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今まで何人もの家族や友人達を見送ってきたが、ガンで亡くなる場合は、大体3ヶ月前頃までは元気で普通の生活が送れる人が多いように思います。私の場合、今まで幹事役が多く、余命6ヶ月程度と判断した時点で、お互いに親しい人を集めて食事会をしたり、思い出の地に旅をするようにしてきました。膵臓ガンで亡くなる4ヶ月前に食事会を持った大学時代の無二の親友から、3ヶ月前にきたメールです。不思議に「死」に関して冷静でいられる。自分でも良くわからない。これまで、「やることをしたら後はしょうがないでは無いか」と生きてきた一つの諦めのようなものがある。貴兄の信州の友人(同時期に膵臓ガンと宣告)は治療を拒否してまで現在の生活を維持しているようだが、当方は出来る治療は受けるつもりでいても、その治療が体力的に追いついていけない部分があって往生している。医者に外科手術は出来ませんと言われ、当方からは点滴用のチュウブをつけて生活する気は無いですと宣言したので、これで治療の選択幅はぐっと狭まりました。後は体力勝負であり、病の進行具合次第なのです。「なるようにしかならないな」と思うしかないでしょう。この間は楽しかった・・・。1年余の闘病の末に亡くなった高校時代のマドンナとも、3ヶ月前に最後の食事会をしました。元気な間に、自ら親しい人に別れを告げておきませんか?
2014.07.31
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臓器提供については、臓器移植法が施行され、心停止後だけでなく脳死後の臓器提供も認められました。2010年7月からは、本人の臓器提供の意思が不明な場合も、家族の承諾があれば臓器提供できるようになり、15歳未満の方からの脳死下での臓器提供も可能になりました。脳死後から提供できる臓器は、心臓・肝臓・肺・小腸・腎臓・膵臓・眼球(角膜)です。これに対し、心停止後に提供できる臓器は、腎臓・膵臓・眼球(角膜)です。また、臓器移植法で規定されていない、皮膚・心臓弁・血管・耳小骨・気管・骨などは、家族の同意を得ていれば提供できます。臓器提供には目安となる年齢があり、心臓は50歳以下、肺は70歳以下、腎臓は70歳以下、膵臓は60歳以下、小腸は60歳以下です。なお、眼球(角膜)提供には年齢制限はありません。臓器を提供したい方は、「臓器提供意思表示カード(ドナーカード)」に脳死後の提供と、心停止後の提供を記入します。カードは、役所・郵便局・コンビニエンスストアなどに置いてあります。献体を希望する場合は、生前に献体登録をしておく必要があり、本人が同意していても、家族の同意が得られなければ献体を実行することはできません。
2014.07.30
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死の時間軸を遅らせるのが延命治療だが、助かる見込みのない延命処置が果たして治療なのでしょうか。見ていても辛いだけです。医療の世界では、延命治療はドル箱といわれているそうです。例えば、肝硬変で食道静脈瘤が破裂して入院し、15日後に亡くなった70歳の人の場合、治療費316万円の内訳は手術費14%、中心静脈注射42%(約日9万円)だが、治る見込みのない人に注射は意味があるのでしょうか?ところで、人生最後の時を過ごす患者たちの緩和ケアに携わったオーストラリアのBromie Wareさんは、死の間際に人間はしっかり人生を振り返るという。患者たちが語る後悔には同じものがとても多いく、死を間近に控えた人々が口にした後悔の中で多かったものトップ5は以下の通りという。1. 自分自身に忠実に生きれば良かった「他人に望まれるように」ではなく、「自分らしく生きれば良かった」という後悔がもっとも多いそうです。人生の終わりに、達成できなかった夢が沢山あったことに気づき、「ああしておけばよかった」という気持ちを抱えたまま世を去らなければならないことに人は強く無念を感じるようです。2. あんなに一生懸命働かなくても良かった男性の多くがこの後悔をするとのことです。仕事に時間を費やしすぎずて、もっと家族と一緒に過ごせば良かった、と感じるのだそうです。3. もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった世間でうまくやっていくために感情を殺していた結果、可もなく不可もない存在で終わってしまった、という無念が最後に訪れるようです。4. 友人関係を続けていれば良かった人生最後の数週間に、人は友人の本当のありがたさに気がつくのだそうです。そして、連絡が途絶えてしまったかつての友達に想いを馳せるのだとか。もっと友達との関係を大切にしておくべきだった、という後悔を覚えるようです。5. 自分をもっと幸せにしてあげればよかった「幸福は自分で選ぶもの」だと気づいていない人がとても多く、旧習やパターンに絡めとられた人生を「快適」と思ってしまったこと、変化を無意識に恐れ「選択」を避けていた人生に気づき、悔いを抱えたまま世を去っていく人が多いようです。
