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大阪府吹田市の萬博記念公園内にある國立民族學博物館の特別展「日本の仮面 芸能と祭りの世界」を觀る。日本各地の祭禮などで演じられる藝能で用ゐられる、または用ゐられてゐた假面の數々を、豊富な分量で紹介した企画で、假面をつけて舞ひ、踊る活動をしてゐる私としては、是非とも觀ておきたかった。ヒトが假面を付ける行為をいつから初めたのか定かではないさうだが、縄文時代の遺跡から、土を焼いて作られたかなり明確な姿の假面が出土してゐることから、ニンゲン原初からの行為であったことは確かだ。現在に傳はる神樂など、假面をつけて藝能を演じる形態は中世から始まり、だいたいが猿樂(能樂)の影響云々、その最末端に嵐悳江(わたし)の“現代手猿樂”があるのだと、ちょっと自惚れてみたりする。もっとも、昭和十年代には京阪で歌舞伎の舞薹に立ってゐたと云ふ元役者が、面と衣裳を素早く次々に付け替へて歌舞伎芝居を一人で何役も演じ分ける、「面劇」と云ふ藝能を四國で創始して大評判をとった例もあり、似たやうなことを考へる人はいつの時代にもゐるものだと思ふ。(※案内チラシより)展示の後半には、面を付ける人(演者)の側に焦點を當て、面は一點一點が造作を異にするためそれぞれに勝手も異なり、また面を付けると極端に視界が狭まり、呼吸も苦しくなることもしっかり紹介されてゐたのが、自身も演者の端くれとして、よくぞ紹介してくれたと、嬉しくなったひととき。“第二の故郷”である大阪へ来た時には、必ず師匠と嵐家御先祖のゐる四天王寺へ挨拶に伺ふが、今回は生憎の大雨。 大阪に住んでゐた時代から通しても、こんな惡天候下に訪れたことはない。風も強かったので、今回は略式な挨拶で失禮させてもらったが、旅の途中にはかういふ日もあらァね。
2024.05.28

奈良縣は東大寺の北郊、静かな山腹にある三笠霊苑に建立された、安倍晋三元首相の慰靈碑を拝す。和州選出の與党議員の有志によって昨年七月建立された慰靈碑にて、あの卑劣にして痛ましい銃撃事件の犠牲となった安倍晋三元首相には、特に人災疫病禍元年において非常に助けられた一國民として、必ず御禮を述べに伺いたいと願ってゐたことが、今日に叶ふ。政治家とは國民から貶されることも仕事のうちにて、私も故人の首相在任中にはいろいろと思ふところもあったが、現在(いま)になって考へれば、それも故人の政治家としての計算、こちらは見事に故人の術中に嵌まってゐたやうに思へる。國民挙げてのお祭り騒ぎとなった國葬も、賛成派と反對派の激しい対立のほか、關心が無いなら黙ってゐるはずがわざわざ「無關心」と表明した實は關心派も現れるなど、あの時ほど殆どの國民がセイジに關心を持った一瞬もなかったのではないか。「政治」と「權力」と云ふものについて、深く考へさせられた政治家であった。さういふ意味においても、やはり安倍晋三元首相は、最後まで日本國の指導者で在り續けたのだと思ふ。慰霊碑から五キロほど離れた、銃撃事件現場となった近鐵「大和西大寺驛」南口一帯も訪ねる。現在では驛前再開發事業も完了し、あの當時の雰囲氣はかなり拂拭されてゐる。いつまでも悲劇のオモカゲを殘すのは、また違ふだらう。あの日も安倍晋三元首相は、日本國の未来について、「前を向いて」進んでゐたのだから。大和西大寺驛まで来たついでに、北口から近い西大寺を訪ねる。東大寺を建立した聖武天皇の皇女、孝謙上皇が再び帝位に登った際の天平神護元年(765年)に建立され、“南都七大寺”のひとつとしての偉容を誇るも平安遷都の後はすっかり寂れ、鎌倉時代に再興されたが室町時代に兵火でほとんど焼失と云ふ浮世の苦難に浮き沈みした末に、江戸時代に入ってから幕府より三百石の寺領を寄進されて息を吹き返し、現在見る姿に整ふ。まさに、“地獄の沙汰も”云々。西大寺を訪ねたなら對の東大寺も訪ね、かつて大阪に住んでゐた時代に訪ねたときにはこれほどはゐなかった異人觀光客たちを、なるべく見ないやうにして盧舎那佛を拝し、奈良公園内を通り抜けてゐると、鹿がなにやら物欲しげな視線を送ってきよる。“カミの使ひ”などニンゲンが勝手に決めたこと、しょせん我々と同じ本能動物にすぎぬと云ふことだ。
2024.05.27

