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「摂理と運命」 甲斐慎一郎 創世記、22章6~14節 私たちは、「摂理」と「運命」との違いを知っているでしょうか。国語の辞書には、次のように定義されています(三省堂、新明解国語辞典)。 「摂理」--キリスト教で、最終的に人を善に導く神の意志。 「運命」--そうなることに決まっている、物事の成り行きや人間の身の上。超越的な力によって決定されており、人間の力では、いかんともすることができないこと。 「運命」の類似語に「宿命」というのがあります。 「宿命」--人それぞれの身の上に、生まれつき定まっていて、変更が許されないと考えられている、幸・不幸などの巡り合わせ。 「運命」とその類義語である「宿命」については、これでよいのですが、「摂理」については、その語源から考えてみましょう。 「古代民族の諸宗教は、自然や世界の過程の中に、ただ盲目的な『運命』しか見なかったのに対して、キリスト教は、そこに自由な聖なる意志に基づく神の『摂理』を信じました。それは古代宗教史に全く新しいものをもたらしたのです。 摂理とは、創造者なる神が、彼とは異なる被造物の経過と歴史を自らの意志によって、時の中で保持し、統治する知恵と全能と慈しみです。摂理という言葉の語源は、創世記の22章8、14節にさかのぼるといわれます。その箇所でアブラハムは、イサクをいけにえとしてささげよとの命令を受けて山に登りますが、その子に手をかけることを禁じられた時,その場所で神の道と人間の道とが思いがけない方法で出会い、いけにえの雄羊があらかじめ備えられていました。 アブラハムは、その子イサクがいけにえのないことについて質問した時、『神ご自身が全焼のいけにえを備えてくださるのだ』(創世記22章8節)と答えました。このことばがラテン語訳の聖書で〈Deus providet〉と訳されて、摂理の意味をもつようになりました。すなわち、人間の必要と危急と困惑とに当面して神がささげるべき雄羊を欲し、選ぶ予見と予備と配慮、これが摂理の意義です。『摂理』には、『予見・予知』と『配慮・世話』との両方の意味があります。この『以前』と『ために』とが結合されているのは極めて意義深いことです。 人間が、ただあとから事後的に悟り得ることが、あらかじめ神によって決定され、配慮されているのです。神が世界のために、人間のために、教会のために、その知恵と聖なる意志によって、これら被造物の存在と持続のために必要なすべてのものをあらかじめ見、かつ知り、あらかじめ備え、配慮してくださいます。そのようにして被造物に対する神の意図が成就し、神の栄光が輝き出るためです」(『キリスト教大辞典』教分館、649頁、1963年)。 摂理とは「窮地に陥り、困難に直面している人間に対して、神がその無限の知恵と愛によって、その必要なすべてのものをあらかじめ知って備え、また配慮してくださること」です。 「神の支配する世界では、神の摂理が行われ、すべてが神の計画に基づいて合理的に構成されている。たとえ善良な人間が悲惨な生涯を終えるようなことがあったとしても、それは神の試練による救いであるかもしれない。たとえまた愛する者を死で失ったとしても、神の準備した天国で再びめぐり会うことも可能であろう。神の支配する世界では一つの不合理もあり得ないのである。 だが、神を失った世界では、醜く悲惨で不合理な人生が、そのままの素顔をあらわにする。しかもその不幸な生涯を終えた人間は、死とともに永遠の闇の世界に消えて行く。このように人生は非合理に満ちたものであるがゆえに、それは『運命』なのである。運命とは、人為を越えた非合理の別名である。それは合理性を本質とする『摂理』の反対物にほかならない。したがって神を失った時、人生はそのまま運命となる」(ある宗教学者)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.11.28
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「日本人になぜ福音が届かないのか(2)」 アンサーズ・イン・ジェネシス代表 ケン・ハム 使徒の働き17章 四、「使徒の働き」17章型の文化で、「使徒の働き」2章型の伝道をしても、効果はあがりません。 以前のアメリカや西欧諸国は「使徒の働き」2章型の文化でした。すなわち公立学校で聖書が語られ、主の祈りが唱えられていました。人々が「福音の土台となる知識」を持っていたため、「福音の力」から語れば、人々はその意味を理解することができました。 しかし、今日、アメリカや西欧諸国でさえ、「使徒の働き」17章型の文化になってしまいました。福音の土台となる知識の根底にある「創造」についての理解を「進化論」が破壊してしまったからです。