよ」 二人とも髭面を紅潮させ、奥の座敷に現れた。「天野さん、鳳凰丸は現れましたかな?」「貴方さまは大船の名前をご存じですか」 天野監物が仰天を隠さず訊ね、求馬が江戸の監視態勢を告げた。「なんと南北の町奉行所が一緒に動きますか?」 若山豊後が驚きを隠さずにいる。月番制度を町奉行所はとっており、同時に一緒で動くなんぞは、かってなかったことてある。 それだけ事態が逼迫しておると二人は理解した。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 26, 2011
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「騒乱江戸湊(92)」 隠れ家で深夜の話し合いが続いている。生暖かい風が座敷に吹き込み、時折、何かに驚いたのか蝉の羽音が聞こえてくる。「薩摩は調所笑左衛門の建策で藩財政の建て直しとし、年額三万両の中国貿易を願い許されておる。それに上乗せし十倍に相当する密貿易を行ってきたが、幕府は公然の秘密として黙認して参った。それを今となって問題にするのは、藩主の斉興さまを隠居に追い込むためじゃ」「汚い手をつかいもんな」 地獄の龍が闇公方に問いかけた。「汚いのはお互いさまじゃ」 呵々と闇公方が哄笑した。「五十嵐次郎兵、そちとわしは調所笑左衛門に命をあずけた身じゃ。藩財政の建て直しのために、鳳凰丸を建造し密貿易を行い江戸で大金を稼いだきた」 闇公方が昔を思い浮かべるような眼差しを五十嵐次郎兵にそそいだ。「わしが鳳凰丸を江戸湾に侵入させたことが裏目となったようじゃ、誤算であった。わしはその失敗を取り戻す為に、江戸を火の海にしてやる。幕府と阿部正弘の度肝を抜いてやるつもりじゃ」「御前の思いはこの次郎兵にも解ります。その為に地下蔵を造り、大量の武器を用意して参りました。また浪人共を集めてましたのもその為です」「鳳凰丸は浦賀の小島に停泊し、毎晩、丑の刻に江戸湾に侵入を繰り返しておる。決起の時は砲撃を浴びせ、役人共を引き付ける積りじゃ」 闇公方がくびっと大杯を飲み干した。「御前は、どのようにして江戸に入られました」 五十嵐次郎兵が興味を示した。「江戸湾には薩摩の公用船が荷物を満載し停泊しておる。わしはそれに乗船し江戸に参った」 闇公方が笑いを浮かべた。「大胆なことを為されましたな」「五十嵐次郎兵、わしは大隅守さまの血筋を引く身じゃ。これを知る者はごくわずかな者達じゃ」「左様にございますな。薩摩藩家老の新納駿河さまのご息女を母上とし、大隅守さまを父上としてお生まれとなったお方が、御前にございます」 五十嵐次郎兵と地獄の龍が、剽悍な顔つきの闇公方を眺めやった。「わしは薩摩のためなら何でもやる。外様とは申せ薩摩は別格じゃ、幕府は創業以来、薩摩藩に一目おいて参ったのじゃ。阿部なんぞの老中づれに何の遠慮があろうか」「御前は大殿のお血筋を引く方、拙者はどこまでもお供仕ります」「次郎兵、久しぶりの江戸の酒で酔ったかの、愚痴が出るようではお仕舞じゃ」「直ぐに世の中が変わりましょう」「わしは裏世界で生きる新納帯刀じゃ。所詮、そうした運命で世に出たのじゃ。爺さまの愛妾であった、母上と父上の間に産まれたのも何かの因縁じゃ。闇公方の生きざまが、わしには合っておるようじゃな」 その座敷の真上の屋根裏に求馬は身を潜ませていた。黴臭い臭いにつつまれ、闇公方の秘密を全て耳にした。(矢張り、新納家に秘密があったか)と納得する思いが胸に湧いていた。 気配を絶って三人の会話を聴きながら、求馬は鳳凰丸の弱点を考え続けた。一瞬、ひらめきが浮かんだ。 停泊地が解れば猪牙船で襲撃する、蟻が大きな獲物を狙うように舳先を狙って襲いかかる。それも身軽な腕達者を集め、鳳凰丸の舷側に鈎縄を投げ、それを伝い大船に乗り移る、その光景が脳裡をよぎった。「わしは裏世界を支配いたす。所詮、徳川幕府なんぞは昼の世界しか支配できぬが、わしは江戸の町の夜の支配者じゃ」 闇公方が昂然と嘯いた。「御前、そろそろ腰をあげる時にごあそうが」 地獄の龍が座敷の気配を探るような仕草をみせ口を開いた。「龍五郎、急ぐこともなかろう。わしはこの屋敷が気に入っておる」「じゃども、塩屋どんを斬った男が伊庭求馬なら、この屋敷は役人共に知られておりもそうな」 突然、部屋の空気が凍りついた。 地獄の龍の小柄が行燈の灯りを受け、飛翔音を響かせ天板を突き破ったのだ。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 25, 2011
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「騒乱江戸湊(91)」 明日は休みます。(闇公方の野望) 下谷御徒町の古屋敷の座敷で、五十嵐次郎兵と地獄の龍が話を交わしている。「龍五郎、塩屋茂兵衛等一行の帰りが遅いのう」 五十嵐次郎兵が時計を眺め、さかんに塩屋茂兵衛等を心配している。「彼等は妓に眼のない者達ですばい、心配はなかとです」「どうも胸騒ぎがする。誰ぞ、塩屋茂兵衛等を迎えに行け」 五十嵐次郎兵が隣の部屋に声をかけた。「はっ、直ぐに浅草橋まで出向いて参ります」 四、五人の浪人が足音も荒く部屋から飛び出していった。「五十嵐さあ、そろそろ腰をあげる時期にごあそうが」「急ぐ必要はなかろう、江戸を火の海にしてからじゃ」 五十嵐次郎兵の柔和な声が、かえって冷酷に聞こえる。「ここは朱引地にごあんど、何時、幕府の役人に知れるか解りもはん」「心配するな、そろそろ御前もお戻りになられよう」 二人がお喋りを続けていると表が慌ただしくなり、乱れた足音が響き、「大変にございます。塩屋茂兵衛殿と仲間の二人が斬殺されておりました。ただいま死体を運んでおる最中にございます」 荒んだ顔つきの浪人が報告に現れた。「なにっ、塩屋茂兵衛が殺られたと申すか?」 五十嵐次郎兵が驚きの声をあげた。「ひと太刀にございます」「龍五郎、矢張り伊庭求馬が動きだしたようじゃな」「おいが、斬ちゃる」 地獄の龍が肺腑をえぐるような声で吠えた。「龍五郎、悪いが死骸の斬り口を確かめて参れ」 五十嵐次郎兵の下知で地獄の龍が、佩刀を片手に足早に座敷を去った。 四半刻ほどで地獄の龍が座敷に戻ってきた。「どうであった?」「五十嵐さあ、稀にみる遣い手にごわんな。おいと良か勝負にごわすぞ」 地獄の龍が左眼をさらに細めて、自信を込めて嘯いた。 ここも伊庭に知られたな、そう思うと五十嵐次郎兵に戦慄が奔りぬけた。 彼は往年の伊庭求馬の逆飛燕流の凄さを想い浮かべていた。 その夜の四つ半(午後十一時)、一艘の猪牙船が下谷御徒町の堀割りを音を忍ばせ漕ぎ進んでいた。 中央には大兵の武士が腰を据え、単衣に麻の羽織と野袴の軽装で暗闇を透かし見ている。「あの屋敷にございますか?」 船頭が確かめ、鬱蒼と繁る樹木の翳に隠れた船着き場に舷側を寄せた。 武士は野太い声で礼を述べ、慣れた足取りで裏門から屋敷に消えた。この男が闇公方であった。「この刻限にお供も連れず、お一人で参られるとは危険にござる」 座敷で五十嵐次郎兵が苦言を呈している。「心配するな、五十嵐、変わったことはなかったか?」「すべては順調に進んでおりますが、夕刻、塩屋茂兵衛と仲間の二人が伊庭求馬と覚しき男に殺されました」「なんと・・・塩屋茂兵衛まで殺れたと申すか」 闇公方の瞼が剥かれ、炯々とした眼光を光らせ大杯を呷った。 五十嵐次郎兵と地獄の龍は黙然として杯を口に運んでいる。「浪人共は何名揃った?」「塩屋の勧誘で八十名は揃っておりますが、彼等を奥山に集結させることが難題にございますな」「・・・役人共も必死で奥山を見張っておろうな」「御意に」「五十嵐、塩屋茂兵衛が居らずとも大事はないか?」「この五十嵐次郎兵、命にかえても指揮を執ります」 その言葉に満足し、闇公方が五十嵐次郎兵の杯を満たした。「江戸での稼ぎはそろそろ手仕舞いといたす」 闇公方が野太い声で宣言した。「御前、老中首座の阿部正弘の要求は真にございますか?」 五十嵐次郎兵が案じ顔で訊ねた。「小賢しい真似をいたす、わしはその為に江戸に舞い戻ったのじゃ。大殿に隠居を勧めるとは言語道断じゃ」「なんと、太守さまに隠居を?」 地獄の龍の左眼が細まった。「恐れ多かことを申しよる」「さらに幕閣は追い打ちを申し送って参った」「何事にございます」「五十嵐、勝手方重役の調所笑左衛門に密貿易の疑いがあると申し、詰問状が届いた。これも大殿を隠居に追い込む幕府の魂胆じゃ」 闇公方の口調に怒りが込められている。「幕府はこれまで、密貿易の件はなにも問題としませんでしたな」「そうじゃ、見て見ぬふりをしておった。阿部正弘は手詰まり状態なのじゃ」 闇公方が青々とした髭跡を見せ、怒りをぶちまけている。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 23, 2011
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「騒乱江戸湊(90)」 翌朝、求馬の痩身が浅草橋に現れた。彼はゆったりとした歩調で下谷御徒町に通ずる、堀割りの小道を伝っている。 刻限は七つ(午後四時)頃であろう。足音で蛙が驚いて草叢から堀割りへと水音を響かせた。 昼頃、三人の浪人が両国広小路に向かったことは、仏の秀から報せを受けていた。苔蒸した杉の古木が枝を広げ、西日を遮っている。 蝉がジジッとはしりの鳴き声を響かせはじめた。 求馬が地蔵の横の倒木に腰を据えた。今日こそ三人の浪人を血祭りにあげる、そのつもりである。 闇公方との本格的な闘いの前に、相手の力を削いでおきたかったのだ。 求馬が愛用の煙管を銜え、紫煙を吐きだし前方の気配を窺っている。 ここに来てもう半刻(一時間)ほどの時が経っていた。 草を踏みしめる足音と下卑た声が聞こえてきた。「今日の女は良かったぞ」 下品な話題を声高に話し合っている。 求馬が気配を消して立ち上がった。小道を一列に並んだ三人の浪人が近づいてくる。真ん中の男が一目で凄腕の遣い手と知れた。 求馬が古木の翳に身を潜め村正の鯉口を緩めた。 先頭の浪人が横切った途端、村正が光の帯を引いて一閃した。 悲鳴をあげる間もない奇襲攻撃で浪人の左首を袈裟に斬り裂き、血飛沫が霧のように舞い上がった。「何者か?」 残った二人が同時に躰を後退させ、素早く抜刀した。 見事な連携を二人の浪人が見せたのだ。 うっそりと杉の古木の翳から、痩身の求馬が姿をみせ小道を塞いだ。 前面の浪人は塩屋茂兵衛である、正眼に構えた冷酷な眸から殺気が吹き上がっている。求馬は得意の逆飛燕流下段の構えで佇んでいる。「誰じゃ、貴様は?」 塩屋茂兵衛が足場を固め、狂犬の吠えるような声をあげた。