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出身地である埼玉縣内での活動が中心のさくまひできさんが、神奈川縣大和市のイトーヨーカドー大和鶴間店でミニライヴをやるとラジオで知り、私の棲処からなら遠征と云ふほどの距離でもないので、樂しみに出かける。ラジオやコンサートで聴き馴染んだ曲を、改めて生で聴くとまた何かしらの“發見”があって、かういふのがプロの歌唱なんだなぁ、とまた次の機會が樂しみになる。やはり、一番よく聴いてゐる「人生たまたま…さいたまで」が一番氣持ちが盛り上がり、耳へ養分を蓄へた四十一分間。觀るも聴くも、いいものでなくてはそれだけ人生が浪費(ムダ)になる。
2026.01.31

竹橋の國立公文書館で、今年の干支にちなんだ企画展「馬とまつりごと─神事と武芸からみる馬の日本史─」を觀る。日本にはもともと馬と云ふ生き物はおらず、四世紀から五世紀はじめ頃に傳はったとされ、「日本書紀」は應神天皇十五年八月、百済王が遣はした阿直岐が二匹の良馬を献上したことを傳来の初めと記す一方、月夜見尊(ツキヨミノミコト)に殺された保食神(ウケモチノカミ)の頭部が誕生したのが馬の初めとも語る。なんであれ、馬は高貴な人の乗り物であり、神に“贄”として奉げるものであり──經済的に不可能な人が代はりとして奉納したのが板に描いた馬、つまり繪馬──、主従關係を視覺的に示すためのものであり、武威を誇示するためのものであり、競争させるためのものであり、また現在も古道には農耕馬や荷引馬を供養する馬頭觀世音が遺るなど、今日に至るまでニンゲンと馬は密接な生活環境を築いてきた。傳統藝能でも馬はよく登場し、舞踊では手綱をとる振りや型などで乗馬の様を表はし、歌舞伎劇では両脚を大部屋がつとめる作り物のそれが舞臺に現はれる。三代目市川猿之助が人気狂言に仕上げた「當世流小栗判官」では、前半に小栗判官が荒馬の鬼鹿毛を乗りこなして碁盤乗りを見せ、(傳 岩佐又兵衞「小栗判官繪巻」より)後半には繪馬から抜け出た白馬に戀人の照手姫と乗って宙乗りを見せる。故人十代目坂東三津五郎さんがよく上演した民話調の舞踊劇「馬盗人」では馬も踊るのが眼目で、両脚をつとめる大部屋も筋書き(プログラム)に特に名前が載る大役、歌舞伎十八番の「矢の根」は馬なしでは話しにもならぬ。(北澤樂天「初春狂言 矢の根五郎」 昭和十七年)現在はどうかわからぬが、馬の脚をつとめる大部屋には給金のほかに特別手當がつき、それを“飼葉料”となむいひける。落語では、故人六代目三遊亭円楽が師匠の先代をその容貌から高座で「ウマ」とイジるクスグリを入れては、よく笑はせてゐた。そして武士と馬との關係を示す展示資料を見ながら、島崎藤村の「夜明け前」では木曽宿へ進軍した新政府軍に木曽代官が馬を牽いて恭順を示したところ、馬だけを持って行かれて代官は放っておかれたと語られる場面を思ひ出し、ヒトと馬の価値を端的に表した描冩であったと、今になって知る。
2026.01.30

○昭和21年(1946年) 64歳1月 南座(1日~25日)『明朗新日本再建第一春を飾る初春興行・東西合同大歌舞伎』「松平長七郎」松平長七郎「弁天娘女男白浪」早瀬の娘お浪実は弁天小僧菊之助「壇浦兜軍記 阿古屋三曲」遊君阿古屋「名工柿右衛門」酒井田柿右衛門※3月16日、渋谷区千駄ヶ谷町3-496 (現在の同区千駄ヶ谷3丁目12番地あたり)の自宅にて妻子、使用人二名と共に遺体で発見される。(仁左衛門宅跡の現景 令和8年1月)〈新聞記事より〉『仁左衛門一家殺さる』「俳優片岡仁左衛門こと片岡東吉氏(六五)方で仁左衛門丈をはじめ妻登志子さん─元日活女優小町とし子─(二六)三男三郎ちゃん(三つ)ばあやの榊田はるさん(六九)子守岸本まき子さん(一二)の五名が薪割様のもので顔、頭などを滅多打にされ惨殺されてゐるのを十六日午前十一時登志子さんの実母がカヨさんが訪問して発見、原宿署に届出た。警視庁では特別捜査本部を原宿署におき捜査を開始した。犯人は戸締りのない四畳半から侵入、犯行は十五日深夜に行われたものらしく物品を物色した形跡があり、二日前に引出した現金六百円も見当たらぬが一方もと同居人飯田利明(二〇)が目下行方不明のため、怨恨による同人の仕業も一応は考慮に入れて捜査を進めている、なお次女照江さん(五つ)は神田の祖母宅に行っていたため難を逃れた。」(朝日新聞 昭和21年3月17日付 ※原文ママ、一部省略)『食と妹の財産の恨み “仁左”殺し犯人捕わる』「“仁左殺し”の有力な容疑者として警視庁捜査一課が全国に指名手配している同居人片岡一座座付作者森田こと飯田利明(二二)は二十日午後宮城県玉造郡川渡村温泉旅館で岩出山署員に逮捕された、二十一日朝晩身柄引取のため捜査一課と原宿署から現地に急行した、同所は殺された実妹岸本まき子さん(一二)が在学していた山谷堀国民校の疎開先だった所である。二十三日午後同人の着京をまって本格的取調べが行われる。【仙台発】川渡温泉で逮捕された飯田利明は岩出山署で警視庁から出張の係官から一応取調べを受けた結果犯行の一切を自白した、それによると飯田は兇行後一旦自殺を決意したが思い返し、十五日午前六時すぎ兇行を演じたもので、その原因は前夜妹の財産一万五千円のことで仁左衛門夫婦嫌味をいわれカッとなり妹が子守ばかりさせられ、学校にもやられず、配給のメリケン粉ばかりで米の飯も喰わせないではないかと喰ってかかり、これらを恨みに思ってやったと言っている。兇行後一旦自殺を決意したが思い返し、混雑にまぎれて常磐線に乗込み高飛びしたもの」(朝日新聞 昭和21年3月23日付)〈飯田利明の自白などによる事件経過〉3月15日 23:30頃─仁左衛門より馘首を言い渡され、日頃の食事のことなどの鬱憤から二時間ほど口論となる。また四月興行の客引原稿を書くが没にされる。3月16日 6:00頃─トイレに行く途中、廊下に立てかけてあった薪割り斧に躓く。それを凶器に就寝中の仁左衛門(65)、及び妻登志子(26)、四男三郎(2)を殺害し、逃げる使用人も殺害。そのまま自殺、もしくは逃走しようとしたが寒さに引き返し、飯とザラメを頬張り、都電で上野へ出て常磐線に乗り換え高萩下車、宮城県鳴子の川渡温泉に隠れる。9:00頃─仁左衛門宅の隣人が回覧板を届けに来たが、戸が閉まっていたため、引き返す。11:00頃─仁左衛門夫人の実母が訪ねて来たが応答なし。不審に思い、近所の人の立ち会いの上、裏手の雨戸より入り、遺体を発見する。「(前略) これで見ると、ともあれ食糧問題が重大な原因となっていることは明かだ。劇壇の名家、女形の随一仁左衛門が、その犠牲になったのは情ないことである。併しジャーナリズムでは仁左衛門を、まるで三荘太夫のような扱い方をしているのは、如何になんでも気の毒だ。飯田という男も、相当悪質なところがあったらしい。猿之助君(※二代目)にきいてみると、その前日に同一座へ、米を売りに来たそうだ。金に困っての仕業だろうが、恐らくクスねたものと思われる。仁左衛門という人も、一部には御贔屓を持っていたが、あれだけの美貌と芸の所有者としては、それほど見物に騒がれなかった。劇場人には不思議なほど嫌われて、これという友達すら持っていなかったのである。舞台を見ても想像される通り、あの冷たい性格が主として禍いしたのだが、東京で生まれながら、修行時代を上方で過し、しかも厳格な一座に長く居たというのでもなく、時に新派と合同したりして、自由に振舞う年限が多かった為か、芸風も他優と合わなかった。東京俳優ばかりでなく、上方俳優とも反りが合わず、いつも敬遠されがちであった。大正十年、横浜座で『太功記』十段目が出た(※該当興行確認出来ず)。中車(※七代目)の光秀に仁左衛門の十次郎であった。中車の光秀は例により、一時一句を粗末にしない手堅いやり方なのだが、仁左衛門の芸はまるでそれとマッチしない。中車は非常に怒って、それぎり仁左衛門とつき合はなくなり、自然外の役者とも疎遠となって、仁左衛門は孤立してしまった。それで仁左衛門もひどく困って、大谷社長(※松竹社長 大谷竹次郎)に執政し方を頼んだ。大谷さんも上方から東京へ来て、随分辛い目に遭ったこともあるから同情し、一緒に中車の内へ出向いて詫を入れ、再び芝居へ出られるようになったこともある位で、どうも他の俳優とは気質が合わなかったのであるが、昭和十年十一月の歌舞伎座で、羽左衛門の与三郎にお富をつとめて以来、女房役者となっていつも一緒に出ていた。羽左衛門の死と戦争との為に、その後は動静も一定せず、壽美蔵(※三代目壽海)と一緒になったり、我當(※十三代目仁左衛門)と一緒になったりしていた。東京でのお名残は、昨年十二月の東劇に、阿古屋と、二月堂の良弁、『佐々木高綱』のおみのとであった。二月には京都の南座へ出て、松平長七郎、弁天小僧、阿古屋、柿右衛門などを勤めたが、この柿右衛門がなかなかの出来で、芝居も大入であった。四月は大阪で延若梅玉と一座し、弁天小僧と『いもり酒』の夕秀とを勤める約束になっていた。(後略)」(「演劇界」昭和21年5月号 “仁左衛門事件” 筆者不明)〈判決〉昭和22年(1947年)10月22日─「精神鑑定の結果、心神耗弱がみられたため」、飯田利明に無期懲役の判決。→栄養失調による極限状態から、精神に支障をきたしたか?※飯田利明は出所後に自殺したとする資料もあり。〈遺族の証言〉「(前略) 仁左衛門には、それまでに我童(平成5年死去)、市村吉五郎、芦燕の男三人の子があったが、一緒に殺された登志子さん(当時二六)との結婚ですでによそに住んでいた。わずか二歳の三郎ちゃんも犠牲になったが、生活をともにしていた照江さん(当時三つ)だけが、たまたまその夜、神田の照江さんの祖母・吉田香代さんの家に泊まりにいっていて難を逃れた。そして、この香代さんが事件の第一発見者となった。照江さんを連れて千駄ヶ谷の仁左衛門宅に戻ったのだが、もう午前十一時というのに雨戸が閉まったまま。いつもはきちんと水も打ってあるのにと、戸を一枚だけ開けて真っ暗な廊下に入ると、妙に滑る。足袋がびっちょり。真っ赤に染まっていた……。『焼いてふくれたモチの頭にショウユを塗ってくれた』という優しい父の記憶はあるが、ほとんどは、この祖母から事件を聞いて育った。犯人は四日後、宮城県で逮捕されたが、凶器となった薪割は片岡家のものではなく、隣家のものだった。 (中略) その後、なぜか第一発見者の証言は求められなかったという。しかし、やはり最大の問題は“食べ物の恨み”で済まされてしまったことだった。食べ物の理由が世間の同情を受けやすいということもあったろうか。六百円がとられている。当時とすれば大金だ。『地方のひいきから送られてきたお米がいっぱいあったし、面倒見のいい父がそんな差別をするような人ではなかった』と、照江さん。照江さんによると、犯人の弁護士から『食べ物の恨みにしてもらえないか。そうでないと死刑になってしまう』と頼まれ、祖母がそれを受け入れたという。それが功を奏したか、犯人は無期懲役 (後に出所) になった。『実は犯人が獄中から祖母にあてた“礼状”があったのですが、紛失してしまった。唯一の証拠だったのに残念でなりません』これまでも“間違い”の訂正を試みたこともあったが、なにをいっても最後は『食べ物の恨みは怖い』になってしまい、あきらめていた。 (中略)『よくしてくれた父だった』と芦燕。何事も親身なのは父親譲りか。『だれもが忘れてしまっていること』という気持ちが強いようで『ああいう時代だったから』とあまり語らない。事件に隠れ、俳優としての評価が忘れ去られている。立役も女形もこなしたが、十五代目羽左衛門の相手役を務めた。現在(※当時)の十七代目羽左衛門は『仁左衛門さんの“義賢最期”の印象はいまも鮮明。名優の一人だった。』という。」(東京新聞 平成6年11月1日 「遺族が語る“50年目の真実”」)「世間はかれを梅幸の代替品として見ていたが、お富だの、三千歳だの、そういった役柄において梅幸に要求したのと同じものを、かれに要求することは見当違いだったように思える。狷介で、気取り屋で、気位の高い彼れ、そして冷たくけれども気品ある容貌の彼れには、市井の莫蓮女、例えばお富のような心中仕そこねのお妾風情には心からなり切れなかったのかも知れない。純情な悲恋の女──別して朝顔日記の深雪や安達ヶ原の袖萩、そういった“たとえ落ちぶれても、もとこれ“歴乎とした武家の娘”といった気位の高い悲劇美の女性を演ずる時においてこそ、彼れのよさはいみじくも光るのである。所詮彼は悲劇の、そして悲劇の美しさを最もよく表現し得る役者の一人だった。しかしその最期のあまりに残酷だったこと、これこそ彼に取っての悲劇である。」(「アサヒグラフ」昭和21年4月25日号 『“仁左”殺人事件』 小倉敬二 述)墓所は身延山久遠寺 覺林坊にあり、戒名「大乗院仁優日東居士」十二代目 片岡仁左衛門 明治15年(1882)9月9日~昭和21(1946年)年3月16日
2026.01.30

○昭和20年(1945年) 63歳※2月16日、米軍機動部隊が本土初空襲 3月1日、硫黄島の日本軍全滅 3月10日、東京大空襲(B29の夜間攻撃、この頃よ り空襲が激化) 4月1日、米軍、沖縄島に上陸 5月25日、空襲により歌舞伎座焼失 7月11日、主食配給の1割減を実施 8月6日、広島に原子爆弾投下 8月9日、長崎に原子爆弾投下、ソ連の参戦 8月15日、終戦 8月28日、占領軍第一陣が上陸 8月30日、マッカーサー元帥厚木に到着10月 新宿第一劇場(4日~28日)「沓掛時次郎」おきぬ「弁天娘女男白浪」弁天小僧菊之助11月 新宿第一劇場(2日初日)「いわし雲」その妻「番町皿屋敷」後室真弓「与話情浮名横櫛」与三郎「与話情浮名横櫛」右から芦燕(十四代目仁左衛門)のお富、仁左衛門の与三郎、六代目寿美蔵(三代目寿海)の蝙蝠安12月 東京劇場(4日初日)「良弁杉由来」良弁「壇浦兜軍記 阿古屋」阿古屋「佐々木高綱」おみの
2026.01.30

○昭和19年(1944年) 62歳1月 明治座(1日~14日)「鏡山旧錦絵」局岩藤「心中天網島 河庄」紙屋治兵衛「心中天網島 河庄」紙屋治兵衛※1月7日、大本営、インパール作戦認可2月 歌舞伎座(1日~26日)「木村長門守 (坪内逍遥 作 桐一葉の内)」淀の方※2月1日、米軍、マーシャル群島に上陸。 2月6日、クェゼリン・ルオット両島の日本守備隊 全滅3月 大阪 歌舞伎座(1日~4日 ※1)「義賢最期」木曽先生義賢「松平長七郎 (十代目片岡仁左衛門追善狂言)」松平長七郎「腰越」源義経「与話情浮名横櫛」妾お富〈劇評〉『与話情浮名横櫛』「仁左衛門のお富はよくなったが、色気に乏しいし、やはり淋しい。」(「演劇界」昭和19年4月号)※1 政府の高級享楽停止の方針に則り、5日以降一時閉鎖。※3月8日、インパール作戦開始4月 明治座(1日~28日) 「楠公夫人」正成夫人「二人袴」右馬之助※4月1日、歌舞伎座、帝国劇場、日本劇場などの大劇場を閉鎖※6月15日、米軍、サイパン島に上陸 6月16日、米軍機が北九州を来襲 6月18日、日本軍、中国長沙を占領 6月19日、マリアナ沖海戦、空母の大半を失う 6月30日、大都市の学童集団疎開の決定、及び実施7月 浅草 松竹座(6日初日)「信州川中島 輝虎配膳」長尾弾正少弼輝虎「松縁東錦絵」久松、お光、お染、雷神、子守娘〈劇評〉「七月十三日の暑熱に蒸されて、それこそてっきり地獄の蓋が開いたに相違ないと思わせられる劇場内に、歌舞伎と舞踊の一座と知っての見物がギッシリと詰めかけて、汗を流して見入っていた。(後略)」『輝虎配膳』「ともかく之は見た目がいかにも暑いので閉口する。 (中略) 仁左衛門の輝虎は、これ又水に離れた鯉のように、あまり度々口をパクパク開きすぎる。文楽人形と云うのでもあるまいに、こちらも喉が渇いている時だけに気になる。 」『松縁東錦絵』「同優七役の『お染久松』の所作事も一人よがりのわけの分からぬ上方物ではあり、これを見るから暑苦しい雷神などと云う役もあって閉口するが、砂や灰が交じっていないだけに、大衆の毒にはなっていない。」(「演劇界」昭和19年8月号 坪内士行 述)※7月4日、大本営、インパール作戦の失敗を認めて作戦中止を命令7月7日、サイパン島の日本軍全滅7月21日、米軍、グァム島に上陸8月 新宿第一劇場(5日~18日)「新書 太閤記」織田信長「生写朝顔日記 (宿屋~大井川まで)」朝顔実は深雪〈劇評〉『生写朝顔日記』「仁左衛門の朝顔は勿論十二分に手慣れた物ではあるが、折角砂糖入りの蜜糖も日にち程経て味薄しの感が深い。」(「演劇界」昭和19年9月号 坪内士行 述)※19日より二の替り「瞼の母」半次郎母おむら「菅原伝授手習鑑 寺子屋」松王「菅原伝授手習鑑 寺子屋」松王※8月1日、砂糖の家庭用配給を停止※9月29日、グァム島・テニアン島の日本軍全滅10月 明治座(5日初日)「源平布引滝 義賢最期」木曽先生義賢「権八夢一節」小紫「源平布引滝 義賢最期」木曽先生義賢〈劇評〉『義賢最期』「主役の仁左衛門の義賢が、力演はしているが不出来である。不出来というよりは演出態度の根本が間違っている。こういう院本物は本来、人形浄瑠璃から出たものであるから、先年の三津五郎の如く、床に即した動作に拠って心持ちを表現し、吐芸に拠って裏付けるべきで、悪写実は避けなければならない。仁左衛門のように、徒に誇張した顔面の表情を用いたり、手足をぴくぴく震わせて苦痛を現わしたり、電気照明の明暗を用いたり、顔に電気を照らしたりするのは何れも邪道である。誰の型を真似たのか知らないが、恐らく上方式のやり方であろう。前回は之ほどひどく無かったが、今回は緞臭が強く、あくど過ぎる。要するに羽左衛門名品実盛と同時に演ぜられる代物ではないのである。」『権八夢一節』「仁左衛門の小紫も釣合が悪くなく、義賢とは丸で役者が違って見える。」(「演劇界」昭和19年11月号 清水虎雄 述)※10月10日、米軍機動部隊が沖縄を攻撃 10月18日、満18歳以上を兵役編入 10月19日、神風特別攻撃隊編成 10月20日、米軍がレイテ島に上陸 10月24日、フィリピン沖海戦11月 浅草 松竹座(2日初日)「大岡政談 天一坊」天一坊、池田大助「京人形」京人形※11月29日、B29の東京初空襲
2026.01.30

○昭和18年(1943年) 61歳1月~2月 歌舞伎座(2日初日)※二ヶ月の長期興行「義経千本桜」銀平女房お蝶実は典侍局「神明恵和合取組」女房お仲「義経千本桜」銀平女房お蝶実は典侍局「神明恵和合取組」女房お仲〈回想談〉「三嶋のおばさん(※六代目尾上菊五郎夫人 寺嶋千代)は六代目(※菊五郎)さんとの以前に、十二代目仁左衛門さんとの間に市村吉五郎さんをもうけているわけでしょう。だから六代目のおじさんと十二代目のおじさんは一度も舞台を一緒にしなかったというのですけれど、一回ありました。一度だけ、『め組の喧嘩』で辰五郎夫婦をなさり、二人の間の子である又八を私がやったのです。(十八年一月)(中略)私が、芝のおじさんの辰五郎にお仲が松嶋屋のおじさんでしたと話したところ、市村兄さん(十七代目羽左衛門)が、そんなことをするわけない、と憤ったけれど、現に私はふた月続演で出ていましたもの。 (中略) 二人の雲行きが怪しかったというのは、もっともっと昔のことで、『め組』のお仲をさせる頃には、もうそんなことはなかったのではないでしょうか。とてもいいお仲でしたよ。とても素敵なお仲でした。十二代目さんは声柄がいいし、綺麗だし。私、『七段目』のお軽なんか好きでレコードをよく聴きますよ。素敵ですよ。」「私が最も松嶋屋で印象に残っていますのは、何回も申し上げるように六代目の辰五郎で勤められた女房お仲(『め組の喧嘩』)です。おじさんのお仲は、なかなかお腹(なか)の強い女でした。そういうことは、二十五日側にいて見聞きしないとわかりません。本当に実の母親のように思いました。世間では、おじさんの舞台の感じを冷たいといいましたが、お仲は母親の情に満ちていましたよ。綺麗なお声で、実になんともいえない甘いお声で、阿古屋や『朝顔日記』の深雪が評判になったのはうなずけます。私には宝物と思うLPがあります。『源氏店』のお富、もちろん与三郎は十五代目の橘屋です。 (中略) ことに『七段目』のおかるはその女房ぶりといいその声の美しさ、(中略) このレコードを聞くのが何よりの楽しみです。」(「澤村田之助むかし語り~回想の昭和歌舞伎~」六代目澤村田之助 著)※1月13日、ジャズレコード禁止 2月1日、ガダルカナル島から撤退開始3月 歌舞伎座(2日初日)「改作 桐一葉」淀の方「平家女護島」丹左衛門尉基康「小鍛冶」三條小鍛冶宗近〈劇評〉『改作 桐一葉』「淀君の仁左衛門持として選ばれたのだろうが、畜生塚の怪夢と、奥殿密訴の一幕二場だけでは、錦襴手の大鉢に、口替りをポッチリ盛った形で、箸をつける客のあっけなさよりも、盛つけをする板前の方が、脾肉の歎に堪えまいと察する。仁左衛門が柄に於いて、今での淀君役者であることに異存はない。」(「演芸画報」昭和18年4月号)4月 歌舞伎座(2日初日)『團菊祭興行』「伽羅先代萩」乳人政岡「四季」五人囃子「与話情浮名横櫛 源氏店の場」妾お富「伽羅先代萩」乳人政岡(中村時雄の一子千松)〈劇評〉『伽羅先代萩』「御殿と云っても、近頃の定式で栄御前のお入りからである。もう飯炊きなどは永久に見られないものか。 (中略) 仁左衛門の政岡は無事の部」『與話情浮名横櫛』仁左衛門のお富はまだ極印とはゆかぬが、大分冷たい所がとれて、お富らしくなりかかっている。しかし多左衛門に『いい兄を持って仕合せだ』と云われ、恥ずかしそうにニッコリ笑って後を向くなどは考え違いだろうと思う。冷汗をかく氣持でなくてはなるまい。」(「演藝画報 」昭和18年5月号)※4月18日、山本五十六、ソロモン上空で戦死5月 歌舞伎座(3日初日)『團菊祭延長興行』「雪暮夜入谷畦道」大口屋三千歳※5月1日、木炭や薪が配給制となる 5月29日、アッツ島日本守備隊全滅6月 歌舞伎座(2日初日)「源平布引滝 義賢最期」木曽先生義賢「雪暮夜入谷畦道」大口屋三千歳「源平布引滝 義賢最期」木曽先生義賢〈義賢最期の解説〉「六月の歌舞伎座に珍しく『源平布引滝』義賢最期の場が出た。(中略)爰(ここ)は昔もよく出た場であって、江戸時代には五代目の團蔵、鼻高の幸四郎、四代目の三津五郎などが大当りを取っている。大抵は実盛と替ったものである。今度の仁左衛門は大分写実でやっているが、赤姫や繻子奴の出る芝居なのだから、もっと時代なほうがいい。顔の糊紅なども要らない事だと思う。落入る時がこの役の見せ場で、大紋を広げてスックと立ち、ヒー、テンという笛と太鼓に合せて、棒倒れに倒れるのが型である。仁左衛門が今度の手本にした、中村信濃という人は、まともに三段の上へ倒れて鮮やかな落入りを見せたそうだが、それは一種のケレンであろう。なまじ倒れないほうが、却って古風に見える。私は昔、浅草の小芝居で、浅尾朝之正という女役者のやったこの役を見たが、その時は倒れないで、立ったまま幕を切り、可成りに悲壮味を出していた。この場は演出に依っては相当面白い効果があげられるのであるが、今度は中を大量に削った関係もあって、ひどく水ッぽい芝居になってしまった。」(「演芸画報」昭和18年6月号 “歌舞伎保存断片 「布引瀧」の前後” 今谷久平 述)〈回想談〉「『義賢最期』はめったに出たものではなく、松尾国三さんの奥さんの市松延見子さんが巡業(たび)ででもなさったのでしょう、義賢にこまかい注文を出していらっしゃいました。多田蔵人が猿翁(※二代目猿之助)のおじさんでね。あのとき上演したから、この芝居も現仁左衛門さんが受け継いでいのちを保ったのですから、昔は小芝居でもいろいろなことを知っている人がいたのです。そのおかげで珍しい出し物も出していましたよ。九郎助は訥子さんでした。もう五十代でしたでしょう。太郎吉を前向きに背負って、九郎助も太郎吉もチャンチャンバラバラやりました。」(「澤村田之助むかし語り~回想の昭和歌舞伎~ 六代目澤村田之助 著」)※10月号をもって「演芸画報」廃刊、11月1日より「東宝」「国民演劇」「演劇」「現代演劇」「宝塚歌劇」「演芸画報」の六誌を統合して「演劇界」を発刊。「大東亜戦争も決戦段階に入り、日々苛烈な戦況を聞くに至った今日、すべてを戦力増強に集中すべきである事は論を俟ちません。今般演劇雑誌もこの国策に従い、統合する事にきまりました。 (後略)」 (「演芸画報」昭和18年10月号)10月 歌舞伎座(1日初日)「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」後室微妙「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」後室微妙11月 大阪 歌舞伎座(1日~25日)「笠」小町「仮名手本忠臣蔵 (三段目~七段目)」顔世御前、早野勘平12月 南座 顔見世興行(1日~19日)「小鍛冶」三条小鍛冶宗近「花曇宵編笠」不破数右衛門
2026.01.30

昭和17年(1942年) 60歳1月 歌舞伎座(2日初日)「日本第一 和布刈神事」静御前、榊葉「二人袴」老松「名橘誉石切」娘梢「名橘誉石切」娘梢『決戦下の興行信念 松竹専務 井上伊三郎』「一億国民火の玉となって大東亜戦完遂に粉骨砕身しつつあるの時、我々興行に携わる者は如何なる方針を以て職域奉公の赤誠を尽し、その職責を全うすべきであろうか。 (中略)現下最も要望されるものは歌舞伎にも心配にも『名脚本の出現』である。我々は伝統の価値ある名劇を尊重保存する一方、時代の如何を問わず、啓蒙指導性に富むと共に興味津々の名脚本を翹望し、如何にすれば、名脚本を獲られるかに惨憺の苦心を払って居る。 (中略)今日最大要望たる名脚本の出現は単に松竹の幸福のみでは断じて無い、大日本文化の為め大日本演劇の為めだ。我々は松竹の利害と云う如き小乗的見地を心の奥底から棄て去り、大日本演劇の為めに微力の限りを尽くしたい信念に燃えている。(中略)そして健全娯楽が国民の士気をいやが上にも昂揚し、一億の心の団結を益々強化する所以なるに思い到れば、我々は職責上自ずから感奮禁じ得ざるものがあるのである。」(「演芸画報」昭和17年2月号)※1月2日、日本軍マニラを占領1月14日、ビルマ領二進撃1月18日、日独伊新軍事協定を調印2月 歌舞伎座(1日初日)「博多小女郎湊枕 小町屋惣七内の場」(情報局国民演劇参加作品) 女房小女郎「黒手組曲輪達引」三浦屋揚巻「博多小女郎湊枕 小町屋惣七内の場」右 仁左衛門の女房小女郎、左 十五代目羽左衛門の小町屋惣七〈劇評〉『博多小女郎湊枕』「仁左衛門の小女郎が近頃珍しくも柔味があった。」(「演芸画報」昭和17年3月号)※2月15日、日本軍シンガポールを占領3月 歌舞伎座(2日初日)『十四世市村羽左衛門追善興行』「鏡山旧錦絵」召使お初「近江源氏先陣館」篝火「鏡山旧錦絵」召使お初〈劇評〉『鏡山旧錦絵』「名題だけを踏襲して、中味は例の大阪仕立の改悪脚色、敢て羊頭狗肉とはいわないが、ヘンに実録風の理屈など押付けて、脂肪(あぶ)気抜きの湯掻殻に、旧衣を着せた新解釈がりは、どうにも箸のつけようがなく、時間節約の犠牲になった登場者を、ただ気の毒という外なく、宗十郎の尾上に、友右衛門の岩藤、仁左衛門のお初と、それそれ身分は立ったことだけを、慰労の意味で記録するに止め、余計な評は差控えるとして、ここに何とも不思議なは、尾上が自害をする間、お初は屋敷から一歩も出ず、局廊下を往復(ゆきかえり)するだけなので、石州浜田といえば小藩の江戸屋敷が、いかに広大無辺であったかということである。なまじっか実説がってあるだけ、つい偏痴気論がいいたくなる。」(「演芸画報」昭和17年4月号)〈『加賀見山旧錦絵』における回想談〉「それから話しが別になりますが、大勢の役者衆の中にはつき合いのいい方も、もう一つつき合いの良うのうて困らされる方もございます。つき合いのよくない方では先年お気の毒な死方をされた仁左衛門さんなどそうでした。この方は稽古のときでも、自分の居所にジッとしていないで始終体を動かされるので相手に廻ったものがよくボヤいておりました。それに台詞も口の中でボソボソと独り言のようにいわれるので、これも相手に廻るものが困りました。相手方の台詞がこちらによく判らぬと、こちらの台詞もいえず、その受け渡しのイキがわからないからでございます。稽古の時からこんな調子でっさかい、芝居が始まっても、常に自分がワキの役でいて、シテのように見せようとされる。それで、いつも人より一歩前へ出て芝居をされることになる。これがどうも邪魔になるので、これもよく蔭げ口をいっておられた方もございました。私など、あんまりそうしたことを気にせぬ性質(たち)なので、別になんとも思っておりませんでしたが、それでも、そうしたことが二回三回と重なると、気がようないもので、ツイこちらもそのつもりで芝居をするということになり勝ちでございます。いつでしたか中座で『加賀見山』が出て、私の尾上に仁左衛門さんがお初。その尾上部屋の場で私の尾上が自害する。お初が駈け戻って来る。この時、尾上が屏風の前で横になって死んでいると、お初が芝居をするのにホン具合がよろしゅうございますが、仁左衛門さんが右に申しました通り附き合いの悪い方なので、こちらもちょっと悪戯気が起こって、屏風の前で死んでいるのを、ワザと屏風の後へ半身だけ隠して死んでいましたが、こうすると、尾上の死骸(なきがら)にとりついて芝居するお初の方が、ホン仕難うなります……いってみれば常々の仁左衛門さんに対するこッちゃの嫌がらせなんです。でもとうとう三日目にお弟子さんが私の部屋へ見えられて『相済みませんが、明日から屏風の前で死んでいただきますようお願申し上げます。でないと、どうも芝居が仕難うございますので……』と頼みに来やはりました。こっちは、いわれいでも判っています。ワザとしているのでっさかい『エエそうだしたか、デハ明日から言葉どおりにしましょう』と返事して、翌日から屏風の前で死んでることにしたことがございました。(「梅玉芸談」山口廣一 著“ お初を困らせた尾上”)※3月1日、日本軍ジャワ島に上陸3月8日、日本軍ラングーンを占領3月9日、ジャワ島のオランダ軍降伏5月 歌舞伎座(2日初日)『團菊祭延長興行』「扇音々大岡政談」吉田三五郎「江戸育お祭佐七」芸者小糸「江戸育お祭佐七」芸者小糸写真〈劇評〉「ありし日の團十郎、菊五郎の当り芸を、昭和の観客の前に演じて見せると云う興行目的から云って、出し物の撰みかたが苦しくなるのはやむを得ないが、(中略) 原作の省略のしかたに一言なきを得ないのである。この未曾有の大戦下に、こうした豪華な興行を続けてゆくには、非常な苦心があるであろうことはよく分かるが、総力戦体制下にある国民に慰さめをあたえ、明日の力を養うための演劇と云う建前から考えて、いま少し現在の国家情勢に応じた興行法が考えられなければなるまいと思う。無論、松竹の大谷氏をはじめ興行関係の人々は、とかく、その点に考慮をついやして居られると思うが、歌舞伎がわが国演劇の代表的なものであり、将来繁栄をつづけてゆく為には、大きな革新を要するのではあるまいか。(中略)二部興行とは云え、実に百名の俳優軍を擁しての大興行である。これは、出し物の上の必要からでは決してない。明治以来七十年の興行史に現われた俳優過重の余弊である。おそらく團菊がこれら狂言を上演した頃は、こんな多勢の俳優は使用しなかったであろう。」『江戸育お祭佐七』「仁左衛門は、梅幸亡き後の歌舞伎の陣営で、羽左衛門の対手役として、唯一の人であり、舞台姿も美しく、まことに結構であるが、当人がつとめてなろうとしている柳橋の芸者と云う江戸好みの芸者になり切っていない。これは、仁左衛門が芸だけでなろうとしても資質にそなわるものが違っていてはどうにもならないのである。」(「演芸画報」昭和17年6月号 長田秀雄 述)※5月7日、日本軍コレヒドール島占領、珊瑚海海戦5月9日、朝鮮に徴兵制施行を決定6月 歌舞伎座(1日初日)「天目山」夫人相模の方「与話情浮名横櫛」妾お富「夜討曽我狩場曙」源頼朝「俠客春雨傘」傾城葛城「墨塗女」妾花野「与話情浮名横櫛」妾お富「夜討曽我狩場曙」源頼朝〈劇評〉『天目山』「額田六福氏作・巖谷三一氏演出 (中略) 敗者の勝頼が天目山の最期に、北条家出身の相模の方が、里方から復帰の使者、また夫からも退散を勧められながら、敢然これを斥けて、夫と運命を共にするという、貞烈ぶりを主題とした新史劇、(中略) 宗十郎の勝頼が主人公だけれど、役としては仁左衛門の夫人が女天下で占めていいる。」『与話情浮名横櫛』「またかでありながら、やはりお目当の『源氏店』である。これも与三郎が顔さえ見せて、お約束の“御新造さんえ”と来れば、幾年見せられても待兼ねた観客(けんぶつ)が、ずっと乗出して息を呑むのだから、最早芸を超越して、宗教の境に達したと見る外ない。(中略)仁左衛門のお富も本役になりきッて一回毎に色気の加わるのは感心、(後略)」『夜討曽我狩場曙』「さみだれ月に唯一の季節狂言、筐(かたみ)送りから討入をすッ飛ばして、すぐ仮屋問答になる簡明ぶり、(中略)仁左衛門もこの場の頼朝にはまッて当人よい心持ちにちがいない。」(「演芸画報」昭和17年7月号)※6月5日、ミッドウェー海戦 6月7日、キスカ島占領 6月9日、大政翼賛会を全面的に改組7月 帝国劇場(4日初日)「会津籠城」佐の上家次女由紀「本町廿四孝 十種香」腰元濡衣「伊勢音頭恋寝刃」油屋お紺※「会津籠城」佐の上家次女由紀、「本町廿四孝 十種香」腰元濡衣、「伊勢音頭恋寝刃」油屋お紺写真※7月11日、大本営は南太平洋侵攻作戦の中止を決定8月 歌舞伎座(1日初日)「椀屋久兵衛」椀屋久兵衛「勤皇風土記」芸者お艶「椀屋久兵衛」右より、六代目寿美蔵(三代目市川寿海)の備前の惣八、仁左衛門の椀屋久兵衛、芝翫(六代目歌右衛門)の松山〈芸談〉「『椀久』は真山青果先生の斯ういう歌舞伎風な作品の最初のものとかうけたまわって居ります。鴈治郎さん(※初代)のために書いたものだそうですが成駒屋はんがおやりにならなかったので、私の方でお願いしてやらせて頂いたのですから、私に書き下して頂いたお作といってよいかも知れません。当時はひどく新しがったもので、『邦劇座』という私のための劇団をつくり、大森痴雪さんが主事、木谷蓬吟さんを顧問に、年一二回やりたい芝居をやりました、この仕事は四五年続きましたが、その旗揚げ興行を浪花座で四日間やった時の出し物が『椀久』だったのです。ところで、この時の芝居は、台詞をすっかり大阪弁に直して、向こうの人に分り易いようにしましたが、演伎は新しい芝居の心持で全部写実風、一切お芝居らしい仕草を避けました。その癖が出て、今度もさらっとしていけないといわれているようですが、初演の時から見るとずっとお芝居にしているつもりなのです。例えば合方なども自然にきこえるもの以外使わなかったのを今度は幾分妥協して使っていますし、顔などもせいぜい白く塗っています。一番困ったのは時間によるカットで、序幕で備前の惣八に勧められて長崎へゆく気になる、あそこの心理の動きが、カットがひどいのでお客様に納得がいかないと思いますし、自分としてもやりにくいのです。この芝居の山は二幕目の“吉田屋座敷”の場で、卜斎とのやりとりのところでしょう。二番目の『勤皇風土記』のお艶は演出の佐々木さんの注意で、男を欺すのでなしに、しんから惚れなければいけないといわれ、やりにくいといえばやりにくく、工夫があるといえばそんなところにあるとでも申しましょう。」(「演芸画報」昭和17年9月号)〈劇評〉「随分古い狂言で、震災前大阪で、まだ仁左衛門が我童時代にやったのを見たし、有楽座で壽美蔵松蔦のも見た。真山氏の作としては余り上等な物でもないと思われる。證文の間違いから、一旦身請けになった松山が、又のめのめと遊女かに戻るとは、如何に昔にしてもあまりにも不条理で、どうにも二人に同情することが出来ない。(中略)仁左衛門の演伎が又どうにも空々しい。例に依って石のように冷たい態度は、序幕でさほど目立たないが、揚屋になると、露骨になってくる。それをこの人一流の妙な写実芸でカバーしようとするから余計に上すべりがして同情を誘わない。どうして、この人は情熱が無いのであろう。筋が無理なのだから情熱で見物を引きつけなければならないのに、他人の為に台詞を云っているような態度なのだから一層歯がゆくなってくる。失望した時の仕草など、余りにも一人かけはなれていて、おかしくさえなる。嘲られても平然として松山と侘びた住居に人形を作っているような男にはとても見えない。」 『勤皇風土記』「緞帳式な狂言である。いったいこの頃は大歌舞伎で、浅草でやりそうな品のない脚本を平気で出しているが、これは考えものだ。大歌舞伎は例え二番目狂言でも、大歌舞伎らしい品格を具えていてもらいたい。芸者に騙されて悔悟し、勤皇に志す侍と、盲目になって改心するその芸者とを対照させた筋であるが、ただその筋を平坦に叙述してゆくだけで、碌に音楽さえ使わず、芝居らしい山もなく、筋だけが移動して役者は只引摺られているだけだ。仁左衛門の芸者は、こんな役になると欠点が物を云い、大した度胸もない毒婦ぶりに巧い所がある。」(同)〈観客評〉「流石上方育ちだけに椀久のような役になると仁左も滅法良い。零落してもお坊ちゃん気質のぬけない椀久の感じをよくあらわしている。仁左のふくよかな顔とおっとりした姿が実にあっている。」(同 “読者倶楽部”) ※8月7日、米軍ガダルカナル島上陸 8月8日、第一次ソロモン海戦10月 歌舞伎座(1日初日)『福地桜痴・河竹黙阿弥追福興行』「仮名手本忠臣蔵 五・六・七段目」おかる七段目のおかる〈劇評〉「仁左衛門のお軽は近頃また昔の冷たい空々しさが復活して、折角の役を壊している。(中略)七段目は大急行で、幸四郎の由良之助、仁左衛門のお軽、羽左衛門の平右衛門とも、追い立てられるような演伎に見ているほうも落ち着かなかった。」(「演芸画報」昭和17年11月号)同 東京劇場(1日初日)※掛け持ち出演「平家女護島」丹左衛門尉基康「沓手鳥孤城落月 奥殿 糒庫」淀の方「壺坂霊験記」女房お里「平家女護島」丹左衛門尉基康「沓手鳥孤城落月」淀の方「壺坂霊験記」左 仁左衛門の女房お里、右 六代目寿美蔵(三代目寿海)の座頭沢市〈劇評〉『平家女護島』「第一に猿之助(※二代目)が親ゆづりの『俊寛』を見せて居ります。(中略)仁左衛門の基康は困ります。こんな役をああ味も素ッ気もなくサラサラやってしまっては詰まりません。儲かる所をわざと外らして冷然としているやり方では、この芝居が面白くなくなります。もっと儲ける所をしっかり儲けてくれないと、幕が水ッぽくなります。柄から云えば過ぎた位の基康だのに惜しいことです。」『沓手鳥孤城落月』「仁左衛門の淀君は、慥(たし)かに嵌り役なのですからもう少し巧い筈ですが、まだ研究が足りないでしょう。糒庫のほうは下品でいけません。両手を胸へ入れてはだける仕草などは、色気をつけるつもりかも知れないが、益々下品になりました。奥殿の方は上出来ですが、まだヒステリー振りが足りないようです。もっと深く掘り下げて、将来の持役になるように望みます。」『壺坂霊験記』「『壺坂』はなかなか面白うございました。爰(ここ)へ来て仁左衛門のお里も大いに見直しました。こんなな役では流石に旨い味があります。ウンと若く作っていたのも原作の意にかないでしょうし、演出の手順もよく研究してあって、無駄がありません。ただサワリの間の動きは平凡ですし、チョボ(※義太夫)とのやりとりが少し烈しすぎるように思います。爰は成るべく義太夫に任せて置いたほうが歌舞伎らしくっていいでしょう。観音堂の場が殊に巧いと思いました。『忠臣蔵』のお軽では、あんなに冷たかったのが、斯うも変わるかと思うほど情がありました。蘇生してから引込みも少しも難はございません。近頃での当り物でありましょう。」(「演芸画報」昭和17年11月号)※10月26日、ガダルカナルの攻防をめぐり南太平洋海戦11月 歌舞伎座(10月29日初日)※10月からの延長興行「仮名手本忠臣蔵」桃井若狭助安近、おかる「仮名手本忠臣蔵」桃井若狭助安近※11月1日、大東亜省を設置、拓務省など29局13部を廃止し行政の簡素化をはかる。12月 歌舞伎座(3日初日)「春風帖」娘応為「廓文章」扇屋夕霧「廓文章」扇屋夕霧(十五代目羽左衛門の藤屋伊左衛門)〈歌舞伎のお家芸〉「片岡仁左衛門の家は可成り長く続いているので、大分役柄が違って来ています。初代の当り役といったら團七でしょう。これはいつもの『夏祭』ではありません。イヤ仁左衛門の團七を見て、人形の『夏祭』が出来たのだから、此の方が本家なのです。どんな筋だか解りませんが、とに角この役はお家芸と云えましょう。今の我當(※十三代目仁左衛門)が子孫に至って復活した訳です。六代目までは何も伝わらず、七代目は実悪で、師直を殊に得意とし、五斗の鉄砲も自慢物でしたが、演出は伝わっていません。『五大力』の三五兵衛はこの人の初演ですが、脇役ですからお家芸とも云えますまい。八代目に至って、いろいろと出来ました。この人は和事師で、何よりも『封切』の忠兵衛が得意でした。これは純然たる片岡家のお家芸で、十代目から先の仁左衛門、今の仁左衛門、我當まで演っています。八代目以来、片岡家は立役の家となった訳です。そして新口村では必ず孫右衛門と二役ゆくのが型になっています。流石にこれだけは誰がやっても不評は受けません。代々の俳優に忠兵衛の血が流れているのでしょう。次に『大和橋』の信孝も非常な当りで、これも代々の仁左衛門がやりました。先代仁左衛門のは少し変っていましたが、あれは古風にやった方がよろしいのです。今の仁左衛門が改名披露の役にこれを選んだのは当然でした。それから『小笠原騒動』の笹原隼人と島の小平次の二役もお家芸で、八代目は随分度々やりましたが、十代目以来絶えています。これはどうか手を加えると、復活出来る可成り面白い狂言であります。先代仁左衛門は“片岡十二集”と題して、お家芸を十代目定めました。それは『堀川』の与次郎、『庵室』の清玄、『大和橋』の長七郎、『大蔵譚』の大蔵卿、『大文字屋』の助右衛門権八、『鰻谷』八郎兵衛、『酒屋』宗岸、『石田の局』『吃又』『木村の血判取』『赤垣源蔵』『和気清麿河原の別れ』の十二であります。面白いのは、此うち仁左衛門に書いた新作というのは『和気清麿』だけで、あとは昔からある狂言の改作であったり、或は独特の演出に拠るものばかりである事です。つまり『堀川』は全然院本通りにやる。『鰻谷』や『大文字屋』は古い義太夫から探し出す。『赤垣源蔵』は義太夫と黙阿弥の作を折衷するという行き方で、全部に仁左衛門の独創の見られる所が特色であります。この中の幾つかは、後まで伝えられるだろうと思います。まだこの外に、仁左衛門が初めてやった、『さくら時雨』の紹由とか『名工柿右衛門』とかは、これも片岡家のお家芸として、残す価値が充分にあると思います。」(「演芸画報」昭和18年1月号)※12月31日、大本営はガダルカナル島からの撤退を決定。
2026.01.30

