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「キリストの昇天」 甲斐慎一郎 使徒の働き、1章1~11節 「イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられ」ました(9節)。 よみがえられたキリストが、使徒たちにご自分を現された目的について、聖書は、次のような四つのことを教えています。1.使徒たちにご自分が生きていることを示すためです(3節)。2.使徒たちにキリストの羊を牧する任務を与えるためです(ヨハ ネ21章15~17節)。3.使徒たちに世界宣教を命じるためです(マタイ28章19節、マ ルコ16章15節)。4.使徒たちに聖霊を待ち望むように命じるためです(4節、ルカ 24章49節)。 復活されたキリストは、このために四十日の間、彼らにご自分を現されましたが、これらの目的が果たされたので、天にお帰りになりました。これがキリストの昇天です。そして聖書は、キリストが天にお帰りになった目的について三つのことを教えています。 一、罪のきよめを成し遂げて、神の右の座に着かれるためです ヘブル人への手紙の著者は、神の啓示によってキリストの驚くべき姿を記しています。すなわちキリストは、万物の相続者、世界の創造者、神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ、万物の保持者であると教えています(ヘブル1章2、3節)。そして最後に、このようなキリストが、天から下って、人となり、十字架につけられて、「罪のきよめを成し遂げ」られたので、天に上って、「すぐれて高い所の大能者(すなわち神)の右の座に着かれました」と教えています(同1章3節)。「主が神の右にいますということは、彼が一層強力に『世の終わりまで、いつも』(マタイ28章20節)、地上の御民と共にいたもうことを意味する。彼は『すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた』(エペソ4章10節)のである」(F・F・ブルース『使徒行伝』47頁)。 このようにキリストは、罪のきよめを成し遂げて、神の右の座に着かれるために、昇天されたのです。 二、御父から約束された聖霊を受けて、人々に聖霊をお注ぎになるためです 聖書は、私たちを罪から救う贖いのわざを父なる神が計画され、子なる神が実現され、聖霊なる神は、「神の執行者」(H・オートン・ワイレー、P・T・カルバートソン『キリスト教神学概論』321頁)であると教えています(エペソ1章9~14節)。これは、難病の治療を厚生労働省が計画し、医学者が実現し、臨床医が執行するということにたとえることができます。 キリストは、罪のきよめを成し遂げられましたが、聖霊が私たちのうちに働いてわざをなしてくださらなければ、十字架の贖いも私たちの救いにはなりません。聖書は、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて......聖霊をお注ぎになったのです」と教えています(2章33節)。 このようにキリストは、御父から約束された聖霊を受けて、人々に聖霊をお注ぎになるために、昇天されたのです。 三、天の御国に場所を備えて、神の子どもたちを天に迎えるためです キリストは、弟子たちに「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。......わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と言われました(ヨハネ14章2、3節)。 キリストの十字架の死は、天にある「まことの聖所」において永遠の贖いを成し遂げて、天の御国への道を開きました(ヘブル9章12節)。キリストは、その天の御国に多くの神の子どもたちが永遠に住む場所を備えるために、天にお帰りになりました。そして再臨の時に神の子どもたちを迎えに来られるのです。 このようにキリストは、天の御国に場所を備えて、神の子どもたちを天に迎えるために、昇天されたのです。拙著「聖書の中心的な教え」18「キリストの昇天」より転載甲斐慎一郎の著書→執筆活動東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.05.30
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「人類の新旧の代表」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、5章12-21節 「キリストは、私たちの罪のために死んでくださったので、このキリストの贖いを信じる者はだれでも罪から救われます」というのが福音であり、キリスト教の中心です。 しかしキリストの十字架の死は、今から二千年も前にエルサレムで起きた出来事です。それが、どうして二千年後の極東の日本に住んでいる私たちのためなのでしょうか。その時間的、空間的な隔たりをどのように考えればよいのでしょうか。 一、アダムの堕罪と死の支配 パウロは、キリストの贖罪による恵みが、時間と空間を超越して全人類に及ぶというすばらしい事実を示すために、アダムの堕罪によって生じた罪とその結果である死が、時空を超越して全人類に及んでいるという厳粛な事実を述べています(12節)。 冒頭の図の赤い線の三角形は、人類の古い代表(かしら)であるアダム(第一の人)を頂点とし、そのアダムの堕罪によって世界に死がはいり、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 このように聖書はアダムが罪を犯した時、すべての人は彼の「腰の中にいた」(ヘブル7章10節)、すなわち彼の傘下にはいっていたという人類の連帯性を教えています。 