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クロニクル 改正大店法施行 1992(平成4)年1月31日 大規模小売り店舗法の改正法が、この日 から施行されました。 旧来の小売店保護の名目で、出店には、既存の 商店街の同意を採り付けることが条件とされ、 そのため、延べ床面積、営業時間、営業日数 (年間の休日日数など)の枠をはめられる為、 出店を断念するケースも少なくないなど、 従来は出店が厳しく制限されていたのですが、 この改正によって規制緩和が行われ、 スーパーや大規模小売り店の出店競争が激化 することになりました。 とりわけ、駅前の繁華街などでは、駐車スペースの 確保が難しく、車で来店するなら、駅前よりも、 交通渋滞が少なく、駐車スペースも広くとることが 可能な、郊外型店舗が各地に誕生し、駅前商店街の 顧客が激減することにもなりました。 小規模店なら小規模店のメリットを生かした、独自の 販売・集客戦略を取ることなく、駅前という立地に 安住し、規制に守られてぬくぬくとしていた古くからの 商店街は、この結果大きな打撃を受けたのでした。 大型店との共存の道を探らず、出店を防げればなお良い 式の、厳し過ぎる制限を出店希望の大型店に課して、 郊外に追い遣った咎めが出た報いのように見えました。 大型店イジメの結果が、郊外型店舗にお客を吸い取られる 結果を招いたのでした。 そこで、今度は性懲りもなく、大型店の郊外立地を制限して もらい、駅前に大型店を誘致出きるように、大型店の郊外出店を 規制してもらおうというのが、最近の動きなのですから、 あきれます。 護送船団(最もスピードの遅い船に合わせて、スピードを調整し、 船団として行動、進行する方式です)方式と呼ばれるのですが、 早い船は足踏みよろしくスピードを落とし、遅い船に合わせて 進むのです。ここに進歩が生まれると期待する方がどうかして います。 かつて、デパートの誕生期(西欧で1870~80年代、日本では 20世紀20年代でしょうか)に、時代の波を理解できない、 古くからの商法にアグラをかいていた商店は、いくつも淘汰 され、時代の波に飲み込まれてゆきました。 同じ運命を辿るか、再生を果せるかは、他力本願よろしく、 再び規制の力を借りようとするのか、歯を食いしばって新しい 成長の道を見つけ出そうと、商店街の知恵を絞ってチャレンジ していけるか否かに、かかっているように思うのは、 わたしだけでしょうか。
2007.01.31
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クロニクル 米兵至近距離で農婦を射殺 1957(昭和32)年1月30日 この日は、第1次南極観測隊が、南極大陸に上陸した 翌日です。事件は群馬県相馬ケ原の米軍射撃場内で 起きました。日本がまだまだ貧しい時代でした。 貧しさ故に、基地周辺に済む貧農たちは、立ち入りを 許された基地内に立ち入り、空薬莢(からやっきょう)や 砲弾の破片を拾い集め、生活の足しにしていたのです。 射殺された坂井なかさんも、そうした一人でした。 坂井さんが射殺される瞬間を目撃した農婦達の証言に よって、射殺犯W・ジラード三等技術兵は「ママさん、 大丈夫ヨ」と、わざと坂井さんを近くに呼び寄せたうえで、 至近距離から射殺したことが明らかにされました。 当然国内世論は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなりました。 米兵に巣食う、日本人に対する極端な優越意識(この意識は 今日でも、在沖縄米軍などに色濃く残り、それが婦女暴行 事件や、車輛による人身事故などとなって現出するようです) の存在を、これみよがちに見せつけられたのですから……。 世論の怒りに、米国に弱い日本政府も、ここは強気のポーズで 米軍に当たらざるをえません。 しかし、サンフランシスコ講和と同時に結ばれた日米安全保障 条約によって、日本は米軍の日本駐留を認め、その駐留米軍には、 日米行政協定(当時、現日米地位協定)によって、治外法権が 認められていたのです。即ち米兵は、勤務中か否かに関わらず、 その行動によって生じた係争は、米国の法規で米国の司法でのみ 裁かれることになっていたのです。 ここに、いかに日本側が「ジラード陸士は故意の殺人犯なので、 裁判権を日本側に委ねよ」と主張しても、駐留米軍はガンとして 聞き入れず、ジラードは米軍機で密かに帰国、日本側はウヤムヤの 内に押しきられてしまったのでした。 米軍基地と日本の主権との関係が、ここに大きく問題化したのでした。 当時中学生だった、我々や少し上の世代には、いまだにこの事件は、 心の底に熾りとなって残っており、いわば草の根の反米感情を 消し去ることが出来ないでいるのです。
2007.01.30
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クロニクル 南極に昭和基地建設 1957(昭和32)年1月29日 この日、第1次南極観測隊は、南極大陸の リュツォホルム湾に上陸、その地を昭和基地と 名付けました。 昭和基地は2月6日に完成。西堀栄三郎越冬隊長 以下、16名が越冬のため、カラフト犬らと共に 昭和基地に残りました。 本日は、昭和基地上陸から丁度50年目の記念日に あたります。この翌年の第2次観測隊は吹雪の ため、接岸出来ず、第1次越冬隊員を辛うじて ヘリで救出するのがやっとで、カラフト犬らは 置き去りにせざるを得なかったことは、14日の 記事に記しました。 昨今の基地は建物も多くなり、床暖房に専任の コック氏も常駐する比較的快適な住まいとなって いる様子。燃料節約のため、夜はストーブを切って 寝袋に包まって寝ていたという当時とは雲泥の差が あるようですね。しかし、50年前の建物が、南極の ブリザードに耐え、今日も立派に現存しているというの ですから、立派です。 因みに50年前の春の甲子園の優勝校はノーワインドアップ 投法の2年生エース王貞治投手兼強打者を要する 早稲田実業高校でした。 この早実に決勝戦で敗れたのが、私の疎開先だった桐生の 桐生高校でした。
2007.01.29
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クロニクル 春闘の始まり 1955(昭和30)年1月28日 52年前のこの日炭労、私鉄総連、電産など民間の 6単産が、春季賃上げ共闘会議総決起大会 を開催しました。民間の有力労組が共同で 賃上げを要求する、このスタイルを経団連・日経連らの 経営側も是認し、日本独特の労使の賃金交渉 スタイル、「春闘」はこうして定着したのでした。 諸外国と違って、日本の学制は4月入学、3月卒業と なっています。ですから毎年4月は学卒の新入社員の 入社月なのです。高度経済成長へ向けての助走期にあって 企業は競って新卒社員を大量採用していた時代で、しかも 物価の上昇率も高い時代でしたから、新卒社員の初任給は 右肩上がりの時代でした。それゆえ、毎年ベースアップを 行って、先輩社員の給与も一緒に改定しませんと、仕事の 出来ない見習の新入社員の給与が、先輩社員の給与を上回って しまう逆転現象が起きてしまいます。 いくらなんでも それではまずい。経営側も当然そう考えます。ならば、 その時期に合わせて、労組の賃上げ要求をぶつければ、それも 各労組がバラバラにではなく、互いにスクラムを組んで、 連絡を密にし、共同歩調をとってゆけば、大きな成果を 期待できる。こう労組側が考えての事だったのです。 以後、1980年代前半まで、春闘方式は一定の成果をあげて きたのでした。しかし、高度成長が終り、世界的に資本移動が 自由化されるようになると、労働市場も自由化が進み、 就職難の時代を迎えます。そこでは、新卒初任給も下降傾向 を辿ることになります。かくして春闘による賃上げの時代は 過ぎていったのでした。 新卒の買い手市場状態は、景気の回復傾向にも関わらず、 多少緩んできているに過ぎず、初任給が大幅にアップする 環境にないため、かつてのような活きの良い春闘が復活する 可能性は低そうです。
2007.01.28
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クロニクル ヴェトナム和平パリ協定調印 1973(昭和48)年1月27日 この日、南北ヴェトナム政府・南ヴェトナム臨時革命政府の 3外相とアメリカ国務長官の4者によって、ヴェトナム戦争の 終結と、平和の回復に関する和平協定が正式に結ばれました。 この協定の最大のポイントは、「調印から60日以内に米軍がヴェトナム から撤退する」と定めた一項にありました。 ヴェトナム戦争は、仏領インドシナ(ヴェトナム・ラオス・カンボジャ) の独立を目指す民族解放戦争に際し、植民地の維持を狙った宗主国 スランスが、ホー・チ・ミンを指導者とするヴェトミン軍との戦い に敗れ、三国の独立を認めて撤退した後に、ヴェトミン軍と仏軍の 引き離しのために、2年間の暫定的な軍事境界線と定められた 17度線の南側(ここが南ヴェトナムと称されたのです。北側が 北ヴェトナムとされました)に、フランスに替わってアメリカが 進出、アメリカの傀儡政府を作って、南部ヴェトナムの引渡しを 拒否したことが遠因となって始まった戦争です。 56年の引渡し拒否から3年、59年から組織化が始まった南ヴェトナム 解放民族戦線の活動は、年を追って活発となり、62年に入ると、もう 米軍の支援なしには、南の傀儡政府は生き延びることが不可能な状態 になりました。米国は軍事顧問団という名目で米軍を投入、辛うじて 反共親米の南ヴェトナム政府を支えている状態に陥ったのです。 ここに米国は自ら作った不人気な傀儡政府に見切りをつけ、 次々にクーデタを実行させては、何度も政権の交代を図りました。しかし うまくゆかず、遂にはトンキン湾事件として知られる、北ヴェトナム 魚雷艇による米海軍艦船への魚雷攻撃という、偽の事件をでっち上げて (この事実は、数年後アメリカのマスコミの手で、米軍による捏造、 自作自演であったことが明かにされました)議会の賛成を取りつけ、 北ヴェトンムへの北爆と、南ヴェトナムへの海兵隊の投入という、 本格的な軍事介入に踏み切ったのでした。 こうしてヴェトナム戦争は、アメリカの戦争に変質を遂げました。 宣戦布告なき本格戦争が始まったのです。しかし、ジャングルに潜った 解放戦線とのゲリラ戦は、文明化された生活に慣れた米軍兵士には 無理でした。ジャングルで電気をつけ、大きな音で音楽を流していては、 ゲリラの恰好な餌食になってしまいます。しかし、死の恐怖と戦いながら 夜の闇にじっと潜んでいることは、文明生活に慣れた米兵には耐え難い ことでした。兵士はマリファナに活路を見出すしかありません。 いつしか慢性化したマリファナ吸引は、運良く米国へ帰還した兵たちに よって、米国内にガン細胞よろしく、広まってしまいます。 その間、米軍の大量投入にも関わらず、軍事情勢は悪化の一途を辿ります。 こうして万策尽きた米国は、和平協定という形を整えて、自ら介入した戦争に、 自ら幕を引くしかなくなってしまったのです。 かくしてパリ和平協定は、事実上米国の敗北宣言だったのです。
