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「聖書の中の科学(3)」 2020年10月31日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年11月14日放映「主のことばを聞く」「聖書の中の科学(3)」 甲斐慎一郎 ヨハネの黙示録11章3~9節 五、イエーメンのユダヤ人の物語 江戸時代に薩摩藩の西郷隆盛は、江戸から薩摩まで行くのに50日かかったということですが、約1,500キロメートルの道のりを50日かけなければ、薩摩の人と話すことはできませんでした。現在、東京―鹿児島間は、新幹線で6時間30分で結ばれ、飛行機に乗れば、1時間50分で着きます。もし西郷隆盛が、羽田空港で鹿児島空港行きの飛行機を見て、1時間50分で、鹿児島に着くと聞いたなら、腰を抜かすほど驚き、そんなことはあり得ないと言い、飛行機に乗るように言われても、恐ろしくて乗れなかったでしょう。 ところが今から70年ほど前に飛行機があることさえ知らず、また見たこともない人たちが、聖書の言葉を信じて、少しも驚かずに飛行機に乗った出来事が起こりました。 「イエーメンのユダヤ人の物語がある。彼らは、その地に移って2,000年近くたち、その間、外部の文明世界からは隔絶された状態にあった。ある日のこと、文字通り風の便りに、神はその約束を果たされ、パレスチナの地に白分たちの祖国が建てられたと聞いた。――1,948年のことである。――その瞬間、43,000人のユダヤ人が(特別の事情のある1,000人を除いて)、すべてを捨てて歩き出した。どこへ。もちろん祖国へである。彼らは全員、女も子供も、岩山を越え、砂漠を過ぎ、まずアデン目がけて歩き出した。イスラエル共和国政府は驚き、輸送機をチャーターして彼らをアデンからイスラエルヘと運んだ。史上最初の空輸による民族大移動として、この事件は有名である。彼らは、飛行場まで来た時、大きな輸送機を見て、少しも驚かなかった。当然のようにそれに乗り込んだのには、迎えに来た者の方が驚いた。それをただすと彼らは、平然として答えた。『聖書に記されているでしょう。風の翼に乗って約束の地へ帰る、と』」(イザヤ・ベンダサン著「日本人とユダヤ人」山本書店、44頁、1,970年)。 聖書には「あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た」(出エジプト19章4節)、また「彼はケルプに乗って飛び、風の翼に乗ってあらわれた」(第二サムエル22章11節)と記されています。 六、エルサレムで殺された二人の証人を全世界の人々が見たという聖書の記事 聖書の最後の書である「ヨハネの黙示録」には、次のようなことが記されています。 「わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て、1,260日の間、預言する。……彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は……彼らの主も十字架につけられたところ(エルサレム)にさらされる。もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、3日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない」(黙示録11章3~9節)。 今から1,900年も前に書かれた聖書の時代に、エルサレムに横たわっている二人の死体を全世界の人たちが現地に行って、3日半の間、ながめることなど、その必要性もなく、あり得ないことです。それなのに、なぜこのようなことを記しているのでしょうか。 「さて、反キリストが葬ることを拒んだこの死体を3日半の間に、どのようにして、すべての民族、国語、国民から出た人々が見ることができるのかと、あなたは尋ねるかもしれない。テレビジョンが発明されるまでは、このことは人々にとって、非常に理解するのに困難な場所であった。たったひとことの命令で、全世界のテレビ放送局が彼らの死体を写し出すことかできるのである」(テモテ・ザオ著「幕開ける預言」155頁、霊糧出版社、1,961年)。 今から1,900年も前に書かれた聖書に「飛行機」と「テレビジョン」があることを預言している記事があることは、聖書は、人間が決して記すことができないもので、全知全能の神が聖書記者たちに書かせたものであることを証明しているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.10.31