○昭和15年(1940年) 58歳1月 東京劇場(1日初日)「武鑑」小谷の方「奥州安達原」貞任妻袖萩「春色女夫酒」女房お米「元禄忠臣蔵 (御浜御殿綱豊卿)」奥女中祐筆江島「綾の鼓」姫 桂の前「綾の鼓」姫 桂の前「元禄忠臣蔵 (御浜御殿綱豊卿)」奥女中祐筆江島「奥州安達原」右 仁左衛門の貞任妻袖萩、左 市川たかし(七代目市川門之助)の娘おきみ〈劇評〉『武鑑』「永田衡吉氏作の、(中略) 北の庄の落城に於る、柴田勝家と小谷の方との気持ちを取扱った脚本で、(中略) 仁左衛門の小谷の方は又立派で、幸四郎を勝家にしないと釣合いがとれない。大体に於てする事は無難だが、角々の仕事に歌舞伎のマンネリズムを踏襲しすぎている。」『奥州安達原』「祭文の段を、仁左衛門と幸四郎で立てたものである。仁左衛門の袖萩は、仕事も巧く、押出しもよし、三味線も声も美しく、今までの袖萩役者として異存なしだが、唯一の申し分は、これは政岡でも同じこの人の弊だが、愁嘆になると兎かく仕草と気持ちが離れ離れになってしまう。悪く云うと空々しくなる所がある。見物は最後まで引き摺られないで、途中で突ッ放されたような感を抱く。大阪の俳優に折折見られる事である。それがいつも義太夫物に限っている。心すべきであろう。」『春色女夫酒』「岡鬼太郎氏のラジオドラマを舞台化した (中略) 短いものである。名人の彫物師で酒の好きな男が、大晦日に女房子の哀れさがつくづく身に泌みて、更生を誓うというだけのもの。 (中略)仁左衛門の女房も、壽美蔵の亭主も、充分気を入れてやって、時間の割に可成り面白い。仁左衛門という人は、こんなものになると、上方臭味が少しも出ず、義太夫劇のような空々しい仕草が出ず、克明で情があってなかなかいい。」『元禄忠臣蔵』「これでもかこれでもかと真山(※青果)式ネチネチさ二時間にわたって見せる芝居だ。要するに若い頃の六代将軍の、義士に対する同情を見せたものであるが、ちょっと芝居になりにくい材料を、あれほど力のある芝居に組み上げた手際と、新井白石や中老江島を巧く使った技巧と、例によって見物を引摺ってゆかなければ承知しない程籠っている熱とは、流石真山氏だけの事はあるし、殊に背景の時代色をクッキリ浮かび上らせる筆致は、お手本的なものである。 (中略)仁左衛門の江島と壽美蔵の白石は、本筋に係らぬ役だが、舞台ではやっぱり光っている。」『綾の鼓』「木村富子氏の作、(中略) 能からとった舞踊劇だ。昨年以来新作狂言が左官に現れる傾向を見せながら、舞踊劇に対して誰も関心を持たず、只一人猿之助がその方面に努力している点には敬服する。『小鍛冶』『黒塚』に次いでの作であるが、何れも種が能から来ているため、いくら装置を変えても、本行臭はやはり残っていて、三度目では又かという気にもなるし、作も前二回よりは稍(やや)劣る。 (後略)」(「演芸画報」昭和15年2月号)同 歌舞伎座(2日初日) ※掛け持ち出演「伽羅先代萩」乳人政岡仁左衛門の政岡、六代目大谷友右衛門の八汐、三代目尾上多賀之丞の榮御前、坂東光伸(九代目坂東三津五郎)の千松2月 新橋演舞場(1日初日)新橋演舞場「裏表忠臣蔵 道行旅路の嫁入」妻となせ「六歌仙容彩 業平」在原業平「寿曽我対面」小林の舞鶴「剣」岩永姫実は八岐の大蛇「日出づる國」神官「裏表忠臣蔵 道行旅路の嫁入」右 仁左衛門の妻となせ、中央 芦燕(十四代目仁左衛門)の娘小浪、左 七代目坂東三津五郎の奴「六歌仙容彩 業平」左 仁左衛門の在原業平、右 中村福助(六代目中村歌右衛門)の小野小町姫「剣」岩永姫実は八岐の大蛇〈劇評〉「皿数を並べても御馳走にならないとは今月の演舞場のことだ。見たあとの散漫な感じ、それはむしろあの皿数の多いことに原因している。日本の芝居伝統がつくっている一番目、中幕、二番目、打出しの舞踊などという狂言立ては決して出鱈目な考えからではない。ちゃんと観客心理を捉(つか)んでのことである。しかるにこれは何たることだろう。結局源平藤橘のような俳優を無理に組合せるから、こんなことになるのではないか。しかし歌舞伎座並の七圓七十銭、ずらりと並んだ俳優の顔ぶれから言えば当然だろうが、劇場の格がそれをゆるさない。それはともかくこれからは統一の取れた単騎劇団の低価興行を考うべきだ。 (中略) とにかく俳優寄せ集めのでたらめ大山盛り狂言などは、興行邪道だと思う。殊に大事な筈の女形の仁左衛門に、踊りばかり踊らせているなどは女形払底はうそかいな、と言いたいほどのべらぼうさである。 (後略)」『剣』「仁左衛門の『剣』は近頃での感銘であった。実はこの優(ひと)がここまで鋭さと強さを表現できる舞踊家とは知らなかった。単純素朴な八岐蛇(やまたのおろち)の物語を舞踊化したもので近松の『日本振袖始』の一部なのであるが、この童話劇の題材としか受取れないものから原始生活に於ける人間と外道との相剋と言った野性的な体力的な圧力をしたたかに感受しようとは全く思いがけなかった。殊に酒に酔うてから花道のすっぽんに蛇体を引いて消えるまでの所作はよく手がついていて決して飽かしめない。全く拾いものである。この成功には文楽連の強靱な芸の力が大いにあずかっている。」『寿曽我対面』「羽左の十郎、幸四郎の五郎、左團次の工藤、仁左の舞鶴。配役は至妙である。しかしわれら歌舞伎の約束を知らぬ者にはこれまた (中略) 索漠さを感じるにすぎなかった。 (中略) この老優達にはただ“型附け”だけが理性的に頭にのこっているだけで、情緒としての『対面』の世界に入ってゆくにはもう詩的幻想が枯渇してしまったのではあるまいか。 (中略) かつて俳優学校の公演会でやった『対面』の方が遙かに僕の胸に泌みるものがあった。なぜなれば彼等青年俳優は歌舞伎の美を追う若々しい情熱に、身も生活も打ちこんでいたからである。芸は型ではない。情熱である。情熱に充たされていない型は畢竟、魂のない仏である。」(「演芸画報」昭和15年3月号)※2月17日、左團次病気休演のため、「修禅寺物語」を「与話情浮名横櫛」に差し替え。与三郎─十五代目羽左衛門お富─仁左衛門多左衛門─八代目訥子蝙蝠安─七代目幸四郎※2月23日、二代目市川左團次死去、59歳。3月 歌舞伎座(1日初日)『團菊祭興行』「仮名手本忠臣蔵」お軽(六段目)〈劇評〉「東劇から掛け持ちのに仁左衛門のお軽も、羽左衛門(勘平)にふさわしい歌舞伎的雰囲気を持っている。門口での思い入れ、駕にのせられて裾のこぼれを気にするあたり、今日では珍重とすべき女形の色気である。」(「演芸画報」昭和15年4月号)同 東京劇場(1日初日)※掛け持ち出演「維新の蔭」妻信子〈劇評〉「『維新の蔭』は、永田衡吉氏作の一幕物である。 (中略) 維新の志士、梅田雲浜(猿之助)と、その貞淑な妻信子(仁左衛門)に関する挿話を主題としたもので、赤貧洗うが如き生活のさ中に、無二の親友頼三樹三郎(訥子)が訪れてくる。頼の酒好きなのを知っている信子は、自分の愛する琴を売って酒を買い、更に客に琴を所望されては、自分の着物を琴に換え、隣室で長襦袢でふるえながら琴を弾いて、客をもてなすと言う──誠に典型的な教訓挿話をそのまま芝居にしたものと思えば間違いない。観客は、こう言う教訓挿話の外に、仁左衛門得意の琴を一曲聞かせて貰える『阿古屋の琴ぜめ』ばかりで、仁左衛門の琴を聞かせるのも曲がない話だと思って、わざわざこう言う新作を作ったわけでもあるまいが、どうも作品全体が何となくわざとらしい作意に満ちていて永田氏のものとしても感心した出来ではない。 (中略)仁左衛門の芸には、最近感心したことがない。我童時代には、あの投げやりな台詞のどこかに余韻が潜んでいて、将来を楽しませたものだが、最近の彼を見ていると、心の底に何かあくどい滓が残るばかりだ。」「最後に、少し脱線して、僕の贔屓役者──と申しても舞台以外に一面識もあるわけではないが──芦燕のことを一寸書かせて貰う。芦燕は、東宝劇団にいた時も、鳴かず飛ばずであったが、今度の公演でも『阿波の粉雪』で、旅芸人小せんになって、ちょいと顔を見せるだけである。僕は、この人なんかこそ、若い女形の中では一番歌舞伎の女形らしい人で、親父の仁左衛門なんかより、ずっと素質に恵まれていると信じているのだが、どうであろうか。僕は、昔、大阪に歌舞伎の御曹子連中が作っていたちんぴら連の一座があって研究劇みたいはものをやっていた時分から、芦燕を大いに嘱目していたのである。今、見ても、実に良い女形である。親父仁左衛門のあんなへなへな声が、東京で少し買われているとしたら、この人なんか、その百倍も二百倍も買われて、若手有望組として、大いに活躍させて貰っていい筈である。歌舞伎の方の先生方に、僕の説に賛同して、芦燕を押し立ててくださる人はないものでしょうか。」(「演芸画報」昭和15年4月号 “東京劇場の新作物” 遠藤慎吾 述)4月 歌舞伎座(1日初日)「新薄雪物語」園部左衛門「俠客御所五郎蔵」傾城皐月〈劇評〉『新薄雪物語』「評者が初めてこの狂言を観たのは、明治四十三年四月の歌舞伎座に、先代仁左衛門の兵衛、歌右衛門の梅の方、故人中車の伊賀守という豪華配役で、久方振りの復活上演に、三人笑いの皮肉な場面が、当時の評判になッたのを、まだ若かッた評者などは、修行のつもりで凝視したものだが、一体この狂言は、今度の絵本筋書にもある通り、役者揃いの大一座でなくては、上演し難い関係と、名題の薄雪が不入りを暗示するとして、長く中絶していたところ、この時の大当たりから、そんな御幣なんか吹ッ飛んだとある。 (中略) その後明治座や小芝居で、一二度対面したことはあるが、歌舞伎座としては二十年末振り、しかもこの御時勢に、四幕七場の長丁場を、兎も角通して見せたのだから、珍しいも珍しいが、冒険でなかッたとはいえぬ。金碧燦然たる清水の舞台に、爛漫の花を背景にして繰り広げられる恋愛絵巻、いかにもノンビリとして、丸(ひさ)し振りに芝居を見た気分だが、実は八方への気兼ねで、さらさらと筋だけ運ばれるのだから、一向に盛り上がっては来ない。〈右から、七代目宗十郎の妻平、仁左衛門の園部左衛門、三代目時蔵の腰元籬、福助六代目歌右衛門)の薄雪姫〉福助の薄雪姫に、仁左衛門の左衛門、色気は充分と行かぬが、どッちも美しいことは無類、しかも親子ほど年がちがいながら、かなり釣合ッて見えるのは、年少な福助の名誉であり、年長の仁左衛門には強味である。 (中略)〈右から、仁左衛門の園部左衛門、十五代目羽左衛門の葛城民部、福助(六代目歌右衛門)の薄雪姫〉幸崎屋敷の詮議場で、着流しになッた仁左衛門に、和かみの加ッたのが目についた。」(「演芸画報」昭和15年5月号)〈本人談〉「今度は仁左衛門(まつしまや)の部屋へ駈けつける。 (中略)『薄雪に出たのはこれが初めてです。大分前に歌舞伎座で演った時、一見しただけです。実はこの左衛門も是非にとおすすめに不見転(みずてん)で引受けたのですが、さて脚本(ほん)を見て大変な役なのに驚きました。詮議の場なぞ左衛門が中心ですが、といって派手な動きがあるではない難しい役です。大体純二枚目の役ですが、演っている本人がいやだと思ったら演っていられるものじゃありません。まア見て頂きましょうと、観客(けんぶつ)を呑んでかかるような気持ちにならないと演れません。若い優(ひと)はこんな生じゃらけた役は嫌がるかも知れませんが、私は好きです。こういう役には興味がもてます。忍んで入る個所(ところ)など、義太夫(じょうるり)の曲節(ふし)も皮肉に面白く出来ていますが、それに乗って入るのは嬉しい気持です。演(し)にくい役ですが、それだけ演り甲斐のある楽しい役です』そう言いながら仁左衛門は紫の頬被りをした。色気のある優(ひと)だ。『まア見て頂きましょう』と照れずに言えるだけの自信も当然(もっとも)である。」(同 “歌舞伎座楽屋うろつ記” )5月 歌舞伎座(1日初日)「義経千本桜 鳥居前 すし屋」九郎判官義経、鮓屋弥助実は三位中将維盛「歌舞伎十八番の内 ういらう」(高麗蔵改め九代目市川海老蔵襲名狂言) 大磯の虎「義経千本桜 鳥居前 すし屋」鮓屋弥助実は三位中将維盛「歌舞伎十八番の内 ういらう」(高麗蔵改め九代目市川海老蔵襲名狂言) 後段右より、仁左衛門の大磯の虎、十五代目羽左衛門の工藤、三代目時蔵の化粧坂少将、七代目家橘(十六代目羽左衛門)の黄瀬川亀鶴、五代目助高屋高助の梶原平次、前段右より七代目宗十郎の曽我十郎、高麗蔵改め九代目海老蔵の曽我五郎、六代目友右衛門の朝比奈三郎義秀6月 大阪 角座(1日初日)『東西合同大歌舞伎』「将軍頼家」源頼家「蛇姫様」千太郎こと千右衛門、娘おすが「蛇姫様」右 仁左衛門の千太郎こと千右衛門、中村もしほ(十七代目中村勘三郎)のお島〈劇評〉『将軍頼家』「最初『傀儡船(くぐつぶね)』の題で書卸された長い脚本を、法華堂門前と鎌倉石室の御所との二場物にし、仁左衛門は尼御台も頼家も演じているが、今度の台本も其時のもので、内容は簡明で判りがよく、主役が仁左衛門にぴったり適(はま)って見堪えがあった。 (中略)仁左衛門の頼家が其役になりきって、あの人の冷たい神経質な相貌が遺憾なく役立ち、品位もあり、また長物の達人と思われる如き鋭さも見え、朗々たる音声も程よく響き、台詞の言い廻しも古きに堕せず、新しきになづまず、演技も硬軟無碍に居り、良く泣き、よく怒って悶え苦しむ態(さま)、穿ち得て妙であり、重保に迫り、小周防を説き、政子、広元に当たり散らす其気組、その動作も亦殆ど間然するところのない芸であった。近頃であの人の当たり役と云えるであろう。」『蛇姫様』「この四月と五月とに東京劇場で上演したあれを一つにまとめたもので、鏡山の劇中劇や旅芝居の楽屋などもあり壽美蔵の扮した千太郎とおすがに仁左衛門。 (中略) 総じて此『蛇姫様』は訳の分らぬ、山のない芝居で、一向見ごたえがないけれども、大衆は、新聞物というので割合によく知っている。 (中略)仁左衛門は千太郎とおすが、壽三郎の市川十蔵が役になり、よく演じて見せた。」(「演芸画報」昭和15年7月号 “関西芝居見物記” 安部豊 述)〈本人談〉「“二度目の頼家”角座には十一年ぶりの出勤です。この座は私の家と可なり因縁の深い方で、八代目仁左衛門が『とんとん三吉』で出勤中舞台で殁し、其後叔父先代仁左衛門が、我當から仁左衛門を襲名したのも此座です。また其以前私が土之助から我童になったのも此座でしたが、その時の改名狂言は『ひらかな盛衰記』の勘当場で、私の源太、叔父の延寿、先代秀調さんの(勝太郎時代)千鳥などでありましたが、只今の建築が出来て後、大阪で珍しく此座で顔見世並みの二部制が行われた時、最初に出勤したのも私と(※尾上)卯三郎さんでした。斯ういう次第で久方ぶりに此座に出ますことは、私として非常に意義深いわけでございます。今度の『将軍頼家』は関東大震災直後『傀儡船』という題で真山(※青果)さんが書卸されたもので、私は傀儡女と尼御台政子を、猿之助さんが頼家を勤め、昭和八年大阪歌舞伎座所演の時は私が頼家、壽美蔵さんが畠山重保に扮しましたが、私の頼家は二度目ということになります。」(同)〈観客評〉「六月角座。『将軍頼家』。仁の頼家当時の頼家の気持ちをよく知る事が出来、貫禄も十分。幕切で魁(※中村魁車)の尼将軍との親子の情が溢れ実によかった。仁は大阪で勉強した人だけに我等大阪人にとって好感が持てる。」「六月の角座、仁左の頼家は其の人らしく品位も有、何処か冷やかな感じのこの優の持味が役柄に一致して好かった。」(同 “読者倶楽部”)7月 東京劇場(2日初日)「大仏開眼」参議藤原仲麻呂「蘆刈」未亡人お遊「東海道四谷怪談」お岩、小仏小平、佐藤与茂七〈劇評〉『大仏開眼』「成ほど松竹らしい出し物である。新鋭歌舞伎という以上、何か新しい戯曲が必要だが、迂闊な作を出すのは危険で、丁度新協(※新協劇団)でこれを出して、評判はとにかく問題にはなっている。大仏工事だの供養法会だので、スペクタクル性にも富んでいる。これを出して置けば間違いなかろうという、御尤もではあるが安易な企画だ。併し、原作は非常な長篇である(※五幕十二場)。新協がこれ一本で通すのでさえカットしている。商業劇場では一時間半しか余裕がない。それで『大仏開眼』を見せようというのだから、土台が無理である。 (中略)俳優の芸術も平凡で、(中略) 仁左衛門の仲麿は、てんで台辞(せりふ)を覚えていない位、(中略)装置は東劇の大舞台を充分に使って、慥(たし)かに立派であるが、これだけが見ものとあっては新劇もおしまいである。」『蘆刈』「稍大衆的な感傷物で、仁左衛門の柄に合うものというところから、新生新派で試験ずみの、谷崎(※潤一郎)氏の『蘆刈』が新脚色で出た。仁左衛門が三味線を弾くという点に、企画家の気持が動いたのであろう。新生新派の時の脚色も、随分ヤッツケなものであって、殊に男主人公を盲目にするなど、余りに新派臭かったが、それでも今度の脚色から見ると流石に整っていた。どこかに谷崎式の色と気持ちだけは保たれていたが、今度は大衆版とかいって、随分浮ついている。 (中略)仁左衛門のお遊様は、なまじ妹と役を分けた為、妹との年齢(とし)の差が余りに見え透いて、見たところ筋に無理を起こさせる。歌舞伎なればこそ猶さら二役を替るべきであったろう。」『東海道四谷怪談』「お盆とあって仁左衛門の『四谷怪談』である。初役で、大阪式との触込みであったが、この芝居をやるにしては用意が足りなかったようだ。斯うした変な芝居に立派な芸術性を附与した梅幸の型、尾上家の演出は、充分に研究すべきであった。尤も余りに烈しいカットで、真面目にやる気が出なかったのかも知れないが。〈右 仁左衛門の女房お岩、左 二代目河原崎權十郎の按摩宅悦〉前半は無事であったが、後半に至っては、顔の変る鬘が異様で凄味がなく、蚊帳の使い方も一向に活きず、髪梳の段取りにも遺憾な点が多い。蚊やりが猛烈な煙で、仕事が見えないなども優の責任であろう。髪の毛の血を見せたのはいいが、見物には解らないのも骨折り損だ。本当はこの血などはどうでもいいので、やはり梅幸のように、蚊帳と髪梳で凄味を見せ、昂奮の間に芸を見せるべきであろう。いつもの理性に徹したような声と演技で終始するから、お岩の哀れさが少しも見えない。〈右より八代目訥子の直助権兵衛、仁左衛門の佐藤与茂七、寿美蔵(市川寿海)の民谷伊右衛門〉隠亡堀は、いつものように首を出すのではなく、裏表とも本物の体という好みは面白いが、その為に早替りの興味が薄くなり、骸骨になるというケレンが失せ、だんまりの面白味も少なくなったのは残念である。蛇山は只出るばかり、提灯の仕掛けも鮮やかならず、笑いも凄くない。幕切れに吹き替えの宙乗りは無くもがなだ。〈仁左衛門の佐藤与茂七〉小平は顔を出すばかりだが、篤実な小者にはなっていた。与茂七が大詰に袴で出るのは南北らしくない。 (中略)何しろカットした所を勘定して見ると、内の場の孫兵衛の出、伊藤の邸の前半、髪梳では小平に一刀浴びせた後は全部無し、隠亡堀で秋山の出というので、その間にセリフはグイグイ抜いてあろうというのだから、四谷怪談の味も気分も無くなってしまうのは当然である。蛇山は何もかも脱いでしまって提灯抜けだけ残し、その代り三分ばかりの敵討がついているが、これに小平の妹が腰元姿で出たのは初ものだ。これでは苦労して四谷怪談を出すがものは無かった。それに下座が思いきりひどい。初日には、隠亡堀がセリ上がって蛇山になるという珍型を見せ、成程これが大阪式かと思ったが、後にこんな事をやめたのは結構。あれでは隠亡堀の幕切れが死んでしまう。何にしてもモウ斯ういう狂言は、余ほど特殊な機会の無い限り、思い切りものであろう。」(「演芸画報」昭和15年8月号)※8月19日、二代目市川松蔦死去、53歳。9月 九州巡業 「生写朝顔日記」朝顔10月 大阪 歌舞伎座(5日初日)『十一代目片岡仁左衛門七回忌追善興行』「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」顔世御前、早野勘平 「近頃河原達引 堀川の段」お俊〈劇評〉「歌舞伎狂言の選択は先ず出来得る限り予備知識を必要とせぬことを第一の条件としたい。 (中略)もう一つ注文帖につけておきたいことは上演時間の問題だ。一時半(十三時半)開演で九時半(二十一時半)終演、所演時間八時間では何としても盛り沢山すぎる。之では到底、現代人の生活と歯車の合う筈がない。劇壇の新体制は開演時間の繰下げ、所演時間の短縮あたりの手近さにも見出される。」 『仮名手本忠臣蔵』「さて、今度の『忠臣蔵』だが、最初に『落人』を置いて次に四、五、六、七段目、それから道行を省略して九段目を加えた変則的な列べ方だ。之は俳優本位から割り出された是非もなき結果だろうが、『落人』と七段目はさておき、四、五、六、九段目は『忠臣蔵』でも比較的長丁場で動きの少ない場面揃いだ。之が観客を尚更疲労させていたようだ。古典劇の扱い方は色々な意味で随分難しいものだと思う。 (中略)(道行の早野勘平)仁左衛門の勘平は『落人』の時から、どうやら羽左衛門めいた個所がチラついていたが、六段目になると、これが全く音羽屋系統の演出に拠っていることが知れた。音羽屋系の演出に見る一つの難は最初から紋服を着ることで、これは上方系のように落入りで着せるほうが哀愁感を強調する点で卓(すぐ)れていると思う。(五・六段目の早野勘平)しかし、いづれにしても仁左衛門の持味と勘平の役柄に一脈の合致があるだけに、まずこれは佳作の勘平といえよう。」『近頃河原達引』「先代仁左衛門の追善劇だが、なお、ここで我當(※十三代目仁左衛門)の息、片岡秀公(※現 五代目我當)と吉三郎(※七代目嵐吉三郎)の息、嵐鯉昇(※八代目嵐吉三郎)とが揃って稽古娘で初舞台を踏んでいる。 (中略)仁左衛門のお俊は色気も可憐さも砂を噛む感じで一向に娯(たの)しめなかった。(三日目観劇)」(「演芸画報」昭和15年11月号 山口廣一 述)11月 歌舞伎座(2日初日)「敵国降伏」萩の方「近江源氏先陣館」高綱妻篝火「近江源氏先陣館」高綱妻篝火12月 東京劇場(4日初日)「黒田騒動」友房の妻たえの方「菅原伝授手習鑑 佐太村」八重「天衣紛上野初花」大口屋三千歳「黒田騒動」友房の妻たえの方「菅原伝授手習鑑 佐太村」左 仁左衛門の八重、右 十五代目羽左衛門の桜丸「天衣紛上野初花」大口屋三千歳〈劇評〉『黒田騒動』「海音寺潮五郎氏原作、巖谷三一氏脚色並に演出の『黒田騒動』は、傍注に“城井谷崩れの巻”とある通り、黒田家との政略結婚に犠牲となった城井谷家の悲劇で、通念たる黒田騒動とは、似ても似つかぬと共に、内容にも甚だ縁遠い名題だが、いわゆる大衆読物の一部脚色で、原作の名題に謳ッてあるのかも知れぬ。政略結婚の破局を取上げた題材は、他の類例が乏しからず、構成にもさして新味はないが、平凡なだけに一般観衆にも解りよく、同情される程度には纏まっていた。 (中略)仁左衛門が犠牲の奥方で、壽美蔵の硬骨な家老と共に、悲劇の中心人物だが、描かれ方も演出も共に浅い。」『菅原伝授手習鑑』「『菅原』の佐太村を、一時以内で揚げようとするに、前半の省略はやむを得まいが、三人兄弟を象徴する、菅公愛樹の梅松桜が、主題の片隅に置去られて、三人女房の雑煮の件りもなく、白太夫と八重とが氏神詣でに出た後、壽美蔵の千代と、家橘の春とが、跡片付の襷掛けで出る幕開から、直ぐ喧嘩場になるあわただしさでは、予備知識がないと利きどころが呑み込めず、知っている者には呆気なくて、筋を売る為の付け足しとしか思われぬ。 (中略)仁左衛門の八重が、三人女房の間より、一人になってぐっと見直したのも、この人らしい芸風の表裏と見てよい。」『天衣紛上野初花』「『河内山』と『直侍』は、最近大阪で不許可になったとかいい、殊に大口の寮などは、四囲の情勢から当分は、見られなかろうと思ッたのが、面影だけも伝え得たのは、寧ろ拾い物といわねばなるまい。 (中略)仁左衛門の三千歳は、またしても袖口から、緋縮緬を引出すのが気になッたが、最早押しも押されもせぬことは確かだ。」
2026.01.30

○昭和16年(1941年) 59歳1月~2月 歌舞伎座(1月2日初日)※五十日連続興行「鞍馬山だんまり」(※片岡義直改め二代目市村又三郎襲名披露) 金剛山夕照「神明恵和合取組」女房お仲 「鞍馬山だんまり」金剛山夕照、「神明恵和合取組」右 仁左衛門の女房お仲、中央 初代中村錦之助(萬屋錦之介)の倅又八、右十五代目羽左衛門の左衛門の辰五郎次男義直、市村家へ養子に入り、二代目市村又三郎を襲名。「鞍馬山だんまり」 片岡義直改め二代目市村又三郎の牛若丸、十五代目羽左衛門の夜叉五郎〈劇評〉「狂言が当たって日延べになり、又は月を越えて何日打ち通したとかいうのは昔から聞くところだが、のっけから五十日興行と名乗ってかかったのは、昔の興行師にはゆめゆめ思いもつかなかったことだろうし、また五十日が今から売れているというのだから驚く。それも世が泰平で景気のいい時というなら格別、あるが如き世態の中で、しかも芝居道はひどくやりにくくなっているさなかにこれまたどうしたわけと、やはり木戸銭を払って見に来ているなかまが小首を傾げる。(中略)それでも来て見れば、見てよかったと堪能もするし、やはり歌舞伎座は歌舞伎座だけこれだけの役者を揃えて、そこは座方のいう通り配役に最善を尽くしているのだから、見巧者だの劇評家だの小面倒な詮索沙汰をしないわれらのような素直な見物は、大芝居のゆたかさに陶酔して浮世の憂さを忘れ一日を楽しく見て帰れるのである。」『鞍馬山だんまり』「義直改め又三郎の牛若丸は、父仁左衛門の若い時そっくりの顔だち演ることも充分気がはいってこの人には望みが繋(か)けられる。養父ゆづりで与三郎も直侍もいけそうに見えるけれど、この人が大役をする時分には芝居道もどういう変転を見せていることか。譲られるものは譲られて結構だが、結局は自分が新規に店を開く覚悟が大事となるのであろう。」(「演芸画報」昭和16年2月号 鏑木清方 述)〈五十日興行に於る感想〉十五代目市村羽左衛門「五十日興行というが、大して珍しい話でない。私の初舞台の時は百日打ち通した。座はたしか新富座だった。 (中略)昔は今のように毎月あかなかった、三月目四月目と間隔はあったが、四十二日というのが御常法で、ついで三十三日に改められ、三転して今日の二十五日建という規則みたいなものが出来てしまった。だから五十日という日数は別に珍しくもない訳で無理だとも思わない。 (後略)」六代目尾上菊五郎「五十日興行は無理だ。出し物にもよるだろうが、『三番』には流石にこたえた。此頃では腰がみりみりいって我ながらやりきれかい。来月も五十日興行ときまったそうだが、梅王はとても勤まりません。来月は、狂言をつき替えて貰うつもりです。」七代目松本幸四郎「一番心配したのは長期興行の間に、誰か病気でもするようなことはないかということでした。事実世間では風邪で休んで居る人が随分多いようでしたが、仕合わせに幹部級の人達全部元気でした。これは緊張して気を引きしめていたためでしょう、私なども二十日過ぎに風邪気味で困りましたが、芝居を休むこともなく何うやら勤め終わせました。人間気持の持ち方一つだとつくづく思います。第二に心配だったのは、毎日同じことをしているのだから倦きはしないかという不安でした。そこで、途中で回覧板を廻し、先が長いのだから倦きないように充分気を引きしめることを申し合せましたが、経ってみれば早いもので、五十日をそれ程長いものには思わず、まして惰気満々なぞということは煙ほどもありませんでした。 (中略)入りのあるのは結構ですが、年中五十日興行というようなことは出来もしますまいが、余り賛成出来ません。げんに来月は『勧進帳』が出ることになっていますが、弁慶を五十日も勤めたのでは身体(からだ)が続きますまい。弁慶と心中するのも困りますから、来月は、一月だけにして『勧進帳』は引きこまして貰うという約束でお引受けしました。」初代中村吉右衛門「たしか此処(歌舞伎座)で五六年前になりましょうか、六代目(※尾上菊五郎)と『寺子屋』を出した時、五十日打ち続けました。尤もこの時は、役を変えました。 (中略)それに御承知の通り、次狂言の間には五六日休みがあるので此処で気を抜くことが出来ましたが、今度は休みなしで、狂言もそのまま五十日打ち続けた訳ですから前代未聞といっていいかも知れません。 (中略)毎日やっているのだから手慣れて楽だろうとお考えでしょうが、馴れてくればくるだけ警戒が必要で、芸に油断が出たり、緊張を欠きやすいものですから、毎日初日の気持ちでそこを引きしめるようにしてやる。それに舞台は手馴れるにつれていろいろ工風も生れて来るもので、自分の欠点もよく分かりますから、苦労が殖えて来て、なかなか油を売るなんて訳にはいきません。此方は毎日同じことをやっているのだが、お客様には始めての芝居ですから、そう思うと一分もゆるがせに出来ないような気がして、いよいよ気が詰まります。 (中略)しかし五十日興行というのはよいことだと思います。まして、毎日この通り沢山お客様がつっかけて下さるのですから、歌舞伎というものをお見せ出来る大切な機会だと思います。私達としては、歌舞伎というものの本当の面白さを分かって貰うつもりで精進すべきでしょう。」3月 歌舞伎座(1日初日)『團菊祭興行』「伽羅先代萩」八汐「歌舞伎十八番の内 勧進帳」源義経「菅原伝授手習鑑 賀の祝」女房八重「伽羅先代萩」八汐「歌舞伎十八番の内 勧進帳」源義経「菅原伝授手習鑑 賀の祝」女房八重写真〈劇評〉「長期戦下の長期興行は、昔に返った新体制である。古くは初代富十郎の娘道成寺に七十日乃至百廿五日という記録がある。文化文政度でも当った芝居は百日以上も打続けたろう。今日と雖も今月東京、来月関西、或いは関西から東京と、同じ俳優が同じ狂言を二ヶ月連続で勤めた例は幾らもある。五十日結構百日でも可い。それで客さえ来るならば……。 (中略)仁左衛門の八汐、釣合が取れ中々好い。殺され迄勤めるのも忠実である。八汐も沖の井松島(五代目澤村田之助)、七代目家橘)も各々を呼ぶに“殿”を附けぬのが可い。」(「演芸画報」昭和16年4月号)〈回想談〉「私が初舞台をした際──昭和十六年三月歌舞伎座──、祖父(※七代目宗十郎)の政岡でおじさん(※十二代目仁左衛門)の八汐、栄御前は(※尾上)多賀之丞さんでしたが、八汐が私の扮する鶴千代にお菓子を見せて、『いざ召し上がりませ』と言ってニタニタッと笑うのです。あれは誰にも出来ないでしょう。何か独特の香りがあってね。私も子供心に計り知れないものを感じ、いまだにあの表情は忘れられません。」(「澤村田之助むかし語り~回想の昭和歌舞伎~」 六代目澤村田之助 著)4月~5月 歌舞伎座(4月11日~5月19日)『團菊祭延長及び長期興行』「新歌舞伎十八番の内 大森彦七」千早姫「歌舞伎十八番の内 助六所縁江戸桜」三浦屋揚巻「新歌舞伎十八番の内 大森彦七」千早姫「歌舞伎十八番の内 助六所縁江戸桜」三浦屋揚巻〈観客評〉「幸四郎の大森彦七に千早姫を六代目(※菊五郎)にやって貰いたかった。珍しいばかりでなく、仁左ではとても荷が勝ち過ぎる。揚巻もやはり彼では……。どうしてあの淋しい顔であろう。本当にあの事だけが欠点。客席を無遠慮に眺める事も大いにいけない。」「揚巻タコが入り過ぎたか幾分粗雑に流れる、もう少しきりっとした所が欲しかった。」(「演芸画報」昭和16年5月号 “読者倶楽部”)〈参考 長期間興行への苦言〉「戦時下における歌舞伎座の豪華興行が、贅沢だというので、問題になったことがありましたが、どんなに時局が切迫して来ようとも、あの豪華興行を止める必要はありません。それは、健全娯楽とか、国民厚生という建前からではありません。娯楽とか厚生とかいうのならば、もっと健全で手軽なものが、いくらも他にあります。歌舞伎の豪奢が今日許されているのは、古典的国民劇の保存という文化的意味からでなくてはなりません。そういう建前から、近頃の歌舞伎座の興行方法を眺めると、いろいろの見当違いや、新体制についての認識不足やらが目立ちます。勿論、演劇は美術や音楽のように国家の保護をうけることなく、営利会社に一任されているという無理があることは十分に斟酌しなければなりませんが、それにしても、も少し興行者に演劇文化について真の理解と愛情とがあるならば、文化と採算との間に、も少し辻褄を合せることができると思います。 (中略)長期興行の弊は、俳優その他の芸術家を事務家もしくは舞台労働者に化することです。いつぞや、能楽も芝居のように毎日常打ちにしてはという案がでた時、あの心魂を打ち込んだ芸は二日とつづけて出来るものではないと、能楽者側から一言の下に否決されてしまったということです。六代目(※尾上菊五郎)という人は、よく芸を投げると言われますが、私はそれだからこそ、六代目は名人だと言われるのだと思います。毎日、同じような調子で廿日も四十日も熱演することができるならば、それは芸術家ではなくて事務家、もしくは労働者です。菊五郎のような名人肌の役者が、なぜ長期興行に甘んじているのかが不思議です。 (中略)要するに、歌舞伎座の興行者は、長期興行によって無駄を省いて料金を安くするなどというような、そんな吝(けち)な考えを捨てて、もっと正々堂々と、国民文化の精粋たる古典歌舞伎の保存という旗印を掲げることです。 (中略) その点について甚だ疑問に思われる一つの現れが、いわゆる長期興行の看板なのであります。」(「演芸画報」昭和16年5月号 “古典国民劇の保護” 飯塚友一郎 述)6月 歌舞伎座(5月31日初日)「壇浦兜軍記」遊君阿古屋「与話情浮名横櫛」妾お富「修禅寺物語」姉娘桂「伊勢音頭恋寝刃」仲居万野「壇浦兜軍記」遊君阿古屋(十五代目羽左衛門の秩父庄司、二代目猿之助の岩永左衛門)「与話情浮名横櫛」妾お富(七代目宗十郎の和泉屋多左衛門、十五代目羽左衛門の与三郎)「修禅寺物語」右 仁左衛門姉娘桂、左 十五代目羽左衛門の源頼家「伊勢音頭恋寝刃」仲居万野(十五代目羽左衛門の福岡貢、七代目家橘の油屋お鹿)〈劇評〉『壇浦兜軍記』「仁左衛門の阿古屋、またかといわれそうで実は久しぶり、柄と縹緻(きりょう)と音曲のたしなみと、これほど打ってつけの役者もあるまいが、以前には兎角得意が鼻先にぶらついて、同じように当り役でも朝顔ほどの哀れさがない為、暫く出なかった所以でもあろうけれど、自ら重んずれば他からも重んじられて、立派な出し物になったのはめでたい。ただ評者の観聴した日には、音声を少々損していた容子で、例の閨怨の哀調が、いつもほど切に響かなかったのは遺憾だったが、さりとて専門の唄・三味線を、別に下手へ押出下のは、舞台の豪華ぶりは兎も角も、この人の三曲には蛇足と思われた。」『与話情浮名横櫛』「仁左衛門のお富は、湯帰りの仇っぽさ、柄はよし、演ることもだんだん年季が入って、今では動いてかぬお富役者だが、無理に色気を見せようとする、附焼刃のイヤミが除れたら、地下の梅幸も安心するだろうに、ここの脱皮がこの人には、殊に一等むづかしいらしい。」『修禅寺物語』「仁左衛門の桂は、いつも頼家に廻ったので、恐らく初役だろうが、気嵩なところがはまってよく、(後略)」『伊勢音頭恋寝刃』「宗十郎のお紺に、年の衰えはやむを得ぬが、身上だけの劫は見え、仁左衛門が万野に廻って、冷徹な憎みを利かせた。」(「演芸画報」昭和16年7月号)〈観客評〉「“阿古屋”──思えば随分長い間待ち焦がれた物。仁の阿古屋は羽の重忠と云う好配役を得て一入精彩を放ち余人に及ばぬ至芸だ。堪能な三曲には敬服の外なく恍惚とした。 (中略) お富は絵の様に美しく無類。今や仁は羽の相方として絶対に無くてはならぬ人。仁初役の桂は羽の頼家とイキが合い比類なき演技で、空前絶後の名コンビである。“油屋”では羽の貢が素晴らしく、仁の万野は当代一。何時見ても美しく水々しい御両人の大熱演で本当に嬉しかった。」「仁左のお富もよく、うつむいた姿の美しい事は忘れる事が出来ません。」「歌舞伎座八日觀て修禅寺それぞれ嵌り役、仁の桂、桂川辺りで“岩屋詣での下向道”から“桂川の川上で”との間で“あの”を付け加えた事“初めてお目見えいたしました”の終りに“な”を付けた事もいづれが本当か判らぬが頼家の事をお前様とあなた様と仁は“お前様”と言ったが妙に技巧をつけた手順々々で一寸嫌になった。」(同 “読者倶楽部”)7月 神戸 松竹劇場(7月1日~10日)、金沢 尾山倶楽部、福井 加賀屋座、名古屋 御園座 地方巡業「新編 黒田騒動」八重の方「小楠公」楠正行「さくら時雨」灰屋三郎兵衛、灰屋紹由〈神戸松竹劇場 劇評〉「我童改メ十二代目片岡仁左衛門などと事新しく書くと誰が松嶋屋を襲(つ)いだかと驚く人もあろうが改名後六年どころかその倍の十二年も神戸の舞台を踏んでいないのだそうである。それで遅蒔き乍らの御披露だ。今更でもあり時節柄でもあり口上の幕などはなく松竹劇場では番附の奥に申訳程書いてあるが読む迄もなく皆様御承知である。披露狂言という程の幕もなく一座も仁左衛門大将の無人(ぶにん)だが縁故(ゆかり)の狂言といえば『さくら時雨』である。 (中略) 二役の中、三郎兵衛は闊達な気質が灰屋の子息らしくてよい。紹由も叔父(※十一代目仁左衛門)譲りの細かい技巧を見せているが技巧のための技巧で自然な味になるという点になるとまだ早い。この狂言の風格というものは泌み出てくる渋さである。故人の印象の遠ざかるのと当代の円熟の相俟って茶の風韻が現はれようが、まだ利休の茶碗に底がある。 (中略)『新編 黒田騒動』城井谷崩れの巻、(中略) 仁左衛門の八重の方、序幕の城内では情愛に不足があるが大詰の夫友房に殉じ生家の不信不義に反抗して死ぬ所は凜然として佳く、この作を選んだ理由は肯ける。」(「演芸画報」昭和16年8月号)8月 歌舞伎座(1日初日)「安宅関」富樫之介家直「長柄の人柱」巫女魚子「振袖御殿」澤住検校の弟子お小夜「安宅関」富樫之介家直「長柄の人柱」巫女魚子〈劇評〉「延若(※二代目)、仁左衛門、壽美蔵(※三代目壽海)、友右衛門(※六代目)という顔触れも、ちょっと珍しくなって食指が動く。『安宅』『長柄の人柱』『日向島』『振袖御殿』という献立も、ちょっと旨そうである。歌舞伎座のメニューとしては、一応整った食卓なのであるが、箸をとって見ると、さて舌鼓といいほどの美味でもなかった。」『安宅関』「戦時下の献立で、スープ抜きにいきなり魚を持って来たという並べ方だが、近頃はこれが常式になってしまったから誰も驚かない。 (中略) これを近松から発見した榎本(※虎彦)氏はなかなかえらい。 (中略)仁左衛門の富樫は、見た目は実に旨そうであるが、味わって見るとそれ程でもない。台詞に他所行のようなところが多く、動くと妙にギクシャクして品位を落す。震災前の慈悲蔵を思い出した。」『長柄の人柱』「取合せからいえば烏賊の刺身といったところで、アッサリしているが可成りに旨い。岡本(※綺堂)さんはブリュウの『信仰』から暗示を得られたものであろう。 (中略)仁左衛門の魚子も、慥かに役どころであるが、どういう訳か、いつもの冷たさが今度は少しも出ず、頗る愛嬌のあるお巫女さんになっている。凄味の不足である。要領を得ない役には違いないが、これに凄味が足りないでは困る。一つは顔のつくりにも依るかも知れない。演出家のお指図が足りないのかもしれない。」『振袖御殿』「さしづめ御飯という所だが、中味は時節柄代用食である。一体新聞連載小説を脚色するということ、決して悪くはないのだが、いつもヤッツケな脚色なので事を毀す。 (中略) 今度は原作者の脚色だが、お小夜が“わたしなんか”と云い出すかと思うと直ぐに“ぢゃわいなあ”という風な書き方なのだからお察しを願いたい。 (中略)三味線弾きが御殿へ上がって二代将軍のお手がつき、男子を産んだが、御台の嫉妬で追い廻される。のちに三代将軍に知られてその子は立派な大名になり、国替えにのぞみ浄瑠璃を語って我が子に聴かせるという仁左衛門のお小夜が主人公、この優(ひと)の三役の中で一番の出来である。序幕で慥かに若い女になり切っていたのがえらい。大詰に演`所(しどころ)もあって二番目を背負って立っている。」(「演芸画報」昭和16年9月号)10月 歌舞伎座(1日初日)『五世中村歌右衛門一周年祭追憶興行 福助改め六代目中村芝翫 児太郎改め七代目中村福助襲名披露』「桐一葉」淀君「絵本太功記」操「桐一葉」淀君「絵本太功記」操〈劇評〉『桐一葉』「仁左衛門の淀君は、追憶興行であるだけに、一層の大役だが、思い上がって自我の強い役柄は、故人とは別の風格に於て適っているし、芸品も押手が利いてなかなかよい。今後の淀君役者であろう。」『絵本太功記』「仁左衛門の操は、この人一種の澄し癖が累(わずら)をなして、物ごとが兎角ウソになる。仕事はまづくないのだが、まづくないだけ上辷るのは困る。」11月 歌舞伎座(1日~24日)※10月からの延長興行、「桐一葉」を四幕から三幕に短縮し、「絵本太功記」の後を「与話情浮名横櫛」に狂言差し替え。「与話情浮名横櫛」妾お富12月 南座 顔見世興行(2日~21日)「伽羅先代萩」乳人政岡「歌舞伎十八番の内 勧進帳」源義経「与話情浮名横櫛」妾お富「歌舞伎十八番の内 勧進帳」源義経(七代目幸四郎の武蔵坊弁慶)〈劇評〉「古典的な顔見世という言葉は、京都の土地柄に強い魅力となっている上に、年中行事として不可欠の存在でもあるから、八割課税何のそのという南座の景気である。大阪の角座も顔見世興行と称している。顔見世本来の語義から言えば、座附同様の大阪俳優を揃えた角座の方が近いのだが、多年の習慣は怖いもので、東京俳優に梅玉其他二三を加えた南座の方が、看板も大きいし正統感を抱かせている。維新後も顔見世興行を中断させなかった歴史的威力である。 (中略)九狂言中珍しくも一つの新作をも加えなかったのは古風な興行として一策である。顔見世の舞台に砲煙弾雨など適(ふさ)わしくないし、従来の歌舞伎に日本精神の横溢した作品もすくなくない。」『伽羅先代』「仁左衛門の政岡は姿もよし十分に動く芝居だが、暖さが足りない。千松が殺されると襠(しかけ)で囲い、次の間へ片付けないのもよいし、見送りからサワリの手順も派手なのはよいとして“武士の胤”で懐剣を抜きかけるのは臭く“流石女の”での頬ずりに空々しい所がある。」(「演芸画報」昭和17年1月号)※12月8日、真珠湾攻撃
2026.01.30

○昭和14年(1939年) 57歳1月 歌舞伎座(2日初日)病気により休演、「十六夜清心」十六夜は七代目澤村宗十郎が代役。 2月 東京劇場(1日初日)「元禄忠臣蔵」仙石伯耆守久尚「お染久松 松緑東錦絵」久松、お染、お光、雷神、子守「旅の風来坊」女房おつる「お染久松 松緑東錦絵」久松〈劇評〉『元禄忠臣蔵』「今度は仙石屋敷の申開きという難場で、しかもこれが呼物であり、一日中の中心というのだから、左團次の名誉であると共に、観客も進歩したものだといえる。 (中略)仁左衛門の仙石伯耆守は、歌舞伎の裁き役を出なかったが、柄のよいところで採点する。」『松緑東錦絵』「いわゆるお染の七役の内、久松と、お染と、お光と、雷神と、子守の五役を、仁左衛門が代って見せる。早替りはかなり鮮やかで、当人もよい心持そうだが、いかにも早替りの為の早替りで、景物以外の何ものでもない。」(「演芸画報」昭和14年3月号)同 歌舞伎座(1日初日)※掛け持ち出演「雪暮夜入谷畔道」大口屋三千歳「雪暮夜入谷畔道」右 仁左衛門の三千歳、左 十五代目羽左衛門の片岡直次郎〈劇評〉『雪暮夜入谷畔道』「仁左衛門の三千歳は、もっと色気よりも、哀憐な女らしい情緒を切実に現すことに心がけて欲しい。仕ぐさは、梅幸で、着附の好みも、今度は大へんにいいのだが──」3月 歌舞伎座(1日初日)『團菊祭興行』「絵本太功記」嫁初菊「歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜」三浦屋揚巻「絵本太功記」左 仁左衛門の嫁初菊、右 十五代目羽左衛門の武智十次郎「歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜」三浦屋揚巻〈劇評〉『絵本太功記』「羽左衛門の十次郎は例に依って例の如し、但し同じ上出来でも相手の仁左衛門の初菊がいつもより宜いので猶も好いと云う、仁は羽の相手役と極まったようなものの、今度の役は近来に無く適(はま)る、河竹物の女性は借用品の気がする、丸本物でも役によると分が違うことがある、初菊も京阪の女形三者のうち、羽に対しては、梅玉、魁車の二者よりは、上方味の少ない所が、橘屋に対して相応の感じを強く持たせる。」『助六由縁江戸桜』「仁左衛門の揚巻は押出しが立派である。調子がやや含み声で凛とした冴えに乏しいので、キャンな悪態が、燻しをかけたようで引立たない。」(「演芸画報」昭和14年4月号)〈観客評〉「一片ニ片散る花に、八文字運ぶ姿も一際派手な揚巻が何という美しさ。花のような顔、鶯の初音にも似た声音、梅幸亡き今揚巻は仁左が一番。」(同 “読者倶楽部”)※3月1日、岡本綺堂死去、68歳4月 歌舞伎座(1日初日)「春日局」稲葉佐渡守「安宅」源義経「元禄忠臣蔵(伏見撞木町)」※初演 遊女浮橋「十二姿俠装」大川のおまつ「元禄忠臣蔵(伏見撞木町)」仁左衛門の遊女浮橋、二代目市川左團次の大石内蔵助〈劇評〉『春日局』「(前略) 代表的な(福地)桜痴の烈婦劇へ、少し筆を加えたもので、お福の方が奉公に出る所と、大詰だけの二幕。 (中略)仁左衛門の佐渡守は、妻君よりも年若と見受けれ、始終壓(お)され勝である。大体が優形で、腹があって山間に引籠るような武士に見えない。大詰は役が悪くって気の毒である。」『元禄忠臣蔵』「今度は大石遊興の巻という新作である。いつもは堅いなりにどこか山があって見物の胸を掴み、感激させる所があるのだが、今度だけは余り感心されない。偶然かもしれないが段取りや人物が七段目そっくりであり、冗長な所が多く、息を詰めさせるような所が無い。各篇ともに必ず現れる新解釈が今度もあるらしく、大石の遊興も単に敵の目をくらます為ではなく、舎弟大学の復興に関しているという作意のように思えるが、見物にはよく徹底しない。お家再興の願いを大石がチョイと口をすべらしたばっかりに、敵討の準備が後れ、却って世間から同情が集まって、事がやりにくくなったという筋らしいが、一般にはよく解っていないようである。 (中略)仁左衛門の浮橋は、義士よりも妻よりも誰かよりも大石の腹の中や行動を了知しているような花魁で、気味の悪い位だが、左團次を向こうへ廻して引けを取らぬ重味があり、立派な芸でありる。」『安宅』「勧進帳の代用品として選ばれたらしく、在来の物とは台本を異にして岡氏(※岡鬼太郎)が新たに書かれたものであるが、段取りその他に大した相違はない。元々が、踊りの素養のない中車(※七代目)に、勧進帳の出来ない蟲押えに書いたものなのだから (後略)」(「演芸画報」昭和14年5月号)5月 東京劇場(1日初日)「業平東下り」在原業平「銭屋五兵衛」長男喜太郎、公事奉行外記「沓掛時次郎」女房おきぬ「業平東下り」在原業平〈劇評〉『業平東下り』「十五分の所作事である。仁左衛門の業平を中心に、若手と青年歌舞伎の連中を大勢、男女の仕丁で踊らせて義理を果たし、同時に開幕劇の役目まで果たさせたもの。中味は『月の巻』を長唄と竹本に分け、業平の踊りには六歌仙のそれを持って来た。仁左衛門の踊りは荒っぽくて業平とは思えない。」『銭屋五兵衛』「永井柳太郎氏が故国の偉人を描いた大作、それを楽屋で二時間に縮めたものである。一応、人間は書いてある。併し頗る浅い。どの人物も一向に浮き上がって来ない。 (中略)仁左衛門の喜太郎は、神経質で易書でも読もうという人物だそうだが、いらいらしている所だけ出て、学究肌のところは全然出ていない。この人には向かない役である。二役、調べの役人は、明瞭に重忠に書いてあるので、見ていて少々擽ったいが、この方が体には嵌っている。」『沓掛時次郎』「世間の評判は、木綿の代用品に絹を使った、ということだった。面白い評である。近頃は見物の単純な気持ちに合致することだけを考えて役者に充分芸をさせるような脚本を書く人が少ない。これなどは長谷川(※伸)氏初期の作で、なかなか巧い脚本ではあるのだが、それでも羽左衛門の芸を以てしては、楽すぎるほど楽のようである。絹を絹に仕立てる作家が欲しいものである。 (中略)仁左衛門のお絹もなかなかいい。相変わらず冷たいことは冷たいが、特に熱烈な積極性を要求する役でもないので、技巧で充分救えている。これは安泊りの場面が一番の出来だ。」(「演芸画報」昭和14年6月号)6月 明治座(1日初日)「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」塩谷判官高定、おかる、和久三太夫〈劇評〉「明治座と新橋演舞場とで同時に『仮名手本忠臣蔵』を上演した。偶然のようだが、実は松竹の方で急に前進座一党へ押っ冠せた次第なんだ。前進座の方は人も知る如く、三四ケ月前から新橋演舞場で六月に之を上演する旨公表して、あらゆる方面の人々に就て演伎演出の研究を重ねていたのだから、もしも今度忠臣蔵上演の先陣争いでも起った場合は、前進座の方に団扇があがることになる。然し同じ『忠臣蔵』であっても、松竹の方は内容に幾分異なる処があるから『マア俺の方のを見てくれ』と踏ん外りかえるような量見でいたかも知れないが、(中略) 前進座の方は、院本による本格的演出などと早くから宣伝していただけに相当の好奇心をもたせ『どんなことをするか一寸見てやろう』と云ったような気で出かける客が多かった。先ず興行成績から云えば、明治座も上景気であったけれども、前進座の方が満員続きで千秋楽(らく)まで売り切った。尤も入場料に於て、明治座一等三圓八十錢に対し、前進座は二圓八十錢で一圓の開きがあり、足も演舞場の方が便利であるから、それ等の好条件にも恵まれた点があったであろう。」 (大序)「仁左衛門の判官は右手を上げて若狭を止め兜は雑式に持って来させ、左手を三宝の下に入れて抱えるようにして持って入った。此方が無理がなくて形もよい。」 (三段目)「仁左衛門の判官も自ら文箱を持って出た。そして花道七三に座り『拙者が奥よりの文箱如何いたしましょうや』と開き、師直が『ムム左様か』と悦ぶので舞台に進んだ。すっきりとした品位のある判官であるが、師直に毒づかれる度に様々な表情で怒るのが目まぐるしかった。肝腎な『伯州の城主──』云々の処は『そりゃ出頭には高定を……』と云っていた。明治座の抱止めは本蔵でなしに、介十郎(※二代目市川介十郎)扮するところの、本蔵が家来梶川与惣兵衛であった。之は何でも楽屋内の役もめからと云う話だが、妙な芝居をしたものである。それで後の判官切腹の時には『梶川与惣兵衛とやらんに抱止められ……』などと苦しい台詞を云っていた。」(三段目道行)「明治座のは清元の『旅路の花聟』で志寿太夫以下の出語り。 (中略)(仁左衛門のおかる、七代目澤村宗十郎の早野勘平)仁左衛門のおかるは、菊五郎が用いた通りの矢絣に、裾や袂に草花を縫にした着附に、黒の朱子地に、観世浪、菊、桜を縫にした立矢の字の帯で出た。美しいが之も稍々老けたおかるさんであった。(中略) だが仁左衛門は意外によく踊った。」(四段目)「仁左衛門の判官は、切腹の座に直る時、向こうを見て進み、畳に足が触れて吾に返り、上使を一寸見て座に坐った。切腹の時小袖を一枚づつ二枚脱いだ。九寸五分を突込んでから左手を畳に支(つ)いて苦しみ、由良之助が出てから右手を畳に支(つ)いた。──これは二日とも同じであった──由良之助に遺言する時、口をもぐもぐ動かし、相当芝居ををしたが、大名の切腹には畳に手を支かざるもの……という芝居道の憲法があることを知らぬ人でもなかろうに……。」(六段目)「仁左衛門のおかるは、源六が勘平にゴタクを並べている時、門口に出て向こうを見ながら与市兵衛の帰りを待つ素振りがよかった。勘平と別れを惜しむ折、煙草盆を門先の源六に渡して門の戸を少しづつ気付かぬように締めた後、勘平の処に来て、例の台詞を云いながら肩で二三度勘平を揺ぶるところ、情味あって哀愁涌いた。」(七段目)「仁左衛門のおかるは、うちわを持ち、風に吹かれている態が何となく頽廃的で、おかるらしい気分に充ちていた。(左 仁左衛門の遊女おかる、右 二代目實川延若の大星由良助)簪は赤玉で (中略) 平右衛門が来た時、文を書きながら下手上手へ二度行って来いをし、兄に切りかけられてから平舞台に下りた。さわりの処は栄太夫の美音と共に、よく動いて見物を喜ばしたが、相手が芝居をしている間気を抜いて客の面(つら)を見廻したりするのは不量見の限りだ。」(「演芸画報」昭和14年7月号 “両座の忠臣蔵見物” 安部豊 述)〈芸談〉「“判官とお軽”判官は故人璃珏(※二代目嵐璃珏)さんに教わったままを演って居りますが、刃傷の時加古川本蔵に抱き止められる、此処で、抱き止めた人は誰かしらんと本蔵の顔を見ますが、豊島屋(てしまや ※嵐璃珏)さんはこの仕草で團蔵さんに大変褒められたそうです。誰何(どなた)も斯ういう仕草をしませんが、六代目さんだけは、そうしているとか伺いました。死に装束になって畳へくる時畳へ足をかけて思い入れをしますが、わざとらしくなりますので、畳へ足の行かないままで、由良之助が今にも駆けつけはしないかという心持で花道を見やり、畳へ足がかかると、未練だという気持ですぐ席につくようにしました。判官は、東京では初役です。七段目のお軽の着附は、歌舞伎座の時と変えて胴抜きにしました。紋付だと私のような身体(からだ)つきではいかつくなります。大阪では京屋(※三代目雀右衛門) さん、多見蔵(※三代目)さん、いづれも胴抜きを着ます、襟は祇園町の太夫ですから掛けない方がよいと思ってやめました。勘平が財布を見ているのをのぞく人がありますが、これも見ない方がよいと思ってやめました。お軽は六段目が一番難しいと思います。『逢いたかったでござんしょう』と勘平を偲んでいう台詞がありますが、ここまで自惚れないといけないのだそうですから、その心持でやっています。市村さんの勘平の時は帽子をかけましたが、顔世が大抵帽子をかけるものですから、ついてはいけないと思って羽二重にしてみました。女衒が門へ出て勘平と二人きりになる、莨盃(たばこぼん)にかこつけて門の戸を閉める所で色気をもたせているつもりです。ピシャリと閉めたのでは外の人に工合も悪いでしょう。」(同 “忠臣蔵芸談”)7月 歌舞伎座(2日初日)「春琴抄」娘お琴「さみだれ傘」三浦屋小紫「三味線やくざ」中村富十郎春琴抄」娘お琴「さみだれ傘」左 仁左衛門の三浦屋小紫、右 十五代目羽左衛門の白井権八「三味線やくざ」右 仁左衛門の中村富十郎、左 十五代目羽左衛門の杵屋弥市〈芸談〉「“私の三役”『春琴抄』は、花柳章太郎君の傑作がありますので、後からやるのでは余程自信のない限り損だと思いましたが、社長(※大谷竹次郎)に勧められて、出すことにしました。花柳君のは、私は見ていませんが、家内が見たので、話しをきき、参考にしました。谷崎氏のものは『お艶殺し』『お才と巳之助なぞを先がけに手がけていますが『春琴抄』に気付かなかったのは迂闊でした。今度は壽美蔵(※三代目市川壽海)君が二十九日に帰ったという始末なので二日きりの稽古でしたし盲目役というものは暑いのに、始めからしまいまで盲目の上に、頭巾で顔を包んでいますので、その暑さといったらなく、恐らく出来が悪かったことと存じます。幕開きは原作通り『茶音頭』を使っています。大詰にも一度弾きますので、これは子役だけにしましたが、三味線で合わせれば変わった味が出てよかったと思いました。花柳君の芝居につくと思ったのか、春琴の部屋を避けて、台所を使ってぃすが、あそこまで連れて来るのは無理でした。気位の高い我儘な娘というので、大阪にいる時分船場に、そういったお嬢さんがありましたので、この方をモデルに、その日常生活を写している訳です。『さみだれ傘』の小紫も急稽古で、初日が開いてからさらって頂いた位でしたが、やっと手順がつくと、警視庁から色気があっていけない、二人がくっつき過ぎる、というお叱りがあり、唄も二ヶ所ほど訂正されましたので、すっかりやり直しという訳で、随分苦労しました。『三味線やくざ』の中村富十郎は作が江戸弁に書かれています。大阪の役者だから向こうの言葉の方がよいではないか、と申しましたが、六日目頃から、では大阪弁にしてくれ、と申されましたのでその方に改め、頭もチョン髷だったのを一を取らない源氏──鴈治郎さんの『藤十郎の恋』の鬘──に替え、衣裳も、始めのは普通人か役者か分からないので今のように改めました。不思議な因縁と思われますのは、私の寺が中寺町の薬王寺、ここには八代目團十郎さんのお墓もありますが、私の家の墓に隣に、富十郎さんのお墓のあることでした。」(「演芸画報」昭和14年8月号 “芸談四人衆”)8月 歌舞伎座(3日初日)「女人哀詞」お吉「田舎源氏露東雲」足利光氏「比翼絵巻」綾衣「田舎源氏露東雲」右 仁左衛門の足利光氏、右 中村福助(六代目歌右衛門)の娘黄昏「比翼絵巻」左 仁左衛門の妻綾衣、市川寿美蔵(市川寿海)の冷泉為恭〈劇評〉『女人哀詞』「仁左衛門丈の唐人お吉は、そう云っては失礼だが、意外な位佳い。大体柄があって品があるこの優(ひと)が、普段もっと舞台に精彩を放たないのは不思議なのだ。型物をやると、何処か釘の脱けているようなところがあって、歯痒くなるところを、こういう新物になると、そういう欠点が目立たない。それに持前の妙な冷ややかさが、唐人お吉の犠牲者らしい悲哀を語るのに役立っている。最初の横浜の海岸通りでも、うらぶれた感じが相当出ている。第二場の下田の家の場ては、いつもと役者が違ったかと思う程、地の味が傑(すぐ)れている。ヤケになってお福に当って、結ってやるから此方へお出よというあたりホロリとさせ、この仁にしてこの境地を持っていたかと、自分の眼を疑った位で、すっかり見直した。料亭壽屋の二階でも、恐らくは演出村山知義氏の註文もあったろうと思われるが、悪く突込まずら控え目にしているやり方を採る。それだけ深い哀れがあっていい。最後の陋居では、内に燃えている情熱というものが不足で、やや上っすべりの貌(かたち)になって、ここだけは弥縫(びほう)し尽くせないものがあった。併し『女人哀詞』を出しただけの値打は充分あった。」『田舎源氏露東雲』「これは淺黄が落ちた途端に、わあッと来なければ、もう半分位意味がなくなろうという作品である。仁左衛門丈の光氏、福助丈の黄昏共に相当綺麗なのだが、まだ目の覚めるようだというところまでは行っていない。無論時勢ということもあるが、必ずしもそればかりではない。」『比翼絵巻』「(前略) これもなかなか面白い。これは巌谷(※三一)氏が俳優の体を見て書卸したものだけに、ツボに合っているという意味で、仁左衛門丈の綾衣は唐人お吉よりも持味にぴったりして、危気がないし、 (中略) 役としては類型化され理想化されているが、それを持味が反対に救って、一種の人間味を出している。」(「演芸画報」昭和14年9月号 濱村米藏 述)〈観客評〉「先月の春琴に今月のお吉に綾衣と松嶋屋大当り続きで之程嬉しい事はありません。世に虐げられ世をひがむ哀れなお吉の末路を之迄切実に演じ得る人は仁左の外にないと信じます。髪を結う処など本当にお上手で感心してしまいましたわ。雁かねに更け行く上賀茂の堤、十六夜の月に濡れて離れともない憂い別れを惜しむ綾衣の露を含む哀れな眼ざし、優しげな品の良い顔立薄淋しくも美しい声、秋の夜を纏綿として尽きぬ優婉甘美な絵巻の深き情趣に心から浸る事が出来ました。」(同 “読者倶楽部”)9月 明治座(2日初日)「義時の最期」伊賀の方「生写朝顔日記」朝顔実は深雪「小鍛冶」三条小鍛冶宗近「義時の最期」伊賀の方「生写朝顔日記」朝顔実は深雪「小鍛冶」三条小鍛冶宗近、二代目市川猿之助の稲荷明神〈劇評〉『義時の最期』「劇壇に対する勢力のあれ程に強かった坪内逍遥博士でさえも、その作品の上演は常に満点の好条件に恵まれるとは限らなかった。殊に、特異な一傑作である『義時の最期』は、(中略) ついに博士の生前に上演の機会を与えられなかったのであるが、今度、発表された大正七年からは二十二年目、博士歿後五年目にして、明治座に上演されるという (中略)北条家の為め、天下の政道の為めとは、自信するものの、我乍ら余りに酷いことの連続であった六十余年の過去の思い出に重病の身心を責め苛まれ、遂に一小姓の刃に命を殞(おと)す義時。生さぬ仲の泰時を逐って生みの子政村を北条の世嗣としようとし、実兄式部丞光宗や娘婿の藤原実雅と図って血で血を洗うお家騒動の果てに、事成らずシテ自ら毒をあおる義時の後妻伊賀の方。 (中略)座禅堂といえば、狭い堂内で、礼拝を挟んでの義時と伊賀の方との附まわしはちと景物が過ぎた感じ、嘘が見えるようにも思ったけれど、猿之助と仁左衛門が四つに組んでの大相撲は一日を通じてこの一場きり、それだけ力も入り、見ごたえもあった。と同時に、ここが盛上がり過ぎるために、大詰の迫力が序幕に及ばず、事の破れたのを知った伊賀の方が毒酒をあおって、次第に廻る毒の苦しみをたえ乍ら上段の間に上る所に、仁左衛門は大向うの手を呼んだ程の熱演を見せたものの、芝居全体としては尻すぼみの感を免れなかった。 (中略)仁左衛門も持ち前の冷たさが伊賀の方にはピッタリ嵌まって、成功を収めた。」『小鍛冶』「木村富子女史新作『小鍛冶』に就いては、能のそれを見ていない私は(※白石靖)批評者たる適格性を欠いているが、(中略)所作の方は殆ど猿之助の稲荷明神が一人で踊りまくって、仁左衛門の宗近さえ、まして訥子の橘道成の如きは気の毒な位のお附合だが、それらの振にも玄人は娯(たの)しめるのだろう。」『生写朝顔日記』「新作揃いの中に一つだけ第二に加ったデンデン物『朝顔日記』は却って気が変わってよく、殊に仁左衛門の深雪は何といっても当今随一、琴の件りやサワリはいうも更なり、前半の内に抑えた哀れは、後半では派手に発散して、これまたたのしく見物出来た。」10月 東京劇場(1日初日)「崇禅寺馬場」母おいの 「歌舞伎十八番の内 勧進帳」源義経「人情噺 おちよ餅」女房おちよ「歌舞伎十八番の内 勧進帳」源義経〈芸談〉「“勧進帳の義経”『勧進帳』の義経は東京では初演です。大阪と京都で、高麗屋さんの弁慶、市村さんの富樫に三回演らして頂きました。東京で是非演りたいと申し合っていましたが何時も機会に恵まれず富樫にばかり廻っていました。義経は、座った形が例の棒で頭をおさえられているので、頭が上げられず仲々苦しいと思います。始めてやる時、歌右衛門さん(※五代目)にそっくり教えて頂きました。『つらつらおもん見れば』の所は、自分でやっていて役になる所だと思います。お客様には見過ごされるか知りませんが、大事なところでしょう。『通れとこそは』で初めて、自分になって笠を取りますが、ここも難しい所と教えられました。『疑い晴れ申した』で笠をとる人もありますが此頃は、富樫が後ろ向きになって這入りかかる迄とれない、というのが本当でしょう。衣をつって出る人とつらない人があります。高麗屋さんの時は弁慶がつらないのでつりませんでしたが、つらない方が品が出ます。こんどは喜熨斗君(二代目猿之助)がつっているので私もつることにしました。長い旅をしているのですからつるということにも理屈は合います。笠をとると同時に笈もおろすことになるので、形の変り目がきっぱりしますし、ここで品も出せましょう。帰る時は元通りからげて陸奥への長い旅をする心持を見せる訳です。『おちよ餅』は喜熨斗君と一緒に明治座で出すことになっていましたが、都合で今月に持ち越しました。川口(※松太郎)さんの原作では豊次郎が主人公で、私のお千代という役はお杉になって居ります。お杉では色気がないからとお千代に改め私をしん(※主役)にした芝居に川口さんが書いて下さいました。始め豊次郎をする筈だった喜熨斗君は、友達の仁之助に廻って、升田屋(※市川壽美蔵=三代目壽海)が豊次郎をすることになったのですが、これというお話はございません。」(「演芸画報」昭和14年11月号 “芸談五人集”)11月 歌舞伎座(1日初日)「木下蔭狭間合戦」小田春永「銘作左小刀」女房おとく「佐々木高綱」姉おみの「黒手組曲輪達引」三浦屋揚巻「木下蔭狭間合戦」小田春永「銘作左小刀」左 仁左衛門の女房おとく、右 芦燕(十四代目仁左衛門)の息女井筒姫「黒手組曲輪達引」三浦屋揚巻〈劇評〉『木下蔭狭間合戦』「仁左衛門の小田春永はおっとりとして美々しく (後略)」 (「演芸画報」昭和14年12月号)12月 南座 顔見世興行(1日~20日)「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」微妙「元禄忠臣蔵」仙石伯耆守「妹背山婦女庭訓 吉野川」娘雛鳥「佐々木高綱」姉おみの「俠客御所五郎蔵」傾城皐月〈劇評〉『盛綱陣屋』「仁左衛門の微妙は凛とした勝気で孫に対する情味は薄い」『元禄忠臣蔵』「仁左衛門の仙石伯耆守は同じ問答でも富樫と違って芝居気はないが格を示している」『吉野川』「仁左衛門の雛鳥は娘らしさに不足はあっても若手では他の三人に気押されて位が保てず、四人一体の芝居となるとこの座ではやはりこの人の他にない」(「演芸画報」昭和15年1月号)
2026.01.30

