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「アンデレ」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、1章35~41節 アンデレは、十二使徒の中でヨハネとともに最初にイエスの弟子になった人です。初代教会は、彼のことを「最初に召された者」と呼びました。アンデレという名は、ギリシャ語で「強い人」という意味です。彼の特徴を一言で述べるなら、「人を紹介する名人」ということができます。私たちは、世の人々をイエスのもとに連れて行く働きを「アンデレ活動」と呼んでいます。アンデレの生涯は、「ヨハネの福音書」に記されています。 一、イエスの弟子になり、兄弟シモンをイエスのもとに連れて来たアンデレ(35~41節) ガリラヤ湖の北岸にあるベツサイダに住んでいたヨハネにふたりの男の子が生まれ、シモンとアンデレと名づけられました。この兄弟こそ、後の使徒ペテロとアンデレです。 ふたりとも漁師で、「無学な、普通の人」でした(使徒4章13節)。ところがアンデレがバプテスマのヨハネの弟子になり(35節)、そのヨハネにイエスを紹介されて、イエスについて行ったことによって、その後の人生が全く変わってしまったのです(36~40節)。 兄のシモンが熱血漢で、喜怒哀楽が激しく、指導者意識が強くて、何事においても人に先んじなければ気が済まない、目立ちたがる性格の人であるのに対して、アンデレは沈着冷静で、何事においても堅実で、慎重に行動し、謙虚で控えめな性格の人でした。 アンデレは、イエスが真のメシヤであることを知ると、うれしさのあまりに--自分とはあらゆる点において全く正反対の兄のシモンでしたが--兄シモンに臆することなく、大胆に、確信をもって「私たちはメシヤに会った」と言ったのです(41節)。 もしアンデレが兄は自分とはすべての面で違うと言って、イエスのもとに連れて行くことをためらっいたなら、筆頭の弟子である使徒ペテロは生まれなかったことでしょう。 二、少しのパンと魚を持っている少年をイエスのもとに連れて来たアンデレ(6章9節) イエスの行われた奇蹟の中で「五千人の給食」は、四つの福音書に記されている唯一の奇蹟です(マタイ14章15~21節、マルコ6章34~44節、ルカ9章11~17節、ヨハネ6章5~14節)。その中でピリポとアンデレという弟子の名を書いているのは「ヨハネの福音書」だけです。ヨハネは、自分とともに弟子になったアンデレを特別な目で見ていたのではないでしょうか。 この奇蹟においてイエスが用いられた少しのパンと魚は、少年が持っていたものですが、その少年をイエスのもとに連れて来たのはアンデレです。おそらく彼は、少年と友だちになっていたのでしょう。後代の人たちは、彼を「教会学校の守護聖人」と呼んでいます。 ペテロがひのき舞台で脚光を浴びる奉仕をしているのに対して、アンデレは舞台裏でひとり静かに奉仕し、目立ちませんが、なくてはならない大切な働きをしているのです。 三、イエスに会いに来たギリシャ人をイエスのもとに連れて来たアンデレ(12章22節) 祭りの時、礼拝のために上って来た幾人かのギリシャ人は、ピリポのところに来てイエスに面会を申し出ました。「ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話し」ました(12章21、22節)。アンデレは、面会を求めた人がギリシャ人であるにもかかわらず、差別と偏見をもたずに彼らをイエスのもとに連れて来ました。 もしアンデレがペテロのように選民意識が強い排他的なユダヤ教の偏見にとらわれていたなら、ギリシャ人という理由だけで彼らを追い返していたことでしょう。「アンデレは、最初の海外宣教師でした。実際、彼は証しを家庭で始めましたので、『家庭と外国の宣教師』の称号を与えられています」(レスリー・B・フリン著『十二使徒』64頁)。 アンデレは、ギリシャのアカヤで殉教の死を遂げました。伝説は、アンデレが主と同じ形の十字架について死ぬに値しないと考えて、X型の十字架で殉教したと伝えています。それでX型の十字架は、「聖アンデレの十字架」と呼ばれるようになったのです。拙著「使徒ヨハネの生涯」21「アンデレ」より転載東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.02.23
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「ダビデの信仰に学ぶ」 甲斐慎一郎 サムエル記、第二、7章18~29節 「私たちの願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださる神を呼び求め、答えられた信仰の人として、ダビデの生涯から学んでみましょう。 一、神の家を建てることを預言者ナタンに相談し、彼の承諾を得たダビデ(1~3節) ダビデは、りっぱな王宮に住んでいましたが、神の箱は、天幕にありましたので、神殿を建てることを思いつきました。 ダビデが主のために家を建てようとしたのは見上げた心がけであり、彼の動機は純粋でした。しかし彼は、このような良い志を持ったからと言って身の程をわきまえず、また神の導きも求めないで、勝手に神の宮を建てるようなことはしませんでした。 ダビデは、信頼のおける友である預言者ナタンに自分の心を打ち明け、どのようにすればよいか相談しました(2節)。