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「影の刺客」(74) 翌日の昼、求馬と猪の吉が奥の座敷で話し合っていた。太陽暦の二月四日を明日に控えた日である。立春の前日のことであった。 猪の吉が昨夜、知りえた出来事を語り、求馬が一橋家襲撃の一件を語り終えたところであった。 二人、お蘭の家で情報を語り合っていたのだ。「旦那、昨夜の襲撃の顛末は、嘉納の旦那からの伝言にござえやすな?」 求馬が無言で肯き、視線を猪の吉に注いだ。「良くぞやってくれたの」「怪我の功名にございやす、まさか勘が当たるとは思ってもおりやせんでした」「さて、今回の事件は長かったが、ようやく先が見えたようじゃ」 求馬がギャマンの窓から、大川を眺めぽっりと呟いた。 真冬というのに真っ青な空が広がり、高瀬船や荷船が忙しく上下している。「旦那、この事件の裏側が見えてこられやしたか?」 猪の吉が眼を光らせた。「それもすぐに判明いたそう」「旦那には見当がついておりやすな」 猪の吉の問いに、求馬が薄い笑いを浮かべた。「お主の捜ってきた三日後にはっきりいたそう。昨夜の一橋家襲撃のさい、曲者は陽動策として本郷の古寺に放火をしたが、それが墓穴を掘ったとは、皮肉な事じゃ。放火をしたが、類焼をせぬような万全な方法をとったのじゃ。そのことで黒幕の正体が、朧ながらも見当がついた」「そんな心遣いを奴等がみせやしたか?」 猪の吉にとり初耳であった。「猪の吉、幕府の高官を襲いながら、江戸の町を守ろうとする黒幕の意図は何を意味する。そうした中で奴等は一橋家を襲いおった、そうした命令をだす黒幕の狙いをなんとみる」「待っておくなせえよ、最初は嘉納の旦那が襲われなすった。その後が老中の松平信明さま、さらに書院番組頭の内藤右京さまと大番頭の岡部大学守さまでしたね」 猪の吉が過去の事件を振り返っている。「その後は西の丸の首座殿を二度にわたって襲いおった。閣僚も首座殿も、初めは江戸の町を騒乱におとしめると曲者と思われたが、その後になり、幕閣の権力争いの一環として考えられるように成られた」 求馬が猪の吉の言葉に補足を加えた。「そうでございやすね、その黒幕は一橋治済さのと皆さまが思われやしたな」「そうじゃ、その黒幕と思われた一橋さまが曲者の真の標的であった」「摩訶不思議な事件ですな」 猪の吉には事件の背景も求馬の意図も、まったく分からなかったが、三日後に旦那は、事件の黒幕を退治されようとしている。それは長年の付き合いで理解できた。「猪の吉、上様は今年には成人あそばされる。その上様を牛耳ることの出来るお方は、一橋治済さまただ一人じゃ。首座にとっては苦難の年と成ろうな、改革も思うように進まぬ、それがわしの苦痛の種でもある」 求馬が宙に眼を遊ばせているが、猪の吉には求馬の言葉の意味が分からなかった。「猪のさん、昨晩はご苦労さん。たまには昼酒もいいもんだよ」 お蘭が二人の前に箱膳を並べ、妖艶な笑みを浮かべて労った。「師匠にそんな事を言われちゃ、尻の穴がこそばやくなりやすよ」「猪のさんの勘も捨てたものではないね」 お蘭が猪の吉の杯に徳利をかたむけ、笑い顔を見せた。「頂きやす」 膳部には鰯の煮付け、天麩羅の盛り合わせと蛸の酢の物が乗っていた。「ご免なさいね、こんなもので」「ご馳走ですよ、それに師匠の酌なら申し分ありやせんよ」「猪のさんも、歳をとると口が巧くなるわね」「こいつは一本とられやしたね」 猪の吉が満更でもない顔つきをした。「どうせ事件の話でしょ、あたしは遠慮しますよ」 お蘭が残り香を漂わせ次の部屋に去った。 二人は暫く黙々と食べ独酌した。「猪の吉、音羽町か目白台の道筋の居酒屋なんぞに知り合いは居らぬか?」 突然、求馬が訊ねた。「知らぬとは言いませんが、それがどうかいたしやしたか?」「鬼子母神へ奴等の頭領が姿を見せる刻限は、早くて夜の五つ(午後八時)頃と思っておる。そこに事件の黒幕も現れるかもしれぬ」「成程、我々はその店で奴等の現れるのを待つてえ寸法ですな」「なるべくなら二階が良いがの」「目白台なら、恰好の店がありやすよ。音羽屋といいやす、二階を貸切にするように交渉してきやすよ」「頼んでくれるか」「合点承知、明日なら暮れ六つ頃からでいいでしょう」 無言で肯いた求馬が、美味そうに酒を飲み干した。影の刺客(1)へ
Nov 30, 2011
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「影の刺客」(73)「おっ、お客だよ」 親父が嬉しそうに欠けた歯をみせ、視線を店先にうつした。 カラリと表戸が開き、長身の体躯をした浪人が現れた。「いらっしゃい、何にいたしやしょう」「寒くて叶わぬ、熱燗をくれ」 酒を頼み、奥の二人連れの浪人の席に腰を据えた。 二人の浪人が丁重に迎えている。猪の吉が素早く盗み見た、頬に刀傷のある精悍な面構えの浪人である。「野郎が頭だな」 猪の吉が杯を嘗めながら口中で呟いた。 男は熱燗がくるや、徳利にじかに口をあて瞬く間に一本空にした。 その後、三人が固まりひそひそと何事か話をはじめた。 失敗ったとか、隠れ家とか断片的な言葉が聞こえてくる。「親父、色男ぶっても駄目だね、どうやら振られたようだ。勘定を頼むぜ」 猪の吉が親父に声をかけた。「へい、有難うございやした、二百文頂きやす」「あいよ」 勘定を済ませた猪の吉が粋な声を張りあげ、端唄をうなり外にでた。「桜は咲いたか、桜はまだかいな、柳なよなよ風しだい、山吹ゃ浮気で色ばっかり、しよんがいな」 そのまま猪の吉がすいと物陰に隠れた。(冷えるぜ、奴等はほかの隠れ家に向かうな)と思いながら寒さに耐え見張っている。「有難うございやした」 親父の声と同時に最初の浪人が現れ、鋭く周囲に眼を配り、本所方面にむかって駆けだした。 それを猪の吉が無念そうに見送った、まだ二人の浪人が現れないのだ。 暫くして二人が表に現れた。「きし、これから鬼子母神まで駆けるぞ」 長身の浪人が声をかけ、足音を消して一つ目橋をめがけて駆けだした。 「野郎、並みの浪人ではねえな」 二人は見事な足さばきを見せ闇に消えてゆく、猪の吉も懸命に追いすがった。大川からの西風が強まるなかでの追跡である。「野郎、きしと呼んだが癸己(みずのとみ)のことだな) 追跡しながら猪の吉が、名前の由来を解き明かしいる。 二人は一つ目橋を右折し、両国橋を横に見て大川の土手を駆けあがり、更に吾妻橋を渡り、寛永寺の門前と不忍池の間を抜け、雑司ケ谷町へと向かっている。 その手前に鬼子母神がある。そこは日蓮宗法明寺の仏堂で、本尊の鬼子母神は子育てや、安産の神として知られていた。 鬱蒼とした欅並木と大銀杏の木が目立ってきた。 二人はようやく足並みをゆるめ、ゆったりと歩みだした。この辺りまで来ると、町並みは途絶え暗闇が支配する一帯である。 二人が肩を並べ暗闇のなかを進んでいる。猪の吉がぴったりと張り付いていた。樹木の梢が風でしなり、木々の騒めきのみが聞こえるのみである。 二人は迷う様子も見せずに参道を抜け、堂塔の奥へと足を踏み入れた。 鬼子母神の祀られてある堂を巡り、鬱蒼と繁った小道を伝い暫く進むと、小さな小屋が現れた。 二人は迷うことなく小屋に姿を消し、すぐに微かな明かりが洩れてきた。 猪の吉が気配を消し板の隙間から内部を覗き見た。 長身の浪人が衣装を脱ぎ捨て、見事な裸体をみせていた。まるで筋肉の塊のような体躯をしている。「お頭、衣装にござる」「きし、そちの傷の手当をいたす」「恐れいります」 きしと呼ばれた男が袴を脱ぎ、着流しとなって上半身を晒した。 見事に鍛えあげた肉体であるが、左肩と背中の刀傷が生々しい傷跡を見せていた。お頭が薬を塗り込み白布を巻いた。 その間、まったく苦痛を洩らすことがなかった。「残念じゃが我等は三名のみとなった、三日後に頭領が参る。無念じゃが襲撃は中止し、頭領の下知に従う」 長身の男が表情を消し、乾いた声で告げた。この男が甲戌であった。 彼は凍った内濠から、見事に生還を果てしていたのだ。「それまでこの小屋に隠れておりますのか?」「最早、三名では目的は果たせぬ」 猪の吉がそっと小屋から離れた。今の言葉を聞けば十分である。あとの処置は伊庭の旦那にお任せする、そう思ったのだ。 強風が銀杏並木を揺らして去った。 猪の吉の姿が参道に現れた。いま来た小屋の方角を見つめたが、鬱蒼とした樹木の翳と闇で見分けることが出来なかった。影の刺客(1)へ
Nov 29, 2011
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「影の刺客」(72) (最終章) この騒動の始まる前、一人の町人が竪川に沿った道を東に向かっていた。笠を被り合羽姿で足を急がせている、それは猪の吉であった。 もう直ぐに二つ橋に差しかかる頃である。この橋の北詰は本所相生町四丁目で、そこから六間堀が小名木川へと繋がっている場所であった。 猪の吉は南北に広がる、深川森下町をぬけ、弥勒寺橋を渡って寺院の土塀に、挟まれた寂しい場所にさしかかった。 猪の吉は、はじめに発見した古寺から、捜りをいれようと考えていた。 そのために曲者に気づかれず、弥勒寺へと遠回りをして近づいていた。 周囲は人影もなく冷たい西風が吹き抜けている。「冷えるな」 独り言を呟き古びた廃屋の寺を見つけ、闇の中に溶け込んで行った。 松の古木が風をうけ、ざわざわと騒がしい音を響かせている。(こいつはもっけの幸いだぜ) 猪の吉が暗闇で頬を崩した。万一、曲者が隠れていても、この風音では気づかれる心配がない。 枯れた下草をかき分け、寺の裏側に辿り着いた。 古寺は灯りもなく人の気配も感じられない。(矢張り、六間堀の東の寺かな)と、胸中でつぶやき耳をそばだてた。 誰も潜む気配がない。 猪の吉は笠と合羽を脱ぎ、丸めて床下に隠し身軽な姿となって寺に侵入した。庫裏も空き部屋にも誰もいなく内部は冷え冷えとしている。 猪の吉が懐中から、小さな蝋燭を取り出し火を点した。ぽっと周囲が蝋燭の明かりに照らしだされた。「矢張り、ここに戻って潜伏していたな」 猪の吉の眼光が鋭くなった。 庫裏には食べ残した残飯の入った丼ゃ、大徳利が散乱している。入念に辺りを調べ、この古寺が奴等の隠れ家であると確信した。「野郎共、誰かを狙って寺を出たな」 猪の吉が独語し、庫裏の片隅に腰を据え、煙草入れから煙管を取り出し、火を点け蝋燭を消した。 漆黒の闇に煙草の火がぽっと明るく輝き紫煙が漂った。 奴等が戻るとこの煙草の臭いに気づく筈だ、そうなると他の場所に移動するだろう。それが猪の吉の読みであった。 凍えるような寒さの中、一刻ほど猪の吉は気配を断って居座っている。 刻限が五つ半を廻ったころ、微かな足音が聞こえてきた。「戻ってきたな」 素早く身を隠し気配を断った。 寺の周囲を警戒しつつ、近づいて來る様子がうかがわれる。 その用心深さに感心しながら、不審の念をもった。曲者は一人のようだ。 忍び足で寺の内部に曲者が踏み込んできた。 突然、戦慄する殺気が漂った。先刻、猪の吉が燻らせた煙草の臭いを嗅ぎとったようだ。慎重に周囲を見回る姿が手にとるように分かる。 男が素早く忍び足で寺から出た、それを見極めた猪の吉も動きだした。 暗闇のなかに男が佇み周囲を警戒し、やがて忍び足で疾走に移った。「野郎、逃すものか」 猪の吉も負けずと痕を追った。 男は浪人姿をしていた。彼は深川相生町まで駆け、そこで足を止めた。 野郎なにをする気だ、猪の吉が物陰から覗いている。 男は二つ橋のたもとにある居酒屋に、暖簾を分けて入っていった。 猪の吉も素知らぬ顔で居酒屋に潜りこんだ。 奥の長椅子に浪人が一人座り、熱燗を飲んでいる。「親父、冷えるね。熱燗をおくれ」 猪の吉は店の中央に座り、湯豆腐を肴に熱燗をちびちび口にして見張っている。どう見ても荒んだ面構えの浪人である。 半刻ほど経った頃、暖簾を掻き分け浪人が顔を現し、すっと猪の吉の背後を通り過ぎ、奥の浪人の傍らに座り込んだ。(野郎、手傷を負っておるな) 猪の吉の鋭い嗅覚が、血の臭いを嗅ぎ取った。 奥の二人は何も語らず、黙々と熱燗を飲んでいる。(畜生、これでは間がもてねえ) 流石の猪の吉にも焦りが生じはじめた。「親父、もう一本くんな。最近の景気はどうだえ」「この通り、見ての通りでですよ」 風采のあがらない親父が、素っ気なく答えた。「おいら女待ちだ。それまで付き合ってくんな」 猪の吉が徳利を差し出した。「結構な身分だね、遠慮なく頂戴しやすよ」 奥の二人の浪人は相変わらず、沈黙したまま独酌している。影の刺客(1)へ
