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クロニクル 江川ー小林電撃トレード1979(昭和54)年1月31日小林繁投手は、細身の横手投げ。しかし強気で内閣にシュートをボンボン投げ込むピッチングでした。その小林投手。ジャイアンツのエース級でしたが、36年前の今日。キャンプインの前日に、タイガースへ電撃移籍されました。例の江川事件、空白の1日を突いたと言う、ジャイアンツのドラフト破りに、コミッショナーーが下した結論が、江川選手はタイガース(その年のドラフトで指名権獲得)に入団し、しかる後に速やかにジャイアンツにトレード移籍させるというものでした。こうしてタイガースが指名したのが小林投手でした。キャンプ地に向かおうとして、突然の行き先変更。何も語らなかった小林投手でしたが、それだけにプロとしての腹の据わり方が見事でした。この年、22勝をあげて沢村賞を獲得。見事に巨人を見返しました。その小林投手、2010(平成12)年に57歳で亡くなっています。心筋梗塞でした。惜しい野球人が早死にしてしまいました。
2015.01.31
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クロニクル 赤穂浪士吉良邸に討ち入り1703年1月30日(元禄15年12月14日)今日は、12月14日ではありません。そうなのですが、312年前の今日こそが、大石内蔵助ら赤穂の47人の浪士たちが吉良邸に討ち入り、本懐を遂げた日です。12月14日は旧暦での日付、太陽暦では1月の30日です。ですから、真冬の寒さの中、大雪の日の深更だったことも、そうだろうなと実感をもって受け止められますね。ただし、大雪の討ち入りは、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の創作で、実際のこの日は、冷え込みの厳しい星空だったというのが、真相だったようです。そして、深更とされる現実の討ち入りは、今の時刻で言うと、日付の替わった31日(12月15日)の午前3時から4時の間のことでした。ただし、こちらは当時の習慣が、明六つから1日が始まるとしていたことから、討ち入りは12月14日(西暦1月30日)のままとされています。
2015.01.30
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クロニクル アラビア石油1960(昭和35)年1月29日丁度、安保改訂反対闘争の年のはじめでした。55年前のこの日、アラビア石油がクウェート沖のカフジ油田を掘り当てました。それは、日本企業による、初めての海外での油田開発の試掘成功でした。カフジ一帯は、サウジとクウェートの中立地帯です。そしてカフジ油田は、カフジ沖合い(ペルシャ湾の一廓です)の海底油田です。アラビア石油は、ここで40年間創業して、石油を採掘する権利を得たのですが、その権利は40年後の2000年に失効してしまい、現在はサウジ・アラムコの関連会社が、石油の採掘を担当しています。それでも40年間の採掘の間に、二度の石油ショックがあって、原油の値段が大きく居所を変えましたから、アラビア石油、随分と儲けることが出来たようです。
2015.01.29
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クロニクル 春闘始まる1955(昭和30)年1月28日春闘が形骸化してかなり時間が経ちますが、春闘の語は今に残り、「三丁目の夕日」とは違った意味で、郷愁を感じる方も多いと思います。本日は、その春闘の始まりの話です。ちょうど60年前のことです。GHQの戦後改革の1つに労働組合の結成の自由、労働者の団結権の承認などがありました。この観点から労働基準法、労働組合法、労働関係調整法の労働三法も作成され、労働者は団結権のほかにも、団体交渉権、争議権を獲得していました。労働者のナショナルセンターも組織され、1時期「総評」が大きな力を持ちました。その総評に属する、炭労、私鉄総連、電機労連など6単産が、この日「春季賃上げ共闘会議総決起大会」を開いたのです。この春季賃上げ闘争を略して春闘と呼ぶようになったのです。しかし最近の労組、すっかり元気がないですね。賃上げについて、首相が経済団体に要請するなんて、本末転倒もいいところです。
2015.01.28
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クロニクル 新潟少女長期監禁事件2000(平成12)年1月28日タイトルをどうつけるべきか迷いました。15年前の今日は、事件の解決日でした。少女が誘拐されたのは、小学校4年生だった1990(平成2)年の11月13日、新潟県三条市の小学校からの下校途中でした。ですから、少女は9年2ヵ月に渡って監禁されていたことになります。少女が同じ新潟県柏崎市の加害者宅で見つけられ、助け出されたのは全くの偶然でした。少女を誘拐した犯人(加害者)宅へ、別件で訪問した同市の保健所職員が、室内にいた足が萎えて満足に歩けない女性を発見、保護したのです。その後の入院と事情聴取の結果、9年2ヵ月前に三条市で誘拐された少女と判明したのでした。衝撃的な事件でしたので、おそらく皆さんの記憶にも、残っている事件だと思います。追記、このところ多忙で、19日からのコメントの返信が遅れていましたが、今日から書き始めましたので、ご覧いただけると幸いです。