○昭和13年(1938年) 56歳1月 歌舞伎座(2日初日)「夢の市蔵」市蔵女房お蝶「夢の市蔵」仁左衛門の市蔵女房お蝶、十五代目羽左衛門の夢の市蔵同 東京劇場(2日初日)※掛け持ち出演「西山物語」源太の母「義経千本桜 渡海屋 大物浦」女房お蝶実は典侍局「義経千本桜 渡海屋 大物浦」女房お蝶実は典侍局 坂東光伸(九代目坂東三津五郎)のお安実は安徳帝〈劇評〉『西山物語』「是介 (前略) 正月早々なんでこんな淋しい物を出したのかと思ったが、小山内薫十週年記念と、言訳が附いているのでは仕方がない。久平 本当の十週年はまだ後なのだから、きまってから肩書を附けたのだろう。春狂言には向かないというより外はない。一体この頃の興行師は、なぜ季節と狂言との関係を、斯うまで無視してしまうのだろう。(中略)仁左衛門のお母さんは、この前の『乃木将軍』の夫人同様、妙な巧さがある。夢の市蔵の女房などとは、まるで人が違ったような巧さだ。全くこの人の柄や性格にピタリと来ているせいだ。冷たいのも斯うなると立派なものだ。」『義経千本桜』「是介 仁左衛門の典侍(すけ)のお局は、これは前半のほうがいいな。後半には軍兵を使って自害の場という新手のついたのは少々驚いた。ポテチンと来たからね。久平 あれは雀右衛門(※三代目)が一度やったことがあるそうだし、そうしなければ歌舞伎座への駈持が間に合わないのだ。是介 それなら、いつものままで、大詰だけへ出ないほうが無事だった。」(「演芸画報」昭和13年2月号)〈追想談〉「おじさんは調子のいい方の上に声量の豊かな方ゆえ、典侍局など無類でした。前にも申しましたが、御座所で安徳帝を抱きかかえて下手の岩の上に立ちチョボに乗り『いかに八大龍王恒河のうろくず安徳帝の御幸なるぞ守護したまえ』と大海原に向って声高らかに言うところを、おじさんだけは『うろくずよっく聞け』と一段と声を張り上げるのです。私もいろいろな方の典侍局は拝見いたし私も勤めていますが、これだけはおじさんの専売特許だったと思うのです。高麗屋さん(※七代目松本幸四郎)についていた狂言作者の竹柴朔郎さんに『あなたよく覚えていますね』と言われましたが、一度私は国立劇場で芝翫(※七代目)さんの代役で典侍局を勤めさせていただき、なまいきにも知盛役の延若(※三代目)さんに『そう言ってもいいですか』とお伺いを立てた上で言ってみましたが、どうしてどうして言えるものではありませんでした。」(「澤村田之助むかし語り~回想の昭和歌舞伎~」六代目澤村田之助 著)2月 東京劇場(1日初日)「牧の方」畠山重保「相馬の金さん」母おとく「廓文章」藤屋伊左衛門「牧の方」右 仁左衛門の畠山重保、左 中村福助(六代目中村歌右衛門)の息女照子の前「廓文章」右 仁左衛門藤屋伊左衛門、左 二代目市川松蔦の扇屋夕霧〈劇評〉「重保はそう悪い出来ではないが、役としてはもう少し颯爽さがほしい。文字若の母親は少し殺生だ。伊左衛門は度々の見参だが、いつもと大して味は変わらぬ。なかなかいい所もある。花道の出を始め、大体、絃に乗る個所は大阪式和事の旨味があって頂戴出来るが、地を売っている間の動きに、上方式三枚目の妙な厭味が附きまとうのは気になる。寝てから蒲団を持ちあげ、夕霧のくるのを見るなどは、ある型であろうが、よす方に賛成する。途中で足袋を穿くのも、理屈本位の型から来ているのであろう、色気がない。バタバタ歩くと股が見えるなども困る。引ッくるめて、初めと後半がよく、独り舞台の間が一番悪い。」(「演芸画報」昭和13年3月号 “東劇豪華版評判記”)3月 大阪 歌舞伎座(1日~25日)大阪歌舞伎座『十二代目片岡仁左衛門襲名披露』「三千両黄金蔵入 泉州大和橋の場」織田三七郎信孝「源平布引滝 実盛物語」娘小万「歌舞伎十八番の内 勧進帳」源義経「一谷嫩軍記 陣門 組打 壇特山」熊谷小次郎直家、無官太夫敦盛「三人吉三巴白浪 大川端」お坊吉三「歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜」三浦屋揚巻「京人形」京人形小車太夫「歌舞伎十八番の内 勧進帳」源義経4月 歌舞伎座(1日初日)『團菊祭興行』「妹背山婦女庭訓 吉野川」娘雛鳥「歌舞伎十八番の内 暫」妹照葉「与話情浮名横櫛」妾お富「妹背山婦女庭訓 吉野川」娘雛鳥「歌舞伎十八番の内 暫」妹照葉「与話情浮名横櫛」左 仁左衛門妾お富、右 十五代目羽左衛門の与三郎〈劇評〉『妹背山婦女庭訓 吉野川』「長いので有名な場を、時間短縮の折から出そうというのだから、どうなる事から思ったら、一時間でやってしまった。その代り物凄い切り方だ。上手はそれ程でもないが、下手は大分鉈を揮われ、双方で首を切って下へ下りるとチョン。つまり芝居を半分づつ演っておしまいになる訳で、首と婚礼がないのだから上下が融合せずじまい。見物は知らないからぼんやり見ているが、斯うまでしてしまうと、苦労して出すがものはない。僕は元来古典カット主義で、昔通りこの一場に二時間使う必要はないと思うのだが、カットの仕方はもっとあるだろう。雛道具を流す所はこの場の眼目だから残して置いて、もっと外をカットしたい。これからは古典の改訂が歌舞伎の上の大問題だ。 (中略)仁左衛門の雛鳥は一通りだが、例の通り冷たいので、なんだか投げているように見える。」『与話情浮名横櫛』「これも時間の影響をくって、幕があくと座敷にお富も藤八も板つきという次第。今に門口に与三と安が立っている所で幕があきはしないかと思うと心配だ。役はいづれも文句なし。仁左衛門のお富もだんだんよくなった。 (後略)」(「演芸画報」昭和13年5月号)5月 東京劇場(1日初日)「伽羅先代萩 御殿より刃傷まで」乳人政岡「勝安房の父」阿茶局「雪暮夜入谷畔道」大口屋三千歳「銘作左小刀 京人形」女房おとく「伽羅先代萩」乳人政岡 坂東光伸(九代目坂東三津五郎)の一子千松〈劇評〉『伽羅先代萩』「この狂言の上演は年中行事の一つという感があるが、政岡役者仁木役者が多い為と思えば心強い。義太夫が『跡見送りて政岡が』と語り出すので、ハハア飯焚きがあるのか、近頃では珍しいと思ったら何の事、御簾を上げて政岡と二人の子役を見せただけで、直ぐに腰元が栄御前様の御入りを報じてくる。観衆(けんぶつ)はペテンに掛けられた心持。 (中略)仁左衛門の政岡は栄との対話にも襠(かけ)を辷らせて居るなどが少し色っぽいが、美しいうちに気品があり、凛とした所が見えて、大体に於ては好い。愁嘆のサワリは歌右衛門型の服紗、菊五郎型の裲襠チャンポンだが、使い所が違うので意味をなさない所が多い。例えば『果報か』で裲襠を取って千松の死に顔を見るより、『因果か』で取る方が効果的で、『いぢらしや』と頬摺をする手順も可いように……。」『勝安房の父』 「真山青果氏の作、巌谷三一氏の演出である。廃頽の幕末を背景として“小心者の悲しさ”と阿(おもね)る事の出来ない江戸ッ子気質を書いたもの。敢えて勝安房の父とは限らないが、史劇的の内容としては明治維新の大スター勝安房が、その少年時代から利発聡明であった事を描いてある。(中略)仁左衛門が小吉の姉で大奥の中臈阿茶の局、小吉や庄之助をぐッと押えつける程の貫禄があって立派だ。」『雪暮夜入谷畔道』「仁左衛門の三千歳はわざとらしい色気である。羽左とのコンビではお富の方を採る。」(「演芸画報」昭和13年6月号)〈観客評〉「五月の東劇の直侍のよかった事。降りつむ雪の中を追っ手のかかる身も厭わず人目忍んで三千歳に逢いにくる直侍、これ程傑出した直侍は他の優では永久に見られぬ。知らせ嬉しく襖を明けた三千歳のなんてあでやかな美しさであろう。これからは浮世絵のような二人が清元の哀調にのってはかない一時の逢瀬を楽しむ。仁左の三千歳に一昨年の時より偉大な進歩をみとめた、よい女房をもったことを羽左の為心から祝福する。今度は是非お二人の十六夜清心が見たい。」(同 読者倶楽部)6月 歌舞伎座(1日初日)「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」微妙「誡種因果噺」福島屋抱えおその〈劇評〉『近江源氏先陣館』「仁左衛門の微妙、女形の勤める老女で、加役でないところを賞翫すべきだが、それでいながら借物のようにいわれるのは、自然に湧いて出る情味のない為だろう、小四郎のつけ廻しに、始終刀の棟を向けたのは、脅しの為という意だろうが、目ざわりになるようでは気組が弱い。」(「演芸画報」昭和13年7月号)「誡種因果噺」右 仁左衛門の福島屋抱えおその、左 十五代目羽左衛門の因果小僧六之助8月~9月 仙台(14日初日)、北海道、北陸、中国、四国、九州、名古屋(9月17日~24日 御園座)、静岡(9月25日 静岡歌舞伎座)巡業「絵本太功記 尼ヶ崎の場」光秀妻操「三人吉三巴白浪 大川端庚申塚の場」お坊吉三「名橘誉石切 星合寺の場」大庭三郎景親「史劇 腰越の義経」九郎判官義経「与話情浮名横櫛」多左衛門妾お富10月 歌舞伎座(1日初日)「仮名手本忠臣蔵」顔世御前11月 歌舞伎座(1日初日)「南部坂雪の別れ」瑤泉院同 国際劇場(9日初日)※掛け持ち出演国際劇場「松平長七郎」松平長七郎「歌舞伎十八番の内 勧進帳」富樫左衛門「恋飛脚大和往来」亀屋忠兵衛「歌舞伎十八番の内 勧進帳」富樫左衛門〈劇評〉「謳って曰く『戦捷記念・芝居の正月、大衆顔見世興行』と来た。『戦捷記念』は抜目ない興行師(しょうばいにん)の常として、『芝居の正月』は今日の観客(けんぶつ)に分かるかしら。入口に立てられた巨(おお)きな松飾りが全く無用の長物のような気がするが、兎に角あの大劇場に所謂大衆がぎっしり詰まったのは目出たい。もっとも、仁左衛門(まつしまや)、猿之助(おもだかや)、時蔵(はりまや)、三升(なりたや)等の顔をズラリと揃えて、新旧の歌舞伎十八番、さては片岡十二種まで続々と出してそれで御一名一円六十五銭とあっては、これで入らなかったら観客の方がどウかしているというものだ。しかし、大衆即安直という定義があり、殊にその大衆の本場所の浅草であり、だから、安かろう悪かろうなどと当て推量をすると、とんでもない。勿論歌舞伎座には比べられないが、中心(しん)の俳優は大歌舞伎、周りががたッと落ちるのが、それお値段の所以か。が、あの馬鹿大(でか)い舞台を、しかも丸型の観客席の横の方からでも見ていると、どうしても『顔見世』なんて気持ちになれない。廊下で歌舞伎座(こびきちょう)の御定連らしい御婦人が言っていた。『此処の廊下に居ると何だか駅に居るような気が致すぢゃアござアませんか』うまいことを言ったものだ。」(「演芸画報」昭和13年12月号 “国際劇場見物記” 利倉幸一 述)12月 南座 顔見世興行(1日~18日)「源平布引滝 実盛物語」娘小万「其小唄夢廓」遊女小紫「南部坂雪の別れ」瑤泉院「歌しぐれ」三河屋市郎右衛門「忍夜恋曲者」大宅太郎光圀
2026.01.30

○昭和12年(1937年) 55歳1月 東京劇場(2日初日)「おくみと與兵衛」妾おくみ 「日高川入相花王」娘清姫「おくみと与兵衛」左 仁左衛門のと妾おくみ、右 八代目澤村訥子の銀四郎「おくみと与兵衛」右 仁左衛門の妾おくみ、左二代目猿之助の與兵衛「日高川入相花王」娘清姫、後ろは次男片岡義直(二代目市村吉五郎)の人形遣い同 歌舞伎座(2日初日)※掛け持ち出演「鎌倉三代記」息女時姫「道行旅路花聟」花四天「鎌倉三代記」息女時姫「道行旅路花聟」花四天(後列左から時計回りに三升、六代目友右衛門、不明、七代目三津五郎、七代目幸四郎、七代目宗十郎、仁左衛門、十五代目羽左衛門、六代目菊五郎)〈劇評〉『おくみと與兵衛』「長谷川伸作『おくみと與兵衛』というのも新作物である。おくみという囲い者が旦那の留守に情夫(※八代目訥子)を引入れて楽しんでいる処へ盗人(※二代目猿之助)が入った。情夫は自分の身ばかり可愛がって女一人置き去りにしたまま遁(に)げ出して行ってしまう。盗人は女の顔を見ている中にそれが自分の幼な馴染みだった事を知り、あまりに変わり果てた浅ましい有様に盗人に成り下がった自分の事は忘れて夢をこわされた憤りがこみ上げてきた。おくみは『昔惚れていた女』という言葉を聞き一度男の前に身体(からだ)を投げ出したが、男は指一本触れようとしない。辱められて怒ったおくみは遮二無二怒鳴り立てて、盗人を追い出そうとする──急に男は気が変わっておくみを追い廻し掴まえた時は先刻遁げた情夫の知らせで岡っ引が飛び込んで来た。『手前を盗むよりそっとして置いた方が、十年前そのまんま、持ち越して俺はいられるんだ』こう云って盗人は素早く遁げ去って行った。 (中略)猿之助の與兵衛の締って真面目さのあるの、訥子の銀四郎(※情夫)の性根のない嫌味なの、そして仁左衛門のおくみの阿婆摺(あばず)れて色っぽいのと、それぞれに発揮して見せてくれた。ただ仁左衛門がおそろしく発散するエロ──色っぽいなどと日本語の感じでは間に合わないようなのが眼に灼きついて今だに何処かにもたれているようなのを収穫(?)とするべきだろうか。」『日高川入相花王』「大切は『日高川入相花王』仁左衛門の人形振の清姫である。最後まで謹んで拝見したが案外面白くなく、ぼやぼやした印象であった。寧ろあまり期待していなかった訥子の船頭の方へ私は点を入れたいと思った。」『鎌倉三代記』「殊に仁左衛門の時姫は、こういう院本(まるほん)式女性になり切っている佳作の一つだ。余談だが、東劇で、この人は『おくみと與兵衛』という新作の囲いものの淫奔女をやっている。これは車輪だが、困りもので、この人は矢張り院本的の女性に新しい領域を開拓した方がよさそうだ。」「何時も乍ら時姫の恋に殉ずる情熱には胸打たれるが、仁左衛門と云う人は美しくはあり乍ら冷たく色ッポイのも、度を過ごして遊び女のそれの如くどこやら手管が仄見える。」『道行旅路花聟』「大切の落人は謂る御曹子連の菊之助(※七代目尾上梅幸)家橘(※十六代目市村羽左衛門)のお軽勘平、伴内は松緑(※二代目)でゾロゾロ従う花四天は、羽左衛門、菊五郎をはじめ、そうそうたる大幹部許り、テモ贅沢な伴内だ。千両役者はどうもこうした扮装は似合わないのも当り前だが、場内は一時にワッと笑いどよめく。御当人達も大分テレ加減、クスクス笑うやら白詞(せりふ)をトチルやら、何かコソコソ相談するやら、大分御行儀の悪い中に、六代目はワザと糞真面目な顔付をして居るのが却っておかしさを誘う位である。 (後略)」(「演芸画報」昭和12年2月号)2月 東京劇場(2日初日)「三井寺絵巻」大江匡房「神明恵和合取組」辰五郎女房お仲「明烏夢泡雪」山名屋抱浦里「三井寺絵巻」大江匡房「明烏夢泡雪」左 仁左衛門の山名屋抱浦里、右 十五代目羽左衛門の春日屋時次郎〈劇評〉『明烏夢泡雪』「この芝居も書卸しの忠臣蔵気分を全部取払ってしまうと、浦里の縛られた姿を見せる以外は、全部清元のおつき合いに役者が出ているようなもので、詰まらないこと夥しい。もう今の芝居で出してもらう必要はありますまい。踊とも芝居ともつかぬ不徹底さ、筋や段取りの単純さ、子役を使って無理に愁嘆を見せる不快さなど、今の人に見せる歌舞伎としては、最も向かないものだと思います。仁左衛門の浦里は、あの綺麗さを持っていながら、サバサバするほど色気がなく、おまけに表情が強張っていて、色模様だろうが愁嘆だろうが、同じ顔つきなのは困ります。」(「演芸画報」昭和12年3月号)〈役者評〉「仁左衛門も段々江戸の風に染みてきた、浦里も時姫もめ組の女房お仲も相応の評である、但し『三井寺絵巻』の匡房卿は止めさせたい、悪いとは云わない、相応にやっている、やっているからこそ私は苦言を呈する、女形は女形にして置かねばならぬ、殊に仁左衛門は今までに散々立役を勤めている、松平長七郎は伝統上の約束で、ある種の披露劇には仕方が無いが、其他の場合は建直しのために、一切立役を封じさせるのが、亭主役の羽左衛門に対しても遣らせない至当であろう、女房に浮気をさせてはならぬ、仁左衛門は和藤内さえ勤めたほどの剛の者だ、洗礼は腸(はら)からさせたい。」(「演芸画報」昭和12年3月号 “演劇往来” 山崎紫紅 述)〈本人談〉「“老け役から女形へ”私には芦燕、義直、大輔の三人がありますが、芦燕は御承知のように去る二月に東宝へ走り、それ以来私の処へは寄りつきません。当人も内心出入りしたいのでしょうが、斯うなっては私も相当の理由なしに逢う事は出来兼ねます。併し親子の情として芦燕を想わぬ日とてはありません。若い者の事ですし自分の将来を思い煩った結果ああした行動に出たのでしょうが、併し穏当を欠いた仕方でした。今更何を申しましても致し方のない事、ただ私としては何時か晴れて再会する時期の来るのを楽しみに一日も早く芦燕(あれ)が立派な一人前の俳優となってくるよう祈っている次第です。芦燕(あれ)は今まで女形としてやって来ましたから今後もそれで行くだろうと思います。最初は立役を好んでいた時期もありましたかが、御存じのような性質なり柄なりが女形の方に向きますのでそうなりましたような訳です。私が元々女形が大嫌いだった人間でして、立役もいや、不思議なことに二十歳位から老け役ばかりを好んで灰屋紹由などをよく演ったのでした。故人になった豊島屋(※てしまや 四代目嵐璃珏)さんは私の顔を見ると『坊ンコ、老け役は止めなはれ、いけまへん』と云って、老け役は年を取れば厭でもしなくてはならなくなる。年を取ればいくらでも出来るのだから若い中は若い役を演るものだといつも親切に忠告してくれました。それで到頭私も断念して暫く立役を演っている中におじさん(先代仁左衛門)の一座に入るよかうになり、おじさんは必ず私に女形を演らせて自分の相手役としたのでした。そのくせ可笑しな事におじさんは女形が嫌いで私の役を『フン、又女形か』と忌々しそうに云うのが常でしたが、とにかく斯うしておじさんの伊左衛門に夕霧をつとめ、忠兵衛に梅川を勤めてきて今は私は女形という事になった訳です。只今は東京で女形を演らせていただいて結構な事に存じて居ります。芦燕(あれ)の下の二人については何の考えも持っておりません。義直(よしなお)は多分立役で行くらしく思われますが、それとてハッキリした事は分かりません。親が今から定(き)めて置いた処で却ってつまらない束縛になって、それが勉強盛りの子供の伸びようとするのを抑えてしまうような事になりますから、その点は今のところ放りっぱなしです。何でもおかまいなく演らせて見る事にして、いつかその中から道を選ぶ事が出来るだけの役が生まれるのを俟って居ります。鴈治郎さんも最初は女形を演って居られました。それが二枚目となって、又立役をも演られるようになった訳です。何でも数多く舞台を踏んでいる中に外所目(よそめ)にも本人にも見当がついて来ますし、又この鴈治郎さんのように私の例のように変化して行く場合もあります。現在(いま)はただ成長を見守って折々相応の注意を与えてやるのに過ぎません。」(同 『吾子吾弟の舞台を語る』)3月 歌舞伎座(3日初日)「天慶兵乱」左馬頭平貞盛「源平魁躑躅」娘桂子「天慶兵乱」右 仁左衛門の左馬頭平貞盛、左 男女蔵(三代目市川左團次)の桔梗の前「源平魁躑躅」左 仁左衛門の娘桂子、右 羽左衛門の折子小萩実は無官太夫敦盛4月 歌舞伎座(1日初日)「春日局」松平右衛門太夫「六歌仙容彩」小野小町姫「六歌仙容彩」小野小町姫右 十五代目羽左衛門の在原業平左 十五代目羽左衛門の在原業平右 七代目幸四郎の大伴黒主〈劇評〉『六歌仙容彩』「『六歌仙』で梅幸が小町をやったのは、ツイこの間だと思ったのに、もう三年になるんですね。今度は仁左衛門ですが、どうもこの人は踊りには向きません。あの冷たい顔を見ると、どうにかして踊りに酔おうとつとめても、酔えません。美しい事は決して人に負けませんが、どことなしに側へ寄りつけような気がします。だから三つの中では、黒主の場が一番ようございました。 (中略)『東宝』という雑誌に、小林(※一三)さんがこの六歌仙を初めて見て、この時代の人をあんな扱い方をする、無茶なところが昔の世相を現していて面白い──と書いてあるのを見て、私はあたりを見廻しました。私たちは、もう心から髄から歌舞伎酒が浸み込んでいるのでしょう。今までそんな事を、おかしいと思ったこともありませんでした。文屋を江戸ッ子らしく踊らせ、喜撰に下びたチョボクレを踊らせても、なんの不思議にも感じませんでした。私たちは踊りにかけては、まだ江戸時代の人間なのかも知れません。でも今の若い人には、さぞおかしく写る事でしょう。こうした問題は、どうなってゆくんでしょう。」(「演芸画報」昭和12年5月号)5月 東京劇場(1日初日)「箱根霊験躄仇討」飯沼勝五郎「西鶴置土産」女房おきわ「籠釣瓶花街酔醒」繁山栄之丞「箱根霊験躄仇討」左 仁左衛門の飯沼勝五郎、右 二代目松蔦の妻初花「籠釣瓶花街酔醒」右 仁左衛門の繁山栄之丞、左 二代目河原崎權十郎の釣鐘権八「籠釣瓶花街酔醒」右 仁左衛門の繁山栄之丞、左 二代目松蔦の兵庫屋八ツ橋〈劇評〉『西鶴置土産』「外題の通り『西鶴置土産』の巻二の中“人には棒振蟲同然に思われ”を劇化したものである。巻中すべて遊女に戯れた老いの身の果を綴ったものであるが、 (中略)仁左衛門のおきわは太夫上がりらしさの権威と誇とは此の人の持味で見えていたけれど、どうも利左衛門(※二代目左團次)に惚れた事があったかどうか疑いたいような気がした。子供に対してのセリフもよく生かされていたが一歩を誤ると全然情愛を失い易い。」『籠釣瓶花街酔醒』「仁左衛門の栄之丞は上品な人柄なのが良い。どうせどっちかと云えば此の人女形に出来上がっていないようだ。」6月 歌舞伎座(3日初日)「本朝廿四孝 勘助隠家」百姓慈悲蔵実は直江山城守「享和政談延命録」奥女中竹川「本朝廿四孝 勘助隠家」百姓慈悲蔵実は直江山城守「本朝廿四孝 勘助隠家」左 仁左衛門の百姓慈悲蔵実は直江山城守、右 二代目實川延若の木樵横蔵実は山本勘助「享和政談延命録」奥女中竹川〈楽屋噺〉「“小唄の作曲”仁左衛門の美音は有名だが、(中略) その仁左衛門の小唄に三下りで『鵠沼』という作がある。作曲談を聞くと『これは鵠沼の避暑中の即興で歌詞は“嬉しき宿は鵠沼の女浪男浪の松吹き渡る、風も涼しきとり膳や楊子を包む辻占に、ハッと赤らむ謎の文字、富士江の島も笑い顔” というので吹き渡る迄は浜唄調、糸は伴奏風に唄とは全然離れて、トン、ツ、チンテンツンツンと繰り返し静かな波の気分を出し、取膳はカン、楊子を包むは軽く粋に、富士は二の吟、江の島は三でカンどこを脱(はず)し、琵琶の音を出しました』と。」 (歌舞伎座六月興行番付 「俳優談話室」)〈劇評〉『本朝廿四孝』「A (前略) 筍の為に一時間半──こんな愚劇の為に、甚だ勿体ないぢゃァないか。大切な時間を一時間半つかうなんて。 (中略)全体から見れば、モウ今の時勢には捨てられていい芝居だ。捨てても構わない。昔から歌舞伎では、可成り立派な脚本でも、時相の為には敢然と捨てて来た。今さらこんな物を出す必要はない。 (中略)その時々の大衆を的とする商業劇場が、こんな物を出して一体どうしようというんだ。お客の九分通りまでは、何がなんだか解らないぢゃァないか。同じ愚劇ならば新作を望むね。毎月各雑誌に発表される脚本は相当ある。今の見物にとっては、少なくとも筍より、最近発表の若い人の愚作の方を喜ぶよ。 (中略)古典劇だって、こんな解らない脚本ばかりぢゃァあるまい。今の見物には、何より先に“解ること”が、第一だ。それから第二に、夢の中に引摺り込むのだ。 (中略)В 仁左衛門の慈悲蔵はどうだ。A この前、本郷座で、中車とやった時には、恐ろしく突慳貪な慈悲蔵だと思ったねえ。B 今度は。A 今度は流石に潤いがあったが、それでも前はギスギスしていけないねぇ。斯ういう役は、ああ水晶見たいに鋭角的では困るよ。もっと滑らかになってもらわなくては──変にひがんでいる慈悲蔵だ。B 例によって冷たいというんだろう。A 理屈ぢゃァないからね。その代わり立廻りから後になると、グッと見直した。」 (「演芸画報」昭和12年7月号)10月 博多 大博劇場「元禄忠臣蔵」浅野内匠頭長矩「神霊矢口渡」娘おふね「松平長七郎」松平長七郎(※「演芸画報」昭和12年11月号による)11月 歌舞伎座(10月31日初日)「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」女房おかる同 東京劇場(1日初日)※掛け持ち出演「最後の日の乃木将軍」宇田さと子「操三番」翁〈劇評〉「噂に聞くと、歌舞伎座では菊五郎が、軍事劇を出す筈だったという。東劇(ここ)では左團次が岡本綺堂氏新作の『天野屋利兵衛』をやる予定で、既に脚本も出来たのだという。その軍事劇が出来なくなった為に忠臣蔵となったので、その飛ッちりを受けて、こっちでも天野屋利兵衛を引込ませ、皿屋敷に小栗栖の長兵衛という事になったのだそうだ。軍事劇は暫く措くとして、左團次の新作を引込ませたのは、いくら向こうが忠臣蔵でも、甚だ詰まらない事と思う。左團次は新作に生きる人、それを知り抜いている見物は、新作の再演を余り喜ばないであろうと思う。今度はどんな新作を演るだろうという点に第一の興味がかかるのではないかと思う。昔の歌舞伎の興味は、いつもそこにかかっていた。昔の芝居で古典劇を上演するのは、何か事情がある時に限られていたのだ。原則は新作であった。(後略)」『最後の日の乃木将軍』「(前略) その名の通りの芝居である。偶像としての将軍ではなく、人としての将軍及び夫人を書いている所が作者の味噌であろう。 (中略)この場での大出来は、仁左衛門の宇田さと子刀自だ。持ち前の冷たいところが役に立って、如何にも厳格な、昔は武士の妻だったはしい、沈着な女性に成り切っている。これは仁左衛門の持ち味のせいであるが、斯うなると柄に嵌まるということの大切さがよく解る。」(「演芸画報」昭和12年12月号)12月 南座 顔見世興行(1日初日)「名橘誉石切」奴島平「鳥辺山心中」坂田源三郎「歌舞伎十八番の内 勧進帳」源義経「心中夜雨月」材木問屋主人次郎兵衛「雪暮夜入谷畔道」大口屋三千歳 〈劇評〉『名橘誉石切』「仁左衛門の奴は鼠色の繻子に金の刺繍の配合がよくない。」『鳥辺山心中』「今さら左團次の半九郎松蔦のお染に贅言の要もなく訥子の坂田市之助と仁左衛門の弟源三郎は役どころが反対に見える代りに芝鶴のお花は近頃の莚升より本役である。」『勧進帳』「仁左衛門の義経は凜とした点は武将らしいが落ちて行く義経のあわれさに乏しい。」『雪暮夜入谷畔道』「三千歳に扮する仁左衛門を通して、私は亡き梅幸のそれを回想しようとしたが、遂に梅幸の俤(おもかげ)を忍ぶことが出来ず、思いがけぬ花柳(※章太郎)の容姿に似通うところのものを見た。」(「演芸画報」昭和13年1月号)
2026.01.30

○昭和11年(1936年) 54歳1月 歌舞伎座(2日初日)『我童改め十二代目片岡仁左衛門襲名披露』「歌舞伎十八番の内 暫」那須九郎妹照葉実は景政の従弟女「片岡仁左衛門襲名披露 口上」口上「三千両初春蔵入」織田三七郎信孝「俠客御所五郎蔵」傾城皐月「歌舞伎十八番の内 暫」那須九郎妹照葉実は景政の従弟女「十二代目片岡仁左衛門襲名披露 口上」口上(左から三男大輔、我童改め仁左衛門、次男義直、長男芦燕)「三千両初春蔵入」織田三七郎信孝「三千両初春蔵入」織田三七郎信孝(左は十五代目羽左衛門、右は六代目菊五郎の捕方)「俠客御所五郎蔵」右 仁左衛門の傾城逢州、左 芦燕の新造八重咲〈襲名口上〉「先輩の方々からお願申し上げました通り、今回御ひいき様のお勧めによりまして、愈々当春より、私事十二代目片岡仁左衛門を襲名いたしまして御座りますが、幼年にて父に別れ、先年故人になられました十一代目の叔父に世話になり、漸く今日に及びましたるところ、偶々(たまたま)仁左衛門襲名のお勧めに預かり、まだ時期の至らないため再三御辞退いたしましたが、どのみち相続せねばならぬ身であるから、早く襲(つ)いだ方がよかろう……とたってのお言葉。まだまだ未熟な私、仁左衛門はおろか、一左衛門を襲ぐ資格とても御座りませぬが、今後の勉強も一入引締まることと思いまして、十二代目を、襲名いたしました訳で御座ります。何卒御ひいきの御余光を持ちまして、将来ともよろしくお引立て下さいますよう、倅芦燕、義直、大輔其他門弟一同と共に此席よりよろしくお願申上げます。」(「演芸画報」昭和11年2月号 草太郎 記)〈挨拶〉「“襲名と家の芸”私が十二代目仁左衛門を襲名仕りまして『三千両初春蔵入』の前で襲名の口上を延べさせて頂きます。と申しますより、先輩の方々が私の為に口上を述べて下さいますので、誠に有難い事と思って居ります。片岡の家系は元禄頃からズット続いて居りますが、昔の事は兎も角、何でも七代目の仁左衛門が傑(えら)い人で、片岡家中興の祖だと云っていい位だと聞いて居ります。其の七代目の次の八代目仁左衛門が私の祖父で、八代目に二人の実子があり、兄が私の父で我童から仁左衛門を襲名致しました。弟はこの間殁くなった叔父の仁左衛門でございます。父は明治二十八年一月に角の芝居で仁左衛門を襲名し、『八陣守護城』や『馬切』を出しましたが、その芝居の最中に四十五歳で慌ただしく殁って了いました。夫れからざっと十年後に、叔父が仁左衛門を襲ったので、代数は、八代目の養子になった片岡市蔵の子の我當を九代目に、十代目が私の父、十一代目が叔父、十二代目が私、と云う順序に成るのです。『三千両初春蔵入』が襲名披露の狂言で、私が三七信孝で御機嫌を伺いますが、芝居として信孝の役名の方が古いので、実録へうつした松平長七郎で勤めるのは新しい事です。私の家の芸でございますが、一番初めに馬切の信孝を勤めたのは、打物の名人と云われた三代目の團蔵でございます。お正月に襲名が重なって、私もひどく気の改まった気がしますが、初春は最う気の改まるのが当然で、皆様の晴着のお姿などを見ると、それが特にピンと参るのです。(後略)」(昭和11年 歌舞伎座正月興行番付)〈劇評〉『俠客御所五郎蔵』「新仁左衛門の皐月、梅幸とは異(かわ)ッた味の傾城で、柄はよし、縹緻(きりょう)はよし、若いところで引立ッた。含み声の清(す)んだ調子に、温かみの乏しいのは是非がなく、羽左衛門の味とぴッたり合うには、ちょッと距離があるようだけれど、何も梅幸ばかりが女形ではなく、いわば若い後添いなのたから、先妻とはまた異(ちが)ッた味で、ぶッつかりも磨かれもしたら互いに張合いがあッて、別の世界が開けるかも知れぬ。幸運にめぐり合せた仁左衛門として、自重すべきはいうまでもない。」(「演芸画報」昭和11年2月号)2月 東京劇場(1日初日)東京劇場「大岡政談 天一坊」天一坊実は感応院弟子法沢、大岡奥方小澤「幻浦島」竜宮の乙姫「箱根の角太郎」角太郎女房おいそ「大岡政談 天一坊」天一坊実は感応院弟子法沢「大岡政談 天一坊」左 二代目市川左團次の大岡越前守忠相、中央 天一坊実は感応院弟子法沢、右 二代目河原崎權十郎の赤川大膳3月 歌舞伎座(3日初日)「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」顔世御前、おかる、清水一角妻おまき、竹林唯七顔世御前腰元おかる右 仁左衛門の腰元おかる、左 十五代目市村羽左衛門の早野勘平女房おかる遊女おかる左 仁左衛門の遊女おかる、右 二代目實川延若の寺岡平右衛門〈劇評〉 「昔は歳末になると『忠臣蔵』がよく出たものだが、近年は期節なんぞ一向お構いなし、歌舞伎座の三月興行は長時間に亙っての通し狂言、黙阿弥の『清水一角』を混じたのは聊か不純の嫌いはあったが、 (中略)仁左衛門の顔世は気品と色気とがあってよい、私の見たうちの有数のよい出来だ、此人の顔立は時として高慢相に見えることがあって、反感を持たせられることがある、此頃はあの暗影が見えない、お軽もよい、殊に裏門が一番宜しい、六段目は大分控えめであった、茶屋場も時間の為か、おそろしく忙し気であっはた、 (中略) 所で困るのは竹林唯七である、純お山(※純女形)として歩ませようとする仁左衛門に、立役をさせるのは悪い、此人の此役に何の精彩がある、見物を引くだけの価値が何処にある、私は義士になって出た仁左衛門を見て、顔世やお軽で受けたよい感じを軽減せられてしまった、先月の天一坊は此人の身体(からだ)にあるとは云え、仁左衛門を純お山に仕立直すには悪い仕方であったと思う、況んや竹林唯七に於ておやである。」(「演芸画報」昭和11年4月号 山崎紫紅 述)〈芸談〉「“顔世御前とお軽”今度は女形払底のため、顔世もお軽も、一角の姉も引受けて了いました。顔世は東京で四段目のは勤めましたが、大序のは今回が抑々の初めです。直義公を始め諸大名の居並ぶ前に呼出されて兜を改める重い役、而も忠臣蔵のあの大騒動を醸し出す奥方ですから、その一挙一動(たちいふるまい)には一入細心の注意を要する六ケ(むつか)しい役柄です。本文に因んで、足袋を穿かずに、跣足(はだし)で出ていますが、之には種々な説もありますところから多くの方々な聞合わせた上、本文の“馬場の白砂素足にて……”に基き、跣足にきめたのであります。兜改めるは仕勝手の為二三日唐櫃を斜に下手向きにして見ましたが、見た目がわるいと云うことで正面に直しました。活歴だと無論正面にすべきですが、斯うした古典ものは斜めにしても差支えないと思います。今度あの唐櫃には特に桑形の兜と見まがうような立派なものを二三加えてありますが、いつもは、義貞の兜以外は、不恰好な変なものばかり入れてありますので、気がさしてなりませんでした、あの唐櫃は東京のは七八個しか入らない小さいものですが、大阪のはモッと二尺余りも大きく、兜も沢山入れてあります。本文通り四十七個を入れる必要はないが、兎に角今少し綺麗なのを多く入れた方がよかろうと思うのです。おかるは、東京では初役です。今度のように三段目の門外の出る場合は、六段目のは眉のないのが法式と申しますので、私はその通りにしています。つまり、奥女中と世話女房と遊女とを判然(はっき)り見せる訳なので、門外のない時は六段目は眉を付けてもよいのです。三段目のおかるの着附は、本来は白地の矢絣に黒繻子の帯と定(きま)っていますが、白が多いと、モスに見えますから、紫の勝った矢絣にし、帯も黒地に、霞と桜花を縫いにしたものを用いて見ました。六段目の方は、ぜげんに引立てられて、無理に駕に乗せられ、七三まで行って勘平に突戻され、門先で駕がまだよく据らぬうちに、余りの嬉しさのため急いで飛降りて家に入ること、二度目に乗る時は、覚悟をきめて本当に行くのですから、そうした心持で乗っています。大阪では揚幕に入る時、垂れを下して声を立て泣きますが、あれも一寸面白い解釈と思います。猶二三私の仕方を申しますと、勘平が父に逢うたというのでホッと安心をして悦びますが、直ぐに又悲しみの情に蔽われるのです。行方不明の父が確かに戻って来たとしましたら、おかるは祇園町に行く事が決定された訳ですから……、そこで其悲しみを隠すため、私は囲炉裏の処に行って裏向きになっています。次に母が荷物を拵えに奥へ入った時門口の人を憚るところから煙草盆をぜげんに渡し、ソッと門の戸を締めて勘平の処へ行き『私ゃもう行きますぞえ』と背中合せになるのは誰方(どなた)も演られる通りですが、あそこで、幕開きからそのままに置いてある鏡や、又は黒塗りの盆を用いたりして、勘平の顔を映す型もありますが、あれは五行本(※床本)通りに演じる時、ぜげんなどが傍にいてキマリがわるいから其のような道具を用いて、間接的の工作をやったものです。七段目は、二階の酔いざましのところが、独吟や浄瑠璃があってかなりに手持無沙汰で困るのですが、私はあの間空の方をそれとなく眺めて、勘平の身を案ずるようにしています。そして大抵な方は団扇を使いますが、夏でもないから私は延べ紙で煽ぐことにしました。後で平右衛門へ蒔く時にも役立つことに見えましょう。落す簪は玉の方が本当ですが、私はバラ金にしました。花道の件りや癪の処など、時間の制限で随分除(はぶ)きましたが、然し本文に近い程度には演っております。」(「演芸画報」昭和11年4月号 『仮名手本忠臣蔵の芸談』)4月 歌舞伎座(1日初日)『九世市川團十郎 五世尾上菊五郎 胸像建設記念團菊祭』「其俤對編笠」梅本扇「重盛諫言」丹波少将成経「雪暮夜入谷畦道」大口屋三千歳〈劇評〉『雪暮夜入谷畦道』「老人 万事梅幸でやっていましたが、どうも気のせいか、男を恋しがってブラブラ病になる花魁には見えませんなァ。お富ならいいが三千歳では。平場 一日逢わねば千日という女ではありません。サッサと諦めてしまいそうです。理知的なんですな──尤もあの冷たい声にもよりましょうが。理屈屋 当人は大努力らしいのですが、どうもあの眼と声で損をしています。平常(ふだん)の性格は舞台へ出るとガラリ変ってほしいですね。」(「演芸画報」昭和11年5月号 『團菊祭歌舞伎座評判記』)「仁左衛門が梅幸亡き後の羽左衛門の對手(あいて)として撰ばれてから、舞台上で観る此優の演技に就いて、梅幸極付の役であったものなどに於ては猶更、其努力、苦心のあとが著しく現われて、破綻のないのは感心させられます。此度の三千歳は、本極まりとなった時に、実は遂に三千歳が出たなと思ったその裏には、内心危ぶまれるような感情をどうしても取り去り得ませんでした。物が物ですから、こういう風に危なかしく──失礼な申分ですけれども──思っただけに期待されますので────お富の時もよかったから、こん度だって杞憂に終わるだろうと心秘かには思いましたものの──全体から申せばわるくはございません、──冷静に観て───梅幸の三千歳という幻想に捉われないで観なければなりませんから──でもやっぱり梅幸はあそこでああ演ったなどと、それは申せば消しても消しても出ては来ましたが──で決してわるくはないと思いましたが、私の視野に映った仁左衛門の三千歳の姿態が何となくだらしなく思われた事です。病中の三千歳であるからという心算(つもり)かもしれませんが何もそう写実にいかなくもよいと思います。殊にも、一日逢わねば千日の……などと思い焦がれているその人に逢うのです。思いがけなくてはあっても、鳥渡(ちょっと)でも女の身だしなみあってよかるべきに……そんな事が却って写実になるかもしれませんが何だか、想いに痩せても江戸女の意気を見せてキリリッとあってほしいものだと感じたことです。」(同 『古典劇座談会』)5月 歌舞伎座(2日初日)『團菊祭延長興行』「義経千本桜 鮓屋の場」お里「大徳寺」前田徳善院「柳巷春着薊色縫」十六夜「義経千本桜 鮓屋の場」お里「柳巷春着薊色縫」左 仁左衛門の十六夜、右 十五代目羽左衛門の清心〈劇評〉『義経千本桜』「仁左衛門のお里。近頃のお里であった。美しくもあり、情味もあり、演出(しぐさ)にも折衷の工夫があった。仁左衛門は女形に廻わってから、却って好評を博している。歌舞伎女形凋落の今日、切に自重を望む。唯此度のお里の着附が、向こうからは夜具か、ドテラの縞柄に見えるのは面白く無い。再考すべきであった。」『柳巷春着薊色縫』「“朧夜に星の影さえ二つ三つから廓を抜けし十六夜が” で花道から仁左衛門の十六夜、花色納戸に流水の梅の裾模様ある二枚襲ねの胴抜きに同じ色模様に濃紫の襟のかかった掛けを着、白博多の前帯、うす紫色の襟のかかった緋縮緬の長襦袢、素足に重ね草履、白木綿の手拭のふきながしで、バタバタときて七三のところで倒れる“嬉しや今の人声は追手ではなかったそうな”といって舞台へ来る。草履の鼻緒がきれて、之れをコヨリで捻ってすげている “暫し佇む上手より梅見帰りの船の唄 忍ぶなら忍ぶなら闇の夜はおかしゃんせ” と例の(※五代目清元)延寿太夫の美音、老いてなおこの声量驚くの外なし、仁左衛門の十六夜は三枚重ねを大分持ち扱っていたようだ。 (中略) “思いがけなく吹晴れて見かわす月の顔と顔” これから十六夜の情熱振り、仁左衛門も羽左衛門(清心)の相手役を大分勤めるようになって全く意気をのみこんで、まことにしっくりとよい出来であった。強いて望めば、冷たいせりふの言い廻しさえ直ったら完璧であろうに惜しいことだ。』(「演芸画報」昭和11年6月号)6月 東京劇場(1日初日)「仮名手本忠臣蔵 九段目」妻お石「杏花戯曲十種の内 修禅寺物語」源左金吾頼家「傾城反魂香」女房おとく「俎板長兵衛」白井権八「仮名手本忠臣蔵 九段目」妻お石「杏花戯曲十種の内 修禅寺物語」源左金吾頼家「傾城反魂香」女房おとく「俎板長兵衛」右より二代目市川左團次の幡随院長兵衛、仁左衛門の白井権八、二代目中村芝鶴の遊女小紫、市川莚升(八代目澤村宗十郎)の極楽十三〈劇評〉「由来東京劇場は、開場式に梅幸、羽左衛門菊五郎一座を掛けて以来、毎月満員続きというわけにゆかず、殊に近年はどんな俳優を迎えても一向に香ばしい成績が挙がらない。(中略) で、贅を尽くした歌舞伎座の大一座興行に対峙するには、出し物の選定が先決問題で、それには東京劇場ならでは絶対に見られないという特異性の戯曲を並べて、堂々と笛太鼓で囃立てることにしなければ客は呼べないのである。どの俳優でも出来るようなあんな魅力のない平凡な狂言を次から次に並べるなど全く知恵のないやり方であった。 (中略) 要するに東京劇場は歩のわるい小屋で、普通のやり方では決して成功しないよ羽に出来ている。俳優仲間に鬼門視されているのも無理からぬことである。」『仮名手本忠臣蔵 九段目』「仁左衛門のお石は、最初からケンケンでチト突込み過ぎたが、後半はマアマアのところである。由良之助に綿々の情を可なり押売りの気味があった。兎に角どう贔屓目に見ても仁左衛門には無理な役である。」『修禅寺物語』「仁左衛門の頼家の直垂が、青い千代紙じみた模様もので、何となく下品に見えたのが遺憾であった。」『傾城反魂香』「(前略) 尚大頭の舞を“おおがしらの舞”と称える人も多々あるが、それは“だいがしら”でありたい。仁左衛門は明瞭に“大頭(だいがしら)”と云っていたので感心した。 (中略)仁左衛門のおとくは又平(※七代目幸四郎)をいたわる後半が良かった。大津在のしがない絵師(えかき)の女房には美し過ぎる程の美しさで、不本意ながらも又平と一緒に暮らしているかの如き感じのする女房ではあったが、事件が進むにつれて、追々と鴛鴦濃やかなものが見え、石に徹った絵像を見て倶に悦ぶところなど、マア相当なものであった。硯を取りに上る時、踏段を一段づつ静かに上下したのも慎ましやかで、机の上の筆を取る時、師匠の物という心で恭しく頂いたところに、絵師の妻という品位があったが、物着の鳴物で又平に衣裳を着せる時、結えた白足袋をそのまま又平の方に放り出し、自分は又平の穿き終るを待っていたが、あの際、歌右衛門や梅幸のした如く、糊付の堅い足袋という心でそれを揉んで渡したらどんなに情趣深いことであろうにと、女房らしからぬことと不審に思うた位である。舞いの鼓を自ら打ったのは器用であった。兎に角三女房役の随一とまで云われるこの難役を、初めて手掛けた仁左衛門としては、随分骨の折れたことであろう。」 (「演芸画報」昭和11年7月号 安部豊 述)7月 歌舞伎座(1日初日)「天龍一葉舟」太市女房お玉「江戸育お祭佐七」芸者小糸「天龍一葉舟」太市女房お玉「江戸育お祭佐七」中央 仁左衛門の芸者小糸、左 羽左衛門のお祭佐七、右 七代目市村家橘(十六代目市村羽左衛門)の巴の三吉「江戸育お祭佐七」右 仁左衛門の芸者小糸、左 十五代目羽左衛門のお祭佐七〈劇評〉「七月の歌舞伎座は、羽左衛門、幸四郎、吉右衛門、仁左衛門以下の大一座でありながら市中には殆ど目星い芝居もないに拘不(かかわらず)、二十日間の興行が不入りであったのは可笑しいようだが、然し事実は不入りが当然であろう。理由は狂言が詰まらなかったからだ。就中一番目の『天龍一葉舟』が最も愚劣骨牌で近年の大劇場は勿論、新國劇、前進座などにてもこんなひどい狂言は嘗て出さなかった。廊下を歩く看客は申合せたように之を嘲笑していたのだから大抵想像もつこうというもの。実に徹底したひどさであった。 (後略)」『江戸育お祭佐七』「羽左衛門十八番物、寔(まこと)に洗練された芸で、始めて羽左衛門らしい匂いを嗅いだが、縁切で煙草盆のつるを持って振り上げたのは甚だ可笑しい。五代目(※菊五郎)の写真を見て真似たのだろうが、五代目はそれを見て『失策(しま)った、写し直そう』と云って其のつるを持った写真の販売を差し止めたものだ。考えても判るであろう。あんなつるを持って喧嘩が出来るかと云うことを……。次回から箱の縁を掴むようにお勧めする。仁左衛門の小糸は追々東京化して本人の持味が増してきた。台詞もよく聞いて見ると梅幸を模していないことがよく判る。色気が乏しいのは持前で仕方がないが、美しいことは無類である。」(「演芸画報」昭和11年8月号)9月 名古屋 歌舞伎座(19日~25日)「壺坂」座頭沢市「名和長年」六条少将忠顕卿「さくら時雨」灰屋三郎兵衛、灰屋紹由10月 明治座(1日初日) 「慶安太平記」勝田弥三郎「神霊矢口渡」娘お舟「黒手組曲輪達引」三浦屋揚巻 「神霊矢口渡」左 仁左衛門娘お舟、右 七代目松本幸四郎の渡守頓兵衞「黒手組曲輪達引」三浦屋揚巻〈劇評〉『神霊矢口渡』「仁左衛門のお舟は、どうかと思いましたが、前のほうはどうにかやっていますね。着附が変ですが──そうですね。もっと江戸臭いほうがいいようですな。併し後半はいけませんねぇ。宗十郎のこの役は巧いもので、殊に後半がようございますが、この人は駄目ですね。いつもの冷たい癖が出て、情熱が少しも見えないぢゃアありませんか、矢ッ張り柄にないのを、前は技巧で繕ろっていたんですね。」『黒手組曲輪達引』「仁左衛門の揚巻も、ちょいと出るだけだが、流石に貫目は見えましたね。」(「演芸画」昭和11年11月号)11月 歌舞伎座(1日初日)「厳島招檜扇」平教盛「関ヶ原」黒田長政「其小唄夢廓」三浦屋小紫「厳島招檜扇」前例左 仁左衛門の平教盛、中央は五代目中村歌右衛門の平相国清盛「其小唄夢廓」三浦屋小紫「其小唄夢廓」左 仁左衛門の三浦屋小紫、右 羽左衛門の白井権八〈劇評〉 『其小唄夢廓』「権八は上の巻だけでは詰らない演劇(しばい)である。この狂言には清元を使う……のではなくて清元に使われて居る芝居だ。浄瑠璃を聞かせるために俳優がその傀儡となって芝居を見せるのだから、動きは殆ど浄瑠璃の説明という感じだ。 (中略) 太夫が得意になって美音を振廻して居るのに、俳優は手持無沙汰で、山がない仕所がない。名題の『其小唄』とは当時(文化十三年)流行った“逢いたさ見たさは”の唄を差したものだが、これを八重梅と云う。 (中略)興味は寧ろ仁左衛門の小紫だ。此優(このひと)もお富、十六夜、三千歳とテストの済んだ後だから、小紫は難事でない。歌右衛門の気品、情味、梅幸の色気には及ぶべくもないが、今日てしては此優で我慢するより外は無い。」(「演芸画報」昭和11年12月号)12月 南座 顔見世興行(1日初日)京都南座「三千両黄金蔵入(馬切)」織田三七郎信孝「樽屋おせん」麹屋長左衛門「与話情浮名横櫛」妾お富「風流河原の舞衣」名古屋山三「三千両黄金蔵入(馬切)」織田三七郎信孝「三千両黄金蔵入(馬切)」織田三七郎信孝 十五代目羽左衛門、二代目左團次ほかの捕方「風流河原の舞衣」仁左衛門の名古屋山三、七代目家橘(十六代目羽左衛門)の出雲の阿國〈劇評〉『三千両黄金蔵入(馬切)』「仁左衛門改名披露狂言としての『三千両黄金蔵入(さんぜんりょうこがねのくらいり)──大和橋の一幕であるが、梅玉、羽左衛門、幸四郎、左團次、魁車、猿之助、三升以下大勢が捕方の侍で、東京歌舞伎座に於て試みた通り、信孝の左右に居並んで平伏する態(さま)が豪勢で、随って仁左衛門の納まり方も大抵御想像がつきましょうから、先ず此辺で切上げよう。」(「演芸画報」昭和12年1月号)〈寸評〉「“片岡仁左衛門”羽左の女房役に満足したら、決して立役を受取るべからず、立役からの加役なら失敗も一時のことで済む。女形として女形の成功を祈るなら、たとえ桜丸でも岸姫の朝比奈でも、先ずは当分は勤むるなかれ。」(同 「役者二十人寸評」山崎紫紅 述)
2026.01.30

ラジオ放送の常磐津「積戀雪關扉 (上)」を聴く。下の巻にはたびたび接するが上の巻の演奏は珍しいナ、と云ふ思ひだけで聴くくらゐで充分な技量。二十五分の放送枠に収めた短縮版なのは致し方なしとして、節に抑揚のないベッタリな語りっぷりに、常磐津とはこんな浄瑠璃ではないハズだと自信をもって思へるのは、かつて關西で故人常磐津一巴太夫師の國寶藝に多く間近に接してゐたおかげだ。それで急に戀しくなり、同曲を語る一巴太夫師の過去の録音テープを久し振りに聴いて、「さうさう、これやで……」とやっと氣持ちが落ち着く。(「積戀雪關扉」七代目尾上榮三郎の小野小町姫、十三代目守田勘彌の良峯少将宗貞 大正十五年一月 帝國劇場)今年五月で廢館する大阪道頓堀の松竹座は、いまや私にはなんのつながりもない芝居小屋とはなったが、そこで耳目に得たことは私の一生の財産、それをかういふ時に知る。師匠は若手時代から親しかった一巴太夫師について、「一巴太夫さんは人間國寶になって出世しはって、僕だけがそのままや……」とボヤいてゐたのもたしか松竹座の樂屋、さうした記憶(おもひで)の財産があれば、なにも無味乾燥魑魅魍魎な現世戯場をわざわざ見んともよいわな。
2026.01.29

