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「ことし一年有難うございました」 今年の日本は地震による津波、長雨による災害が頻発し、なかでも福島原発事故により、大勢の死傷者や避難民を出した年になりましたね。 ここに来て原発事故調査委員会の中間発表では、東電と元総理の菅直人の不手際が次々と分かってきました。 民主党は次々と国民との約束であるマニフェストを、反故にして今や暴挙とも言いえる、消費税増税路線を進んでおります。 官僚に支配され公務員の削減、議員削減も手つかずに日本を何処にもって行くつもりでしょうか。外交も無きに等しく対米一辺で媚びを売る始末です。 本当に真の政治家が日本には居らないのでしょうか、寂しくなりますね。 このような国難にあっては、数十年前までは本当の政治家が居ったのです。 野田政権は来年で終わるでしよう、派閥闘争に明け暮れずに真の政治を遣ってもらいたものですね。国民のために、そして毅然とした外交です。 今年、最後のブログと言うのに愚痴を書いてしまいました。 お許し下さい。皆さまお一人お一人のブログを訪問し年末のご挨拶をすることが、礼儀でしょうが、ここで今年の感謝の意を述べさせていただきます。 本当に暖かい応援とコメント、有難うございました。 来年も変わらぬお付き合いをお願いいたします。 良い年をお迎えできるように祈りつつ筆を置きます。 龍
Dec 28, 2011
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「武田信玄」(四) こうした時期に信玄の駿河侵略の野望はますます募り、陽動策として伊豆に軍勢を差し向けたり、小田原城を包囲したりしていたが、機が熟したと判断し、蒲原城を陥し、府中城を囲み、ほぼ駿河を平定したのだ。 今川義元の遺児、今川氏真は北条家を頼って落ち延び事実上は今川家は滅亡した。更に北条家にも悲運が訪れたのだ。 領主の北条氏康が中風で死去したのだ、氏康は病床で嫡男の氏政に謙信との盟約を破棄し、武田信玄と和睦せよと遺言していた。 これを受け跡を継いだ北条氏政と信玄の盟約が成立したのだ。馬鹿をみた男は今川氏真である、こうなれば北条家の庇護をうけられぬ、彼は今川の人質であった家康を頼って落ち延びるのである。 彼も戦国時代の犠牲者の一人であったが、武将として資質がなく今川家を滅亡に導いたのだ。将器のない武将の憐れな末路である。信玄の当面の敵は家康であった、彼は家康が狙う遠江にも軍勢を差し向け、それを警戒した家康は謙信と同盟を結んで対抗した。 一方、信玄は最近、急速に勢力を拡張し、足利義昭を正式に将軍とした織田信長に注目した。信長の勢力の伸長は望まないが家康と謙信を牽制するためには、織田信長の力を必要としたのだ。 信長にも京近郊に勢力を確保し、近江の浅井家、越前の朝倉家を自分の勢力圏にしょうとする野望があり、信玄との同盟は望むところであった。 お互いに裏で謀略の駆け引きを行い、表面的には友好を暖めあっていた。 まさに狸と狐の化かし合いである。 この頃から信玄の上洛の意志が固まり、綿密かつ雄大な準備が成されはじめた。最初の目的は水軍の編成であった、今までは甲斐、信濃の地では水軍なんぞ必要とはしなかったが、駿河を手し周辺を脅かそうとするには。水軍は必要不可欠であった。始めは今川家の旧臣や北条家に属していた海賊衆で水軍を構成していたが、更に手を伸ばし伊勢の北畠家の遺臣も集め、大安宅船一艘と、船五十数艘の水軍を編成したのだ。 これは西上の実施の際に、兵糧、弾薬等の運搬に使用する策であった。 小荷駄で物資等を運ぶことは、駿河から京までは骨の折れる作業であるし、機動力に欠けると判断した信玄の思惑であった。これは画期的なことである。信玄の不安は、謙信に背後を襲われることであった。そこで信長と対抗している石山本願寺の顕如と結びつき、越中、加賀の一向一揆の勢力を強化を目指した。これで謙信を牽制し、北条、常陸の佐竹義重、安房の里見義弘と盟約した。まさに蜘蛛の糸のような謙信包囲網を築いたたのだ。更に反信長の近江の浅井家、越前の朝倉家を信長の包囲陣の協力者とした、ここにも石山本願寺の意が動いていたのだ。 更に梟雄で有名な松永久秀にも調略の手を伸ばし、元美濃の守護であった土岐頼次、伊勢長島門徒衆、北畠家の残党らも調略したのだ。 信玄の信長包囲網はこうして完成をみたのだ。 元亀三年十月三日、信玄は上洛の軍を発し遠江に進撃を開始したのだ。 それとは別に猛将で鳴る、山県昌景に五千の兵を与え三河東部の攻略を命じ、更に秋山信友には岐阜の足元の東美濃への進撃を開始させた。 まさに盤石な体制をとり、武田勢の目標は家康の籠る浜松城であった。 信玄上洛の報せを受けた信長は佐久間信盛、滝川一益等に三千の兵を授け浜松に援軍を命じ、家康には城に籠り武田勢との交戦を避けるように進言していた。 こうした状況下で武田勢は太田川で宿営し、水軍から補給物資を得て南下を開始した。既に家康傘下の只来城、飯田城、二俣城も落城し、武田勢は浜松城を目指し進軍していた。