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「パウロのあかしに学ぶ」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、1章12~17節 「福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命された」パウロは(第二テモテ1章11節)、後輩の若い伝道者テモテに伝道と説教と牧会に関する様々な勧告をする前に、まず祈ることを勧めています(第一テモテ2章1節)。このようなところに「福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている」(ローマ1章9節)パウロの敬虔さをみるのです。 しかしパウロは、祈りを勧める前に自分自身の救いのあかしを述べています。これは誠に興味深いことです。13節には「以前」、16節には「今後」と記されています。ここに彼の過去と現在と将来の姿が描かれています。 一、パウロの過去の姿--罪人のかしら(13、14節) パウロは、キリストの救いを知らない以前は、、「神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者で」あり、「罪人のかしらで」あることを痛感していました(13、14節)。 しかしパウロは、人の前においてはキリストの救いを信じる以前は優秀な人物でした。彼は、「律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者」でした(ピリピ3章5、6節)。このようなことを現在の私たちに当てはめるなら、教会の集会に励み、熱心に伝道し、品行方正な信仰者ということができます。 しかしパウロは、神の前に出た時、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者以外の何ものでもなかったことがわかりました。まして神を知らず、教会にも行かず、善行にも不熱心で、品行の正しくなかった私たちは、パウロよりもさらに神をけがす者、人を憎み、迫害し、暴力をふるう者であり、罪人のかしらではないでしょうか。もし私たちにこのような自覚がなかったならば、ほんとうの意味において神の前に出ていないのです。 二、パウロの現在の姿--救いの感謝にあふれた信仰者(12、15節) けれどもパウロのように神の前に出て、罪を深く自覚するなら、罪人を救うためにこの世に来られたキリストを信じて、罪を赦され、新しく生まれ変わることができます。 パウロは、ほんとうに謙虚で、感謝に満ちあふれた人でした。なぜなら罪の自覚と救いの自覚が極めてはっきりしているからです。14節の言葉は、ちょうどローマ人への手紙の5章20節を読むようであり、罪の自覚が深ければ深いほど、それだけ神の恵みに対する感謝が深くなることを教えています。 パウロは、自分のような罪人のかしらが赦されて、救いを受けただけでなく、「忠実な者と認めて」、福音を宣べ伝えるという「務めに任命して」くださった神に心から感謝をささげています(12節)。そしてこの感謝がさらに恵みを受ける秘訣であり、福音を宣べ伝える原動力になるのです。 三、パウロの将来の姿--人々の見本とされる信仰者(16節) 神のあわれみは、過去において罪人のかしらであったパウロを赦してくださったことですが(13節)、この同じ神のあわれみは、パウロを今後キリストを信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようとしてくださるのです(16節)。 もし私たちが、これから救われる人々の見本となることができるとするなら、それは、神のあわれみ以外の何ものでもありません。 しかし私たちが神のあわれみを忘れ、自分自身の何かによって良いことができるかのように思うなら、高慢になり、人々の見本どころか人々を見下してしまうことでしょう。実に神の計り知れないあわれみこそ、すべての恵みと祝福の基です。 私たちは、これから救われる人々の見本となり、神があがめられるためにキリストの尊い救いを受けたのです。
2010.12.31
