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幕末に旧東海道と橫濱開港地とを結ぶ道として拓かれた“橫濱道”から分岐して、保土ヶ谷とを結んでゐた“保土ヶ谷道”を辿り、國道壱號線に行き當たったところで、國道沿ひの杉山神社に遺る「怪力石灯籠」を一見せばやと、存じ候。本殿へ通じる石段の両脇に建つのが件の石灯籠にて、今は昔、江戸の講中が伊勢神宮へ石灯籠を奉納せんと荷車に乗せ、牛に牽かせて保土ヶ谷までやって来たところで荷車が動かなくなり、牛を付け替へたがやはり動かず、挙げ句に牛が杉山神社へ逃げ込むに至り、こは神慮なるらんと、一對の石灯籠をそのまま杉山社へ奉納云々、裏側に“伊勢大神宮”と刻まれてゐるのはさうした謂はれ因縁故事来歴。石灯籠がなにか怪力ぶりを發揮したと云ふより、牛が牽けぬほどの重量を見せつけたと云ふ噺であり、なにか怪異譚を期待してゐた私にはやや肩透かしを喰らわされたやうな。(※杉山社本殿)路面が土だった江戸時代、保土ヶ谷あたりは特に状態が惡かったと云ふ話しもあるやうだが、やはり私は、神威のなせる業であったと、信じる。
2024.12.30

東京都港區の物流博物館で、企画展「鉄道古写真展─鈴木直利氏コレクションから─」を觀る。元國鐵職員の鈴木直利氏が昭和五十三年に信越本線の碓氷峠旧線を歩いたことがきっかけで渉猟し集めた鐵道資料のうち、明治の鐵道黎明期を記録したかなり珍しい古冩真の數々を、疑似旅行の氣分で巡る。(※案内チラシより、明治二十三年頃の品川驛、現在の品川驛はこれより北方の高輪にあり)明治ニッポンが西洋文明の到来によってみるみる近代化し、德川治世の旧時代を過去へと引き離していく邁進ぶりが、鐵をふんだんに用ゐた當時最先端の技術を通して、象徴的に紹介されてゐる。(※案内チラシより、明治十七年頃の新橋驛と、現在は埋め立てられて昭和通りの汐留川)しかしその最先端だった光景は、現在では殆どが失はれて、もう見ることができない。(※案内チラシより、明治後期頃に撮影された多摩川─六郷川─に架かる東海道本線の二代目六郷川橋梁)(※述者撮影の同地點現景)いまと云ふ歴史を記録し、それを殘し守り續けてこそ、未来(あした)の道も拓けることを、私はこの疑似旅行のお土産として、心に冩して帰る。
2024.12.27

橫濱日本大通りの放送ライブラリーイベントホールで、“あぶない刑事”の特別展「HISTORY OF ABUDEKA 1986~2024」を觀る。昭和六十一年(1986年)十月五日のTV放送第一回から、今年に公開された映画版最新作までを紹介した企画ながら、中心は八作品の映画版とその冩實パネル展示にあり、(※展示室内撮影可)TVドラマ版については放送臺本が並べられてゐるくらゐで、撮影におけるウラ噺など好奇心をくすぐる内容を期待してゐた“あぶ刑事ファン”の一人としては、意外や内容が薄くて拍子抜けがする。が、大好きな中条静夫さん演じる「ばかもん!」の近藤課長、そして昭和から平成を經て令和になっても色褪せない名車“日産レパード”に逢へたことには満足。今年に公開された「帰ってきた──」も、往年の雰囲氣を再現しつつ現在(いま)をしっかり取り込んだ、現今の邦画で可能な限りの娯樂優篇だったと思ふ。
2024.12.26

