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「計画に現れる愛」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章28~30節 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」(28節)。 この有名な言葉から「愛」と「計画」ということについて考えてみましょう。 一、私たちに対する神の愛の現れ 聖書は「神は愛です」と教え(第一ヨハネ4章16節)、キリスト者は、この神の愛によって救われた者です。しかし私たちは、この神の愛をどのようにとらえているでしょうか。 エペソ人への手紙の1章には、「あらかじめ定め」るという言葉が二回(5、11節)、また「ご計画」という言葉が二回記されています(9、11節)。この箇所をよく読むなら、神の「愛」は、「計画」に現れていることがわかります。 すなわち、「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」ただけでなく(4節)、その「みこころの奥義を私たちに知らせてくださ」り(9節)、さらに「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され」たのです(10節)。 このようなことから神の愛というのは、私たちのためにすばらしいことを計画してくださるだけでなく、すべてのことを働かせて益としてくださる神の摂理によって、その計画を実行に移されることに現れていることが分かります。ブッシュネルは、「どの人の生涯も神の計画による」、「神の心の中には、すべての人のために完成された完全な計画が大切にしまわれている」と述べています(詩篇31篇15節、139篇16節)。 私たちは、神の愛をこのように具体的な計画のあるものとしてとらえているでしょうか。もしそうでなければ、神の愛を何かつかみどころのない漠然とした、抽象的なものとしてしかとらえていないのです。 二、神に対する私たちの愛の現れ 私たちが神を愛するとは、どのようなことかということを述べる前に、その反対である神を愛さないということについて考えてみましょう。それは、一言で言えば、罪です。 聖書は、アダムから受け継いだ原罪を別にすれば、罪というものを決して無意識的また偶発的なものとして記していません。ダビデの姦淫と殺人の出来事(第二サムエル11章)から分かるように計画的なものであり、様々なことを考え、策略をめぐらしながら承知で犯すものであると教えています。言い換えれば、罪は、神のご計画、すなわち神の御旨を受け入れず、自分の計画や自我を押し通すことなのです(民数記22章32~34節)。 ここでパウロは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々」と記していますが、この言葉から私たちが神を愛するというのは、愚かで罪深い自分の計画を捨て、私たちのために備えられた遠大な、すばらしい神のご計画を私たちが受け入れ、それに自らを当てはめていくことなのです。 三、人に対する私たちの愛の現れ 私たちは、神がこのような罪深い者をもそのひとり子をお与えになったほどに愛してくださったことを知る時にのみ、真にほかの人を愛することができるようになります(第一ヨハネ3章16節)。その神の愛は、計画に現れる愛です。ですから私たちの隣人への愛もそのようになるのです。 両親は、愛する子どものために様々なことを計画し、準備しないでしょうか。人間は、愛する人のために色々なことを計画し、準備するのです。人間の愛でさえもそうならば、神の愛を与えられたキリスト者は、なおさらそうするのではないでしょうか。 真の愛は、決して気まぐれでなく、行き当たりばったりでもありません。また無為無策でもなければ無責任でもありません。私たち自身が無計画でなく、良い計画をもって相手に接し、またその人の将来や永遠のことを考え、配慮することこそ真の隣人への愛ではないでしょうか。
2010.09.29
