全7件 (7件中 1-7件目)
1
「ヨシャパテの勝利」 甲斐慎一郎 歴代誌第二、20章 この20章においてヨシャパテがアハブと同盟を結んだことによる刑罰として先見者エフーが預言したことは成就しました。しかし幸いなことにこの預言が成就するまで全国に宗教改革が行われていたので、民の準備が整っていました(19章4節)。 一、モアブ人とアモン人の同盟軍が攻めて来たので、主に祈ったヨシャパテ(1~13節) モアブ人とアモン人とセイル山の人々の同盟によるおびただしい大軍が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来ました(1節)。このことを知ったヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求めました(3節)。それは次のようなすばらしい模範的な祈りです。 ◇主は、すべての異邦の王国を支配なさる神であることを言い表しています(6節)。 ◇主は、この地をとこしえに与えてくださった契約の神であることを述べています(7節)。 ◇主の前に祈るならば必ず救ってくださるという神の約束を持ち出しています(9節)。 ◇敵がこの所有地から自分たちを追い払おうとしている苦境を主に訴えています(11節)。 ◇自分たちの無力さを正直に認め、主に目を注いで信仰を告白しています(12節)。 ヨシャパテは、いにしえのソロモンのように「主の宮にある新しい庭の前で、ユダとエルサレムの集団の中に立って」(5節)、真実な王として民を代表し、国民的な悔い改めと祈りをしました。「王がこのように民のために、またその代理人として祈ったことは決して越権行為ではありません。王の職務としてこれを行ったのです。この時のヨシャパテの祈りよりも熱心で堅実な信仰の祈祷はほかにありません」(A・イーダーシャイム)。 二、ヤハジエルを通して祈りの応答があったので、主を礼拝したヨシャパテ(14~19節) ときに主の霊が集団の中でヤハジエルの上に臨み、彼は神のことばを告げました(14節)。 ◇このおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない、気落ちしてはならない(15、17節)。 ◇この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いである(15、17節)。 ◇しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ(17節)。 ◇あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる(16、17節)。 それでヨシャパテと民は、主の前にひれ伏して主を礼拝し、レビ人たちは大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美しました(18、19節)。私たちは、どのような祈りの答えがあったとしても、神への礼拝と賛美と感謝をもって祈りを終えなければなりません。 「教会または教会員がこのように信じて祈ることができるなら、救いは遠くはありません。しかしここになお一つの信仰を現す行為が必要です。これまでは希望の信仰、礼拝の信仰でしたが、今やそれとは別に実行の信仰が必要なのです」(A・イーダーシャイム)。 三、主が敵と戦ってくださったので、大勝利を収めて凱旋したヨシャパテ(20~30節) 翌朝、ヨシャパテは、「主と預言者を信じ、勝利を得なさい」とユダとエルサレムの住民を励ますとともに、民と相談し、賛美する者たちを任命して、彼らを武装した者に先立たせました。彼らが賛美の声をあげ始めた時、主は伏兵を設けてくださいました(20~22節)。 「この時、セイル山の人々の一種族でアモン人とモアブ人の同盟軍に加わった者と、同じ種族ですが、これに敵意を抱いた者がいて、後者の人々が伏兵となって......襲ったのでしょう」(A・イーダーシャイム)。この伏兵がアモン人とモアブ人とセイル山の人々という同盟軍を襲ったので、アモン人とモアブ人は、セイル山の人々が謀反を起こしたと思い込み、同盟軍の中で同士討ちになり、その大軍は全滅したのです(22~24節)。 ユダの民は三日かかって多くの分捕り物を得、四日目にベラカの谷に集まり、その所で主をほめたたえ、エルサレムに凱旋しました(25~28節)。主がイスラエルの敵と戦われたので、神の恐れがすべての王国の上に臨み、ヨシャパテの治世は平穏でした(29、30節)。拙著「ソロモンと王たちの生涯」47「ヨシャパテの勝利」より転載