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「聖書の中の科学(2)」 2020年10月28日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年11月5日放映「神のことばである聖書」 「聖書の中の科学(2)」 甲斐慎一郎 レビ記17章11節 水の循環とそれに伴う地球規模の大気の循環は、近代になってようやく科学的に解明されたわけですが、このことは昔から聖書の多くの箇所で言及されていました。それは今から3,000年前に、「伝道者の書」の1章6、7節で、「風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる」とあります。これは、地球における水と風の循環の、簡潔で包括的な説明です。 水の循環については、ヨブ記36章27~29節には、「この方は水のしたたりを細かくし、その蒸気を雨として注ぐ。それは雲から降り、人の上に豊かに注がれる。いったい、だれが雲の広がりと、その天幕のとどろきとを悟りえよう」(欽定訳私訳)。 水の循環について未だ分かっていないことは多くあります。水の循環のそれぞれの状態は、地球に生命が存在するために必要不可欠なものです。このことは、生命の起源が、いつくしみと愛に満ちた賢明な創造主の、創造のみわざによることの大いなる証拠です。 四、生物学 生物のしくみで血液が特に大切だという事実が、レビ記など聖書の多くの箇所に記されています。しかもそれらは、1,616年にウィリアム・ハーヴェイが血液循環を発見する数千年前に書かれているのです。レビ記17章11節は、「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである」と告げています。 生命の維持は、体細胞に酸素と水と栄養がたえず供給されることで成り立っていることが、今では知られています。この欠かすことのできない機能は、体内を血液が絶えず循環するという驚くべき方法で達成されています。病原菌と戦ったり、傷ついた組織を治したりする血液の役割は、医学で最も重要な発見の一つで、手術や治療などの有益な処置の一つとして輸血がなされることも、肉体をもつ生命にとっての血液の重要性を示しています。 「1,799年、アメリカの初代大統領のジョージ・ワシントンは当時の名医たちの努力もむなしく、出血多量のため帰らぬ人となりました。その当時は、一部の人々だけが血液についての知識を持っていたにすぎず、ワシントンの治療をしていた医者は、病気の治療のために何回も何回も『捨血(血を抜いて捨てる)』をしていたのです」(ムーディ科学映画より)。 神によって与えられた聖書の言葉は、このすばらしい生物学的事実に関しても、科学者がそれを発見して大成させるよりずっと前から科学的に正確でした。しかもこれは『罪の罰は死で、罪が赦されるためには贖いの血が流されなければならない』という神のゆるがない霊的な真実を教えるために与えられた言葉でもあります。いのちの液体である血液は、組織内で病気や感染症が優勢なときには、それらの病原体(細菌など)をからだ中に運んでしまいます。聖書の中では、肉体の生と死は、霊の生と死の象徴として用いられます。そしてしばしば、肉体の病気と径我という描写を用いて、霊の病気である罪について語られるのです。 罪の病に冒されている霊が生きるためには、罪をもたず、罪の病に対して戦う力をもっている霊のいのちが必要です。すなわち死ぬべき運命にある罪に病んだ霊を治癒するためには、きれいで抵抗力のある血液をふさわしい提供者から受けて輸血することが必要です。 聖書は、罪なきキリストこそ、そのふさわしい提供者で、十字架にかかって血を流し、すべての人の罪のために死なれたことを教えています。(ヘンリー・M・モリス著『科学は聖書を否定するか』15~26頁抜粋)甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.10.28
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「聖書の中の科学(1)」 2020年10月25日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年10月3日放映「三つの選択」 「聖書の中の科学(1)」 甲斐慎一郎 創世記22章17節 聖書は科学的に正確ですが、それは聖書が神の意思(神学的には霊感という)を受けて特別に書かれた書物であることの証拠のひとつであって、非常に驚かされることです。 何千年もの間、聖書に記されていながら、近年、初めて正しく評価されるようになった科学的事実がたくさんあります。それらの記述は、もちろん現代科学の専門用語で表現されてはいませんが、それにもかかわらず、的確ですばらしい描写がなされています。 一、天文学 多くの天文学者たちが星の数を数えました。プトレマイオスは、1,056個を数え、ティコ・ブラーエは、777個の星を一覧表に表し、ヨハネス・ケプラーは1,005個を数えました。地球上のあらゆる地点から肉眼で見える星の総数は、4,000個程度でしょう。 それにもかかわらず聖書は「天の万象(天体の数)が数えきれず」(エレミヤ33章22節)と記しています。また「海辺の砂」の数が「空の星」の数に匹敵する(創世記22章17節)ことも伝えています。望遠鏡が発明されるまでは、これが聖書における重大な科学的誤りと見なされてきたことでしょう。しかし今では、それは超自然的な科学的洞察であったと認めないわけにはいきません。今日、天文学者は少なくとも10の26乗(百×一億×一億×一億)個の星があると推定しますが、これは地球上の砂粒の数に匹敵します。 また、聖書には「個々の星によって栄光が違います」(第一コリント15章41節)とあります。