2007.01.27
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1月13日のブログに共通一次試験の導入の記事を載せました。その記事に関連して、本日めーさんからコメントを戴きました。私自身は、ブログ管理のページで戴いたコメントは拝見できますが、私のブログを見てくださっている皆さんは、お気づきにならないだろうと思います。見てくださっている方の中には、ただ今子育て真っ最中の方もいらっしゃるので、ここに戴いたコメントの一部を抜粋し、併せて私の考えていることの一部を記させていただきます。以下がめーさんのコメントの後半部分です。「……まあこれは枝部分の話で,もっと根本的なところから改善していかないとだめでしょうね.学校教育制度だけの問題ではないと思います.子育ての基本は家庭です.考えるきっかけは日常生活にごろごろ落ちています.それに気付かせてあげるのが親の役目の1つではないでしょうか.とはいえ,高度成長期あたりから核家族化が進み,子供たちと一緒に過ごす時間がとれない家庭が多いですよね.昔は祖父母やご近所さんの影響も大きかったのでしょう.それが欠落してしまった現在,それに変わる家庭環境を構築していかないといけないのでしょうね.それがどういうものなのかはよくわかりません.ただ先に高度成長を終えた欧州の方(例えばフランスなど)に何らかのヒントがあるのではないかと思ったりもします.」子どもの成育環境で、最も変わったことは、地域社会というか隣近所の子ども同士が、ダンゴになって遊び回ることがなくなったことです。そこでは学年に関係なく上級生も下級生も一緒になって、遊んでいました。ガキ大将は、面倒見も良かったのです。子ども達は家庭の中よりも、この子ども社会で、そしてそれをそれとなく見ている近所の小父さん、小母さんに鍛えられて成長しました。そこで様々な創意工夫を身につけ、また小さい子は躾られ、大きい子は小さい子に与えて良い打撃はどのくらいまでかを学んだのです。 これ以上強く叩くと怪我をさせてしまうとか…従って、ちょっとやりすぎて「殺すつもりなんてなかったのに…」なんてことは、起こりようがなかったのです。今はこの環境がありません。実は、私は週刊誌はほとんど見ないので、電車内のつり革広告で、週刊誌的話題をチェックするのですが、もう10数年前でしょうか、大きなショックを受けた女性誌の特集記事があります。かなり話題を呼んだのでご存知だと思いますが、それが「公園デビュー」に関する特集です。子ども連れて公園に行くのに緊張する。なかなか仲間に入れない親子がかなりいるといった内容の特集です。母親族は新しくやってきた親子を観察し、仲間に入れるかはじくかを相談する。そうした視線に耐えられない親も多いといった内容が、類推できるつり革広告でした。正直ギョッとしました。これは親族のイジメです。母親のこういう姿を見ながら育つ子は、どんな子に育つかという点に、まず慄然としました。ちょうど学校でのイジメが話題になり始めつつあった頃でもあります。これは今後が大変だぞと思ったものでした。もう一つは、公園で他の親子と親しくなれず、ポツンと孤独に親子だけで遊んでいる子どものこともまた気になりました。仲間づくりの苦手な、他者との意志疎通に苦労する子になりはしないかと気になったからです。今、共働きが増えていますが、1980年代以降の日本は、それ以前に比べて格段に豊かになっています。生きることに忙しくて,親が子どものことなど構っていられなかった時代ではなくなっています。ですから、一部の例外的な親を除いた大多数の親御さんは、子どもの教育に異常なほど熱心です。お受験の問題です。親たちは「子の将来を考えて…」と異口同音に語るのですが…私はシニカルに、子どもの学校まで自分のブランドにしていると冷ややかに見ているのですが、これも流行現象ですね。家庭教育も何のその、勉強さえしてくれれば良いと、自立心のカケラもない子を大量に再生産してしまうのですね。ここで起こるのが、いわゆる教え込みです。子は親の顔色を伺いますから、親の喜ぶことをやろうと必死に頑張るのです。その結果、ひたすら教えられたことを覚えることに熱中し、これは何故なの?と考える習慣を身につける時間が持てないのです。そうして育つとどうなるか。無事に育つとマニュアルがないと何も出来ないデクの棒が出来あがります。途中で良い子を演ずるのに疲れ過ぎるとどうなるか。心中のストレスを貯め過ぎて、どこかで挫折します。切れる子になるか、フラスト解消に誰かをイジメることに、快感を感じる子になるか、不登校に陥って膝を抱えて引き篭るか。いずれもこのケースの延長上にある事柄です。もうひとつ、気をつけるべきことは、子どもを親にとって都合のよい、良い子に育てるなということです。良い子は我慢をしています。これは子どもにとって自然なことではありません。人の顔色を見ながら合わせようとします。家では親に、学校では先生に。そういう子は親を見て育った結果、イジメを楽しいと感じている子とその仲間の子たちの餌食になり易いでしょうね。しかし、親には良い子でいたいから、訴えることは出来ない。子にとって不自然な良い子になることを、子に押しつけて平気だった親は、或いはそれが異常な事だと気付かなかった感度の鈍い親は、子の変化に気付かないのです。普通の親なら気付くことにです。 イジメ自殺の多くはこんなところかなというのが、私の感想です。学校の対応ばかりが問題になりますが、見落とされているもう一つのポイントだと,私は感じています。学校の対応にも確かに問題が多いのですが……daigakuさんが、しばらく前に書かれていたことへの、私なりの回答の一部でもあります。他の点は、後日改めて…
2007.01.26
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クロニクル 帝銀事件 1948(昭和23)年1月26日 この日、銀行が既にシャッターを下ろした午後3時半頃、 帝国銀行(帝銀)椎名町支店(東京都豊島区)に、東京都 防疫課員を名乗る男が現れ、行員と住込み行員の家族等 合わせて16人に、赤痢予防の薬だと称して毒物を飲ませて、 12人を毒殺、現金16万円余と額面1万7千円の小切手を奪って 逃走するという事件が起きました。世にいう帝銀事件です。 犯人は毒物について、相当専門的な知識を持つと推定できましたし、 犯行に使われたピペットは、旧陸軍の物であることも分かりました。 そこから、犯人は満州で生物化学兵器の開発と人体実験を行っていた 731部隊の関係者であろうとする見方が有力になりました。 ところが、この方面の捜査には、何故かGHQの横槍が入り、 捜査は難航します。 8月21日、捜査当局は、画家の平沢貞通容疑者(当時53歳)を逮捕。 彼の単独犯と発表しました。平沢容疑者は取調べで自供し、物的証拠は ないまま、自白を唯一の根拠として起訴されます。 しかし、裁判では一転して犯行を否認、自白は拷問によって強制された と主張したのですが、認められず、そのまま死刑が確定します。 当時の取り調べでは、なお多くの拷問の事実が出ているのですから、 自白が唯一の証拠という場合、有罪判決には無理があるのですが、 その後何度も出された再審請求は認められず、かといって再審を 支持する世論の声も無視できず、死刑の執行は出来ないまま、 平沢氏は刑務所に収監され続け、1987(昭和62)年5月,獄中で 病死したのでした。 私個人は、平沢氏は誤認逮捕、真犯人は別人だと推測しています。
2007.01.26
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クロニクル 陸軍大将宇垣一成に組閣の大命、しかし…… 1937(昭和12)年1月25日 前年の2.26事件後、軍部の政治介入は強まり、とりわけ 前年5月18日に公布された、陸・海相の現役武官制(陸軍 大臣と海軍大臣は、現役の大将・中将から出すとの決まり) の復活により、軍部は意に染まない内閣には、大臣を送る ことを拒否することで、その存在を否定することが出来る 強大な権限を手に入れたのでした。いよいよ軍部独裁の環境が 整ってきたと言えましょう。 実際、2.26事件後に組閣した広田内閣は、実質的に陸軍の 意向を最大限に尊重することで、辛うじて命脈を保っていたのです。 そこへこの日の4日前に、衆議院における政友会議員による 痛烈な軍部批判と、それに対する寺内陸相の反駁とで議場が 大混乱に陥る事件が起きたのです。衆議院の即時解散を主張して 辞任をちらつかせる寺内を説得できなかった広田内閣は、 23日に総辞職するに至りました。 そして、この日陸軍大将の宇垣一成に組閣の大命が下ったのですが、 宇垣が陸軍内反主流派であったことから、軍部は組閣に反対し、 後任陸相を出すことを拒否したのです。そのため、後任の 陸相候補は次々に入閣を拒否、万策尽きた宇垣は、遂に29日、 組閣を断念するに至るのです。軍部の横暴が、遂に首相人事にまで 及んできたことを示す、一幕でした。 日中・日米戦争の敗北に至るストーリーは、この辺りから、 いや、もう少し前から始まっていたように、私には思えてなりません。
