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「外なる人と内なる人」 2020年9月27日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年7月15日放映「世を愛された神」「外なる人と内なる人」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、4章16節 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(16節)。 この箇所において「外なる人」とは「からだ」とか「肉体的な生命」を、「内なる人」とは「霊」とか「霊的な生命」を意味しています。どちらにしても聖書は、人間には衰えていくだけでなく死ぬべき部分と、生かされているだけでなく新たにされていく部分とがあることを教えています。 どのようにすれば、日々衰えていく肉体的な生命を持ちながら、日々霊的な生命を新たにされていくかということを、肉体的な生命と霊的な生命の橋渡しをしている精神的な生命の役割を加味しながら学んでみましょう。 人間を構成といてる三つの要素(霊と心と肉体)が常に新しく、生き生きとしているためには、どうすればよいのでしょうか。 一、生き生きとした肉体的な生命を保つための秘訣 生き生きとした肉体的な生命を保つためには、次のような三つのことが必要です。1.必要かつ十分な休息をとる。2.必要かつ十分な栄養をとる。3.適度な運動をして肉体を鍛える。 しかし、どんなに涙ぐましい努力をしても、罪のために死ぬべきものとなってしまった肉体は、日々衰えていくことを避けることはできないことは、言うまでもありません。 二、生き生きとした精神的な生命を保つための秘訣 生き生きとした精神的な生命を保つためには、次のような3つのことが必要です。1.深く考えて頭をよく使う。2.情緒や情操を豊かにする。3.創造的な精神を失わない。 ですから、決まり切ったことを、決まり切ったようにしかしないことは、何も考えず、何も感動せず、何も新しいものを生み出さずに、精神的に枯渇してしまう危険性があることを忘れてはなりません。 三、生き生きとした霊的な生命を保つための秘訣 生き生きとした霊的な生命を保つためには、次のような3つのことが必要です。 1.恵みの手段(集会出席、聖書拝読、祈祷、奉仕、献金)を守ることによって絶えず神との関係を正しくし、神の御前に歩むことです。 2.苦難に遇った時、逃避せずに信仰によって勝利を得て、乗り越えることです。 3.未熟なところや至らないところを様々なものを通して訓練されることです。 これらのことは、私たちが信仰に成長していくための秘訣でもあります。 このように肉体的な生命であれ、精神的な生命であれ、霊的な生命であれ、生き生きとした生命に共通していることは、静止したり、停止したりせずに、絶えず活動し、常に躍動しているということです。使わなければ働きが鈍くなり、ついには動かなくなってしまうのが生命の特徴です。 私たちは、罪のために死ぬべきものとなってしまった肉体的な生命の衰えを防ぐことはできません。しかし神によって生かされた霊的な生命は、衰えを防ぐことができるだけでなく、日々新たにされていくことができます。そのためには霊的な生命を生き生きと保つとともに、精神的な生命を生き生きと保つことが必要です。 私たちは、何事に関しても「それは何なのか」、「それはなぜなのか」、「それはどうすれば解決するのか」という探求心を失ってはなりません。イエス・キリストは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と言われました(マタイ7章7節)。もし私たちがこれを失い、何事もわかったかのように思うなら、思考と感情(情緒と情操)と創造的な精神の働きが停止して、その結果、霊的な生命も死んでしまう危険性があるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.09.26
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「結実の霊的な教え」2020年9月20日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年7月4日放映「真の幸福」「結実の霊的な教え」 甲斐愼一郎 ヨハネの福音書、15章1~8節 9月から11月頃までは、読書の秋、スポーツの秋、行楽の秋、芸術の秋、食欲の秋、収穫の秋、結実の秋で、最もよい季節です。 1~8節には「実を結ぶ」という言葉が七回も記されています(2、4、5、8節)。新約聖書は、キリスト者の結ぶ実を8つほど教えています。◇悔い改めの実(マタイ3章8節)◇祈祷による祝福の実(ヨハネ15章7節)◇献身と服従による聖潔の実(ローマ6章16、 22節)◇施しによる義の実(第二コリント9章10節)◇御霊の実(ガラテヤ5章22、23節)◇伝道による働きの実(ピリピ1章22節)◇懲らしめの訓練による平安な義の実(ヘブル12章11節)◇賛美による唇の実(ヘブル12章15節) この結実に関してキリストは、私たちに三つの有り様を教えています。それは「無結実」と「結実」と「豊かな結実」です。 一、無結実について(2、6節) 無結実のものは「取り除かれること」(2節)と、「投げ捨てられること」(6節)と「火に投げ込まれて燃やされること」(6節)がはっきりと記されています。