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「神の真実と人の真実」 2020年3月29日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年1月2日放映「生命の設計図であるDNA(遺伝情報)」「神の真実と人の真実」 甲斐愼一郎 哀歌、3章22~24節 「それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い』」(哀歌3章23節)。 「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(第二テモテ2章13節)。 「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます」(詩篇51篇6節)。 冒頭の聖句は、神の真実は力強く、神は常に真実であること、そして神は私たちの心のうちの真実を喜ばれることを教えています。 一、真実さの意味について 一口に真実と言っても、漠然としているので、次のような三つに分けて考えるならば、はっきりするのではないでしょうか。 1.第一は、どういうつもりで、または何のためにするかという「動機に対する真実さ」です。これは、不純な動機や悪い動機でするか、純粋な動機でするかということです。「誤った印象を与えることを目的として(全部ではなく故意に一部の)事実を語る」という動機のうそをつくならば(F・B・マイアー)、私たちは真実ではありません。 2.第二は、どのようにするか、またはどのようなやり方でするかという「方法に対する真実さ」です。これは「目的のためには手段を選ばない」でするか、常に正しい方法でするかということです。 3.第三は、起きた出来事に対してどのような態度を取るかという「結果に対する真実さ」です。これは、自分のせいで悪い結果になった場合、それに対して悔い改めるかどうか、また神の力と助けによって良い結果になった場合、自分のせいにしないで、神に栄光を帰するかどうかということです。 二、常に真実である神 聖書は、イエス・キリストについて「アーメンである方、忠実で、真実な証人」と記しています(黙示録3章14節)。この神の真実さは、どのように現れたでしょうか。 まず神は、そのひとり子を私たちにお与えになることによって私たちを限りなく愛しているという最も大いなる愛を現してくださいましたが、これ以上の真実さはありません(ヨハネ3章16節、動機に対する真実さ)。 次に神は、そのひとり子を死に渡すことによって正しい救いの道を備えるという最も大いなる犠牲を払ってくださいましたが、これ以上の真実さはありません(ローマ3章25、26節、方法に対する真実さ)。 最後に神は、そのひとり子が罪の贖いを成し遂げることによって聖霊が降臨するという最も大いなる救いを与えてくださいましたが、これ以上の真実さはありません(第一ペテロ2章24節、結果に対する真実さ)。 三、心のうちの真実を喜ばれる神 西洋の諺に、「一日だけ幸せでいたいなら床屋に行け。一週間だけ幸せでいたいなら車を買え。一か月だけ幸せでいたいなら結婚しろ。一年だけ幸せでいたいなら家を買え。一生幸せでいたいなら正直でいることだ」という言葉があります。 聖書は「死に至るまで忠実でありなさい」(黙示録2章10節)、また「管理者には、忠実であることが要求されます」(第一コリント4章2節)、そして「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25章21節)と教え、キリスト者は、神の前に、忠実な者、また真実な者であることが求められています。 私たちが、神の前に忠実な者、また真実な者となるための唯一の秘訣は、どこまでも真実な神を信じることです。新約聖書の原語であるギリシャ語は、「信仰」と「真実」という言葉は同じです。また英語の「真実(フェイスフルネス)」という言葉は、直訳すると「信仰に満ちていること」です。このことは、信仰を持つことは、真実な人になるということを教えているのではないでしょうか。 もし私たちが、動機に対しては最も大いなる愛を現し、方法に対しては最も大いなる犠牲を払い、結果に対しては最も大いなる救いを与えてくださった真実な神を心から信じるなら、どうして不忠実、不真実であることができるでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.03.28
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「神の愚かさと人の愚かさ」2020年3月22日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年11月21日放映「神学と論理的思考」「神の愚かさと人の愚かさ」 甲斐愼一郎 コリント人への手紙、第一、1章18~31節 「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢……いからです」(25節)。 「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選……ばれたのです」(27節)。 この前半の25節の御言葉には、神の愚かさについて、後半の27節の御言葉には、この世の愚かな者、すなわち人の愚かさについて記されています。人の愚かさは理解することができますが、神の愚かさとは、いったいどのような意味なのでしょうか。聖書から学んでみましょう。 