ナタンは、ダビデのことばを聞いた時、王の志は神の栄光を現すものであると判断して、心から喜んで賛成したのです(3節)。 二、「わたしが、あなたのために家を建てる」とダビデに約束された主(4~17節) 「しかしナタンは、たとえ敬虔であっても神の導きではなく、ただ自分の感動によって語ったのです。私たちの考えにおいても、たとえ敬虔な動機から出ていたとしても、神のみこころにかなわないことがあります。......ですから事ごとに主観的な感情ではなく、客観的な啓示によってこれを試験しなければならないのです」(A・イーダーシャイム)。 主は、ナタンを通してダビデに次のような4つのことを仰せられました。 1.主は、神の家を建てるようにイスラエル人に仰せられたことは一度もない(7節) 2.主が、ダビデのために家を建てる(11、27節) 3.主は、ダビデの世継ぎの子を起こし、彼が主の家を建てる(12、13節) 4.ダビデの家と彼の王国とは、主の前にとこしえまでも続く(16節) 主がダビデのために家を建て、主の前にとこしえまでも続くというのは、主がダビデの王国を永遠に確立されることを教えています。この「ダビデへの大いなる約束は(12、15、16節)、ソロモンにおいて一部分成就したが、完全な成就は、ダビデの最も偉大な子、キリストにおいてのみある(第一列王8章15~20節、ヘブル1章5節、ルカ1章31~33節、使徒2章29~31節、13章22、23節)」(A・M・レンウィック)。 ダビデは、大きな戦いをして多くの血を流してきたので、神の宮を建ててはなりませんでした(第一歴代22章8節)。それで主は、主の御名のために宮を建てようとしているダビデの好意を無にしないように、こまやかな心くばりをして、この時は宮を建ててはならない理由を告げて無下に断るようなことをせず、「わたしが、あなたのために家を建てる」と言って(27節)、彼に希望を与えて励まされたのです。 三、主のことばに感謝して、約束どおりに行ってくださいと祈ったダビデ(18~29節) ダビデは、ナタンをとおして告げられた主のことばを聞いた時、自分の願いはかなえられないことを知りました。しかし神の宮を建てることができないことに対する不平や不満のことばなど一言も言いませんでした。 かえってダビデは、主の御目には取るに足りない者のために、はるか先のことまで告げてくださった主の心憎いまでの配慮に感激して、主の前にへりくだった心から満ちあふれる感謝のことばが口をついてほとばしり出ただけでなく、「あなたの約束どおりに行ってください」と大胆に祈ったのです(25節)。 ダビデ王が祈った「この祈りの特徴は、大いなる謙遜、神の顧みに対する感謝、神の意志への服従、主に対する信頼である」(A・M・レンウィック)。 神は、このようなダビデの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。
2011.02.15
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「ヨセフの信仰に学ぶ」 甲斐慎一郎 創世記、45章1~8節 「私たちの願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださる神を呼び求め、答えられた信仰の人として、ヨセフの生涯から学んでみましょう。彼には、3回の信仰の転機がありました。 一、神によって育てられたヨセフの信仰 ヨセフは、だれよりも父に愛されましたが、十七歳まで、その身に思いもよらないことが次々と起こりました(創世記30~36章)。 1.ヨセフは、ヤコブの最愛の妻ラケルの長男として生まれ、両親にこよなく愛され、すくすくと育ちました。 2.六歳の頃、家族とともに夜逃げも同然に帰郷し、ラバンの襲撃を恐れましたが、危機一髪のところで救われました。 3.ヤコブの家族は、カナン人とペリジ人の襲撃を受けて根絶やしにされそうになりましたが、神は彼らを守ってくださいました。 4.ヨセフは、エフラテへ行く途上において母の死に直面しました。 5.彼は、一夫多妻の複雑な家庭の中で兄たちの悪い姿を見て育ちました。 6.彼は、父ヤコブとその家族の身に及んだ様々な出来事を通して神を知り、その神への信仰が心に芽生えていったのでしょう。 これがヨセフの信仰の第一の転機です。 二、神によって試みられたヨセフの信仰 ヨセフは、神を愛し、罪を憎む青年でしたが、十七歳の時、その身にまたもや思いもよらないことが次々と起こりました。 1.ヨセフは、父に特別に愛されていたので、兄たちに憎まれました(37章4節)。 2.彼は、夢の話をしたので、兄たちにねたまれました(37章11節)。 3.彼は、兄たちのたくらみによって殺されそうになりました(37章18節)。 4.彼は、ルベンやユダのことばによっていのちだけは助かりましたが、エジプトに奴隷として売られました(37章28節)。 5.彼は、ポティファルの妻の中傷によって監獄に入れられました(39章20節)。 6.彼は、献酌官長の忘恩によって二年間も忘れられました(40章23節)。 聖書は、この時のことを「ヨセフは鉄のかせの中に入った。彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」と記しています(詩篇105篇18、19節)。 ヨセフは、エジプトに奴隷として売られましたが、「主がヨセフとともにおられ......主が彼のすることすべてを成功させてくださ」いました(創世記39章2、3節)。 これがヨセフの信仰の第二の転機です。