2014.07.29
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現代医学では、治る見込みのない病気で苦しんでいる病人に対して延命治療が実施されています。この頃では、「単なる延命治療は望まない」、「植物状態になったら生命維持装置を外してほしい」、「自然に死にたい」と考える方が増えています。そのような、人間としての尊厳ある死を自己決定しようというのが尊厳死です。これに対して、安楽死は、助かる見込みがないのに、耐え難い苦痛から逃れることもできない患者の自発的要請にこたえて、医師が積極的な医療行為で患者を早く死なせることです。高齢化社会に入り、「生と死」について語り合う機会も多くなりました。死に様は、ある意味では生き様の表現でもあり、元気なうちに、いざという時に備えて、自分の「死に方」について考えてみることも大切なことだと思います。尊厳死を希望する場合、遺言と同じく文書を作成しておく必要があります。内容として、「無意味な延命治療の拒否」、「苦痛緩和のための処置の実施」、「植物状態での生命維持装置の拒否」、「行為の責任は本人にあること」を盛り込みます。文書は、家族や医師に提示しておきます。医師も尊厳死を承諾して延命治療を実施しないケースが多くなってきています。『尊厳死を求めること』は、最終的には『延命治療の中止』を求めることになります。延命治療を中止することは、積極的に死に向かわせる『安楽死』とは異なり、自然に死に向かうように『治療を停止』することです。『自然に』とはいっても、延命措置を停止することによって、人の生命が失われることに変りはないので、延命治療を中止することができる厳格な要件が、過去の判例で明示されました。1.患者が治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みもなく死が避けられない末期状態にあること。患者の自己決定権は、死そのものを選ぶ権利や、死ぬ権利を認めたものではなく、死の迎え方、死に至る過程を選択する権利を認めたに過ぎず、早すぎる安易な治療の中止を認めることはできません。2.治療行為の中止を求める患者の意思表示が存在し、治療の中止を行う時点で存在すること。患者の明確な意思表示が必要なので、病状に関する正確な情報を十分に得て、正確に認識した上での意思表示となります。意識がなくなってしまっているときは、推定意思によることが許され、事前の書面(尊厳死宣言書)が必要になります。3.治療行為の中止の対象となる措置は、薬物投与、化学療法、人工透析、人工呼吸器、輸血、栄養・水分補給など、疾病を治療するための治療措置及び対症療法である治療措置、さらには生命維持のための治療措置など全てが対象となります。どのような措置をいつ中止するかは、死期の切迫の程度、当該措置の中止による死期への影響の程度等を考慮して決定されます。 90幾つかのあるお婆さんは、達者で、まだそれほどぼけてもおらず、ある夜、60幾つかのお嫁さんと一緒に風呂に入った。お婆さんは先に着物を脱いで風呂に入り、「ああ、良い湯やね」と脱衣所で裸になっているお嫁さんに声をかけた。お嫁さんが風呂に入ると、お婆さんは湯船の縁に腰をおろして目をつぶっている。「お婆ちゃん、そんなところで眠りはったらあかんがな」と声をかけたが、お婆さんは動かない。死んでいたのです。「ああ、良い湯やなあ」といい気持ちになった瞬間に、この世から-極楽往生したのです。何と羨ましい往生でしょうか。一度しかない人生、好きなことにドップリと浸かって、笑って暮らし、笑って死んで逝きたいものです。
2014.07.28
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奈良興福寺の貫主さんは、「“生きたい”“もっと生きたい”という思いが強い人の心は輪廻転生し、“生きるのはもういい”“もう生きたくない”という人の心は死によって消える」と言われました。統計的には、本人の場合「少しでも長生きしたい」という人は男性の方が多くて14.1%、女性では6.5%です。8割前後は延命治療よりも苦痛からの解放を願っています。だが、死は個人の問題であると同時に家族もまた当事者といえます。家族の場合となると、「少しでも長生きして欲しい」と思う人が20%近くになります。家族には、自分の心の負担を軽くするために患者の意志を軽視したり、患者に犠牲を求める傾向もあり微妙な問題です。延命か縮命かの問題は、延命治療が苦痛や身体への負担をもたらすことも多いし、延命治療を拒否して痛みの緩和だけの治療は余命を短縮する恐れもあり究極の難しい選択だが、本人よりも家族に悔いを残したくないというこだわりが強いので、本人がハッキリと意思表示をしておくのも一つの思いやりではないでしょうか。その際、例話のようないさかいを防ぐためにも、しっかりとした意思表示をしておき、医師にも提示しておくことです。
2014.07.27
