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クロニクル 改正大店法施行1992(平成4)年1月31日22年前のことです。大規模小売り店舗法の改正法が、この日施行されました。旧来の法は、小売店保護の名目で、出店には既存の商店街の同意を採り付けることを義務付けておりました。そのため、延べ床面積、営業時間、営業日数(年間の休日日数など)の枠をはめられる為、大手スーパーなどが出店を断念するケースも少なくないなど、大型店の出店が厳しく制限されていたのですが、この改正によって規制が緩和され、スーパーや大規模小売り店の出店競争が激化することになりました。 とりわけ、駅前の繁華街などでは、駐車スペースの確保が難しく、車で来店するなら駅前よりも、交通渋滞が少なく、駐車スペースも広くとることが可能な、郊外型店舗が各地に誕生し、駅前商店街の顧客が激減することにもなりました。 小規模店なら小規模店のメリットを生かした、独自の販売・集客戦略を練ることもなく、駅前という立地に安住し、規制に守られてぬくぬくとしていた古くからの商店街は、この結果大きな打撃を受けたのでした。 大型店との共存の道を探らず、出店を防げればなお良い式の、厳し過ぎる制限を出店希望の大型店に課して、郊外に追い遣った咎めが出た報いのように見えました。大型店イジメの結果が、郊外型店舗にお客を吸い取られる結果を招いたと言えましょう。 そこで、今度は性懲りもなく、大型店の郊外立地を制限してもらい、駅前に大型店を誘致出きるように、大型店の郊外出店を規制してもらおうというのが、最近の動きなのですから、あきれます。護送船団(最もスピードの遅い船に合わせてスピードを調整し、船団として行動、進行する方式です)方式と呼ばれるのですが、早い船は足踏みよろしくスピードを落とし、遅い船に合わせて進むのです。ここに進歩が生まれると期待する方がどうかしています。 かつて、デパートの誕生期(西欧で1870~80年代、日本では20世紀20年代でしょうか)に、時代の波を理解できない、古くからの商法にアグラをかいていた商店は、いくつも淘汰され、時代の波に飲み込まれてゆきました。 同じ運命を辿るか、再生を果せるかは、他力本願よろしく、再び規制の力を借りようとするのか、歯を食いしばって新しい成長の道を見つけ出そうと、商店街の知恵を絞ってチャレンジしていけるか否かに、かかっているように思うのは、わたしだけでしょうか。
2014.01.31
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クロニクル 日英同盟成立1902(明治35)年1月30日112年前のこの日、日英同盟協約が締結され、即日発効しました。調印はロンドンのイギリス外務省で行われ、日本側は林駐英公使、イギリス側はランズダウン外相が署名しました。日英同盟協約の主な内容は、清国における両国の利益と韓国における日本の政治・商業・工業上の格段の利益を他国の侵略的行動や民衆反乱から守るため、危機に際しては両国が適当な措置をとること、また日英両国のいずれかが、第3国と戦争になった場合、一方の締約国は厳正に中立を守り、さらに他の国が第3国に同盟して参戦する場合には、一方の締約国も協力して戦う事の2点でした。この同盟は、ロシアの極東進出、とりわけシベリア経由での「満州(現中国東北地域)」進出に危機感を感じたイギリスからの誘いに、韓国支配の安定を望む日本が応じた形で、締結に至りました。イギリスは名誉ある孤立の伝統を捨て、日本をパートナーと認めた形となり、日本の国際的地位の上昇に、多いにプラスとなりました。 時に日露開戦の2年前のことでした。
2014.01.30
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クロニクル 日本最初の戸籍調査実施1872(明治5)年1月29日142年前のことです。この日、日本で最初の全国戸籍調査が行われました。壬申戸籍として有名になった明治時代最初の戸籍調査です。江戸時代は、全住民を寺に帰属させ、宗門改帳が戸籍の代わりとされていましたが、悉皆調査というには、問題がありました。この72年調査の結果、この時点の日本の人口は、男性16,796,158人、女性16,314,667人、合計で33,110,825人となりました。 人口減が大きな課題としてあげられる現在ですが、僅か1世紀半足らずの間に4倍近くにまで増加していたことになります。
2014.01.29
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クロニクル 新潟少女長期監禁事件2000(平成12)年1月28日タイトルをどうつけるべきか迷いましたが、このタイトルにしました。14年前の今日は、事件の解決日でした。少女が誘拐されたのは、小学校4年生だった1990(平成2)年の11月13日、新潟県三条市の小学校からの下校途中でした。ですから、少女は9年2ヵ月に渡って監禁されていたことになります。少女が同じ新潟県柏崎市の加害者宅で見つけられ、助け出されたのは全くの偶然でした。少女を誘拐した犯人(加害者)宅へ、別件で訪問した同市の保健所職員が、室内にいた足が萎えて満足に歩けない女性を発見、保護したのです。その後の入院と事情聴取によって、9年2ヵ月前に誘拐された少女と判明したのです。衝撃的な事件でしたので、おそらく皆さんの記憶にも、残っている事件だと思います。犯人はその後、懲役14年の刑に服しました。裁判中の拘留日数も加算されますから、そろそろ出所する頃ですね。犯した犯罪に比べ、刑が軽いことは事実ですが、誘拐監禁に別件の傷害罪を加えても、当時の刑法で科すことが出来る最大の刑罰が、懲役14年でした。罪刑布袋主義の立場からすると、これ以上の刑罰を科すことは出来なかったのです。判決は、「犯行は法が想定していた刑期をはるかに越えた最悪のものである」と記して、超永樹14年は、刑罰として軽すぎることに、無念をにじませています。裁判官も人の子だと、感じることができた判決でした。
