全5件 (5件中 1-5件目)
1
![]()
「無意識の霊と心による歩み」 2016年日5月30日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年7月23日放映「神が与えてくださる知恵」 「無意識の霊と心による歩み」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、7章15~25節 一、霊は無意識で、心の奥も無意識です 霊は、もともと無意識ですが、心も表面は意識することができますが、心の奥は無意識になります。このことを発見したのが精神分析学の創始者のフロイトです。 キリストが十字架の上で語られた第一声は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という言葉です(ルカ23章34節)。パウロは「私には、自分のしていることがわかりません。……私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」と告白しています(15、19節)。 この無意識の霊と無意識の心が意識している心を支配しています。言い換えれば、人の行いは、善であれ、悪であれ、意識して行うことと無意識のうちに行うこととの両者があり、しかも無意識のうちに行うことが意識して行うことを支配しているのです。 二、愛の行為は無意識に行います サマリヤ人は、強盗に襲われた人を見た時、愛のゆえに彼に近寄って行きましたが、それとともに彼を助けるにはどうすればよいのかということを即座に考え、一つ一つ適切な処置を施しています(ルカ10章34、35節)。 オズワルド・チェンバーズは、「愛は意識するものではなく、思わぬ仕方であふれ出るものである。パウロの愛に対する考えの基本には、計算高い確かさの要素など少しもない。……意識しないということが愛の特質である。……私たちの信仰生活を振り返ってみて、説明できない自発的で真実な愛の感情があるのに驚くことがある」と言っています。 私たちは、罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ」(ローマ5章5節)、当然のこととして、ごく自然に神と隣人を愛するようになります。それは意識しないものです。 三、罪の行為は無意識に行います 羊たちは、キリストに愛の奉仕をしたことを賞賛された時、「主よ。いつ……しましたか」と驚いて答えています(マタイ25章37~39節)。彼らは、この奉仕は、神のためであるとか、隣人のためであるという力みや気負いが全くなく、当然のこととして愛の奉仕に励み、しかも無意識にしていたのです。 これに対して山羊たちは、キリストに愛の奉仕をしなかったことを叱責された時、「主よ。いつ……しなかったのでしょうか」と驚いて答えています(同25章44節)。彼らは、この奉仕は神のためであるとか、隣人のためであるという力みや気負いがあり、その奉仕は押しつけがましいものでした。彼らは、結局は自分のためにしたのです。 もし私たちが、神と隣人を愛していることを意識的に感じることを求めるなら、もはや真の愛ではありません。それは、自分で自分を喜ばせる自己満足や、自分で自分を賞賛する自己礼賛ではないでしょうか。 四、人の歩みは無意識に行います 人間の内臓は、意志の力の及ばない「自律神経系(交感神経と副交感神経)」によって自動的に働いています。もしすべての内臓を意志の力によってからだを動かす「知覚と運動の神経系」によって働かすとしたら、仕事や勉強をするどころか、睡眠をとることも休むこともできず、死んでしまうでしょう。いのちに関わる大切なことは、無意識のうちに自動的に行うように造られているのです。 霊と心も、いのちに関わることは無意識のうちに行います。「肉の思い」を持つ人間は、意志の力で罪を犯すことをやめることも、愛の行いをすることもできません(19節)。私たちは、キリストとともに十字架につけられて「肉の思い」が取り除かれ、「御霊による思い」が心に宿り、神の愛と聖霊の力が与えられて無意識のうちに愛の行いをするのです。 そのためにキリストは、お生まれになり、十字架の上で私たちの罪をその身に負い、天に昇り、聖霊の降臨によって神の「律法(すなわち神の思い)を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけ」てくださったのです(ヘブル8章10節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2016年6月6日「あなたの心を見守れ(3)神を知る知識」です。
2016.05.29
コメント(0)
![]()
「あなたの心を見守れ(2)人の心の働き」 2016年5月23日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年7月11日放映「覚えることと忘れること」 「あなたの心を見守れ(2)人の心の働き」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、1章9~11節 「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり……キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり……ますように」(9、11節)。 一、たましいは、罪によって死んだ部分と、死なずに生きている部分があります 神は、アダムに善悪の知識の木の実を「取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われました(創世2章17節)。人間は「霊」と「たましい」と「からだ」という三つの要素から成り立っていますので、罪によって、その三つの要素がすべて死んだのです。 ◇罪を犯した人間は、その霊が「罪過と罪との中に死」にました(エペソ2章1節)。 ◇霊が死んだ人間は、その心に刻まれた神の像を失って、神を知る知識も神を喜ぶ感情も神に従う意志もなくしてしまいました。 ◇女は、苦しんで子を産み、男は、苦しんで食を得、ついに土に帰る者となってしまいました(創世3章16~19節)。 二番目の「たましい」は、表面と奥に分け、心の奥にある「神を知る知識と神を喜ぶ感情と神に従う意志」は死にましたが、心の表面にある、一般的に「知識と感情と意志」と呼ばれるものは、死なずに生きていることができました。もし、これさえも死んでしまったなら、救いを受けることはできないでしょう。これは、ただ神の恵みによるのです。 二、たましいの救いは、罪によって死んだ知識と感情と意志が生き返ることです 罪のために死んだ霊とたましいが生き返るためには、死なずに生きている知識と感情と意志によって、神とキリストの贖いによる救いを知り(知識)、心から(感情)救いを信じて、神に従う決断(意志)をすることです。 1.神を知る知識 パウロは、この箇所において「真の知識」(9節)と述べていますが、他の箇所では、「神のみこころに関する真の知識」また「神を知る知識」(コロサイ1章9、10節)と記しています。これは、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」ことです(ローマ12章2節)。箴言には「主を恐れることは知識の初めである」、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」、「主を恐れることによって、人は悪を離れる」と記されています(1章7節、9章10節、16章6節)。 「神を知る知識」とは、神のみこころを知る「知恵」であり、聖なる方を知り、主を恐れて「悪を離れる」こと(聖さ)です。 2.神を喜ぶ感情 パウロは「神の栄光を望んで大いに喜んでいます」、「神を大いに喜んでいるのです」と述べ、「神の栄光を望んで大いに喜」ぶなら、「患難さえも喜」び、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と述べています(ローマ5章2、11、3、5節)。 「神を喜ぶ感情」とは、聖霊によって与えられる「神の愛」です。 3.神に従う意志 ダビデは、「私はみこころを行うことを喜びとします」と告白し(詩篇40篇8節)、パウロは、「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって……従順の奴隷となって義に至る」と述べ(ローマ6章16節)、「私たちの戦いの武器は……神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるもので……すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ」と記しています(第二コリント10章4、5節)。 「神に従う意志」とは、自分の身を神にささげる献身、またキリストに服従することで、そのようにする時、神の御前で要塞をも破るほどの「力」が与えられます。まさに「福音は……信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」なのです(ローマ1章16節)。 たましいが生き返ることは、神のみこころを知る「知恵」と聖なる方を知る「聖さ」、また「神の愛」、そして神への献身と服従によって「神の力」に満たされることなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2016年5月30日「無意識の霊と心による歩み」です。
2016.05.22
コメント(0)
![]()
「あなたの心を見守れ(1)人の心の深さ」 2016年5月16日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年5月23日放映「イエスを仰ぎ見なさい(2)」 「あなたの心を見守れ(1)人の心の深さ」 甲斐慎一郎 詩篇64篇6節 箴言の著者は、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」と述べています(4章23節)。どうして私たちは、力の限り、見張って、心を見守らなければならないのでしょうか。 一、心の表面は意識があるが、心の奥は無意識で、最も奥深いところは霊だからです 聖書は、人間を霊、たましい、からだという三つの要素から成り立っていると教えています(第一テサロニケ5章23節)。 ◇からだ(body)は、私たちを取り囲む外界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 ◇たましい(soul)は、「知性の面での心(mind)」と「感情の面での心(heart)」と「意志の面での心(will)」という三つの面があります。これは、人間の知性や感情や意志という内界の状態を知り、それに対応する機能のことです。 ◇霊(spirit)は、信仰によって神とその世界を知り、それに対応する機能のことで、神の像に似せて造られた不滅の生命です。 霊は、もともと無意識ですが、心も表面は意識することができますが、心の奥は無意識になります。このことを発見したのが精神分析学の創始者であるフロイトです。 古代ギリシャの哲学者は、「何が一番困難だろうか」と尋ねられた時、「自分を知ることだ」と答えたと言われています。キリストが十字架の上で語られた第一声は、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」という言葉です(ルカ23章34節)。 ダビデは「人の内側のものと心は、深いものです」と記しています(詩篇64篇6節)。人の心が自分でも分からないほど深いのは、心の奥は無意識で、最も奥深いところは霊だからです。しかもこの無意識の霊と無意識の心が、意識している心の表面に、良きにつけ、悪しきにつけ、多大な影響を与えている、いやそれを支配しているのです。 