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「神の思いと人の思い(3)」 甲斐慎一郎 イザヤ書、55章8、9節 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。--主の御告げ--天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(8、9節)。 最後に神の思いは人の思いにはないものであるということについて学んでみましょう。 一、人の思いにない三つのことば 私たちが何げなく用いていることばの中に、私たちの思いにはなかったものを表すことばがいくつかありますが、そのうちのおもなものは、次の三つではないでしょうか。 1.不可思議 「可」ということばを省いて「不思議」とも言いますが、これは文字通り思いはかることができないということで、到底考えることができないという意味です。 2.まさか 漢字は「真逆」と書きますが、これは、とてもありそうもないとか、起こりそうもない様子を表すことばです。 3.意想外 「想」ということばを省いて「意外」とも言いますが、これは文字通り自分の意想、すなわち思いや考えの外ということで、思いのほかとか、思いがけないという意味です。 「事実は小説よりも奇なり」ということばがありますが、この世に実際に起きる出来事というものは、作り話や小説以上に不思議な巡り合わせや、まさかと思われるような事件、また作家の空想も及ばないような意外なことが多いものです。 二、人の思いについて これらのことは、信仰の世界においては、どうでしょうか。 1.思いもよらない出来事 このような思いもよらない出来事というものは、世の中だけでなく、聖書に記されている人物の生涯にも、二千年にわたる教会歴史と代々の神の聖徒たちの生涯にも見ることができます。しかしなぜでしょうか。 2.思いもよらない罪 人間の心というものは、底の知れないほど深いものであり、自分でも気がつかないような神への不信仰と反逆という罪が潜んでいます。私たちは、思いもよらない出来事に遭遇する時にのみ、この思いもよらない罪が示されるのです。 3.思いもよらない救い 私たちは、自分の考えで神の救いのわざを限定してしまうことが多いものです。神が私たちに思いもよらない出来事を通して、思いもよらない罪を示すのは、私たちを苦しめるためではなく、私たちの想像を遥かに越えた思いもよらない救いを与えるためです。 三、神の思いについて それでは、なぜ神のなさることは、私たちの想像を遥かに越えた思いもよらないことなのでしょうか。 この宇宙を創造されたのは神です。しかし聖書が教えている神は、宇宙とは別個に、その外におられる方、いや宇宙(被造物)がなくても、それを超越して存在される方です。これを「超越神」と言います。しかし同時に「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17章28節)とあるように、宇宙(被造物)の中に存在しておられる方です。これを「内在神」と言います。 私たちの思考の範囲は、どんなに広くても、この宇宙の中に限られていて、その外側の世界を考えることは、到底不可能です。しかし神は、この宇宙の外におられると同時に、この宇宙のどこにでもおられるゆえに、神のなさることは、人間の目には、私たちが到底考えることができない不思議なことに見えるのであり、また私たちの思いや考えの外にある実に意外な出来事に映るのです。 このように人の思いとは反対の神の思い、また人の思いよりも遥かに大きい神の思い、そして人の思いにはない神の思いにこそすべての問題の解決と救いがあるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.10.31
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「苦難の意味するもの(2)」 甲斐慎一郎 ヨブ記、42章1~6節 あらゆる恵みに満ちた神がキリストを信じる者に備えられた永遠のご計画は、この世においては、罪の解決(救いと聖化)と苦難による完成(成長)であり、次に来る世においては、永遠の栄光(天の御国)です(第一ペテロ5章10節)。ヨブ記は、苦難による完成を教えています。 一 苦難について 聖書は、苦難について次のような五つの説を教えています。 (1)刑罰説--「だれか罪がないのに滅びた者があるか。......不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ」(4章7、8節)。 苦難についての第一の説は、罪に対する刑罰として来る苦難です。ヨブの三人の友は、ほとんどこれによってヨブの苦難を説明しようとしています。しかしこれでは苦難について全部説明することはできず、五つの説の中の一つにすぎません。 (2)教育説--「悩みのなわに捕らえられると、そのとき、神は、彼らのしたことを彼らに告げ......