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「万物の創始者・統治者・完成者である神」2016年10月31日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年9月21日放映「摂理と運命」 説教要約 981 生命の惜しみない利他性 「万物の創始者・統治者・完成者である神」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、1章6節 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1章6節)。 この御言葉から三つのことを学んでみましょう。 一、万物の創始者である神 聖書は「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1章1節)と記し、神は「万物の創造者」であると教えていますが、これは、神は「万物の創始者」でもあることを啓示しています。しかも「それは非常によかった」とあるように(同1章31節)、神は非常に「良い働きを始められた方」です(ピリピ1章6節)。 私たちも、この世に誕生したという初めがあるからこそ、それ以後の人生があるのであり、初めがなければ、それこそ何も始まりません。私たちは、誕生という初めだけでなく、学校生活には入学、会社生活には入社、結婚生活には入籍、信仰生活には入信という初めがあります。しかし私たちにとって最も大切なことは、それが神によって始められた良い働きであるかどうかということです。 「もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば」、だれもそれを「滅ぼすことはできない」のです(使徒5章38、39節)。 二、万物の統治者である神 宇宙や地球には、秩序正しい自然界の法則が定められています。「ヒストリー・イズ・ヒズストーリー(歴史は神の物語)」という言葉のように、世界の歴史を学ぶなら、神は、すべての国の人々に「それぞれ決められた時代と、その住まいの境界とをお定めにな」ったことがわかります(使徒17章26節)。人の心には、善悪の規準に基づいた良心の平安や呵責というものがあり、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(ガラテヤ6章7節)。 しかしこの世は、「悪人が栄え、義人が苦しむ」という「善悪の法則」だけでは説明できない不可解なことに満ちています。これに関しては「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」(創世記50章20節)という人間の目には災いと悪にしか映らないことをも用いて最終的には私たちを善に導く「神の摂理の法則」というものがあります。 神は、万物の創始者であるだけでなく、宇宙や地球、世界の歴史や人間の社会を自然界の法則や善悪の法則、また神の摂理の法則によって支配しておられる万物の統治者です。 三、万物の完成者である神 初めに神が天と地を創造されたという聖書の教えと宇宙は大爆発によって誕生したというビッグ・バン説とに共通していることは、この宇宙には明らかに初めがあるということです。しかしビッグ・バン説は、完成することについては何も教えていませんが、聖書は、神がその天と地を「完成された」と記しています(創世記2章1節)。 私たちも、この世に生を受けたという初めがあるからこそ、それ以後の人生があるのですが、完成しなければ何にもなりません。神は、「良い働きを始められた方」であるだけでなく、「それを完成させてくださる」方です(ピリピ1章6節)。神は、「わたしは、終わりの事を初めから告げ……わたしの望む事をすべて成し遂げる」と仰せられる万物の完成者です(イザヤ46章10節)。 しかし現実の世界には、神の摂理では、どうしても理解することができない矛盾や不可解な出来事が数多くあります。このようなことに関して神は、すべてのことを世の終わりに公平にさばかれ、明らかにされます(第一コリント4章5節)。これが最後の審判です。 神の目から見るなら、完成したことも、人の目には完成したとは見えないことに関しては、神は、最後の審判によって物事を完結してくださる万物の完成者なのです。 「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(ローマ11章36節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2016.10.27
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「神と人との絆」 2016年10月24日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年9月8日放映「初めに情報ありきか物理法則ありきか」きか」 説教要約 964 情報が物質を造る(2)「神と人との絆」 甲斐慎一郎 ホセア11章4節 「わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた」(4節)。 「絆」という言葉には、「動物や物をつなぎとめる綱」と「切っても切れない関係」という二つの意味があります。 前者が二つのものをつないでいる「目に見える綱」であるのに対して、後者は二つのものをつないでいる「目に見えない綱」であるということができます。