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「幼子のような心」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、18章1~6節 「真に偉大な人とは、おとなの経験と、子どものような単純で甘美な心をもった人である」と言った人がいます。これは醜いおとなの世界の中で、いつのまにか幼子の心を失ってしまった私たちにとって、何と考えさせることばではないでしょうか。 主イエス・キリストは、幼子たちを呼び寄せて、「天の御国はこのような者たちの国なのです」(マタイ19章14節)と言われただけでなく、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません」(3節)と語られましたが、これは何と驚くべきことでしょうか。 そこで「幼子のような心」とは、どのような心であるかについて、聖書の中から学んでみましょう。 一、幼子の心の特徴について 幼子は、どんなに無邪気であっても、神でもなければ天使でもないことは、言うまでもありません。まして人類の堕落以後は、幼子といえども罪を持って生まれるので、様々な悪い心があることは衆知の事実です。 しかしここで「悔い改めて子どもたちのようにならない限り」と言われているのは、幼子の心に代表される「単純な心」を教えようとしています。神が私たちに求められ、また私たちが神に対して持たなければならない最も大切な心は、この単純さなのです。 二、単純さについて それでは「単純さ」とは、どのようなことでしょうか。これはマタイの福音書6章22節に記されている「健全」(原語は単純)ということばから、三つの意味があります。 第一は、純粋で、二心ではないことです。 透明で、澄んでおり、曇りのない心を持つことで、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきりと識別し、判断することです。 第二は、素朴で、飾り気がないことです。 ありのままで、少しも繕わない心を持つことで、良く見せかけること(偽善)も、悪く見せかけること(偽悪)もないことです。 第三は、素直で、頑なではないことです。 意地や強情を張らず、教えられやすい心を持つことで、良いものは受け入れて信頼し、悪いものは拒絶することです。 これが「単純さ」に代表される幼子の心の特徴です。 三、おとなの心の特徴について これに対しておとなの心は、どのようなものでしょうか。それは幼子の心とは全く正反対の単純さを失ってしまった心です。◇第一は、純粋さがなく、二心です。◇第二は、素朴さがなく、繕う心です。◇第三は、素直さがなく、頑固な心です。 これが「単純さ」に代表される幼子の心を失ったおとなの心の特徴です。 四、幼子の心を失った理由について しかし私たちは、子どもからおとなになるにつれて、幼子の心に代表される単純さを失ってしまうのは、なぜでしょうか。それは幼子のような単純さでは、互いにだましたり、だまされたりしている醜いおとなの世界では到底生きていくことはできず、初めは不本意ながらも、ついには承知で世の汚れに染まってしまうからです。 それではこのようになってしまった根本的な原因は何でしょうか。それは私たちを決して裏切ることのない真実と愛に満ちた神とその世界を信じないで、ただ私たちを欺いて懐疑的にさせる罪深い人間とその世界しか知らないからです。 五、幼子の心を取り戻す秘訣について 聖書は、「すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」(ローマ3章4節)と教えていますが、限りなく正しく、きよく、そして真実と愛に満ちた神を信じることこそ、猜疑心が取り除かれて、幼子のような単純な心を持つことができる秘訣なのです。
2010.09.23
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「神の時と人の時」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、7章1~9節 イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです」(5節)。 この御言葉の前半には神の時について、後半には人の時について記されています。ここでいう「わたしの時」とは、第一義的には、キリストが十字架につけられる時、または公にご自身を世に現す時など、「神によって定められた時」を指しています。 しかしここでは第一義的な意味を離れて、神の時は「神が考えられる時の観念」、人の時は「人が考える時の観念」として、その言葉だけを取りだし、神の時と人の時について、特に両者は、どのような違いがあるのかといことについて、聖書から学んでみましょう。 一、時の種類について 「時(時間)」には、次のような三種類の時があるのではないでしょうか。 1.