迦陵頻伽─ことだまのこゑ─

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2025.06.16
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カテゴリ: 浮世見聞記
先日に鐵道旅行で信州の雷電為右衞門生家を訪ねたので、今度は江戸に遺る墓所を訪ねばやと、存じ候。

港區赤坂七丁目、坂道だらけだった江戸の町の面影を傳へる急勾配な三分坂の下に、報土寺と云ふ浄土真宗の寺院あり。



江戸開闢から間もない慶長十九年(1614年)に創建され、當時の偽政者の都合によって安永九年(1780年)に現在の場所へ移転となる。

十六年の長きにわたり大關を張り續け、松江藩のお抱へだった名力士・雷電為右衞門は文政八年(1820年)に五十九歳で亡くなり、墓は本堂裏手の墓地にある。



墓石の形がいかにも故人生前の体格を偲ばせるものがある。

墓石には三人の名が刻まれ、雷電は右側だが表面が剥落してゐるため、戒名が見えない。

ちなみに雷電の墓はほかにも、故郷の信州大石村(現在の長野縣東御市滋野)、総州佐倉、雲州松江と四ヶ所あり、分骨して埋葬したためととも云はれるが、“本家”はこの報土寺云々。

雷電は住職と酒を介して親しかったらしく、その証しに梵鐘を文化十一年(1814年)に寄進したが、要するに周囲からのやっかみでいろいろ難癖をつけられた挙げ句、寺社奉行に没収される憂目に遭ふ。

その梵鐘は繪の写しによると、龍頭は取組の力士を象り、池の間には雷電自身の姿を鋳出し、下帯には土俵の綱をあしらうなど、大關雷電の威勢と遊び心に富んだ特異な姿だったやうで、





現在鐘楼に吊るされてゐるのは明治後期に有志により再鋳された二代目だが、



第二次大戰中の金属供出によって運び出されたものの鋳潰されることなく終戰後は他の寺院へ移ってゐたのを取り戻すと云ふ、こちらもなかなかの苦勞をして、現在に至る。


江戸相撲の史跡を訪ねたついでに、かつて明治神宮外苑にあった相撲場の跡も一見せばやと、存じ候。



大正十五年(1926年)に開場した明治神宮相撲場は、第二次大戰下に米夷の空襲で両國の國技館が焼失したため、昭和二十ニ、二十三年の本場所はこちらに移して興行する由緒をもってゐたが、昭和三十六年に學生野球専用の神宮第二球場に建て變はり、



令和七年現在はさらに何かへと建て變はりの最中にあり。


その令和七年現在、角界ではやうやく“日本人の”橫綱が誕生し、一方で元橫綱の蒙古人が清々しい表情で角界を追い出さるる。

このごろは番數の進行なみに力士の入れ替はり立ち替はりが早く、私のやうな觀るのは好きだが論者となるほどでも、さうなるつもりもない者には、いまの力士は誰が誰だかよくわからぬ。



雷電のやうに、長きにわたり首位に腰を据ゑてゐてくれたら、こちらも腰を据ゑて樂しめるのだが……。





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最終更新日  2025.06.16 20:10:04
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