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前回から約2ヶ月、この2年間で2回目のゴルフに行ってきました。前回、久しぶりだったので、目標を100を切ることに設定したら99だったんで、今日は急遽、目標を95にして挑んだ。とは言っても、ゴルフ場についてからは何も練習せず、コーヒーを飲んで、友人とおしゃべりしていて、そのまま#1ティーへ。2ヶ月ぶりのティーショットはまっすぐ飛んで、フェアウェイど真ん中。幸先良いスタートを切ったものの、後半にOBと池ポチャで連続4オーバーを記録し、がっくりして前半終了。結果は51。さて、後半は、と勢い込んで、なんと4ホール連続パーでスタート。ここの最後の名物ホールである最終18番ホールに挑戦時、まだ6オーバー。ここさえ乗り越えればと・・・・これがその名物ホール↓ティーショットはまあまあのあたりでまっすぐ飛んだが、行ってみるとまだグリーンが見えない。↓仕方なくコース図の池沿いのフェアウェイに運び、なんとかボギーをセーブ。結果、後半43、トータルで94で、めでたく目標をクリア。調子に乗って、今年の目標をまた5つ上げて、今度は90を切る、としました^^;
2010.07.04
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有名な「一炊の夢」、あるいは「邯鄲の夢」という故事がある。科挙に勇んで挑戦しようとする若者が、ふと呼び止められた老人の言葉にしたがって、ちょっと食事を待つ間に寝入ってしまい、自分の未来の姿をその夢に見る。ところが起こされて見ると、その一生の全てが、単にご飯が炊けるだけの短い間のことであった、ということに気付き、人生の儚さ、この場合は、幻のような人生を達観して、そのまま故郷に戻る、という話である。また、別に胡蝶の夢、という話もある。夢に中で蝶になったのか、蝶の夢の中で人間で居るのか、という類の話である。これは現実に、私たちが生きているこの世界、現実、というものがどういうものなのか、ということを改めて考えさせられる話である。夢と現実。人間にその区別がいったいつけられるものだろうか。宗教の世界、あるいはスピリチュアルの世界の一部では、この世の中は幻に過ぎず、この世界を「現象界」という一方で、真の世界、という意味において「あの世」を「実在界」と言ったりする。この現象界、実在界、というのは、言葉こそ多少違っていても、いろいろな宗教、例えば仏教、GLA、生長の家、と言った、主に仏教系の宗教では共通している。つまり、この私たちが「現実」と読んでいる世界は、けっして「実在」ではなく、仮の世界、幻の世界であり、真の世界は「あちら」「あの世」「彼岸」「霊界」あるいは「There」にあるとする。つまり、この考え方は目新しいものではなく、近年のスピリチュアリズムの専売特許でもない。むしろ、大昔からある(あっただろう)シャーマニズムの世界にも共通している考え方かもしれない。しかし、この考え方は危険である。危険というのが語弊があるとしたら、「両刃の剣」と言い換えてもいい。「信じる」ということが要請される「あの世」を真の現実としてしまうと、ともすれば、「ニヒリズム」にはまる危険もあるし、それでは、「この世」の中の存在、あるいは「意味」というものが見えなくなる危険がある。ただ、この考えに立ってこそ見えてくる「この世」の意味、というのも確かにある。一炊の夢。 単に夢にすぎない、と思うか、夢だからこそ、と思うか、その人次第であろう。
2010.06.28
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すでに二度ほど日記に書いている「人類は『宗教』に勝てるか」。やっと「ほぼ」読み終わろうとしている。あと、10数ページだろう。(だったら、早く読み終われ、と言われそうだが、多少、一挙に最後まで行く前に、じっとここまでの余韻を楽しんでもいいではないか、と。)自分としての「感想」はまだまとめられていない。先日も書いたが、著者の、この本を書いた動機が、私にとっては非常に共感できるものだったので読み始めたわけだが、その宗教を見つめる視点にも、私と共通なものを感じて喜んだ、ということもすでに書いた。ほぼ読み終わってみての感想も変わることはなかった、とだけは言える。というよりも、私自身が考えていた「宗教」に対する考えをもっと深く掘り下げ、厚みを加えてくれた感じもある。表題に書いた「無神教」というのはこの筆者の造語だが、その意図するところは、ニーチェの「神は死んだ」とう言葉と同様、神の否定ではない。そうではなくて、「既存」の神と言われるものの定義を今一度捉えなおし、特定の、やれ私の神だ、彼の神だ、という区別を全てなくす、という意味での「無神」である。それは単なる現状の宗教に対する否定で終わるのではなく、その良さや必要性を認めつつ、新しい宗教観、いや、新しい「世界観」を打ちたてようとするもので、そこにおいて、私の考えと共振するのだ。多分、この本はもう一度読み直すことになるだろう。そして、おそらく、その感想というのは、その後で初めて少しまとまってくるかもしれない。それまでは、このぼんやりとした余韻を、そのまま味わっていたいと思う。
2010.06.28
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いつも書くことだが、教会というところは、いつ行っても本当にたくさんの考える材料を与えてくれる。今日のテーマの一つはゲッセマネの祈りと、もう一つは最大の戒めとしての「全身全霊をかけて神を愛し、また自分を愛するごとく隣人をも愛せよ」という言葉。ゲッセマネの祈りは、イエスが神に対し「あながた望むように」してください、と祈って全てを「神の御心のままに」とする態度について。また、隣人を愛せよ、に関しては、イエスを試そうとして議論を挑んだパリサイ人との間のやり取りでイエスがたとえを使って答えた「サマリア人」の話について。それぞれに、考えることはたくさんあり、聞いているそばからいろいろなことが頭を駆け巡るが、聖書に書かれている文章そのもの、というよりは、それは何を意味しているのか、という部分に集中する。ゲッセマネの園で祈っているイエスを待つ人々は、なぜ眠ってしまったのか。いや、眠ってしまった、というのは多分比ゆだろうから、それは一般の人の、あるいは信徒のどんな状態を指して言っているのか。また、サマリア人のたとえに関して言えば、隣人とは何か、との問いかけに答えたものだが、有名な話ではあるにしても「なぜ」イエスはこのような例えで話をしたのか。キリスト教には多くの素晴らしい言葉がある。曰く「神は、よい行いをした人も、そうで無い人も、公平に恵みを与える。」曰く「イエスは、全ての人間の罪をその身に背負って、十字架に掛かられた、そのために人類は、その罪から解放されたのだ」曰く「神はその一人子を十字架に犠牲にしてまで人間を愛してくださっている」 そのとおり、これらは素晴らしい言葉だ。しかし、その後に必ず聞かれる「神は、イエスを信じるもの全ての人に永遠の恵みと平安をお与えになります」どうして、こうなってしまうんだろう?この言葉が、この2000年にわたって人類を戦争へと駆り立ててきたのに。
2010.06.28
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ちょっと前に「時間」について書いたことがある。たまたま「タイムトラベル」の話がニュースになった時に書いたもの。 ⇒ これですその時に、一度「時間」について書いておきたい、と書いたのだが、未だに書いていない。書けない、というのではなく、その前にいろいろと勉強したいと思ったからだ。今「時間」に関する本を2冊読んでいる。一冊は「時間を哲学する」、もう一冊は「時間はどこで生まれるか」前者はどちらかと言うと書名のとおり哲学書、後者は、それに対して哲学とは切り離されてはいないが、どちらかというと自然科学の方から今一度「時間」というものを捉えなおそう、というもの。この本にもあるように、この「時間」というものは、人間にとってはだんだん哲学の対象から科学の対象になってきている。昔は、音、色、温度など、これらも哲学の対象だった時代がある。「音」とは何か、「色」とは何か、「熱さ」(あるいは「暑さ」「温度」)とは何か・・・・・今では、これらが何であるのか、科学的な説明がきちんと出来る。つまり、音は空気やある媒体の振動を、人間の耳で聞いてその振動を鼓膜が捉え、信号を脳に伝えてそれを脳が解釈したもの、色も同様に、ある振動数を持つ光を人間の網膜が捉え(受信し)それを脳に伝えて、脳がそれを認識したもの、温度も同様に人間の感覚をもとに、それを計測する手段として編み出した温度計で測れるものだが、それ自体は原子や分子のランダムな運動エネルギーをやはり感覚器官捉えた上で脳に伝え、それを脳が解釈したものである。つまり、これらは、人間の感覚と、それらの「現象」をどう脳が解釈するか、ということと密接に関係している。もちろん、出発点はそこだとしても、その現象自体は、人間を必要とはしていない。ただ、それを「音」「色」「熱さ」と認識するのは、人間だ、ということ。これらの「現象」が、こう科学的に解明されてくると、それはもはや哲学の対象ではなくなる。では、「時間」はどうだろうか。「時間」はやはり私たちの感覚に基づくものではあるし、それを計測するための時計というものもあるのだが、それ自身、いったい何なのか、ということに関してはまだ分かっていない。だからこそそれが未だに哲学の対象足りうるのだが、その状況に対して、徐々に科学は光を当て始め、時間がなぜ存在するのか、というところまではせまっている。ただ、まだまだその「正体」を完全に把握するところまでは行っていない。上に上げた「色」とか「熱さ」との比較で言えば、「時間」というものが人間の感覚とどういう関係にあるのか、という点についてもはっきりしていない。もし、この「時間」というものが、過去における「色」や「温度」と同じように、科学的な説明ができた暁には、たぶん、人間の考え方そのものに決定的な影響を与えるだろう。その影響というのは、色や温度が科学的に説明されたときにもあっただろう影響をはるかにしのぐ大きなものになるだろう、ということは想像に難くない。たぶん、それは「考え方」の変革に留まらず、「生き方」を変えるほどの影響を持つだろう。
2010.06.27
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今日のニュースで、「人間がPCウィルスに感染!」という見出しのニュースを見て仰天。そんなあ!ありえない!!と思って見てみると、本当なんですねえ、これ。⇒ これです http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100623-00000305-giz-entまあ、確かに有機体としての人間に感染した、というわけではないのですが、現実に体の一部となっている埋め込み機器が、こういったウィルスに感染するということは有り得ることだし、今回の実験でも、それがきわめて深刻な影響を与えることが確認されてしまた・・・う~ん、恐ろしい時代になったものです。医学の進歩の恐ろしさとしては、一番取り上げられるのは遺伝子改造だったり、クローンだったり、ES細胞だったりするのが常だが、こういった人体のサイボーグ化・機械化に伴うリスクは考えてもしませんでした。ここまで来ると、人間の倫理が本当にしっかりしていないと、とんでもないことが現実になる危険がありますね。
2010.06.24
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たとえば山に登る場合でも、なだらかな斜面を登る人もいれば、急峻な崖を登攀する人もいる。人それぞれが、その人の体力と装備と、はたまたその登山の目的に照らして、自分の好きなルートで登る。確かに、頂上へ到達するには一番早い道というものもあるだろうけれど、その道が全ての人にとって最良のルートと断定する理由はない。もしかしたら、苦しくても、できるだけ早く登り詰めることに喜びを感じる人も居るかもしれないが、反対に、登ること自体を楽しんだり、道々景色を眺めることをその第一目的としている人もいるかもしれない。頂上に立ったときに、下から登ってくる人を見ていると、ある人は最短ルートを登ってくるのが見えるかもしれないが、中には、多少後戻りしてしまうような道に入って行っている人も見えるかもしれない。でも、いずれにしても皆頂上を目指して登っているのだから、どれが良くて、どれが悪いか、などはその人の価値判断だろう。それを、こちらから登らなければダメなんだ、という人が中にはいる。山と言うのはこうやって登る「べき」だ。それ以外の登り方は『邪道』だ、と言わんばかりに・・・・特に、グループで登ってきた人の中で、どちらのルートをとった方がいいか、について意見が対立した場合は、特に、そうだ。「皆で一緒に登ろう!」と言って登ってきたのだから、その合意を優先したい人と、合意はしたけれども、やはり自分としてはこちらから登った方がよさそうだ、と思うのに、皆が賛成してくれないから、それならそれで、自分だけそちらの道を行くんだ、という人が後を絶たない。そのうち、望遠鏡を持ってきた人がいて、それで眺めては、初めの予定ルートだと、時間が掛かりすぎる、こちらの道の方が安全で早いはずだ、と言い出す人も出てくる。しかし、それでお互いに喧嘩をして、なんの得があるだろう。皆、山登りを楽しみに来ているんじゃなかったのか。