家康の軍勢は一万四千とも言われるが浜松城に籠城し、信玄の動きを監視していた。 ついに家康の恐れが現実となった。武田勢が浜松城に迫ってきた。城内での軍議では、徳川諸将も織田の援軍の三将も籠城策を進言し家康もその気となっていたが、武田勢はそれを嘲笑うように浜松城を横目で眺め通過している。信玄には家康の行動が手にとるように分かっていた。必ず城を出ると、 そうでなければ海道一の弓取りとは言えぬ、奴は必ず攻撃してくる。 武田勢は天竜川を渡河し三河の東部に出ようとしていた。 信玄は浜松城を南に見て北西の地、祝田(ほうだ)に向かい、再び方向を変えて三方ケ原台地に至り、祝田の地を背にし追分の地に陣を構えた。 家康は武将の意地をかけて決戦を望み、犀ケ崖で武田勢と合戦となった。 戦国最強とも言われた三河兵は、武田の甲州勢に鎧袖一触され家康は鞍に脱糞する有様で、ほうほうの呈で浜松城に逃げ帰った。 信玄は軍を西に向け、刑部(おさかべ)の地で越年した。 その頃から信玄の体調が思わしくなくなってきた、御宿大監物の書に、「肺肝を苦しむにより、病患たちまちきざし、腹心安んぜる切なり」と書かれており、病気であったのは確かであろう。 家康の支配する堅城、野田城を陥した信玄は、びたりと動きを止めている。 これは病魔が進行した兆しで、鳳来寺で療養に努めたがはかばかしくなく、一旦、信濃に戻るべく軍を返し甲府に向かっていたが、信濃の駒場で病状が急変し、四月十二日に死去した。享年、五十三歳であった。 信玄の無念はいかばかりか、あれほど鉄壁な計画を練りながら、軍旅の途中で病魔に敗けるとは彼自身も思わなかったであろう。死に臨み、「余が死んだら上杉謙信と和睦いたせ」「余が死んだら三年間は秘匿いたせ」「武田家は天下取りの野望を持つことを禁ず」 この三ケ状を重臣等に残したと言われている。 「了」
Dec 25, 2011
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「武田信玄」(三) 幽閉されていた義信は自殺をしたが、信玄による毒殺説もあるが信憑性は定かではない。これにより信玄は父、信虎の放逐と我が子を殺害した男して悪名が近隣諸国に喧伝されることとなる。 ここで三河の情勢を述べねばなるまい。 今川家の人質となっていた松平元康(家康)は、義元の上洛の際、先鋒として織田家の佐久間盛重の守る、丸根砦の攻略を命じられ激戦の末、砦を陥したが、義元の戦死により、自由の身となり三河に勢力を拡張していた。 この家康の動きを察知した信玄は家康と、駿河、遠江の分割の誓詞を交わしている。家康には遠江、自分は駿河を武田領にする腹づもりであった。 ここで信玄が駿河に侵入を開始する同時に、家康も遠江の侵攻を開始し、浜松城を攻め落とした。ところが信玄は信濃高遠にいた秋山信友に命じ、遠江に侵入させ見附に陣を敷き、家康方の奥平貞能に攻めかかったのだ。 家康は盟約に反すると信玄に抗議を申し込み、信玄は己の知らないことと弁解し、信友に軍勢の撤兵を命じた。 こうした信玄の行動は家康はもとより、北条家にも疑心暗鬼を感じさせるものであった。家康は駿河、遠江を自分の領土にせんとする信玄の野望に気づいたのだ。まさに信玄は表裏のある武将であったのだ。 だが、戦国時代の大名を見渡せば信玄のみがそうであるとは言い難い現象が、各地で起こっていたのだ。 これを恐れた北条家は謙信に連合を懇請したが、謙信はなかなか腰をあげなかった。戦国の混沌とした情勢のなか、信玄は北条家と謙信の動きを知り、織田信長に上杉家との講和の斡旋を依頼している。 既に武田家と織田家は縁戚関係となっていた。勝頼の室として信長の養女が武田家に嫁していたのだ。 まさに戦国乱世の世は蜘蛛の糸のように、複雑な姻戚関係で成立していたのだ。この策は謙信と講和し北条、今川家の連合を妨害し、謙信の信濃への侵入を防ぐ布石であった。 信玄は更に北条家と仲の悪い、常陸の佐竹義重、下野の茂木治清と同盟して北条家の背後を憑かせようと画策していたのだ。 だがこれらの策謀が成功する前に情勢が変わったのだ。 家康の今川家の掛川城攻略が、守将の朝比奈泰朝の抵抗で挫折していた。 これを打開せんと家康は遠江一国をよこせば、北条家と計って駿河を信玄の手から回復し、氏真に進呈するとの条件を提示したのだ。 まさに家康も喰えない狸の本領を発揮したのだ。 信玄と家康は駿河、遠江の分割を約し誓詞まで交換していたが、それを一方的に破って今度は、北条家と手を握り今川家を分け合おうと言うのだ。 信玄の上前をはねようとする家康が一枚、上手であった、まさに将来の狸親父の家康を彷彿させる出来事である。 続く
Dec 22, 2011
