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神奈川縣立歴史博物館の特別展「仮面絢爛」を觀る。中世の日本では、ホトケの有難さを衆庶へ視覺的によく分からせて廣めるため、地獄に堕ちて鬼の責苦に遭ふ亡者を觀世音菩薩が現れて救ふ筋立ての寸劇がよく行はれ、その際に使用された菩薩の尊顔を象った面や、惡鬼の面が各地の寺院に傳存してゐるが、(※「菩薩面」)現在ではそのほとんどの藝能が廢絶し、遺された面たちはかつて佛法行事が權力者階級の示威行為に利用された時代のあったことを、令和現在(いま)の私たちへその形相の奥から語りかける。さうして寺院藝能から民俗藝能へと變容した假面劇は、やがて舞樂面であった“陵王”が雨乞い神事に転用される例も生まれ、(※舞樂面「陵王」)そのために頭部の獣類がウサギの耳に削り直される例も現れるなど、民衆のしたたかとも云へる應用力を面白く觀る。
2024.10.31

汐留メディアタワー三階のギャラリーウオークで開催中の、「第18回 しおどめ発 世相漫画展」を觀る。共同通信社から配信された世界の出来事のその瞬間を、七人の漫画家が一コマ漫画で斬った展覧會。漫画の基本精神と云ふ諷刺味を効かせた諸作品は、そのまま時代の活きた記録となるもので、特にあらい太朗氏の「ワーオ、カンバンムスメ!」(2024年4月19日付)に共感する。ニッポンの國力低下を象徴する夷人觀光客(ガイジン)の大量流入は、いまや令和の社會公害そのものであり、特に古都におけるそれは、古都人が自ら“敷居”を下げた當然の報ひとは云へ、連中の厚顔無恥ぶりは、それを超えたおぞましさ以外の何ものでもない。上の冩真は、私が今年五月下旬に奈良春日大社の拝殿前で目の當たりにした光景で、これら夷人觀光者たちは参拝をしてゐるのではなく、長い時間ただ詰めかけて駄辯りながら、冩真を撮ってゐるだけであった。まさに日本の神に對する冒瀆であり、自分たちがクニで信仰してゐるカミに對しても同じことが出来るのか、と本氣で憤りを感じたものだった。かうした“外来種”が日本古来の生態系を破壊してゐることは、ニンゲン界においても全く同様であり、つい先日も都内でそれを痛感させる場面に遭遇したばかりである。近代ニッポンは、外貨の獲得によって海外に比肩するクニとなったが、現今の夷人觀光者たちはニッポンにおカネを落として行かない。ただ、ゴミを落としていくだけである。いまの國力では、さうしたゴミを掃除することすら出来ない。……せいぜい、「立ち入り禁止」の看板を立てるくらゐが、關の山なのか。
2024.10.27

茨城縣結城市のダンスイベント「祭りゆうき2024」に“和の踊り”として参加し、現代手猿樂「すゑひろかり」を舞ふ。會場は野外(公園)と屋内(文化ホール)に設けられ、私は屋内に割り振られて、昼前と昼過ぎの二回、舞薹に立つ。一日のうち複数回の演舞が希望できるのはなかなか魅力的だが、私はまぁ、二回が限度だらう。假に三回では、舞ひながら余計なことを考へさうだ。今回の結城旅は、中世關東武士の名門だった結城家の館跡を訪ねることも、目的のひとつ。會場を過ぎ、國道五十號線を渡ると左手に見える木立がその遺跡で、室町時代に現在の結城城趾の地に城が築かれるまで、結城家の本拠地と傳承云々。跡地をぐるりと囲む土塁に沿って向かふ側へ行くと、畑地が静かに廣がり、その光景にしばし惚眺す。もしかしたら今日は、このために来たのではないかとすら思ってゐると、はるか背後の祭り會場から、爆音が微かに聞こゆ。お祭りも敷地を一歩出ればしょせん余所事と、浮世の廣さをただ思ふ。
2024.10.26

東京都文京區の永青文庫にて、細川藤孝(幽齋)へ宛てた織田信長直筆の書状を數多公開した「信長の手紙 珠玉の60通大公開」展を觀る。 細川藤孝から始まる肥後細川家の下屋敷跡に建つ永青文庫にて、信長直筆と判明した書状が令和四年に一通發見されたことにより、全六十通の信長直筆の文書を所藏となった當館がこれら貴重文書を通して、戰國の世に強烈な個性を放った織田信長の素顔の一片を照らし見る、興味深い企画展。誤って逆さまに展示してあってもさうとは氣付かぬであらう無學者の私に筆文字はサッパリだが、“模様”として見ると、グイグイと筆を進めた様子が窺へる雄渾な書体と、丁寧な訳文付きの解説から、究極なところでは孤独であったらう織田信長の姿が浮かんでくる。(※案内チラシより)足利義昭、荒木村重、そして総仕上げが明智光秀と、心許せぬクセ者たちを相手にし、一向に従はない一向宗の「根切(殲滅)」を連呼してゐた信長の唯一頼りにしてゐたのが細川(長岡)藤孝だったと云ふ點からして、すでにこの武将の運命は定まってゐたのではないか。今日の友は明日の敵であり、その逆は無かった亂世の有様、令和現在も全く變はらない。ただ、強烈な牽引力のゐない點だけが、異なるばかりだ。
2024.10.25