「伊庭求馬じゃ、知っておろう」 背後の浪人が草叢を掻き分け、求馬の後ろに廻りこんだ。二人とも修羅場をくぐりぬけた遣い手と知れる。 「貴様が、元公儀隠密の伊庭求馬か?」 塩屋茂兵衛が構えを右脇備えに変化させ、低い声を発した。 無言の気合を発し、背後の浪人が上段から猛烈な攻撃を仕掛けてきた。 求馬は躰をわずかに開き敵の刃を右肩に流し、「しゃあ-」と凄まじい懸け声とともに、村正が地面から天に向かって奔りぬけたのだ。 相手の右脇腹から、左首筋を存分に斬り裂き血潮が噴きあがった。ものの見事に逆飛燕流の秘剣が決まった一瞬である。 それには眼もくれず求馬の痩身が、猛然と塩屋茂兵衛に肉薄した。 塩屋茂兵衛は正眼に構えを変え、正確な足並みで背後に後退した。 逃さずと求馬は痩身を宙に躍らせ、村正二尺四寸(七十三センチ)で頭蓋を、真っふたつにせんと渾身の力を込めて振り下ろした。 塩屋茂兵衛は本能的に正眼の構えを解き、大刀を上空に弾きあげたのだ。「キン-」 火花と焼き刃の臭いが漂い、衝撃で塩屋茂兵衛が跳ね飛ばされた。辛うじて踏みとどまり、片手で大刀を突出し次の攻撃に備えている。 求馬の村正が左下段から、ゆっくりと円弧を描きだした。 塩屋茂兵衛が幻惑されたように後ずさった。「待て、勝負は後日にあずける」 塩屋茂兵衛が狡猾そうな眼を光らせ叫んだ。「ほざけ、貴様は逃さぬ」 求馬の声を聴き、塩屋茂兵衛の背筋に冷や汗が滴り、初めて恐怖を感じた。数々の殺戮を犯してきた、塩屋茂兵衛であってもこのざまである。「これまでじゃ」 求馬が乾いた声を発した。 その声に応じ、塩屋茂兵衛が捨て身の攻撃を仕掛けてきた。水平に刃を奔らせ、身を躍らせ上段から求馬の頭上を空竹割りとすべく襲いかかってきた。 村正が左下段から上段に跳ね上がった。それは紙一重の差であった。刃と刃が交差し、西日を受けてきらきらと輝いた。 村正の切っ先が塩屋茂兵衛の右脇腹に食い込み、左首から血潮とともに跳ね上がった。声なく塩屋茂兵衛の体躯が堀割りに転がり落ち、水飛沫をあげた。杉の古木から驚いた蝉が数匹、空に舞い上がった。「狂犬は狂犬らしく、あの世に行くが定めじゃ」 求馬が絶息した塩屋茂兵衛に不敵な言葉を浴びせ、帳のおり始めた、薄闇の中に痩身を溶け込ませていった。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 22, 2011
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「騒乱江戸湊(89)」「伊庭殿は奴等が事を起こし、大川経由で江戸湾に逃れるとお考えですな」 主水の問いに、求馬が無言で肯いた。「嘉納殿、闇公方が江戸に現れた時が勝負にござるな。奥山に浪人が集結することを阻止願いたい、さらに大船対策が急務にじゃ。その対策を考えて下され」 阿部正弘が真剣な眼差しで主水に頼み、それに対し主水も無言で応じた。「それがしにはまだ御用が残っております。対策が出来しだいお知らせ下され。伊庭、そちには今後も期待いたす」 福山藩十一万石の藩主でもある、阿部正弘は嘉納屋敷を辞し西の丸に屋敷に戻って行った。「首座殿も人が悪い、面倒なことを頼んで行きましたな」 主水が苦笑を浮かべている。(一章) それを汐に求馬も日本橋に戻り、奥の部屋から大川の夕方の風景を眺めている。脳裡には闇公方の出方が浮かんでは消えていた。 大船が江戸湾に侵入しているなら、その証拠が欲しいと思った。 そんな求馬の思惑とは別に、大川は昼の顔から夜の顔へとかわってきた。『わたしゃ春雨、ぬしゃ野の花よ、濡れるたびごと、色を増す』 風に乗って猪の吉の粋な声が聞こえてきた。「ご免なすって」 玄関先でお蘭とのやり取りが聴こえてくる。「旦那、入らせて頂きやすよ」 埃を払った猪の吉が精悍な顔をみせた。「今日はご苦労であった」 求馬の労いの言葉に応じ、猪の吉が奥山の件を報告した。「間にあったようじゃな」「へい、あとで天野さんと若山さんもお出でになられやす」 暫く夜景を眺め雑談を交わしていると、火盗改方の二人が訪れてきた。「何もなくてご免なさいね」 お蘭が冷酒と湯呑を載せた盆を置いて下がって行った。盆にはスルメと酢昆布が載っていた。「遠慮のう飲んで下され」 求馬が三人に酒を勧め、嘉納屋敷での出来事を語って聞かせた。「首座さまもお出でにございましたか?」 天野監物が驚き顔をしている。「左様、阿部さまもいたくご心痛なされておられた」「闇公方の行方と大船の動きにございますか?」 若山豊後が湯呑を手にし、求馬の乾いた相貌を見つめた。「それがしの懸念はひとつ」「何でございます?」「既に大船は江戸湾に侵入しておると思いますが、その事実が知りたい」 求馬が自分の疑問の点を語った。「我等に任せて下さい。真昼間では侵入は不可能です、きっと深夜に侵入する筈です。一日か二日の猶予を下さい」 天野監物が厳しい顔つきをみせ断言した。「一刻の猶予もござらんが、遣って頂けますかな」 求馬の問いに天野監物が答えた。「これから江戸湾に向かいます」 火盗改方の二人が湯呑を飲み干し立ち上がろうとした。「何処から見張られる?」 「猪牙船にて石川御用地に渡り、そこから見張るつもりにございます」「それは良案ですな、ついでに黒鯛でも釣りあげてご持参下され」 珍しく求馬が冗談まじりに二人をけしかけた。「夜釣りですか、それも結構ですな。黒鯛の大物でもお持ちいたしましょう」 お蘭がそっと現れ、二人に風呂敷包みを差し出した。「これは?」 若山豊後が不審そうな顔をした。「何もございませんがお握りと水筒にお酒を用意いたしました」「これはかたじけない、遠慮のう頂戴いたします」 天野監物が不精髭で礼の言葉を述べ、二人が風呂敷包みをかかえて辞して行った。「旦那、いよいよ勝負の時が参りやしたな」「お主には面倒をかけた、感謝せねばな」「滅相もない事を言われやすな」 恐縮する猪の吉の耳元に、求馬が何事か囁いた。「合点承知ですぜ、今夜中に用意だけはしておきやす」 こうして暮れ四つ(午後十時)の鐘の音を聞き、猪の吉も長屋に戻った。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 21, 2011
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「騒乱江戸湊(88)」「これは首座とは思われぬお言葉かな、薩摩藩は先代の重豪公殿の奢侈のお蔭で、藩の財政は破綻いたしておりました。これはお二人もご存じのはず、その建て直しとし調所笑左衛門が登用されました。この調所笑左衛門の刎頸の友が五十嵐次郎兵にござった。そこから推測できることは帯刀が父である斉興殿の窮状を知り、密貿易で稼いだ金子で江戸の闇世界を支配し、父を助けようと画策することは、自然の成り行きかと存ずる」「伊庭殿、新納帯刀をあおった男が五十嵐次郎兵にござるな?」 主水の問いに求馬は無言で肯いた。「重豪殿が一向に藩政を父である斉興殿に渡さすぬことも原因のひとつ」 求馬の語る一言一言に、阿部正弘と嘉納主水が驚きを隠さずにいる。 傍らの根岸一馬が呆然として求馬の横顔を眺めていた。「伊庭、帯刀は何故に大船なんぞ建造し江戸湊を砲撃したり、江戸の町を火の海にするような暴挙を成す?」「大船は調所笑左衛門と示しあわせ、密貿易のために建造したのでしょうが。砲撃事件は幕府の薩摩藩に対する、要求の厳しさに怒りを顕にしたものかも知れませんな」 求馬が語り終え、ニヤリと破顔した。「拙者にも聞こえておりますぞ、斉興殿に隠居を勧めたとか」 主水が阿部正弘を詰問した。「嘉納殿、耳の痛いことを申されるな。幕閣は世子の斉彬殿を買っておる、その為に隠居を勧めておるのじゃ」「首座殿、斉興殿があまりにも強情なので、密貿易の件で揺さぶりをかけたとは本当のことにござるか?」「左様、幕府のためにも斉彬殿に薩摩藩主になってもらいたいのじゃ」 阿部正弘が思わず本音を漏らした。「藩財政の苦しみを知る斉興殿と、調所笑左衛門は幕府の要求に首を縦に振らない、そのために黙認してきた密貿易の件を持ち出し、首謀者として調所笑左衛門の喚問を申し送った。そうでこざろう。だが原因が判明した今、老中首座としての新たな方針をお示し願いたい」 嘉納主水が詰め寄ったが、阿部正弘は手で制し求馬に質問を発した。「伊庭、奴らが行動を起こす時期はどうじゃ」「それがしにも解りかねます。奥山一帯の警備は嘉納殿が請け負われました。それがしは何をいたしましょうや」「伊庭、困らせるものではない。何か成算があろう」 阿部正弘の顔が柔和な顔に戻っている。「ひとつお願いがございます。奥山に浪人が集まることを想定し、地下蔵の爆破のご許可をお願いいたします」「武器を粉砕いたすか?集結するような気配ならば許す」 阿部正弘が言下に答えた。「嘉納殿、今の首座殿のお言葉を聞かれましたな」「大目付といたし全ての部署に命じておきましょう」「きつい一言じゃ。嘉納殿、もう一杯頂けるかな」 阿部正弘が顔の汗を拭っている。「さて最後の質問にございます」「まだあるのか?」 阿部正弘が求馬の問いに戸惑った顔つきをした。「大船対策にございます。聞くところによれば千石船を出島に派遣したとか。それが江戸に着くのは何時になりましょうや」「以外に手間取り、現段階では返答できぬ」「それは悠長な、首座のお言葉とは思われぬ返答にござるな」 主水が鋭い口調で苦言を浴びせた。「それがしも案じてござるが、ない袖は振れぬ。それよりも隠れ家を一気に襲い、かたをつけるかの」「それは早計、肝心の闇公方の消息が分かっておりませぬ。また五十嵐次郎兵が、隠れ家に落ち着いているのには訳があるとみております」 求馬が静かな口調のなにに、秘めた考えがあるように答えた。「可笑しいと感じておったが、伊庭殿は大船が江戸湾近辺に潜んでおるとお考えですな」 主水が髭面を撫でさすって問いかけた。「左様、江戸湾に侵入できる態勢は整っておると思います」 求馬が乾いた相貌で幕府の重鎮二人を眺めやっている。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 20, 2011