そのことに気づかずに「使徒の働き」2章型の宣教を続けているアメリカの教会も、次世代の子どもたちが教会を離れていくという現状にさらされています。 五、日本--「使徒の働き」17章型の文化 日本は、「偶像の神々」がいる文化であり、「罪」が分かりません。また学校で「進化論」が教えられており、「創造主」という概念がないため、「キリスト」から語られても、意味がさっぱりわかりません。「福音の土台となる知識」を持っていない日本において、「使徒の働き」2章型のメッセージを語り続けても効果がないのは当然と言えます。残念ながら、多くの宣教師は「使徒の働き」2章型の伝道方法を日本の牧師たちに教え、それが踏襲されています。今こそ、福音宣教を土台から変えていかなければなりません。 六、ギリシャ人をユダヤ人に変える 「使徒の働き」17章型の文化の土台にある「偶像の神々」「進化論」を「使徒の働き」2章型の文化の土台である「創造主」「創造論」へと土台を置き換えていくことが必要です。 「使徒の働き」17章型の文化を一夜にして「使徒の働き」2章型の文化に変えることはできません。地道な「開墾」の努力が必要です。福音の種が芽を出しやすい「良い地」にする働きには時間と労力がかかります。また最初は人々の応答する数も少ないのです(ペテロ型の三千人に比べて、パウロ型は数人でした)。しかし、そのような地道なパウロ型の宣教は実は成功しています。やがて成長します。古い土台(偶像の神々・進化論)を取り除き、新しい土台(創造主・創造論)を据えて、福音の力と希望が語られるなら、人々の魂を勝ち取ることができるのです。 懐疑的な今の時代の人々の疑問に答え、進化論の誤った歴史観から人々を解放し、聖書の正しい歴史観を土台に据えていきましょう。正しい土台が据えられてはじめて、「使徒の働き」2章型の宣教に移ることができます。 結論--福音とは、「土台」「力」「希望」の三つの要素があることを知りましょう。日本は、福音の土台のない「使徒の働き」17章型の文化(ギリシャ人)であることを理解し、「使徒の働き」2章型の文化(ユダヤ人)へと変えていくために、福音を土台からしっかりと語っていくことが大切です。すなわち「偶像の神々・進化論」を取り去り、「創造主・創造論」をとらえるための努力が、まず必要です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.11.21
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「日本人になぜ福音が届かないのか--前編」 アンサーズ・イン・ジェネシス代表 ケン・ハム 使徒の働き、2章 一、福音とは何か 「福音とは何ですか」と聞かれたら、あなたは何と答えるでしょうか。イエス・キリストが私たちの罪を贖うために十字架にかかられ、よみがえられた]という答えは正しいですが、「なぜイエス・キリストが十字架にかからなければならなかったのか」「なぜ私たちは罪人なのか」という理由まで答えられるでしょうか。創世記によらなければ知ることができません。 創世記に書かれている「罪と死の起源」という悪い知らせを理解しなければ、新約聖書に記されている「イエス・キリストの贖いと死と復活」という良い知らせを理解することはできません。 コミュニュケーションについて考えてみましょう。「相手に伝わる言葉で福音を語る(説明する・弁明する)」には、どのような工夫をしたらよいと思いますか。 二、福音の三つの要素 1.福音の土台となる知識--「創造主が万物を創造した。しかし、人(アダム)が創造主に反抗し、その罪の結果、死が世界に入った」という歴史的な事実です。 2.福音の力--「イエス・キリストの十字架と死からの復活」という歴史的事実と、その事実を自分の罪を贖うためのものだと信じ、受け入れた者に訪れる救いです。 3.福音の希望--「やがて新しい天と新しい地が訪れ、すべてが『非常に良い』世界に回復される」という聖書の預言に基づく将来への希望です。 「土台なし」に建物を建てることはできません。伝道する上で、どうしたらバランスよく福音の三つの要素を取り入れることができると思いますか。 「イエス・キリストの処女降誕や死から復活された」という奇跡と「創世記1章にある6日の創造」の奇跡は、どちらも聖書に書かれているからこそ知ることのてきる出来事です。どちらか片方を信じて、もう片方を信じないということは可能でしょうか。 三、ユダヤ人とギリシャ人--「使徒の働き」2章の文化と「使徒の働き」17章の文化の違い 福音に対してユダヤ人とギリシャ人は全く異なる反応を示します。 ユダヤ人(「使徒の働き」2章の文化)--「使徒の働き」2章の「ペテロ型(ユダヤ人向け)宣教」が効果を表します。ユダヤ人は「福音の土台となる知識」を予め持っているため、ペテロは「福音の力」である十字架と復活から語ればよかったのです。とはいえ、十字架は多くのユダヤ人にとって、「つまづきの石」となりました。 ギリシャ人(「使徒の働き」17章の文化)--「使徒の働き」17章の「パウロ型(ギリシャ人向け)宣教」が不可欠です。ギリシャ人は「福音の土台となる知識」を持っていないため、パウロは土台となる知識から語り始めなければなりませんでした。すなわち、最初に「神」「罪」「死」について定義し、その上で「十字架と復活」を語りました。とはいえ、これらのことは多くのギリシャ人にとって「愚かなこと」でした。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.11.13
