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「時空を超越した神の救い」 2020年4月26日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年7月8日放映「人類の古い始祖と新しい始祖」 「時空を超越した神の救い」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、5章12~21節 「キリストは、私たちの罪のために死んでくださったので、このキリストの贖いを信じる者は、だれでも罪から救われます」というのが福音です。しかしキリストの十字架の死は、今から2000年も前にエルサレムで起きた出来事です。それがどうして全時代の、そして全世界の人たちのためなのでしょうか。なぜキリストの救いは、時空を超越したものなのでしょうか。 一、アダムの堕罪と死の支配 パウロは、キリストの贖罪による恵みが時間と空間を超越して全人類に及ぶというすばらしい事実を示すために、アダムの堕罪によって生じた罪とその結果である死が、時空を超越して全人類に及んでいるという厳粛な事実を述べています(12節)。 赤線の三角形は、人類の古い始祖であるアダムを頂点とし、そのアダムの堕罪によって世界に死がはいり、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。聖書は、アダムが罪を犯した時、すべての人は、彼の「腰の中にいた」(ヘブル7章10節)、すなわち彼の支配下にあったと教えています。 ヒトゲノム計画は、全世界の人々のDNAを調べ、ヒトゲノム(人の遺伝情報全体)のすべての配列を完成させました。ベンター博士と国立衛生研究所の科学者たちは、満場一致で「人種は、ただ一つしかない」と宣言しました。換言すれば、すべての人はアダムの「腰の中にいた」、すなわち彼の支配下にあったことが現代の科学で証明されたのです。 二、キリストの贖罪といのちの支配 青線の三角形は、人類の新しい始祖であるキリストを頂点とし、そのキリストの贖罪によって世界にいのちが与えられ、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類という底辺に及んだことを表しています。 パウロは、人類の新しい始祖であるキリストとキリストのひな型(模型)であるアダム(14節)とを比較して、「本物に対してひな型(模型)であるアダムの堕罪は、世界に死をもたらし、その死があらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に及んでいるのです。とすれば、なおのこと、人類の新しい始祖であるキリストの贖罪は、どうして世界にいのちを与え、そのいのちがあらゆる人を支配して、代々にわたる全人類に満ちあふれないわけがあるでしょうか」とキリストとそのいのちの優越性を述べています(15、17節)。 DNA(遺伝情報)は、いのちの設計図(情報)、また生きているいのちであり、新しいいのちを形造り(複製し)ます。パウロは「私のうちに啓示(神の情報)」されるキリスト(ガラテヤ1章12、16節)と「私のうちに生きておられる」キリスト(同2章20節)と私の「うちに……形造られる」キリスト(同4章19節)について述べています。 聖書は、「血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった』と書いてありますが、最後のアダム(キリスト)は、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人(アダム)は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人(キリスト)は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです」と教えています(第一コリント15章44~49節)。 これをDNAという言葉を用いて言い表すなら、次のように言うことができます。 アダムには肉(肉体、人間性、罪の原理)のDNAがあり、全人類は死の支配下にありますが、キリストには霊(御霊)のDNAがあり、キリストの贖いを信じるすべての人は、いのちの支配下にあるのです。「アダムはきたるべき方(キリスト)のひな型」(14節)であるように、「アダムの肉(肉体、人間性、罪の原理)のDNAは、キリストの霊(御霊)のDNAのひな型」です。 三、死の支配からいのちの支配への移行 すべての人はアダムの子孫として生まれるので(第一の誕生)、彼の堕罪による死の支配からのがれることはできませんが、だれでも罪を悔い改め、キリストを信じて新しく生まれるなら(第二の誕生)、主の贖罪によるいのちの支配下にはいることができるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.04.25
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「聖なる神に近づく道」 2020年4月19日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年5月11日放映「神の謙遜と人の謙遜」「聖なる神に近づく道」 甲斐慎一郎 レビ記1~10章 主は完成した会見の天幕にお住みになり、その天幕からモーセを呼び寄せ、彼に告げて仰せられました。この時、主の仰せられたことが記されているのが「レビ記」です。ロバート・リーは、「レビ記は、贖われた民のために書かれたものであって、どのようにすれば神に近づき、神を礼拝することができるかを示したものである」と述べています。 一、聖なる神に近づく道――幕屋において祭司がいけにえをささげる(1~10章) エジプトにおいて奴隷であったイスラエル人は、過越の子羊の血によって贖われましたが、彼らが聖い神に近づき、神を礼拝するためには、次のような三つのことが必要です。 