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板橋區立美術館の館藏品展「さっぱり こってり 江戸絵画」を觀る。余白を殘した淡く控えめな“さっぱり”画調が好まれたとされる江戸畫壇において、(※「富士見西行」 周りに薄墨を刷くことで料紙の地色を生かした白富士を表現し、白富士を見上げる西行は濃い墨で描いて色調の均衡を狙った狩野尚信の“さっぱり”系傑作 展示室内フラッシュなしで撮影可)畫面全体に濃厚かつ緻密な色彩を展開した“こってり”作品も多く殘され、(※「松ニ虎圖」 日本には生息しない虎を諸葛監と號した日本人繪師が資料をもとに想像で描いたもの。今日のAI生成画像のはしりか)その両者を觀比べて江戸藝術の層の厚みを樂しむなか、私は胡粉や膠を混ぜた安い顔料で描かれた泥繪に、もっとも惹かれる。これまで博物館などで参考出展として一、二點を目にしたことのある程度であったがゆゑに關心の高かった泥繪を、一つの展示室を使って多數展示されてゐるのは私には極上の眼福にて、無名の繪師たちが遠近法を取り入れて油彩風に市街の賑はひを描きながら、人より建造物に焦點をあてた独特な静寂の世界は、まさに私の求める旅風景、ゆゑに泥繪は新たな友にて、ああ立ち去り難き旅路かな。
2026.09.25

秋のお彼岸でお墓参りを済ませたあと、池上本門寺まで足を延ばす。私は参道から本堂へと至る、この加藤清正ゆかりの石段が好きだ。ところどころ補修が施されてゐるのが歴史を感じさせ、なにより登りやすく、下りやすい──“踏み心地”が良いとでも云ふのだらうか、明らかに苦行を求める身延山久遠寺の“菩提悌”とはまた趣きを異にする優しい達成感を、私はこの石段に覺える。スポーツ系の活動をしてゐる人にも鍛練には格好の場所らしく、よく一気呵成の上り下りを繰り返すそれらしきを見かける。今日も、メディアで見たことのある女性が、カメラマンを石段下に控へさせてスタスタ登ってゐる光景を見かけた。ワシは、登りも下りもゆっくり、なぜなら、早からうが遅からうが、到着する場所は上も下も、けっきょく同じぢゃからの。本堂で御本尊に近況報告を済ませたあとは、お樂しみのおみくじを引く。御本尊からのこゑ──いまの私をぴったり言ひ當ててゐる!つまり、昨日までのやうに今日も生きれば、明日も今日と同じやうに生きられる、との教へぢゃ。
2026.09.24

今日はまた朝から雨、小雨が横に流れてゐるのを窓から眺めて、またコレかとため息なのは誰かの日頃の行なひゆゑ。日が落ちた頃にやっと雨が上り、買ひ物を兼ねた散歩に出ると、朝からお出かけした帰りと思しき二人の小學生くらゐとその母親が、小走りに先を行ってゐる。母子三人の言葉のやり取りから、どうやら子どものひとりが、まだだいぶ先のコンビニのトイレを目指してゐるらしかった。少年はいきなり立ち止まると、また痛くなってきた、と腹を抑えたが、もう一人に励まされて再び走り出し、一瞬追ひ抜いた私を追ひ越し、やがて見えなくなった。まだ距離があるのにガマン出来るとは根性があるなう……、と思ったが、ガマンの限界とは本人が思ってゐる限界點より實際はまだ先にあるもの、とラジオかなにかで聞いた覺えがある。程なくして、上がったはずの雨が、またシトシト落ちはじめた。イヤミなことだ、ひとが散歩に出ると……!しかし私は急がない。私の棲家は、件のコンビニとは反對方面の、もっと遠くだ。もうこの年齢(トシ)になると、限界點などとっくに見失っておるのぢゃよ。
2026.09.23

臺風一過で朝から晴天、やっと元に戻ったナ、と安堵したいところだが蒸し暑さも元通り、まだ連休の最中ではあり、日中は外出を控へて月がのぼってから散歩に出る。日中の余波みたいなのがまだ道をウロウロしてゐるのはさすがに致し方なし、明日もこの時間かナと、遅くならぬうちに棲家へ戻る。大昔の目下の現在をたまたま知る一幕があり、浮世には必要の無い情報が多過ぎる一例がこれぢゃとすぐ破棄したが、そもそもおのれの昔が招いた因縁なれば、これにてもう居合はせることもないはずと、氣を鎮めて打ち囃す。
2026.09.22