大田區立郷土博物館の特別展「矢を放て! ~関東の弓矢、一万年~」を觀る。縄文時代の遺跡から大量に出土する鏃(やじり)から、その頃にはすでに存在してゐたと考へられる弓矢を、前半は出土品をもとに考古學的に、中世以降は武士必携の武器として歴史的に繙いていく、かなり内容量の濃い企画展。主に狩猟道具だったと考へられる古代については、考古學の下地が無い私などには難しかったが、上州高崎の保渡田(ほどた)遺跡から發掘された背中に矢を受けた姿の猪型埴輪の、傷から流血してゐる様を赤い染料で表現までしてゐる藝の細かさには、壱萬年がにわかに最近のことのやうに迫って来るものがあった。現代手猿樂「那須與一」を舞ふにあたりお参りしたことのある大田區中央六丁目の大田神社のご本尊──“那須與一守本尊”も出品されてゐるのはなかなか貴重であり、この場においてしっかり合掌する。この那須與一も参戰した合戰は、私などは「源平合戰」の名稱で認識してゐるが、近年の研究で“源氏對平氏”と單純化できない諸々の歴史が解明されてゐるらしく、現在では一般的にこの時代の年號を取って「治承・壽永の亂」と呼んでゐるとは、いやはや知らなんだ。
2024.10.24

武州新座の蓮光寺で行はれた、「音楽と、おいしい」がテーマの地域イベントのなかで、房州木更津のご當地アイドル“C-Style”のライヴがあるとのことで、行ったことのない土地への小旅行も半ばかねて、ドレドレと行ってみる。自宅軟禁を余儀なくされてゐた人災疫病禍元年、TVのチャンネルをあれこれいじってゐるうちに房州ローカル局のバラエティー番組が映り、司會の元若乃花關の脇にヤンキー姿のお姉チャン二人組がゐて、「なんだ、あのコたちは……!」と思ったのが初見。木更津が活動拠點とあって、そのライヴ風景はたまにネット上で眺めるだけであったが、初見から四年が過ぎた今回、武州新座ならば行けるなァ、とワクワクの實行。南北朝時代の創建と云ふお寺の本堂で、御本尊の前で、なにを歌ってゐるのか聞き取れないほどの爆音に木魚やキンも派手に打ち添へて、これぞ若さ! な元氣を貰ひつつ、プロの仕事と云ふものもしっかり學べた四十五分間。 かういふ樂しい御縁は、いつかまた、必ず訪れますやうに。
2024.10.20

目黒區大橋の上目黒氷川神社で開催された「おかげマルシェ」に参加し、現代手猿樂をつとめる。この催しも十回を數へ、續けることの意味を知ってゐるつもりな者として、なにか祝儀物をと、「猩々」と「すゑひろかり」を選ぶ。「猩々」は現代手猿樂を興して初めて舞薹にのせた曲であり、令和になってからは初めて上演、「すゑひろかり」は原典の狂言のやうに手輕に樂しめるものをと、特に音源の演奏者にはこだはって創った曲。いつも姿を見かけるばかりの神主さんに、今回は初めてご挨拶申し上げることが出来、よいお祝ひをいただいたと、今日の意義を覺ゆ。
2024.10.14

埼玉県坂戸市で開催された「第24回 坂戸よさこい」のなかの「さかカルフェス」に今年も参加し、現代手猿樂「河原左大臣」を舞ふ。會場は大ホールで舞薹寸法も余裕があり──一人参加だから當然だが──、のびのびとつとめられたものの、王朝装束を纏ったいはゆる“頸上(くびかみ)もの”をやるには、客席の空氣がチト違ったかナ、と反省材料を殘す。觀客(ひと)の求めに應じるのが玄人(プロ)、自分の求めに應じるのが素人(アマチュア)、私は望んで後者だが、独り善がりは結局おのれをつまらなくする。さて……。
2024.10.13