二、キリストの贖罪といのちの支配 冒頭の図の青い線の三角形は、人類の新しい代表(かしら)であるキリスト(第二の人)を頂点とし、そのキリストの贖罪によって世界にいのちが与えられ、そのいのちがあらゆる人を支配して、代代にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 パウロは、人類の真の代表であるキリストとキリストのひな型であるアダム(14節)を比較して、「本物に対してひな型であるアダムの堕罪は、世界に死をもたらし、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に及んでいるのです。とすれば、なおのこと、人類の真の代表であるキリストの贖罪は、どうして世界にいのちを与え、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に満ちあふれないわけがあるでしょうか」とキリストとそのいのちの優越性を述べています(15、17節)。 三、死の支配からいのちの支配への移行 すべての人は、アダムの子孫として生まれるので(第一の誕生)、彼の堕罪による死の支配から逃れることはできませんが、だれでも罪を悔い改め、キリストを信じて新しく生まれるなら(第二の誕生)、主の贖罪によるいのちの支配下にはいることができるのです。 四、キリストの贖罪が意味するもの 「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです」。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所(すなわち天の聖所)にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9章24、12節)。 このようにイエスの十字架の死は、天にある「まことの聖所」において永遠の贖いを成し遂げて、天の御国への道を開いたのです。 一家に1枚ヒトゲノムマップ(A3判対応版)(PDF 4.0MB)東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.05.24
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「人類の始祖」 甲斐慎一郎 使徒の働き、17章26節 「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました」(26節)。 一、知的計画(lntelligent Design)について 「ヒトの遺伝情報を読んでいで、不思議な気侍ちにさせられることが少なくありません。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれがどのようにして書いたのか。もし何の目的もなく自然にできあがったのだとしたら、これだけ意味のある情報にはなりえない。まさに奇跡というしかなく、人間業をはるかに超えている。そうなると、どうしても人間を超えた存在を想定しないわけにはいかない。そういう存在を私は『偉大なる何者か』という意味で10年くらい前からサムシング・グレートと呼んできました」(村上和雄『生命の暗号』一九八頁)。 二、ヒトゲノム計画(Human Genome Project)について 「ゲノム」とは、ひとつの生物が持つ「遺伝情報全体」のことで、ヒトならヒトゲノム、イヌならイヌゲノム、大腸菌なら大腸菌ゲノムがあります。 1989年に1億ドルの予算でアメリカの国立保健研究所を中心とした「ヒトゲノム計画」をスタートさせました。そしてさらに1年間の準備期間を経て、1990年に本格的に国際的なプロジェクトとしての活動が始まりました。プロジェクトの中心となっているのはアメリカ、日本、フランス、イギリス、ドイツといった国々です。これらの国をはじめ世界各国が協力し、膨大な情報量を持つヒトゲノムの解析に励み、2003年に完了しました。これを統括している「ヒトゲノム解析機構」も世界中のゲノム研究者たちによってつくられた国際組織です。解析されたゲノム情報は、「ヒトゲノム解析機構」が中心となってコンピュータネットワーク上で管理し、それぞれの研究所による結果を誰でもすぐ知ることができるようになっています。 三、ヒトゲノム計画でわかったこと 「ヒトゲノム計画」は、ヒトのDNAの全塩基配列を解読するもので、1990年にスタートし、2003年に完了しました。全世界の人々のDNAを調べ、遺伝子の地図(ヒトゲノムマップ)を作りました。ベンター博士(セレラ・ジェノミクス社の社長)と国立衛生研究所の科学者たちは、ヒトゲノムのすべての配列を完成させたと発表しました。彼らは、満場一致で、「人種は、ただ一つしかない」と宣言したのです。 四、ヒトゲノムマップの公開 平成18年(2006年)4月14日に文部科学省が平成18年度(第47回)科学技術週間にあたり、一家に1枚ヒトゲノムマップ「ここまでわかった!! ヒトゲノム」を作製し、インターネットで公開しています。「一家に1枚ヒトゲノムマップ(A3判対応版)(PDF 4.0MB)」をクリックすると、見ることができます。このマップの下の箇所に「ナンバーワンよりオンリーワン」というのがありますが、そこに「私たち(すなわちヒト)は、世界に一つだけのゲノムを持っています」と記されています。 これが前述したベンター博士(セレラ・ジェノミクス社の社長)と国立衛生研究所の科学者たちが満場一致で宣言した「人種は、ただ一つしかない」ということです。全世界の人々のDNAを調べた結果、「人種は、ただ一つしかない」、すなわち「すべての民族は、一組の夫婦(アダムとエバ)から生まれた」ということが21世紀の科学で証明されたのです。 一家に1枚ヒトゲノムマップ(A3判対応版)(PDF 4.0MB)東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.05.19