時間という時(物理的な時) 私たちがこの世に生まれて最初に教えられるのは、日時や年月など、時計で計ることができる時です。 2.機会という時(社会的な時) しかし世の中には、時計では計れない大切な時というものがあります。それは、「機会を十分に生かして用いなさい」(エペソ5章16節)とあるように機会という時です。 3.神を求める時(霊的な時) 聖書は、もう一つの大切な時があることを教えています。それは、「眠りからさめるべき時」(ローマ13章11節)がもう来ており、「今は恵みの時、今は救いの日」(第二コリント6章2節)であると自覚し、「心の霊において新しくされ」(エペソ4章23節)るために神を求める時です。 二、人の時について 人が考える時の観念というものは、どのようなものでしょうか。 第一は、時間という物理的な時の大切さを身に着けることです。これは、時の流れを自覚して、何事にも時間を厳守し、また定められた期間内に物事を成し遂げることです。 第二は、機会という社会的な時の大切さを身に着けることです。これは、ただ時間を厳守し、定められた期間内に物事を成し遂げるだけでなく、社会的な情勢や状況を適切に判断して、良い機会をとらえることです。 私たちは、この二つの時の観念を身に着けることによって、多くの無駄や損失を省いて能率や効率を上げることができます。これが人の考える時の観念です。しかしこれには神を求める霊的な時の観念がないので、人間の最大の問題である罪に関しては、何の解決も救いもないことを忘れてはなりません。 三、神の時について これに対して神が考えられる時の観念とは、どのようなものでしょうか。 規則正しい天体の運行を定められた神は、私たちに時間という物理的な時の大切さを教えています。 また「機会を十分に生かして用いなさい」(エペソ5章16節)とあるように、機会という社会的な時の大切さも教えています。 しかし神は、この時間という物理的な時の大切さや、機会という社会的な時の大切さを犠牲にしてまでも、私たちが神とその救いを求める時を備えられます。 神は、能率と効率を上げることを第一とする人間の目には、全く無駄であるだけでなく、かえって損失としか見えない苦難や災いを用いてまでも、私たちが神とその救いを真剣に求めて、罪の「眠りからさめ」、「やみのわざを打ち捨て」、「キリストを着」て救われるだけでなく(ローマ13章11、12、14節)、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ようになり(同12章2節)、神のみこころを行う者に変えられて、神が私たちに「行わせるためにお与えになったわざを......成し遂げて、地上で」神の栄光を現すことができるように働かれるのです(ヨハネ17章4節)。
2010.09.20
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「神の宝と人の宝」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、6章19~24節 「あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる」(出エジプト19章5節)。 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです」(第二コリント4章7節)。 この前半の出エジプト記の御言莱には神の宝について、後半のコリント人への手紙の御言葉には人の宝について記されています。そこで宝ということについて聖書から学んでみましょう。 一、宝の意味について 私たちは「宝」と聞くと、すぐ「宝物」や「宝石」を思い出しますが、必ずしも目に見える有形のものだけでなく、「無形文化財」や「人間国宝」のような無形の、また精神的な宝もあります。ともかく宝というのは、有形、無形を問わず、私たちが最も大切で価値があり、貴いと考えているものです。 そしてキリストが「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(21節)と言われたように、宝というものは、私たちの心を引き付け、私たちの心を奪うものです。 しかし聖書は、「宝」の意味を、さらに深く私たちに教えています。。それは「富に仕える」(24節)という言葉から分かるように、宝というものは、私たちが当てにして拠り頼むだけでなく、ついにはそれにひれ伏して仕えてしまうものです。 1.私たちが最も大切であると考え、最も貴く価値があると思うものにみな宝です。 