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「ハンナの疑惑と信仰(2)」 2016年8月29日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年3月19日放映「信仰に成長する秘訣(2)」 説教要約 1003 神への信仰と感情2「ハンナの疑惑と信仰(2)」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、1章1~20節 このような境遇に置かれたハンナの心に次のような六つの疑惑が生じたことでしょう。(1)なぜ神は、私の胎を閉じ、子どもを生めないからだにされたのか。(2)なぜ夫は、子どもが生めない私をあきらめて、ペニンナを妻として迎えたのか。(3)なぜペニンナに子どもが生まれ、私には子どもが生まれないのか。(4)なぜペニンナは、神を疑わせるように私をいらだたせるのか。(5)なぜエリは、私の祈りと酒の酔いとの区別がつかないのか。(6)私が子どもを欲しがっているのは、ペニンナを見返すためではないのか。 この六つの疑問は、実に深刻な疑惑です。私たちも、ハンナのように様々な疑惑に包まれているのではないでしょうか。 三、疑惑によって強くなったハンナの信仰 ハンナは、このような深刻な疑惑に包まれていたのに、なぜすばらしい信仰の人になったのでしょうか。夫のエルカナも、もう一人の妻ペニンナも、祭司エリも、信仰の人ではありません。その理由は何でしょうか。 この三人は、現実を現実のまま受け止め、現実に対して何の疑問も抱かなかったからです。厳しい現実に直面した時、「どうしてこうなのか。もっと良いことがあるのではないか」と現実を疑い、「どうしたら、この現実を変えることができるだろうか」と考えようとはしませんでした。いや疑問に思ったこともあるでしょうが、その疑問や疑惑に真っ正面から取り組もうとせず、いとも簡単にあきらめてしまったにちがいありません。 しかしハンナは、そうではありませんでした。彼女とてか弱い一人の女性です。1.神は、私の胎を閉じられた。2.夫は、第二の妻をめとった。3.ペニンナは、簡単に子どもを生んだ。4.ペニンナは、私をいじめた。5.祭司エリは、私を酒酔いと間違えた。6.子どもを欲しがる私の動機は、不純ではないのか。 ハンナは、この六つの疑惑に包まれ、どんなに悩み苦しんだことでしょうか。この六つの疑惑を整理するなら、「1」は神への疑惑、「2」から「5」は人への疑惑、「6」は自分への疑惑です。「2」から「6」の疑惑の原因はすべて[1」にあります。もし「1」がなければ、それ以後の疑惑もなかったことでしょう。 多くの人たちは、「2」から「5」の人への疑惑にのみ心を奪われ、果ては、「夫が悪い」、「ペニンナが悪い」、「祭司が悪い」と言って、「彼らさえ悪くなければ、こんなに悩み苦しむこともないのに」と、人に疑惑をぶつけます。真の信仰を持つために疑惑は大切ですが、その疑惑も「人への疑惑」で留まってしまったならば、益になるどころか、害になってしまいます。夫もペニンナも祭司エリも、このような人であったのでしょう。 しかしハンナは、そうではありませんでした。彼女にも人への疑惑は、ありましたが、その原因は神にあることを知っていました。それでハンナは、「主に祈って激しく泣き」、「心を注ぎ出して」、「祈っていたのです」(10、15、16節)。これは、「なぜ、あなたは……」とハバククのように神に疑問をぶつけることでした(ハバクク1章3、13節)。 このように神に疑問をなげかける時、「このように神を疑っている自分は、いったい何者なのか。私は、いつも正しいことを行っている真実な人間なのか」と自分に対する疑惑が生じてくるでしょう。神は、ヨブに「自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」と言われました(ヨブ40章8節)。 おそらくハンナは、パウロが述べているように「私たちは真実でなくても、彼(神)は常に真実である」(第二テモテ2章13節)ことが分かったにちがいありません。このようにどこまでも真実な神を疑っている不真実極まりない自分に疑惑を抱く時、真の信仰を持つことができるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2016年9月4日「試練の意味するもの」です。
2016.08.27
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「ハンナの疑惑と信仰(1)」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年3月4日放映「信仰に成長する秘訣(1)」 説教要約 1003 神への信仰と感情2 「ハンナの疑惑と信仰(1)」 甲斐慎一郎 サムエル記、第一、1章1~20節 信仰の試練を受けたハンナの姿から、真の信仰について学んでみましょう。 一、疑惑と不信仰の相違 私たちが何かを信じるか信じないかという時、信じたいけれども信じられないという心と、信じたくないという心があります。前者は、真理を探求する「疑惑」で、知性の問題ですが、後者は、真理を拒否する「不信仰」で、意志の問題です。 1.疑惑について ある人は、信仰は何も疑わずに、ただ信じることであると思っていますが、そうでしょうか。ある人が次のように述べています。▽何も信じないことは不幸です。 ▽しかし何でも信じることも不幸です。▽信ずべきことを信じ、信ずべきでないことを信じないことこそ真 の幸いです。 聖書が教えている信仰は、まさにこれです。 信仰にとって最も大切なことは、何を信じるかという「信仰の対象」です。