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「騒乱江戸湊(87)」「元公儀隠密団で最後に生き残りし、伊庭求馬にござる」 求馬が乾いた声で名乗り低頭した。「そちが噂の伊庭求馬か、この度は苦労をかけた。礼を申すぞ」 阿部正弘が労いの言葉をかけ、美味そうに冷酒を飲み干した。 彼は備後福山藩、第七代目の藩主で若干二十七歳の若き英才であった。前老中首座、水野忠邦の跡をついで老中首座となった人物である。「嘉納殿、飲みながらお話を聞きましょうかな」「はっ、ご報告申しあげます」 主水が奥山の地下蔵、闇公方が画策する江戸の焼き討ちと人集めの件を詳細に語り終えた。 彼は瞑目して聞き入っていたが、主水の報告が終わると低く呟いた。「闇公方とは恐ろしい男じゃな、なんとしても奴の謀略を阻止せねばならぬ」 求馬は黙然と気配を消し、阿部正弘の言葉を聞いている。「伊庭、闇公方なる不届き者の正体を誰とみる?」 阿部正弘が若々しい顔で鋭く求馬に問いかけた。「奴の正体は別といたし、薩摩が関与しておることはご存じにございますな」「うむ」 阿部正弘の柔和な眼が強まり、じっと求馬を凝視した。その視線に気づいた主水も顔を引き締めた。「幕閣では、そちの推測通り薩摩藩が関与しておると思っておるが、あの斉興(なりおき)殿の性格では、このような大それた真似は出来まい」 阿部正弘が苦渋の色をみせ、幕閣の意見を開陳した。「それがしの推測を申しあげます。薩摩藩家老の新納(にいろ)駿河の倅、新納帯刀(たてわき)が闇公方の正体かと存じます」 聴いた主水が仰天した。このような話は一切聴いてないのだ。「伊庭殿、今の話は本当にござるか?」 咎めるような口調である。「奴等の隠れ家の頭領が、五十嵐次郎兵と猪の吉より聞かされた時には、どこぞで聴いた名前と思っておりましたが、最近、ようやく思いだすことが出来ました。嘉納殿には申し訳なく思っております」「続けよ」 阿部正弘が酒で咽喉を潤し、先を促した。「五十嵐次郎兵は新納家の筆頭用人を勤めていた男にございます」「・・・それは間違いないか?」 阿部正弘と嘉納主水の顔に驚きの色がはしった。「年恰好から推測し、ほぼ間違いなきものと思います」 求馬の言葉に二人が暫し沈黙した。「新納帯刀は島津藩主大隅守さまのお血筋を引く者にござる」 求馬がずばりと核心を突き、阿部正弘と主水が顔を見合わせた。「島津斉興殿の血筋を引く者が、なにゆえに新納帯刀を名乗るのじゃ」 阿部正弘が性急に訊ねた。「恐れおおいことを申しあげます。新納帯刀の母は先代の重豪(しげひで)公の愛妾の一人にござった。それを知ってか知らずか斉興殿が、新納家で男女の関係となり、その結果、帯刀を懐妊いたしました」「伊庭、この話は真か?・・あの英邁の重豪公がなにゆえ知らぬのじゃ」「懐妊した女性は新納家の息女、病と偽り屋敷に戻り帯刀を出産いたし、自ら命を絶ったのです」 求馬が乾いた相貌を見せ二人の重鎮の顔を見つめた。「このような話は初耳じゃ」 阿部正弘の顔色が赤く染まっている。「この件は、公儀の極秘事項として伏せられてきました」「なぜ、そちが知っておる」「これを捜った者が、それがしにござった」 求馬が平然とした顔で告げた。彼のみが公儀隠密団の生き残りである。 阿部正弘が絶句した。このような大事があったとは知らぬことであった。「幼き帯刀を養育した男が五十嵐次郎兵にござった。さらに真相を斉興殿に知らせし者も五十嵐次郎兵、彼は帯刀が成人となった暁に、帯刀と共に薩摩より消息を断ちましてござる」「地獄の龍は斉興殿が、我が子に差し向けた男ですな」 嘉納主水が納得顔で訊ねた。「それがしも同様に思っております、藩中で騒動を起こしたという理由で警護のために差し向けた藩士と考えられますな」「じゃが解らぬ、なぜ闇公方なんぞと名乗り、悪のかぎりを尽くすようになった」 阿部正弘の問いに、求馬が揶揄するような口調で話を続けた。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 19, 2011
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「騒乱江戸湊(86)」 容赦なく降り注ぐ太陽を浴び、猪の吉が奥山に辿り着いた。「猪のさん、何かありましか?」 若山豊後が汗を滲ませ、樹木の間から顔を覗かせた。「若山さん、遺体の掘り出しを中止しておくんなせえ」「なにっ-」 声を聞きつけた天野監物が汗まみれで現れた。「もう、仕事にかかられやしたか?」「これからだよ、死臭の臭いの許は確認した」「助かった」 猪の吉が木陰にへたりこんだ。「猪のさん、どうかしたのかえ」 猪の吉が求馬と捜りだした、闇公方一味の人集めの件を述べた。「それは真か?」 天野監物と若山豊後が険しい顔で訊ねた。「間違いありやせんゃ、奴等は地下蔵の武器を使うつもりですぜ」「・・・・」「今頃は伊庭の旦那は嘉納主水さまと相談中と思いやすよ」 天野監物が悔しそうに丘を見つめ豊後に命じた。「捕吏に作業の中止を命じ、すぐに退去させな」「分かりました。痕跡を消して帰します」 若山豊後が丘に姿を消した。「猪のさん、水筒じゃ」 「こいつは有難い」 猪の吉がむさぼるように水筒に口をつけた。三々五々と捕吏が引き上げて行く、三人が無念の形相でその様子を見つめた。「天野さん、これからの展開はどうなりますかね」「おいらにも分かねえが、我等は命じられたことを遣るだけじゃ」 汗を拭いながら豊後が無言で肯いた。「今夜、お二人とも日本橋にお出でになられやせんか」「お蘭師匠の家かな」「へい、あっしも伺うことになっておりやす」「分かった、刻限は?」「これだけの大事件です、旦那の帰りも遅うなりゃしょう。宵の五つ(午後八時)ではいかがですか」「承知したよ」(闇公方の正体) その頃、求馬は嘉納屋敷で主水に三人の浪人の動きを語り終えていた。「奴等の狙いが、江戸の焼き討ちとは恐れいった」 主水が野太い声を発し、腕組みをした。「伊庭殿、奴等の動きをどのように読まれる?」「闇公方の出方次第かと思います。既に江戸に舞い戻っておれば早い時期に事を起こしましょうな」 求馬が平然とした口調で断言した。「伊庭殿、下谷御徒町の古屋敷はご貴殿にお願いいたします。拙者は奥山一帯を厳重な監視下におきます、それについては異存はござらんか?」 主水が肉太い顔を引き締めている。「下谷御徒町の隠れ家は、それがしに任せて頂きましょう。奥山の監視は面白い策ですな、浪人共の集まりを待って一網打尽といたしますか」 求馬が珍しく顔をほころばした。「根岸、江戸城西の丸に使いをいたせ」 主水が用人の根岸一馬に声をかけた。「老中首座の阿部正弘さまにございますな」「秘かに我が家に御出で頂くように、お頼みして参れ」「畏まりました」 主人の意を理解した根岸一馬が足早に去った。「じゃが暑い、誰ぞ冷酒を持て」「昼から酒にござるか」「申されるな、貴殿も相伴下され」 二人は黙然として冷酒を口にしている。「けしからん。朱引地の御徒町に潜みおるとは許せん」 主水が怒気を顕にしている。 主水自慢の坪庭の樹木が、そよとも動かず風も部屋に吹き込んでこない。 野鳥の鳴き声も聞こえない。 むせ返るように暑い江戸の午後である。「首座さま、お越しにございます」 廊下から根岸一馬の声がした。「おう、真昼間から酒盛りにござるか」 麻の着流し姿で柔和な笑みを浮かべた、老中首座の阿部正弘が揶揄をこめ書院に現れた。「暑い時刻にお呼びたていたし申し訳ございませぬ」 主水が上座をおり、根岸一馬が手際よく新しい座布団に変えた。「なんの、嘉納殿のお呼びなら察しがつきます」 阿部正弘が上座に腰を下し、扇子で胸元に風を送っている。「それがしも咽喉が乾き申した、冷酒でも頂こう。その前にそこの浪人を紹介願いますかな」 阿部正弘の眸に興味の色が刷かれている。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 18, 2011
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明日は休みます。 「騒乱江戸湊(85)」 求馬が所在ない素振りで彼等の跡を付け、先頭の浪人を鋭い眼で眺めた。腰の据わりで凄腕としれた。その男が塩屋茂兵衛とは露ほども知らない。 一方の猪の吉は町の小路を巧みに利用し、一行の前に出たり後方に廻ったりしながら追跡をしていた。 三人が足を止めた場所は、新当流大塚道場と書かれた小さな町道場である。 求馬が町角に佇み三人の様子を眺めやっている。 猪の吉が素知らぬ顔で三人の横を通り過ぎた。 一人が道場に姿を消し、暫くして五名の門弟を引き連れ現れた。 五名の門弟はいずれも荒んだ顔つきの浪人者と知れる。彼らは何やら声を低めて喋りあっている。「後日、必ず連絡いたす」 記帳を終えた浪人が門弟に声をかけ、悠然と道場を離れて行った。 それを尻眼に求馬が道場に踏み込んだ。「何か御用かな」 三人と話し合っていた門弟の一人が声をかけた。「お尋ねいす、先刻の浪人との係りを窺いたい」 求馬が冴えた声をあげた。「どうした道場破りか?」 荒らしい声をあげ門弟が求馬の痩身を取り巻いた。「この道場は人を遇する仕来りがござらんか、ただ、係りを窺ったまでの事」 求馬が恐れ気もなく覚めた眼差しを対手にあてがった。「なにっ、痩せ浪人風情が無礼じゃ、大塚道場を愚弄いたすか」 声と同時に求馬の頭上を目がけ竹刀が振りおろされた。その瞬間、求馬の愛刀、村正が白い光芒を放ち鍔鳴の音を響かせた。「おう-」 門弟から驚きの声が洩れた、見事に竹刀が三等分に絶ち斬られ、道場の床に乾いた音を響かせたのだ。「教えては頂けぬかな」 求馬の痩身から殺気に似た気迫が湧き上がり、ずいっと一歩踏み出した。 相手の門弟に恐怖の色が浮かび、立ちすくんでいる。「申しあげる。五両の報酬で奥山に集まるように頼まれ申した」「五両とは大金、なんの報酬にござる」「後日、報せが参る。その折りに仕事の内容を知らせるとのことにござった」「止されることじゃ。命あっての物種と申す」 求馬がにべもない言葉を残し、踵(きびす)を廻し道場を後にした。 彼は馬喰町の大路を歩んでいる。いたる所に馬糞が散らばり、風に吹かれ空を黄色に染めている。これが馬喰町の特徴でもあった。 両脇の旅籠は葭簀を立てかけ、馬糞の混じった風よけにしている。 求馬は猪牙船に戻り舳先に腰を据えた。心地よい川風が吹き抜けてゆく。あとは猪の吉の帰りを待つだけである、二羽の燕がもつれるように虫を追っている。陽がやや西に傾き湿気が強まった八つ半(午後三時)頃、猪の吉が汗まみれで戻りついた。「ご苦労、首尾はどうじゃ?」「奴等は六軒の道場を訪れ、二十三名の門弟と話しておりやした。旦那のほうは何か分かりやしたか?」 猪の吉が手拭を川水に浸し、それで汗を拭っている。「奴等は闇公方の配下じゃ」「矢張りそうですかえ、奴等の狙いはなんでしょうな」「勧誘された門弟は全て浪人じゃ、日はまだ未定じゃが報酬五両で奥山に集まるように言われておる」 求馬が煙管を銜え、飛び交う燕を眼で追っている。「五両で人集めですかえ、・・・こいつは一大事ですぜ。奴等は奥山の武器を使うつもりですぜ」 猪の吉の顔色が変わっている。「闇公方め、とうとう牙を剥きだしたか。江戸の町を火の海にする魂胆とみた、あの三人は何処に向かった」「そのまま岡場所に入りやした」 猪の吉の声に苛立ちが籠っている。求馬は紫煙を吐きだし思案を練っている。「猪の吉、丘を掘ったと解ったらまずい、これから奥山まで駈けてはくれぬか」「承知、遺体の掘り出しは中止ですな」 猪の吉が二つ返事で答えた。「わしは嘉納殿に遭ってから、日本橋に戻る」「任せておくんなせえ」 一声残した猪の吉が脱兎のごとく駈けだした。その姿を眺め求馬は南に足を運んだ。行き先は神田駿河台の嘉納屋敷である。 最早、一刻の猶予もない状況となってきた。いよいよ闇公方が本格的に動き始めたのだ。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 16, 2011