2007.01.25
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クロニクル 元日本兵横井庄一さん発見 1972(昭和47)年1月24日 この日グァム島のジャングルで、元日本軍軍曹 横井庄一さんが保護されました。横井さんは,この日 川エビを獲っているところを現地の人に見つかり、保護 されました。1945年8月15日のポツダム宣言受諾による、 敗戦受け入れ(なぜマスコミは、この降伏による敗戦を 終戦と言い替えていしまうのでしょうか?)を知らず、 1人ジャングルで27年余も生き延びてきた横井さんは、 この時56歳でした。グァム島のジャングルで、果実やイモ類 、魚や川エビ等を食べ、マンゴーの葉から衣服を作るなどして 自給自足生活を送っていたそうです。 健康チェック後、2月2日に帰国。帰国時の第一声「恥ずかしながら、 横井庄一,ただ今帰って参りました」の「恥ずかしながら……」は この年の流行語となり、以後、郷里の名古屋に落ちつき、サバイバル 体験を生かした講演活動は、各地で人気を集めました。
2007.01.24
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クロニクル 雪印食品の牛肉偽装事件発覚 2002(平成14)年1月23日 この日、雪印食品の牛肉偽装事件が発覚しました。 前年9月に国内初のBSE感染牛が千葉県で見つかり、 感染を怪しまれる牛の食肉は、政府が買い上げ処分する 措置が取られました。 雪印食品は、この制度を悪用、単価の安い売れ残りの輸入牛を 国産と偽り、国に買い取って貰っていたことが発覚したのでした。 この事実を知った国民の反発は強く、雪印食品は、翌2月22日には 会社解散に追いこまれたのでした。
2007.01.23
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クロニクル 血の日曜日事件起きる 1905(明治38)年1月22日 この日、当時のロシア帝国の首都ペテルブルグ (現在のサンクトペテルスブルグ)の冬宮前広場は、 ツァーリ(皇帝)への請願のためにやってきた人々に 対する警備の軍隊の発砲によって、一面の銀世界を 血の修羅場に変えたのでした。 当時は日露戦争の最中にあり、ロシアもまた資金難に 苦しめられており、社会の底辺で暮らす貧困所帯の生活は 食糧価格の高騰により、困窮の度を深めておりました。 この時にあたり、警察の認可と協力を得ながら貧困な 労働者を教化する組織作りを進めていた ロシア正教会の牧師ガポーンは、ツァーリへの請願行進を 計画、この日1月22日(西暦から13日を引くとロシア暦に なります。ロシア暦ではこの日は1月9日の日曜日です)、 に実行するに至ったのです。勿論ガポーンは,この計画を警察に 連絡し、その許可を取りつけたと考えておりました。 行進は、ガポーンの指導の下、当時ストライキ中のロシア屈指 の大企業、プチロフ工場の労働者とその家族を先頭に、 ペテルブルグと近在の貧困層のほとんどが参加する大規模な ものとなりました。行進参加者達は、生活の窮状を訴えた思い思いの 請願書を手に、冬宮に向かったのですが、冬宮前で待ち構えていた 軍隊は、問答無用の一斉射撃で答えたのでした。 雪の冬宮前広場は.労働者や家族達の血で染まり、一瞬にして阿鼻叫喚 の世界に変じたのでした。死傷者数2000を超えたと言われています。 この事件は「血の日曜日事件」として、後世に知られるのですが、 「ツァーリ」を味方と信じ、辛い暮らしもいつかツァーリがこの苦しさ から救い出してくれると信じてきたロシアの民衆にとって、ツァーリは 味方ではなくなった、ツァーリが自分たちを裏切ったと感じさせるに 十分な出来事でした。なにしろ数万を超える民衆が目撃した一瞬の 信じ難い光景だったのですから… この事件がきっかけとなって、1905年の第1次ロシア革命が始まったのです。 革命の火は、以後10月に向けて、高まり続けて行くのですが、 やがてその火は、軍隊にも飛び火し、戦艦ポチョムキン号の叛乱事件などに 繋がってゆきます。 この結果、ロシアのツァーリ政府は、日露戦争を継続しながら革命勢力を 鎮圧することの不可能を悟り、形成不利なままでの、不本意な講和を 日本との間で結ばざるをえない状況に追い込まれていくのです。 歴史に「たら…、れば…」は禁物なのですが、あえてその問いを発すると すれば、もし血の日曜日の事件がなかったとしたら、日露戦争のその後の展開と 結末は違ったものになっていたかもしれませんね。
2007.01.22
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クロニクル 薩長同盟の密約成る 1866(慶應2)年1月21日 この日、京都の薩摩藩邸で薩摩藩と長州藩の同盟、 薩長同盟の密約が交わされ、幕末の歴史を大きく 倒幕の方向へ傾けたのでした。 薩長両藩は、1863年8月の政変以来(このことに ついては、今年8月18日の日記に記します)、犬猿の 仲になっており、特に長州藩は薩摩藩を仇敵視していたの ですが、幕府の第2次征長が近づくに連れ、孤立を避けたいと 考えており、薩摩藩もまた、征長方針を巡って幕府との対立が 深刻化していたため、長州との接近を考慮するようになって おりました。このことを察知した土佐藩の坂本竜馬の仲介に よって、両藩の話し合いは急速に進み、この日坂本竜馬の 立合いの下、薩摩藩の小松帯脇・大久保利通・西郷隆盛と 長州藩の全権代表木戸孝允(桂小五郎改め)との間で、薩長同盟の 秘密文書が締結されたのでした。 この密約は6ヶ条からなり、幕府と長州とが開戦した場合の 両藩の対応を定めたものでした。具体的には、西欧の最新兵器を 長州藩が英国から購入できるように、薩摩藩が仲介の労をとる事を 筆頭に、両藩の軍事的協力を取り決めたものとなっていました。 しかし、この同盟は薩長両藩の一般藩士にも固く秘せられていたため、 幕府も全く気づく事が出来ず、幕末の歴史を大きく転回させる原動力と なったのでした。141年前の今日の出来事でした。
2007.01.21
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クロニクル 地下鉄丸の内線池袋~御茶ノ水間開業 1954(昭和29)年1月20日 この日、東京の営団地下鉄(現東京メトロ)丸の内線で、 池袋~御茶ノ水間が開業しました。 東京の地下鉄としては、同じく営団銀座線、浅草~渋谷間に 続く、2番目の路線です。池袋から御茶ノ水,東京、銀座、 霞ヶ関を経て四谷で中央線に接続、新宿に至るルートを とって、さらに方南町方面と荻窪に至るのですが、 先ずは池袋~御茶ノ水間が先行開業したのでした。 その後、首都圏の地下鉄は、地価の高騰と騒音問題の高まりの 中で、あちこちで建設され,今ではネットで調べないと、何線が どこを通っているのか、どれが都営で、どれが旧営団の東京メトロか も分からない程になっているのですが、 この当時はピカピカの1年生並みの丸の内線と、何か旧式で古めかしい 銀座線が好対照をなしたのでした。 私事になりますが、私がはじめて丸の内線に乗ったのは、この年5月、 小学校の6年生の時でした。ソロバン塾の先生の引率で、仲間5人と 全珠連の3級の検定試験を受けに明治大学まで行った帰り道でした。 京浜東北線の王子駅と当時は赤羽線といった現在は埼京線の板橋駅の ほぼ中間点にソロバン塾があったのですが、「帰りは新しい地下鉄に 乗せてやる」という先生の飴玉作戦に乗せられて、悪ガキ5人が地下鉄 乗りたさで特訓に耐え、揃って見事に3級に合格したのでした。 池袋までの10分少々の時間でしたが、先頭車両で暗闇の線路を見ながら、 車輛のきれいさと、地下の神秘を堪能して興奮して戻ったことをうっすら と覚えています。 今になって、このソロバン塾特訓のあり難い事は、三桁くらいの計算は 頭にソロバンの珠を置くことで、計算機を使うまでもなく、暗算でまずまず 正確に処理できることでしょうか。あの時の地下鉄の誘惑、熱心だった 先生に今ごろになって感謝している次第です。
2007.01.20
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クロニクル 空母エンタープライズ佐世保に入稿 1968(昭和43)年1月19日 この日、米国の原子力空母エンタープライズを 中核とする、原子力艦隊が佐世保に入港しました。 折りからのヴェトナム戦争では、米国と南ヴェトナム政府の 連合軍の劣勢が明かになりつつあった当時で、日本の世論は 圧倒的に「小よく大に挑んでいた」南ヴェトナム解放民族戦線 の心情的な応援団を形成しておりました。この月末には、有名な 「テト攻勢」も行われるのですが、このエンタープライズ艦隊は 佐世保で艦船の修理・食糧と燃料の補給・兵士の休養を行った後に、 北ヴェトナム空爆に出撃することが、マスコミの取材で明かに されていたため、ベ平連を中心とするヴェトナム反戦グループや 市民運動の激しい寄港反対運動が行われました。 また左翼も独自に、原子力艦隊の寄港は、日本の核武装化に繋がると して、学生や労働組合を巻き込んでの激しい反対運動を展開しました。 この結果、この日の入港から、23日の出港までの5日間で、 学生124人、警察官102人、さらに巻き添えの報道関係者と市民18人が 重軽傷を負う激しい衝突が起きたのです。 湾内では、反対派の漁民等による海上デモも行われました。 市民達は、「この町が戦争に巻き込まれるのはゴメンだ。けれど 暴力もゴメンだ」と困惑の声を上げていたと、当時のマスコミは 報じました。