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科学が進歩して、死が昔のように単純でなくなり(脳死という死の前倒しと、延命という死の引き延ばしが可能に)、上手に死ぬのが難しい時代になり、死への哲学が求められています。だからこそ、自分らしく生きて死ぬということはどういうことかを、普段から考えておく必要性に迫られているとも言えます。自分なりの選択(延命か縮命)をするとなると、告知は欠かせない問題だと思われます。どの調査でも、本人自身は告知を望んでいるのに(財ホスピス調査 治る見込みがなくても知りたい70.9%;治る見込みが有れば知りたい15.3%)、家族は告げたくない(本人の意向にかかわらず知らせる11.9%;本人の意向に従う62.1%)という傾向が顕著です。日本人にとっては死の話はタブーで、告知さえも避けたがり、本人の苦痛にはお構いなしに治療が続けられる傾向(闘病中の知人からメールでよく訴えられた経験があります)があります。自分の命であるにもかかわらず、不治の病であることも告げられず、治療法や痛みの処置の願いも聞かれず、命の終わりへの備えもできないのでは、死んでも死にきれません。私は、自分の最後を意識しながらも、充実した日々を送るために告知から逃げたくないと思います。
2014.07.26
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欧米では殆ど寝たきりの患者がいないそうだが、なぜいないのでしょうか。その理由は、高齢あるいは、ガンなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると国民みんなが共通認識しているからで、逆にそんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。だから、日本のように高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作らないし、点滴もしません。従って両手を拘束する必要もありません。肺炎を起こしても、抗生剤の注射もせず内服投与のみです。つまり、多くの患者は、寝たきりになる前に亡くなるので、寝たきり老人がいないのは当然です。さて、欧米が良いのか、日本が良いのかはわかりません。しかし、全くものも言えず、関節も固まって寝返りすら打てない、そして、胃ろうを外さないように両手を拘束されている高齢の認知症患者を目の前にすると、人間の尊厳について考えざるを得ません。日本でも、尊厳ある人生の最終段階について普段から考え、周りの人とも話し合い、命が終わる時まで最善の生を生ききることができたら最高ですね。少なくとも私は、尊厳ある死に方を選びます。
2014.07.25
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昔は、心臓が止まれば死ぬわけで非常に簡単でした。だから、医学的な死の定義を法律で決める必要もありませんでした。脈が無くなったり、瞳孔が開いたりといった変化を見て、人間が死を判断していました。それが、医学の進歩につれて、人間の都合で死を判断するようになり、機械が科学的に判断するようになるとともに死の枠がすごく広くなってきました。死の時間の前倒しが、今話題になっている臓器移植の問題です。心臓や肝臓などを移植するためには、心臓死を待っていては遅く、「脳死」を死としなければなりません。そのために、脳死を医学的には死と認める法律を作ることで、死ぬ時期を早める必要がおきました。逆に、死の時間軸を遅らせるのが延命治療です。でも、助かる見込みのない延命処置が、果たして治療なのでしょうか。見ていても辛いだけです。医療の世界では、延命治療はドル箱といわれているそうです。 例えば、肝硬変で食道静脈瘤が破裂して入院し、15日後に亡くなった70歳の人の場合、治療費316万円の内訳は手術費14%、中心静脈注射42%(約日9万円)だが、治る見込みのない人に注射は意味があるのでしょうか?肺に移転したガンの状態を調べるために、毎日、気管支ファイバースコープ検査をされた80代の人は、入院2週間後に亡くなられたが、このもの凄く苦しい検査をする意味など全く無意味だと思います。最後の2週間ほどを、苦しい目にあったり、無意味な治療を受けたり、菅を付けて意識もなく生きることに何の意味があるのでしょうか。私は、そんな死に際を迎えたくありません。・病気の完治ではない延命治療を希望しない 本人の場合 81%・家族の場合 希望する 33% 希望しない 51%本人は大部分が延命治療を希望しないと答えているのに、家族の希望比率が高いのは悔いを残さないためとか、周りの人に悪く思われたくないという意識が働くからと思われます。奥さんを亡くされた方のこんな例があります。奥さんの姉弟妹たちが相談した結果、一致して延命治療を希望する、ということでした。