どちらにしても「絆」は「綱」であることがわかります。 私たち人間は、様々なものと深いつながりや絆というものがありますが、代表的なものは、次のような三つではないでしょうか。 一、自然と人との絆 人は、この世に生を受けてから、この世を去るまで、様々な自然現象の支配から一瞬たりとものがれることはできず、自然と切っても切れない関係にあります。それは、人間も自然界の一員である以上、決して気象的な変化や生物学的な作用、また物理学的な現象や化学的な反応など、自然の法則に逆らって生きていくことはできないからです。 そしてこの自然の法則は、私たちの人格や品性に関係なく働くものです。すなわち、その人の日頃の行いが良くても悪くても、高い所から落ちれば、怪我をし、熱いものに触れれば、やけどをし、有害なものを食べれば、中毒を起こすのであり、そこに例外はありません。ですから私たちが安全で健康な生活を営むためには、この自然の法則を守るほかないのです。 二、人と人との絆 しかし人間には、自然との絆だけでなく、さらに次のような切っても切れないつながりがあります。それは、家族や親族という血縁をはじめ、友人や同僚との交友の絆、知人や関係者との交際上の絆、さらに近隣や地方自治体などの地域社会の絆、そして国民としての絆に至るまで、実に複雑な人と人との絆です。 人というものは、互いに様々な絆という目に見えない綱でつながっているものです。しかもその綱は、夫婦や親子や友人の絆など、それぞれの関係にふさわしい太さ(親密度)と材質(性質)が定められています。これは、人の歩むべき道を教える倫理や道徳のことであり、正しい人間関係の基礎です。 しかし私たちがこの道を踏み外して、勝手な振る舞いをするなら、私たちにつながっている多くの人々に迷惑をかけて罪を犯すことになります。その結果、綱がもつれて身動きがとれなくなったり、正しい人間関係がこわれて、互いに憎み合う間柄や不義の関係や腐れ縁になったりするのです。 三、神と人との絆 しかし何よりも大切なのは、神と人との絆ではないでしょうか。神と人とは、どのような絆があるのでしょうか。 1.神は万物の創造者です(創世記1章1~31節)。私たちは、この神によって造られ、この神にいのちと息と万物とを与えられて、生きている者であり(使徒17章24、25節)、これほど深い絆はありません。だれが、この神のいのちを離れて生きて行くことができるでしょうか。 2.神は万事の支配者です(ユダ4節、黙示録4章8節、申命記32章39節)。自然の法則は、この神によって定められ、私たちは、その支配下にあるのであり、これほど深い絆はありません。だれが、この神の支配をのがれて生きて行くことができるでしょうか。 3.神は万人の審判者です(第二コリント5章10節、マタイ25章31~46節、黙示録20章11~15節)。私たちは、善であれ、悪であれ、すべてのことを神によってさばかれるのであり、これほど深い絆はありません。だれが、この神の審判をまぬかれて生きて行くことができるでしょうか。 神と人との絆を正しくするものは、神への信仰によって与えられる罪からの救いであり、それはまた自然と人との絆、および人と人との絆を正す秘訣なのです。 甲斐慎一郎の著書→説教集
2016.10.22
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「永遠に存在する人間」 2016年10月17日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年7月29日放映「被造物が証明している神の存在」 説教要約 963 情報が物質を造る(1) 「永遠に存在する人間」 甲斐慎一郎 マタイの福音書10章28節 現代は、いのちを重さを知らず、いのちを軽視する風潮があるように見えますが、一昔前の戦争をしていた時代も同じではないかと思われます。それで人のいのちはどのようなものかについて考えてみましょう。 一、人のいのちの重さについて パウロは、「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるため」と述べています(使徒20章28節)。この箇所にはキリストのことは記されていませんが、実際に血を流されたのはキリストです。父と子と聖霊なる神は、ご自身のいのちを捨てるほど私たちを愛し、私たちの救いのために贖いのわざを成し遂げてくださいました。言い換えれば、このみことばは、私たちのいのちは、三位一体の神がいのちをかけるほど重く、尊いということを教えているのです。 二、人間の不滅性について なぜ人のいのちは、それほど重くて尊いのでしょうか。それは神によって造られた計り知れないほど価値のあるもので、決して消滅することなく、永遠に存在するからです。 人間がほかの動物とは異なる根本的な特徴を述べるなら、次のような三つです。 1.自由意志――人間は選択と決断をする自由を持っています。 2.自己批判――人間は自分で自分を批判することができます。 3.継続性――人間は永遠に存在し、消滅することはありません。 自由意志を持ち、自己批判ができる人間は、責任をとるべき自己というものが消滅することはありません。墓は、人が来世に行くために通過するトンネルのようなものです。私たちの来世の運命は、私たちがキリストの贖いのわざを信じるかどうかによって決まります。