2.私たちの心をとらえて離さず、私たちの心を奪って夢中にさせるものはみな宝です。 3.私たちが当てにして拠り頼むだけでなく、ひれ伏して仕えるものはみな宝です。 二、人の宝について 宝には、多種多様なものがあるように思われますが、聖書は、二種類の宝しか教えていません。色々な宝があっても、それらはこのどちらかに包含されるからです。 1.天上の宝 この宝の代表は真の神でありキリストです。パウロは「私たちは、この宝(キリスト)を、土の器(弱くてもろい人間)の中に入れているのです」と記しています(第二コリント4章7節)。イザヤは「主を恐れることが、その財宝である」と述べています(33章6節)。さらに「神からの栄誉」も天上の宝です(ヨハネ5章44節)。真の神から出て、私たちをこの神に導くすべての良いものも天上の宝に含まれるでしょう。 2.地上の宝 この宝の代表は富であり、「マモン」です。「マモン」とは黄金の神を意味し、真の神に対立する偶像です。真の神を無視して金銭で買えるものを最も貴いものとするなら、それは地上の宝です。この世から出て、この世に属するすべてのものも地上の宝に含まれるでしょう。 三、神の宝について 神の宝とは、どのようなものでしょうか。 神のひとり子であるキリストが、神の宝であることは言うまでもありません。しかし神は、「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは......わたしの宝となる」(出エジプト19章5節)と仰せられました。 神は、私たちを宝の民とするために、ご自分の宝である「御子をさえ惜しまずに死に渡された」のです(ローマ8章32節)。 私たちは、このことを信じるなら、「天上宝」を宝として歩み、「その行き着く所は永遠のいのち」です(ローマ6章22節)。 しかし、このことを信じないなら、「地上宝」を宝として歩み、「人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥」るのです(第一テモテ6章9節)。 キリストは、「自分の宝を地上にたくわえるのはやめ」て、「天にたくわえなさい」と言われました(19、20節)。これは、「地上の宝」を自分の宝としてはならず、「天上の宝」を自分の宝にしなさいという意味です。 私たちは、「天上の宝」を宝として歩んでいるでしょうか。それとも「地上の宝」を宝として歩んでいるでしょうか。
2010.09.18
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「ルツの祝福」 甲斐慎一郎 ルツ記、4章 ボアズは、ルツの願いを聞いて、ためらったり、遅らせたりする人ではありません。彼は、ナオミが想像したとおり(3章18節)、すぐそのことを行動に移しました。 一、エリメレクの土地を買い戻す権利をボアズに譲渡した最も近い親類(1~6節) ボアズは、裁判や商売をしたりする町の門のところへ行き、そこにすわりました。彼は、ちょうど通りかかった買い戻しの権利のある親類の人を呼び止め、町の長老十人を証人として立て、その人にエリメレクの土地を買い戻すかどうかを尋ねました(1~4節)。 すると彼は、エリメレクの土地を買い戻すことを承諾しましたが、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったルツをめとらなければならないことを知ると、買い戻しの権利を放棄し、それをボアズに譲渡したのです(4~6節)。 これらの出来事を正しく理解するためには、次に述べることを知る必要があります。 「第一は、人が子のないままで死んだなら、その親類は彼のやもめをめとらなければならないこと(申命記25章5節)、第二は、人が貧しくなって所有地を売ったなら、その親類はこれを買い戻すことができること(レビ25章25節)です。前者は親類の義務であり、後者は親類の特権です。......ボアズは、まず彼に親類の特権、すなわち土地を買い戻すことについて述べると、彼はこれを承諾しました。しかし次にこの特権に伴ってルツに対する義務のあることを注意し、もしこの義務を果たさなければ、その特権を失うことを述べると、彼はその特権をボアズに譲渡しました」(A・イーダーシャイム)。 「彼は自分の所有とならないで、ルツの産む子のものとなる土地に金を使って自分の相続地をそこなうことはできなかった」のです(A・マクドナルド)。 