しかし多くの日本人は、「鰯の頭も信心から」という言葉に表されているように、何を信じるかという「信仰の対象」よりも、信じる心、すなわち「信心」が大切であると思っています。 それで、「信じることは善で、信じないことは悪である」と思っている人もいます。しかしそれは、「服従は善で、不服従は悪である」とか「従順は善で、不従順は悪である」というのが誤りであるように、服従する相手が善であるか悪であるかによって善悪が決まるのであって、「服従」や「不服従」それ自体が善か悪かということはあり得ません。 そのように信仰も信じる対象が大切です。真の信仰は、偽りのもの、非現実的なもの、欺瞞的なもの、空虚なもの、無価値なものを疑って信ぜず、真実なもの、現実的なもの、不変の真理、実在するもの、価値のあるものを信じることです。 ルー・ウォーレスは、アメリカの偉大な将軍であり、天才的な文学者と言われました。彼は、過激な無神論者で、聖書と教会を撲滅するために、キリスト教を抹殺する本を書こうとしました。それから5年間、研究に没頭し、山のような資料に囲まれて執筆にとりかかりました。ところがキリスト教撲滅論を書いているうちにキリストを見いだし、信仰を告白してキリスト者になりました。そしてキリストの時代を取り扱ったものとしては比類のない不朽の名作と言われる「ベン・ハー」を書いたのです。 ルー・ウォーレスは、ベレヤのユダヤ人のように「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17章11、12節)結果、それが真実なものであることが分かり、信仰にはいりました。しかし疑惑の念を抱いたままなら、遅かれ早かれ、不信仰になってしまうでしょう。不信仰にならないために疑惑を解くことは非常に大切なことなのです。 2.不信仰について 主は、「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか……がわかります」と言われました(ヨハネ7章17節)。真理を探求する意志があるなら、疑惑は晴れて、信じることができるようになります。しかし「神を知ろうとしたがらない」なら(ローマ1章28節)、すなわち真理を探求する意志がないなら、疑惑を解くことができる証拠を示されても、決して信じないでしょう。これが不信仰です。 二、ハンナの心に生じた六つの疑惑 ハンナが置かれた境遇は、実に多難であり、様々な不利な条件に満ちていました。 ▽ハンナは、エルカナの二人の妻のうちの一人でした(2節)。 ▽ペニンナには子どもがありましたが、ハンナには子どもがありませんでした(2節)。 ▽もう一人の妻ペニンナは、子どものないことで、ハンナをいじめました(6節)。 ▽夫のエルカナは、人間的には善人でしたが、信仰的にはふがいない人でした(8節)。 ▽祭司エリは、柔弱な人で、人の心を見抜く洞察力がありませんでした(13節)。 ▽最も大きな試みは、胎を閉じておられるのが主であったということです(5節)。甲斐慎一郎の著書→説教集
2016.08.21
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「私のささえである主(2)」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年1月20日放映「信仰の妨げ(3)世への愛着」「私のささえである主(2)」 甲斐慎一郎 詩篇119篇113~117節 「みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。私の望みのことで、私をはずかしめないようにしてください。私をささえてください。そうすれば私は救われ、いつもあなたのおきてに目を留めることができましょう」(116、117節)。 この詩篇119篇には、「真実」という言葉が5回も記されていますが(30、75、86、90、138節)、私たちが神をささえとするということは、とりもなおさず神の真実さをささえとすることです。そこでこの神の真実さと私たちのささえとは、どのような関係にあるのかということを考えてみましょう。 一、どこまでも真実なことばを語られる神 詩篇の著者は、「あなたの仰せはことごとく真実です」と述べています(86節)。聖書は、よく心の鏡であると言われますが、聖書ほど人間の赤裸々な姿を教えてくれるものはありません。まさに、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判断することができます」とある通りです(ヘブル4章12節)。 もしこの世の中に「うそ発見器」なるものがあるとすれば、聖書こそ最も正確な「うそ発見器」でしょう。神は、何のお世辞も遠慮もなく、私たちのほんとうの姿を告げられます。この神の語られることばの真実さは、罪深い人間には非常に痛くて辛いことですが、真理を求める人にとっては、絶対的なささえとして真の拠り所となるのです。 二、どこまでも真実なことをされる神 詩篇の著者は、「あなたが真実をもって私を悩まされたことを知っています」と述べています(75節)。神は、真実をもって私たちの姿を告げられますが、その時、私たちがそれを認めなかったり、また言い逆らったりするなら、今度はことばだけでなく、実際の行動に出られます。すなわち神は、私たちに試練や苦難を送って私たちを苦しめたり、悩ませたりして働かれるのです。しかしこれは、私たちを悔い改めさせ、懲らしめて、私たちを正しい神の道に引き戻そうとする神の真実な行為の現れです。 神は、よほどのことがない限り、私たちのわがままな願いが通るようにはされません。なぜなら神は、人間が考える最善のことではなく、神が計画される最善のことを行われるからです。