臺風二十五號が北上して關東に接近云々、朝から一日中雨で昼過ぎから夕方にかけて本降りとなり、スマホが警報を二度も鳴らす。今回も上陸は避けられ、夜遅くにはすっかり静かになったはいいが、連日のジメジメには茸が生えさうでいささか迷惑である。そこへ無意味な連休が重なってゐるので外出もする氣にもなれず、せめて九月に入ってから降ってばかりのこの雨さへ片付いてくれたら、こちらも諸々の片付けが出来るのにと、私の日常には百害でしかない雨が、ただただ邪魔なので困る。ダメだ、ダメだ、毒茸になりさうだ……!
2026.09.21

また臺風が接近してゐるとかで朝からしっかり雨、浮世では昨日からなんとかウィークとやらで最大五連休云々、今日あたりから有象無象の大移動で長距離輸送機關が大混雑云々、そのまま臺風に吹き飛ばされて帰って来なくていいヨ、と思ひつつ、自分は外せない用事のために今日だけ近隣の町まで外出、初夏の頃に買っておいた新しい傘をさすには相應しい本降り具合と喜んでゐたら昼前に小降りになってやがて止み、それはそれでホッとする。買ひたいもの、食べたいものをすべて買って折良く入って来た電車に乗り、乗り繼ぎが上手くいかないといつまでも待たされる驛でもすんなり事が運び、我が棲家に帰り着いた途端に再び雨となって間もなく本降り、やれやれ日頃の行なひぢゃと安堵してゐるうち、雨音を縫って町内の神社から祭禮の囃子が聞こえてきて、これも關係者たちの日頃の行なひぢゃ、と肌寒さに窓を閉める。
2026.09.20

ラジオ放送で、觀世流梅若派の「松虫」を聴く。この能は舞臺で觀た記憶はなく、文字通りラジオを介して聴いたことしかない、はず。現代では“鈴虫”をさす松虫の音(こゑ)を、よく聴きたいと草叢に分け入った親しい友が、すぐ後で亡骸となって見つかる急展開に驚かされ、しかもその理由について作者は何も触れずに後半へつなげるところが、私には謎めいた魅力を覺えなくもない。男同士の深い想ひが謠はれることから、下らない詮索をしたがる欲求不満もゐるやうだが、私はなぜ親しい友が急に亡骸になったのか、作者の意圖はそこにないからとはわかってゐても、どうしてもそちらが氣になり、後半の展開など耳に入らぬ。結局、いつでもなんでも、真意とは叢いふもの。
2026.09.19

太田記念美術館の「没後50年記念 鳥居言人」展を觀る。江戸の昔から芝居小屋の正面を彩ってきた鳥居派の繪看板、鳥居言人(とりい ことんど)はその八代目であり、晩年には父も名乗った鳥居清忠を五代目として名乗る。言人が生まれた明治三十年(1900年)とは、江戸時代までの日本人の価値觀が西洋文明と思想によって破壊と變換の只中にあった時代であり、多感な年頃をその狭間の時代で過ごした傳統的鳥居派の跡取りは“家業”に疑問を持ち、十代には父である七代目を手傳ひつつも、やがて歌川派の流れ出た新興日本画の旗手であった鏑木清方の門下となり、新版画の美人画で名聲を得る。(※案内チラシより 以下同)一方で師の鏑木清方や有職故實を教はった小堀鞆音からは“家業”を大事にするやう諭され、さうして傳統的鳥居派の後繼者として家業も會得して新旧二刀流の畫家となったことが、のちに大きな財産となる。美人を描けば新旧どちらもえも言はれぬ色氣が漂ひ、傳統的に歌舞伎の人物を描けば大輪な迫力のなかに柔らか味も漂ひ、いづれも鳥居言人の主張が邪魔にならず、しかしはっきりと表れてゐるところに、私は江戸時代から續く家の八代目としての真価があると見る。特に「道行旅路花聟」から取材したお軽の清純な美貌と、首の線だけでその下の振袖衣裳(着物)に隠れて見えない繊細な身体をも表現する香りは、なるほどこの女とならばお家を捨てて駆け落ちしてもいいと思はせるだけの説得力(ちから)があり、これこそが歌舞伎(しばゐ)を熟知した者でなくては描けない、遊女になっても愛を信じるしなやかにして芯の強い女の肖像なのである。
2026.09.18