○昭和10年(1935年) 53歳1月 東京劇場(2日初日)「椀屋久兵衛」椀屋久兵衛「元禄忠臣蔵」戸沢下野守、片岡源五右衛門「武悪」芹生寿「色読販」久松、お染、お光、雷、子守おつる「色読販」久松、お染、お光、雷、子守おつる〈劇評〉「(前略)狂言は六種という盛沢山の大勉強で、三時(十五時)から十二時(二十四時)近く迄は長過ぎた。終演(はね)の遅いのは厳寒の折柄有難くない。残して帰れば可いとは云え、評者は勿論、普通観客でも、芝居好には心残りなもの、松竹も此の点を斟酌すべしだ。」『椀屋久兵衛』「真山青果氏の旧作、議論劇の泰斗にもこんな粋な物がある所を知らすべく、新作忠臣蔵の前へ置いたのかも知れぬが、豪奢な伊勢参りなど、当時の風俗情趣を見せたのが面白いだけで、肝心の眼目となって居る年季証文の取違えから、一旦椀久の妻となった松山が、又ぞろ勤めに出るというのが、今の人には馬鹿馬鹿しく感じられるので、妻を元の勤めに出すに忍びず苦悶する椀久にも、腑甲斐ない夫の姿を見るに得堪えず、自ら進んで勤めに出ようとする松山にも同情を惹かず、随って感興も薄い。我童の久兵衛、斯ういう物になると此優(このひと)だけが特に光るのは流石だ。揚屋の場でヨロヨロと立ち上がるあたり真に迫って居た。此役だけが本格の上方弁なのに、他の人物が悉く江戸ッ子みたいなので、新町の椀久が東京へ来た我童になった形。」『元禄忠臣蔵』「(前略) 大石を勤皇家としたのが新しい着眼点で、長矩の刃傷に対し、堂上方も同情を持ち、尊き辺りより(東山天皇)は“不憫なり”とのお言葉があったと洩承ると云うのを、十内から聞いて“救われましてござりまする”と感泣する結末が焦点である。近頃出来る忠臣蔵に、劇でも映画でも佳作の無いのは、殊更に本街道を避けて裏面から見せたり、在来のと衝かぬよう新人物を躍らせたりする為に、面白い所は取去ったダシガラとなるからだが、史実に準拠し新生命を吹込んだ本篇の如きは、劇として面白くは無いが、精彩陸離たる力作とは云える。(中略)我童の戸沢下野守はちょっと出るだけ、片岡源五右衛門は長矩の臨終に会いに来て庭先に平伏した儘、台詞無しの唖芝居だが、お部屋様と密通してお家騒動でも起こしそうな人物に見えた。」『武悪』「(前略) 芝居は俄然面白くなって来る。相変わらずケレン味はあるが、猿之助の武悪が奔放快活に踊り抜く所、訳もなく大受けだ。(中略)寿美蔵(寿海)の家来、よく呼吸があって八百蔵(八代目中車)と共に面白く見せた。此間に挟まって我童の大名が上品で好い。」『色読販』「お染の七役を我童が五役だけ見せる。お光が絵のように美しく、駕(かご)脱けの早替りなど中々鮮やかだったが、遅くなっての大切に、こんな物は客も役者も気忙しい。」(「演芸画報」昭和10年2月号)〈本人談〉「“早替り漫談”随分急な注文で『お染』を出しましたが、元来これは大阪の(市川)齋入さんのものだったもので、右團次さんの柄と合わないところから、私がおことわりして演っているわけで、今まで通し狂言として、又は切狂言として繰返し演っています。今度のは先月京の顔見世をそのまま御覧に入れています。早替りの中では花道の七三で駕籠から抜けて本舞台で又駕籠から出るのが一番せわしないので、後はそれ程にも苦しみません。早替りというのは役者がやると云うよりも、周りにさして貰うというのが本当のようなもので、その点、東京ではあまり早替りがないので、周りの人が充分慣れていないので、関西の時より気が許せません。雨傘が風に揺られて来て、その雨傘を使って後見なしで引抜くのは、齋入さんのにはないので、全く私の工夫です。齋入さんが雷の宙乗りから落ちてお染に代る件りで、ある時足を怪我されたことがあるので、それ以来母が宙乗りに恐れをなして、私にも止めるように言い出して、それから雨傘の工夫が生れた次第ですが、大体母は早替りを“けれん”芝居だとして、本筋な役者がやるものではないと嫌っていましたが、役者修業としては一応演ってみるものだというのが私の意見で、とんだ新旧思想の衝突をやったわけです。」(「演芸画報」昭和10年2月号 “芸談七人集”)2月 東京劇場(1日初日)「河村瑞軒」稲葉丹後守「歌舞伎十八番の内 勧進帳」富樫左衛門「廓文章」藤屋伊左衛門「歌舞伎十八番の内 勧進帳」我童の富樫左衛門、二代目市川猿之助の武蔵坊弁慶(初役)「廓文章」我童の藤屋伊左衛門、二代目市川松蔦の扇屋夕霧〈劇評〉『勧進帳』「幕があくと左團次(二代目)の口上がありますが、これは甚だ有難迷惑です。(中略)長唄連中の居並んだ前で一流の名調子『隅から隅ま迄』を大きく響かせ、大喝采を浴びて引込んだのでは、例の囃子に掛るのが、妙に気が抜けて了って、その後に出る我童の富樫は、本物の富樫が引込んだ後へ、富樫の番頭が代理に現れたようです。(中略)長唄の(六代目芳村)伊十郎 (杵屋)寒玉 (三代目望月)朴清と並べたのは團十郎(くだいめ)当時の顔触れで、誠に堂々たるものですが、ズラリと居並んだ連中の中には、甚だお行儀の悪いのがあって、鼻汁をかむのは水ッ鼻汁季節で是非なしとするも、ヒソヒソ話しをしたり、頬端(ほほぺた)を掻いたりは目障りです。此分では鼻糞を丸めて大蔵卿の実演もやり兼ねません。(中略)我童の富樫は左團次型の武将でなく、鴈治郎羽左衛門型のお殿様、優美でふくらみはありますが、調子がピンと来ないので弁慶(二代目猿之助初役)を押して行く程の迫力がありません。呼止めなどその感が深うござんした。形は良いが颯爽振りに乏しく、気魄に書けて居るのでしょう。相手の弁慶にも罪はありますが、問答も間延びの所があって、鏘々憂然(そうそうかつぜん)、火花を散らすという域に達しません。引込みの表情も泣き過ぎの気味です。」 『廓文章』「この芝居は元来が上方出来で上方を世界とするものだけに、(中略) 範を上方役者に求めねばならぬが、鴈治郎仁左衛門既に亡き今日、延若(二代目)ではあの身体(からだ)で無理だろうし、先づ今度の我童あたりを当代随一とせねばなるまい。(中略)我童の伊左衛門は花道の出に差出し(面灯 つらあかり)を使って古風に見せ、見せ先は総て大時代にやり、奥座敷になって、ガラリと砕けて目先を変えて居る。座敷へ通るなり、鏡餅を飾った床に向かって礼拝し、喜左衛門夫婦が対話のうちに、喜左が中居に運ばせ足袋をはく。足袋は仁左衛門の型だが、但し羽織は喜左衛門が着て居るのを着せることにして情味を見せて居た。腹を立てて帰りかけ、花道で『拍子が抜けて去(い)ににくい』と時代に言って、『もう一遍戻らせて貰いまひょうか』と砕けるあたりが一幕中での圧巻である。鴈治郎のような色気は無いが、柔か味十分で余りふざけず謹んでして居るうちに綽々たる余裕を見せ、自然に滲み出る上方情調は、優の独壇場と云って可い。我當(十三代目仁左衛門)が見せたような人形振はやらなかった。手紙の件で右肌を脱いで緋縮緬の襦袢を見せるのは(幕切迄)理窟には合わないが、場面を明るくして色事師らしい。これで柄の淋しいのがいくぶん補われたというものだ。」 (「演芸画報」昭和10年2月号)3月 歌舞伎座(1日初日)『五世尾上菊五郎三十三回忌追善興行』「尾上鐘春曙」空穂のおゐの「音羽嶽闇争」結城多門亮「伽羅先代萩」弾正妹八汐「水天宮利生深川」萩原妻おむら「尾上鐘春曙」空穂のおゐの「伽羅先代萩」弾正妹八汐「伽羅先代萩」我童の八汐、四代目澤村源之助の榮御前、七代目澤村宗十郎の乳人政岡〈劇評〉『伽羅先代萩』「(前略) 栄御前の入りから御殿を出すのはひどい。床下の前奏曲扱いは困る。我童の八汐は岩藤より悪い。遠慮しているらしい。女形の乏しい今日だ。遣り過ぎる位にした方がよい。」(「演芸画報」昭和10年4月号 山崎紫紅 述)〈本人談〉「“鶴のひと声”叔父仁左衛門が、明治三十七年三月東京座で、歌右衛門さんと『桐一葉』を演じてから間もなく大阪へ帰ってそれを出した時、私は銀之丞を勤めました。蜻蛉は雀右衛門、淀君と片桐は叔父でしたが、私はすべて叔父から坪内(逍遥)先生の御意見を聞いて演じました。その際坪内先生はわざわざ御下阪になり、私も小目にかかりましたが、銀之丞については別にお話はありませんでした。その後叔父が『孤城落月』を出した時、私は修理之亮に扮し、更に大阪若手連で『桐一葉』を出した時は木村長門守を勤めましたが坪内先生は御下阪になりませんでした。其後私は『邦劇座』を興すにあたりまして先生の御指導を仰ぐため、作者を伴れて熱海に参じましたところ、先生は、青書生に等しい私を直ぐ御引見下さいまして、事細かにお尋ねになりました。そこで私は其頃始められた宝塚の歌劇に例をとり、洋楽でなしに、日本音楽──義太夫常磐津、地唄などで、日本の風俗による純粋な日本物の歌劇を演じて見たいことを種々(いろいろ)と申述べましたところ、先生は黙っていられましたが『それは却々(なかなか)至難(むずか)しいことで、手軽に人がやれないから演りたいのでしょう。フム、なるほど歌を唄いながら芝居をする……』と斯う仰言って暫くお考えになっていられましたが『ムム、それは面白い、睨(ねら)いどころはよい、賛成しましょう、おやりなさい。思切って堂々とおやりなさい!』と一段と太い声で、キッパリ仰言ったのです。私はこの予期しなかったお言葉に接して、久しく迷いぬいていた考えが一時に解決……というので、アッと逆上する位な嬉しい衝動を感じ、百万の味方を得たような思いがいたしました。おそらく私の一生を通じて、あの時のようなありがたい感激を、二度と味わうことはあるまいと信じます。全く名状し得ない程の嬉しい思いをいたしました。私は此先生のお言葉に感奮して直ぐ邦劇座を興し、大森痴雪さんの『椀久』と吉井勇さんの『ふくろ』と歌劇『小野頼風』とを出し物として、浪花座で、四日間満員続きで演じました。その後も先生に折々お目にかかっていろいろと御鞭撻のお言葉を頂きましたが、兎も角私の今日までの一番嬉しかったことは、あの時の先生の御同情に充ちた激励のお言葉でありました。」(「演芸画報」昭和10年4月号 『坪内先生を憶う』安部豊・利倉幸一 記)4月 歌舞伎座(1日初日)『五世尾上菊五郎三十三回忌追善 延長興行』「尾上鐘春曙」女伊達錦出のおきく「新版歌祭文」油屋娘お染「新版歌祭文」左 我童の油屋娘お染、右 十五代目市村羽左衛門の丁稚久松(※この時の共演がきっかけとなり、六代目梅幸亡きあとの羽左衛門の女房役者となる)〈劇評〉『新版歌祭文』「これは昔はあんまり出なかった狂言で、明治になって女義太夫が流行り出してからチョイチョイ出るようになったのサ。(中略) 我童のお染は頭から義太夫に乗り切った芸。」(「演芸画報」昭和10年5月号)5月 大阪 歌舞伎座(3日~29日)『五世尾上菊五郎三十三回忌追善興行』「菅原伝授手習鑑 道明寺 寺子屋」判官代輝国「五世尾上菊五郎三十三回忌追善 口上」口上「尾上鐘春曙」女伊達錦出のおきく「雪暮夜入谷畦道」大口屋の三千歳〈劇評〉『菅原伝授手習鑑』「我童の輝国は三津五郎の(宿禰)太郎に次ぐの上出来、気魄も情も充分にあって、而も男前の立派なことが非常に目立ちました。」『口上』「大阪での此口上は、人数に於て東京の時よりも遙に多く、総数二百余人で全く空前の盛觀でありました。(中略) 俳優関係者一同羽織、袴で六側(むかわ)に居並び(中略)次は我童です。久方振りであるだけに『松嶋屋』『我童はん』などと大向ふの声が盛んです、『さて皆様方、おなつかしゅう御座ります。此度追善興行に際しまして、私がこの席に連なりますことは非常な光栄で、私の父が東京に於きまして五代目さんと一座いたしました時……』と云って、土之助と名乗って以来五代目の世話になった自分のことを語り、(後略)』」 『雪暮夜入谷畦道』「梅幸逝いて相手を失った羽左衛門が、四月の野崎村から急に気に入って取り定めた女房役我童の三千歳、普通の出来でありましたが、綺麗なことでは無類でありました。元来が我童と云う人は冷たい感じの役者で、色気があったにしても熱のない色気で、萌えるような情熱の女には不向きであります。此が我童にとっては最も大きい短所で、このため随分苦しんだようでありますが、然しモノによっては非常に得する場合もありまして、寂しい女の朝顔や夕霧や吉野太夫などには常に成功しているのであります。ですが、“一日逢わねば千日の……”とまで叫んで、その逢ふ瀬に命の縮まる程の思いをする情熱の女三千歳には適しないことを感じました。すべて梅幸のやった通りに演じていたのは先ず諒としますが、些細な台詞廻しまでも悉くその真似をしていたのは耳障りでありました。梅幸の台詞廻しは、あの人が創造した一種独特のメリハリで、余人が模倣して決していいものではありません。それを我童ともあろう人が、臆面もなく真似るのですから、余り感心出来ませんでした。いづれは東京でも演ずるでありましょうから、その時はそんなことまで真似ずに、我童独自のメリハリで云って貰いたいと思います。」(「演芸画報」昭和10年6月号)6月 名古屋 歌舞伎座(1日~6日)「だんまり」大伴宗龍実は二荒岩五郎「椀屋久兵衛」椀屋久兵衛「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」盛綱母微妙「与話情浮名横櫛」多左衛門妾お富「弁天娘女男白浪」玉島逸当実は日本駄右衛門〈新聞評〉「昨一日初日の蓋を開けた歌舞伎座の羽左衛門劇は、早期七時から観客詰めかけるほどで開場忽ち満員の盛況を呈し (中略) 羽左衛門独自の至芸と我童その他の熱演で好評を博した。」(「新愛知新聞」6.2)6月~7月 満州巡業『在満皇軍慰問 兼 日満芸術交歓興行』(新宿歌舞伎支配人 松尾国三の制作)6月23日正午、市村羽左衛門、片岡我童、市村家橘、片岡芦燕ら一行117名は門司港より“ばいかる丸”に乗船して出港。25日に大連入りし、同日19時に共和会館にて旅順、大連駐在の軍人、警察官、及び「満州日報」愛読者を対象とした招待公演を行なう。〈招待公演番組〉一、挨拶……市村羽左衛門一、挨拶……片岡我童一、舞踊「浦島」市村亀蔵、市村家橘一、所作事「二人道成寺」市村家橘、片岡芦燕6月26日~30日、引き続き共和会館にて一般公演※我童の配役「だんまり」大伴宗龍実は二荒岩五郎「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」盛綱母微妙「椀屋久兵衛」椀屋久兵衛「歌舞伎十八番の内 勧進帳」富樫左衛門「与話情浮名横櫛」多左衛門妾お富29日より二の替り「伽羅先代萩」乳人政岡「名橘誉石切」大庭三郎景親「清水一角」一角姉お巻「弁天娘女男白浪」玉島逸当実は日本駄右衛門7月1日、奉天へ向かう。同8日17時10分、安東に到着。9日に安東劇場にて公演。10日朝、新義州より旅客機で平壌に向かう。「(前略) 我童が渡満旅行に際してトランクのなかに一番先きに大切そうに入れたものが水のしたたるような粋な女の艶写真、この事が羽左衛門の大きな耳に入って我童がせめられ証拠の写真まで出させられた、がよく見ると故梅幸の舞台姿お富だった。『以前のおかみさんと一緒に満州旅行をしたいと思ってさ』と我童のいい分に多感な羽左衛門は思わずホロリ」(「大阪毎日新聞 満州版」7.2)〈参考資料〉・「近代歌舞伎年表 大阪篇」・「新聞聯合新聞ニュース第2917号」・「演芸画報 昭和10年7月号」・「研究論文『歌舞伎、文楽、能楽の大連公演(1935年)は誰によって鑑賞/支援されたか』筆者 仲万美子 同志社大学総合文化研究所要綱 2011年第28巻」10月 歌舞伎座(1日初日)「夜討曽我狩場曙」曽我十郎祐成「源太時雨」酌婦お露「夜討曽我狩場曙」曽我十郎祐成11月 歌舞伎座(1日初日)「桐一葉」片桐室一葉「与話情浮名横櫛」多左衛門妾お富「与話情浮名横櫛」多左衛門妾お富〈劇評〉『与話情浮名横櫛』「問題は我童のお富だが、羽左の新女房役としては予想以上に好かった。一服吸って雁首で灰吹きをポンと一つ、音高く叩いてから与三を見ると前後、総て梅幸で行って居るが、難を云うと着附が派手で野暮ったいのと、赤い物をヒラつかせるのに、膝のはだけ工合と、与三に対して情愛が薄いのと、団扇を余り使い過ぎるのとが、女郎上がりのお富に見えるが水際立った美しさ──寧ろこってりの方か──仇っぽさで、調子に毫も上方臭の無いのが何よりだ。芸の貫禄に於いても、某某よりは可い。此優(ひと)のお富によって羽左衛門の源氏店が出せるとなれば誠に幸いである。」(「演芸画報」昭和10年12月号)
2026.01.29

○昭和8年(1933年) 51歳1月 東京劇場(2日初日)「老松若松」海人老松「絵本太功記」武智十次郎光義「老松若松」左 我童の海人老松、右 六代目大谷友右衛門の武蔵左衛門有國「絵本太功記」右 我童の武智十次郎光義、左 二代目市川松蔦の嫁初菊〈劇評〉『老松若松』「(前略)名題こそ軽い世話染みて聞かれ、内容(なかみ)は源平の戦を背景としたる壇ノ浦の宝剣物語で、海人(あま)の母子が中心人物。母は縁に繋がる平家のために、海底の剣を取り上げて、其の手へ渡さんとし、娘は恋のために、これを源氏へ奉らんとする謂わば二女(ふたり)の“恋と忠義は何れが重い”で、僅か一幕の短いものながら、器用に纏まった準史劇である。我童の老松は、調子が冷ややか、芸風に熱が見えぬという何時もの非難に顧みて、舞台での唄に持って来いの透き通るような声を殺し、稽古中、舞台監督の作者(松居松翁)から、強過ぎると注意されるほどにまで調子を変えて突ッ込んだ力演は、幸に世話の年増の役に効を顕し日頃の上ッ滑りの弊を脱したのは結構である。東京居着きの役者となった以上、此の心掛けを固くして、一時の毀誉に惑わされず、東京役者としての更生に折角奮進すべきである。」『絵本太功記』「我童の十次郎は、中車(七代目)の時勤めて、強(きつ)い固いと不評なりしに省み、今度は中車に教えを乞い、十分ギックリギックリの癖を慎み、諸事東京流に演っているため、前とは一寸見違えた出来。此の息で追々我流を殺して行ったなら、今までに附いて廻った悪評も、遂には消える事であろう。美(い)い顔立ちと声と、これを活かして行く事を、更生の意気の前に更に切望する。」(「演芸画報」昭和8年2月号 岡鬼太郎 述)〈評論〉「片岡我童 『朝顔日記』の深雪我童は、東西を通じて、役者らしい役者です。顔も好い、柄も申分がない。声も美音──ですが、好いと云ッても、我童の顔には、何とはなしに冷たい影がさしています。美音だと云ッても、我童の白(こわ)には、変に浮づッたオンが響き、そして、一種の癖があります。あながち其れだからと云う訳のみでもないでしょうが、我童は何うも舞台運の芽出度い人とは云えません。人気もパッとしないようです。本役と云うと辛抱立役。そのうちには『三度飛脚』の忠兵衛と云ったような、すてきに好いものもあれば『馬切』の長七郎と云うようなお家の芸となっているものもあります。が、我童の当り芸として、万人、異議のないところを撰びますと『三曲』の阿古屋と『朝顔』の宿屋──どちらも、琴、三味線の芸ごとを見せる女形ですから不思議です。そのうちにも朝顔。深雪の一役あるがために、仮りに他のもろもろ役が一切棒鱈であッたとしても、我童は、立派に名優の資格があると云われましょう。我童が歌舞伎座で初めて(東京では)此の朝顔を出したのは、今から二十何年か前のことでした。その時は『蛍狩』もついていて、駒沢が羽左衛門、岩代は八百蔵(七代目中車)というような大芝居でした。その後ち横浜でも一度出したことがあれば近く新歌舞伎座でも出してゐる──歌舞伎座の時には、前後三度ほど見る度に、若い我童の好さに、何がなしに若い感涙を催したものですが、横浜の時には、その好さに馴れて了ッたと云うんですか、それほどの感激はありませんでした。しかし、露の干ぬ間と云いますが、我童の朝顔の命は長い。いくらか新鮮さを失ッたと云ッても、我童の朝顔は、今も、姿、色彩に名花らしい好さを見せています。露の干ぬ間の唄──あの深雪の儚さ哀れさを心としてゐる唄が、我童の美音によッて、いかに程よく表現されることでしょう。それから、その姿、その顔……冷たい影のさしているあの顔も、俄に盲(めしい)になッて、あの運命を歎いている深雪には、うッてつけと云われましょう。それに、近頃、その顔にか素顔にか憂鬱の影も見えて来ました。美しさと冷たさと憂鬱──この感じが絡みあッて出ているだけでも、我童の朝顔が芸術味が豊かと云われましょう。我童の朝顔は、まさに当代の名品です。」(「演芸画報」昭和8年1月号 『現代名優一代芸の推讃』 鍋屋墨人述)2月 南座(3日~17日)「老松若松」海人老松「阿波の鳴渡」藤屋伊左衛門「坊ちゃん」お清〈劇評〉『老松若松』「(前略)古い義理人情と新しい自由思想の衝突を描いたもので、初演は大正十五年一月、梅幸・栄三郎親子で演じて非常な好評を博したが、本年正月、東京劇場初演によって梅幸よりも数等の上出来であると激賞された我童自慢の狂言である。」(京都日出新聞 2.4)『阿波の鳴渡』「我童の伊左衛門は駕舁(おろせ)に姿を扮(やつ)しても匿しきれぬ人品がその人らしく(後略)」(「演芸画報」昭和8年3月号)同 御園座(18日〜24日)❋狂言、配役とも南座に同じ。3月 東京劇場(3日初日) 新旧合同興行「阿国歌舞伎」名古屋山三郎「女殺油地獄」河内屋与兵衛〈劇評〉『阿国歌舞伎』「真山(青果)氏作の、どれにも必ず現れる、手堅い筆致、詳細に調べあげられた史実、そうして、それから生まれる技巧、で二幕の脚本は出来ている。序幕は阿国(初代水谷八重子)が山三の勧めで国を出るところ、二幕目は山三が再び武士となって阿国と別れるところである。阿国自身で出国もしなければ、山三と別れるのでもない。二度とも山三から働きかけている。阿国はいつも受け身である。そこに稍(やや)慊(あきた)りない点がある。阿国は強い女になっていない。(中略)つまり、この狂言は『阿国歌舞伎』と名題は附いてあっても、結局、山三が主人公になっている。(中略)我童の山三は、大出来の方であろうか。いつもこの人が新作物をやると、兎角に薄ッぺらになって、余所余所しいところがあって嫌だったが、最近大いに考えて来たと見えて、正月の老松や、この山三なぞは成績がいい。顔と態度が、如何にもこの時代の三美男に数えられるような、風流男になっている。大した仕所とてもないが、おのが芸に至らざるに焦ち、武士に返る決心をするあたり、しっかりした演伎である。」(「演芸画報」昭和8年4月号 渥美清太郎 述)4月 東京劇場(1日初日)「髑髏尼」新中納言局後に髑髏尼「恋飛脚大和往来」遊女梅川「歌舞伎踊」名古屋山三「髑髏尼」新中納言局後に髑髏尼「恋飛脚大和往来」遊女梅川〈劇評〉『恋飛脚大和往来』「錦 我童初役の梅川は如何です満 私も始めて初役という事を聞いて、一寸意外にに思いました。朝顔や、阿古屋で当てた優(ひと)ですから、以前に一二度は加役にも廻っていたかと思っていたら、矢張忠兵衛役者なので梅川は全く今度が、これも封切りという処です。当人は色気に乏しいのを苦にしていられましたが、私はそれ程にも思いません。あまりベタベタしているよりは、却ってあれ位の処が東京向きでしょう。それに相手が、芝居の巧い河内屋(二代目延若)ですから、其調子に合わせて、相当に動きを見せていて、結構じゃありませんか。だが初日に掛(打掛)に紫繻子の掛襟をしていましたのは上方の遊女のせざる処で、あれは江戸式です。これは宜しく改むベきであると注意しましたところ、同優も初めからあれは不服でしたが、河内屋の註文で特にそうしたのでしたが、私の説に賛同して早速改めた筈です。」(「演芸画報」昭和8年5月号 “東劇初日に廊下談” 錦竹舎主人記)5月 大阪歌舞伎座(5日〜25日)「岩倉具視」桂小五郎「ひらかな盛衰記 先陣問答の場」梶原源太景季「頼朝の死」源頼家「頼朝の死」源頼家〈劇評〉『ひらかな盛衰記』「ひらかな盛衰記は後半が頗るスピードがない。我童の源太よくやっていた。」『頼朝の死』「頼朝の死は、頼朝の死んだ事をすでに見物が承知しているという処がどうかと思われる。 我童の頼家は近頃の出来ばえである。後半今少し興奮の度をましたなら完璧な頼家であろう。」(「演芸画報」昭和8年6月号)6月 東京劇場(2日初日)❋新旧合同劇「お夏清十郎」但馬屋手代清十郎「澤市の目」澤市「お夏清十郎」左 我童の但馬屋手代清十郎、右 初代水谷八重子のお夏「澤市の目」右 我童の澤市、左 森律子の女房お里7月 名古屋 歌舞伎座(1日〜8日)「朝顔日記」秋月の娘深雪「新歌舞伎十八番の内 高時」陸奥守貞直「江島生島」生島新五郎「關の扉」良峰宗貞10月 明治座(1日初日)「美男鬘三勝半七(さねかづらさんかつはんしち)」蓑屋半七〈劇評〉『美男鬘三勝半七』「(前略)才人瀬戸(英一)氏之作ほどあって万事にソツはないが、然しジックリと身に迫るものの乏しいのは、取材と趣向とに無理があっからではなかろうか。内容は(中略)訣れた三勝半七が十六年目に柳橋で出逢い、半七は一人娘のお通に逢うて大和へ帰ることになるのだが、元々千日前で心中した二人を生かしての瀬戸氏らしいご趣向なんだから、底が割れ過ぎている為にピンと来ないのはやむを得ない。が、我童の半七は流石に仁にあって、出ただけで半七に見えるからえらいものだ。然しお通に逢って、しんみりした情緒を醸し出しては時々頓狂な声で泣くので、看客はその都度ゲラゲラと笑うたが、あれは作意に添わない演出であろう。小唄のうまい事には感心した。」(「演芸画報」昭和8年11月号)11月 東京劇場(5日初日)「實説忠臣蔵」浅野内匠頭長矩、勝田新左衛門「彦山権現誓助剣」娘おその「国芳の出世」五渡亭国貞〈劇評〉『彦山権現誓助剣』「我童のおその総じて立派。花道の出も男しくて品があり、天蓋を取った姿も一際引立った。然し忍びを働かせて、目にあまるほどの武術をひけらかすのは少々薬が強すぎた。作の上でそう出来上がっているから仕方がないようなものの、武家の娘らしくもないはしたなさが目立ってよろしくない。六助(二代目延若)との出合いに、臼を軽々と持上げて驚かす仕草をせずに、只片手で引寄せただけだったのは、臼をあそこに置いた意味を乏しくした。尤も後で六助が腰は掛けたが……。肌ぬぎに真赤な襦袢を用いたのは品位を欠いた。あれは他の色に工夫あって欲しい。」(「演芸画報」昭和8年12月号)
2026.01.29

○昭和9年(1934年) 52歳1月 明治座(1日初日)※新旧合同劇「お艶殺し」手代新助「お艶殺し」左 我童の手代新助、右 初代水谷八重子の芸者染吉〈劇評〉「我童の新助は美男で若々しく、そして一入気を入れていましたが、全体がやりにくそうでした。」(「演芸画報」昭和9年2月号)同 東京劇場(2日初日) ※掛け持ち出演「續 實説忠臣蔵」小山田庄左衛門「續 實説忠臣蔵」左 我童の小山田庄左衛門、右 二代目市川松蔦の湯女お雪〈劇評〉「壱 昼の部の實説忠臣蔵というのは、大変なものですな。弐 よく役者が黙ってやっていると思いますよ。 壱 浅野が饗応役を命じられる所や、華岳寺で大石が碁を打っている所へ刃傷の注進がくるなんて所は、たしかに講談でしょうな。弐 実録本かもしれません。(中略)併し、お軽まで敵の間者だという筋は、ちと大衆文芸式の匂いがありますな。壱 脚本が変だ。妙に黙阿弥くさい、七五調のセリフになっている。こりゃァ諺蔵あたりの作ぢゃァないかな。弐 イエイエ、巌谷君の作ですよ。壱 イヤ、作ぢゃァない。番附を御覧なさい。巌谷三一“綴”としてある。弐 なるほど、“綴”か。それぢァ古い物が飛び込んでいても、文句が云えませんな。壱 小山田庄左衛門の件も不思議ですな。初めはすっかり現代語で、湯女なんか近頃の、不見転(みずてん)のような、詞(ことば)を使っていますが、それが牛ヶ淵へくると、ガラリ転向して黙阿弥調、というよりも、セリフから段取りから、全部黙阿弥そのままとは、驚いたもんです。(中略)弐 小山田庄左衛門の、銀杏風呂という幕が明きました。黙阿弥の庄左衛門は、兎に角、これからまだ同志の許を廻るという気持ちが見えていますが、この庄左衛門は、お金配分は既に済んでしまったと見えて、初めから、九ツまでに行きゃァいいというような事を云っていますな。出入りの町人に誘われると直ぐに一杯呑む気になり、丹前に着替えて、悠々としている所は、討入に行く義士ぢゃァありません。お雪という湯女が出て酒を呑ませるんだが、これも前町の莨屋の娘というだけで、口をきいた事もない女なんですから、それに引かされて酒を呑んだり、時を過ごしたりするのが如何にも不自然だ。壱 我童の庄左衛門というものは、どうですか。弐 こういうものになると、なんだか昔の我童に返って、変にギクシャクしたところが出て来ますね。つまり純大阪式の技巧が盛んに用いられるので、東京の見物には向かない演出になります。」(「演出画報」昭和9年2月号 渥美清太郎 述)2月 東京劇場(2日初日) ※新旧合同劇「松平長七郎」松平長七郎「仇討心中噺」土方歳三「燕」長尾五郎「松平長七郎」左 我童の松平長七郎、右 三代目中村時蔵の遊女松浦〈劇評〉『松平長七郎』「国性爺一件を背景にした大曲輪のものでありながら、其の背景の重さに前の人物がおし倒されるような事なく、事件を小取廻しに扱って、長七郎の人物を相応に描いた工合は、氏(大森痴雪)の作中で好いものである。我童の松平長七郎は、品格と云い男振と云い、斯うした役にかけては、東西劇壇第一の立派さ。それに以前のギクシャクが悉皆除れて、落着いたる素直な出来は、一層器量を上げて見える。但し、長崎丸山の遊所で、縁へ出て外を眺める同じ形の二度重なるは、何とか工夫すべきである。瑣末な事のようであるが、動きのない役でいて、心持ちを見せる偶(たま)の起居は、決して軽々しくすまじき事だ。」『仇討心中噺』「新撰組の松原(二代目猿之助)という武士が、京は四条の大橋で、紀州浪人安西(市川小太夫)を不図した事で討ち果たす。そして自責の念から、遺族の者にそれとは言わず深切を尽くす。外に頼る辺なき安西の後家のおぬい(三代目時蔵)は、何時か松原に恋する。トド松原は敵と名乗って、おぬいに討たれてやるのであるが、(中略)我童の新撰組副長土方は、少々旧病再発の気味、無理にテキパキしたがるのが好くない。」『燕』「石橋山合戦の最中に起こった武士と武士との女争い、氏(吉田絃二郎)の作としては甚だ月並なものである。恋に破れて坊主になっても、尚昔の女を思い切れぬ我童役の長尾五郎は、坊主になってからの方が好い。」(「演芸画報」昭和9年3月号 岡鬼太郎 述)3月 明治座(1日初日)「南総里見八犬伝」犬塚信乃戌孝「東郷平八郎」田邊戒厳「慶安太平記」松平伊豆守「素人芝居舞台稽古」おはやし頭稻屋「南総里見八犬伝」右 我童の犬塚信乃戌孝、左 二代目市川猿之助の犬飼現八信道「慶安太平記」右 我童の松平伊豆守、左二代目市川左團次の丸橋忠弥〈劇評〉『慶安太平記』「今度の明治座の左團次の『慶安太平記』は、珍しく“堀端”一幕きりだね。(中略)後半殆ど動作のみの無言劇のようになって、忠弥が犬を追っている中に、舞台を廻してお城の全景を見せ、煙管でお堀の深さを測量するなんて、全く考えられない事だが形として実にいい。殊に白いお城を背景に、煙管を持つ忠弥、それに皮肉に傘をさしかけて、すうと正面向きに立った伊豆守、実際に一幅の絵さ、此の芝居はあの瞬間が生命だな。但し、今度の我童の伊豆守は、横向きで、忠弥の煙管を持つ手元ばかり見ている、似非写実の形の悪さ、それに傘の骨が妙に曲って蝙蝠傘のようで滑稽傘もシブ色なんかで無く、白張りに限る」(「演芸画報」昭和9年4月号 三宅三郎 述)「我童の伊豆守は少し強過ぎる、役負けがしているのであろう、幕切れは口惜しそうに見えたは悪い。」(同 山崎紫紅 述)『南総里見八犬伝』「明治座『八犬伝』の衣裳は、誰の考えか知らぬが悉く妙でなかった。(中略)我童の犬塚信乃の着附が鼠地に藤色のボカシで斑犬を利かした物だったが、あれは悪い。滸我(こが)城内へお目見得に行く信乃なのだ。福助(三代目梅玉)のようなに黒紋附にすべしで、儀礼から云ってもそれがほんとうであろう。」(「演芸画報」昭和9年4月号 山崎紫紅 述)4月 中座(1日〜22日)「相馬大作」秋友俊平「阿波の鳴渡」藤屋伊左衛門「独道中五十三次」修行者五百原正作「独道中五十三次」修行者五百原正作5月 名古屋歌舞伎座(18日〜24日)「富士三升扇曽我」畠山庄司重忠「壇浦兜軍記 阿古屋」遊君阿古屋「蘆屋道満大内鑑 葛の葉」安倍保名「松平長七郎」松平長七郎「壺坂霊験記」座頭沢市6月 歌舞伎座(2日初日)『ひとし改メ五代目片岡芦燕襲名披露』「家康と春日局」老女高圓「勤王佐幕草雲父子」一子格太郎「初袷秋間祭」富士田屋藤兵衛 「家康と春日局」老女高圓「初袷秋間祭」右 我童の富士田屋藤兵衛 、左 初舞台三男大輔(六代目片岡芦燕)の一子松太郎〈本人談〉「“芦燕の改名”お蔭で芦燕の改名披露も意外に賑わいまして一同喜んでいます。團十郎(くだいめ)さんの追善興行や成駒屋さんの方の襲名興行など盛大に行われたあとでありますし、世の中も非常時なんですからモッと後に延ばして、私の仁左衛門改名披露と一緒に致す考えでござりましたが、いろいろとお勧めがありましたので急に披露いたしたわけであります。芦燕(ろえん)と云う名ですか、あれは十代目の住友様が七代目仁左衛門を御ひいきになり、御自分の号の蘆雪(ろせつ)からおとりになって蘆燕=蘆の上を飛ぶ燕のように早く出世をせよ=とおつけ下さったのです。七代目は非常に喜んで、蘆の字は勿体ないから芦の方にかえ、之を片岡家代々の俳名に定(き)めましたが、芸名に用いたのは今回が始めてでござります。また、三男の大輔も初舞台の披露をいたしましたが、之れは本名です。私の方は祖父でも父でも子供の時は本名で出ました。今度は大谷(竹次郎)社長さんが私共親子に、近松物を出物にして下さるお考えでしたが、四月五月が旅で準備が出来ないため、高圓と梅の戸で顔を合わすことになりました。歌右衛門(五代目)さんや梅幸(六代目)さんが特に口上を述べて下さいましたので、望外の仕合せとよろこんでいます。明舟町の叔父(十一代目仁左衛門)も吉右衛門(初代)さんも口上に出て下さる筈でしたが、叔父は病後であり、吉右衛門(なみの)さんには口上だけに出て頂くのはお気の毒ですから、わざとこちらからお断り申したようなわけでござります。」(「演芸画報」昭和9年7月号)7月 伊勢山田、松坂、岡崎、刈谷、犬山、一の宮、丸亀、岐阜巡業「鎌倉三代記」三浦之助義村「戻橋」小百合実は茨木童子〈俳優論〉「今の我童は、器用なひとである。もっとも大阪の人は、大抵立役と女形を兼ねるのは普通のようであるが、我童はそれがなかなか烈しい。朝顔おその、阿古屋、なぞは第一の売り物であるが、同時に松平長七郎なぞもサラリとこなし、弥七、勘平、惣七、八郎兵衛という二枚目も楽にやってのけ、新作物は何でもよし、近頃は助右衛門や灰屋紹由までやるという始末だ。忠臣蔵が出ても、師直や由良之助はどうか知らないが、後はなんでもやったろう。菅原が出たって、首を傾げる役は白太夫ぐらいなものであろう。千本桜なら弥左衛門だけ出来ないかも知れない。多芸多能なること驚くべきほどだ。併し、なんと云っても我童の本領は、矢ッ張り女形ではなかろうか。美しい顔、美しい声の持ち主だ。近頃は調子も下がったそうであるが、一しきりの朝顔なぞは、女と同じ調子の声で、露の乾ぬ間を唄っていた。もしこの人が、ズッと東京にいたなれば、恐らく純女形として進んで行ったであろう。何しろ、素走りおくま、鋳かけ松の女房までやりこなした人だ。若女形から、源之助の領分まで入って行けた人であろう。立役をやるようになったので、多少障ったのではかなろうか。近頃は東京に居ついているが、時たま悪いというと、みんな立役だ。小山田庄左衛門なぞは、近頃での悪い作の代表であろう。女形で、余りやりそくなったことはない。(中略)体格の上から云って、板額やお辻は、まだ見せてくれないようであるが、お三輪、袖萩、なぞは演っている。いづれも成績がいいようである。(中略)この人も今云ったように実に広い。(後略)」(「演芸画報」昭和9年8月号)10月 大阪歌舞伎座(4日〜28日)『ひとし改め五代目片岡芦燕襲名披露 片岡大輔初舞台』「春秋平家物語」仏御前「片岡芦燕改名 片岡大輔初舞台 口上」口上「鬼一法眼三略巻 菊畑の場」虎蔵実は源牛若丸「鷓山姫捨松」御台岩根御前、横萩豊成卿「心中千日寺」美濃屋三勝「春秋平家物語」仏御前〈御挨拶〉「四方御贔屓様には愈々御健勝大慶此事に奉存候。偖而此度御贔屓の御余光を以て久々にて帰阪歌舞伎座十月興行に出演の光栄に浴する事と相成申候に付ては愚息ひとし儀五代目片岡芦燕を襲名致させ候初の御披露を申上度尚又末子大輔儀初舞台として御目見得仕候然るところ何分にも未だ幼弱の者に御座候まま此上の御鞭撻御指導の程呉々も御願申上度誠に乍略儀茲に以紙上御挨拶旁々御願迄如斯に御座候 敬具 昭和九年九月 片岡我童」(「大阪朝日新聞」9.23)〈劇評〉『春秋平家物語』「(前略)題名通り春、秋の二つに分けて、物資的生活と精神的生活、迷いと悟りを対照させたものだが、秋の方がズッと能く書けている。(中略)我童の仏御前は歌右衛門を張っているのが可笑しい位、台詞廻しばかりか、顔の拵え、頬の皺、口尻を曲げるのまで似たとは愚、その儘である。」『鬼一法眼三略巻』「彦三郎(六代目)の鬼一はあの長い花道を遠慮した代りに舞台を一周するのが、ゴルフの穴を探してる感じ、我童の虎蔵は羽左衛門を張って器用に真似をして見せてくれる。」 『鷓山姫捨松』「(前略)これは美女を虐待する何とかイズムの興味をそそるだけのもので、(中略)だから、中将姫はただ美しく、可憐であればそれで可いので、芦燕はその点で先づ合格している。オヤジ我童は悪の岩根と、善の豊成とニホン行って器用な処を見せている。」(「演芸画報」昭和9年11月号)〈見物評〉「今月の私の一大収穫は我童の女形であった。透き通るような、あの声音、水ぎわ立ったあの容姿。内に熱き情の焰をこめ、外に冷たき刃の光を表わす彼の伎芸。松蔦を清楚を言おうか、さすれば我童には、薄い気品の幕で以て其の全面を蔽いたい。」(同 “読者倶楽部”)※10月16日、十一代目片岡仁左衛門死去、七十八歳。11月 明治座(1日初日)「曽我物語」曽我十郎祐成「明烏六花曙」山名屋浦里「法海佐渡旦」本間六郎「曽我物語」曽我十郎祐成※11月8日、六代目尾上梅幸死去、六十五歳。12月 南座 顔見世興行(1日初日)「歌舞伎十八番の内 勧進帳」源義経「鎌倉三代記 絹川村の場」三浦之助義村(❋初代鴈治郎の代役)「秀山十種の内 平家女護島 鬼界ヶ島の場」丹左衛門尉基康「勾当内侍」瓜生兵庫助「歌舞伎十八番の内 助六由縁江戸桜」白酒売実は曽我十郎「おそめ久松色読販」お染、お光、久松、雷〈劇評〉『勧進帳』「我童の義経は羽左衛門(富樫)、幸四郎(弁慶)と鼎立し得るまでには未だ未だだが、それだけ邪魔にはならない。花道の“逢坂の”の仕草はぞんざいだし、笠を著る時前へ出ないので弁慶が通り難い。もう一つ不注意は、此優始めベンケエと発音する。誰一人ベンケイとまともに言っている者が無い。」『鎌倉三代記』「我童の義村は鴈治郎の代役で、名誉のことだが、例によって冷やかで、あれでは女が親を殺してまでも尽くそうとする気にはなれまい。高綱(吉右衛門)を呼出す時、井桁と縁とに股がって扇を上げるも形が悪い。」『平家女護島』「我童の丹左衛門尉基康は凛然たるところがよく、(後略)」『勾当内侍』「我童の瓜生兵庫助は颯爽たる姿をとるが、水色の直垂はこの場面には損だ。」『助六』「我童の白酒売が思いの外ふっくりしているのと、(後略)」『お染久松色読販』「(前略)道行で四杯道具で見せ、我童がお染お光久松雷の四役を早替り鮮やかに雷の三味線にその器用さを見せている。これは南北の原作ではあるが、上方の世界にまた書直したので、前進座で演じたのとはすこし変わっている。大阪生まれのお染めが江戸へ移り、また帰ってきた形で、故人(市川)齋入や下っては(中村)福圓がよくやったもので、我童も今まで角座や京都座で続けて右團次の喜兵衛などで演じたことがある。舞台も淀川堤から桜の宮までで、早替りの駕ぬけもあるが、三味線の曲弾きや、幕切れは銀杏鶴の紋入りの傘のタテがついて、打出しらしい華やかさが加わっている。鴈治郎病んだ今年の顔見世は、吉右衛門と我童が活躍しているのが目に立つ。」(「演芸画報」昭和10年1月号)〈本人談〉「“冗談から駒”七八年前京の顔見世で(絵本太功記)十段目が出た時、幸四郎さんの光秀、鴈治郎さんの十次郎、梅幸さんの操に私は久吉を勤めましたが“愚かや光秀……”と云うあれから先の台詞が、八幡太郎の云う“愚かや貞任……”(奥州安達原)のそれによく似ていますので、私の久吉が出を待つ間、四天王の面々と此話をし、“斯く八方を取り巻けば……”などとここで間違えたらコトやなア……と喋りながら舞台へ出たのです。ところがどうでしょう、その話したばかりの事を舞台で云って了ったのです。台詞の途中でハッと気が付いたから、十段目の本台詞へ引戻そうとしましたが、焦れば焦る程容易に元へ戻れません、とうとう目を白黒させながら八幡太郎の台詞を全部云ってのけました。之れには自分ながら、余りの迂かつさに呆れて了い、とんだ大縮尻をしたものだと、後悔しても追っ付きません。それでも義太夫を知っているお客には感付いたでしょうが、一般の方には別段大したこともなかったようでした。幸四郎さんは“おかげで光秀と貞任を一緒に勤めました”と云って笑いながら入りましたが之れこそほんとに、冗談から駒が出た話で、知りつつも猶その間違った台詞を続ける苦しみは却々(なかなか)やさしい事ではありません。全くあれには閉口して了いました。なお帝劇で阿古屋を勤めました時、琴糸を切らして、お囃子部屋に三味線を借りにやり、拒絶されて十分間程麻胡つき、結局女優さんの稽古三味線を借りて来させ、漸くそれで間に合わせたこと、その囃子方が其のままドロンを極め、囃子頭が謝罪に来たりした話がありますが、之れは以前にお話申したことがありますから省きましょう。」(「演芸画報」昭和10年1月号 “舞台で困った面白い話”)〈俳優論〉「我童さんは一寸人好きのしない冷たいような御仁体だが、付合うと却々(なかなか)面白い人で、興到れば何時間でも愉快に話すという人。坐談の巧いことは河内屋(二代目延若)と同じ位で、あの細い目で客の顔をぢッと見ながら小声で話す其の話し振りは、全く人を引付けるだけの一種妙な力をもっている人である。もしもお得意の小唄の話でも出ようものなら、解説に実演に至れり尽くせりの博識多才を見せ、顔を塗っては火鉢の方に向直って暫く談じ、更に眉を引いては又向直るという塩梅式に、我童さんの話術は千変万化である。我童さんの鏡台の上には、“彦”と大書した絵葉書立てと同じ恰好のものを載せてある。信仰する京都の神様なそうだが、鏡の枠にも二つのお守をいつも掛けてある。“東京人になってから足掛け五年です。芝居も江戸式にと、あちらで十のものを六位に演じていますが、それでも上方式だと云われます” 我童さんは口紅を付けながら又火鉢の方に向いて穏やかに語るのである。」 (「演芸画報」昭和10年1月号 “俳優幕内百態”)
2026.01.29

○昭和7年(1932年) 50歳1月 新宿歌舞伎座(1日初日) 「唐人お吉」お吉「関の馬子唄」丹波与作「唐人お吉」お吉「関の馬子唄」丹波与作 左は大谷廣太郎(四代目中村雀右衛門)の自然生の三吉〈本人談〉「『幕末外交の犠牲』(前略)さて、私は一番目で芸者お吉を勤めますが、此(ここ)に私の役の唐人お吉は、幕末外交の犠牲となりました女で、お吉がハリスの侍妾(じしょう)となったのは安政四年すなわちお吉十七の歳で御座いました。当時、通商談判の直接交渉の任にありました下田奉行達は、ハリスから侍妾の周旋を依頼されましたを幸い、女でハリスの鋭鋒を幾分でも挫き、外交難の小康を得られるならば、と云う腹からお吉をハリスに周旋致しましたので、其間の消息は、ハリスの小使いだった西山助蔵翁が史談会でした話や、又下田奉行から閣老へ差出した上申書等からも窺われるので御座います。お吉がハリスと別れましたのは安政五年で、其後、文久元年に江戸へ出て再びハリスに侍しましたが、酒狂の為見放され、十二ヶ月で下田へ帰ってたらしく御座います。身も恋も犠牲にして洋妾となった鬱憤を、酒に晴らした心境には同情できますが、結局其大酒が害となって、お吉は四十七歳の正月に半身不随となり、五十の春に稲生沢川へ身を投げて死んだので御座います。(後略)」(昭和7月新宿歌舞伎座初春興行番付 「俳優楽屋話」)「『踊らぬ歌劇を』大正九年に興しました邦劇座も、種々(いろいろ)な都合で四回公演したまま中止していますが時機を見て再興したいと思います。邦劇座を創(はじ)めました主なる目的は、新劇旧劇の外に『をどりにならぬ歌劇』をも演って見たい為でした。この私の申す歌劇は、洋楽を用いないことで、洋楽は音色が高い為に文句が分からぬから、全然邦楽=日本の楽器=でやるというのです。元来(もともと)邦楽は洋楽のように響きが強くありませんから、広い劇場では効果が少ないだろうと思召すかも知れませんが、それは楽器の数を多くすれば充分救われます。第三回目に演じました『平重衡』の時、義太夫(たけもと)と長唄の合奏で成功した経験があります。古いものでは、芝居にまだ演じたことのない台本等を適当に脚色して貰って、それを新しい演出でやりたいと思います。浪花座で出した大近松の大傑作『関八州つなぎ馬』は、大森氏脚色の三幕物で、非常な好評を受け、白井(松次郎)氏が見て『こんないいものがあったのか』と大そう喜んでくれましたが、今後も此試みを続けたいと思います。尚老け役では、灰屋紹由、紙子仕立(だいもんじ)の二役、名工柿右衛門、矢口の頓兵衛などを演りたいと思います。尤も斯うした役は、叔父(十一代目仁左衛門)によく似ると申されますから、私は却って似ないように力(つと)めているのですが、肉縁の所為(せい)で自然似るのだと思います。それから大晏寺の次郎右衛門、寺子屋の松王、実験の盛綱や、木村重成や弁天小僧、お嬢吉三なども演りたいものの内で、女役の方では、体に色気がないから、烈婦賢女、たとえば桐一葉の淀君の様な役を好みます。」(「演芸画報」昭和7月2月号 “こんな芝居を演て見たい”)〈劇評〉『唐人お吉』「(前略)此女の研究者村松春水氏の作で、伊佐新次郎の真実にうたれてハリスの許に行ったお吉が、世の嘲りを受けて自暴自棄となり、再会した情人鶴松とも喧嘩をして、玉泉寺の墓地に眠るアメリカ水兵の墓標にハリスの写真を飾り、酒を呑みながら淋しく泣く……と云う筋で、殆ど我童のお吉の一人芝居である。最初の下田伊勢善の離れ座敷で、伊佐の勧めで侍妾を承諾する我童のお吉は、綺麗な芸者と云うだけで別に云う程のことはないが、(市村)亀蔵の鶴松と縁を切って捨鉢のように寂しく笑う、立ち帰った伊佐がその様を見て暗然となる……あの幕切れがよかった。(左 我童のお吉、右 八代目澤村訥子の領事ハリス)次のハリスの居室は、如何にも玉泉寺内の窮屈らしい気分を出した装置で、洋風好みの派手な振袖姿のお吉が、ストーブを焚きながら、ハリスと話し合う情景が異彩を放っていた。今迄見たうちのお吉らしいお吉は、この場のお吉であるように思う。」『関の馬子唄』「(前略)大森痴雪氏の作、従来大阪で度々演ぜられたものであるが、その筋が一般に呑み込み難いためと、芝居が平淡(なだらか)で、際立った味処が乏しいので、折角の題材でありながら不評であったのは作者に対し惻隠の情に堪えない。(中略)我童の与作は本役で、侍らしい凛とした品位もあり、恋のためには水火も辞せぬという所謂二枚目どこの性情を充分現していた。廣太郎の三吉は巧いこと無類であるが、近頃子役離れがして純真でなくなった。殊に此三吉では台詞に甲乙(メリハリ)をつけて眉をひそめさした。子役は矢張り純であって貰いたい。(後略)」(「演芸画報」昭和7月2月号)2月 歌舞伎座(1日初日)「阿波の鳴門」藤屋伊左衛門「佐野次郎左衛門」久左衛門の妹お咲「阿波の鳴門」藤屋伊左衛門〈劇評〉『阿波の鳴門』「我童の伊左衛門は、大体に於て成功と云って可いでしょう。歩きつきなどに、人形から来たような一種の味を保存しているところに、我童一流の好さがありました。(中略)あのこしらえで、幕外を見せるのは無理でしょう。それと、鬘(あたま)の袋つきが不服でした。本人は『吉田屋』の方にならないようにと逃げたのかも知れませんが油つきの汚れにした方が可かったでしょう。」(「演芸画報」昭和7年3月号)3月 新宿歌舞伎座(1日初日)「長柄の人柱」巫女魚子「生写朝顔日記」秋月娘深雪「人形師」弟子八之丞「廓の噂白井権八」白井権八「人形師」左 我童の弟子八之丞、右 ひとし(十四代目仁左衛門)の娘お小夜「廓の噂白井権八」右 我童白井権八、左 二代目中村芝鶴の遊女小紫「三勇士」植田師団長(松井松翁・作、6日より追加上演)※2月22日、上海事変において三人の日本兵が爆弾を抱えて敵地へ突進しながら爆死した出来事を脚色したニュース劇。ほかに歌舞伎座、明治座、東京劇場、新橋演舞場、浪花座、角座などの各座でも“勇士劇”として急拵えで上演され、さらには人形浄瑠璃にも脚色されて(「三勇士誉肉弾」)、大阪の文楽座で上演される。(※かつて芝の青松寺に建立されていた“肉弾三勇士”の像)(※歌舞伎座所演「肉弾三勇士」 左から六代目尾上菊五郎、十五代目市村羽左衛門、六代目坂東彦三郎)〈芸談〉「中振袖の深雪私が深雪を初めて演りましたのは、まだ子供あがりの若い頃で、仕方が分かりませんから仁左衛門(おじさん)に教えて貰おうと思うて訊ねますと、以ての外だと大叱りです。『松嶋屋の家は女形ぢゃないよって、そないな役はやめとき……』と云って、どうしても受付てくれません。私は困って了いました、と云って看板も上がっている際ですから今更断る訳にもゆきませんので、故人の璃珏(てしまや)さんの家へ駆付けて、一伍一什(いちぶしじゅう)を話しました。あの人はよう若い者の面倒を見てくれた人で、直ぐに教えてくれました。琴ですか、私のは生田流です。九つ頃から名人富岡検校について稽古しました。元々私の亡父(十代目仁左衛門)は、子供に財産を残すと却ってよくないから一文もやらぬ、又借金も残さぬ。そのかわり芸事を仕込んでやる……と云って、琴、三味線、義太夫、をどり等を熱心に稽古させてくれました。中振袖の着附 ですか、あれは先年浪花座の時から、今迄の古代紫の肩入れツメ袖を止めて、今度のように古代紫に秋草模様の寄せ布、切継の中振袖に改めたのです。之は本文にもある通り、秋月の娘……という事をよく現す為に、従来の女房じみた扮装(こしらえ)を廃(よ)した訳ですが、浪花座の時鴈治郎(なりこまや)さんが見に来られて、大そうよろしいと褒めてくれました。」〈劇評〉『長柄の人柱』「これは岡本(綺堂)氏の旧作のうちでも、(中略)余りいい方ではないものだ。ヴリユウの『信仰』をどうかしたような主題ではあるが、要するに長柄の長者の息子豊彦が、父親の人柱となることは、衆人の犠牲となるのではなくて、単なる迷信なりと怒号し、遂に神壇に狼藉を働いて、巫女魚子の短剣に斃れるところに劇は終る。(中略)我童(の巫女魚子)はせいぜい凄んで神妙につとめていたが元来、先にも云ったやうに、腹に深味のない役柄だけに、妙に敵役じみるばかりだった。無理なレジー、メードを着せて、それが脚本本位だと思うのは困る。然うなると、脚本本位は時に役者を作者を、そして観客をも殺す道具となる。(後略)」『生写朝顔日記』「これは、我童の十八番に数えられるもので出し物が旧いけれど、味のあるデン物として此の辺の見物にはたんのう出来るところに強味があった。例の鼻声をかすめて、殊更に絲に乗らずに、さらさらとやってのけ、急所だけをあたっている点は巧者でうなずけるが、妙に写実味をつけたがるところは、矢張り凝って思案に能わざる──巧者だおれだ。一例をあげると、縹緻(きりょう)なり扮装(つくり)なり、零落(おちぶ)れたりと雖もあっぱれ秋月が娘深雪の成れの果てを偲せるに充分な品はありながら、杖をたよりの手振足附が海道筋の瞽女朝顔という写実に囚われ過ぎる。琴爪の袋を前紐に結びながらの科(しぐさ)などは、いじらしくもあり品を失わぬ工夫でよいが、あの煮染めたような薄汚い手拭いはどうしても、気になる。手先の細い振りに云われぬ味のある優(ひと)だけに、それに、他の点が美化されているだけに、これらの、瞽女だからという写実臭が、妙に目につき鼻につくのは惜しいと思った。“たまたま逢えば逢いながら……”の船で行き過ぎるところも、小膝が巧者に刻み過ぎるので、あられもない姫君が、切ない行き別れの恋という余情に乏しい。芸の味が深雪の腹にぴッたりせぬので、厭にこせついて折角の品を失ってしまうのである。それらを除いては云うところなし。東(こっち)の優には見られないデン物に相応しい芸の味わいを持っている。殊に地声であの琴歌の哀れさをあらわせられる女形は当今絶無と云ってよかろう。(後略)」『人形師』「松井(松翁)氏の、これも明治座あたりで演ったことのある仁左衛門独特の名人気質劇。しかもこれこそ正真正銘の人情劇である。(中略)お小夜と相惚れの兄弟子八之丞は我童がしなければ、仁左も仕打も納まらないのであろうが、相手がひとしのお小夜だけに、満江斎のいい草ではないが妙に娘が瞞されているようで真実味があふれない。こんな役は誰か若い優(ひと)にさせると十太郎の嫉妬の調子も出て来るし、もっと人形式二枚目でない具合にゆくだろうと思った。我童としても、朝顔からすぐ権八へ飛ぶ方がよかろう。(後略)」『廓の噂白井権八』「我童の権八は、根のつまった前髪で、武張った黒の着附に咥え楊子という恰好。どこか身を持ち崩しているあたり、見るからに適役、近頃ザラにある鳥取県士族白井権八君でないところはさすが、(後略)」(「演芸画報」昭和7年四月号)4月 新宿歌舞伎座(1日初日)「冥土の飛脚」亀屋忠兵衛「茅野特派員」横田特派員〈劇評〉『冥土の飛脚』「(前略)それに我童の忠兵衞は中々よい出来です。尤も近松原作の忠兵衞としては、今少し、脂っこく、ねちねちして、どこかもっと野性的な人柄が欲しいようです。我童では、ややすっきりし過ぎ、余りに上品すぎています。たとえば、序幕で、下女のお萬に戯談(じょうだん)を云うあたりなど、殊にこの憾みがあります。このあたりは、延若で見たいと思います。我童では、つい二三ヶ月前に見た伊左衛門の俤(おもかげ)が出て来ます。伊左衛門は夕霧と云う立派な太夫を買う物持ちの若旦那ですが、忠兵衞は、たかが飛脚屋問屋のお坊ちゃんです。その馴染みの梅川(三代目時蔵)も、自分自ら『見世女郎』と云っているどちらかと云うと下等な女郎だから、我童では、人柄がよすぎていささか仁でないと云うところはある。が、そう云うところがあるにかかわらず、流石に、大阪役者であるだけ、上方情緒は身についていると見えて、近松物などになると、東京の役者には、真似の出来ない柔らかさと、甘(うま)さとが身体(からだ)に滲み出て来ます。西横堀川場の場で、お屋敷に届ける三百両の金を懐にして、さて、お屋敷にゆこうか、梅川のところへゆこうかと、とつ追いつして、思わず羽織が脱げ落ちると云う例の羽織落しの場面など、大車輪で、しかも、荒っぽくならず、どこ迄も柔らかみと色っぽさを、保っていたのは大したことものです。ここいらは嘗て見た羽左衛門のが、どこか、ぎこちなく、故意(わざ)とらしかったのですが、我童のは流石に、上方役者だと云うことが、うなづかれます。(後略)」(「演芸画報」昭和7年5月号)同 歌舞伎座(2日初日) ※掛け持ち出演「曽我の対面」大磯の虎「頼朝の死」大江広元「橋弁慶」源牛若丸「曽我の対面」大磯の虎「橋弁慶」源牛若丸写真〈芸談〉「『大磯の虎』初役です。大阪でも、旅でも大抵十郎か工藤に廻って虎をつとめたことはありません。太夫の頭は私には禁物なのです。二十年程前脳病をわづらってから、あの重い鬘は載せられなくなってしまいました。屹度工合が悪くなるので、健康が許さなかった訳です。田村成義さん時代「朝顔」を出し物にしていましたが、何でも『阿古屋』をやれと云われて、拒(ことわ)りきれなくなり頭は何んなでもいいからと云う条件で引き受けたことがあります。さし物全部張りぬきして、珊瑚樹の玉もセルロイド製の軽いものを使い、毛はシャ熊、飾りのピラピラも銀紙、台金にもアルミを使って極めて軽いものにしましたので、普通の重みの半分にはなりましたが、兵庫なので、それでも可成り重く、閉口した経験があります。それで太夫ごとは止めにしていたのですが、今度も仕方なしに引き受けることになりました。やはり毛は、シャ熊を使い、紫のなかは芯なし、挿し物も軽いものを撰び、三枚の櫛も成駒屋さんのお造りになった軽い品を見つけて使っていますが、四十分からの幕なので、可成りにこたえます。仕草と云っても貫目だけのものです。ただ相手がお若い(十六代目市村)家橘さんなので、化粧坂の少将より余程キレイに塗らないとおっつきません。大阪では腰かけただけでいますが、こちらは盃を持ったり、三宝を捧げたりするので、あの部厚な大きな帯で、そう動くと云うことは可成りの苦しみです。一番難しいのは三宝の置き場で、十郎のはきまっていますが五郎のほうは動いてぃすので、丁度よい所へ三宝を持って行かねばなりません。その場所の撰定が仲々難しく、下手をやっては五郎役者の芝居を打ちこわすことになるので、その点可成り気を使って芝居して居ります。」(「演芸画報」昭和7年5月号 “曽我の対面芸談”)6月 明治座(1日初日)「春日局」お福の方「新版歌祭文」お染「紅皿缺皿」姉娘缺皿「春日局」左 我童のお福の方、右 七代目澤村宗十郎の稲葉佐渡守「新版歌祭文」左 我童のお染、右 片岡我當(十三代目仁左衛門)の久松「紅皿缺皿」左 我童の姉娘缺皿、右 八代目澤村訥子の脚平〈劇評〉『春日局』「(前略)櫻痴居士原作の序幕に手を入れて、折角武家の生活をキチンと現している巧い台詞を、誰の麁忽か、ところどころ現代的田舎言葉に拙くした稲葉佐渡の山科閑居二場。何うせ扱(いぢ)くるなら、お福の方の見通しの法印然たるところでも直せば好いに、それは其の儘にして置き、まだ幼き長男が、弟に訓(おし)える話を偸聞(たちぎき)して、親父が翻然志を変ずるという薄馬鹿を発揮させるなど、事壊しである。先年歌右衛門(五代目)が此の狂言を出せし折、体の利かぬ当人の出し物として、ここ閑居だけを見せるようにでもしたら、独特の芸品、今後また此の優(ひと)の舞台を見せる便(たより)ともなろう、と言ったは、原作の活歴味に、歌右衛門の天稟がよく合致せるからの話。(中略)然しそれはそれ、我童のお福の方は、存外の上出来である。些と九段目のお石が家庭教師に雇われた気味もあれど、歌右衛門ぐらいには演って見せると当人が言明したのでない限り、十分割引をしてやる義理はある。最も目に立つ欠点は、理知一方ただ冷ややかな人間に見える事で、それがため、夫や子供への愛が兎角附焼刃らしくなる。品の足りぬのが、盃台を取上ぐる所や、筺(かたみ)に貰う一口(ひとふり)の扱いにも露われる。概して言えば、開き直って丁寧に演っている中から、世話の味がチョイチョイ出るのが残念である。けれども、存外の上出来と言った通り、外々は、締まった顔面(かおつき)、キリッとした態度、筋の上からの礼儀正しい中での多少の情愛、確かに、我童がこれを出し物にしただけの事はある。失敗の舞台ではない。」『新版歌祭文』「我童のお染は、干菓子の如く美しいが、着物の地色、模様その他色取りの関係で、舞妓然たる第一印象がないでもない。色っぽさも商売人臭い嫌いはあれど、『わしゃ嬉しいと思うもの』と、久松に寄添いながらも、下手からの左の手を男の膝には掛けず、ソッと畳へそらす用意のあるあたりに、娘らしさの工夫は見える、一概に素人染みぬとは云わぬ。門口から口説までの色気は引っくるめて人形の娘形の味で斯うした狂言への映りは好いが、愁いの口説に前言う如き色っぽさの過ぎる所で、何うやら今が馴れ初めのように見えるは、ソレ、猶及ばざるが如きである。些とお色気をお慎みが宜しかろう。」(「演芸画報」昭和7年7月号 岡鬼太郎 述)7月 歌舞伎座(1日初日)「輝虎配膳」長尾弾正少弼輝虎「武田信玄」明珍の姉小松「国定忠次」茶屋女お豊「輝虎配膳」長尾弾正少弼輝虎〈劇評〉『輝虎配膳』「我童の輝虎はどうしても維茂配膳と云いたかった。」(「演芸画報」昭和7年8月号)10月 新宿新歌舞伎座(1日初日)「春日局」春日局「桂川連理柵」帯屋長右衛門19日より二の替り「安宅関」(榎本虎彦・作)義経」「艶姿女舞衣 酒屋」お園「白糸と主水」白糸「桂川連理柵」我童の帯屋長右衛門、七代目澤村宗十郎の信濃屋娘お半「艶姿女舞衣 酒屋」お園〈劇評〉『春日局』「どういう料簡で『春日局』なんて狂言を出すんでしょう。(中略)何しろ團十郎(九代目)のやる春日の局と家康だけを、ひどくえらい者にかつぎあげて、外の人間はまるで血の通っていないように書いてあるんだからやりきれません。高圓(たかまど)と石川刑部が、まづ悪玉の親分なんでしょうが、(中略)どんな悪巧みをしようとも、みんなえらい人達に見抜かれているんだから堪りません。(中略)我童の局は、この前明治座で序幕だけ出した時には、相当烈婦に見えないでもありませんでしたが、今度はどうしても貫禄で押さえてゆかなければならない場が多いので、どうも持ちきれません。顔の冷たいのは、良妻賢母らしくって邪魔にもなりませんが、うっかりすると岩藤や八汐の方に近くなるのは損ですね。大詰なぞ随分気を入れてやっていますけれど、脚本が今云った始末で空々しく出来ているので栄えません。」『桂川連理柵』「我童の長右衛門は、例の冷やっこい顔と、ギスギスした仕草とが邪魔をして、多少長右衛門らしくない欠点がありますが、それでも上方の人というものはえらいもので、全体に和らか味があり、篤実さもあり、辛抱立役の性根もあって、ここが見せ場という所もありませんが、兎に角破綻ない出来を見せています。」(「演芸画報」昭和7年11月号)11月 東京劇場(2日初日)「佐倉義民伝」堀田上野介正信「国定忠次」覚王院亮観「佐倉義民伝」堀田上野介正信
2026.01.29