2014.01.28
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クロニクル 第1回ハワイ移民出発1885(明治18)年1月27日129年前になります。時まさに鹿鳴館華やかなりし頃ですが、同時に松方デフレが深刻化し、前年には、自由民権期の激化事件が頻発した、そんな時期でした。この日、横浜港から、政府の募集に応じた927名のハワイ移民が、アメリカ汽船シティ・オブ・トーキョー号に乗船、ハワイに向け出航しました。移民は男性696名、女性1¥165名、小児66名でしたから、単身の男性が多かったことが分かります。また出身を見ますと、山口県出身者が415名、広島県出身者が220名を占めていました。ハワイ移民のルーツは1868(慶応4)年の5月に、153名が農園労働者として渡航したのが始まりです。71(明治4)年には、ハワイとの間にも修好通商条約が結ばれ、契約移民が開始されることになったのですが、それから14年して、ようやく第1回の移民が実現したというわけでした。当初の移民は出稼ぎが主であり、永久移住を考えた渡航者は少なかったのですが、こうした移民の背景には、幕末維新期以降の、急速な西欧医学の普及などによる人口増加を背景とした農村の窮乏があったことは否定できません。ハワイへの契約移民は、その後94(明治27)年まで、26回行われ、28,995名が渡航しています。その多くはサトウキビ畑で働く出稼ぎの農園労働者でした。
2014.01.27
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クロニクル 法隆寺金堂で出火1949(昭和24)年1月26日65年前のことです。私は、この年の4月に小学校に入学しました。ですから、ラジオでニュースを聞いたはずですが、事件についての直接的な記憶はありません。この日、法隆寺金堂から出火。大変残念なことに、模写中だった12面の壁画が全焼してしまいました。 模写は戦前に始まっていたのですが、、戦争で一次中断。戦後になって、作業を再開、いままさに軌道に乗ってきたところだったのだそうです。真冬の寒さの中、暖をとる必要があったのですが、火鉢や練炭では火災の危険も大きいだろうと、より安全だろうからと、設置された電熱器のショートが、火災の原因として特定されました。なんとも皮肉ですが、残念なことでした。
2014.01.26
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クロニクル カノッサの屈辱1077(承暦元)年1月25日今から937年前になります。日本で言うと平安朝後期、上皇による院政の盛期にあたります。西洋では中世ヨーロッパの骨格がようやく整ってきた頃でしょうか。ヨーロッパの中世都市が、あちこちに生まれるのは、もう少し後のことになります。「カノッサの屈辱」は当時存在した「神聖ローマ帝国」皇帝のハインリヒ4世が、ローマ教皇グレゴリウス7世を雪のカノッサ城(カノッサはイタリア、トスカナ地方の女性伯爵マティルダの居城でした)に訪ね、破門の許しを乞うて、素足で3日間城門の前に立ち尽くしたという、有名な事件です。当時のヨーロッパには、いくつもの王国が存在していますが、まだ強固な王権というものは存在せず、王とは諸侯の中の第一人者で、戦闘となった場合の指揮官程度の意味しか持たなかった時代です。そのためヨーロッパというまとまりの範囲は、ローマ教皇をいただくカトリック教会の勢力範囲を示し、教皇の宗教的、精神的権威によって維持されていました。こうした世俗の王権に対する教皇権の優越を、象徴的に示した事件が、カノッサの屈辱でした。事件の発端は、ハインリヒ4世が無謀にも教皇権に挑戦したことから始まりました。聖職者の任免権、これを聖職叙任権というのですが、この権利は当然ながらローマ教皇にありました。それゆえ教皇に任命された大司教や司教といった教会幹部の聖職者は、当然ながら国王ではなく、教皇の意向を尊重します。それゆえ、多少王権が強まり始めていたこともあって、ハインリヒ4世は、聖職叙任権を我が手に納めようという野心を起こしたのです。そうして彼は行動を起こします。事件の2年前の1075年のことです。ハインリヒ4世は、自ら空席となったミラノの大司教を叙任し、皇帝の権威を示そうとしたのです。怒った教皇は、教会政治への介入に抗議し、ハインリヒ4世に教皇への服従を要求したのです。ハインリヒ4世は、ウォルムスの公会議に出席し、グレゴリウス7世の廃位を宣告したのです。これは全面戦争の布告にほかなりませんでした。激怒した教皇は、ハインリヒ4世を破門したのです。76年の2月のことでした。カトリックの世界で、教皇に破門された者を、王や皇帝として戴き続ける意識は、当時はありません。諸侯会議は、1年以内に破門が許されない限り、ハインリヒに替る別の皇帝を推戴する事を決定します。慌てたハインリヒは、あの手この手で教皇の許しを得ようとしますが、どれもうまく行きません。そしてこの日、トスカナ女伯マティルダのとりなしで、カノッサ城を訪ねました。彼は27日までの3日間、雪の城門に素足で立ち尽くし、ようやく破門を解かれました。この事件は、世俗権力と聖界権力との聖職叙任権を巡る長い争いの第一幕でした。この事件には、後日談があり、後日の第2幕では、グレゴリウス7世のワンマン振りに不満を持ったドイツ各地の司教たちがハインリヒを支持し、彼が一矢を酬いる形となっています。
2014.01.25