2010.02.25
コメント(0)
「ヨシャパテの業績」 甲斐慎一郎 歴代誌第二、19章 イスラエルの王アハブは変装して敵の目をのがれようとしましたが、主の目をごまかすことはできず、ミカヤのことばのとおりに無事に戻って来ることはできませんでした(18章27節)。ヨシャパテは、どのような思いでアハブの死の知らせを聞いたことでしょうか。 一、エフーに罪に対する主の刑罰と神を求めた善行を告げられたヨシャパテ(1~3節) ヨシャパテは無事にエルサレムに戻りましたが、その心は重く、あの時、アハブと同盟していなければという後悔の念がふつふつとわき起こってきたのではないでしょうか。案の定、先見者ハナニの子エフーがヨシャパテの前に出向いて来て、アハブと同盟を結んだ罪をきびしく叱責し、主の刑罰が下ることをおごそかに宣告しました(2節)。 ヨシャパテのような敬虔な王に向かって、主の刑罰が下ることを宣告しなければならなかった先見者エフーの心痛は、いかばかりかと思うことですが、彼の予告した刑罰は、この後、モアブ人とアモン人が同盟してユダを攻めた時に下るのです(20章1節)。 しかしエフーは、ヨシャパテが行った悪いことを叱責するだけでなく、「あなたには、良いことも幾つか見られます」と言って、励ましました(3節)。「神は正しい方であって......神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです」(ヘブル6章10節)。 二、もう一度、ユダの民の中へ出て行き、彼らを主に立ち返らせたヨシャパテ(4節) このエフーの叱責と励ましは、ヨシャパテに「悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせま」した(第二コリント7章10節)。ヨシャパテは、もう一度、宗教改革を行い、ユダのすべての町々を巡回し、主の律法を民の間で教え、彼らを主に立ち返らせました(4節)。 「この宗教改革の運動の記事において興味深いことの一つは、歴代誌の根拠になる記録がまだ成立していないはるか昔に申命記が存在していたことを知ることができるということです。この記事の所々に申命記の律法を引用しているところが少なくないからです。そうしてこれを引用するにも、(申命記がそのころ記録されたか、または外国から入って来た書物ならば、そのようになるのは当然ですが)わざとらしく、または力を入れて引用しているのではなく、昔から承認された正典として、その律法は、あまねく全国民に知れ渡り、その主意は、(そのころ記されたもののように弁護することなく)一般に承認されたもののように非常に気軽に引用されています。......このようなことは、モーセの律法がただ存在していただけでなく、昔からあまねく正典として認められていたものと想像しなければ理解することができないものです」(A・イーダーシャイム)。 三、ユダの町々とエルサレムにさばきつかさを任命し、彼らに主を恐れて正しいさばきを行うように命じたヨシャパテ(5~11節) ヨシャパテは、ユダにあるすべての城壁のある町々にさばきつかさを立て、町ごとにこれを任命しました。これは地方の裁判所です(5)。またエルサレムでは、レビ人と祭司と一族のかしらたちの中から、主のさばき、および訴訟に携わる者たちを任命しました。これは判決を不服として上訴するための上級の裁判所です(8、10節)。この長には祭司アマルヤとゼバデヤが任命されました(11節)。 「ヨシャパテの業績に関する記事は、次のような三つのことを含んでいます。第一は、さばきつかさを任命することです。......これは司法権を守るため、また申命記16章18節に記されている根本的な法に従うものです。第二は、さばきつかさの権威の根拠です。彼らは、大いなるさばきを行われる方(神)の名代であることを常に忘れず、したがって神の助けが約束されていることを心に留めなければなりません。第三は、さばきを行う規則です。これは主を恐れることが基本であり、人を恐れたり、人をかたよって見たりしてはならないことです(申命1章16、17節、16章18~20節を参照)」(A・イーダーシャイム)。拙著「ソロモンと王たちの生涯」46「ヨシャパテの業績」より転載
2010.02.22
コメント(0)
