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私が初めて、シンクロニシティ(共時性:意味のある偶然の一致。非因果的な複数の事象が意味的関連をもちながら同時的に起きること)を実感したのは、一九八四年六月のことでした。共同通信社の記者として富山支局に勤務していた私は、富山大学文学部の山口博教授(当時)とともに古代日本にはピラミッドがあったのではないかという趣旨の記事を書いていました。ところがちょうどそのころ、サンデー毎日も「大追跡 日本に世界最大最古のピラミッドがあった!?」という特集をしようとしていたんですね。別に私にはサンデー毎日に友人や知人がいて示し合わせて同じ企画をやっていたわけではありません。その双方の記事は6月中旬(19日)に記事になりました。まさに同じ時期に「意味のある偶然」として、「古代日本のピラミッド」の紙面化・誌面化が発生したわけです。 この時以来私は、この世界には“神の仕組み”ともいえる、目に見えない大きなうねりのようなものがあって、我々はそのうねりに突き動かされて行動しているのではないかと思うようになりました。二〇一一年に私が書き上げた二冊の本『誰も知らない世界の御親国日本』(ヒカルランド刊)と『「竹内文書」の謎を解く2――古代日本の王たちの秘密』(成甲書房刊)もそうです。以前ブログでも触れましたが、この二冊の本を出すことには非常に大きな意味があったようです。 そして、これも以前のブログで書きましたが、その二冊目の本の最終校閲作業をしていた二〇一一年一一月二一日にも、シンクロニシティは起きました。この日の午前、ようやく文字の校正・校閲作業が終わったので、その開放感から鎌倉まで遊びに出かけました。その帰り道、バスの中から何気に外を見ると、これまで見たことがないような巨大な虹が空に架かっていたんですね。しかもそれは二重の虹であり、なんと一八〇度近い弧を描いて地平から地平へとくっきりと浮かび出ていました。早速、コンパクトカメラで写真撮影したのですが、虹は何分経ってもまったく消える気配がありませんでした。そこで自宅に一度戻り、広角レンズで撮影を試みます。その虹はとても大きかったので、私の広角レンズでも撮りきれないほどでした。 もちろん、これは自然現象であり偶然です。しかし、私にとっては“約束”通り二冊の本を書き上げた後に、それもちょうど校正・校閲作業が終わった日に現われた虹でありますから、意味のある偶然なわけです。 シンクロニシティは、それから二〇日ほど経った一二月一〇日にも起きました。その日はまさに『「竹内文書」の謎を解く2』が発売される一週間前で、午前中に刷りたての見本三〇冊が自宅に送られてきた日でもありました。これもたまたまだったのですが、その日の午後は神奈川県横須賀市の「よこすか芸術劇場」で「ラグース」というアイリッシュダンスの講演を観に行きました。またしてもその帰り道のことです。その夜は皆既月食があることを知っていたので、月がよく見えるかどうか確認するために空を見上げました。するとそこには、すでにブログでご紹介しましたが、巨大なリング状の雲とそのリングに乗るような形で満月が出ていたわけです。後日の秋山眞人氏の鑑定によると「地震雲」であるということでしたが、これも私には意味のある「夜空のダイヤモンドリング」であったわけです。 地震雲であろうと、ただの自然現象であろうと、「夜空のダイヤモンドリング」であろうと、確かに偶然には違いありませんね。ただし人間がそこに意味を見出した時、それは単なる偶然の一致ではなく、意味のある偶然の一致となるわけです。竹内睦泰氏の言うように「偶然は神」であるならば、「神」を感じることができるかは、それに気づくかどうかだけであるように思います。 ちなみに正統竹内文書の二冊目の本が出版された一二月一七日は奇しくも、その口伝継承者竹内氏の誕生日であったことも付け加えておきましょう。 今日はシンクロニシティについて書いてみました。
2012.02.23
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19世紀にアメリカの歯医者が書いた「オアスペ」という本があります。神と天使の啓示を自動書記で書いた分厚い書物で、宇宙の創世から人類の歴史、見えない世界の存在や天空間を航行する船のことなどについて、膨大な記号やシンボル、文字、絵とともに書かれています。「新しい聖書」と銘打っていますが、日本流にいえば、「米国版古事記」、あるいは「米国版竹内文書」みたいなものでしょうか。その本の中で、古代地球の太平洋にはパンという巨大な大陸が出てくるんですね。これがチャーチワードのいうムーなのかは定かではありませんが、旧約聖書と同様に大洪水が起こり、地球の大陸はパン大陸を含め、ことごとく海中に没してしまいます。そのとき、人類は5つの船団に乗って、世界各地に散ります。その五か所とは中米、中国、インド、アフリカ、日本なのですが、そのなかで最も古い民族が日本に行ったというんですね。水が引いた後、パン大陸は二つに分かれ、北の部分が辛うじて残っていた。だから今でもジャパンとして残っているのであると、ちょっと19世紀のおやじギャグみたいな話ではあります。それでも読んでいくと、なかなか面白いんですね。どれだけ真実が混じっているのかわかりませんが、地球人類史を読み解くヒントはありそうだと思っています。