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「武田信玄」(二) 信玄の野望とは何か、父の信虎を放逐した彼の狙いは信濃と木曽の攻略であった。それを妨げるように存在している大名が、名門、諏訪家であった。 領主の諏訪頼重(よりしげ)は信虎の三女のねねを娶っており、武田家とは縁戚関係にあった。 信玄が家督を継いだ五日後に、頼重は信濃守護守の小笠原長時と謀って韮崎に軍勢を進めたのだ。その原因は舅の信虎を追放した信玄の行動を恨んでのことであった。信玄は時を移さず出陣し諏訪、小笠原の連合軍を破り、信濃に追い返している。 更に信玄は諏訪家の分家である、高遠城の高遠頼継(よりつぐ)が諏訪本家の乗っ取りを謀っていることを知り、彼と内応し諏訪領に侵攻し諏訪頼重の軍勢を破り、頼重を甲府の東光寺に送り、そこで自害をさせている。 この時の同盟者の高遠頼継は諏訪全土を狙い、諏訪に駐留する武田勢を追い払ったが、信玄は諏訪に軍勢を向け頼継の兵を壊滅させたのだ。 頼継は高遠城に逃れ、小笠原長時と連合し武田勢と対峙することになる。 こうして信玄は諏訪全土を手中に納めたが、信濃占領まで十二年もかかるのである。この信濃の合戦は佐久郡の笠原清繁の志賀城攻略をはじめとし、小笠原長時の深志城と属城、村上義清の葛尾城を攻め落とし、ようやく信濃攻略を果たすのであった。 敗れた信濃の諸将は越後の上杉謙信を頼り、五回にわたる川中島合戦への布石となっていくのだ。 この謙信との出会いが信玄の将来にとって極めて重要な要素となり、彼の上洛の夢の実現が困難になるとは、信玄にも考えが及ばないことであった。 この頃、関東には北条氏康が覇をとない、駿河には今川義元が上洛の機会を窺っていたが、今川が三河を狙って軍勢を発すると北条が駿河に侵攻し、その隙を狙って越後の上杉謙信が関東に侵入する、いわば三すくみのような状況となっていた。 一方の信玄も信濃全土の攻略戦を開始すると、謙信が信濃に現れので攻略戦を中止し、川中島に陣を張り越後勢と対決する羽目となるのである。 これに業を煮やした信玄は石山本願寺の顕如と謀って越中の一向門徒衆の決起を促す作戦に出るのであった。 こうした事態を憂慮した、今川家の軍師太原雪斎の進言で「善徳寺の会盟」所謂、三国同盟が成るのであった。これは武田家、今川家、北条家の同盟でこの時、北条氏康の娘が今川義元の倅の氏真に、信玄の娘は北条氏康の嫡男の氏政に嫁すことに決まった。信玄の嫡男義信には義元の娘が嫁しているので、三家の婚姻同盟であった。 この同盟で三家は後顧の憂いなく領土拡張の合戦が出来る状態となった。 これを契機に信玄の上杉家に対する態度が、大きく変化をみせるのだ。 謙信との約束を平気で反故にして木曽を攻略占拠し、越後の豪族に調略の手を伸ばし、謙信から離反させる戦術をとるようになった。 こうした時、将軍の義輝の要請をうけ謙信は上洛し、正親町天皇にも拝謁したが、信玄はこれを好機とし、謙信支配の高井郡に侵攻し諸城を陥した。 謙信は権威にも心から敬意をはらったが、信玄は単に権謀術策としての利用価値しか感じていなかったのだ。 いよいよ日本は戦国時代に入ったのだ。今川義元が上洛の軍を発し駿河を立ち、桶狭間で織田信長の強襲を受け、壮烈な戦死を遂げる事件が起こった。嫡男の氏真は武将の器がなく、父親の弔い合戦もせずに遊興に溺れ今川の力が、とみに落ちていた。 信玄にとり駿河が絶好の標的となったのはいうまでもない。彼は塩の道を確保したかったのだ。この駿河侵攻に反対した人物が、信玄の嫡男の義信で義兄の氏真を討つことに猛反対をしたが、信玄の意志は固く義信は己の家臣と武田家の重鎮の飯富兵部と謀って反逆を企てるも、信玄の知るところとなり、義信は幽閉され、家臣は殺されたり追放されたりした。 だがこうした事件が起こっても、武田家は一枚岩であった。信玄は他国にはなんの躊躇もなく権謀術策を行ったが、領民や家臣等には温かい抱擁力で彼等と接していたのだ。これが信玄の本質なのかは分からないが、占拠された地方でも武田家に叛く者は皆無であった。これは特筆ものであり信玄の人間としての器の大きさが知れる一事であった。 続く
Dec 20, 2011
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「武田信玄」(一) 今回は戦国大名の中で甲斐源氏武田家十九代の当主、武田信玄について考えてみます。上杉謙信同様に独断と私見での考えを述べます。 甲斐の虎と異名された武田信玄とは、いかなる武将であったのか? 信玄は国外にあっては表裏のある油断できない、武将であると思われていましたが、国でには非常に人気の高いお屋形さまと評価されています。 彼の軍事的才能と武田騎馬隊を中心とする、武田勢の強さは周辺の武将にとり、脅威そのものであったと推測できます。 更に武田家の軍旗「風林火山」の孫子の文字は信玄の軍才を現す顕著な証拠であると思います。「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」 因みにこの旗印は、何時の時代から使われたのか定かでないようです。 国外にあっては第一級の軍略家とみられ恐れられましたが、国内にあっては優れた政治家で、分国経営にも手腕を発揮しております。 まずは信玄の国内の治世と教えの数々を検証してみましょう。 彼は巨大な城を築かずに、躑躅ケ崎館を武田家の居城とします。