この記述も、かつては誤りと思われていたことでしょう。それは望遠鏡を通してでさえ、太陽を除くすべての星はまるでただの光の点にしか見えなかったからです。今ではもちろん、さまざまな種類の星があり、全く同じ星など存在しないことがわかっています。 二、地球物理学 科学者や教師たちがみな、地球は平坦であると信じていた時代から、まだ数世紀しか経っていません。聖書は、地球は球形だと述べているので、当時の知識人にしてみれば聖書がまるで非科学的に見えたでしょう。 イザヤは神について「主は地の円(the circle of the earth)の上に住まわれる」(40章22節)と述べています。ここで「円」と訳された言葉はヘブル語の「khug(フッグ)」で、より厳密な意味は「丸」です。この言葉は箴言8章27節では「深淵の面に円を描かれ」とも訳されており、神が海を創造されたとき、海洋の表面(平均海面)を球面にされたことに言及しています。 またヨブ記26章7節には、「神は……地を何もない上に掛けられる」とあります。これは聖書と20世紀科学の成果が一致した、もう一つの例です。地球が太陽と結ばれていることは、重力(引力)とよばれる力で説明されていますが、誰も重力が何であって、なぜ働くのかを知らないので、この結びつきを説明できたとはいえません。このような不可思議な「遠隔作用」が、どのようにして一億五千万キロメートルも離れた地球と太陽を結びつけ続けられるのか、その原因は全く未知のことなのです。そして「神は……地を何もない上に掛けられる」という聖書の説明以上によい説明はないのです。 三、水文学 水は人の生活に欠かせないので、水文学(水の科学)は、聖書の言葉と多くの関わりがあります。水文学で最も大切な基本原理は、驚くべき水の循環です。水蒸気は、凝結して雨や雪となって降ります。次いで地下水や川となって海へ流れ込みます。そこで水は蒸発して空に昇り、大気圏の大いなる風の循環によって、再び陸地へ運びもどされるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.10.24
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「聖書が教える奇蹟(3)」 2020年10月18日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年9月23日放映「三つの声」「聖書が教える奇蹟(3)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、3章1~26節 三、三位一体の神の漸進的啓示と奇蹟 1.旧約時代――父なる神が天から「しるしと不思議」を示して、ご自身を現された時代であり、最も初歩的な段階です イスラエル人は多くの「しるしや不思議」を見ても、その信仰は長続きせず、神に逆らい、呟き、遂に滅ぼされてしまいました。 奇蹟が頻繁に行われたのは危機の時代や邪悪な時代であり、かえって奇蹟が行われなかった時の方が良い時代です。ヘブル人への手紙11章の「信仰偉人列伝」に記されている前半の「信仰の勇者たち」(4~28節)が奇蹟を行っていないことは注目すべきことです。 2.キリスト在世時代――子なる神が地上に降り、人となってご自身を現された時代であり、第二の段階です イエスは多くの奇蹟を行われましたが、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(ヨハネ4章48節)とか「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」(マタイ12章39節)とかと言われ、「しるしや不思議」を求めるのは悪い時代であり、不信仰であることを強調されたのです。 3.五旬節以後の時代――聖霊なる神が人の心に内住して、ご自身を現された時代であり、完成した最終的な段階です 確かにペテロやパウロは、「使徒の働き」において、多くの「奇蹟と不思議と力あるわざ」を行っています。しかしそれは、「使徒としてのしるし」(第二コリント12章12節)のために行ったのであり、聖書は、このようなパウロでさえ絶えず奇蹟を行ったのではないことを教えています(同11章24~33節)。 「ローマ人への手紙」以後の書簡においても、確かに「奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者……異言を語る者」について記されています(第一コリント12章28節)。しかしパウロは、このような「いやしや異言」よりも大事なもの、いや最も大切で、これがなければ何の値打ちもなく、何の役にも立たないもの、すなわち「愛」(同13章1~13節)について教えているのです。 キリストは、「主の名によって預言をし、悪霊を追い出し、奇蹟をたくさん行った」としても、神を愛する愛がなく、主を知らなかった人(第一コリント8章3節)に対して、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども、わたしから離れて行け」と仰せられました(マタイ7章22、23節)。 