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クロニクル 缶ビール登場1935(昭和10)年1月24日79年前になります。この日、アメリカのクルーガー社が、世界ではじめて缶ビールを発売しました。現在に比べ、技術的に未熟でしたから、瓶ビールに比べ、当初の味はかなりは落ちました。か缶ビールの味が、瓶とさほど変らなくなったのは、いつ頃だったでしょうか。
2014.01.24
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クロニクル 八甲田山死の彷徨 1902(明治35)年1月23日112年前のことです。この日、陸軍第8師団青森歩兵第5連隊の将兵210名が、例年の雪中行軍に出発しました。この年は1月に入って積雪が多く、この日は特に寒気も厳しかったと指摘されています。山口少佐が率いる第2大隊の将兵は1泊の予定で裏八甲田の田代に向ったのですが、夕刻から激しくなった雪に道を誤ったため、目的地に到着出来ず、この夜は半煮えの食事だけで、雪中に野営せざるをえなくなりました。翌早朝から猛吹雪の中を行軍を開始し、いたずらに体力を消耗、凍傷もひどくなって、将兵の4分の1が倒れました。それでも山中の彷徨はなお27日まで続き、最後は隊を解散して各自が思い思いに行動する破目になりました。26日にようやく遭難救助隊が出動したのですが、猛吹雪のため捜索活動も難航しました。27日になって大隊のほとんどが凍死しているのを発見しました。生存者は僅かに17人、このうち6人は収容後間もなく死亡しました。犠牲者199名の大惨事でした。雪中行軍は,ロシアとの戦争を想定した訓練でしたが、装備の不備と進退の判断の誤りが、この大惨事を招いた原因でした。その点は、同じ時期に雪中行軍を行った弘前第31連隊が、全人無事に帰営していることからも明らかでした。
2014.01.23
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クロニクル 東京に初の電灯1887(明治20)年1月22日127年前のこの日,東京電灯会社が移動式発電機を使って、鹿鳴館に白熱電灯を点灯することに成功、営業を開始しました。日本における電灯営業の開始を告げる一幕でした。これが問題の東京電力の誕生なのですね。国有化を何とか免れようと、あこぎなことを臆面もなく、次々と実行にうつしていますね。。
2014.01.22
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クロニクル ソニー8mmビデオ発売1985(昭和60)年1月21日29年前のこの日、世界のソニーが8ミリビデオを発売しました。ビデオカメラは70年代から発売されていますが、小型軽量の8mmビデオは、瞬く間に市場を席巻して行きます。そして、このしばらく後には、デジタルビデオカメラが登場します。 しかし、現在のソニーは、果たして再建されるのだろうか…?
2014.01.21
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クロニクル 119番事始1936(昭和11)年1月20日今から78年前の昭和11年といえば、これはもう2・26事件に尽きるのですが、1カ月と6日後に、2・26事件を控えたこの日、東京警視庁消防部が、初めて管内の6消防署に1台づつの救急車を配備し、救急活動を開始しました。配備されたのは、丸の内、麹町、品川、大塚、荒川、城東の六つの消防署でした。同時に173個所の救急病院を指定しました。また救急呼び出し電話として、119番通話が開設されました。 当時の救急車、どんなサイレンを鳴らしたのでしょうね。
2014.01.20
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クロニクル 日本航空会社更正法申請2010(平成22)年1月19日あれから4年になるのですね。日本航空と子会社2社が、この日会社更生法を申請して倒産しました。それから4年、分社化して民営化し、JR各社となった国鉄は、本州3社は黒字化し、株式上場も果たしましたが、JALもまた早期に再建され、株式上場を果たしました。ただJALとJRでは、そのおかれた環境は大きく違います。JRは夫々に独占的な路線を持つ国内企業です。JALの場合、世界の航空会社がライバルですから、こうしたライバル、時には格安航空会社との競争に耐えるコストパフォーマンスを実現する必要がある上に、国内にもANAというライバルがいます。JALが本当に世界に伍して行けるかどうかは、なお今後にかかっているように思われます。
2014.01.19
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熊沢天皇後日談 熊沢天皇こと熊沢寛道氏は、熊沢天皇を名乗ったことで、彼を利用しようとする一部の人たちにチヤホヤされ、屋敷もあてがわれます。気をよくした彼は、次第に天狗になり、無為徒食に明け暮れるようになります。 元々は雑貨商で、戦中戦後の混乱で商売は立ち行かなくなっていたのです。勤勉な妻子は、働くことを放棄した彼を見捨て、離縁してどこかに去ってしまって以来、表面に出てこなくなりました。自称天皇は、1966年に少数の後援者に見守られて、ひっそりと亡くなリました。 このニュースは、諸外国にも配信されました。ですから、熊沢氏の子孫は、現在もどこかで生活しているだろうと推定できますが、歴史の舞台に登場されることは、もはやないように思います。
2014.01.18