2015.01.27
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クロニクル 日本で最初のパーキングメーター設置1959(昭和34)年1月26日1959年は、4月に当時の皇太子(現在の平成天皇)の婚儀を控えた年でした。4月10日の婚儀の後の、都内のメインストリートでの馬車パレードは、沿道の大勢の皆さんもにこやかで、ゆったりとのどかな雰囲気に溢れていました。そうです。当時の日本は、各地で渋滞こそ起きるようになっていましたが、まだ今のような車社会ではありませんでした。しかし、都心部ではさすがに駐車スペースが不足し、長時間の路上駐車の締め出し作戦が考えられることになりました。こうして考え出されたのが、路上パーキングの構想でした。都心部の一部道路上に、パーキングメーターを備えた駐車スペースを設けて、時間でいくらという料金を徴収することで、駐車時間を短くしようとしたわけです。この計画は短時日の内に実行に移され、56年前のこの日丸の内と日比谷の2ヶ所に設置されました。
2015.01.26
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クロニクル ブット首相出産1990(平成2)年1月25日25年前のこの日、パキスタンのベナジル・ブット首相(出産時36歳)が女の子を出産しました。現職首相の出産は、世界初のことでした。彼女は、元首相で父のアリー・ブット氏が創設したパキスタン人民党(PPP)の2代目党首として、88年の選挙に勝ち、首相の座についていました。その後、政権を追われたり、首相として再起したりと、波乱の人生を送りますが、3度目の首相への返り咲きかと思われた2007(平成19)年12月27日、イスラマバード郊外での選挙集会において、反対派のテロにより暗殺されました。54歳でした。彼女はイスラム圏で最初の女性首相として知られますが、汚職体質にまみれており、残念ながら、あまり高い評価は与えられていません。
2015.01.25
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クロニクル 元日本兵横井庄一さん発見1972(昭和47)年1月24日 43年前のこの日、グァム島のジャングルで、元日本軍軍曹横井庄一さんが保護されました。横井さんは,この日川エビを獲っているところを現地の人に見つかり、保護されたのです。1945年8月15日のポツダム宣言の受諾による、敗戦の受け入れ(なぜマスコミは、この降伏による敗戦を終戦と言い替えるのでしょうね?)を知らず、1人ジャングルで27年も生き延びてきた横井さんは、この時56歳でした。グァム島のジャングルで、果実やイモ類、魚や川エビ等を食べ、マンゴーの葉から衣服を作るなどして自給自足生活を送っていたそうです。健康チェック後、2月2日に帰国。帰国時の第一声「恥ずかしながら、横井庄一,ただ今帰って参りました」でした。この「恥ずかしながら......」はこの年の流行語となり、以後、郷里の名古屋に落ちつき、サバイバル体験を生かした講演活動を行なって、各地で人気を集めました。1997年82歳で死去。
2015.01.24
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クロニクル 雪印食品の牛肉偽装事件発覚2002(平成14)年1月23日13年前の出来事です。この日、雪印食品の牛肉偽装事件が発覚しました。前年9月に国内初のBSE感染牛が千葉県で見つかり、感染を怪しまれる牛の食肉は、政府が買い上げ処分する措置が取られました。 雪印食品は、この制度を悪用し、単価の安い売れ残りの輸入牛を国産と偽り、国に買い取って貰っていたことが発覚したのです。この事実を知った国民の反発は強く、雪印食品は、翌2月22日に、会社解散に追いこまれました。目先の利益確保に追われ、最も大事な仕事上の信用を失ってしまったからです。それにしても同じような過ちを繰り返すケースが多いのは、どうしたことなのでしょう。
2015.01.23
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クロニクル イギリス労働党政権獲得1924(大正13)年1月22日91年前のことです。この日、イギリスでは、イギリス労働党のマクドナルドを首班とする、初めての労働党内閣が誕生しました。この時は1年足らずの短命に終ったのですが、1929年から35年まで6年半の長期政権を担っています。