池上通りを通るたび、東海道本線で大森付近を通過するたび、氣になってゐた「大森貝塚」の記念碑を訪ねる。明治十年(1877年)六月、貝類の研究のため来日した米國人學者エドワード・シルベスター・モースが、橫濱から東京へ向かふ汽車の車窓よりこの貝塚を發見した 話しは、我々も學校の授業で習った通り。(※東海道本線の車窓より見た現在の大森貝塚)鐵道と云ふ最先端の文明から縄文古代の文明を發見し、縄文期と云ふ古代の研究が明治と云ふ新しい時代に曙を迎へたことに、私は文明が時空を超えて一直線に結ばれてゐる事を知る。(※明治十年の大森貝塚發掘風景)その記念碑が東京都大田區山王一丁目と、隣接する品川區大井六丁目の二ヶ所の線路沿ひに、それぞれ線路に向かって建つ。↑前者は昭和四年(1929年)、↑後者は翌五年(1930年)の建立云々、後者の品川區大井六丁目には發掘現場跡が「大森貝塚遺跡庭園」として整備されて石碑に接し、要するに食べた後のゴミ捨て場だった貝塚の發見當時の再現や、當地における縄文時代の生活ぶり云々が紹介されてゐる。が、ここではモース氏が研究報告書で触れてゐる「食人習慣」については、しっかり避けてゐる。(※大森貝塚遺跡庭園に建つモース氏の像)私は古代史は門外漢であり、今回は石碑を見たくて訪れただけなので、縄文人の生活習慣は云々などしないが、その道の人たちにとって古代史は持論を武器に研究結果を巡って大ゲンカする格好の學問らしく、件の大森貝塚についても、同名の岩波文庫版にはその華々しいやり取りも収められてゐて、むしろ本文の研究報告より付録のそちらのはうが、讀んでゐて面白い。鐵道と縁のある大森貝塚を記念した石碑は、JR京濱東北線の大森驛ホームにもあり、モース氏の發見から百年を記念して建てられたもので、ふだん利用しない驛と云ふこともあり、これは今回初めて氣が付いた歴史。
2024.12.25

神奈川縣立金澤文庫の特別展「運慶 女人作善と鎌倉幕府」を觀る。鎌倉初期の名佛師であった運慶とその一派が遺したとされる佛像の數々を眺めてゐるうち、憤怒、または静美を湛えた尊顔から下は、まるっきり人間と變はらないではないか、と感じる。(※案内チラシより)地藏菩薩像を前にした年配の女性は、「綺麗だわ……」と惚れ惚れした息を洩らしてゐたが、それは理想を偶像化した表面的容貌に見とれてゐるだけではないか……?冩實な手、繊細な指先に再現された、精巧な爪に至っては、艶めかしさすら覺えたのは私の“煩悩”なのか……!?(※同)考古美術品としては間違いなく第一級のそれは、造像の發注者のほとんどが鎌倉幕府關係者であった事實が示す如く、ホトケの教へはホトケのチカラより、鎌倉幕府と云ふ當時新進の現世權力によって守られ、發展し、そしてそこに限界もあったのだと、私は見て見ぬフリをすべきものを、佛像群の隙間から見てしまった氣がした。隧道を抜けて稱名寺に出ると、昨日静かに息を引き取った身内の極樂浄土への案内を、本堂で願ふ。前庭の池では、鴨たちがのんびりと日なたぼっこを樂しんでゐる。その様子を中橋から覗き込んでゐた散歩中らしきお爺さんが、「脂がのってゐて旨そうだなあ」と大きな聲で独り言を云ってゐる。そして鴨たちへ、「今度ネギを持って来いヨ」を續けたのが、何とも可笑しかった。
2024.12.24

昼過ぎに身内が老衰で静かに息を引き取ったと、知らせが入る。死への痛みも、苦しみもなく、静かに眠りについたと云ふ。さいごまで、幸せ者だと羨ましく思ふ。逢へばいろいろ樂しませてくれたのだから、當り前か。ただただ、 ありがたう。合掌
2024.12.23

埼玉縣さいたま市北區日進町の日進月歩で、「あらい太朗のふぅし漫画展2024」を觀る。今日は昼過ぎからの開場と聞いてゐたので、時間に合はせて訪ねたところドアが開かず、急遽お休みかと諦めかけてゐたら會主のあらい太朗さん本人が道の向かふからやって来て、無事に會場へ入れてもらふ。僅かな差で入れ違ひになるところで、やれ嬉しや。令和六年に共同通信社から配信された世相諷刺漫画の原画展、米価高騰で庶民のこめかみに“💢”に掛けた“※”を描いた一點に、深い深い共感を覺えて大いに頷く。今日の記念には、太朗さんが描き損じた用紙を再利用して夫婦で共同制作した「魂のぼやき手帳」(¥400)を購入する。太朗さん曰く、日常で遭遇したイヤな事を書き付けるほか、肌御守りとして持ってゐることで、イヤなことを全て吸収してくれる効果がある云々。やはり、今日は出掛けて大正解だった👍
2024.12.21