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クロニクル 熊沢天皇登場1946(昭和21)年1月18日焼け跡が各地に残る、敗戦後の混乱期のことです。敗戦の年が明けた1月1日には、天皇の人間宣言が、各紙の一面トップで大きく取り上げられ、天皇制の雰囲気がなお色濃い、日本国民を驚かせて間もない頃でした。68年前のこの日、名古屋で雑貨商を営む熊沢寛道さんの、「自分は南朝の子孫で、南朝こそが日本の正統の皇位継承者である」とする主張が、新聞各紙で大きく取り上げられ、また国民を驚かせました。各紙は彼を熊沢天皇として紹介したのです。彼は、前年11月にGHQに、自己の主張を記した嘆願書を出しており、それに眼をつけた米誌「ライフ」の記者が、彼にインタビューした記事が、「ライフ」に大きく取り上げられ、日本の各紙が「ライフ」に追随した結果が、この日の記事に繋がりました。子供の頃の、小中学校での歴史の授業では、彼のことが語られましたが、戦中の授業では、南北朝の騒乱は、教科書からも抹殺されていましたから、国民は隠されていた天皇家の騒乱を、ここから学んだのですね。逆賊とされてきた足利尊氏の再評価も、この後のことでした。
2014.01.18
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クロニクル 湾岸戦争の開始1991(平成3)年1月17日17日は、ここで記事にすべき出来事の多い日です。ニュースで盛んに取り上げられてる1995年の阪神大震災もその一つです。79年のこの日は第2次石油ショックの開幕を告げています。そして遠く明治7(1874)年には、板垣退助らによって「民撰議員設立建白書」が提出されています。その中から、今年はパパブッシュによるイラク攻撃、湾岸戦争の開始を取り上げることにしました。23年前の出来事です。前年8月2日、フセインのイラクは突然隣国クウェートに侵入、同国をイラクの1州として併合すると発表しました。国境地帯に位置する油田の採掘を巡る争いが直接の引きがねだったようですが、このフセイン流のやり方は、あまりに無茶でした。そこで、国連はただちに、イラクに対する経済制裁を発動、イラク軍をクウェートから撤退させない限り、多国籍軍による軍事制裁を行うことも決定しました。当時の海部首相は、憲法上疑義のある自衛隊の海外派兵には踏み込まず、当初10億ドル、総額で90億ドル以上の資金拠出と戦後におけるペルシャ湾の機雷除去に掃海艇を派遣しました。 フセインのイラクは、国連の仲裁を拒否し、この日、遂に米国を中心とした多国籍軍のイラク攻撃が開始されたのです。ヴェトナムのジャングルを攻めきれず、民族解放戦線+北ヴェトナムとの戦いに敗れた米国でしたが、見晴らしの良い砂漠と平地の戦いでは、空軍の威力が何の妨げもなく発揮されます。従ってこの戦いは、長期の占領と駐留の継続を意図しない限り、最初から勝利が確実視される戦いでした。「砂漠の嵐」作戦と銘打たれた緒戦は、ペルシャ湾に展開した原子力空母中心の艦隊から、航空機1000機、巡航ミサイル100発を用いた波状攻撃が、クウェート領内のイラク軍戦略拠点やイラクの首都バクダッドで実行されました。それにしても米国も英・仏・独も、1980~88年まで9年間続いたイラン:イラク戦争では、イラクを強く支持して、大量の新兵器をイラクに供給し続け、ホメイニ師のイランを封じ込める正義の防波堤としての役割を高く評価、イラクの軍事大国化を支援していたのですから、皮肉ですね。
2014.01.17
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クロニクル パーレビ国王亡命1979(昭和54)年1月16日35年前の話です。1978年秋以降、革命情勢が日増しに強まりつつあったイランで、この日遂にパーレビ国王が亡命を決断、エジプトに出国しました(後病気治療名目で、米国が亡命を受け入れました)。ここにイランの王政は崩壊し、イラン・イスラム革命は勝利に向けて大きく前進しました。2月1日には、革命派の精神的支柱だったホメイニ師が、亡命先のパリから15年振りに帰国、国民各層の熱狂的歓迎を受けました。2月11日には、革命派による勝利宣言が行われ、ここにイラン革命は成就しました。
2014.01.16
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クロニクル UFJ銀行誕生へ2002(平成14)年1月15日12年前の今日。三和銀行と東海銀行が合併して、UFJ銀行が誕生しました。90年代のバブル崩壊を受け、金融機関の自己資本が痛み、大手銀行の合併を含む合従連衡が盛んに行われるようになり、さくら銀行(前身は太陽神戸三井銀行)と住友銀行が合併した三井住友銀行、富士・第一勧銀・興銀が合併したみずほ銀行、そしてUFJ銀行と東京三菱銀行が、4大メガバンクと言われましたが、やがて、金融庁に睨まれたUFJは、東京三菱に助けを求めざるを得なくなって、同行と合併、三菱東京UFJ銀行となり、今日に至っています。
2014.01.15
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クロニクル 中央大学教授刺殺事件2009(平成21)年1月14日5年前のの今日の話です。報道によれば午前10時15分頃のことだそうです。東京都文京区の中央大学後楽園キャンパスんの1号館4階男子トイレで、理工学部の高窪統教授が刃物で胸や背中、腹などを刺されて倒れているのが発見されました。高窪教授は同日午前11時30分頃に搬送先の病院で死亡しました。死因は背中、胸、腹の刺し傷による失血死でした。傷は体の上半身を中心に40ヶ所に上り、両腕には攻撃を防ぐ際についたとみられる傷もあったそうです。現場のトイレ近くで目撃された「30才くらい、ニット帽をかぶった黒いコートの男性」が犯人像として浮上しました。高窪教授は、授業に趣く際にトイレに立ち寄る習慣があったこと。学内それも研究室棟のトイレを犯行場所に選んでいることなどから、教授を良く知る学内関係者や卒業生を中心に捜査が進められ、同年5月21日、高窪教授の遺体の手の爪に残っていた微量の残存物と、DNAが一致した28歳の男性が、殺人容疑で逮捕されました。被疑者は同大理工学部卒業生で、高窪教授の教え子でした。