二、心(たましい)は、からだと霊を結びつける懸け橋の役目をしているからです 人間が「霊」と「たましい」と「からだ」という三つの要素から成り立っているという三要素説は、一番中心の円が「霊」、中間の円が「たましい」、一番外側の円が「からだ」という三重丸で現すことができますが、もう一つは、「霊」と「からだ」という二つの円を描き、両者を半分ほど重ね合わせたものとして現すことができます。その重ね合わせた部分が「たましい」です。 確かに「霊」は「たましい」の中枢機能として「たましい」を支配し、「たましい」は、「からだ」の中枢機能として「からだ」を支配していますが、「霊」は、見ることも、聞くことも、さわることも、感じることもできません。ですから、その「霊」を変えるためには、「たましい」の三つの面である知性と感情と意志に働きかけなければなりません。すなわち「たましい」は、「霊」と「からだ」という二つの要素の懸け橋(橋渡し)の役目をしているのです。 三、たましいが救われるためには、心の奥にある霊が救われなければならないからです エペソ人への手紙の4章23節は、新改訳聖書では「心の霊において新しくされ」と直訳していますが、口語訳聖書は「心の深みまで新たにされて」、新共同訳聖書は「心の底から新たにされて」と意訳しています。ここから「霊」というのは、「心の深み」であり、「心の底」であることがわかります。 アダムが罪を犯した時、彼の霊は死に、その心に刻まれた神の像を失って「神を知る知識」も「神を喜ぶ感情」も「神に従う意志」もなくしてしまいました。しかし人がキリストを信じるなら、「心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことができます(エペソ4章23、24節)。この「神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことこそ、「神を知る知識」と「神を喜ぶ感情」と「神に従う意志」を取り戻し、「心の深みまで新たにされる」ことなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集次回は 2016年5月23日「あなたの心を見守れ(2)人の心の働き」です。
2016.05.15
コメント(0)
「キリスト者の生活(4)証しの生活」 2016年5月9日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年5月14日放映「イエスを仰ぎ見なさい(1)」 「キリスト者の生活(4)証しの生活」 甲斐慎一郎 使徒の働き1章1~8節 最後に証しの生活について考えてみましょう。 「証し」とは、「証明」とか「証拠」また「証言」という意味です。ですから「証しの生活」とは、「キリスト教とその福音が真理であることを身をもって証言する主の証人としての生活」ということができます。それは、キリストが「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき……地の果てにまで、わたしの証人となります」と言われた通りです(8節)。 一、知識的な証し まず私たちは、キリスト教とその福音が真理であることを正しい知識によって知らなければなりません。 1.自然界の証し――「ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。……天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食 物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです」(使徒14章17節)。 私たちは、大宇宙や自然界の不思議さを知れば知るほど、ますますこれらを創造された偉大な神を知ることができるのです。 2.聖書の証し――「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため……多くの者が信仰にはいった」(同17章11、12節)。 私たちは、聖書を調べれば調べるほど、聖書が真正なものであることがわかるのです。 3.聖徒の証し――「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」(ヘブル12章1節)。 私たちは、聖書をはじめ教会歴史の中の無数の聖徒たちの生涯を見る時、福音が確かなものであることがわかるのです。 二、体験的な証し 次に私たちは、キリスト教とその福音が真理であることを信じた体験と心の証しによって知らなければなりません。 1.神の証し――これには二つあります。(1)御霊の証し――「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が……あかししてくださいます」(ローマ8章16節)。(2)神の証し――「私たちが敬虔に、正しく……ふるまったことは……神もあかししてくださることです」(第一テサロニケ2章10節)。 2.自分の証し――これにも二つあります。(1)自分の霊の証し――「私たちが神の子どもであることは……私たちの霊とともに、あかししてくださいます」(ローマ8章16節)。(2)自分の良心の証し――「私たちが……神の恵みによって行動していることは……良心のあかしするところ」(第二コリント1章12節)。 3.他人の証し――これにも二つあります。(1)信仰者の証し――「私たちが敬虔に、正しくふるまったことは、あなたがたがあかしし」(第一テサロニケ2章10節)。(2)世の人々の証し――「彼がこの方について話したことはみな真実であった。……そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた」(ヨハネ10章41、42節)。 三、実践的な証し 最後に私たちは、キリスト教とその福音が真理であることを実際生活の中で示していかなければなりません。 