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「キリスト者の生活(2)祈りの生活」 2016年4月25日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年4月1日放映「三つの現実」 「キリスト者の生活(2)祈りの生活」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一 2章1~8節 次に祈りの生活について考えてみましょう。 パウロはテモテに対して様々な勧告をする前に、まず祈ることを勧めています(1節)。それは、彼が祈りというものが、どんなに重要なものであるかをよく知っていたからではないでしょうか。 後代の神の聖徒たちも、祈りの重要性について次のように述べています。 「神は祈りに対する答えとしてでなければ、何事もなさらない」(ジョン・ウェスレー)。 「もし私たちが神のために多くをしようとするなら、多く神に求めなければならない」(エドワード・ペイソン)。 一、教理的な面――敬虔な生活 祈りという言葉を聞くと、多くの人たちは、祈りの姿勢をした祈祷だけを考えますが、それだけが祈りではありません。「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ5章17節)という言葉は、祈りというものは、言葉になった祈祷だけでなく、言葉にならない内的な祈りがあることを教えています。それはジョン・ウェスレーの言うように「愛に満たされた霊魂においては、神を喜ばせようとの願望が継続的な祈り」なのです。 このようなことから「祈り」とは、広義に解釈すれば「敬虔」であることが分かるでしょう。それは、まさにパウロが祈りの勧告をした後に、「それは、私たちが敬虔に……一生を過ごすためです」(2節)と言い、また「キリストは……祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」と記されている通りです(ヘブル5章7節)。 ですから祈りの生活を教理的な面から述べるなら、敬虔な生活であり、それは、神にのみ傾倒し、神の臨在を深く意識し、そして神を恐れ敬う生活です。 二、体験的な面――神との交わりの生活 ユダの王ヨシャパテは、「私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。……ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです」と祈り、また預言者を通して神の言葉が語られた時、民は「主の前にひれ伏して主を礼拝し……主を賛美した」と聖書は私たちに教えています(第二歴代誌20章12、18節)。 このようなことから祈りの生活を体験的な面から述べるなら、次のようになります。 1.神に近づく これには次のような三段階があります。 (1)自分の無力さを徹底的に自覚すること(2)悔い改めて神と正しい関係を保つこと(3)神を見上げて、ただ神に目を注ぐこと 私たちは、このような三つのことをすることによって神に近づくことができるのです。 2.神との交わり これにも次のような三段階があります。(1)神を神として心から神を礼拝すること(2)神の子どもとして神の安息に入ること(3)人のために祭司となり犠牲となること 私たちは、このような三つのことをすることによって神と交わることができるのです。 三、実践的な面――訓練の生活 祈りの生活を実践的な面から述べるなら、次のような三つのものの訓練です。 1.信仰の訓練 私たちは、祈りが答えられるまで祈り続ける時にのみ、祈りに答えてくださる真の神を体験することができます。ですから祈りは、私たちの信仰がほんとうであるかどうかを試して、私たちの信仰を訓練するのです。 2.希望の訓練 祈りの応答は、絶望を希望に変えて、真の希望は神のみにあり、ほかにはないことを教えるものです。ですから祈りは、私たちが、ただ神にのみ希望を置いているかどうかを試して、私たちの希望を訓練するのです。 3.愛の訓練 私たちの隣人への愛は、その人のためにどれだけ心を尽くして祈るかによって計ることができます。ですから祈りは、私たちの隣人への愛がほんとうであるかどうかを試して、私たちの愛を訓練するのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2016年5月2日「キリスト者の生活(3)仕える生活」です
2016.04.24
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「キリスト者の生活(1)学びの生活」 2016年4月18日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年3月17日放映「苦難の意味するもの(2)」 「キリスト者の生活(1)学びの生活」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第二、3章14~17節 キリスト者の生活において最も大切で、中心的なことは、次のような4つです。(1)キリスト者の生活は、学びの生活です。 (2)キリスト者の生活は、祈りの生活です。(3)キリスト者の生活は、仕える生活です。 (4)キリスト者の生活は、証しの生活です。 テモテへの手紙の第二の3章14節から17節の間には、「学ぶ」という言葉が2回、また「聖書」という言葉が3回記されています。 まず学びの生活について考えてみましょう。 一、心を豊かにし、真理を知るために学ぶ 私たちの心を豊かにし、真理を知るためには、次のような三つのことが必要です。 1.傾聴すること これは、ただ漫然と聞くことではなく、耳を傾けて熱心に聞くことです。