2010.06.23
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やっと「人間釈迦」第4巻を読了。合わせて、「叡智の海」 アーヴィン・ラズロー「人類は『宗教』に勝てるか」 町田宗風「スピリチュアルワールド見聞記 」植木不等式「マクモニーグルが語るリモート・ヴューイングの世界」 植田睦子「BASHAR(バシャール) 2006 バシャールが語る魂のブループリント 」ダリル・アンカ「キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』」 ニーチェ「 生物と無生物のあいだ 」 福岡伸一などを平行して読んでいるので、遅々として進まなかった。ついでに、宮部みゆきの「楽園」まで読みそうになり、ちょっと考え直して手を引っ込めた。さて、人間釈迦。先日、半分読んだところで感想を書いたが、読み終わってみると、この第4巻が一番面白かったような気がする。たぶん、それはこの第4巻に出てくる釈迦(シッダールタ)が一番人間くさく描かれているせいもあるだろうし、また、単なる「悟り」の内容が書かれていた前巻までと違って、反対者や一般人、それに出家希望者、女性など、さまざまな人との対話が中心にあり、その都度、臨機応変に語られる「苦からの解脱」に関する言葉がより具体的になってきているためだろう、と思う。一番初めの所感で書いた「大して新しい内容がない」ということに対して、この4巻目は、徹底して「実践」の大切さを説く。上記にずらずらと挙げた本たち。読んでいるだけでも楽しいし、自分の視野を広げてくれる。しかし、確かに、「実践」という部分は、私にとっては最大の課題だろう、ということは自分でもわかっているつもりである。考えること、行動すること、それで初めて知識から知恵へ、知恵から智慧へ、と醸成されてくるのだろう。この「人間釈迦」という本。世間ではほとんど知られていない。 それは著者が無名の会社経営者、いやそれよりもGLAの創始者として、新興宗教の教祖みたいな見られ方をしているために、逆に色眼鏡で見られているのではないか、と思うが、そういった先入観念を抜きにして読むと、非常にいい本である。仏教に関する本はたくさんあるけれども、この本ほど分かりやすく「四苦八苦」からの解脱の道としての「八正道」を分かりやすく書いている本は他にないのではないか、と思える。この本をきっかけにして、この高橋信次という人の書いた他の本も出来たら読んでみたいと思うようになった。ただ、ほとんど廃刊されているので、古書を見つける必要があるのが難点だが。
2010.06.22
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昨日、奇しくも「父の日」でしたが、父が前に書いた有料介護付老人ホームに入居しました。前日、知り合いの便利屋さんに頼んで机などの身の回りのものを一通り運んでおいてもらい、当日は身一つで引越し。私はアメリカに居るので、引越し直前に父から電話。「介護も看護もしっかりしている施設のようだから、これで俺のことは安心していていいよ。」と。父としては、もうたびたびは自分の家に戻れない、という覚悟があってのことでしょうが(酸素吸入器がないとダメなので、移動用では4~5時間しかもたない。したがって、泊りがけで自宅に戻る、ということが出来ない)、元気な声の裏に、若干の寂しさを感じたのは私の思い過ごしでしょうか。ともあれ、今後どれだけの期間、この施設にいることになるかわかりませんが、施設の人が親身になって、入居者のことをお世話してくることを願っています。もう一つ心配なのは、母の方。引越しをお願いした便利屋さんは私の知り合いなので、引越し前と引越し後に写真までつけて報告してくれました。 その中で、「お母様がさびしそうでしたよ。」というのがあった。肉体的には、父の看護から解放されて楽になるだろうけれど、何十年も連れ添った夫がこういった施設に入ることに、安心と寂しさ、それに、今後への別な不安というものがあるのだと思います。父のほうはある程度安心できるようになりましたが、今度は母の方がやや心配です。まだ82歳とは言え、そろそろ目にも来ているようなので、今後はそちらの方も考えなければならないかもしれません。願わくば、しばらくして落ち着いたら、出来るだけ早くまた日本へ出張を兼ねて顔を出したいと思っています。
2010.06.21
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昨日から人間釈迦、一気に3巻を終了し、今4巻目の半分ほどのところに居ます。この著者の高橋信次という人は、自分でも若い頃から40歳までしか生きられない、と知っていたようで、奥さまと結婚するときにも、40歳以降は責任持てないが、それでも良いか、と聞いたそうです。その予言(?)どおり、40歳で亡くなりました。で、この人間釈迦4部作のこの4巻目が彼の最後の著作となったようです。いろいろな書評には、シッダールタ(仏陀)が入滅するまで描いて欲しかった、という声もあるのですが、私には、死期を知っていたはずの人だったら、この4部作はこれで彼としては完結したのではないか、と思っている。結局、シャキ族の王子として生まれたシッダールタが、出家し、悟りを得、説法し、法を広め、12年間も離れた父母の元に戻る、というところまでが描かれています。この4巻目の最後が、この帰郷する場面です。まだ読んでいませんが、ここは私も一番興味があるところです。彼は、出家することにより、ある意味、父の期待を裏切り、妻に悲しみ・苦しみを与え、自分の子供にも会わずに、いわば片親の境遇に追いやったわけです。それを「仏法」を極めることと、それを広めることによって、世の中の人々を救う、という大儀で、正統化しているわけですが、本当にそれでいいのか、という点は、日々、家族という社会生活を営む私たちにも大きく関係するところです。大儀のために、小我を捨てる、これは自分個人のことですから、構わないとして、父母の期待を裏切り、妻や子を捨てる、ということ自体は、普通では決して「良いこと」ではないからです。これは仏教の「出家」と「在家」のあり方にも関係してきます。ある意味、出家よりも、この「在家」こそ、本当のあり方である、しかし、だからこそ、在家の方が出家よりも、何倍も困難を伴う、というのが私の考えです。さて、最後はどうなるんでしょう。
2010.06.17
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昨日書いた、娘のGHPに行ってきました。朝6時50分に出て、今夕方7時50分。13時間です。で、この13時間のうち、かれこれ9時間が車の運転。往復8時間半ほどと、現地で買出しや昼食などで30分ぐらい・・・走行距離約900km(560マイル)・・・疲れました。言うまでもなく、もう若くない・・・それに、慢性の腰痛が・・・・しかし、このGHP、ペアレントミーティングにも参加しましたが、本当にいろいろな方々の努力によって続いているプログラムで、48年間も続いているこういったプログラムは全米でも唯一のものらしいです。過去参加した人によると、生涯忘れることができないほど、印象深い、有意義な一ヶ月半になっているようで、娘もこの6週間、思いっきり、遊びに、勉強に、交友に、この田舎の町にある大学のキャンパスで楽しんできて欲しいものです。宿泊は大学の寮ですが、なかなかいい施設でした。二人一部屋x2が一つのユニットになっており、トイレ、風呂が共用。娘の相部屋の相手は、化学での参加らしく、高校2年生にして大学の課程を履修しているとのこと。全部で690名の、ジョージア州全域から集められた俊英たち。娘もいい友達をたくさん作ってきて欲しいものです。
2010.06.14
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明日は、娘がValdosta State Universityで催されるジョージア州のガバナーズ・オーナーズ・プログラム(GHP)に参加する。このプログラムは、The Governor's Honors Program is a six-week summer instructional program designed to provide intellectually gifted and artistically talented high school students challenging and enriching educational opportunities not usually available during the regular school year. Activities are designed to provide each participant with opportunities to acquire the skills, knowledge and attitudes to become independent, life-long learners.というもの。(笑)まあ、簡単に言えば、州内の高校に在籍する生徒の中から、いろいろな学科や音楽、絵画などの芸術面で、すぐれた2年生、3年生を選抜して、6週間にわたって泊りがけのプログラムに参加させるもの。毎年行われているが、今年、娘がバイオリンでオーディションに参加し、なんの間違いか合格してしまった。当然いろいろな楽器ごとに選抜されるのだが、バイオリンは応募者の数も多く狭き門のひとつ。まさか合格するとは思わなかったが、州で10名の中に運よく入ることができた。普段あまり練習していないのに、よくもまあ、というのが素直な感想だが、せっかく州の費用で、こういった特別プログラムに参加させてもらえるのはなんともありがたい。明日は、Valdostaまで、片道265マイル(425キロ)、車で飛ばしても片道3時間半はかかるだろう。息子が使っていた一人用の冷蔵庫やらランプやら、それに、飲み物やその他もろもろを今車に積み終わった。明日は、朝6時半には出発し、12時のレジストレーションに間に合わせなければならない。その後、2時半からは親に対する説明があるそうなので、それに参加した後、また3時間半のドライブで425キロの道を帰ってこなければならない。う~ん、疲れそう。まあ、いずれにしても、これから6週間は、静かな暮らしになりそうです^^;
2010.06.13
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昨日の日記で書いたお客様と終日ミーティングでした。結果、一日目はなんとかうまく行き、明日詳細を詰めることに。これを受注すると、少なくとも年内はうちの開発陣にとっても目一杯の開発になりそう。というか、すでに技術者が足りないのは目に見えていて、現在募集中ですが。完全な、新規商品というより新規ビジネスなのでやりがいがあります。さてこれから、このお客様を連れて食事に出かけます。なにせ営業ですので・・・^^;
2010.06.04
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明日は朝からお客様を向かえてのミーティング。いつもなら昼から出社ですが、アシスタントも秘書も、もちろんお茶汲みの女の子など居ないわが社では、朝から自分でコーヒー入れたり、ついでに朝食用にドーナッツなぞを買って、会議室に揃えておきます。こちらの会議って、なぜかこういった軽食を置いておく事が多いんですよね。明日のお客様はフィリピンから。アメリカにも会社があり、どちらの社長も兼任されているようですが、とにかく、もしこの仕事を受注したら、これだけで今年の仕事は終わりにしてもよいくらいの規模なんで、なんとか成功させたいところ。まあ、受注したら受注したで、それからが大変なんでしょうが、やることがはっきりしている仕事の方が、やはり営業のやってもやっても販売に結びつくかどうかわからない仕事よりも自分には向いている気がします。やることがはっきりしていれば、あとはそれを如何にうまくプロジェクトとして立ち上げ、軌道に乗せ、問題を先取りして破綻しないように管理してゆくか、いわゆるプロジェクトマネージメントになりますから、それだったら昔とった杵柄、なんとかなるでしょう。とにかく、明日は正念場。まずは朝早く起きなくては・・・
2010.06.03