これは何と恐ろしく厳粛なことでしょうか。 ぶどうは、実を結ぶこと以外に何の役にも立ちません(エゼキエル15五章1~5節)。そのように人間も神に喜ばれる良い実を結ぶ以外に何の役にも立ちません。 良い実を結ばないということは、ただ「土地をふさいで」(ルカ13章7節)障害になるだけでなく、木から離れていること、すなわち「神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあ」り(コロサイ1章21節)、罪の実を結ぶ有害なことですから、取り除かれて、地獄の火に投げ込まれるのです。 二、結実について(4、5節) 聖書は、「わたし(神)の栄光のために、わたしがこれ(人間)を創造し」と記し(イザヤ43章7節)、人は、神の栄光を現すために造られたと教えています。キリストは、「あなたがたが多くの実を結」ぶ「ことによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と仰せられました(8節)。 キリストは、私たちに「実を結べ」とは命令しておられません。キリストが私たちに命じておられるのは、「わたしにとどまりなさい」です(4、5節)。これが結実のための条件であり原因です。「そういう人は……実を結びます」(5節)という言葉は、結実はあくまで結果であることを教えています。 日本語において結実も結果もともに、「み(実、果)を結ぶ」と書き、同じ字であることは誠に興味深いことです。 「キリストにとどまる」とは、神に直結することです。私たちが自分および自分が生み出すものを心の支えにしたり、他の人および他の人が与えてくれるものを心の支えにしたりするならば、神には直結していません。見えるところによらず信仰によって、ただ神と神の与えてくださるものだけを喜ぶことこそ神に直結していることなのです。 三、豊かな結実について(2節) ここでキリストは、「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」と語っておられます(2節)。 キリストにとどまることによって実を結ぶようになった者はだれでも、神の言葉や聖霊の光(ヘブル4章12節)、また苦難や試練や懲らしめという「はさみ」によって刈り込みをされます。 この父なる神の刈り込みは、私たちに次のような三つのことをさせるためです。▽離別――汚れたものに触れないこと▽放棄――悪いものを捨て去ること▽献身――良いものさえもささげること 神が聖書の言葉や聖霊の光、また苦難や試練や懲らしめという「はさみ」によって刈り込みをされる時、私たちが離別と放棄と献身によって、それに応えていくなら、豊かな実を結ぶようになるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.09.19
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「神の慰めと人の慰め」 2020年9月13日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年5月31日放映「信仰の決断」「神の慰めと人の慰め」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、1章1~11節 「私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(4節)。 この御言葉の前半には神から受ける慰め、すなわち神の慰めについて、後半には人から受ける慰め、すなわち人の慰めについて記されています。そこで神から慰めを受ける場合と人から慰めを受ける場合とは、どのような違いがあるのかということについて、三つの観点から考えてみましょう。 一、その行動の違いについて 私たちは、自分の心の寂しさやむなしさ、また悩みや苦しみをいやすために、神のもとに行き、神から慰めを受ける場合と、人のもとに行き、人から慰めを受ける場合とは、その行動において、どのような違いがあるでしょうか。 もし私たちが神のもとに行き、神から慰めを受けるなら――神に用いられている人を通して神からの慰めを受けることがあることは言うまでもありません――「どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(4節)と記されているように、能動的また積極的な行動になるでしょう。 しかし私たちが人のもとに行き、人から慰めを受けようとするなら、人を慰めるどころではなく、自分が人から慰めを受けるという受動的また消極的な行動になるでしょう。 ところが人から慰めを受けようとすることは、単に受動的また消極的な行動になるだけでなく、自分の心を慰めてくれることなら、何でもするが、自分の心を慰めてくれないようなことは何もしないということにならないでしょうか。 このことは、自分の心を慰めてくれるものが善であり、自分の心を慰めてくれないものは悪であると判断することにほかならず、それは行動の基準が道徳的な善悪から逸脱してしまうことになるのです。 二、その動機の違いについて 私たちが人のもとに行き、人から慰めを受けようとする動機は何でしょうか。初めは自分の悩みや苦しみを打ち明けているだけですが、そのうちに言い訳や弁解をすることによって自分の罪を正当化し、相手にもそのことを認めさせようとしているのであり、それが認められることに自分の慰めを見いだすのではないでしょうか。 