びっくりして、祐子自身が「遺言書にかえて」の中で明言している希望を無視して、それと反対のことをしようというのか、と尋ねましたが、それに対する答えは、「実際に血を分けた肉親としては、1日でも1時間でも長く生きていてほしいと願うのは当然だ。それに、この文書は正規の遺言書ではなく、本当に祐子の意思を伝えているとは言えない」というものでした。実際には、その翌日には心電図の波が停止し、医師が駆けつけてすぐに彼女は死去し、延命治療などが行なわれる余裕もありませんでした。意識を回復できる望みがまったくなく、体のあちこちにいろいろなパイプや電線や機械をつながれた病院のベッドで、ただ呼吸をしているだけという植物人間の状態を、半年も、いや、1週間にせよ、続けさせることは、彼女の尊厳にもかかわることであり、耐え難いという思いだったのです。死去が速かったため、結果として、彼女の姉弟妹たちと私との間で、延命治療をめぐる争いが長く続くことはなかったものの、この問題はあとをひきました。彼女の死後、妹と電話で会話を交わした際に「あなたは、祐子ちゃんの生存に必要な治療さえ拒否したような人なんですから」と言われて、愕然としました。もう、反論する気もなく、「ああ、そうですか。そんな風にお考えなんですか」とだけ言って電話を切りました。彼女の姉弟妹たちへの遺産相続も、法の規定どおりに行ない、配分も終わりましたので、もう、これ以上、お付き合いをすることはお断りしたい気持ちです。感情的なしこりは残ったままです。哀しいことだが、こんなトラブルも抱えなければならないのが現在の死に際です。
2014.07.24
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在宅医療を始めようとする人にとって、どれぐらいの費用がかかるかは重要な問題です。在宅医療にかかる費用は、1.医療機関への支払い2.薬局への支払い3.介護保険の自己負担などが主なものです。通常、在宅医療の主な対象は、老人医療証を持っている1割負担の高齢者が多いので、ここではそういった人を想定して、在宅医療にかかる医療費について解説しておきます。介護保険の支払いは、具体的な要介護度とケア内容によって異なってきますので、これらが決まった後ケアマネージャーに相談してください。また、薬剤費については、使用する薬剤によってかなり異なります。在宅医療を受けている人の医療費(医療機関に支払うお金)は、10人中9人(89%)が1万円以下、4人中3人(76%)は7,500円以下で、平均値は6,723円、中央値は5,785円でした。ただし、胃瘻、在宅中心静脈栄養、在宅酸素、在宅人工呼吸療法など特別な治療をお受けの場合、あるいは、注射などの治療や一部の検査を受けている場合は自己負担は増えるが、これらの特殊な医療を受けていても、集中的な治療を行なわなければ、通常1割負担では数千円から2万円程度と考えられます。
2014.07.23
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在宅医療には、医師が自宅に伺う往診(患者の求めに応じて患者の急変時に診察を行う)と訪問診療(定期的に医療を受ける必要があるにも関わらず外来通院が困難な場合に自宅に定期的に訪問し診察を行う)、看護婦が伺う訪問看護、作業・理学療法士が行う訪問リハビリテーション、歯科医師が行う訪問歯科診療等があります。訪問診療は、患者が自宅で生活する際に必要な医療機器の管理や、状態管理、薬の管理等を行います。最近は、点滴や尿の留置カテーテル、病気によっては人工呼吸器をしたまま自宅に帰る患者さんが増えてきたので、医療者の継続的な管理が必要となることが増えてきました。機器を付けたまま退院したり、寝たきり等になり、定期的な通院が困難になって在宅医療を依頼したいという場合は、まずは今までのかかり付けの先生に相談することです。その先生が訪問診療を行っていれば、直接その先生に依頼することになるし、行っていない場合は訪問診療を行っている先生を紹介下さると思います。また、地域の保健所や在宅介護支援センターに問い合わせれば教えてもらえます。入院中の患者の場合、病院によっては医療ソーシャルワーカーという相談員がいるので、その方にご談して下さい。
2014.07.22
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家族を始めとする共同体が完全に機能していた時代には、人は死んでも、共同体の中では生き続けていたから、それぞれの個人は死を恐れる必要はなく、死体の保存にこだわる必要もなかった。マダガスカルでは、人は祖先になるために生きたので、死といわず、「祖先になる」と言って、死を怖がらなかった。しかし共同体という時間を超越した居場所が無くなって、生と死は分節され、人は寂しく死ななければならなくなった。老いて死ぬ人が共同体のかわりに頼るのは、社会保障と立派なお墓である。立派な墓も、共同体が消えたことの補完物であった。共同体がしっかりしていれば、墓はどうでもよかったのである。墓の延長上に、建築や都市というモニュメントがある。安らかに死ねない人が、立派な墓を作り、その延長として立派な建築を作るのである。