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クロニクル 『文学界』創刊1893(明治26)年1月31日123年前になります。日清戦争が始まる1年と数ヶ月前ですね。この日、北村透谷や島崎藤村らの手で、文芸雑誌『文学界』が創刊されました。この『文学界』は、1898(明治31)年1月まで続き、全部で58号まで発行され、ロマン主義文学の初期の旗頭の役割を果たしました。透谷と藤村のほかに、樋口一葉、上田敏、田山花袋、戸川秋骨、馬場孤蝶、松岡国男らが常連執筆者でした。20代前半の若い世代が中心で、編集メンバーでは、創刊当時25歳の北村透谷が最年長で、藤村と一葉は共に21歳でした。その透谷は創刊翌年の1894年に亡くなっています。やがて、メンバー夫々が、各自の道を歩みだしたことで、役割を終え、98年1月をもって、解散となりました。現在文芸春秋社が発効している文芸誌『文学界』は、1933年に創刊され、38年から文芸春秋社が発行元となった、全く別の雑誌です。
2016.01.31
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クロニクル 米兵至近距離で農婦を射殺1957(昭和32)年1月30日昨日と同じ59年前の出来事です。第1次南極観測隊が、南極大陸に上陸した翌日のことです。事件は群馬県相馬ケ原の米軍射撃場内で起きました。日本がまだまだ貧しい時代でした。貧しさ故に、基地周辺に済む貧農たちは、立ち入りを許された基地内に立ち入り、空薬莢(からやっきょう)や砲弾の破片を拾い集め、生活の足しにしていたのです。 射殺された坂井なかさんも、そういう一人でした。坂井さんが射殺される瞬間を目撃した農婦達の証言によって、射殺犯W・ジラード三等技術兵は「ママさん、大丈夫ヨ」と、わざと坂井さんを近くに呼び寄せたうえで、至近距離から射殺したことが明らかにされました。 当然国内世論は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなりました。米兵に巣食う、日本人に対する極端な優越意識(この意識は今日でも、在沖縄米軍などに色濃く残り、それが婦女暴行事件や車輛による人身事故の多発に繋がっているように見えます)の存在を、これみよがしに見せつけられたのですから……。世論の怒りに、米国に弱い日本政府も、ここは強気のポーズで米軍に当たらざるをえません。しかし、サンフランシスコ講和と同時に結ばれた日米安全保障条約によって(前年11月に調印されていました。発効は3ヶ月後の4月28日でしたが)、日本は米軍の日本駐留を認め、その駐留米軍には、日米行政協定(当時、現日米地位協定)によって、治外法権が認められていました。即ち米兵は、勤務中か否かに関わらず、その行動によって生じた係争は、米国の法規で米国の司法でのみ裁かれることになっていたのです。 ここに、いかに日本側が「ジラード陸士は故意の殺人犯なので、裁判権を日本側に委ねよ」と主張しても、駐留米軍はガンとして聞き入れず、ジラードは米軍機で密かに帰国、日本側はウヤムヤの内に押しきられてしまったのです。 米軍基地と日本の主権との関係が、ここに大きく問題化したのです。当時中学生だった、我々や少し上の世代には、いまだにこの事件は、心の底に熾りとなって残っており、いわば草の根の反米感情を消し去ることが出来ないでいます。
2016.01.30
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クロニクル 南極に昭和基地建設1957(昭和32)年1月29日59年前のこの日、第1次南極観測隊は、南極大陸のリュツォホルム湾に上陸、その地を昭和基地と名付けました。 昭和基地は2月6日に完成。西堀栄三郎越冬隊長以下、16名が越冬のため、カラフト犬らと共に昭和基地に残りました。この翌年の第2次観測隊は吹雪のため、接岸出来ず、第1次越冬隊員を辛うじてヘリで救出するのがやっとだったため、極寒の南極の地で苦楽を共にしたカラフト犬らは、置き去りにせざるを得ませんでした。 昨今の基地は建物も多くなり、床暖房に専任のコック氏も常駐する比較的快適な住まいとなっていると言いますから、燃料節約のため、夜はストーブを切って寝袋にくるまって寝ていたという当時とは雲泥の差があるようですね。しかし、59年前の建物が、南極のブリザードに耐え、今日も立派に現存しているというのですから、立派です。 因みに59年前の春の甲子園の優勝校は、ノーワインドアップ投法の2年生エース王貞治投手兼4番打者を要する早稲田実業高校でした。この早実に決勝戦で敗れたのが、私の疎開先だった桐生の桐生高校でした。
2016.01.29
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クロニクル レゴ・ブロックの特許出願1958(昭和33)年1月28日レゴ・ブロックご存知ですよね。あのレゴ・ブロックの基本構造に関する特許が出願されたのが、58年前の今日でした。出願者はレゴ社のゴッドフレッド・クリスチャンセンさんでした。レゴ社はデンマークの玩具会社です。レゴ・ブロックは、60年代半ばから徐々に売り上げを伸ばし、70年代に大きく飛躍して今日に至っています。 我が家にも、かなりの量がありましたが、今は、姪の子どもたちが使っています。
2016.01.28