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「計画に現れる愛」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章28~30節 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」(28節)。 この有名なみことばから「愛」と「計画」ということについて考えてみましょう。 一、私たちに対する神の愛の現れ 聖書は「神は愛です」と教え(第一ヨハネ4章16節)、キリスト者は、この神の愛によって救われた者です。しかし私たちは、この神の愛をどのようにとらえているでしょうか。 エペソ人への手紙の1章には、「あらかじめ定め」るという言葉が2回(5、11節)、また「ご計画」という言葉が2回記されています(9、11節)。この箇所をよく読むなら、神の「愛」は、「計画」に現れていることがわかります。 すなわち「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」ただけでなく(4節)、その「みこころの奥義を私たちに知らせてくださ」り(9節)、さらに「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され」たのです(10節)。 このようなことから神の愛というのは、私たちのためにすばらしいことを計画してくださるだけでなく、すべてのことを働かせて益としてくださる神の摂理によって、その計画を実行に移されることに現れていることが分かります。ブッシュネルは、「どの人の生涯も神の計画による」、「神の心の中には、すべての人のために完成された完全な計画が大切にしまわれている」と述べています(詩篇31篇15節、139篇16節)。 私たちは、神の愛をこのように具体的な計画のあるものとしてとらえているでしょうか。もしそうでなければ、神の愛を何かつかみどころのない漠然とした、抽象的なものとしてしかとらえていないのです。 二、神に対する私たちの愛の現れ 私たちが神を愛するとは、どのようなことかということを述べる前に、その反対である神を愛さないということについて考えてみましょう。それは、一言で言えば、罪です。 聖書は、アダムから受け継いだ原罪を別にすれば、罪というものを決して無意識的また偶発的なものとして記していません。ダビデの姦淫と殺人の出来事(第二サムエル11章)から分かるように計画的なものであり、様々なことを考え、策略をめぐらしながら承知で犯すものであると教えています。言い換えれば、罪は、神のご計画、すなわち神の御旨を受け入れず、自分の計画や自我を押し通すことなのです(民数記22章32~34節)。 ここでパウロは、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々」と記していますが、この言葉から私たちが神を愛するというのは、愚かで罪深い自分の計画を捨て、私たちのために備えられた遠大な、すばらしい神のご計画を私たちが受け入れ、それに自らを当てはめていくことなのです。 三、人に対する私たちの愛の現れ 私たちは、神がこのような罪深い者をもそのひとり子をお与えになったほどに愛してくださったことを知る時にのみ、真にほかの人を愛することができるようになります(第一ヨハネ3章16節)。その神の愛は、計画に現れる愛です。ですから私たちの隣人への愛もそのようになるのです。 両親は、愛する子どものために様々なことを計画し、準備しないでしょうか。人間は、愛する人のために色々なことを計画し、準備するのです。人間の愛でさえもそうならば、神の愛を与えられたキリスト者は、なおさらそうするのではないでしょうか。 真の愛は、決して気まぐれでなく、行き当たりばったりでもありません。また無為無策でもなければ無責任でもありません。私たち自身が無計画でなく、良い計画をもって相手に接し、またその人の将来や永遠のことを考え、配慮することこそ真の隣人への愛ではないでしょうか。 東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.05.16
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「真の神の愛」 甲斐慎一郎 ヨハネの手紙、第一、4章7~16節 聖書は、「神は愛です」(16節)と教え、また多くの人々も「キリスト教は、愛の宗教である」と思っています。このこと自体は、少しも間違っていません。しかしその内容となると、この神の愛ほど正しく受け取られずに、誤解されているものはないでしょう。そこで母の日に因んで真の神の愛について学んでみましょう。 一、真の愛の必要性について 私たちは、自分では気がつかなくても真の愛を求めています。また人間にとって最も必要なものは、真の愛であると言っても過言ではないでしょう。人間は、互いに愛し合う夫婦の愛の結晶として、この世に生を受け、その両親の愛によって育つものです。ですから夫婦や親子にとって最も問われることは、その夫婦の愛や親子の愛が、どれだけ純粋で真実なものであるかということです。家庭の悲劇のほとんどは、この真の愛の欠如から来ているということができるからです。 二、神の愛に対する誤解について 多くの人々は、神が愛であるということについて、次のような間違ったとらえ方をしているのではないでしょうか。 1.神は愛であるから、神は、私たちの罪を大目に見てくれるのではないだろうか ここでいう「大目に見る」とは、罪に対して目をつぶり、罪を許可するという意味です。しかし神は、どんなに小さな罪でも決して許可されたり、目をつぶって見過ごしにされたりする方ではありません。 2.神は愛であるから、私たちは神に甘えることができるのではないだろうか ここでいう「甘える」とは、慣れてわがままにするという意味です。しかし神は、人間とどんなに親密な関係になっても、決して私たちを甘えさせたり、わがままにさせたりすることはありません。 3.神は愛であるから、私たちは神を侮ることができるのではないだろうか ここでいう「侮る」(ガラテヤ6章7節)とは、私たちは、怠けても、罪を犯しても、神は愛であるから、祝福してくださるだろうと、神を嘗めることを意味しています。しかし、「神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることにな」るのです(同6章7節)。 