安らかに死ねないから、立派な建築や、都市を作って、死を隠蔽しなければならないのだと、僕は感じると養老孟司東大名誉教授はいう。確かに、私の親父のときはそうだった。臨終間近となり、家族が集まって談笑していた次の間で横たわっていた。何気なく、私が隣の部屋を覗きにいき、鼻に手をかざしてみると息がなかった。機械に頼ることもなく、近くで家族の談笑を聞きながら、静かに去っていった親父の死は、生と死が連続していた。また、人は身近な人の心の中で忘れ去られない限り生き続けています。そういうものが期待できない人は、「私を忘れないで」、「私はこんなに立派な人だったのだ」とモニュメントを欲するのかも知れない。「認めて欲しい」というのは、子供から大人までの根源的な欲求である。でも、そんな欲求って、虚しいと思いませんか?私は、命のバトンタッチもしたし、あとは静かにフェードアウトしてゆくのみ。「葬式もお墓も遺された者の心の問題、お前達が必要性を感じなければ無くても良い。私には無用の物だから」と言っています。
2014.07.21
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誰にも、後どれだけ命が残っているかはわかりません。いかに若くても、ヒヨットしたら、5分後には事故で命を失うかもしれません。杏林大学医学部の石川恭三教授は、絶えず「あと5年の命」だと思って自分を律せよと言う。私も、60歳を過ぎてからは実行し、5年更新を繰り返しています。もし、自分の命があと5年だと知ったら貴方はどうしますか?その命ある5年間に、自分が「すべきこと」「したいこと」をいろいろ書き出して優先順位をつけてみて下さい。すると、その過程で、今まで見えなかったものがきっと見えてくるはずです。大きく見えていたことが小さくなり、小さく思えていたことが大きく見えてきて、価値観や人生観が変わってくるかもしれません。私たち人間がエゴや欲望の虜になってしまうのは、100年も200年も、いや永遠に生きられるように錯覚しているからです。ところが、残りの人生があと5年と思ったら、それまでの自分が大した理由もなく欲の衣を幾重にも身につけて心の不自由を奪われていたことや、絶えず他人と比較して心の平安を失っていたことの愚かさに気づくはずです。
2014.07.20
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残された短い時間を悔いのないように生きるには、元気なうちは終点を5年ぐらい先に置いて、次の3点を書き出して逆算してみるのもいいと思います。・終点から逆算して後幾つ駅が残っているのか、・それらの駅を通り過ぎる間に何をすべきか、・何をやりたいのかを真剣に考えて人生計画を立て、そのうえで日々の小さな目標に置き換えて、毎日を楽しんではどうかと思います。私たちは、とかく自分がいつまでも生きているような錯覚をおこしがちです。平均寿命が80歳を超えたと言われれば、自分も80歳までぐらいは大丈夫だろうと思いがちです。少なくとも、明日も明後日も生きていると考えています。そして、大抵の場合はそうなります。だから、大抵の人は、「いつ死ぬかもわからない」という事実を、「明日も生きている」という惰性に置き換えて、昨日のままに生きています。若い人ならそれも分かるが、60代、70代になっても、誰もが漫然と生きているような気がしてなりません。それでは、人生を悔いなく終わるのは難しいと思います。
2014.07.19
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人の生き方には、「世俗的にはこの世を楽しく過ごそう。済んだことはくよくよしない。未来は神に任せ、詰まらん言いがかりは無視する」とゲーテが言ったような楽天的な生き方と、「苦しんだ行為のみ善であり、愛を保証するものは犠牲である」とカントが言ったような厭世的とも言える生き方があります。私は、死というものも生の一つの場面だと割り切り、自分なりに満足する生き方をしていれば安らかに逝けると思っています。死に仕度と言っても、なにも暗く考える必要はありません。どうせ死は避けられないものだからこそ、楽しく充実した一日一日を送ればいいのではないでしょうか?樋口廣太郎さんは、「死に支度といっても、何も暗く考える必要は全くないというのが私の考え方である。どうせ死は避けられないものだからこそ、充実した人生を送りたいと私は考える。そして、充実した人生とは、われわれ実業人の場合、世の中の動きをよく見て、社会に対して何らかの有意義な仕事を成し遂げることにある。その実感を持つことこそが、最高の幸福であり、実業人にふさわしい死の準備だと思う。要するに、死の準備とは人生に対する構えといった観念論ではなく、毎日毎日の生きる形にあるのではなかろうか」と言う。
2014.07.18