2015.01.22
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クロニクル 最初のスキー競技会1912(明治45)年1月21日今日は寒いですね。我が家周辺でもみぞれが降っています。そんなわけで本日は雪にまつわる話題を…日本人がスキーを教わったという公式の記録が残されているのは、1911年のことです、その翌年には、早くも競技会が開催されています。そうなんです。103年前になるのですが、103年前の今日、雪深いことで有名な新潟県の高田(私の小学校時代には、日本で最も雪が積もる所と教わりました。現在は直江津と合併して上越市になっています)で、日本初のスキー競技会が開けれました。陸軍の高田駐屯部隊や地方講習員らが参加したそうです。
2015.01.21
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クロニクル 大和運輸「宅急便」サービスを開始1976(昭和51)年1月20日39年前になるのですね。この日、大和運輸(現在はヤマト運輸)が「宅急便」サービスを開始しました。クロネコヤマトの宅急便の誕生です。大和運輸は、三越や松下電産の専属配送業者でした。上得意を持っていたため、他社が高速道路網の整備を追い風に長距離輸送に進出した際に出遅れ、業績不振に陥りました。このままではまずいと気付いた新社長の小倉昌男氏は、個人を相手に、小口貨物を沢山扱うことで、利益を得ようと大口中心の発想を転換、「電話1本で集荷に伺う・1個でも家庭へ集荷に出向く・翌日配達」を合言葉に、営業を展開。大成功を納めたのです。今では、誰でも知っている宅急便ですが、サービス開始の初日、39年前の1月20日の集荷数は、11個だったそうです。良くここまで伸びましたね。
2015.01.20
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クロニクル 社会党第一次分裂1950(昭和25)年1月19日65年前になります。この日、社会党は路線問題をめぐる対立から、左右両派に分裂しました。少数派の右派は片山哲元首相を委員長に選出、多数派の左派は委員長を空席にして、鈴木茂三郎を書記長に選出しました。この時の分裂は、およそ2か月半後の4月3日に再統一となりました。前年12月に、全面講和、中立堅持、軍事基地反対の平和三原則を決定していたのですが、右派は独立が先決であるから、単独講和でも受け入れられないわけではないとの立場もとり、左派とは一線を画していたのです。平和三原則は、翌51年1月の党大会で再軍備反対を加えた平和四原則に拡充され、ここで左派の鈴木茂三郎を委員長に選出しました。しかし、政府が西側諸国中心の単独講和を次善の策として推進し、同時に日米安全保障条約を結んだことを巡って、絶対反対の左派と、条件付容認の右派とは再び対立が再燃します。ここに10月24日、臨時党大会を開いた社会党は、再び左右両派に分裂したのです。今度は簡単に元に戻ることは出来ず、再統一は1955年秋のことになります。ここでは憲法改正絶対阻止という理念の前に,小異を捨てて大同に点くことになったのでした。あの頃の社会党は元気がありましたね。それが今では… 社会党の後身の社民党は今や解党目前、社会民主政党が乞う弱いのでは、弱者救済はなかなか実現しませんね。これではまずいと思うのですが…
2015.01.19
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クロニクル ドイツ帝国誕生1871(明治4)年1月18日144年前のことになります。日本ではこの年廃藩置県が断行されています。そんな年のことでした。前年の晩夏に始まった普仏戦争(プロイセン<普>とフランス<仏>の戦争)に勝利したプロイセン宰相ビスマルクは、この日占領中のヴェルサイユ宮殿鏡の間にて、プロイセン王ウィルヘルム1世の、ドイツ皇帝への戴冠式を行い、併せてドイツ帝国の誕生を宣言しました。明治維新に遅れること3年、ここにようやく統一ドイツが誕生し、1861年登場の統一イタリア、68年に誕生した日本の明治政府と合わせ、後の第二次世界大戦でトリオを組む3カ国が、後進資本主義国としての歩みを、ほぼ同じ時期に始めることになりました。
2015.01.18