大正三年(1914年)に東京驛が開業して、今日で110年となる。【東京驛】(名)日本の鐵道の総拠點。東京驛方面に向かふ列車を“上り”、その逆を“下り”。東京驛を通り抜ける列車については、北方向の列車を“北行”、南方向は“南行”。二十四年前、東京から大阪へ移住して間もなく師匠を急に亡くして途方に暮れた私は、「とりあえず東京へ行けばなんとかなるかも……」の一心で東海道本線の夜行快速「ムーンライトながら」號に飛び乗り、たどり着いたのが東京驛だった。それからも、大阪の住居の近くを通ってゐた東海道本線を東方向に見ては、「この線路をずっと東へ辿れば、東京に行けるのか……」と、つねにあの驛舎が頭にあった。それは自ら選んだ厳しい郷愁であったが、さうした時間を乗り越えたからこそ、大阪が私の第二の故郷となったのである。東京驛あっての、いまの私の人生。樂しい目的で、これからも乗ったり、降りたり、通り抜けたり。
2024.12.20

橫濱紅葉坂の神奈川縣立青少年センターホールで、國立劇場主催の文樂公演を觀る。番組は三部制仕立てで、現在の技藝員では重厚な時代物など力量不足なのは火を見るより明らか、いまだに財産演目と有り難がってゐる時代錯誤な心中物などもとより論外、前例がないぶん先人藝と比べなくて済む新作物を並べた、第一部を選ぶ。大昔に人形振りの口上と足拍子をつとめた記憶がある「日高川入相花王」の古典物を前座に据ゑ、木下順二の民話に義太夫節をのせた「瓜子姫とあまんじゃく」は、關西ではたびたび上演してゐるやうだが東京圏で六十三年ぶり云々、實際その當時には斬新だったであらう雰囲氣の漂ふ一篇。興味のあったのが、佛人モリエールの古典喜劇「守錢奴(L’AVARE)」を井上ひさしが翻案した「金壺親父戀達引」、吝嗇極まる蓄財家の呉服屋主人を主役に、二組のややこしい縁談が絡む現代語調の意欲作だが、日本語訳で讀んだ原典の、言葉(セリフ)のやりとりの妙までは再現されてゐない。が、取り持ち婆役を語った若手の太夫が、もう一役の色男役以上に人物像を達者に創り上げてゐたのが耳目を惹き、豊かな聲量ともども、これからはかういふ若い人財が必要なのだと感じ入る。
2024.12.19

世田谷ボロ市に出かける。昨日の日曜日では大混雑だらうと、平日の今日に出かけたその目論見は大成功にて、やはり昨日は「身動きがとれないほど」云々。 いくらか歩きやすい市をのんびり巡ってゐうち、今までより見世の數が減ってゐるやうに感じる。ある見世で、ラジオ局の取材を受けてゐた高齢の主人が、参加は今回限りで引退だと話してゐた。「まだまだ續けたい氣持ちはあるけれど、八十を超えて体がしんどくてね……」かういふ厳しい現實の折り重なりが、今日に私が感じた空氣となったのだらう。甘酒で休憩しながら今回の掘り出し物にニンマリする一方で、浮世の寒風を思ふ。
2024.12.16

橫濱の日本新聞博物館ニュースパークで、「ニュースを伝える情報デザイン~インフォグラフィクスと新聞整理の世界~」展を觀る。2023年に英國のロイタージャーナリズム研究所が、「ニュースを情報源として利用してゐるか」との調査を行なった結果、日本がもっとも多く「全く利用しなかった」と回答云々。日本の報道屋が、人々の目を引く紙面づくりにどれだけ日夜工夫を重ねてゐるか、讀みやすい“扁平活字”の導入など涙ぐましい努力をしたところで、肝心の中身(記事)が相變はらずどこまで真實を傳へてゐるか分からないウンザリするしろものでは、それはしょせんうわべばかりを誤魔化した小手先藝にすぎない。權力者に都合よく取捨選択されたニュースなど、情報としてなんら利用する価値もない。(※展示室内接冩以外で撮影可)活字の字体や構成以上に、その活字がどれだけ正しく我々に情報を傳へるか、だ。
2024.12.12

東京都文京區の東洋文庫ミュージアムで、創立百周年記念展「知の大冒険─東洋文庫 名品の煌めき─」を觀る。所藏文書類から“東方”各國の歴史を船旅する趣向にて、ひとくちに東洋と云っても國が違へば言語も違ひ、文字も異なる。東西南北、方角で國の位置を區別するのは結構だが、方角で一括りは當たらない氣がする。江戸中期、「ターヘル・アナトミア」を和訳した「解体新書」の登場によって、やうやく日本の東洋文明は西洋との邂逅と融合を果たし、(※展示室内フラッシュなしで撮影可)それを見届けたところで、私は下船する。
2024.12.11