二、エリメレクの土地を買い戻し、モアブの女ルツを妻としたボアズ(7~12節) 買い戻しの権利のある親類の人は、自分のはきものを脱いで、それをボアズに渡しました。これが当時のイスラエルにおいて権利を譲渡する証明の方法でした(7、8節)。 「彼がくつをぬいでも律法の命じる社会的制裁は受けなかった。実際くつを渡すことはボアズに土地を渡すのと大差なく、侮辱でなかったらしい。くつは所有者の土地を踏む権利を象徴した(詩篇60篇8節)」(A・マクドナルド)。 ボアズは、門にいた人々と長老たちという証人の前でエリメレクの土地を買い戻し、ルツを妻としました(10、11節)。おそらく初めて会ったその時から、ボアズとルツの間には愛が芽生えていたことでしょう。ルツは、当時のユダヤの風俗習慣として行われていた正当な方法でボアズに保護と贖いを求めることによって、ボアズも、どこまでも合法的に彼女の求めに応じることによって、両者とも願いがかなえられ、二人は結ばれたのです。 三、ボアズの妻となり、イスラエルの王ダビデの祖父オベデを産んだルツ(13~22節) ルツはボアズの妻となり、ひとりの男の子を産み、その子はオベデと名づけられました。このオベデこそイスラエルの王ダビデの祖父です。 「このようにして貧困とききんと流浪によって始まった物語は、ついにダビデの王位に達しました。確かにこの物語の主な目的は、ダビデの家の歴史を示すことであり、ルツ記は、その目的にふさわしくダビデの系図で終わっています」(A・イーダーシャイム)。 あのモアブの野においてイスラエルの神としゅうとめナオミに従う決心をした異邦人の女ルツが、ボアズの妻となることによって、マフロンの相続地を興しただけでなく、イスラエルの王ダビデ、そして救い主イエス・キリストの先祖の一人に加えられたことは、ただ計り知れない神の恵みによるのです。拙著「士師とサムエルの生涯」32「ルツの祝福」より転載
2010.09.14
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「ルツの要求」 甲斐慎一郎 ルツ記、3章 「ナオミは、なお注意深く考えて新たな決心をしました。彼女は二か月の間、ルツが少しも意識することなく、このような不幸な境遇にあっても、たぐいまれな謙遜と柔和さを示していることを見て来ました。もしナオミがルツのまれに見る性質を認めることができたとするならば、毎日彼女に会っているボアズが、どうしてこれを認めない理由があるでしょうか。またルツもイスラエルにおいて初めて自分を慰め、懇切に語ってくれた人が、敬虔で、かつ親切であることを認めざるを得ませんでした」(A・イーダーシャイム)。 一、ナオミのことばどおりに打ち場に行き、ボアズに保護と贖いを求めたルツ(1~9節) ナオミは、ルツが身の落ち着く所を得て、しあわせになるために、彼女に晴れ着をまとい、打ち場に下って行き、寝ているボアズの足のところをまくって、そこに寝るように言いました(1~4節)。ルツは「しゅうとめが命じたすべてのことをし」ました(6節)。 「親戚の者の上衣の一部を引いて掛けるのは、保護と贖いを要求する正当な方法であったので、ルツは大いなる遠慮と注意とをもってこの事をした」のです(イギリスのある注解者)。これは当時のユダヤの風俗習慣として行われていたことですから、ルツのしたことは、礼儀に反した行為ではありません。ナオミは、亡夫エリメレクの所有地を買い戻してもらうために(レビ25章25節)、また死んだ息子マフロンの名をその相続地に起こすために(4章5節、申命25章5、6節)、買い戻しの権利のある親類のひとりであるボアズのもとにルツを行かせました。 このように「ナオミが嫁のルツを真のイスラエル人であると認め、そのために身の落ち着く所をボアズの家に求めたのは、神の明らかな導きによるものであり、これは自然のなりゆきです」(A・イーダーシャイム)。 二、ルツの願いどおりにエリメレクの土地を買い戻すことを約束したボアズ(10~15節) ボアズは、夜中になって、ひとりの女が自分の足のところに寝ていることに気づき、びっくりして起き直りました(8節)。当時のユダヤの風俗習慣として行われていたこととはいえ、ルツの話を聞く前ですから、彼が驚いたのも当然でしょう。 しかしボアズは、ルツの謙虚な態度で語る率直な願いを聞くと、「ルツのしたことは、決して奇異なことでも不義でもなく、かえって以前に称賛を受けたことよりも、さらに称賛に値するものであることを認めたのです」(A・イーダーシャイム)。 ボアズは、ルツの頼みを快く引き受けました(11節)。