1.他の人々に福音を語る主の証人 「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使徒4章20節)。 人々に語らざるを得なくなるようにするのがキリストの福音です。 2.自ら無言のふるまいをする主の証人 「妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです」(第一ペテロ3章1節)。 これは、語る福音にふさわしい行為や生活、また品性や人格が伴うことです。 3.神に信仰の告白をする主の証人 「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5章29節)。 証人には殉教者という意味があり、たとえ自分のいのちが失われても、神への信仰と忠誠を守り通すことです(黙示録2章10節)。 私たちは主の証人となっているでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集2016年5月16日「あなたの心を見守れ(1)人の心の深さ」です
2016.05.08
コメント(0)
「キリスト者の生活(3)仕える生活」 2016年5月2日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年5月6日放映「三つのさばき」 「キリスト者の生活(3)仕える生活」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、4章1~5節 第三に仕える生活について考えてみましょう。 「仕える生活」とは「奉仕の生活」のことです。日本語における「奉仕」という言葉は、いわゆる「サービス」という言葉の訳語として、「ただで働くこと」とか「親切にもてなすこと」、また「おまけ」とか「値段を安くすること」というような意味に使われています。しかし聖書が教えている「奉仕」とか「サービス」という言葉は、もっと深い霊的な意味があります。 一、仕える内容について パウロは、「私たちを、キリストのしもべ(すなわちキリストに仕える者)、また神の奥義の管理者だと考えなさい」と述べていますが(1節)、「仕える者」とは「管理者」であることがわかります。管理者については、「タラントのたとえ」(マタイ25章14~30節)に、その姿が描かれています。 1.管理者は、神より様々なものを委託された者です(14節)。 私たちの生命は、神から授かったものであり、自分勝手にできるものではありません。まして他のものはなおさらです。神こそすべてのものの所有者であり、私たちは、神より様々なものを委託された者です。 2.管理者は、委託されたものを有効に活用する者です(16、17節)。 私たちは、神から委託されたものを有効に活用しなければなりません。それを私物化したり、浪費したり、死蔵したりすることは許されないのです。 3.管理者は、所有者である神に報告と清算をする者です(19節)。 私たちの永遠の運命は、最後の審判において、委託されたものを神と人のためにどれだけ有効に用いたかどうかを報告し、精算して、さばかれることによって決まるのです。 二、仕える対象について それでは私たちは、だれに仕えるのでしょうか。代表的なもの(方)は次の3つです。 1.神に仕える――「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」(マタイ4章10節)。 神に仕えるとは、神を心から礼拝し、神の言葉に従うことです。 2.教会に仕える――「私は……教会に仕える者となりました」(コロサイ1章25節)。 教会に仕えるとは、主が生命を捨ててまで愛された教会を私たちも愛し、福音宣教と教会建設という使命を果たしていくことです。 3.人に仕える――「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち……のひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25章40節)。 ジョン・ウェスレーは、「私たちは、隣人の中におられる神に仕えなければならない」と述べていますが、人に仕えるとは、人を通して神に仕えることです。 三、仕える方法について 私たちは、何をもって神と教会と人に仕えていくのでしょうか。私たちは、何事をするにも、必ず時間を費やし、またからだを使い、そしていくらかの金銭が必要であり、時間も労力(能力や賜物)も金銭も全く費やさずに何かをすることはできません。 1.金銭――「自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たち」(ルカ8章3節)。 私たちは、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」ので(マタイ6章24節)、富に仕えていないということを、神への献金によって表すのです。 2.時間――「わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません」(ヨハネ9章4節)。 私たちは、「だれも働くことができない夜が」来ないうちに、神と教会と人のために時を有効に用いなければなりません。 3.賜物――「神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」(第一ペテロ4章10節)。 神から与えられた賜物は、有効に用いなければ、失われてしまうことを忘れてはなりません(マタイ25章29節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集 次回は2016年5月9日「キリスト者の生活(4)証しの生活」です。
2016.05.01
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1

![]()