2014.01.13
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クロニクル 「ピース」発売1946(昭和21)年1月13日68年前になります。敗戦の年が明けた、昭和21(1946)年は、元日の天皇の人間宣言という、ショッキングな話題から始まりました。いまだ貧しく、全国のあちこちに焼け跡の残る、まだ貧しくつましい時代でした。暗い世相が続く中で、この日一つの明るい話題が提供されました。専売公社(現在はJT)が、高級タバコ「ピース」の発売を開始したのです。当時は10本入りで、1箱7円でした。私の小学校低学年時代は、1箱40円だったように記憶しています。 当時は10本入り40円が最高価格で、20本入り30円の「ゴールデンバット」が一番安いタバコだったような…。もっとも、タバコの銘柄そのものも、数少なかったですが…。
2014.01.13
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今晩は。今日は地元のどんど焼きでした。午前と午後に町内会の下の単位の各谷戸の氏神様の近くの広場で、例年通り行われました。強風や雨のときに翌日に延期で切るようにと、毎年1月の連休の初日に行われます。この写真は、本日午後、山王社と言う小さな神社の下に開けた、お近くの方の畑を借りて行われたどんど焼きの模様です。地主さんは、冬野菜を作らず、作るのは春から秋までとして、どんど焼きのために、冬場は畑を休ませてくださっているのです。なかなか出来ることではないですね。皆さんとっても感謝していらっしゃいます。午前中に世話人さんたちが要した祠に、まず地元の小学校の3年生が点火します。あっという間に燃え上がって、10分足らずで3枚目の写真のようになります。30分後には熾きの出来上がり、女性陣が用意してくれた300個のダンゴが、棹に刺して配られます。煙たいなぁと顔を背けて棹を出す子を、次第にみんな真似をします。2時過ぎには影も長く伸びて…最後は、皆さんの帰られた後、後始末をして土を均し、春野菜の作付けに支障のないようにするために、残っていらっしゃる世話人さんたちです。今年もにぎやかに実施が出来ました。
2014.01.12
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クロニクル 日本で最初のスキー1911(明治44)年1月12日「山は白銀(シロガネ) 朝日を浴びて すべるスキーの 風切る速さ…」そうなんです。103年前の今日が、日本にはじめてスキーが紹介された日なんです。この日、オーストリア陸軍のレルヒ少佐が、新潟県高田(現在の上越市高田)の陸軍歩兵連隊の青年将校たちに、日本で初めてスキーの指導を行なったのです。これが、分かっている限りでは、日本で最古のスキーに関する記録です。
2014.01.12
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クロニクル 中国に日本大使館設置1973(昭和48)年1月11日41年前になります。前年の1972年9月に田中角栄首相(当時)と大平正芳外相らが訪中、日中の国交正常化が実現しました。両国で国交正常化に関する協定書を批准し、この日、日本での中国大使館と中国での日本大使館が、同時に設置されました。中国からは陳楚駐日大使が、日本からは小川兵四郎駐中国大使が、初代大使として同時に着任したのは、3月29日でしたから、大使館設置の約2ケ月半後のことでした。なお小川初代中国大使は、後に首相となる宮沢喜一代議士の叔父に当る人物でした。
2014.01.11
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クロニクル 「賽は投げられた」 紀元前49年1月10日「古いヤツだとお思いでしょうが…」とくれば東映任侠路線の鶴田浩二の決め台詞ですが、今日のクロニクルは、起源前の話なんです。今日を去る2063年も昔の話なんです。塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読んでおられる方も多いと思います。この言葉は、ポンペイウス、クラッススとの三頭政治の一翼を担い、ガリア遠征で成果をあげたカエサル(英語音シーザー)が、元老院と組んでカエサル追い落としをたくらんだポンペイウスとの雌雄を決すべく、元老院の召還命令を逆手にとって、自分の軍勢と共にルビコン川を渡ろうとして、自軍の兵士を激励すべく発したものです。時に紀元前49年の今日でした。当時ルビコン川は、ガリアとローマを分ける境界をなし、兵士と共にこの川を渡る将軍は、ローマへの反逆者と認定するとされていた、重要な軍事境界だったのです。このルビコン川、とても小さな川です。
2014.01.10