まず主は、モーセを通してイスラエルの民に、幕屋を造るように命じられました。モーセと民は、主が命じられた通りに幕屋を建てました(出エジプト25~40章)。 次に主は、ささげ物をささげるように仰せられました。これには任意的なものと義務的なものがあります。前者は、「全焼のいけにえ」と「穀物のささげ物」と「和解のいけにえ」です(レビ記1~3章)。後者には「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいけにえ」があり(同4、5章)、その血は祭壇に注がれました。なぜなら、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです(ヘブル9章22節)。 そして主は、アロンとその子らを祭司職に任命されました(レビ記8章)。祭司は「罪のために、ささげ物といけにえとをささげるため」、「神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けた」人です(ヘブル5章1節)。アロンは祭司の職務を忠実に遂行しましたが(レビ記9章)、その子のナダブとアビフは、異なった火を主の前にささげたので、焼き殺されました(同10章)。これは、祭司職の神聖さを教えるためです。 二、聖なる神に近づく道――幕屋と大祭司といけにえであられるキリスト このようにイスラエルの民が聖い神に近づき、神を礼拝するためには、幕屋において祭司がいけにえをささげることが必要でした。 キリストは、幕屋の垂れ幕とし私たちの罪のためにご自身を裂かれ、悪も汚れもない聖い大祭司となるとともに、傷のないご自身を永遠のいけにえとしてささげられました。これが地上におけるキリストの十字架です。 三、聖なる神に近づく道――天にある真の幕屋と大祭司といけにえであられるキリスト 「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(同9章11、12節)。 このようにして「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができ」ます。なぜなら「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださった」からです(同10章19、20節)。 「まことの聖所にはいる」というのは、天の御国にはいることですが、それはまた私たちが聖なる神に近づき、神を礼拝することを象徴的に表しています。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「聖書の中心的な教え」
2020.04.18
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「罪を贖う主の十字架と復活」 2020年4月12日 インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2017年7月25日放映「罪を贖う主の十字架と復活」「罪を贖う主の十字架と復活」 甲斐愼一郎 第一コリント15章17節 「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(17節)。 一、主の十字架の意味するもの 「キリストは……自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」が(第一ペテロ2章24節)、それは、私たちの罪を贖うためです。「贖い」という言葉の原語は、「身代金の支払いにより解放する」という意味です(ギリシャ語辞典)。 アダムの堕罪によって、「私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です」(ローマ7章14節)。言い換えれば「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8章34節)。しかし神は、御子を遣わし、十字架につけることによって罪の奴隷であった私たちを贖ってくださいました、すなわち身代金の支払いにより私たちを罪の奴隷から解放し、私たちは新しい主人である神のものとされました。 このことをパウロは、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(第一コリント6章20節)、「聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させる」(使徒20章28節)と記しています。ペテロは、「あなたがたが……贖い出されたのは……キリストの、尊い血によったのです」(第一ペテロ1章18、19節)、「自分たちを買い取ってくだった主」(第二ペテロ2章1節)と述べています。 二、もし主が復活されず、十字架の死が身代わりの死であるなら、それは冤罪です 聖歌の156番2節には「イェスの十字架の上に仰ぐ、身代わりとなりし神の御子を、心は打たれて言葉もなく、その愛のゆえに、ただひれ伏す」と賛美し「身代わり」という言葉が記されています。 しかし十字架の死について聖書は、「身代わり」という言葉を用いず、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」(第一ペテロ2章24節)と記しています。 「身代わり」という言葉は、国語の辞書には「先生・主人・友人・仲間などに代わって、その人のしようとしたことをすること」と記されています(三省堂、新明解国語辞典)。 確かに十字架の死は、主が私たちの罪をその身に負われ、私たちの罪のために打たれたので、聖歌の歌詞のように「身代わりの死」であると解釈されたのでしょう。 しかし主の十字架の死が「身代わりの死」であるなら、法律的、人道的に大きな問題があります。