「信仰は聞くことから始まり」(ローマ10章17節)、また私たちは「聞くに早く」することが必要だからです(ヤコブ1章19節)。 2.精読すること これは、ただ漫然と読むことではなく、注意深く探求して読むことです。私たちは、アポロ、そしてプリスキラとアクラのように聖書および神の道を詳らかに知ることが大切です(使徒19章25、26節)。 3.熟慮すること これは、ただ漫然と考えるのではなく、十分によく考え抜くことです。聖書をただ読むだけでなく、黙想することが重要です(詩篇1篇2節)。真理は、熟慮する時にのみ把握することができるからです。 二、心の健康を保ち、成長するために学ぶ からだの健康を維持するためには、次のような三つの栄養素が必要です。(1)炭水化物――からだを動かすカロリー。(2)蛋白質――からだを丈夫につくるもの。(3)ビタミン――からだの調子を整えるもの。 これは、心の健康を維持し、成長するために、同じことを言うことができます。 1.聖書――これは、心の糧また主食であり、炭水化物に相当するでしょう。「人は……神の口から出る一つ一つのことば」によって生きるのです(マタイ4章4節)。 2.神学や教理――これは、私たちの信仰を形造るもので、蛋白質に相当するでしょう。私たちは、神学や教理を正しく把握しなければ、骨のない信仰、すなわち確信のない信仰になってしまいます。 3.良い信仰書――これは、心の調子を整えるもので、ビタミンに相当するでしょう。私たちは、良い信仰書や霊的な書物を読まなければ、心に恵みと潤いを失ってしまいます。 三、心の体験となり、実践するために学ぶ 知識には、次のような三つがあります。 1.見聞的知識 「耳学問」という言葉があります。辞書には「自分で直接学習するのではなく、他人からちょっと聞いて得た雑学的な知識」と書いてありますが、これが「見聞的知識」です。 これは知識の第一段階です。すべての知識は、ここから始まりますが、これは、皮相的かつ浅薄な知識で、これで真相や真理を知ったと思ってはなりません。どこまでも第二段階の「思考的知識」の入り口なのです。 2.思考的知識 物事の真相は、ただ見たり、聞いたりしただけでは分からず、よく調べたり、深く考えたりすることによって分かります。パウロは、福音のことばを信じたコリントの教会の人たちに、「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら……この福音によって救われるのです」(第一コリント15章2節)と述べていますが、よく考えて真理に到達して得た知識が「思考的知識」です。 3.体験的知識(実践的知識) 主によって目が見えるようになった生まれつきの盲人は、「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(ヨハネ9章25節)と言いましたが、実際に経験したことによって明白に知っているのが「体験的知識」で、これこそ、ほんとうに知っているということです。 甲斐慎一郎の著書→説教集 次は2016年4月25日「キリスト者の生活(2)祈りの生活」です。
2016.04.17
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「敬虔の鍛練(4)神に満足すること」 2016年4月11日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年3月4日放映「苦難の意味するもの(1)」 「敬虔の鍛練(4)神に満足すること」 甲斐慎一郎 テモテへの手紙、第一、6章6~12節 敬虔の鍛練の第四番目は、神に満足することについて学んでみましょう。 パウロは、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を得る道です」と述べていますが(6節)、真の敬虔に、この満足する心というものは不可欠です。 しかしこの満足は、自己満足や無価値で低俗なものに満足することではなく、最もすばらしい神に満足することであり、これこそ敬虔の第四の意味です。 一、神に満足することの妨げ(9、10節) 神に満足することを妨げるものは、貪欲です。この貪欲という言葉は、新約聖書の原語において「人の権利を踏みにじってまで自分の所有を増やしたい欲望」、また「取ってはならないものまで無理に手を伸ばして取りたい欲望」という意味があります。 そして聖書は、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と教え(コロサイ3章5節)、さらに高慢と貪欲のために悪魔と悪霊になった堕落天使に対して、「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたち」と記しています(ユダ6節)。 このようなことから、貪欲は、単に欲が深いということではなく、次のような意味です。 1、求めるべき対象がまちがっていること、すなわち求めてはならないものを求めることです。 2、しかもまちがった方法や不正な手段で求めること、すなわち手段を選ばないことです。 3、その結果、自らの本当のあるべき姿やおるべき所から逸脱してしまうことです。 私たちが本当に求めるべき方は、造り主なる神のみです。もし私たちが造り主の代わりに造られたものを求め、また不正な手段で求めるなら、人間は、あるべき姿から逸脱し、ありとあらゆる罪に満ちてしまうのです(ローマ1章24~32節)。 二、神に満足することの内容(13~19節) それでは、神に満足するとは、どのようなことでしょうか。 1、賜物や恵みより与え主である神に目を注ぎ、その神を喜び楽しむことです。なぜなら私たちは、神さえとらえているなら、すべてのものを持っているのと等しいからです(ローマ八章32節)。 2、神こそ唯一の主権者であることを認め、僭越にも卑屈にもならず、神の支配に身をゆだねることです。