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クロニクル OAPEC結成1968(昭和43)年1月9日46年前のことになります。この日アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、アラブの石油産出諸国と近隣の石油大国イランとで結成されました。それは、エジプトを盟主としたアラブ諸国が第三次中東戦争(別名七日戦争)で、イスラエルに大敗した翌年のことでした。現在問題となっているガザは、この戦争の時に、シナイ半島と共にイスラエルが占領した地域です(因みに、この戦争でイスラエルはヨルダン川西岸をヨルダンから、ゴラン高原をシリアから奪っています)。このOAPECは、1973年の第四次中東戦争において、陰の主役を務めます。石油資源を武器として、戦争勃発と同時に、イスラエルの味方をしたり、イスラエルを支持する国には原油を売らないと宣言し、実際に油井のバルブを閉めて油量を調節したのです。結果として、アラブやイランの原油に頼っていた諸国は困り果て、相次いで中東戦争に中立の立場を表明し、従来のイスラエルよりの立場を修正しました。欧州諸国にその傾向が目立ちましたが、日本などは、駐イスラエル大使を一時召還し、イスラエルとの貿易を凍結した上で、中曽根通産相(当時)を中東諸国に派遣して、原油輸出を懇請する慌てぶりでした。当時の田中内閣の列島改造計画は、このとき生じた石油危機によって頓挫しています。この時石油危機も生じたのですが、これが資源産出国の資源外交が成功した最初のケースでした。それは、アラブ産油国の団結が保たれたことが大きな原因でした。OAPECの団結がイスラエルに一糸酬いることに繋がったのです。今ではOAPECの団結は、難しくなっていますが、途上国の台頭で、エネルギー資源の奪い合いが続き、原油価格は当時の数倍のところで高止まりしていますね。
2014.01.09
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クロニクル 周恩来中国首相永眠1976(昭和51)年1月8日38年前のこの日、周恩来中国首相が逝去されました。享年78歳でした。同じ年の9月9日には、毛沢東主席が82歳の生涯を閉じています。76年という年は、中国の革命第一世代の巨星が、相次いで世を去った年として、記憶されています。とりわけ周恩来首相は、若い日に日本で留学生活を送っており、現在も神田神保町の裏通りにある日中学院の前庭には、「周恩来ここに学ぶ」と記された石柱が立っています。
2014.01.08
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クロニクル 独居老人100万人突破1984(昭和59)年1月7日ちょうど30年前のこの日、当時の厚生省(現在は厚生労働省)は83年度の厚生行政基礎調査の結果がまとまったとして記者発表しました。その中で目を引いた事実は、1人暮しのお年寄りが、はじめて100万人を突破したという事実でした。マスコミ各社は、思い思いの見出しで、この事実を夕刊で速報しました。これ以後老人の孤独死のニュースが続々と取り上げられるようになり、また家族制度のあるべき姿について、さまざまな議論が展開されます。しかし、相談窓口の充実や老人ホーム、老人介護施設の拡充についての要望が各方面からあがるようになるには、なおしばらくの時間が必要でした。
2014.01.07
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クロニクル 中央省庁の再編成スタート2001(平成13)年1月6日もうアレから13年なのですね。13年前の今日、中央省庁の再編成がスタートしました。厚生労働省とは、厚生省と労働省が合体、文部科学省は文部省と科学技術庁が合体、国土交通省は建設省と国土庁が合体してスタートしました。大蔵省は財務省に編成替えされるなどし、さらに総務省がスタートし、内閣府が編成されるなど、1府12省庁となりました。この省庁再編は、村山内閣の退陣後にスタートした橋本内閣が執念を燃やして、抵抗する省庁を押し切った結果でしたが、なにやら焼け太り気味の省庁もあるなど、なお不完全燃焼気味でしたから、今後さらなるスリム化が測られる必要があるように思われます。 いまだに省庁の利権が絡む、不要な規制はなくなる気配が見えず、役にも立たない消費者庁など、何かあるとすぐに省庁の焼け太りにつながる、つまらない規制はすぐに出来ますから、日本の役人天国ぶりは、なお続いています。悪法の秘密保護法案で、官僚の権限は益々強まりそうですから、注意が必要ですね。
2014.01.06
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クロニクル アイゼンハワー・ドクトリン発表1957(昭和32)年1月5日57年前のこの日、アイゼンハワー米大統領は、中東教書を発表し、前年10月末~12月末にかけて、約2ヶ月に亘って続けられた第二次中東戦争(イスラエルのアラブ世界への攻撃と、英仏のスエズ運河地帯への派兵によって起こされた戦争です)後の平和の確立について、米国の関与と方針を示しました。中東地域での戦闘は、12月22日の国連緊急総会の決議で、その非を指摘された英・仏軍が年内に撤退、イスラエルもいくつかの占領地の確保を認められたことで、停戦と撤兵を受け入れていました。アイゼンハワー・ドクトリンと呼ばれた中東教書によって、アイクは曲がりなりにもアラブ・イスラエル間の当面の和平を実現したのです。この平和は、67年5月の第三次中東戦争の勃発まで、10年間続きました。こうしてアイゼンハワー大統領は、当時なお継続されていた朝鮮戦争の終了に向けて、外交努力を集中する事が出来る環境を整えました。
2014.01.05