一、三種類の愚かさ ここで使徒パウロが述べている神の愚かさということの真意を探るために、まず「愚かさ」という言葉の文字通りの意味を調べる必要があります。新約聖書の原語であるギリシャ語には、日本語において「愚か(さ)」と訳されている言葉が四つほどあり、それぞれの意味は次のとおりです。1.理解力を欠いていること、または激怒や激情などによって理性 を失っていること2.思慮の足りないこと、すなわち賢くないこと3.愚鈍であること、いわゆる低能、馬鹿4.道徳的に欠陥があること、罪深いこと これが文字通りの意味ですが、聖書の愚かさという言葉の用法から考えると、愚かさには、次のような三種類の愚かさがあることがわかります。 ▽文字通りの愚かさ。これは前述した四つの意味において本当に愚かなことです。 ▽愚かであると不当に中傷される愚かさ。これは本当は愚かではないが、それを理解できない人に愚か者呼ばわりされることです。 ▽愚かであると中傷されても行う愚かさ。これは理解できない人に愚か者呼ばわりされても、それに構わず真実にふるまうことです。 二、神の愚かさ この三種類の愚かさの中で、神の愚かさはどれでしょうか。 ▽文字通りの愚かさ どこまでも正しく、聖く、知恵に満ちた全知の神が、文字通りの意味において愚かであるということは、あり得ないことです。 ▽愚かであると不当に中傷される愚かさ 「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされ」(第二コリント5章21節)、そのことを「信じる者を救おうと定められ」ましたが(21節)、自らの罪深さも救い主の必要も自覚しない人は、このことを愚かと笑うのです。 ▽愚かであると中傷されても行う愚かさ このように「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても」(18節)、神は私たちを愛する余り、またこれ以外に救いがないので、「ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された」のです(ローマ8章32節)。 三、人の愚かさ これに対して人の愚かさはどれでしょうか。聖書は、人には次のような三種類の愚か者がいると教えています。 ▽文字通りの愚か者 聖書は、神を信じない者(詩篇14篇1節)、またキリストの贖いによる救いを信じない者は(ガラテヤ3章1節)、愚か者であると教えています。 ▽愚かであると不当に中傷される愚か者 罪から救われて正しく聖く生き、「度を過ごした放蕩に走らない」ために「悪口を言」われ(第一ペテロ4章4節)、愚か者呼ばわりされる人こそ真のキリスト者です。 ▽愚かであると中傷されても行う愚か者 前者が消極的に不当な中傷を忍ぶ愚か者であるのに対して、これは積極的に「そこまでしなくてもよいのではないか」と言われるほど神のために忠実に熱心になる愚か者です。 私たちは、どの愚か者でしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.03.21
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「神の知恵と人の知恵」 2020年3月15日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年11月7日放映「神の息である聖霊」「神の知恵と人の知恵」 甲斐慎一郎 ヤコブの手紙、3章13~18節 「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです」(15~17節)。 聖書は、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と教えています(箴言9章10節)。ヤコブは、ねたみや敵対心があり、その結果、秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いに至らせる「地に属する知恵」と、純真で、平和、温順で、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがない「上からの知恵」について述べています。 一、三種類の知恵 新約聖書の中で「知恵」とか「悟り(新改訳では理解力や思慮深さ)」と訳されている原語は色々ありますが、代表的なものは次の三つです。 1.ソフィア――これは根本的な知恵または賜物としての知恵のことです。 2.スュネスィス――これは洞察的な知恵または批判力としての知恵のことです。 3.フロネースィス――これは実際的な知恵または実行力としての知恵のことです。 知恵については、次のような三つのことを考えるのがよいのではないでしょうか。 ◇その知恵は、一体どこから得たものか、その出所はどこなのか(知恵の源泉)。 ◇その与えられた知恵を、どのように用いようとしているのか(知恵の用途)。 ◇その知恵は、一体どこを目指し、何を得ようとしているのか(知恵の目的)。 二、人の知恵(地に属する知恵) 人の知恵、すなわち地に属する知恵とは、どのようなものでしょうか。 ◇その源泉――これは失敗したり、転んだりした多くの人々の体験の中から身につけた人の教えであり、それは人間の努力の賜物であるということができます。 ◇その用途――これは、どのようにすれば世間で暮らしていくことができるかという世渡りのためです。 ◇その目的――これは競争に勝って人よりも優り、自分が得をすることです。 このように世の中において賢くて知恵があるというのは、世渡りが上手で、人に優り、得をすることであり、愚かで知恵がないとは、世渡りが下手で、人に劣り、損をすることです。