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クロニクル 曙横綱に昇進1993(平成5)年1月27日23年前になるのですね。この日、前年の九州場所と1月の初場所で、2場所連続優勝した大関曙が横綱に推挙されました。ここに初の外国人横綱が誕生しました。それから今日まで23年、今や上位陣のほとんどが外国籍の関取に占められていますね。日本人の優勝力士が10年振りで出ましたが、3代目若乃花以来途絶えている日本人横綱は、いつになったら出るのでしょうね。元大関魁皇の浅香山親方は、「外国人力士の方が、日本人力士より遥かにけいこ量が多いのだから、今のままなら日本人横綱はとても望めない」と答えていました。なるほどと思いましたが、何ともさびしい話でした。
2016.01.27
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クロニクル 帝銀事件1948(昭和23)年1月26日68年前のことです。この日、銀行が既にシャッターを下ろした午後3時半頃、帝国銀行(帝銀)椎名町支店(東京都豊島区)に、東京都防疫課員を名乗る男が現れ、行員と住込み行員の家族等合わせて16人に、赤痢予防の薬だと称して毒物を飲ませて、12人を毒殺、現金16万円余と額面1万7千円の小切手を奪って逃走するという事件が起きました。世にいう帝銀事件です。犯人は毒物について、相当専門的な知識を持つ人物と推定できましたし、犯行に使われたピペットは、旧陸軍の物であることも分かりました。そこから、犯人は満州で生物化学兵器の開発と人体実験を行っていた731部隊の関係者であろうとする見方が有力になりました。ところが、この方面の捜査には、何故かGHQの横槍が入り、捜査は難航しました。8月21日、捜査当局は、画家の平沢貞通容疑者(当時53歳)を逮捕。彼の単独犯と発表しました。平沢容疑者は取調べで自供し、物的証拠はないまま、自白を唯一の根拠として起訴されました。しかし、平沢被告は裁判では一転して犯行を否認、自白は拷問によって強制されたと主張したのですが、認められず、そのまま死刑が確定しました。当時の取り調べでは、なお多くの拷問の事実が出ているのですから、自白が唯一の証拠という場合、有罪判決には無理があるのですが、その後何度も出された再審請求は認められず、かといって再審を支持する世論の声も無視できず、死刑の執行は出来ないまま、平沢氏は刑務所に収監され続け、1987(昭和62)年5月,獄中で病死しました。戦後30年も、40年も経ってもなお、再審への道が、まだほとんど開かれていない段階だったのです。なお、帝銀は、この年8月、新帝銀と第一銀行に分割され、新帝銀は後に三井銀行と改名しています。第一銀行は第一勧業銀行を経て、合併でみずほ銀行へ、三井銀行は同じく三井住友銀行となっています。
2016.01.26
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クロニクル 朝日新聞創刊 1879(明治12)年1月25日今日が創刊137年の記念日になるのですね。そうなんです。朝日新聞が大阪江戸堀にて、創刊第1号を発行したのが、137年前の今日でした。ここに、大阪朝日新聞と、東京日々新聞(毎日新聞の前身)という、自由民権運動を支持する二つの新聞が肩を並べることとなりました。 創刊当初は、現在の謄写板印刷のような、B4用紙の両面印刷でした。
2016.01.25
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クロニクル ザ・タイガース解散コンサート1971(昭和46)年1月21日1960年代後半は、グループサウンズの全盛期でした。ブルー・コメッツ、スパイダース、タイガース、テンプターズなどなど、次々に人気グループが登場、今も歌われるヒット曲が数多く誕生しました。タイガースにはジュリーとトッポ、スパイダースにはマチャアキとジュン、そしてテンプターズにはショーケンと、人気のヴォーカリストも揃っていました、しかし、グループ・サウンズの絶頂期は短く、60年代の終わりと共に、急速にGSブームは下火となり、中心メンバーたちも、個人として活動するようになり、解散するグループも多くなりました。こうしてザ・タイガースも、1970年末に解散を表明、45年前の今日、武道館で開かれたコンサートを最後に、解散しました。個人的な好みで言えば、タイガースの曲では、トッポが独特の高音でメーン・ボーカルを務めた「花の首飾り」が、お気に入りです。
2016.01.24
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クロニクル 「ゴキブリホイホイ」発売1973(昭和48)年1月23日アース製薬の「ゴキブリホイホイ」、ご存知ですよね。当時好感度no,1と言われた由美かおるをCMに起用し、大ヒットした商品です。今でも関連商品の売れ行きは好調で、殺虫・防中関連商品でのアース製薬のシェアは、50%近いと言われています。実はこのアース製薬、ゴキブリホイホイ発売の3年前、1970年に会社更生法を申請し、一度倒産しています。この会社を買収し、再建を引き受けたのが、大塚製薬でした。こうして大塚製薬の傘下に入ったアース製薬は、ゴキブリ捕獲器の開発に社運をかけ、除虫菊の成分から、ゴキブリ誘引剤を取り出すことに成功したのです。この発見が、誘引剤で誘い込んだゴキブリを、粘着剤で動けないようにして、箱ごと捨てる「ゴキブリホイホイ」の誕生に繋がりました。その新製品の満を持しての発売日が、43年前の今日だったのです。真冬に発売したのですから、よほど自信があったのでしょうね。おそらく夏場のゴキブリシーズンに向け、どのくらい在庫を積み上げておけばよいか、そのヒントを冬場の売れ行きから見つけようと考えたのでしょう。「ゴキブリホイホイ」は他社製品に比べて、捕獲力が高く、しかも誘引剤であるため、殺虫成分を含まず、薬剤の使用に問題のある小児や小動物のいる家庭にも歓迎され、爆発的大ヒットになりました。勿論アース製薬の経営再建も、ここに軌道に乗りました。