驛で新大阪行き「のぞみ」を見上げて、師匠のゐる大阪へ想ひを馳せるうち、いきなり涙がこぼれさうになる。浮世の俗人や俗事のために、私は涙を流したことなどない。せいぜい、可笑しくて馬鹿らしくて腹を抱へて、目許が滲むくらゐだ。今日は晴天で、蒸し暑さもなく、過ごしやすい陽氣に心もホッと緩んだゆゑに、つひ涙腺も緩んだのだらうか。私がいま立ってゐる場所と、第二の故郷とはつながってゐる。心も、線路も。あとは師匠が、来てええで、と許しさへあれば、私はすぐに挨拶へ伺ふ。距離は約500km。いまは、もう遠くない。涼しい空氣が、涙を飛ばす。
2026.09.17

橫濱都市発展記念館で、橫濱開港資料館との共催特別展「絵図で旅する幕末の横浜」を觀る。それまで神奈川宿の外れの小さな漁村に過ぎなかったた橫濱が、安政元年(1854年)の開國によって國際港湾都市へと急發展していく約十五年を、殘された數々の繪圖から追ったもので、輪郭のボンヤリしてゐたものが次第に形が整ひ、やがて區畫のカチッとした街へと成長していく過程は、ちゃうど胎児の成長を見るやうな面白さを覺ゆ。ただし、開港後の橫濱は慶應二年(1866年)の大火をはじめ關東大震災、橫濱大空襲などたびたび災害に遭ひ、そのつど改良が加へられて令和現在の姿となってゐるため、揺籃期の繪圖を見ると歴史がつながってゐないと感じられる部分もある。一方で、現在の中華街となる區畫は當時の番地がそのまま繼承され、西洋人が居留してゐた痕跡もわずかに見られるなど、(※山下町91番地に遺る煉瓦塀)歴史を図るのは長さばかりでなく、“深さ”も重要なのだと、あとで實際に歩きながら教へらるる。
2026.09.16

映画「Backrooms」(米)を觀る。離婚がトラウマになってゐる建築家になり損ねの冴えない家具店オーナーが、地下フロアーで偶然に發見した黄色い壁の部屋が延々續く異空間に迷ひ込み、やがて取り込まれ、救ひに向かったはずセラピストの女性もつひには──今夏に渋谷で觀た「記憶汚染展」やさいたま新都心で觀た「行方不明展」の元ネタとも思しき摩訶不思議な126分の映像空間、ある意味で臺詞(コトバ)もここでは意味を成さないやうな恐怖が、ジワジワと觀る者を締め付け、大トリに海賊とも王サマともつかぬ巨大な人喰ひ人形がアナログに襲ひかかかるところで、やうやくこれがホラー映畫のジャンル入るらしいことを知る。なるほど、「犬を知らない者に特徴だけを傳へて繪に描かせやうとするもの」──そこで私は、AIセンセイで試してみた。情報の理解度、蓄積度、記憶度、すべてにおいて、私は制御不能の恐怖へと迷ひ込む……。
2026.09.15

東急世田谷線の宮の坂驛脇に静態保存されてゐる、江ノ電へ転勤して600形となったのち平成二年に里帰りした元80形が、世田谷區の予算で今年度中に補修と再塗装を予定云々、それに當り塗装を世田谷線カラーのグリーン(現在の色)にするか、往年の玉電時代のツートンカラーにするか、廣く投票で決定云々、私は冩眞でしか知らないながら玉電時代の色が好きなので、宮の坂驛に隣接する公共施設でそちらに投票する。區の予算とは別に今後の維持保存の費用の寄附も募ってゐる云々、少額(わずか)ながら協力する。ヨーロピアンスタイルの美しい姿で人氣が高かったと云ふ80形、私も世田谷線を二輌で走る最晩年に一度だけ乗ったことがあり、西太子堂~松陰神社の勾配をキツさうに上ってゐたことを覺えてゐる。まだ現役であったら、おそらく乗りたくて出掛けたであらう、そんな氣にさせる美しい80形もいまや全廢され、この“601”が前面は江ノ電時代に整形されたものの唯一殘る貴重な實車、しかし雨晒しのために車体の痛みは覆ふべくもなく、そのためにせっかくの國寶級が朽ち果ててゐる例を知ってゐるだけに、これを機にせめて屋根くらゐは設置したはうがよいと願ってやまない。
2026.09.14