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ある歳になると、なんとなく「いつお迎えが来るのかな」と思いつつも、私たちは毎日をなんとなく過ごしてしまいがちです。死後のことを思い詰めてくよくよするのはよくないが、いつ、どのような事態が生じようとも後悔することのないように、死に方について普段から考えておき、今という一瞬一瞬を大切に生きていきたいものです。自分の死を真剣に考えることで、「今日一日を精一杯生きられる」というのが、死を深く見つめた人が辿り着く結論のようです。明日目覚めるとは限らない就寝の床を臨終の床と心得、周囲の人たちへの感謝の言葉を献げてから休むことを日課としている人がいます。「明日には死ぬ」と思ったとき、生きて暮らしている今日という一日がどれだけ輝いて見えることでしょう。そんな大切な一日を、ぼんやり過ごしているわけにはいきません。今日一日と思って、今日という一日を楽しく生きる工夫をしたいものです。すべては決別の詩だ人はサヨナラというとき 一番美しい姿になる目に光が生まれ 胸に愛が溢れてくるああ決別を持つゆえに 人生は美しい (坂村真民)
2014.07.17
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ある歳になると、なんとなく「いつお迎えが来るのかな」と思いつつも、私たちは毎日をなんとなく過ごしてしまいがちです。死後のことを思い詰めてくよくよするのはよくないが、いつ、どのような事態が生じようとも後悔することのないように、死に方について普段から考えておき、今という一瞬一瞬を大切に生きていきたいものです。自分の死を真剣に考えることで、「今日一日を精一杯生きられる」というのが、死を深く見つめた人が辿り着く結論のようです。明日目覚めるとは限らない就寝の床を臨終の床と心得、周囲の人たちへの感謝の言葉を献げてから休むことを日課としている人がいます。「明日には死ぬ」と思ったとき、生きて暮らしている今日という一日がどれだけ輝いて見えることでしょう。そんな大切な一日を、ぼんやり過ごしているわけにはいきません。今日一日と思って、今日という一日を楽しく生きる工夫をしたいものです。すべては決別の詩だ人はサヨナラというとき 一番美しい姿になる目に光が生まれ 胸に愛が溢れてくるああ決別を持つゆえに 人生は美しい (坂村真民)
2014.07.17
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さあ、あなたは死ぬ準備はできていますか? 「縁起でもない」と思われるかもしれないが、死ぬ準備をした人だけがしっかり生きることができるのです。何か大きな試練を前に私たちは相応の準備をします。試験前には試験勉強、結婚の前には花嫁修業、老後の為には貯蓄と、来るべき時に備えます。備えあれば憂いなしといわれるように、ひとたびインフルエンザが流行の兆しと聞けば、マスクを買いにスーパーへ走り、食料を抱え込みます。準備を怠れば大変なことになることを知っているからです。しかし、やがて引き起こる人生最大の試練である死に対しては、ほとんどの人が問題にしようとさえしません。300年に1回しか遭う確率がないといわれるにもかかわらず、日本国民の6割が火災保険に加入しています。万が一の火災に対してさえ、無視する人はありません。それより可能性の高い交通事故ならなおさらでしょう。誰もが必ず迎える老後や病気のためにも備えて、運動や食事にも注意し、生命保険にも入ります。ところが、100パーセント迎える死に対しての準備はどうでしょうか。何かしていますか?人は死ぬと六つの「遺」を残すが、争族を避けるため確りと処置をしておくことです。1.遺体 葬儀(自分で葬儀社や担当者を選んでおく人もいる)2.遺骨 永代供養・自然葬・手元供養(アクセサリー加工等)をする人も3.遺族 愛人や隠し子などがいる場合はしっかりと後始末を 4.遺産 争族を避けるために遺言が望ましい5.遺品 形見分けなどはエンディングノートに書いておくと良い6.遺言 自筆証書遺言・公正証書遺言・秘密証書遺言で残す (私自身は、1.2は遺された人の問題として任せきる方が良いと思っているが)争いの原因になる大きな要因は次のような点です。1.不動産や未公開株が多く分割しにくい2.特定の人が親の面倒をみた(面倒見なかった子ほど平等意識が強い)3.子供の経済格差が大きい(低所得の子に残したくても子が納得しない)4.特定の人に生前贈与をしていた5.借金が多い(相続放棄は3ヶ月以内)6.各々の子に「これあげる」と適当に言っていた7.内容が明確でない中途半端な遺言(公正証書遺言が望ましい)
2014.07.16