2007.01.19
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クロニクル 東大安田講堂の封鎖解除に機動隊が出動1969(昭和44)年1月18日若い方には信じられないことでしょうが、1950年頃から1972,3年頃までは、学生による異議申立てが非常に盛んで、学生運動が活発に展開されておりました。その第1のピークが1960年の安保改訂反対運動でした。その後、安保闘争の敗北を受け、学生運動もしばらく停滞期をすごすのですが、64~65年の早稲田大学の授業料値上げ反対運動と、ヴェトナム反戦運動の盛り上がりを受けて、再び活況期を迎えます。全共闘運動と呼ばれた盛り上がりがそれです。68年5月、革命の国フランスで、パリ(ソルボンヌ)大学の学生のストライキから、学生と労働者の連帯したゼネストが広まり、それは1週間もしないうちに、全国に拡大して、遂にドゴール大統領の辞任を勝ち取り、五月革命と呼ばれたのでした。日本の学生たちも、このフランスの学生運動の盛り上がりに大いに刺激され、4月に20億円もの使途不明金が見つかった日大と、1月以来、教授陣と学生との対立が続いた東大医学部とが、2つの核となって、アカデミズムの牙城であり、日本の大学の頂点に立つと当時一般に受けとめられていた東大と、マンモス大学の雄で、これまた日本のいびつな大学組織の象徴的存在であった日大という、対照的な2つの大学で全学共闘会議(全共闘)が組織され、一般学生の支持を集めて、大規模な運動が展開されたのでした。日大のある水道橋に近い、明治、中央(多摩校舎への移転はまだなされていません)の学生も日大全共闘運動を支持してデモや封鎖に参加、本郷の東大もまた御茶ノ水に近く、駿河台下から神保町へ、そして水道橋に到る一帯は、誰が名付けたのか、日本のカルチエ・ラタンと呼ばれたのでした。東大全共闘の学生は、東大の象徴として安田講堂を占拠、医学部、工学部、法学部の一部建物も占拠して、無期限ストを続行して大学側との交渉を要求、交渉を続けたのですが、日本共産党系の民青系学生が党本部の指導もあって、全共闘系グループと異なる立場をとり、交渉は難航を続けたのでした。こうするうちに、69年度の入学試験の時期も近づき、文部省等からの圧力も受けた大学側は、自力解決を断念、大学の自治の名において、警察権力の学内導入に強いアレルギー反応を示していた従来の対応を転換、機動隊の導入による占拠学生の強制排除を決断して、警視庁に機動隊の出動を要請したのでした。こうして、69年1月のこの日午前8時、8500人の機動隊員が東大構内に入り、バリケードの撤去を開始したのでした。安田講堂以外の建物の封鎖は、この日昼頃までに完了したのですが、要塞と化した安田講堂の封鎖解除は難航し、4機のヘリコプターから催涙弾まで投下しながら、放水等を続け、学生もまた手製の火炎ビンと投石で対抗、封鎖の解除は、翌日19日の午後5時45分にようやく完了したのでした。逮捕者は631人を数えました。この模様は2日間にわたってテレビで実況中継され、私も固唾を飲んで見つめ続けたことを覚えています。神田駿河台の通称カルチエ・ラタンでは、日・明・中等の学生たちが、東大全共闘支援と称して、周辺道路をバリケード封鎖、路上の解放区を実現したとしながら、2日間にわたって機動隊との衝突を繰り返したのでした。さて、こうして封鎖は解除されたのですが、学生たちのエネルギーはなお旺盛で、東大当局は文部省とも相談、入試を安全に行いうる環境はなお整っていないと判断、翌日1月20日に、69年度の入学試験を全面的に実施しないことを発表したのです。こうして、昭和44年度の東大入学者はゼロとなったのでした。東大と日大の運動は、全国の学生に強い影響を与え、69年度には、全国の大学に全共闘運動が広がり、70年には、裾野は各地の高校にまで広がり、学生たちの異議申立ては、72年頃まで、活発に続けられたのでした。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, January 18, 2007 9:32 AMSubject: 18日の日記
2007.01.18
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クロニクル 湾岸戦争の開始 1991(平成3)年1月17日 17日は、ここで記事にすべき出来事の多い日です。 ニュースで盛んに取り上げられてる1995年の阪神大震災 もその一つです。79年のこの日は第2次石油ショックの 開幕を告げています。そして遠く明治7(1874)年には、 板垣退助らによって「民撰議員設立建白書」が提出されて います。その中から、今年はパパブッシュによるイラク 攻撃、湾岸戦争の開始を取り上げることにしました。 前年8月2日、フセインのイラクは突然隣国クウェートに 侵入、同国をイラクの1州として併合すると発表しました。 国境地帯に位置する油田の採掘を巡る争いが直接の引きがね だったようですが、このフセイン流のやり方は、あまりに 無茶でした。そこで、国連はただちに、イラクに対する経済 制裁を発動、イラク軍をクウェートから撤退させない限り、 多国籍軍による軍事制裁を行うことも決定したのでした。 当時の海部首相は、憲法上疑義のある自衛隊の海外派兵には 踏み込まず、当初10億ドル、総額で90億ドル以上の資金拠出と 戦後におけるペルシャ湾の機雷除去に掃海艇を派遣したのでした。 フセインのイラクは、国連の仲裁を結局拒否し、この日、遂に 米国を中心とした多国籍軍のイラク攻撃が開始されたのでした。 ヴェトナムのジャングルを攻めきれず、民族解放戦線+北ヴェトナム との戦いに敗れた米国でしたが、見晴らしの良い砂漠と平地の戦い では、空軍の威力が何の妨げもなく発揮されます。従ってこの戦いは、 長期の占領と駐留の継続を意図しない限り、最初から勝利が確実視される 戦いだったのです。「砂漠の嵐」作戦と銘打たれた緒戦は、ペルシャ湾 に展開した原子力空母中心の艦隊から、航空機1000機、巡航ミサイル 100発を用いた波状攻撃が、クウェート領内のイラク軍戦略拠点や イラクの首都バクダッドで行われたのでした。 それにしても米国も英・仏・独も、1980~88年まで9年間続いた イラン:イラク戦争では、イラクを強く支持して、大量の新兵器を イラクに供給し続け、ホメイニのイランを封じ込める正義の防波堤として の役割を高く評価、イラクの軍事大国化を支援していたのですから、 皮肉ですね。
2007.01.17
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クロニクル 国民政府を相手とせず… 1938(昭和13)年1月16日 前日に中国との和平交渉を打ち切った近衛内閣は、 この日「大日本帝国政府は、爾後国民政府を相手と せず…」とした第1次近衛を発表しました。 この声明の発表で、近衛内閣は、 中国の国民政府(国民党の蒋介石総統を首班とする 中華民国政府)に決定的な打撃を与えるまで、戦争を 継続する姿勢を内外に示したのでした。 前年末から、ドイツ公使を仲介役にして進められてきた 和平交渉は、打ち切られた上、日本が「爾後、国民政府を 相手とせず…」と声明したことは、和平交渉の相手を自ら 切り捨てたことを意味しました。そのため、対中和平への 道は閉ざされ、日中戦争は泥沼の長期戦となって行き、 戦争を遂行するための資源を確保するために、さらに戦線を 拡大し、日米開戦にまで突き進むことになるのです。 小異を捨てて、江戸無血開城に道を開いた西郷隆盛と勝海舟、 身体を張って征韓論を止めた岩倉具視、そして日露開戦に 慎重で、開戦後は和平の時期とチャンスを,常に慎重かつ果断に 追い求めていた伊藤博文など、明治期の政治リーダーの気概と スケールは、かけらも持ち合わせなかった昭和期の政治リーダー 無為・無策ぶりは、何とも腹立たしいですね。
2007.01.16