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は……神の怒りがその上にとどまる」のです(ヨハネ3章36節)。 霊が不滅であることについては次のような四つの証明があります。 1.本能的な証明――正常な人間は本能的に霊が不滅であることを自覚しています。 2.心理学的な証明――霊は非物質的な存在で、分割することはできず、不滅です。エネルギー不滅の法則は、物質であるエネルギーが不滅であることを教えています。まして霊が不滅なのは当然ではないでしょうか。 3.目的論的な証明――人間は、この世においては、その人の持っているすべての可能性や将来性、すなわち品性や人格、能力や賜物などがすべて花を開くということはありません。それがすべて十分に開花するためには、次に来る世(来世)の存在と継続が必要なのです。 4.道徳的な証明――この世は、悪人が栄え、義人が苦しむことが多く、常に正義の取り扱いを受けているとは限りません。それで、次に来る世(来世)においてすべての善と悪とが公平にさばかれることがどうしても必要なのです。 三、人間の不滅性を教えているみことば 神のことばである聖書は、次に来る世(来世)が存在し、人は永遠に消滅しないことを教えています。 ヨブは、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう」と述べ(ヨブ1章21節)、「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は私の肉から神を見る」と告白しています(同19章25、26節)。 イエスは、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました(マタイ10章28節)。 ヨハネは、「死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた」と神からの啓示を記しているのです(黙示録20章12節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集 次回は2016年10月24日「忙しさの克服」です。
2016.10.15
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「かけがえのない人生」 2016年10月10日 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年7月19日放映「創造論と進化論」 説教要約 961 見えないものに目を留める(3)「かけがえのない人生」 甲斐慎一郎 詩篇71篇5、6節 「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています」 (詩篇71篇5、6節) 私たちの一生は、日々の生活の積み重ねであり、人がどのような晩年を送るかは、その人が若いころから、どのような種を蒔き続けてきたかによります。この詩篇71篇は、若いころから神を信じ、晩年に至るまで信仰に生きたひとりの老人が書いたもので、年老いた信仰者の祈りが記されています。 人はだれでも年を取り、老人問題は他人事ではありません。ですから人生のあらゆる艱難辛苦をなめた老人、しかもこの人のように全生涯を信仰に生き抜いた人のことばに耳を傾けることは、何と大切なことでしょうか。 そこで詩篇71篇から、「かけがえのない人生」について考えてみましょう。この中には、詩篇の記者の生々しい人生の体験が克明に記されています。 一、厳粛な人生の現実 この詩篇の記者は、自分をなじり、痛めつけようとする者だけでなく、いのちをつけねらう敵や残虐な者に囲まれていました(1、4、10、13、24節)。しかも彼の肉体は、徐々に衰えていたのです(9節)。 人は、霊と心とからだという三つの要素から成り立っています。私たちは、年を取るにつれて次のようになります。◇からだは衰え、病気がちになります。◇心も衰えていきます。人は若い時と比べるなら、 知性――物覚えが悪く、忘れっぽくなる。 感情――新鮮な驚きや感動が失われる。 意志――何事も面倒で、おっくうになる。◇霊は、死が近づくため、人生の刈り入れと生涯の締め括りが求め られます。 このように人間というものは、年を取るとともに、様々な悩みと苦しみが増し加わり、死に備えて生涯の締め括りをしなければなりません。これが厳粛な人生の現実です。 二、幸福な人生の晩年 このような厳しい人生の現実に直面する時、多くの人々は、この悩みと苦しみに耐え切れず、年を取るに従って夢も希望もなくなり、不平と不満、またつぶやきと愚痴が多くなっていきます。 しかしこの詩篇の記者は、このような様々な苦難と迫害、また肉体の力が衰えていくような中にあっても、その口には一日中、神への賛美が満ち(6、8、14、22、23節)、神の義を言い表し(24節)、神の奇しいわざを告げ知らせています(15、17、18節)。 これらのことを私たちに当てはめるなら、次のような三つにまとめることができます。◇神に対して――神への礼拝と賛美と感謝◇自分に対して――自らの救いの確信◇人に対して――ほかの人への証しと伝道 これは何とすばらしいことでしょうか。これこそ幸福な人生の晩年です。 三、必要な人生の土台 この詩篇の記者が、このような幸いな人生の晩年を過ごすことができた秘訣は何でしょうか。彼は、神を自らのとりでや岩とし(3節)、その神が信頼の的であるとともに(5節)、心を注ぎ出して救いと助けを祈り求め(2~4節)、謙虚に神に教えられています(17節)。 