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クロニクル 円新高値へ1978(昭和53)年1月4日36年前になります。新年最初の為替取引きが行われたこの日、海外市場での円高傾向を受けた東京市場で、円はいきなり1ドル=237円90銭の新高値をつけました。1971年12月18日のスミソニアン合意で、円は1ドル=308円に切り上げられたのですが、この固定レートは1年しか持たず、73年2月14日から日本は固定相場制に別れを告げ、為替相場の変動幅制限を廃止する変動相場制に移行しました。ヨーロッパ諸国も3月には相次いで変動相場制に移行、ここに為替取引きは現在に続く変動相場制の時代に移行しました。初日の円レートは277円丁度のスタートでした。その後ジリ高が続きましたが、夏以降は1ドル=260円台の小動きが続き、政府・日銀の介入による円高阻止の動きがなかば公然と続けられました。73年10月、第1次石油ショックが勃発すると、原油高から円は売られ、円安に振れましが、この世界同時不況を最初に抜け出したのが日本でした。資源小国であるが故に燃費効率の良い車の生産を常に心がけざるをえなかった日本車が、アフターサーヴィスの良さをもプラスして、アメリカの相対的低所得層のニーズを掴み、爆発的に売れたことがきっかけでした。やがて80年代の日米自動車摩擦に発展するこの動きは、自動車産業を牽引車とする日本経済の復活だけではなく、日本を世界経済をリードする経済大国に押し上げたのです。急増する輸出は巨額の貿易収支の黒字を積み上げ、欧米からの日本のダーティフロート(政府・日銀によるドル買い介入はこう呼ばれました)に対する批判は高まる一方となり、ここに政府も為替相場への介入を控えざるをえなくなっていったのです。その結果が、この日の円新高値に繋がりました。その後も円高は続き、この年10月31日には、1ドルは175円50銭の高値をつけ、スミソニアン合意まで続いた360円の固定相場から、僅か7年で2倍にまで円の価値は高まりました。輸出業界はブツブツ言っていましたが、自国経済の地位向上を実感できるのですから、我々一般の国民にとって、これは気分の良いことでした。ただ生活実感の乏しい気分の良さだったことも事実でした。当然ドルベースの国民所得、平均賃金も切り上がり、生活実感に乏しい経済大国日本が出来あがったのです。農協をはじめとする日本人の海外団体旅行が隆盛をみせはじめ、昨今の中国人旅行者のように、欧米各地でノーキョーとして顰蹙を買ったのも、この頃のことでした。国内旅行より、海外旅行の方が割安だという、円の強さを実感できるほとんど唯一の時だったからでもありました。それにしても、当時の高値は200円前後、現在はその倍の100円前後が円安になるのですから、不況不況といわれても、GDPで中国に抜かれたと言っても、日本経済の世界経済に占める地位は、揺るがないどころか、きわめて強力であると考えてよいように思います。
2014.01.04
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クロニクル 岡田嘉子ソ連へ亡命1938(昭和13)年1月3日もう76年前になります。この日新劇の人気女優岡田嘉子さんが、恋人の杉本良吉さんと手に手をとって、当時南半分が日本領だった樺太の日ソ国境を越え、ソ連に亡命しました。当時のソ連は、スターリンの血の粛清が続き、独裁者に抵抗する勢力や独裁を脅かすと認定された人たちが、次々に消されていた時代でした。が、一方で数次にわたる五ヵ年計画の成果で、アメリカに続く第2位の国民総生産(GNP)を誇る大国に成長してもいたのです。2人は、ソ連の社会主義を理想化して憧れを抱いていた、当時の社会主義ロマンチストだったのでしょう。しかし、西側世界に対するソ連の警戒心は強く、2人の期待は見事に裏切られ、亡命者を装ったスパイではないかとの嫌疑を受けた2人は投獄され、演出家でマルクス主義者だった杉本は、スパイと認定されて処刑され、岡田も長く抑留生活を送り、晩年になった1972年に、傷心の日本帰国を果たしました。その後岡田さんは、ペレストロイカの時代にソ連に戻り、1992年に同地で没しました。
2014.01.03
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あけましておめでとうございます。南関東は、穏やかな晴天が続いています。今年は、暦の都合で長い休みの方が多いと聞きますが、そのせいか地元の神社仏閣への初詣客は、昨年に比べると、かなり少ないように感じました。本日2日、地域の伝統芸能を後世に伝えるために活動している、囃子保存会の会員として、皆で地元の寺社への奉納と、老健施設への慰問に出かけてきました。その模様をアップすることで、新年のご挨拶とさせていただきます。最初の2枚は、武州柿生の琴平神社参集殿和えでの奉納の様子です。後半の2枚は老健施設。獅子が頭をかじり、今年一年の無病息災を目指しているところです。
2014.01.02
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クロニクル 日銀BISに加盟1970(昭和45)年1月2日44年前になります。この日日銀はBIS(国際決済銀行)に加盟しました。1990年代の日本のバブル崩壊期に、BIS規制として、「国際業務に携わる金融機関は、自己資本比率8%を維持しなければならない」とする規制が知れ渡り、一躍BISは有名になりました。本部はスイスのバーゼル、駅前の目立つ建物だそうです。さて、BISは1930年に創設された、各国の中央銀行が加盟する組織(それゆえ、正規のメンバーは、各国の中央銀行総裁になります)です。当時、第一次世界大戦後で、ことあるごとにドイツの賠償金の支払い問題で揉めていたため、ドイツの賠償支払い事務を扱う機関として、創設されたのです。ドイツは個別に各国当局に賠償金を払い込むのではなく、BISに一括して払い込み、BISが公平に賠償を受ける権利のある国に分配することにしたのです。ですから、当時はヨーロッパの戦勝国のいさかいを仲裁する役割が主だったのです。そのため全く中立的な仲裁役を担える存在として、日銀も乞われて加盟しておりました。しかし、世界恐慌の深化と国際連盟脱退を機に、日銀はBISを脱退しました。それが、60年代の末になると、日本の貿易黒字が次第に問題化する兆候が強まってきましたので、BISへの再加盟が必要となってきたのです。こうした事情で、厳密に言えば再加盟したのですが、BISの役割は戦前とは全く異なり、国際的な金融政策の調整機関に変わっていましたので、ここでは再加盟とせず、単に加盟としました。その日銀は、1994年から理事国となり、日銀総裁がBISの理事を兼務しています。理事国はG10と言う、BISの最高意志調整機関のメンバーとなります。毎月1回、各国中央銀行総裁が集う会合が開かれているのですが、あまり報道されることはないようで、粛々と金融政策等の調整がなされるのは、かえって良いことかもしれません。