朝は小雨模様で、今日もまたか……、と大嘆息してゐると、昼頃から太陽(ひ)の光りがさして、おお、と久しぶりに心も晴れる。九月にまともに太陽を拝するのは二日以来、實に十日以上も雨模様のなかに身をおいてゐたら、そりゃ氣も鬱(ふさ)いで体調もおかしくなると云ふもの。ただしこの晴天も今だけのものにて、週の半ばには再び苛立たしい天氣となるらしい。何かする氣にもならぬ時は、何もしないでおかう。……何かの思ふツボになってたまるかい。
2026.09.13

二子玉川ライズのホールで、金春流「熊坂」を觀る。美濃赤坂で金賣吉次一行を襲撃しやうとして一行にゐた牛若丸に返り討ちされた大盗賊・熊坂長範が、幽靈となって旅僧の前に現れ顛末を語り、救ひを求める曲。牛若丸との大長刀をつかった激闘を、柳生流仕込みとも傳はる勇壮な型で見せる後半、その後半のシテがかける長靈癋見の放つ、人間臭いギラギラした眼が強い印象を殘すが、演能前の金春流能樂師による解説で、「牛若丸に出逢はなかった辨慶が熊坂長範」との解釈が、今回はもっとも印象に殘る。武藏坊辨慶とて、かつては五條橋で武士の腰の物を狙ふ強盗犯であり、橋上で牛若丸に散々翻弄された末に改心し臣従したおかげで英雄として名を殘せたもので、熊坂長範とは紙一重の運命にあったと云へる。熊坂長範の場合は親族の牛を盗んで上手くカネに換へられたことに味をしめたのが盗っ人となるキッカケ云々、ヒトは周りの環境によっても運命が左右されると云へど、しかしその途中で必ず訪れるはずの“転機”をいかに自覺できるかによっても大きく隔るもので、それらをすべて通過してしまった男のひとつの例が、今日觀た人物であることを、しおしおと退場する背中よりしみじみ聴いたひととき。
2026.09.12

新宿區立新宿歴史博物館の所藏資料館「かたちを変えて残るもの 今昔道具物語」を觀る。近世から近代、そして現代につながる生活道具、商賣道具の數々を展示したもので、私が少年時代に見たり使ったりした記憶のある物がガラスの向かふに並んでゐるのを觀て、あの時代もいよいよ博物館入りする、ワシもそんな年代(とし)になってきたのぢゃなう……、と苦笑ひ。展示室の奥には蚊帳の實物が展示してあり、中へ入ってみることが出来るやうになってゐた。(※展示室内撮影可)蚊帳は噺に聴いたり、歌舞伎(しばゐ)の小道具として見て知ってゐるだけで、触ったことはない。館内には本當に蚊が一匹入り込んでゐて、私の傍に寄って来たが潰し損ねてゐたこともあり、せっかくだからと裾をまくり、サッと入ってみる。部屋のなかに“個室”があるやうな特別感、夏の夜の涼しさも感じたのはたぶん、編み目の向かふに透けて見える…… 。
2026.09.11

大田區立郷土博物館の特集展示「大森駅開業前夜─150年前の大森を振り返る─」を觀る。150年前の鐵道開業と共に誕生した大森驛を主軸に、現在の光景からは想像もつかないほど土地柄が様變はりした往年の大森を、殘された紙資料と工藝品から偲ぶ小展。古来からの主要幹線である東海道が通ってゐたこともあり、大森は道中藥“和中散”のほか長閑な藁細工が旅土産として作られてゐたが、(※案内チラシより)旅路が歩行から陸蒸氣に移ると廢れて姿を消したのはまさに時代の流れ、しかし明治になるとこの藁細工の技術を生かした“麦稈真田(ばっかんさなだ)”を海外輸出輸出向けに製造するやうになり、麦わら帽子の原材料であるそれはやがて最盛期を迎へるも昭和の初めには製造の中心が西日本へ移り終焉を迎へる。(※同)富岡製糸場と信州岡谷の生糸産業といひ、明治に榮えた産業は昭和の初めに淘汰されてゐるらしい。大森が江戸以来の海苔の産地であったことはこれまでの企画展で知ってゐたが、藁製品のことは今回初めて知る。海から獲れるものと、土から採れるものと、かつての大森はさういふ土地であったことをかうして知ると、時代とは創造と破壊と云ふ斷絶の繰り返しによって成り立ち、流れてゐると感じる。面影が失なはれるとはさういふことであり、またそれが元に戻ることもない。私が時代を嫌ひになる一瞬が、ここである。
2026.09.10