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クロニクル 民撰議院設立建白書1874(明治7)年1月17日1912年は、明治45年兼大正元年ですから、考えてみれば当然なのですが、思えば私の中学・高校時代は、1955年4月~61年3月まででしたから、その100年前は黒船登場以後の幕末の混乱期でした。「明治は遠くなりにけり」ですね。今日取り上げた「民撰議院設立建白書」の提出、今年からすると141年も前の話になります。そうなんです。かつての100円札の主、板垣退助(彼の「板垣死すとも自由は死せず」って言葉に、この人は紙幣の顔になる価値のある人だと、思ったものです)や後藤象二郎、江藤新平ら8名が、連名で政府に国会開設を願う意見書を、提出したのです。彼らの主張の根拠は、当時「天賦人権説」と呼ばれていたルソーの社会契約説にありました。その具体的な内容は、専制政府を批判して、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作ることを主張したもので、士族や豪農・豪商ら一定の教育を受けた平民に参政権を与え、議会を開設することを主張したものでした。政府は時期尚早と回答したのですが、この建白書に賛同する意見書が、多数提出され、自由民権運動の活発化に繋がってゆきました。
2015.01.17
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クロニクル Jリーグ初代チャンピオン決まる1994(平成6)年1月16日昨年は、4年に1度のサッカーワールドカップ、ブラジル大会でした。そして今はアジアカップの最中です。ワールド杯の結果は残念なことになりましたが、日本がワールドカップ出場国の常連になるなんて、20世紀の頃には、遠い夢だったのですから、日本サッカーの進歩は大きいですね。プロサッカーリーグ、Jリーグを頂点とする育成システムの成果が、ようやく現れてきたのでしょう。嬉しいことですね。さてそのJリーグ、1993年に発足、参加10チームで1年目がスタートしました。チーム数がまだ少なかったので、前期、後期の2部制として、夫々が全チーム2回総当りの18試合で優勝チームを決め、最後に年間チャンピオンシップを行なって、総合優勝チームを決める方式をとりました。こうして、94年の1月に入って、前期優勝チームの鹿島アントラーズと、後期優勝のヴェルディ川崎によって、チャンピオンシップが戦われ、21年前のこの日、ホーム・アンド・アウェー方式の戦いの2試合目が行われました。結果は2試合合計3対1で、ヴェルディ川崎が初代チャンピオンに輝きました。そのヴェルディ川崎、プロ野球方式に固執する読売グループが、Jリーグに対する横槍を拒否されて、つむじを曲げて手を引いた結果、弱小チームに成り下がり、東京ヴェルディとなった現在は、その存続すら危ぶまれています。常に上位で大活躍している鹿島アントラーズとは、天と地ほどの差がついてしまいました。残念です。
2015.01.16
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クロニクル 双葉山敗れる1939(昭和14)年1月15日76年前の今日は、大相撲1月場所の4日目でした。前日まで69連勝を続けていた横綱双葉山にとって、この日の一番は70連勝のかかった一番でした。そしてこの日双葉山は安藝ノ海の外掛けに敗れ、古来稀なりの70連勝には届かなかったのです。勝利した安藝ノ海は出羽の海部屋の新鋭で、双葉山とは初対戦でした。巡業中の稽古の経験もなく、取り口を全く知られていなかったことが幸いしたとも言われていますが、出羽の海部屋あげての打倒双葉山の作戦で、投げにきた時に足を狙えと、教えられていたと言います。双葉山以前の連勝記録は、横綱谷風の63連勝で、奇しくも白鵬がタイ記録の63連勝を記録していますね。双葉山の連勝記録は、小結だった1936(昭和11)年1月場所の7日目に始まります。前日はこの場所全勝優勝を飾った横綱玉錦に敗れています。この場所9勝2敗で関脇に上がり、以後この日の敗戦まで負けしらずの連勝を続けたのでした。当時は年2場所、1場所11日間の興行でしたが、36年5月場所11戦全勝、翌年1月場所も全勝と続くと、双葉山人気が盛り上がり、同年5月場所からは、13日興行に伸びたのです。ですから、同年5月そして38年の1月、5月と13戦全勝を続け、66連勝として、39年1月場所を迎えたのでした。まる3年にわたって、連勝を続ける緊張感に耐えたのですから、やはり不世出の大横綱と言えるのでしょうね。ところで、双葉山に勝利した安藝ノ海ですが、彼は勝って驕らず、親方や先輩から、あの双葉関に勝ったオマエも、負けて話題になるような力士にならなければ、双葉関に失礼になると諭された教えを守って、稽古に励み、4年後の1943(昭和18)年1月場所後、照国と共に横綱に推挙されました。ところで、その後双葉山と安藝ノ海と8度対戦していますが、双葉山の8連勝に終っています。以上、小学生時代に、オヤジに何度も聞かされた話です。東京大空襲で焼け出されるまでの我が家は、当時の両国国技館の近くにあり、呼び出し太郎さんのお宅の近くだったとか。オヤジは相当な相撲狂だったのです。
2015.01.15