ただし彼は、自分よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がいるので、その人がその権利を放棄するなら、「私があなたを買い戻します」(13節)と、条件を付けて約束しました。 おそらくボアズはルツに心をひかれ、すぐにでも妻にしたかったことでしょう。しかし彼は情に流されず、どこまでも合法的に対処しようとした清廉潔白な人でした。それでボアズは、人々の誤解を招かないために、ひそかに彼女を帰しました。しかし彼は、約束のしるしとして大麦六杯という贈り物を彼女に与えることを忘れませんでした(14、15節)。 三、ナオミの所へ帰り、ボアズが自分にしたことをみな彼女に告げたルツ(16~18節) ナオミは、ルツが自分に告げたすべてのことを聞き、また彼女が持ち帰った大麦六杯を見て、確かな手答えがあると感じたのではないでしょうか。それでナオミはルツに、期待して待つように言ったのです(18節)。 先の2章は、主がナオミとルツに豊かな祝福を与えるために彼女たちを導かれたことを教えていましたが、この3章は、主の豊かな祝福を受けるためには、それを大胆に求めなければならないことを教えているのです。拙著「士師とサムエルの生涯」31「ルツの要求」より転載
2010.09.11
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[ルツの勤労」 甲斐慎一郎 ルツ記、2章 ナオミがベツレヘムに着いた時、彼女は、町の女たちに「私は満ち足りて出て行きましたが、主は私を素手で帰されました」と言って(1章21節)、その苦しい胸の内を明かしました。ところが主は、ナオミとルツに豊かな祝福を与えるために、「大麦の刈り入れの始まったころ、ベツレヘムに着」くように彼女たちを導かれたのです(1章22節)。 一、はからずもボアズの畑に落ち穂を拾いに行き、彼の関心をひいたルツ(1~7節) イスラエルには、貧しい者と在留異国人のために土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならず、収穫の落ち穂を集めてはならないという情け深い主の律法がありました(レビ19章9、10節)。ルツのように身寄りのない貧しい在留異国人が生計を立てるためには、落ち穂を拾うしかなく、これが厳しい現実でした(2節)。 しかし「このようにわびしくイスラエルの祝福にあずかることは、人の施しではなく、むしろ神が与えてくださる権利として認められていました」(A・イーダーシャイム)。それでもルツが落ち穂を拾うことは、生易しいことではなく、イスラエルの神に対する信仰としゅうとめナオミへの愛がなければ、決してできないことです。 主は、このようなルツをご自身の摂理の御手をもって導かれました。ルツが出かけて行って落ち穂を拾い集めたのは、「はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちで」した(3節)。しかも、「ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来」ました(4節)。そしてルツはボアズの目に留まり、彼の関心をひいたのです(5~7節)。 二、ボアズの畑において、彼の至れり尽くせりの親切にあずかったルツ(8~16節) 落ち穂を拾うことは、主の律法によって貧しい人や在留異国人に与えられた権利です。しかし実際には、その権利を認めようとしない人たちがいました。落ち穂を拾い集める人は、刈る者たちの世話をしている若者たちに、じゃまをされたり(9節)、恥ずかしい思いをさせられたり(15節)、しかられたり(16節)、いじめられたり(22節)したのです。 ルツは、ナオミからこのような厳しい現実を聞いていたことでしょう。またボアズも、このようなことは知っていました。彼は、ルツのことについてすっかり話を聞いていたので(11節)、若者たちに彼女のじゃまをしてはならないと、きつく命じただけでなく(9節)、彼女の飲み水や食べ物のことまで心を配り(9、14節)、さらに束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせるようにと、そんなことまで命じたのです(16節)。 ルツは、取るに足りない者がこのようなボアズの至れり尽くせりの親切にあずかって、初めは恐縮するばかりでした(10節)。しかし彼女は、彼の立派な人格とそれを形造っている敬虔な信仰を知ると(11、12節)、彼の好意にあずかることを求めたのです(13節)。 