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「騒乱江戸湊(84)」「往事のことゆえ、覚えてはおりませぬが、ゆっくりと思いだしてみましよう」 求馬が主水に答え、猪の吉に顔を向けた。「猪の吉、見張りなんぞは置いてこなかったであろうな」「旦那、やばくてそんなことは出来やせんゃ」 猪の吉の答えに求馬が満足の笑みを浮かべ、「嘉納殿、ようやく闇公方の包囲網が出来上がりつつありますな」「左様、しかし考えたものじゃ。下谷御徒町とはな、神田川を使えば両国や浅草、大川にも簡単に出られる要地じゃ」 主水が感心の面持ちで呟いた。「あっしの一存で浅草橋の近くの飯屋の二階を借りておきやした。数日は上田屋の番頭の秀と言う男がつめておりやす」「猪の吉、上田屋とは何者じゃ」 主水が不審顔で訊ねた。「あっしの昔の仲間にございやす。馬喰町で人足稼業を営んでおりやす」「そうか、町人達にも苦労をかけるの」「それを聞いたら上田屋もさぞ喜びましょう」 求馬が自分の杯を満たし主水に質問を発した。「嘉納殿、我等の成すべきお下知を願いたいものですな」 求馬の問いに主水が破顔して言ったものだ。「すべてはご貴殿の一存にお任せいたす」 主水の言葉に求馬が苦笑した。「伊庭殿、誤解されるな。これからは大船の存在が気がかりにござる。拙者は首座殿と今後の策を相談いたす。勿論、今日の一件も報告いたす」「分かり申した。それがしがご貴殿に変わって下知をいたしましょう」「結構にこざる、なにとぞよしなにお願いいたす」 二人の会話が終わると天野監物が居住まいを正した。「大目付さま、我等は組頭殿になんと報告いたしましょうゃ」「天野、山部美濃守殿には内密にいたせ。与力の河野権一郎には、わしから書状をしたためる。それでよいの」 無言で天野監物が首肯した。「今後の事態の進捗は伊庭殿よりお聞きいたす」 主水が二人の火付盗賊改方に厳しい声で命令した。「明日は猪の吉と下谷御徒町の、古屋敷の下見に参るつもりにござる」「斬り込みですかえ?」 猪の吉が嬉しそうな声をあげた。「まだ早いが闇公方が現れたら考える。天野さんに若山さんは大目付の言われた通り、奥山で死体の存在を捜って頂きます」「ようやく糸口が見つかりましたな」 主水が嬉しそうに酒を飲み下した。 天野監物と若山豊後が一足はやく屋敷を辞していった。白壁に囲まれた屋敷町は深閑と静まり、鬱蒼たる古木に覆われ闇を濃くさせている。「天野さん、美味しい酒でしたね」「おいらも久しぶりに愉快な晩を過ごしたぜ。大目付まも大物たが、伊庭さまは底が知れねえな」「だがなんで組頭の山部さまに内緒にするのでしょうね」 若山豊後が首をひねっている。「豊後、若いよ。山部さまは無類の切れ者と評判じゃ、この事件の概要を知られたら独走されるだろう。それをお二人は心配されておられるのさ、幸い大目付さまの書状がある。まずはお頭にお見せするぜ」 天野監物が若山豊後に説明している。「綺麗な満月ですよ」 天野監物の説明を上の空で聴いた、若山豊後が夜空を仰いでいる。 (二章) 翌朝、天野監物と若山豊後は、お頭より借り受けた捕吏五名を引き連れ人目を避けて奥山へと向かった。 求馬と猪の吉は猪牙船を仕立て、下谷御徒町へと漕ぎ進んでいた。 求馬は素顔を晒し、猪の吉は笠を被り棹を操っている。 派手な色彩を見せ、カワセミが堀割りを素早い動きで飛びかっている。「旦那、前方の小道を見て下せえよ」 猪の吉が小気味よく棹を操り、低い声をかけた。堀割りの小道に三人連れの浪人の姿が見える。いずれも菅笠を被っているが、どことなく胡散臭い感じがする。「猪の吉、船を廻せ」 素早く猪の吉が舳先を廻した。「旦那、ひょっとすると奴等は闇公方の手先ですぜ」「猪の吉、気づかれないように船を着けよ」 二人が猪牙船から飛び降りた。 三人の浪人は浅草橋を渡り、馬喰町の旅籠には見向きもせず通りすぎた。 騒乱江戸湊(1)へ
Jul 15, 2011
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「騒乱江戸湊(83)」「左様にございます」 報告を終えた天野監物の顔も赤くなっいた。初めて大目付に直に報告し、興奮の極みにあるようだ。 求馬は茶を啜り、静かに茶碗を置き主水に語りかけた。「今回の件は初めから、火付盗賊改方が眼をつけておった事件にござる。闇公方や地獄の龍の存在、奥山の賭場や水茶屋もしかりにござる。それも多くの犠牲者を出しながら、ようやくここまでこぎつけたのです」「それは拙者も存じております」 主水が改めてむさくるしい姿の二人に視線を這わせた。「天野、若山、両人ともご苦労であった。改めて礼を申すぞ」 主水の言葉に、天野監物と若山豊後が感激のあまり平伏した。 求馬が外の気配を窺っている。「どうか成されたか?」 見逃さず主水が声をかけた。「闇公方の隠れ家を捜りに参った、猪の吉の帰りが遅うござる」「なんと、猪の吉が遣りましたか?」 主水が思わず膝を乗りだした。「まずは間違いないものと思っております」 求馬の言葉で主水の顔に喜色が浮かび、すかさず手を叩いた。「御用にございますか?」 待っていたように用人の根岸一馬が顔をだした。「根岸、六名分の酒肴を用意いたせ」「畏まりましたが、人数が多うございますな」「間もなく猪の吉も参ろう。この両名が奥山の秘密を解き明かしてくれた、その祝い酒じゃ。根岸、そちも一緒いたせ」 求馬が頬を崩した。こうした心くばりが主水の人柄であった。「天野、若山、膝をくずしゆるりといたせ」 二人がどうしたものかと遠慮している。「遠慮のう膝をくずされよ」 求馬の助言で正座から胡坐に変え、二人がほっとした様子をみせた。 数名の腰元がお膳を持って現れ、それぞれの前に膳部を並べて去った。「我が家の仕来りは独酌じゃ。遠慮のう飲んで食べよ」 主水が真っ先に独酌をはじめ、求馬も杯を口にした。 天野監物と若山豊後が嬉しそうに杯を干している、大目付の屋敷で酒を御馳走になる栄誉が身に染みた。「伊庭殿、大川に浮かんだ人足の死体や大工等の行方不明は、全て奥山の地下蔵から始まったことですな」 主水が大杯を干し訊ねた。「左様」 求馬が短く応じた。「両名に命ずる、明日、極秘裡に丘を掘り起し死体を改めよ。構えて悟られまいぞ」 主水が下知を与えた。「畏まりました」 請けたまった両人の顔が輝いた。大目付直々の命令である。「さて、地下蔵の大量の武器の処置はいかが計らいますかな」「嘉納殿、暫くはそのままにお願いいたす。いずれ動きがあります、そこを一網打尽といたします」「了解いたした」 主水がすかさず答えた。 屋敷の玄関が騒がしくなり、根岸一馬が書院を辞していった。「遅くなりやした」 根岸の案内で猪の吉が姿をみせた。「首尾は?」 求馬が性急に訊ねた。「上首尾にございやす」 猪の吉の精悍な顔がゆるんで見える。「ご苦労じゃ。猪の吉、座って飲め、飲みながら聴こう」 主水が野太い声をあげた。 猪の吉が下座で数杯独酌し、美味いねえと感に堪えない声をあげた。「聴こうか」 求馬が促した。「旦那の言われた通り、探索の輪を広げたことが功を奏しやした。下谷御徒町の古屋敷が奴等の隠れ家と分かりやした」「何か証拠でも見つけたか?」 すかさず主水が訊ねた。「嘉納の旦那、古屋敷の裏門に船着き場がございやす。そこから両国界隈の顔役の、菊次郎一家の子分が、食糧などを運び込んでおりやす」 猪の吉の言葉に天野と若山の二人が仰天した。天下の大目付を旦那よばわりする猪の吉の態度に驚いたのだ。「伊庭の旦那には叱られやしょうが、屋敷に潜り込んで捜りをいれやした。五十嵐次郎兵と言う五十年配の男を頭に、十名位の浪人が屯しておりやす。その中に地獄の龍も混じっておりやした」「なんと、地獄の龍も居りましたか」 若山豊後が驚きの声をあげた。 「さいで」 求馬が自分の杯に視線を落とし、何事かを思いだそうとしている。「伊庭殿、どうかなされたか?」 主水が見逃さずに声をかけた。「五十嵐次郎兵。どこぞで聞いたことのある名にござる」「ご貴殿が知っておられるなら、なかなか手強い男でしょうな」 主水の顔も引き締まっている。騒乱江戸湊(1)へ
Jul 14, 2011