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クロニクル 文学座分裂1963(昭和38)年1月14日文学座は、1937(昭和12)年に岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄の3名を発起人として設立された、日本新劇界の名門劇団です。俳優座や民芸と共に三大新劇団とも称されます。その文学座で52年前のこの日、芥川比呂志を筆頭に、同座の中堅・若手劇団員29名が劇団に退団届を提出し、英文学者の福田恆存と共に劇団「雲」を設立、脱退者全員が参加することを表明しました。この集団脱退は、日本の演劇界始まって以来の大事件として、マスコミの注目を集め、その後に脱退劇を巡る、様々な報道がなされました。ただし、テレビや夕刊紙の普及以前のことですから、週刊新潮などの報道も、決してセンセーショナルなものではなかったのですが…。報道によると、脱退劇は、全て隠密裏に進められ、文学座幹部の中村伸郎や杉村春子らは、当日になるまでこの集団脱退に、全く気付かなかったそうです。この集団脱退の背景には、ベテランと中堅・若手陣とのズレがあり、彼らに大きな不満が蓄積していたことがあったようです。脱退した29名の中には、芥川比呂志、高橋昌也、加藤和夫、仲谷昇、小池朝雄、名古屋章、神山繁、三谷昇、岸田今日子、文野朋子、加藤治子ら、その後も演劇やテレビ、映画などで活躍した人たちが含まれていました。また文学座は、この集団脱退のあった同年の11月に、正月公演に決まっていた三島由紀夫の戯曲 『喜びの琴』の上演を、思想上の行き違いを理由に中止しました。このことをきっかけに、同劇団の幹部・中堅の矢代静一、松浦竹夫、中村伸郎、北見治一、賀原夏子、丹阿弥谷津子、南美江、村松英子ら14名が、再度同劇団を集団で脱退するという事件に見舞われています。
2015.01.14
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クロニクル 日劇ダンシングチーム初公演1936(昭和11)年1月13日79年前のことです。前年9月から選ばれてショーダンサーとしてのレッスンに励んでいた、日劇ダンシングチームのメンバーが、この日初舞台を踏んで、デビューしました。演目は「ジャズとダンス」。日劇ダンシングチーム(NDT)と名乗ったのは、6月の第4回公演の時からです。公演は好評で、一時は大変な人気を読んだのですが、その後次第に客足が遠のき、1977(昭和52)年4月公演をもって、定期公演を終了、81年2月の日劇の閉館と共に解散しました。歴代のメンバーには、谷桃子、丹下キヨ子、北原三枝(石原裕次郎夫人)、根岸明美、中田康子など、各方面で活躍した方たちがおりました。
2015.01.13
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クロニクル 大相撲の実況放送始まる1928(昭和3)年1月12日87年前のことです。勿論テレビはありませんから、ラジオでの実況放送です。日本でラジオ放送が始まったのは、この3年前の1925(大正14)年の3月22日のことでしたから、およそ3年の経過で、大相撲の実況中継が始まったのですね。前年1927年に、東京と大阪の相撲協会の話し合いがまとまり、両団体が同時に解散して、単独の大日本相撲協会が発足したことが、実況放送に繋がったようです。場所は、1月と5月に東京両国で、3月と10月は大阪で開かれることになり、87年前の今日が、初場所の初日だったのです。さて、この実況中継の開始に当たって、大相撲史に残る改革が実施されています。それが幕内4分の立会いまでの制限時間です。実はこの規定、この1928年の初場所から導入されたのです。今までは無制限でした。理由は、実況中継の時間には限りがあり、限りある時間内に横綱の取り組みまで、全てを終らせる必要に迫られたからでした。横綱の取り組みまで、全てを時間内に放送できるなら…というのが、NHKが出した実況中継の条件だったのです。
2015.01.12
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クロニクル 中曽根首相訪韓1983(昭和58)年1月11日32年前のこの日、中曽根首相は電撃的に韓国を訪問しました。前年11月27日に首相指名を受けて45日目でした。訪問は電撃的でしたが、歓迎晩餐会での挨拶は、最初と最後は韓国語を用い、宴席では韓国語で歌を歌うなどして、日韓対等をアピール、全斗煥大統領ら韓国首脳を感激させるなど、周到な事前準備をした上での訪韓でした。この出来事は、しかし日韓関係史の上だけでなく、日本の政治史の上で大きな意味を持っています。それは、戦後の歴代首相の中で、首相としての最初の外国訪問先に、米国を選ばなかったのは、中曽根首相がはじめてだったからです。歴代首相にとって、首相としての外国訪問は、参勤交代の諸大名が江戸の将軍家を訪問がするが如く、ホワイトハウスに米国大統領を訪ねることは、米国のお墨付きを得る上で、欠かせない不文律だったのです。それだけに中曽根首相のソウル訪問は、米国との関係を対等の関係を目指して改善しようという、中曽根首相自身の並々ならぬ決意を示すものだったのです。
2015.01.11