今年の正月に神戸を旅し、國道174號線から定番のメリケン波止場を訪ねたあとで、事前に手に入れてゐた往年のメリケン波止場の古い冩真資料を見返して、波止場の背後に冩ってゐる左側の白い建物に記憶があり、この旅で撮った冩真も見返して、商船三井のビルであることを知る。阪神淡路大震災でメリケン波止場は損壊したが、この洋風の古きビルは耐へ抜いたのである!古い冩真に遺る建物が、幾多の災難を乗り越えて、令和現在もその場所に續いてゐる堅牢ぶりを、今回のメリケン波止場再訪に併せて、改めて拝しに出かける。折しも件のビル沿ひの歩道では、結婚式の事前撮影らしく、華やかに着飾った數組の若い男女が、ビルを背景にシアワセさうな笑顔を冩真に撮らせてゐる最中だった。かういふ光景に出會すと、ヒネクレ者の私などはすぐに、「……“離婚”の一番の原因は“結婚”なんですな」と、かつて鈴々舎馬風師がマクラのなかでズバリ指摘した大好きなひとくさりを思ひ出して、つひ笑顔になってしまふ。……いやいや、次世代の担ひ手はここから誕生するのだと、笑顔を無理矢理引っ込めて、すみませ~ん、と撮影係に頭を下げて前を走り抜ける。せっかくなので近くの“日本一短い國道”──國道174號線を再び歩いて、關所の風格と貫禄がたっぷりな神戸税關の全景をじっくり見上げ、前回の旅を補完せり。
2024.05.23

