全4件 (4件中 1-4件目)
1
「神への信仰と意志」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2014年10月8日放映「思いの霊的な教え」 「神への信仰と意志」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、7章10~53節 「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか……がわかります」(17節)。 聖書は、私たちが正しく神を知り、とらえるために意志が大切であることを教えています。私たちは、神を正しく知り、とらえるために、どうして意志が必要なのでしょうか。三つの面から考えてみたいと思います。 一、神を信じる意志について 私たちは、人格を持つ者――すなわち神と人間と天使と悪魔――以外のものを知るためには、証拠があって証明されるなら、その人の意志に関係なく、信じるも信じないもなく、ただ認めればよいのです。 しかし人格を持つ者――すなわち知性と感情と意志を持つ者――を知るためには、ただ認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければなりません。このことを理解するために、次のような例話が分かりやすいのではないでしょうか。 ここに顔も知らない父(または母)と生き別れになった息子(または娘)がいて、何十年か振りに再会したとしましょう。この息子(または娘)は、目の前の人が自分の父(または母)であることは、確かな証拠(DNAの一致など)があって証明されるなら、認めざるを得ないでしょう。しかし彼(または彼女)は、意志を働かせて、その父(または母)を受け入れ(すなわち信じ)なければ、正しい父子(または母子)関係は成り立たず、その父(または母)を知ることはできません。 「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間もまた、知性と感情と意志とを持っている霊である」(キャンベル・モルガン)。意志を持っている私たちが、意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければならないのです。 二、罪を悔い改める意志について 使徒パウロは、「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され……た」と記しています(ローマ1章28節)。 多くの人たちが神を信じないのは、単に知性的に神を認められないからではなく、神を信じるなら、自分の悪い心と生活を悔い改めなければならないという恐れから、意志的に神と信仰を拒んでいるということを知らなければなりません。 神への信仰というものは、神の正しさと聖さという性質上、当然のことですが、道徳性が含まれています。ですから神への信仰は、悪い心や罪深い生活を悔い改めるという意志がなければ、持つことはできません。 私たちは、「真理に逆ら」ったり、「真理から耳をそむけ」たりしているなら、「いつも学んではい」ても、「いつになっても真理を知ること」ができないのです(第二テモテ3章7、8節、4章4節)。 三、救いを信じる意志について 人類の始祖が堕落した時、人の意志は堕落し、すべてのことにおいて神を中心とすべき意志が、自分を中心とする意志に変わってしまいました。しかし神は、計り知れない恵みのゆえに、救いを信じることができる意志を与えてくださいました。 キリストが盲人のバルテマイに「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられた時、彼は「先生。目が見えるようになることです」と答えました。これに対してキリストは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました(マルコ10章51、52節)。 受ける資格のない者に、無代価で与えられるものが恵みであり、その恵みを自分の意志で受け取る手が信仰です。私たちは、この信仰によってのみ、罪から救われ、心の目がはっきり見えるようになって、神を知ることができるようになるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2016.06.28
コメント(0)
![]()
「あなたの心を見守れ(5)神に従う意志」2016年6月20日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年9月24日放映「御霊による思いと肉の思い」 「あなたの心を見守れ(5)神に従う意志」 甲斐慎一郎 詩篇、40篇7~9節 「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」(8節)。 一、三種類の意志について 人は、「霊とたましいとからだ」という三つの要素から成り立ち、便宜上、霊のいのちとたましいのいのちとからだのいのちとに分けますが、三つのいのちがあるわけではなく、肉体のいのちは、たましいのいのちが支配し、たましいのいのちは、霊のいのちが支配していて、いのちの実体は霊にあります。 そのように意志も、霊の意志とたましいの意志とからだの意志という三つがあるわけではなく、からだの意志は、たましいの意志が支配し、たましいの意志は、霊の意志が支配していて、意志の実体は霊にあります。 しかしアダムが罪を犯し、全人類の霊が死んだ時から、人は神に従う意志を失い、霊の意志とたましいの意志が一致せず、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」(ローマ7章19節)とあるように、霊の意志とたましいの意志が食い違ってしまったのです。 からだに関しては、意志とは無関係に起こる条件反射や反射運動というものがありますが、これは、からだを健康に保つ本能の働きです。