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クロニクル 徴兵令施行1873(明治6)年1月10日142年前のことです。この日明治政府は徴兵令を施行しました。前年12月28日に「徴兵告諭」が出されてから、僅か2週間後のことでした。徴兵令では国民皆兵の原則が貫かれ、旧支配層である士族中心の志願兵制の主張は避けられました。欧米列強の兵制に倣った軍の整備こそが、列強による日本の植民地化を防ぐ道に繋がると考えられたのです。同時に士族中心の志願兵制の主張者(=保守派)への配慮として、薩摩・長州・土佐の3藩の士族から、天皇の身辺警護にあたる御親兵が選抜されました。徴兵令の結果、数え年20歳の男子は、3年間兵役に着くことが定められたのですが、当初は多くの例外規定が設けられていました。即ち、体格が基準に達しない者、病気の者など、当然と思われる事情から、「一家の主人たる者」や「家のあとを継ぐ者」、「代人料(270円)を支払った者」、「官省府県の役人、兵学寮生徒、官立学校生徒」、「養家に住む養子」なども、徴兵を免除されました。
2015.01.10
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クロニクル 自殺の名所三原山1933(昭和8)年1月9日82年前になります。この日伊豆大島の三原山の火口から、2名の女学生が友人の立会いを受けて、投身自殺しました。友達の自殺を止めない友人って何なんだと、私などは大いに不満なのですが、この自称友人たちは、友達の自殺の報を、警察のみでなく新聞社などにも語ったのでしょうね。この事件がきっかけで、以後三原山は自殺の名所となってしまい、この年だけでなんと994名もの投身自殺者が出る騒ぎとなりました。大島の人たちからすると、迷惑この上ない話でした。
2015.01.09
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クロニクル ベルが鳴るベルが鳴る…1912(明治45)年1月8日103年前になります。エッ、「何のことか分らん」ですか。ですからベルなんです。列車の出発を告げる、あのベルのことです。流行歌(この言い方も古くなりましたね)に良く出てくる別れの場面の歌詞にありますよね。あの列車の出発を告げるベルの第1号が、103年前のこの日、あの「上野はおいらの心の駅だ…」でお馴染の上野駅で、日本で始めて鳴り響いたのです。で、発車のベルというと、私にとってはこの曲なんです。春日八郎のデビュー曲「赤いランプの終列車」です。白状しますと「ベルが鳴る ベルが鳴る」は、ここから盗りました。 > 白い夜霧の 灯りに濡れて 別れせつない プラットホーム ベルが鳴る ベルが鳴る さらばと告げて 手を振る君は 赤いランプの終列車 <
2015.01.08
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クロニクル 民放各社深夜放送を中止1973(昭和48)年1月7日42年前のことです。この年、石油ショックの影響から、電力節減が強く要請され、ビルのネオンやライトアップの自粛に続いて、この日、民放TV各社が一斉に深夜放送の中止に踏みきりました。16日には、NHKも午後11時での放送中止に踏み切り、TV各局の足並みが揃いました。許認可権を握る郵政省(当時)の要請によるものでした。しかし、この後も原油不足は解消せず、夏には、銀行・証券などの金融機関やデパート・スーパー・病院などの冷房の設定温度を28度とするなど、石油火力が中心だった電力消費の削減策が進められました。経済団体の協力を得て、オフィスビルでも室温の28度の設定は徹底されたのが、いかにも日本らしい風景でした。当時はなお、家庭のエアコンは普及にいたっておらず、そのため、28度の設定にも大きな不満は出なかったように記憶しています。
2015.01.07
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クロニクル 高見山入幕1968(昭和43)1月6日47年前なんですね。この日発表された大相撲初場所の新番付で、高見山が新入幕を果たし、外国人力士として、初めて幕内に入りました。元横綱前田山の高砂親方に熱心にくどかれ、1964年にハワイから高砂部屋に入門、4年足らずで入幕を果たしたのですね。入幕2場所目、横綱佐田の山に勝利したのですが、佐田の山はこの高見山との一番に破れたことで、引退を決意したと引退会見で語っています。幕内最高位は関脇、1972年の名古屋場所で13勝2敗で幕内優勝を飾っています。引退は1984年の5月場所後、16年97場所の幕内在位は、当時の最長記録でした。大関の魁皇が2009年九州場所で98場所となって、25年振りに高見山の記録を更新しました。高見山は、日本人以上に日本人的な義理と人情を大事にする人柄や、ケイコに打ち込む姿などから、世代を超えて幅ひろい人たちに愛され、丸八真綿など数多くのCMにも出演していました。今や大相撲は、外国人力士で持っているのが実情ですが、その先鞭をつけたのが、高見山の活躍でした。そして彼をスカウトした、当時の高砂親方の慧眼が光りますね。