「ヨシャパテの失敗」 甲斐慎一郎 歴代誌第二、18章 この章の記事は列王記第一の22章にも記されていますが、「神は彼らを、彼から離れるように仕向けられた」(31節)ということばは列王記にはありません。歴代誌は、「人間的な立場からでなく神のがわの見方から見られている」からです(ロバート・リー)。 一、アハブと縁を結び、戦いに誘う彼の要求に軽率にも応じたヨシャパテ(1~3節) 「こうして、ヨシャパテには富と誉れとが豊かに与えられ」ました(1節)。しかし彼は、よりによって歴代のイスラエルの王たちの中で最悪の王であるアハブの娘アタルヤをその子ヨラムの妻として迎え(21章6節)、「アハブと縁を結」びました(1節)。 「ヨシャパテがアハブと縁を結んだのは、このように並みはずれて強大になった時です。聖書が特にこれを明記している理由は、ほかでもありません。一つはヨシャパテがこのような行為に出たことは弁解の余地がないものであること、もう一つはまずアハブがこの同盟を求めたものであることを示そうとすることにあります」(A・イーダーシャイム)。 イスラエルはアラムに多くの町々を占領されていたので、アハブはそれを取り戻すために、富が豊かに与えられ、大軍勢を率いていたヨシャパテを利用しようとしていました。 「ヨシャパテがこの同盟を結んだ理由を理解することは容易なことではありません。もちろんその国境の近くにアラムの勢力がのさばることは、ユダの王として望むべきことではありません。そのほかにユダとイスラエルとの七十年間にわたる長期の対立を解消しようとする心がなかったでしょうか。もしその子がアハブの娘を妻として迎えるなら、二つの王国は再び統一され、不即不離の一つの王国が再びダビデの家において立てられるという淡い望みを持ったのではないでしょうか」(A・イーダーシャイム)。 ヨシャパテがアハブのもとに行った時、アハブはヨシャパテをもてなし、巧みなことばで彼を誘い込んで、ラモテ・ギルアデに攻め上らせようとしました。ヨシャパテは軽率にも彼の計略と口車に乗せられて、戦いに臨むことを承諾してしまったのです(2、3節)。 二、後悔して主のことばを伺ったが、結局、出陣することになったヨシャパテ(4~27節) ヨシャパテは、アハブの申し出を受けた直後に主の許しを得ていないことに気づき、自責の念にかられました。しかし承諾してしまった後ですから、どうすればよいか悩みましたが、「主のことばを伺ってみてください」とアハブに提案しました(4節)。たとえ間に合わないとしても、良心の呵責に耐えかねてこのように言ったのではないでしょうか。 ヨシャパテは、主のことばを伺うことを求めましたが、それがどのようなものであれ、時すでに遅く、ラモテ・ギルアデに行くと言った前言を取り消すことはできませんでした。 ヨシャパテの心と行為について先回の17章においては、ひとつの祝福を受けると、さらに祝福を得るという良い循環を招きましたが、この一八章においては、ひとつの失敗を犯すと、さらに失敗を重ね、次々と失敗を繰り返すという悪循環に陥っているのです。 三、危うく殺されそうになったが、叫び求めて主に助けられたヨシャパテ(28~34節) ヨシャパテが陥った悪循環は、なおも続きました。ヨシャパテは、またまたアハブの口車に乗せられ、王服を着て出陣したので、危うく殺されそうになりました(29~32節)。 なぜヨシャパテも変装しなかったのでしょうか。二つの理由が考えられます。一つは、主がミカヤをとおして告げられたことは、ヨシャパテに対して死を預言したのではないからです。もう一つは、もしふたりの王がともに変装するならば、この戦争に敗北することとミカヤの預言が成就することを家来たちの前で認めることになるからです。 窮地に陥ったヨシャパテは、信仰に目覚め、心を奮い立たせて助けを叫び求めました。すると神は彼らを、彼から離れるように仕向けられたので、彼は助かったのです(31節)。拙著「ソロモンと王たちの生涯」45「ヨシャパテの失敗」より転載
2010.02.18
コメント(0)