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「キリストの受肉(3)その痛みについて」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、5章7節 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(7節)。 先回は、キリストの受肉の第二回目として「その疲れについて」学びましたが、今回は第三回目として「その痛みについて」学んでみましょう。 イザヤ書53章には「痛み(痛める)」という言葉が3回(4、7、10節)記されています。その痛みは私たちのためですが、「罪(咎)のために」という言葉も3回記され、それは痛みの内容を教えています。◆それは、刺し通される痛みです(5節)。◆それは、砕かれる痛みです(5節)。 ◆それは、打たれる痛みです(8節)。 一、痛みの種類 人間を構成している「霊」と「心」と「からだ」によって三種類の痛みがあります。 1.肉体的な痛み からだの苦痛のことで、これは医学的に病気や怪我がいやされなければ、取り去ることができないものです。 2.精神的な痛み 心痛のことで、これは心を突き刺されるようなむごいことを言われたり、脳天を打ち砕かれるような衝撃を受けたり、打ちのめされるようなひどい目に会ったりして心が傷つくことです。これは気分転換をしたり、ほかのことで気を紛らわせたりしても、容易にいやされることができないものです。 3.霊的な痛み 自分は神のみこころを痛めたり、神を傷つけたりしているという自覚のことです。これは、私たちが神の言葉によって刺し通され、砕かれ、打たれる時に覚える痛みです(使徒2章37節、ヘブル4章12節)。 二、キリストの痛み キリストは、頭にいばらの冠をかぶらせられ(マタイ27章29節)、手に釘を刺し通されました(ヨハネ20章25節)。また平手で打たれただけでなく、むちでも打たれた(マルコ14章65節、15章15節)のです(肉体的な痛み)。 またキリストは、イスカリオテ・ユダには口づけで裏切られ(ルカ22章48節)、ペテロには三度も知らないと言われ(マタイ26章70~74節)、偽善の律法学者、パリサイ人たちを厳しく叱責され(同23章1~36節)、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われ」ました(同9章36節)。キリストの心痛は、いかばかりであったことでしょうか(精神的な痛み)。 そしてキリストは、十字架の上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と、人類の罪を負って死ぬという言語に絶する苦しみを嘗められたのです(霊的な痛み)。 キリストにとって肉体的な痛みや精神的な痛みは、この最も激しい霊的な痛みに備えるものとなったのではないでしょうか。 三、私たちの痛み 「霊」と「心」と「からだ」は、切っても切れない関係にあるので、三種類の痛みは、それぞれ大きな影響を及ぼし合っています。 1.肉体的な痛みや精神的な痛みがないと、霊的な痛みもないかのように錯覚してしまうのです。 私たちは、肉体的な痛みや精神的な痛みがなくても、御霊によって生まれ、光の中を歩んでいなければ、神のみこころを痛めているということを決して忘れてはなりません。 2.肉体的な痛みや精神的な痛みは、私たちに霊的な痛みを覚えさせるのです。 人間にとって最も大切なことは、霊的な痛みを覚えるとともに、それが取り去られることです。人間というものは、肉体的または精神的に痛い目に会わないと、なかなか霊的な痛みに気がつかないものですが、私たちは、霊的な痛みに気づく時、神に近づくことができるのです(詩篇119篇67、71節)。
2010.12.27
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「キリストの受肉(2)その疲れについて」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、5章7節 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(7節)。 先回は、キリストの受肉の第一回目として「その渇きについて」学びましたが、今回は第二回目として「その疲れについて」学んでみましょう。 「疲れ」とは、どのようなことを意味するのでしょうか。次のような三つにまとめることができます。▽それは、足りなさの表れです。 ▽それは、弱さの表れです。 ▽それは、無力さの表れです。 一、疲れの種類 人間を構成している「霊」と「心」と「からだ」によって三種類の疲れがあります。 1.肉体的な疲れ からだの疲労のことで、これは病気ではない限り、必要な睡眠や休息また栄養を取ることによっていやされることができます。 2.精神的な疲れ 心労のことで、これは次のように言うことができるでしょう。(1)どうしてよいかわからない(知性的な面)。(2)どうにもやりきれない(感情的な面)。(3)どうすることもできない(意志的な面)。 これは、色々と学んだり、レクレーションで気分転換を図ったり、正しい人間関係を持ったり、様々な能力を身につけたりすることによっていやされることができます。 3.霊的な疲れ 神の前における無力さのことで、これは、神を「離れては......何もすることができない」(ヨハネ15章5節)という絶対的な弱さのことです。 