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「罪の許しと罪の赦し」 2020年8月30日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2013年5月22日放映「真の生きがい」「罪の許しと罪の赦し」 甲斐慎一郎 詩篇130篇3、4節 「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」(詩篇130篇3、4節)。 この言葉から「罪の許し」と「罪の赦し」について学んでみましょう。 一、罪の許しと罪の赦しの違い 「罪のゆるし」という言葉は、日本語において、「罪の許し」と「罪の赦し」という二つがあります。この言葉の意味を正しく解釈するならば、「許し」というのは、「許可すること、承認すること(permission)」であり、「赦し」というのは、「容赦すること、赦免すること(forgiveness)」で、全く異なったものです。 日本語の漢字は、「赦し」という言葉が難しいので、「許し」という言葉を代わりに用いていますが、本来は、全く違う意味の言葉ですから、混同せずに、明確に区別しなければなりません。そうしなければ、許可してはならない罪を許したり、反対に赦免しなければならない罪を赦さないという過ちに陥ってしまうことでしょう。 二、罪を許されない神のきびしさ 詩篇の著者は、「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう」と述べています(3節)。これをパウロが述べている「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(ローマ11章22節)ということばに当てはめるなら、罪に対する「神のきびしさ」です。 神は、どのような小さな罪でも決して許される(許可される)方ではありません。もし罪を許可するなら、神は、義なる方でも、聖なる方でもないことになります。神は、義なる方、聖なる方ですから、決して罪を許す、すなわち許可されることはないのです。 三、罪を赦される神のいつくしみ 詩篇の著者は、「しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」と述べています(4節)。これをパウロが述べている「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを」(ローマ11章22節)ということばに当てはめるなら、罪に対する「神のいつくしみ」です。 神はどのような大きな罪でも、私たちが罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、赦される(赦免される)方です。これは神がいつくしみ深い方だからです。私たちは神のいつくしみと神のきびしさが一つに溶け合ったキリストの十字架のゆえに、罪を赦されて救われることができるのです。 四、他の人に対する「罪の許し」と「罪の赦し」 神は、どのような小さな罪でも決して許されない、すなわち許可されない方ですが、私たちが罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、どのような大きな罪でも赦される、すなわち赦免される方です。 ですから私たちは、他の人の罪に対して、その罪は決して許さない、すなわち許可してはなりませんが、「神がキリストにおいて私たちを赦してくださったように、互いに赦し合」うことが必要です(エペソ5章32節)。 しかし私たちが、これとは反対のこと、すなわち許可してはならない人の罪を許したり、赦免しなければならない人の罪を赦さなければ、神との正しい関係を持つことも、正しい人間関係を保つこともできず、過ちと混乱を避けることはできないでしょう。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.08.29
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「神の自由と人の自由」 2020年8月23日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年11月29日放映「日々新たにされる内なる人」 「神の自由と人の自由」 甲斐慎一郎 ガラテヤ人への手紙、5章1、13節 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました」(1節)。 「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(13節)。 この御言葉の前半には神が私たちに与えてくださる自由について、後半には人がその自由を濫用してはならないことについて記されています。そこで、神の自由とは「神が与えてくださる自由」、人の自由とは「人が求める自由」として考え、特に両者は、どのような違いがあるのかということについて聖書から学んでみましょう。 一、人が求める自由について 人類の歴史は、不自由な社会にあって自由を求め続けた歴史です。人が求める自由の代表的なものは基本的人権です。日本国憲法では、次のような自由が保障されています。