最も大切なことは、「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ」ることです(ローマ5章5節)。言い換えれば聖霊によって私たちの中にキリストがおられ(コロサイ1章27節)、私たちの「うちにキリストが形造られ」(ガラテヤ4章19節)て、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(同5章22、23節)という御霊の実を結ぶことこそ何よりも重要なことなのです。 四、病の癒しと人の癒しと国の癒し 「中国のことわざに『上医は国を癒し、中医は人を癒し、下医は病を癒す』というのがある。病気のことだけを見ているのは薮医者、病気のもとである心を癒して元気にさせるのがまともな医者、皆が元気を失うような社会の常識や価値観、ひいては社会のシステムまで本来化するように、と心を尽くすのが本当の名医だという意味であろう」 「使徒の働き」の3章には、まず1~10節に生まれつき足の不自由な男が歩いたという病の癒しが記されています。しかしペテロは、その後の説教(11~26節)において病の癒しを強調したのではなく、キリストの十字架の救いについて述べ(13~18節)、「この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださる」(26節)という人の癒しについて語っています。そして彼は、この説教において「あの万物の改まる時」(21節)、言い換えれば「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由に入れられ」る(ローマ8章21節)という国そして全世界や全宇宙の癒しについて述べているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.10.17
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「聖書が教える奇蹟(2)」 2020年10月11日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年9月12日放映「三つの創造」「聖書が教える奇蹟(2)」 甲斐慎一郎 使徒の働き、3章1ー26節 聖書には旧約と新約とを問わず数多くの奇蹟が記されています。特に科学の観点から物事を見る人にとっては、聖書に信じられないような奇蹟が数多く記されているので、それは作り話にすぎず、聖書に書かれていることを決して信じようとはしません。 旧新約聖書に記されている数々の奇蹟を私たちはどのように考えたらよいのでしょうか。 旧約時代においてはモーセとヨシュア、またエリヤとエリシャ、新約時代においてはイエスと弟子たちが奇蹟を行ったので、現代の日本に住んでいる私たちも彼らと全く同じように奇蹟を行うことができるのでしょうか。それとも奇蹟は旧新約聖書の時代だけで、現代においては行われないのでしょうか。これは非常に大切な問題です。そこで「奇蹟」について旧新約聖書全体から考察してみたいと思います。 一、旧新約聖書の中における奇蹟 確かに聖書には多くの奇蹟が記されていますが、よく調べるなら、五つの時代に集中しており、それ以外の時は行われていません。 1.紀元前1440年頃。「モーセとヨシュアの時代」――時代の転換期です 2.紀元前850年頃。「エリヤとエリシャの時代」――危機の時代です 3.紀元前700年頃。「ヒゼキヤの時代」――危機の時代です。 4.紀元前550年頃。「ダニエルの時代」――危機の時代です。 5.紀元後30年頃。「イエスと弟子たちの時代」――時代の転換期です。 このように聖書における奇蹟は、「時代の転換期」や「危機の時代」にのみ行われたのであり、決して無秩序に、またのべつ幕無しに行われたのではありません。 二、奇蹟の真意と目的について 1.旧約時代の奇蹟 「旧約時代は、神も神の助けも、また多くの霊的な事実もすべて目に見える形をもったものとして現された時代です。……エリシャの働きにおける奇蹟的な要素の真意と目的は、主がともにおられることとその大能の力をイスラエルに悟らせ、そしてこのような宗教的な復興によって、切迫している国民的な刑罰を免れさせようとしていることを示しているのです」(A・イーダーシャイム)。 これはモーセとヨシュア、ヒゼキヤとダニエルの時代も同じであり、神は周囲の異邦人にもこのことを示されたのです。 2.キリスト在世当時の奇蹟 イエスは、水をぶどう酒に変えられた時、ヨハネは、「このことを最初のしるし(欄外の訳は、証拠としての奇蹟)としてガリラヤのカナで行い」と記しています(ヨハネ2章12節)。イエスの奇蹟は、ご自身が神であり、メシヤである証拠として行われたのです。 イエスは悪魔の誘惑に負けて石をパンにするような奇蹟は行われませんでした(マタイ4章4節)。かえって五千人の給食の奇蹟を行われた後、「人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って」退かれただけでなく(ヨハネ6章15節)、「いのちのパンの説教」をして、ご自分がメシヤであり、人はメシヤを信じるならば、永遠に生きることができるという霊的な救いと真理を語られました(同6章35ー58節)。 