昨年亡くなった四代目市川左團次の一年祭追善狂言「歌舞伎十八番の内 毛抜」を觀に、歌舞伎座『團菊祭五月大歌舞伎』の昼の部へ出かける。私が歌舞伎座の三階席や幕見席へ足繁く通ってゐた學生時代、ちゃうど役者として脂の乗った時代を迎へてゐた市川左團次はお馴染みな役者の一人であり、堂々たる容姿を生かした骨太な役で魅せる一方、繊細な情で魅せる役、舞踊の素養が光る役など、様々な役(かほ)で見物を樂しませてくれる名優だった。そんな四代目市川左團次の魅力が最も光る役が、襲名披露でも演じた「毛抜」の粂寺彈正であり、主演級の歌舞伎役者であることを示すいちばんの當り役であったと信じてゐる。その四代目左團次の「毛抜」を、私は學生時代に歌舞伎座の納涼興行で、一度だけ觀た。腰元巻絹にしなだれかかりながら、「薄う一服、吞みたいでェす」と、愛嬌たっぷりに口にする臺詞の妙味は今でも忘れられない。その後もたびたび四代目市川左團次の「毛抜」は上演されたが、私がまともに觀たのは上の一度きりで、再び觀に行く機會はその氣になりさへすれば得られたものを、みすみす逃してしまったことは、今でも悔やんでゐることだ。(※二代目市川左團次の粂寺彈正)追善興行とは、その亡き役者の面影を傳へるものが役者繪などの刷り物しか無かった昔、所縁(ゆかり)の役者が集まって所縁の狂言を出し、人々の記憶のなかにゐるその役者を追憶するもので、現在のやうに記録媒体が豊富な時代とは違ひ、もっと深い意味があった。私は、四代目市川左團次の「毛抜」を偲ぶものは、かつて劇場の賣店で購入したこの一點しか持ってゐない。あとは、舞臺を觀た記憶しかない。よって、追善興行本来の形と云ふものを追体験してみることも、今回の觀劇の目的であった。この追善狂言で主役の粂寺彈正をつとめるのは、今回で二度目と云ふ長男の市川男女藏で、亡父の追善には相應しい配役であり、實際の芝居そのものは決して現在の市川男女藏を超えるものではなかったが、あとに殘った息子としての覺悟と意氣込みを熱く感じさせる好舞薹であり、幕外で見物席に向かっての、「皆様のおかげを持ちまして、この大役を無事につとめられました」云々の定番な挨拶も、今回はいつになく重く深い響きをもった。(※四代目市川左團次襲名時の扮装冩真二階ロビーの追想冩真展パネルより)興行會社の“匙加減(おもわく)”で、追善狂言を出せる役者もゐれば、さうでない場合もある。今回の「毛抜」は、追善以上の良い“親孝行”であると感じた。この追善狂言の前座に、若手三人の「鴛鴦襖戀睦」、いはゆる“おしどり”と云ふ舞踊劇が出た。(「鴛鴦襖戀睦」 左より十一代目團十郎の河津三郎、六代目歌右衞門の遊女黄瀬川、二代目松緑の俣野五郎 昭和二十九年三月 歌舞伎座「第一回 莟会」公演)地方(演奏)は前半が長唄で後半が常磐津、長唄の立三味線をつとめた先代杵屋巳太郎師の演奏だけを樂しみたくて、“先代”歌舞伎座の幕見席から巳太郎師ばかりを觀てゐた、そんな大昔の記憶がある狂言だ。今回はその弟子の當代杵屋巳太郎が立三味線だが、先代を彷彿とさせる味は薄い。が、“歌舞伎長唄”とはいかなるものかをよく示す、模範的な演奏を聴かせてくれた。常磐津陣は、いまの私には誰なのかサッパリわからない。かつて大阪時代に、人間國寶の故人常磐津一巴太夫師の藝に親しく接してゐたことが、いかに貴重な經験であったか、改めて偲ぶばかりである。昼の部キリの「極付 幡随長兵衞」は、主演者を理由に觀ずに劇場を出る。十數年前、件の主演者がこの狂言の“子分その他大勢”の一人に出てゐた頃、何が氣に喰はなかったのか、他家の若い大部屋弟子を奈落に連れ込んで、“亂暴”を働いたと覺しき光景に接して内心で憤慨した、その事實の記憶を話すだけに留める。そこで〆ては今日の觀劇感想文が後味惡いものになるので、幡随院長兵衞と水野十郎左衞門との確執を、阪東妻三郎(バンツマ)と市川右太衞門の両御大で映画化した「大江戸五人男」(昭和二十六年 松竹)に、若き日の三代目河原崎權十郎(當時は河原崎權三郎)が“水木あやめ”と云ふ歌舞伎役者の役で出演し、劇中劇で恐ろしいまでに美しい女形ぶりを魅せて、つひ「山崎屋ァ!」と映像に向かって大向かふを掛けたくなるほどの華々しさを、フィルムに殘してゐることを話さう。(前々名“河原崎薫”時分の三代目河原崎權十郎の女形ぶり)先週に觀た前進座歌舞伎公演の雲の絶間姫と云ひ、やはり河原崎を名乗る役者は、これくらゐでなくてはならぬ。
2024.05.22

鎌倉歴史文化交流館の企画展「鎌倉の廃寺─寺社の興亡─」を觀る。 鎌倉の寺院と云ふと、中世における新興宗派の“聖地”との印象が強いが、この地には實に七世紀後半の律令制時代より佛の庭が存在云々、さりながらしょせんヒトの手で運營されるものなれば、寺運つたなく時勢に圧されて廃絶した寺院も多くあり。さうした今や跡形もない往年の姿を、微かな痕跡より出土した遺品などから偲んだ企画展で、(※展示室内撮影可)廢絶寺院跡のほとんとが、江戸時代の頃にはキレイサッパリ喪はれて農野と化してゐたらしいところに、中世鎌倉がいかに遠い昔であるかを知る。鎌倉の廢寺と聞いて私がすぐ頭に思ひ浮かぶのは、(※同)元弘三年(1333年)に北條高時以下一族郎党が自刃して鎌倉幕府が滅亡した、東勝寺跡である。三代執權北條泰時が開基となった禪寺で、北條氏滅亡後も存續して室町時代には關東十刹の第三位にまでなったが、結局は室町幕府が滅亡した天正元年(元亀四年)にあたる1573年頃には廃絶云々、ここにも時流と寺運の背中合はせを見る。東勝寺跡の裏山には、北條高時が自刃したと場所と傳はる“腹切りやぐら”が遺るが、現在は落石の危険ありとかで入口が封鎖され、かつてのやうに近くまでは行けない。(七代目松本幸四郎扮する歌舞伎劇の北條高時 新歌舞伎十八番の内「高時」より)まださうなる以前、實際にやぐらの近くまで足を踏み入れたことがあるが、さすがに石窟であるやぐらの中まで入る勇氣はなく、そのまま足早に引き返したものだ。東勝寺跡を訪ねたあとは、源頼朝の墓所と傳はる法華堂跡に向かふ。(※左手が源頼朝墓所、奥が法華堂跡)現在は小学校となってゐる“大倉御所”跡の裏山中腹にある石塔が源頼朝の墓所、その右脇のわずかに礎石らしきが土中に埋まった空間が法華堂跡で、室町時代まで御堂はしっかり管理されてゐたやうだが、江戸初期にはすでに現在見るやうな光景だったらしい。ここからさらに橫へ移動し、中世には典型的な神佛習合だった「鶴岡八幡宮寺」──現在の鶴岡八幡宮を訪ねる。こちらは明治“御一新”における廢佛毀釈で佛教関係の文物はすべて破却され、神宮寺としては廢寺となったが、時勢と社運が味方したのだらう、神の庭として生伸びて現在に至り、邦人異人と混沌とした参拝客を、今日も受け入れてゐる。──ヒトがつくったものを存續させていくことの難しさについて、その實例を訪ね歩いたことは、先人の生んだ技藝を受け繼ぎ糧としてゐる私にとって、大いに見るべきものがあった。
2024.05.20