○昭和6年(1931年) 49歳1月 名古屋 御園座(1日〜8日)「敵討襤褸錦 大晏寺堤の場」春藤次郎右衛門「戀飛脚大和往来」亀屋忠兵衛、父親孫右衛門「鷓山姫捨松 中将姫雪責の場」息女中将姫「春雨傘」大口屋治郎兵衛後に大口屋暁雨2月 中座(1月31日初日)「梶原平三試名剣」娘梢「新歌舞伎十八番の内 紅葉狩」余吾将軍維茂「延享五人男」弁天小僧菊之助「梶原平三試名剣」娘梢「新歌舞伎十八番の内 紅葉狩」余吾将軍維茂「延享五人男」弁天小僧菊之助4月 明治座(1日初日)「新歌舞伎十八番の内 大森彦七」千早姫「一谷嫩軍記」判官義経「壺坂霊験記」女房お里「御存梅の由兵衛」信楽勘十郎「一谷嫩軍記」判官義経「壺坂霊験記」右 我童の女房お里、左 七代目澤村宗十郎の座頭澤市〈芸談 本行とは違った壺坂〉「突然の上京で御座いました、どちら様へも頼み状すら間に合わぬ位でしたから、何か一ツ出し物をさせて頂くべきを今度のような配役になりました、歌舞伎座で『沼津』の重兵衛を勤めて以来六年振りの東上で、ひとつは本郷(座)でどんどろのお鶴以来八年振りで御座います。千早姫は高麗屋さんのお教えに随って居りますので、この二月中座で上演致しましたのが最近ですが偉い前に和歌山で高麗屋さんと一座して初めて演じましたので御座います。それから壺坂、これは本行で行きますと淋しい沢市の内で、地唄を弾いて居るところから例の山までズーッと淋しくて、終いには陽気に萬歳の浄瑠璃になるので御座いますが、今度は萬歳の件を抜いて終いましたので、大分本行とは違うことになりました。殊に裾を引くようとの御注文でしたが、それでは殆どお軽になるので之はお断り致しました。観音様も一度だけ出るのがこれまでの大阪式でしたが、今度は二度出すようになりましたのも私は如何かと思って居るのです。こんなわけで今度の壺坂は大薩摩が出たり、本行とは大分離れて居るのです。宿は築地の有名館ですが更に来月も東京に止まることになりますからモウ少し落ち着いたらゆっくり御話を申し上げたいと思います。」(「演芸画報」大正6年5月号)5月 明治座(1日初日)「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」桃井若狭助安近同 帝国劇場 ※掛け持ち「壇浦兜軍記」阿古屋「山田長政」山田長政「玉川上水の始」松の市「壇浦兜軍記」阿古屋〈劇評〉『壇浦兜軍記』「『阿古屋』といふ芝居は僕はこれで二度しか見ない。これは我童のような、音曲のこなせる役者でない限り出来ない芝居だから、そうそうプログラムにのってこないのかと思うがまたこれを見て、この位形式主義そのものを集めた古典劇も珍しいと思った。現代の人間から見ると何一つ感情らしいもののない芝居、しかも人形振りとか、阿古屋の琴攻めとかいふことを前以て知っていねば、何の興味のない芝居だが、それでいてあの形の上の大きさ、あのとてつもないグロテスク、それが又何と不思議な力をもっていることか、内容の退屈さを形式が全く救ってくれている。形式が内容を決定するという誰かの御説もあるが、この場合歌舞伎の形式の上の豪(えら)さを一寸感心する。」『山田長政』「山田長政はおそらく愚劇である。これは第一芝居でない『ラマヤーナ』をレビウにしたてて、その附録をひっつけたものにすぎない。ところでそのレビウ的歌劇『ラマヤーナ』もせいぜい宝塚的出しもので、御子供相手の唱歌劇である。シャムの彫刻からの型をとった最初の踊りは一寸いいがあれはフオリーベルジエールで以前巧みにこなしたものの一つである。これで感心するのはあのサボテンのような山などの出てくる舞台装置であった。あの色彩の線とがレビウの中にもっと調和して出るといいと思った。」『玉川上水の始』「講談全集とかの『玉川上水の始』はあれだけのもの、舞台はなかなか美ごとだった。玉川水道組合の宣伝劇にしてもよい位である。友右衛門(六代目大谷友右衛門)、壽美蔵(=七代目市川壽海)、よく呼吸(いき)のあった演出だった。役者もらくらく出来るような芝居。我童の按摩さんもまことにラクでいい。長政では名優我童を気の毒に思ったが、ここで一寸救われた。(後略)」(「演芸画報」昭和6年6月号)6月 明治座(2日初日)「通し狂言 鏡山旧錦絵」局岩藤〈劇評〉「今度の明治座は一番目は『鏡山旧錦絵』珍しく新清水の花見の場から出している。この場は昔から岩藤の位をみせる所で、毒薬を差出す医者を、文次兵衛の刀でポンと斬って、山寺の春の夕暮れきてみればと謡を一節きかせて、文次兵衛どの、お刀汚しまして御座りまするという幕切れが、普通であるが、今度は珍しく我童の岩藤は、毒薬を医者にのませて、花道の引っ込みをみせている。上方の型だそうである。理屈に泥(なづ)む訳ではないが、日が暮れかけて、日傘もおかしい。日傘は腰元にもたせて、扇をつかった引込でも見せた方が、さまが変わってよかりそうに思えた。(中略)竹刀打ちでは、我童の岩藤、初め支度しやを立身でいっていたが、これも珍しいような気がする。一体この役は全くこの優の柄にない役で、すべて強く強くと憎味を利かせようとするので、腹がうすくみえて、損である。柄も顔も立派で、よかりそうなものでいて、あの和(やわら)かい調子で、岩藤にならぬような気がする。(中略)(※右 我童の局岩藤、右 三代目中村時蔵の中老尾上)仕返しは、岩藤と二人(七代目宗十郎のお初)、立廻りが、気が変わらなすぎる。こここそもっともっと立廻りをして、合方のかわり目をきわ立てたかった。(※右 我童の局岩藤、左 七代目澤村宗十郎の召使お初)総体、久しぶりで、こういう古風な芝居をみたが、大体の演り方に於いて決して非難はないが、随分訳のわからぬことも、そのまま在来のままにしてやっているのも何うかとおもう。古劇尊重も品による。丸本のきまったものなら別だが、こういう歌舞伎の台本には、随分その時々の都合でいろいろになっているので、後から訳のわからぬことが多い。もう今日ではそれらを少し整理して、一段と引きしめたものにしてみせてもらいたい。そうすると、古狂言のもっと好いところがぐっと引き立って来ると思われる。(中略)先人の型もいいが、随分それはその人だからよかった場合が多い。ここには例にならぬが團十郎(九代目)なぞの仕残した芸の大半は、もう決して後の人には受け継げない、それより自分の長所から、工夫をする方がいい。今度なぞも却って型の為にしばられている形が大分あった、それは素人でも知っている角々はそう攻(あらた)める訳にもゆくまいが、本人の柄に合わないとそれこそほんとの形ばかりになる。総体この節の芝居は、こういう古風な狂言になるとみていてダレ気味で、何だか、役者の気込みが不足しているように感ずる。まさかと思うが芸を楽にするのが大歌舞伎と穿(は)き違いをしているのではあるまいか。何も気込みが不足しているといって、絶えずギックリ、バッタリしていることでは無論ない。大まかな中に気込みのみちているところが欲しいと思うのである。それでないと古狂言はしまらない、だらしのない観物になってしまうと思うのである。」(「演芸画報」昭和6年7月号 池田大伍 述)7月 金沢 尾山倶楽部※※石川県金沢市並木町にあった劇場で、明治30年3月に「稲荷座」として開場、その後「尾山座」「尾山倶楽部」、戦後は「第一劇場」「北国会館」「北国シネラマ会館」とたびたび改称し、昭和50年に閉館。「生写朝顔日記」深雪「ひらかな盛衰記 源太勘當の場」梶原源太景季〈人物評〉「片岡我童多くを語らない。大きな声を出さない。呵々大笑しない。喜怒哀楽をそうそう安売りしない片岡我童君は『冷たい』など云うのは岡目からの間違った見方である。愛息『ひとしさん』が其の家庭に於いて、つつましやかで、人形の着物を縫う。キチンと居間を片附けているのを折からの来客に見せて『まるで女の子見たいだんね』と慈悲に満ちた眼で、そのお父さん振りを見せる時、どうしてどうして片岡我童君は『あたたかい人』である事がよく解る。何事も實川延若君とまるで反対な行方をするところが何とも云えず面白いコントラストである。延若君がJOBKの近くの繁華なところにいる時、我童さんは六甲の山の上に時鳥を聴いているぼんやん(延若)が大勢の妓をあつめて、似声(こわいろ)をつかっている時、ぼんこ(我童)は一間に爪弾をしている時である。河内屋さん(延若)が、一人で駄目を出して、ひっかきまわすように稽古をしている時、松嶋屋さん(我童)は本台の隣りで、ジーッと台本を見つめて何も語らない時である。天星さん(延若の本名)が皮の洋服で押出す時、片岡さんはひとしさんをつれてソッと裏町を散歩する時である。正鴈(延若の俳名)子が洒落のめしている時、芦燕(我童の俳名)子は歌澤をやっている。コクメイに二人を対照するまでもない。こうした違った味をもっている。そうして三人の子供まである人とは見えぬ若さ。役者の家庭とは思えない程円満な六甲の山腹。何事にも深く溺れないこの人を客観して、『冷たい』と云うのではなかろうか、今一度考えてみる。ユエイを争うという事は我童君の一番嫌いな事である。『馬鹿ッ端手』なという事も亦我童君の一番嫌いな事である。『信仰』 それは片岡家とは放し得られぬ大きな『因縁』である。おおきな数珠をつまぐって、祖先の霊(みたま)の前に、南無妙法蓮華経と唱え終わると、三方四方の神仏に礼拝する、これは片岡仁左衛門氏(十一代目)と殆ど同じ型である。我童君のすべては此処から出立するのではなかろうか。イヤこう云うていると、実に情味のない人に聞こえるであろうが、什(ど)うして什うして、又、若い妓(おんな)のところへ…… そうして二人さし向かいの時…… イヤこれは故人西鶴にでもまかして置いて、私のような味のない筆では描きあらわす事が出来ない。我童君は『三味線』が上手だ、『長唄』がたくみだ、『義太夫』が堪能だ。そうして歌澤、常磐津、清元、行くとし可ならざるところなしと云う器用さである。だから歌劇をやる『三曲』を得意とする。ある時はチョボにまわったりする多方面さを持っている。私は考えた、我童君は芸の上に於(おい)てかく多方面であるによって、家庭とか平日とか云う上に於ては頗る狭く無口なのではあるまいか。正しく、二つの両端をもっている人こそ片岡我童君であると思う。我童さんはその賢明さを無口で包んでいる人である。『覇気』そうしたものを持っている筈の外見は偽りである。恐らくこの位『覇気』のある人は少ない。『気焔』の持合わせがないと思ふのはよそ目からのあやまった見方である。恐らくこの位『気焔』を吐く人は少ない。そこで、それが『邦劇座』になり『小邦劇座』になるのである。我童さんの本質を識ろうと思えば深くつきあわなくってはならない。それは誰でもがそうではあろうけれども、特に特にこの人はである。笑わないだけに怒らない、が恐らく我童君の怒った時ほど『シンラツ』なものはない。奥役諸氏など殆どよせつけぬ位怒ってしまう事がある。意外である。現代ほど物事があらわな時代はない。エロ、グロ、ナンセンスこのすべてが、あらわである。がひとりわが片岡我童君はあわらではない、つつましやかである。其中に針も含んでいる。綿もつつまれている。真向正面から『反対』する人では決してないだけに、若し『反対』の側に立った時の恐ろしさをもっている。片岡我童さんは決して、『正面』の人ではなく『横顔』の人である。『プロフィイル』即ち現代がよく用うるテクニックの人である。その横顔を見るのではなく、爾体その者が『横顔』なのである。ある意味に於て『皮肉』だとも云える。イヤ何だか拍子にのって、片岡我童論をやってしまった感じがある。新作が出来る、読む。『へ、エ』それだけである。気に入っているのか、気に入ってないのか、やるのか、やらないのか解らないがチャンチャンと急所急所を突いて行く。解りましたか。片岡我童さんのこれがすべてである。何度くりかえし、何度違った言葉を用いて見ても、結句は同じ事であるように、我童さんには変り目がない。エイ同じことを云ってしまった。ある時私はしみじみと我童さんと差向いになる事がある。私は何だか『兄さん』のように思われるほど親しみがわいてくる。『兄さん』なんて失礼かもしれないが、本当に『兄さん』という感じである。よし我童さんの方が私より歳が下であっても……恐らく、ひとしさんも、義直さんも慈愛なる『パパさん』として心からそのすべてを任していられることであろうと思う。『兄さん』よりもっともっと進んで私の『パパさん』と云えば、『何を云うのや』と珍しく怒られる事であろう。あやまりましたあやまりました。」(「演芸画報」昭和6年8月号『人の味 藝の味』 食満南北 述)8月 名古屋 御園座(15日〜19日) 「生写朝顔日記 見染より大井川まで」瞽女朝顔実は秋月娘深雪「ひらかな盛衰記 源太勘当の場」梶原源太景季「みだれ金春」大丸屋彦右衛門10月 明治座(2日初日)「伽羅先代萩」局八汐、細川勝元「戀湊博多諷」小松屋宗七「伽羅先代萩」細川勝元「戀湊博多諷」小松屋宗七「戀湊博多諷」左 我童の小松屋宗七、右 初代中村吉右衛門の毛剃九右衛門〈芸談〉「八汐は初役です、つい此間同じ顔ぶれの座で岩藤を勤めたばかりですから、そにつきはしないかと心配して居ります。高砂屋(三代目梅玉)が大阪風の『御殿』をやると云うので、向う風なら、同じ様なを見たこともあるのでお引受けしました。『勝元』は市村さん(十五代目市村羽左衛門)のを、この三月に東劇で拝見していますし、お付き合いしたこともありますので引き受けました。之は度々勤めた事があるので、大阪風が出はしまいかと思って心配しました。知っている丈に困るのです。どれも動きには大して変わりはありませんが、台詞には所々変わりがあります。あちらで『頼朝公より下されしお菓子』と云うのを東京(こちら)では『管領職より下されしお菓子』と云います。向うで『銀兵衛が妻八汐』と云うのを『仁木弾正が妹八汐』と云い、あちらで『鎌倉殿の問注所』と云うのがこちらでは『室町の問注所』になって居ります。大阪では『山名公山名公』と姓を呼びますが東京では「宗全公宗全公」と名を呼びます。あちら風にやるとツメル役だからせき込んで早く台詞を述べます。此方では間を持たせてゆっくりやらなければなりません。ダレてもかまわない位にゆっくりやるのですがまだ早過ぎるようです。昔は外記に薬湯を下さる所を、勝元が自身薬湯を持って出て来ましたが、此頃は一般に小姓に持たせて出るように改められました。『宗七』──九代目さん(九代目市川團十郎)の『毛剃』を明治(座)か歌舞伎(座)で見たことがあります。私自身は歌舞伎座で市村さんが病気した時、代わらせられました。その時の毛剃は高麗屋(七代目松本幸四郎)、小女郎は雀右衛門(三代目)さんでした。今度は『髪梳き』の件りまで余程省略されたようです。(後略)」(「演芸画報」昭和6年11月号 「大阪風と東京風」)〈劇評〉「此頃月々に、歌舞伎芝居の影が薄くなるように思われる。われ等、心細くもあるが、予て覚悟の前でもある。時勢は仕方がない。歌舞伎芝居の下手な役者が日増しに殖(ふ)える、歌舞伎芝居の分からぬ看物(けんぶつ)が日増しに殖える、そして日に増し歌舞伎芝居の嫌いな役者と看物とが殖えて行く。今更未練がましい事を言っても追っ付かない。(中略)一番目『伽羅先代萩』二幕(中略)、我童の八汐は、人柄(にん)が立派である、女形らしさ、歌舞伎らしさに於いては、誠に結構な八汐である。が、千松の蹴飛ばした菓子を、引っ込みの際にヒョイと拾うので事を壊す、落ちている物を気にするのが、松嶋屋風というのでもあるまい。勝元は、男前よく、調べのメリハリも悪くない。」『恋湊博多諷』「(前略)船で宗七の人形(みがわり)を舞台前へ投げるのが不評らしい、これは後へでも、又は全然(まるで)止しにしても好かった、今の世の中だ。我童の宗七は柄の好い割に、膨らみがなく、例の冷たさが邪魔になる。」(「演芸画報」昭和6年11月号 岡鬼太郎 述)11月 歌舞伎座(10月31日初日)「仮名手本忠臣蔵」足利左兵衛督直義「清盛と西光」多田蔵人行綱「仮名手本忠臣蔵」足利左兵衛督直義「清盛と西光」多田蔵人行綱〈芸談〉『清盛と西光』「(前略)何としても、セリフがよく分からない。動きや、表情や変化だけでは、よくのみ込めないので、全体にうける感銘がひどく散漫なものになりがちだ。作者(真山青果)独特の名セリフも、文章としては上乗のもので、巧妙な形容詞や、警句にはいつもながら敬服するが、それが、言葉となって聴かされると、割合に効果が薄くなる憾みがある。だから、原作を文章として読んで描いた幻想と、舞台から受ける印象とにギャップが出来るように思う。(中略)我童の行綱などは少しも感心することが出来なかった。十数年も前には、割にヒイキだった私も、こういう役を見ると嫌気がさして来た。第一、魂が入っていないし、それらしい人物になっていないではないか。」(「演芸画報」昭和6年12月号 水守亀之助 述)
2026.01.29

○昭和5年(1930年) 48歳1月 中座(2日~23日)「南部坂」後室瑤泉院「箙の梅」本三位中将重衡2月 浪花座(1日~25日)「国姓爺合戦」和藤内三官「釣女」太郎冠者 「桜をうづむ雪」姪お春「国姓爺合戦」和藤内三官「釣女」左 我童の太郎冠者、右 林長三郎(二代目林長又一郎)の醜女「桜をうづむ雪」姪お春〈見物評〉「二月の浪花座ではやっぱり国姓爺が一番面白かった。我童の和藤内はも一つぴったりせぬ憾みはあったが割合にいい出来で吾等は面白く見物した。紅流しの件は大体東京型によって居た。」(「演芸画報」昭和5年3月号 読者倶楽部)3月 名古屋 御園座(1日〜7日)「桜のもと」織田信方「梶原平三紅梅たづな」娘梢「釣女」太郎冠者「玩辞楼十二曲 椀久末松山」許嫁おさん「乗合船恵方萬歳」通人4月 京都座(1日~13日)・神戸劇場『花形大歌舞伎』「時鳥雲間月」浅間巴之丞「片岡十二集の内 堀川 与次郎猿廻しの場」猿曳与次郎「鎌倉三代記 絹川村閑居の場」三浦之介義村「さくら時雨」灰屋三郎兵衛、灰屋紹由「片岡十二集の内 堀川 与次郎猿廻しの場」猿曳与次郎「鎌倉三代記 絹川村閑居の場」三浦之介義村「さくら時雨」灰屋紹由〈新聞評〉「『さくら時雨』では我童が灰屋三郎兵衛と紹由の二役に扮し、老若二様の演出で見物を堪能させ……」(京都日出新聞 4.11)5月 天満 八千代座(7日初日)「通し狂言 敵討崇禅寺馬場」遠城治左衛門「近江源氏先陣館」佐々木盛綱「片岡十二集の内 大和橋 馬士斬の場」三七郎信孝「隅田川続俤」法界坊、しのぶ売おくみ実は法界坊亡霊「 敵討崇禅寺馬場」遠城治左衛門〈参考〉「関西劇団きっての分限者といわれていた高砂家の福助(三代目梅玉)が投機に手を出し、何十万円かの借金を背負い込み……、当分舞台から姿を消してしまわねばならない」(大阪毎日新聞5.23)6月 中座(1日~25日)「いろは新助」柴田三十郎「新歌舞伎十八番の内 大森彦七」楠家息女千早姫「いろは新助」柴田三十郎「新歌舞伎十八番の内 大森彦七」楠家息女千早姫※関西地方は夏に景気悪化のため、興行不興に陥る。8月 神戸 松竹劇場(1日初日)「通し狂言 東海道四谷怪談」お岩「敷島譚」曽我屋十三郎、傾城敷島、女房おたま(※二の替り 10日~16日)「伊勢音頭恋寝刃」福岡貢「敷島譚」傾城敷島「敷島譚」曽我屋十三郎「敷島譚」女房おたま10月 中座(4日~25日)「経島娘生贄」平宗盛「義経千本桜 釣瓶鮓屋」弥左衛門娘お里「義経千本桜 釣瓶鮓屋」弥左衛門娘お里〈劇評〉『釣瓶鮓屋』「十月の中座が、鴈福(鴈治郎、高砂屋福助)のいつもの一座へ、我童壽三郎が久々の加入、東京からは中車三津五郎が参加した大一座。役者本位の芝居の立て方が常例となった大阪では、寡頭芝居(少人数興行)はもう出来にくい情勢に立至っている。『組見(後援会の団体観劇)』制度に安全律が多いだけに、そして組見が算盤の基本を為しているから、大一座でないと芝居は打てない。組見偏重の結果は、フリ(個人)の客は客でない待遇、さらでだに歌舞伎に遠ざかる民衆は、いよいよ歌舞伎とは没交渉、それで特種階級が、今日の組見かというと、さにあらで、場内はお土産の山、慾と二人伴れの見物だ。役者の藝も落ちれば看物(けんぶつ)の眼も低下、『眼』のない客を前に、役者はのほほん也。(中略)『鮓屋』が一日狂言中の重点である。(中略)我童のお里が一等の出来、前半を思い切って蓮葉に、後半の弥左衛門と梶原との花道の間でも舞台に残ったお里と(浅尾)大吉の母お米とが、舞台を捨てずに空の舞台に仕事をしているのを褒める。お里が枕を持ち出すところでも袖に忍ばせた色気や、門口の件りで『お月さんもねねしてぢゃわいな』と、蓮葉に、色気があったのはいい。若葉の内侍が出て、お里のくどき、枕屏風で上手に維盛夫婦を囲い、行燈に前垂れをかけて、『……鮓屋の娘が惚れらりょうか』で、行燈を廻して灯影に維盛をヂッと見て顔見合わせて下手へ飛びのいて大泣きになく、──ここの手順と、娘心の淡い悔恨と嫉妬とが、色気に綯いまぜてよく出来た。我童最近の傑作だ。雀右衛門のここのお里に、尚一段のふくらみのあった事を思い出す。文五郎の人形では、ここでグッと突っ込んで維盛の膝をそとつめる科(こなし)があるが、これは人形だけに面白く効果を挙げる、ここを我童は行燈を引き明けて灯影を維盛の方へ射しているのが滅法情があっていい。が、ふくらみの足りないのを疵とする。」(「演芸画報」昭和5年11月号 石割松太郎 述)11月 京都座(1日~11日) 松島 八千代座(13日初日)「小笠原流礼忠孝」内田新蔵実は岡田良助「新舞踊 露」若き侍、玉菊「鈴木新内」鈴木新内(鶴賀新内)「敵討襤褸錦 大晏寺堤の場」春藤次郎右衛門〈新聞評〉『小笠原流礼忠孝』「この度は隼人の件を序幕に止めて他は良助中心に描かれ四幕に縮めてある。我童の良助は酒代を踏み潰して“一貫二百で人は切られねぇ”といっている程の極悪人にはなりきれない人間良助の心境を描写する工夫を凝らしている。この他大詰“柳ヶ浦水車小屋の場”は良助が悉く善人に立ち帰って、妻の仇とねらう漁師小平次(嵐橘三郎)に打たれてやる条の大立廻り数分間は、我童破天荒の意気込みで奮闘している。」(京都日出新聞 11.6)12月 神戸 松竹劇場(1日初日)「仮名手本忠臣蔵」早野勘平
2026.01.29

○昭和4年(1929年) 47歳1月 天満 八千代座(1日初日)「妹背山婦女庭訓 三笠山御殿の場」杉酒屋娘お三輪「春雨傘」大口屋治兵衛(暁雨)※二の替り(16日~)「鷓山姫捨松」息女中将姫同 中座(2日~28日)※掛け持ち出演「尾形光琳」内蔵之助妻お石2月 京都座(1日~12日)※3日は久邇宮葬儀のため休演『花形大歌舞伎』「五三桐真砂石川」此下藤吉「紙子仕立両面鑑 大文字屋の場」万屋助右衛門、番頭権八「京人形」小車太夫の人形「松平長七郎」松平長七郎「奥州安達原 三段目」貞任妻袖萩、桂中納言教氏卿実は安倍貞任「京人形」小車太夫の人形〈新聞評〉「『松平長七郎』は我童のため大森痴雪氏が書卸した異国情緒豊かな歌舞伎劇で……」(京都日出新聞 2.7)「我童の『大文字屋』の二役早替りなどが評判となって連日総見で賑わっているが、十二日で一先づ打ち上げ……」(同 2.12)※二の替り(15日~25日)「壺坂」女房お里「曾我綉俠客御所染」御所五郎蔵「お染久松 色読販」娘お染、丁稚久松、奥女中竹川、土手お六、言号娘お光、雷神、児守おつる「お染久松 色読販」上から、娘お染、丁稚久松、奥女中竹川、土手お六、言号娘お光、児守おつる3月 中座(2日~23日)「この花曾我」小林朝日奈「栗山大膳」愛妾お秀の方「この花曾我」小林朝日奈同 浪花座(4日~25日)※掛け持ち出演「ひらかな盛衰記 源太勘当の場」源太景季「唐人お吉」芸者お吉「ひらかな盛衰記 源太勘当の場」源太景季4月 弁天座(2日初日)「松平長七郎」松平長七郎「名工柿右衛門」酒井田柿右衛門「日吉丸稚桜 小牧山城中の場」木下藤吉、女房おまさ「桜ごよみ」藤里栄三郎同 二の替り(18日~25日)「松平長七郎(後篇)」松平長七郎「艶姿女舞衣 上塩町酒屋の場」茜屋半七、半七女房お園「吉野山 楠正行閑居」楠判官正行「近頃河原達引 堀川与次郎住家の場」猿曳与次郎「酔菩提悟道野晒」野晒悟助5月 浪花座(2日~23日)「桜のもと」織田信方「今様かしく」遊芸師六三郎「夏時雨清十郎塚」手代清十郎、娘お夏「桜のもと」織田信方「今様かしく」遊芸師六三郎6月 京都座(1日~12日)『新旧合同』「腰越」源九郎義経「さつき曾我」曾我十郎祐成「信州川中島 輝虎配膳の場」長尾弾正少弼輝虎「今様かしく」遊芸師六三郎「一節ぎり」白井権八〈新聞評〉「『信州川中島 輝虎配膳の場』は珍しい演しものだけに一般に高評だが、我童の長尾輝虎は十分の貫目を見せ……」(京都日出新聞 6.6)「『一節ぎり』は権八小紫の情話に新解説を下した大森痴雪氏の傑作、我童の権八は書卸し以来の専売ものだけに光っているが……」(同 6.9)同 名古屋 御園座(17日〜23日)❋新旧合同興行 「腰越」源九郎義経「さつき曽我」曽我十郎祐成「信州川中島 輝虎配膳の場」長尾弾正少弼輝虎「今様かしく」遊芸師六三郎「一節ぎり」白井権八8月 松島 八千代座(1日~10日)「道行旅路花聟 戸塚山中の場」早野勘平「仮名手本忠臣蔵 五・六段目」百姓与市兵衛、斧定九郎、早野勘平「生写朝顔日記 宿屋~大井川まで」瞽女朝顔実は秋月娘深雪9月 中座(1日~22日)「壇の浦」平知盛、次男小藤次「和田合戦女舞鶴」浅利与市義遠「うばたま双紙」片岡直次郎「うばたま双紙」左 我童の片岡直次郎、右 扇雀(二代目中村鴈治郎)の遊女三千歳〈見物評〉「『うばたま双紙』で我童丈がしきりに『片岡です、片岡です』と連発す。今度は梅幸丈が『加賀見山』でも出し『尾上です、尾上です』をやる?」10月 松島 八千代座(1日初日)「伽羅先代萩」乳人政岡、細川勝元「世話情浮名横櫛 雪の下玄冶店の場」向疵の与三前身伊豆屋与三郎「後の梅川」槌屋梅川「恋娘昔八丈 城木屋の場」城木屋庄兵衛、番頭丈八「恋娘昔八丈 城木屋の場」左 我童の番頭丈八、右 扇雀の娘おこま同 天満 八千代座(15日~25日)「五三桐真砂石川」饗応使此下東吉「片岡十二集の内 堀川」猿曳与次郎「泉岳寺の露」梶浦妻富江「信州川中島 輝虎配膳の場」長尾弾正少弼輝虎「五三桐真砂石川」饗応使此下東吉11月 神戸 松竹座「艶姿女舞衣 酒屋」茜屋半七、嫁おその「唐人お吉」お吉12月 角座(1日~16日)「堀部妙海尼」堀部娘お幸後に清浄庵主妙海尼「神霊矢口渡 頓兵衛住家の場」新田義峯、渡し守頓兵衛「接木根岸礎」倶利伽羅史郎太郎、根岸肥前守「廓文章」藤屋伊左衛門「接木根岸礎」根岸肥前守「廓文章」左 我童の藤屋伊左衛門、右 ひとし(十四代目片岡仁左衛門)の扇屋夕霧
2026.01.29

昭和3年(1928年) 46歳1月 神戸 八千代座※「奥州安達原 袖萩祭文の場」貞任の妻袖萩、桂中納言教氏実は安倍貞任「京人形」京人形小車太夫※神戸八千代座は湊川神社の前にあった芝居小屋で、昭和2年から4年、同19年から30年に松竹が借りて興行。昭和33年3月3日に閉鎖、同35年に廃座。「奥州安達原 袖萩祭文の場」我童の貞任の妻袖萩、左 片岡義直(二代目市村吉五郎の娘おきみ)「奥州安達原 袖萩祭文の場」桂中納言教氏実は安倍貞任同 名古屋 御園座(19日〜25日)「壺坂」女房お里「壇浦兜軍記 阿古屋三曲の場」「傾城大江山 綱館の場」渡辺綱「三人吉三巴白波」八百屋お七実はお嬢吉三2月 浪花座(3日~24日)「大岡政談 鈴川源十郎の巻」旗本次男諏訪栄三郎「後の梅川 新町越後屋内」槌屋梅川「さくら時雨」灰屋三郎兵衛、灰屋紹由「後の梅川 新町越後屋内」槌屋梅川「さくら時雨」灰屋紹由3月 浪花座(3日初日)「愛憎乱麻」勤王の浪士安藤鉄馬「傾城阿波の鳴門 玉造住家の場」女房おとく実は十郎兵衛妻お弓「信州川中島 輝虎配膳の場」長尾弾正少弼輝虎「御存知東男」旗本座光寺源三郎「信州川中島 輝虎配膳の場」長尾弾正少弼輝虎写真5月 中座(3日初日)「国分寺恋開眼」盗賊石川の沙弥麿「義経千本桜 下市釣瓶寿し屋」下男弥助実は三位中将維盛「春色梅暦」芸者仇吉「国分寺恋開眼」盗賊石川の沙弥麿〈劇評〉『国分寺恋開眼』「我童の沙弥麿は、新劇流の生々しさで、これも習作時代の生気潑溂か。」『義経千本桜』「我童の維盛は、男前は好し、調子は丁度持って来いなり、それに態(わざ)とらしい事をしないので、体にある役の有難さ、誠に結構な出来であるが、額に手を当ての件で、其の運びに六代に自分の額に手をやらせる註文は甚だ好くない。何う云う意味の場合にもせよ、親の頭へ手を上げる形を見ると、お育ちに似合わしからず、下衆に感じる。それにもう一廉(ひとかど)、陣羽織の裏の字を読む時、何の思い入れもなく、当然書いてあるべきものを読み始めるような簡単さは、些(ち)と粗雑(ぞんざい)。」『春色梅暦』「二番目には木村錦花氏脚色の『春色梅暦』三幕があるが、予(おのれ)は、十日も前からの風邪気分が、大分怪しくなって来たので、匆々宿へ引揚げて、可惜(あったら)ものを見ずじまい。と云うと、無理にお世辞を云うようだが、我童の仇吉、魁車の米八、徳三郎の政次、霞仙のお蝶、延若の丹次郎で梅暦と来ては、東京役者の紙治、梅忠以上の大世話物、到底(とて)熱冷ましにはなりそうもないと思って、宿へ引取りも致した事さ、人間何でも正直が好い。」(「演芸画報」昭和3年6月号 岡鬼太郎 述)6月 角座(3日初日)「時鳥雲間月」小笹巴之丞「壺坂」沢市女房お里「長崎の鶏」外町代官の倅村山徳太郎 教名アンデレヤス「冥途の飛脚」亀屋忠兵衛「延命院秘事」延命院日當 前名丑之助二の替り(21日~27日)「曽我綉侠御所染」御所五郎蔵「延命院秘事」延命院日當「曽我綉侠御所染」御所五郎蔵〈劇評〉『壺坂』「中幕は右團次、我童で見せる『壺坂』。(中略)ふたりとも演(や)ることに熱が足りない。殊にお里の我童が、相手の肝心の台詞を聞き流しに、自分の科介(しぐさ)にのみ掛かってるのは心無いことだ。それがこの役柄をいよいよ冷たいものにした。」『長崎の鶏』「二番目の大森痴雪氏作『長崎の鶏』はかつて本誌(『演芸画報』大正14年11月、12月号)に載った新作。(中略)父と、恋する女とを捨てても信仰に生きんとする代官の倅、徳太郎は我童だが、どうもその挙動が吉利支丹宗徒よりは、社会主義者の方に近い。」『冥途の飛脚』「我童の忠兵衛は延若ほど放蕩児らしくはないが、いかにも正直なだけ短気な、興奮すると何のわきまえもなくなって了いそうな人間にピッタリ嵌まっている。ただ梅川に対する愛情の灼熱的の現れがないのは甚だ物足りない。これは我童の持つ大きな欠点で、恐らく先天的なものではないかと思う。」『延命院秘事』「『延命院秘事』は行友李風氏の新作。(中略)日當が堕落の経路を焦点として二幕五場で通俗的に纏めている。(中略)折角、新生涯に這入った日當が急転して、以前の役者丑之助に変わる所が見せ場である。我童は其処を相当にやっていたが、危うくベランメエになろうとする処もないではなかった。」(「演芸画報」昭和3年7月号)9月 神戸八千代座「箱根霊験躄仇討」飯沼勝五郎「後の梅川」槌屋梅川「延命院秘事」延命院日當「箱根霊験躄仇討」飯沼勝五郎同 南座(9日~18日)狂言と配役は神戸八千代座に同じ〈新聞評〉『後の梅川』「忠兵衛処刑後の梅川の環境や心理を描写した一幕物で、我童の梅川、寿三郎の八右衛門で巧い味を出す」(京都日出新聞 9.14)同 名古屋 御園座(20日〜26日)「箱根霊験躄仇討」飯沼勝五郎「義経千本桜 寿しやの場」いがみの権太「後の梅川 」槌屋梅川「延命院秘事」延命院日当 前名尾上丑之助10月 中座(1日~22日)「一條大蔵譚」常盤御前「お国と五平」遠藤の後家お国「九十九折(つづらおり)」吉井作左衛門「一條大蔵譚」常盤御前〈劇評〉『一條大蔵譚』「道具は立派で仰々しく、しかも時代の歌舞伎風でなく、と云って故実穿鑿の写実でもなく、役々の衣裳と共に、出たとこ勝負の活歴擬(まが)い、褒めて云えば、新旧の華を抜萃したるもの、お世辞なしに云えば、歌舞伎芝居の出たらめである。東京にも年中ある事だが、大阪では殊に酷い。(中略)我童の常盤、十二単でない半ちくな扮装(こしらえ)は、お附合かとも思われる故、是非なしとして、美しくもあり、芝居道の所謂色気もあって結構の方である。」『お国と五平』「新作と冠らせて、谷崎(潤一郎)氏の『お国と五平』一幕。(中略)今時分こんな事を云っても始まらぬが、作者が勝手に拵えた人物の名前を、脚本や小説の標題に附けるのは、余りにサバサバし過ぎて何の事やら分からない。下手な彫塑の題名見たようなのも感心しないが、こう超然としたのも詰まらない。流行らせたくないものだ。我童のお国は、いつもの冷ややかさが少なく、常盤同様綺麗でもあり、色気もありで、案外の上出来であるが、五平と唯ならぬ関係のあるが為の色模様の科(しぐさ)が、早くから見え過ぎる。底の割れると云ふことは別にしても、見えなくて好い場合に見せる嫌いがある。二人の間の色気を見せるには、足の肉刺(まめ)の手当の件と云う、お誂えの場面がある。先年帝劇で演(や)った折にも、予(おのれ)には此の肉刺の件で、男にも女にも色気のないのが不満であったが、今度も然うだ。処で、此の狂言の大事な筋の中に、お国と五平が仇を討って帰れば、若党の五平が士(さむらい)に出世する、然うしたならば、良人にして楽しく暮らそうと、お国も極めれば、他の二人も然うなるに極めている台詞があるが、良人の敵討ちに出た女が、国へ帰って、其の時の供の下男を二度の良人に直すなどは、随分遣りッ放しな御家中と思われて、三人の言っている事が、余りに向こう見ずに馬鹿馬鹿しく聞こえる、が、一般にはそれが何とも思われぬらしいと、帝劇の時から予は首を傾げている。」(「演芸画報」昭和3年11月号 岡鬼太郎 述)11月 天満 八千代座(1日~11日)「松平長七郎」松平長七郎「弁天娘女男白浪 浜松矢店先の場」早瀬の娘お浪実は弁天小僧菊之助「安宅関」富樫之助家直「奥州安達原 環宮明御殿の場」貞任妻袖萩、桂中納言教氏実は安倍貞任
2026.01.29

藤原定家自筆の“字”を見たくて、三井記念美術館の「国宝 熊野御幸記と藤原定家の書─茶道具・かるた・歌仙絵とともに─」展に行く。「熊野御幸記」とは藤原定家の日記「明月記」のなかの、建仁元年(1201年)十月五日から二十七日にかけて行はれた後鳥羽上皇の熊野参詣に随行した際の記録部分で、のちに崇拝者たちから“定家様”と崇められ模倣される独特な字体で、下書き原稿のやうに綴られた文からは、いちいち讀めずとも貴人を超えた一人の人間の旅路における姿が生々しく浮かび上がり、用意の巻紙が足りなくなって一月二十日の條の途中から裏側にしたためたに至っては、(※展示物の撮影一部可)一千年以上前の人がすぐそばにゐる人のやうな親しみすら覺ゆ。藤原定家はこの時四十歳、當時としては老境に入るかと云ふ年齢で、もとより体が丈夫でなかったこの歌人は随行中は体がもつか心配になり、案の定十六日から十九日の参詣中は最惡な体調であったが落伍することなく二十七日に帰京、それからさらに四十年の長壽の保って子孫の冷泉家へとつなげたのだから、(※案内チラシより)歌仙となるほどの人にはやはり、何かしらの靈力が備はってゐるのだらう。
2026.01.28

昭和2年(1927年) 45歳1月 中座(2日~23日)「関ヶ原」黒田長政「浄瑠璃 青海波」殿「嫗山姥(しゃべりやまんば)」萩の屋八重桐「嫗山姥(しゃべりやまんば)」萩の屋八重桐2月 松島 八千代座(1日~13日)「松平長七郎」松平長七郎「新版歌祭文 野崎村の場」油屋娘お染「有馬猫」有馬中務太夫頼億後に雪斎公、召使お仲、怪猫3月 南座(10日~17日)「寿曾我対面」工藤左衛門祐経「義経千本桜」いがみの権太郎、九郎判官義経(河連御殿)「新版歌祭文 野崎村の場」油屋娘おそめ「■今度はじめてお仲間入りをさせて頂きます。私も大の松嶋屋党です。あの美しい顔、しおらしい目元、そしてあの台詞を廻しが大好きです。諸遊芸に上達して居られるには誠に感心の外御座いません。そして舞台もなかなか熱心です、何と云っても関西の花形です。記者様我童の写真を集め、その経歴を記した──たとえば舞台のおもかげ──と云った書物は御座いますまいか何とぞ御教え下さい○お尋ねのものは出てをりません。『舞台のおもかげ』は九冊出ていますが、松嶋屋のはまだ発行になりません。」(「演芸画報」昭和2年4月号 読者倶楽部)「寿曾我対面」工藤左衛門祐経「新版歌祭文 野崎村の場」油屋娘おそめ4月 浪花座(1日~22日)『十代目片岡仁左衛門三十三回忌追善興行』「彦山権現誓助剱 毛谷村」おその「十代目片岡仁左衛門追善狂言 小楠公」楠帯刀正行「都一中」板倉屋娘お文実は三中娘お鶴※十代目仁左衛門命日の四月十五日、我童が施主となり中寺町薬王寺にて、午前十時から十二時まで三十三回忌法要を営む(大阪毎日新聞 4.16)5月 博多 大博劇場「寿曾我対面」曾我十郎6月 歌舞伎座(1日~25日)「伊賀越道中双六 沼津」呉服屋重兵衛9月 南座(1日~16日)「馬士地嶽」田代屋幸次郎「木村長門守」木村長門守重成〈新聞評〉「『木村長門守』血判取は我童十八番の至芸で、大胆な舞台を見せ……」(京都日出新聞 9.6)10月 天満 八千代座(1日~10日)「木曾川治水記」幕府大目付牧野織部「紙子仕立両面鑑 本町大文字屋内」万屋助右衛門、番頭権八「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は秋月娘深雪「所作事 粂仙人」粂仙人〈観客評〉「四月の追善劇以来久しく顔を見なかった我童さん、今度天満八千代座へ出るとのこと、早速待ちきれないで初日を見物、やっぱり花形ですわね。一寸姿を見ると松嶋屋、松嶋屋とすばらしい人気です。朝顔はとてもよろしゅう御座いましたわ。琴歌の声、あの姿、そしてあの顔をほんとうに美しいと思いました。あの舞台の熱演ぶり、すっかり汗になって働いて居られました。」(「演芸画報」昭和2年11月号 読者倶楽部)同 名古屋 新守座(13日〜18日 )「木曽川治水記」幕府大目付牧野織部「片岡十二集の内 近頃河原達引」猿曳与次郎「奥州安達原」女房袖萩、桂中納言教氏実は安倍貞任「粂の仙人」粂仙人11月 中座(1日初日)『東西合同大歌舞伎』「絵本太功記 広徳寺より尼ヶ崎まで」真柴筑前守久吉、真柴久吉実は浅野弥市「越後獅子」角兵衛獅子「廓文章」扇屋夕霧太夫〈観客評〉「霜月の中座へ大好きな我童様を見に二日目母と参りました。広徳寺の久吉も良かったが、夕霧の美しかった事、松嶋屋式の芸とあでやかな美しい顔に引きつけられました。古風な品ある顔は丁度豊国絵から抜け出した様と形容致します。他の優に御座いませんネ。芸風と云い、天下一品目下関西第一の花形よ……」(「演芸画報」昭和2年12月号 読者倶楽部)12月 南座(1日~16日)『吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎』「尾形光琳」内蔵之助妻お石「平家蟹」那須与五郎宗春「龍巻」尾島吉三郎常春「絵本太功記 尼ヶ崎の場」真柴筑前守久吉「玩辞楼十二曲の内 藤十郎の恋」切波千寿「絵本太功記 尼ヶ崎の場」真柴筑前守久吉
2026.01.28

大正15年(1926年)昭和元年(12月25日~31日) 44歳1月 中座(1日~23日)「大石良雄」赤垣源蔵「あじろ舟」松本謙三郎「後面恋の仙人」粂仙人2月 弁天座(2日初日)「夜討曾我狩場曙」更科津守之助「傾城自来也」神子宝子実は自来也「妹背山婦女庭訓」杉坂屋お三輪「赤垣源蔵」赤垣源蔵「妹背山婦女庭訓」杉坂屋お三輪3月 名古屋 御園座(1日〜8日)「難波戦記余聞 堪忍袋」木村長門守重成「菅原伝授手習鑑 寺子屋の場」武部源蔵「鷓山姫捨松 中将姫雪責の場」豊成息女中将姫「腰越」九郎判官義経「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は秋月娘深雪同 二の替り(10日〜16日)「奴の小万」奥女中小万のちに奴の小万「和田合戦女舞鶴 市若初陣の場」浅利与市義遠「妹背山女庭訓」杉酒屋娘お三輪「赤穂義士 赤垣源蔵」赤垣源蔵同 三の替り(18日〜24日) 「由縁助六」黒手組助六実は戸沢助六「源平魁躑躅」折子小萩実は無官太夫敦盛「有馬猫」有馬中務太夫頼億、侍女松島・小姓秀之進・召使お仲実は怪猫4月 弁天座(2日初日)「双蝶々曲輪日記」山崎屋与五郎「時鳥雲間月」愛妾時鳥、雪枝小織之助「春雨傘」大口屋暁雨5月 南座(1日初日)「和田合戦女舞鶴」浅利与市「椀屋久兵衛」椀屋久兵衛「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は深雪6月 浪花座(1日初日)「宇都宮番匠建前」大工与四郎、井伊掃部頭「壇浦兜軍記 白川の問注所」遊君阿古屋「仇討煩悩」画師鐘斎実は青柳十蔵「宇都宮番匠建前」右 我童の大工与四郎、左 扇雀(二代目中村鴈治郎)の娘お米「壇浦兜軍記 白川の問注所」遊君阿古屋「仇討煩悩」画師鐘斎実は青柳十蔵7月 山口、博多、熊本、長崎、下関、広島巡業「木村長門守 茶臼山の血判取」木村長門守8月 神戸 松竹劇場(5日初日)『劇場新築記念興行 東西花形合同大歌舞伎』「堀部妙海尼」梶浦富江「木村重成 茶臼山の血判取」木村長門守重成10月 歌舞伎座(1日~25日)「細川忠興の妻」お千代の方「寿の門松」女房おきく11月 歌舞伎座(10月31日~11月24日)『東西合同顔見世』戦前の三代目歌舞伎座「蘆屋道満大内鑑」安倍保名、与勘平「蘆屋道満大内鑑」右 我童の安倍保名、中央 市村太郎の安倍童子、右 福助(三代目中村梅玉)の葛の葉12月 豊橋 東雲座 刈谷 大黒座 瀬戸 歌舞伎座 名古屋 新守座(11日~17日)柿葺落興行 「御目見得だんまり 八曽ヶ嶺幽谿の山廟」天道山の張本富貴太郎守建「伽羅先代萩 御殿より床下まで」乳人政岡、仁木弾正直則「敵討襤褸錦 大和大晏寺堤の場」高市武右衛門「所作事 蔦絲蜘蛛振舞」源頼光「壺坂」女房お里「人形師」弟子八之丞〈新守座評〉「平場一円均一、特等二円八十銭という、従来の入場料に比較して約半額の大勉強が評判となり、市内はもとより郡部、近県地方より泊まり掛けの観客多く、連日大入り満員」(新愛知12.16)※12月25日、大正天皇崩御、摂政裕仁親王が践祚し、「昭和」と改元
2026.01.28

○大正13年(1924) 42歳1月 名古屋 末廣座(1月26日〜2月1日)「関白秀次」関白秀次公「片岡十二集の内 紙子仕立両面鑑 大文字屋の場」妹お松「名工柿右衛門」柿右衛門妹娘おたね3月 浪花座(6日~26日)「闇争 多武峰深山の場」遊君朝渚実は千葉翠之助胤春「新時代劇 真如」近藤源次郎「人形師」弟子八之丞「新版歌祭文 野崎村の場」丁稚久松4月 本郷座(12日~)『東西合同歌舞伎』「絵本太功記 尼ヶ崎」武智十次郎「箙の梅」平重衡「卑怯者」源蔵の妻おたか「近頃河原達引 堀川」井筒屋伝兵衞6月 赤坂 演伎座※※溜池にあった劇場、一興行限りの松竹提携興行、大正14年焼失「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は深雪「一條大蔵譚」常盤御前「松平長七郎」松平長七郎「一條大蔵譚」常盤御前7月~8 月 名古屋 御園座(7月24日~29日) 浜松 歌舞伎座 松坂 松坂座 巡演『東西合同大歌舞伎』「赤穂誠忠 義臣録」萱野三平重次、大石妻およし〈役者評〉「片岡我童志はあまりあるかは知らねど、腕の伴わないと云う感じを持たせるのは我童の舞台である、男前はいい、新派の中に飛び込んで叩き合った勇気もある、だが尖りがある、人好きの悪い所がある、割合に色気が無いのはその故であろう。すッとしたのを穿(は)き違える傾向が無いでもない、江戸ッ子がって、べ……らんめいを振廻しそうな点を気を付けて貰いたい。」(「演芸画報」大正13年9月号 “俳優の長所短所”より 山崎紫紅述)9月 中座(4日~25日)『新旧東西合同劇 喜多村緑郎加入』「落下無情」おるいの方「実説 美代吉殺し」吉田屋新吉10月 名古屋 歌舞伎座(11 日〜19日)「伽羅先代萩」乳人政岡「粋菩提悟道野晒」野晒悟助「奥州安達原 袖萩祭文の場」貞任妻袖萩、中納言教氏実は安倍貞任「松平長七郎」松平長七郎11月 南座(10月31日~11月13日)「塩原経済鑑」道連れ小平「廓文章」藤屋伊左衛門12月 浪花座(2日~16日)『新旧合同』「曾我譚(そがものがたり)」曾我十郎祐成「廓文章」藤屋伊左衛門〈役者評 “稽古場における大阪俳優”〉「片岡我童本台の隣へ坐る、ジロリジロリと台本を隣から覗き込む、小さな声で、『そこの台詞は人を置くさかい消しといて』直接に本台にあつらえる、口のうちで何をいうているのか解らぬ声で『どうとやら、何うとやら……』とブツブツ読む。読んでいるかと思えば鉛筆で書抜を消して行く。又ブツブツと読んで、暫く黙っている。『そこへ出ずと置くわけには行かんか?』また直接隣りと交渉をはじめる。『ヘイ、そうだんな』大きな声で言う時は決して『そうだ』と判然とした答えをせぬ。我童、少なくとも稽古場に於ける我童は補捉し能わざる曲者である。しかしこの不得要領らしい内にヅンヅン自分の処だけは要領を得て行く。そうして我童は稽古場では決して笑わぬ男である。」(「演芸画報」大正13年12月号 本庄駄以述)○大正14年(1925年) 43歳1月 弁天座(1日~18日)「五三桐真砂石川」此下東吉「艶姿女舞衣」茜屋半七、嫁お園「乗合船恵方萬歳」萬歳盧太夫「明烏恋初夢」おうら後に山名屋浦里二の替(22日~)「四千両銀杏合紋」燗酒売富蔵「蔦糸蜘蛛振舞」源伊予守頼光「有馬猫」有馬中務大夫頼億、召使お仲、怪猫〈芸信〉「初芝居の弁天座では我童と右團治これに老優の荒五郎を配し東京から来ている紋三郎を加えて東西合同歌舞伎昼夜二部興行とあって大入りつづき、昼の部の『五三桐』で右團治が亡父齋入の十八番をその儘、葛籠ぬけの五右衛門の宙釣、驚き騒ぐ大名共を花道の虚空遥かの処から、『馬鹿奴』と大喝して引込む、又夜の部では紋三郎の『河内山』が例の引込みに『馬鹿奴』、田舎者の見物がオッ魂消(たまげ)て『もし何だこないに二度迄も叱られまんね』松竹では歌舞伎役者を弁天座へ入れてこうした二部興行をやることは昨年荒太郎、右團治一座を皮切りに次はこの一座へ新升(市川新升)を入れて又一興行、つづいて今年の新春には右團治と我童、いづれも大阪に珍しとあって大入り大当たり、福助(高砂屋)までが『私もやって見たいと思うてます』と云い出す位、ある人が松竹の白井社長に『弁天座は大入りつづきで結構です、人の噂によるとこの為めは松島の八千代座が影響するですな』と云ったところ白井社長の曰く『そんなことおまへんやろ、第一お客が違いまんがな』、社長のお言葉だが弁天座のお客がそんなに上品なお客ばかりかしらん』」(「演芸画報」大正14年2月号 “上方芸界打明話” 長池春永述)2月 神戸 松竹劇場(1日~)「五三桐真砂石川」此下東吉「艶姿女舞衣」茜屋半七、嫁お園「乗合船恵方萬歳」萬歳盧太夫「四千両銀杏合紋」燗酒売富蔵「蔦糸蜘蛛振舞」源伊予守頼光2月 名古屋 御園座(18日〜25日)「五三桐真砂石川」此下當吉郎久吉「艶姿女舞衣 酒屋の場」茜屋半七、嫁おその「乗合船恵方萬歳」萬歳蘆太夫「四千両銀杏合紋」燗酒売富蔵3月 角座(1日~16日)「敵討天下茶屋聚」人形師幸右衛門「由縁助六」黒手組助六実は戸沢助六「敷島譚」三崎屋女房お玉、傾城敷島、藤代屋十三郎〈芸評〉「仁左衛門にだんだんよく似てくるのは好いことやら悪いことやら知らぬが我童君、弥生の角座二部興行で『由縁の助六』という凄まじい珍劇を家芸だと号してやっています。宜しくあって長男一(ひとし)が口上に現れ『この助六は七代目片岡仁左衛門がやりましたそうで御座ります』とか何とか述べ終って下手の格子の方を向き、『御連中、どうかお始めなすって下さいまし』という、これは驚いた、何時の間に東京から河東連中を呼んで来たのかと思えば唄い出す常磐津の助六、なるほど常磐津連中というから“御連中”と云えるかも知れぬがいくら子どもだって無茶を云う、さて花道から現れました我童の助六そうじて本物と大差なく、意休が鳥居新左衛門に変わっているだけ、返しになると水入りと同じ拵えで新左衛門と立廻り、洗い張りカケツギの流行る当節、黒手組助六と十人並の助六とのごった位には驚かぬが、『松嶋屋の家芸』とは好い度胸、門地なり、ソッポなり、芸も物によっては相当にこなせる腕もある我童君がこんな物を家芸などと云っているのには全く春寒い気がしてならない。」(「演芸画報」大正14年4月号 “浪花芸界風聞記” 長池春永述)4月 南座(1日~16日)「片岡十二集の内 近頃河原達引」猿廻し与次郎「四千両銀杏合紋」野州の富蔵「四千両銀杏合紋」野州の富蔵5月 神戸 松竹劇場(1日~)「赤穂義士伝」勝田新左衛門、大石内蔵之助6月 浪花座(1日~22日)「兵学山鹿流」細川備後「お艶殺し」駿河屋娘お艶後に蔦屋染吉「腰越」九郎判官源義経「新作 故郷」娘お京9月 浪花座(1日~22日)「敵討女編笠」駒井志津馬「桂川連理柵 帯屋」帯屋長右衛門「煩悩帳」近江屋伝次郎10月 弁天座(1日~14日)「伽羅先代萩」仁木弾正直則「紙子仕立両面鑑 大文字屋」万屋助右衛門、番頭権八「大蛇退治」素戔嗚尊「鬼一法眼三略巻 菊畑」奴虎蔵実は牛若丸「時雨の炬燵 紙治内」紙屋治兵衛「弁天娘女男白浪 浜松屋店先」早瀬娘お浪実は弁天小僧菊之助二の替(17日~27日)「花廓稲妻草紙」名古屋山三元春「小町お静 業平礼三 小磯ヶ原」奥州屋礼三「一国女」愛妾一国女「壺坂」盲人沢市同 名古屋 新守座(10月31日〜11月7日)「裏表伊達の聞書」仁木弾正「紙子仕立両面鑑 大文字屋内」万屋助右衛門「鬼一法眼三略巻 菊畑の場」虎蔵実は牛若丸「椀屋久兵衛」椀屋久兵衛11月 名古屋 新守座(8日~14日)『大阪大歌舞伎』「濡燕廓稲妻」名古屋山三元春「鏡山旧錦絵」召使おはつ※十一代目仁左衛門、千代之助(十三代目仁左衛門)父子、十一月の歌舞伎座の演し物について松竹大谷社長と意見が衝突したことから松竹脱退を決意し、大阪の八千代興行の吉田社長が経営する松島八千代座への出勤を表明す。(京都日出新聞10.24)12月 弁天座(1日~16日)「通し狂言 仮名手本忠臣蔵 足利家表門より一力茶屋まで」早野勘平「お染久松 色読販」丁稚久松、油屋娘おそめ、狂女お光、土手のお六、雷神、児守娘おつる
2026.01.28