皇居三の丸尚藏館にて、「公家の書─古筆・絵巻・古文書」展を觀る。公家たち必須の技藝であり、誇りであり、またみずからの存在証明でもあった“書”を數點厳選の企画展、しかし現在では存在しない貴族たちが筆を通して心血を注いだ一字一字は、私のやうな凡庸の眼すら惹きつけてやまない“力”をいまなほ湛え、ああこれが貴種の矜恃かと感じ入る。(※案内チラシより)隣室の「皇室の美術振興─日本人近代の絵画・彫刻・工芸」展は、近代に皇族が美術展などで“御買上” になった作品を絢爛に展示したものだが、かのお方たちがお氣に召した物だからと云って、私の眼にも納得する優品かと云へば、「……?」と、案外さうでもなかったりする。作品の価値とは、作品そのものにではなく、見る人の“目”にあるのだ。さうした逸品たちのなかに、舞樂「蘭陵王」を描いた一軸が展示されてゐた。その面を見て、先日に神奈川縣立歴史博物館で觀た、獅子に彫り直されてウサギ様の耳を付けた傑作を思ひ出し、庶民(しもじも)の手に掛かればさういふものサ、と可笑しくなった。
2024.12.10

東京都品川區の「高輪築堤」跡の一部が、今月の八日、九日の日中に一般公開云々、これぞ千載一遇の機會と見學に出かける──幕末の薹場築造によって培はれ土木技術が、新しい時代の礎づくりに見事活かされたこの鐵道遺産が、國史跡として整備された後では、それはもう明治五年當時の姿ではないのである。今回公開された箇所は十日以降に令和現在の地表から80cmの地中で再び長い眠りにつくことになっており、明治との出逢ひと別れを一瞬にして体験す。築堤の上で、いま大騒ぎで築造中のガラス塊(ビル)は、百年後にはもちろん、なんら文化的価値もなく、崩されてゐることだらう。
2024.12.09

國立公文書館の企画展「龍─日常にとけこむ神秘─」を觀る。(※世界最古の“龍”の文字)【龍】 想像上の神獣にして、皇帝の象徴──ミカドの尊顔を古くは“龍顔”と稱し、我々のやうな下々がうかつに見れば目がつぶれると本氣で信じられてゐた。しかし日本では古くより、その似た外見から現實に存在する【蛇】と混同されることも多く、歌舞伎十八番の「鳴神」で、雲の絶間姫が龍神を封じ込めた注連縄を蛇(くちなわ)と勘違ひして怖がって見せる件りなども、さうした感覺を踏まへたものだらう。近代ニッポンの曙である文明開化期においてさへ、水道水の共用栓の吐水口が龍を象ったものであるにもかかはらず、「蛇口」と呼ばれて今日に至ってゐるのである。それでも古への日本人は、四足のあるものを【龍】、無いものを【蛇】と、一應は識別してゐた。蛇のことはさておき、龍は水中にあっては水を操り、地にあっては風を操ると信じられ、江戸中期の公式記録によれば、現在の早稲田界隈で發生した強風によって多くの家屋が倒壊した災害については、「龍が通り過ぎたのが原因」と記しており、(※「武江年表」に見る該當記事)もちろん比喩であるにせよ、現在でも使へさうな面白い表現感覺だと思った。
2024.12.06