「ヨシャパテ王国の確立」 甲斐慎一郎 歴代誌第二、17章 アサが南のユダ王国を41年間治めている間に、北のイスラエル王国は6人も王が代わりました。すなわちユダの王アサの第二年にナダブ、第三年にバシャ、第二十六年にエラ、第二十七年にジムリ、第三十一年にオムリ、第三十八年にアハブがそれぞれイスラエルの王となりました(第一列王15章25、28節、16章8、10、15、23、29節)。ユダ王国は政情が落ち着いていたのに対して、イスラエル王国は政情の不安定が続いていました。 しかもアハブは、歴代のイスラエルの王たちの中で最悪の王であり、北の王国の堕落はアハブの時代にその頂点に達しました。もし預言者エリヤがイスラエルに信仰復興の運動を起こしていなかったならば、その国は滅亡していたことでしょう。「アサの子ヨシャパテがユダの王となったのは、イスラエルの王アハブの第四年で」した(第一列王22章41節)。 一、町々に軍隊と守備隊を置き、神を求めて宗教改革を行ったヨシャパテ(1~6節) イスラエルがこのような政情ですから、ヨシャパテは、「イスラエルに対して勢力を増し加え」ました(1節)。城壁のある町々に軍隊を、エフライムの町々に守備隊を置いて国を強固にしました(2節)。ヨシャパテは、国運の隆盛に励まされて、再び熱心にユダの宗教改革を行いました(6~9節)。 ヨシャパテが、「その父の神に求め、その命令に従って歩み、イスラエルのしわざにならわなかった」(4節)のは、ヤロブアムの罪の道に歩んで民を堕落させ、神から刑罰を受けたイスラエルの王たちの悪い政治と、熱心な宗教改革を行うことによって民を神に立ち返らせ、主から安息を与えられた父の良い政治の両者を見て、後者を選んだからです。 その結果、「主はヨシャパテとともにおられ」(3節)、「王国を彼の手によって確立され」ました(5)。これを見て、ユダの人々はみな喜び、ヨシャパテに贈り物をささげたので、彼には富と誉れが豊かに与えられました(5節)。すると彼の心は、主の道にいよいよ励み、さらに熱心に宗教改革を行いました(6節)。ひとつの祝福を受けると、さらに祝福を得るという--悪循環に陥ることとは反対の--良い循環を招いたのです。 二、ユダのすべての町々を巡回して主の律法を教え、周囲の王国に恐れられ、並みはずれて強大になったヨシャパテ(7~12節) ヨシャパテが招いた「恵みの上にさらに恵みを受け」る(ヨハネ1章16節)という良い循環は、とどまるところを知らず、なおも続きました。彼は、宗教改革を徹底させるために、人々を遣わしてユダの町々で教えさせました。すなわち王に遣わされたつかさたちとレビ人と祭司は、ユダのすべての町々を巡回し、主の律法を民の間で教えました(7~9節)。 そこで、主の恐れが、周囲の王国に臨んだため、ヨシャパテに戦いをしかける者がなかっただけでなく、ペリシテ人とアラビヤ人がヨシャパテに贈り物とみつぎを携えて来ました(10、11節)。こうしてヨシャパテは、しだいに並みはずれて強大になりました(12節)。 聖書は、「王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない」と教えています(詩篇33篇16、17節)。 旧約時代の、しかも列強に取り囲まれ、軍勢を率いて戦争をしていたユダの王と民でさえ--軍隊を備え、戦う力を持っていましたが--武力によらず、宗教改革を行い、主の道に励んだことによって周囲の敵国を従わせたということは、新約時代の、それも霊的な戦いをしている私たちに、なんと大きな信仰の挑戦を与えてくれることでしょうか。 三 多くの工事を行い、百万人以上の戦士たちをかかえていたヨシャパテ(13~19節) しかし当時は戦国の世ですから、ただ宗教改革を行っていれば、国を正しく治め、外敵の侵略を防ぐことができるわけではありません。王の指揮下に隊長たち、その配下に百万人以上の勇士である戦士たちがいて、彼の王国を堅固なものとしていたのです(13~19節)。拙著「ソロモンと王たちの生涯」44「ヨシャパテ王国の確立」より転載
2010.02.15
コメント(0)
「金持ちとラザロ(3)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、16章14~31節 金持ちとラザロの話は、彼ら二人の外側の姿は、生きている間と死んだ後を比べると、逆になったことを教えています。しかし金持ちが「よみ」に、ラザロが「パラダイス」に行ったのは、彼ら二人の内側の姿のゆえであり、生きている間に良い物または悪い物を受けたという外側の姿のゆえではありません。 主は、サムエルに「人はうわべを見るが、主は心を見る」と言われました(第一サムエル16章7節)。またイエスは、パリサイ人たちに「神は、あなたがたの心をご存じです」と言われました(15節)。そこで第三回目は、彼ら二人の内側の姿に焦点を合わせてみましょう。 一、この世における二人の内側の姿 金持ちが、「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」のは(19節)、この世をすべてとして、神も永遠のことも考えなかったからではないでしょうか。 