「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」 これは「甲陽軍鑑」に書かれている有名な信玄の和歌の一節です。 こうした言葉が云える信玄とは有能な治世家の証です。 ですが色々な資料に眼を通すと、甲斐は四方を山々に囲まれ巨大な城は必要なかったとの記述もあります。これが本当かも知れませんね。 彼は暴れ川と言われた釜無川の洪水を鎮めるために、信玄堤を各所に造り、庶民の生活を守る土木建築を進め、一方では金山採掘に力を注ぎ、江戸時代の貨幣制度の先鞭を、甲州金で作り上げます。 更に棒道と呼ばれる軍事道路の建設にも意を注ぎ、四本の道を信州攻略の軍事道路として使用しています。 諏訪方面に上、中、下の三筋。南佐久郡に一筋、これは素早く軍勢を進めるための施策です。これは治世家であると同時に有能な武将としての才能を示す事柄です。 情報は素早く知らねばならぬ、信玄はその為に後年に信州各地に狼煙台を設置し、素早く情報が伝わる工夫をします。 また信玄は「我、人を使わず その業を使うにあり」と漏らしています。 家臣や武将達の優れた資質を見極めて重用したのでしょう。これは信玄が独断専行をせずに、配下の武将の意見を尊重し軍議を行ったと推測する一事です。 さて信玄の表裏ある対外政策とは、どのような事を指すのでしょうか。 信玄は残酷である。これは父の信虎を駿河の今川家に放逐し武田家を継いだことでしょう。他国の武将は、この事実をもって信玄をこう評価したのです。信虎とは残酷な人物で、百姓の女性のお腹が大きいとみて胎児が見たいと女性を殺し、腹を裂き胎児を見たという人物でした。 信虎の行状は更に激しくなり、領民の怨嗟の声が日ごとに強まってきた。 こうした事で武田家従来の武将達は、信玄に信虎の放逐を願いで信玄は已むおえず、父の信虎を今川家に放逐します。 続く
Dec 18, 2011
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「上杉謙信」 今回は戦国時代の武将の特徴を、わたしの勝手な解釈で書いてみようと思いました。その最初の武将は越後の名将で知られる上杉謙信です。 あくまでも私見であります。いろいろな見方があるでしょうが勝手な戯言と思って読んで頂ければ幸甚です。 彼は越後の豪族、長尾為景を父として誕生し、幼名を虎千代と名乗っていた。彼が合戦を行った時期は、兄の晴景の命令で反徒の鎮圧でありました。 時に十四才、その頃から影虎と名前を変え、五年の年月を要し越後平定に成功します、これを契機とし謙信は越後全土を掌握し。戦国武将として各地に転戦することになります。 西は関東の北条家、更に甲斐の武田家、越中の一向門徒衆との戦い。 わたしは謙信がどのような武将であったのか、資料などから推測しました。 まず第一に不犯(ふぽん)の名将と言われたことに興味をもちました。 生涯、女と接しなかった謙信に不審を感じたわたしは、拙い小説をブログに掲載しました。「上杉影勝」です、姉の仙桃院との禁断の姉弟の契を書きました。越後の人々は謙信が女性を近づけず、戦いば勝利する彼を軍神として見ていたのではないでしょうか。 彼が妻妾をもたない原因として現在、諸説があります。男色説、不能説、性病説、女人説などです。とりわけ不能説には僅かながらも根拠があります。 謙信が七歳の時、河に落ちて左の脛に傷を負います。また長尾俊景と合戦した時に、左の内腿に矢傷を被り、それより左の脚に気腫(きしゅう)があつて歩行する時に足を引きずるようになりました。これが不能説の根拠かも知れません、さて謙信をどのような武将であったか、皆さんはどう思われますか? 聖将、勇将、猛将、知将、謀将、愚将といろいろありますが、いかがでしょうか。十四才から四十九歳までの三十五年間に、謙信は合戦を指揮すること数百回、陣頭に立ち自ら敵城を攻略すること七十回、まさに摩利支天の働きをみせます。 更に義を重んじ、救援を求める者に対しては徹底的に庇護します。 その為か、これだけ多くの合戦に勝利しながら彼の残した領土は、越後、越中、能登の三国のみです。彼には領土的野心がなかったようです。 そうした謙信に彼の配下の武将はじめ、兵士までが神のように崇めて従っていった訳はなんでしょうか。 わたしは謙信の軍議に注目し、想像してみました。謙信は武将等の意見を求めずに、自らの戦略を語り徹底を図ったのではないでしょうか? 謙信には敗北はありません。更に武田信玄との合戦で有名な川中島の合戦では、武田勢よりも過小な兵力で武田領内の妻女山の山頂に陣を構えるなど、軍議で武将等に計ったら反対されることは目に見えています。 また後年には能登の七尾城を陥し、織田勢を率いる柴田勝家の軍団を手取川で大敗に追い込みながら、軍勢を止め追撃を止めております。 普通ならば勝ち戦に乗じて追撃するよう、各武将は猛烈に進言する筈ですが、上杉勢は落ち往く織田勢の敗残兵を見送るのみでした。 こうした事象を分析すると、わたしが先に述べた結論に落ち着きます。 こうした謙信の言動から察すると、謙信は合戦を愛し、酒を好む中世的な北越の軍神であったように、わたしには思われます。 謙信の辞世の句「四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒」一期の栄え一盃の酒 四十九年一酔の間 生を知らずまた死を知らず歳月ただこれ夢中の如し 彼の遺骸は越後から会津の若松城に、最後は米沢へと移るが武将として幸せな生涯を送った。軍神のような武将であったと信ずる次第です。