この國のものではない呪文が聞こえる。しかしここは、私が生まれた國で間違ひない。……はずなのに、それがどこかへ追ひやられ、余所の國と人に居座られたやうな、ひどく居心地の惡い氣がして、私はこの場を離れた。今日は昨日の代替へか?私は昨日にまだまだ未練があるのか?未練ではない、やり殘したことを、今日と明日をかけて、完遂させるのだ。納得と云ふ完遂。明後日には、旅へ發つためにな。
2026.09.09

忘大型商業施設内で見かけた、巡回警備ロボット。脇目もふらず、向かふから何かが来れば、かならずよける。脇目ばかりで、向かふから何かが来ても、かならず氣が付きもしないのが、ニンゲン。そんな薄ボンヤリを使ふくらゐなら、こちらのはうがよっぽど仕事に忠實だらうね。イヌを連れて散歩してゐても、ちゃんと前を見て歩いてゐるのは、おイヌ様のはう。ヒトの働く場所が奪はれてゐのだとしたら、それはヒトの質がその賃金に見合ってゐないからでもあるのですよ。
2026.09.08

韓國大使館が入る駐日韓國文化院ギャラリーで、「民画 朝鮮のポップアート」展を觀る。異國の影響など社會的不安定が増した朝鮮王朝時代の後期、王族や官僚など支配階層を中心に始まった繪画文化はやがて社會全体に廣がり、「民畫(ミンファ)」として韓國の傳統藝術に定着する。藝術によくある自己満足的なひねりのない、素朴さと華麗さを併せ持った柔軟に且つ明朗簡潔な畫風は私の心にもすんなりと入り、「さう、かういふのが見たいんだ」と魅入る。(※案内チラシより)現代作品はさうした傳統をしっかり踏まへた上に創作されてゐるのが特徴で、過去があるから現在がある、その時間のつながりがどの作品にもはっきり表れてゐるところに、(※同)明治御一新で文化も価値觀も斷絶し、現代に意味が通じにくくなった日本との違ひをはっきりと見る。
2026.09.07

ラジオ放送で、大藏流狂言方四世茂山忠三郎師の追想番組を聴く。茂山一族の狂言と聞くと、つひ「お豆腐狂言」をどうも曲解したやうなお客に媚びへつらったそれを連想するが、あれは千五郎家の話しであり、忠三郎家は御所でミカドやお公家さんを相手にしてゐた家らしく上品でふくよかな藝を身上とし、それを長きにわたり体現してゐたのが四世忠三郎師であり、いかにも古都の大店の主人を思はせる“旦那”然とした佇まひで長裃がよく似合ふ、茂山一族では唯一好きな狂言方であった。狂言とは庶民の日常生活における“あるある”を切り取りって笑ひにしたもので、ウケ狙ひの過剰演技で爆笑させやうとするものではない。たしかに爆笑狙ひの芝居(演藝)はあって私も大好きだが、それと狂言とは畑を異にするものであり、演者もお客もそこの線引きをわかってゐないらしいのが、間違ひなく存在してゐる。「お客が家に帰ってから今日觀た狂言を思ひ出して、クスリと笑ふ」──お豆腐より、私は斷然こちらの藝を支持する。
2026.09.06