この金持ちは、自分さえ楽しければよく、門前に寝ていたラザロという全身おできの貧しい人を助けようともしませんでした。「彼は、神に対する不信仰の罪のために、ほかの人への愛がなく、自らは放蕩の生活を送ったのです」(R・C・トレンチ)。 一方、ラザロは、その名(ラザロとは神は助けるという意味)の通り、神への信仰によって生きた人です。この信仰によって、このような悲惨な境遇にも耐えることができたのですが、見方を変えれば、このような悲惨な境遇のゆえに、神に対する信仰が生まれるとともに、その信仰が強められていったということもできるでしょう(ヤコブ2章5節)。 二、次に来る世における二人の内側の姿 ラザロは、神に対する信仰によって「パラダイス」に行き、そこにおいて慰めと安息が与えられ、その心は神への感謝と賛美に満ちあふれていたことでしょう。 一方、金持ちは、神に対する不信仰のゆえに「よみ」に行き、そこにおいて苦しみもだえ、その心にあることをすべてアブラハムに語りました。「もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません」と言いました(30節)。 これは、死人が生き返るという奇蹟やしるしを見るなら、信じることができるという意味であり、彼は「よみ」に行っても神の言葉を信じなかったことを教えています。「地において抱いた精神は、天において抱く精神と同じです。金持ちは、この世において神の言葉を軽んじましたが、世を去った後も同じことをしたのです」(R・C・トレンチ)。 三、この世における物事の見方や考え方 ラザロは、神に対する信仰によって「パラダイス」に行き、金持ちは、神に対する不信仰のゆえに、「よみ」に行きました。ですから、この世において信仰ほど大切なものはありません。 しかしラザロのように正しい信仰を持っていても、外側は悲惨な姿のことがあります。一方、にせ預言者のように正しい信仰を持っていなくても、外側は羊のなりをし(マタイ7章15節)、柔和な表情で、たくみに話し、熱心にふるまうことがあります。 人の心は見えないので、わかりませんが、その心を知る唯一の方法があります。それは、どのように話すかではなく、何を語っているかということです(同12章34、37節)。金持ちは、アブラハムに語った言葉によって、その不信仰な心が現れてしまいました。私たちは、人が何を語るかという言葉の内容によって、その人の心に神に対する信仰があるかないかを見分けることができるのです。拙著「キリストの生涯の学び」134「金持ちとラザロ(3)」より転載
2010.02.11
コメント(0)
「金持ちとラザロ(2)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、16章14~26節 「さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終(すなわち、迷い出た羊、失われた銀貨、放蕩息子、不正な管理人の話)を聞いて、イエスをあざ笑ってい」ました(14節)。 イエスは、彼らに「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます」と言われました(15節)。 このようにイエスは、神のご覧になる目と人の見る目が全く違っている(または逆である)ことを彼らに教えようとされました。その具体的な例として「金持ちとラザロ」の話をされたのです。そこで第二回目は、彼ら二人の外側の姿に焦点を合わせてみましょう。 一、この世における二人の外側の姿 アブラハムは、金持ちに、「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました」と言いました(25節)。[項目] 金持ち ラザロ 1.初め 豊かな家に誕生。 貧しい家に誕生2.状態 健康。 病気3.衣 紫の衣や細布。 ぼろ切れ4.食 御馳走。 パンくず5.住 大邸宅。 無宿6.行為 遊び暮らす。 病の床にふす7.境遇 家族や使用人に 孤独、犬がおで 囲まれている。 きをなめている8.終わり 豪華な葬式。 孤独な死 これが、この世における金持ちとラザロの対照的な外側の姿です。 二、次に来る世における二人の外側の姿 そしてアブラハムは、金持ちに「しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです」と言いました(25節)。