三、ボアズの畑で働いたことをナオミに話し、引き続きそこで働いたルツ(17~23節) ルツは、夕方まで落ち穂を拾い集め、しゅうとめにそれを見せました。いままで「ナオミは、弱さによって不平を言い、不信仰によってつぶやき、自分が神に捨てられ、また悩まされたと思っていました」(A・イーダーシャイム)。けれども彼女は、ルツが落ち穂を拾い集めた所がボアズの畑であることを知ると、心から主に感謝して、「その方は......買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです」とルツに告げたのです(20節)。 「彼はもはや有力者(1節)でもエリメレクの一族のひとり(3節)でもなく、近親者(20節)でさえない。彼は買い戻しの権利のある者である」(A・マクドナルド)。 その後、ルツは、大麦と小麦の刈り入れの終わるまで約二か月の間、落ち穂を拾い集め、しゅうとめと暮らしたのです(23節)。拙著「士師とサムエルの生涯」30「ルツの勤労」より転載
2010.09.06
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「ルツの決断」 甲斐慎一郎 ルツ記、1章 ルツ記は、士師記とサムエル記第一の間にはさまれており、その書の位置にふさわしく士師記の付録であり、またサムエル記第一の序言になっています。 ルツ記の目的は、次のような四つにまとめることができます(A・イーダーシャイム)。 1.士師記と全く反対の付録を加えること。 2.イスラエルの真の精神を示すこと。 3.イスラエルと異邦人との不思議な関係、すなわちイスラエルの歴史の中で最も大切 な 時期において、意外に異邦人が重要な 地位を占めていることを再び表すこと。 4.ダビデの系図を示すこと。 ある注解者は、「ルツ記は、その記事についてはダビデの歴史の門戸にあるけれども、その精神については詩篇と同じように福音の門戸にある」と述べています。 一、ベツレヘムからモアブへ行き、二人の息子と夫に先立たれたナオミ(1~5節) 士師が治めていたころ--ヨセフォスの説によればエリの時代--イスラエルにききんがありました。それで、エリメレクと彼の家族は、ベツレヘムからモアブの野へ行きました。ところが彼らが約十年、そこに住んでいる間に、エリメレクと二人の息子が死にました。あとに残されたのは、ナオミとモアブの女であるルツとオルパという三人の未亡人です。 ある人は、「エリメレクは本国に住むことのできないことを恐れましたが、外国へ行くや否やただちに死にました。そしてその息子たちは、モアブにおいて家を建てようとしましたが、その家はかえって墓となったのです」と述べています。 これが、「自分のおるべき所を捨てた御使いたち」が神のさばきを受けたように(ユダ6節)、神が与えてくださった約束の地を離れたエリメレクの家族の悲惨な末路です。 二、ベツレヘムへ帰る途中、ナオミに勧められてモアブへ戻ったオルパと、彼女とともに行くことを堅く決心したルツ(6~18節) このような時、ナオミは風の便りにベツレヘムに豊作が訪れたことを聞きました。彼女は、その良い知らせに矢も盾もたまらなくなって、二人の嫁とともに帰途につきました。 そのうちにナオミは、二人の嫁に自分の母の家に帰るように言いました。なぜなら彼女は、二人の嫁が自分について来ても将来に何の夢も希望もないことを知っていたからです。これは二人への愛のことばであるとともに人生を左右する決断を迫ることばでもありました。 弟嫁のオルパは、別れを惜しみながらも自分の民とその神のところへ帰って行きました。しかしルツは、いかなる試練も甘受してナオミとともに行こうと堅く決心したのです。 「実にルツの選択は、自分がヘブルの家に属すること、すなわち、たとえその人々に拒まれることがあっても、自分の心においても行いにおいてもイスラエル人であることを確信していたのでなければ、全く説明することはできません」(A・イーダーシャイム)。 しゅうとめのナオミは、自分では意識していなかったかも知れませんが、嫁のルツとともに暮らした十年足らずの間に、彼女に信仰の良い影響と感化を与えていたのです。 三、ルツとともにベツレヘムに着き、町の女たちに苦しみを訴えたナオミ(19~22節) ナオミとルツがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出しました。「これはエリメレクの家がベツレへムで有名だったことを示してい」ます(A・マクドナルド)。 しかしそれだけにナオミの苦悩は深く、彼女は、「主は私を卑しくし、全能者が私をつらいめに会わせられました」(21節)と苦汁をなめたことを告白せざるを得ませんでした。 町の人々は二人のことで騒ぎましたが、落ちぶれた彼女たちを助ける人はだれもなく、予想していたこととはいえ、二人の、貧しく、そして苦悩に満ちた日々が始まったのです。拙著「士師とサムエルの生涯」29「ルツの決断」より転載