2016.01.23
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クロニクル 血の日曜日事件1905(明治38)年1月22日昨日のクロニクルに続いて、外国史の話です。111年前のことです。この日、当時のロシア帝国の首都ペテルブルグ(現在のサンクトペテルスブルグ)の冬宮前広場は、ツァーリ(皇帝)への請願のためにやってきた人々に対する警備の軍隊の発砲によって、一面の銀世界を血の修羅場に変えました。当時は日露戦争の最中にあり、ロシアもまた資金難に苦しめられており、社会の底辺で暮らす人々の生活は食糧価格の高騰により、困窮の度を深めておりました。 この時にあたり、警察の認可と協力を得ながら、貧困な労働者を教化する組織作りを進めていた、ロシア正教会の牧師ガポーンは、ツァーリへの請願行進を計画、この日1月22日(西暦から13日を引くとロシア暦になります。ロシア暦ではこの日は1月9日の日曜日です)に実行するに至ったのです。勿論ガポーンは,この計画を警察に届け出、その許可を取りつけたと考えておりました。行進は、ガポーンの指導の下、当時ストライキ中のロシア屈指の大企業、プチロフ工場の労働者とその家族を先頭に、ペテルブルグと近在の貧困層のほとんどが参加する大規模なものとなりました。行進参加者達は、生活の窮状を訴えた思い思いの請願書を手に、冬宮に向かったのですが、冬宮前で待ち構えていた軍隊は、想像を超えた多数の群衆の出現に驚き、問答無用の一斉射撃を浴びせたのです。雪の冬宮前広場は.労働者や家族達の血で染まり、一瞬にして阿鼻叫喚の世界に変じました。死傷者数2000を超えたと言われています。この事件は「血の日曜日事件」として、後世に知られるのですが、「ツァーリ」を味方と信じ、辛い暮らしもいつかツァーリがこの苦しさから救い出してくれる、と信じてきたロシアの民衆にとって、ツァーリは味方ではなくなった、ツァーリが自分たちを裏切ったと感じさせるに十分な出来事でした。なにしろ数万を超える民衆が目撃した、信じ難い光景だったのですから…。この事件がきっかけとなって、1905年の第1次ロシア革命が始まりました。革命の火は、以後10月に向けて、高まり続けて行くのですが、やがてその火は、軍隊にも飛び火し、戦艦ポチョムキン号の叛乱事件などに繋がってゆきます。 この結果、ロシアのツァーリ政府は、日露戦争を継続しながら革命勢力を鎮圧することの不可能を悟り、形勢不利なままでの、不本意な講和を日本との間で結ばざるをえない状況に追い込まれてゆきます。
2016.01.22
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クロニクル ルイ16世処刑1793(寛政5)年1月21日フランス革命200年の1989年は、日本では昭和から平成に移行した年、国内的にはバブル景気に浮かれ、何人ものバブル紳士が、そうとも知らずに束の間の我が世の春を謳歌していました。そして世界では、ベルリンの壁崩壊に代表される東欧革命の年として、ソ連圏とソ連の影響力とが、音を立てて崩れ落ちていった年でした。今日取り上げるのは、200年以上も昔のことになったフランス革命からです。223年前のことになります。丁度日本では、松平定信の寛政の改革に対する庶民の怨嗟の声が高まり、夏には彼が失脚する年に当たっています。そんな時でした。フランス革命が本格化してから3年半のこの日、国王ルイ16世が、革命広場(現在のコンコルド広場)のギロチン台に引かれ、処刑されたのです。この処刑を口実に、イギリスがオーストリアとプロイセンによる反フランス革命包囲網に参加、対仏大同盟を形成してフランス国内の反革命派をも支援したため、フランス革命は再び危機を迎えます。この危機に対応して登場するのが、ロベスピエールを中心とするジャコバン独裁、いわゆる恐怖政治です。革命の危機が、強力な独裁政治を生みだすのは、現代にも通じるものがありますね。
2016.01.21