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先日、外から見たら日本という国もなかなか捨てたものじゃない、という意味の日記を書いた。反面、外から見ると、ますますがっかりすることも多々ある。日本の政治などはその最たるものかもしれない。新聞記事の大部分がこの政治の記事だったばあい、読むのもいやになることしばしば。たとえば、昨日の新聞記事。「衆院は31日深夜の本会議で、民主党や国民新党などの賛成多数で郵政民営化路線を見直す郵政改革法案を可決した。野党は実質審議1日での採決強行に反発を一段と強めており、内閣不信任決議案や鳩山由紀夫首相の問責決議案の提出に向けた最終調整に入った。連立政権から離脱した社民党は同調する構えをみせている。 衆院が31日、断続的に開いた本会議では、まず自民、公明、共産、みんなの野党4党が提出した東祥三衆院経済産業委員長の解任決議案を与党の反対多数で否決した。続いて家畜伝染病、口蹄疫(こうていえき)対策の初動の遅れなどの責任を追及して野党4党が提出した赤松広隆農相の不信任決議案も否決した」これは、「郵政改革法案を可決」という見出しの記事なんですが、よく読むと内容は、1)郵政民営化を見直す「改革法案」が与党の強行採決により可決された2)野党は、内閣不信任決議案と鳩山首相の問責決議案の提出に向けて最終調整に入った3)野党4党が提出した衆院経済産業委員長の解任決議案と口蹄疫初動遅れを口実とした農相の不信任決議案も、与党の反対多数で否決されたという三つ。これらのどれが、日本という国を、あるいは日本の国民の生活をよくするためになんらかの効果を持つものなんでしょうか?一つでも、なにか「建設的な」内容があるでしょうか。税金で雇われている議員が、与党、野党ともに自分たちの選挙戦のことしか考えていないような、出しても結果は見えている「決議案」などを次々に出し、それを強行採決の繰り返しで可決しただの否決しただのを繰り返しているだけの国会。与党、野党、どちらがどう、ということではなく、この国の政治の質には本当にがっかりさせられます。国民は不幸ですね。せっかく新風を吹き込むことを期待していた民主党が、その実務能力に疑問を呈され、なお野党となった自民を初め、他の政党も単なる政争を繰り返すだけ・・。選挙には積極的に参加して、自分の一票を通して国の政治になんらかの権利を行使したい、と思っていても、それを投じる対象が見つからない。
2010.06.02
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ながながと書いていたら、ふと何かに指が触れ、すべて消えてしまいました。また全部初めから書く気にもならず、はしょります。今日は、ほぼ一ヶ月ぶりに教会へ。今日も日記の素材にはことかかない、いろいろな考えがぐるぐる頭の中を回っています。表題の肉欲。普通には、かなり性的な意味合いを持つ言葉ですが、聖書や他の宗教書では、肉の欲望という形で、「罪」であったり「悪」であったりする、この肉欲・・・果たしてそうなんだろうか?というのが今日の主題でした。そう言うからには、そうではない、という観点での書き込みでしたが、また折を見て書きたいと思います。では。
2010.05.31
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先日の日記でも書いたが、5月の初旬より、家計簿を再開している。今までの自分流のExelベースの家計簿からWebでの家計簿へ。利用しているのはここ(「ココマネ」)です。まだ一月もたっていないので、使い方もわからず試行錯誤している段階ですが、なかなか使い勝手がいいようです。なによりも同じページでずっと入力できるので、慣れてしまえば非常に楽でしょう。あとは機械任せというよりアプリケーションまかせ、ですから。しかし、ここはいろいろなコミュがあって、人それぞれに日常の出来事やら家計にまつわる話題を書き込んでいるが、それを見ると、財布を預かる主婦の視点からでしょうか、なかなか現実的で、家計、貯蓄、ローン、教育費、などなどで苦労している状況が伝わってきます。景気回復が言われて久しいにもかかわらず、やはり現場(各家庭)の生の声は「まだまだ厳しい」か「ますます厳しい」というところでしょう。いろいろ意見があるにしても、若いうちから「老後」を心配している声も多く、40代、50代の人にとっては、かなり切羽詰った状況におられる方も多く見受けられます。今の60歳過ぎの人の実態を見たら、どうしても考えざるを得ないということでしょうか。「お金がなくても幸せなフランス人、お金があっても不安な日本人」とか言う本もありましたが、今の欧州の状況を見ると、なんだかアリとキリギリスの話みたいで、だからヨーロッパ人のように悠々自適で、という風にはなかなかならないでしょう。かと言って、日本人全体を見ると言われるほどひどい状況とはとても見えないのも確か。心の持ちようと幸福感、永遠の課題です。
2010.05.30
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今日で日本滞在は最終日。明日は朝早く成田に向け出発。また片道22時間の旅へ。今日は、最終日ということで、すしの出前を取り、その後、家族で音楽会を開く。おじいちゃんとおばあちゃんに、ということで、娘のバイオリン+妻のピアノの合奏、娘のバイオリン独奏、息子のピアノ独奏、そして私のギターで皆で昔の歌を歌う。孫の成長を見る、ということではある程度目的を達したかな?
2010.05.25
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日本滞在もあと残すところ4日。今日も午前中は父を車椅子で医者に連れて行き、診察を受けた上で、在宅酸素吸入の指示書を発行してもらう。日本の医者は(そうでないところもあるとは思いますが)先着順なので、朝一番に診察券を出してきて、2時間後に再度行っても、まだ待たされました。これで半日です。明日は、申し込んでいる介護付老人ホームの方から、ケアマネージャーと看護師が来て、入居に関しての質疑応答がある。ここで、最終、入居が認められるかどうかの資料が完成する。午後は、恒例になっているBookOFF通いを始めました。で、今日は、新書コーナーを約2時間、105円均一の書架の前を中心に、ざっと一つのフロアーを回って購入したのが30ウン冊。(正確には数えていません。笑)今までの合計はすでに40冊を超えて50冊近くになっているはず。ここのBookOFFは3F+地下1階なので、まだ増えると思います。しかし、これで7000円もしないわけですから安い買い物です。アメリカで新刊を購入したら10冊も買えない。詳細は、「リンロンの本棚」の「読書状況」で「読みたい本」の中に登録しましたので、興味がある方はそちらをご覧ください。しかし、これで、帰りの荷物は、本でひとつのバッグが埋まること決定です(笑)重量オーバーが心配・・・・
2010.05.22
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ふーー、今日は介護の一日でした。まず、朝から父の主治医に電話して予約。9時過ぎにそこへ行き、薬の処方をもらうと同時に、父の皮膚に発生した発疹のようなものを写真で撮っていき、それを見せて診断をしてもらう。しかし、案の上、内科医のため明言を避け、皮膚科に行ってきちんと見てもらうように、とのご指示。同時に、3日前にお願いしていた介護付老人ホームの入居審査に必要な診断書と診断内容提供書をいただく。その足ですぐに皮膚科の医者に行き、午後に予約を入れる。母に頼まれた買い物をして、帰宅。皮膚科に連れて行くことになった旨を伝え、近所に車椅子を借りに行く。車椅子を入手後、医者からもらった診断書と情報提供書を、入所を希望する老人ホームへ車で行き、提出。帰る途中、ホームセンターにより、庭に敷いた除草用のシートを固定するペグを購入。帰宅後、購入したペグで、一昨日裏庭に敷いたシートを固定する。次に予約を入れた皮膚科の医者まで、父を車椅子に乗せ、それを押して連れて行く。診断を終え、薬局へ、薬をもらいに行く。帰宅後、薬を飲ませていると、老人ホームの入居担当者から電話があり、記載内容に不足があるので、それを入手して欲しい旨、依頼される。その内容を担当医に伝えるも、その情報は、酸素吸入器をリースしている会社の方で出す内容だ、とのことで、そちらへ連絡をとる。電話するたびにコールセンターにつながってしまい、なかなか担当者とは話ができず、計6度の連絡後、ようやく話に目処がつく。夕食後、父の入浴を手伝う。そして、今、やっとこの日記を書いている・・・う~ん、確かに母だけではこんなことはできないなあ、と、いつも不在であることを申し訳なく思った一日。
2010.05.21
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リンロン@日本です。 日本には出張で来たのですが、本当の目的は両親の世話。といっても、いつもはアメリカなので、日常の手助けが出来ないため、日本に来たときには出来るだけのことをやろう、ということなのですが。今回は、父が肺炎で入院したのをきっかけに、それまでの要支援から一挙に要介護4になり、常時酸素吸入器をつけていないといけないことになった。ヘルパーさんや看護師さん、それに理学療法士の方もこられて、週に何度かお世話になっているが、それでも大部分は、母の負担になる。母ももとよりそれほど健康でも丈夫でもないので、このまま行くと遅かれ早かれ共倒れになるんじゃないか、と父自身が介護付老人ホームへの入居を決めた。今回は、私の滞在中にその辺のもろもろを片付けて、老人ホーム入所までの段取りを完了するつもりであった。しかし、24時間酸素吸入器をつけていなければならない、という一点が、これが医療行為に当たるかどうか、で、今現在入所許可がでるかどうか、先方の検討待ち。もし、これがダメだと、あとは、24時間看護師常駐の老人ホームか病院、もしくは、公的介護以外に私費で看護師をお願いするしかない。当然、経済的な負担は一挙に大きくなる。しかし、自宅看護を続けると、先に書いた老々看護による共倒れの危険は常に付きまとう。できれば、今回申し込みをしようとしているところで入所許可が下りればいいのだが。しかし、毎回日本に帰ってきて感じるのは、その高齢化のスピードの速さ。平日の午前中から街をうろうろしているためもあるだろうけれど、目に付く高齢者の数は年々増えている気がする。そして、その多くは、やはり私の両親と同じか、もっと切実な状況にあるかもしれない。うちの場合はまだ、体の方が衰えたとは言え、精神的にはしっかりしているが、これがもし痴呆症などを伴った場合は、それこそ、もう一方の方に大きな負担がかかる。老人ホームという選択は、誰しもそれほど深刻にならない限りは出来るだけ避けたいのは山々だろうし、入りたい、と言っても先立つものがない人もいるだろう。その点、今回は父が自発的に入所を決断し、幸い、それだけの蓄えがあったからいいものの、そうでない場合は(また、そうでない場合の方が割合としては多いのではないか、と思う)本人も周囲も大変だろう。とにかく、世界一の高齢化社会にすでに突入した日本が、今後この高齢者問題をどう乗り切っていくか、というのは世界の中でも今後のケーススタディーとなることだろう。そして、これは誰のせいでもないだけに、相互扶助の精神が根付くかどうか、にかかっていると思う。
2010.05.21
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今日は、月曜日にもかかわらず仕事はお休み。その代わり、実家の家の周りの草むしりを一日していた。実家は借地なのだが、いまどき珍しく100坪の敷地がある。つまり庭だけでも約60坪。父が要介護になってからこの方、庭の手入れはする人もなく荒れ放題だった。そこで、今日は息子の尻をたたいて、私と二人で一日がかりで草むしりと除草剤の散布。昼過ぎには温度もあがり、いい天気という以上に草むしりにはちょっと暑すぎた嫌いがあるが、どうにかこうにか山のような雑草を取り除いたものの、かなりグロッキー。こんな時にも年齢から来る体力の衰えを痛感。今年はは少し体力回復を図ってみようかな、という気になってきつつある。
2010.05.17
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日本に着いて4日目、仕事のほうはお休みにして、今日は父とともに、近くの介護付有料老人ホームを視察。父は今年で90歳。先だって肺炎を患って入院し、今は退院したものの、要介護4という指定を受けた。自宅での介護は、今度は母のほうの負担になってきたため、本人が自ら老人ホームへの入居を決断した。ただ、ちょっと特殊な条件があるので、もしかしたら入居できないかもしれない。その場合は、また別の手立てを考えなくてはならないが、とにかく、この機会に老人ホームのことをちょっと調べてたら、自分の認識不足を改めて感じる結果となった。その認識不足の中身は置いておいて、この超高齢化社会に突入した日本は、こういった老後のケアというものは、今後増えることはあっても減ることはないだろう。実際、こういった施設が次から次へと建てられているため、今現在はそういった施設を建設する土地が不足しているそうだ。私のアパートを管理している管理会社からは、200坪以上の土地を持っている人は、ぜひその土地を提供して欲しい、というお知らせがきた。なんでも5000万円から6000万円の補助金が出るので、ぜひご検討ください、という内容だった。しかし、そんな土地を持っていない私のところへ来てもなあ・・・・持っていたら是非検討したいところだけど・・・。 ?