しかし人類の堕落以後、人は、食欲や性欲を理性や意志で制御することができず、本能のままに行動する罪に陥りました。 このようなことから人類の堕落以後は、霊の意志とたましいの意志とからだの意志が食い違い、対立してしまったのです。 二、三種類の欲求(欲望)について 意志に働きかけて意志を動かすものに欲求(欲望)があります。ある人は、15の「肉の行い」(ガラテヤ5章19~21節)を分類して、最初の3つが「性欲」、次の2つが「礼拝欲」、次の8つが「社交欲」、最後の2つが「飲食欲」であると述べています。 1.からだに関しては、飲食欲や性欲など、自らの生命と、その子孫とを絶やさずに保とうとする「保存欲」です。 2.たましいに関しては、他の人や物と交わり、それを知ろうとする「社交欲」です。 3.霊に関しては、人間よりも偉大な神を崇拝し、礼賛しようとする「礼拝欲」です。 欲求(欲望)は、神によって人間に与えられたもので、これ自体は善でもなければ悪でもなく、中性です。パーカイザーは、これを自動車のエンジンにたとえて、「自動車を動かしはするが、その方向を決定するものではない」と述べています。この欲求は、だれに対して、または何を求めるかという「対象」と、何のために求めるかという「目的」と、どのように求めるかという「方法」の可否によって善にも悪にもなります。そしてこの欲求の表現こそ「求め」であり「渇き」です。 三、神に従う意志について 人間にとって最も大切なことは、神に従う意志を取り戻すことですが、そのためには、次のような3つのことが必要です。 1.神を信じる意志 「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間もまた、知性と感情と意志とを持っている霊である」(G・C・モルガン)。意志を持っている私たちが、意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて認めるだけでは不十分であり、意志を働かせて信じなければなりません。 2.罪を悔い改める意志 神への信仰というものは、神の正しさと聖さという性質上、当然のことですが、道徳性が含まれています。ですから神への信仰は、悪い心や罪深い生活を悔い改めるという意志がなければ、持つことはできません。 3.救いを信じる意志 受ける資格のない者に、無代価で与えられるものが恵みであり、その恵みを自分の意志で受け取る手が信仰です。私たちは、この信仰によってのみ、罪から救われ、心の眼が見えるようになって神を知るだけでなく、神に従うことができるようになるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2016年6月27日「神への信仰と意志」です。
2016.06.19
コメント(0)
![]()
「真の信仰の三要素」 2014年6月13日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年9月10日放映「神に近づく道」 「真の信仰の三要素」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、11章1~6節 H・オートン・ワイレーは、真の信仰は、「知性的に承認し、意志的に承諾し、信頼し、拠り頼む」ことであると述べています。 一、真の信仰の第一の要素――神を知性的に理解し、納得し、承認する ある人々は、信仰とは実際には無いものを、あたかも有るもののように思い込むことであると考えています。しかしそのようなことは、知性と理性を持った人間には不可能です。人間に頭脳と理解力がある以上、何だか分からないものを、ただ信じることはできず、信じる対象を知り、理解しなければなりません。 しかし信仰の対象を理解するだけでは不十分です。それが確かな事実であり真理であることを納得しなければなりません。聖書は、知性を持った人間が十分に信頼できる「数多くの確かな証拠」(使徒1章3節)のある神の言葉です。パウロは、「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら……この福音によって救われるのです」(第一コリント15章2節)と述べ、信じるためには、十分に考えて、それが確かな事実であり真理であることを納得しなければならず、軽はずみに信じてはならないと教えているのです。 二、真の信仰の第二の要素――神を意志的に受け入れ、承諾する キリストは「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか……がわかります」(ヨハネ7章17節)と、願いの必要性を教えられました。 「神は、知性と感情と意志とを持っておられる霊であり、人間も知性と感情と意志とを持っている霊である」(G・C・モルガン)。意志を持っている人間が意志を持っておられる神を知るには、証拠を確かめて承認するだけでは不十分であり、意志的に受け入れ、承諾することが必要です(ヨハネ1章12節)。 このことを理解するために、次のような例話が分かりやすいのではないでしょうか。 ここに顔も知らない父(または母)と生き別れになった息子(または娘)がいて、何十年か振りに再会したとしましょう。この息子(または娘)は、目の前の人が自分の父(または母)であることは、確かな証拠(DNAの一致など)があって証明されるなら、認めざるを得ないでしょう。しかし彼(または彼女)は、意志を働かせて、その父(または母)を受け入れ(すなわち信じ)なければ、正しい父子(または母子)関係は成り立たず、その父(または母)を知ることはできません。 「科学的な真理」は、それを受け入れる人の道徳性には全く関係がないので、悪い心や生活を悔い改める意志がなくても、その科学的な真理を知性的に承認しさえすれば、その人のものになります。