大正11年(1922年) 40歳1月 天満 八千代座(1日初日) 改築開場式「寿式三番叟」翁「開業祝 御目見得 千代春金峰顔揃 吉野山鎧ヶ岳の場」編笠武士東三郎実は佐竹左馬頭義敦「妹背山婦女庭訓 三笠山御殿の場」娘お三輪「曾我」禅司坊実永「三日月」三日月女房おきく、小車源次2月 南座(4日初日)「高浪八郎」高浪八郎「艶姿女舞衣」茜屋半七、お園「一節ぎり」白井権八「粂の仙人」粂仙人※26日15時30分、二代目市川段四郎死去同 名古屋 末廣座(19日~25日)※狂言、配役とも南座に同じ3月 本郷座(3日初日)「本朝廿四孝 桔梗原・勘介内(荀堀り)」百姓慈悲蔵実は直江山城守「生命」お澄「梅川忠兵衛 冥土の飛脚」亀屋忠兵衛〈劇評〉『本朝廿四孝』「(前略)中車の横蔵、我童の慈悲蔵、ちと年が違いすぎる感じがしたが、兎に角大目に見たら綺麗で、型通りの着付とこなし、対比した色の動揺で目を喜ばせた。但し慈悲蔵が始めに竹の子を取れと云われる所、不審と困却の思入れがあるべき所、幕切れの右の手の出し方も短く見えた。」『冥土の飛脚』「我童の忠兵衛、大阪系の柔味にどこか癇性の見える所まずその人に似あわしかった。これは紙治と違い、田舎出という所は見せずとも好いが、『元来悪い蟲』もちで、『短気は損気』が時々見えねばならぬ筈で、例の二枚目式では不十分である。始めの出着流しであったのは後に羽織を着るからであろうが、『酒も三つ四つ五所もん羽二重も出ずいらず、無地の丸つば象がんの』とあるのがよそ行きの凡てであるから、それに依る方がよかろう。下女を弄する所女馴れた所が見えた。八右衛門に頼む所は『これを思えば世の中にお仕置者の絶えぬも道理、此上は忠兵衛も盗みしょうより外は無し男の口からか様の事云りょうものか推量あれ』の台詞を略した為もあり、も一つ、剣を吐く苦しさが足りなかった。鬼とも組まん八右衛門がほろりとする位故もっと腹の底から、泣くより深い真実を見せねばならぬ。西横堀は走って出たが、『出馴れし足の癖になり心は北へゆくゆくと思いながらも身は南』とあるから、走らずと急ぎ足で、しかも足元はうかうかと、気は空でゆきたかった。花道で羽織を落とす所は自然で好い形になり、後に心づいて取り上げて着る引込みは好かった。茶屋場の出は下手から急ぎ足、ここはもっと人目を忍んで走りつく方が好い。「八右衛門」といふ所好い意気込み、しかし激して云うかと思うと一転して柔らかに砕けた所が二三度あったが、そんな余裕のある筈は無い、あれからは逆上し切って、梅川の口説にも落ち着かずいよいよ錯乱の体で、段々せきこみ、『いとしや何も知らずか』で砕けて弱くなる方が引き立つ。梅川が驚くのをきっかけに二人柱をまわって一寸見得になったのは効果があった。引込はやはり女の手を引いて、手には力を入れ、目は夢中で、足は空を飛ぶ心地に入る方が好かろう。この役は一層近松の原本を研究して、文句を標準に微細に工夫したら、今後もこの人の当り役の一になるであろう。」(「演芸画報」大正11年4月号 高安月郊 評)4月 横浜劇場(1日初日)「妹背山婦女庭訓」お三輪「艶容女舞衣」茜屋半七、女房お園「一節ぎり」白井権八※9日に劇場が出火損傷、横浜座へ移転し興行を続ける(「松竹百年史」より)5月 本郷座(16日初日)「聚楽の夢」関白秀次「大石山科閑居」大石妻およし「新舞踊 露」酒に酔うた若き侍「加茂川堤の殺人」吉蔵情婦お峰「加茂川堤の殺人」吉蔵情婦お峰〈劇評〉『聚楽の夢』「池田大伍氏作『聚楽の夢』は四幕物の大物の史劇である。(中略)作者はこの作の意図を説明して、秀吉と秀次との二つの性格の思想感情の相違が醸し出した悲劇であると云い、又、秀次が元来伝えられるような暴君ではなかったが、より偉大な性格の秀吉から圧迫されて、ああいう風に反れた、歪んだ性格の男になった──「新演芸」五月号──と云っている。着眼は大へん面白いと思うが舞台で見たところでは、そういう深い味わいは出ていなかった。(中略)舞台に現れた秀次は、どうもただの駄々っ子で、胸に不平不満を抱いている人らしくは見えなかった。(中略)ただの駄々っ子が、道楽半分に何かいたづらでもしているようで一向つまらなかった。秀次が英邁の資を持ちながら、それを周囲の事情から十分に発揮することが出来ず、そのためにその捌け口を暴逆の道に向けるということであってこそ、秀次が悲劇の主人公として、性格的にも境遇的にも多大の同情をかち得るのであろうが(中略)、これには我童氏の秀次に恐らく大部分の責任がある。氏の芸風は──これは定評であるらしいが──、一体に冷たく情熱に燃えるというパッショネートなところがない、底に情熱を蔵していて表面が冷静だというのならまだよいが、表面はもとより、底にも情熱がなさそうに見えるのが我童氏の芸風の一つの特色である。だから秀次のように不満と懊悩とに身悶えするような深刻な人間には我童氏は始めから適しなかったというべきであろう。ただ、冷ややかな、一寸皮肉な味わいの演所(しどころ)──例えば三幕目大仏殿の場で、木村常陸介の切腹したというのをきいて彼奴も主を取り損なったかと云って冷ややかに嘲笑するあたりには、やはりいい味わいもあった。とは云え、全体としては、ただの駄々っ子で、深刻な人間の面影はどこにもなかった。」『加茂川堤の殺人』「(前略)成瀬無極氏の作を舞台の上ではじめて見ること、近来ほとんど劇壇で沈黙を守っている松居松葉氏が、久し振りの舞台監督をするということと、新劇に理解をもつ点では、『春秋座』の牛耳たる猿之助(※二代目)と、『邦劇座』の頭目たる我童とが、どんなにおもしろい芝居を見せてくれるか(中略)──源太という労働者(※猿之助)とその妹のお加代(※二代目松蔦)は、穢多の生まれだというので世間からひどい迫害をうけているが、源太はこの労働者という階級からの差別、穢多という因襲からの差別の『目に見えない厚い壁』を毀すことを、生涯の仕事としている。源太を兄分としている吉蔵という労働者(※寿美蔵=七代目寿海)はお加代と恋に落ちているが、お峰(※我童)という情婦に呪われた影のように取り憑かれていて身動きもできず、お加代もろとも常に苦しめられている──この二つの事実がこの劇の経であり緯である。(中略)我童がお峰を、艶っぽい妖婦タイプで行こうとしたのは、自分を派手に見せる算段であろうが考えものだ。お峰は単にぐうたらな淫婦であるべきであると思う。『賢さ』『強さ』を示すのではなくて、『愚かさ』『弱さ』を示すべきであると思う。見物に憎まれる役でなくて、お加代とは別の意味で見物に同情されねばならぬ役だろうと思う。ここを我童は一つの色敵の心持ちだけでやったのは面白くなかった。吉蔵に惚れて病死した亭主の跡始末もしないでただ一途に男の跡を追う自棄的な、やるせない、それこそ『避くべからざるもの』をその性格の上に見せてくれねばならなかったのだ。それを我童は嫉妬と怨恨の罵声を放つだけで見せようとしたのは、いかにも食い足りなかった。しかし峠茶屋で下手から出て、家内をうかがい吉蔵とお加代の話声に思わず洋傘(こうもり)を持ちかえる科(しぐさ)だけで、嫉妬の心を見せたのは流石である。眉を剃って大丸髷の好みもいい。吉蔵を捕まえて泣いたり笑ったりする科も巧みだ。」(「演芸画報」大正11年6月号)6月 本郷座(5日初日)「日本戦史 賤ケ岳」柴田室小谷の方「菅原伝授手習鑑 賀の祝」舎人桜丸7月 新富座(7日初日)「村岡局」近衛公「梅雨小袖昔八丈」手代忠七「梅雨小袖昔八丈」左 我童の手代忠七、右 十五代目市村羽左衛門の髪結新三〈劇評 三宅周太郎評〉『梅雨小袖昔八丈』「我童の忠七(中略)、これは元来無理と云えば無理ではある。しかし、それにしても序幕の店先へ出て来ると、いきなり、はっと驚く。ぬき足、さし足をする。格子に手をかける。忠七が立聞きをしているのだぞと見物に目や耳をそばたたせる。──と云うように舞台が新三もどきになるのが悪い。いわゆる舞台の行儀が悪いのが困る。(中略)我童は元来無理な役と譲歩しても、そういう欠点には一層困る。それに襦袢の襟が色変わりのもになっているのも寧ろ常識がない。頭、着附など悪い事づくめである。」〈本人談〉「涼しい感じということは、一二年前に聞かれたことがありましたが、人によってその感じのいろいろあることでありましょうが、私としては夏の芝居の舞台なら、すっかり汗をかいて引っ込み、一風呂浴びて来て、鏡台の前へ坐った刹那の心持ちが一番涼しい思いですと、繰り返すより外はないのです。」(“俳優涼感”より)(「演芸画報」大正11年8月号)9月 明治座(5日初日)「釣天井」大工弟子与四郎「絵本太功記」武智十次郎光義「謎帯一寸徳兵衛」琴浦10月 浪花座(4日初日)「指鬘縁起」マヤ婦人「露」若き侍、玉菊「現代劇 地震」豊吉「椀久末松山」椀屋久兵衛11月 中座(5日~26日)「聚楽の栄華」侍女お万実は不破万作「新作 人非人(ひとでなし)」ある町人の徳三郎12月 浪花座(2日~17日)「一谷嫩軍記 檀特山より陣屋迄」無官太夫敦盛実は熊谷小次郎直家「艶容女舞衣 酒屋」茜屋半七、嫁お園同 『邦劇座 第三回公演』(19日~21日)「歌劇 鴈風呂」旅人実は鴈の精「穴居時代」若者フツル「湊屋兄弟」湊屋清太郎〈劇評 大西利夫 評〉「邦劇座が第三回目の公演を了(おわ)った。いろいろな世評はきくが、兎にも角にも関西の俳優が起こした唯一の新劇座である。複雑な事情の纏綿する、しかも有力な真面目な後援者に乏しい関西劇壇で、押しつまった極月の末を意ともせず公演の旗をあげた我童の勇気、否、その熱心さは大いに買ってやらねばなるまい。ただ遺憾とする所は第一回公演より第二回の方が真面目な努力に欠けているようであり、今度の第三回目は、第二回に比しては勝っていたが、なお第一回に及ばなかったようである。(中略)つまり皆の芸が第一回に比してうまくなり過ぎているようだ。皆が各自に持っている芸術を、能う限り十分発揮しようとしている努力は認められるが、それは要するに大過なきを期しているだけである。脱線や考え過ぎや、思い違いをするものもない代わりには、そこに素朴な、荒削りな、粗野な、ほんとうの自然の味というものがない。皆が皆までとはいわないが、全斑を通じて、如何にも職業的な俳優らしい態度と表現をもって、すべてを楽々と演出している。従って全体にはよく纏まっているが、熱がない。鋭さがない。力と強さに乏しい。既に自分のものになっている芸術を、特に十分発揮するがためにこうした劇団が組織されているのならば、それは全く無意義である。こうした劇団に真に意義のある事は、普通興行ではやらない、否やる事の出来ない芸術を発揮することである。俳優が各自苦しみ悶(もが)きつつ新しく創作したあるものを、こうした機会に研究的に発表する事である。私は次の邦劇座第四回公演のために特にこうした分かりきった苦言を呈して置く。(中略)舞踊家としての我童はまだ世間で左程認められていないようだ。我童にはかなり自信もあって、普通興行でも度々演ずる事ではあるが、大して世評にも上らぬようである。実際この人の舞踊には未だ十分熟しきれぬ所があるように思われる。しかし私はその将来に可なり望みをかけている。未熟らしく見えるのは恐らくこの人が帰趨の方向を誤っているか、若しくは迷っている結果ではあるまいかと思われる。この人の舞踊は女になると妙に堅く熟さない所があるが、男になると非常に柔らかな味が出る。他の舞踊家にありがちな、徒らに軽快である事や、角ばった直線的な変化で見た目の面白さを誇張するのでなく、常にふっくりとした、円い曲線ですべてが和やかに、流れるように進行する。ただこの人の特徴として、熱に欠けていることは大きな欠点ではあるが一方ではまた、それに伴って、他の舞踊家に真似の出来ない味が出るようである。この人がもっと真実(ほんとう)に自分を理解し研究を進めたら、将来たしかに一種変わった味の舞踊家として、立派に完成するだろうと思う。(後略)」(「演芸画報」大正12年2月号)
2026.01.28

○大正12年(1923年) 41歳1月 神戸 中央劇場(1日~4日※) 名古屋 末廣座(12日~19日)「黄鳥墳」非人栄三郎実は佐々木源之助「伽羅先代萩 政岡忠義の場」乳人政岡「廓文章」藤屋伊左衛門※5日、神戸中央劇場は火災により焼失(「松竹百年史」)、12日より名古屋末廣座にて興行再開。「一座は『神戸の中央劇場から焼き出され』来名した」(名古屋新聞1.14)2月 神戸 聚楽館「吉田御殿鹿子振袖」後室天寿院「奥州安達原」安倍貞任「椀屋久兵衛」椀屋久兵衛4月 高松 大和座 鳥取 戎座「椀屋久兵衛」椀屋久兵衛5月 角座(4日~20日)「伽羅先代萩」乳人政岡「伊賀越道中双六 沼津」呉服屋重兵衛「奥州安達原」桂中納言教氏実は安倍貞任、瞽女袖萩「与話情浮名横櫛」向疵の与三実は伊豆屋与三郎二の替(24日~6月10日)「片岡十二集の内 堀川」猿曳与次郎「酔菩提悟道野晒」俠客野晒悟助「武士と馬子」神崎与五郎則安「酔菩提悟道野晒」俠客野晒悟助6月 角座(14日~27日)「奴の小万」小万「勧善懲悪孝子誉」紙屑屋善吉「松平長七郎」松平長七郎7月 角座(1日~15日)「片岡十二集の内 鰻谷」古手屋八郎兵衛「大石東下り」正親町家臣立花左近「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は秋月娘深雪二の替(18日~27日)「堀部安兵衛の伝」浅野内匠頭長矩「国訛嫩笈摺 どんどろ大師」女房お弓「絵本太功記 尼ヶ崎」武智十次郎光慶「怪談濡小袖月暈」召使おきつ、おきつの靈、翠の茂兵衛※9月1日11時59分、関東大震災発生「(前略)この外浅草公園六区を中心としてそこにある御園座観音劇場や常盤座、金龍館、十二階劇場、帝京座──公園劇場は澤正一座の賭博事件で休場中──、宮戸座、御園座などの各劇場を始め三友館、富士館、帝国館、松竹館、日本館、電気館、萬盛館、キネマ倶楽部等の各活動写真館並びに花屋敷、昆虫館、江川玉乗り等の各興行物に至るまで朔日という物日を書入れで何処も平日よりは開場準備を早め、出盛る人を待っていた際の震災とて場所柄大騒ぎを演じたが、土地の一名物である彼の十二階が半ばから挫折して多くの死人を出したも一惨事であった。恁(こ)うして以前の火災の為め復活工事半ばであった歌舞伎座を始め、新富明治本郷の五大劇場を持つ松竹の損害額総高は実に一千万円に及び(中略)、帝劇は既に復活工事に着手し本夏六月頃までには竣成の予定であり、(※建設中に被災した三代目歌舞伎座)(※炎上する帝劇の様子を伝える絵葉書、ただし炎は後から描き足したものであり、凄惨さを際立たせるためにこうした作為がよく行なわれた)歌舞伎座もその頃に落成の見込みで、新富明治本郷各座も五六月頃仮設工事を終わり、市村座も四月竣工の上、菊五郎一座の本興行は六月に花々しく開演する予定である。(※完全に崩壊した新富座跡)(※同じく明治座跡)代々木にある歌右衛門吉右衛門の邸宅は火災を免れたが、梅幸は住居を焼かれて蔵が助かり、その他左團次、幸四郎、宗十郎、友右衛門、松助、猿之助、八百蔵、亀蔵、鶴蔵、左升、新十郎、芝鶴、長十郎、權十郎、三升、新之助、羽左衛門、仁左衛門(中略)等は皆焼き出されて、着のみ着のままという惨めな姿になったのが少なくない。劇界の全滅! それは劇場が皆焼失したからではない。演劇そのもの対しては、最も重大な任務を有するものに衣裳や大道具、小道具やそれと鬘屋という皆特殊の業を専門とするものである。それらがまた揃いも揃って焼失した。よしや俳優そのものがいかに健在であってもオイソレと演劇が出来ないのはこれ等も一つの原因であらねばならぬ。」(「演芸画報」大正13年1月号 “震災当時の帝都演劇界”より)11月、12月 南座(10月31日~11月14日) 御園座(15日~21日) 広島 寿座 博多 大博劇場 巡演「増補・信長記」中納言惟房卿「壇浦兜軍記」遊君阿古屋「今様薩摩歌」富士屋おきた
2026.01.28

○大正10年(1921年) 39歳1月 中座(4日~25日)「鳳翼」娘村路「神霊矢口渡」娘お舟2月 南座(1日初日)「妹背山婦女庭訓」お三輪「腰越」源義経「操三番叟」翁「三人吉三巴白浪」お嬢吉三「妹背山婦女庭訓」お三輪3月 中座(3日~22日)「太平記忠臣講釈」岡野金右衛門「千利休」娘お吟「柳橋夜話」小静4月 歌舞伎座(2日~26日)「仮名手本忠臣蔵 三段目から七段目」桃井若狭之助、顔世御前、千崎弥五郎「鴉舞鷺娘」料理人勘左衛門〈川尻清潭・遠藤為春による二人評〉『仮名手本忠臣蔵』「清潭 歌舞伎座の四月興行に『仮名手本忠臣蔵』にしたのは、格別意味のあることではなく、お花見がてら地方から出て来るお客様を引き寄せようと云うのに外ならない趣向なのです。為春 それは仰せの通り。(中略)為春 我童の若狭之助、私は見ませんが仁左衛門(十一代目)の若狭之助というものは非常に好いもんだそうで、無論それに基づいたのでしょうが、出たところ品もあって結構です。花道で肩を脱ぎかけて止して極まるなどは少し臭い。こんな余裕はありますまい。舞台で坐って師直に犬侍だのと長々しい件りを演っていますが、東京の人には、まだるっこい。(中略)清潭 我童の顔世御前が口紅を濃く塗っているなぞもいけません。また科(しぐさ)の上にも大ぶ品位を欠いた点があります。(中略)清潭 我童の弥五郎、本人としては慎んで東京の型に従って勤めているようですが、ちょっと壺が外れています。勘平の切腹を腕組みをして見ているなぞは甚だ宜しくありません。(中略)清潭 今回の『忠臣蔵』に就いても二三の大頭を除くのほかはガッタリ落ちがしています。どうか若い役者達は奮励一番して貰いたく思います。二三の老名優は如何に尊い技芸を持っていても、この先五年を経過すれば、役どころによっては出来ない事になります。その時になって残った役者が巧くなければ大歌舞伎の舞台の値打ちに係わります。今の若い人は近き将来に歌舞伎座の舞台を背負って立たなければならない責任があるのですから、幾重にも勉強を希います。同時に興行主に於いても新しい役者を育てて行く方針を取って貰う事は勿論、役者自身は先輩の名優の世にあるうち進んで教えを受けて舞台に苦労をしなければなりません。」(「演芸画報」大正10年5月号)5月 歌舞伎座(1日~25日)「寿門松」吾妻※6日より市村羽左衛門短期休演、「菅原伝授手習鑑」奴宅内、桜丸、「大徳寺」秀吉、「恋湊博多諷」小松屋宗七を代演する(歌舞伎座百年史)。同 明治座(5日~)※掛け持ち出演「増補 朝顔日記」深雪6月 新富座(3日~)「ひらかな盛衰記 逆櫓」お筆「淀君集の内 醍醐の春」北政所「伊勢音頭恋寝刃」福岡貢〈劇評〉『逆櫓』「段四郎の權四郎と我童のお筆とは、役は新鮮であるけれども、その役から来る刺戟はちっとも新鮮ではない。(中略)我童になると、あれで当人気を入れて演(し)てゐるのか何うかと疑われる位、声にも気組にも何の徹底した解釈を表現していない。見ていながら私は頻りに死んだ菊次郎(三代目尾上菊次郎)の事を考えた。菊次郎のお筆は、少し世話の味が勝ってはいたが、心持ちは自然に貫いていた。槌松が殺されたという事を、云いだしかねてうぢうぢする所なぞ、私の見た日の我童では、まったく見物が退屈してしまう。」(「演芸画報」大正10年7月号 小宮豊隆 評)7月 新富座(5日初日)「会稽曾我」大磯の虎、曾我の團三郎「慈(おんあい)鎌倉合戦」絵合姫「慈(おんあい)鎌倉合戦」右 我童の絵合姫、中央 七代目市川中車の安東入道聖秀 左 五代目中村福助の脇屋次郎義助〈劇評〉『会稽曾我』「一番目の『会稽曾我』では、脚色に活歴の影響があるのが悪い。一層原作に却(つ)いて時代物風な脚色にするか、或いは全く原作を離れて史劇風に脚色するか、いづれかであるべき筈だ。所が、櫻痴居士(福地櫻痴)の脚色では遂に活歴物の範囲を出ていない。(中略)我童の團三郎は立廻りが珍である外、案外見答えがある。」『慈鎌倉合戦』「我童の絵合姫は、姿形情味申分がない。」(「演芸画報」大正10年8月号 三宅周太郎 評)8月 朝鮮巡業6日 京城(現ソウル)に到着、芸妓約100人に出迎えられる。京城劇場こけら落し興行、我童、嘉昇、松壽、樂三郎、一(十三代目我童)、荒五郎、巌暁、荒市郎、卯多三郎、巌笑ら120名出演12日 「夏祭浪花鑑」「木村長門守 茶臼山血判取」「源平布引瀧」「後面萩玉川粂仙人」15日 「伊賀越道中双六」「実録先代萩 御殿の場」「三勝半七 艶姿女舞衣 酒屋の場」「戻り駕」9月 引き続き朝鮮巡業『大阪歌舞伎 我童荒五郎巌笑合同大一座』7日 京城到着8日 「有職鎌倉山」「阿波鳴門 どんどろ大師の場」「神霊矢口渡」※17時頃、満員札止メ11日~13日 「仮名手本忠臣蔵 大序~四段目」「奥州安達原 袖萩祭文の場」「梅川忠兵衛 恋飛脚大和往来 封印切の場」14日 大邱(テグ)へ移動15日~16日 大邱座18日~21日 釜山で興行(※研究論文「植民地朝鮮における歌舞伎公演の実態─『京城日報』の記事を手掛かりに─」金志善、鹿倉由衣 参考)10月 新富座(5日初日)「松平長七郎」松平長七郎〈我童論〉「(前略)今の我童はその血統(十代目仁左衛門)では無いが、血縁であるとの事、何様先代より体は小さいが、顔の長い所、神経過敏を包んでいる鷹揚な所、好く似ている。先代の不意の死で我當が仁左衛門と改め(十一代目)、その家の芸として八陣の船の場を出した時、姫になった頃から覚えているが、それからは主に若女形か若衆役であった、先代は若い時そんな役をしたか知らぬが見ぬから分からぬ、後余り女役をせず、また体のこなしの堅い所を思うと、主に立役であったと見える、されば朝顔日記でも阿曾次郎の方であったが、今のは朝顔を得意にする、それだけの相違がある。しかしその後忠兵衛や、貢もやる、今にその役々に迫って行くであろう、片岡の伝統は争われぬほど備わっている、先代に比較すると余程柔らかいのは女形を勤めつけた為か、しかしどこまでも奴隷的の昔の女にしては、底に屈せぬ自我が見える。そこに現代式の女に適した所がある。立役になっても和(やわらか)い中にしゃんとした所がある。そこが延若系と違い、先代や仁左衛門に共通した所で、も一つ底力がつけば好い。艶は先代より多い様である、鴈治郎式に粘着的では無く、しかも大阪式華奢型である、そのうちに自我の強い所が見える、それも片岡系に共通で、今の延若と違うのはあれほどの体から出る精力の強味を欠く代わりに、自主の気性から出る負けぬ気に細くても折れぬ竹の様な所が見える。されば矢張りワキや女房役者で無く、シテ役者である、女を勤めてもシテになる方である、そして矢張り旧型より新物で活きなければならぬ人である、それもこうと定(き)まっていはせぬが、先が見えぬ事も無い、ただ方針を誤らぬ注意が肝要で、それは先代より男女両面に行けるだけ自由であるが、それに共通する特色を濃くし、八代目以来の伝統の和味(やわらかみ)を現代の潮流に洗って洋臭や、野臭に染まず、大阪に伝わる平民的高貴の気風を存するのが何よりこの人に望ましい。東京では消えつつある風雅の趣味を蓄え、それを新しくして浅薄に流れず、技巧に凝っても小細工に失せず、自然的でも上滑りせず、調子の抑揚を魂の底から出して役々の性根に徹したら、それがその伝統に活かせて更に自分の特色を展(の)ばす訳である。」(「演芸画報」大正10年11月号)11月 浪花座(5日~26日)「大久保彦左衛門」徳川家光公「腰越」源義経「薪荷雪間の市川」山樵「一節ぎり」白井権八「鬼一法眼三略巻 菊畑」笠原淡海12月 浪花座(4日~19日)「改修 桐一葉」木村長門守重成、甲奴実は佐々成政「壇浦兜軍記」遊君阿古屋「艶姿女舞衣」嫁お園「不思議な仇討」妻お妙同 『邦劇座 第二回公演』(24日~25日)「現代劇 みぞれ笹」雪子の姉冬吉「歌劇 忠度」薩摩守忠度「世話劇 淀屋辰五郎」淀屋辰五郎〈本人談〉「『新しい芝居。』この頃そうした事に熱中しています。『邦劇座』まだ一回やったぎりですが、東京でももう一度、それから大阪でも二回三回とやってみたいと思うてます。『大森さん(大森痴雪)』が万事に後援してくれられますから、是非近いうちにやって見たいと考えています。私は芝居という事より外にあんまり何も考えていませぬ、子供もこの頃は二人あますが、三味線や、義太夫や、踊りや、そんなものを習わせています、一代を劇に、そうして献身的にやるつもりです、元来片岡家は斯道でも古いですから、いつまでも劇界に名をなしたいというのが理想なので……。それで東京に永住しようと思うて木挽町に家をこしらえました、それから共楽園(※大阪市住吉区帝塚山)にも一軒建てて居ます、これは芝居の休み中、其処へ行って新しい本(脚本)でも研究しようという考えなので、その外に私には何にもありません。二人の子供の大きなるのを楽しんでいます、どうやら兄の方は女形、弟の方は立役になりそうです、二人に私の両面を授けて行きたいと思うています。それにこの頃はあんまり外へは出ませぬ、大抵内で三味線を弾いたり、子供に義太夫を教えています。弟子のちんちり(※片岡ちんちり、子役)がよく遊びに来ますから、子供はそれと遊んでいます。叔父(十一代目仁左衛門)と一緒で非常に信仰心が厚いので、朝は仏様と神様にかかりはてています、元来法華宗で、それもよっぽど堅い方なのですから……。(中略)片岡家は外の俳優衆の家庭にくらべるとやや素人らしい風が家憲のようになっています。母のいた頃などは全く地味なものでした、いま愛之助さん(※四代目片岡愛之助)ところへ嫁入っている妹のお今などでもそうした風に育てられています。『素人風』というのが、父からの憲法で『十二代目』の私もやはりそういう風にやって行きたいと思うています。一切の書く事には勝彦輔君がいてくれます。それで、脚本などもよく読んで貰います。芝居道に立ったからは、やはり芝居道で身を終わらなければなりますまい。『天職』かもしれません。私は酒もすこしはのみます、遊びにも行かない事はありません、しかしそれが一切地味という方でしょう。今私の考えていることが相当に芝居を離れた全く別なものは何もありません。三味線を弾くのも芝居の為めです、義太夫をやるのも芝居の為めです、子供を教育するのも芝居の為めです。『東京』『大阪』『共楽園』の三ヶ所に家を持っているのも芝居の為めです、片岡我童から芝居というものをひいて仕舞うたら一切空になって了います。ひょっとすると遊びに行くのも、旅行するのも趣味人というよりはこの『芝居のため』という事に帰着して仕舞うかもしれません。ですから買ってある本なども自分勝手なものは一つも無いわけです。『東京の諸文士』にもいろいろお願いしてあります、私の身体(からだ)で出来る、『新作』を願ってあります、大森さんはすでに私の為めにいろいろ描いて下さいました、『松平長七郎』『一國女』『一節ぎり』『お艶ごろし』『南地心中』まだいろいろあります、『邦劇座』の為めにもいろいろの新作をやりもし研究もしています。もし私の日常生活はといえば、『芝居のための生活』というより外ありますまい。もし私の趣味はといえば、『芝居』というより外ありますまい。もし私の嗜好といえば、やはり『芝居』というお答えより外にありますまい。家庭もそうです、日常もそうです、忘れているのは深く眠りに落ちた時だけでしょう。こんなに思っている『恋人』のために面白く働いています、決して私には『不足』がありません。『邦劇座』も何時もやりたいといふ外、私には今の処新しい望みはありません、仏様の前でもそれを願っています、神様の前でもそれを願っています、御先祖の前でもそれを誓っています、御見物の前でも、諸先生の前でも、お仕打ちの前でも、家内中の前でも、そうして御贔屓の皆様の前では猶更にそう誓約しています。それに私はどんな役でもやりたいのです、役の上のすききらいはありません。たとえば先代(※先代萩)が出るにしても『男之助』『政岡』『仁木』『八汐』『外記左衛門』『勝元』『頼兼』『嘉藤太』『沖の井』これを皆やりたいのです、尤も外記左衛門はまだですが外の物は大抵手に掛けています。それで自分の急所というようなのも識らぬではありませんが、『深く研究したい』というのが私のすべてなのです。芝居をやっている時ほど自分で愉快な事は外にはありますまい。殊に『新作』を研究してやる時は天へも登る心地です、どうか、新作のよろしいものがありましたら、私の為めに御紹介して戴きたいものです、こうお話しているうちにも、自らの心は燃え立つようです。『芝居の為め』私は一生をそれにゆだねて仕舞うつもりです、甚だ失礼しました。」(「演芸画報」大正11年1月号 “東西花形役者の日常生活”より)
2026.01.28

○大正8年(1919年) 37歳1月 歌舞伎座(5日初日)「有難御江戸景清」和田妹朝日「烈女初子」橋本善左衛門「義経千本桜 釣瓶鮓屋の場」すし屋弥助実は維盛「桜時雨」遊客世の助「寿曾我春駒」曾我月夜野「義経千本桜 釣瓶鮓屋の場」左 我童のすし屋弥助実は維盛、右 三代目中村雀右衛門の娘お里2月 横浜座(1日初日)「島の女」島の女おうた「奥州安達原 環宮御殿袖萩祭文の場」謙仗娘袖萩「歌舞伎十八番の内 矢の根」曾我十郎「近頃河原達引」猿廻し与次郎「廓文章」藤屋伊左衛門〈劇評〉『島の女』「この脚本は、もと有楽座で女優を養成したときに旗揚げ興行に使ったもので、その後京都でも松竹(まつたけ)の手で、その組の女優が演じた。今回が三度目である。(中略)我童の島の女おうたは、軽い役ではあるが、当人は非常に気を入れてやっていた。例のせりふ癖で、その意味が徹(とお)らない恐れもありましたが、大概は聞こえなくても差し支えない位の意味でしたから、大して難はありません。色気を十分に見せさえしたら、この役はいいのですから、あれで沢山でありましょう。」『奥州安達原』「我童の袖萩は朝顔にならないだけ、それだけ出来が悪いという難しい上出来。」『矢の根』「我童の十郎、(中略)どうやら借り物にてお江戸向きでない。」『近頃河原達引』「我童の与次郎、叔父さんうつしもいいが、利根な人に見え過ぎ、あとの『伊左衛門(廓文章)』とは、同じ片岡家のものでも大して出来が違った。」(「演芸画報」大正8年2月号 山崎紫紅評)同 名古屋 帝国座(15日~21日)『新築披露大歌舞伎』「だんまり」盗賊夜叉五郎「扇的西海硯」島の女おうた「奥州安達原 袖萩祭文の場」傔杖娘袖萩「近頃河原達引」猿廻し与次郎「夕霧伊左衛門 廓文章」藤屋伊左衛門3月 中座(4日~25日)『十代目片岡仁左衛門追善興行』「業平河内通」妻紅梅「松平長七郎」松平長七郎「壺坂」女房お里「桜時雨」女房おとく、傾城吉野太夫〈劇評〉『桜時雨』「我童のおとくは品と沈着とで優っています。太夫としての間はもう一つ人を引き付ける力がないが、世話女房になってからはまづ及第の資格をもった出来と云って好いでしょう。殊に良人思いの情と、以前の家業が茶を点てる袖口からちょいちょいと溢れるところなどは、この優近来の出来と思いました。」4月 南座(2日~16日)「天一坊大岡政談」感応院弟子法沢後に徳川天一坊、池田大助「お才と巳之助」船宿の富蔵、妹お才5月 長崎 南座『南座開場式興行』「松平長七郎」松平長七郎7月 浪花座(8日~29日)「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は秋月娘深雪「葡萄の酒」萩原新三郎「心中刃は氷の朔日」平野屋小かん「三人生酔」松坂屋島三郎「生写朝顔日記」右 我童の秋月娘深雪、左 三代目梅玉の阿曽次郎9月 明治座(2日初日) 「箱根霊験躄仇討」飯沼勝五郎「近頃河原達引」猿廻し与次郎「長崎土産唐人話」佐賀良和泉之助10月 歌舞伎座(9月29日初日)「桐一葉」片桐妻一葉の前、太閤実は石田三成「艶容女舞衣」美濃屋三勝「忠臣連理の鉢植」小間物屋弥七実は千崎弥五郎「桐一葉」石田三成「艶容女舞衣」美濃屋三勝「忠臣連理の鉢植」小間物屋弥七実は千崎弥五郎「忠臣連理の鉢植」左 我童の小間物屋弥七実は千崎弥五郎、右 三代目坂東秀調の愛妾お蘭の方11月 明治座(5日初日)「傀儡船」傀儡の長小三月、尼御台所「平家女護島」丹左衛門尉元康「傀儡船」傀儡の長小三月同 歌舞伎座(1日~25日)※掛け持ち出演「俠客御所五郎蔵」傾城さつき12月 帝国劇場(1日初日)「騎兵隊」家老那志摩「松平長七郎」松平長七郎「京人形」京人形「松平長七郎」松平長七郎「京人形」京人形
2026.01.28

○大正9年(1920年) 38歳1月 歌舞伎座(7日初日)「護国女太平記」愛妾五の丸「船打込橋間白浪」松五郎女房お咲「船打込橋間白浪」松五郎女房お咲2月 横浜座(4日初日)「修禅寺物語」源左金吾頼家「桜鍔恨鮫鞘」古手屋八郎兵衛「桜鍔恨鮫鞘」右 我童の古手屋八郎兵衛、左 片岡一(十四代目片岡仁左衛門)の娘お半4月 歌舞伎座(1日初日)「伽羅先代萩」足利頼兼、局沖の井「都一中」板倉屋娘おふみ実は都三中娘お鶴「羽衣」漁師伯了「伽羅先代萩」足利頼兼〈劇評(川尻清潭・遠藤為春合評)〉『伽羅先代萩』「清潭 (前略)今度の頼兼の我童を評して見れば、拵えはこの狂言の約束通り紫地に金絲で竹の伊達縫、棒茶筅に紫の置袱紗ですが、飾元結に總(ふさ)が下がって居るのが大阪好みです。為春 それと下着(つけ)は大抵東京では白ですが、今度は浅黄です。これが大阪好みでしょう。それに着附は團十郎は黒でしたが若い人は大抵紫地に竹の伊達模様を用います。尤も菊五郎(五代目)は藤色の好みでした。清潭 これは紫が本格です。それと伽羅木履は今度チャンネル鼻緒がすげてありますが、これは白が本格です。為春 私もそれはそうと思います。清潭 最初花道から駕籠屋が出ると、黒装束の侍が提灯を切って落とす。駕籠屋が逃げて入る。侍が左右から駕籠の中へ刀を衝き入れる。手応えがないので垂れを上げて見る。頼兼がいない。ここで駕籠の後ろへ頼兼がぬっと立って扇子で両人を打って駕籠に寄り掛かって極まるまでは在来の型通りでしたが、一向に酔態の見えないのと、大間の味のないのが欠点だと思います。為春 器量と云い柄と云い実に当代無比の頼兼役者ですが、今云った通りの欠点はたしかにあります。それと一体に立廻りの間(あいだ)が荒いように思うし、例の欄干に掛かってのお約束の見得なぞは甚だしく線が硬(こわ)いようです。清潭 そこが詰まり味のないとこで、細かい籠手先ばかり利いて鷹揚な態度が少なかったのを惜しみます。たとえば侍に肩を揉ませる処、蹴投げた木履を持参させる処なぞに就いて大間な興味を殺ぎました。それに欄干へ寄り掛かる処も古い型で行くと、侍に刀で足を追われて跟(つ)けながら橋の親柱へ身を支えて其の刀を踏んまえ、塵を払うように扇子で煽ぐのが紋切り型ですが、今度は万事に於いて古い型が閑却されておりましたが、これは我童を責める訳ではありません。むしろ立師の責任でしょう。こういう極ったものは我等に於ては崩さない事を望みます。為春 序(ついで)に云いますが、その木履をわざわざ黒装束が脱がせるのは可笑しい。」清潭 昔はこの木履を拾う官蔵が、匂いを嗅いで伽羅木履を利かした可笑しみの科(しぐさ)があったものです。(後略)」5月 中座(6日初日)「長恨歌」楊貴妃「ひらかな盛衰記 逆櫓」侍女お筆「いろは新助」許嫁娘おりく「ひらかな盛衰記 逆櫓」侍女お筆〈本人談〉「今日私が楽しみとしているのは、舞台より外にはないのです。それというのは専心芝居を新しく研究して演(や)ろうという念慮(おもい)より外にはないのです。ですから種々(いろいろ)の脚本を読むのが何よりの楽しみで、この秋の大阪で是非とも自分の理想的な芝居を演って見たいと思っているのです。(中略)先頃大阪と帝劇とで私共が出した『松平長七郎』などが、ちょっと手始めになったような工合で、(中略)その節は何分御援助を願いたく、今日は私のこれが唯一の道楽といっては語弊ですが、これよりほか考えはないのです。」(「演芸画報」大正9年6月号)※5月19日、開幕寸前の13時20分に廻舞台下の高圧電気スイッチ室より発火、すでに入場していた観客は大混乱になったが、奈落の天井裏を焼いただけで、14時過ぎに鎮火、但し19日は臨時休業とした。(大阪毎日新聞・大阪朝日新聞5.20)7月 中座(10日~30日)「青嵐露夏菊」衣笠靫負之助「国宝 一切経由来」妾お波後に貞運尼9月 中座(2日~23日)「木下蔭狭間合戦」左枝犬清「生命(いのち)」お澄「鴈翼恋秋月」金江金五郎〈「大阪現在の女形」より〉「非常に美しい顔をもったそうしてパッとした花やかさをもった片岡我童はやはり大阪の女形として立つ人であろう。我童には亭主がない、延若でなく、鴈治郎でなく、多見蔵でもない。どうも我童は一人歩行(ひとりあるき)をする女である。それは情の人ではないからである、浮気らしいからである。『朝顔日記』の深雪はとうとう亭主に逢わぬ。『お艶ころし』のお艶もまたどれが亭主か解らない。『一國女』に至ってはあの通りの我儘である。我童は全く一人歩行の女である、娘でもなく、妻でもなく、妾でもない、それだけ我童の飛行する天地は広い。我童はセンチメンタルでない、そこが花やかな処であろう。我童は今新しく進もう進もうとあせって居る、よい事である、願わくば女形の新天地を開いて貰いたい。『お才巳之助』のお才『楊貴妃』の楊貴妃『一切経の由来』貞運尼、かなり彼は新しいものに手をつけて居る。しかし女形はかたちではない。もっともっと、深く深くその心持ちを掴まねばならぬ。我童の声に恐ろしく冷やかな音がふくまれて居る。あのきれいな声のあんな風に聞こえるべき筈がない。これは努力も修養すれば全く変わった正反対な結果が生まれるかも知れない。我童からこの点をのぞけば、我童は非常に恐ろしい女形になるであろう。すでに先天的に女形に生まれついて居る我童は、ただ一つこの闇(くら)い影を葬って仕舞わなければならない。これはその尤も得意とする深雪にまでもつけてまわって居る呪いである。我童が将来やるもののなかなかには、吉井勇氏の「髑髏尼」もよかろう、鴎外氏の「静」もよかろう、谷崎潤一郎氏の「法性寺物語」もよかろう、高安月郊氏の「祇園の百合」もよかろう、まだまだ我童には将来がある。一日も早く邦劇座の開演を祈って置く。」(「演芸画報」大正9年10月号)10月 神戸 中央劇場(3日初日)「艶容女舞衣」茜屋半七、嫁お園、宮城十内「松平長七郎」松平長七郎「伊勢音頭恋寝刃」福岡貢12月 浪花座『邦劇座 第一回公演』(11月30日~12月2日)※純日本歌劇を標榜した自主公演「小野頼風」小野頼風「袋の女」メヅウサの女「椀屋久兵衛」椀屋久兵衛「小野頼風」小野頼風〈挨拶〉「何ものに捉われない自由な心持ちでたとえ一時でも一生懸命な芝居をすることが出来れば、どれほど幸福だか知れないと、斯う常々願って居りました。邦劇座がやっと成立いたしまして、皆様の御引立のもとに公演致すことと相成りました。僅か三日間の初演ではございますが、斯様な研究の上から、乏しい我等の技芸の上に又新境を拓くことも出来ますれば心嬉しくぞんじて居ります。幸いに夜長の頃と相成りました。芸術御鑑賞の好期よろしく御援助のほどを希ひ申上げます。邦劇座 片岡我童」〈「俳優相互談」より〉「尾上菊五郎(六代目)──若い松嶋屋さんのことだって、そりやァ僕にはちっとも分からない。第一あの人と附合った事がないから。しかし一座したことは一度ありますな。さァもう一寸一昔前あと、たしか大正になった年の六月でしたろう。歌舞伎座が松竹と手を握った結果、新富座と市村座の俳優が融通されての興行時、かなりの大一座で、僕は大切の『大山詣』だけへ出て講元の五郎八で納太刀を持って出る役、常磐津の粟餅を踊った時、我童(まつしまや)は西野屋東吉、市村の亀蔵がその女房おたつで並んで出ましたが、舞台で一緒になったのはそれだけのことだから何(ど)うと云う事も出来ませんが、あの時我童(まつしまや)は一番目でお得意の『朝顔日記』の深雪でだいぶ好評でした。聞けば『大和橋』の松平長七郎などはお祖父さんの相伝というので有難いものだそうです。また新派ものも演られ、これから先同志を募って新しい芝居を研究的に演られるんだと聞いた事もありましたが、これもまた誠に結構なことだと思います。」片岡我童──私が二長町(市村座)へ行った頃はあの方は居られませんでした。あまり一座したということのない為め、私交の上でも舞台の上でも別にあの方に対しての話談というものを持って居りません、しかし丑之助さんの時代にはよく一緒に遊んだことも御座います。快活なお方で舞台も非常に派手な方です。どうしてもあのようにやらなければなるまいと思います。元来大阪にはああした活気に満ちた若い方が少ないので私の邦劇座などもまあまあ私中心でやらなければならないような始末です。其処へ来ると二長町の御連中などは全く羨ましいと思って居ります。あれで黙阿弥物も新作もそうして所作もお上手なのですから、ちょっと当代の若い方には珍しいと言わなければなりませぬ。もう少し老けて来られると先代のような細面になられるかも知れません、もうそうなったら鬼に金棒ですな。」〈「当代俳優未来記」より〉「大森痴雪等の肝入で計画された邦劇座は役者の顔触も極まり狂言も中村氏の『淀辰』や歌舞伎では之が初耳の歌劇──『小野道風青柳硯』から採った天留遠氏作の脚本───まで出す筈になっていたのに家の不幸などで中止された。我童の演(す)ることは伝統的の意味にもまだ甚だ完全ではないのかも知れない。どうかするとまるで上の空に見えるほどお坊っちゃんじみる事もある。しかし演ることが固まっていないだけ(中略)新局面に走るにも素質は持っている。とりわけ新旧『朝顔日記』や『石童丸』(寅彦氏)の田毎姫──脚本の新味は別として──など特有の濃さのある事も、乃至『八幡祭』(大伍氏)の美代吉や『一切経由来』(痴雪氏)の女主人公などという方面の二番目畑の芸妓(おんな)にも、福助(三代目梅玉)、魁車(初代中村魁車)とは別の領分があり、この方向に今度行くべき途(みち)が暗示されている。男性の方面では『桐一葉』の大野修理など無難の方、八郎兵衛型の二枚目などにはまだ穴が多いが、始終ワキに慣れた福助等が心(しん)になると舞台が淋しいに反し我童は『松平長七郎』(痴雪氏)の様に一人で演する芝居にも向く様でここにも一方面がある。我童が頻りに新作を欲しがり出したのはまだ近頃の事であるが、魁車や福助の試みが一座の関係上甚だ微温的であるのに引きかえ我童は比較的遊星の位置にあるだけ新劇団を計画するのが却って一番早かったのに邦劇座がただ謎のまま延期されているのは甚だ残念である。また我童も福助よりは庇髪物に向き易い、邦劇座が成立したら是非現今の社会に材料(たね)を採った劇も出してほしいものである。実際現今(いま)の世の中に生まれた人が髷を結わなければ芝居が出来ないなどは甚だ怪訝(おか)しい。」(「演芸画報」大正10年1月号)同 浪花座(7日~23日)「敵討天下茶屋聚」早瀬伊織「お七吉三」小野川吉三郎後に妙憧
2026.01.28

○大正7年(1918年) 36歳1月 神戸 中央劇場(1日初日) 「長柄長者黄鳥墳」佐々木源之助「平家女護島」蜑千鳥「お艶殺し」駿河屋お艶、後のお艶「嫗山姥」太田十郎※二の替り(15日~)「俠客春雨傘」大口屋暁雨「俠客春雨傘」大口屋暁雨〈劇評〉『長柄長者黄鳥墳』「我童の源之助は、大正元年十二月の浪花座の時の方が、上出来であったと思う。また、二幕目の長者の家へ来る時の着附も、今度の桃色の着附に、紫紺地へ花を染め出した更紗地のような裃よりも、前年の華美な赤に近い着附に、紫繻子の熨斗目の裃の方が綺麗でもあり、色の配合もいい。」『平家女護島』「我童の千鳥も“鬼は都にありけるぞや”の仕処も雀右衛門(三代目)とやや相違した技巧ながら、相当に巧い。色気が多少不足なだけで、全体に我童の千鳥は悪くない。」『お艶殺し』「我童のお艶も悪くないが、着附の新派当世風が何より誤っている。幕末の江戸時代の世界を狙っている作意から云っても、黙阿弥物以外の、江戸時代の着附を選ぶ事によって創意を見せるべきである。」(「演芸画報」大正7年2月号)※1月18日、次男義直(よしなお)誕生。のちに市村家へ養子に入り、片岡義直→二代目市村又三郎→十六代目市村家橘→二代目市村吉五郎となる。2月 岡山 岡山劇場「伽羅先代萩」仁木弾正ほか出演狂言不明3月 浪花座(7日初日)『市川斎入追善興行』「心中二枚絵草紙」天満屋おしま「俠客春雨傘」大口屋暁雨〈本人談〉『俠客春雨傘』「暁雨は昨年神戸の中央劇場で致しましたのが、初舞台でございます。今までお鶴の役は東京でも度々致しました。元来、暁雨と申す役は長兵衛とは違って、旦那衆なのですから、まるで意気になって可(い)けず、さればと申して固くなっても可けずという役なのです。私がまだ廿四五位の時にこの役をやろうと致しまして、仁左(十一代目仁左衛門)に大へん叱られた事がございます。その時分は、この位のものはと思いましたが、さて今日になって見ますと、なるほど難しい役だと云うことが分かりました。暁雨という人は、年輩から云うと私くらいの年なのですから、年から申せば恰度よい役なのですが、しかしそれは極く上面(うわべ)の考えです。と申すのは、これは御承知の通り、その頃の九代目(市川團十郎)さんに書き卸したもので、その頃の九代目さんはもう相当の年輩でありましたので、若く扮(つく)って致されましたが、それが非常に佳(よ)かったそうでございます。その辺から考えて見ますと、この役はどうしても四十過ぎ五十頃になってから致すのが本当だろうと存じます。ですから私も只今は稽古の心(つもり)でやっております……芝居の仕どころは、序幕奥座敷の場の家督譲りの所だけです。つまり彼処(あすこ)がこの芝居のヤマでございましょう。」〈劇評〉『心中二枚絵草紙』「我童のおしまは相変わらず硬い線で温い情緒が更に見出されなかった。とにかく我童の女形というものはもはや万遍一律、何の変化もなく、何の理解もなく到底失敗たるを免れないから、この際断然いささかの容貌を頼みにするような事はせず、真実ある役に立つ向かって邁進すべきである。こうして眼を閉じて我童がしてきた女形を辿って見ると、役が変わり性格が変わっていても、何ら異なった印象を与えず、皆おなじ女である。そしていづれもこれも、皆冷たい感情的の女という者はない。まして心中しようという盲目的情熱の女は不可能の事で、我らは強いて見せられる事の苦痛に堪えない。敢えて勧告する。」『俠客春雨傘』「我童が仁左衛門張りの大ロ屋暁雨でグッと役者振りを上げて見せる、“逸見さま、お待ちなせえ”の意気組はこの意気組から暁雨という俠客を描き出す出発点として底力があったが、弟に家督を譲って“これから男になりましょうよ”の笑いは何となく上っ面で力が足りなかった。何しろこの俠客は菊五郎(おとわや)畠のものでなく、團十郎に書き卸した狂言という弁えがなければ、そこに差別がなくなってしまう。“おんぱからい”は大事の“おんぱからい”で、暁雨の半面が窺われもするのだから、その心して一句の力を見せねばならぬ。“くせえくせえ”は緊張した。立田屋の二階で慥か、火がないといった煙草盆で煙草を吸っているのは不注意であった。燭台で火をつけた方が、深夜の情景かえって真に迫るものがあるまいか。総括的に若輩は致し方がないとして、我童が近時まれに見る好舞台であった。」(「演芸画報」大正7年4月号)4月 南座(1日初日)「一國女」一國女「木村長門守 血判取」木村長門守重成「隅田川續俤」手代要助実は吉田宿直之助〈劇評〉「朝日新聞所載、碧瑠璃園原作、大森痴雪脚色と言う長い肩書のついたもの。美しくて冷たい妖婦ぶりが我童のからだに有ると言うので、昨年の夏頃から大分あちこちで出したやうだが、その割には役も物も一向面白くなかった。(中略)我童の一國女が案外良くなかった。妖艶な匂いも乏しければ、蛇のように冷たい鋭い所も見えなかった。何をやっても熱の無いのは、この人の悪い癖だ。」『木村長門守 血判取』「我童の出し物。しかし簡単なもので、役々の出来も皆一通り。結局、檜舞台の出し物でない。」『隅田川續俤』「我童の要助実は吉田の松若は出た所立派なつっころばしだが、さらさらして味がなかった。野分姫に声をかけられて不審の思入れも、仔細を聞いてなつかしいと言う思入れも、はっきりしなかった。ただ“縁と月日を、もし、お待ちなされませいなあ”だけは、姫をいたわる情が見えて大層よかった。万事あの調子で行くと良いのだが。」(「演芸画報」大正7年5月号)5月 中座(9日初日)『徳三郎改め六代目嵐璃寛襲名披露』「治承の京師」田原又太郎忠綱「璃寛襲名口上」口上「来山」芸子小藤実は来山の娘「中将姫」老女桐の谷「五月晴隅田高楼」白拍子且開野実は犬阪毛野〈劇評〉『治承の京師』「我童の田原又太郎は英姿颯爽なる殿ばらであった。むしろ御曹司といいたげな風采を備えていた。追手姿の小具足は、その色彩が更に品位を増して役以上の役に見えた。」『来山』「これは仁左衛門の東京土産で、柿右衛門や都一中などと偕(とも)に、当たり役といわれた老役である。劇の中心は都一中と大同小異で、一中では人形が親子の楔になる如く、来山では遺言状から娘と名乗り合うことになっている。(中略)我童の芸子小藤も相変わらず骨っぽいので、濃い情調が漂わなかった。」『五月晴隅田高楼』「八犬伝の毛野報復の一節である。我童の毛野は女姿よりも男性を発揮する時、その役者ぶりを上げて見せる、どうしても我童は女形の役者でないと、つくづくそんな事を思うてみた。情けない。それにまた女形をしたがるのは自分で自分の女形の拙さが解らないのか、悪い病もあればあったものだと思うと、終いにはこちらがムシャクシャして来た。」(「演芸画報」大正7年6月号)6月 南座(5日初日)「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は秋月娘深雪「羽黒山」新田小次郎茂照「軍神(いくさがみ)」侍女お珊(さん)「那須與市西海硯」那須與市宗高「西遊記」三蔵法師〈劇評〉『生写朝顔日記』「(前略)ネチネチした巌笑(嵐巌笑)やシャキシャキした我童に交ってめいめい勝な風に芝居をしていては、不調和は免れぬ。(中略)我童の深雪は得意の芸であるそうだが、期待していた程のものではなかった。苦心の結果と聞こえた飛石伝いに庭口から出て来る盲目の足取りも、決して徹底したものではなかった。酒に酔ったような足取りで腰から上の運動が激しく、見た眼は賑やかだが、要するに凡手(へた)な胡麻化しである。一歩一歩足の指先を彎曲させて爪先に力を入れて探り歩む盲目の歩調は、あんなものではなかろうと思った。庭前に琴を控えて坐ってからは、可い形を見せた。“窶れ果てたる身をかこち”で琴の爪を落とし、お鍋が拾うて渡すなど小技巧を弄したが、唱歌は可憐にでき、殊に琴は手に入ったもので可く鳴った。恋物語となってはいよいよ哀れ深く、サワリの間は静かな尤もロマンチックな可い気分を漂わせていた。蓋し我童得意の壇上であろうが、しかし艶麗味に乏しく、女としての円味が足らず、折々幽霊式に両手をぶらぶらさせるのは、相変わらずの悪い癖である。(中略)吉三郎(六代目嵐吉三郎)の岩代の、“暇を呉れた。立帰れ”は、日本語の過去と現在を滅茶滅茶に打ち毀したものである。やはり原文通り、ここでは“暇を呉れる”と云わねばならぬ。不注意千万である。」『軍神』「高頭芝露氏作と銘打った新作で、何処か其処らの劇作家の手に成ったものとしては、可なり纏まっている。(中略)何処と云って緊張した可い処もないが、まァまァ見ていられるような処もない古い脚色(しくみ)の史劇である。(中略)我童の侍女柵がこの劇中第一に光っていた。」『那須與市西海硯』「何しろ古い古い化石したような狂言であるから、味もそそられる処も共鳴する処も何もないのは残念であった。(中略)我童の與市(中略)気の毒な位なにもすることがない。片岡一(十三代目片岡我童)の初舞台で弟の駒若は可愛い。父の我童が我子の絶句に顔を赤くしヒヤヒヤしているなぞは、ちょっと見られぬ芝居であった。」(「演芸画報」大正7年7月号)7月 名古屋 末廣座(1日~7日) 豊橋 豊橋座「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は深雪「那須與市西海硯」那須與市宗高「軍神」侍女お柵「吉野山」面作三作9月 中座(3日初日)「苅萱堂」田毎姫「山中鹿之助」伊豆屋文左衛門「名月八幡祭」芸者美代吉〈劇評〉『我童の美代吉は序幕はその人らしくなかったが、二幕目の美代吉の家の場が可い。敵役にならないところは技倆(うで)である。難しく云えば、その核心を掴んでいる。だが、一般の役者の癖とも云うべき何でもないところへする思い入れがこの人にも祟って、身体(からだ)の遊びを避けようするだけの何でもない思い入れが、意味あり気に見えて、せっかく浮き出ている『美代吉』を打消してしまう。これは注意すべきことであろうと思う。それから、手の扱い方とその折とにも一段の注意が望ましい。手を遊ばせまいとして、序幕では団扇を使い、二幕目では前では手酌で酒を飲み、後には──新助が魚惣に百両の金の経緯(もくさん)を話している時──煙草を喫(の)んでいる。序幕でも団扇使いをしていられる場合ではあるまいまと思われるようなところがあり、二幕目でも格別の場合には、それがために美代吉が、敵役に見えたりした。心すべきことではあるまいか。しかし姿も美(よ)し、顔も綺麗なり、例(いつも)の冷たさが役に立つが、いわゆる性格も鮮やかに現れていて、これで序幕に藤岡を利いた風と冷評し、苦しい時でも五両や十両の金は何とも思わないと云うような心意気が当然らしく見えさえすれば、これも確かに源之助(四代目澤村源之助)以上であろうと思う。』(「演芸画報」大正7年10月号)10月 神戸 中央劇場(3日初日)「奴小萬」奴小萬「花上野誉碑 志渡寺」槌谷内記「南地物語」芸者小若「魁源平躑躅」小荻実は敦盛11月 名古屋 御園座(1日~8日) 金沢市 福助座 岐阜市 明治座『六代目嵐璃寛襲名披露』「菅原伝授手習鑑」松王女房千代「中将姫」粂の八郎妻桐の谷「小わか新七 南地物語」芸子小若「濡燕廓稲妻」名古屋山三元春12月 帝国劇場(1日初日)「太閤記朝鮮之巻」小西如安実は新太郎、小西行長「新朝顔日記」宇治の女深雪「廓文章」藤屋伊左衛門「新朝顔日記」宇治の女深雪「廓文章」藤屋伊左衛門「廓文章」右 我童の藤屋伊左衛門、中央 片岡千代之助(十三代目仁左衛門)の太鼓持、左 三代目坂東秀調の扇屋タ霧〈劇評〉『太閤記朝鮮之巻』「我童の飛騨守、一言一句がギクシャクして大阪臭を払って見えたるは、ただ気の毒と云ふの外ない。」『新朝顔日記』「(岡本)綺堂氏の作で(中略)、浄瑠璃の方の宿屋に宿れる味わいを、かの白居易が琵琶行に思い寄せて、薄命の美人と不遇の学者とを、哀れに美しく取り扱ったものであろう。(中略)我童の深雪、朝顔役者だけに、早くもこの狂言に手を着け、今度が二度目であるそうだが、細い湿った声と、スラリとした姿とが哀れを添えて、恋人を乗せて行く馬の鈴の音に、ジーッとなる幕切れまで、シンミリとした結構な出来である。本家の朝顔よりグッと見られる。せいぜい方々で出すが好いが、ほかでは熊澤役者に困るだろう。」『廓文章』「我童の伊左衛門、叔父仁左衛門張りとは見えるが、その年上の叔父御ほど柔らかくなく、立ち身のとき始終足を割っているのも色気が無い。何しろ総体にフックラありたい。」(『演芸画報』大正8年1月号 岡鬼太郎評)
2026.01.28