▽奴隷的な拘束・苦役からの自由(18条)▽思想と良心の自由(18条)▽信教の自由(20条)▽集会・結社・表現の自由(21条)▽居住・移転・職業選択の自由(22条)▽学問の自由(23条)▽生命の自由(31条)▽身体の自由(34条) 民主主義が確立した国は、基本的人権を獲得することができました。しかし生まれながらの人間は、この基本的人権だけでは飽き足らず、次のような自由を求めるだけでなく、そのように振舞っています。1.自らの欲望のままに振る舞う自由。2.他の人のことなど考えず、わがままに振る舞う自由。3.誰にも干渉されず、放って置かれる自由。 しかし、これらはみな、間違った自由ではないでしょうか。 二、神が与えてくださる自由について 神が与えてくださる自由は、どのようなものでしょうか。新約聖書の原語であるギリシャ語には、日本語で「自由」と訳される言葉が三種類ほどあり、その言葉の意味は、それぞれ次の通りです。1.奴隷として束縛されないこと(1節)2.赦免されること(ルカ4章18節)3.行動する権利(第一コリント8章9節) これらのことから神が与えてくださる真の自由とは、次のようなものです。 ▽罪の奴隷となって罪に束縛されていた人が、罪から解放されることこそ真の自由です(ローマ6章17、18節)。 ▽永遠の死という刑罰を免れ、罪を赦されることこそ真の自由です(同8章1、2節)。 ▽善も悪も支配する力を持つことこそ真の自由です。なぜなら「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行って」(同7章19節)しまうことほど不自由なことはないからです。 三、自由の教訓について この神が与えてくださる自由と人が求める自由には、次のような違いがあります。 ▽神が与えてくださる自由――私たちを内側から束縛する罪から解放されることです。 ▽人が求める自由――私たちを外側から束縛する法から解放されることです。 「法」とは、「おきて」とか「定め」、また「きまり」とか「規則」のことですが、この「法」には「正しい法」と「間違った法」があります。人を外側から拘束する間違った法から解放されることは、基本的人権を獲得する正しいことですが、人を外側から規制する正しい法から解放されることは、間違った自由を求める罪です。 これに対して神が与えてくださる自由は、私たちを内側から束縛する罪から解放されることであり、これこそ十字架の贖いによるキリストの救いです。 私たちは、私たちを内側から束縛する罪から解放されて、「自分のしたいと思う善を行」い、「したくない悪を行」わない(ローマ7章19節)自由を持っているでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.08.22
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「神の奴隷と罪の奴隷」 2020年8月16日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年11月17日放映「かけがえのない人生」「神の奴隷と罪の奴隷」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、7章22、23節 「自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。あなたがたは代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(22、23節)。 この御言葉の前半にはキリストに属する奴隷、すなわち神の奴隷について、後半には人間の奴隷について記されています。そこで、「キリストに属する奴隷」とは、どのようなことなのか、また「人間の奴隷となってはいけません」とは、どのような意味なのかということについて聖書から学んでみましょう。 一、三種類の奴隷について 聖書は、奴隷について次のような三種類の奴隷がいることを教えています。 1.強制的(または義務的)な奴隷 これは、文字通りの奴隷のことで、経済的に、または身分や立場の上で拘束され、自由がない状態のことです。 2.精神的(または霊的)な奴隷 これは、経済的、また身分や立場の上では自由ですが、その心が、ある人間やある物事の「虜(とりこ)」になっている状態です。これには、神に心を奪われている良い場合と、「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」という悪い場合とがあります(ヨハネ8章34節)。パウロは、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから……しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」と述べています(ガラテヤ5章1節)。 3.自発的な奴隷 これは、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました」とあるように(第一コリント9章19節)、完全に自由な者が、人々をキリストの救いに導くために、また愛のゆえに、自発的に人に仕えて奴隷となることです。 私たちは、一口に奴隷と言っても、三種類の奴隷がいることを知っているでしょうか 二、人の奴隷について ここでパウロが「人間の奴隷となってはいけません」(23節)と述べているのは、三種類の奴隷の中で、どれでしょうか。 