Dec 14, 2011
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「坂の上の雲」 NHKの日曜日の「二〇三高地~その山頂を全力で奪取せよ」を観て感じたことがあります。これは司馬遼太郎原作の坂の上の雲のドラマであります。 旅順攻略を命じられた第三軍の軍司令官、乃木希典大将は聖将であったのか、それとも愚将であったのか、見終って考え込んでしまいました。 司馬遼太郎は愚将と考え、彼をこの小説に描いたのではないかと疑問をもちました。乃木は西南戦争の折りに軍旗を西郷軍に奪われるという、軍人としてあってはならない恥辱を被ります。 そのことが生涯、乃木を苦しめ、彼を見る目が厳しくなったのではないかと思います。彼は長州の吉田松陰の縁戚でした。そうした意味では自分に厳しく他人に優しい気象をもった人物です。 彼は日清戦争で旅順要塞を一日で陥とした前例をもつ軍人です。 その後、ロシヤが進出し近代的な軍事要塞に作り直しました。ベトンで固め、塹壕を巡らせ、毎分、六百発発射できるマキシム機関銃を各所に配置し、地雷まで埋め込んだ近代要塞に変貌していたのです。 そうした変化を満州総司令部も、日本海軍も誰も知らなかったのです。 その攻略を命じられた人物が乃木軍司令官でした。当時の軍司令官は軍の象徴であり、攻略の作戦一般は参謀長が執ることになっておりました。 第三軍の参謀長は砲兵科出身で、要塞攻略に適した人物として参謀長となったのです。名前は伊地知幸介、薩摩出身の軍人です。 この参謀長が第三軍の実質の指揮者であったのです。砲兵科出身でありながら、大砲を重視せず、要塞の堅牢さも調査せずに無謀な正面攻撃を命じた結果、六万名もの将兵の命が、この作戦で散ったのです。 日本がロシヤと戦って勝利するには、ロシヤ海軍の撃滅以外はない情況でロシヤの太平洋艦隊二十万トンは、旅順港に潜みバルチック艦隊を待っていました。その艦数は48隻、それにウラジオストックにも艦隊をもっていたのです。 その為に日本海軍は二〇三高地の攻略案を進言しますが、陸軍海軍の確執で、伊地知参謀長は要塞の正面攻撃に固執し、肉弾攻撃に専念します。 そうした激戦の中、乃木希典は作戦に口を挟まず、激戦地の様子を巡視し、心を痛めておりました。 この戦場で二人の息子を失い、散って逝った将兵を思い、良くぞ戦死したと心で思う乃木の心境はいかばかりか。 こうした情況に業を煮やした満州総司令部の、児玉総参謀長は軍司令官の大岩巌に申しでて、急遽、旅順に向かいます。 児玉は着任後、彼は28センチ榴弾砲の配置転換を命じますが、伊地知参謀長は反対します。砲台のべトンが乾かないという理由でした。「貴公は何を言うか、無謀な作戦で陛下の赤子を無駄に死なせおって」 児玉総参謀長は再度、命令を発令し四日後に二〇三高地はあっけなく陥しました。こうして観測場を設置し、旅順港に潜むロシヤ艦隊に猛射を浴びせ、壊滅状態にします。 だが、この児玉総参謀長の行動は現地の軍司令官の権限を無視することでしたが、乃木は旧友である児玉源太郎の進言に、文句も言わずに従います。 こうした乃木希典の行動をみると愚将とは考えられません。 軍神、聖将と呼ぶに相応しいのではないかと思います。
Dec 12, 2011
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「冬らしくなりましたね」 最近、このブログに掲載した小説を読み直しております。 ブログを開始したのが、2005年2月でした。 初めは「時代小説コ-ナ」でしたが、その後は「長編時代小説コ―ナ」に変更して現在に至っております。 当時から数えると短編、長編はどれくらい掲載したのか覚えがありません。次々と削除してしまいましたので、今、書きたい題材はありますが、書き出しの一行がどうしても描けないのです。 それは未だ熟成してない証拠かも知れません。 まだまだ自分のなかで発酵させないと描くことが出来ないようです。 そんな時に過去に掲載した小説を再度、手直しをしたい欲望が湧いています。表現方法の不味さとか、人物描写の稚拙さ、その時代背景の貧しさが実感されます。現在なれば違った角度から主人公を見直すことが出来るかも、そんな思いに取りつかれています。 こんな考えになったのは自分のなかに描きたい人物が見つからないことも原因のひとつかも知れませんが、スト-リを考えることが面倒になったことも見逃せない一因です。 前は一行書きだすと勝手に主人公が、動いて筆が進みましたが、それも出来ません。 もともと乏しい能力が枯れたのかもしれませんね。 そう思うと寂しい限りです。 これから「武田家二代の野望」を再度、読み直す積りです。 最近、急に寒さか募っておりますが、どうか御身大切にご自愛ください。 近況報告まで・・・龍