この神の行われる行為の真実さは、罪深い人間にとっては非常に恐ろしいことですが、真理を求める人間にとっては、絶対的なささえとして、真の拠り所となるのです。 三、どこまでも真実な心を持たれる神 詩篇の著者は、「あなたの真実は代々に至ります」と述べています(90節)。私たちが偽りやすい人間を信じる場合、外側のことばや行動だけでなく、ほんとうの腹の底や心の奥の真実さまで信用できなければ、不安が残ります。これに対して偽ることができない神に対しては、真実なことばや行動があれば、それで十分なはずです。しかし実際には、人間の弱さや罪深さのゆえに、真実な神のみこころをも知る必要があります。なぜなら、人間の小さな頭脳には限界があり、様々な試練や苦難に会った場合、私たちは、神のなさることを必ずしも全部理解することができるとは限らないからです。 それでは神の真実なみここを知るためには、どうすればよいのでしょうか。それは、キリストとその十字架によって現された神の真実な愛のことばと犠牲的な行為を知ることです。神のことばであるキリストが人となられて、十字架の上で死なれた行為以上に、神の真実な愛のみこころを教えるものがあるでしょうか。これこそ私たちのささえであり、どのような中でも神のみこころに憩うことができるものなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集
2016.08.14
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「私のささえである主(1)」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま した。以下のURLをクリックすると見ることができます。2015年1月13日放映「信仰の妨げ(2)物への執着」 「私のささえである主(1)」 詩篇18篇16~19節 甲斐慎一郎 「主は私の強い敵と、私を憎む者とから私を救い出された。彼らは私よりも強かったから。彼らは私のわざわいの日に私に立ち向かった。だが、主は私のささえであった」(17、18節)。 冒頭の聖句から「ささえ」ということについて考えてみましょう。 一、三種類の「ささえ」 この「ささえ」という言葉は、文語訳では、「支柱」となっていますが、これは、「つっかい棒」ということです。日本語の「人」という文字は、長い棒を短い棒で支えていますが、このように人間というものは、何かを支えとして生きている者です。 私たちは、自分のからだを支えるためには、しっかりした地面や床が必要であり、また肉体の生命を支えるためには、新鮮な空気や水や食べ物が必要です。しかし、それ以上にもっと大切なものは、心の支えです。人は、心の支えを失うなら、最悪の場合は、自らの生命を絶ってしまうのです。心の支えとは、言い換えれば、生きがいのことです。 人は各自、様々なものを心の支えとして生きていますが、分類するならば、次のような三つになるのではないでしょうか。 1.自分および自分が生み出すものを心の支えとする。 これは、自分の体力や実力や手腕、また名誉や地位を心の支えとし、それを生きがいとすることであり、自分により頼むことです。 2.他の人および他の人が与えてくれるものを心の支えとする。 これは、自分では何もせず、他の人を心の支えとし、それを生きがいとすることであり、他の人により頼むことです。 3.神および神が与えてくださるものを心の支えとする。 これは、自分が生み出すものや他の人が与えてくれるものを心の支えとせず、ただ神のみを心の支えとし、生きがいとすることであり、神により頼むことです。 二、間違った「ささえ」 もし、私たちが自分および自分が生み出すものを心の支えとするなら、どうなるでしょうか。自分の思いどおりになれば、高慢や誇りのとりこになるでしょうし、反対に自分の思いどおりにならなければ、自己卑下やひねくれのとりこになるでしょう。 また私たちが他の人および他の人が与えてくれるものを心の支えとするなら、どうなるでしょうか。他の人が自分の思いどおりにしてくれれば、怠慢や貪欲になるでしょうし、反対に自分の思いどおりにしてくれなければ、憎しみや恨みや妬みに満ちてしまうでしょう。 このように自分であれ、他の人であれ、私たちは、人間を心の支えとするなら、うまくいってもいかなくても、心は様々な罪に満ちてしまうのです。聖書は、「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ」と教えています(エレミヤ一七章5節)。 三、正しい「ささえ」 このようなことから、私たちの心をほんとうに支える正しい心の支えというのは、次の二つの条件を満たさなければなりません。1.私たちを裏切ったり、失望させたりしない不変で不動なものであることです。 2.私たちをいい気にさせて誇らせたり、怠けさせたりしないものであることです。 この二つの条件を満たす正しい心の支えは、神および神が与えてくださるものを心の支えとすることです。なぜなら、神こそ「わが巌、わがとりで、わが盾、わがやぐら」(2節)であるとともに、「神、その道は完全」(30節)とあるように、神は人間が誇ったり怠けたりしないように、人間が考える最善のことではなく、神の計画された最善のことをいつも私たちにしてくださるからです。 そして私たちは、神のみを心の支えとするなら、神は、私たちを神のみこころにかなった者に形造られるだけでなく、他の人の助けをも与えてくださるのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2016.08.04
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