パウロは、第一番目の奴隷制度を決して承認していませんが、いつかは無くなる時代が来ることを信じて、神の御手にゆだね、その廃止を訴えるような表立った政治運動はしていません。もちろん第三番目の自発的な奴隷を禁止しているのでもないことは、言うまでもありません。 パウロがここで述べているのは、第二番目の精神的な奴隷のことです。これには様々なものがありますが、代表的なものだけ述べるなら、次のような三つです。 1.人を恐れる――私たちは、恐れている人の顔色をうかがったり、ご機嫌をとったりして、その人の言いなりになります。 2.人に甘える――甘えは、相手の好意を失うことを最も恐れるものですから、やはりその人の言うとおりになります。 3.人を憎む――私たちは、憎んでいる人のことが絶えず気にかかり、様々なことにおいて、その人に振り回されてしまいます。 これらはみな、精神的に人間の奴隷になっていることなのです。 三、神の奴隷について なぜ私たちは、人間の奴隷となってはいけないのでしょうか。それは、罪の奴隷となっていた私たちは、キリストの尊い血という代価をもって買い戻され(すなわち贖われ)、新しい主人である神の奴隷とされたからです。 神の奴隷には、三つの特徴があります。 1.義務的な奴隷――代価をもって買われた私たちは、神に仕える義務があります。 2.精神的な奴隷――しかし私たちが神に仕えるのは、義務からではなく、あまりにもすばらしい神の愛に心を奪われるからです。 3.自発的な奴隷――その結果、私たちは、愛のゆえに自発的に人に仕えていくのです。 そして私たちは、この神の奴隷になることによってのみ、罪から解放され、人間の奴隷となることからも解放されるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.08.15
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「肉の思いと御霊による思い」 2020年8月9日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年9月13日放映「真の信仰を持つ秘訣」「肉の思いと御霊による思い」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、8章1~9節 この箇所には鋭く対立している二つのことば、すなわち「肉」ということばが九回(3~9節)、「御霊」ということばが八回(2、4~6、9節)も記されています。 この箇所における「肉」とは、神に逆らう罪の原理のことです。「御霊」は、父、御子、御霊という三位一体の神の第三位格です。 パウロは、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」と教えています(6節)。「肉の思い」とは何でしょうか。「御霊による思い」とは何でしょうか。 時間と空間と本性という三つの観点から次のような三つにまとめることができます。 一、刹那的な思いと永遠への思い――時間という観点から考える思い 私たちは、時の流れの中で生きているので、自分は、いつまで生きるのだろうかということを考えざるを得ません。聖書には、人生の時に関して二つの思いが記されています。 一つは、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」(第一コリント15章32節)ということばです。これは、死ねば、すべてが終わりなので、生きている間に精一杯、楽しもうという刹那的な思いですが、これこそ「肉の思い」です。 もう一つは、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道者3章11節、口語訳、文語訳)ということばです。これは、人生は、死で終わるのではなく、永遠に生きる者として造られたという永遠への思いですが、これこそ「御霊による思い」です。 二、地上への思いと天への思い――空間という観点から考える思い 私たちは、宇宙という空間の中で生きているので、自分は、どのような所や場所で生きるのだろうかということを考えざるを得ません。聖書には人が生きる場所に関して二つの思いが記されています。 一つは、「彼らの思いは地上のことだけです」(ピリピ3章19節)ということばです。これは、ただ地上のことだけを思うことですが、これこそ「肉の思い」です。 もう一つは「地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3章2節)ということばです。これは天にあるもの、また天上の世界を思うことですが、これこそ「御霊による思い」です。 三、人への思いと神への思い――本性という観点から考える思い キリストは、ご自分の十字架の死と復活を予告されましたが、そのことをいさめたペテロに、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16章23節)と厳しく叱責されました。 私たちは、どのような時に、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ことになるのでしょうか。 私たちは、人の心を見て常に正しい評価をされる神のことばと、うわべを見るために常に正しい評価をするとは限らない人のことばのどちらを重んじるでしょうか。