橫濱人形の家で、コーナー展示「日本の人形芝居・人形浄瑠璃と竹田人形」を觀る。(※展示室内フラッシュ無しで撮影可)竹田人形とは、江戸時代初期に新興音曲の義太夫節と組んで隆盛した竹田近江一座に因んだ上方製の人形云々、力強さを強調した見得風の身振りに、極端なまでに首をひねった姿態は、私の眼には却って滑稽に映る。しかし、チカラと云ふものを瞬間的に冩し取ったものと見れば、極端さのなかにも得難き冩實味を見出せる。日本の傳統的な人形芝居は、人形の動作(しぐさ)そのものはとても魅力に富んでゐるが、殘念ながら現今は肝心の遣ひ手に魅力ある者がゐないこと、そして上演作品の世界觀が旧弊のまま固まって魅力(かがやき)を失ってゐるため、せっかくの美しさを殺してしまってゐる。だからと云って現今の歌舞伎興行のやうな、奇怪な新作など企画する必要はない。人形は作る人、扱ふ人を得て初めて魂を吹き込まれるものゆゑ、ぜひさういふ人財に巡り逢ひたいものである。展示室の一角から、現代の人形作家による“魂の結晶”が、私を招いてゐた。人形が呼んだのか、“魂”が呼んだのか……?見つめてゐると、間違ひなくそちらへ引き摺り込まれる怖さを感じて、私は後退りに立ち去った。
2024.05.19