Nov 28, 2011
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「影の刺客」(71)強盗提灯の灯りに、男の素顔が顕となった。左頬に刀傷の痕がある、精悍な面構えの男である。「貴様等に捕えられる訳にはいかぬ」 挑発の声をあげた、甲戌が火付盗賊改方の群れに飛び込んだ。 大刀が闇の中を一閃、二閃と奔りぬけ、血飛沫があがった。 どっと火付盗賊改方の包囲網が広がった。 その隙を見逃さず、甲戌の長身が内濠の淵に逃れでた。「囲んで斬り捨てよ」 その言葉を合図のように、甲戌が思わぬ行動をとったのだ。 長身を宙に躍らせ内濠をめがけ飛び込んだ、水飛沫があがり甲戌の姿が内濠に没した。「濠に飛び込んだぞ、探すのじゃ」 強盗提灯が水面を照らしているが、甲戌の姿は再び現れることはなかった。 その時、嘉納主水が正国を手にし、一橋家の表門から現れた。「大目付殿、大事はござらぬか?」 山部美濃守が真っ先に訊ねた。「心配はご無用にござる、逃げ延びた曲者はござるか?」「五名が逃れでましたが、三名は討ち取りました。だが残念ながら二名は取り逃がしました」 山部美濃守が無念そうに報告した。「大目付さま、その中の頭と覚しき男が濠に飛び込みました。多分、凍死したと思われます」 若山豊後が主水の側に寄りながら告げた。「なんと逃れぬと悟り、内濠に身をなげたか」 主水が内濠に視線を落とした、濠に薄氷が張りつめている。「山部殿、屋敷で七名を討ち取りました。これで奴等は終わりにござるな」 主水の体躯から、まだ剣気が立ちのぼっている。「嘉納殿は居られるか?」 表門から一橋家の警備頭、井坂隼人が凄惨な姿を現した。「井坂殿、かなりの手傷とお見受けいたすが、大事はござらぬか?」「これしきの傷は、かすり傷にござる。大殿のお言葉をお伝いいたす。今宵の働き見事であった、そこもとのお蔭で危うい命が助かった。この働きは上様に上申いたすとの仰せにござった」「これは拙者のお勤め、上申なんぞはお止め下されとお伝いありたい。・・・して警備の方々の被害はいかほどにござる」「ただ今、調査をしておりますが、死傷者が二十名を数えるほどの激闘でござった」 井坂隼人が苦しげな口調で答えた。 主水と山部美濃守が絶句した。思いもよらない損害に唖然となっていた。「嘉納殿、大殿の言上しかとお伝い申した」 井坂隼人が肩を落とし引き上げていった。「組頭っ」 本郷の火事場に向かった、五名が息をきらして戻ってきた。「曲者の襲撃がございましたか?」 天野監物が性急に訊ね、「かたがついたところじゃ。奴等は一名を残し全滅した」「畜生、肝心の時に間にあわねえとは情けねえ」 天野監物が無念そうに夜空を仰いだ。「火事場の様子はどうであった」 山部美濃守の問いに天野監物が町火消、わ組の頭の言葉を伝えた。「天野、他に類焼せぬような古寺に放火したと申すのか?」 傍らの主水が天野の言葉に、敏感に反応した。「町火消の頭が不審そうに申しておりました」「面白くないの」 主水が腕組みをして考え込んでいる。「我等を分散させるために仕組んだ放火じゃ。併し、類焼せぬような心くばりをする奴等とは、思われぬ」 主水が厳しい声を発した。「矢張り一橋さまを狙うための、権力争いですかな」 山部美濃守の眼差しも険しさを増している。「左様、権力争いで一橋さまのお命を狙うための、陽動策ならば放火は、慎重にせねばなりませんな」「嘉納殿、町人に迷惑を与えぬ策としたら、それしか考えられませぬな」「誰が黒幕じゃ、一橋治済さまの命を狙う者は」 主水の言葉に全員が沈黙した。 幕閣の権力争いと考えてきたが、それとは全く異にした事件に進展しているようだ。「山部殿、遣ることは一つ、逃げ去った曲者を捕えることです」「承知にござる。残りは一人、それも手傷を負っております。明日から徹底的な探索をいたします」影の刺客(1)へ
Nov 26, 2011
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「影の刺客」(70) 嘲笑をあびせ、最後の一颯を振りおろそうとした瞬間。「爺を殺してはならぬ」 治済の身をかばうように、お佳世が甲戌の前に立ちふさがった。「女子は下がるのじゃ」 さしもの甲戌も躊躇いをみせた、それを眼にした治済がお佳世の躰の背後に隠れようとした。「それが愚か者の振る舞いか」 罵声とともに一閃が宙を裂き、治済にむかって煌めくと同時に、お佳世が女とは思われぬ勢いで、身を挺し治済をかばった。 白痴ゆえの愛情表現であったのかもしれない。 ざっくりとした斬撃の感触を掌に感じた、甲戌が舌打ちをした。「馬鹿な女子じゃ」 お佳世の豪華な打掛が斜めに両断され、金襴緞子の肩口から血潮が噴きあがり、お佳世の死体が治済の躰に覆いかぶさった。「お覚悟を」 甲戌が大刀を上段に振りかぶった、それは二人の躰を両断する構えであった。治済がお佳世の躰の下から恐怖の顔つきをみせている。「曲者、手を引かぬか」 主水の制止する声が響き、小柄が甲戌にむかって放たれた。 素早く大刀で弾きとばした甲戌に、主水の愛刀、正国が襲いかかった。 甲戌が大刀を摺りあげた。火花をものともせず、主水が猛烈な斬りこみを敢行した。甲戌が躰を沈め躱した、正国が風音を響かせ甲戌の頭上を奔りぬけた。それは瞬時の出来事であった。「貴様は何者じゃ」 甲戌が身を低め大刀を突出した構えで威嚇した。「忘れおったか、大目付の嘉納主水じゃ」 声と同時に主水が一歩踏み込み、再び猛烈な攻勢を仕掛けてきた。 長身の甲戌が見事な足並みをみせ、素早く後退した。 二人は相正眼の構えに入った。そのまま静かな対峙がはじまり、甲戌が間合いを取り、そのままの態勢で耳をそばだてた。 廊下からは駆けちがう乱れた足音が聞こえてくる。 屋敷内の各所でまだ闘いの懸け声と悲鳴が聞こえるが、仲間の大半が斃れたと悟った。「嘉納主水、聞きしに勝る腕前じゃ」 甲戌が正眼から脇備えの構えに変化させ、素早い攻撃を送りつけた。 主水は予期したごとく、数歩さがって受け流し、再度の攻撃に移ろうと態勢を整えた。「この勝負、あずける」 甲戌の長身が後方に反転し、そのまま廊下に逃れ出た。「トオ-」 井坂隼人の懸け声が響き苦悶の声があがっている。甲戌は廊下を疾走しながら、呼子笛を高々と吹き鳴らした。 刺客道の生き残りが一斉に刃を引き、身をひるがえし庭に躍りでていった。 甲戌も襲いくる家臣を薙ぎ倒し庭先に飛びだした。 四名の生き残りが待ち受けていた。全員が血塗れの手傷を負っており、なかには重傷の者も混じっている。「皆、よく遣った。外に出れば火付盗賊改方が待ち受けておろう。なんとしても落ち延びるのじゃ、捕えられたら自害いたせ」 甲戌が非情な下知を与えた。「お頭、さらばにござる」 最後の別れを述べ、四名が散り散りとなって庭から土塀を飛び越えて去っていった。「現れよったぞ、逃すでない」 怒号と大刀の打ちあたる音、乱れた足音が凍った庭先まで聞こえてくる。 甲戌は無念の思いで、その音を聞きながら屋敷内を睨んだ。 既に屋敷は静寂に覆われている。「さらばいぬるか」 独り言を呟いた甲戌が土塀に飛び乗り、周囲を見廻した。 仲間が火付盗賊改方に包囲されながら、激闘する姿が見える。 甲戌が土塀上を風のように走りはじめた。「土塀に曲者が居るぞ」「逃すな」 そうした声を背に受け、神田橋御門へと駆けた。「思った通りじゃ」 御門警備の役人は五名ほどであった、残りは一橋御門に向かったようだ。 甲戌が濠を見つめた。冷え込みが激しく所々に薄氷が見える。「あそこに曲者が居る」 甲戌の姿を見つけた火付盗賊改方の面々が、大刀を抜き連ねた。「貴様等に、わしが倒せるか」 土塀から甲戌が吠え、覆面と黒装束を脱ぎ捨てた。 その様子を火付盗賊改方の面々が、不審そうな顔つきで眺めている。影の刺客(1)へ
Nov 25, 2011
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「影の刺客」(69)「馬鹿者、これからが正念場じゃ。気を緩めてはならぬ」 主水が烈しく叱責を浴びせ、河野権一郎が首をすくめた。 主水は河野の様子を横目とし、屋敷を覗き見て声をあげた。「いかん、奴等は既に潜入しておる。分かるか豊後、あそこの提灯が消えた」「そう言われますと変です、強盗提灯が次々と消えております。やはり奴等は忍び込んでおりますね」 若山豊後も厳しい声を発し、屋敷を鋭く眺めている。「山部殿、お聞きの通りです。ご貴殿は二つの御門を固めて下され」 主水の体躯から殺気に似た剣気が立ちのぼっている。「拙者はこれより、表門から一橋家のお屋敷に踏み込みます」 主水が羽織を脱ぎ捨て十文字に襷がけとなった。「大目付殿、自ら一橋家に踏み込みますか?」「左様、職掌がら、救援に駆けつけます」 嘉納主水は幕閣でも聞こえた剣豪で、特に居合を得意としていた。「組頭、配置は終わりました」 主水に叱責された河野権一郎が、足音も荒くもどってきた。「河野、そちは神田橋御門の指揮をいたせ、豊後とわしは一橋御門じゃ」 山部美濃守がすかさず下知した。「皆に申しておく、奴等は手練者の一団じゃ。一人で立ち向かってならぬ、三人一組となるのじゃ」 主水が下知し袴の腿だちをとって駆けだした。「驚いた人じゃ、皆共、行くぞ」 山部美濃守と河野権一郎が隊を率い、固める御門へと駆けだした。「曲者じゃ」 屋敷の各所から声があがり、扉の破れる音と悲鳴が交差して聞こえる。 小太りの体躯の主水が、一橋家の表門から声を張り上げた。「大目付の嘉納主水にござる。ご開門下され」 屋敷からは怒号と鋼のぶちあたる音が響いてくる。表門が開かれた。「大目付の嘉納主水にござる。助勢のために推参つかまった」 嘉納主水が門から飛び込み、凄まじい懸け声をあげ襲い来る曲者の一人が苦痛の声を洩らし血煙をあげた。 屋敷内は凄惨を極める状況となっていた。 黒装束姿の曲者が阿修羅のように、暴れまわり、その度に警護の士が血潮を噴き上げ倒れ伏している。 嘉納主水が廊下を滑るように奥に向かい、正国が煌めき曲者が血飛沫をあげた。彼の視線の先に血潮にまみれた警護頭の、井坂隼人が二人の曲者を相手に苦戦している姿が見えた。 曲者は二人一組で巧妙な攻撃で井坂隼人を押し詰めている。「嘉納主水にござる、助勢いたす」「大目付の嘉納殿にござるか」 井坂隼人が肩で息をつぎ、掠れ声で訊ねた。「左様」 声で応じ襲いくる曲者の刃を躱しもせず、政国が曲者の一人を袈裟に斬りさげた。井坂隼人も息を吹き返し手練の早業を見せつけた。「ぐふっ」 異様な声を洩らし曲者が、血の帯を引いて廊下に転がった。「治済さまはご無事にござるか?」 主水が血刀を手にし訊ねた。「今のところはご無事にござる」 主水と井坂隼人が廊下を伝って奥へ奥へ向かった。襖や障子戸が破れ、血飛沫で無残な様相を呈している。 二人の警護の士が曲者と相討ちで果てている姿もあった。 それだけ一橋家の家臣は猛烈な抵抗をしていたのだ。 その闘いの最中に、長身の黒装束姿の男が屋敷の奥に迫っていた。「キエッ―」 物陰に隠れていた家臣が猛然と斬り込んだ。曲者は躱しもせずに、片手殴りの一閃を家臣の首筋に浴びせた。 ぱっと血が飛び散り、曲者は血刀をさげて奥に駆け込んだ。 それは一味の頭の甲戌であった。立派な奥座敷を前にして足を止め、座敷の内部を覗き見て、ニヤリと笑みを浮かべた。 座敷には豪華な衣装を纏った五十年配の男と、この世の人とは思われぬ、美貌な女性が恐怖の色を浮かべ佇んでいた。 甲戌が襖を蹴破り、座敷に踏み込んだ。「一橋治済さまに、ございますな」 それは不気味な声で、治済の肌が鳥肌となった。「何者じゃ」「貴方さまのお命を頂戴にあがりました者」 覆面から、くぐもった声を吐き甲戌が無造作に近寄った。「痴れ者、下がれ」 治済が震い声を張り上げた。「お覚悟を為されませ」 不気味な声と同時に、血濡れた大刀を上段に構え、素振りをするように一閃させた。風切り音を耳にした治済が辛うじて避けた。「かくも不覚悟者が、御三卿の実力者か」影の刺客(1)へ