Dec 9, 2011
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「猪の吉の独り言」「影の刺客」伊庭求馬活殺剣が、先週の土曜日におわりゃした。 下手な小説を読んで頂き感謝いたしゃす。 産みの親の龍爺の態度に、実はあっしは怒っておりゃす。伊庭求馬活殺剣とサブ タイトルを付けながら、伊庭の旦那にあっし、それにお蘭師匠の出番の少なさと、途中から創作の意欲をなくし、サボるとはもっての沙汰てございゃす。 スト-リ、人物描写、風景、それらを入念に描くことを忘れ、意欲をなくし、適当に描くなんぞあっしには考えられやせんゃ。 こんな下手な小説を掲載するなんざ、龍爺の考えが分かりやせんぜ。 三拝九拝、あっしから皆さんに爺にかわって謝罪いたしゃす。どうか許しておくんなせえ。 何時になるか分かりゃせんが、次回は確りと書くように爺に伝えておきやす。 今年もあと僅か、どうか良い年にしておくんなせえよ。 心から祈っておりゃす。
Dec 5, 2011
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「影の刺客」(77)「矢張り貴方さまか、白河藩江戸家老の遠藤又左衛門殿」 求馬が驚きもせず、感情を殺した声をかけ、猪の吉が眼を剥いた。 白河藩の藩主は、老中首座の松平定信である。「貴殿とはこうした因縁で結ばれておったようですな」 遠藤又左衛門が素早く紋服を脱ぎ捨てた。下には白練りの衣装を着込み十文字に襷がかけられていた。「遠藤殿、事は破れ申した。この場で切腹を成され」 求馬の言葉に遠藤又左衛門が破顔で応じ、「剣士とし、尋常な勝負をいたさん」 乾いた声と同時に素早く抜刀し、正眼の構えとなった。「どうあっても勝負を挑まれるか」「左様」 受けてたつ求馬が、ゆっくりと愛刀の村正を抜き放ち、左下段の構えをとった。凍った鬼子母神の闇で壮絶な闘いが始まったのだ。「逆飛燕流の秘剣の冴えを存分に拝見いたす」 声が途絶えるや、遠藤又左衛門が眼にもとまらぬ拝み打ちを仕掛けた。それは軽妙極まる剣さばきであった。 求馬はそのの剣を下段の位置から跳ねあげ、踏み込みざまに左首筋を狙い、凄まじい一颯をみまった。 遠藤又左衛門は予期した如く、素早く後方に身を退かせ求馬の攻撃を避けた。それは稀有の剣士のみが成しうることであった。 二人の大刀が月明かりに照らされ、白々と凄味のある刃紋を見せている。 その対決を手に汗を浮かべ猪の吉が見つめている。 四半刻ほど二人は微動もせずに対峙している。生死をわかつ狭間での必死の攻防であった。 風が銀杏並木を揺るがせた。 猛烈な剣気を漲らせた遠藤又左衛門が、じりっと前進をはじめた。 命を捨て去った遠藤又左衛門である、求馬はそれを悟っている。来るなと思った瞬間、遠藤又左衛門は生死の境に足を踏み込んできた。 攻勢を懸けたのは遠藤又左衛門である、彼は村正を上から抑え込み、垂直に求馬の躰を両断すべく猛烈な勢いで大刀を振りおろした。 それを感知した求馬は痩身を捻って躱した。 一方の遠藤又左衛門は素早く大刀を引き、左脇備えの構えに変化させた。それは求馬の反撃を阻止する、剣士としての本能の成せる技であった。 だが生を捨てた遠藤又左衛門は、無謀ともとれる態勢で大刀を水平に奔らせた。 求馬が咆哮をあげ左下段から村正が跳ねあがり、宙で大刀を弾き弧を描いて遠藤又左衛門の左肩を薙ぎ斬った。 一瞬遅れで遠藤又左衛門の大刀が求馬に襲いかかったが、求馬は躰を密着させ攻撃を防いでいた。「お見事っ」 肩口から鮮血を滴らせた遠藤又左衛門が、腰砕けとなり地面に座り込んだ。 求馬がその様子を見つめ、村正の血糊を拭って鞘に納めた。 遠藤又左衛門が肩で大きく息をしている。「ご貴殿ともあろうお方が、何故に愚かな所業を成された」「これは殿もご存じないことにござる。拙者は一橋治済が憎かった。己の欲望を遂げんと上様をけしかけ、更に大奥までも味方とし、殿を失脚させようと謀る治済がの」 遠藤又左衛門が咳きこみ、唇から血が滴った。「伊庭殿、上様は今年にはご成人あそばされる。その機会を狙って治済は殿を首座の座より罷免し、将軍補佐役までも解任する積りにござる」「・・・」 求馬が夜空を仰いだ、煌々と半月が輝いている。「治済は西の丸に入り大御所となる腹にござったが、殿が反対なされた。奴等にとり殿は目の上の瘤にござる。それを知った拙者は無断で白川衆を江戸に呼び寄せ、治済の暗殺を企て申した」「皮肉な事ですな、定信さまに命じられたそれがしと嘉納主水殿が貴殿の企てを阻止いたすとは」「なぜ、拙者に眼をつけられた?」 遠藤又左衛門の顔が苦痛に歪んでいる。「非情に徹する、それが貴殿は出来なかった。古寺に放火を命じながらも、江戸の町の類焼を避けられた」 求馬が言葉を止め遠藤又左衛門を見つめた、迫り来る死の淵で彼は求馬を仰ぎ見ている。