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「肉の思いと御霊による思い」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章1~9節 この箇所には鋭く対立している二つのことば、すなわち「肉」ということばが九回(3~9節)、「御霊」ということばが八回(2、4~6、9節)も記されています。 この箇所における「肉」とは、神に逆らう罪の原理のことです。「御霊」は、父、御子、御霊という三位一体の神の第三位格です。 パウロは、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」と教えています(6節)。「肉の思い」とは何でしょうか。「御霊による思い」とは何でしょうか。 時間と空間と本性という三つの観点から次のような三つにまとめることができます。 一、刹那的な思いと永遠への思い--時間という観点から考える思い 私たちは、時の流れの中で生きているので、自分は、いつまで生きるのだろうかということを考えざるを得ません。聖書には、人生の時に関して二つの思いが記されています。 一つは、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(第一コリント15章32節)ということばです。これは、死ねば、すべてが終わりなので、生きている間に精一杯、楽しもうという刹那的な思いですが、これこそ「肉の思い」です。 もう一つは、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道者3章11節、口語訳、文語訳)ということばです。これは、人生は、死で終わるのではなく、永遠に生きる者として造られたという永遠への思いですが、これこそ「御霊による思い」です。 二、地上への思いと天への思い--空間という観点から考える思い 私たちは、宇宙という空間の中で生きているので、自分は、どのような所や場所で生きるのだろうかということを考えざるを得ません。聖書には人が生きる場所に関して二つの思いが記されています。 一つは、「彼らの思いは地上のことだけです」(ピリピ3章19節)ということばです。これは、ただ地上のことだけを思うことですが、これこそ「肉の思い」です。 もう一つは、「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3章2節)ということばです。これは、天にあるもの、また天上の世界を思うことですが、これこそ「御霊による思い」です。 三、人への思いと神への思い--本性という観点から考える思い キリストは、ご自分の十字架の死と復活を予告されましたが、そのことをいさめたペテロに、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16章23節)と厳しく叱責されました。 私たちは、どのような時に、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ことになるのでしょうか。 私たちは、人の心を見て常に正しい評価をされる神のことばと、うわべを見るために常に正しい評価をするとは限らない人のことばのどちらを重んじるでしょうか。もし私たちが神のことばを差し置いて、人のことばばかり気にしているなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 私たちは、罪を悔い改めて、キリストの十字架による贖いを信じて神から栄光を受ける神の救いと、ただ人間の努力によって人から栄光を受ける人の救いのどちらを信じるでしょうか。もし私たちが、神が与えてくださる十字架による救いを退けて、人の栄光を受けることを考えているなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 私たちは、神の意志と自分の意志が対立した場合、いのちに至る神の意志と、死に至る自分の意志のどちらを選ぶでしょうか。もし私たちが神の意志を退けて、自分の意志を通すことを考えているなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 このような三つのことにおいて、人のことを思うことこそ「肉の思い」であり、神のことを思うことこそ「御霊による思い」です。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.07.26
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「思いの霊的な教え」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章1~10節 「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(5、6節)。 一、思いを蒔けば、運命を刈り取る 「神は、心と思いを調べられ」(詩篇7篇9節)、「私の思いを遠くから読み取られ」(同139篇2節)、「すべての思いの向かうところを読みとられ」る方です(第一歴代28章9節)。なぜ神は、私たちの心と思いを調べられるのでしょうか。「そはその心に思うごとく、その人となりもまたしかればなり」(箴言23章7節、文語訳)とあるように、「いのちの泉はこれ(心)からわく」からであり(同4章23節)、その人の人格を形造るものは、その人の心の思いだからです。 詠み人知らずの作者は次のように教えています。「思いを蒔けば、行為を刈り取る。行為を蒔けば、習慣を刈り取る。 習慣を蒔けば、性格を刈り取る。性格を蒔けば、運命を刈り取る」 パスカルは、パンセの中で、「人間は、考える葦である。......われわれのすべての品位は、したがって思考の中にのみ存する。だから、正しく考えるようにつとめよう。これこそ道徳の原則である」と述べています。 二、死に至る肉の思い 人間とって何を思うかということほど大切なことは、ありません。