Nov 24, 2011
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「影の刺客」(68)「今夜が最後の押し込みとなろう、忍び込みの刻限は四つ半(午後十一時)とする。皆共、抜かるなよ」 頭の甲戌が覆面越しから、全員を見廻し低い声で命じた。 不気味で決死の空気が、異様に漂った。「本郷に向かった乙丑(きのとうし)は、戻ってきますか?」「この警備では戻れまい、隠れ家に引き返すじゃろう」「あと一刻ほどありますな」「それぞれ二人一組となって行動いたせ、引き上げの合図は笛の音じゃ」 甲戌の命令で男達は、座敷の壁に身をもたせ沈黙した。(治済の命を奪うことが出来るか、・・何名が生き残って戻れるか) 甲戌が一座に視線を廻し、内心で呟いていた。 静寂が田沼屋敷の廃屋を覆っていた。 「若山豊後はおるか?」 主水の野太い声に応じ、若山豊後が一同を割って顔をみせた。「屋敷には変化はないか?」「今のところ変わった様子は見られませぬ」 嘉納主水と山部美濃守に河野権一郎が、大篝火の近くに腰を据え、若山豊後が緊張した顔つきで傍らに待機している。 一方、火事場に駆ける天野監物等は、凍える迎え風を受け先を急いでいた。黒い空を染めていた、炎がやや弱くなったような感じする。 前方から乱れた足音が響き、威勢の良い声がした。「火付盗賊改方の旦那ではございやせんか?」「誰じゃ」「へい、あっちらは町火消八番組の、わ組を与かる頭の才蔵と申しやす」「なんと・・、町火消の頭か」 暗闇から刺子(さしこ)半纏(はんてん)をまとった、いなせな中年の男が現れた。手に鳶口(とびぐち)を持っている。「火事の様子はどうじゃ」「へい、直ぐに消えます」「なにっ」「出火場所は本郷の古寺でございやす、付け火にございやすな。ですが何か可笑しんで、そちらに駆けつける途中でござんした」「可笑しいとは、どういう意味じゃ」 天野監物が不審そうに訊ねた。「付け火をするにしはて町屋から、離れた場所の古寺でございやす。他に類焼する危険のねえ場所なんでございやす」「そんな場所の古寺に放火か?」 天野監物が闇を透かし見て応じた。「いくら風が強くても大蛇池を越えて火の粉が、飛び火する心配はありやせん。今頃は竜吐水(りゅうどすい)で消火を終えた時分にございやすよ」 頭の才蔵が仔細に火事場の様子を語った。 その言葉に天野監物の顔が険しくなった。「そういう訳であっちらは、ここでご無礼いたしやす」「頭、礼を言うぜ」「滅相な、それじゃあ失礼いたしやす」 わ組の才蔵が言い置いて駆け去った。「奴等の仕業じゃ、類焼せぬように離れた古寺だけ放火するとは解せぬ」 火事と喧嘩は江戸の華と、もてはやされた言葉は、それだけ頻繁に火事と喧嘩が起こった証拠であった。 八代将軍の吉宗は、享保の改革の一環として、江戸の防災化をめざし、土蔵造りや瓦屋根の普及に努め、享保五年に南町奉行の大岡忠相は、町方にイロハ四十七組の設立を命じたことから、始まった組織である。「皆、奴等は火事騒ぎを起こし、我等の力を分断しその騒ぎに乗じて一橋家を襲うつもりじゃ。もう、襲われておるやも知れぬ、駆けるぞ」 天野の下知で面々が血相を変えて駆けだした。 その頃、田沼屋敷に潜んでいた曲者が音を消して動き出した。 次々土塀を飛び越え一橋家の広壮な庭に散っていった。 邸内では強盗提灯を照らした、警備の士が慎重に巡回している。 樹木の翳から二人一組となった曲者が、背後から襲いかかり音もなく、小刀で突き殺し、斃した死骸を樹木の影に隠し屋敷に接近していた。 まるで獲物を狙う獣のような俊敏な動きである。「豊後、屋敷の様子はどうじゃ」 主水が愛刀の政国を抱え訊ねた。「庭の警備は打ち切ったようです、ずいぶんと強盗提灯が少なくなりました」「なにっ」 主水が素早く立ち上がった。「もう四つ半を過ぎました。この寒さで屋敷に引き上げたのではありませんか」 河野権一郎が、のんびりした声をあげた。影の刺客(1)へ
Nov 23, 2011
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「影の刺客」(67)「山部殿、万一、奴等が現れましたら、繁三の手下を両町奉行所に走らせて下され。奴等を逃してはなりませんぞ」 主水が山部美濃守に念をおした。「了解いたしましたが、深川方面に逃げられたら事ですな」 山部美濃守が心配そうに主水に問いかけた。「左様、日本橋から船で逃れたら大川に出られます。三名ほど一石橋の警備に廻せませんか?」「大目付殿、無理な相談です。我等は手いっぱいの有様です」「うむ・・・」 嘉納主水が太い腕を組んで吐息を吐いた。 一石橋を抜けると大川に出られる、そうなれば思いのままに逃走が可能となるのだ。またもや奴等の思い通りになる。 (襲いきたら斬り捨てるまでじゃ) 主水の考えが固まった。「山部殿、お屋敷に異変が起ったら、御門を閉め逃げくる曲者は全て斬り捨てて下され。そのように配下に伝えて下され」「承知いたした。これより現場にもどり、今のお言葉を配下に伝えます」 山部美濃守が身支度を直し、凍えるような風のなかに消えていった。(賭けじゃな) 主水はそう感じた。 それまで黙していた繁三が主水に遠慮がちに声をかけた。「大目付さま、一石橋にあっしの手下を張りこませましょうか」「出来るか?」「へい、三名ほどならば」「よし頼もう、じゃが万一の場合は刃向ってはならぬ。気づかれずに痕をつけるのじゃ。見つかれば殺られるぞ」「分かりました。早速、手配りをいたします」 全ての手配りを終えた、主水は黒幕の正体に思いを馳せた。 事件が起こった時期、曲者の狙いは首座と自分自身を狙ったものと思ったが、ここにきて事態は急展開をみせたのだ。 黒幕として一番に疑った、一橋家の当主治済さまが、標的と分かったのだ。(何者じゃ、黒幕は何を狙っておる) 主水は番屋で考えこんだ。 突然、北の方角から半鐘の音が響いてきた。「繁三、火事か?・・・表を見て参れ」 主水も猛然と番屋の外に走りでた。「まずい、北西の風じゃ」 明暦の大火、振袖火事として有名な大火も北西の風の強い晩であった。 本郷丸山本妙寺と小石川新鷹匠町の、大番与力衆の宿所と麹町の町屋の三か所から出火が起こり、江戸の町の半分以上と、お城の二の丸、三の丸と天守閣を消失させる大火となった。 死者十万以上の犠牲者をだした、幕府開闢(かいびゃく)いらいの最大の火災事故であった。「大目付さま、半鐘の音は本郷方面にございます」 繁三が息をきらして駆け戻ってきた。「なんと・・・本郷とな」 主水が本郷方面を見据えた。大火に対する恐れと曲者の襲撃を思い、背筋に戦慄が奔りぬけた。見る間に本郷方面の空が赤々と染まっている。「繁三、両町奉行所に出動を要請して参れ、わしは神田橋御門に行く」 主水が騎乗するや、猛然と神田橋御門に向かって疾走した。 内濠警備の火付盗賊改方にも、動揺が起こっている。「組頭、火事は本郷方面にございます」 頭の河野権一郎が、夜空を仰ぎ見て山部美濃守に告げた。 彼等にとり火事の消火活動も、重要なお勤めのひとつであった。「この時期になんたることだ」 山部美濃守が地団太を踏んでいる。 馬蹄の響きと嘉納主水の声が風にのって流れてきた。「一橋家のお屋敷警備が優先じゃ」 その声に山部美濃守が素早く反応した。「お屋敷に異常はみられぬか、警備を緩めてはならぬ」 主水が馬上から飛び降り駆け寄ってきた。「山部殿、曲者の放火かも知れません、警備の手は緩めないで頂く。天野監物は居るか、そちは配下を率い火事場を見て参れ」 天野監物を先頭に、五名の火付盗賊改方が本郷方面に向かった。 火付盗賊改方の面々が、心配顔で見送っている。 その一瞬の隙を憑いて、黒い影が次々と旧田沼屋敷に消えたのを見逃した。火事を知らせる鐘の音に気をとられた瞬間である。 十二名の黒装束の男達が、田沼屋敷の座敷に集結を終えていた。影の刺客(1)へ
Nov 22, 2011
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「影の刺客」(66)「奴等は危なくなると宿場町に逃げ込みやす。そこで考えたんですが、また深川に戻っちゃいねいかと思いやしてね。あっしの考えは間違っておりゃすかね」 猪の吉の顔つきが真剣にみえる。「面白い、明日にでも捜ってくれるか?」 犯行を重ねた者は、一度、逃げた場所にまた舞い戻る。こうして習性をもつ事を、求馬も熟知していたのだ。 求馬が返答し、それを聞いた猪の吉の顔付きが変わった。「また見当違いかもしれゃせんが、どうもそんな気がいたしゃす」「お主の勘じゃ、間違いはあるまい」「合点で」 途端に猪の吉の顔が生き生きとした。「お主の勘が当たっておれば、事件は一挙に解決するじゃろう。だが功名に逸ってはならぬぞ。ただ痕を追跡するのじゃ」「あっし一人では手におえる奴等ではありやせんよ、分かっておりゃす」「飛礫の猪の吉の腕前を見せてもらおうか」 求馬が煽るようにけしかけた。 (十三章) 江戸の町は天神祭を迎えると、すぐに二月となる。早咲きの梅の蕾がふくらみを見せはじめている。 夜の帳の落ちるのを待って、厳重な足拵えの猪の吉が菅笠に合羽を羽織、神田明神下の棟割長屋から両国橋に向かった。 相変わらず筑波おろしが吹きつのる晩である。視線を南に転ずると、神田橋御門から一つ橋御門にあたる夜空が赤く染まっている。(天野の旦那も、若山さんも大変だね) そう思いながら足を急がせた。 この晩の一橋家の屋敷は、厳重な警戒下にあった。 大篝火が各所に炊かれ、警備の手練者が屋敷内と外回りに別れ巡回している。強盗提灯の灯りが庭園のなかから洩れている。 内濠警備の火付盗賊改方が、いち早く屋敷の変化に気づいた。「豊後、一橋家も曲者の襲撃に備えたようだな」「伊庭さまでしょう、きっと昨夜でも連絡をとられたのでしょうね」「てっきり治済さまが黒幕と思っていたのに、世話がねえことだ」 天野監物と若山豊後が、篝火のそばから屋敷を見守っている。 一橋家の異常な変化が、大目付の嘉納主水にも知らされた。