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クロニクル スロベニアとクロアチアの独立 1992(平成4)年1月15日 この日、欧州共同体(EC)は、前年6月に ユーゴスラヴィアからの独立を宣言していた スロベニアとクロアチアの独立を承認しました。 第1次世界大戦後に南スラヴ系諸民族の 連邦国家として成立したユーゴスラヴィアは、 民族のルツボと呼ばれたほど、諸民族が混住する モザイク国家だったのですが、第2次世界大戦後は ドイツとイタリアのファシズムと共に戦ったパルチザン 体験と、そのパルチザン闘争の中で登場したチトーと いうカリスマの存在によって、連邦への求心力が保たれて いたのでした。 しかし、スロベニア人が91%強を占めるスロベニアを除けば、 クロアチアでのクロアチア人の比率は75%に留まり、 モンテネグロは69%、マケドニアは67%、セルビアは66%と 中心民族の構成比率は下がり、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに 到っては、ムスリム人(イスラム教徒は、ここでは独自の民族 として認知され、ムスリム人と称されていました。西欧世界で はユダヤ教徒をユダヤ人と称して、差別しましたが、ここでは 西欧流とは異なり、民族としての対等の権利を付与するための 措置でした)41%、セルビア人32%、クロアチア人17%となって いました。スロベニアを除けば、民族の混住はこのように著しかった のです。そのため連邦を構成する各共和国は、義務教育段階から、 統一言語による国語教育を実施せず、諸民族言語による教育を 是認していたほどだったのです。それは連邦の維持を目的とした ものでもありました。 しかし、80年にはチトー大統領というカリスマが死去、パルチザンの 記憶も戦後35年という歳月の流れの中で風化してしまいます。 折りから第2次石油ショックによる深刻な経済危機からの脱却も 適わず、ここに、西欧に近く連邦内経済先進地域であったスロベニアと クロアチアは、貧困地域への税による富の再配分を嫌い、連邦からの 独立を希求するようになっていきました。独立宣言はその結果でした。 民族混住が問題化しないスロベニアは問題がないのですが、クロアチア には、セルビア系住民が人口の12%(約60万人呼ばれました)を占めていたため、 クロアチア民族主義者による圧力を受けた弱い立場の人達が、セルビアに 保護を頼み、クロアチア内戦(クライナ問題)となったのです。 内戦は国連の仲介により、クライナ地方に国連保護軍を展開することで 小休止となり、この日、ECはドイツの強い主張を受け入れる形で、 スロベニアとクロアチアのユーゴスラヴィアからの独立承認を決定したのでした。 クロアチア内戦の過程と、このECによる独立承認の結果、緩やかな連邦でった ユーゴスラヴィア内各共和国の独立志向は強まり、やがて全ての共和国が独立を 宣言するに到るのです。こうして、旧ユーゴスラヴィア諸地域における内戦は 93年から激化する、あの凄惨なボスニア内戦に移ってゆきまあす。 旧ユーゴスラヴィア地域における情勢の推移を十分把握せずに、独立承認を 急いだECの責任、特にECの議論をリードしたドイツの責任が極めて 大きいことを指摘しておきます。
2007.01.15
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クロニクル 生きていたタローとジロー 1959(昭和34)年1月14日 この日、第3次南極探検隊が昭和基地に到着、 前年置きざりにせざるをえなかった、15頭の カラフト犬のうち、タローとジローの2頭が 生き残っていたことを確認したのでした。 この嬉しいニュースはただちに日本に打電され、 大きな話題となりました。 日本の南極観測は、前々年1957年に昭和基地を 建設した事に始まり、この年第1次越冬隊11人が 15頭のカラフト犬と共に基地に残りました。 帰路、日本の南極観測船「宗谷」は厚い氷に 閉じ込められて航行不能に陥り、ソ連の砕氷船 「オビ号」に救出されて事無きを得る一齣も ありましたが、ともかく無事に帰着したのでした。 ところが、翌年の第2次越冬隊は,悪天候に遮られて 昭和基地に接岸出来ず、第2次越冬隊は越冬を 断念するのやむなきに到るのです。その際、 昭和基地に残る11人の越冬隊員は、「宗谷」搭載の ビーバー機で辛うじて基地を脱出、生還することが 出来たのですが、彼等と苦楽を共にした15頭の カラフト犬は,基地に置き去りにされたのでした。 残された食糧は、およそ1週間分だったそうです。 その情報をえた国内では、誰もが極寒の地に食糧も なく置き去りにされた犬たちの死を予感して、暗澹たる 気分になったものでした。 それから1年、僅か2頭だったとはいえ、自分たちの力で 極寒の地で生き抜いた犬たちがいたという事実に、 日本中が深い感動と大きな喜びを味わったのでした。 タローとジローを主役とした映画も作成され、ビクターの 三浦光一が歌った主題歌と共に、大ヒットするおまけもつい たのです。 その後、ジローは1年半後に南極で亡くなりますが、タローは 北海道に帰り、約10年ほど生きたのでした。
2007.01.14
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クロニクル 共通一次試験始まる 1979(昭和54)年1月13日 この日と翌14日の2日間に渡って、 第1回目の共通一次試験(現在のセンター入試の前身) が全国で実施されました。 出願者341,874人、実際の受験者327,163人にのぼる マンモス受験でした。受験生は各試験場で一斉に HBの鉛筆を持ち、マークシート方式の試験に 挑みました。 この共通一次試験は、過熱する一方の受験競争に 巻き込まれた高校教育の正常化をめざすとう意気込みで 鳴り物入りで準備されたのですが、 予備校や受験業者が、自己の存在の生き残りをかけて、 受験生の自己採点結果をコンピューターで集計、分析して 独自に合否を事前推定するなどして、2次試験の出願に 影響力を及ぼすことを防げなかったため、 高校や大学のランク付け、大学間、高校間の格差は かえって激しくなるという結果を生んだのでした。 その上、受験科目が増えたために、受験生の負担は 以前にも増して厳しくなり、偏差値重視の弊害もまた 改善されるどころか、以前に増して激しくなり、 過熱する一方の受験地獄の弊害は益々強まる結果と なったのでした。 その結果、考え、理解し、自分の脳の引出しにしっかり しまい込むために、考えるヒントとして脳に染み込ませる のではなく、とりあえず詰込んでおく式の、ハウツー的な 暗記教育全盛の時代が訪れます。袋に詰込み過ぎれば破裂 しますから、破裂を避けるには、先に詰込んだことを、袋の 反対側から逃していかなければなりません。一夜漬で詰込んだ ことは、試験が終ればほとんど忘れてしまっているのが良い例 です。覚えていたのでは、翌日の試験科目を覚える隙間がないの ですから…。こんな経験が皆さんにもあると思います。 ここに共通一次試験施行後の受験競争の過熱、詰込み教育の 全盛の中で、自ら学ぶ姿勢を身に付けるチャンスを失った 気の毒な若者達は、能動的な思考訓練の欠如から、常に受け身で 教えられることを待つだけの、受動的な姿勢ばかりが目立つように なったのでした。大学世界で「目の光る、活きの良い学生が少なく なった」「いなくなった」といったような嘆き節が聞かれるように なるのは、共通一次試験導入の4~5年後のことでした。 この考える力の喪失傾向に歯止めをかけないと、将来大変なことになる という思いもあって、導入されたのが、反詰め込み教育ともいうべき、 「ゆとりの教育」だったのですが、教育現場の消化不良もあって、十分な 実践期間もとらずに、再び1度破綻した詰込み教育に戻そうとする、 現在の政府及び教育再生会議の方向は、益々マイナスの方向に進んでいくように 思えてなりません。 考える力、そして感じとる力、論理的に思考し、豊かに想像をめぐらせる時、 何故と発問して、自ら考え解決する能力が獲得でき、かつ他者の傷みを わが事として甘受しうる想像力も身につきます。現在養うべきは詰込む 能力(袋が多少大きいかどうかが違っても、そうどうということもないのです) ではなく、この思考力と想像力であるはずですから……。 教育を巡る問題についても、今後折りに触れて取り上げていきたいと 考えています。皆さんのご意見もお聞かせください。
2007.01.13
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クロニクル 不良債権は76兆円 1998(平成10)年1月12日 この日、当時の大蔵省は、全国146行の銀行が 自己査定の結果報告してきた、97年9月末現在の 不良債権総額は76兆円、貸しだし総額の12.6%に 当たると発表しました。 この数字は、あくまでも銀行自身の自己査定に過ぎず、 実態を表すには不十分なもので、この年6月に大蔵省から 分離独立する金融庁が、その後に監査を実施して、 分類の変更を迫った債権が次々に明るみに出てくるのでした。 この自己査定は、前年の拓銀や山一証券の破綻を受けて、 実施されたものですが、この年秋には日本長期信用銀行が、 暮には日本債権信用銀行が、破綻認定を受けて一時国有化 されるのでした。 どこまで続くぬかるみぞ!といったところでしょうか。 先送りを重ねに重ねてきたのですが、遂に万策尽きて…… 厚化粧の裏の素顔が透けて見えた一瞬だったと言えましょう。
2007.01.12
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クロニクル 「期待される人間像」中間草案発表 1965(昭和40)年1月11日 文部大臣の諮問機関,中央教育審議会(会長森戸辰男)は この日、「期待される人間像」についての中間草案を発表しました。 1963(昭和38)年6月、荒木文相(当時)が、「戦後出来た無国籍の 教育基本法に筋金を通したい」と,大変物騒な動機を語って物議を かもした末に、諮問を受けた中央教育審議会(以下中教審)は、 古色蒼然たる委員構成の下で、それでも紆余曲折の議論を続けた末に、 この日中間草案を発表したのでした。 そこでは、わが国の次代を担う青年が今後どうあるべきかについて、 「たくましい日本人」「正しく日本を愛する人」であることを求め、 1、技術革新の時代に相応しい能力の開発 2、日本の使命を自覚した真の日本人 3、自我を自覚した健全な民主主義を などと提唱したのでした。 この日、西洋史に関する卒業論文を提出して、研究室でゼミ仲間と 談笑中にこのニュースに接し、「それでは平和憲法の精神を世界に 発信する平和の使徒を大いに増やす事にするのが一番だな。連中 さぞ困るだろうな」とシニカルに笑い合ったことを覚えています。 この草案及び12月の答申はともに、全体として抽象的なのですが、 極めて保守色が強く、その後も折りに触れて蒸し返されてきました。 その結果が昨年末の教育基本法の改悪に繋がってきます。 きれい事を並べるだけで具体的でない安倍首相の言行と、いかに良く 似ているかに注目していただくと、安倍氏の古さも良くわかるのでは ないでしょうか。如何ですか。 形容詞は内容を明確にするためには、不要なケースが多く、政治家が これを使う、場合内容の乏しさを誤魔化すために使われるケースが 多い事に留意する必要があります。 正しくとは何を指すのか、愛するとは何なのか、極めて主観的で受け手に よって解釈は多様に分かれてしまいます。 各方面から様々な批判が寄せられたのは当然でした。 一例として、1960年の安保条約の改定審議の際に、十分な質疑と誠実な 回答もせずに、反対する野党を国会に警察官を国会に導入して、力づくで 排除したうえで、単独で強行採決した政党の態度が 健全な民主主義なのか(当時「民主主義を守れ」のスローガンが、 どれだけ安保反対運動を強化したか、計り知れないほどでした)という 批判が朝日や毎日の投書欄に載せられたことを記しておきましょう。 12月の政府発表でも、答申への 賛成は30%弱に留まっていたのでした。