2012.02.22
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1月の九州の温泉と古代史をめぐる旅に続いて、東京からほど近い温泉地へと小旅行を楽しんできました。昨年は忙しかったので今年はのんびりと過ごそうと思ったのですが、次の本の出版が決まり、少しだけ忙しくなりそうです。今年こそ、マラルメと巨石をやりたいなと思っております。
2012.02.17
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宮崎には有名な高千穂峡があります。高千穂は天孫降臨の地とされていますが、要はアマテラスらの日向族(アマ族、天孫族)が最初に日本に築いた拠点であるように思われます。つまり高天原(たかあまはら)でもあるんですね。アマテラスの夫である高木神(タカミムスビ)がよく臣下らを招集した天安河原も、この地にあります。神話ではニニギが天孫降臨して高千穂に来たかのように描かれていますが、すでにアマテラスらはこの地におりましたから、あれはあくまでも高木神からニニギに王位が継承されたことを意味しています。その証拠に、『日本書紀』には、高木神がニニギに真床覆衾の儀式で天孫降臨させたと記されています。つまり天孫降臨とは王位継承儀式のことであったと明確に書かれているんですね。 やがてニニギの子孫たちは、高千穂峡のある山から大綿津見神(海人族)の拠点である海岸へと進出していきます。それが海幸彦山幸彦神話に隠されている歴史なんです。記紀神話は実によくできたおとぎ話だと思います。高千穂峡の写真はこちらをご覧ください。
2012.02.10
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西都原古墳群と書いて、サイトバルコフングンと読みます。西の都と書くぐらいですから、都があったところなのでしょう。実際、この古墳群にはニニギノミコトやコノハナノサクヤヒメの御陵があるともされているんですね。ただし、これまでの発掘調査結果と照合すると、ちょっと年代が合いません。もし瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の御陵があるのならば、正統竹内文書的に考えても、紀元前1~3世紀ごろのものでなければ辻褄が合わなくなってしまいます。ところが、現在わかっている古墳群は西暦3世紀後半以降のものです。もし発掘できればの話ですが、今後の発掘で、紀元前1~3世紀ごろの御陵が見つかると面白いでしょうね。神武が日向出身の王であったことは間違いないと思われますが、その祖先にあたるニニギが天孫降臨した高千穂はそれほど肥沃な地とは思えません。同様に出雲の王となったスサノオがスガと名付けた出雲の地もそれほど肥沃な地とは思えないんですね。日向族も出雲族も、当初は山の奥のほうに隠れるようにして細々と暮らしていたのかなとも考えられます。そして持ち前の技術力と知識を生かしながら、政略結婚などを進めて、海岸線や肥沃な土地へと勢力を伸ばしていったのではないでしょうか。ヒコホホデミ王朝が何代続いたのかは定かではありませんが、ニニギが紀元前3世紀ごろに高千穂で王位についた(天孫降臨した)のであるとすると、神武まで8代ぐらい続いたのかなと推測することはできます。すでに別のブログでも書きましたが、ニニギの息子である山幸彦(ヒコホホデミ)から始まったとみられるヒコホホデミ王朝の最後の王は、神倭磐余彦火火出見命こと神武であることはまず間違いありません。つまり神武の正式名称には、ちゃんと称号として彦火火出見(ヒコホホデミ)を付けているんですね。しかし8代も続いたかもしれないヒコホホデミ王朝をまるで一代か三代ぐらいに省いてしまうとは、ちょっと端折りすぎだろう、って思ってしまいます(笑)。こうした歴史もいつか日の目を見るのであろうことを願っている次第です。いつものように西都原古墳群などの写真はこちらです。
2012.02.05
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