二、キリストの疲れ キリストは、「旅の疲れで」(ヨハネ4章6節)、休まれたことがあり、また激しい突風が起こり、舟が波をかぶっているような中でも、疲れのために「とものほうで、枕をして眠っておられた」(マルコ4章38節)こともあります(肉体的な疲れ)。 またキリストは、「笛を吹いてやっても君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった」と言って(マタイ11章17節)、ご自分を非難した当時の人々の身勝手さや、「数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかった」ことで(同11章20節)、どんなに疲れを覚えられたことでしょうか(精神的な疲れ)。 そしてキリストは、「わたしは、自分からは何事も行うことはできません」(ヨハネ5章30節)と言われました(霊的な疲れ)。 しかしキリストは、このように父なる神に完全に依存しておられたので、精神的な疲れも肉体的な疲れも克服して、神のみわざを成し遂げることがおできになったのです。 三、私たちの疲れ 「霊」と「心」と「からだ」は、切っても切れない関係にあるので、三種類の疲れは、それぞれ大きな影響を及ぼし合っています。 1.肉体的な疲れや精神的な疲れがいやされると、霊的な疲れもいやされるたかのように錯覚してしまうのです。 私たちは、肉体的な疲れや精神的な疲れがいやされても、神を信じ、キリストにとどまることによって霊的な疲れがいやされない限り、小さな罪にさえ勝つことはできません。 2.肉体的な疲れや精神的な疲れは、私たちに霊的な疲れを覚えさせるのです。 人間にとって最も大切なことは、霊的な疲れがいやされることです。肉体的な疲れや精神的な疲れを覚えることは、私たちに霊的な疲れを覚えさせ、それによって私たちは、神に近づくことができますが(詩篇119篇67、71節、伝道者7章2~4節、マタイ5章3~12節)、それはまた精神的な疲れや肉体的な疲れを克服する秘訣なのです。
2010.12.21
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「キリストの受肉(1)その渇きについて」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、5章7節 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(7節)。 人間は、肉体を持っているために、飢えや渇き、また疲れや痛みなどという独特な不自由さや不便さがあります。人となられたキリストも罪を犯さなかったこと以外は、私たちと同じでした。 しかしこの(飢え)渇きと疲れと痛みは、肉体のみならず霊と心にもあるものです。それで聖書から次のような三つのことを学んでみましょう。▽キリストの受肉(1)--その渇きについて▽キリストの受肉(2)--その疲れについて▽キリストの受肉(3)--その痛みについて まず渇きについて学んでみましょう。 一、渇きの種類 人間を構成している「霊」と「心」と「からだ」によって三種類の渇きがあります。 1.肉体的な渇き のどの渇きのことで、飢えも含めるならば飲食欲のことです。 2.精神的な渇き 心の渇きのことで、これには三つのことが含まれています。(1)知識的な満足を求めること。(2)感情的な満足を求めること。(3)意志的な満足を求めること。 これを実際的に分かりやすく述べるなら、人に理解されたい、人に喜ばれたい、自分の願いが叶えられたいという求めのことです。 3.霊的な渇き 神への渇きのことで、これは神の「みこころを行い、そのみわざを成し遂げ」たいという求めのことです(ヨハネ4章34節)。 二、キリストの渇き キリストは、十字架の上で「すべてのことが完了したのを知って......『わたしは渇く』と言われた」(ヨハネ19章28節)と聖書は教えています。これは、肉体的なのどの渇きのことですが、なぜこのような時に言われたのでしょうか。それは、十字架の上で私たちの罪をその身に負い、人類の罪を贖うという神のみわざを成し遂げている間は、肉体的な渇きも忘れていましたが、それが完了した時、のどの渇きを覚えられたのです。 キリストは、十字架の上で神のみわざを成し遂げたいという霊的な渇きを満たすために、のどの渇きという肉体的な渇きを忘れ、また人に「さげすまれ、人々からのけ者にされ」ることによって(イザヤ53章3節)、精神的な渇きを満たすことも犠牲にされたのです。 キリストにとって最も大切なことは、霊的な渇きを満たすことであり、精神的な渇きや肉体的な渇きを満たすことは、第二、第三のことでした。これは私たちにとっても同じではないでしょう。 三、私たちの渇き 「霊」と「心」と「からだ」は、切っても切れない関係にあるので、三種類の渇きは、それぞれ大きな影響を及ぼし合っています。 