神は彼らの耳を開いて戒め」(36章8~10節)。 苦難についての第二の説は、前のよりも少し高尚で、私たちを教え諭し、教育するために来る苦難です。エリフは、このように説明しています。これは、罪を犯したことを教えるために苦難が来る場合と、その時点においては、正しい動機で行い、罪がなくても、知恵がなく、幼稚で未熟なために、教育される必要がある時に、苦難が来る場合とがあります。 (3)試験説--「神はアブラハムを試練に会わせられた」。「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった」(創世記22章1、12)。 苦難についての第三の説は、もう少し高尚で、私たちの実質や実力を試し、試験するために来る苦難です。アブラハムの苦難の説明はこれです。これは、前の二つと違って、その人には全く罪がないのに来る苦難です。 (4)代償説--「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(イザヤ53章5節)。 苦難についての第四の説は、さらに高尚で、自分には全く罪がないにもかかわらず、他の人の罪を身代わりに負い、代償として来る苦難です。キリストの苦難は、まさにこれです。私たちも罪に陥っている人を救いに導くためには、代償の苦難を受けなければならないことがあります。 (5)栄光説--「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9章3節)。 苦難についての第五の説は、最も高尚なもので、神の栄光が現れるために来る苦難です。キリストは、生まれながらの盲人に関して、このように説明されました。 ヨブの苦難は、個人的には彼の姿と神の偉大さを教えるために起きた「教育説」ですが、摂理的には聖書を通して全世界の人々に神のわざを知らせるために起きた「栄光説」です。 二 苦難の結果について 最後の章である42章には、次のような四つの幸いな結果が記されています。▼神を目で見る(5節)--より深い神経験▼全く悔い改める(6節)--より深い謙遜▼友のために祈る(10節)--より大きな愛▼二倍に祝される(10節)--より高い恵み 私たちも、苦難を乗り越えるなら、私たち自身がより高く成長し、ほかの人がより大きな恵みに与かり、神のわざがより広く現れます。 ヨブ記の主題は「完全な人の完成」です。苦難に会う前のヨブは、「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」完全な人でしたが(1章1節)、この苦難を乗り越えることによってきよめられ、完成したのです(1~6)。拙著「聖書の中心的な教え」42「苦難の意味するもの(2)」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.10.24
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「苦難の意味するもの(1)」 甲斐慎一郎 ヨブ記1~42章 不朽の大作「レ・ミゼラブル(ああ無情)」を著したフランスの文豪ビクトル・ユーゴーは、「ヨブ記は、恐らく人類の心の所産の最大傑作である」(ヘンリー・H・ハーレイ『聖書ハンドブック』220頁)と言いました。ヨブの受けた言語に絶する苦しみは、私たちに何を教えているのでしょうか。 一、大きな苦しみを受けたヨブ(1、2章) 神は、ヨブに五つの苦難が来ることを許されましたが、これは苦難の程度の軽いものから重いものに至るまで五つの段階を教えているのではないでしょうか。 (1)息子の行状を心配する心の苦しみです。具体的には何も失っていません(1章5節)。 (2)財産が失われる苦しみです(1章13~17節)。これには心の苦しみも伴います。 (3)愛する七人の息子と三人の娘が失われる苦しみです(1章13~19節)。 この苦しみは想像を絶するものです。しかしヨブは、「主の御名はほむべきかな」と神を賛美しています(1章21節)。 (4)自分の健康が失われる苦しみです(2章7節)。重い病ほどその心の苦しみは増すでしょう。しかしこの時ヨブは、「神から……わざわいをも受けなければならない」と言って神の摂理に従っています(2章10節)。 (5)言語に絶する苦しみに受けながら、同情もされず、友から激しい非難を浴び、人間の尊厳を損なわれた苦しみです(4~25章)。 二、神のお取扱いを受けたヨブ(3~41章) ヨブの三人の友は、ヨブを慰めに来ましたが、彼のことばを聞いているうちに「ヨブがこのような大きな苦難に会ったのは、大きな罪を犯したからである」と異口同音に彼を非難しました。しかしヨブは「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」人ですから(1章1節)、この非難は全く的外れです。