2014.01.02
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クロニクル 天皇の人間宣言発表1946(昭和21)年1月1日68年前になります。この日、天皇の神格化を否定する詔書、いわゆる人間宣言が発表されました。若い方には、なかなか信じられないことと思いますが、明治の中盤以降(20年代後半の日清戦争後頃から)の日本では、天皇を現人神(あらひとがみ)と信ずる気風が色々な仕掛け(内容後述)によって、広く国民一般に浸透していました。そうした天皇信仰とでもいうべき現実を、天皇自らが否定して見せたのです。詔書は「私と国民との間の紐帯は、常に相互の信頼と敬愛によって結ばれているものであって、神話や伝説によって結ばれているものではない。また天皇を現人神とし、国民を他民族に優越した民として、わが国の世界支配を当然なる天命とするが如き、架空の観念に基づくものでもない」(口語は拙訳)として、自ら現人神であることを明確に否定したのです。ここで少し歴史を振り返ることをお許しください。明治前半期の日本では、民衆の間に天皇の神格化は見られず、天皇は徳川将軍に代わる支配者程度に位置付けられていました。民衆は、徳川300年(正確には268年ですが、長いことの代名詞として、当時に300年と表現していました)の将軍家の支配ですら、最後はあっけなく倒れた現実を、驚きと共に一種の感動をもって意識にとどめていました。そのため、自由民権期の激化事件の中で、最大の民衆闘争となった秩父事件では、蜂起した農民達は「天皇陛下と戦うから加勢しろ」と、周辺各地区へ強力な呼びかけを行い、大量動員に成功していくのです。彼等は、徳川300年の支配ですらああも簡単に倒れた。ならば20年に満たない明治政府の支配など、もっと簡単に倒せるだろうと考えたのです。事実を知らされた山県、伊藤ら当時の政府首脳は戦慄します。そこから彼等は、天皇の神格化の必要を感じとり、先ずは軍人教育を本格化します。ここに明治15年に発表されていた軍人勅諭の本格的利用が始まります。兵士となった男たちには勅諭の全文暗誦と、勅諭への絶対服従が義務付けられたのです。そしてより若いうちにと、当時4年間だった義務教育を利用しようと、明治23年に教育勅語が発表され、男女を問わず小学生に勅語の暗誦を義務付けたのです。少し強い言葉を使えば、将軍様を絶対視する現在の北朝鮮以上の洗脳教育を、若い世代に施したのです。明治中盤以降、昭和の敗戦までの日本の義務教育で最も重視された科目は、修身と国史(歴史)でした。修身は勅語の徳目を噛み砕いて教え、摺り込むための時間であり、国史は天皇と天皇制の歴史を摺り込む時間だったのです。そこでは神話が平然と事実とされ、一方で知られると都合の悪い南北朝対立や壬申の乱のような天皇家の醜い争いは、知らせてはならないと隠蔽されました。こうして先ずは、現在では実在を否定されている神武以下の神話上の人物から現天皇までの歴代天皇の名を、幼い子供達全員に暗誦させたのです。余談ですが、お身内に昭和9年頃までにお生まれになり、戦前・戦中に小学校教育(明治40年に、義務教育年限は6年に延長されています)を完了された方がおられましたら、「おばあちゃん(或いはおじいちゃん)、歴代天皇の名前、覚えてる」と聞いて見てください。最近の記憶がまだらになっていらっしゃる方でも、かなりの名前がスラスラと出てくるはずです。昭和8年生まれの私の姉もその1人です。話しを戻します。先ずは義務教育で、次いでは軍隊で(これは男性に限る)の天皇神格化教育は、こうして明治20年代なかばまでに本格化したのです。その効果は日清戦争後から少しづつ現れ始め、日露戦争の勝利(それは不完全な勝利に過ぎなかったのですが、国民には大勝利とのみ発表されました。また、国際的には、大国ロシアと対等以上に戦ったことで、日本の立場は大いに向上しました)によって、一挙に国民の間に広まったのです。こうして、明治30年代後半からの日本では、天皇=現人神説は民衆の間に広く浸透していたのです。兵士は勿論、最後は竹槍での本土決戦まで覚悟させられた国民も含めて、天皇=現人神説は疑う余地のないものになっていたのです。それゆえ人間宣言は、天皇のために戦い、天皇のために不自由を忍び、天皇のために死を覚悟した人々にとって、大きな衝撃となりました。しかし、衝撃は一時的なものに留まり、民主的な憲法を積極的に評価して、象徴の地位に甘んじることを是とし、平和主義を高く評価して、平和の使徒として貢献しようとする天皇の姿勢は、天皇の戦争責任の問題を曖昧にしつつも、次第に広く国民の支持を集めるようになっていったのです。安倍内閣にも歴史の重みを、正しく汲みとって欲しいと思うのは、私だけではないように思っているのですが……元日ということで、少々長いクロニクルになりました。お許しください。本年もどうぞよろしく。
2014.01.01
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