[項目] 金持ち ラザロ1.初め よみ。 パラダイス2.状態 炎の中の苦しみ。 アブラハムのふ ところの安息3.衣? 炎の衣。 慰めの衣4.食? 一滴の水もない。 満ち足りている5.住? 炎の住まい。 楽園6 行為 苦しみもだえて 神への感謝と賛 いる。 美、聖徒との楽しい交わり。7.境遇 孤独。 神と天使と聖徒 に囲まれている8.終わり 第二の死であ 死も苦しみもな る地獄。 い天の御国 これが、次に来る世における金持ちとラザロの対照的な外側の姿です。 三、この世における物事の見方や考え方 ラザロが「パラダイス」に、金持ちが「よみ」に行ったのは、彼ら二人の内側の姿のゆえであり、生きている間に良い物または悪い物を受けたという彼ら二人の外側の姿のゆえではありません。 私たちは、「善悪」や「真偽」や「正邪」という道徳や倫理に関するものについては、明確に善悪を区別しなければなりません。 しかし次のような、それ自体に道徳や倫理における善悪の規準を設けていない外側の姿に関するものについては、前者を善、後者を悪、反対に前者を悪、後者を善と決めてかかるような善悪の区別をつけてはなりません。▽損得 利害 得失 貧富 優劣 勝敗▽栄辱 美醜 貴賤 明暗 陰陽 寛厳▽苦楽 禍福 吉凶 盛衰 順逆 浮沈▽強弱 大小 多少 高低 長短 広狭 なぜならラザロは、外側の姿は赤い文字の恵まれないほうでしたが、「パラダイス」に、金持ちは青い文字の恵まれたほうでしたが、「よみ」に行ったからです。拙著「キリストの生涯の学び」133「金持ちとラザロ(2)」より転載
2010.02.07
コメント(0)
「金持ちとラザロ(1)」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、16章14~31節 ルカの福音書の15章の三つのたとえ話は、キリスト者は、自然の世界から信仰によって超自然の世界に移った者であることを教えています。 このようにキリスト者は、自然の世界に属する者ではなく、超自然の世界に属する者ですが、自然の世界に住んでいます。そこで、超自然の世界に属するキリスト者は、自然の世界においてどのような生き方をすればよいのかということを「不正な管理人」の話は教えています。 そして自然の世界に属する世の人と超自然の世界に属するキリスト者が、それぞれ死後の世界においてどうなるのかということを教えているのが「金持ちとラザロ」の話です。 一、上の図の説明 上の図は、左から右の横軸は、この世とハデスと永遠の世という三つの世と、それぞれの世を区切っている死と審判という、時間の経過を表しています。上から下の縦軸は、この世においては、超自然の世界と自然の世界、ハデスにおいては、パラダイスとよみ、永遠の世においては、天の御国と地獄という次元を異にする二つの世界と、それぞれの世界を隔てている大きな淵を表しています。 このハデス(ギリシャ語)またはシェオル(ヘブル語)とは、「死者が終末のさばきを待つ間の中問状態で置かれる所」です(新改訳聖書のあとがき)。聖書は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と教えています(ヘブル9章27節)。この死と死後のさばきの間において死者の霊のいる所が、ハデスです。 このハデスの中に、天の御国にはいる前の待合室に相当する「パラダイス」と、地獄にはいる前の留置場に相当する「よみ」とがあります。因みに、先の図(615、三つのたとえ話)においては、煩雑さを避けるため、故意にハデス(またはシェオル)という中間の場所を省略し、パラダイスを天の御国、よみを地獄に置き換えています。 二、人間の究極的な運命 この金持ちのように自然の世界に属する者は、死んだ後、「よみ」に、ラザロのように超自然の世界に属する者は、死んだ後、「パラダイス」に行きます。 そしてパラダイスにいるキリスト者は、復活のからだが与えられ、「キリストのさばきの座」において、「各自その肉体にあってした行為に応じて」、天の御国における報いを受けます(第二コリント5章10節)。 よみにいる非キリスト者も、復活のからだが与えられ、「大きな白い御座」において、「自分の行いに応じて」、地獄における報いを受けるのです(黙示録20章11~13節)。拙著「キリストの生涯の学び」132「金持ちとラザロ(1)」より転載
2010.02.04
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1