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「騒乱江戸湊(82)」 興奮した猪の吉の声が響き、次々と行灯の灯りが点った。「これは」 天野監物と若山豊後が驚きの声を漏らした。 彼等の脳裡に奥山の見張りを命じられた時の光景がよぎった。 夜の訪れとともに次々と大八車が丸木や、建築材料を満載した光景を見てきたのだ。その時は見世物の新築と思い気にもとめなかったのだ。 最初の部屋に入ると菰につつまれた箱が、整然と積み上げられていた。「猪の吉、注意をいたせ。その箱は焔硝(えんしょう)じゃ」 求馬に注意され、思わず猪の吉が後ずさった。「旦那、爆発なんぞしないでしょうな」「心配はない」 進むにつれ四人の前に信じられない光景が現れた。刀、槍、弓、甲冑、それに三十畳の部屋一杯に、火縄銃が整然と並んでいたのだ。「旦那、こんな部屋が十二もありやすぜ」 猪の吉が仰天している。奥山にこんな地下蔵があることに驚いたのだ。「ご両人、空の部屋を捜って下され」 求馬の下知で二人が次々と空部屋に踏み込んで調査を始めた。「豊後、この部屋には何かが置かれていたな」「多分、ご禁制の品でも隠してあったのでしょうね」 豊後がしたり顔をして答えた。 四人は一刻ほどかけて地下の部屋を捜って廻った。「もう、宜しいでしょう」 求馬の声に誘われ地下蔵から出た、燦々と夏日が降り注いだ奥山の光景がそこにあった。「猪の吉、地下蔵の扉を閉めてくれ」 猪の吉が素早く祠に行き地下蔵の入り口を閉めた。あとは何の変哲もない真夏の風景が四人の前にある。濃緑色の樹木、野鳥のさえずり、丘は何の変化もなく眼の前にある。「ご両人、ようやく奥山の謎が解けましたな」 火付盗賊改方の二人は声がなかった。このような大がかりの地下蔵が作られていようとは想像だに出来なかった。「伊庭さま、これは全て闇公方の仕業ですな。全てが終わった時から由蔵の存在価値がなくなった。奴等は由蔵からこの謎が洩れることを恐れ、命を絶ったのですな」 天野監物が不精髭に汗を滴らせ、自分の考えを述べ求馬に念を押した。「天野さん、貴方の言うとおりでしょうな」 求馬が乾いた声で応じた。「伊庭さま、この報告はどうなさいます?」 若山豊後が複雑な顔をして訊ねた。「今回の責任者は大目付にあります。これから駿河台のお屋敷を訪れ、この地下蔵の事実をお知らせいたす」「されど我等は火付盗賊改方にございます」「こたびの件は河野権一郎殿も承知にござる。この江戸にあのような大量の武器が隠匿されていることを解決するには、火付盗賊改方では荷が重い」 求馬が遠慮なくすばりと二人の痛いところを突いた。「闇公方の正体は依然として不明にござる。あの大船を見て分かるとおり、背後には大物が潜んでおると、それがしは考えております」「背後に大物が」 求馬の言葉に二人は戦慄を覚えた。 「猪の吉、お主は浅草橋に戻ってくれ、首尾よく隠れ家が発見出来たら、嘉納殿の屋敷に参れ。そこで遭おう」「承知にございやす。あっしはお先にご無礼いたしやす」 天野監物と若山豊後に挨拶し、猪の吉が駈け去った。 神田駿河台にある、嘉納屋敷の書院で四人の男が集まっている。 脇息に身をもたせた嘉納主水に、その前に腰を据えた伊庭求馬に火盗改方の天野監物と若山豊後であった。 二人は恐れおおく身をすくめている。「伊庭殿、ご足労をおかけ申した」「本日の件は、このお二人の活躍のたま物にござる」 求馬が功績を火付盗賊改方の二人に譲った。「わしが大目付の嘉納主水じゃ。まずその方から名乗れ」 濃い髭跡をみせ天野監物を指差した。「はっ、拙者は火付盗賊改方同心の天野監物にございます」「同じく若山豊後にございます。お見知りおき下されませ」 二人が大目付の前で畏まっている。「天野監物、奥山の地下蔵の様子を報告いたせ」 主水が癖である髭跡をさすっている。「申しあげます」 天野監物が、今日の探索で知りえた地下蔵の様子を詳細に語り終えた。「そのような場所に地下蔵があり、そこに膨大な武器が隠されておるのじゃな」 嘉納主水が頬の筋肉をひくつかせ、顔面を朱色に変じさせている。 驚天動地の出来事を聞かされたのだ。騒乱江戸湊(1)へ
Jul 13, 2011
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「騒乱江戸湊(81)」 一息をついたところで求馬が、天野監物の不精髭の顔をみつめ促した。「さて、大八車の車輪跡を見つけた場所に案内して下され」「分かりました」 火付盗賊改方の二人が先にたって、求馬と猪の吉を奥山へといざなった。「今日は特別に暑いねえ」 猪の吉が腰の手拭で流れる汗を拭っている。四人は打ち壊された水茶屋を横目にみて、由蔵の賭場の跡へと進んだ。 奥山は濃緑色に彩られ、野鳥がさえずり野兎が姿を見せるなか、黙々と小道を辿った。 三人は汗みどろとなっているが、求馬のみは涼しげな相貌をしている。「伊庭さまは暑くはございませんのか?」「若山さん、隠密の修行は生半可なものではござらん」 求馬が平然と答え、黒羽二重の裾が風に煽られた。「あの祠のそばにございます」 天野監物が樹木に覆われた翳に立つ、小さな祠を指差した。 求馬が足を止め辺りを鋭く眺めやった。むっとする雑草の青臭い臭いが漂っている。「臭いがする、それも死臭じゃ」 求馬が低く呟いたが、天野監物と若山豊後が不思議そうに顔を見合わせた。二人にはなんの異臭も感じられないのだ。「野鳥か獣の死骸でもありますかな」 天野監物が気にもとめず、祠の影に隠れた大八車の車輪跡に近づいた。「ここに車輪跡が無数にあります」 若山豊後が車輪の跡を示し、求馬が仔細に周囲をさぐっている。「いかがにございます?」 天野監物が興味を浮かべ訊ねた。「さて荷物を隠したか、運びだしたかそれが問題ですな」 求馬が独語し、さかんに祠の左手の丘を気にしている。そこは丈の低い灌木と雑草に覆われ、陽を浴びて深緑色に輝いている。「暫し、思案の時を下され」 求馬が大木の翳の風通しのよい草叢に腰をおろした。「旦那がた、正午ちかくですな。少し早いが中食にいたしやしようか」 猪の吉が腰の風呂敷つつみをひらいた、竹皮に包まれた握り飯である。「おう、握り飯か」 天野監物と若山豊後がさっそく手を伸ばした。「旦那、水筒もありやす」 求馬は無言で受け取り、口を濯ぎ握り飯を頬張った。 四人は食事を終え、しばし休息した。求馬は愛用の煙管で紫煙を吐き、鋭い眼を細め目前の丘を眺めている。 それを見た猪の吉の顔も強まった。 旦那がこうした眼を見せる時は、きまって何かを発見した時の癖である。長年、一緒に仕事をした猪の吉ならではの勘である。「旦那、何か臭いやすか?」「矢張り死臭が漂っておる」 天野監物と若山豊後が顔を見つめあい、求馬の傍らに寄ってきた。「それがしの存念をお話しいたす」 求馬の乾いた声に三人が緊張した。「あの丘には荷物の隠し場所がある筈にじゃ。それを作った者は行方不明の大工や左官と思われる」「旦那、それじゃあ長屋で消息を絶った大工も仲間ですかえ」 猪の吉が鋭く反応した。「そうじゃ、荷物の運びだしは大川で斬殺死体で発見された人足と考えるのが妥当じゃろう。それに使われたものが大八車じゃ」「死臭はあの小山からですか?」 天野監物が緊張した声を発した。「左様、あの丘を掘り起こせば、大工や左官の死骸がある筈にござる」 求馬の言葉に二人の火盗改方の猛者が唾を飲み込んだ。「猪の吉、祠の内部を捜ってみよ」 「へい」 猪の吉が脱兎のごとく祠に駆け寄り、さかんに内部を捜っている。「旦那、お見事だ」 弾んだ猪の吉の声がした。「猪のさん、あったか?」 天野監物と若山豊後が、慌てて駆け寄った。 うっそりと求馬が草叢から痩身を立ち上げた。 猪の吉が祠の引き戸を押した、かすかな軋み音が聞こえてくる。「あっ、小山のあそこが開きました」 興奮した若山豊後が大声をあげた。 樹木に覆われた丘の一か所に、ぽっかりと空洞が現れたのだ。 四人が駆け寄った、黴臭い臭いが鼻をつく。「猪の吉、壁に架け行灯がある筈じゃ。探して火を点せ」 猪の吉が内部に飛び込んだ。暫くすると行灯の灯りが点った。「こいつは凄いや」騒乱江戸湊(1)へ
Jul 12, 2011
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「騒乱江戸湊(80)」 翌朝、日が昇るや猪の吉が小便長屋を飛び出した。「猪のさん、今日は早いねえ」 朝顔と万年青(おもと)の鉢に水をやっていた、隠居の弥八爺さんが声をかけた。「今日は忙しいんだよ」 一声のこし猪の吉が船着き場に駈け去った。 この頃の江戸では盆栽や鉢植えが流行っていた。特に長屋のような人口密集地では、植木なんぞを楽しむことは至難のことであった。 いきおい狭い路地や長屋の片隅に適した、盆栽や鉢植えを楽しむことになる。もっとも多かったのは朝顔である。 文化十二年の『花壇朝顔通』では、八十種類の朝顔が紹介されている。 所謂、庶民の日常の趣味として広がっていたのだ。品評会なども盛んに催されていた。 猪の吉は浅草橋の飯屋の二階で、仏の秀とむかいあっていた。 猪の吉が喋るよりも早く、仏の秀が探索の変更を申しでた。「流石は秀だ、おいらもそう考えて相談にきたのさ」「お頭の眼力には頭が下がりやすよ」「馬鹿を言ってはいけねえよ、早速、今日から広げてくれるかえ」「八助のお頭も乗り気です。神田川流域の南北を二十町ほど広げてみやす」 仏の秀が猪の吉に自分の考えを述べた。「そいつはいいや、人数はどうだえ」「今日が勝負と踏んでおりやすから、三十名ほどで捜すつまりです」 この人数は上田屋の総抱えの人数にあたる。それだけ八助の意気込みが感じられる言葉であった。「秀、怒ってはいけねえぞ」 猪の吉が懐中から切り餅を取り出し、秀の膝の前に差し出した。 秀が猪の吉の眼を見つめ、頭を下げた。暗黙のうちに猪の吉の好意が理解できたのだ。「お頭、有難く使わせて頂きやす」「有難うよ、おいらはこれから伊庭の旦那のお供で出かけなきゃあいけねえ。ここはおめえに任せるぜ」「任せて下さい、きっと今日中に捜りだして見せやす」 仏の秀が自信に充ちた声で断言した。「隠れ家を見つけても、くれぐれも手出しはなんねえぞ」「分かっておりやす。おいら達は堅気者てすから」 その言葉を聞いた猪の吉が笑いを浮かべ、階段の下に声をかけた。「親父、握り飯を四人分と水筒を二人分頼むぜ」「おめえさんも大変ですね」 親父が愛想笑いで応じた。「なあに、これがおいらの生き甲斐だ」 猪の吉がそれらの品を風呂敷につつみ、腰に巻いた。「ご無礼するがあとは頼んだぜ、八助には礼を言っていたと伝えてくんな」 そう言い残し、猛然と浅草寺へと駈けだした。 江戸の町の上空を青空が覆いつくしている。「今日は暑くなるな」 上空を仰ぎ見て独語した猪の吉である。 観音堂に着くと三人が猪の吉を待ち受けていた。「遅れやして申し訳ございやせん」「まだ刻限前じゃ」 求馬が助け舟をだしてくれた。「ご両人、猪の吉は浅草橋で地獄の龍と遣りあったそうです」 求馬が猪の吉の活躍を二人に告げた。「まことか、猪の吉殿」 天野監物が仰天し、猪の吉の顔を見つめた。「天野の旦那、猪の吉殿は止しておくんなせえ。尻の穴がこそばゆくなりゃす、呼び捨てにしておくんなせえよ」 猪の吉が苦笑を浮かべている。「分かった。猪のさんとでも呼ばせてもらうよ、豊後も良いの」 若山豊後が笑顔で肯いた。「それで地獄の龍はどうでした」 豊後が興味を示している。「あっしの腕は叶いませんよ。神田川に飛び込んで難を逃れやした。あの示現流は、伊庭の旦那以外には手におえませんな」「しかし猪のさん、あんたは町人だよ」「若山さん、昔は飛礫の猪の吉と異名をとった男です。今も浅草橋に立ち寄り、闇公方の隠れ家の見当をつけ、昔の仲間に指図しての帰りです」 求馬が今朝の猪の吉の行動を、さりげなく二人に伝えた。「猪さん、奴等は浅草橋近辺に潜んでおると申されるか?」「天野の旦那、今日中に必ず見つけだしますよ」 猪の吉が精悍な顔つきで断言した。「これは面白い、一気に闇公方一味の全容が解りますね」 若山豊後の興奮した言葉に天野監物が無言で肯いてみせた。騒乱江戸湊(1)へ
Jul 11, 2011