3.「使徒の働き」における奇蹟 ペテロは、イエスの御名によって生まれつき足の不自由な男を歩かせました(使徒3章6ー8節)。この男が歩いたり、はねたりしたことは、「見る目のある人々には、メシヤの時代が来たことのしるしであった。なぜなら、メシヤの時代とは、古くから言われているように、『そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる』(イザヤ35章6節、新共同訳)時代であるからである。さきにイエス御自身の力あるみわざが暗示した事柄が、今や弟子たちの行ったこの力あるわざによって確証された。それは、イエスはまさしく主でありメシヤである、ということである」(F・F・ブルース著『使徒行伝』95頁)。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.10.10
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「聖書が教える奇蹟(1)」 2020年10月4日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年7月24日放映「神の恥と人の恥」「聖書が教える奇蹟(1)」 甲斐慎一郎 使徒の働き17章24ー28節 「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません」(27節)。 一、人が真理を探究することについて 人が生きるためには、いわゆる「衣食住」が必要です。しかし、もし人が衣食住のためだけに生きているなら、人間以外の動物と少しも変わりません。人の人たるゆえんは「真理とは何か」、「人は、どのように生きるべきなのか」ということを考え、それを探究して生きるところにあるのではないでしょうか。このような人間の営みが、教育や科学であり、また倫理や道徳、そして哲学や宗教(異教)です。これらは、上の図のように現実の世界から究極の真理に向かって限りなく近づく赤色の矢印として表すことができます。 この「人が真理を探究する」営みというのは、非常に大切なものですが、「科学の教科書は絶えず書き変えられる」ということばに代表されるように、これは、究極の真理に到達するまでの「部分的な真理」であり、「絶対的な真理」ではないという限界のあるものであることを決して忘れてはならないのです。 二、神が真理を啓示されることについて これに対して聖書は、人の探究ではわからない神と神に関する究極の真理を、神のほうから私たちに明らかに教え示しています。これが「神の啓示」です。これは上の図のように、究極の真理から現実の世界に向かっている青色の矢印として表すことができます。 「人は、どのように生きるべきなのか」ということについては、究極の真理に到達するまでの部分的な真理を教える「人の探求」では間に合わず、絶対的な真理を教える「神の啓示」がどうしても必要ではないでしょうか。聖書こそ「神の啓示」の書です。それは、神が「究極の真理」を時間と空間を超越して、一足飛びに私たちに示されたものです。 三、科学の発明でさえ、それが発明される前の人々には、信じられない奇蹟です 聖書には、神の啓示が記されています。神の啓示は、人の探求ではわからない神と神に関する究極の真理を、神が時空を超越して一足飛びに私たちに示されたものです。 ですから神の啓示されたことは、時間と空間に拘束されている人間には、全く不思議で信じられないものばかりです。しかし科学や文明が発達し、人間が発見し、発明した文明の利器でさえも、それが発明される前の人々には、全く不思議で信じられない奇蹟であると思うのではないでしょうか。たとえば江戸時代に、薩摩藩の西郷隆盛は、江戸から薩摩まで行くのに50日かかったということですが、約1500キロメートルの道程を50日かけなければ、薩摩の人と話すことはできませんでした。今は東京―鹿児島間は、新幹線に乗れば6時間40分、飛行機に乗れば、1時間50分で着きます。 電話やテレビを全く知らない昔の人々に対して、電話は地球の反対側に住んでいる人とも話をすることができるもので、テレビは彼らの姿をカラーで動く写真として見ることができ、電子メールを送信すれば、数秒で文章も写真も送ることができ、テレビ電話を使えば、鹿児島の人と、顔を見ながら会話をすることができ、衛星放送のテレビを放映すれば、一瞬のうちに全世界の人々に映像を見せることができると説明しても、彼らは全く不思議で信じられない奇蹟であると思うのではないでしょうか。 まして21世紀の科学の発明よりも、はるかに高度な「究極の真理」が時空を超越して一足飛びに啓示されるなら、それが信じられない奇蹟であると思うのも当然ではないでしょうか。ですから天地の創造をはじめ、永遠のいのちや復活また奇蹟等、人間の理性では考えられないような不思議なことが聖書に書かれています。聖書は、創世記の1章から、「神の啓示」が記されているのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.10.03
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