近所の蠟梅が見頃を迎へ、今年と云ふ時間が着實に前へ進んでゐることを、目から感じる。驛の近くでは、衆院選立候補者の演説が行なはれ、ウチの地元からはどんな人が出やうとしてゐるのか、少し立ち止まって顔を見る。私と同じ年に生まれた人らしい。同じ年數(じかん)を生きてゐて、まったく違ふ人生を送ってゐる。彼が國で目指してゐること、私が國に求めてゐること、それが合致すれば、同じ“志(こころ)”で生きてゐることになるわけか、と耳から感じる。
2026.01.27

○大正6年(1917年) 35歳1月 歌舞伎座(7日初日)「出陣」北條武蔵守義政「俠客春雨傘」松葉屋薄雲「俠客春雨傘」中央 我童の松葉屋薄雲、右 二代目市川段四郎の逸見鐵心齋、左 市川八百藏(七代目中車)の釣鐘庄兵衛2月 横浜座(4日初日)「絵本太功記」小田春永、武智十次郎光義「心中天網島」紙屋治兵衛「安宅」源義経「熊王丸」熊王丸後に正寛法師「俎の長兵衛」若徒八内〈劇評〉『心中天網島』「(前略)前半は芝雀のおさんが危な気はないとしても、とかく声と仕草がきりっとして哀れっぽいところが薄く、それにつれて我童の治兵衛も引き立たず、驚くたびにぎくっぎくっと口を開ける表情が変に目に付いて、しんみりとした柔らか味が浮かばない。」『安宅』「我童の義経は不感心の一つ。品(しな)はよくっても優しくっても、形ばかり強がっている癇持ちの御曹子以上には受取れない。弁慶の後を追って真っ先に出で立つ足踏みも、ばね仕掛けの畳の上を踏んで行くようで心許ない。」『熊王丸』「我童の熊王丸はいつもの小太郎式の色男。歳が十六で、元服のうえ小次郎と改名したのが違いだけ。出来栄えから言っても、この前ここで手懸けた同じ作者の謙信と大同小異。この人の声と芸風では、しょせんこういうものは駄目。ただ現在の主であり父の仇である正儀(まさのり)の寝室へ刀を引っさげ跳(おど)り込もうとして幾度か躊躇し、ついに耐え切れずに泣き崩れる辺りだけが上出来。ここは当然、壽美蔵(=七代目市川壽海)の役と取り換えっこをすべきである。」3月 明治座(5日初日)「天一坊大岡政談」法澤後に徳川天一坊、池田大助「京の友禅」織子おいよ4月 横浜座(7日初日)「児雷也」夜叉五郎、富貴太郎「壇浦兜軍記 鎌倉問注処の場」遊君阿古屋「新版歌祭文 野崎村」久松「冥土の飛脚」亀屋忠兵衛5月 新富座(3日初日)「有職鎌倉山」結城友光「壽門松(ねびきのかどまつ)」山崎与次郎「娘評判善悪鏡」御殿女中竹川実は須走お熊「壽門松(ねびきのかどまつ)」山崎与次郎「娘評判善悪鏡」御殿女中竹川実は須走お熊〈劇評〉『壽門松』「(前略)仁左衛門、芝雀、我童の三人が動いているのを見ると、東京の舞台でない上方の舞台を見ている様な気がしました。(中略)我童の与次兵衛、親の愛妻の愛傾城の愛に泣く皮肉な色男を上手に演じて今まで見たこの役の中では一番原作に近い様に思います。下前を気にして直す所はこの人が真似るのか喜多村が真似るのか、よく似ています。」(「演芸画報」大正6年6月号)『娘評判善悪鏡』「(前略)柳橋梅川二階の場で、左團次の徳兵衛、我童の実は付きの御殿女中竹川の二人が清元を使って、色合も左團次の色男にならぬが身上。勢揃いは見ずに帰れば良かったと思った。」(同)6月 浪花座(11日初日)「誘惑」山村澤子「新朝顔日記」宇治の女深雪「桜鍔恨鮫鞘」古手屋八郎兵衛「曾我扇八景」曾我十郎祐成〈劇評〉『誘惑』「(前略)大阪毎日新聞に連載の小説『「誘惑」を呼物にする事になりました。新派畑の新聞小説を旧派の役者にやらせる事は近頃大阪では大流行で、この半年の間にこれで三度目です。仏の顔も三度はおかしいが、こう続くとちょっと鼻につきます。散髪芝居を旧派にもやらせて見る事は結構だが、役者の自覚や解釈にも、脚本家そのものにも何の進境も見られないならばつまらない事です。(中略)我童の奥歯に物を噛みしめながらいう調子はどこか喜多村に似たと所がありますが、今度の澤子は新派物だけに殊に喜多村張りのように見受けられたものの、澤子という特殊な女はうまく出来ませなんだ。旧劇の時もそうですが、どうも『俺はいま舞台で芝居をしているんだ』といった風があって、真剣に劇中の人物になり切っている場合の少ないのはいつもの癖です。それに形も、いつもとは勝手が違うといったように落ち着きがなかったのも遺憾でした。」『新朝顔日記』「予期以上に淡泊(あっさり)したものだったので飽気(あっけ)ない気がしました。やはり眼を泣き潰してまで狂わしく恋しい男の後を慕って行く朝顔の方が、第一情熱的でよろしい。もちろん昔の恋の進境と言う淡い所を覗(ねら)ったものに違いありませんが、江戸へ嫁(かたづ)いてから眼を病み盲目となったため戻された深雪と儒者熊澤蕃山の恋では、上方の出し物としては損です。とはいえ我童の深雪は倫落の女澤子とは見違える程よく、袖萩や阿古屋を演りつけているので盲目の様子も“露の干ぬ間の』の”の琴の手も入って初役の様に見えませなんだ。ただ大井川の別れで、遠ざかって行く蕃山の馬の蹄に耳を傾ける件りは、身体(からだ)中を耳にするほどの悲しい表情を見せてほしかった。」『桜鍔恨鮫鞘』「片岡十二集にあるもの、我童の出し物としてはまだ年齢(とし)が早い感じがありますが、いつもの我童の和事の比べて八郎兵衛は悪い出来ではありませんが、仁左そっくりとお追従をいうほどの事はありません。ただいやらしくなかったのはこの種の出し物として好い気持ちでした。」(「演芸画報」大正6年7月号)7月 豊橋 東雲座(7日初日)「生写朝顔日記」朝顔「絵本太功記 十段目」武智十次郎光義「宿無團七時雨傘」團七茂兵衛〈劇評〉『生写朝顔日記』「我童の深雪が、藤色地に朝顔の裾模様の着つけに、赤地錦の帯をダラリに結んだ姿の美しさ、琴を弾じつつ思わず阿曾次郎と顔を見合わせ、ハッとして、はにかむあたりの艶やかさ、実に何とも云い様のないうま味がありました。宿屋の場での朝顔は既に定評のある物、我童の朝顔か、朝顔の我童か、と思わるる程で、実に円熟の極に達していました。ふくよかなる頬、整った花 鼻筋の豊かさ、そしてその姿のしおらしさ、これがどうして男と思われよう“露の干ぬ間”の歌も、優しい美しい声で唄いました。身の上を語るところを一しお哀れ深く、息もつがせないうまさでした。とにかく数年来、一度は我童の朝顔をと思っていた望みが叶って、そしてそれが予想以上の上出来だったのが、何よりも嬉しくありました。」『絵本太功記』「まづ我童の十次郎の、天然の美貌に魅せられてしまいました。云い古した言葉ですが、錦絵からぬけ出たようなとは、まことにこの事をこそ云うのでしょう。初菊に対する愛情もよく現れていましたが、まだギコチナイような個所がないでも御座いません。もう二三度手がけましたら、当代の十次郎役者になりましょう。」 (「演芸画報」大正6年8月号)8月 浪花座(7月31日初日)「一國女」一國女「小若新七南地物語」藝妓小若〈本人談〉「一國女は今までの芝居にも類のない、変わった性格で、傲慢な気の勝ったところは淀君に似ていて、淀君以上です。血を見て喜ぶというのが別段理由(わけ)があるのではなく、ただ人間の血を見るのが好きなんですから、従来(いままで)の毒婦とも違います。もとは茶店の娘で、その器量が三河守(松平忠直)の目に留まって寵愛を受け、ついに福井七十万石をひっくりかえしてしまったのですが、しかし何もお家を覗(うかが)う奸婦というのではありません。ふだん少しも笑顔を見せない女で、三河守はこの女を笑わせるために気を揉んだのです。それがある時、子供が犬に噛まれて血を流したのを見て初めて笑った。それが福井城下の恐ろしい虐殺の起りで、一國女の面前で日に何人という者の生命(いのち)がおとされた。そうすると喜んだということです。しまいには孕み女の腹を立ち割るというような事までやって、血塗れの腹の子を松の枝に吊して、喜んだ事もあるそうです。これは芝居として確かに面白いのですが、警察がやかましくて舞台で血を見せることが出来ないから、幕があくと、残虐のあった後を、後をと肝腎の場面を抜いて御覧に入れています。あるいは御見物には物足りないかもしれませんが、他に方法がありません。最初の相談では、お前の物だから十分に気を入れてやってくれるように、との事でしたが、舞台に動きが少ないので、思う半分も出来ません。動きをつけるとその惨酷を舞台に御覧に入れなければならず、困っています。一國女の腹は、あの袿(うちぎ)の肩をずらして着ているのや、投げやりな言葉遣いなぞの中に、幾分卑しい素性を現しているつもりで御座います。」(「演芸画報」大正6年9月号)〈記者評〉「『南地物語』は純大阪気分の物で、先年京の南座でやはり葉村屋(五代目嵐徳三郎)と、この『小わか新七』を上場したことがあるそうだ。それとは今度のは殆ど筋道が異(ちが)うが、いわば『新朝顔日記』で、なるべく眼先を変えるようにと注文して、今度書き改めたのだそうである。丈(我童)は小わかの役で、情に脆い、達引きに強い昔の大阪芸者を見せようというのだそうだ。例えば襟裏の紅絹(もみ)を開いて見せ、“観音ひらき”という着附の好みを復活している。これは昔の粋(すい)な大阪芸者が好んでやったことだと云う。」(同)〈劇評〉『一國女』「(前略)大朝連載小説水戸黄門の一節で、朝日子の劇評とは雲泥して面白くないもの。我童の主人公一國女は押出に於て申分ない位の妖艶さであった。先づ上の部であろう。」『南地物語』「『小若新七』は理窟なしに面白かった。大森痴雪(さくしゃ)は技巧に富んだ人ではないが霞亭や他の人々の様に濫作家ではなく興にのって作(か)く人だから豊かな色彩情調のあるのが嬉しい。(中略)我童の小若は昨春のお艶殺しに於けるお艶程度の成功成績、ツンとして情味を欠く憾みあり、芸に潤いをつけてもらいたいものだ。」(「演芸画報」大正6年9月号)9月 神戸 中央劇場(1日~8日)「箱根霊験躄仇討」飯沼勝五郎「壇浦兜軍記」遊君阿古屋「鞍馬山」牛若丸〈劇評〉「盆替わりの各劇場は待兼ねたように華々しく蓋を開けましたが、各劇場共大入りならざるはなしで、仕打ちが算盤珠を弾いての笑顔は、やがて劇場隆盛の瑞とでも祝しておきましょう。」『箱根霊験躄仇討』「我童の勝五郎は後に聞くと病気を押しての出勤との事でしたが、いつもの顔芸──コセコセと小鼻を怒らせ顔面神経的に口尻を痙攣さす──をする程の元気もありませんでしたが、見た目は至極無事で、そして好い男がどこか窶れている様子もあって、見上げた勝五郎ぶりでした。手水鉢の水を汲む時、些か車輪になって例の顔つきをやりかけましたが、あまり目立つ程で無くて結構でした。病気は我童をおっとりさせて見せる、とんだ相薬といわねばなりませぬ。」『壇浦兜軍記』「これは朝顔と二つを得意にする我童の演物(だしもの)なのです。世間は我童の他の技芸に比してこの二つを比較的優秀と認めてそういいますのか、或いは夫子(ふうし)自身が僭越にもそう心得て居るのか知りませんが、正直なところ私は朝顔が我童に嵌まった点は下腹を突き出して歩く様子が盲目らしい事と、阿古屋は誰もが持っておらぬ三曲を弁えて居る位とより、他に長所を見出す事を知らなかったのでした。これは私が偽らぬ告白ですが、今度の阿古屋は前にも言った通り、病気という黒幕のありました事が人間なにが幸いになりますやら。勝五郎の窶れた傷(いた)わしさといい、今また阿古屋の“形は華美に気は萎れ筒にいけたる牡丹花の水上げ兼ぬる風情”の本文が抜け出たような感じは見上げたものでありました。要するに血気に任せ──或いは癖か──た顔面や、小手先の痙攣的技巧さえ慎めば鷹揚に見られる役者ぶりなのだから、今後病気でないまでも、いつもそうした心持ちを忘れずに居て欲しいと思うのです。三曲は琴がもっとも前受けしました。三味線も胡弓も売り物だけに絃(いと)の響きは確かでした。」『鞍馬山』「(前略)我童の牛若、歌六(三代目中村歌六)の僧正坊、(中略)という役割でしたが、『鳥辺山心中』(前幕狂言)で購うた劇的興味を破壊されるのもつまらない事だと思って、わざと見ずに帰りました。」(「演芸画報」大正6年9月号)10月 南座(6日初日)「赤穂義士」神崎与五郎「壇浦兜軍記」遊君阿古屋「お艶ころし」お艶後に芸妓染吉「関取千両幟」北野屋七兵衛11月 中座(10月31日初日)「川中島東都錦絵」旗持牛窪大蔵、上杉謙信「伊賀越道中双六 沼津」平作娘お米「闇争鞍馬山」安達藤九郎盛長、内侍翠実は木曽義仲「都一中」娘おふみ後に板倉屋娘お鶴「西遊記」三蔵法師※長男一(ひとし)、本名にて「闇争鞍馬山」“柴刈乙女”で初舞台。「伊賀越道中双六 沼津」平作娘お米〈劇評〉『川中島東都錦絵』「我童は旗持の大蔵を勤めます。勘助(二代目延若)と二人でホロリとさせてくれる筈なのですが、こちらの頭が麻痺している故か、何の事もなく通り過ぎてしまいました。それでも顔の稲光りと小手先の早業とかが無かっただけでも助かるところが褒めたいくらいでした。(中略)白馬に跨がって斬り込む我童の謙信、英姿颯爽とでも形容すると何だか見上げたようにも聞こえますが、我童が謙信という役の扮装(こしらえ)をして、“三人目が信玄である”と見現した儲かった白(せりふ)を言って、馬上の謙信と地上の信玄とドサクサした手数のかかった立廻りをする迄のことでした。ただそれだけの事でした。」『伊賀越道中双六 沼津』「仁左衛門の平作は、技芸以外に舞台の責任を感じているといえば然(そ)うもいわれましょう。我童のお米が演(し)やすいように注意しているといえば叔父甥──舞台では親子──の情けともいわれましょうか。たとえばお米が平舞台の筵の上でチョボ(義太夫)の間、振りがあります。その筵の縁が捻れたりひっくりかえったりするのを、我童が膝行(いざ)ったりするとき踏んで痛くはないか、足の指を引っかけはすまいかと気遣うように平らに直しておりますのが、ああ叔父甥なればこその深切とも見え、また例のコセつく癖を出しているとの二様の見解を下される程度に役者ぶりを上げたともいえば言われましょう。(中略)我童のお米はチョボの間を寝る前にとった帯や帯揚で運ぶのを問題にされているようですが、見方によっては一種色気のある悪い型でもありません。そして寂しい美しい品のある様子がどこか悪怯(わるび)れぬ瀬川らしい面影を偲ばせて居ました。」『都一中』「我童のお鶴は初々しい可憐な態度が、現在の父親に会いながらそれを知らぬという惨(いじ)らしさに一層涙を催させました。近来役者ぶりを上げたのは事実です。」(「演芸画報」大正6年12月号)12月 中座(3日~23日)「久米の兵内」お里「木村長門守 血判取」木村長門守「彦山権現誓助剱 毛谷村」お園「女夫盛仲由兵衛」女房小梅、丁稚長吉「木村長門守 血判取」木村長門守〈劇評〉『久米の兵内』「我童の平内の約婚(いいなづけ)の娘お里、後に芸者、例の如く美しく、雷門の馬の娘姿よりも山谷料亭の場へ出て来る芸者の扮装(いでたち)は、目のさめるように艶やかでした。」『血判取』「(前略)我童の出しものです。仁左衛門の十八番、つまり茶臼山へ和睦の神文の血判を取りに行って君命を辱めなかった木村重成を活歴風に見せた一幕物です。別にここという見せ場もなく、又これという山もなく、つまり重成の凛々たるところが御馳走我童の重成はスッカリ仁左式、巻立ての棒茶筅、納戸に白熨斗目の長上下、床の浄瑠璃で悠々と花道から壽三郎(三代目阪東壽三郎)の副使郡主馬と共に現れた姿は英姿颯爽、如何にも大阪方の名ある若武者と見えました。松十郎の酒井を一喝する所、先づ渡された神文を見て“忽ち変わるその顔色──”のあたり、絶体絶命、我も大将の御首(おんしるし)、申し受けんと勢い込む気合も手一杯にしていました。第二の神文の血の色を火に翳したり、すかしたりして改むる処も無難の出来でした。ただ、顔に稲光りを閃かしすぎるのは叔父さん譲り、もう少しすべてに亘って面上常に春風が吹いているとでもいった柔和な処があって欲しいと思いました。(中略)幕切れ“君辱めぬ大功は勇まし”で重成、主馬、案内の本多忠朝が花道まで出て本舞台向いて一揖するをキッカケに下手に据えた陣太鼓を軍兵の一人が打ち“かりける次第なり”のチョボ(義太夫)一杯で幕、幕外で三人入れ代わり重成、主馬、忠朝という順に謡地で入りとなります。“松嶋屋松嶋屋”と騒々しいことです。」『毛谷村』「我童のお園の女を包み男めかす出の形はよくしていましたが、浅黄鼻緒の重ね草履はやはり、塗下駄の方が感じが好いようです。ツト入って六助との詰合いから我が夫と知って打ちとける変わり目の色気も、どちらかと云えば色気の薄いこの人にしてはたっぷりとあって、裾捌きの姿態(しな)もよく、まづ六助(實川延若)と共に好成績と云えましょう。」『女夫盛仲由兵衛』「我童は女房小梅と丁稚長吉との二役です。どちらも無難です。」
2026.01.27

○大正5年(1916年) 34歳1月 浪花座(1日~23日)「金閣寺」狩野雪姫「美名辰春錦襴手」青蓮院の宮「所作事 色粟餅」粟餅屋杵六2月 中座(1日~22日)「通し狂言 敵討天下茶屋聚」早瀬伊織、幸右衛門女房お時「壇浦兜軍記 阿古屋三曲の段」遊君阿古屋※初役「望月」望月左衛門秋長「吉原雀」雀売土松3月 中座(4日~25日)「小豆島」神掛義春「安宅関」源九郎判官義経「名工柿右衛門」妹娘おたね「明烏夢泡雪 山名屋浦里」4月 中座(2日~23日)「桔梗旗揚」森蘭丸、武智十次郎光義「金光教祖」倅権次「お艶ごろし」駿河屋の娘お艶、芸者染吉実はお艶、蔦屋お艶〈記者評〉「……四月中座で(尾上)多見之助と一座の芝居を見た。(中略)そうして久し振りに見たところを言えば我童の芸は何だかある危険に迫っている感じがした。いわゆる本筋を踏み外した感がしてならなかった。ただしこれは容易に云々すべき事でないから、ここには疑いとして感じたままを謂っておく」(「演芸画報」大正5年9月号 三宅太郎述)5月 名古屋 末廣座(4月30日~5月6日)「曽我の実録」禅司坊実永「壺坂」女房お里「金閣寺」狩野鬼女雪姫「酔菩提(のざらしごすけ)」野晒悟助5月 南座(11日~25日)「筑紫物語」大蔵光弘「片岡十二集の内 近頃河原達引 堀川の場」井筒屋伝兵衞「名工柿右衛門」柿右衛門妹娘おたね「道行旅路花聟」鷺坂伴内〈新聞評〉「『お軽勘平』の道行はケッタイなものになっている。ただ清元だけは充分聞く価値がある。」(京都座日出新聞5.18)8月 浪花座(15日~25日)「赤格子かしく紅筆」大工六三郎「濡袖月雨暈」召使おきつ、おきつの亡霊、翠の茂兵衛※口上「(前略)なお片岡我童儀当興行を以って東都へ上り暫く彼地に出演可仕申さばしばしの御名残り候(後略)」〈記者評〉「……いま改めて優の芸について考えてみても、たとい朝顔、お染、横山太郎、佐々木源之助のような逸品があるにしてからがついに具体的に我童の実力を計り知ることが出来ぬ。いわゆる、地芸の力を認めることが出来ぬ。すくなくとも現地では、本当にこの人の真価を判断するに苦しむ。しかもなお我々の我童を賛美して止まないのはむしろ、現在よりも将来を期待するからである。(中略)それだけに我童に望みたいのは、芸の修業である。大舞台での切磋琢磨である。畢竟我々は現在この人の手腕を疑うのも、この素養に欠けている為でなければならない。そして今の若さで座頭処に坐るなどは、この人のために与しないところである。せっかくの天分を小成に安じて朽ちさせぬよう、時に我童の自省と自重を祈っておく。」(「演芸画報」大正5年9月号 三宅太郎述)9月 新富座(3日初日)新富座「壇浦兜軍記 阿古屋琴責の場」遊君阿古屋「蘆屋道満大内鑑」阿倍保名、石川悪右衛門「壇浦兜軍記 阿古屋琴責の場」遊君阿古屋「蘆屋道満大内鑑」右 我童の阿倍保名、左 中村芝雀(三代目中村雀右衛門)の葛の葉「蘆屋道満大内鑑」後列中央 我童の石川悪右衛門、左 市川八百蔵(七代目市川中車)の奴與勘平、中 芝雀(三代目中村雀右衛門)の奴狐勘平、右 二代目市川左團次の奴彌勘平〈本人談〉『阿古屋』「御承知の通り私の家は代々女形ではありませんから、大阪での劇神仙璃珏(二代目嵐璃珏)さんについて型を尋ね、本年二月大阪中の芝居で、(中略)試演的に初役として勤めました。三曲の琴は生田流の富岡検校について大阪で習い、三味線は私が土之助と申した子供時代に、浅草駒形の杵屋お千代さんのところへ通って教わりました。(中略)今度上京いたしますとすぐに田村さん(田村成義、元弁護士の歌舞伎座経営者)をお訪ねして、阿古屋を出すことをお話しすると、田村さんが仰有るには、どうも阿古屋は三曲をやる時に、誰がしても踊ってしまうようだから、どこまでも景清を慕う傾城の心を忘れないようにとの御注意を頂きましたから、出来得るだけ踊らぬよう謹んで居ります。(中略)三曲のかかりで阿古屋は襠(かけ)を脱ぐのが普通の型となっていますが、三曲を始めるために脱ぐのがマザマザと判りますから、竹田奴の出に、これを搦みに遣って思わず脱げたように見せ、着物を取繕う心で腹帯を締め直すのは懐胎している様をちょっとご見物にお目にかけますので、璃珏(てしまや)さんの注意で新工夫な型なのです。大阪では帯を蝶々に結び、三曲の前に締直す心で下げました。東京では俎板をつけるのが慣例(しきたり)なのですが、三曲の時に邪魔になるので横にやるのが、いかにも不様ですからご覧になったよう、アンコに結んで出ております。三曲は最初琴からで、“影と云うも月の宴”の一節を自分で唄い出し、“清と云うも”から床(竹本)に渡して、二度目の“月の宴”をまた自分が取って唄い、三味線は長唄を遣う方もありますが、私は地唄に逃げまして、“去るにても我が夫(つま)の”は一節を唄います。胡弓は唄わぬ物と云う規定に従いまして、ただ弾くだけで御座います。」(「演芸画報」大正5年10月号)〈劇評〉『我童の阿古屋』「鎗氏 三曲とりどりの器用さには、岩永ならぬ見物の中にも袂を焦がした人がいましたろう。胡弓は少し弾き過ぎる嫌いがあるようでした。」「鳴雪氏 元来この役はコセコセしないで、オットリと高く構えて、それに多少の情味を加減すれば足りるのだが、若い優としてアレ丈にすれば成功である。なかんずく“阿古屋が心の濁り水、今しも呑むや”とここ裲襠をフワリと脱ぎ捨て、腹帯を締め上げる辺りは紋切型とは云え、如何にも気分が乗っていた。琴の合の手も専門らしく、三味は杵屋の絃には叶わぬけれども、独奏の時は慥(たし)かであった。胡弓となっては一番手に入っていて、万衆一黙、ただ嫋々の声を聞くのみであった。」「竹の舎氏 三曲はいずれも上手、琴にて自ら唄いしも優しくてよし。この優は唄も形もチャンと阿古屋でいたのは感心。三味線にて“さるにても我が夫云々”の一句を唄いしは特にその情こもって満場を感動させたり。」「荻舟氏 やることも神妙にして哀れを添えたが、どこか底に冷たいところがあって、凜乎(りん)とした気魄に乏しいのが、この人総ての役に伴う通弊である。“さるにても我夫の”と沈痛な声を絞って恍惚(うっとり)となるところ、あの件りには確かに情の切なる心持ちが現れていた。」「凡鳥氏 要するに品位もあって柔(おとな)しい阿古屋で、欲にはあれで今一息熱を持たせれば無類であろう。」「柳氏 ふっくりとして品もよく色気もあり、三曲も唯手際よいのみならず、哀調その間に浮かび幕切れも形も絵のよう也。」「春霞氏 総じて大成功なり。住まった形のややもすると老けたがる優の多いなかにあって若々しき、三段によってトンと片足を踏み伸ばした形の仇めいたる、いづれもよく形と動きに成功したる上に、声の凜乎と澄みて徹(とお)れるが心持ち好し、三曲はいづれも達者なれど低き調子の地唄が哀調を誘って最も好く、胡弓はケレンの多きが厭なり。」「朗々氏 こういう柄行きの人にはよくある芸の熱に乏しいという欠点は争われぬ。三曲はなかなかうまいもので殊に三味線が最も優っている。唄はなかなか上手で殊にウラ声が綺麗であった。」「蝶二氏 唄う唱歌も女らしい音調(のど)を上手にフシに廻していた。班女の唄の“さるにても我夫の”のカンに響くところは、全く帛(きぬ)を裂くという辞(ことば)の偽りならぬを証して、哀怨の情そぞろに人に迫るを覚えしめた。若手としては立派な阿古屋である。」「青々園氏 三曲も鮮やかな出来で殊に美音の唱歌と音じめの低い三味線がこの場の情調を引立てて、かえって音蔵の江戸風な長唄が矛盾の気味です。」「大向氏 綺麗はさながら錦絵の如く、台詞の品と語りの情と三曲の技巧とは、まづ阿古屋の資格を尽せるに似たり。琴唄の“かけと云うも月の縁”は、細く透(とお)りて情緒に満ち、三味線の閨班女も哀調深かりしが、初日は“翠帳紅閨に”を自身唄いしと聞けるに、五日目には例の音蔵に任せて、“さるにても我夫の”だけを聴かせり。口の文句を人に切らせては、役の意味が徹(とお)らぬ上に、せっかく地唄にした効(かい)も薄からん。三曲は琴第一、胡弓第二、三味線第三と云う順序なるべし。」〈劇評〉『我童の保名、悪右衛門』「青々園氏 押出しは立派ですが旨みがありません。悪右衛門が嵌まるところを見ると、この人は敵役に廻る人かも知れません。」「春霞氏 手堅い出来なれど、女房との恩愛に情の潤いなく、旨味のないのはまだ修業なるべし。」「朗々氏 機屋を覗き込んで驚く形なども未だし未だし。女房の尻尾を探ったり、手の毛を摘まんで見たりするしぐさ、小細工で悪い。すべて潤いがない。」「竹の舎氏 台詞がスカスカして壮士俳優めきて阿古屋の出来とは大違い。」「鳴雪氏 柄も嵌まって良い頃合の役である。なかんずく機織る窓を覗いて見ての驚愕から、怪訝、困惑、進退度を失って、狼藉たるあたりは、細かく、柔らかく、流石に旨い。石川悪右衛門は、少し背が低い感もしたが、まず立派。」「大向氏 保名は狂いに経験あれど、機屋の方は全くの初物なる由。これも覗きの顚倒から“只呆然たる”の極りなど器用に出来たり。しかし喜多村(新派役者 喜多村緑郎)に似た調子だけは、大いに一思案ならん。」「荻舟氏 保名と悪右衛門とは、重荷の役で聊か草臥れた気味。」「贋阿弥氏 和(やわらか)みがあるので、二人の葛の葉は“こりゃどうじゃ”となる器用な働きはやはり技巧の畑でありましょう。女房の手の甲をつまむあたりのお芝居、扇の蔭からジッと目を注(つ)けている性根など流石に注意は読めていますが調子が低過ぎてキッパリせぬ憾みがあります。」10月 横浜座「鏡山旧錦絵」召使お初「平家女護島」丹左衛門尉元康「上杉謙信」上杉謙信「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は秋月娘深雪〈劇評〉『鏡山旧錦絵』「我童のお初、これもいつもの髷でなく、ちょうど桃割れのように見えた。それに試合の場の着付も例の黄八丈ではなかったのは別にある型か、それはとにかく尾上の顔色に心を察して行き渋る使いも、たっての云い付けに留守の間を主人の身に事無かれと神に頼んで行く可憐(いじ)らしさや、肩を擦りながら忠臣蔵を引き事の誠を込めた諌め言葉、その主思いの心根はわが我童丈によって完全に現されて居た。」『上杉謙信』「我童の長尾景虎後に入道謙信はやや覇気に乏しいが、とにかく新しい史劇中の人物になっていた。」『平家女護島』「我童の丹左衛門尉は品もあり情も見えて立派(後略)」『生写朝顔日記』「紫小紋の肩入れのある黒の着付に紫の帽子を付けた我童は朝顔に成り切っていた。琴の件りは独特の美音に見物を酔わせ、身の上話も悪く動かずに憂いも良く利かし、阿會次郎と聞いて『年月尋ぬる夫で御座んす』から杖が折れて手探りの引っ込みや大井川の場で床(竹本)につれての動きも良く無類の出来(後略)」11月 歌舞伎座(10月31日初日)大正期の二代目歌舞伎座「貞任宗任」丹後次郎「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」篝火「鼓観世」観世娘おすず「左小刀」京人形「近江源氏先陣館 盛綱陣屋」篝火「左小刀」京人形12月 帝国劇場(1日初日)帝国劇場「碁盤忠信」源義経、梶原景季「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は深雪「修禅寺物語」源頼家「三巴雪夜話」刀屋手代半七「生写朝顔日記」瞽女朝顔実は深雪「修禅寺物語」右 我童の源頼家、左 二代目市川左團次の夜叉王〈劇評〉『生写朝顔日記』「中幕の『生写朝顔日記』宿屋より大井川までは、我童得意の出し物。宿屋の道具が二杯の予定なりしを、五行(床本)通りの一杯に戻し、後の人形振りをも止めて、無事に人間のまま演ることにしたるは、松嶋屋が抜かぬ太刀の巧名、演らぬ前からの一ト手柄なり。その朝顔の役、顔立ちの長形(ながて)にて中高のキリッとしたるが意気に見えて、阿曾さんが駄目なら外のにでもしそうには思わるれど、目を塞いだる器量の滅法美しく色気あるには驚いたり。これを思えば、この優の目付きには日頃は凄味あるらしし。常に眼球(めだま)に注意すべし。琴の調べはよく、自ら唄う唱歌(うた)も女らしく哀れによく、駒澤が情けのことばの耳に残る様子、蟲が知らすか後に心引かるる模様、悪当込みなくて芝居を離れず、仁左衛門(おぢさん)のようなる手先ぶるぶるを少々配剤したるほか、さりたる臭味もなくて大出来。これで武家のお嬢様と云うシットリしたる持味さえあれば申分なしなれど、持って生まれた顔容(かおかたち)は是非がなし。大井川となりて、義太夫でお馴染の当たり場、領巾振(ひれふ)る山の件など、素直に当ててここも結構。欲には、前の場にて杖の折れしを打ち捨てしまま、空を手探りに駈けて来るを止めにして貰いたし。杖なしで来る来られぬの理屈は別としても、前の引込みと後の出とに、突張る杖の枷がなきため仕事が出来ず、壁を伝って歩いているような容(かたち)は色消し千万。この一つは我ら飽くまで不得心なり。されど外々は手に入ってよく、阿古屋と比べてはグッと上等なり。この優の出世芸と云う程の事はあり。大評判芽出たし芽出たし。」
2026.01.27

○明治45年(1912年) 30歳1月 浪花座(1日~26日)「聚楽物語」関白豊臣秀次 「不破数右衛門」許嫁おつま、非人のおつま「当子歳〆たぞ〆たぞ」下女お松2月 京都座(2日~23日)「奴の小万」木津屋娘お雪後に奥女中小万、茶屋女奴の小万「中将姫 豊成館雪責の場」妻桐の谷「酔菩提」俠客野晒悟助〈新聞評〉「我童・長三郎(林長三郎=二代目林又一郎)の両坊ちゃんが人気取の競争は烈しゅう……」(大阪朝日新聞1.28)「不思議に好人気である。七日の如きは三時各等売り切れの盛況であった」(京都日出新聞2.9)〈記者評〉「二月は京都の京都座で、徳三郎との一座を打った。この時から以前は徳三郎と五分五分でいた優が、いよいよ座頭格に坐ることになった。即ちこの興行から見物は徳三郎を客にして、一口に松嶋屋の芝居と呼ぶようになった。これは葉村屋の人気が漸次我童に推移してきたと見るべきで、狂言の如きもほとんど我童中心で、一番目に『奴の小万』、二番目に『野晒悟助』、中幕に徳三郎の『中将姫』に桐の谷をやった。そして出来栄えを言えば野晒悟助が結構で、スッキリ色気のあるいい達衆であった。殊に序幕の花道の出は誰がやっても儲かるところながら、この時は素敵な人気で満場鬨の声をつくりばかりの勢いであった。」(「演芸画報」大正5年9月号)○3月 浪花座(1日初日)※2月京都座をそのまま移しての興行。〈劇評〉「『中将姫』我童のこの役(妻桐の谷)は人気のある優だけに、出ると声はかかるが、強いて賞めるほどでもない。と云って決して悪くもないが、戸の外に居る間の表情が足りなかったり、またある時には誇大に過ぎるようなところもあった。『酔菩提』我童の悟助はまづ無難の出来、顔(化粧)の拵えもよかった。」(「演芸画報」明治45年4月号) 〈記者評〉「延若、我童の人気は京大阪ともにこの前後は五分五分の形で、ここかしこに両優の人気争いや、競争的の暗中飛躍を耳にした。そしてこの興行の如きは、延若東上の留守中とあって、一層松嶋屋に贔屓のついた形があった。こうして素晴らしい人気の内に、翌四月には東上して歌舞伎座出勤の話が纏まったのである。」(「演芸画報」大正5年9月号)4月 東京 歌舞伎座(10日初日)「白拍子祇王」白拍子佛御前「双蝶々曲輪日記」あづま「新作所作事 五條橋」牛若丸「新作所作事 五條橋」右 我童の牛若丸 左 二代目市川段四郎の武蔵坊弁慶〈本人談〉「一番目の『佛御前』は私はまだ東京風の史劇、いわゆる活歴の舞台に馴れませんから、今度は変な小さい芝居をして笑われるより、ただ神妙に控え目に演じて、他との調和を破らないように心掛けるつもりです。つまり私に東京風の芝居がどれくらい出来るか自分で試して見るつもりだす。そのかわり『曲輪日記』のあづまは純大阪式にやって、上方式の味を発揮したいと思っています。拙くともどこか違った味を発揮したいと思っています。牛若丸(『五條橋』)はスッカリ能掛かりで、気品と形で見せる役だすが、まだ見当がつきまへん。」※片岡土之助の時分以来、16年ぶりの上京。〈本人談〉「何しろ早急の話しで、先月(三月)の二十二日、浪花座の楽(千穐楽)の日に芝居をしながら荷造りを指図するという騒ぎ、すぐその晩梅田を出発点したもんだす。大変な見送り人で、見送って頂く方ばかりで一等が満員の大混雑で私は立往生だす。京都でも沢山見送って頂きまして嬉しゅうおました。名古屋へまいりますとスッカリ酔うてしまいまして、頭が痛みますもんだすさかいに下車いたしまして、二日ほど逗留いたしました。二十六日に新橋へ着きました。(中略)ゆくゆくは東京(こちら)に永く置いてもらって、自分が十六年間大阪に居りました間、一つや二つの当たり狂言でもありましたろうから、今度のように初役ではなく、私が相当に苦心して研究した自信ある狂言を、皆さんに見て頂きたいと思っているのだす。」明治期の初代歌舞伎座5月 名古屋末廣座(5日~12日)『五代目中村歌右衛門襲名披露 名古屋興行』「真説義士誉」瑤泉院、大石主税、赤垣源蔵「本朝廿四孝」腰元濡衣「心中宵庚申」甥の太兵衛「曾我物語の一節 和田大酒盛」曾我十郎祐成6月 東京歌舞伎座(18日初日)「生写朝顔日記」深雪「大山詣」西野や東吉「生写朝顔日記」深雪〈記者評〉「(前略)ただ例により十八番の朝顔は好評嘖々深い感激を与えて、若い優の前途に嘱望する好劇家も少なくなかった。」7月 市村座(14日初日)「箱根霊験躄仇討」瀧口上野之助「難波の梅吉」同心八十充進「縁」お柳「恋飛脚大和往来」亀屋忠兵衞「恋飛脚大和往来」右から尾上卯三郎の丹波屋八右衛門、我童の亀屋忠兵衞、岩井粂三郎の梅川、尾上樂三郎の井筒屋おえん※7月30日、明治天皇崩御。即日、皇太子嘉仁親王が即位し、元号が大正と改まる。○大正元年(1912年)9月 市村座(20日初日)「東台夜話」天野八郎「駅鈴」娘おみち「望月」望月左衛門「近頃河原達引」猿廻し与次郎〈記者評〉「しかし優の第一回の上京もいづれかと言えば成功ではなかった。そして優が成敗を問わずさらに一年二年と踏み止まって修業するだけの勤勉さに欠けていたのは情けなかった。こうして、いわゆる竜頭蛇尾の形で帰阪した十一月。翻って大阪の人気はと見ると、これはまた案外にも非常な優勢で、贔屓連は大成功の帰阪として歓迎した。大阪で本当に確かな地盤が出来て、真に座頭待遇を受けるようになったのは、一にこの上京の結果と謂ってもよかろう。」(「演芸画報」大正5年9月号)11月 角座(1日~22日)「関白秀次」関白秀次公、前関白秀次「野崎村 久作内」娘お染「橋弁慶 五條橋」西塔武蔵坊弁慶「新作 秋の雨」尾花屋倉吉、松蔵女房おくら「ちょうどこの興行の前に優は東京帰りとあって大阪風の乗込みをやった。夕刻梅田駅から車を連ねて道頓堀へ出て角座に着き、手打ちを済まして道頓堀一帯の芝居茶屋へ挨拶に廻るのに過ぎないのであるが、私はこの時ほどしみじみと大阪という土地の嬉しく思われたことはなかった。それは角座前から道頓堀一円、その乗込みを待ち受ける大勢の見物が、ひたすらに我童の帰阪を喜ぶ純な心持ちが群衆の波に溢れていたからであった。そして数十軒の芝居茶屋が、大きな燭台に百目蠟燭の光りまばゆく、玄関には緋の毛氈を敷きつめて金屏風を立て廻し、正面に内儀が坐ってその挨拶を待ち受ける古風な情景は、まことに華々しいものであった。このなかを縫って美しい素顔の我童が、羽織袴に草履履きで、銀杏鶴の常紋の多数の高張提灯に取り囲まれて、一軒一軒と挨拶に廻る──これを見ている見物の意気、大阪の昔のままの芝居茶屋。そうして我童と云ういかにも花形らしい花形役者。私はただもう夢心地に人なだれのままに、進みつ戻りつ秋の夜の道頓堀の古めかしい燈火のなかを彷徨うのであった。」(「演芸画報」大正5年9月号 三宅太郎述)〈記者評〉「しかし、こうしてお祭り騒ぎの人気が立ったに係わらず、役の出来栄えは香しくなかった。私は我童が座頭として振舞うだけに、前よりも一層その生地が鼻についてならなかった。お染のほかは、ことに柄にない弁慶と来ては恐縮物であった。」12月 浪花座(11月30日~12月15日)「小諸節」関の小万「黄鳥墳(うぐいすづか)」非人長柄の松実は佐々木源之助「染模様妹背門松 蔵前のだん」竹本南松軒(※素顔で出語りをつとめる)〈記者評〉「(前略)ところでしばらくこの人の当たり芸に接しなかった私は、佐々木源之助を見て驚いた。実にオットリとした古風な前髪の若衆立役である。やることの生地が出ずに巧いものであった。思えば横山太郎がいい人だ、この役が巧いのも理の当然とは言いながら、むしろ私はああ云う大まかな狂言の味わいをそのまま見せた点に敬服した。これはまさに当たり芸として推奨しておきたい。」○大正2年(1913年) 31歳1月 京都明治座(1日~22日)『片岡我童・嵐徳三郎 青年俳優大一座』前年12月の大阪浪花座興行と同じ狂言立てに、中幕狂言として「曾我物語」が加わり、曾我五郎時致をつとめる。〈新聞評〉「……明治座の我童(まつしまや)さかんに独りよがりをして一番目で小諸節を唄ったかと思うと、切で素人浄瑠璃と来たものなり。(中略)殊更切の出語りなど道楽もあれ迄いっては、癪に障わらざるを得ず……」(京都日出新聞1.19)2月 浪花座(2日~3月10日)『新旧合同』「生さぬなか」渥美妻真砂子4月 御園座(11日~18日)「生さぬ仲」渥美まさ子〈新聞評〉「継母と継子とが新味に優る真情を感応さするというを主眼に、友情や腹の黒い親や其の他複雑な筋道を点綴した、頗る通俗的の砂糖仕立(中略)、今度の新旧合同は成功とは言えない。白(せりふ)と所作と表情の三つが両者互いに不調和のため、茲(ここ)という味が更に頭に響かず、折角期待したに獲物の少なかったは遺憾であった。」(名古屋新聞 4.13)〈参考〉新作劇の女性役に扮した片岡我童(狂言及び役名は不詳)5月 角座(3日~25日)「後編 生さぬなか」渥美真砂子「あしべ踊」踊り子※「二十六日、一座中の徳三郎、我童、福之助三名の発企で吉三郎、璃玨以下三十余名に新町の(中略)舞妓数名が加わり(中略)香里園へと繰り込んで、『生さぬなか』劇成功デーを兼ねて園遊会が催された」(大阪毎日新聞5.27)6月 京都座(5月31日~6月21日)「女歌舞伎」歌舞伎太夫桐大内蔵「野崎」娘お染「燕子花(かきつばた)」大工六三郎7月 御園座(2日~7日)「奴の小万」奴の小万実は木津屋娘おゆき「妹背山婦女庭訓 三笠山御殿の場」扇折求女実は藤原淡海「冥途の飛脚」亀屋忠兵衛〈新聞評〉「『冥途の飛脚』にて忠兵衛に扮する我童は、羽織落としより茶屋場まで上下二幕にて、松嶋屋専売妙味を振い、頗る喝采を博し居れり」(名古屋新聞 7.6)9月 名古屋 末廣座(6日~12日)「雪月花闇争」怪狐実は東国太郎「曙朝顔日記」瞽女朝顔実は深雪「史劇 熊王丸 河内赤坂場内の場」熊王丸「おその六三 盟縁結」大工六三11月 松島八千代座(10月31日初日)「大阪陣」大野修理之介、木村長門守重成「御牛(みうし)」紀友春「俠客春雨傘」玄之進娘お鶴後ニ松葉屋傾城薄雲※二の替り(15日~26日)「赤穂義士伝」浅野内匠頭長矩、大石松之丞良金、堀部安兵衛武庸、大石嫡子主税「廓文章 吉田屋の場」扇屋夕霧○大正3年(1914年) 32歳1月 浪花座(7日~24日)「梅薫時如月」宮木左門之助重勝「本朝廿四孝 十種香 狐火」息女八重垣姫3月 南座(4日~19日)「天保の改革」子分金太実ハ遠山左衛門尉景元「吉野拾遺之内 小楠公」楠帯刀正行「奥州安達原」瞽女袖萩「維新三傑 木戸孝允」三本木芸妓幾松4月 中座(2日~29日)「雲雀山」長谷部信廉、横佩朝臣の息女中将姫「曾我 曾我中村の場」禅司坊実永「堀河波の鼓」鼓師匠宮地源右衛門5月 松島八千代座(10日~20日)「聚楽物語」不破伴作「朝顔日記」瞽女朝顔実は秋月娘深雪「冥土の飛脚」亀屋忠兵衛「所作事 姿彩色」祇園お梶9月 浪花座(6日~24日)『新旧合同』 「藤浪」渉の妻苗子後に秋葉美保子「遺恨二十年」給仕女後に大尉夫人リーネ10月 南座(4日~19日)『新旧合同』「所作事 松縁都錦絵」丁稚久松、娘お染、狂女お光、雷神、子守女おつる 〈新聞評〉「……切の我童五役七替りが評判。殊に雷神が三味線の曲弾きは松島家党大喝采」(大阪毎日新聞10.7)11月 浪花座(10月31日~11月21日)「小笠原流礼忠孝」小笠原隼人、蘭の菊平実は明神ヶ岳の霊狐、小平治女房お早「佐々木高綱」子之助姉おみの「廓文章」藤屋伊左衛門○大正4年(1915年) 33歳1月 浪花座(2日~26日)『市川斎入(初代)引退興行』「豊臣秀康」妹花枝「近江源氏先陣館」竹下孫八「住吉踊」燕坊〈記者評〉「(前略)『豊臣秀康』で妹花枝一役を見せた。これは延若、福助(三代目梅玉)に比べて確かに役不足であったが、何でも前年一杯、我童の芝居があまり入りがなかったので我慢させられたとか云う噂を聞いた。」(「演芸画報」大正5年9月号)2月 京都明治座(6日~21日)「実録仙台萩」伊達陸奥守綱宗、細川新平「壷坂霊験記」女房お里「牛若源太」荷持幸吉「冥土の飛脚」亀屋忠兵衞3月 大阪 堂島座(3日~16日)「朝妻物語」館林参議後に五代将軍綱吉「壷阪霊験記」千手千眼観世音「妹背山 三笠山御殿の場」豆腐御用おむら「おその六三郎 恋のさき金」大工六三※二の替り(19日~26日)「鏡山旧錦絵」召使お初「氏家左近」氏家左近「染模様妹背門松 油屋店先之場」山家屋清兵衞4月 南座(1日~15日)「有馬の猫」有馬中務太輔頼僮、牧の方召使お仲、小姓秀之進、腰元松島、女太夫お竹実は怪猫「忠義桜」華岳寺徒弟良雪「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の場」古手屋八郎兵衛「都踊」踊り子〈新聞評〉「我童の怪猫は早替りの鮮やかさが評判がよい」(大阪毎日新聞4.3)「我童を始め一座の連中は大入り続きのお祝いとあって九日打出し後(中略)観桜の宴と洒落た」(同4.10)※二の替り(18日~27日)「仮名手本忠臣蔵 大序より七ッ目」塩冶判官高定、千崎弥五郎、女房お軽、伯人(遊女)お軽「堀川 与次郎住家の場」猿曳与次郎「都踊」踊り子5月 中劇場(8日~23日)「奥州安達原 三段目」貞任の妻袖萩「三人吉三廓初買」八百屋お七実は旅役者お嬢吉三、丁子屋の一重7月 名古屋 御園座(2日~7日)「奴の小万」木津や娘おゆき後に奴の小万「妹背山婦女庭訓 三笠山御殿の場」扇折求女実は藤原淡海「冥土の飛脚」亀屋忠兵衛12月 南座(11月30日~12月18日)『御大典紀念顔見世興行』昼の部第一「冬姫」名古屋山三郎同第二「伊賀越 八ッ目」娘お袖夜の部第七「所作事 三輪」三輪明神、大和の女※中村魁車病気休演のため「かりのたよりまいらせそろ」の妾司を代演、興行主の松竹より感謝状とダイヤ入り純金メダルを贈られる。
2026.01.27