佐藤優氏は、「知には工学に代表されるような理屈で整理できる『目に見える知』と神学のような見えない世界の論理を突き詰める『目に見えない知』があり、日本では……『目に見えない知』つまり超越した世界について考えてこなかった」と述べています(『あぶない一神教』244頁)。 「宗教的な真理(神の救い)」は、神の聖い性質上、道徳性が含まれているので、悪い心や生活を悔い改めて信じたいという意志がなければ、その真理(神の救い)は、その人のものにはなりません。多くの人々は、神を信じるなら、悪い心と生活を悔い改めなければならないという恐れから、信仰を拒否しています。聖書は、「彼らが神を知ろうとしたがらない」と(ローマ1章28節)、神を意志的に拒絶していると教えているのです。 三、真の信仰の第三の要素――神を信頼し、拠り頼む 神への信仰は、神を「信頼し、拠り頼む」ことですが、人間は、その神を「知性的に理解し、納得し、承認」し、「意志的に受け入れ、承諾」しなければ、神を「信頼し、拠り頼む」ことはできません。私たちは神を「知性的に理解し、納得し、承認」し、神を「意志的に受け入れ、承諾」し、神に「信頼し、拠り頼む」なら、信じた通りに「歩み」(コロサイ2章6節)、その結果、信仰は実を結び、「信じきること」(ルカ1章45節)、すなわち「確信」になるのです(第二テモテ1章12節)。甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2016年6月20日「あなたの心を見守れ(5)神に従う意志」です。
2016.06.12
コメント(0)
![]()
「あなたの心を見守れ(3)神を知る知識」 2016年6月6日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2014年7月31日放映「知恵の霊的な教え」 「あなたの心を見守れ(3)神を知る知識」 甲斐慎一郎 コロサイ人への手紙、1章9、10節 「神のみこころに関する真の知識に満たされますように……神を知る知識を増し加えられますように」(コロサイ人への手紙1章9、10節)。 「心を見守ること」の第三番目として「神を知る知識」について考えてみましょう。 一、三種類の知識とその関係について 「目がまだ見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」(第一コリント2章9節)とあるように、知識には次のような三つがあります。 1.第一は、目で見たり、耳で聞いたりして知る「見聞的知識」です。 2.第二は、目で見たり、耳で聞いたりしたことに基づいて、よく考えることによって知る「思考的知識」です。 3.第三は、前者の二つに基づくか、またはそれらを超越して実際に体験したり、経験したりして知る「体験的知識」です。 1.見聞的知識について 「耳学問」という言葉があります。辞書には「自分で直接学習するのではなく、他人からちょっと聞いて得た雑学的な知識」と書いてありますが、これが「見聞的知識」です。 これは知識の第一段階です。多くの場合、知識は、ここから始まりますが、これは、皮相的かつ浅薄な知識で、これで真相や真理を知ったと思ってはなりません。どこまでも第二段階の「思考的知識」の入り口なのです。 2.思考的知識について 物事の真相は、ただ見たり、聞いたりしただけでは分からず、よく調べたり、深く考えたりすることによって分かります。パウロは、福音のことばを信じたコリントの教会の人たちに、「もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら……この福音によって救われるのです」(第一コリント15章2節)と述べていますが、よく考えて真理に到達して得た知識が「思考的知識」です。 3.体験的知識について 主によって目が見えるようになった生まれつきの盲人は、「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」(ヨハネ9章25節)と言いましたが、実際に経験したことによって明白に知っているのが「体験的知識」で、これこそ、ほんとうに知っているということです。 二、この世の知識と神を知る知識について パウロは、「この世の知恵」と「隠された奥義としての神の知恵」について教えています(第一コリント2章6、7節)。 1.この世の知識について 知識には三種類、また三段階があるということができますが、どちらにしても「この世の知識」は、「この世の知恵」であり、この世のことしか分からず、神と永遠の世界のことを知ることはできません。 2.神を知る知識について 「神を知る知識」は、「隠された奥義としての神の知恵」であり、永遠の世界を知り、神から永遠のいのちが与えられて生きることを知っている知識です。 パウロは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」(ローマ10章17節)と教えています。まず神のことばを聞き(見聞的知識)、次に「よく考え」て(第一コリント15章2節)、それが真理であることを知り(思考的知識)、最後にその知った真理を「信仰によって、結びつけ」る(ヘブル4章2節)、すなわち、「信じること」によって、神を知るほんとうの知識(体験的知識)になるのです。 「人(アダム)は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み」(創世記4章1節)とあるように、体験的知識は、結合と一体を意味しています。それは言い換えれば、「人が神を愛するなら、その人は神に知られている」(第一コリント8章3節)とあるように、神を知る知識とは愛であり、神を知るということの最も深い意味は、神を愛し、神と結ばれ、神と一つになることなのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2016年6月13日「真の信仰の三要素」です。
2016.06.05
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1