もし私たちが神のことばを差し置いて、人のことばばかり気にしているなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 私たちは、罪を悔い改めて、キリストの十字架による贖いを信じて神から栄光を受ける神の救いと、ただ人間の努力によって人から栄光を受ける人の救いのどちらを信じるでしょうか。もし私たちが、神が与えてくださる十字架による救いを退けて、人の栄光を受けることを考えているなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 私たちは、神の意志と自分の意志が対立した場合、いのちに至る神の意志と、死に至る自分の意志のどちらを選ぶでしょうか。もし私たちが神の意志を退けて、自分の意志を通すことを考えているなら、それは神のことを思わないで、人のことを思っているのです。 このような三つのことにおいて、人のことを思うことこそ「肉の思い」であり、神のことを思うことこそ「御霊による思い」です。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.08.08
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「神の歓心と人の歓心」 2020年8月2日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年9月4日「生物が生きるために必要な創造の六日間」「神の歓心と人の歓心」 甲斐慎一郎 ガラテヤ人への手紙、1章1~10節 「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」(10節)。 このみことばには、神を喜ばせることと人を喜ばせることについて記されています。この箇所において人を喜ばせるということの第一義的な意味は、聖書が教えている「信仰による救い」を語るか、それともユダヤ主義の教師たちが教えている「律法による救い」を語るかという教えに関するものです。 しかしここでは一般的に、なぜ「人を喜ばせようとしてではなく……神を喜ばせようとし」(第一テサロニケ2章4節)なければならないかということについて考えてみましょう。 一、人を喜ばせる(人の歓心を買う)こと 人の歓心を買おうとしたり、人に取り入ろうとしたりすることは、なぜいけないのでしょうか。 1.人の罪深い要求に応えることになるからです 罪人は、「健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ」る者です(第二テモテ4章3、4節)。ですから罪人の要求に応えて人を喜ばせるなら、私たちは神に背くことになります。 2.人の好みに合わせることになるからです 好みとは、相手や対象物に対する客観的な価値判断ではなく、道徳的な善悪とは関係のない好き嫌いです。人は、自分の好みに合ったものを喜びますが、その好みは人によってみな違うので、私たちは、人の好みに合わせるなら、不公平になるだけでなく、人を差別したり、偏愛したりすることになります。 3.人の前で生きることになるからです 「私たちの心をお調べになる神」(第一テサロニケ2章4節)を忘れて、人を喜ばせようとするなら、私たちは、ただ人の前に生きる者になります。このような人は、人目のない隠れた所において何をするか分からず、また人を喜ばせることにかこつけて、自分を喜ばせる偽善者になってしまうでしょう。 二、神を喜ばせる(神の歓心を買う)こと それでは、なぜ神のみこころにかない、神を喜ばせることが必要なのでしょうか。 1.神の正しくて、聖い要求に応えることになるからです 神は、決して悪を喜ばず、常に正しく、聖いことを喜ばれる方です。ですから私たちは、神を喜ばせようとする時にのみ、神のように「義を愛し、不正を憎」者になることができるのです(ヘブル1章9節)。 2.真理に歩むことになるからです 私たちは、神を喜ばせようとする時にのみ、自分の好みによって人を差別したり、偏愛したりすることなく、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知」り(ローマ12章2節)、「真理に歩」むことができるのです(第三ヨハネ3、4)。 3.神の前で生きることになるからです 神を喜ばせようとすることは、人目があってもなくても真理に歩むことであり、それは「隠れた所で見ておられる」神(マタイ6章4、6、18節)の前に生きることです。 主は、「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」(ヨハネ5章44節)と、ただ人の歓心を買おうとするなら、信じることはできないと教えられました。 それでは、神を喜ばせるなら、人のことなどどうでもよいのでしょうか。そうではありません。私たちは、心から神を喜ばせようとするなら、神のみこころにかなうので、人々の正しい要求に応えることができますが、ただ人を喜ばせようとするなら、神のみこころにかなわないので、人々の正しい要求に応えることができないのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.08.01
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