2010.05.16
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トヨタへの個人的な訴訟の拡大が伝えられたニュースを見て、またか、と思った方も多いと思う。私も、ほとほと米国の訴訟社会にはいやけがさしている一人であるが、この国は、建前としての個人の権利の保護を強調するあまり、強者から弱者を守るという集団訴訟においても、いやこういった集団訴訟においてこそ、そのもともとの意図からは遠く離れて、金のあるところから出来るだけ搾り取る、という数の暴力で押し捲るやり方の弊害が現れているように思う。とくにかく、これが国民あるいは被害者の利益になると思っているおめでたい大衆を扇動して、結局はこういった機会に群がる弁護士を肥やすことになっている以外、ほとんどいいことがない、ということにこの国の一般の人は気がついていない。とにかく、集団訴訟に名前を入れておいてもらえれば、何がしからの賠償金が手に入る、という言葉に乗せられて、数々の訴訟が行われ、企業は企業で、その訴訟はまったく理不尽であるにもかかわらず、裁判を長引かせるよりは和解したほうが、純粋に金額の面からいったら有利なケースがほとんどなので、和解という手段で決着を図る。実際の企業の落ち度と、この裁判の結果はほとんど関係なく、言ってみれば訴えたもの勝ちのようなところがある。で、結局儲かるのは弁護士だけだ。医療に関する日記でも触れたが、こういった企業側のコストは、結局は消費者のほうに跳ね返ってくる。ただ、それが直接的には各訴訟とは関係ないところで進行するものだから、一般の人は、それが自分たちが加担した集団訴訟の結果だとは考えないだけのこと。この国は、とにかく、法を前面に、公平・公正を歌いながら、実質は、弁護士に踊らされているだけ、みたいなところが多い。東芝のPCの訴訟でも、実際に被害が一件も出ていないにもかかわらず、そういった被害が出る「可能性」がある、というだけで、何万にもの集団訴訟に発展し、東芝はこれに和解するのに、1100億円という金額を投じた。このトヨタの場合は、それをはるかに上回る金額になることが予想されている。この大きな部分が、実際のトヨタ車の愛用者ではなく、高級車を乗り回す弁護士に流れるだけだろう。私がこの「アメリカ」を好きになれない、ひとつの大きな要因でもある。
2010.05.15
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さて昨日日本に着いて、一日目です。本日はまじめに(?)仕事を兼ねて、東京ビッグサイトで開かれているショーに行ってきました。日本では右も左もわからない息子を家に残しておいても実家の迷惑になるだけなので、無理やり連れて行きましたが、会場ではやることもなく寝ていたようです(笑)今日は、そんなわけでだだっぴろい会場を半日かけて周りいろいろな企業の人と話をしてきました。疲れました、足も頭も・・・・もう少しましな日記を書きたいのですが、時差もあって、なおかつ、初日から飲み会があり、飲んで食べて、いい気持ちになっているので、もう寝ます。明日は少しは内容がある日記を書けるかと思いますが・・・・おやすみなさい。
2010.05.14
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今日また本棚に読んだ本を追加しました。⇒ 「リンロンの本棚」 もうすぐ200冊です。しかし、覚えていないものですね、自分が読んだ本て^^;私は極端な遅読で、一冊読むのに下手をすると何日も、何週間もかかる。それも、その時の気分しだいで読みたい本がころころ変わるので、ベッドの枕元には常に10冊ぐらいの未読の本が積んである。その中から寝る前の30分から一時間ぐらいを読書時間に当てているので、適当にその時の気分で読みたい本を引っ張り出し、眠くなるか目が疲れるかするとお終い。つまり毎日読んではいても、読書にあてる時間はこの30分から1時間ぐらいが平均。本によっては、読んでは考え、考えては読む、ということで、この時間で数ページしか進まないこともしばしば。いきおい、乱読・遅読に加えて、積読が多くなる。2月に日本へ行ったときに買いこんできた本も、まだ全部読み終わっていない。そうこうするうちに、明後日の12日からまた日本へ行くことになったので、またまたBooK OFFに通って追加購入してくる予定。帰ってきた日には、積読の本だけで数十冊になりそうです。しかし、読みたい本が読める、というのは考えてみると幸せですね。もし私が日本にいたら、毎日のように近くの図書館に通っていると思います。新刊本から雑誌から、本当に多くの本が用意されていて、読みたい本もリクエストをすると大抵は購入してもらえる。こんな便利で有意義な図書館が近くにありながら、ほとんど利用するのは固定した人だけみたいなんで、本当にもったいない気がする。特に、実家からそこの市の図書館まで徒歩2分(笑)なんで、時々日本に帰る私でさえ、図書カードを作っているくらいだから、みんなももっと利用したらいいのに、と思ってしまう。さて、今回の日本出張、またどんな本に巡り合えるか楽しみです。
2010.05.11
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今日は、これで2回目のGLA参加。一種の読書会で、時々で決めた本を皆で読み合い、それについて一人ひとりが感想を述べ合い、またそれについて皆で話をする、という形式。本来なら日曜日は教会へ行っているはずなのだが、このGLAがある日はこちらにくることに。なかなか勉強になります。で、全然関係ない家計簿。GLAで魂とかカルマとか、神とか運命とかの話をしている一方で、現実世界は現実世界として、何も出家しているわけでもないので、こちらもしっかりやっていかなければならない。もともと自分でExcelベースの家計簿をつくり、それで家計を管理してきたのだが、毎年項目も増え、あれもしたい、これもしたい、とだんだん複雑になってきた。そして何よりも、年が変わるごとに、内容を入れ替えるのが面倒で、実は今年になってから、この家計簿をつけることをさぼっていました^^;と、ひょんなところで、この家計簿のサイト⇒ ココマネ を見つけ、ちょっと試しに加入して使ってみたところ、なかなかよさそうな感じです。で、二日ほど前からこちらで家計をつけ始めました。今まですでに4ヶ月もさぼっていたので、一気に、というわけには行きませんが、まずはその日その日の入金・出金を記録していき、時間があるときに、おいおいと過去にさかのぼって記帳してゆこうと思います。私の場合は、この家計簿を作る目的の最大のものはTAX RETURNです。毎年、3月から4月にかけて、このTax Returnをやるのですが、本来ならビジネスの関連で出費や収入がすべて記録をとっていなければならないのに、だいたい出来ていない。そこでどうしても思い出し思い出し、残っている手がかり(銀行やクレジットの記録)をつてになんとか仕上げるのですが、やはり相当抜けが出ていると思われます。収入の抜けはまだしも(こちらはきちんとしたフォームで記録が送られてくるため)、出費の方は、自分で記録をとっておかないとどこからも情報がくるわけではない。そして、この出費の金額はそのままTAXに響いてくるので、あるとないとでは税金の金額が全然違ってくる、ということで、節税のためにはきちんとつける以外にない。ということで、今後、この楽天の日記を書くときは必ずこのココマネにアクセスして、その日の入出金を記録する、というルールを作りました。さて、今日もこれから記帳です。今日は出金だけですけど・・・・・
2010.05.10
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昨日書いたように、新しいHPのノートブックを買ってきたのだが、今までの東芝のノートブックからこれに変更するのが大変!!今日は朝からやっているが、まだ終わっていない!!なにせ、個人的なことから、会社の仕事、それに個人でやっている不動産業関係ほかも含めて、すべてこのPCでやっているのだから、私の生活のほぼ全般に関わっていて、使用しているソフトからデータまで、その数と量は膨大・・・まずは、新しいパソコンなので、リカバリーディスクを作成。これも、一頃のようにCD-Rで作ろうと思ったら、DVD-Rに変えろ、との指示が出て、仕方なくDVD-Rを買いに走りました。次に旧PCの全データをBack-up。これは、特に個人用のDocumentと、OutLookの全データなので、どちらも膨大。特に今までの東芝のPCは、HDDが5400rpmなので、遅くて遅くて・・・次に、新しいPCへのソフトのインストール。こちらはHDDが7200rpmなので多少早いが、それでもMSのOfficeを含めて、え~と、すでに10本近くのソフトをインストールしたのかな?そして、今度は、MSのサイトから、このMS Officeのアップデート。これが、全部で550MBということで、使用回線のダウンロードスピードが遅いので、これまた時間がかかりまくり・・・先ほどからやっているのですが、まだ続いています。そして、これが終了すると、旧PCから新PCへの全ファイルの転送。そして、会社のVPNへの接続設定。会社のネットワークとイントラネットへの接続設定。あ、そう言えば、MSのProjectのインストールと設定もしなければプロジェクト管理もできません。そして、会社と自宅のワイヤレスネットワークの接続設定。仕事で使うWebベースのセールス・ツールのインストールとセットアップ。自分で使う各種サイトの登録+アクセスPCの変更・・・あ~あ、まだまだやることがたくさんあります。ということで、まだ新PCの方のDVDがガチャガチャいっているので、この日記はまたまた旧PCで書いています。いつになったら新しいPCへ全面移管できるのか・・・少なくともあと一日はかかりそうです。PCを変更するのって、大変だあー。
2010.05.04
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長年、東芝のSateliteというシリーズのLap Top PCを愛用してきたのだが、3月から、このPCのディスプレイが表示しなくなった。それでも、外付けのディスプレーを家でも職場でも接続して、なんとか使ってきたのだが、どうもディスプレイだけではなく、このごろ頻繁にフリーズするようになってきた。そして、外付けのディスプレイがないと使えないので、ラップトップPCなのに、持ち歩いては使えない、という不便さ。今月の後半には日本に出張する予定なので、まさか、外付けのディスプレイを日本まで抱えていくわけにはいかない。仕方なく、今日ゴルフが終わった後に近所の量販店に行って、早速新しいPCを購入してきました。我が家では5台目のPCです。5台目といっても、今まで買ったPCの数ではなく、現在稼働中のPCの数。私が、東芝ラップトップ。妻がやはり東芝のラップトップ。娘は、HPのラップトップ。息子はSonyのVAIOのラップトップと、DELLのデスクトップ。そして、今回私用に、HPのラップトップというわけです。この新PC、なかなか優れもので、CPU Intel Core i3 2.13GHZ.RAM 4GB DDR3HDD 7200RPMの高速HDD 500GB.HDMI端子付きで、TVでYouTubeを見ることができる。USB2.0は3端子付き(これは普通でしょうが)15.6インチのワイドディスプレー。OSはもちろん、Windows 7ということで、私が使うPCとしては必要十分。これで5万円もしません。今もこのPCでこの日記を書いていますが、前のIntel Dual Core 1.7GHz +Windows Vistaであった東芝のSateliteに比べると圧倒的に早く、立ち上がりも、Web切り替えもサクサク行って、快適そのものです。もう、だんだん、PCは消耗品のようになってきましたね。3年も経つ頃には、なにかあっても修理するよりも、やはり4、5万円台の新しいPCを買ったほうがよっぽどいい、ということになっていると思います。しかし、アメリカのPCは安いなあ・・。日本もこのごろ低価格PCがかなり出てきたけれど、ちょうど良いスペックのものになると、まだまだ高い気がするのですが、どうでしょう。
2010.05.03