ヨブは自分の無実を述べる時、三人の友よりも知識と経験と能力において優っていると言っただけでなく、自分の正しさを主張するあまり、神を非難してしまいました(40章8節)。そのような時、神はヨブに三つの質問をされました(38~41章)。 ▼あなたは……(を)知っているか。ヨブの知識を問う質問です(5回)。▼あなたは……(した)ことがあるのか。ヨブの経験を問う質問です(9回)。▼あなたは……(する)ことができるか。ヨブの能力を問う質問です(25回)。 神がヨブに浴びせた矢継ぎ早の質問には、さすがのヨブも自分の無知と無経験と無能力を認めざるを得ませんでした。 三 神の祝福を受けたヨブ(42章) 神のねんごろなお取扱いを受けたヨブは、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました」(1節)と、改めて神の全知全能を心から認め、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」(5節)と、新しい神経験をしました。それでヨブは「自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い」改めました(6節)。ヨブが三人の友のために祈った時、主はヨブを元どおりにし、さらにヨブの所有物をすべて二倍に増し、息子七人と娘三人を与えられました(10、13節)。こうしてヨブは神からあふれるばかりの祝福を受けたのです。 「あなたが苦しみに会っても落胆しない……一つの秘訣があります。それは永遠に神を疑わないことです。ただ、あなたが神をとらえていれば、すべてを失ったとしても、実際は何も失っていないのです。というのは、あなたに神がついていてくだされば、すべてのものがあるということなのです。神はあなたが失ったすべてのものを倍にして返そうとしておられます。一番恐るべきことは、すべてのものを持っていて、神をとらえていないことです。神がいないなら、あなたの持つすべてのものも零に等しいのです」(テモテ・ザオ『わざわいをも』21頁)。拙著「聖書の中心的な教え」41「苦難の意味するもの(1)」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.10.17
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「放蕩息子の父」 甲斐慎一郎 ルカの福音書、15章11~32節 この「放蕩息子」のたとえ話は、弟息子や兄息子に焦点を合わせると、失われた人が、信仰によって神に立ち返るという人間の側から見た救いを教えています。しかし、二人の息子の父に焦点を合わせると、神が、失われた人を捜し求めておられるという神の側から見た救いを教えています。 それで第三回目は、放蕩息子、いや二人の息子の父に焦点を合わせてみましょう。 一、なぜ父は、弟息子の求めるままに身代を分けてやったのでしょうか 弟息子が父に財産の分け前を求めた時、父は、「悪銭身に付かず」という諺のように、彼が放蕩して財産を使ってしまうことなど全く考えなかったのでしょうか。決してそうではありません。父には、そのようになることは、初めからわかっていました。 しかし父は、すでに心が離れてしまっている弟息子を無理に引き止めて、強制的に服従させてもむだであることをよく知っていました。それよりも彼が父を離れて放蕩し、様々な苦しみをなめることによって、自分の愚かさと罪深さをいやというほど知るようにさせたのです。これこそ、神が私たち人間をお取扱いになる方法です。 「神は、弟息子に罪を憎ませるため、彼に罪の苦さを味わわせただけでなく、彼を罪から救うために、彼を罪の悲哀の中から招かれました。弟息子は、このような懲らしめを受けなければ、おそらく神の招きの声を聞いても、それに聞き従わなかったでしょう。弟息子の上にふりかかった禍は、彼の罪に対する神の怒りの現れであることは言うまでもありませんが、見方を変えれば、彼に対する神の愛の現れなのです」(R・C・トレンチ)。 二、なぜ父は、少しも叱責しないで弟息子を子として迎えたのでしょうか 父は、弟息子を少しも叱責しないで、子として迎えました。それは、彼が父の家を出て行った時の姿や、遠い国へ行って放蕩していた時の姿とは、全く違った別人として帰って来たからです(R・C・トレンチ)。これが、弟息子の側の理由です。 父は、弟息子を少しも叱責しないで、子として迎えました。それは、父が弟息子の罪による苦しみや悩みを全部自分が負って、彼の罪をすべて赦したからです。これが、父の側の理由です。 この両者があったからこそ、父は弟息子を子として迎えたのです。もし弟息子が、家を出て行った時の姿や、遠い国で放蕩していた時の姿のままで帰って来たならば、また父が弟息子の罪による苦しみや悩みを全部彼に返していたならば、父は、弟息子を子として迎えることはできなかったでしょう。 三、なぜ父は、兄息子が知ったならば怒るような祝宴を催したのでしょうか 近所の人たちは、弟息子の方は親不孝で、とても悪い子だが、兄息子の方は親孝行で、りっぱな子だとうわさをしていたにちがいありません。