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クロニクル 地下鉄丸の内線池袋~御茶ノ水間開業1954(昭和29)年1月20日62年前のこの日、東京の営団地下鉄(現東京メトロ)丸の内線で、池袋~御茶ノ水間が開業しました。東京の地下鉄としては、同じく営団銀座線、浅草~渋谷間に続く、2番目の路線です。池袋から御茶ノ水,東京、西銀座(現在は銀座)、霞ヶ関を経て四谷で中央線に接続、新宿に至るルートをとって、さらに方南町方面と荻窪に至るのですが、先ずは池袋~御茶ノ水間が先行開業したのでした。 その後、首都圏の地下鉄は、地価の高騰と騒音問題の高まりの中で、あちこちで建設され,今ではネットで調べないと、何線がどこを通っているのか、どれが都営で、どれが旧営団の東京メトロかも分からない程になっているのですが、この当時はピカピカの1年生並みの丸の内線と、何か旧式で古めかしい 銀座線が好対照をなしていました。 私事になりますが、私がはじめて丸の内線に乗ったのは、この年5月、小学校6年生の時でした。ソロバン塾の先生の引率で、仲間5人と全珠連の3級の検定試験を受けに明治大学まで行った帰り道でした。京浜東北線の王子駅と当時は赤羽線といった現在の埼京線の板橋駅のほぼ中間点にソロバン塾があったのですが、「帰りは新しい地下鉄に乗せてやる」という先生の飴玉作戦に乗せられて、悪ガキ5人が地下鉄乗りたさで特訓に耐え、揃って見事に3級に合格したのです。 池袋までの10分少々の時間でしたが、先頭車両で暗闇の線路を見ながら、車輛のきれいさと、地下の神秘を堪能して、興奮して戻ったことをうっすらと覚えています。 今になって、このソロバン塾特訓のあり難い事は、三桁くらいまでの計算は、頭にソロバンの珠を置くことで、計算機を使うまでもなく、暗算でまずまず正確に処理できることです。あの時の地下鉄の誘惑、熱心だった先生に感謝しているこの頃です。先生も亡くなられ、丸の内線もすっかり古びて、古参地下鉄になってしまいました。
2016.01.20
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クロニクル 喉自慢素人音楽会始まる1946(昭和21)年1月19日8/15の敗戦から僅か5ヶ月後、70年前になります。この日、NHKラジオで、素人喉自慢の放送が始まりました。題して「喉自慢素人音楽会」。以来、今日まで、舞台こそラジオからテレビに移りましたが、ずっと毎週日曜日の昼12時代の放送が続いています。見事な超長寿番組ですね。毎週舞台を変えて、地方を巡り、国内各地の紹介というか、お国自慢が盛り込まれるのも、長寿の秘訣の一つなのでしょうね。
2016.01.19
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クロニクル 市営バスの登場1924(大正13)年1月18日92年前の今日、東京市で日本初の乗合いバスの運行が始まりました。前年の9月1日が関東大震災でしたから、震災から約4,5ヶ月で実現したことになります。そうなんです。関東大震災の影響で、東京の各所で運行されていた、路面電車の軌道があちこちで破壊され、回復には相当な時間が必要であると判断されたため、急遽市民の足を確保するためにと、計画されたのです。震災から1ヶ月半が経過した10月16日、東京市議会は乗合いバスの運行計画と、そのために必要な予算200万円(現在価値で約36億円)を承認し、直ちにアメリカのフォード自動車に、乗合いバス車輌1千台を発注したのです。この注文車輌の第1弾として、11人乗りの車輌44台が到着、この日の運行開始となったのです。運行は、巣鴨~東京駅間の巣鴨線と、中渋谷~東京駅間の青山線の2系統でした。運賃は10銭(現在の価格に直すと、およそ180円になります)均一でした。それから2ヶ月後の3月16日、当初予定された20路線全てが開通し、総路線距離は148kmに達しました。こうして不慮の事故から急遽登場した乗り合いバスは、市営電車を代替する役割を果たしました。東京における乗合いバス事業の成功から、次第に全国各地の都市でも乗り合いバスが運行されるようになりました。
2016.01.18
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クロニクル 禁酒法施行1920(大正9)年1月17日96年前ですね。第一次世界大戦が終了して1年少々が経過した時期の米国の話です。前年10月28日に成立した合衆国憲法修正18条(別名禁酒法)が、この日発効しました。禁酒法と呼ばれますが、この法は飲酒そのものは否定していません。ただし、酒類の製造、販売、輸送、そして輸出入の一切が禁止されました。酒屋や飲み屋は禁止ですね。このため、前日の16日は、なるべく沢山の酒類を自宅へ運ぼうとする車で、深夜までにぎわったそうです。しかし、この法は、字義通りの禁酒が実行されたかどうかという点でみると、明らかに効果の薄かった法に留まっていました。大都市ではもぐりの酒場が、多数営業を続けていました。アル・カポネが率いるシカゴ・シンジケートなど、ウィスキーの密輸と密売で巨額の富を得たギャング団が、幅を利かせたのも、このときでした。それでもこの法は、他方で、節約と勤勉を旨とし、敬虔であることを重んじるプロテスタントの価値観を、アメリカ社会の倫理的規範とする運動の政治的シンボルの役割を果たしました。こうして、20年代のアメリカで、禁酒法は、中産階級以上の人々から、なお幅ひろい支持を受けていたのです。
2016.01.17