なぜなら「主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くする」からです(第一サムエル2章7節)。 3、この世の不公平や矛盾に負けて、極端な行動に走らず、すべてを公平にさばかれる神に望みを置くことです。 ヨブは、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言いましたが(ヨブ1章21節)、これこそ神に満足している敬虔な聖徒の姿です。 三、神に満足することの結果(11、12節) しかしある人々は、満足してしまうなら、そこに安住して、向上心がなくなるのではないかと心配するかも知れません。しかしそのような人は、この神に満足するという体験が、どれほど高いものであるのか、また現実の人間の姿がどれほど低いものであるかを知らないのです。 向上するために不満は必要です。しかし不満には二種類あります。決して満足することを知らない不満は、罪深いものですが、神に満足することを知りつつ、さらに高いところを求める不満は、きよいものです。前者は貪欲であり、後者は神への渇きです。 私たちは、神に満足することを体験する時、さらに高い、神に満足する状態のあることを知って(ピリピ4章11、12節)、ひたむきに前に向かって進むようになるのです(同3章13節)。甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2016年4月18日「キリスト者の生活(1)学びの生活」です。
2016.04.10
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「敬虔の鍛練(3)神を意識すること」 2016年4月4日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年1月28日放映「平安と将来と希望を与える神の計画(2)」 「敬虔の鍛練(3)神を意識すること」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、25章 敬虔の鍛練の第三番目は、神を意識することについて学んでみましょう。 「神を意識する」とは、神がここにおられるということをはっきりと自覚することです。ですから、敬虔の第三の意味は、ただ単に神がおられるという神の存在を信じているだけでなく、その神が生きて働いておられるという事実を明白に意識し、自覚することです。 ダビデとアビガイルの姿から、神を意識することの必要と訓練と完成について考えてみましょう。 一、神を意識することの必要(1~22節) アビガイルに会うまでのダビデの姿を見てみましょう。ダビデの丁重な求めに対して、ナバルは、彼を侮辱しました。このナバルの恩知らずと非礼な態度にダビデは怒り、直ちに「めいめい自分の剣を身につけよ」と部下に命じています(13節)。 しかしこれは、あまりにも性急で思慮がない軽率な行動であるだけでなく、祈りもせず、神の導きも求めない不敬虔な態度です。 この箇所には、22節において呪いの誓いのために神の名を口に出していますが、それ以外に神の名は記されていません。ダビデは、ナバルに侮辱された腹いせに、ただ報復のみを考えて、その思いも、会話も、行動も、神を意識していなかったのです。 この時のダビデは、サウル王に追われ、恩師サムエルに死なれ、衣食にも事欠く生活をし、しかもナバルに侮辱されるという最悪の状態でした。しかしこのような時こそ、生きて働いておられる神を深く意識する敬虔さが必要です。 二、神を意識することの訓練(23~31節) これに対してアビガイルの姿は、どうでしょうか。24節より31節までのわずか8節の間に、実に「主」という言葉が7回も記されています。このことから次のような3つのことを学ぶことができます。 1.会話において神を意識する訓練 アビガイルのなにげなく話している言葉の中に何と多くの神の名が出てくることでしょうか。彼女は、(1)報復について(26節)、(2)家の繁栄について(28節)、(3)奉仕について(28節)、(4)生命について(29節)、(5)敵の生命について(29節)、(6)将来について(30節)、(7)幸福について(31節)、ことごとく神に触れており、神と切り離して考えられない会話をしています。 2.行動において神を意識する訓練 しかしアビガイルは、単に会話や言葉において神を意識していただけでなく、その行動においても神を意識していました。実に彼女の行動は、すべての中に神がおられ、すべての出来事や人間関係の中に常に神が介入し、干渉し、働いておられることを信じていたことを表しています。 3.心と思いにおいて神を意識する訓練 アビガイルがこのように、会話においても、行動においても、神を意識していたのは、その心と思いにおいて神を意識していたからにほかなりません。このようなアビガイルの敬虔さによって、ダビデも敬虔さを取り戻したのです(32~39節)。 三、神を意識することの完成(23~44節) 神がともにおられることを意識する敬虔さは、訓練を重ねるうちに次のようになっていくのです。 1.その心と思いは、当然のこととして、常に神が生きて働いておられることを意識するようになります。 2.その言葉は、ごく自然に、すべてを支配しておられる神を中心としたものとなります。 3.その行動は、自己のわざではなく、摂理によって神に導かれるようになります。 私たちの心と思い、言葉、そして行動は、どうでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集 次回は2016年4月11日「敬虔の鍛練(4)神に満足すること」です。
2016.04.03
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