2007.01.11
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記事中、日本の国連加盟が1956年12月まで、 遅れた理由を、台湾政府(当時マスコミは大陸中国と 分けて、国民政府と呼んでいました。49年秋、共産党との 内戦に敗れた国民党は、台湾に亡命政府を樹立、米国の支持を得て 中国の正当政府を名乗っていました。こうして、国民党の 亡命政府が、国連の中国議席に座り続けていたのです)の 反対によると記しましたが、もう少し正確に記すと、 サンフランシスコ講和後の52年~54年までは、なお講和が成立 していないソ連(当時)の反対によるものでした。 55年は、鳩山内閣による日ソの国交回復に向けての努力が実り、 ソ連の反対はなかったのですが、台湾政府の拒否権発動と いう晴天の霹靂の出来事で、加盟を拒否されたのでした。
2007.01.10
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クロニクル 第1回国際連合総会ロンドンで開かる 1946(昭和21)年1月10日 この日英国の首都ロンドンで、第1回国連総会が 開かれました。第1次世界大戦後に創設された 国際連盟が、世界恐慌と列強の対立・抗争に 流され、第2次世界大戦の始まりによって、雲散霧消 した後を受けて、対独戦に勝利の展望が開けてきた 1943年秋頃から、米・英・ソ・中の連合国を中心に (当初は独軍占領下にある仏国は蚊帳の外でした) 新たな国際組織の創設の必要が考えられ、43年10月には 「国際平和と安全の維持のために、全ての平和愛好国の 主権平等の原則に基づく、世界的国際機構の設立が 必要である」という意向も表明されました。 こうして、1945年2月のヤルタ会談の席上、中国の 合意もとりつけて、後の国際連合憲章の原案が 出来あがったのでした。 この原案を土台に45年4月から全ての連合国が参加する 国際会議が開かれ、一部の手直しを経た上で、全加盟国が 署名する満場一致で、憲章が決められ、同年10月24日に 国際連合は正式に設立されました。本部はニューヨークに 置かれましたが、そして本部敷地はロックフェラー財閥が 3分の2を、残りをニューヨーク市が拠出した土地を無償で 入手しましたし、建物の建設費も米国が無利子で貸し付けて くれることになったのですが、建物はすぐには出来ません。 そこで、第1回の総会はロンドンで開かれることになったのです。 ところで、国際連合の設立について、指摘すべき事は、 1、国連の原加盟国が、中立国すら一切含まない、連合諸国のみで 構成されているという、戦勝国の機関として出発したこと。 2、憲章の53条と107条に見るような、旧敵国に対する特別措置を 認めている(敵国条項といい,現在もそのまま残されています) こと 3、主として日・独・伊と戦った米・ソ・中・英・仏という 5大国に優越的地位を認めていること→安全保障理事会の 常任理事国に賦与された拒否権 の3点です。 大国の優越的地位を保つために、新規加盟を認めるか否かは、 先ず、安保理に測られ、安保理から新規加盟議案が提案された 場合のみ、総会は加盟申請を審議する仕組みになっているのです。 従って、拒否権を持つ5大国の1国でも、加盟に反対すると 総会に議案もかからず、加盟は許可されないことになるのです。 実際に日本の場合、当時国連議席に座り続けていた 中国国民政府(台湾政府)の拒否権行使にあって、1952年の独立後も 1956年まで加盟を引き伸ばされたのでした。
2007.01.10
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クロニクル 米国原子力潜水艦の日本寄港を申し出 1963(昭和38)年1月9日 この日、ライシャワー駐日米国大使は、大平正芳外相に 対し、原子力潜水艦の日本寄港を承認することを求める 申し入れを行いました。 原子力潜水艦は、原子力を燃料とするため、長時間の潜水行動が 可能であり、核ミサイルを常時搭載した動く核兵器基地として 知られる存在でした。また、常に移動しているために、捕捉が 難しく、存在がわかっている地上、地中の核基地からの攻撃よりも 防御には著しい困難があるとされていました。そのため米ソは競って原子力 潜水艦の大量配備を進めていたのでした。1960年に成立した 日米新安保条約(1952年に日本の独立と共に発効した旧安保条約が 一方的に米国が日本の安全保障を請け負う片務条約であったのに 対し、新安保条約は極東における両国の相互安全保障を脅かす戦闘 行為に対し、協力して対処することを約した双務条約となっていました) に基づき、対日要求をエスカレートさせたい米国は、日本国内の反対運動の 大きさを考慮して、知日派のハーバード大学教授ライシャワー(ハル夫人は 日本人でした)氏を駐日大使に引き抜き、2年程の期間を日本人の 安保アレルギー解消の期間として、池田首相の低姿勢路線を是として きたのでした。しかし、米ソ冷戦下に核兵器開発競争が激化する中、原子力 潜水艦の日本近海への進出が重要となり、この日の日本寄港の申し入れと なったのでした。 しかし、寄港許可は実質的に核兵器の日本持ち込みを意味しますから、 原潜の寄港に対する国民の反発は強く、同月26日に,官房長官が「首相は 原則了承の考え…」とのコメントを発表したものの、国会審議でも次々と 問題点が指摘され、日本政府が米国政府に正式に受け入れを回答したのは、 翌64年の8月28日のことでした。この時も「政府は米国に対し、日本寄港の 際は、原潜が搭載する核ミサイルの弾頭部分は取り外して入港することを 申し入れ、米国政府はその申し出を受け入れた、よって核弾頭を搭載しない 形での入港である」という、苦しまぎれの言い訳をつけてのことだったのが、 この問題の根の深さを示しています。 原潜は核攻撃基地そのものなのですから、核弾頭を日本寄港の度に取り外し、 出港後に装着するような面倒なことを、するはずがないことくらい、想像力を 働かせるまでもなく、常識として理解出きることなのですから、 この政府答弁も、まさに世紀の茶番劇でした。
2007.01.09
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クロニクル 美浜原発2号炉で放射能漏れる 1975(昭和50)年1月8日 お正月のお屠蘇気分がなお残る,水曜日のこの日 福井県で関西電力所有の美浜原発2号炉が、放射能漏れ 事故を起こし、同炉は運転休止となりました。 新聞やテレビは、「あわや大惨事」と大々的に報じ、 お屠蘇気分は全国的に雲散霧消、原発の危険がクローズアップ されました。その後もこの年は各地の原発で同種の事故が多発、 通産省と科学技術庁の縄張り争いによる縦割り行政のマイナス面 から、行政の事故対応は遅れがちであるという、問題点も浮き彫り になりました。 その後、電力各社や原子力委員会によって、事故対応の詳細な マニュアルが作られ、現在はマニュアルに基づいた対応が義務化 され、現場職員に徹底されているので、大事故は起こらないという のが公式見解となっています。 しかしです。世界的に有名になった日本の詰込み教育で育った 受験エリートは、マニュアル通りの対応には無類の適性を発揮し、 過去の例に習う場合や過去に経験のあることについては、実に 見事な対応能力を示すのですが、ひとたびマニュアルが予想も しなかった想定外の事態に遭遇すると、たちまちにして思考停止 状態に陥り、立往生してしまうマイナス面も併せ持っています。 その最たる例が、バブル崩壊後の大蔵官僚や金融界、政治家の 対応でした。土地神話を信じつづけた彼等は、土地神話の崩壊という 現実の前に、ひたすら先送りという最悪の手段にしがみ付き、 日本の財政赤字を、大幅に膨らませる(私は詳細に調べていませんが、 おそらく1993年~2003年までの10年で、赤字幅は3倍増程度に なったものと推測しています)という大犯罪を犯したのです。 阪神大震災も想定外の事態でした。自然界の異変にしても、人間の 行動にしても、想定外の事態はかなりの頻度で発生します。そう 考えているが故に、私はマニュアルがどんなに良く出来ていても、 マニュアルに頼りきる、そしてマニュアルがあるから大丈夫という 発想には、大きな落とし穴にはまってしまう危険があるのでは ないかと、不信感を拭えずにいます。 今年の株式市場については、20%以上の上昇を見込む強気の見通しで 臨んでいますが、想定外の事態として、アメリカ又はイスラエルによる (後者の可能性がやや高いかも)イラン・シリア攻撃、鳥インフルエンザ の流行、原発事故の3点に注意を払っていく積りです。ま、いずれも 可能性はまだ小さいですが、一番確率が高いのは、2に上げた 鳥インフルエンザの流行でしょうか、