「更に世間の眼を攪乱するために、二度にわたり白河衆にお屋敷を襲わせましたが、奴等は屋敷内に踏み込む様子をみせなかった。そこからそれがしは貴殿を疑いの眼で見るようになりました。何故、首座殿に報告なされなんだ」「拙者にも幕閣に知人は居ります。もはや上様のお心は定まっておられた、それを殿に告げるは酷と言うもの」 求馬は言葉を失った、忠節に命を懸けた男子の訴えである。これほどの忠臣は居ない、だが無辜の他人を犠牲としたことが許せなかった。「拙者はここで命を絶ちます。だが、このままでは死にきれませぬ。治済の暴走を許せば、徳川宗家と御三家、御三卿は治済の血筋に支配されます」 既に死期が迫っている。この人の遣ったことは許せない、併し己を殺し政事の非をならす行為は認めねばなるまい。そうした思いが求馬の脳裡をよぎっていった。「遠藤殿、万一、治済さまが大御所を名乗り西の丸に入るような事態となれば、それがしが治済さまのお命を頂戴いたす。それをお約束いたす。更にこの事件の背景は、それがしの胸に秘めておきましょう。安堵なされ、定信さまにも嘉納主水殿にも内密にいたす」「かたじけない」 蒼白な遠藤又左衛門の頬に笑みが刻まれた。「殿を頼みます。・・・最後に願いがござる」「・・・」「拙者の懐に五十両ござる、これを藤屋の船頭の家族に渡して下され」「畏まった」「これで安堵して地獄に逝けます。お帰り下され」「さらばにござる」「かたじけない」 遠藤又左衛門のかすれ声を背にし、求馬は踵を廻し参道に向かった。「むっ-」 気力を絞った声が聞こえた。遠藤又左衛門が命を閉じた瞬間と感じたが、振り向くこともなく鬼子母神の堂塔の脇をすり抜けた。 鎌月が黒雲に覆われ、銀杏並木を突風が吹き抜けていった。 (完)影の刺客(1)へ
Dec 3, 2011
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「影の刺客」(76)「事は破れた。最早、退勢をくつがえすことは無理じゃ」 小屋の中から先刻の山岡頭巾の武士と思われる声が洩れ聞こえた。「我等、白河衆は負けませぬ。まだ里には三十名の手練者が控えております」 反論するしわがれ声がした。(奴が白河衆を名乗る集団の頭領じゃな) 求馬はそう察した。二人は小屋の翳で気配を断って内部の話に耳をそばだてている。寒風が容赦なく二人を襲ってくる。「この計画は全て拙者の一存で成したことじゃ」「それは可笑しい、貴方さまは常に殿がお怒りじゃと申され我等を急かされた。その殿がご存じないと言われますのか?」 甲戌の声であった。「許せ」 武士の謝罪の言葉が洩れた。「甲戌、これはわしのみが承知のことであった」 再度、しわがれ声が聞こえた。「一夢斎、白河衆は良く尽くしてくれた、礼を申す。この上は里にもどり、武の鍛錬を成すのじゃ。数百年もの間、武を生活(たつき)の道としてきた白河衆じゃ、これからも助けが必要となろう。分かるの」「一橋治済は必ずや殿の失脚を謀りますぞ」 しわがれ声が高まって洩れた。「最早、わしの手にはおえぬ。上様はご成人なされる、そうなれば殿の力をもってしても叶わぬことじゃ。・・・拙者も疲れた。殿の御為と思ってきたが、余りにも犠牲者が多い、これ以上の犠牲者は無駄じゃ」「お心の弱いことを申されますな」「一夢斎、里にもどるのじゃ。これは拙者の最後の命令じゃ」 屋外の二人が、ぢりっと小屋に近づいた。 足元の枯草が微かな音をたてた。「誰じゃ」 声と同時に小屋から、三人の浪人が飛びだしてきた。「その方等が江戸を騒がせし曲者の残党か?」 覚めた声を発し、求馬が懐手のまま痩身を晒し小屋に近づいた。「貴様は伊庭求馬か」 中央の甲戌が大刀の柄に手を添い、威嚇の声をあげた。 凄まじい殺気が湧き上がり、凄愴な空気が闇夜に広がった。 鎌月が流雲に隠れ、一瞬、暗闇となった。 二人が求馬の左右に散り、中央の甲戌が長身の体躯を低め抜刀した。「甲戌、闘いは止めよ」 小屋から山岡頭巾の武士と、墨衣をまとった白髪の老人が姿を現した。「お主が奥州の隠れ里の白河衆の頭領、一夢斎かの」 求馬がゆっくりと懐手のまま佇み、乾いた声を浴びせた。「お主が元公儀隠密の伊庭求馬か、ずいぶんと仲間が犠牲となった」 しわがれ声が殺気を含み発せられた。「左様じゃ、それがしが伊庭求馬じゃ」 答えつつ懐から腕を抜きだした、着流しの裾が突風に煽られた。 それを合図のように山岡頭巾の武士が、高下駄を脱ぎ捨て足袋のまま前進を始めた。猪の吉が草叢の翳で飛礫を握りしめた。「この場で決着をつけますか?」 鋭い声が求馬の口から吐かれた。「・・・」 一瞬、静寂となり、「お言葉に甘え、暫時、時を頂戴いたす」 山岡頭巾の武士が鋭い眼差しをみせ、闘いの中断を申し出た。「それがしは一向に構えませぬ」 求馬が乾いた声で応じた。「かたじけない」 山岡頭巾の武士が、背後に控えた四人に向き直った。「お主等が束になっても勝ち目はない。先刻、申した通り里に戻るのじゃ。六組もの手練者が斃れたのは拙者の責任じゃ。これ以上の犠牲者は望まぬ。