東京都杉並區の南郊に佇む國指定史跡「荻外荘(てきがいそう)」の復原整備完成を記念した特別展を、杉並區立郷土博物館の本館と分館で、それぞれ觀る。荻外荘は戰前に首相を三度つとめた近衞文麿の邸宅で、もともとは大正天皇の侍醫頭をつとめた入澤達吉が自身の静養のため昭和二年(1927年)に建てた別邸だったものを、昭和十二年(1937年)に首相初就任の近衞文麿が購入して自身の本宅としたもの。(※近衞文麿)「荻外荘」とは字に書いた通り“荻窪の外れ”と云ふ意味にて、命名者は政界の大先輩で最後の元老でもあった西園寺公望、その西園寺が揮毫した扁額を近衞は大切に掲げてゐたさうだが、(※案内チラシより)この命名には東京の中心部から遠く離れた辺鄙な土地に本宅を構へた後繼者への、皮肉も籠められゐるとかゐないとか。その荻外荘に所藏されてゐた書画骨董の一部を、まずは本館の「陽明文庫名品展」で拝見す。近代日本画壇の大家たちの御作より、江戸時代初期の先祖である近衞信尹(このえ のぶただ)が當時の能書家たちと手分けして書冩した源氏物語五十四帖に、興味を覺ゆる。(※近衞信尹書冩の「帚木」 案内チラシより)もちろん、私などにあのウネウネ文字が解るわけもないが、ただそれぞれに異なる一點一點の筆跡に、その人の性格が表はれてゐるやうには見えた。かく御寶を所藏してゐた荻外荘と、その主(あるじ)だった近衞文麿についてを、荻窪驛から北方へ十分ほど歩いた分館の「『荻外荘』と近衞文麿」展に觀る。大日本帝國の第二次世界大戦参戰を阻止出来なかった近衞がその責任を重く捉へ、昭和二十年六月までに終戰させるべく水面下で奔走してゐたことは一般にあまり知られてゐない歴史のやうだが、終戰直後からは侵駐(※私は敢へて“進駐”の字は用ゐない)の米夷と連絡をとりながら閣僚として日本の立て直しを図るものの、米夷から“A級戰犯”と名指しされた近衞は逮捕當日の昭和二十年(1945年)十二月十六日早朝、“自決”と云ふ手段で永遠の拒否を示す。前夜に次男の近衞通隆の前でしたためて渡したと云ふ一文──事實上の遺書──には、有名な「僕の志は知る人ぞ知る」のあと、 「戰争に伴ふ激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れた者の過度の卑屈と、敵意の中傷と、誤解に本づく流血蜚語と是等一切の所謂輿論なるのも、いつかは冷静を取り戻し正常に復する時も来よう……」は、もっとよく讀むべき未来への深い“何か”が籠められてゐるやうに、私には思へる。そして近衞文麿の最期について、昭和史のセンセイ方は「卑怯者」と決め付けるのが定番のやうだが、藤原道長以来の筆頭貴族として、われわれ衆庶(しもじも)などには計り知れぬ“矜恃”を見せたのだと、私は同じ日本人として信じたい。荻窪驛からほど近い上荻一丁目の白山神社に、近衞文麿の足跡が見られるとのことで、併せて訪ねる。参道入口の鳥居脇に立つ石標の文字は、近衞文麿の揮毫云々。書によっておのれを存在証明した公家の傳統文化は、昭和時代の關白にも脈々と受け繼がれてゐたことを見ると同時に、“公爵 近衞文麿”と云ふより、荻窪に根をおろした“地元民 近衞文麿”を見るやうな親しみを覺ゆ。
2024.12.05

先月三十日より皇居乾通りの一般公開が始まったとラジオで聴いたので、二年ぶりに出かけてみる氣になる。人出は多かったが渋滞もなく、さほど見頃でもない秋の植物を見上げながら、まずは季節を聴いて進む。出口の乾門を額縁に、代官町通りのイチョウが黄々と燃えてゐて、幾人かが道の真ん中で立ち止まってカメラを構へてゐる。警備係が道端に寄って撮影するやう促すなか、二人連れの女性が乾門を背景に冩真を撮ってほしいとスマホを手に近づいて来た。私はスマホを受け取ると、道の真ん中は邪魔になるので端に寄りませう、と云って真ん中を避けた。二人連れは、真ん中で撮って欲しかったやうな様子を見せつつ、同意した。そこからでもイチョウが美しい、最高の一枚を撮って差し上げた。
2024.12.04

普通列車でノンビリ旅行、と云ふより、費用を一錢一文でも安く上げたいビンボー人たちの味方であるはずの「青春18きっぷ」が、今冬分はとんだ改惡にて、いはゆる“18きっぱー”たちがネットで數萬人の反對署名を集めるなど怒り心頭云々、私も今さらながら驛で件の案内チラシを見かけたので一枚手に取って見て、「なるほど、こりゃヒドイ……」と呆れる。細々としたことはすでにお仲間たちが論じてゐるであらうからそちらに任せるとして、私がもっともダメだろ、と思ったのは、一枚で五回分、もしくは五人まで同時使用できたのが、一枚一人限り、五日間連續使用限定に變更してしまったことだ。この切符の一番の特典であり、また特徴を變更してしまっては、これはもう別モノな改惡と云はざるを得ず、今までのやうな期間中に日をおいて複數回に分けた旅行の計画は立てられなくなる。五日間連續使用など、それだけの時間とカネのある人種がこの切符の利用者層にどれだけゐるものか、JRのおエラどもは全く認識しておらず、結局は會社都合なとんだ太平樂と云はざるを得ない。三日間用を新設したところで、結局は同じことである。自動改札機で通れるやうになるなどは、とっくに導入してゐるべきものであり、何を今さら、である。来春分からは、連續使用限定だけでも見直すべきだ。ただでさえ整備新幹線の開業で併走の在来線はことごとく第三セクター化され、青春18きっぷの適用外となり利用範囲が狭まってゐるなか、ダメ押しとも云へるこの不可解な改惡、まったくこれだけ×だらけな案内チラシも珍しい……。
2024.12.02