川崎浮世繪ギャラリーで、「新時代の幕開け 横浜絵&鉄道絵」展を觀る。幕末の黒船来航の騒ぎを傳へる瓦版から始まり、新興港湾都市である橫濱とそこへ来日した異國人、そして東京とを結ぶ“蒸氣車”──鐵道を題材にした明治の浮世繪から、近世から近代への過渡期に居合せた歌川派をはじめとする繪師たちの新奇への飽くなき好奇心と、それを正確に傳へやうとした足跡を、殘された作品から偲ぶ浮世繪ヨコハマ旅行。そこに描かれた橫濱は大正十二年の關東大震災で壊滅してゐるため、ヨコハマであって橫濱ではないやうな、まさに異國の情緒を見てゐるやうでもある。さうしたなかで、輸入された銅版画や異國新聞の挿し繪を参考に想像された英國や佛國の風景、また開業前に想像で描かれた“蒸氣車”などは、もうそれだけで自分も旅情をそそられる異世界であり、實はそこに値打ちがあると思ひつつ、蒸氣車が驀進する高輪築堤だけは數年前に當地の再開發現場で出土したままの姿で描かれてゐるところに、情報媒体としての浮世繪の正確さも認識する。
2026.09.05

千代田區九段の昭和館で、特別企画展「めくるめく紙芝居─館蔵印刷紙芝居コレクション─」を觀る。それまで舞臺に見立てた箱に竹串を立てて背景画を張り、竹串を通した紙人形を遣って歌舞伎の一場面を紙人形師の聲色で見せる立体的な見世物興行だった紙芝居が、昭和五年(1930年)から紙に描いた繪、いはゆる平繪の形に改められると、翌年には「黄金バット」と云ふ大當りを生み出し、紙芝居は街頭で手輕に樂しめる娯樂としてたちまち大衆に浸透する。もっとも、ごく初期の紙芝居には決まった筋はなく、内容は口傳であとは紙芝居師が當意即妙、つまりアドリブで組み立ててゐた云々、しかし地方への貨し付けが増へるにあたり、裏面に物語を記すやうになった云々、さうした大衆への多大な影響力(ちから)を知った國は紙芝居を大衆教材に用ゐることを思ひつき、やがて昭和十二年に日中戰争が始まると、内務省主導で「日本少國民文化協會」が設立されて児童文化のすべてが國の統制下におかれ、また民間では教育家の松永建哉により日本紙芝居協會が發足するなど、紙芝居は忠君愛國と戰意高揚を煽るプロバガンダに利用される。その現物の複製を私も昨夏に神奈川大學の企画展でいくつか手にとってみたが、そのほか情報傳達の乏しい地方農村については、新聞記事やニュース映画までも内容をそのまま紙芝居に転冩して現地に出張し、紙芝居師が讀み聞かせてゐたことを今回はじめて知り、その徹底した利用ぶりには怖氣立つものすら覺える。かくして國策の手先となった紙芝居は、終戰後の極東軍事裁判(東京裁判)では關係者が証人として召喚され、昭和二十一年六月二十日と二十一日には日本紙芝居教育會々長の佐木秋夫が法延で『日本ハ戰争ヲ為シテイルノダ』の實演させられたのは、時勢に迎合せざるを得なかったとは云へ、本人としてはさぞ屈辱であったらう。終戰後の紙芝居はGHQの“監視”のもと、國策色を排除した大衆娯樂として再出發し、そのなかには大阪で紙芝居を自作自演して好評だったと云ふ若き日の水木しげるもゐた。青少年の啓蒙教材としての紙芝居は戰後も存續し、わたしも幼少時代に幼稚園の年老いた保母さんが毎日午後の時間に紙芝居を觀せてくれた記憶がある。かつて散々に鬼畜米英だの忠君愛國だのと大衆に吹き込んで(吹き込まされて)ゐたゐた大衆娯樂が、昭和二十一年にはコロリと宗旨替へして健全な心身の育成を語りかける──その手のひらならぬ紙をひっくり返したやうな變貌ぶりに、物心のついた青少年がオトナへの猜疑心を抱いたとしても無理はない。かくして現代に至る報道や宣傳の“工作ぶり”への注意を、殘された紙芝居たちは八十一年後の今日も、存命で私たちに語りかけてゐる。
2026.09.04