2015.01.06
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クロニクル 水師営の会見1905(明治38)年1月5日110年前のこの日、午前11時40分から、日本の第3軍(旅順攻略軍)司令官乃木希典とロシア軍司令官ステッセルの会見が、旅順港に近い水師営で行われました。前年2月に始まった日露戦争は、両軍共に予想を大幅に上回る多大な死傷者を出す激戦となりましたが、なかでも旅順港を巡る攻防戦が、最大の激戦となったのです。乃木の第3軍による旅順総攻撃は、8月19日にはじまりましたが、攻囲されたロシア軍はコンクリートで固めた堡塁を築いて頑強に抵抗、この攻撃は1万6千人の死傷者を出す大失敗に終りました。10月末に行われた第2次総攻撃も、いたずらに突撃を繰り返す無策振りが仇となって、悲惨な失敗に終りました。ここに満州軍総司令官大山巌は、満州軍総参謀長児玉源太郎を第3軍に派遣します。現状を視察した児玉は、一時的に乃木に替わって攻撃を指揮することを決意、旅順を望む203高地に攻撃を集中、6万4千人の兵力を投入して、12月5日に占領に成功するのです。児玉はこの地に新兵器の28cm榴弾砲を運び上げて、旅順港を砲撃するという荒業を敢行、港に停泊するロシア第1艦隊を全滅に追い込みました。こうして12月末までに、抵抗するロシア側の全堡塁を占領、1月1日ロシア軍は降伏を決意、旅順の要塞はようやく日本軍の手に落ちたのです。3日には開城規約が結ばれ、この日5日に両将軍の会見が行われました。攻防155日を要したこの戦いでの日本側の死傷者は5万9千人を数え、この戦いのみで、日清戦争全期間を大幅に上回る犠牲者を出したのです。しかし、大国ロシアと対等以上に戦う日本軍に、欧米への劣等感に悩んでいた日本国民は大いに勢いづき、戦死者、戦傷者家族の悲しみは、置き去りにされ、忘れられていきました。その後ろめたさを覆い隠す装置として機能したのが靖国神社でした。
2015.01.05
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クロニクル 竹槍でちょいと突き出す二分五輪1877(明治10)年1月4日138年前になるのですね。確かに明治は遠くなりました。この日明治政府は、貧農層を中心とした「地租改正反対一揆」の激しさを考慮して、地租の額を地価の3%と定めた法令を撤回、地価の2,5%に引き下げると決定、ただちに布告しました。貧農層は、この結果に大いに気を良くした結果が、標題の落首となったのですね。しかし、これは巧妙な政府の作戦勝ちでした。地価の3%の地租というのは、いったいどのくらい重いのかを、簡単な計算式で示しますのでご覧下さい。問題は地価にあります。これは明治6年の地租改正令で定められたのですが、1つには個人の土地所有権を認めたことに大きな意味がありました。そして土地所有者に地価の3%の地租の納入義務を負わせたのですが、その地価は、その土地の過去3年間の年間収入の平均額を20倍したものと定めたのです。ですから、例えば平均で100円の収入のあった土地の地価は、20倍の2千円になります。ですから地租は2千円の3%、つまり60円です。実に年間収入の60%が税として吸い上げられるのです。これでは封建社会よりもひどいではないか。と貧農が怒るのは当然ですね。果たせるかな轟々たる非難と一揆の嵐が吹き荒れました。先刻そうなることを予想していた政府は、頃合を見計らって規定路線の0,5%の引き下げを発表したのですね。これで地租は年間収入の50%になったのです。何のことはない五公五民の江戸時代とほぼ同じ水準に収めたのです。最初から50%と出していたら、果たしてそこで収まったでしょうかね。明治政府実に巧妙でした。私はこの事実に、「お主やるのう…」と唸っています。
2015.01.04
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クロニクル 日米繊維協定締結 1972(昭和47)1月3日43年前になります。この年の前年にあたる1971年8月15日が有名なニクソンショック。米国が金・ドル交換停止を発表し、1ドル=360円体制が崩れるきっかけになった日でした。そして年末にスミソニアン協定が結ばれ、1ドル=308円になったように、ドルに対して各国通貨が切り上げられて、一応の小休止となりました。こうした国際経済上の大問題の根底にあったのが、米国の貿易収支の大幅赤字でした。当時米国の最大の貿易赤字国は日本でしたから、日本の安値輸出が、米国へ失業を輸出していると批判されたのです。特に米国の繊維業界が死活的な打撃を受けていたことから、日本の繊維製品の輸出が、槍玉に上がりました。これがその後、様々な分野に波及した,日米貿易摩擦の第一段でした。