彼は同朋町の十手持ち、繁三親分の番屋に騎馬で駆けつけてきた。「ご苦労に存じます」 繁三が恐るおそる熱い茶を差し出した。「有難い、茶は温もる」 主水が濃い髭跡をみせ茶を啜り、大火鉢の前に陣どった。「済まぬが火付盗賊改方の、山部美濃守殿をお呼びしてはくれまいか」「へい、早速、ご連絡をいたしに参ります」 繁三が番屋から駆けだしていった、四半刻ほどし山部美濃守が現れた。「この寒気の中に大目付殿も参られておられましたか」 山部美濃守も大火鉢の傍に腰を据えた。「あのような警護では、奴等が襲って來る心配はござらんが、万一ということもあります。山部殿も番屋でお付き合い願いたい」「しかし、分からぬものですな。突然、一橋家があのような厳戒態勢をとるとは、曲者からの挑発でもありましたかな」 山部美濃守が、特徴のある高い鼻梁をみせ呟いた。「なんの、伊庭殿が治済さまに注意を促したのでしょうな」 主水が確信ある口調で答え、茶を啜った。「成程、拙者は幕閣の権力争いがもとで、今回の事件が起こったと思っておりました。そうした意味で黒幕は、てっきり一橋さまと推測しておりましたが、面倒な事件となりましたな」「山部殿、ご貴殿の申されるよう、黒幕の正体がまったく分からなくなりました」 主水の肉太い頬が、微かに赤みをおびてきた。「曲者が襲ってまいった時の、打ち合わせをしておきましょう」 その言葉に、山部美濃守の眼が鋭くなった。「我等は西の丸のお屋敷には踏み込めません、それ故に一橋家の警護の士に曲者は任せるほかござらん。我等に出来ることは一つ橋御門と神田橋御門の警備のみ、決して御門から逃してはなりません」 主水が同田貫と異名をとる正国の、大刀を肩にあて下知した。「悔しいことですな。西の丸に入れぬとは、だが万一の場合でも、二つの橋を抑えた我等の勝ちです」 山部美濃守が満々たる自信をみせ、嘯いたことであった。影の刺客(1)へ
Nov 21, 2011
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「影の刺客」(65) まだ屋根裏に曲者が潜んでいるような思いがしていたのだ。「恐れながら申し上げます。拙者はこの一連の騒動の黒幕は大殿と思っておりました、二度にわたる首座殿の襲撃を考えますと世間もそうみましょう。松平信明さまに幕臣の二人は、世間の眼を逸らす大殿の謀かと推測いたしておりました」 井坂隼人が恐れるふうもみせずに言い切った。「何故、そのような推測をした」「お隠しなされますな、大殿は大御所になられようと上様にお願いしましたな。だが、首座の松平定信さまに邪魔をされました」「井坂、わしにも野望はある。じゃが定信とは縁戚関係じゃ、その命を奪うほど冷酷ではないわ」 治済が老獪な眼を光らせ否定した。「大殿、大目付の嘉納主水は曲者が大殿を狙っておることを探りだしましたな、それであのような物々しい警護をしておる訳にございますな」 治済はそれには言及せず、「井坂、警護を倍に増やせ。わしはまだ死ぬ訳にはいかぬ」「畏まりました」「さらば下がって今夜の警護を万全にいたせ」 井坂隼人は座敷を辞し、長廊下を歩みながら主人の胸中を計りかねていた。治済の一番の政敵は老中首座の松平定信さま、そう思うとすんなりと大殿の言葉は信じられない。併し将軍の実父として幕閣に大きな影響力を保持し、大奥までも味方につけた辣腕を思うと、一橋家を守りとおすことが自分の任務と心に決した。 それは幕臣ながら一橋家の家臣である、自分の微妙な立場を感じとったことであった。治済さまをお守りする、これが出世の早道と悟ったのだ。 一橋家の屋敷は井坂隼人の下知で盤石な警備陣を敷いた。 屋敷の各所に手練者を配置し、自らも先頭にたって屋敷の警備に奔走していた。火付盗賊改方も連日、内濠外の警備を続けている。 それは首座である松平定信の命で、嘉納主水は一同に厳命として伝えていたのだ。「今夜も冷えるね。惚れて通えば 千里も一里 逢わで帰れば また千里」 凍えるように冷えた日本橋を、いなせな声で謡いながら行くのは猪の吉である。一橋家の厳重な警備を知った江戸の住人は、闇が落ちると早々に家路にもどり、町は無人と化している。 猪の吉は板橋宿の失敗を内心でかみ殺し、道を急いでいた。「今晩は、猪の吉でござんす」「開いているよ」 中からお蘭の声がした。「お邪魔いたしやすよ」 声をかけ小粋な格子戸をカラリと開けた。「旦那がお待ちかねだよ」「師匠、こんなに遅くお邪魔して申し訳ありやせんね」「遠慮する間柄でもないよ」 相変わらず江戸の鉄火女の歯切れが心地よい、お蘭が女盛りをみせつけ色っぽい微笑を浮かべている。「わがものと思えば軽き傘の雪、恋の重荷を肩にかけ、芋狩り行けば、冬の夜の川風寒く、千鳥鳴く、待つ身に辛き置炬燵、実にやるせがないわいな」 猪の吉は内心忸怩たる思いをこらえ、謡いながら玄関で埃を払っている。「馬鹿を言ってないで早くお入りな」「馬鹿は言い過ぎですぜ」「ご飯はまだかい」「近くの店で済ましてきやした」 猪の吉が奥の座敷にあがった、相変わらず求馬は夜の大川を眺めている。「旦那、ご免なすって」「火鉢に寄れ、外はぐんと冷え込んでおろう」 求馬は猪の吉のしくじりを一言も云わずに労りの言葉をかけた。「旦那、先日は申し訳ない事をいたしやした」「我等が気づくことが遅かっただけじゃ」 化粧の匂いが漂い、お蘭が熱燗を乗せた盆をもって現れた。「飲んでおくれな、暖まるよ。無くなったら声をかけておくれ」 そのまま部屋から去った。猪の吉には二人の労りの気持ちが痛いほど心に染みる。凍えた手でぐい飲みに熱燗を注いだ。「遠慮なく頂きやす」 冷えた躰の五臓六腑に熱燗の暖かさが染みとおって行く。 求馬も独酌をはじめている。「美味いねえ」 猪の吉が美味そうに三杯ほど飲み干し口を開いた。「旦那、笑わないでおくんなせえよ、あっしは悔しくってね。それで考えてみやした、奴等の隠れ家は何処かって」「それでこそ猪の吉じゃ、何か思いついたか?」 求馬が常のごとく乾いた声で訊ねた。「奴等は初め深川森下町の古寺に潜んでおりやした、もうひとつの隠れ家は神明門前町の古寺にございやしたね」「・・・・」 求馬は口を閉ざし黙々と杯を口にしている。影の刺客(1)へ
Nov 19, 2011
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「影の刺客」(64)「小娘と乳繰りあっておる場合じゃございませんぞ。奴等の狙いは貴方さまのお命ですぞ」 屋根裏の求馬が、治済が驚愕するような言葉をなげた。「なぜ、このような手のこんだ事をするのじゃ」 治済が恐怖におののいた声を発した。「それがしの関与せぬことにござるが、こうして再び忍び込んだ目的は貴方さまにこの事実をお知らせするためにござる」「その方は何者じゃ」 治済が老獪な眼差しを光らせ、屋根裏に潜む求馬に問いかけた。「そのような詮索は後に為され、まずはお屋敷の警護を万全に為され」 屋根裏から消え失せようとする気配を察し、治済が声をあげた。「待て」「ご自身の眼で外の様子をご覧なされ」 微かな声が流れ、ふっと消え失せた。「誰ぞ居るか」 治済の大声が座敷に響き、廊下を足早に駆ける音がした。「大殿、何事にございます」 襖越しより、宿直警護頭の井坂隼人の声がした。「屋敷の外の様子を見て参れ」「なにかございますのか?」「質問は無用じゃ、早々にいたせ」「はっ、畏まりました」 その声を聴き治済は脇息に身をもたせ井坂隼人の戻りを待った。「爺、なんでわらわに乱暴をするのじゃ」 お佳世がしどけなく衣装をくずし、不審そうに訊ねた。白痴ゆえに不可思議で奇妙な色気が醸しだされている。「お佳世、寝所にもどるのじゃ。今に鬼が現れるぞ」「嫌じゃ、わらわは爺のそばに居るのじゃ」 透き通る肌を顕にした、お佳世が治済にしがみついた。「お佳世、聞き分けるのじゃ、そうでないと鬼に喰われてしまうぞ」 その言葉にお佳世の顔色が変わった。「死ぬのは嫌じゃ」 お佳世が乱暴に襖を開け、逃げるように逃げ去った。 一人残った治済は自ら急須(きゅうす)に湯を注ぎ湯呑を手にし、思案に耽った。忍び込んだ男の正体も不思議であったが、江戸を騒がす何者とも知れぬ曲者が、自分の命を狙う意味が、まったく理解できずにいた。 奴等は二度に渡り、この西の丸の松平定信の屋敷を襲っている。 定信が標的にされておると思っていたのが、覆されたのだ。(何者じゃ) 治済が茶を啜りながら独語した。 慌ただしく乱れた足音と共に、襖越しから井坂隼人の緊張した声がした。「大殿、お屋敷の内濠の向こうは、火付盗賊改方で一杯にございます」「井坂、部屋に入れ」「はっ」 剽悍そうな躰をした井坂隼人が、素早く座敷の隅に座った。この男は幕府からつけられた御付人(おつけびと)と呼ばれる家臣の物頭である。 一橋家でも屈指の剣の遣い手として知られていた。 御三卿の家臣団は幕府から派遣された御付人と、御付切(おつけぎり)と御抱入(おかかえいれ)の、三者に分かれていた。 御付人とは家老はじめ八役の上級者であり、御付切と御抱入が正式な一橋家の家臣であった。ただし御付切は禄を幕府から支給されておる者で良くも悪くも、幕府の影響を強く受けていた。 ここに御三卿の立場の微妙さが窺いしれる。「井坂、この座敷の屋根裏に曲者が忍び込み、外の様子を知らせて消えよっのじゃ」「なんと申されました」 四十年配の偉丈夫の井坂隼人の顔色が変わった。「そちの警護の甘さを非難しておるのではない、先日も現れ松平定信の命を狙う黒幕が、わしではないかと尋ねて行きよった」「それは真にございますか?」「わしは黒幕ではないわ。その旨を語り聞かせたら温和しく引き下がったがの。万一、わしが黒幕ならば命を貰い受けるとほざきよった」「その曲者が今夜も現れましたか?」「そうじゃ、わしへの疑念が晴れたと申しての」 治済が茶を啜り老獪な笑みを浮かべた。「そのことが火付盗賊改方の警備のもとにございますか」「そうじゃ、今夜で分かった。江戸を騒がす曲者の探索は大目付の嘉納主水に一任されておる。それを命じた者が松平定信じゃ」 治済が語り終わり、天井を仰ぎ見た。影の刺客(1)へ
Nov 18, 2011