永青文庫の夏季展「えいえいやっとな!蔵出し!細川家の狂言・装束」展を觀る。肥後熊本藩細川家の初代である細川幽齋が始めた猿樂道樂により當地では金春座の櫻間家、喜多流の友枝家が繁榮し、近代になり華族様となったのちも東京の細川邸内には能舞臺が設けられ、時の當主が自前の装束をつけて“わわしい女”となって畏まる冩眞を殘す。(※案内チラシより 以下同)さうした幽齋以来、演じるために蒐集された猿樂道具のうち狂言に焦點を當て、その現物の數々を和泉流野村万作家三代からの寸評も添へて虫干ししたもので、親と子はそれなりの鑑賞眼だが孫はまだ表面上だけでしか物を見られないらしいところが、まァ若者らしい。自分の活動において、装束については自分で作れさうなものは手縫ひするので、展示された現物はやはり仕立て具合のはうに目がいく。半袴の脇あきは古物ほど切れ込みが深く、現代で用ゐれてゐる同物とは様子が違ふやうで、そのうちに演能會で改めてよく見比べてみやうと、今さらながらの宿題をつくる。肩衣は背面を表にしてゐるので一枚の麻布を二枚繋げて幅をつくってゐることがよく分かるが、裾を小さく折り返してほつれ止めしてゐる物もあれば、斷ち放しで糸がほつれてゐる物もあり、この違ひは何なのだらうと思ふ。面の數もなかなかで、武惡は三面が展示されてゐるが、三者とも容貌が異なり、演じる役に合わせて使い分けてゐたことを知ると同時に、人間が自分の手で作ったものはその一つ一つが貴重な“一點物”であることを知る。同じ展示室の冒頭には、奈良興福寺にまだ南大門があった時代の薪御能を描いた繪巻物が部分展示され、僧兵が厳めしく演能を眺めてゐる様子より、鳥居外で一人の物賣りが露店を開いてゐる姿に當時の生活感が窺へて、興味を覺ゆ。
2026.09.03

東京藝術劇場プレイハウスで、「マルコス浄瑠璃『金閣寺』」を觀る。三島由紀夫の「金閣寺」を原作に、スペイン出身の振付家兼藝術監督氏が創造するダンス型觀念作品。三島由紀夫と云ふ、どうとでも解釈できる作家の作品はこのテのアーティストには格好のネタであり、金閣の内部をイメージしたらしい黒塗りの舞臺を無言でやたら這ひずり回るダンサー連に歌舞伎役者と文樂人形遣ひが振り回され、調子が變はらず後半にはいい加減に飽きてくるスペイン人女性歌手に歌舞伎の竹本連中が調子を合はせて唸り散らし、やがて漆黒の空間に突如として金箔の殘骸がクルリと現れて映え榮えしたところで、柝(チョン)。かういふ五体を絶えず振り回してものを表現する舞臺は、目だけで理解しやうなどは間違ひだ。こちらも五体で受け止めて、初めて焼失から始まる新たな美の立ち上がる瞬間を、目撃できるのだ。知らんけど。
2026.09.02

神奈川縣立金澤文庫の特別展「昭和と金澤文庫」を觀る。昭和天皇御大典事業として計画され、實業家大橋新太郎の資金援助もあって昭和五年に神奈川縣初の博物館として誕生した金澤文庫の歩みを、収蔵品の數々と昭和の歴史とを絡めて回顧した昭和100年の記念企画、さうした學術の府たる金澤文庫も戰時下では時局への協力を強いられ、昭和十五年からは所藏圖書を縣内の小學校や圖書館へ貸し出す「貸出文庫」を行なふ。(※案内チラシより)“國威發揚”のための圖書を専用の行李に詰めて列車で輸送し、相手の担當者が最寄りの驛まで出向いて受け取る仕組みだったが、當初はトラック輸送を計画してゐたものの燃料統制のためにやむなく變更云々、敗戰後には侵駐米夷にそれら圖書の処分を命じられたが職員たちは館内に展示してゐた佛像の臺の下に隠して守り抜いたと云ふ話しに、歴史(資料)を研究すると同時に守り傳へる使命をもった方たちの矜持を見るやうであり、また深い人間味をも覺ゆ。中世の古文書に添えられたイチョウの葉は料紙の防虫効果を狙ったものされ、自分も所有する和本で試してみやうかと興味をそそられる。そして稱名寺本尊の弥勒菩薩像を昭和二年に修理した際、胎内の納入物を木箱に保管してゐた木箱の蓋に、「弥勒」を「勒弥」と間違へて書いたため、二字の間に漢文よろしくレ點をつけて對処したのは、人の手の温度を身近で感じるやうで、遠い時間もすぐそこにある親しみを覺える。
2026.09.01
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