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クロニクル 国民政府を相手とせず…1938(昭和13)年1月16日 78年前のことです。前日に中国との和平交渉を打ち切った近衛内閣は、この日「大日本帝国政府は、爾後国民政府を相手とせず…」とした第1次近衛声明を発表しました。 声明の発表で、近衛内閣は、「中国の国民政府(国民党の蒋介石総統を首班とする中華民国政府)に決定的な打撃を与えるまで」、戦争を継続する姿勢を内外に示したのです。 前年末から、ドイツ公使を仲介役にして進められてきた和平交渉を打ち切った上、日本が「爾後、国民政府を相手とせず…」と声明したことは、和平交渉の相手を自ら切り捨てたことを意味しました。そのため、対中和平への道は閉ざされ、日中戦争は泥沼の長期戦となって行き、戦争を遂行するための資源を確保するために、さらに戦線を拡大し、日米開戦にまで突き進むことになるのです。小異を捨てて、江戸無血開城に道を開いた西郷隆盛と勝海舟、身体を張って征韓論を止めた岩倉具視、そして日露開戦に慎重で、開戦後は和平の時期とチャンスを,常に慎重かつ果断に追い求めていた伊藤博文など、明治期の政治リーダーの気概とスケールは、かけらも持ち合わせなかった昭和前期の政治リーダーの無為・無策ぶりは、何とも腹立たしいですね。それにしても、今の政界の財政危機に対する対応を見ていると、なにやら昭和前期に似ていますね。
2016.01.16
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クロニクル スロベニアとクロアチアの独立1992(平成4)年1月15日あれから24年になるのですね。24年前のこの日、欧州共同体(EC)は、前年6月にユーゴスラヴィアからの独立を宣言していた、スロベニアとクロアチアの独立を承認しました。 第1次世界大戦後に南スラヴ系諸民族の連邦国家として成立したユーゴスラヴィアは、民族のルツボと呼ばれたほど、諸民族が混住するモザイク国家だったのですが、第2次世界大戦後はドイツとイタリアのファシズムに対し、共に戦ったパルチザン体験と、そのパルチザン闘争の中で登場したチトーというカリスマ指導者の存在によって、連邦への求心力が保たれておりました。 しかし、スロベニア人が91%強を占めるスロベニアを除けば、クロアチアでのクロアチア人の比率は75%に留まり、モンテネグロは69%、マケドニアは67%、セルビアは66%と中心民族の構成比率は下がり、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに到っては、ムスリム人(イスラム教徒は、ここでは独自の民族として認知され、ムスリム人と称されていました。西欧世界ではユダヤ教徒をユダヤ人と称して差別しましたが、ここでは西欧流とは異なり、民族としての対等の権利を付与するための措置でした)41%、セルビア人32%、クロアチア人17%となっていました。スロベニアを除けば、民族の混住はこのように著しかったのです。そのため連邦を構成する各共和国は、義務教育段階から、統一言語による国語教育を実施せず、諸民族言語による教育を是認していたほどだったのです。それは連邦の維持を目的としたものでもありました。しかし、80年にはチトーというカリスマが死去、パルチザンの記憶も戦後35年という歳月の流れの中で風化してしまいます。折りから第2次石油ショックによる深刻な経済危機からの脱却も適わず、ここに、西欧に近く連邦内経済先進地域であったスロベニアとクロアチアは、貧困地域への税による富の再分配を嫌い、連邦からの独立を希求するようになっていきました。独立宣言はその結果でした。 民族混住が問題化しないスロベニアは問題がないのですが、クロアチアには、セルビア系住民が人口の12%(約60万人)を占めていたため、クロアチア民族主義者による圧力を受けた弱い立場の人達が、セルビアに保護を頼み、クロアチア内戦(クライナ問題)が発生しました。内戦は国連の仲介により、クライナ地方に国連保護軍を展開することで小休止となり、この日、EC(ECがEUとなるのは、この1年後の1993年です)はドイツの強い主張を受け入れる形で、スロベニアとクロアチアのユーゴスラヴィアからの独立を承認したのです。クロアチア内戦の過程と、このECによる独立承認の結果、緩やかな連邦だったユーゴスラヴィア内各共和国の独立志向は強まり、やがて全ての共和国が独立を宣言するに到るのです。こうして、旧ユーゴスラヴィア諸地域における内戦は93年から激化する、あの凄惨なボスニア内戦に移ってゆきます。旧ユーゴスラヴィアの諸地域における情勢の推移を十分把握せずに、独立承認を急いだECの責任、特にECの議論をリードしたドイツの責任が極めて大きかったことを指摘しておきます。
2016.01.15
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クロニクル 自民・自由連立内閣誕生1999(平成11)年1月14日17年前のこの日、自民・自由両党が連立政権を組む事で合意、自由党幹事長の野田毅が自治相として入閣し、小渕恵三改造内閣が発足しました。この連立は、やがて自由党を仲立ちとして、公明党をも連立政権に取り込むことに成功、10月には自・自・公3党の連立に発展しました。 自民党は、小沢自由党を介在させることで、公明党との連立に道を開きました。この自公連立は今に続くわけですが、小沢自由党は民主党に合流、民主党は2008年に一度政権を握りましたが、統治能力の欠如をさらけ出す結果に終わり、その後は自民党の独走を許したまま、何もできない情けない政党に堕し、小沢グループもまた見る影もない少数グループに落ち込んでしまっています。
2016.01.14