この信仰によって「鉄のかせの中」から救い出されました。神は、ヨセフの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。 三、神によって祝福されたヨセフの信仰 エジプトに奴隷として売られてから13年後に、その身にまたもや思いもよらないことが次々と起こりました(41~50章)。 1.ヨセフは、献酌官の進言によって夢の説き明かしを求めるパロの前に出ました。 2.彼は、パロの夢を説き明かし、それに対する有効な政策を打ち出しました。 3.彼は、エジプトの宰相になり、パロの前に示した政策を実行に移しました。 4.彼は、穀物を買いに来た兄たちを試し、彼らを悔い改めさせました。 5.彼は、兄弟たちに名前を明かし、父と全家族をエジプトに呼び寄せました。 6.彼は、エジプトにおいてイスラエルとその子孫を大いなる国民にしました。 ヨセフは、パロの前に出て、パロの夢を説き明かし、兄たちが穀物を買いに来て、自分を伏し拝んだのを見た時、神の遠大なご計画を知り、その後、「神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」と兄たちに言いました(5節)。 これがヨセフの信仰の第三の転機です。神は、ヨセフの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。
2011.02.09
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「ヤコブの信仰に学ぶ」 甲斐慎一郎 創世記、35章1~8節 聖書には、しばしば「ヤコブの神」という言葉が記されており(詩篇46篇7、11節)、また神は、御自身のことを少しも恥じることなく、「わたしは......ヤコブの神である」と仰せられました(出エジプト3章6節)。 ヤコブは、その名前の通りに「押しのける者」であり、見かけは優しそうでも心のねじけた陰険な人、また貪欲で疑い深い人間、狡猾で人を欺く策略家、卑劣な陰謀家でした。 このような邪悪なヤコブと愛と正義に満ちた神の組み合わせは、なんと不釣合いなことでしょうか。しかしこれは私たちに人を変える驚くべき神の恵みを教えているのです。 ヤコブの生涯にも、三回の信仰の転機がありました。 一、ベテルでのヤコブの信仰(28章) ヤコブの押しのける悪い性質は、まず人を欺くことから始まりました。ヤコブは兄エサウと父イサクをだましましたが、このことによって家にいることができなくなり、ひとり旅に出ました。その孤独な旅の中で、今さらのように自分の行ってきたことの間違いと罪の恐ろしさを知ったことでしょう。このような時、神は、ベテルにおいてヤコブに現れ、「地上のすべての民族は......あなたの子孫によって祝福される」と語ってくださったのです(28章14節)。 ベテル--自分の罪のためであれ、苦難のためであれ、労せずして与えられていた良い環境や恵まれた境遇が取り去られ、孤独にされて、自分の行ってきたことの過ちを教えられ、人を欺いていた罪を示されて、神のお取り扱いを受け、神に祝福されるところです。 神は、ヤコブの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。 二、ペヌエルでのヤコブの信仰(32章) ヤコブの押しのける悪い性質は、次に自分を欺くことに表れました。ヤコブは、伯父ラバンの所で働いていましたが、このラバンは、ヤコブに輪をかけたような悪賢い人でした。そのために、さすがのヤコブもラバンには何回もだまされています(31章7、41節)。しかしヤコブも決して負けてはいませんでした。知恵と力を尽くして多くの妻子と家畜を手に入れて、ラバンのもとを去り、故郷に向かいました。けれども知恵と力を尽くして得た多くの妻子と財産をもってしても、一人の兄エサウの前に立つことができず、恐れ戦いている自分を発見しました。このような時、神は、ペヌエルにおいてヤコブに現れ、神の祝福を受けたのです(32章29節)。 ペヌエル--知恵と力を尽くして得た多くのものに囲まれても、孤独であり、自分自身の過ちと無力さをいやというほど教えられ、自分を欺いていた罪を示されて、神のお取り扱いを受け、神に祝福されるところです。 神は、ヤコブの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。 三、エル・ベテルでのヤコブの信仰(35章) ヤコブの押しのける悪い性質は、神を押しのけ、神を欺くことでした。ヤコブは兄エサウと無事に再会することができたので、すっかり安心して神との初めの約束を反故にしてしまいました(28章20~22節)。その結果、実に恐ろしい事件が起きたのです(34章)。このような時、神はヤコブに現れ、ベテルに行くように命じられました。彼は、すべての偶像を捨てて身を聖別し、真剣に神に立ち返りました。「神は再び彼に現れ、彼を祝福され」、その名をヤコブ(押しのける者)と呼ばず、イスラエル(神は戦士)でなければならないと仰せられました(35章9、10節)。 エル・ベテル--すべてのものを捨てて孤独になり、神の前に間違っている姿を教えられ、神を欺いていた罪を示されて、神のお取り扱いを受け、神に祝福されるところです。 神は、ヤコブの信仰の祈りに応えて、彼の「願うところ、思うところ」をはるかに越えて、かなえてくださったのです。
2011.02.02
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