2007.01.08
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クロニクル 民放各社深夜放送を中止石油ショックの影響から、電力節減が強く要請され、ビルのネオンやライトアップの自粛に続いて、この日、民放TV各社が一斉に深夜放送の中止に踏みきったのでした。16日には、NHKも午後11時での放送中止に踏み切り、TV各局の足並みが揃ったのでした。許認可権を握る郵政省(当時)の要請によるものでした。この後も原油不足はなお解消せず、夏には、銀行・証券などの金融機関やデパート・スーパー・病院などの冷房の設定を28度とするなど、石油火力が中心だった電力消費の削減策が進められたのでした。経済団体の協力を得て、オフィスビルでも室温の28度設定は徹底されたのが、いかにも日本らしい風景でした。当時はなお、家庭のエアコンは普及にいたっておらず、そのため、28度の設定にも大きな不満は出なかったように記憶しています。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Sunday, January 07, 2007 9:33 AMSubject: 7日の日記
2007.01.07
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クロニクル 「日本を……反共の防波堤に」1948(昭和23)年1月6日この日、米国のロイヤル陸軍長官が「日本を極東における反共の防波堤にすべし」と演説、日本の再軍備を主張しました。8/15以後の日本占領軍は、連合国の共同占領の形を整えていましたが、GHQ(日本占領軍司令部)の主要幹部は米軍関係者で占められ、実質的には日本は米国の占領下にありました。その米国の対日基本方針は、「日本を再び軍事大国にはしない」ということに尽き、そのための仕掛けが民主化の徹底でした。財閥解体で経済界の民主化を行い、農地改革で農村の民主化を徹底、労働組合の結成と行動を自由化(労働規準法以下の労働三法がその保障)して経営をチェック、さらに戦犯を公職から追放することで、国内の抵抗勢力を封じ込め、教育の民主化によって若い世代に民主主義の精神とあり方を学んでもらうという徹底振りは今、振りかえってみても見事なものでした。そしてその集大成が、憲法前文と9条に凝縮した平和主義でした。日本国民は、あまりに急速な民主主義の進展に戸惑い、天皇の人間宣言に驚きと戸惑いを感じながらも、心の底でこうした変化を支持し、受け入れていたらしいことは、石坂洋次郎の新聞小説を映画化した『青い山脈』が大ヒットし、1949年の映画興行収入第2位を記録し、藤山一郎が歌った主題化が、現在もなお歌い継がれていることからも理解できます。 そうした日本国民が何よりも歓迎し、強く支持したのが、この平和主義であり、「陸海空軍その他の戦力は保持しない」とした戦力不保持の原則でした。憲法の施行から1年も経たないこの日、米国政府内から発せられた対日占領方針の変更に繋がるような発言に、日本国民の間では、一部に歓迎する向きがあったにせよ、驚きと戸惑い、そして強い反発が起こりました。この発言の背景には、当時の中国における情勢の大きな変化が隠されていたのですが、その点は改めて、別の日の項で記したいと思います。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Saturday, January 06, 2007 9:40 AMSubject: 6日の日記
2007.01.06
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クロニクル 水師営の会見(日露戦争から)1905(明治38)年1月5日この日、午前11時40分から、日本の第3軍(旅順攻略軍)司令官乃木希典とロシア軍司令官ステッセルの会見が、旅順港に近い水師営で行われました。前年2月に始まった日露戦争は、両軍共に予想を大幅に上回る多大な死傷者を出す激戦となるのですが、この旅順港を巡る攻防戦が最大の激戦となったのでした。乃木の第3軍による旅順綜攻撃は、8月19日にはじまりますが、攻囲されたロシア軍はコンクリートで固めた堡塁を築いて頑強に抵抗、この攻撃は1万6千人の死傷者を出す大失敗に終りました。10月末に行われた第2次総攻撃も、いたずらに突撃を繰り返す無策振りが仇となって、悲惨な失敗に終りました。ここに満州軍総司令官大山巌は、満州軍総参謀長児玉源太郎を第3軍に派遣します。現状を視察した児玉は、一時的に乃木に替わって攻撃を指揮することを決意、旅順を望む203高地に攻撃を集中、6万4千人の兵力を投入して、12月5日に占領に成功するのです。児玉はこの地に新兵器の28cm榴弾砲を運び上げて、旅順港を砲撃するという荒業を敢行、港に停泊するロシア第1艦隊を全滅に追い込んだのでした。こうして12月末までに、抵抗するロシア側の全堡塁を占領、1月1日ロシア軍は降伏を決意、旅順の要塞はようやく日本軍の手に落ちたのでした。3日には開城規約が結ばれ、この日5日の両将軍の会見となったのでした。攻防155日を要したこの戦いの死傷者は5万9千人を数え、この戦いのみで、日清戦争全期間の犠牲者を大幅に上回る犠牲者を出したのでした。しかし、大国ロシアと対等以上に戦う日本軍に、欧米への劣等感に悩んでいた日本国民は大いに勢いづき、戦死者、戦傷者家族の悲しみは、置き去りにされ、忘れられて行くのです。その後ろめたさを覆い隠す装置として機能したのが靖国神社だったのです。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Friday, January 05, 2007 9:35 AMSubject: 5日の日記
2007.01.05
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クロニクル 円新高値へ1978(昭和53)年1月4日新年最初の為替取引きが行われたこの日、海外市場での円高傾向を受けた東京市場で、円はいきなり1ドル=237円90銭の新高値をつけたのでした。1971年12月18日のスミソニアン合意で、円は1ドル=308円に切り上げられたのですが、この固定レートは1年しか持たず、73年2月14日から日本は固定相場制に別れを告げ、為替相場の変動幅制限を廃止する変動相場制に移行したのでした。ヨーロッパ諸国も3月には相次いで変動相場制に移行、ここに為替取引きは現在に続く変動相場制の時代に移ったのでした。初日の円レートは277円丁度のスタートでした。その後ジリ高が続きましたが、夏以降は1ドル=260円台の小動きが続き、政府・日銀の介入による円高阻止の動きがなかば公然と続けられたのです。73年10月、第1次石油ショックが勃発すると、原油高から円は売られ、円安に振れましたが、この世界同時不況を最初に抜け出したのが日本でした。資源小国であるが故に燃費効率の良い車の生産を常に心がけざるをえなかった日本車が、アフターサーヴィスの良さをもプラスして、アメリカの相対的低所得層のニーズを掴み、爆発的に売れたことがきっかけでした。やがて80年代の日米自動車摩擦に発展するこの動きは、自動車産業を牽引車とする日本経済の復活だけではなく、日本を世界経済をリードする経済大国に押し上げたのでした。急増する輸出は巨額の貿易収支の黒字を積み上げ、欧米からの日本のダーティフロート(政府・日銀によるドル買い介入はこう呼ばれました)に対する批判は高まる一方となり、ここに政府も為替相場への介入を控えざるをえなくなっていったのです。その結果が、この日の円新高値に繋がったのでした。その後も円高は続き、この年10月31日には、1ドルは175円50銭の高値をつけ、スミソニアン合意まで続いた360円の固定相場から、僅か7年で2倍にまで円の価値は高まったのです。輸出業界はブツブツ意っていましたが、自国経済の地位向上を実感できるのですから、我々一般の国民にとって、これは気分の良いことでした。ただ生活実感の乏しい気分の良さだったことも事実でした。当然ドルベースの国民所得、平均賃金も切り上がり、生活実感に乏しい経済大国日本が出来あがったのです。農協をはじめとする日本人の海外団体旅行が隆盛をみせはじめるのも、この頃のことです。国内旅行より、海外旅行の方が割安だという、円の強さを実感できるほとんど唯一の時だったからでもありました。----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Thursday, January 04, 2007 9:34 AMSubject: 4日の日記
2007.01.04
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クロニクル 鳥羽・伏見の戦い 1868(慶應4)年1月3日 幕末・維新期の話しが続きます。 この日は、翌69年(明治2)年5月の 函館戦争の終結まで続く戊辰戦争の開幕を 告げた鳥羽・伏見の戦いが始まった日です。 前年10月、将軍慶喜は大政を奉還、12月には 王政復古が宣言されていますから、政権は 京都の朝廷に移っていましたが、旧幕府は なお隠然たる勢力を持ち、フランス公使ロッシュは、 なお旧幕府への支援を継続する姿勢を見せておりました。 これに対し、イギリス公使パークスは薩長連合中心の 政府構想を強く支持し、幕末の日本を舞台に影では、 英・仏抗争が深く渦巻いていたのでした(日本の開国に 決定的な役割を果したアメリカは、1861年~65年まで続いた 大内乱、南北戦争で国内が大きく傷つき、対外進出は80年代末まで 休止状態に陥っていました)。 ここに、薩長連合側が旧幕府側を徴発、この日鳥羽・伏見において 戦闘が開始されたのでした。兵力は旧幕府軍が新政府軍の3倍を 擁していたのですが、最新鋭の兵器を装備した新政府軍が優勢の うちに戦いを進め、翌日には勝利を決定付けたのでした。 両軍の兵器の差が意味するところは、江戸、京、大阪をはじめとする 各地の富裕商人層が政治の変革を望んで新政府側を支持、新政府側への 資金の提供を拒ばなかったということです。豊富な資金力を誇る新政府軍は 新兵器を大量に購入することで、兵器の質で旧幕府軍を圧倒することが できたというわけです。 民意は幕府を見放していたのですね。