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「騒乱江戸湊(79) 明日はお休みします。 塩屋茂兵衛の足音が消えると地獄の龍が口を開いた。「五十嵐さあ、御前は何をしようとお考えでごわしよぅな?」「橋口、御前は老中首座の阿部正弘にお怒りじゃ」 五十嵐次郎兵が柔和な口調で地獄の龍に語りかけた。「腕のたつ浪人を集めるのは、江戸を火の海になされるつもりにごわんな」「わしもそう思う、御前は地下蔵の武器を使うと決意されたのじゃ。いずれ御前が戻られたら分かろうな」「左様にごあすな」 地獄の龍が眼を光らせた。「それまでは軽挙妄動はならぬ」 五十嵐次郎兵が床の間の紐を引いた。奥で鈴の音が聞こえた。「御用にございますか?」 五十年配の貧相な顔つきの奉公人が姿をみせた。「早いが酒肴の用意をいたせ、奥の八名の者にもな」 奉公人が肯き足音を忍ばせ戻っていった。「橋口、気を鎮めるには酒が一番じゃ」「おいを心配することはなかとです。我慢は出来もそう」「そうじゃ、今の我等にはただ我慢のみじゃ」 塩屋茂兵衛が二人の浪人を連れ、小門から忍び出ていった。 三人とも菅笠で顔を隠し、名も知れぬ小さな町道場を訪れ勧誘をはじめた。報酬は五両、これを聴き腕のたつ浪人が数十名集まった。 塩屋茂兵衛が、それらの浪人の名前と道場を記帳している。 こうした小さな道場には幕臣は居らず、荒んだ浪人が集まっていたのだ。「おって連絡をいたす」 塩屋は記帳した浪人に口止めをし、岡場所へと向かった。 数日後、この噂が江戸の町を賑わしはじめた。噂とはえてしてこうしたものだ。火付盗賊改方の天野監物も若山豊後もこの噂を耳にした。「天野さん、この不景気な世の中に本当の話ですかね」「おいらに分かる筈がねえよ、本当なら鞍替えしたいぜ」 天野監物が苛立った口調で唾を吐いた。 一方の猪の吉も焦りのなかにいた。場所が朧に分かっているのに隠れ家を見つけたとの連絡が一向にこないのだ。 猪の吉は意を決して日本橋へと向かっていた。こうなれば伊庭の旦那に相談するしかない、そんな思いに取り衝かれ足を急がせていた。 お蘭師匠の小奇麗な家が見えてきた、あたり一帯から蝉時雨がかしましく初夏の西日が猪の吉の背中を焦がしている。「猪さん」 後ろからお蘭の声が聞こえ足を止めた。 振り向くとお蘭が色っぽい姿で佇んでいる。手に買い物の荷をかかえていた。「あれっ師匠、買い物の帰りですかえ」「あれっもないものだよ。何を急いでいるのさ、声をかけても知らんふり、闇公方の隠れ家でも分かったのかえ」 お蘭が鉄火女らしい伝法な口調で訊ねた。「面目ねえ話さね、三日も探してもまるで雲を掴むようだ」「まっ、お出でな。旦那も退屈そうにしていなさるよ、今晩はご馳走だよ。江戸川名物の穴ジャコが手に入ったのさ」「夕べしたのが、今朝まで痛い、二度とするまい、箱枕」 きわどい文句の都々逸を低い声で唄い、お蘭が猪の吉の脇をすりぬけた。 化粧の匂いと色っぽい尻の動きが、猪の眼を刺激した。「精の付く物、作ってやるわ、だから今夜も、泣かせてね」 猪の吉がまけずとお返しした。「馬鹿、なにを唄ってんのさ恥ずかしいじゃないか」 お蘭が顔を染め猪の吉を睨んだ、ぞくっとするほど色っぽい。「どうもいけねえや」 猪の吉がぼやいた。 奥の座敷には求馬が何時ものように、大川の光景を眺めていた。 珍しく大川には屋形船や、葦簀(よしず)張りの屋根船が遡っている。両国の花見見物の船である。 この部屋からも枝垂れ柳や大桜の花火が見えるのだ。 猪の吉が神田川周辺の探索の状況を語っていた。 求馬は薄闇に変化を見せる、鈍色(にびいろ)の空を眺め口火をきった。「お主が地獄の龍と遣りあった場所なら、神田川周辺は間違いなかろう。少し探索の範囲を広げてみてはどうじゃ」「解りやした、早速、明日からそういたしやす」 猪の吉の顔が弾けた。「ところで明日、お主に頼みがある」「なんですかえ、改まって」 求馬が高い鼻梁をみせ言葉を継いだ。「お主の用が済んだら奥山に向かいたい。刻限は四つ(午前十時)、観音堂と決めておきたい。天野さんと若山さんにも繋ぎを頼む」「いよいよ闇公方の秘密を探りに行かれやすか?」 求馬はそれに答えず大川に視線を這わせている。「分かりやした、あっしは浅草橋で上田屋の秀と打ち合わせをして駈けつけやす。十分に時間までに観音堂に着きやす」騒乱江戸湊(1)へ
Jul 9, 2011
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「騒乱江戸湊(78) (地下蔵発見) 翌朝から上田屋の人足が、駕籠かきや馬方、車引きなんぞに変装し、浅草橋付近から神田川流域に散っていった。 そんななか仏の秀が大店の番頭風の、地味な形でふらりと浅草橋に現れた。 お頭の言いなすったのはこの界隈だ、きっと闇公方一派の隠れ家をみつける。そう決心した秀が小汚い一軒の飯屋に入った。「これは上田屋さんの番頭さん」 亭主が驚いて出迎えた。「飯と汁を頼みますよ」 亭主が勝手口に注文の品を伝え、冷えた麦茶を勧めた。「二階の小部屋は空いていますかえ、空いておれば貸してもらいたいのさ」「汚れてはおりますが空いておりやす」「そうかい、二、三日貸して頂けますかえ?」 亭主がご飯と蜆の味噌汁に鯵の干物に古漬を並べ肯いた。「いま小女に掃除をさせやす。飯が終わったら勝手にお使いくだせえ」 そう言い残し勝手口に戻っていった。これは主人の八助と相談したことで、ここを根城とし、聞き込みをする積りであった。 (二章) 闇公方の隠れ家は下谷御徒町の古屋敷であった。回向院別院の源光寺住職の知人の別邸であっが、主人が体調を崩し長いあいだ空き家となっていた。そこを五十嵐次郎兵が借り受けたのだ。 杉や松の古木が鬱蒼と繁り、人通りのない場所にあった。神田川が裏門に流れ込み、大川にもすぐに出られる絶好の隠れ家である。 表門は朽ち果て蔦が生い茂り、通用門は横の小門だけであった。 そこに五十嵐次郎兵を頭に、地獄の龍、塩屋茂兵衛と十名の浪人が隠れ潜んでいた。奉公人は住職が世話をした六十歳くらいの耳の遠い老婆と五十年配の夫婦者だけであった。 彼等は母屋の横の長屋に寝泊まりしている。食糧などは闇公方配下の両国界隈を縄張りとする、菊次郎一家の手下が猪牙船で裏門から運び入れていた。「五十嵐さん、こう籠もっておっては気が滅入る」 塩屋茂兵衛が苛立ちを顕にしている。「御前の指示のあるまでの辛抱じゃ」 五十嵐次郎兵が縦縞模様の袖なしの羽織姿でなだめている。「五十嵐さん、昨夜の町人が気になりもすな」 地獄の龍がさかんに猪の吉の存在を気にしている。「橋口、その町人は飛礫の猪の吉と異名をとる男だ、我等の隠れ家を探っておるのじゃろうな」「伊庭求馬の一の子分と申したそうじゃな、拙者が始末してやる」 塩屋茂兵衛が癇癪の籠った声をあげた。「塩屋どん、侮ったら痛い目にあいもすぞ」「拙者には斬れぬと言われるか?」「あん飛礫は恐ろしか、修羅場を潜り抜けた男とおいは思いますな」「橋口の申すとおりじゃ。暫くは屋敷の警戒を厳重にいたせ」 五十嵐次郎兵が塩屋茂兵衛に命じ、じっと耳をそばだて細見の躰をみせ庭先に降り立った。彼はゆったりとした歩調で鳩舎にむかった。「矢張り、戻っておったか」 彼は鳩舎に入り一羽の鳩を捕え、足についた小さな入れ物から紙片をぬき、しわを伸ばし見入った。彼の顔つきが厳しさをました。 五十嵐次郎兵は座敷に戻り、塩屋茂兵衛に声をかけた。「お主に仕事を与える」「有難い、なんでござる」 暇を持て余していた塩屋が嬉しそうな声で訊ねた。「御前よりの下知じゃ。お主は二人を連れ小さな町道場を廻るのじゃ。そこで腕のたつ浪人を雇いいれよ、報酬は一人五両だ。何をするのかは今は言えぬ、まずは人数を集めよ」「して何名にござる」 「百名じゃ」 「なんと―」 塩屋茂兵衛が絶句した。「未熟者はいらぬ、手付も無用じゃ。話にのる者を集めるのじゃ、出来るか」 五十嵐次郎兵が鋭く塩屋茂兵衛を見つめている。「やりましょう」 茂兵衛がニヤリと破顔し即答した。「ならば早々に屋敷を出ろ、だが注意は怠るまいぞ、この一帯は火付盗賊改方が眼の色を変えて我等を探しておる。くれぐれも悟られるな」 五十嵐次郎兵が懐中から、切り餅を取り出し畳に置いた。「今宵は戻るな、血の気を鎮めるために女と遊んで参れ」「これはかたじけない」 素早く塩屋茂兵衛が金子を懐に納め座敷を辞していった。騒乱江戸湊(1)へ
Jul 8, 2011
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「騒乱江戸湊(77) 「ざぶっ」 水音がして川岸に猪の吉が顔をだした。「畜生め、おいらの手には負えねえ」 鋭く周囲を見廻したが、地獄の龍は諦めて去っていた。 ずぶ濡れの猪の吉が辻売りの蕎麦屋に近づいた。「親父、蕎麦を一杯くんな、それに生卵はあるかえ」「旦那かえ、浪人と争っていなすったのは。それで川にはまりなすったかね」 親父は地獄の龍の懸け声で争いを知っている口調であった。「そうじゃねえよ、あまり暑いんでね。一泳ぎしたって訳さ」 猪の吉が強がりを言った。それにしても恐ろしい遣い手であった。 思いだすと未だに示現流の凄さが、戦慄をともなって身内を駆け巡っている。 だが収穫はあった。この神田川周辺に奴等の隠れ家はある。猪の吉はそう感じ、そう確信した。この一帯を監視すればきっと隠れ家は見つかる。 猪の吉は蕎麦を啜り思案に耽った。この一帯に上田屋の八助の人足を張りつかせる、それは言うまでもなく、石田屋の梅吉の敵討ちとなる。「親父、紙と筆はねえかえ」「上等ではないが、これでいいかね」 親父が粗末な紙と筆を差し出した。「ちょいと借りるぜ」 猪の吉が蕎麦を啜りながら筆をはいらせ、丁寧に折りたたんだ。「親父、これを馬喰町の人足稼業の上田屋の主人に届けてくれまいか」 一朱金とともに差し出した。この頃の相場で一朱金十六枚で一両であった。「暇だから承知するが、こんなには大金はいらねえよ」 親父が遠慮した。「いいから取ってくんな、戻るまではおいらが店番をしているぜ」 親父が手紙をもって駈け去った。 四半刻ほどで親父が戻り、背後に二つの影が現れた。「お頭」 上田屋の八助の驚いた声がした。「待っていたぜ」 「びしょ濡れでどうかいたしやしたか?」「川に逃げ込み、このざまだ」 猪の吉が憮然とした顔付をしている。「お久しぶりにございます」 八助の背後から、小柄な男が腰を低め声をかけてきた。「おめえは仏の秀かえ」「へい、今は上田屋で番頭見習いをしております」 この男も猪の吉のかっての仲間である。稼業を止める時はまだ半端な若造であったが、今はなかなか良い面構えとなっていた。「ここではなんだ、親父、土手に蕎麦二杯と冷酒を湯飲みで三杯運んでくんな」 猪の吉が土手の草叢に腰をおろし、車座となって二人に今までの経緯を語り終え、梅吉を手にかけた者が闇公方の手先であったことも述べた。「お頭が以前に話しておられた闇世界の大物ですな」 八助が蕎麦を啜り訊ね、猪の吉が肯いて口を開いた。「八助、おめえに頼みがある。人足を貸してはくれめえか?」「梅吉の敵討ちですな」「そうだ、人足を繰りだし神田川流域を探ってもらえたえ」「闇公方の隠れ家を探り出すてえ寸法ですな」「やってくれるかえ」「梅吉の弔い合戦だ、喜んでやらしてもらいやすよ」 上田屋の八助がでっぷりと太った胸をたたいて請け負った。「お頭、また奴等は襲って来ませんか?」 仏の秀が周囲を見廻している。「奴等は下手な手はうねえ、そこが恐ろしいところだ」 猪の吉が茶碗酒を呷った。「秀、おめえが頭で奴等の隠れ家を探ってくんな」 八助が仏の秀に命じた。「任せておくんなせえ。ところで何処まで手を広げやす?」「まずはこの浅草橋から両国付近までだ。特に堀割りには注意してくんな、奴等は常に屋形船で移動する。だが気をつけなよ、長身で左眼が糸のように細い浪人が地獄の龍だ。胡散臭い浪人にも気をつけてくんな」 猪の吉が注意を与えた。「へい、合点です」「何か解ったら、おいらに繋ぎをとってくんな。発見しても手出しは禁物だぜ」 念入りな打ち合わせをして猪の吉は、九尺二間の長屋に戻った。騒乱江戸湊(1)へ