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クロニクル 東京の最低気温を記録1876(明治9)年1月13日ようやく冬将軍が到着したようで、今朝は我が家の周辺でも初氷が観察出来ました。記録的な遅さですが、予報では今月いっぱい寒さが続くようです。冬将軍の活躍する時期となって、同時に受験シーズンを迎えました。本番が大雪ってなことにならないといいですね。古い記録です。140年前の今日、東京の気温がマイナス9.2度を記録しました。この記録がいまだに破られず、東京の最低気温として記録に残っています。
2016.01.13
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クロニクル 桜島大噴火1914(大正3)年1月12日最近、火山活動の活発化が進んでいるようで、噴火の情報が多いですね。そんなわけで、今日のクロニクルは、火山の噴火の話にしました。102年前の出来事です。この日、桜島が大噴火を起こし、大量の溶岩が噴出しました。溶岩噴出の勢いは凄まじく、逃げ遅れた人を中心に、35人の命が失われました。桜島が大隈半島と陸続きになったのは、この大噴火の結果でした。まだ102年しか経っていないとは、意外と最近のことだったのですね。
2016.01.12
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クロニクル 百円札発行1930(昭和5)年1月11日86年前のことです。この日、聖徳太子の百円札が誕生しました。太子の千円札が発行されるのは1950〈昭和25)年ですから、この日の20年後になります。高校時代の教頭先生は、昭和14年に教員として赴任されたそうですが、そのときの初任給が、65円だったと話してくれました。国語の時間で、漱石の『坊ちゃん』を取り上げていた時でした。給料袋に当時の最高額紙幣が1枚も入らなかった時代だったのですね。それでも、65円は新卒教員には、使いきれない額だったのだそうです。
2016.01.11
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クロニクル 第1回国際連合総会開催1946(昭和21)年1月10日ちょうど70年前のこの日、英国の首都ロンドンで、第1回国連総会が開かれました。第1次世界大戦後に創設された国際連盟が、世界恐慌と列強の対立・抗争に翻弄され、第2次世界大戦の始まりによって、雲散霧消した後を受けて、対独戦に勝利の展望が開けてきた1943年秋頃から、米・英・ソ・中の連合国を中心に(当初は独軍占領下にあったフランスは蚊帳の外でした)新たな国際組織の創設の必要が考えられ、43年10月には「国際平和と安全の維持のために、全ての平和愛好国の主権平等の原則に基づく、世界的国際機構の設立が必要である」という意向が表明されました。こうして、1945年2月のヤルタ会談の席上、中国の合意もとりつけて、後の国際連合憲章の原案が出来あがったのです。 この原案を土台に45年4月から全ての連合国が参加する国際会議が開かれ、一部の手直しを経た上で、全加盟国が署名する満場一致で、憲章が決められ、同年10月24日に国際連合は正式に設立されました。本部はニューヨークに置かれ、そして本部敷地はロックフェラー財閥が3分の2を、残りをニューヨーク市が拠出した土地を無償で入手しましたし、建物の建設費も米国が無利子で貸し付けてくれることになったのですが、建物はすぐには出来ません。 そこで、第1回の総会はロンドンで開かれることになったのです。ところで、国際連合の設立について、指摘すべき事は、 1、国連の原加盟国が、中立国すら一切含まない、連合諸国のみで構成されているという、戦勝国の機関として出発したこと。 2、憲章の53条と107条に見るような、旧敵国に対する特別措置を認めている(敵国条項といい,現在もそのまま残されています)こと。 3、主として日・独・伊と戦った米・ソ・中・英・仏という5大国に優越的地位を認めていること → 安全保障理事会の常任理事国に賦与された拒否権。の3点です。 大国の優越的地位を保つために、新規加盟を認めるか否かは、先ず安保理に測られ、安保理から新規加盟議案が提案された場合のみ、総会は加盟申請を審議する仕組みになっています。 従って、拒否権を持つ5大国の1国でも、加盟に反対すると総会に議案もかからず、加盟は許可されないことになります。実際に日本の場合、当時国連議席に座り続けていた中国国民政府(台湾政府)の拒否権行使にあって、1952年の独立後も1956年まで加盟を引き伸ばされたのです。
2016.01.10
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クロニクル 新国技館完成1985(昭和60)年1月9日31年前のこの日、東京両国に新国技館が完成し、初場所を前に公開されました。この国技館は、相撲協会が総力を結集して建築に漕ぎつけたもので、日大講堂に姿を変えた旧両国国技館を手放し、蔵前に移転して以来、いつの日か両国の地に戻ることが、協会の悲願となっていたのです。今から考えると、この頃が相撲協会の最も善き時代だったようですね。
2016.01.09
