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2012.09.23
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カテゴリ: 明治期・耽美主義

『武洲公秘話』谷崎潤一郎(中公文庫)

 鼻、というものは、確かに、その様に指摘されてみれば、少々不思議なモノですね。
 芥川龍之介の小説『鼻』は、漱石が絶賛し、彼の文壇への華々しいデビューとなった作品ですが、説話に依拠した作品ながら、鼻に着目しているのは、芥川、やはり鋭いと言えば鋭い気がします。鼻には、他の人体臓器にはない、批判精神を伴う不思議な存在感があります。

 むかーし読んだきりですから、どんな内容だったかよく覚えていないのですが、ゴーゴリーにやはり『鼻』という短編小説がありましたね。
 確か、鼻の欠落がもたらす不思議な効果をビターなユーモアで描いた、カフカ張りの不条理小説だったように覚えています。

 これも、鼻、顔面の中央にあって、容貌美醜の大事な決定要素ながら、変にニヒリスティックでユーモラスで、そしてひょっとすれば少々エロティックな気さえするもの、それはきっと、肉体内部に深く繋がっていく下向きに穿たれた二つの穴のせいでしょうか。

 さて本編には、この「鼻の欠落」が大きなテーマとなって描かれていますが、もちろんそこにはやはり谷崎的な処理が施されています。

「鼻が欠落した男←→加虐的な高貴な女性」

というパターンであります。こう書くと、なるほどいかにも谷崎的になってきますね。

 本作は、昭和6年7年に探偵小説雑誌『新青年』に連載されていますが、この昭和6年前後というのは、谷崎潤一郎の絶好調の時期であります。
 大正の末から『痴人の愛』『蓼食ふ虫』『卍』と力作が続き、昭和6年『吉野葛』『盲目物語』、昭和7年『蘆刈』そして、昭和8年には谷崎の最高傑作(ということは、近代日本文学史上の最高傑作の一つ)『春琴抄』が発表されます。

 この時期の谷崎というのは、何といいますか、向かうところ敵なしというか、千切っては投げ千切っては投げ、というなんかよく分からない表現ですが(すみません)、イメージ的にはそんな感じの、とんでもなく素晴らしい時期であります。

 だから、この名作の森のような中で、大衆小説雑誌に書かれた本作においても、とても見事な描写と展開がなされています。例えばこんな部分。

(略)法師丸は、その美女の前に置かれてある首の境涯が羨ましかった。彼は首に嫉妬を感じた。ここで重要なのは、その嫉妬の性質、羨ましいと云う意味は、此の女に髪を結って貰ったり、月代を剃って貰ったり、あの残酷な微笑を含んだ眼でじっと視つめて貰ったりする、そのことだけが羨ましいのでなく、殺されて、首になって、醜い、苦しげな表情を浮かべて、そうして彼女の手に扱われたいのであった。首になることが欠くべからざる条件であった。生きて彼女の傍にいると云う想像は一向楽しくなかったが、もしも自分があのような首になって、あの女の魅力の前に引き据えられたら、どんなに幸福だか知れない。――と、そんな気がしたと云うのである。

 こんな素晴らしい描写と説明が随所に見られるのですが、冒頭の「鼻」と関係してくるのが「女首」と呼ばれる存在で、それは鼻をそぎ取られた首のことであります。

 私はその部分を読んで、これもずっっと昔読んだ白土三平の『カムイ伝』の中に、鼻をそぎ落とされた男の絵があったのを思い出しました。
 確か、拷問か何かで鼻をそがれ、その跡には、木のへらの様なものをあてがっていた顔の絵でした。

 私はなぜこんな絵を、覚えていたのでしょうか。
 それは思うに、そもそも鼻をそぎ落とされるというイメージの中に、激しい恐怖と一種エロティックな感覚が、つまりは、いかにも谷崎的な嗜好の源泉があったからだと思います。
 谷崎潤一郎は上記の文の後、さらにこう続けています。

少年(「法師丸」のこと・引用者注)は、此の矛盾に充ちた奇異な空想が脳裏に涌いて、それが自分に無限の快感を与えていることを、自ら驚き、訝しんだのであった。今迄の彼は、自分が心の主であり、心の働きはどうでも思い通りに支配することが出来たのだが、その心の奥底に、全く自分の意力の及ばない別な構造の深い深い井戸のようなものがあって、それが俄かに蓋を開けたのである。彼はその井戸の縁へ手をかけ、まっくらな中を覗いてみて、測り知られぬ深さに怯えた。自分は達者な人間だと信じていた男が、思いがけぬ悪性の病気があることを発見したのと同じような気持ちだった。

 結局の所、この文章の意味するものが自分の中にもあることに気づかない人は、たぶん谷崎潤一郎の作品が理解できない人であり、そしてやはりたぶん、ほとんど文学というものに縁を持たない人であろうと思います。

 だからといって、その人が幸福なのか不幸なのかは全く別物ではありますが、ともかく、大衆小説雑誌に書かれた本作には、思いの外に谷崎自身の生涯の重要なテーマについて、直接的に赤裸々に描かれています。

 さらに加え、名作『春琴抄』と本作はほとんど同様の「語り」の形を取っていますが、本作にはあって『春琴抄』には無いものさえあります。
 それは「ユーモア感覚」であります。

 その理由を、純文学小説と大衆小説の差であると簡単にいってしまっていいものとは思いません。それが証拠に、さらに晩年の谷崎作品には、巧まぬ(巧んだ?)ユーモアが様々なところに見て取れるからです。

 確かに上記引用文中の、「自分の意力の及ばない別な構造の深い深い井戸のようなもの」という表現の意味する深刻さが、純文学作品では追求深化されているゆえかも知れませんが、しかし考えてみれば、そもそも谷崎作品のテーマとは、このシリアスなものを性的快楽に変えてしまおうという、やはりその重みを正面から受け止めるのをそらしたものであったはずです。

 春画のことを「笑い絵」ともいったように、古来、性と笑いは相通じるものであったはずです。
 晩年、谷崎は『武洲公』の続編をぜひとも書きたいと言っていたと聞きます。
 それがもし実現していればと考えると、うーん、実に、実に惜しいものでありますねえ。


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Last updated  2012.09.23 12:20:36コメント(0) | コメントを書く
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シマクマ君 @ Re:思っていたよりも「重く」ない(02/21) 純文さんへ  あたたかいお返事ありがとう…
analog純文 @ Re[1]:思っていたよりも「重く」ない(02/21)  シマクマ君さんへ。  おや、思わぬお方…
シマクマ君 @ Re:思っていたよりも「重く」ない(02/21)  いつも読ませていただいてます。あのせ…
analog純文 @ Re[3]:無理筋仮定を考えてみる(12/28)  七詩さんへ、重ねてのコメントありがと…
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