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「影の刺客」(63)「山部殿、お聞きのとおりにござる」「矢張り、奴等を操る黒幕の指示で逃げ去りましたか」「左様、併しあの大雪の中で神明門前町から板橋宿に逃亡するとは、常人にあらず。警備は厳重にお願いいたす」「畏まってござる」 山部美濃守が厳しい顔で肯いた。「さらば拙者は西の丸に出向き、首座殿にこのことをお報せにに参る」 嘉納主水が横殴りの粉雪をついて西の丸に向かって駆け去った。 その様子を物陰から見つめている黒装束の男が居た。「これだけ厳重に固められては、今夜はまずい」「引き上げて、お頭に報告じゃな」 二人の男が警戒陣を確認し、雪の中に消え失せた。 火付盗賊改方の面々に苛立ちがつのっている、北西の風は益々強まり、躰の芯まで冷え込んでくる。「畜生、奴等は隠れ家で酒でも飲んでぬくぬくと温まっておろうな」 河野権一郎が首巻を鼻まで引き上げ寒さに震えている。「河野、刻限は四つ半(午後十一時)を過ぎたな」 山部美濃守の顔にも焦りの色がみえる。「組頭、このまま夜通し見張りますのか?」「皆の体力が保つまい。九つ(深夜零時)になれば三十六見付門が閉まろう、半数を残し引き上げじゃ」 山部美濃守が空を仰いで下知した。粉雪が益々強まっている。「畏まりました。だが残りの者達は屋外待機にござるか、これでは躰が保ちませんぞ」 河野権一郎が山部美濃守の顔を見つめた。「同朋町に繁三と申す十手持ちがおるの、そこの番屋を借り受けよう。半数は暖をとり、半数は交代で一帯の警邏を続けさせよ」「分かりました、早速、下知をいたします」 河野権一郎が大股で大篝火から離れていった。 その頃、求馬がようやく動きだしていた。彼は一橋家の屋根裏に侵入していた。既に前に忍び込んだ経験で迷うこともなく、治済の座敷の天井に辿り着いていた。 求馬は小柄で天板をずらし座敷の内部を見廻した。 座敷は相変わらず南部鉄の湯沸しから湯気が吹きで、座敷の中央に、豪華な打掛け姿の白痴の娘を抱えた、治済のあさましい姿がみえた。 お佳世と言う白痴の娘が、襟元から年に不釣り合いな豊満な乳房を露わとし、恍惚とした顔つきで抱かれている。 その小さな乳首を口に含み、治済が夢中で愛撫を続けている。「あっ-」「お佳世は、ここが気持ちが良いのか?」 淫猥で見るに耐えない光景が広がっている。(これが御三卿の実力者の姿か) 求馬がほろ苦い笑いを頬に刻んだ。「爺、ここも触ってたもれ」 幼い声でうめき声を洩らしたお佳世が裾を跳ね上げた。 雪のような白くて豊かな太腿が求馬の視線を射抜いた。 まさに獣の交合を見るごとくの光景である、治済の脂ぎった顔の筋肉が弛緩し見るに耐えない。「治済さま、先日、ご当家を襲った者にございます」 突然、屋根裏から求馬の声が降ってきた。 治済の躰が硬直し、お佳世への愛撫の手が止んだ。「娘をいたぶり、それがしのことをお忘れにござるか」「その声に覚えがある」 治済が娘を抱きしめ、恐怖の声をあげ天井を見上げている。「一橋治済さまともあろうお方が浅ましき所業かな」 白痴の娘が不審そうに天井を仰いだ、みるからに臈たけた面立ちをしている。「お屋敷の外の様子をご覧なされ、内濠一帯は火付盗賊改方が警備についております。・・・なにを意味するものかご存じか」 乾いた声が屋根裏から流れてくる。「先に老中首座のお屋敷を襲った曲者の襲撃を阻止するためにござる。それがしは貴方さまが黒幕と思うておりましたが、それが間違いと悟りましてござる。娘に現つを抜かすも結構、ご自身の命と引きかえと知ることですな」 低い含み笑いが響いてきた。「あの曲者共が、わしの命を狙っておると申すのか?」 治済が娘を突き放ち立ち上がった。「爺、乱暴は嫌じゃ、可愛がってたもれ」 白痴のお佳世が治済の足にまとわりついた。「うるさい、離れておれ」 治済が乱暴にすがりつくお佳世を足蹴とした。影の刺客(1)へ
Nov 17, 2011
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「影の刺客」(62)江戸の町はすでに正月気分がぬけ、活況を呈していたがこの刻限となると灯りが消え、闇が支配する町に変貌している。 二人は寒風を浴びながら足を急がせていた。 若山豊後が浮かぬ顔で歩んでいる。「豊後、おめえなにか心配事でもあるのかえ」 天野監物の声で豊後が足を止め、首巻を締めなおしている。「どうした?」「天野さん、先刻の伊庭さまの言葉が気になっています」「なにが気にいらぬ」「一手、遅れたかもしれぬと言われましたね、我々は常に奴等に遅れをとっております。既に板橋宿には居らぬのではないかと心配です」 風が突風となって二人の躰を吹き抜けていった。「成程な、奴等が神明門前町を去ったのは大雪の晩だったな、その後に西の丸の首座殿が襲われなすった」 天野監物が厳しい声で応じた。「黒幕らしき武士が古寺を去るように命じ、隠れるために板橋宿を指示したとしたら、首座殿の屋敷を襲ってわざわざ板橋宿に戻ることはないの」「そうでしょ」「それが本当なら奴等は西の丸を狙える場所に、隠れておることになるぜ」 天野監物が不安そうに周囲を眺め廻した。「朱引地内の何処でしょうね」「畜生、また堂々巡りかえ、だが豊後、猪のさんの戻るまで待とうぜ。我等は総力をあげて神田橋御門を警備する」「そうですね、猪のさんの結果待ちですね」 こうした会話を交わしながら、二人は番町をぬけ坂下御門の番屋に戻って行った。 (十二章) 翌日、薄暮から闇夜に変わる刻限から北西の風が強まってきた。 そんな中、日本橋から神田御門に向かう武士がいた。たっけ袴に足拵えを厳重にした武士は、雪避けの深編笠で顔をかくし、足早に風のなかを歩んでゆく。刻限は五つ(午後九時)少し前である。 武士が足を止めたのは、神田御門橋の近くの常夜灯の前である。 深編笠の庇(ひさし)から周囲を眺め廻した武士は伊庭求馬である。 前方にはおびただしい御用提灯が、揺れ動いている。 火付盗賊改方が総力をあげて出張っている証である。 求馬は旧田沼屋敷に踏み込み、素早く姿を隠した。目の前の庭先は時代の栄枯盛衰を見るごとく荒れ果てている。 求馬は破れた格子戸から、黴臭い屋敷に入り壁に背をもたせた。 頃合いをみて一橋家の屋敷に忍び込む積りであった。 風が軒下を吹き抜ける音がかしましく響いている。今朝、猪の吉から曲者の一味が、板橋宿から消え失せた報せを受けとっていたのだ。 求馬は塑像(そぞう)のように気配を断った。 北西の強風のなか火付盗賊改方の面々は、一橋御門と神田橋御門一帯に警備の綱を張っていた。 各所には暖をとるためと警備の明かりとし、大篝火が焚かれ組頭と頭が床几に腰を据えている。 微かに馬蹄の音が響き、厳重な身形をした嘉納主水が姿を見せた。「ご苦労じゃ」 それぞれに声をかけ、組頭の山部美濃守の前で下馬した。「山部殿、ご苦労に存ずる」「これは大目付殿にござるか」 二人が大篝火を前にして立ち話を交わしている。 天野監物と若山豊後が駆けつけてきた。「両名、猪の吉が戻ってきたが徒労であった」 主水の顔に落胆の色がみえる。「板橋宿ではございませんでしたか?」「既に、逃げ去ったあとであったわ」「なんと―」 主水が猪の吉の探索の結果を語った。曲者と覚しき男等が板橋宿に着いた日は、火付盗賊改方が神明門前町を本格的に捜査する前日の夜半であったという。 一味は二、三人で分宿し、老中首座の屋敷が襲われた晩に、墨衣姿で宿場を去ったいう。人数は十四、五名と判明した。 これが猪の吉が集めた情報であった。「矢張り奴等は江戸の町の何処かに隠れひそかでおりますな」 天野監物が不精髭の育た顎をさすって眼を光らした。「抜かるでないぞ、こうなったら根競べじゃ」「はっ」 二人が持ち場に散って行った。 益々、冷え込みが厳しくなり、粉雪が舞い落ちてきた。 影の刺客(1)へ
Nov 16, 2011
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「影の刺客」(61)「あっしなら、四宿に隠れやす」「四宿と申しても品川、板橋、千住、内藤新宿があるぞ」 主水が自問自答してる。四宿とは家康が命じて作らせた江戸に繋がる、各道中の出入り口に作られた宿場町である。 東海道なら品川宿、中山道は板橋宿、奥州街道と日光道中は千住宿、甲州道中は内藤新宿であった。 江戸の町にとって重要な旅籠町であったが、非公認の岡場所も公然と認められ、各旅籠宿には飯盛り女が春をひさいでいたのだ。「なぜじゃ」「へい、朱引地に入るもよし、逃げるにもよしの地にございやす」「うむ、旅人も多いし身を隠すには絶好の地じゃな」 主水が腕組みをして思案している。「申しあげます。わたしなら品川、内藤新宿は避けます」「豊後か、その訳はなんじゃ」「はい、品川では羽目をはずし顔がばれております。内藤新宿は我々の縄張りのうちにございます、まずは千住か板場宿と推測いたします」 若山豊後か顔を染め理由を述べた。「千住ならば大川が利用できるの」 主水がぼそりと云った。「嘉納の旦那、あっしなら板橋宿に隠れやす」「なぜ、板橋宿じゃ」 猪の吉の言葉に、主水が不審顔をした。「千住は奥州街道と日光道中の宿場町にございやすが、なんと申しても旅人が少のうございます」「それに比べて中山道は旅人の通行量が多いか」「左様にございやす。それに朱引地に潜入いたせば千代田のお城の西に出られやす」 猪の吉の案を聞いた主水は、「天野に若山の両名の考えはどうじゃ」 火付盗賊改方の二人に視線をまわした。「はっ、拙者も板橋宿に絞ります」 天野監物であった。「何故じゃ」「はい、今となっては奴等には大川は鬼門に存じます。板橋宿ならば中山道を辿り、神田橋近郊にも楽に来られます」「そうか大川は我等が警護を強めておるの、伊庭殿はいかがにござる」「ここは猪の吉の勘に頼るほかございませんが、果たして奴等が今も板橋に隠れ潜んでおるかが問題にござる」「伊庭殿は奴等が他に移ったと思われてか?」「それは分かりかねますな」 この言葉は求馬の偽りのない心情であった。「・・・猪の吉、そちに迷いはないか?」「あっしは、はなっから板橋宿と決めておりやした」 猪の吉が断言した。「よし板橋宿に決めたが、探索の人数を繰り出すかどうかじゃ」 主水が冷えた茶を飲み干し呟いた。「嘉納殿、今はただでも人手不足です。ここは我慢をいたし警備を万全にしてはいかがにござる」「左様にござるな、人数の分散は我慢いたそう」 主水が大きく吐息を吐いた。「嘉納の旦那、あっしが今から板橋に飛びやす」「やってくれるか?」「へい、これからすぐに出かけやす」「猪の吉、くれぐれも注意を怠るなよ」 主水の声に背中を押され、猪の吉が素早く座をたって行った。 求馬が猪の吉の足音が途絶えるまで瞑目し、何事か考え込んでいる。「伊庭殿、どうかされたか?」「奇妙にも胸騒ぎがいたします」「伊庭殿にしては珍し」「一手、遅れをとったような気がしますな」「心配めさるな、猪の吉ならば明朝一番に戻ってきましょう」「嘉納殿、万一のため、火付盗賊改方に神田橋御門一帯に厳重な警備の網を張って頂きたい」 求馬が警備の強化を求めた。「了解いたした。天野、立ち帰り山部美濃守殿に今の話を報告いたせ」「畏まりました」 天野監物と若山豊後が、早々に立ち戻って行った。影の刺客(1)へ
Nov 15, 2011