弟息子のほうのうわさは当たっていました。しかし父は、兄息子のほうに関しては、近所の人たちがうわさをしているようには、決して思っていませんでした。 父は、弟息子を子として迎え入れ、祝宴を催すことによって、兄息子の心の中に隠れていた罪を自覚させ、悔い改めの必要を気づかせたのです。兄息子は、弟息子を迎え入れた父を責めることによって、自分の心の中に隠れていた罪が現れるとは、夢にも思っていなかったことでしょう。それは放蕩した弟息子にとっても同じでした。しかし父は、すべてを見通して、二人の息子を神に立ち返らせるために、このようにしたのです。拙著「キリストの生涯の学び」130「放蕩息子の父」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.10.10
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「神の思いと人の思い(2)」 甲斐慎一郎 イザヤ書、55章8、9節 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。--主の御告げ--天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(8、9節)。 次に神の思いは人の思いよりも遥かに大きいということについて学んでみましょう。 一、三種類の相違について なぜ神の思いは、人の思いよりも遥かに大きいのでしょうか。それは、神ご自身が人よりも比べものにならないほど大きな方だからです。 1.時間的なスケールの大きさ--永遠 科学者が用いる時間の単位は、どんなに長くても何十億年、または何百億年です。しかし「とこしえからとこしえまで、あなたは神です」(詩篇九〇篇2節)とあるように神は初めもなく終わりもない永遠の方です。 2.空間的なスケールの大きさ--無限 私たちの知る限りにおいて最も大きなものは、果てしもなく広がる大宇宙です。しかし「天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません」(第一列王8章27節)とあるように神は大宇宙よりもさらに大きな方です。 3.本質的なスケールの大きさ--無限 このように神は、空間的には無限、時間的には永遠であるだけでなく、知識においては全知、能力においては全能であり、聖さ、愛、正しさ、憐れみ、真実さなど、その性質や属性のすべてにおいて無限の方です。 二、人の思いについて 文字通り「ちりにすぎない」(詩篇103篇14節)人間が、大宇宙よりも大きな神をとらえようとするなら、次のようなことになるのではないでしょうか。 1.一部分を見て、それを全体であると思い込んでしまう これは、最も浅はかな考えであり、多くの人たちが陥っている誤りです。 2.一部分を見て、それをそのまま拡大したものが全体であると想像してしまう これは、「針の穴から天上のぞく(狭い見聞で、大きな問題を判断することのたとえ)」という諺のように、往々にして間違いのもとになることが多いものです。 3.全く分からなくなってしまう これは、「燕雀(えんじゃく)安んぞ(いずくんぞ)鴻鵠(こうこく)の志(こころざし)を知らんや(つばめやすずめのような小さな鳥には、おおとりやくぐいのような大きな鳥の志すところはわからないように、小人物は大人物の心を知ることができないというたとえ)」ということばのように、小さな人間の心で、無限に大きな神のみこころを知ることは到底不可能です。 三、神の思いについて それでは、人が神を知ることは永久にできないことなのでしょうか。決してそのようなことはありません。まず神が私たちにご自身を示してくださる--すなわち啓示してくださる--なら、私たちは神を知ることができるのであり、その神の啓示が記されている書物こそ聖書です。 ヨブは、言語に絶する苦しみを受けましたが、ヨブ記の42章には、四つの幸いな結果が記されています(5、6、10節)。▽神を目で見る(5節)--より深い神経験▽全く悔い改める(6節)--より深い謙遜▽友のために祈る(10節)--より大きな愛▽二倍に祝される(10節)--より高い恵み そのためには次の三つのことが必要です。1.神の啓示を信じ、受け入れる2.へりくだって罪を悔い改める3.神に祈り、信仰によって歩む 聖書は、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」と教えています(ヤコブ4章4節)。私たちは、神の啓示を信じ、へりくだって罪を悔い改め、祈りと信仰によって神に近づくなら、神も私たちに近づいてくださり、いよいよ深く神を知ることができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.10.03
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