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クロニクル 美浜原発2号炉で放射能漏れ1975(昭和50)年1月8日 41年前のこの日は、お正月のお屠蘇気分がなお残る水曜日でした。福井県で関西電力所有の美浜原発2号炉が、放射能漏れ事故を起こし、同炉は運転休止となりました。新聞やテレビは、「あわや大惨事」と大々的に報じ、お屠蘇気分は全国的に雲散霧消、原発の危険がクローズアップされました。その後もこの年は各地の原発で同種の事故が多発、通産省と科学技術庁の縄張り争いによる縦割り行政のマイナス面から、行政の事故対応は遅れがちであるという、問題点も浮き彫りになりました。 その後、電力各社や原子力委員会によって、事故対応の詳細なマニュアルが作られ、現在はマニュアルに基づいた対応が義務化され、現場職員に徹底されているので、大事故は起こらないというのが公式見解となりました。しかしです。世界的に有名になった日本の詰込み教育で育った受験エリートは、マニュアル通りの対応には無類の適性を発揮し、過去の例に習う場合や過去に経験のあることについては、実に見事な対応能力を示すのですが、ひとたびマニュアルが予想もしなかった想定外の事態に遭遇すると、たちまちにして思考停止状態に陥り、立往生してしまうマイナス面も併せ持っています。応用が利かないのです。 その最たる例が、バブル崩壊後の大蔵官僚や金融界、政治家の対応でした。土地神話を信じつづけた彼等は、土地神話の崩壊という現実の前に、ひたすら先送りという最悪の手段にしがみ付き、日本の財政赤字を、大幅に膨らませる(私は詳細に調べていませんが、おそらく1993年~2003年までの10年で、赤字幅は3倍増程度になったものと推測しています)という大犯罪を犯したのです。 阪神大震災や東日本大震災もまた、想定外の事態でした。自然界の異変にしても、人間の行動にしても、想定外の事態はかなりの頻度で発生します。そう考えているが故に、私はマニュアルがどんなに良く出来ていても、マニュアルに頼りきる、そしてマニュアルがあるから大丈夫という発想には、大きな落とし穴にはまってしまう危険があるのではないかと、今も不信感を拭えずにいます。
2016.01.08
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クロニクル 「もしもし、こちらニューヨーク」1927(昭和2)年1月7日89年前の出来事です。「もしもし、こちらニューヨーク」と妙なタイトルをつけましたが、実は89年前の今日、ニューヨークからロンドンへ、史上初めて、太西洋を越える国際電話が通じたのです。これが、国際電話の事始でした。それにしても、「もしもし、こちらニューヨーク」といきなり呼びかけられたロンドンの受け手は、さぞ驚いたでしょうね。それとも冗談だと思ったのか。どちらだったのでしょうね。御存命ならば聞いてみたいところです。 固定電話が一般家庭に普及し始めたのは、高度成長が始まる頃のことでしたが、敷設権を確保するには、当時で10万円の電電公社債の購入が必要でしたし、なおその上で、自宅への電話線の引き込み工事が完了するまで、半年~8ヶ月程度待たされるのが常でした。1971年の結婚と同時に住まいを構えた2DKの公団住宅への電話の敷設でも、やはり申し込みから敷設まで7ヶ月待たされたことを覚えています。それが今では、通話は勿論、メールのやり取りも世界規模で瞬時に可能。技術革新のペースは益々速まっていますね。
2016.01.07
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クロニクル 「日本を……反共の防波堤に」1948(昭和23)年1月6日68年前のこの日、米国のロイヤル陸軍長官が「日本を極東における反共の防波堤にすべし」と演説、日本の再軍備を主張しました。8/15以後の日本占領軍は、連合国の共同占領の形を整えていましたが、GHQ(日本占領軍司令部)の主要幹部は米軍関係者で占められ、実質的には日本は米国の占領下にありました。その米国の対日基本方針は、「日本を再び軍事大国にはしない」ということに尽き、そのための仕掛けが民主化の徹底でした。財閥解体で経済界の民主化を行い、農地改革で農村の民主化を徹底、労働組合の結成と行動の自由化(労働規準法以下の労働三法がその保障)で、企業経営をチェック、さらに戦犯を公職から追放することで、国内の抵抗勢力を封じ込め、教育の民主化によって若い世代に民主主義の精神とあり方を学んでもらうという徹底振りは、今振りかえってみても見事なものでした。そしてその集大成が、憲法前文と9条に凝縮した平和主義でした。日本国民は、あまりに急速な民主化の進展に戸惑い、天皇の人間宣言に驚きと戸惑いを感じながらも、心の底でこうした変化を支持し、受け入れていたらしいことは、石坂洋次郎の新聞小説を映画化した『青い山脈』が大ヒットして、1949年の映画興行収入第2位を記録し、藤山一郎が歌った主題化が、現在もなお歌い継がれていることからも理解できます。 そうした日本国民が何よりも歓迎し、強く支持したのが、この平和主義であり、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とした戦力不保持の原則でした。憲法の施行から1年も経たないこの日、米国政府内から発せられた対日占領方針の変更に繋がるような発言に、日本国民の間では、旧軍人や右翼など守旧派の一部に歓迎する向きはありましたが、驚きと戸惑いそして強い反発が起こりました。この発言の背景には、当時の中国における情勢の大きな変化がありました。
2016.01.06