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「影の刺客」(60) 翌日の夜、神田駿河台に向かう二人の男がいた。一人は着流しの浪人といま一人は町人である。 相変わらず冷たい風が吹いており、高い空は蒼々をした色がひろがり、雲ひとつないが、鎌月か煌々と輝いていた。 浪人は伊庭求馬で彼は懐手でゆったりと歩を進め、いま一人の町人は飛礫の猪の吉であった。 二人は大目付の嘉納主水の屋敷に吸い込まれるように消えた。 何時もの書院には主人の主水と用人の根岸一馬、その前には火付盗賊改方の天野監物と若山豊後も同席していた。「伊庭殿、寒い夜にお誘いいたし申し訳ござらぬ。猪の吉もご苦労じゃ」「へい、あっしは伊庭の旦那のお供で参りやした」 猪の吉が遠慮し部屋の隅に腰を据えた。 主水が昨日の老中会議の様子を手短に語り終えた。「嘉納殿、お言葉をかえすようですが、一橋治済さまはシロにござる」「何を根拠にそうきめ付けられる?」 主水が髭跡をみせ不審そうに訊ねた。 求馬は先日、一橋家に押し入ったことを語った。「驚きいったことを成されたものじゃ」 主水をはじめ天野監物、若山豊後が驚愕の顔をした。「それがしの見立ては、一橋さまの専横を憎む者の仕業と心得ますな」 求馬が高い鼻梁をみせ断言したが、主水が反論した。「だが、それがしには伊庭殿の考えに賛同できかねますな。なぜ曲者は一橋治済さまを狙わず、二度にわたり首座殿のお命を狙いお屋敷に押し入ったのでござる」 一座の疑問は主水と同じであった。「そこが奴等の付け目かと思いますな、あたかも首座殿のお命を狙う。そう見せかけておるだけにござるよ」「既に奴等は半数の手練者を斃されております。そこまで策を弄する必要がござるか?」 主水が求馬に疑問を投げつけた。「嘉納殿、既にご老中はじめご貴殿も火付盗賊改方、両町奉行所までが、奴等の狙いは首座殿と決めつけておられる。それがしの長年の経験では、獣は最後の隙を狙って襲いかかるもの。その為に首座暗殺が奴等の狙いと思わせたら可笑しくはござらん」「うむ」 主水が腕組みをし唸った、思いもせぬ求馬の返答に困惑したのだ。「その証拠に首座殿の屋敷を襲いながら、一歩も屋敷内に踏み込まぬのは何故にござる」「そう言われますと昨夜は奴等は総力をあげての襲撃でしたが、お屋敷に踏み込む気配はいっさい見せませんでした」 天野監物が若山豊後の顔を見つめ、昨夜の件を報告した。 その言葉に一座に重苦しい沈黙が支配した。「曲者は何を企てておるのじゃ」 主水が吠えるように野太い声を洩らした。「それが分かれば事件の謎は解けます。まず事件を分けて考えてみましょう。まず先に曲者の残党を見つけ出すことです」「そうですな、天野、火付盗賊改方として奴等を捜しだせるか?」 天野監物と若山豊後が自信なげに顔を見つめ合っている。「嘉納の旦那、あっしの考えを申しても宜しゆうございやすか?」 それまで沈黙していた猪の吉が膝を乗りだした。「猪の吉、そちに考えがあるか。遠慮は無用じゃ」「へい、あっしの勘でございやすが、奴等は朱引地には居らぬと思いやす」「なにっ」「大きなお勤めをしようと思いやすと一旦、身を隠し相手の出方を窺うものにございやす」 猪の吉の言う、朱引地とは江戸城を中心とした狭い範囲を言う。それより広い四里以内を御府内と言っていたのだ。「猪の吉、そちにしては珍しいことを申すな」 主水が不審そうに声をかけた。「嘉納殿、秘密の話にござるが、猪の吉は元大泥棒の頭であった男にごさる。その猪の吉が言うからには間違いはござるまい」 求馬が瞑目しつつ猪の吉の秘密を乾いた声で述べた。「旦那、ひどいことを言われやすな」 猪の吉が情けなそうな顔つきをしている。「猪のさん、今の話は本当かえ」 天野監物が驚きを隠さず訊ねた。「伊庭の旦那に言われては隠すこともありやせん。まぎれもなくあっしは泥棒の端くれでした」「驚いた、猪のさんが泥棒だったとは」 若山豊後までが驚いている。「旦那、なんとか言って下さいよ」「もう、十数年前のことにござる。詮索はここまでにして頂く」 求馬が助け舟をだした。「猪の吉の詮議はよい、そちならどうする?」 主水の髭面に興味が湧いている。影の刺客(1)へ
Nov 14, 2011
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「影の刺客」(59)「主水、腹なんぞは何時でも斬れるが、曲者は何故にわしを狙う?」 定信が柔和な眸子で主水の、胸のうちを覗くように訊ねた。「幕府の重鎮のみを襲う奴等には必ず背後に、大物の黒幕が居りましょう。貴方さまを狙う真の意味は、貴方さまにかわり権力を握る目的かも知れません。誰が貴方さまの敵なのか、貴方さまならば見当がつきましょう」 主水が鋭い視線を定信に浴びせた。「困ったのう、それがわしにも分からず苦慮しておる」 松平定信が困惑顔をした。(こういた態度が、このお方の狸の証拠じゃ)主水が知らぬ顔をした。「嘉納殿は、この度の事件は幕閣の権力争いと言われますか」 老中の一人、松平乗完(のりまさ)が強い口調で訊ねた。「二度にわたり首座殿のお屋敷を襲撃するには、それ以外には考えられません。それとも拙者の考えにご異存でもございますか」 主水が剣客らしい気迫を湧かせ松平乗完を見つめた。「嘉納殿、拙者には考えられぬことにござる。首座殿は上様の信頼の厚いお方、まして我等は首座殿に信頼され老中となった身にござる。権力争いなんど考えられぬ」「さらばお訊ねいたす、上様に懇願なされ大御所さまの地位を望まれる、一橋治済さまを皆さまはどうご覧になられます」 主水の双眸が強まり一座を眺め廻した。「主水、言葉を慎め」 松平定信が慌てて止めた。「いいや、あえて申しあげます。風聞とは申せ、西の丸に入りたいと願っておられることは、拙者の耳にも届いております。それを上様に諌止なされたのは首座殿、この情況から推測いたせば答えはおのずから顕かにございます」 御用部屋がざわめいた。「首座殿、今の嘉納殿の言葉は真にございますか?」 本多忠壽が気色ばんで訊ねた。「さても困ったものじゃ、そうした話が上様の口よりあがったことは確かじゃが、御三卿の身分で大御所の地位を望まれるとは恐れ多い野望じゃ」 松平定信が初めて本音を漏らした。「それは初耳じゃ」 全員が色をなした。それが事実ならば主水の疑惑も理解できる。「未だにその野望を捨てきれずに居られるとしたら、黒幕は一橋治済さまと考えても可笑しくはございませんな」 嘉納主水がずばりと核心を突いた。「拙者の屋敷を襲ったことも、書院番組頭の内藤右京、大番頭の岡部大学守を殺めたことも、我等を欺くための芝居としたら嘉納殿の意見も考えずなりませぬな」 松平信明がぼそりと呟いた。 主水が扇子で太腿を叩き、「首座殿、拙者も命懸けにござる。一橋家に探りを入れますが宜しいな」「仕方があるまい、このような事態は避けたかったがの」 ここに松平定信が一橋家への探索の許可を与えたのだ。「嘉納殿、存分におやりなされ、じゃが首座殿が再び襲われるようなことがないよう頼みますぞ」 松平信明と乗完が大きく肯き激励した。「命にかえても首座殿はお守りいたす」「嘉納殿、拙者も今の件は賛成にござるが。曲者の人数は十数名と聞く。これを見逃してはなりませぬ。手立てはござるのか?」 本多忠壽が心配そうに顔を曇らせている。「心配はご無用に存じます。拙者にも手立てはござる」 主水の答えに定信が笑い声で訊ねた。「お主の隠し玉の伊庭求馬をようやく遣うかの?」「左様、早速にも伊庭殿と相談いたし、ことを治める所存にござる」「その伊庭なる人物は信用できますのか?」「信明さま、奴等の大半を斃したのが伊庭求馬殿にござる」 主水の返答に信明が合点した。「そうでござったの、拙者の失言にござった。許されよ」「さらば立ち戻り、今後の策を練りとうござる」 嘉納主水が一座に挨拶し、肩をゆすって下城して行った。影の刺客(1)へ
Nov 12, 2011
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「影の刺客」(58)「天野、死者を番屋に運んでくんな、組頭殿にはおいらが申し訳ないと言っておったと伝えてくれろ。わしは負傷者の手当をお願いし、ご老中さまにご挨拶をしてから戻る」「分かりました」 天野監物を先頭に死者を運んで一同が引き上げて行った。「お頭、奴等は乾坤一擲の勝負をかけてきましたね」 一同を見送った若山豊後が無念の形相をしている。「豊後、今夜の負けは忘れな、おいらと一緒に来てくれ」 河野権一郎が庭を横切り屋敷へと向かった。途中には白河藩士がまだ警戒を解かずに、そこかしこに屯している。 屋敷の大扉が開かれ、門前には大篝火が赤々と焚かれている。 そこには松平定信と遠藤又左衛門が、運ばれてくる負傷者を暗澹とした眼差しで見つめていた。 河野権一郎と若山豊後が二人の前に片膝をついた、「首座殿にございますか?」「殿、火付盗賊改方の河野権一郎殿にございます」 遠藤又左衛門が、じょさいなく定信に紹介した。「ご苦労であった、遠藤から聴いた。甚大な被害者を出したそうじゃな、負傷者は何処におる」 真っ先に定信は負傷者を気遣った言葉を発した。「はっ、表門の庭先をお借りいたしております」 河野権一郎が畏まって答えた。「誰ぞ、表門に居る負傷者を屋敷に運び入れ手当をいたせ」 定信にかわり遠藤又左衛門が藩士に指示を与えた。「河野と申したの、なぜ曲者はわしを狙う」 松平定信が柔和な口調で河野権一郎に問いかけた。「申し訳ございませぬ、我等の不手際で未だに分かりかねておりまする」「・・・・」「殿、奴等はもう一歩で屋敷に侵入出来た筈にございますが、途中で引き上げた魂胆に疑問を感じますな」 遠藤又左衛門が定信に語りかけた。「我等もその点に不審を感じておりまする」 河野権一郎が遠藤又左衛門の言葉に同調した。「奴等にはあとがないのかも知れぬな」「と、申されますと」「遠藤、奴等の人数は十数名と聞いた、きっと総力をあげた襲撃であろう。無理をしたら奴等は全滅かも知れぬ、それを恐れての撤退とみた」 定信が冷静に事件の背景を読み切っている。「成程、損害を最小に抑えた作戦ですな」 遠藤又左衛門が定信の言葉にうなずいた。河野と豊後は無言で二人のやり取りを聞いている。「河野、負傷者は我等に任せよ。そなた達は番屋に引きあげよ」「恐れいります、お言葉に甘え引き上げまする」 河野権一郎と若山豊後が会釈をし、篝火から離れていった。「流石は首座、見るところが違っておりますね」 若山豊後が感心の面持ちで河野権一郎に声をかけた。「そうじゃな、奴等は十五名しか残っておらなんだ。それ故に勝負を避けたのじゃ」「今夜で十二名となりましたね」 二人は興奮で寒さを忘れ、番屋へと急いだ。 この事件は幕閣を震撼させるに十分な衝撃を与えた。なんせ幕府の最高権力者の、首座が二度にわたって屋敷を襲われたのだ。 大目付の嘉納主水も呼びだしをうけ、緊急会議が招集された。「嘉納殿、今回の事件をどう思われる」 老中の本多忠壽(ただとし)が厳しい口調で訊ねた。「これまで起こった一連の事件のひとつと考えております」 主水の濃い髭面が朱色に染め、答えた。「このまま手をこまねいておられる積りか?」「いや、奴等が事件を起こしてから既に十数名を始末いたしました。火付盗賊改方よりの報告では、奴等の残りは十二名と聞いております。もはや最後の足掻きとみております」「それでは答えになってはおりませんぞ」 老中の一人、松平信明が声を荒げた。彼が初めて曲者に屋敷を襲われたのだ、その探索に国許から桧垣大善を呼び寄せた張本人であった。「お怒りは至極当然、今朝から両町奉行所と火付盗賊改方が総力をあげて奴等の隠れ家を捜っております。また夜間の警備も万全といたし、今後は二度とこのような事件を起こさぬ覚悟にござる」「嘉納殿と申さば聞こえた人物、されどこの度の不手際は目に余ります」 老中の一人、戸田氏教(うじのり)が強い口調で非難した。 主水が怒りを抑えている、握りしめた拳が震っている。「申し訳ござらぬ。再び失敗つかまったら、腹を斬ってお詫びいたす」影の刺客(1)へ
Nov 11, 2011