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オグロツルの越冬地であるブータンのポブジカの谷にある村で、電線を引くことになったが、ツルの飛来の邪魔になるという理由で引くことを止め、出力40ワットほどのソーラ発電機を設置した。輪廻転生の宗教的世界観があり、親や兄弟、妻や夫がツルに生まれ変わるかも知れないと考えたからです。ブータンには墓がありません。その理由は、輪廻の思想が徹底しているからだそうです。亡くなって49日後には何かに生まれ変わっているから、その人自身を供養し続ける必要がないからです。幸せとは明日への希望とも言えるが、それは死に逝く人にとっても同じです。自分が死を迎えるとき、死後の世界に希望が持てれば、どんなに辛くて悲しくても、死を恐れることなく幸せな気持ちでいられるのではないでしょうか?死は絶対的な不幸だと考えるのが私たちだが、死を含む幸福を考えないと最終的な幸福は語れないような気がします。ブータンの人々のように、自然の大きな循環の中で人間を見つめ、命のつながりの一環としてたまたま今人間として私が預かっていると考えれば、他者の不幸を置き去りにして自分だけの幸福を追求することはないはずです。インドのベナレスはガンジス川最大の聖地で、多くのヒンズー教徒が沐浴に訪れます。沐浴をしているかたわらでは、遺体を焼いた灰を川に流している。焼いているかたわらには、次の番を待つ白布をかぶった遺体がある。その隣にも、またその隣にも、次の番を待つ遺体があり、時には最後の遺体の隣では生きている老人が番を待っている。そんな番を待つ老婆の一人は、「人間としてのこの世での役割を終えたので、最期を迎えるべく、はるか遠くから歩いてこの聖地までやってきた。ここまで来れば、後は灰になって聖なる川に戻され、次の生を待つだけである。次の生が、運良く再び人間になるのか、鳥になるのか獣になのか、それは自分にわからない」と淡々と語る。つまり、死を迎えることは、同時に生を迎えることであるという輪廻転生の思想です。死は生まれ変わりでもあるから、家族にも涙はなく、さほど悲しい雰囲気もありません。仏教では、人はこの世に修行に来たのであって、修行が終わった者からあの世に帰るという教えもあります。このような考え方を信じるか否かは自分自身の問題だが、そう信じることができた人は、この世にあまり執着することもなく毎日を楽しく生きられるのではないでしょうか?
2014.07.15
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人の存在の究極の疑問とは、人がどこから来て、どこへ行くのか、ということだと思います。これだけ科学の発達した現代になっても、心とか魂のこととなると、残念ながら科学的な側面からは死後の世界の有無を断定できません。宗教・精神世界の分野では、聖人と呼ばれる人を含め、あの世はあると明確に主張する人たちが多数派です。例えば、ダライ・ラマは輪廻転生を何度も繰り返していると信じられ、予言に合致する子供が候補者として選ばれます。宗教には詳しくないが、キリスト教では最後の審判の日に天国か地獄に行くかの審判を受け、仏教では(釈迦は「無記」とあり答えなかったとあるが)中陰(四十九日)に生前の行いによって行き先が決まると言っています。ユダヤ教だけは、死ねば土に戻ると言っているようです。また、キューブラー・ロス博士の報告などが有名だが、臨死体験者(心停止の状態から蘇生した人の4~18%が臨死体験を報告する)からは、光体験、人生回顧、知覚の拡大などが頻繁に報告されています。世界的に実施された統計データから類推すると、およそ4割位の人が死後の世界を信じているようです。日本人は、きれいに三等分されています。「極楽世界はあるか否か」という問題をいくら考えても、誰も行ったことも見たこともないのだから無駄です。「あるほうが良いか、ない方がよいか」と考え、「浄土はあるべきだ」と考えて信じれば、生き方も違ってくるはずです。フランスの物理学者で哲学者でもあったパスカルも、「神があるかないか分からない。しかし、神がある方にかけたら人生は喜びに満ち、無い方にかけたら悲惨の極みだ。だから、ある方にかけたほうが得だ」と言っています。以前、ニューヨークに住む一人の少女が「サンタクロースはいるのか、いないのか」と尋ねる手紙を新聞社に出したところ、同紙は「サンタクロースはいます。それはこの世の中に、愛や、人への思いやりや、真心があるのと同じように確かなことです。サンタクロースがいなかったら、素直に信じる心も、詩も、ロマンもなく、人生はちっとも楽しくない。(中略)この世で一番確かで、本当のものは、大人の眼にも子供の眼にも見えないものです」と答えた。私たちは、眼に見えないものを信じない傾向があるが、言葉や動作を通して見たり聞いたり、五感で感じたりして認識できるものは、この世のほんの一部のことではしかありません。もっと目に見えないものを大切にしたいものです。
2014.07.14