このように人から受ける慰めは、不純なものになる危険性があるのです。 これに対して私たちが神のもとに行くなら、どうなるでしょうか。もし私たちがほんとうに神の前に出るなら、自分の罪を認めて悔い改めざるを得なくなるのであり、そこに不純な動機のはいる余地はありません。その結果、罪の赦しと慰め主である聖霊が与えられるのであり、これこそ神から受ける慰めです。 自分の罪を正当化せず、神の御前に心が砕かれた人のみ、神からの慰めを受けることができるのです。 三、その救いの違いについて 私たちの心に真の慰めを与えてくださるのは神のみです。私たちは、神からの慰めを受ければ受けるほど、ますます強くなるだけでなく、聖くなっていきます。 兄たちにねたまれてエジプトに売られたヨセフは、人からの慰めを受けたことは一度もなく、ただ神からの慰めを受けて、強められるだけでなく、聖くなっていきました。 しかし神からの慰めを受けようとせず、ただ人からの慰めを受けるなら、神から受ける慰めから遠ざかるので、ますます弱くなるだけでなく、罪深くなっていきます。 このようなことから人から受ける慰めは偽りの救いであり、神から受ける慰めこそ真の救いであることが分かるでしょう。 それでは人から慰めを受けることが問題であるなら、人は何のために存在しているのでしょうか。ほかの人というのは、私たちがその人を通して神からの慰めを受けるか、それとも私たちの方がその人を慰めるかのどちらかのために神から遣わされているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.09.12
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「神の懲らしめと人の懲らしめ」2020年9月6日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年5月28日放映「父と子の交わり」「神の懲らしめと人の懲らしめ」 甲斐慎一郎 ヘブル人への手紙、12章5~11節 「肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」(10節)。 この御言葉の前半には肉の父親の懲らしめ、すなわち人の懲らしめについて、後半には霊の父の懲らしめ、すなわち神の懲らしめについて記されています。そこで、神の懲らしめと人の懲らしめとは、どのような違いがあるのかということについて、次のような三つの観点から学んでみましょう。 一、その動機の違いについて 肉の父親に代表される人の懲らしめの動機は何でしょうか。このことに関して聖書は、「自分が良いと思うままに」と極めて簡潔に教えています。これは実に的を射た答えです。なぜなら私たちは相手のためを思ってしているつもりでも、いつのまにか自分が良いと思うままにしてしまうからです。しかも人間は無知で、知恵がなく、また幼稚で、未熟なために、自分では良いと思っていることが、すでに間違っているということはいくらでもあり得ることであり、ここに人の懲らしめの限界があるのです。 これに対して神の懲らしめの動機は何でしょうか。これに関して聖書は、「私たちの益のため」、しかも単なる損得ではなく、「ご自分の聖さにあずからせようとして」と明白に教えています(10節)。その人にとって何が益になるのか、特にその人が聖くなるためには、どのような懲らしめがよいのかということは、ただ私たちの最善のみを願っておられる愛の神、また実際に何が最善であるのかを知り抜いておられる全知の神のみが判断し得ることなのです。 二、その方法の違いについて この「短い……期間」(10節)という言葉は、人の懲らしめの特徴をよく表しています。すなわち人の懲らしめは、子どもの頃や若い時だけで、大人になったり、年を取ったりするとなくなってしまうということです。人間は年を取れば取るほど、また高い地位につけばつくほど、人の言うことを聞かなくなる傾向性がありますが、それはその人を懲らしめる人がいなくなるからです。 人を懲らしめる時に最も大切なことは、終始一貫していることです。父親と母親の言うことや親と教師の語ることが食い違っていたり、学校で教えることと社会で教えることが矛盾していたりしたならば、逆効果です。また同じ人で表と裏があったり、建前と本音を使い分けたりすることも同様であることは言うまでもありません。しかしこれが人間の現実の姿であり、人の懲らしめの限界なのです。 これに対して神は、一生の間、終始一貫して何の食い違いも矛盾もなく、様々な出来事や人を通して私たちを懲らしめるのです。 三、その結果の違いについて その動機においても方法においても、多くの間違いや誤りがある人の懲らしめに良い結果を期待することは非常に難しいことです。そのためにある時は厳し過ぎたり、ある時は優し過ぎたりして、一方の極端から他方の極端へと、時計の振り子のように揺れ動き、どうしてよいのか分からずに迷っているのが人の世の常ではないでしょうか。 これに対して聖書は、神の懲らしめは「そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(11節)と教えています。神の聖さにあずかった者のみ、平安な義の実を結ぶことができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.09.05
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