なぜなら、それが人間の永遠の運命を決定するからです。 生まれながらの人間は、神のみこころにかなう良い思いを抱くことはできません。かえって「悪者......の思いは『神はいない』の一言に尽きる」のです(詩篇10篇4節)。それは「この世の神(サタン)が不信者の思いをくらませ」(第二コリント4章4節)、その人は、「神を知っていながら、その神を神としてあがめず......その思いはむなしくなり......彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようにな」るのです(ローマ1章21、28節)。まさに「肉(神に逆らう罪の原理)の思いは死」なのです(同8章4~8節)。 三、いのちと平安に至る御霊による思い ダビデは、「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように」と祈り(詩篇19篇14節)、パウロは、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために......心(思い)......を変えなさい」と勧めています(ローマ一12章2節)。 神のみこころにかなう良い思いを抱くためには、どうすればよいでしょうか。だれでもすぐに考えることは、「あなた(神)のことばを心にたくわえ」る(詩篇119篇11節)ことであり、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ(文語訳は、思う)」(同1篇2節)ことです。しかし、これだけでは、神のみこころにかなう良い思いを抱くことはできません。なぜなら、生まれながらの人間、すなわち「肉に従う者は、肉的なことをもっぱら考え」るからです(5節)。 神のみこころにかなう良い思いを抱くためには、神の「律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」ことが必要です(ヘブル8章10節)。神は、このことを主の十字架の死による贖いとその結果である聖霊の降臨によって成し遂げてくださいました。 罪を悔い改めて、主の十字架の贖いを信じる者は、罪が赦されて、聖霊が与えられますが(使徒2章38節)、この聖霊が与えられることこそ神の律法(思い)が心に記されることであり、「御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考え」るので、それは、「御霊による思い」なのです(5、6節)。 このように聖霊が与えられ、御霊に従うことこそ、「恐れおののいて自分の救いの達成に努め」ることであり、このようにする時、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」(ピリピ2章、12、13節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.07.18
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「支配の霊的な教え」 甲斐慎一郎 コロサイ人への手紙、1章13~22節 「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」(使徒26章18節)。 「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(13節)。 一、支配の意味と四つの支配 「支配」とは、「上に立って人・組織・国などを自分の意のままに動かすこと」と国語辞典に記されています。支配には、様々なものがありますが、基本的には、次のような四つがあります。 1.自然の法則の支配 人のからだは、自然の法則の支配下にあり、それから逃れることはできません。 2.道徳の律法の支配 人の心は、道徳の律法の支配下にあり、それから逃れることはできません。 3.国家の主権の支配 人は、国家の主権の支配下にあり、それから逃れることはできません。 4.神の主権の支配 人の霊と心とからだは、神の主権の支配下にあり、それから逃れることはできません。 聖書は、神は、「すべての支配、権威、権力、主権(すなわち天使たち)」、また「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち(すなわちサタンともろもろの悪霊)」、そして「今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に」あって支配しておられると教えています(16節、エペソ1章21節、3章10節、6章12節)。 二、サタンの支配下にある罪人 「世全体(すなわちすべての人間)は悪い者(すなわちサタン)の支配下にあ」ります(第一ヨハネ5章19節)。言い換えれば、すべての人間は、「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊(すなわちサタン)に従って歩み......自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い......生まれながら御怒り(すなわち神の怒り)を受けるべき子らで」す(エペソ2章2、3節)。このように神の怒りを受けるべき人間は、「御子のご支配の中に移」されないかぎり(13節)、このサタンの支配から逃れることはできないのです。 これが「神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあ」る人間のありのままの姿です(21節)。それでパウロは、「彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返」ることの必要性を述べているのです(使徒26章18節)。 三、御子の支配下にあるキリスト者 サタンの支配下にある人は、どんなに修行や苦行を積んでも、悪を行うことを止めることもできなければ、神のみこころにかなう良いことを行うこともできません(ローマ3章10~18節)。