池上本門寺の御會式──日蓮さんの七四三遠忌に出掛ける。池上驛前から参道を經て本門寺まで、纏と、萬灯と、コンコンチキと、ドンドンツクと、ピーヒャラヒャラの海、海、海。講中の規模によってその勢ひにも違ひのあるのが、見物してゐて面白い。私は自分自身のみを信仰する者だが、こんなに賑やかならばホトケの云ふ事も聞いてみやうか、と云った氣にならなくもない。帰り道、萬灯練供養に参加してゐたらしい纏半被を着た若い女のコが、複数のオトコ友達とタバコを吸ひ乍ら歩いてゐるのとすれ違った。御本尊(ホトケ)の足許は、まぁこんなもんである。
2024.10.12

橫濱紅葉坂上の神奈川縣立青少年センターにて、人形浄瑠璃文樂公演の昼の部を觀る。觀る、と云ふより義太夫節に乗せて演じられる人形芝居の様子を眺めたかったのだが、常々感じてゐる文樂界の人材と力量の不足がそのまま表れた舞薹に、オイオイ、と一人呆れる。開口一番に現れた若手の太夫の解説からして臺本丸暗記な駄辯りで内容が無く、續く前座の「二人三番叟」は床も人形も本當に前座藝の域を出ず、「繪本太功記」は導入部の“タ顔棚の段”が眠氣への導入部となりさうなところでやっと本編の“尼ヶ崎の段”、前半で三味線をつとめた鶴澤清治の撥でやっと人形浄瑠璃となったが、後半で入れ替はった“豊竹呂太夫改メ十一代目豊竹若太夫”のチカラの無い浄瑠璃が再び退屈感を引き戻しさうになるのを、三味線の鶴澤清介の力演で何とか幕切れまで逃げ切る。“豊竹若太夫”は江戸時代に竹本義太夫門下より出て豊竹一派を興した美聲の太夫を初代とし、當代はその十一代目云々。十代目だった祖父の藝名を受け繼いだ云々、今日に目撃したあの浄瑠璃では、根拠不明の不可解な襲名は傳統藝能業界の害惡と改めて思はざるを得ない。主役の武智光秀を遣ったのは桐竹勘十郎、平成十五年に父の名を繼いだ名披露目でも遣った役で、その満を持しての雰囲氣があった襲名公演に、いづれは吉田玉男や吉田蓑助の後を繼いで文樂の牽引者になるかと思ってゐたが、平成二十五年、規定の觀客動員數に満たなかったことで大阪市からの助成金を打ち切られた際、當時の橋下徹市長に澁い顔で抗議に立つ姿をニュース映像で見て、このあたりが限界か、と思ったことを、久しぶりに思ひ出した。終演後、棲家に保管してあるはずの豊竹山城少掾の同じ音源を、無性に聴きたくなる。義太夫節とは、まさか今日のアレではないはずゆゑ……。
2024.10.06

品川歴史館で、「品川の海に御台場ができるまで─日記でひも解く一七〇年前の大工事─」展を觀る。嘉永六年(1853年)六月、たった四杯の上喜撰で太平の眠りを覺まされた江戸幕府は海防強化を痛感し、折から老中主座となった阿部伊勢守正弘の指揮のもと、江戸湾品川沖に一年四ケ月で六基の臺場を完成させた──(※案内チラシより)埋立て資材として、米を詰める俵に砂を詰めた“明俵”を大量に用ゐ、海底には杉と松の杭を等間隔に打ち込んで造った基礎の上に、水を通さない粘土層の泥岩である土丹岩(どたんがん)で石垣を積み上げるなど、近世の築城と同じ工法で培はれた技術と自信は、やがて明治になると汽車道である“高輪築堤”を生み出す──(※JR新橋驛前に移築復元されてゐる“高輪築堤”)旧時代の技術が新時代の文明を生み出したことは、ちょっと感動的ですらある。普請(築造)の費用は幕府持ちとしつつ、その財源は富裕層から“献金”で賄はれてゐたことも、現代と大差なくて面白い。かうして近代ニッポンの礎となったはずの臺場も明治には不要となり、さらに歴史は進んで太平洋戰争後の高度成長期には、第一と第五の臺場が周囲の埋立てに呑み込まれるやうにして崩され(現 品川區港南五丁目)、(※第一臺場跡)(※臺場第五跡)第二臺場は航行の妨げになるとしてやはり崩され、(※冩真中央あたりが第二臺場跡)(※大正二年發行の繪葉書に見る第二臺場)第四臺場は一部分が天王洲アイルシーフォートスクエアの土臺に転用され、(※旧第四臺場の石垣)完全な姿で遺ってゐるのは第三と第六のみである。(※第三臺場)(※第六臺場)御臺場を、結局はムダの遺物と歴史的評価するセンセイ方もゐるやうだが、それではこれだけの土木技術を持った先祖たちを、あまりに輕んじてゐると云はねばならぬ。
2024.10.02
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