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クロニクル グレース・ケリー現代のシンデレラに1956(昭和31)年1月5日60年前のことになります。この日ハリウッドの人気女優グレース・ケリーとモナコのレーニエ大公の婚約が発表されました。グレース・ケリーは、1951年22歳のときに『真昼の決闘』でゲーリー・クーパーの相手役に抜擢されて、一躍スターダムに乗ったシンデレラ・ガールでした。その後ヒッチコック監督に可愛がられて演技派に成長、55年ビング・クロスビーの妻役を演じた『喝采』でアカデミー主演女優賞を獲得しました。同年のカンヌ映画祭で、レーニエ大公に見初められ、グレースも大公の人柄に惹かれて意気投合、この日の婚約となったのでした。同年結婚。公妃となったことで、映画界を引退しました。1男2女をもうけましたが、82年に高速道路を運転中に脳梗塞を起こして、交通事故を起こし、52歳の若さで亡くなっています。
2016.01.05
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クロニクル 毒入りコーラ事件発生1977(昭和52)年1月4日39年前のことになります。この日品川駅付近の公衆電話ボックスなどに放置された「毒入り」のコーラを、そうとは知らずに飲んでしまった2人の人物が死亡する事件が起きました。警視庁の調べの結果、毒物は青酸ナトリウムと判明しましたが、人ごみで目撃情報もなく、犯人も見つからなかったため、そのまま事件は迷宮入りし、その後この種の愉快犯が続出したため、大きな社会問題になりました。昨今は携帯電話やスマホなどの普及で、電話ボックスそのものが少なくなりましたが、代わりになる場所は、外にもありますから、気をつける必要は、今もありますね。
2016.01.04
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クロニクル 鳥羽・伏見の戦い1868(慶應4)年1月3日148年前のこの日は、翌69年(明治2)年5月の函館戦争の終結まで続く、戊辰戦争の開幕を告げた鳥羽・伏見の戦いが始まった日です。 前年10月、将軍慶喜は大政を奉還、12月には王政復古が宣言されていますから、政権は京都の朝廷に移っていましたが、旧幕府はなお隠然たる勢力を持ち、フランス公使ロッシュは、なお旧幕府への支援を継続する姿勢を見せておりました。 これに対し、イギリス公使パークスは薩長連合中心の政府構想を強く支持し、幕末の日本を舞台に、影では英・仏抗争が深く渦巻いておりました(日本の開国に決定的な役割を果したアメリカ合衆国は、1861年~65年まで続いた南北戦争で国内が大きく傷つき、対外進出は80年代末まで休止状態に陥っていました)。 ここに、薩長連合側が旧幕府側を徴発、この日鳥羽・伏見において戦闘が開始されたのです。兵力は旧幕府軍が新政府軍の3倍を擁していたのですが、最新鋭の兵器を装備した新政府軍が優勢のうちに戦いを進め、翌日には勝利を決定付けました。両軍の兵器の差が意味するところは、京、大阪を中心に各地の富裕商人層が政治の変革を望んで新政府側を支持、新政府側へ資金を提供していたのに対し、幕府お膝もとの江戸の豪商たちは是々非々の態度をとり、幕府を支えようとはしなかったという、両勢力の資金力の差にありました。豊富な資金力を誇る新政府軍は新兵器を大量に購入することで、主に陸軍の兵器の質で旧幕府軍を圧倒することができたのです。 民意は幕府を見放していたのですね。
2016.01.03
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クロニクル 日本軍マニラ占領1942(昭和17)年1月2日74年前のこの日、日本軍はフィリピンの首都マニラを占領しました。対米開戦から,間もない頃でした。当時のフィリピンは米国の植民地でした。そして1899年から1902年にかけての米国の植民地化の過程で、米国支配に敢然と立ちあがり、独立運動を組織して米国軍と戦った、フィリピン独立運動の指導者アギナルドは、大の日本贔屓で、日本に亡命しては、日本人の支援を受けて祖国に戻り、独立運動を続けていたことが知られています。そんな事情から,フィリピン国民の多くは、日本軍を米軍支配からの解放軍と受けとめ、歓迎したようです。しかし、その日本は米国を数段上回る圧政的支配者に過ぎなかったのです。期待が裏切られた時の悲しみと怒りは、やがて日本軍に向けられました。残念ながら日本の軍人や官僚には、植民地の民心を惹きつけるような統治能力がなかったのですね。参考:岩波ブックレット、新見 彰・吉見義明『フィリピン戦逃避行』
2016.01.02
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クロニクル 空を越えて…ラララ 1963(昭和38)年1月1日空を越えて~ラララ 星の彼方、行くぞアトム… ジェットの限り… 心やさし…科学の子、10万馬力~ダ 鉄腕アト~ムと歌われた、手塚治虫の「鉄腕アトム」のTV放映が、この日からフジTV系列で、開始され、大人気を得ました。あれから52年も経ったのですね。彼の作品には、未来と過去を行きつ戻りつする「火の鳥」や「ブラック・ジャック」など、アトム以外にも見応え、読み応えのある作品が多く、50年を経過してなお、新鮮さを失っていないのは、さすがですね。あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。
2016.01.01
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