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昨日から、日米ともにゴルフの話題が大きく報道されている。昨日は日本で石川遼が58の新記録。ラウンドで12アンダーでダントツで優勝。そして、今日はメキシコで、アメリカプロゴルフツアーで、宮里が昨日の首位を守って、開幕以来5戦3勝という成績。すごい、という他はない。しかし、石川の58・・・、私だって今日、久しぶりのゴルフをしてきたが、なんと50!!と言っても、あちらは1ラウンドで58、こちらはハーフ9ホールでの50だが・・・しかし、今日のゴルフ、今年の目標を達成しました!!今年の目標は、先日1年半ぶりにゴルフをやったら105もたたいたので、よし、今年は100を目標に、と、100を切ること、としました。で、今日は、前半50、後半からくも49、ということで、今年の目標達成!!というわけです。そりゃ、目標が初めから低すぎるのじゃないの、と言われるかもしれませんが、ここ2年は100を切っていないので、そんなもんでしょう。で、目標を繰り上げて、今年、もしもう一度ゴルフをやったら今度は95を切る、ということにします。まあ、あとやっても一、二回でしょうけれど・・・課題はパットだけ。他がいいというわけではないのですが、パットがひど過ぎ。3パットをなくすだけで、95の目標はクリアできそうです。
2010.05.03
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やっと分かってきた気がする。神は全てであり、だからこそ神それ自体は無である、ということが。そして、それこそが、私たちが存在する理由でもあるのだろう、ということが。全てであり、無である。古来、いろいろなところで言われてきたこの二分法が、実はこの世界の根本的な真実を表すキーワードでもあるかもしれない。もちろん、神が全てであるからには、我々もその一部に他ならない。また全てであるからには、そこには愛も憎しみもない。あるのだけれど、ない。神と悪魔との相克。悪魔などはない。あるけれども、ない。善と悪。そんなものはない。あるけれども、ない。う~ん、こう考えれば、全てのことがスッキリと収まる。あとは、無限、というものの考え方かもしれない。もちろん、有限に生きる人間に、「無限」を本当には理解できないかもしれない。しかし、ここにおいても人間は「数学」という道具を手に入れている。無限を扱う数学は、必然的に神への思考と結びつく。神の世界、この世の真実、こういったものを考えるときに、その根底に「無限」の概念を持ち続けないと、すぐに人間的な狭い考え方に陥る。今こう考えている私の足元をアリが列をなして歩いている。我々にとってアリは全くレベルの異なる生物である。進化レベル、意識レベル、どんな尺度で見ようとも、ぜんぜん異なる。そのアリが左を向こうが、右を向こうが、アリ同士が内輪喧嘩をしようが、私たちはまったく頓着しない。それどころか、全く関心の対象ですらない。ましてや、そのアリを罰しようなどとは思いつきもしない。私たちの神との間の隔たりは、この私たちとアリとの隔たりよりも大きい。なんとなれば、私たちとアリとの際は有限の範囲であるが、私たちと神との間は、無限よりも大きな無限なのだから。この両者の違いの根本的なところは、アリは私たちが作ったのではないのに対し、私たちは「なにものか」が作った、という点だろう。この「なにものか」をあえて私は「神」とは言わない。私の中の「神」は、私たちを作った創造主よりもまた無限に大きいのだから。じゃあ、神ってなにか? それは私たちの最も飛躍的な想像をすら足元にも及ばないものであろう。だから、説明は不能、という言い方が一番正しい気がする。もし、神=全知・全能・至高・至善の存在と定義したとすると、それは「私たちの創造主」とはならない。「私たちの創造者」=神、としたならば、それは「無限」の連鎖の中のひとつに過ぎないのは論理的に明白だからだ。やっぱり、神は無だ。
2010.04.27
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今日、いくつかの事情から、アトランタ在住のGLAの方を紹介してもらい、その方を訪問してきた。GLAについてはまだよく知らないので、あれこれと書くのは差し控えたい。このGLAというのは、こういうところです↓ GLAについて 一般に新興宗教のひとつとして数えられているかもしれない。しかし、その実体は、宗教というよりもひとつの霊的思想勉強会みたいなもの(これが宗教かな?)で、あまり宗教くささはない。ある本には、最も現代的な宗教の形態という紹介があったので、そういう意味ではやはり宗教かもしれない。ただ、少なくともすごくオープンなことは確かで、それが今だけか、あるいはそこだけか、というのはよくわからないが、とにかく、当面はキリスト教会と二股をかけて、しばらく通ってみたいと思っている。少なくとも、このGLAを創始した人でこんな↓本を書いている高橋信次には興味があるので、ここには、その著作が何冊も揃っており、それを順次借りて読んでいきたい。 「心の発見(神理篇)新装改訂版 」(画像はなし。この人の本は古いためか、人気がないためか、みな画像がない)
2010.04.25
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すでに情報があふれている状況に対する警告や注意などがあちこちに書かれる様になって久しい。本や雑誌だけの時はまだしも、現在はインターネットという最強の媒体が現れたため、私たちが触れることが出来る情報量も飛躍的に多くなっている。先だって、車の購入を検討しているときに、もちろん私もいろいろなサイトのご厄介になったが、単に売りに出ている車を見るという以上に、へんな車を掴まないための信用情報とも言うべきサイトも参考にした。しかし、娘があとから加わって、サイトの情報を確認しだすと、次々に別の検索方法を繰り出し、新たなサイトや情報を入手し始めた。この情報収集のスピードとその結果得られる情報の量は、私が一人でネット内情報を調査していただけの場合に比べるとはるかに大量で、そのPC慣れというか、今時の子供のインターネットの利用スキルの高さに驚かされたものだ。学校でも小学校の時から授業でPCの使用方法はもとより、このネット時代に即した内容の教育を受けているのだから、見よう見真似で自分ひとりでここまで来た私などとは全然違っているのは当然かもしれないが、それ以上に、宿題からプロジェクトまで、ネットでの調査が基本にあっての勉強方法の習得は必須なのも影響している。しかし、最初に述べた情報の洪水の中身としては、これだけあふれるほどの情報の質の問題がいつも話題になる。良質な情報と同時に、ほとんど無検閲でのあやふやな情報や誤った情報も、同時にあふれていて、どちらかと言うとこちらの方が圧倒的に多いだろう。先日紹介した「トンデモ本」で取り上げている本にしても、媒体こそTVや本での内容を題材としているが、お金を出して買った本にしてからが、こういった誤った情報にあふれていて、それをまともに信じる人が後を絶たない。中には、新聞やTVでの報道や特集番組においても、信じられない内容が報道されたりするし、TVの番組に至っては、その不確かさを知っている上で、視聴率稼ぎのためだけに番組を編成する場合も多々ある。こういった場合に、その内容についての確固とした知識を持たないと、ただ新聞やTVで名の通った人が述べている、というだけでさも真実扱いされる。こういった時代にこそ、確かな知識が要求される。そのためには、物事に対する見方、姿勢がしっかりしていないとトンでもない誤解や偏見を持つ結果となる。ひとつだけ言えることは、あることに対する評価をする場合には、その見方をサポートする側と同時に、それを批判する側の見方も踏まえて自分なりの判断をするべき、ということだろう。それでも誤解や偏見の危険性は残るにしても、一方からの見方だけで物事の是非を判断するよりはよほどましな結論をうることができるはずだ。ここで、うすうす何のことを言っているのか気づいた人もいるかもしれないが、この見方、考え方は今日の宗教に関する知識にしても同じ事が言える、ということをいいたいわけだ。いやもしかすると、宗教に関することに「こそ」かも知れない。
2010.04.21
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娘はまだ17歳。しかし、すでに限定ではあるが車の免許を持っている。そして18歳の誕生日までには限定解除をしたいと言っている。兄が17歳で車の限定免許をとり、18歳で限定解除したのに比べると約一年早い。当然、免許は車を運転するためのものなので、それを持つと車が欲しくなるのは人情というもの。それに、娘は息子に比べて外交的というか社交的というか、週末はほとんど家におらず、友人の家やら教会やら、大抵どこかに出かけている。そんな時、よくしたもので、車を持つボーイフレンドが娘を乗せて行ってくれることが多いが、そうでなければ親が送り迎えをせざるを得ない。アメリカではどこもそうだろうが、車がないとほとんどどこにもいけないので、親の多くは、子供が高校生になると、そこそこの車を買い与えている。そこで今回の娘の車・・・こんなもんだろうか? 車は、マツダのMazda6、2006年モデルで、エンジンはDOHCの2.3L。 装備はフル装備で、Boseのスピーカから、オールパワーコントロールから、なんでもあり。もちろん中古なのだが、アルミホイールがやけに格好良いのがついている。走行距離は5万9千マイル、日本で言えばすでに9万キロ超だが、アメリカではこれでもLow Milageと言える。(大抵の車は少なくとも10万マイル、16万キロまでは使うし、私が乗っている車など既に17万マイル、27万キロである!!)これで、日本円で約75万円。日本の中古車の相場は知らないが、こちらでは車は大抵ガレージに入れることが多いのと、走行距離に比べて、停止・発進などの回数は圧倒的に少ないので、車の傷みは少ないので、結構いい値段ではないか、と思う。この車も見た目は非常にきれいで、乗っても特に問題はなさそう。今日、購入前にマツダのディーラーに持っていって、ディーラーが車を下取りした時にチェックする検査項目を全てやってもらったが全く異常なし。多少、内装が汚れているが、そんなものは4年も乗っていればこんなもんだろう、と思える程度。う~ん、どうしようか・・・娘には、猫に小判 と言っていいほど、格好良すぎる車だが・・・・。
2010.04.20
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昨日の読書と、今日の教会での聖書勉強会および礼拝の覚書き。なにか残しておかないと、何を聞き何を学んだか、考えたか、一日も経つと忘れてしまうので^^:1)道はいくつもある目標にたどり着く道はいくつもある、と基本的には思っている。もちろんその中には、早い道、楽な道、苦労する道などなどいろいろな道があるだろうけれども、総合的に方向さえ間違わなければいつかは目標にたどり着く。私が既存の宗教に対して持つ否定的な感覚のひとつの源がここにある。全ての宗教とは言わないまでも、ほとんどの宗教は、「でなければならない」調。私(イエス)を通して「しか」天国にたどり着けない、というキリスト教にしてもしかり。私個人としては、イエスは「私を通して天国へいける」とは言ったが、私を通して「のみ」とは言わなかったはずだ。「・・・しなければ・・・できない」「・・・を通してのみ、・・・できる」「・・・しないと、・・・・になってしまう」。。といった言葉が出てくるたびに、どんな宗教の本でも、人の話でもしらけてしまう。2)山上の垂訓有名なイエスの山上の垂訓であるが、よく読むとよくわからない。心の貧しいものは幸いである。英語でもPoor in spilitとある。これが全部で8つ、・・・なものは幸いである。なんとなれば、・・・であるから、と続く。しかし、ほかの項目はともかくとして、この「心が貧しい人は」というのは、たぶん訳の間違いか、訳の不十分なものではないか、と思う。教会学校では、このところを「心が貧しい」→ 「心が飢え、乾いている」→ 「何かを求めている」という形で、肯定的に捕らえている見方を以って、この「幸いである」に結び付けている。そうだろうか?これは一般的に「心が貧しい」という意味とは両立しないように思える。3)イエスの奇跡イエスは数々の奇跡を行い、次第に信者を増やしていった経緯が聖書には随所で語られる。