2010.09.04
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「個人の尊厳の自覚」 甲斐慎一郎 マタイの福音書、10章29~31節 現代のように人口が非常に多くなり、人々が大都会に集まって来るようになると、多くの人々は、社会とか大衆また団体というものを重要視するようになってきます。 そのためにひとりの人間の存在がますます小さなものとなり、個人というものが失われてしまうのではないでしょうか。ですから私たちは、社会が大きくなればなるほど、ますます個人に目を向け、個人の尊さを自覚しなければなりません。そうしなければ、真の人間らしさが失われ、人格の崩壊という最悪の事態を招いてしまうことになるからです。 一、「個人の存在の価値」を自覚する 私たちは、「個人の存在の価値」というものを自覚していませんと、数え切れないほど多くの人々の中に埋もれてしまい、「どうせ自分など、いてもいなくても同じだ。自分が何をしようも、この社会には関係がない」と思うようにならないでしょうか。人間は「個人の存在の価値」を見失うと、無責任になってしまうでしょう。 主イエスは「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」と言われました(31節)。ダビデは、「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられとは」と告白し(詩篇8篇4節)、広大無辺な大宇宙を造られた偉大な神が、小さな自分にも心を留めて顧みてくださることに驚嘆しています。 私たちは、自分が神の前に尊い存在であり、それゆえ責任をもって生きていかなければならないということを自覚する時、神への恐れと信仰が芽生えてくるのです。 二、「個人の存在の意義」を自覚する 私たちは、「個人の存在の意義」というものを自覚していませんと、私たちの周囲に起きる様々な苦難や困難に敗北して、「なぜ自分だけがこんなに苦しみに会うのか。何だかわけが分からなくなり、何もかもいやになってしまった」と思うようにならないでしょうか。人間は、「個人の存在の意義」を見失うと、失望落胆して無気力になってしまうでしょう。 主イエスは「そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません」と言われました(29節)。まして多くの雀よりもすぐれた人間と、その周囲に起きる出来事に対して神は雀以下の配慮しかしてくださらないことがあるでしょうか。 私たちは、自分が神の前に尊い存在であり、周囲に起きる苦難や困難も、決して無意味ではなく、それらは神が個人個人を造り上げるために最高の知恵と愛の配慮をもって送られていることを自覚する時、希望に満ち、気力にあふれてくるのです。 三、「個人の存在の目的」を自覚する 私たちは、「個人の存在の目的」というものを自覚していませんと、多くの人々の存在が煩わしくなって、「他人なんかどうなってもかまわない。自分さえ良ければよいのだ」と思うようにならないでしょうか。人間は、「個人の存在の目的」を見失うと、自己中心になり、隣人に対して全く無関心になってしまうでしょう。 主イエスは「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」と言われました(30節)。神は、ひとりひとりを特別な関心をもって愛してくださいます。神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と仰せられました(イザヤ43章4節)。私たちは、ひとりひとりの人間が神の目には「キリストが代わりに死んでくださったほど」に尊い愛の対象であり(ローマ14章15節)、個人個人の生涯には、深い神のご計画と目的があることを自覚する時(第一コリント2章9節)、隣人に対する無関心が取り除かれて、愛をもって接することができるようになるのです。
2010.09.01
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