○明治41年(1908年) 26歳1月 朝日座(1日~21日)『新旧合同』「月魄(つきしろ)」川上家令嬢倭文子、久松夫人倭文子3月 南座(3日~24日)「己が罪」侍女たまき、娘たまき、妻たまき「熊王丸 河内赤坂城内の場」熊王丸後に正寛法師「朝顔日記 宿屋より大井川まで」瞽女朝顔実は深雪「所作事 恵方乗合船」通人芦燕※興行主─松竹合名会社4月 朝日座(1日~21日)「寒潮」久保田令嬢町子、不二雄妻町子5月 朝日座(1日~20日)「靱猿」餅売娘おつる、為木妾おつま「須磨都源平躑躅」小萩実は無官太夫敦盛6月 朝日座(1日~21日)『新旧合同』「浪よ暴風よ」(※英国小説「ボンドマン」翻案)倉田異母妹折葉「双蝶々曲論日記 大宝寺町米屋内の場」放駒長吉8月 弁天座(6日~27日)「小幡怪異雨古沼」香西喜次郎9月 弁天座(9日~27日)「十二時會稽曾我」曾我五郎時致「小三金五郎 南詠恋抜翠」太鼓持六ツ八実は木津屋六三郎10月 角座(3日~18日)「大塩平八郎」大井正一郎「木村長門のうち 兜の香」豊臣秀頼、注進半田小次郎「さくら時雨」吉野太夫11月 角座(1日~16日)「四千両銀杏合紋」伊丹屋の倅徳太郎、囚人頭燕平「真田幸村」鍋松の妹崎野※二の替(20日~12月7日)「酔菩提悟門松」不破伴作「和国橋当次」(※国姓爺合戦を世話狂言に書き換え)巾着切竹門の虎12月 角座(10日~20日)『忘年劇』※狂言日替わり「源平布引滝 九郎助住家の場」女房小万「関取千両幟 猪名川内の場」弟子角力鉄割「敵討襤褸錦 大安寺堤の場」寒念仏妙念「黄八丈 白木屋の場」番頭丈八「喜劇 仕組稽古屋」高山善八郎実は燕○明治42年(1909年) 27歳1月 朝日座(1日~22日)「雪中松」愛妾お松の方、仁右衛門娘お松、山城屋妹お松「朝長」中宮太夫朝長「桂川連理柵 帯屋の場」丁稚長吉、信濃屋おはん「所作事 紅葉狩」戸隠山山神〈劇評〉「この一月興行で我童は、一番目の下らない新狂言(『雪中松』)」の役の外に、『帯屋』のお半と長吉を勤めた。後で聞けばお半は優の最も嫌な役だったそうであったとかで、そのせいか、天下無類の振袖姿の美しさを除いてはそれほどでもなく、……(後略)」(「演芸画報」大正5年9月号)2月 朝日座(3日~24日)「闇争(だんまり)」娘お賤実は盗賊小狐礼三「二宮尊徳」二宮金治郎「所作事 胡蝶」岸松縁之丞3月 京都明治座(2日~23日)「争闇(だんまり)」娘お賤「銀婚式」芸者歌次、女房お歌「松平長七郎 日本橋の場」松平長七郎「千本桜 釣瓶鮓屋の場」下男弥助実は三位中将惟盛「所作事 胡蝶」岸松縁之丞※興行主─松竹合名会社〈劇評〉「優の出し物としては『松平長七郎』を叔父(十一時代目仁左衛門)写しで見せた。不思議にも彌助はヤニッコイばかりで(中略)、……長七郎は押出しもよく、眼目の左抜きの形もいい方で小松屋の気焰を上げたものであった。」4月 朝日座(2日~23日)「岩見重太郎」妹お辻、女郎和歌浦実はお辻「四ツ目紋名誉染上 木村邸告別出陣の場」木村長門守重成「芦辺踊」踊子松吉〈劇評〉「中幕に優の出し物として『長門守出陣の場』と言う変な狂言を見せた。これは緋縅の鎧を着た長門守が老母に別れて出陣するだけの蒟蒻問答で、無理に叔父さん張りをやって困った代物であったが、(後略)……こう言う悪狂言揃いに係わらず大入りであったが大阪でのこの二回目の興行でも我童はあまり香しくなく、独り延若(二代目實川延若)の傍若無人の芸風が人気があって……(後略)」5月 朝日座(1日~23日)「女さむらひ」伊勢屋下女お小夜、中村要人「柵(しがらみ)」芸者艶子後に岡崎妻お長〈劇評〉「我童は中幕で『柵』と言う新派物を出した。即ち主人公の芸者になって芸者の意地と云ったような台詞がウンとあるので、南地(ミナミ)辺の芸者が連中(団体観劇)したとか言う噂を残しただけに終った。しかも『女さむらひ』ではモタレ役の娘を廣三郎(嵐廣三郎、五代目徳三郎門下)にやらせて、優が儲け役の女中に廻ったのが、あれはどこ迄も役どころを交換して、その娘役で神妙に我童美を見せて欲しかった。」6月 神戸大黒座「堪忍袋」木村長門守「新版歌祭文 野崎村の場」油屋娘お染〈劇評〉「更に私が優の当たり芸として挙げたい『野崎』のお染を見せた。長門守は確かに水際の立った男ぶりで老巧な璃珏(四代目嵐璃珏)の遠江守と共に面白い事であった。もしそれお染に至ってはさながらに原作の安永年間の大阪の大家の嬢(とう)さんもかくやとばかり、感嘆の外はなかった。」7月 京都歌舞伎座(4日~17日)「大岡政談 村井長庵」伊勢屋千太郎「伊勢音頭」福岡貢※興行主─松竹合名会社9月 朝日座(1日~23日)「猛火」須川夫人民江「重井筒」丁稚三太郎「所作事 菊人形」朝日奈三郎10月 朝日座(9月30日~10月21日)「浪がしら」多満枝弟譲「千本桜 すしやの場」妹お里「朝顔日記 宿屋より大井川迄」盲女朝顔実は深雪11月 朝日座(10月31日~11月21日)「菅原伝授手習鑑」舎人桜丸(車曳)※中村成太郎の代役、春藤玄蕃(寺子屋)「女殺油地獄」小栗八弥「浜松寄白浪 浜松屋の場」早瀬息女皆瀬実は弁天小僧菊之助〈劇評〉「弁天小僧はいわゆる場違い物、玄蕃は無理な役、桜丸はいい方で、“讒言によって御沈落”で膝をつく上方型をやった(後略)」12月 松島八千代座(11日初日)「雪中松」愛妾お松の方、仁右衛門娘お松、山城屋妹お松「鬼一法眼三略巻 菊畑の場」奴虎蔵実は源牛若丸○明治43年(1910年) 28歳1月 南座(1日~22日)「八犬伝」犬飼現八「小栗判官車街道 人形廻しの場」横山太郎「女殺油地獄」小栗八彌 「所作事 廓の花は奴戻り駕」奴燕平〈劇評〉「『八犬伝』に犬飼現八とか言う我童の柄にない豪傑振りで閉口したが、(中略)優は中幕の『小栗判官』の人形廻しの横山太郎で気を吐いた。この役は確かに当たり芸であって実に大舞台の、歌舞伎味の深い若衆役であった。私はこの味わいある出来栄えを見て、今更ながら我童には何人の追従も許さない領分があるのを知った。」「こうして延若、我童の合同一座が打廻ること一年と一ヶ月、この興行を最後として両人が不和となった。贔屓同志の衝突とも云い、本人同志の反目とも云う。いづれにしても何処かに両人の芸風には相容れないある物があったのは事実であろう。しかし我童にとっては延若と離れたのは芸の上の得失はしばらく措いて、地位上では確かに利益であった。」3月 角座(1日~22日)※東西合同興行、市川八百蔵(七代目市川中車)、六代目尾上梅幸、七代目澤村宗十郎、来阪「伽羅先代萩」左京妻沖の井、荒獅子男之助「岸姫松轡鑑 飯原兵衞邸の場」飯原隼人之助「安宅関」伊勢三郎義盛「松平長七郎 摂州大和橋の場」松平長七郎信孝「神楽諷雲井曲毬 中の島公園の場」笛吹亀吉〈劇評〉「長七郎はやはり好評の方であったが、男之助には驚いた。もっともこの顔触れでは無理に優に押しつけたものとも見えた。」4月 角座(2日初日)『新旧合同』「寄生木(やどりぎ)」篠原良平「御所焼」井筒女之助実は鏡若狭5月 南座(3日~19日)「荒木又右衛門」娘お峰「良弁杉」近習数江「碁盤太平記 山科の場」大星力彌「本朝廿四孝」白須賀六郎※興行主─松竹合名会社〈劇評〉「福助(三代目中村梅玉)の持役に対して役不足の気味はあったものの、今に我々は我童が単に鴈治郎一座ばかりでなく、他の大一座ででもこの位の役どころから辛抱して修業してほしいと思っている。さてこの時の力彌はさすがに我童で、軽い役でも立派な出来で鴈治郎の出し物をこの一役で一段と大きくした感があった。」6月 京都岩神座(24日~28日)「生写朝顔話 宇治川舟遊より大井川まで」秋月の娘深雪、瞽女朝顔実は娘深雪「与話情浮名横櫛 玄冶店妾宅の場」向疵の与三実は伊勢屋与三郎※興行主─松竹合名会社〈劇評〉「六月はたとい短時日の興行にしても、我童が初めての座頭芝居を同地の岩神座で打った。この時に十八番の『朝顔日記』を蛍狩りより宿屋まで見せた。深雪の絶品は言うだけ無駄である。大切として『玄冶店』の与三郎をやった。深雪のいい印象を打壊されたようなものであった。」〈新聞評〉「我童一座は好況にて殊に『朝顔日記』は同優のお得意ものとて観客大喝采なるが……」(京都日出新聞6.27)7月 京都歌舞伎座(8日~25日)「新種園朝顔」柳橋芸者お梅〈劇評〉「七月はいよいよ書出し格に坐って、仲のいい徳三郎(五代目嵐徳三郎=六代目嵐璃寛)との合併芝居を同地の歌舞伎座であけた。出し物は『朝顔日記』の作り替えのような変なもので、一向に他愛ない代物であった。ただし確実に書出し格の地位を占めた点において、この興行は優のために記念すべきものであろう。」※九代目市川團十郎女婿堀越福三郎、初代中村鴈治郎門下“林長平”として、九州巡業先の小倉常盤座にて初舞台を踏む(京都日出新聞7.11)。堀越福三郎は後の五代目市川三升、昭和31年没後に十代目市川團十郎を追贈された、市川宗家の権威を継承した最後の人なり。9月・10月(9月26日~10月7日) 中座「岡山実記」在原業平の仕丁、侍女小菊※初代中村鴈治郎、五代目嵐徳三郎、四代目嵐橘三郎、二代目中村梅玉、及び堀越福三郎出演11月 稲荷文楽座(1日~17日)「暗闘(だんまり) 金華山の場」富貴太郎正純「箕面公園地」大工棟梁松本宗太郎「伽羅先代萩 竹の間より対決まで」乳人政岡、仁木弾正直則「桜鍔恨鮫鞘 古手屋八郎兵衞内の場」古手屋八郎兵衞「春色梅開暦」芸者仇吉「伽羅先代萩」仁木弾正直則※二の替り(18日~28日)「恋衣入相桜」清水清玄「阿女郎忠次」伊勢屋忠四郎実はお女郎忠次12月 稲荷文楽座(1日初日)「義士銘々伝 赤垣別レの場」赤垣源蔵「バットウーマン」銀杏のおつる「奥州安達原 袖萩祭文の場」桂中納言実は安倍貞任、貞任妻袖萩「紙子仕立両面鑑 大文字屋の場」大文字屋番頭權八、万屋助右衛門「廓文章」藤屋伊左衛門※12月23日、同座における「俳優浄瑠璃會」に出演〈記者評〉「要するに(明治)四十三年は我童が延若と手を切っての一人旅で、いづれかと言えばあまり順調ではなかったようである。」 ○明治44年(1911年) 29歳1月 中座(2日~23日)「本朝三国志」東城之助春忠、傾城小磯「月薫」角兵衛獅子2月 京都明治座(1日~22日)「中将姫」息女中将姫「所作事 新曲 墨塗」太郎冠者「昔暦初午詣」下女お玉〈新聞評〉「(「墨塗」)能狂言から脚色したもので徳三郎、延三郎、我童の三人が顔へ墨を塗り合う辺りは見物一同、臍をよじらすと……(後略)」(京都日出新聞2.4)〈記者評〉「前年まで遊軍の気味のあった優もこの頃から追々と基盤が固まって、一歩一歩松嶋屋の人気を高めてゆく感があった。」3月 浪花座(4日~25日)「菅原伝授手習鑑」判官代輝国(道明寺)「増補忠臣蔵の一節 丹後鰯 石堂館茶室の場」(十代目片岡仁左衛門追善狂言)石堂縫之助「享和春両国紀聞」大吉屋おつな、金猫のおつな4月 浪花座(3日~26日)『新旧合同』「高野の義人」甚内娘芳野、桜茶屋お兼「所作事 新曲 墨塗」太郎冠者5月 朝日座(1日~22日)「新明烏」娘お浦、侍女お浦、今戸銀次、山名屋浦里、傾城浦里「所作事 吉野山 正行閑居三ツ面」弁の内待※後援会「松美会(しょうびかい)」が創立される。6月 朝日座(5月31日~6月21日)「崇禅寺馬場」重三郎実は安藤喜八郎「縁(ゑにし)」寡婦お柳「所作事 左小刀」京人形「所作事 勢獅子」仕事師東吉11月 角座(2日~24日)『新旧合同』「史劇 熊王丸」宇野熊王丸後に正寛法師〈記者評〉「そしてこの年の五月は『松美会(しょうびかい)』と言う有力な連中の創立と共に、優の人気は旭日昇天の勢いになってきた。しかしここに注意すべき事は、こうして二流芝居で、ある時は書出し、ある時は座頭格で大役を勤め出してから、急に妙に納まりかえった身振りと、舞台を疎かにする欠点が露骨に見えてきたことである。頭を抑えるだけの大立者に離れた結果と言うべきであろう。何故ならば、優の上出来な役はこの時よりも、身分の軽かった前期に多く見るからである。それで私はこの頃の我童の芝居では出し物の悪い上に、延若が自分の一座で専横に振舞う不快さと同じ程度の不快を禁じ得なかったので、(中略)ずっと我童の芝居には引き下がっていた。もっともこの年に優が一本立ちでやった芝居は、いづれも愚劣な新作と、新派の狂言であったので、取り立ててどうと言うべき程のことはなかろうと思われる。」(「演芸画報」大正5年9月号 三宅太郎述)
2026.01.27

○明治28年(1895年) 13歳1月 弁天座(1日初日)「姫競二葉絵艸紙」弟長三郎3月16日、養父三代目片岡我童、発狂して入院。弁天座にて三月に予定されていた、八代目片岡仁左衛門三十三回忌及び祖先二百年忌追善、我童改め“九代目”片岡仁左衛門及び片岡東吉改め二代目片岡土之助襲名披露興行(「八陣守護本城」「名誉成復讐 馬切」「契情春陽鵯」「男競三国湊」)は、全快するまで延期となる。一時は平癒したが4月9日に危篤となり、15日18時30分死去。享年45歳。三代目片岡我童〈経緯〉「仁左衛門の襲名披露興行は道頓堀弁天座に於て開場することになり、既にその看板も上げて近日初日という時に仁左衛門(三代目我童)は発狂して病没したのである。発狂の原因はこうだ。初め仁左衛門は右團次(たかしまや)に襲名の話をしたところが、右團次は大賛成で、ぜひ自分は一座したいが角座へ出勤中だから自由が利かぬ。けれどもせめて口上場だけはきっと都合して同席しようと堅く誓約した。仁左衛門はそれを厚く受けて、気の良い人だから涙をこぼして右團次の好意をくり返しくり返し人に話していた。ところが弁天座開演間際になって右團次はこの旨を角座の座主に話すと不承を唱えて右團次を離さない。そこで右團次も困って、面談するは心苦しと書状にしたためて仁左衛門の許へ断りを述べにやった。一直な仁左衛門はこれを読んで非常に落胆し、フト取り上(のぼ)せて発狂してしまった。もとより病因は遥かの前に萌してあったのだろうが、片岡一家をはじめ贔屓連中は右團次が発狂せしめたように思うのも無理はない。末派の気の早い輩は右團次を殺すと怒鳴ったのもある、東京から馬鹿安という先生がやってきて右團次の宅を襲撃しようとしたそれらを今の十一代目仁左衛門や我童母子らがいろいろと宥めて止めたそうだ。これらに関して輪に輪をかけた風聞が広がり、一時は道頓堀に殺気が漲った。右團次の側から言えば、また大いに諒とすべき点がある。ただ、失は故人とあまりに堅く約束したその軽挙にある。このゴタゴタは浪花の俠客小林左兵衛の訳の分かった仲裁によって氷解し……(後略)」5月 弁天座(8日~30日)※片岡我當(十一代目仁左衛門)、初代中村鴈治郎、二代目中村梅玉、三代目片岡市蔵加入「八陣守護城」侍女松島にて、二代目片岡土之助と改名〈本人談〉「切が『三人新兵衛』で之に口上場が一幕ついて居ります(中略)、口上場では叔父(十一代目仁左衛門)が亡父の位牌を舞台に持ち出して、『仁左衛門もこういう姿に相成りました』と口上をいいました(後略)」八月 名古屋末廣座(1日~9日)「因幡小僧雨夜囃」繁之丞弟要治郎 「義経鞍馬山実記」源牛若丸「踊りの稽古が第一ですから、私が亡父の師匠でもありまた幼時の師匠だから花柳(壽輔)へ行こうとすると、成田屋(九代目市川團十郎)はじめ片市(三代目片岡市蔵)も藤間の方へ行けと云いますし、また音羽屋(五代目尾上菊五郎)はやはり花柳の方がよかろうと板挟みになりましたから、仕方なしに両方へ通いました(後略)」「芝居へは一切出してくれません。家にはいまの十蔵さん、当時の亀さんがいます(三代目市蔵の養子、後に四代目片岡市蔵)。よく二人喧嘩をしました。片市は身の為にならぬと云って小遣いはたかだか五十錢くらいしかくれませんから不自由で、月に二三度、今戸の母に会いに行って小遣いをねだって来ては、それでおりおり車に乗ったりしました」○明治29年(1896年) 14歳1月 東京歌舞伎座(23日初日)「増補桃山譚(地震加藤)」「新年會」にて二代目片岡土之助を襲名左 三代目片岡市蔵 右 東吉改め二代目片岡土之助〈本人談〉「配り物の扇には成田屋(九代目市川團十郎)が直筆の松を描いてくれました。(中略)『新年會』は一座の俳優は皆素顔地頭で羽織袴、そして舞台の上にもう一重舞台を作ってそこで子役ばかりで『車引』をやらせます。新年会でそれを見ている心持ちでしょう、その席へ私が片市(三代目片岡市蔵)に手を引かれて出ますと、成田屋が見て“あすこに居るのは何処の子だ”と云いますと、故人になった壽美藏が“市さんの子か”と尋ねると片市が“イエこれが仁左衛門の子です”と云う、“親が無くとも子は育つ”と成田屋が工藤もどきの台詞を云って、それから口上を云ってくれました。この興行の間に私は重い疱瘡を煩って、危ういところで命をとり止めましたそうです。(後略)」2月 明治座「猿廻門出の一諷(近頃河原達引)」娘お鶴〈本人談〉「その次は明治座で音羽屋(五代目尾上菊五郎)が“俺も口上を云ってやろう”と、『猿廻し』で与次郎をして伝兵衛は菊之助(二代目)、お俊は今の梅幸(六代目)、私は娘お鶴でした。駒形の師匠に長唄を習ったおかげでその時舞台で長唄を私が唄いますと、この唄の間に与次郎が芋を煮たりいろいろな例の音羽屋一流の凝り性な細かいところを演じて、お俊が出て来ますと“お俊お前は知っているだろう”とそれから口上、襦袢一つで世話に砕けたうまい口上を云うてくれました」※この狂言で音羽屋は本物の猿を使って失敗す。「そうこうして居りますうちに叔父(十一代目片岡仁左衛門)が上京して本郷座へ出る事となりました。(中略)本郷座でまた叔父が口上を言うてくれました。叔父の御目見得狂言は『神霊道真実記』『古八(桜鍔恨鮫鞘 鰻谷)』『丸橋忠弥』で、訥子(七代目澤村訥子)も一座で忠弥は訥子の出し物でした。叔父は東京で三芝居が四芝居か打って大阪へ帰る時、母といろいろと話をして、とうとう私を同道する事となり、母は片付けのため一足遅れました。」
2026.01.27

○明治15年(1882年)9月9日、東京市浅草区今戸六番地(現 東京都台東区今戸1-2-2あたり)に生まれ、東吉と名付けられる。父は中村某、母は八代目片岡仁左衛門の娘つね。初名は中村東吉。(出生地の現景 令和8年1月)○明治18年(1885年) 3歳1月 千歳座(4日~7日)母方の伯父にあたる三代目片岡我童の養子となり、千歳座開場式にて片岡東吉を名乗り初舞台。※千歳座(現在の明治座の前身)(中央の子役が片岡東吉、左隣りが三代目片岡我童)「……團十郎(九代目)に五郎(五代目)、左團次(初代)、(市川)権十郎などの一座で私は亡父(三代目片岡我童=十代目仁左衛門)に手を引かれて小ぽけな裃をつけて花道からヨチヨチ出てきて成田屋(九代目團十郎)に口上を云って貰いました。役と云って格別の役もありません。ただ物言わない形ばかりの初舞台でした。」〈本人談〉○明治20年(1887年) 5歳“二丁目の芝居(後の市村座)”で行われた花柳壽輔(初代)の舞浚いにて、初めて本衣裳をつけて「鳶奴」を踊り、父我童が後見をつとめる。(左が片岡東吉、後ろの黒衣姿が三代目片岡我童)○明治21年(1888年) 6歳9月 名古屋 新守座(15日~)*修繕落成こけら落とし興行「根津神社忠臣鑑」新助倅里松「恋飛脚大和往来」新口村における滑稽(チャリ)の爺10月 名古屋 新守座7日~14日 二の替り「関取二代誉幼童」秋津島一子国松19日~ “御名残狂言”として「仮名手本忠臣蔵」二男大三郎「その興行の人気というものは実に大変で木戸口へ丸太の矢来が二重にしてあるのにそれが壊れるという有様でした。(中略)名古屋のお方は今でも其時の大入の話しをしられます位です。」〈本人談〉○明治22年(1889年) 7歳2月 大阪 角劇場(13日~3月5日)※養父三代目片岡我童、14年ぶりの下阪。「けいせい染分総(そめわけたづな)」〈とんとん三吉〉丁稚庄吉御目見得狂言「名大阪贔屓大阪」子藤吉「……駕(かご)で大阪へ乗り込みを致しましたのが私の七歳の時、丁度明治廿一年のことです。大阪は御承知の如く川が幾筋もありますから船の乗り込みの方が派手で面白いのですが私の祖父に当たります八代目仁左衛門が初めての下阪に船で乗り込みをして大川から道頓堀、角座で『とんとん三吉』を演じましたが興行中に歿しました。だから船乗込は片岡家には不吉だと言うんで駕にしたのです。実に夥しい景気で道頓堀は申すに及ばず千日前まで人でギッシリ詰まりまして芝居の前茶屋へ一軒一軒、亡父(三代目我童=十代目仁左衛門)に連れられて私も挨拶に廻りましたが見物の人波に押されて苦しかったことは子供心によく覚えて居り升。(後略)」〈本人談〉戦前の道頓堀3月 京都 南側演劇場(18日~4月3日)「根津権現忠士功」一子黒松ほか、“友若丸”という役名でも出演、該当狂言不明。5月 角劇場(4日~22日)「百万石実入金沢」又助倅又市、娘おらく6月 角劇場(8日~24日)「大岡誠心録」一子千代松「播州皿屋舗」子分二ッ引藤吉9月 名古屋 末広座(7日~13日)「梅染松競加賀鳶」「名大阪贔屓大阪」公達竹千代丸、里ノ子松蔵、小姓左門12月 大阪 中劇場(19日~21日)『俳優年忘浄瑠璃大会』「御所桜弁慶上使」「二十四孝御殿」「彦山七ッ目」に出演、番付には“東京松島屋のぼんち 片岡東吉”とあり。○明治23年(1890年) 8歳1月 角劇場(10日~30日)「仮名手本忠臣蔵」奴当内、小姓東仙 2月 角劇場(10日~19日)「伊賀越読切講釈」倅次郎吉「四季模様白縫譚」娘お君3月 角劇場(16日~4月6日)「科戸風元寇軍記」弟子僧日細市川小團次二十五回忌追善狂言「其面影手向一奏」舞子おとら5月 大阪 弁天座(9日~25日)「浅間嶽朧御所染」女小姓舞振「今様道成寺」小僧西念6月 角劇場(10日~27日)「三花菱朝日曠着」前川基千代丸、娘おからき7月 大阪 浪花座(19日~22日)『俳優浄瑠璃温習会』初日「廿四孝四」、二日目「三かつ半七酒屋」、三日目「先代萩御てん」、大切「太功記十段目」初ぎく8月 浪花座(6日~23日)「廿四時改正新話」娘おしま「祇園祭礼信長記 金閣寺の場」織田三法師25日~18日『歌舞伎俳優慈善演劇』「菅原伝授手習鑑」“寺子屋の場”里の子市松10月 角劇場(4日~19日)日本文学博士末松謙澄 訳「谷間姫百合」娘おかん、浅利男長成11月 角劇場(1日~17日)「本朝廿四孝 桔梗が原より狐火まで」勝田松千代丸「恋飛脚大和往来」才蔵亀吉○明治24年(1891年) 9歳1月 角劇場(10日~26日)「名高砂新田景図」雛若丸「所作事 六歌仙墨画書物」仕丁花王3月 角劇場(14日初日)「姫競双葉絵草紙」足利光政若丸「双蝶々曲輪日記」子分二の字の松5月 浪花座(1日~24日)「島千鳥朝日写絵」小佐川友千代「風俗花見踊(所作事)」若侍6月 角劇場(12日~7月5日)「花菖蒲中山問答」「傾城筑紫つまごと」「伊勢音頭恋寝刃」“小姓かづま”、“童しま吉”で出演、該当狂言不明。8月 角劇場(6日初日)「真菰草」小姓新作、童松吉9月 大阪 中座(7日初日)「達模様恋晴染分 由留木館身代りの場」女馬子おさん10月 中座(7日~26日)「花紅葉根津神籬」松丸殿12月 角劇場(5日初日)「浪花奇談梅早咲」「縁結花顔触」“小姓銀之丞”、“一子次郎吉”で出演、該当狂言不明。○明治25年(1892年) 10歳1月 角劇場(1日~20日)「仮名手本忠臣蔵 大序~七段目」「近江源氏先陣館 八ッ目」一子国松2月 角劇場(4日~24日)「太閤軍記朝鮮巻」朝鮮の王子順和君「千代春古画書初」唐子 3月 角劇場(3月20日~4月14日) ※五代目尾上菊五郎来阪「老女岡村九重錦」「神明恵和合取組」“小僧千太”、“小金丸惟吉”で出演、該当狂言不明5月 角劇場(6日~25日)※五代目尾上菊五郎来阪「梅柳桜幸染(骨寄せの岩藤)」「小袖物ぐるひ(保名)」「弁天娘男女白浪」“娘おゑい”、“里の子松之介”で出演、該当狂言不明同 京都常盤座(8日~22日)※五代目尾上菊五郎来京「苅萱桑門筑紫𨏍 高野山の場」加藤石童丸6月 京都常盤座(12日~)「政治小説 雪中梅」生徒松之助7月 角劇場(17日~8月2日)「比翼鳥辺山」丁稚市松「明烏廓濡衣」禿みどり 10月 角劇場(7日~26日)「大喜利所作事 歌舞伎花姿幻燈」蛸11月 角劇場(1日~20日)「高根雪伊達聞書」伊達亀千代○明治26年(1893年) 11歳4月 浪花座(3日~23日)「大阪毎日新聞 福島中佐 国光誉」福島嬢 安子5月 角劇場(5日初日)「毎日新聞 蔓草花嫁競」丁稚長松6月 京都常盤座(4日~24日)「小笠原流礼忠孝」岡田良介娘おゆき「国光誉」福嶋(ママ)嬢 安子10月 角劇場(1日~23日)「相馬外伝 頼光勲功往昔噺」保昌娘小式部11月 浪花座(10日初日)「児雷也後編譚話」蟆童子仙素尼○明治27年(1894年) 12歳1月 角劇場(8日初日) 「都鳥廓白浪」吉田梅若丸2月 角劇場(7日初日)「倭仮名在原系図 蘭平物狂ひの場」奴蘭平倅繁蔵3月 角劇場(6日~28日)「那須与市西海硯」一子小太郎5月 角劇場(10日初日)「薺佳節」立浪蔵之助6月 京都常盤座(4日~24日)※5月の角劇場に同じ10月 弁天座(12日~11月3日)「歌舞伎対面曽我 三ヶ荘対面の場」工藤犬坊丸11月 弁天座(8日~27日)「仮名手本忠臣蔵 大序より茶屋場まで」“三の奥 落人の場”奴島平“七ツ目 祇園町一力の場”太鼓持松八12月 京都南座(1日~15日)※11月の弁天座に同じ
2026.01.27

○明治30年(1897年) 15歳 9月 角座(18日初日)「秀次譚 真書太閤記文禄の巻」小姓山田三十郎、大工東吉「鬼一法眼三略巻 吉岡館菊畑の場」奴虎蔵実は御曹子牛若丸10月 浪花座(13日~11月15日)「春日局」稲葉佐渡守嫡子千熊「敵討褸錦錦 大安寺堤の場」春藤新七11月 京都常盤座(21日~12月10日)「秀次譚」小姓山田三十郎「新古演劇十二集の内 大文字屋」丁稚長吉「廓文章 吉田屋の場」太鼓持飛出八○明治31年(1898年) 16歳1月 浪花座(1日初日)「蝶千鳥曾我実録」朝日奈三郎義秀「雪中松」大星力弥良包「染模様妹背門松 東堀内油屋の場」丁稚駒吉3月 大阪歌舞伎座(19日~4月7日)「裏表忠臣蔵」足利直義公、矢藤右衞門七9月 大阪歌舞伎座(9日初日)「新古演劇十二集の内 難波戦記余聞 木村長門守伝 堪忍袋」薄田隼人正、郡主馬助「伊勢音頭恋寝刃」今田萬次郎「金城忠臣幻」木村重成の霊11月 浪花座(1日~30日)「日本晴伊賀報讐」夢ノ子分宵寝ノ早次「傾城青陽鶏 大和橋馬士伐の場 片岡土之助相勤申候一座惣出」小田三七郎信孝『語り 亡父仁左衛門が改名の節勤もやらず身まかりし織田三七信孝の大役を故ありて未熟の小腕に及ばずながら勤めると有難き御ひゐき様の御勧に随ひ身にも応じぬ重荷ながら一座の補(たすけ)を力にたのみて芸題も其儘の馬切』12月 浪花座(4日~11日)「苅萱桑門築紫𨏍」桑原女之助「松銀杏当世模様」大丸屋四郎三郎、松原銀蔵○明治32年(1899年) 17歳1月 稲荷文楽座(30日初日)「義経千本桜」九郎判官義経「信州川中島 輝虎配膳の場」長尾輝虎「戻駕色相肩」吾妻の与四郎2月 同(28日初日)「長柄長者黄鳥塚」佐々木源之介「國訛嫩笈摺 どんどろ子別の場」尼妙珍「妹背山婦女庭訓」漁師ふか七実は金輪五郎4月 同(2日初日)「伽羅先代萩」松ヶ枝鉄之介「桜鍔恨鮫鞘 鰻谷の場」古手屋八郎兵衛同 浪花座(4日初日)「淀屋辰五郎」岡本辰之介「殷姐妃」杜元鉄ノ娘柳眉、西伯ノ臣雷震5月 同(6日初日)「朝日新聞 雪月花」春日楓姫、奥方楓姫同 稲荷文楽座(24日初日)「仮名手本忠臣蔵 大序より七ツ目迄」寺岡平右衛門「恋衣入相桜」清玄法師、清水清玄実は清玄お光の霊7月 浪花座(11日初日)「くぬぎ」言号娘お静、万よし倅芳松、撫川屋倅文次郎、余興の曾我五郎、重太夫娘お静「豊臣秀吉故郷錦」近藤登之助、丹波五郎左衞門長重8月 浪花座(15日初日)「堪忍袋」木村長門守、薄田隼人正「其俤略羽衣」平井保昌、漁師伯了、丁稚東吉、朝日ビール片岡※「乍憚口上」より“……当興行の儀は中村芝雀片岡土之助を始め未熟不調法なる若手俳優へ大役を為相勤大勉強にて奉覧に入候…… 片岡我當敬白”9月 浪花座(12日初日)「忠臣蔵年中行事」大石主税、練り者仕丁東作、矢頭右衞門七、若者伊吾介実は矢頭右衞茂七「田家煙竈賑」武内ノ臣紀角10月 浪花座(8日初日)「従元禄十五年十二月十四日 至元禄十六年二月二日 日数四十九日間 後日譚」大石主税、小山田庄左衞門、大石瀬左衞門、五代将軍綱吉公「熊谷蓮生坊」敦盛ノ北ノ方楓姫「恋飛脚大和往来」忠三後家同 同(31日初日)「有馬猫」侍女白菊、八角政右衞門、め組ノ鳶源次※片岡我當脳病により11月15日より3日間休演、11月18日返初日12月 浪花座(13日~19日)「餅搗芝居」「菅原伝授手習鑑」宿禰太郎、桜丸「猿廻門出廼一諷」お俊「絵本太功記 尼ヶ崎の場」武智光秀「顔見世手打」三番叟○明治33年(1900年) 18歳1月 浪花座(4日~24日)「実録四千両」間々田ノ三次、丁稚三太、小西屋三吉実は間々田ノ三次「日高川岸廼蛇籠 日高川の場」先頭 ※我當が出語りの太夫で出演2月 浪花座(5日~20日)「伽羅先代萩」伊達頼兼「三日月」小車源次、介添人原田一郎「鎌倉三代記」三浦介義村3月 浪花座(8日初日)「佐野善左衞門」中村安右衞門、稲葉美濃守、山之辺主税「明烏六花曙」春日屋時次郎4月 浪花座(13日~5月5日)「東二条秀麿」美濃屋文次郎、安積武貞「新版歌祭文 野崎村の場」娘お染5月 浪花座(8日~6月4日)「鬼奴」御連枝桔梗君、娘おくに「新古演劇十二集の内 大蔵卿」妻お京7月 浪花座(5日~22日)「弁天紫毒婦小説」弁天おむら、門野家令□□子実は弁天おむら「法華経功力」結城七郎朝光「所作事 禊月海浜賑」写真師独逸新8月24日 名楽座『俳優浄瑠璃会』「大功記十段目」人形出遣い9月 浪花座(18日~10月18日) 「根あがり松」紀州大納言頼宣公、妹千里「花上野誉廼石碑 志渡寺の場」門弟数馬「積情雪乳貰」隣の下女お松11月 浪花座(1日~12日)「谷間姫百合」田尻息女春枝、貿易商片野東次郎、塩地夫人春枝同 同(23初日)「人斬上戸」美濃屋市太郎、正五郎妹胡蝶「艶容女舞衣 酒屋のだん」茜屋半七○明治34年(1901年) 19歳1月 浪花座(1日~24日)「神霊菅原道真実記」山樵茂作「近江源氏先陣館 盛綱首実検の場」注進早太「俠客春雨傘」大口屋清三郎、松葉屋振袖新造おつる後ニ遊女薄雲3月 角座(4日~19日)「裏表伊達染小袖」三浦屋高尾、松前鉄之介、細川勝元「山鹿送名誉大石」下女おなべ、金比羅参り実ハ上野郷蔵「東土産組絵鏡台」新造宮柴4月 角座(3月31日~4月14日)『十代目片岡仁左衛門七回忌 片岡土之助改め四代目片岡我童襲名披露』土之助改め四代目片岡我童「妹背山」久我之介清船、入鹿妹橘姫「國訛嫩笈摺」吉田屋木之介5月 浪花座(15日~29日)「増補河内山」腰元藤浪、小川左仲実ハ暗闇丑松「源平絵巻物」武田太郎「妹背の門松」太夫6月 浪花座(8日初日)「藤紫たづな染分」腰元重ノ井「伊賀越」娘およね「洗張鱗浴衣地」曾根繁之丞※神戸で興行後、伊勢、加賀方面へ旅興行11月 松島八千代座1日開場式2日~21日「朝日新聞 雪と炭」従姉お和気、秦源八、召使いお和気「細川忠興の妻 賢婦敷波」老女霜野「新古演劇十二集の内 近頃河原廼達引 堀川稽古所の場」井筒屋伝兵衞○明治35年(1902) 20歳1月 浪花座(2日~23日)「松廼操武士気質」真壁荘次郎、仲間佐吉「紀有常」井筒姫「新古演劇十二集の内 紙子仕立両面鑑 大文字屋の場」大文字屋栄三郎2月 角座(8日~17日)「有職鎌倉山」源実朝、若党勇介「松廓俠客御所染」芸者小松」「源家再興七騎剛者 石橋山」土肥弥太郎遠平7月 浪花座(8日初日)「夏祭浪花鑑」玉島磯之丞「百人町松操一諷」読売松吉、鳶ノ者銀二郎※7月27日~30日狂言差し替え、「鰻谷」天保十兵衞8月 大阪北新地 福井座(13日初日)「朝顔日記」娘深雪後に朝顔(初役)「伽羅先代萩」鳶嘉藤次「第五回内国博覧会 進歩の魁」芸者お松〈本人談〉「(朝顔日記について)明治三十五年の夏、大阪北の新地の福井座で初めて朝顔を演じましたところ、大変に当たりました。この朝顔を演じますに就いては、いろいろ苦心して璃珏(二代目嵐璃珏)さんにいろいろと教えてもらって、自分の工夫も加えてやったのです。以後はこれが私の十八番(おはこ)のようになりまして、諸方で何度も何度も演(やり)ましたが、演(や)る度に大入りを取りました(中略)」9月 京都明治座(22日~10月8日)8月の福井座と同じ狂言立のほか、「一谷嫩軍記 陣門 須磨浦」で無官太夫敦盛、熊谷小次郎をつとめる。※客止めの大入りと、京都日出新聞に記事あり11月 中劇場(1日~15日 ※18日まで日延べ)「三花菱朝日曠着」土井娘小雛、芸者菊鶴、舞子お千代実は菊鶴、速水妾菊鶴、主税妻お雛「鬼一法眼三略巻」奴三平「三人道成寺」白拍子桜木12月 京都明治座(1日~15日)「姫競双葉絵草紙」照手姫、下女小萩実は照手姫「三人道成寺」白拍子桜木○明治36年(1903年) 21歳大阪堀江座(1月1日初日)「仮名手本忠臣蔵 菅原伝授手習鑑 綴合九冊」桜丸、三番叟、修業者松島銀杏丸、斧定九郎、女房おかる、よだれくり与太郎「廓文章」扇屋夕霧※2月18日、五代目尾上菊五郎死去5月 弁天座(1日~27日)「敵討亀山噺」石井源蔵「伊勢音頭」若党林平6月 弁天座(2日初日)「女俊寛」蜑千鳥「新皿屋舗」召使おなぎ、若党佐市7月 弁天座(1日初日)「摂州合邦辻」高安俊徳丸「鳥追情話」松屋の手代忠蔵、庄司の妻おきた〈本人談〉「私が俊徳丸で例の癩病の面を一つ工夫して、顔にピッタリ当たる変わったのを作らせて被ったところが、暑さの砌で逆上(のぼ)せたのか、目を廻しました。これが私の脳病の始まりで、次は角座で下阪した芝翫(四代目中村芝翫)と一座のつもりで稽古中また脳病を発して、とうとう京都へ出養生に行って府立病院で診察してもらいますと、これは鉛毒と胃腸と脳病を併発したんだという見立で、暫く芝居を休んで静養して居りました。」8月 弁天座(1日~9日)「箱屋殺し 花井おむめ」深見三五郎「新古演劇十二集の内 清玄」桜姫9月 角座(9日~30日)「黄金花伊達実録」松前鉄之助「所作事 綴合劇場絵双紙」元禄踊※9月13日、九代目市川團十郎死去○明治37年(1904年) 22歳1月 弁天座(1日初日)「石井常右衞門」娘お喜代後に傾城高尾、妻高尾「日吉丸稚桜」加藤虎之助「花雪月桂男」松阪屋新三郎、法道成深龍2月 弁天座(1日~22日)「吹上菊」羽柴秀長「当辰歳柱暦」伊勢屋巳之助※2月10日、ロシアに宣戦布告、日露戦争勃発3月 弁天座(1日~22日)「太閤軍記朝鮮巻」小西飛騨守如安「千本桜 渡海屋の場 浜辺の場」源義経「日露交戦 予備兵」渋田妹およし4月 弁天座(1日~22日)「鏡山千種錦」左枝佐渡守、愛妾お貞の方「白石噺」妹しのぶ「日露戦争 又号外」新聞記者春海卓三5月 角座(19日~6月9日)「桐一葉」渡辺銀之丞、奴実は佐々成政「征露の首途」野村大佐の令嬢沖子7月 朝日座(8日~28日)『新派俳優・歌舞伎俳優合同興行』(以後『新旧合同』と表記)「泉岳寺」大石主税「堀川猿廻しの場」伝兵衞9月 京都歌舞伎座(5日~23日)『改良演劇』「新聞小説 猩々瓶」侍女お勝「世話情浮名横櫛 源治店」切られ与三郎10月 京都歌舞伎座(1日~18日)「祇園花」愛妾お菊「中将姫古跡の松 雪責」中将姫12月 京都歌舞伎座(1日~18日)「神風」北条時宗公、藤太良妹玉葛「妹背山婦庭訓 御殿の場」入鹿大臣、娘お三輪「新古演劇十二集の内 恨鮫鞘」古手屋八郎兵衞「所作事 同計略花吉野山」楠正行○明治38年(1905年) 23歳1月 京都歌舞伎座(1日~22日)「鏡富士」向山小一郎娘孝女後に腰元松江「弓張月 八丈ヶ嶋の場」八郎為朝2月 京都歌舞伎座(1日~20日)「大久保昔鐙」小間物屋伊三郎、将軍家光公「サッフォ」渥美妹鳥子「所作事 戻り駕」吾妻与四郎3月 京都歌舞伎座(1日~15日)「堪忍袋」木村長門守「琵琶歌」花浦菊枝「所作事 左小刀」京人形「所作事 勢獅子」勢獅子東吉4月 角座(2日~22日)「忠臣蔵年中行事」芸者おかの、大石主税「夫婦雛」お次女中お蘭、内大臣秀頼5月 角座(13日~6月5日)「傾城嫩軍記(傾城忠度)」岡部六弥太「沓手鳥孤城落月」(初演)はした女お松実は本田の臣某の妾常盤木、右大臣秀頼「高田馬場」丁稚鶴吉「阿女郎忠次」山蜂の銀蔵、妹娘おまき6月 角座(15日~26日)「歌舞伎伝助 平重衡」優人生島新五郎、千手の前、鵜飼殿母「五大力」千島万太郎7月 角座(3日~18日)「文覚」逝吒迦童子「金色夜叉」紳士富山唯継、新橋の芸妓愛子、狭山妻お静○明治39年(1906年) 24歳4月 弁天座(1日~22日)「かながき太平記」白拍子松島、桃の井若狭守常直「恋娘昔八丈 城木屋店先の場」娘お駒「坊主与三」但馬屋清七5月 弁天座(5日~26日)「夫婦舞」侍女お国「矢間重太郎」奴関内実ハ横川勘平「サッフホー」渥美妹鳥子6月 弁天座(1日~23日)「世情合宿噺」下女お六「雪月花」御曹子牛若丸、静御前7月 角座(2日~25日)『新旧合同』「人の罪」中将落胤令嬢春子「与話情浮名横櫛 源氏店妾宅の場」妾横櫛お富「狂乱 保名狂乱の場」阿部保名8月 角座(1日初日)「怪異談牡丹燈籠」萩原新三郎「鈴ヶ森 鈴ヶ森出逢ひの場」白井権八9月 角座(1日~24日)「母の面影」富久夫人照子「重の局 重成親子別れの場」木村長門守娘白菊「浪花廼血染」養子敬二郎11月 角座(2日~23日)「義経千本桜」駿河次郎(四の切)「東紫恋色揚」鈴木左門助12月 朝日座(1日~20日)『新旧合同』「浪枕」芸者小露、鐐太郎妾お露「奥州安達原 袖萩祭文の場」貞任妻袖萩「廓文章」幇間松吉○明治40年(1907年) 25歳1月 角座(前年12月21日~1月22日)『我當改め十一代目片岡仁左衛門襲名披露』「松がうら島」左膳の娘早苗、巡礼早苗後ニ庵主早苗、尼早苗「史劇 熊王丸」宇野熊王丸後ニ正寛法師「新古演劇十二集の内 石田局」真柴久次〈本人談〉「明治四十年の一月芝居には叔父から私なり母なりへ話しがありまして、仁左衛門の名跡はお前(我童)がつぐべきものだが、私(我當)も親や兄の名だからお前が年を取るまで預かりたいとの申し込みで、十一代目仁左衛門を叔父がついでくれまして、十二代目は私がつがねばならぬようになって居ります。」※この興行において、八代目仁左衛門の養子となり明治5年(1872年)に若くして死去した二代目片岡我當に“九代目片岡仁左衛門”が追贈され、明治28年に死去した三代目我童は“十代目”仁左衛門となる。(※池上本門寺にある九代目片岡仁左衛門の墓、三代目片岡市藏の墓に隣接している)〈本人談〉「私の好きな役ですか。どうも女形は嫌いです。しかし朝顔だとか袖萩のような女形は好きです。荒事も結構ですが、一番好きなのは二枚目です。梅忠とかいうような役がどうも好ましゅう御座います。また史劇などもドシドシ新しい形でやってみたいと思って居ります。」片岡我童近影4月 角座(2日~23日)「天満宮菜種御供」大納言末房、宿禰太郎「黒手組曲輪達引」牛若伝治5月 朝日座(1日~22日)『新旧合同』「心の影」有島家令嬢須磨子「俳優変装競争」田舎芸者、住吉園丁6月 朝日座(1日~21日)『新旧合同』「不知火」原田妾お蝶、吉野家酌婦お蝶、与十郎女房お蝶「名筆反魂香 上下」狩野雅楽之助(上)、福禄寿、鷹遣い、矢の根五郎(下)「名筆反魂香」福禄寿「名筆反魂香」鷹匠「名筆反魂香」矢の根五郎7月 朝日座(1日~21日)『新旧合同』「長恨歌」藤田貞二「冨士太鼓朝日賑」伶人赤蝶(上)、世話人松島燕三「長恨歌」藤田貞二※7月26日16時より、大阪ホテルにて欧州視察旅行を翌27日に控えた川上音二郎の送別会に出席す。(大阪毎日新聞 7.28ほか8月 朝日座(1日~21日)『新旧合同』「雨後の月」芸妓旭屋小千代9月 弁天座(1日~26日)「曙朝顔日記」娘深雪後に瞽女朝顔「太功記 妙心寺砦の場」武智重次郎「双蝶々曲輪日記 相撲場表側の場」山崎屋与五郎11月 朝日座(1日~21日)『新旧合同』「蔦紅葉」丸山家令嬢お秀、名倉仙三妻お秀、被告名倉秀子「積恋雪関扉 小町桜の場」平中将宗貞、墨染太夫実は桜の精
2026.01.27

千代田區一番町のJCIIフォトサロンで、「広田尚敬写真展 いつかまた 軽便鉄道」を觀る。鐵道冩眞家の先駆けであり、九十歳にして現役の廣田尚敬(ひろた なおたか)氏が昭和三十年代に撮影した、輕便鐵道と乗客たちの生活感あふれる姿を活冩した古き良き鐵道風景。線路幅も狭く、車両も小型と云った簡易な規格で運行された輕便鐵道は、そのぶん手を伸ばせば届く身近さ、まるで一人一人の生活のなかに鐵道があるやうな密着感に溢れ、故障が多いホームドアが設置されてヒトと鐵道がすっかり斷絶されなやうな令和現在からでは信じられないやうな、羨ましいやうな、鐵道本来の魅力を再認識させる。そして、整備士が九十九里線の先頭車のエンジンを點検してゐる様子をとらへた一枚に添へられた、「構造は単純です、だから長持ちするんです」の言葉は、余計な機能を付け過ぎて却って故障しやすくなった現代の電氣製品をにらんだ警句やうで、その明快さが目に心地良かった。
2026.01.26

衆院選の準備が、町なかで着々と進行してゐる。買ひ物に出かけても、あまりひどい価格に出した手をつひ引っ込めてしまふほど不快な物価高騰と、視界に入るだけでも不快な要らない移民夷人どもの侵入規制とその先の排除、この二點を實行斷行してくれる(であらう)人に、私は政治を委任したい。これから報道屋は、誰かの意の先棒担ぎとなって、立候補者の印象を惡くするやうな捏造歪曲の創作報を頻發してお祭り騒ぎをすることだらうが、そちらで勝手にやってゐればよい。私はもとより見ないし聞かないし、自分の耳目でこの日本を良くしたい、と云ふか、元に戻してくれる人と信じられさうな人に、一票の有權者として協力する。
2026.01.25

街なかで、チンドン屋を見かける。大衆居酒屋の開店を宣傳してゐるやうだった。私がチンドン屋と云ふものを知ったのは、江戸川乱歩の少年探偵団シリーズの一作中に、惡人が標的を誘拐するためにチンドン屋に化けて相手の氣を引く、と云ふ場面を讀んだのが最初で、文章だけではなんのことか分からず、挿し繪を見てやっと分かったものだった。いかにも“昭和レトロ”な雰囲氣だが、江戸時代以前まで歴史を遡れるらしい。あともう少しで、「宣傳の古態を殘す」とかなんとかで無形文化財に指定されるのではないか。
2026.01.24

日本橋高島屋の四階展示室にて、「闇市と都市」展を觀る。第二次大戰の空襲により焦土化した東京中心部が復興する前哨となった、個人が物品を持ち寄って路上で見世を開く、いはゆる“闇市”の華やかりし頃を當時の貴重な冩眞や圖面から考察した企画展で、(※銀座四丁目あたり 案内チラシより)上野アメ橫あたりを例に、見世はかつて道路だった場所に櫛比(しっぴ)し、人もそこに集中し、現状空き地となってゐる宅地跡をけっして侵さない秩序が守られてゐた様子に、我々が反省すべきかつての日本人らしい精神を見る。(※令和八年現在のアメヤ横町)冩眞には上質そうな青地の着物に銀糸の帯を締めた女性が見世の前を通る後ろ姿が記録された一枚もあり、空襲で亡くなった人と、生き延びた人との冷厳な差を強く印象付けさせられる。ヤミと云へど所轄の警察署に申請して出店許可証──“鑑札” を交付されて出店する合法營業ではあるが、冩眞の解説文にもあったやうに物資不足とされてゐた終戰直後になかなか潤澤な品揃への見世もあり、ハテどこから仕入れたのかナと、つひヤミを考へたくなるところが面白い。闇市がヤミとして非合法になるのは、かうした敷地の利用期限が破られ、本来の意向から外れた時であり、公道の“不法占拠”として問題になった近年の例が、淺草傳法院通りに並ぶ見世の件だらう。私も現代手猿樂の装束を手に入れる際にはお世話になった場所であり、まさかそんな行政上の問題があったなど、報道を目にするまで知らなかったものだ。さて、話しを闇市に戻し、新宿驛一帯を例にとると、四組のテキヤ組織によって定められた“庭場(縄張り)”に店が密集するマーケットが形成され、(※新宿驛の南東に沿って展開されてゐた和田組マーケット、現在は驛の拡張や道路擴幅により面影はない 案内チラシより)その後の大規模再開發により“副都心”化した現在では當時の面影は殆ど殘ってゐないやうに見えて、西新宿の“思い出横丁”はかつての「安田組」の庭場を店の經營者たちが土地を購入したことで往年の區画がそのまま傳存したもの、現在新宿驛東口前のヨドバシカメラ脇を入る道は、かつて一帯にマーケットが形成されてゐた時分に中村屋への導線として私設された路地の名殘りで、それがそのまま行政に“公道”として繼承されたもの、(※案内チラシより)再び大規模再開發が始まってゐる令和の新宿に八十年前の昭和新宿が現在も生きてゐるところに、歴史の強い生命力を見る。この企画展では、闇市で行なはれてゐたとされる惡どい商賣ぶりについてはさすがに触れてゐないが、しかし新宿闇市を牛耳ってゐた四組織の一人である尾津喜之助氏が昭和二十二年に土地に絡むいざこざで逮捕されて保釈された後、新たに立ち上げた商事會社の専務に元淀橋警察署長の人物を迎へ入れたと云ふクロい關係を見るだけで、もう充分である。
2026.01.23

大阪・關西萬博の會場跡地「夢洲2期區域」について、200m保存する大屋根リングの周辺を約3.3ヘクタールの市營公園に整備し、その敷地内に萬博記念館を建設することを21日、大阪府市と關西經済聯合會が合意云々。建設費用は最大で370億圓、黒字となった運營収益や國からの補助金、企業からの寄付金で賄ふ予定云々。アリーナだのプールだのサーキットだのマンションだの商業施設だの、そんなどこにだってあるツマラナイものを造るよりも、ここでしかやってゐなかったものを記念する、ここでしか造れないものを造ることに、私は大賛成だ。私も二度見物したあの萬博が、命を明日へつないで行くと云ふ主旨を果たしてどれだけ見物客に理解させたか、閉幕後もロスだのなんだのといつまでもお祭り騒ぎを引き摺るほどの中身であったかなどはさておき、未来に誕生した誰かがあの萬博に興味を持って調べに訪れた時、そのまとまった資料を見られる場所だけは必要だ。私が父も訪ねた昭和四十五年の萬博に關心をもって、千里丘陵の記念公園へ一日足を運んだやうに。
2026.01.23

國學院大學博物館にて、企画展「性別越境の歴史学」を觀る。男が女の姿となり、また女が男の姿になるなど、性別の越境と往復が自在に行はれてゐた近世までの日本の風習を、古文書や繪、そして現在に僅かながら傳存する民俗藝能から見ていく。男装の女藝能者は白拍子と呼ぶのが一般的だが、ここでは“稚児(少年)姿の女藝能者”をさすとの考察がなされてゐるのが興味深い。平清盛が出家後に祇王や佛御前といった白拍子を寵愛しても女犯の罪とならなかったのは、彼女たちがあくまで稚児(少年)姿だったからであり、稚児は僧侶の性愛對象として許されてゐたことに話しがつながると、謠曲「祇王」の味はひもまた違ったものになってくる。私はかれこれ三十年、生き甲斐にしてゐる傳統藝能において、男女のこだわりなく役をつとめてゐる。さういふ意味では、私は古へ人のやうに自由に性別を越境し、往復してゐるとは云へさうだ。また、それまで髪を垂らしてゐた女性が江戸時代になってから“髷”を結ひ上げるやうになったのは、當時大流行した若衆歌舞伎の影響で、(※歌舞伎劇における手古舞藝者の姿。男装した女性に男性役者が扮するといふ、性別の二重反転した妙味。 手古舞藝者 河原崎薫=三代目河原崎權十郎)さうした風俗を真似たいと云ふいつの時代も變はらぬ憧れが、そのまま江戸時代の風俗文化として定着したものであったとは、目から鱗である。かくして古への日本では、男女がお互ひに性別を超越した装ひをすることが行なはれ、それは「男/女」を反転させることで「生/死」を反転させ、さらに「吉/凶」をも反転させて災厄を避ける、と云ふ考へ方があり、さうした性別を超越することは、神に近付く畏れ多き行為とも捉へられてゐたと云ふ。(※髪を垂らして女性に扮したヤマトタケルがクマソタケルを討伐する、神話のなかの男女反転)しかし、明治以降の近代ニッポンでは、西洋的思考に則った富國強兵・殖産興業が推進され、そのための男女の棲み分けが固く定められ、西洋的思考を踏まへた富國強兵・殖産興業が押し進められ、それまでの同性愛や双性具有と云った中間層は生産性が無いとして社會的存在が否定されて、現代に至ってゐる。さう考へると、現今では忌避の目で見られがちなかうした人々が「性の多様性」を訴へて社會權を求める動きは、もともと日本にあった風習の復權を求めるものでもあり、忌避の目を向けることは西洋的思考に洗脳された結果と考へれば、やはり私は、日本古来の風習に味方する。
2026.01.22

今年五月いっぱいで廢館となる大阪道頓堀の松竹座で、「壽 初春歌舞伎特別公演」の夜の部を觀る。四代目坂田藤十郎の死後はしばらく坂東玉三郎の短期単独興行でお茶を濁してゐた松竹座の初芝居が、いざ廢館と決まってから急に思ひ出したかのやうに企画された久々の本格初春興行、但し主催者は大阪市と云ふ行政による“文化藝術事業”にて、これまでの興行會社は“製作”として乗っかってゐるだけ、仄聞によればもはや關西において歌舞伎興行を打てる人材が枯渇したため、ついに關西部隊を廢止して興行權を東京本社に一元化、松竹座廢館はそのための“遺品整理”云々、興行會社のくせに興行師の後繼が育たなかったとはいやはや。来年は上本町の新歌舞伎座に小屋を移して初春興行を打つやうだが、道頓堀からつひに歌舞伎の灯が消える以上、もはや別物と捉へるべきだらう。二十年ほどぶりに足を踏み入れた劇場で、まず觀たのが「女鳴神」、言はずと知れた歌舞伎十八番の「鳴神」を男女反転させた書き換へ狂言、私は趣向に興味があっただけで、役者になんぞ全く興味はなかったが、昼の部で尼をやった人が夜の部では堕落尼を演じる藝の無さが、もはや全てを語ってゐる。(「女鳴神」五代目中村歌右衞門の鳴神尼、十五代目市村羽左衞門の雲の絶間之助 大正三年五月 歌舞伎座)かういふ狂言は役者に人を得なければ出さないはうがよい。中幕は「假名手本忠臣藏」の七ツ目、大星由良之助がこの役を當り役にする十五代目仁左衛門にそっくりな口跡で面白かったが、これに貫禄が加はらなければただの物マネにて、ああ藝道とは厳しきもの。遊女となったおかるをにはかに身請けすると云ってオコついた後、扇をバラリと開いておかるに顔を隠す型は、涙を見せぬ心とするのが定番となってゐるが、本来は縁の下に潜んでゐる九太夫を見るための型とも聞き、どうなのだらう。(十五代目市村羽左衞門の大星由良之助)遊女おかるは予想以上でも以下でもなく、寺岡平右衞門はまだまだ淺草歌舞伎のため、おかるの弟に見えてしまふ。(三代目中村梅玉の遊女おかる)斧九太夫は塩冶家の城代家老としての貫禄が求められる大役のはずで、“蛸肴”の件りでは國家老の大星由良之助と同格に見えなければならぬはずなれど、ただの塩辛爺ィで何者なのか不明、三代目猿之助門下叩き上げの鷺坂伴内と相對すると、いよいよボロが露顕して由良之助に見抜かれるまでもなく、かつて東京式と上方式の両方でこの役をつとめた故人六代目片岡芦燕さんの藝格が懐かしくなる。打ち出しは「京鹿子娘道成寺」、三十分前の遊女おかるが、今度は白拍子となって金冠から押戻しまでをつとめる。細身の小顔にいかにも現代の若いコらしい見た目の面白さはあったが、踊りそのものは予想以上でも以下でもないのはここでも同じ、「♪都育ちは蓮葉なものじゃえ」の引き抜きはさっさとやらないと、役者も後見も自信がないやうに見える。かつて木挽町の初春興行で尾上右近と半月替はりでこの踊りが出た時、私は迷ふことなく尾上右近のはうだけを觀たが、その判斷に誤りはなかったことを確かめるに留む。四代目坂田藤十郎は三代目中村鴈治郎時分から、“鞠唄”の「♪それがホンに……」のあとで、㌧トコトンと独特な足拍子を早間に踏む面白さを魅せてゐたが、この孫にはそれが傳はってゐないのが、チト殘念だった。(「京鹿子娘道成寺」四代目中村富十郎の白拍子花子 昭和十八年四月 京都南座)最後は「女鳴神」でもやった押戻しの趣向がここでも繰り返され、前シテが落してせっかく引き上げた鐘を再び落す二度手間をやってその上に後シテが乗って幕切れとしたのは、(「京鹿子娘道成寺」皃太郎改め五代目中村福助の花子實は蛇身、十五代目市村羽左衞門の大館左馬五郎照剛 大正五年四月 歌舞伎座)親父扮する荒事の押戻しとの身長差に氣を遣ったものなのか、親父の下駄の歯がやや高いのが“繼足(シークレットシューズ)”じみて見えてしまったのは、たぶんまァ、私の惡いクセだらう。
2026.01.21

大阪四天王寺の師匠と嵐家ご先祖へ、新年の挨拶に伺ふ。今日は大寒波の影響で關西地方も雪との予報があった時は心配したが、大阪へ着いた時の晴天に私の心も晴れ渡る。廣い境内では今年初めての御縁日が開かれており、かつて大阪に住んでゐた時分にはよく出かけて良い物と出逢ひ、それが長い時を經て、いま手猿樂師・嵐悳江を大いに助けてくれてゐる。今日の素晴らしい御縁も、必ずや私を助けてくれるだらう。これはおそらく、師匠と嵐家ご先祖からの、“お年玉”。
2026.01.21

令和四年(2022年)七月八日に、安倍晋三元総理大臣を銃撃した山上徹也について、無期懲役の判決云々。親が新興宗教にハマった煽りを受けての不遇な前半生云々は考慮に値しないとバッサリ斬り捨てのは立派だったが──これでは政治家を殺害しても實質無罪と云ふ前例をつくることになる。それでは都合の惡いヒトも多かろう──、私はこの男の首もバッサリやるべきであったと、強く思ふ。無期懲役とは生涯塀の中、ではなく、數十年後には恩赦やら特赦とやらで再び野に放たれる、と云ふことなのだ。私はぜひとも惡い芽は摘んでおくべきものと強く思ふゆゑ、たしかに「一つの區切り」とはなったが、仕切り直しとなるやうな事態だけは二度と起きてほしくないものと、それが未来への不安である。
2026.01.21

再開發工事でワケがわからなくなってゐる新宿驛西口で、營團地下鐵時代の“S”の社紋跡を見つける。東京メトロとなって“M”へと替はる際に剥がした上に外壁材を貼り付けて長らく隠れてゐたものが、このたびの工事で剥がされ再び姿を現したものか。 いづれは外壁材を貼り直すか、またはこの入口自体が取り壊されて、新築のガラス張りビルの一部に呑み込まれるのだらう。もっともかうした“發掘も”など、營團地下鐵だらうが東京メトロだらうがどうでもよい大勢にはまったくどうでもよい、およそ価値のないことだ。しかしモノの価値は、人それぞれ。私にとってはアッと驚くこの發見を、私だけが知る樂しみとしてその価値がわかってさへゐれば、それで充分である。
2026.01.20
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