すべて、イエスの愛と、神の子としての全能性を訴えるものだが、その記念すべき(?)最初の奇跡というのは、母マリアが手伝っていた婚姻の席でのワインの話である。婚姻の祝いの席で、客に提供するワインが底をついてしまった。そこでイエスが何かをするので、マリアは使用人に対して、この人(イエス)のいうことはどんなことでも聞いてやってほしいと頼む。イエスは使用人に真水をカメいっぱいに満たすように頼む。するとその水はいつの間にか上等のぶどう酒になって、客に十分ふるまえうことができた、という奇跡である。これをもって、イエスが「祝いの席が、途中で、酒がなくなったために台無しになることをその奇跡で救った」ということになり、イエスを褒め称える。しかし、これもなんらかの比喩だろう。もし比喩でなく、これが事実としての「イエスの初めての奇跡」だとしたら、なんともさびしいではないか。それだけ記念すべき「奇跡」をもたらすのだったら、もっと他にいくらでも対象はあるはず。もちろん、イエスの奇跡は、その後、病人を治す、傷を一瞬のうちに完治させる、歩けなかった人を歩かせる、はては死んでいた人間まで生き返らせる、といった、いわゆる奇跡というか、今でいうと「心霊治療」とも言える出来事がいろいろ出てくる。しかし、この現在においても「心霊治療」をする人は数多く、それだけが(いや、それが、か)「聖なる」しるしでもなんでもないことは常識である。また、一般に超能力とか霊能力と言われる物と、人格の高さはなんの関係もない。ここを勘違いして、多少でもその類の能力(チャネリング、ヒーリング、予知、遠視のたぐい)があると、舞い上がってしまい、ただの人間を生き神様にしてしまったりと、とんでもない誤解を生む。そんな人は世界にごまんといること、その能力と人格は無関係であること、そして、その能力とは、音楽に秀でる、数学ができる、耳がいい、といった五感や一般的な能力と同じ類の差異が人と人とのあいだにはある、と認識すべきだろう。音楽ができたり、数学が得意だったり、人より多少耳がよかったり、味覚がするどかったりしたら、その人を神様扱いするだろうか?(笑)
2010.04.18
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昨晩は夜八時から、アトランタシンフォニーオーケストラの定期演奏会。今回は、五嶋みどりをゲストに迎えての演奏会だったので、前回の演奏会をパスして、今回の演奏会にチケットを4枚もらい、家族全員で行ってきた。直前、娘がやはりバイオリンをやっている友人を誘ってしまった事がわかり、急遽、ただ券を入手して私がそのチケットで入る羽目に。娘は、アトランタシンフォニーのユースのメンバーなので、席が空いている限り無料で演奏会を観ることができる。今回は五嶋みどり客演だったのだが、幸か不幸か席が空いており、運よく、家族揃って観ることができた。演奏の合間に、会場の外で、サイン会があり、私の娘はちょうど演奏曲目であるメンデルスゾーンのバイオリンコンチェルトを練習しているところなので、その楽譜と、五嶋みどりの演奏が入ったCDの両方にサインをもらい、おまけに娘と一緒に写真を撮らせていただいた。思ったよりずっと小柄で華奢な感じの方で、この体であれだけダイナミックな演奏が出きることが信じられないほどだ。ともあれ、バイオリンを習っている娘にはいい刺激になっただろう。しかし、娘が練習しているのを聞いていたが、あれだけ長い曲だとは知りませんでした(汗)今度、娘がある程度上達したら是非聞いてみたいものです。
2010.04.18
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いろいろな本を読み漁り、自分なりに考えてきた世界観の中で、そうなんだろうな、と思いつつも、やはりよくわからない、というものがいくつかある。「時間」というものもその一つだ。というより、一番わからない、と言った方がいいかもしれない。頭で、知識で、書くと、例えば、『時間というものは、本当はない。ここでいう「本当」とは「真実」の世界、という意味で、私たちが生きているこの3次元空間は、それに対して「真実ではない世界」と位置づけて考える。確かに、時間と空間が密接に関連し、質量や相対速度に影響される「時間」というものは、私たちが過ごしている日常の感覚から言うと一定のスピードで過去から現在、現在から未来へと流れていると思えるのに、それがこの3次元空間においても正確に言うとそうではない、ということが証明されている』『では、「真実の世界」というのはどういうものか、というと、これはよく分からないが、少なくとも、次元的には時間を加えた4次元をはるかに超える次元を持つようだ。』『では、その「真実の世界」では、過去、現在、未来、というのはどうなっているのか、というと、そんなものはない。全てが「今」起こっている、いや、「今」「現在」というものしかない。』『しかし、同時に言える事は、神の定義は別にしても、神を含めて、この森羅万象の中で、唯一の真実というのは、「全てが変化し続けている」ということであることも確かなようだ。』『しかし、人間の感覚では、「変化」というのは、「この時刻」から「あの時刻」にと時間が経過して、初めて生じる物事の変わりようを言う。』『その「全てが変化する」という真実と、この「時間というものは今・現在しかない」という真実が、もし両方とも「真実」だとすると、この変化というのはいったいどういう類の変化なのだろう。』これがつまり、私の貧弱な頭ではよくわからない点だ。当然、この前提、つまりこの両方が「真実だ」ということを否定すれば、簡単に決着が付くのだが、どうも私には、この両方がやはり「真実」だ、という気がしている。だとすると、この世界の構造、つまり世界観の中で、この「時間」と「変化」というものをどうやって別々のものとして捉える事ができるのだろうか。少なくとも言えることは、ビッグバンによってこの宇宙が誕生したのだとすると、時間もその時に誕生したもので、それ以前には時間と言うもの自体が存在しなかったはずだ、ということ。なんとなれば時間というものは、この3次元空間があってこそ存在する概念であるらしいから、この空間が存在しなければ時間もまた存在しない。こういったことを、数式を使って突き詰めていく、物理学者や数学者の頭はどうなっているのだろう、と驚きを通り越して呆れるしかない、凡人のリンロンでした。
2010.04.16
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昔は四十の手習いと言ったみたいだが、人生80年時代の今日では、五十の手習いや下手をすると六十、七十の手習いであってもおかしくない。すでにいい歳になってから、新たに習い事や挑戦を始めることを言うらしいが、なかなか難しいために心の若さを表す表現とも言える。私も五十歳で早期退職して、一年ほどぶらぶらしていた時期があるが、そのときに、五十の手習いではないが、ギターをもう一度やってみようか、と言う気になった。ギターは完全に我流で、先生についたこともギター教室へ通ったこともなかったが、学生時代、下宿でじゃらじゃらと暇にまかせて一人で弾いていた時期があるので、完全に初めて、というわけではない。だから五十の手習いより、五十の再挑戦といった方がいいかもしれない。しかしやってみると、当時 質はともかく音だけは覚えていたものもすでにほとんど忘れ、指も動かず、昔弾けた(弾けた、というと語弊があるが、一応、覚えていた、といった方が正確かな?)あんな曲やこんな曲も、今ではまったく弾けない。そこで初心に戻って、ということで、ギター教本の最初からやり始めたが、これがなかなか進まない。初級から初めて中級へ差し掛かると、急に難しくなって、しばらくお休み。するとてきめんに指が動かなくなり、また初級曲へ逆戻りというのをこの5年間繰り返している。で、せっかく少し弾けたのに、しばらくすると弾けなくなって、弾けた!という証拠も残らないので(笑)、口で「昔は弾けたんだぞー」というしかない。そこで登場したのがYouTube。一昨日、カラオケを録画したが、これをなんとかクラシックの方にも使って、この証拠を残すことに。というより、自分の動機付けにちょうどいい。まずは、知る人ぞ知る(知らない人はぜんぜん知らないでしょうが)、新堀ギター教室の教本の初級の曲から・・・風呂場でギター第2弾 - Andante in A minor by Carulli しかし、練習ではノーミスで弾けても、ビデオを撮るとめちゃめちゃになるのはどうして??? 遊びでビデオに撮るだけでこれだけヘロヘロになるんですから、プロがお客様の前で、一発勝負のライブをやる、というのはすごいことだなあ、と改めて思います。PS.BachのBouleをセゴビアのものから、AndanteLargoさん(YouTubeの人)に入れ替えました。こちらの方がなぜかしっくり来るので・・・。
2010.04.13
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やってしまいました。家族から家庭内騒音公害と呼ばれ、行き場所を失ったあげく、とうとうバスルームに閉じこもり、一人カラオケをやる羽目に↓ Play Guiter in the Bath Room - 風呂場でギター 青葉城恋歌編 音楽というのは音を楽しむと書く。つまり楽しくなければ音楽ではないし、音楽は楽しめればいい・・・例え自分だけでも^^昔から風呂場で湯につかりながらすきな歌を歌う、というのは究極の自己陶酔型音楽であった。さすがにギターを持って湯には入れないが、家のバス・ルームの閉じこもり、ドアを締め切ってやってみると、これはこれでなかなかの音響効果。早速ビデオにとってYouTubeへ、と。家のものが帰ってくるとまたまた何を言われるかわからないので、そそくさと片付けてしまいましたが、結構良い音で撮れるのでまたやってみようかな、とその気になってしまったリンロンでした。PS1. 画像を入れ替えました。2度録画したのですが、なぜかぶっつけ本番の一度目の録画の方が多少ましだったので。しかし、もう少し良く、と思ってやるとだんだんダメになるのはどうしてでしょう???PS2.帰ってきた家のものにアップした画像を再生しているところを見つかってしまいました。いわく、「家庭内騒音公害が、本当の公害になっちゃうじゃないの!」
2010.04.11
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一度海外へ出た事がある人は、ある意味、外から日本を眺める機会を得たことがある、とも言える。ただ短期の海外旅行、それもショッピングや観光だけを目的にした短期旅行ではあまり深くは考える機会もないだろうが、それでもいろいろな面で日本との「違い」を実感したことがある人は多いと思う。これが海外で生活するか、あるいは住むとまでは行かなくとも比較的長期にわたって滞在したことがある人は、いろいろな意味で、日本とその国の違いを発見し、時にはその違いから日本にいては考えた事もなかったような「日本」という国の特色を再発見する機会を持った人もたくさんいるはずだ。私自身、海外が長くなって、すでにかれこれ20年近くになる。もともと「愛国心」などというものとは無縁であると思っていたが、特に日本で愛国心というと、他の諸国では自分の国を愛する事はごく当たり前のことであるのに、なぜか、右翼、とか反動とか、戦前の軍国主義を想起させるような風潮があることから、敢えて「自分は日本と言う国が好きだ」などとは人前で言うことはめったにない。しかし、なんのかんのと言っても、自分が生まれ育った町が故郷という形で特別な位置付けを持つのと同じ意味で、自分が生まれ育った国、日本というのはやはり日本人にとっては、たとえどこで何をしていたとしても特別な存在であることに変わりはない。先日、「日本の医療は世界一?!」で書いたように、ほかの国の内情がよく分かってくるに連れ、それに対する日本のあり方を比較した時に、贔屓目ではなく日本のすばらしさが見えてくる場合も多々ある。それは日本では毎日暗いニュースばかりが飛び交い、日本人をして謙遜を通り越して自己否定的な性格を持ち始めていることにも原因があるだろうけれど、そしてそれを助長するマスコミの報道姿勢にも問題があるだろうけれど、本当にそうなのだろうか、と立ち止まって考えて観る機会が、海外へ行った時に得られる場合がある。報道などは、とにかく「現状批判」では無くてはならない、という脅迫観念でもあるのだろうか、他の国と比較してみる場合もだいたいのケース、日本が悪い部分のみに焦点を当て、それを以って「日本は遅れている」とか「日本の官僚は・・・政府は・・・」という論調になりがちである。しかし、そういった先入観を抜きにして、もし日本と言う国を客観的に観ることができるならば(それは簡単ではないし、だいたい客観などというものがあるのかどうか自体が疑問かもしれないが)、悪い所は悪いと認めると同時に、良いところも良い、と素直に認めることも必要であろう。ところがそんな報道はほとんど観られない。昔、アメリカに留学して帰国した知識人が、なんでもアメリカの良いところを引き合いに出して日本を批判し、アメリカかぶれと批判されたこともあったが、その傾向は一部知識人に留まらず、ある意味、国民性みたいなところがあって、外国と比較して日本はいかに悪いか、という記事に対する関心が高かったり、なにかというとすぐ外国の日本に対する見方や意見を気にする、という傾向に如実に現れている気がする。経済的な苦境や、個々の分野でのどうにもやりきれなくなるようなニュースが日常茶飯事で流れていることは確かなのだが、どうも全体として見ると、日本と言う国は平均点としては非常にいい線を行っているような気がしてならない。これは定量化できない部分も含めての話なので、それをデータとして示すことは不可能なのかもしれないが、それでも、やはり日本に住んで居た方がいい、と思わせる何かを、この国が持っていることは確かだと思う。日本は、あるいは日本人はもっと自信を持ってもいいのではないか、という気がするのは私だけではないだろうと思う。ただし、それがうぬぼれや尊大さに繋がらない限りは、という条件と、もう一つは、この日本の良い面の多くが、国と地方自治体を含めた「公」の膨大な借金というツケを残していることだけは忘れてはならない。