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「影の刺客」(57)「トオ―」 裏門から邸内を震わせるような懸け声が響いた。 豊後の足が止まり、裏門で激闘を繰り広げていた天野監物が眼を剥いた。突然、中肉中背の武士が現れ腰間から白閃が奔りぬけた。 曲者が二人、一瞬裡のうちに血飛沫をふりまき斃れ伏した。「貴様は誰じゃ」 裏門の曲者が素早く武士を取り巻いた。「江戸を騒がす曲者か、わしは白河藩家老の遠藤又左衛門じゃ」 名乗る同時に迅速な剣が前面の男の頭上に振り下された。 曲者が身をひねり後方に反転し逃れた。 一方、表門では豊後の前に佇んでいた曲者が素早く後退し、口笛が鋭く邸内に響きわたった。 豊後が必殺の一撃を加えたが、軽々と躱された。「命冥加な奴よな」 曲者が不気味な声を発し、見事な反転をみせ土塀に身を乗せた。 その姿勢のまま邸内を眺め廻している、次々と仲間が闇に消えてゆく。「いずれ、決着をつける」 声が途絶え、曲者が身を翻し土塀を乗り越え姿を消し去った。「くそっ」 豊後が大刀を握りしめ天を仰いだ。「豊後、山本は即死じゃ」 お頭の河野権一郎の無念そうな声がした。「矢張り、山本さんでしたか」 豊後が近づき凝然と立ち止った。山本七助の死骸が横たわっていた。「首の付け根が致命傷じゃ。痛みも感じなかったであろう」 河野権一郎が悲痛な声で告げた。「今夜の奴等は総力をあげての襲撃でしたね」「そうじゃな、人数も力量も今までとは違うな」「者共、曲者は屋敷から去った、屋内の者は怪我人の手当をいたせ」 家老の遠藤又左衛門が藩士を叱咤する声が聞こえてくる。「豊後、表門の様子をみて参れ」「畏まりました」 豊後が庭に姿を消し大声で叫んだ。「火付盗賊改方は集合いたせ、怪我で動けぬ者は声をあげよ」 無念の思いで表門へと駆けた。惨憺たる有様であった。山本をはじめ四人の同僚が犠牲となり、負傷者は三名にのぼっていた。 それもたった二人の曲者にやられたのだ。途中で天野監物と合流しお頭の河野権一郎の許に集まった。 天野監物が四人の死骸をみて声を飲み込んだ。「天野、表門はどうじゃ?」「完敗です。我等には犠牲者は皆無ですが、藩士の被害が甚大です。死亡者が七名に負傷者が八名にござる」「それで仕留めた曲者は何名じゃ?」「三名にございます、後は全て逃げ去りました」「・・・」 河野権一郎が絶句した、まさに奴等にいいようにあしらわれたのだ。 庭には血潮の臭いと負傷者の苦痛の声が洩れている。「お頭、ご家老の遠藤又左衛門さまの剣は凄いの一言です、二名の曲者を瞬く間に斃されました」「なにっ、二名の曲者はご家老が倒されたのか。して裏門から侵入した曲者は何名じゃ」「しかとは分かりかねますが、拙者のみたところは十三名かと」「十五名の曲者に手痛い犠牲者をだしたの」「お屋敷内への踏み込みを阻止できたことで満足せねばなりませんな」 二人が無念な思いを秘め語らっている。「火付盗賊改方の責任者はどなたにござる」 落ち着いた声をあげ、中肉中背の眼の鋭い武士が姿をみせた。「拙者が与力の河野権一郎にございます」「それがしは江戸家老の遠藤又左衛門にござる。被害はいかほどにござる」 この寒い夜に軽装な姿で十文字に襷かけをしている。 遠藤の問いに河野権一郎が死傷者の数を告げた。「我等のために申し訳ござらん、負傷者の手当ては屋敷で行っております。ご遠慮なくお連れ下され」 遠藤又左衛門はそれだけ伝え、軽く会釈して戻っていった。「馬庭念流の達人だそうだ」 天野監物が去りゆく遠藤又左衛門の背に視線をあて呟いた。「流石は白河藩の江戸家老を成されるお方ですね」 豊後が感心の面持ちで腰の据わった後ろ姿を見つめていた。影の刺客(1)へ
Nov 10, 2011
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「影の刺客」(56)二人は軒下を駆けながら、大刀を抜きとり刀の下緒(さげお)を解き、鯉口にそれを縛りつけた。 凍り付いた道の突き当りに堂々とした門扉がある。その辺りは土塀が高く、二人の跳躍力をもってしても飛び越えることが叶わなかった。 甲戌は大刀を壁に立てかけ、下緒を握って鍔に足をかけ跳躍した。 二人は見事に土塀に身を乗せることに成功し、下緒を引き上げ大刀を手にし素早く腰に差した。甲戌が土塀上から邸内の様子を眺めた。 鬱蒼と繁った樹木には、雪が綿のように積もっている。 そんな庭に警戒する提灯の灯りが揺れ動いている。 屋敷の警護は万全の状況のようだ。甲戌を先頭に二人が庭先に潜入した。松の枝の雪が音をたて枝から滑り落ちた。 強盗提灯の灯りが近寄ってきた、それは火付盗賊改方のものであった。 二人が素早く樹木の翳に身を潜めた。「雪の音じゃ」 警戒の声をあげ、二人の男が大刀の柄に手を添えて現れた。いずれも厳重な身支度をしている。 甲戌が猟犬のように跳躍し、大刀が闇を裂いて一閃した。 警護の一人が咽元を斬り裂かれ、返す刀が次の獲物を袈裟に斬り裂いた。それは瞬時のことであった、二人は防戦する間もなく犠牲となったのだ。「甲辰、あとに続け」 二人が獲物を狙う獣のような動きをみせ、屋敷の奥へと忍び込んだ。「曲者じゃ」 裏門の辺りから警護の士の声があがり、大刀と大刀の触れ合う音が風に乗って聞こえてきた。悲鳴と懸け声が屋敷内に響いている。 暗闇の中で壮絶な闘いが始まったのだ。「豊後、油断するな今夜の曲者は人数が多い、おめえは山本七助と表門に廻ってくんな」 天野監物が大刀を抜き身とし、今夜の襲撃の異常さに気づいたようだ。「分かりました、山本さん行きますよ」 若山豊後と山本七助が脱兎のごとく表門へと駆けだした。 前方の表門からもざわめきが聞こえ始めた。暗闇の中で火付盗賊改方の猛者と甲戌、甲辰との激しい闘いが始まっていた。「固まれ、忍び込んだ曲者は二人じゃ」 お頭の河野権一郎の冷静な声が聞こえてくる。「お頭、加勢に参りました」「おう、若山に山本か、裏門は大事ねえかえ」 河野権一郎が大刀を構え訊ねた。「今夜は総力をあげた襲撃です。忍び込んだ人数も十名を超えています」「こちらは二人だが、素早くて叶わぬ。裏門は何名で防いでおる」「天野さんの手勢と藩士で三十名は超えております」「そうか、裏門は大事ないな。両名ともぬかるなよ」 そうした会話を交わし、慎重に樹木の間をぬってゆく。「いたぞ」 山本七助が大刀を手にし脱兎のように闇に消えて行った。「お頭、曲者が姿を現しましたぞ」 豊後の声と共に、暗闇から長身の黒装束の曲者がゆっくりと現れた。「喰らい」 火付盗賊改方の一人が猛然と大刀を相手の眉間に叩きこんだ。 びゅっと曲者の大刀が風斬り音を発し、仕掛けた男が血潮を噴き上げた。 曲者の腕が段違いに勝っていた。「わたしが相手をします」 若山豊後が愛刀を手に突進し、自慢の拝み打ちを仕掛けた。 鋼と鋼がぶち当たり火花が散り、豊後の体躯が物凄い力で跳ねかえされた。まるで力量が違っている。「貴様では勝てぬ」 相手が不気味な声を発し、ゆったりと前進をはじめた。「くそっ」 素早く態勢を立て直した豊後が、猛然と攻勢に転じたが、その攻撃はことごとく外された。何やら裏門が騒がしくなり曲者が背後を振り向いた。 見逃さずに豊後が背後に猛烈な攻撃を仕掛けた。曲者は躱しもせずに躰を前方に投げ出すように跳躍した。ざざっと樹木の音を残し曲者の姿は視界から消え失せた。「固まれ、周囲に眼を配れ」 豊後が無念の声をふり絞った、完全に手も足も出すことが叶わなかった。「おう-」 突然、山本七助の雄叫びが聞こえ、刃と刃の激突する音が響いてきた。「山本さん、大事ないですか?」 豊後と河野権一郎が声のした方角に駆けつけた。前方に黒い影が飛びちがい、大刀が交差する様子が朧に見える。「きえっ―」 怪鳥のような懸け声とともに曲者の大刀が闇に煌めいた。 山本七助と思われる影がたたらを踏んでいる、見逃さず再度の一閃が奔りぬけ、大きく仰け反るさまが見えた。 豊後と河野権一郎が思わず足を止めた。 山本七助と思われる影がどっと地面に転がった。「山本さん」 豊後が悲痛な叫び声をあげ猛然と駆けつけた。影の刺客(1)へ
Nov 9, 2011
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「影の刺客」(55)坂下門の番屋で天野監物と若山豊後が気落ちした素振りで語らっていた。「奴等は昨夜、あの古寺から逃走したぜ、もはや手の打ちようがねえ。豊後、おめえならどうする?」 天野監物が癖の髭面を擦っている。「天野さん、黒幕と覚しき男は神田橋付近の武家屋敷に潜んでおりますよ。あの悪天候にわざわざ遠くから、船宿を訪れようとは考えられませからね」「そうよな、おいらも同感だぜ。だがなその武家屋敷が分かんねえ」 天野監物が渋茶を啜り放心したように呟いた。「あの武士が今回の本当の黒幕ですかね?」 若山豊後が思案顔で訊ねた。「分かんねえが、その男の命令で奴等が逃亡したことは事実だぜ」「奴等の事です、直ぐに事件を起こしますよ。その時が勝負ですね」 珍しく豊後が鋭い眼差しをみせている。彼の脳裡に五郎蔵の無残な顔がよぎっていた。「ああ、嫌だ嫌だ、おいら達も引き上げようぜ」 刻限はとうにお勤めの時刻を越えていた。「天野に若山、今日はご苦労じやった。帰りに一杯ひっかけて行きな」 お頭の河野権一郎が顔をみせ、労いの言葉をかけ紙包みを手渡した。「お頭、遠慮なく頂いておきます」 天野監物が懐中にしまった。「この寒空だが明日から、また西の丸の警護だ。今夜は一杯やって英気を養うんだな」 河野権一郎が粋な計らいをみせ番屋の奥に去った。「豊後、帰るぜ。折角のお頭の心遣いだ」 二人は首巻をして坂下門から麹町へと向かった。「冷えるな」「いくら包んであります」「へっ、いやに弾んだもんだ。二朱もあるぜ」 紙包みを解き監物が驚きの声をあげた。「アンコウ鍋で一杯やりましょう」「良かろう、最近、評判の鍋七でもゆくか」「いいですね、麹町七丁目ですよね」 二人は凍てついた道を辿って帰路についた。 (十一章) 一月十一日、この日は江戸城では具足祝いが行われた。千代田城に登城した全員に、具足に供えた餅や酒などが下賜されるお祝いの日である。 その日の夜の五つ半(午後九時)頃、寛永寺と不忍池の通りから、御徒町を横目とし湯島一丁目の通りを、十五名の男が昌平橋を目指していた。 いずれの男も寒空のなか墨衣に網代笠(あじろかさ)を被った僧の一団であった。手には錫杖たずさえ荷物を担いでいる。 歩を進める度に錫杖の音が、ヂャラヂャラと響き、一糸乱れずに昌平橋を渡りきった。 一行はそのまま北に進み内濠に達した。濠の向こう側には一橋家の広壮な屋敷の屋根が雪をかぶって見える、そこに向かう一つ橋御門の西に四番空き地がひっそりとひらけていた。そこに一行は辿り着いた。「よいか、ここで着替えをする。すんだ者から二人一組となって西の丸に向かうのじゃ」 低い忍び声が闇夜に流れた。「今夜の獲物は老中首座の警護の士じゃ、力の限り倒せ。引き上げの合図は、江戸家老の遠藤又左衛門が現れた時じゃ。隠れ家は分かっておるな」 その声の主は甲戌のものであった。その間にも彼等は身支度を整えている。墨衣から黒装束に姿を変えて一組、二組と闇に溶け込んでゆく。「甲辰(きのえたつ)、そちはわしに同行いたせ」「畏まりました」 甲戌が空き地に視線を走らせた、既に二人を残し全員が消えていた。(分からぬ、何故に定信を殺せと命じたり、殺してはならぬと言われるのか) 甲戌の疑問は頭領の下知にあった。が、命令は絶対である。「甲辰、行くぞ」 長身の甲戌が足音を消し風のように疾走し、その後を甲辰が追っていった。 二人が一つ橋を渡りきると、全員が西の丸の松平定信の屋敷の土塀に張り付くように待機していた。「警備の様子はどうじゃ?」「表門には火付盗賊改方が十五名、裏門と庭には白河藩士が二十名ほど警戒しております」「わしと甲辰は表門から侵入する、残りは裏門から庭に忍び込め。悪戯に騒ぎたてるな、確実に一人一殺を心がけよ」「畏まりました」 土塀を乗り越え全員が二人を残し、屋敷内に忍び込んで行った。「甲辰、行くぞ」 甲戌と甲辰が土塀の軒下を獣のように駆け表門へと向かった。影の刺客(1)へ
Nov 8, 2011