Jul 7, 2011
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「騒乱江戸湊(76) 「凄腕の用心棒でした、危うくわたしも殺られところでした」 豊後が由蔵と代貸しの金兵衛の最後の様子を語った。「口封じにござるな」 求馬がこともなげに言った。「伊庭さまもそう考えられますか、その理由はなんです」「由蔵の努めが終わったのでしょうな」 求馬が醒めた声で述べ、酒を飲み干した。「若山さま、ご飯にしましょうか?」 二人の会話が途切れ、お蘭が気をきかした。「今晩はいささか飲み過ぎました。これにて失礼いたします」「若山さん、奥山には天野さんもご足労願います」「了解いたしました。ご連絡をお待ちいたします」 若山豊後は心地よい酔いにひたり帰宅していった。 (一章) 神田橋に架かる浅草橋から、御徒町へと向かう男がいた。それは猪の吉であった、暗闇の先に菅笠を被った長身の浪人の姿が見える。 猪の吉はその男を必死の思いで追跡していたのだ。(奴が地獄の龍だ)と、何度となく呟き跡を追っていた。 昨夜、偶然にも万八亭で火付盗賊改方と斬り結んでいる浪人を見つけた。「おいが地獄の龍にごわす」 と薩摩訛りで嘯く声を耳にし、跡を追跡し地獄の龍を浅草橋のたもとで見失った。その失敗を取り戻そうと、今朝からここで見張っていたのだ。 それが効をそうし、再び地獄の龍を発見した。 猪の吉が物陰で着物を脱ぎ裏返しに着こんだ。紺色から茶の格子柄に変わり、裾を端折った。瞬く間に別人へと変身した。 これは泥棒稼業で身につけた業であった。彼は大胆にも道に姿を現した。(今度は逃さないぜ) そう覚悟を固めた猪の吉である。「枕だせとはつれない言葉、そばにある膝知りながら、チョイナ」 粋な声を張り上げながら跡をつけている。「畜生め、何処まで引っ張るつもりだ」 胸中で悪態をついているが、少しも油断の出来ない相手である。「ぬしは吉野の千本桜、色香よけれど、気がおおい」 地獄の龍が辻売りの蕎麦屋が店開きをする、橋を渡り右に曲がった。 猪の吉が足早に橋を渡り眼を凝らした、地獄の龍が忽然と消え失せていた。「野郎、何処に隠れた」 猪の吉が周囲を警戒しつつ眺め廻した。「おいを付け回すには、何か用にごわすかな」 突然、物陰から長身の地獄の龍が姿をみせ凄味のある声を発した。「おめえさんが裏世界で有名な地獄の龍かえ」 猪の吉が大胆にも懐手で身構え、低い啖呵をきった。既に飛礫(つぶて)が握られている。「よか度胸をしちょるのう」「おいらを斬りなさるかえ?」 猪の吉が素早く後退し間合いをとった。「おいは、おはんを誉めとるのでごわす」 冷静な声のなかに凄まじい殺気が感じとれる。地獄の龍の左眼が細まり、愛用の同田貫の柄に手が添いられた。「旦那、抜き打ちはご免被りますぜ」 放胆にも猪の吉が機先を制した。「気持ちの良か男じゃ、おはんを斬る気はなか」 地獄の龍の声が和んだ。「旦那、おいらが伊庭の旦那の一の子分と知っても見逃しますかえ」「なにっ、伊庭求馬。それを聞いては見逃すことは出来もはんな」 長身から背筋が寒くなるような殺気が、猪の吉の躰をつつんだ。「南無三」 猪の吉が飛礫を放った、風を斬り裂く飛翔音が地獄の龍を襲った。「チェスト―」 示現流特有の懸け声をあげ、飛翔する飛礫を払いのけた地獄の龍が、猛然と猪の吉に迫り。同田貫が一閃、二閃と煌めき、猪の吉が二転、三転と後方に宙返りをした。「見事にごわんな」 地獄の龍が吠え、渾身の一颯が猪の吉の躰を両断したと感じた、地獄の龍が歯噛みをした。 猪の吉は攻撃を避けるや欄干に飛び乗り、自ら神田川に身を投げたのだ。「しもうた」 水音が響き、地獄の龍が欄干の下を覗きみた。 闇に黒々とした川が流れ、人影一つ見えない、暫く辺りを探っていたが、菅笠を被り直し足早にその場から去って行った。騒乱江戸湊(1)へ
Jul 6, 2011
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「騒乱江戸湊(75) 二人はお頭の役宅を辞し、近くの居酒屋の暖簾を掻き分けた。「親父、冷酒じゃ」 二人は奥の醤油樽に腰を据え、茄子田楽と穴子の白焼きを楽しんだ。「天野さん、昨夜の件を伊庭さまにお知らせしますか?」「そうよな、お報せせねばまずいな。大目付さまにはお頭が報告なされよう」 二人は相談しながらも、安堵する気持ちになっていた。咽喉に刺さった棘(とげ)が、奥山の賭場と水茶屋の手入れで溶けて行くようであった。 二人は大徳利二本と追加の鯵の刺身を食し満足した。 そこに一人の人足がふられと入ってきた。もうだいぶ飲んでいるようだ。「亭主、弥太をくんな」 人足が粋な仕草で片足をあぐらに組んだ、亭主が盆に冷奴と錫(すず)のちろりでつけた熱燗を置いた。この時代は豆腐を弥太一と称し、湯豆腐や冷奴で一杯飲むことを弥太と言っていた。「豊後、伊庭さんの頼まれごとを忘れていたぜ」 天野監物の顔つきが真剣になった。「なんですか、改まって」「人足を見て思いだした、伊勢屋の人足を探りだして欲しいと頼まれていたぜ」「闇公方の新しい隠れ家もそうでしたね」 若山豊後も、はっとした顔をした。「おいらは人足を洗ってくる、おめえは伊庭さんに奥山の事件の顛末をお知らせしてくれまえか」「承知です」 豊後がオウム返しに応じ、懐中から財布を引き出した。「ここはおいらが奢る、遠慮はいらねえ」「それじゃあ、ご馳走になりますよ」 若山豊後が暖簾を掻き分けて去った、東に見える千代田のお城の甍が夕日で真っ赤に染まっている。刻限は暮れ六つを迎え、人々が慌ただしく行きかっている。堀割りの柳が風をうけ爽やかに揺れている。 若山豊後はそんななか微醺を漂わせ、ゆっくりと日本橋へと向かっていた。 彼が小粋な玄関先に着いたのは六つ半をこえていた。 訪えをつげると、お蘭が色っぽい顔をみせた。「若山さま、旦那に御用ですか?」「ご在宅にございますか」「はいな退屈そうにしております。おあがり下さいな」 お蘭の伝法な口調に背中を押され、豊後が奥の部屋に通った。「若山さん、いかが成された」 相変わらず覚めた相貌をしている。豊後が昨夜の奥山の手入れと今日の探索の結果を、詳細に報告した。「ご足労をおかけ申した、昨夜の出来事は承知しております。猪の吉が奥山に駈けつけました」「ご存じでございましたか?」「いや、由蔵が殺された事と地獄の龍の件は初耳にござる」「と、申されますと猪の吉殿は、まだ戻っていないと言う訳ですか。それは心配ですね」 若山豊後が心配そうに顔を曇らせた。「心配は無用、あれで百戦錬磨の男です。さしずめ地獄の龍の跡でも追跡しておりましょうな」 求馬が平然とした態度で言い放った。「地獄の龍ですか?」 豊後の驚き顔を眺め、求馬が破顔をした。「戻らぬことが証にござる。だが奥山の大八車の車輪跡はお見事です」「参考になりましたか?」「大いに参考になりました。近々、それがしが現場に向かいましょう」 求馬の言葉で若山豊後の顔が紅潮した。「我等も同道できますか?」「勿論です。その節には連絡をいたしましょう」「旦那、お酒の用意でもしましょうか」 勝手口からお蘭が顔を覗かせ、笑顔を豊後にむけた。「若山さん、お付き合い願いますかな」「遠慮のう、頂戴いたします」 豊後の若々しい顔に喜びの色が浮かんだ、このような幸運は滅多にない。伊庭求馬と言う人物をもっと知りたかったのだ。 お蘭が二人の前に膳部を運んできた。大皿には江戸湾で捕れた活きのよい魚の盛合わせと、鮎の塩焼きに烏賊の塩辛が載っていた。「若山さま、塩辛はあたしの手作り、お口にあうか分かりませんよ」 お蘭が自分の箱膳を求馬の横に置いた。「あたしもご相伴させて下さいな」 若い豊後には眼の毒であったが、三人はしばし四方山話に花を咲かせた。 開け放たれた窓から、大川の風が心地よく吹き込んでくる。 日本橋には提灯の灯りが、行列をつくっている。まだ旅立ちの人々が居るようだ。豊後がそんな光景を眺めていると、突然、求馬が昨夜の事件に触れた。「由蔵は、誰に殺られました」騒乱江戸湊(1)へ
Jul 5, 2011