たとえば、ある人が殺人の罪を犯した時、その人を心から愛している父や母、夫や妻または子どもがその人の身代わりとなって、自首し、死刑になったら、どうでしょうか。確かにその人は、罪に問われず、死刑を免れますが、それで良いのでしょうか。これは、罪を犯した人が逮捕されず、罪を犯していない人が逮捕されるという「冤罪」です。義なる神が冤罪によって人を罪から救われるということなど決してされません。 三、主の復活は、十字架の死によって永遠の贖いが成し遂げられた証しです 主は、「人の子が来たのも……多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10章45節)と仰せられ、ヘブル人への手紙の記者は「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9章12節)と記し、ペテロは、「キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて」(第一ペテロ1章3節)と述べています。 主が十字架の死の後、3日目に復活されたのは、十字架の死が恐ろしい「冤罪」をもたらす「身代わりの死」ではなく、身代金の支払いによって私たちを罪の奴隷から解放し、私たちが新しい主人である神のものとされ、そして「贖いの代価として」神のいのちが与えられ(マルコ10章45節)、「新しく生まれ」る(第一ペテロ1章3節)という「永遠の贖い」が「成し遂げられた」(ヘブル9章12節)ことを教える確かな証しなのです。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「神のご計画の全体」
2020.04.11
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「神の恥と人の恥」 2020年4月5日インターネットのテレビ局CGNTV(⇒みことばに聞く⇒関東⇒東京B)の番組に当教会の牧師が出演しました。2018年1月18日放映「宇宙の設計図である神の数式」「神の恥と人の恥」 甲斐愼一郎 ヘブル人への手紙、12章1~4節 「彼は……恥をもいとわないで十字架を忍び」(2節、口語訳)。 「彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです」(ピリピ三章19節)。 この前半のみことばはキリストの恥、すなわち神の恥について、後半のみことばは人の恥について記しています。そこで神の恥と人の恥について聖書から学んでみましょう。 一、人の恥について アメリカの女流文化人類学者のルース・ベネディクトが西洋は、「罪の文化」であり、日本は「恥の文化」であると指摘して以来、西洋人は罪意識が強く、日本人は恥意識が強いと言われてきました。それは裏を返せば、西洋人は恥意識が薄く、日本人は罪意識が薄いということではないでしょうか。 しかし聖なる神の前においては、恥意識の薄い罪意識も、罪意識の薄い恥意識もおかしなものではないでしょうか。なぜなら恥には次のような三つの面があるからです。▽自らの欠陥と誤りを認めて恥じること。▽人から非難と叱責を受けて恥じること。▽神から非難と叱責を受けて恥じること。 すなわちこの三つのうち一つでもあるなら、それは私たちにとって恥になるのです。 ですから恥を受けないためには、この三つのすべてに恥じるところのない者とならなければなりません。しかしそのような人がどこにいるでしょうか。ひとりもいません。 罪人は、恥を恥とも思わないで振る舞うだけでなく、「己が恥を光栄」(ピリピ3章19節、文語訳)とするのです。1.罪を恥じず、自分の恥を光栄とする者。2.正しいこと、聖いこと、真実なことを恥じる者。3.地獄において永遠の恥を受ける者。 これが聖書の教えている罪人の姿です。 二、神の恥について これに対してキリストの恥とは、どのようなものでしょうか。先に述べた恥の三つの面に当てはめて考えるなら、次のように言うことができるでしょう。 1.キリストは「傷もなく汚れもない小羊のような」方です(第一ペテロ1章19節)。 2.しかしキリストは、人々から「ののしられ……苦しめられて」(同2章23節)、「罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方」(3節)であると聖書は教えています。 3.しかもキリストは「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と、神からも捨てられたのです。何と恐れ多いことでしょうか。 キリストは、恥じるところは全くない方です。しかし私たちを罪から救うために、十字架の上で私たちの罪をその身に負われ、私たちの代わりに恥を受けてくださったのです。 三、私たちの救いについて 恥を恥とも思わない罪深い私たちのために、恥を受けてくださったキリストに対して私たちは、いったいどうすればよいのでしょうか。 まず罪を恥じることです。恥じるとは、無益であるだけでなく、有害なものとして、卑しめ、軽蔑することです。 次に福音を恥じないことです(ローマ1章16節)。恥じないとは、無害であるだけでなく、有益なものとして、尊び、誇ることです。私たちを罪から救うことができる福音をどうして恥じることができるでしょうか。 このような人こそ、「恥辱を蒙りて限りなくはずる」(ダニエル12章2節、文語訳)ことなく、罪から救われて永遠のいのちを持つことができるのです。1.私たちを滅びに陥れる罪を恥じる者。2.私たちを罪から救う福音を恥じない者。3.地獄において永遠の恥を受けない者。 これこそ聖書が教えているキリスト者の姿です。甲斐慎一郎の著書→説教集久米小百合氏司会「本の旅」→「使徒パウロの生涯」
2020.04.04
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