2010.04.09
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幼馴染みという言葉は、どの程度親しかったら使うのかは知らないが、今日、日本から小学校の同級生が来る。彼女の中学、高校を通しての親友がここアトランタに居て、彼女を訪ねて来るのだが、私の方にも声がかかり、明日休暇をとってゴルフをすることに・・・彼女とは一度日本でゴルフをしたことがあるが、その時は始めて一年ぐらいで、スコアがまとまり始めた、ゴルフが面白くなるちょうどそんなタイミングだった。それから数年、こちらはほとんど年に一度やるかやらないか、なので、もしかすると追い越されているかも。。アメリカに来た主目的は「マスターズ観戦」。今週から始まるマスターズの予選を見物するためらしいが、まずは本人が初めてのアメリカのコースでプレーをしたいようだ。場所は私の家から車で10分ほどの3番目に近いゴルフ場。(つまり、もっと近いゴルフ場が二つあるのだが、両方ともプライベートコースなので会員が居ないとできない) こんな感じのコースだったかな?とにかく住宅地の中のコースなので、コース横には普通の家がならんでいる。久しぶりのプレーなんで、ボールの行き先はボールに聞いてくれ、という感じになりそうだが、少なくとも空振りをしないぐらいには素振りでもしていこうかな・・
2010.04.06
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1月から2月にかけて、例年のように確定申告を兼ねて日本に出張してきた。その時の主目的は、個人的には当然確定申告なのだが、そこはそれ、出張名目で帰国しているので、仕事もやらなければならない。で、その仕事というのは、本職の方のNetwork Stackの販売、および販売チャネル拡大である。で、新しい販売代理店の開拓にと名古屋まで足を伸ばしたのだが、そこでお会いした会社の社長さんからは結構厳しい意見をいただいた。その中で印象に残っているのは、いまさらVoIPでもないでしょう、というもの。VoIPというのはVoice over IPの略で「ボイップ」と読む。早い話が、音声をIPに乗っけてしまおう、というもので、私も退職前にいた会社でも、10年以上前にこのVoIPとWiFiを組み合わせた機器の開発を手がけたことがある。あの頃はまだ802.11bがやっと出始めた頃ではあったが、これとVoIPを組み合わせて企業内はもとより、家庭内のコードレス電話や構内無線をこれで置き換えよう、という意欲的なものだった。今ではIP電話が結構普及してきたが、当時はIP電話などほとんどなく、まだSIPがメジャーになる前だったので、VoIPの方式にしても、WiFiの方式にしても焦点が絞りきれないところがあって、結果的には商品化まで至らなかった。しかし、いま私の会社では、このVoIPがSIPベースで受託開発のほとんどを占めている。当然、そこにはSIPスタックだけではなく、SDP,RTP、RTSPなども絡んでくるし、基本となるミドルウェアとしてTCP/IPスタックからDHCPやHTTPなども多くの場合含まれてくるけれども、アプリケーションとしてはVoIPである。なのに、日本のこの会社で「いまさら・・・」といわれたことは驚きだった。しかし、いろいろな会社からの委託開発をやっていると、このVoIPの活用はまだまだこれからだという気がしている。巷ではBBフォンだけでなく、20を超えるキャリアーからIP電話サービスが提供されているしSkypeに代表されるように、無料、もしくは非常に低価格なPCフォンサービスなども徐々に拡大してきている。これらは全てSIPなのだが、こういった広域アプリだけではなく、病院内のナースコールシステムや、集合住宅のインターカムシステム、あるいは軍や警察などの非常連絡システムなどなど、今までアナログ通信が使われていた部分で、DSLや光ファイバー、CATVなどによる高速ネットワークインフラが普及するにつれて、いっそのことこれに音声も統合してしまえ、という機運は高まってきている。いまさらVoIPなんて、ではなく、これからはVoIPを、だと思うのだが・・・
2010.03.27
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オバマ政権による国民皆保険を目指した医療法案が可決された。よく日本でも話題になるが、アメリカは今まで日本の健康保険・国民保険に相当するものがなく、お金が無い人は無保険状態で、病気になっても医者にもかかれない、という大きな格差が存在した。最近こそ日本でも、国民保険に入れない貧困世帯が増えている、というニュースが流れるが、アメリカの場合はその数においてもその比ではない。特に、2000年以降、リーガン、ブッシュといった大統領のもとで、この格差社会はますますその貧富の差を広げてきた。で、初めに書いた今度の医療保険がこれを少しでも解決するのか、と言うと、これもそう簡単ではない。昨日もニュースで、アメリカ人でChapter13とかChapter17とか、つまりはBankrupsy(自己破産)を申告する人が急激に増えているというのがあった。この2007年から2年間は、前年比30%以上の率で増加しているそうだ。これもリーマンショックとそれに続くサブプライム問題、そして景気の低迷が当然影響しているわけだが、長引く不動産価格の下落は、あてにしていた家のEquity頼みの生活を破壊したのみならず、いまだにローン破産によるForeclosure物件(競売物件)が増え続けている。家のフォークロージャーは、ローンの支払ができなくなるだけで、家を取られはするが破産はしない。では、なぜ自己破産が増えているか、というと、この不動産価格の下落もその一端を担っているのは確かだが、それ以上に、1)失業 2)離婚 3)お金の使い方(クレジットの使いすぎ)と言った原因もあるのだが、大きいのはなんと4)医療費というがある。いったん、重病や習慣病(治療に時間がかかるもの)、それに事故や特殊な病気になったりすると、すぐに何百万円、ともすると何千万円の医療費になってしまい、それが到底払いきれずに破産する、というケースが多い。ここで重要な点は、これらの病気による破産者の7割以上がなんらかの保険に入っていたにもかかわらず自己破産まで追い込まれた、ということだ。つまり、よく言われる無保険者が多いから、医療にもかかれず、そういった人たちが一方では自己破産する、と言う図式ではなく、保険に入っていても医療費の高騰を受け、保険でカバーできないところで自己破産する、という。最初の国民皆保険は、その意味で、最低限の医療を国民に受けさせることはできるかもしれないが、だからと言って、この自己破産をとめることは到底期待できない。「貧困大国アメリカ」というのは、堤未果さんの岩波新書のルポ(下記)だが、 ルポー貧困大国アメリカこの本にもあるように、アメリカの格差社会というのはますますひどくなっており、4人家族で年収200万円以下のいわゆる「貧困層」がすでに国民の一割を超え、250万円以下だともらえる無料フードクーポンで暮らす人は5000万人に近づいている。健康だけでなく、生存権まで蝕みつつあるこの格差社会の行方はいったいどうなってしまうのだろうか。
2010.03.26
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イスラム教のみならず、キリスト教やユダヤ教においても偶像崇拝が禁止されている。イスラム教に至っては、征服地の偶像の類をことごとく破壊するほど徹底している。これは、この偶像崇拝禁止があのモーゼの十戒、つまりこれら三つの宗教に共通の「聖書」から来ているためだろう。このどの宗教もその重点をどこに置くかは異なるが、キリスト教で言う「旧約聖書」がその土台になっている。しかし、よく考えて見ると(よく考えなくとも直感的にも)、神が人間に与えた十戒の中のひとつが、偶像を礼拝することを禁じる、というのも大きな違和感がある。ちなみに、このモーゼの十戒は、その初めの三つがどうなっているかを見ると、キリスト教でも宗派によって微妙に違う。たとえば、カトリック系では、わたしはあなたの主なる神である。1.わたしのほかに神があってはならない。 2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。ところがプロテスタント系では、1.主が唯一の神であること 2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止) 3.神の名を徒らに取り上げてはならないこと (4.安息日を守ること )と、プロテスタントにある2.の偶像礼拝はカトリック系ではなくなり、代わりに9番目に「隣人の妻を欲してはならない」というのが入ってくる。同じ旧約聖書をもとにしているにしては、この重要なモーゼの十戒が違っていることも変な話だが、それがもともとどんな意図で書かれたのか、ということを抜きにしては解釈できない。カトリック系で、この条文がなくなっているのは、それなりの歴史的背景というか理由があるわけだが、その理由を考えると、もともとの十戒にはやはりこの条文が有った、と言った方が正確だろう。しかし、神がいたとして、その神が人間に「守るべきもっとも重要な戒め」を与えたとしたら、その中に「偶像を作ったり、それを敬ったり」することを禁止する、という項目を入れることがあるだろうか?日本語的には「戒め」は禁止命令的なニュアンスがあるが、もともとはもう少し柔らかな「警告」あるいは「した方がよい」という程度のニュアンスだ、という説もあるが、それでも、この条文だけは他の条文に比べると、どうも違和感がある。そんな感想を持ちながら、先週の聖書勉強会においてもこの「偶像」に関する箇所が出てきた。当然、私の通っている教会はバプティスト系なので、上記のプロテスタント系に近い。つまり、やはり偶像を否定し、偶像崇拝を否定する。またそれを異教のシンボルとして捉えたり、「間違った信仰」のかたちとして捉えている傾向がある。しかし、もともと上に述べた疑問、つまり「十戒」の中にこの条項がなぜ、ぽつんと違和感がありながらも入っているのか、と考えていたところ、これは比喩ではないか、と気が付いた。ご存知のように、聖書は旧約は特にそうだが、新約も極めて比喩が多い。その比喩を比喩ではなくそのまま受け取ってしまうと「そんなばかな話」になってしまう場合も多い。そこで、それを比喩として捉え、その意味するところを考えることが、すなわち「聖書の勉強」の一つの大きな内容でもある。ところがこの偶像崇拝に関しては、これを通常比喩としては見ない。直接的に、偶像を作ったり、それを神として拝んだりすることを戒めている、と解釈される。つまり、神は「見えるものの中には居ない」ということを言っていると思うのだが、仏像を拝んだり、神木を拝んだりする人が、その中に神(あるいは仏様)を見ているのであれば、それはそれでいいのではないか、と思う。しかし、ここで私が比喩と思ったのはそんな意味ではなく、この「偶像」というのがすなわち「見えるもの」つまり「物質」というものの比喩ではないか、ということだ。物質、そして、その物質界の「価値」としての「お金」、そういったもろもろの「精神的なものではない」もの、そういったものに価値を置くことを戒めているのではないか、と思うのだがどうだろうか。この「十戒」が、禁止命令ではなく「警告」や「薦め」であったとしても、もし上の比喩の通りであれば、それは現代にも、いや現代にこそ通じる、非常に的確な「戒」だと思えるのだが。