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「姦淫の女性」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、8章1~11節 この「姦淫の女性」の話は、後からこの個所に挿入されたものらしく、時間的には、ルカの福音書の21章38節の後に起きた出来事のようです。しかしこの個所に置かれているのは、深い意味があるのでしょう。 一、思いもよらない出来事に遭遇した律法学者とパリサイ人(1~7節) 律法学者とパリサイ人は、姦淫の場で捕えられた女の人を連れて来て、イエスに質問しました。彼らの質問に対して、イエスが彼女を石打ちにしなくてもよいと答えるなら、モーセの律法に逆らう者として(レビ記20章10節)、反対に、彼女を石打ちにせよと答えるなら、ローマの法に逆らう者として(18章31節)、どちらに答えても彼らに告発されてしまうものでした。 このような狡猾な質問に対して、イエスは何も答えられませんでした。しかし彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました(7節)。 これは、彼らにとって思いもよらない言葉でした。九分九厘、イエスを告発することができると思っていた彼らは、土壇場においてその立場が逆転し、今度は彼らが告発される羽目になってしまったのです。聖書は、「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える」と教えています(第一コリント3章19節)。 人間は、自分の考えや思いの通りに物事を進めようとするものです。しかし神は、人の考えや思い、また知恵や賢さを越えた思いもよらないことをされるのです。 二、思いもよらない罪を示された律法学者とパリサイ人(5~9節) 律法学者とパリサイ人は、姦淫の女性を捕えてイエスを告発しようとしている間は、自分たちの罪に気がつきませんでした。私たちは、人の罪を責めたり、自分の考えや思いの通りに物事を進めたりしている時は、多くの場合、自分の心の姿が見えなくなっています。 彼らが自分たちの罪に気がついたのは、自分の思いや考えを越えた思いもよらない出来事が起き、人の罪を責める立場から、自分が罪を責められる立場になった時でした。 人の心というものは、底が知れないほど深いものであり、自分でも気がつかない神への不信仰と反逆という罪がひそんでいます。私たちは、思いもよらない出来事に遭遇する時、この思いもよらない罪が示されるのです。 三、思いもよらない救いにあずかった姦淫の女性(7~11節) この女性は、イエスが「罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われた時、心の中で死を覚悟したことでしょう。しかしだれも石を投げる人がいないので、不思議に思って周囲を見渡すと、イエスのほかにはだれもいませんでした。さらに不思議なことにイエスは、彼女に「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです(11節)。 イエスは彼女の罪を赦されました。それは、イエスが地上で罪を赦す権威を持っておられるからであり、また彼女も「そのままそこにいた」ことにより(9節)、逃げ隠れはしないで、心から罪を悔い改め、処罰を受けることをイエスにゆだねたからです。神が私たちに思いもよらない罪を示すのは、私たちに思いもよらない救いをお与えになるためです。 世の人々は、「神がいるなら、どうしてこのような不可解なことがあるのか」と神の存在を疑っています。しかし聖書は、神がおられるからこそ、このような思いもよらない不可解なことを通して、私たちに思いもよらない罪を示し、そして思いもよらない救いを与えてくださるのであると教えているのです。拙著「キリストの生涯の学び」100「姦淫の女性」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.11.07
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