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「影の刺客」(54)「主人にお訊ねいたすが、その武士に特徴はごらなんだか?」 神明門前町を離れ、雪道を踏みしめながら豊後が訊ねた。「これといった特徴はございませんが、中肉な躰をしておられましたな」「顔はどうです?」「なんせ山岡頭巾で顔を覆っておられましたので分かりませんが、眼付の鋭いお侍でしたな」 一行は話ながら道を進んだ、真っ青な空が広がりをみせ、昨夜の豪雪を忘れさせる光景である。 虎の門の船着場は人々でごったがえしている。雪道を歩くよりも船を利用したほうが楽に行けるのだ。「お調べじゃ、外におる者は待合小屋に入るのじゃ」 捕吏が人々を待合小屋に詰め込んだ。「何か事件かえ」 船を待つ人々が声を低め、捕吏の動きを見つめている。「船頭、この濠は暮れ六つ頃から、潮の流れはどう変化する」 豊後が青黒い水面に視線を這わせ聞いた。「へい、まずは引き潮で東に流れ、朝からは逆に西に流れやす」「主人、五郎蔵はここまで船で来た筈じゃ。濠を捜ってみたい、我々を船に乗せてはくれまいか?」「承知にございやす。濠の探りはわたし共でいたしやす」 主人が肯き船着場に舫われた屋根船に案内した。 六名が乗り込み寒風のなかを漕ぎ出した。「あっしは源次と申しやす、棹をつかまらせて頂きやす。始めは東から遣りやす」 三十才位のいなせな船頭が器用に棹を操り船着場を離れた。 約一町ほど漕ぎ進め、豊後も含め五名が両岸を竹竿で濠の底を探りだした。 源次が時々、棹を止めると惰性で船はゆっくりと西に進む。 四半刻ほど時が経過した。「可笑しい、何か先に引っかかる感じがせいたしやすぜ」 一人の船頭が慎重に岸辺の底を探っている。「船頭、船を岸に寄せな、何か鈎のようなものはないかね」 豊後が水面を見つめながら訊ねた。「お頭、棹を変わっておくんなせえ。あっしがやりやす」 源次が竹の先に鉤をつけた竿で探りはじめた。「かかりやしたぜ」 源次の叫び声で五名が水面を見つめた。 ゆっくりと竹竿が引き上げられ、水面が割れ何やら見え隠れするが、なかなか姿が見えない。「源次、もたもたせずにあげな」 主人が源次を叱咤した。 ざっと水面にその物体が浮かびあがった、それは五郎蔵の死体であた。「五郎蔵っ」 藤屋の主人が悲痛な声をあげた。「五郎蔵兄い」 二人の船頭も同時に叫び声をあげている。「死骸を船に引き上げてくんな」 冷たく凍るような濠から五郎蔵の死体を船に引き上げた。 すぐに五郎蔵の目蓋が凍りついた。「畜生め、ひどいことをする」「兄い、さぞ冷たかっただろうね。成仏してくんな」 二人の船頭が死体を見つめ鳴き声をあげている。主人はじっと蒼白な顔で五郎蔵の死顔を見つめている。 豊後が死骸を調べはじめた。前から右袈裟の一刀を浴びていた。 その斬り口は見事というべき痕跡をみせていた。「死体に筵をかけてやんな」 豊後が船頭に命じ、主人に話かけた。「突然に前から襲われたようじゃ、苦痛を感じる暇はなかった筈じゃ」「惨いことを」「犯人は間違いなく山岡頭巾の武士、それにしても凄腕の男じゃ」「・・・」 藤屋の主人が豊後の言葉を黙して聞いている。「五郎蔵を殺めた武士は、今、江戸を騒がせておる曲者の仲間と思われる。この死体は我等の番屋に運び、再度、吟味をさせてもらう」「分かりやした、わたしどももお手伝いいたしやす。どうか一日も早く奴等をお縄にしてくだせえ」 藤屋の主人が懇願する口調で訴えた。「我等も必死じゃ、必ずお縄にしてやる」 豊後の胸にふつふつとした闘志が湧きおこっていた。影の刺客(1)へ 最近、この小説を書きながら段々と書く意欲がなくなってきました。 どこからか明確ではありませんが、同じ内容を繰り返し書いているように思います。それでは読む方が飽きてしまいます。 自分の力足らずが実感されました。真に相すまぬことです。 お詫びを申しあげます。 龍
Nov 7, 2011
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「影の刺客」(53) 捕吏が猟犬のように駆けだしていった。「天野さん、久しぶりに江戸湾が綺麗ですね。檜垣廻船が出航して行きますよ」 若山豊後が、のんびりとした声をあげた。 江戸湾で雪を避けていた檜垣廻船が、一斉に帆をあげている。「豊後、おめえは気が楽でいいな」 監物の皮肉にも気づかず、若山豊後は眼を細め江戸湾を眺めている。 前方から捕吏が勢いよく駆け戻ってきた。「怪しい寺でも見つけたようじゃ」 天野監物が手をかざし見つめている。「あの勢いで転ばねばいいですがね」 豊後が心配そうに呟いた。「わあっ」 捕吏が足を滑らせ、降り積もった雪に顔からつっこんだ。「それ見ろ、言わんこっちゃねえよ」 天野監物が急いで捕吏のもとに近づいた。 髷から顔じゅう雪で真っ白となった捕吏が顔を拭っている。「何か見つけたかえ?」「この先に古寺があります。中を捜りますと焚火の痕がございます、隙間には目張りがしており、どうも様子が変です」「空き家か?」「へい、ですがどうも臭います」「よし、行くぜ」 天野監物を先頭に一行が捕吏の案内で古寺に向かった。「あの寺にございます」 捕吏の指差す方角に古い廃寺が見えた。「あそこなら道からは見えねえな」 監物が視線を廻し呟いた、見事に死角となっている。 一同が庫裏に足を踏み入れた。焚火の燃えた臭気が漂っている、それぞれが手分けをして寺の内部を検めた。「豊後、この円座をみなよ、車座となってねえかえ」「そうですね、十六もありますよ」「矢張り、ここが奴等の隠れ家だったな」 天野監物が厳しい顔で内部を見廻している。「天野さん、この円座は変に思われませんか?」 豊後が上座にぽっんと置かれた円座を指差した。「ここが奴等の頭の場所か」 天野監物が不精髭を撫でさすっている。「おまえ達はなにをしておる、お勤めの邪魔じゃ」 突然、表から大声が響いた。監物と豊後が表に飛びだした。 そこには三人の男が捕吏に囲まれていた。一人は身形の良い姿をし、二人はいなせな船頭姿をしていた。「おめえ達は何者だえ」 天野監物が厳しい声で尋問した。「へい、あっしは神田橋で船宿を営む、藤屋の主人にございやす」 恰幅のよい男が口を開いた。「あとの二人は店の船頭ですか?」 若山豊後が丁寧な口調で訊ねた。「はい」 天野監物と若山豊後が顔を見合わせ、不審そうに三人を見つめた。「主人、この辺には堀はねえよ。何でこの辺まで出張ったきたのじゃ」「実は昨夜、お武家さまを乗せた屋根船の船頭が戻って参りません。虎の門まで急用と仰せられ、当家の古参の五郎蔵と申す船頭が船を出したんでございやす」「なにっ、虎の門。・・・・豊後、何か臭うな」「刻限はどうです」「暮れ六つ頃にございやした」 藤屋の主人の顔色が青白く見える。「その刻限は雪の真っ盛りだぜ、店仕舞いはしなかったのかえ」 天野監物が不機嫌そうに訊ねた。「とうに店仕舞いはいたしておりましたが、酒代をはずむと仰せられ、五郎蔵が引き受けた次第にございやす」「豊後、あの一枚の円座はその武士の座った席かもしれねえな」「そいつが黒幕ですね」「未だ分からねえが、奴等にここから立ち退きを命じたとしたら筋が通る」「そうですね、ここから虎の門は近いですからね」「藤屋、おめえさん達は虎の門の船着場を捜ってきたのかえ」「その積りで参りやしたが、この辺りにお役人が探索されておると小耳に挟み、そのままこちらに伺った訳にござやす」 その言葉で天野監物が暫し沈黙したが、「豊後、捕吏を二、三名連れて虎の門の船着場を捜っちゃくれめえか。おいらはもう少しここを調べて痕を追おう」「承知、ここが奴等の隠れ家であったことは確かでしょう。その侍が曲者と絡んでいるのでしょうね、兎に角、虎の門一帯を捜ってみます」 豊後が捕吏と藤屋の三人を引き連れ虎の門へと向かった。影の刺客(1)へ
Nov 2, 2011
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「影の刺客」(52)「闘ってはなりませぬのか?」 甲戌が不満そうな顔をした。「ならぬ、闘えば犠牲者が増えよう」「仲間が殺られると申されますか?」「犠牲者の出ることはやむを得ぬが、無用な犠牲者はならぬ」 山岡頭巾の武士が否とは言わせぬ声で命じた。「分かり申した」 甲戌が低く答え、次なる質問を発した。「これより板橋宿に向かいますが、西の丸を襲った後の隠れ家は何処にいたします」「甲戌、奴等はこの辺りを探索の標的といたしておる。ならば我等は、奴等に一泡ふかせてやる。前に使っておった六間堀の古寺を使うのじゃ。当座の食糧や酒は既に運び込んでおる」「面白うござるな」 武士が驚くことを述べ、甲戌が眼を細めた。「品川宿の二の舞いはならぬ、二、三名に別れ分宿いたせ」「畏まりました」 二人の会話に聞き耳をたてていた男等は、既に出立の足拵えを終え、甲戌の下知を待っている。「さらば去ります、三日後には深川六間堀の古寺にてお会いいたす」 頭の甲戌が風のように粉雪の舞う闇夜に消え、一同も足音もたてずに跡を追って消え去った。 板橋宿は江戸四宿のひとつとして知られ、中山道の第一の宿場町であった。南の神明門前町とは正反対の場所に位置している。 この凍りつく寒夜では彼等の強靭な肉体でなければ、到底、行きつける場所ではなかった。 閑散とした庫裏の内部まで容赦なく粉雪が吹き込んできた。 武士はゆっくりと立ち上がり焚火を消した。あとは漆黒の闇が広がり、江戸湾から吹きつのる風が古寺の中を吹きぬけた。 武士は暫く闇の中に佇み周囲を眺め、ゆっくりと粉雪の舞う道に姿を消した。品川沖に停泊する檜垣廻船の灯りが揺れてみえる。 夜半に雪が止んだ。雪雲がきれ蒼々とした冬空に鎌のような半月が浮かび、煌々と千代田のお城の屋根を照らし出している。 火付盗賊改方の面々は、寝もやらずに雪の止むのを待っていたのだ。 天野監物や若山豊後のような同心の勤務時間は、朝の五つ(午前八時)から、夕の七つ(午後四時)と決められていたが、一刻前には全員が番屋に集合を終えていた。「雪が止んだが、凍りつくような天気だぜ」 天野監物が合羽を羽織、暖をとるための焚火の前で足踏みをしている。 青空が広がりをみせ、雪化粧の江戸の町がまばゃく輝いて見える。「久しぶりに上天気になりましたね」 若山豊後も厳重な防寒対策をして姿をみせた。「者共、今日こそ曲者の隠れ家を見つけだすのじゃ」 組頭の山部美濃守が全員に叱咤激励の言葉をかけた。 頭の河野権一郎からは細かな下知が伝えられた。「豊後、我等は神明門前町の探索だ」「天野さん、町奉行の協力で泉岳寺方面は、目黒の鉄蔵親分が加わるそうですよ」「有難いことじゃ」 そう言った天野監物が大きなくしゃみをした。 五つを待って全員が番屋を後にした。深々と積もった雪を踏みしめ、半蔵門から東の虎の門へと向かった。 鬱蒼と繁る樹木が雪に覆われ、真っ白く輝いている。赤坂溜池は厚い氷が張りつめていた。各門は外様大名や譜代大名の家臣等が雪掻きに余念がない。一行は愛宕神社から二手に分かれた。一隊は下谷町から増上寺の東方面が、探索区域である。 天野監物と若山豊後の一隊は、江戸湾寄りの三島町へと向かった。 一行の前には増上寺が雪化粧につつまれ白く輝いている。「この辺りの寺の多さには参るな」 天野監物が愚痴をこぼしている。 天野監物の言うとおり、増上寺の周囲は別所や方丈、寮なぞが軒を並べ、神明門前町から東の片門前町へと寺が密集していた。 その合い間に廃寺となった古寺が数限りなくある、慎重な探索が続いた。影の刺客(1)へ
Nov 1, 2011
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