兵庫縣の姫路驛の南西にそびえる手柄山に保存公開されてゐる、旧姫路モノレールの車両に逢ひに行く。昭和四十一年(1966年)四月一日、姫路城の復元工事完成記念と東京オリンピックの協賛事業として開催された、「姫路大博覧會」の手柄山會場と、姫路驛とを結ぶ當時斬新な輸送機關として計画されたが、(※姫路大博覧會の復元模型)實際に開業したのは會期も後半の同年五月十七日と、初日に間に合はなかったところに既にその後の運命が暗示されてゐる。(※往年の姫路モノレール 解説パネルより)ロッキード社製の安心安全、かつ快適な乗り心地の車体設計、コンクリートのメインレールの上部には新幹線と同じレールを一筋敷設して安定性を高めるなど、最先端の技術をふんだんに採り入れた氣鋭の乗り物だったにも拘わらず、運行時間帯が九時薹から十七時薹までの日中のみ、しかも運賃がお高めと、環境には優しくてもヒトにはキビシイ運營が祟って博覧會閉幕後は利用者が激減、開業から僅か八年後の昭和四十九年(1974年)四月十一日に營業休止、同五十四年(1979年)一月二十六日、廢止となる。以来、コンクリートのレールは町なかに雨ざらしの放置状態、車両は手柄山のなかに造られた旧驛構内に格納されたまま、戰後姫路の“負の遺産”──、長らく語りたくない存在として、隠され續けてきた。その時代、私は一日だけ姫路に滞在した際、時間をつくって件の廢線跡、そして手柄山のモノレールが“幽閉”されてゐるあたりまで訪ね歩いたことがある。その時の冩真は、メモリーカードのどれかに保存されてゐるはずだ。しかし、歴史は時間が解決するもので、平成も終はり頃になると旧姫路モノレールを歴史遺産として見直す動きが起こり、それは車両が“幽閉”されてゐる旧手柄山驛を交流センターの一部として再整備する計画となり、それまで固く閉じられてゐた鐵扉が開けられて、モノレールは文字通り、數十年ぶりに“日の目”を見る。町なかに長年放置された挙げ句に撤去されたコンクリートレールの場合と違ひ、長らく山中に閉じ込められて風雨に晒されなかったおかげで車体が至極良好な状態を保ってゐたことは、(※モノレール車内)幸ひであると同時に皮肉でもある。 かくして平成二十三年(2011年)、「語りたくない“負の遺産”」から、「戰後の姫路發展の“生き証人”」へと見事な復活を果した旧姫路モノレールは、令和二年(2020年)には土木遺産にも認定されるなど、年齢(とし)を重ねてから苦勞が報はれるタイプか。そんな旧姫路モノレールに一目逢ひたいものと願ひ續けて、やうやくこのたび叶ふ。車両の状態のとても良いことがなにより素晴らしいが、鳥取縣まで延伸する計画であったと云ふこのモノレール、最高速度が120キロまで出せるやう設計されてゐたことには、驚きと云ふより恐ろしさを覺ゆ。旧手柄山驛の出入り口より、かつてはレールが姫路驛に伸びてゐた方向を望むと、向かふに小さく姫路城が見えた。改めてつくづく思ふ。歴史とは、しょせんその時代(とき)を生きたヒトの“匙加減”なのだと……。
2024.05.19

河原崎國太郎の女形を樂しみに、池袋の東京建物BriiaHALLの前進座歌舞伎公演を觀に行く。昨秋に國立劇場が閉館したのを受け、毎年五月の恒例公演をこちらに移したもので、傳統藝能向けではない會場らしくナナメに假設された花道が、いかにも根城を失ひあちこちの劇場を彷徨ふ現今の前進座らしい。目當ての河原崎國太郎は、今回は「歌舞伎十八番の内 鳴神」の雲の絶間姫──嵐市太郎時代から手掛けてきた“持ち役”をつとめる。私もその時代から何度も觀てきたが、いつも芝居が生硬で臺詞も一本調子、良いのは姿形ばかりで「これで大丈夫か……?」と首を傾げてより年月は流れ、その間に情のある女形ぶりで大いに魅せるやうになった國太郎の、満を持した馨り漂ふ今回の扮装冩真を目にして、「これはいける……!」と、樂しみに樂しみを重ねて、今日の觀劇日に至る。あの頃までのどうしやうもない生硬さがすっかり取れて、見違へたやうにたおやかなオンナぶりのなかに、鳴神上人を堕落させるべく怜悧に迫る計算ぶりを、色氣に包んだ台詞のなかに所々覗かせていく芝居は、現實世界においてもさういふテのオンナには氣を付けろとの警告にも映り、にも拘はらず見物のこちらまで眩惑されさうになる魔力ぶりはどうだらう!(※河原崎長十郎の鳴神上人、五世河原崎国太郎の雲の絶間姫 昭和十二年六月 新橋演舞場)これまで嵐圭史で何度も觀てきた鳴神上人を、今回は嵐芳三郎が初役でつとめる。これまでの歌舞伎味に乏しい芝居ぶりから、あまり期待もしてゐなかったのだが、聲と身體を目一杯大きく遣って歌舞伎十八番らしさを出さうとしてゐる努力が結實した、予想外の大出来。後半の荒事も、大薩摩と下座の好助演もあって大いに盛り上がり、當代の嵐芳三郎を觀て初めていいナ、と思ふ。もしかしたらこれが、歌舞伎役者“豊島屋”代々の血、と云ふものなのかもしれない。嵐圭史時代の「鳴神」を觀た記憶として、その頃浮世で普及しはじめた携帯電話──“ガラケー”の着信音が上演中に鳴り響いて閉口憤慨したことがあるが、あれから年月を經て、令和現今ではスマホの着信音が、やはり上演中にあちこちで鳴り響く。演者は確實に成長してゐるが、見物は確實に成長してゐない。せっかく磨き上げた芝居を、ああいふのを相手に見せねばならぬ鳴神上人と雲の絶間姫を、私は氣の毒に思ふ。この公演の前座には、前進座独自の“歌舞伎舞踊”として、立方から地方までの全てを女性で揃へた「雪祭五人三番叟」が付いたが、色氣も愛想も素氣もない器械体操ぶりで、あまり脂粉臭いのも困るが、せめて三番叟物らしい祝儀性くらゐは見せて欲しかった。中幕には“劇場初御目見得”としての「口上」を、本来ならばこの役者(ヒト)ではないよなァ、と思ふ役者が一人舞薹で述べ、「寺子屋」の松王の臺詞をひとくさり呟いてみせた様は、どうせこの劇團ではもふ上演は出来ない狂言だから、せめてここでちょこっとやってやれ、とヤケになってゐるやうにも見えて、それだけがちょこっと面白かった。幕間に、喪服じみたキモノ姿をした劇團員のお姉チャン二人が花道に現れて、危うい劇團經營と、後援會の入會を訴へてゐたが、今後の上演予定を見ると、しばらく歌舞伎劇はやらないらしい。今回せっかく大出来の「鳴神」を見せたのに、ここでまた途切れさせてしまふのは、あまりに勿体ないと思ふ。
2024.05.17