2010.03.24
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このところ立て続けに、数学の本やら、現代物理学の最先端を紹介している本を読んでいる。残念な事に、どの本も帯に短したすきに長し、で余りにも簡単に書いているか、それとも、少しは専門知識がないと内容の理解ができない、という両極端にある。たとえば「フェルマーの最終定理」に関する本では、読み物として非常に面白いが、中に出てくるモジュラー系だの楕円曲線などの言葉を理解できないことには、その真の内容というか、驚くべき成果というものが理解できないので、「フェルマーの最終定理」という過去200年に渡って人間の知性に挑戦のチャンスを与え続けてきた数学上の問題について、ついにその解に到達した、という感動が薄れてしまうのを否めない。同様なことは、現代物理学の最先端で、たとえば「超ひも理論」などの本を読む時に、やはり自分の知識の欠如がもたらす、本の真の驚くべき内容を理解できずに悶々とする。量子力学と相対性理論という、20世紀を代表する科学界の成果について私たちは余りにも知らない。それすらも知らないままに、現代物理の最先端は、この二つの理論が両立しえないことから出発して「大統一理論」を打ち立てようと四苦八苦している。そのひとつが「超ひも理論」ではあるが、実際には私たちの頭は(いや、私自身の頭は、と言って方が正確かもしれない)、いまだに20世紀にも至らず、19世紀のニュートン力学、つまり私が30年以上も前に高校で習った物理の範囲を一歩も出ていない。原子の構造にしてもしかり、いまだに陽子と中性子からなる原子核の周りを、電子が軌道を描いて回っているというようなラザーフォードの原子モデルから抜け出し得ないでいる。しかし、しかし、中身の理解が十分ではなくとも、現在の科学が直面し、打開しようとしている課題や展望についてのおおまかな知識を得ることだけからも、その驚異的な進歩を実感することはできる。そこから導き出せる、唯一の結論は、「私たちはまだ、何もわかっていない」ということだけであったとしても。いくたの科学理論は、その性質上、絶対真理などではなく、私たちが自分で経験する事実や現象を説明するために編み出された「推測」にすぎない。ニュートンの重力や引力についての理論だって、単なる推測にすぎず、それが厳密には正しくないことは、すでに証明され、そこからあらたな理論が展開される。つまり、全ての科学的「真実」というのは、それが実際の現象や世界を正しく説明できる限りにおいて、という限定付きの「真実」でしかない、ということを私たちは忘れてはならない。そして、なぜ重力や引力が存在するのか、なぜ世界はこのような状態にあるのか、宇宙とは、生命とは、そして究極的に私たちの持つ「意識」とは何か、といった根源的な問いに関しては、私たち人類はその答えの片鱗さえ持ち合わせていない、ということにあらためて気づかされる。それでも、この途方もない、先の見えない、時間と空間、あるいはそれを超越した世界観の構築にむけて、人間だからこそできる、人間のみできるこの幸運を喜ばずにはいられない。そして、そのような幸運と興奮を、たとえその一端とは言え、私のような普通の人間にもおすそ分けに預かることができる、というのは、何と言う、幸運な時代に生まれたのだろう、と感謝せずにはいられない。それにしても、この世界、いや私たち自身とそれを取り巻くこの現実の、いかに精妙なことか!!
2010.03.13
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先週末、2週間ぶりに大学の寮生活を続けている息子が帰ってきました。夜中に指の骨を折ったのなんのって電話がかかってきて大騒ぎした後だと言うのに、何もなかったように・・・(結局なにもなかったんですが。)そこで、「どうだい、大学生活は?」と話を振ってみると、「う~ん、楽しいのは楽しいのだけれど・・・・」と何か、奥歯にものが挟まったような言い方。これは、やっぱり工科大学なんぞに行ったものだから、女の子が少ないとか、なんとか、そんな事なのかな、と下種のかんぐりをしていたが、「何か問題でも?」と話を向けると、「う~ん、なに、と言うのではないんだけれど、何かが足りない。」「何が? 女の子と付き合う機会がないとか?」と誘導尋問すると、「それはあるけれど・・・」だと。「じゅ何が足りないの」と聞くと、「だから、何が足りないのか、よく分からないんだけど、何かが足りないような気がする」のだそうだ。思うに、高校から同じ大学へは何十人も同級生が進学し、寮生活も仲のよい高校からの友人4人での相部屋。また高校から続けているマーチングバンドも、大学のバンドに入って、それはそれなりに忙しく活動しているのだが、考えて見ると高校の時からの延長的ではある。思うに、息子としては、大学に入ったら勉強だけではなく、寮生活も含めて、かなりの環境変化とそれに付随する新鮮さみたいなものを期待していたのではないか、と思う。それが、どうも、やることなすことが、新しいことではあるけれども、どうも全く新しい経験、という感じでもないらしい。そこに、入学前の予想というか、期待とのギャップがあるようなのだ。しかし、考えて見ると、そのような「足りない」意識というのは持つに越したことはない、とも言える。つまり、現状にそのまま満足してはいない、ということを意味するのだから。普通なら、何かが足りない、というと欲しい物が手に入らない、現状に不満がある、という風に否定的な捉え方をされる場合が多いが、この場合の「足りない」感は、もっと上のことや違った事を期待していたものとのギャップの認識である。それがどうも息子の口調からすると、「充実感」と関連しているらしい。だとしたら、その解決策は自分の行動や選択において、いかに積極的になれるか、にかかっている。「思いっきり、やりたい事をやったら? 今それをしなくていつするの?」
2009.09.22
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先日の日記で娘が二つのオーディションを受けたことを書きました。今日、そのうち後で受けた方、つまり娘自身はあまり出来がよくなかったと思っていた、アトランタのユースオーケストラの中では一番レベルの高いアトランタシンフォニーのユースの結果が発表されました。結果は合格!いやいや、諦めていただけに、喜びもひとしおです。これも親ばかですが、とにかく今後一年の活動がこれで決まりました。もう一つの方は、アトランタでこのアトランタシンフォニーについでレベルの高いエモリーユースですが、こちらも受かっていたらどうしようか、という贅沢な悩みが出てきました。もちろん二つ共やることは可能は可能ですが、片や水曜日の夜、片や土曜日の午後と、週に二回もアトランタのMid Townまで車で送り迎えしなければなりません。こらはちょっときつい。しかし、あの娘のこと、両方に結構友達が多いので、へたをすると両方ともやりたい、と言いかねません。すると、普段非常に娘に甘い私は、「いいよ」と言ってしまいそうで、危ないのですよ。まあ、そこまですると勉強に差し支える、とかなんとか言って、一つに絞らせるしかないかなあ・・・・
2009.09.15
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本業が忙しくなっているにも関わらず、副業の方も手を広げています。またまた懲りずに、新たなビジネスに手を出しました。今度はこれ↓です。 Business of Business 名称はTGN(The Global Network)というものですが、今までのビジネスとちょっと違って、ビジネスや起業をサポートするビジネスです。2月に始まったものの、なかなか内容が固まらず、先月やっと内輪での発足パーティーを行い、明日はいよいよ本格的な一般の人に対するセミナーの初回を開催することになりました。まあ、まだ参加者は20名ほどで、ネットワークビジネスとしては本当に途についたばかり、逆に言えば、無限の可能性があります。発足したてなので、発起人というか起業したメンバーとも何度も会っていて、かなり私なりの意見も入れてもらいました。ということで、まずは自分がメンバーになって、このビジネスの長所・短所を一メンバーとして捕まえていき、それを今後の活動にも活かしたいと思っています。まだ対象がアメリカだけですが、もしこの活動にご興味がある方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡ください。日本語でのプレゼンテーションも私の方で用意しました。ネットワークビジネスはやはり、初期に参加するのが最も成功率が高い、と言えるので、この会社は、すでに書いたように、発足したばかりです。その反面、まだ評価が定着していない、という部分は当然ありますが、それを補っても余りある魅力にあふれています。ぜひサイトのプレゼンテーションをお聞きください。
2009.09.12
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昨日はエモリーユース、今日はアトランタユース・・・なんのことかと言うと、娘が昨日、今日と受けているオーケストラのオーディション。あまり練習をしていないので受かるのかどうか親から見ると不安ですが、本人は至ってのんきで、昨日はオーディション後、もう合格したような態度でした。まあ、本人が自信満々の時は、えてして結果は逆になることが多いので、なんとも言えませんが。今日はまだ帰宅していませんが、本命のアトランタユースの方はどうだったんでしょう。本人が好きでやっているバイオリンなので、なんとかやりたいことはできるだけやらせて挙げたいとは思っているのですが・・・<追記>先ほど帰宅しました。昨日とはうって変わって、結構ご機嫌斜め。ということは、あまりうまく行かなかったのかな、と思いますが。さて、結果は来週早々には判明するそうなので、これから一年の活動がこれで決まります。どちらにころんでも、良い経験にはなるでしょう。
2009.09.11
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先日、私の勤めている会社の特殊な勤務形態についてちょっと書きましたが、最近はあまり、午後から出社とか言っていられなくなりつつあります。というのも、嬉しい事に、受注活動がこのところ非常に活発になってきているからです。詳しい記事はこちらのブログ↓で書きましたので割愛しますが、「Embedded SIP,VoIP,Webプラウザの受注が急増」とにかく、私の担当範囲であるアジア地域では、この9月で昨年1年間の販売実績を上回る見込みです。ただ、残念なことに、上のブログでも書きましたが、日本はその中において未だに受注が低迷していることが気がかりです。 あまり普通の方には関係ありませんが、上の写真をクリックしていただくと、私が今作りつつあるこの会社のHPに飛びます。少しでも、日本の企業にも頑張ってもらいたいものです。このHPは先にリンクしたブログとも繋がっていて、Google検索では、最近は関連用語で検索すると1ページ目に表示されるようになってきました。少しでもいろいろな開発関係の人の目に止まって、新製品への開発に是非活用してほしいものです。
2009.09.10
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