一夢斎、三名を連れて里に帰ってくれえ、長い付き合いであった」 沈黙が漂い、甲戌の体躯から殺気が盛り上がった。「止めぬか、仰せの如く我等は里に戻ります」 一夢斎が甲戌を叱責し、山岡頭巾の武士と顔を見つめあった。 突風が襲い白髪がおどろおどろと宙に舞い上がった。 一夢斎が深々と頭を下げた。「良くぞ料簡してくれたの、これで思い残すことはない。四人ともこの場から去れ」 一夢斎が顎をしゃくた。無念の形相をみせた甲戌が真っ先に駆けだし、その跡を追って二人が暗闇に消えた。「さらば、それがしも里にいぬります」 網代笠を被った一夢斎が、無言で一礼し闇に溶け込んだ。「我等、白河衆はいつ何時でも殿の下知ならば罷りこしますぞ」 風に乗って一夢斎の声が流れてきたが、それも消え失せた。 再び、突風が吹き抜けていった。 雲に隠れていた鎌月が中天に昇り、対峙する二人を照らしだした。「お待たせいたした」 武士が山岡頭巾を脱ぎ捨てた。中年の鋭い眼差しの武士の素顔が現れた。影の刺客(1)へ
Dec 2, 2011
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「影の刺客」(75)「旦那、黒幕は現れやすか?」「来る。来るとしたら小石川から護国寺に向かう道じゃ」 求馬が迷いもなく断言した。「待っておくんなせえよ、それは西の丸からの道筋ですぜ」 猪の吉が不審そうな顔をした。「猪の吉、わしを信じよ」「分かりやした、音羽屋は恰好な見張り場となりやすね。あんな残酷な奴等は、早いところ始末しねえと何をやらかすか分かりやせんね」 そう云った猪の吉が首をかたむけた。 求馬の端正な顔に心なしか苦しげな翳が見えた。「旦那、何かを知っておられやすな」「止むに止まれぬことでしでかした事件じゃ。わしには黒幕の胸中がなんとなく分かる気がする」「何をおっしゃりたいんで」「猪の吉、武士とは辛いものじゃ、だが、わしは許さぬ。せめてわしの手で引導を渡してやる」「旦那は黒幕の正体をご存じなんですかえ」「猪の吉、三日後には決着がつこう。今は何も訊くな」「へい」 返答はしたが猪の吉には、求馬の心の中が全く見えなかった。おいらは旦那に付いていくだけだ、そう思っている猪の吉であった。 翌日から二人は目白台の音羽屋の二階に陣取り、張り番についていた。 東に小石川をのぞみ、西に向かうと鬼子母神へと向かう道筋にあった。 一日目は何事もなく過ぎた。この辺りは暮れ六つを過ぎると人通りが、ばったりと途絶え、暗闇に覆われる。 千代田のお城の西北に位置し、鬼子母神のうしろには雑司ケ谷が控え、朱引内と御府内の境界線にあたる場所である。 三日目の夜を迎えた。 八畳の部屋で火鉢を囲み、黒幕の現れるのを待っている。 階下から付近の百姓や、雑役をこなす人足などの酔った声が響いている。「旦那、今夜が奴等の言った三日目ですぜ」「お主が聞き出してきたことじゃ」 求馬が素っ気なく答え、愛刀の村正の手入れに余念がない。「冷えてきやしたね」 猪の吉が厳重な身形をして胴震いをしている。 外はすっかり闇が落ち、音羽屋の大提灯の灯りがほんのりと道を照らしだしている。「いい月が出てまいりやしたよ」 猪の吉が格子戸を少しあけ、道を警戒しながら月夜を告げている。「そろそろ刻限じゃな」 求馬が壁に背をもたせ、瞑目したまま声をかけた。 四半刻ほど時間が経った頃、求馬が眼をひらいた。高下駄の音が聞こえてきた。「猪の吉、奴だ悟られぬなよ」「抜かりはありやせんよ。旦那、あの侍が黒幕ですかえ」 猪の吉が低い声で訊ねた。「畜生め。山岡頭巾で顔が見えませんぜ」 高下駄の乾いた音が音羽屋の前を通り過ぎていった。 求馬が戸の隙間から鋭く一瞥した。身形の立派な武士が高下駄を履き、音羽屋から遠のいて行く。「旦那、小柄ながら腰の据わりの良い侍ですな」 百戦錬磨の猪の吉が、素早く武士の腕前を見抜いている。「あの男が黒幕じゃ」 求馬が音もなく痩身を立ち上げ、足音を消して階段から外に向かった。凍った冬空に半月が浮かび、煌々と下界を照らし出している。 武士は警戒する気配もみせずに、護国寺の門前を横切り、鬼子母神へと向かっている。 黒羽二重の着流し姿で求馬が闇にまぎれ、うっそりと痕を付け、その背後から猪の吉が、絣(かすり)の羽織を着こみ、股引姿で足音を忍ばせていた。 やがて欅並木と銀杏並木が見えてきた、鬼子母神に着いたのだ。 武士は参道をのぼり堂塔脇を抜け、迷いもみせず鬱蒼と繁った樹木の闇に姿を消した。「旦那、この奥に小屋がありやす」 猪の吉が先頭にたって暗闇の小道を音もたてずに掻き分けている。「猪の吉、あの小屋がそうか?」「へい」 求馬が何時の間にか猪の吉の背後に寄り添っていた。「小屋には黒幕と曲者の残党が居るのじゃな」「間違いはありやせんよ、頭は長身の男で配下の一人は手傷を負っておりやす。その男がきしと名乗っておりやす」「きしとは、癸巳のことじゃな」 求馬が素早く名前を述べ、二人は気配を消し小屋に近づいた。影の刺客(1)へ
Dec 1, 2011
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