2007.01.03
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クロニクル 長州藩の内乱勃発 倒幕派台頭 1865(元治2)年1月2日 禁門の変(1864年7月)で幕府軍に敗れた長州藩は、 京の都を灰燼に帰した責任を重く問われ、主だった 幹部が戦死した尊皇攘夷派の勢力は著しく後退しました。 ここに8月の4国連合艦隊による下関砲台の砲撃事件が 加わり、攘夷論がいかに現実離れした空論であったかを 思い知ることになったのでした。こうして、 11月の第1次征長軍の攻勢に敗退後、幕府に屈服して ひたすら恭順の意をあらわす「恭順派」が藩政を握り ました。ここに、上士層のみでの戦闘にあき足らず、 時代の将来を見据えて、下士や町人・農民層らにも 門戸を広げた奇兵隊を初めとする諸隊にも解散命令が 出されたのです。当然、諸隊は大きな不満が残ります。 こうした情勢下に、吉田松陰門下の高杉晋作ら急進派は、 12月中旬から叛乱の機会を伺い、この日1月2日、高杉は 諸隊の一つ遊撃隊を率いて下関を襲撃、恭順派の門閥士族を 「俗論党」と断じて、藩内に広く決起を促したのでした。 この呼びかけに呼応して、奇兵隊や伊藤博文の力士隊などの諸隊は 各地に決起、次々に上士中心の藩庁軍を撃破、萩城下に 迫りました。内乱は急進派の勝利に終り、ここに長州藩は大きく 倒幕の方向に舵を切ることになります。 5月には、但馬の出石に潜伏していた桂小五郎も帰藩、木戸孝充 と改名して藩政に復帰、藩の実権を掌握すると、村田蔵六(後 大村益次郎)を登用して軍政改革を推進、予測される第2次 征長への備えを固めるに到るのです。 幕末動乱に新しいページを開く一齣でした。
2007.01.02
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クロニクル 天皇の人間宣言発表1946(昭和21)年1月1日この日、天皇の神格化を否定する詔書、いわゆる人間宣言が発表されました。若い方には、なかなか信じられないことと思いますが、明治の中盤以降(20年代後半の日清戦争後頃から)の日本では、天皇を現人神(あらひとがみ)と信ずる気風が色々な仕掛け(内容後述)によって、広く国民一般に浸透していたのでした。そうした天皇信仰とでもいうべき現実を、天皇自らが否定して見せたのでした。詔書は「私と国民との間の紐帯は、常に相互の信頼と敬愛によって結ばれているものであって、神話や伝説によって結ばれているものではない。また天皇を現人神とし、国民を他民族に優越した民として、わが国の世界支配を当然なる天命とするが如き、架空の観念に基づくものでもない」(口語は拙訳)として、自ら現人神であることを明確に否定したのでした。ここで少し歴史を振り返ることをお許しください。明治前半期の日本では、民衆の間に天皇の神格化は見られず、徳川将軍に代わる支配者程度に位置付けられていました。民衆は、徳川300年(正確には268年ですが、長いことの代名詞として、一般に300年とされます)の将軍家の支配ですら、最後はあっけなく倒れた現実を、驚きと共に一種の感動をもって記憶します。そのため、自由民権期の激化事件中、最大の民衆闘争となった秩父事件では、蜂起した農民達は「天皇陛下と戦うから加勢しろ」と、周辺各地区へ強力な呼びかけを行い、大量動員に成功していくのです。彼等にとって、徳川300年の支配ですらああも簡単に倒れた、ならば20年に満たない明治政府の支配など、もっと簡単に倒せるはずだと思えたのです。事実を知らされた山県、伊藤ら当時の政府首脳は戦慄します。そこから彼等は、天皇の神格化の必要を感じとり、先ずは軍人教育を本格化します。ここに明治15年に発表されていた軍人勅諭の本格的利用が始まります。兵士となった男性民衆には勅諭の全文暗誦と、勅諭への絶対服従が義務付けられたのです。そしてより若いうちにと、当時4年間だった義務教育を利用しようと、明治23年に教育勅語が発表され、男女を問わず小学生に勅語の暗誦を義務付けたのです。少し強い言葉を使えば、将軍様を絶対視する現在の北朝鮮以上の洗脳教育を、若い世代に施したのでした。明治中盤以降、昭和の敗戦までの日本の義務教育で最も重視された科目は、修身と国史(歴史)でした。修身は勅語の徳目を噛み砕いて教え、摺り込むための時間であり、国史は天皇と天皇制の歴史を摺り込む時間だったのです。そこでは神話が平然と事実とされ、一方で知られると都合の悪い南北朝対立のような天皇家の醜い争いは、知らせてはならないと隠蔽されたのでした。先ずは実在は否定されている神武以下の神話上の人物から現天皇までの歴代天皇の名を、幼い子供達全員に暗誦させたのです。余談ですが、お身内に昭和9年頃までにお生まれになり、戦前・戦中に小学校教育(明治40年に、義務教育年限は6年に延長されました)を完了された方がおられましたら、「おばあちゃん(或いはおじいちゃん)、歴代天皇の名前、覚えてる」と聞いて見てください。最近の記憶がまだらになっていらっしゃる方でも、かなりの名前がスラスラと出てくるはずです。昭和8年生まれの私の姉もその1人です。話しを戻します。先ずは義務教育で、次いでは軍隊で(これは男性に限る)の天皇神格化教育は、こうして明治20年代なかばまでに本格化したのです。その効果は日清戦争後から少しづつ現れ始め、日露戦争の勝利(それは不完全な勝利に過ぎなかったのですが、国民には大勝利とのみ発表されました。また、国際的には、大国ロシアと対等以上に戦ったことで、日本の立場は大いに向上しました)によって、一挙に国民の間に広まったのでした。こうして、明治40年代からの日本では、天皇=現人神説は民衆の間に広く浸透していたのです。兵士は勿論、最後は竹槍での本土決戦まで覚悟させられた国民も含めて、天皇=現人神説は疑う余地のないものになっていたのです。それゆえ人間宣言は、天皇のために戦い、天皇のために不自由を忍び、天皇のために死を覚悟した人々にとって、大きな衝撃となったのでした、しかし、衝撃は一時的なものに留まり、民主的な憲法を積極的に評価して、象徴の地位に甘んじることを是とし、平和主義を高く評価して、平和の使徒として貢献しようという天皇の姿勢は、天皇の戦争責任の問題を曖昧にしつつも、次第に広く国民の支持を集めることになっていったのです。安倍内閣にも歴史の重みを、正しく汲みとって欲しいと思うのは、私だけではないように思っているのですが……----- Original Message -----From: >To: ??????@za.wakwak.com>Sent: Monday, January 01, 2007 9:34 AMSubject: 1日の日記
2007.01.01
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ブログをご覧くださっている皆様。 明けましておめでとうございます。もう2年と少し経ちましたが、 私は2004年11月15日に、頚椎の4番と5番の間、5番と6番の間の 軟骨が摩滅し、変形した頚椎が神経を圧迫することで生じる筋萎縮症 の手術を受けました。以後、年明けを迎える心境は以前と違って 何か新鮮です。あの手術の成功のおかげで今日がある。ペースは 落ちましたが、スローライフを楽しむには十分過ぎる程に体調も 快復したのですから、これ以上を欲張る必要もない、後は社会貢献を 心がけながら、日々を過したいと考えながら毎日を送って参りました。 今年で60代の折り返し点に到達しますが、今年もまた、術後の後遺症も なく、新年を迎えることが出来、なおしばらく、ゆっくりとで良いから 何らかの社会貢献を続けよということなんだな、出来る事をやって いこうと、考えているところです。 以下は、今年記した年賀状の文面です。字数が限られるため、舌足らずな 表現になっておりますが、皆様にもその文面のままお届けし、 新年のご挨拶とさせていただきます。 ザビ また1年が過ぎました。お元気のことと存じます。 今年も様々な出来事がありましたが、イラク攻撃後の アメリカの混迷が、また1段と深まった事実に、 「やっぱりな」という印象を強くしました。 イラクではスンニー派によるシーア派のモスク破壊事件が きっかけで、両派の宗教抗争が激化したと報じられていますが、 古代文明発祥地の民として、政治的に対立はしても 互いの宗派を尊重する気風を持つイラクの人達が、 いかに他派のものとはいえ、聖なるモスクを自ら破壊する とは考え難く、この行為は、米軍や米系石油資本が雇用する 傭兵集団が台本を書いた事件であろうと推測しています。 思惑の外れたイラク戦争で、米軍の蒙る被害を減ずるには、 イラク人の内部抗争を煽るより道はなく、その思惑はある程度 当たったのでしょうか。イラクと中東そしてアフガンの今後が 案じられます。 教育「改革」を巡る議論の方向にも、強い疑問を感じています。 現場教員が自発性を発揮し易い環境の整備こそが、最優先の課題 だと考えるからです。 おかげさまで私たちも年相応に元気です。 今年もお元気で…… 2007年1月1日
2007.01.01
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