千葉縣佐倉市の國立歴史民俗博物館の企画展示「歴史の未来─過去を伝えるひと・もの・データ─」を觀る。ヒトは、おのれの生まれに箔をつけたくなると、遡れば遡るほどアヤシくなる系図をつくって子々孫々に殘し、(※案内チラシより)新たな価値觀の擡頭によりそれまでの価値觀が棄てられ、消滅の危機に直面すると、これまでの歴史を遺しておかうと記録を集めはじめる。(※同)このあたりの感覺は、私の樂しみの一つである鐵道について云へば、「◯◯線の◯◯系(形)がいよいよ廢車になる」となると、俄かに惜しみだしてカメラを手に手に線路脇に──モノによっては線路内に──に詰めかける、アレと同じやうなものか。このブログ「迦陵頻伽」も、気ままな形をとった私なりの浮世の記録、のつもりだ。しかし、ヒトが記録として殘した文物は、人災や天災によって案外たやすく失なはれることは、昔も現在も何ら變はらない。現在は電子技術を活用した“デジタル化”による保存と公開、そして疑似体験までを可能とし、記録保存は躍進的發展を見せてゐるやうだが、肝心の電源(電氣)が故障すれば一瞬にして消滅する危険が伴ふことも、また然り。結局、やり方が變はっただけで、完璧な保護方法が無い限り、それは“進歩”とは云へないのではないか、と様々な實例展示から思ふ。展示室内に設置されたデジタル技術をふんだんに盛り込んだ体験コーナーでは、何ら理解してゐない小児(ジャリ)がオモチャ代はりに遊んでゐる様に、しょせんそんなものだ、と内心嘆息。一度散逸した記録文物を再び取り戻すことはまず不可能であり、それは中世の金澤文庫から流出した文物の例が、よく示してゐるところだ。その土地の記録文物はその土地で見られるやう保存するべきであり、中央の學府や博物館にまとめて収藏し公開したのでは、記録がその土地の歴史から遠く離れたものになる──と叫ばれた時代が戰後にあったやうだが、ではなぜその土地の人々は、そもそもその土地の記録を散逸から死守しなかったのか──?記録資料との付き合ひ方について、いろいろ考へさせらる實に深い企画展だったが、その“むすび”にあった一文の示唆するところに、私はさらに考へさせらる。『記憶はしばしば物や場所・記念碑に集約され、歴史はそのすべての複雑な背景を理解しようとする』もうひとつ興味のあったのが、特集展示「歴史・文化の中の鄭成功」で、日本では近松門左衞門の大作浄瑠璃「國性爺合戰」の主人公“和藤内三官”として知られた實在の人物の、“英雄”としてのさまざまな価値觀を日本と薹湾双方の視點から考察する。(※薹湾に傳はる鄭成功像、解説冊子より)新興國の清に攻められ滅亡寸前の明朝を建て直さんと奮戰する鄭成功は、1662年1月に薹湾島を占領してゐた蘭國を追ひ出して新たな拠點を築き、後世へとつながる英雄像がつくられていくわけだが、薹湾島の原住民たちからすれば、食物の強制的な徴収や土地開墾の強ひるなど、單に支配者が蘭國から鄭成功なる人物に替はっただけで、しょせん外夷以外の何ものでもなかった、との指摘に、今まで支配者側の目線ばかりで、被支配者側の目線や心情を考へたことのなかったことに、ハッと氣付かされる。(※二代目市川猿之助扮する「國性爺合戰」和藤内)歴史とは勝者によって創造されるものであることは、歴史を見る上でもっとも留意すべき、基本的心得であった。博物館を出たあとはそのまま佐倉城本丸跡まで歩いて、今年の紅葉をやっと見る。かう季節が狂ふと、草花の四季を知るきっかけすら狂ひさうで、困ったものだ。
2024.12.01
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