この世の知恵は、「地に属する知恵」で、それは競争心をあおり、「ねたみと敵対心」を生じさせ、その結果、「秩序の乱れやあらゆる邪悪な行い」に満ちた社会になることを避けることはできないのです。 三、神の知恵(上からの知恵) これに対して神の知恵、すなわち上からの知恵とは、どのようなものでしょうか。 ◇その源泉――これは、律法を定め、すべてのものを支配し、全世界をさばかれる全知全能の神が「転ばぬ先の杖」として私たちのために、あらかじめ備えてくださった神の教えであり、それは神からの賜物であるということができます。 ◇その用途――これは、どのようにすれば神の前に正しい姿になることができるかという罪からの救いのためです。 ◇その目的――これは、悔い改めの実をはじめ、御霊の実や奉仕の実など、あらゆる良い実を結んで、神と人の役に立つことです。 このように神の前に、賢くて知恵があるというのは、キリストに対する信仰によって罪から救われて、良い実を結ぶことであり、愚かで知恵がないというのは、神を離れて罪を犯すことです。 しかし旧約聖書(箴言8章22~31節、30章4節)も、新約聖書(第一コリント1章30節、コロサイ2章3節、参照、黙示録5章12節、7章12節)も、「神の知恵」は、イエス・キリストであると教えているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.03.14
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「神の安息と人の安息」 2020年3月8日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年9月28日放映「道と真理といのちであるキリスト」「神の安息と人の安息」 ヘブル人への手紙、4章1~11節 甲斐愼一郎 「もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう」(8節)。 「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです」(10節)。 この言葉は、ヨシュアがイスラエルの民を導きいれた「乳と密の流れるカナンの地」は、地上における安息の地ですが、神が私たちに与えようとしておられる真の安息は、これとは別にあるので、著者は、「私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め……ようではありませんか」と勧めています(11節)。 そこで、人の安息とは、「人が得ることができる安息」。神の安息とは、「神のみが与えることができる安息」として、それぞれどのようなものであるのか、また両者の違いについて聖書の中から学んでみましょう。 一、人の安息について 安息には、様々な安息がありますが、人間を構成している三つの要素に関して述べるなら、次のようになるでしょう。1.肉体的な安息(からだの安息)です。2.精神的な安息(心の安息)です。3.霊的な安息(霊の安息)です。 この中で人の安息、すなわち人が得ることができる安息とは、どれでしょうか。 1.肉体的な安息 必要な睡眠や休息または栄養をとることによって得ることができます。 2.精神的な安息 スポーツやレクレーションなどによって気分転換を図ったり、何か偉大なものを当てにしたりすることによって、ある程度、得ることができます。 3.霊的な安息 次に述べるような神のみが与えることができる安息であり、人が通常、得ることができないものです。 二、神の安息について それでは、神のみが与えることができる安息とは、どのようなものでしょうか。これに関して聖書は、次のような三段階の安息を教えています。 1.神との平和による安息 神に敵対していた私たちが罪を赦されて、神と和解することによって得ることができる安息です(ローマ5章1節、コロサイ1章20~22節)。 2.自分のわざを休む安息 無力で罪深い私たちが、自分の力で神のわざを行おうと焦ったり、もがいたりすることを止めて、神にすべてを明け渡し、ゆだねることによって得ることができる安息です(ヘブル4章10節)。 3.永遠に神の中に憩う安息 すべての苦しみから全く解放され、永遠に神の中に憩うことによって得ることができる安息です(第二テサロニケ1章7節、黙示録21章3、4節)。 この神との平和による安息こそ救いであり、自分のわざを休む安息こそ聖めであり、永遠に神の中に憩う安息こそ天の御国です。 三、安息の教訓について 神の安息と人の安息について、特に両者の違いをまとめるなら、次のようになります。 1.人の安息が、肉体的また精神的な安息に限られるのに対して、神の安息は、まず第一に霊的な安息ですが、それはまた真の精神的かつ肉体的な安息を与えられる秘訣です。 2.人の安息が、労働の合間や休息している時だけの一時的かつ断続的な安息であるのに対して、神の安息は、何をしている時にも与えられる恒久的な安息です。 3.人の安息が、何かをすることによって与えられるわざによる安息であるのに対して、神の安息は、信じるなら直ちに与えられる信仰による安息です(3節)。 この安息を与えられる時、私たちの奉仕は、「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」(第二コリント9章7節)、心から喜んですることができるようになるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.03.07
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