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「騒乱江戸湊(74) それを目の当たりにした、火付盗賊改方の猛者がどっと後退した。「それでよか」 地獄の龍が左眼を細め威嚇した。 万八亭から客の男が一斉に逃げ散ってゆく。「逃してはならぬ」 その声に二人の捕吏が、猛然と指股と突棒を抱え追いすがった。 地獄の龍が長身を躍らせ、同田貫が捕吏に向かい煌めいた。 一人は胴を両断され、残りの捕吏の首が刎ね斬られ宙に舞った。まるで白昼夢を観るような凄腕を発揮し、地獄の龍が吠えた。「今のうちにごあんど、逃げてたもっせ」 客が逃げ去ってと行くが、火付盗賊改方の面々は呆然と見送っている。 戦慄すべき地獄の龍の凄腕に翻弄されたのだ。「お主等は何をしておった」 山部美濃守が無念の形相で怒声をあげている。総力をあげた手入れの成果は、娼婦、奉公人、客を含め百三十名を数える戦果であったが、彼は不満足であった。肝心の由蔵は殺され挙句に万八亭では四人の配下を失った、それもすべては地獄の龍の所為であった。「組頭、奴と対等に勝負の出来る者はおりませぬ」 河野権一郎が弁明に努めているが、山部美濃守の怒りは収まらない。「河野、水茶屋と賭場の打ち壊しを明日からやれ」「畏まりました。ところで賭場で徴発した金子は大金にございましたぞ」 老練な河野権一郎が話題をそらした。「いくら徴発いたした」 山部美濃守の眸に興味の色が浮かんだ。「全部で二千五百両はあるかと存じます」「ほう、大金じゃの」 はじめて山部美濃守の顔がゆるんだ。 翌朝、奥山に二人の武士が周囲を見回っている。天野監物と若山豊後の二人であった。「豊後、なにも発見できねえな」 天野監物が首筋の汗を拭っている、眩しい陽光を浴びての探索は疲れる。「おめえ、水筒をもっているかえ?」「ありますよ、どうぞ」 竹筒の生暖かい水でも咽喉の渇きには役立つ、二人は木立をぬって奥へと向った。名も知らぬ野鳥がけたたましく囀(さいず)っている。 天野監物が袴を脱ぎ捨て背中に担ぎ裾を端折っている。「天野さん、その姿は止して下さいよ。我々は火盗改方ですよ」 豊後が不精髭を生やした天野に注意を与えている。「おめえはうるせえんだよ、暑くてたまんねえだ」 二人は暑さに茹だりながら、注意深く周囲を探索していた。「豊後、あれはなんだ」 天野監物が木陰を指指した。「祠ですよ」 「そうじゃねえ、祠の地面を見なよ」 二人は慎重に周囲を見廻し祠に近づいた。「天野さん、これは大八車の車輪の跡です」「これは一台ではねえな」 二人は祠の周囲の地面に視線を落とした。深緑の葉をつけた雑木が繁り、左手には小高い丘が鬱蒼とした樹木に覆われている。「なんで大八車がこんな場所を通ったのでしょうかね」「おめえ馬鹿か、荷物を運ぶためだろうが」「そうですよね、だがこんな山奥に何を運んだんでしょうかね」「解んねえよ」 天野の言葉に豊後が不審そうにしている。「矢張り、由蔵がからんでおりますね」「遅いぜ、奴は昨夜の手入れで用心棒に殺られちまった」「あれは口封じですよね」「豊後、おめえの言う通りだ、ここにも闇公方の意志が動いているんだ。そうでねえなら由蔵を使い賭場や水茶屋なんぞ作らねえ、それにな伊庭さんの言葉が気になるな」 二人は風通しのよい草叢に腰をおろし、辺りを眺めやったが別に変った点は見当たらない。「伊庭さんはここに何か秘密があると言われましたよね。天野さん、ここの探索は二人では無理です、戻ってお頭に相談しましょうよ」「おめえの言う通りだ、昨夜に今日だ疲れがひどい、四谷に戻り一杯やろう」 二人は四谷の河野権一郎の役宅を訪れ、探索の様子を報告した。「大八車の車輪跡を見つけたと申すか」 河野権一郎が不審顔をした。「あそこは伊庭さまが言われてように、何か秘密がありそうですが、二人では無理です」 天野監物が不精髭を撫で報告を終えた。「二人ともご苦労じやった。わしも考えてみるが、今日は戻って休め」騒乱江戸湊(1)へ
Jul 4, 2011
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「騒乱江戸湊(73) 明日はお休みします。 「塩屋の旦那、助かりました。礼を言いますぜ」 由蔵の獰猛な顔色が蒼白となり、自慢の長羽織がづたづたに斬り裂かれている。従う金兵衛も同じく恐怖に震いている。「日頃の威勢の良さはどうした。所詮、威張っておってもやくざはやくざじゃな」 塩屋茂兵衛が冷酷な声で揶揄った。「なんと言われやした」「由蔵、お主等二人を連れて逃げるのは無理じゃ」「どうしろと言いなさる」 由蔵が細い眼を光らせた。「由蔵、お主の口の軽さが恐ろしいのじゃ」 塩屋茂兵衛が血糊にまみれた大刀を洗おうと背中をみせ、暗い堀割を覗きこんだ。由蔵が無言で眼で金兵衛に合図をおくった。 由蔵の意をくんだ金兵衛が長脇差を抜き放った。 その鞘走る音に気づき、茂兵衛の大刀が光芒を放って宙を斬り裂いた。 絶叫が闇夜に響き、金兵衛が堀割に転がり落ちた。 右腕を薙ぎ斬られ、返す刀で脇腹をえぐられたのだ。「あっしも斬りなさるか?」 由蔵が長羽織を脱ぎ捨て長脇差を構えた。「お主がしくじったら、命を絶てと命じられておる」 塩屋茂兵衛が平然とした口調で断じた。「散々と利用し、用済みとなると殺すと言いなさるか?」「見ろ、奴等が襲ってくる。捕らわれ小伝馬町送りとなれば責苦は重い、お主は必ず口を割るだろうな。ここが冥途の入り口としれ」 塩屋茂兵衛の体躯から殺気が漂った。「畜生め」 由蔵が凶暴な声をあげ身を翻し逃れようと駈けだした。「馬鹿な奴じゃ」 塩屋茂兵衛が傍らの金兵衛の長脇差を手にし、由蔵の背中を目がけ手槍を放るように投げつけた。長脇差が闇に白い尾を引き由蔵の背中を深々と差し貫いた。「痛えー」 暗闇の中で由蔵の悲鳴があがった。 彼は苦痛を堪え長脇差を抜こうと手を廻しているが、そこま手が届かない。 暫くもがきながら苦悶していた由蔵が、くたくたと草叢に倒れ込んだ。「往生際の悪い男だ」 塩屋茂兵衛が由蔵の絶息を確かめ、背に唾を吐き闇の中に消え去った。 一方、山部美濃守に率いられた一隊が河内亭を包囲していた。 部屋では何も知らぬ男女が、喜悦の声をあげ悶え狂っている。「かかれ―、妓は大広間に集めるのじゃ。客の男は縄をうて」 山部美濃守の檄がとび、火付盗賊改方の同心と捕吏が部屋に躍りこんでゆく。妓共が突然の侵入者に恐怖の悲鳴をあげる。 長襦袢をしどけなく纏った妓や、全裸の男女が逃げ惑い眼もあてられない醜態がそこそこで見られる。「縄をうった男は奉公人ともども庭に引き出せ」 情け容赦もない下知がとんだ。「五組は万八亭に向かうのじゃ、逃げ道を封鎖いたせ」 美濃守の下知を受け、五組の同心と捕吏が高台の万八亭へと急行した。 突然、強盗提灯の灯りを斬り裂くような閃光が走り抜け、先頭を駈ける同心が血煙をあげ、虚空を仰ぎ見るような姿勢で小道に転がった。「誰じゃ」 一行が足を止め身構えた。形容のつかない殺気が闇の中に広がった。 火付盗賊改方の前に長身の翳が浮かびあがった。「何者か―」 すかさず火付盗賊改方の面々が、得物をかかえ包囲網を敷いた。「おはん等を、ここから一歩たりとも入れもはん。おいが地獄の龍にごわす」 低いが肺腑をえぐるような声と同時に、強盗提灯の灯りの前に長身の浪人が姿を現した。その躰から身も凍るような殺気が放射され、四人の同心の肌が粟立った。 騒ぎを知った娼婦と客の男が玄関先で身を震わせ眼を剥いている。「お客人、ここはおいに任せ、逃げてたもっせ」 地獄の龍の言葉が、火付盗賊改方の面々の胸に闘志の火をつけた。「許さぬ」 憤りを浮かべた同心が必殺の一撃を浴びせた、無謀ともいえる行為であった。「チェスト-」 示現流独特の懸け声が闇に轟き、地獄の龍の同田貫が一閃した。 血の臭いが漂い、胸元を絶ち割られた同心が土埃をあげ転がった。騒乱江戸湊(1)へ
Jul 2, 2011
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「騒乱江戸湊(72) 見張りのやくざ者が、賭場に駈け戻る姿が見えた。「発見された。駈けよ」 それを見た天野監物が声をあげ、三十名の男が猛然と小道を駈けた。「親分、火付盗賊改方の手入れだ」 血相を変えた手下が息を乱し賭場に戻ってきた。「なんだって」 由蔵の獰猛な顔が険しくなった。「何事が起った」 奥から塩屋茂兵衛が冷酷な顔をみせた。「塩屋の旦那、とうとう火付盗賊改方が出張ってきやしたぜ」 塩屋茂兵衛が俊敏に暗闇に飛びだした。火付盗賊改方の定紋を描いた提灯を先頭に、火付盗賊改方の面々が猛烈な勢いで迫ってくる。 樹木の間を通し、水茶屋に向かう提灯の灯りも見える。「畜生、奴等がとうとう動きだしたか」 由蔵の取り乱したわめき声が聞こえる。「親分、このまま逃げては闇公方さまに笑われるぜ、よいか皆、片っ端から皆殺しにする」 賭場には十五名の浪人が用心棒として待機している。いずれも腕のたつ連中である、由蔵の配下も三十名はいる。「親分、相手は三十名くらいじゃ。あんたは捕吏を相手にしな、同心は我等があたる」 塩屋茂兵衛が素早く身支度をととのえ、柄杓(ひしゃく)で冷酒をあおった。「御用じゃ、神妙にお縄につけ」 足音も荒々しく捕吏が強盗提灯を振りかざし賭場を包囲した。「豊後、踏み込むぞ」「天野さん、気を付けて下さいよ」 二人とも浅利又七郎の道場で免許を許された猛者である。 その二人の前に強盗提灯に照らされ、一人の浪人が姿を現した。「伊庭求馬なる男はおるか」 余裕の声で挑発した、それが塩屋茂兵衛であった。「そのような者は居らぬ、温和しく縛につけえ」 天野監物が素早く愛刀を引き抜き正眼に構え叫んだ。「そのような腕では拙者が斬れるものか」 塩屋茂兵衛が鼻先で嗤いを浮かべ大刀を八双に構えた。「ゆくぜ素浪人」 声と同時に天野監物が袈裟斬りで仕掛けた。茂兵衛も素早く反応し、刃と刃が火花を散らした。それを合図に用心棒の浪人が一斉に襲いかかった。 捕吏の二人が血飛沫を噴き上げ草叢に転がった。「野郎共、いまだぜ」 由蔵の声に背を押され、長脇差を引き抜いたやくざ者が捕吏に襲いかかった。暗闇が支配する奥山に喚声があがり、火付盗賊改方と由蔵一家とが血で血を洗う闘いが始まった。しかし、流石に捕吏は手慣れている、巧妙に突棒や指股でやくざ者の足元をすくい、転倒するところを押さえこみ縄をうっている。 由蔵が長脇差を手にし、塩屋茂兵衛の許に近づいてきた。「旦那、大丈夫ですかえ」「心配は無用じゃ」 すでに塩屋茂兵衛は三人の同心に手傷を負わせていた。 一方の天野監物は乱戦で塩屋茂兵衛の姿を見失い、浪人二人を血祭りとした。若山豊後は一人を斃し、年若い浪人と対峙していたが、若山豊後の小野派一刀流が完全に相手を圧倒していた。 眼を血走らせた相手の攻撃を、右から摺り気味に抑え顔面を斬り裂いた。「糞っ」 新手の浪人が猛然と上段から豊後の頭上に、空竹割りの荒業を見舞ってきた。それは猛烈果敢な攻撃であった、豊後は地面に躰を転がし躱した。 浪人の顔が不気味に歪み、留めとばかり大きく大刀を上段に振りあげた。 その途端、苦悶の声を漏らし草叢に倒れ込んだ。「豊後、大事はないか?」 天野監物が加勢に駈けつけ、背後から仕留めたのだ。「済みません」「謝るのはあとにいたせ」 激闘が一刻ほど続き、用心棒の浪人と由蔵配下が血まみれとなり捕縛され、辺りに血生臭い静寂が戻った。「死骸の数を数えよ」 河野権一郎の下知が響いた。「お頭、由蔵と代貸しの金兵衛に凄腕の浪人の姿が見当たりません」 天野監物が不審そうに声をあげた。「なんと、捜しだすのじゃ」 河野権一郎が声を荒げた。 その頃、由蔵と金兵衛に塩屋茂兵衛は、火付盗賊改方の重囲を破り、堀割に身を潜めていた。騒乱江戸湊(1)へ
Jul 1, 2011
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