三、真の神の愛について 神は、愛に満ちておられる方ですが、同時に義に満ちておられる方です。ですから神にとっては、正義の伴わない愛もなければ、愛の伴わない正義もありません。ところが人間の場合は、愛と正義が分離し、それぞれがひとり歩きをして、正義の伴わない愛や愛の伴わない正義になってしまうので、神の愛についても、前述したような間違ったとらえ方をしてしまうのです。 ヨハネは、神の愛について「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」と述べています(10節)。 神は、罪を罰せずにはおかない義に満ちておられる方ですが、同時に罪人を愛してやまない愛に満ちておられる方です。この罪を罰せずにはおかない神の義と、罪人を愛してやまない神の愛とが一つに溶け合ったものこそ私たちの罪のために身代わりとなったキリストの十字架です。 聖書には、「恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています」と記されています(詩篇85篇10節)。また賛美歌の262番1節は、「十字架のもとぞいとやすけき、神の義と愛の会えるところ」と歌っています。 私たちは、私たちの罪のために身代わりとなったキリストのうちに罪に対する神の正義の怒りと罪人に対する神の愛の炎を見るのであり、ここに真の神の愛が現れたのです。 東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.05.10
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「四つの法」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、8章10節 「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(10節)。 「法」とは、「おきて」とか「定め」、また「きまり」とか「規則」のことであり、それは、「法則」や「法律」または「律法」という言葉の総称です。「法」には様々な種類がありますが、基本的なものは次のような四つではないでしょうか。 一、自然の法則--自然的なもの これは、自然現象の中に見られる「常に変わらない一定の関係やきまり」のことで、天地万物を創造された神によって定められたものです。 二、道徳の律法--個人的なもの これは、人として当然行うべき行為や在るべき姿、また歩むべき道である「道徳に一定の規則やきまりがある」というものです。 三、社会の法律--社会的なもの これは、「社会生活を維持するために人によって定められた規律」であり、守るべき義務と負うべき責任の伴った強制的なものです。 「法律」は、「個人の権利と利益」、また「公共の福祉と安全」、そして「国家の秩序と平和」を守るために制定されたもので、人間の外側に表れた行為を取り締まります。 国がどんなに優れた「法律」を制定しても、国民がその法律を守らなければ意味がなく、その法律を守るようにさせるものが「倫理・道徳」であり、その「倫理・道徳」を守るようにさせるものが「思想・信条・宗教」です。 四、神の律法--神的(絶対的)なもの 神の律法は「自然の法則」と「道徳の律法」と「社会の法律」のすべてに及ぶ絶対的な規準であり、聖書は「自然の法則」と「道徳の律法」は神によって定められ、「社会の法律」も神の律法に準拠していると教えています。 1.律法は、神がどのような方であり、その神のみこころがどのようなものであるかを私たちに教えるものです(出エジプト20章1~17節)。 2.律法は、人間の心を照らし、私たちの罪深さと無力さを教えて、私たちに罪の意識を生じさせるものです(ローマ3章20節)。 3.律法は、人間に救い主の必要を示し、私たちをキリストへ導くための養育係の役目を果たすものです(ガラテヤ3章24節)。 神は、この三つの目的を果たすためにイスラエルに律法を与えられました。神が律法を与えられた目的を正しく知った少数の神の人や聖徒たちは、律法を守りましたが(詩篇40篇8節)、多くの人たちは、これを理解することができず、律法にそむいて、神との契約を守り通さなかったのです。 神は、律法にそむいて、契約を守り通さなかったイスラエルの民と「新しい契約を結ぶ日が」来ることを約束されました(ヘブル8章8節)。その新しい契約とは、石の板に記された神の律法を与えるのではなく、人の心の板に神の律法を記すこと、すなわち、神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(同8章10節)ことです。 パウロは、「愛は律法を全うします」と記し(ローマ13章10節)、律法を全うするものは愛であると教えています。また「信仰によって......御霊を受け」、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」とあるように、真の愛は、信仰によって受ける御霊によって与えられます(ガラテヤ3章14節、ローマ5章5節)。 ですから信仰によって聖霊と神の愛が与えられて、律法を全うすることこそ、エレミヤによって預言された「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ということばの意味であり、その成就なのです(ヘブル8章10節)。 神は、このことをキリストの十字架の死による贖いとその結果である聖霊の降臨によって成就されました。罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信じる者は、罪が赦されて、聖霊が与えられますが(使徒2章38節)、この聖霊が与えられることこそ、神の律法が心に記されることなのです。東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.05.03
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