兵庫縣の神戸市立博物館の特別展「Colorful JAPAN 幕末・明治手彩色写真への旅」を觀る。幕末・明治の激動ニッポンにもたらされた“冩真”と云ふ文明は、やがてニッポン人からも優れた冩真技師が誕生するが、この時の冩真にはまだ、色彩と云ふものがなかった。開國間もないJAPANの風景と文化を目の當たりにした異國人たちの、その美しい印象をより實際に近い形で本國へ持ち帰りたいとの欲求に應へるべく、技師たちはモノクロ画像に繪の具で色を付けた冩真を作り上げ、それぞれの冩真館から賣り出した──(※案内チラシより)實景へ別に手で彩色したこれらニッポン風景は、ニッポン人ならではの繊細な仕事ぶりから、総天然色版とは全く異なる、ある意味もふひとつのニッポンを生み出し、神秘的に彩られたその東洋の國は、ニッポン人である私ですらも、異邦人になったかのやうな錯覺に陥らせる。(※同)しかしそこに映ってゐるのは、確かに私が生まれるはるか昔のニッポンであり、私はその後のニッポンに生まれてゐるのだ。(※同)これほどまでに美し“かった”國に!(※同)私は、かうした美しくも妖しいもふひとつの世界を生み出せた人々のあとに生きてゐることを、誇りに思ふ。
2024.05.17

太田記念美術館で前期後期に分けて全點が展示された「月岡芳年 月百姿」展を觀る。月岡芳年が明治半ばから末にかけての長きにわたり發表し續けた月下百景の傑作は、これまでにいろいろな美術展で數點を目にしたことはあるが、全點と接するのは今回が初めて。もっとも、かうした企画は今後もどこかでやるだらうが、その日の満月はその日限りの姿なれば、この御縁を逃さじと二度に分けて出かける。(※案内チラシより)私が先日に披露した現代手猿樂「月小町」は、この「月百姿」のうち“卒都婆の月”からも、大いに想を得て創ったものである。──かくして人は、古へより月に魅せられ、ときにその魔力に惑わされ、ときに踊らされるのである。
2024.05.16

春と秋の「おかげマルシェ」で現代手猿樂を舞はせてもらってゐる上目黒氷川神社で、今回は「和の文化祭」と云ふ企画が行なはれ、神樂殿で「月小町」を初演する。百歳の小野小町を描いた能樂の老女物を基本に、老女の姿をいくつか取材して一曲にまとめたもので、上演に相應しい場所や雰囲氣になかなか當を得られずにゐたところ、 和モノに的を絞った今回の催しと御縁があり、やうやく日の目を見る。音響係として手傳ってくれた、大學で雅樂を學んでゐると云ふ青年に、先月ここで舞った「河原左大臣」──源融のことを話してみたところ、さすが瞬時に内容を理解して、久しぶりに日本語(コトバ)が通じたやうな嬉しさを覺ゆ。
2024.05.12