日本の繊維業界も、地場の中小企業が多い業界です。円切り上げの際にも、地元選出の代議士を超党派的に突上げ、猛烈な陳情攻勢をかけました。この時も大変な騒ぎとなって、ロングラン交渉となったのですが、43年前のこの日、遂にワシントンでの交渉が妥結したのです。繊維製品の対米輸出の、年間伸び率を一定以下に抑える内容でしたから、現状維持ないし、現状より削減を主張していた米側も、大きく譲歩した内容になっていましたので、秋に大統領選挙を控える時だっただけに、米側もかなり思いきった譲歩で、交渉をまとめたと見ることができます。それでも国内の繊維業界や、業界拠りの族議員達は、5月に沖縄返還を受けることになっていたことから、「政府は糸で縄(沖縄のこと)を買った」と、政府批判を繰り返しました。今では、米国業界の非難の矛先は、すっかり中国に移っていますね。
2015.01.03
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クロニクル レコンキスタ完結1492年1月2日古い話で恐縮です。1492年は、世界史ではコロンブス一行の航海、ヨーロッパ人にとっての「アメリカ発見」で有名な年です。523年も前のことです。日本では、応仁の乱を経て、戦国乱世に向かい始める頃、山城の国一揆は勢いをなくし始めていましたが、各地の土一揆は、まだ活発な頃のことです。実は、1月2日のこの出来事こそが、コロンブスの航海が実行に移される大事な伏線だったのです。この日、イベリア半島におけるムスリム勢力の最後の拠点、グラナダがカスティーリャ軍(この国の王が、有名なイサベル女王です)の攻撃によって陥落したのです。ここにキリスト教徒勢力による、旧ローマ帝国の版図の1つイベリア半島を、ムスリム勢力から奪い返そうという運動(再征服運動、レコンキスタと呼ばれます)が、成功裡に完結を見ました。要するに、ローマ教皇とカトリックの諸侯による、領土拡大と勢力拡大の征服戦争を、レコンキスタの名で正当化したわけですね。何事もネーミングが大事なのです。同じ時期に展開し、失敗に終った十字軍の侵略遠征も、ネーミングは立派ですが、要するにレコンキスタと同じく、領土拡大のための戦争でした。さて、ムスリム勢力を駆逐したイベリア半島には4つの国が出来ました。地中海側のアラゴン王国、大西洋側のポルトガル王国、そして中央部に広がるカスティーリャ王国と、ピレネー山脈でフランスと接するバスク王国です。このうち、アラゴンとカスティーリャは国王同士の結婚によって連合王国となり、後にバスクも併合してスペインとなります。実は、征服事業を早めに完成したポルトガルは、更なる南への進出の野望を海を越えたアフリカに定め、北アフリカの勢力が手強いため、アフリカ西岸を南へ下って、西アフリカの諸王国との貿易で、富強を誇っておりました。征服を完了したカスティーリャが、さらなる拡大を目指すとなると、ポルトガルと戦うしかありません。それを避けたいイサベル女王の前に現れたのが、冒険航海のスポンサーを探していたコロンブスだったのです。
2015.01.02
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クロニクル EEC(欧州経済共同体)設立1958(昭和33)年1月1日現在のEUの前身EEC(欧州経済共同体)が、57年前の今日産声をあげました。加盟国は、フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグの6ヶ国でした。その後EECは、65年に経済のみでなく政治や文化の統合をも目指す、欧州共同体(EC)となります。この時点での加盟国は、まだ6ヶ国のままでした。イギリス、デンマーク、アイルランドの3カ国がECへの加盟を認められ、加盟国が9ヶ国となったのは、73年のことでした。次いで、81年にはギリシアが、86年にはスペインとポルトガルが加盟を認められ、EU加盟国は当初の2倍の12ヶ国となりました。93年には欧州連合条約が成立してEUが誕生、95年にはオーストリア、フィンランド、スウェーデンの3ヶ国の加盟が承認され、加盟国は15ヶ国に膨らみました。2004年5月には、旧東欧圏を中心に一挙に10ヶ国(リトアニア、ラトヴィア、エストニア、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリー、スロベニア、マルタ、キプロス)の加盟が認められました。さらに07年には、ルーマニアとブルガリアの加盟が承認されて27ヶ国となり、昨年7月にはクロアチアの加盟が承認され、現在のEU加盟国は28ヶ国となっています。多すぎ、大きすぎると、まとまりをとるのは、大変ですよね。イギリスは常に不協和音を奏でていますし、独仏のリーダーシップで、うまく乗りきっていけるのか、ここ数年が勝負の時のように思えます。
2015.01.01
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