1.肉体的な渇きが満たされるなら、精神的な渇きも満たされ、さらに霊的な渇きも満たされたかのように錯覚してしまうのです。 2.肉体的な渇きは、精神的な渇きを招き、それは霊的な渇きをも覚えさせるのです。 前者の典型的な例は、愚かな金持ちの農夫です(ルカ12章16~21節)。彼は、豊作のために肉体的な飢え渇きが満たされましたが、それによって精神的な渇きや霊的な渇きも満たされたかのように錯覚したのです。 人間にとって最も大切なことは、霊的な渇きが満たされることです。後者のように肉体的な渇きや精神的な渇きが満たされないことは、私たちに霊的な渇きを覚えさせ、それによって私たちは、神に近づくことができるのです(詩篇119篇67、71節、伝道者7章2~4節、マタイ5章3~12節)。
2010.12.08
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「三つのさばき」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、4章1~5節 私たちは、世の中に住んでいる以上、色々な人から、様々なことを言われることを避けることができません。しかし、その時、私たちは、それに対して正しく処していきませんと、それに負けて、他の人を傷つけてしまい、正しく歩むことができません。パウロは、三つの「さばき」について教えています。 一、他の人によるさばきについて パウロは、「私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです」と述べています(3節)。 パウロは、他の人がとやかく言うことなどは、取るに足りないことだと言っています。私たちは、他の人から言われる他の人のさばきそのものによって、私たちの永遠の運命が決定するのではないという意味において、確かにその通りであり、他の人のことばなど気にする必要はありません。 しかし、それだからと言って、私たちは、厚顔無恥や傍若無人であってよいはずはありません。なぜなら人のことばであっても、決して無視してはならないものがあるからです。私たちは、次のような三つの原則によって、それを知ることができます。 1.真実の原則 これは、人から言われたことが、私たちにとって真実であるなら、私たちは、それを無視してはならず、認めなければなりません。 2.謙遜の原則 これは、人のことばであっても、それが聖書の教えであるなら、私たちは、それを人を通して語られる神の声として、相手の年齢や身分に関係なく、謙虚に耳を傾けなければなりません。 3.愛の原則 これは、私たちの動機が純粋で、正しく、人からとやかく言われる筋合いのない正しいことであったとしても、それが弱い人をつまずかせるなら、自分の正しさを通さずに、愛のゆえに弱い人の声に聞き従わなければなりません(同8章7~13節)。 私たちは、この三つの原則に抵触しなければ、他の人のさばきなど気にする必要はありません。他の人のさばきは、どこまでも小さなことであり、それよりも他の人のさばきに対して私たちが真実と謙遜と愛の態度をとるかどうかということのほうがより重要なことなのです。 二、自分のさばきについて パウロは、「私は自分で自分をさばくことさえしません」と述べています(3節)。 これも他の人のさばきと同様に、私たちは、自分で自分の善悪を判定する自分のさばきそのものによって、私たちの永遠の運命が決定するものではありません。ですから私たちは、自分で自分をさばいて、悪ければ失望落胆したり、自暴自棄に陥ったり、良ければ誇ったり、高ぶったりするというように、自分のさばきの結果に振り回されてはなりません。 私たちは、自分の姿をよく知って、自己批判や自己反省をすることは必要です。しかし私たちは、そこでとどまるべきであり、神のさばきを差し置いて、自分で結論を下したり、「先走ったさばきをしては」ならないのです(5節)。 三、神のさばきについて パウロは、「私をさばく方は、主です」と述べています(4節)。 私たちの永遠の運命は、他の人や自分という人間のさばきによって決まるのではなく、神のさばきによって決定します。なぜなら神のさばきのみ完全で、公平だからです。 正しい裁判を行うためには、確かな証拠や証言などの必要な資料が全部そろうことが必要です。しかし人間は、「やみの中に隠れた事」や「心の中のはかりごと」(5節)まで知ることはできないので、証拠や証言が不十分で、正しい裁判をすることはできません。 しかし神は、それらを全部明るみに出されるゆえに、完全で公平なさばきをすることがおできになります。私たちは、不完全な人のさばきなど恐れず、完全で正しいさばきをされる神を恐れて歩もうではありませんか。
2010.12.03
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