觀覧無料が魅力的な板橋區立美術館へ久しぶりに出かけ、「歸空庵コレクションによる 洋風画という風」展を觀る。西洋との交流が著しく制限されてゐた江戸時代、長崎出島經由で僅かにもたらされた西洋繪画と技法に魅せられた、有名無名の日本の藝術家たちの手による、繊細で器用な異國情緒の世界。(※案内チラシより)異國を實見したわけではない彼らが、なんらかの原版だけを頼りに描いた“西洋風”の世界は、未だ見ぬ海の向かふの世界への強い憧憬が感じられ、 (※同)それだけに本場の西洋画より却って異國情緒に溢れてゐるのが面白かった。帰りには、通り道沿ひの浄土宗乗蓮寺に立ち寄り、“東京大佛”を見物す。當寺の二十四世住職により昭和五十二年(1977年)四月に建立された青銅佛にて、當初は日本で三番目の大きさ云々。──かういふものは、いかに大きいかより、いかに“深い”か、であるぞよ。
2024.05.11

東京都世田谷區の九品佛淨眞寺にて、東京都と淨土宗の無形文化財に指定されてゐる、「二十五菩薩 来迎會」を見物する。人生の終はり──すなはち“お迎へ”の有様を視覺的に再現した法要行事で、實際に金色の佛頭を被った二十五人の菩薩役が、淨土に見立てた三佛堂と、現世に見立てた本堂とをつなぐ通天(木橋)を行列して渡ることから、通稱“おめんかぶり”云々、かつて初めて九品佛を訪ねた際にさういふ行事があることを知り、金色の佛頭を被った人々の冩真を目にしてその特異さに驚かされて以来、一度は生で觀たいと願へど間もなく發生した人災疫病禍のために延引が續き、やっと今日に御縁を結ぶ。まずはいよいよ臨終の迫った往生人(九品佛開山の珂碩上人)のもとへ二十五体の菩薩が来迎(いわはゆる“お迎へ”)し、そして上人を淨土へお連れしたあと、衆人救済のため上人は再び現世に還って来る(還相)、と云ふ流れで、一時間近くかけて現世と淨土とを一往復半する。二十五体の菩薩役は一般公募の人々らしく、最年少(した)は三十代、最年長(うへ)は九十代と幅廣く集まり、大昔の大衆信仰のにほひを今日に傳へる。通天からは時おり撒きものが行なはれ、衆庶はこぞって双手を挙げてそれを求め、或ひは地面に落ちたそれを貪り拾ふ。……ああ、これぞ人間の“欲”。この“欲”を捨て去った先に、たったいま再現された極樂淨土行きはあると思ふのだが、しょせんヒトはタダでくれる物には弱い、俗物でしかないのだ。
2024.05.05

東京都新宿區の帝國データバンク史料館にて、テーマ展示「倒産60年史」を觀る。私が十年間籍をおいてゐた組織と訣別した翌月、米國でおきたリーマン・ブラザーズの倒産──いはゆる“リーマンショック”の荒波は、ニッポンの弱体企業を次々になぎ倒し、弱小國民として再出發したばかりの私も、頭からもろ被りした。まさに“外の世界”のキビシイ洗禮を受けたわけで、さうは問屋が卸さぬ浮世の現實を、いやと云ふほど痛感させられたものだった。その後、元營業マンと云ふ人から聞いた、「“帝國データバンク”でその企業の資金情報を詳細に調べてから、營業をかけたものだよ」との話しから、さういふ信用調査會社があることを知り、その信用調査會社が戰後より六十年にわたって自らの足で出向き調査・發信してきた倒産直後の現實を、情報記者たちの生々しい“實見録”より垣間見ていく。令和現在では、改元早々に蔓延猖獗を極めた人災疫病禍による官からの貸付金を返済出来ない中小企業が次々に潰れる、“ゼロゼロ融資倒産”が續出云々、しかしそもそも資金(おかね)が無くて借りてゐるものを返せと迫る官も官だと、私には思へてしまふ。また醫療機関でも“人手不足”による倒産が相次ぐ一方で、官の推し進めるデジタル化に高齢の開業医醫が付いて行けずに廢業に追ひ込まれる事例も多く見られる云々。企業經營とは、最新の時勢(かぜ)を最前線で常に睨みながら、自ら舵を取り續けなければたちまちひっくり返され、そしてその時勢に無情にも身ぐるみ剥がされる、なんとも恐ろしい賭事と似てゐるやうに思へてきた。
2024.05.02
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