サタンの支配は、「暗やみの圧制」(13節)とあるように、権力で無理やりに従わせる強力なもので、抵抗することができる人は、ひとりもいません。ただ神の支配の中に移される以外に、サタンの圧制から救い出されることはできないのです。 それで、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」(エペソ2章4節)、「十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださ」り(20節)、「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」(エペソ2章5節)、「私たちを暗やみの圧制(すなわちサタンの支配)から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」(13節)。 私たちは、「かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあった」者ですが(21節)、「目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返」り(使徒26章18節)、イエス・キリストの十字架による贖いを信じるなら、「御子のご支配の中に移」され(13節)、「罪の赦しを得......聖なるものとされ......御国を受け継」ぐ者とされるのです(使徒26章18節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.07.11
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「人の心の深さ」 甲斐慎一郎 詩篇、64篇6節 「人の内側のものと心とは、深いものです」(詩篇64篇6節)。 一、心の表面は意識があるが、心の奥は無意識で、最も奥深いところは霊です 聖書は、人間を霊、たましい(心)、からだという三つの要素から成り立っていると教えています(第一テサロニケ5章23、24節)。 1.からだは、私たちを取り囲む外界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 2.たましい(ソウル)は、「知性の面での心(マインド)」と「感情の面での心(ハート)」と「意志の面での心(ウィル)」という三つの面があります。これは、人間の知性や感情や意志という内界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 3.霊は、信仰によって神とその世界を知り、それに対応する機能のことで、それは神の像に似せて造られた不滅のいのちです。 霊は、もともと無意識ですが、心も表面は意識することができますが、心の奥は無意識になります。このことを発見したのが精神分析学の創始者であるフロイトです。 主イエスが十字架の上で語られた第一声は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」ということばです(ルカ23章34節)。パウロは、「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです」と告白し(ローマ7章15節)。ダビデは、「人の内側のものと心とは、深いものです」と記しています(詩篇64篇6節)。 人の心が自分でもわからないほど深いのは、心の奥は無意識で、最も深いところは霊だからです。しかもこの無意識の霊と無意識の心が意識している心の表面に大きな影響を与えています、いやそれを支配しています。言い換えれば、人の行いというのは、善であれ、悪であれ、意識して行うことと無意識のうちに行うこととの両者があるのです。 ですからこの無意識の霊と無意識の心から罪が取り除かれなければ、罪を犯すことを止めることもできなければ、神のみこころにかなう良いことを行うこともできないのです。 二、「霊」は、「たましい」を支配し、「たましい」は「からだ」を支配しています 「霊」は、たましいの中枢機能として「たましい」を支配し、「たましい」は、からだの中枢機能として「からだ」を支配しています。 「たましい」は、「からだ」を支配していますが、「たましい」には、意志の力によってからだを動かす「知覚と運動の神経系」と意志の力の及ばない「自律神経系(交感神経と副交感神経)」の二つがあり、「からだ」は、この両者によって動いています。 「からだ」が意識的な「知覚と運動の神経系」と無意識の「自律神経系」の両者によって動いているように、「たましい(心)」も表面の意識する心と、奥の無意識の心の両者があり、しかも無意識の心が意識している心を支配しています。これが主イエスとパウロの語っていることばの意味です。 三、たましいが救われるためには、たましいの奥にある霊が救われなければなりません エペソ人への手紙の4章23節は、新改訳聖書では「心の霊において新しくされ」と直訳していますが、口語訳聖書は「心の深みまで新たにされて」、新共同訳聖書は「心の底から新たにされて」と意訳しています。ここから「霊」というのは、「心の深み」であり、「心の底」であることがわかります。 アダムが罪を犯した時、彼の霊は死に、その心に刻まれた神の像を失って、「神を知る知識」と「神を喜ぶ感情」と「神に従う意志」をなくしてしまいました。しかしうちに罪が住む古い人がキリストとともに十字架につけられるなら(ローマ6章6節)、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことができます(エペソ4章23、24節)。この「神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことこそ、神を知る知識と神を喜ぶ感情と神に従う意志を取り戻し、「心の深みまで新たにされる」ことなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2011.07.05
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