これらのことは、次のような三つに要約することができます。◇神が信頼の的である――神への信仰◇神に救いを祈り求める――神への祈り◇神に謙虚に教えられる――神への服従 パウロが「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」と述べているように(第二コリント4章16節)、私たちは、年を取るにつれて、肉体だけでなく、心も衰えていきます。しかし人間の本質的な部分である霊は、神への信仰と祈りと服従によって日々新たにされていくことができるのです。 これこそ幸いな人生の晩年であるとともに、すべての人に必要な人生の土台なのです。次回は2016年10月17日「永遠に存在する人間」です
2016.10.09
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「三つの世界」 2016年10月3日インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。2015年7月7日放映「神の啓示と人の探求」 「三つの世界」 甲斐慎一郎 詩篇73篇1~28節説教要約 962 初めに情報ありきか物理法則ありきか 聖書は、「心が聖くて正義を行う者は幸福になり、心が汚れて罪を犯す者は不幸になる」と記しています(1節)。世の中の道徳や倫理も同じことを教えています。しかし現実の世界は、これとは反対に、この詩篇の著者アサフが述べているように「悪人が栄え、義人が苦しんでいる」のです。これはどのように考えたならばよいのでしょうか。 一、肉眼で見える世界の限界(2~12節) アサフは「誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見」て、つまずきました(3節)。私たちに目がある以上、悪人が繁栄し、義人が苦難を受けているという矛盾した現実の世界を見ずに済ませることはできないでしょう。しかしたとえこのことを見ても、すべての人がつまずくわけではありません。 どのような人が矛盾した現実の世界を見ると、つまずくのでしょうか。それは、肉眼で見える世界がすべてであって、目に見えないものは実在せず、真理ではないと主張し、目に見えるもの以外は信じない人です。 このような人は、良いことを見ている間は問題がありませんが、矛盾した悪いことを見ると、つまずいてしまいます。しかし私たちが肉眼で見える世界しか信じなければ、悪いことを見る度につまずいてしまうのは当然ではないでしょうか。 二、理性で考える世界の限界(13~16節) アサフは、心と行いを聖くし、まじめに生活しているのに(13節)、一日中、神の懲らしめを受けるだけで、何の利益もありませんでした(14節)。これに対して悪人は、罪を犯していながら、「いつまでも安らかで、富を増してい」ます(12節)。彼は、いくら考えても分からず(16節)、つまずいただけでなく、もしこのままを述べるなら、後世の人たちを誤らせてしまったであろうと述べています(15節)。 私たちに頭脳がある以上、悪人が繁栄し、義人が苦難を受けるのはなぜであろうかと考えずに済ますことはできないでしょう。しかしたとえこのことを考えたとしても、すべての人がつまずいて、後世の人たちを誤らせるわけではありません。 どのような人が矛盾した現実の世界を考えると、つまずいて、後世の人たちを誤らせてしまうのでしょうか。それは、理性や頭脳的な知識で理解できる世界がすべてであって、理性で考えられないものは実在せず、真理ではないと主張し、理性で理解できるもの以外は信じない人です。 このような人は、理性で考えられる良いことが起きている間は問題がありませんが、理性では考えられない矛盾したことが起きると、つまずいてしまいます。理性で考えられないようなことが数多く起きるのがこの世であり、理性で理解できる世界しか信じなければ、悪いことが起きる度につまずいてしまうのは当然ではないでしょうか。 三、信仰の世界による解決(17~28節) しかし幸いなことにアサフは、「神の聖所にはいり、ついに、彼らの最後を悟」りました(17節)。最も狭い「肉眼で見える世界」とそれより少し広い「理性で考える世界」よりも、もっと広く全体を教えてくれる神の世界、霊の世界、信仰の世界というものがあります。 信仰の世界には次の三つの特徴があります。 1.物事を近視眼的に見ず、最後まで見極める「永遠の世界」です(17~19節)。悪人の繁栄は長続きせず、その最後は滅びです。 2.物事の影や夢を見ず、本体を見極める「実体の世界」です(20節)。悪人の繁栄は影や一時的な夢に過ぎず、その実体は滅亡なのです。 3.神から与えられる祝福や恵みよりも、その与え主である神ご自身をとらえる「臨在(神がともにおられること)の世界」です(23~28節)。人間は、神をとらえているなら、すべてのものを持っているに等しく(ローマ8章32節)、反対に神をとらえていなければ持っているすべてのものも零に等しく、すべてを失ってしまうのです。 私たちは、どの世界に生きているでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集次回は2016年10月10日「かけがえのない人生」です。
2016.10.02
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