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よりよく死ぬためには、無条件の愛の絆の中でよりよく生きることです。それは、日々を「明るく、楽しく、逞しく、心豊かに」過ごして、周りの人たちとできるだけたくさんの楽しみを共有することです。そして、最後は無条件の愛の絆を感じつつ、笑ってあの世に旅立ちたいものです。くも膜下出血で危篤状態になったAさんの周りで、妻と子供二人が見守りながら、お父さんとの楽しかった思い出を語り始めました。すると、ほとんど平らだった心電図が音を発しながら波打ちだしました。家族は声を揃えて、「わっ、パパが生き返った。頑張って!」と言いながらしがみついたが、心電図はまた元のように反応がなくなりました。しばらくして、「あの時、パパはこんな面白いことを言ったよね」と話しをしていると、また心電図の波が大きくなりました。そんなことを繰り返してうちに、「体はもう動かないけれども、周りの声は聞こえ、楽しい会話に反応している」ということに気づきました。そこで家族は、それぞれ最後に伝えたい言葉を語りかけ、「もう言い残すことはないくらい言い尽くしたね」と家族3人が口に出した時、不思議にも命の火が尽きたと言います。
2014.07.13
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行き倒れて瀕死状態の老人が、マザー・テレサの「死を待つ人の家」に運び込まれた。介抱の甲斐無く弱っていくばかりの彼の体をさすりながら、ひたすら耳を傾けた。彼は、絶え絶えの苦しい息の中から最後に、「わしは、これまで虫けらのように生きてきました。人として扱われたことなど一度もなかった。でも、人生の最後にここに運ばれてきて、あなたの手厚い看護を受けました。とてもよくしてくださり、お礼の言葉もございません。何が嬉しかったかといえば、人間として扱われたことです。おかげさまで、いい思いをして死ぬことができます。最後のお願いがあります。あなたを、おっかさん、と呼んでいいですか。私のかけがえのないおっかさんって」口元に耳を近づけて聞いていたマザーは、黙ってうなずき、老人の手を握りしめた。老人は、「おかっさん」と呼んで満足そうに笑みを浮かべ、安らかに息を引き取った。生み捨てた親を恨み、冷たかった世間や助けてくれなかった神を呪っても不思議でない彼らが親身の介抱を受けて、必ず「ありがとう」と言い残して死んでいくそうです。私は、最後の最後に、「楽しかった・ありがとう・生まれてきて良かった」の3語を遺して逝ける人生でありたいと願っています。
2014.07.12
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20代から始めたヨットを続けていた鈴木隆三さんは、主治医から「元気でいられるのは後2年」と宣告され、長年の夢だったレースに出場することにし、周囲が心配する中、2年半先の第五回メルボルン/大阪ダブルハンドヨットレースへの出場を決めた。「どれだけ生きるかが問題じゃない。どう生きるかが問題なんだ」という夫の強い決意に、妻も反対できなかった。経営していた会社も譲り渡した。「自分が楽しむだけでなく、社会の役に立つレースにしたい」と、自分の走った距離に応じて寄付をしてもらう(1マイルにつき1円から5円を設定し、5500マイルを完走すれば1円なら5500円を寄付してもらう)「セーラソン」と名付けた募金を知人やヨット仲間に提案した。56人が賛同した。寄付先は、障害のあるなしにかかわらず海の楽しさを知ってもらおうと「セーラビリティ大阪」にした。(ヨット購入に充てられた)出走した19艇中3艇が棄権する過酷なものだったが、33日と8時間余をかけて完走した。しかし鈴木さんの消耗は激しく、5月6日の表彰式には出席したものの直後に入院し、6月1日に亡くなった。
2014.07.11
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人間が生きて行くには「希望」が大切だが、希望と絶望は背中合わせでクルリとひっくり返る時があります。でも、希望が絶望に換わっても生き抜く人々がいます。そんな人に共通するのは、毎日の営みを丁寧にすることです。希望が持てない時には、丁寧に生きてみるとよいそうです。既に肝転移があり、余命六ヶ月と宣言された膵臓ガンの患者は、周りに笑いを振りまきながら、道ばたの小さな野の花を見つけて美しいと思ったり、一寸したことに感動したり、感謝しながら、8年あまりを元気に生きている。胃ガンで三ヶ月の命と言われた40代の女性は、子供の卒業式を見たいと思いながら、子供の弁当を丁寧に作ったりしながら、1年8ヶ月を生き抜いた。「その人たちの姿を見ていて気づくのは、「諦めない」という強い意志と同時に過酷な現実をあるがままに受け入れながら、与えられた日々を丁寧に生きる姿だった」と諏訪中央病院の鎌田實さんは言う。キューブラー・ロス博士は、「死は怖いものではない。じつのところ、死は人生で最も素晴らしい、とほうもない経験になりうる。そうなるかどうかは、いま、自分の人生をどう生きているかにかかっている」と言う。
2014.07.10
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ある新聞に、こんなコラム記事が載っていました。46歳になる婦人が乳ガンと診断され、しかも手遅れであと数カ月の命と宣告された。婦人は父親の故郷である山口に旅をし、旅行から戻ると、大学生と中学生の二人の息子に向けて、自分の生い立ちや生き方などを書きつづった。そして、母親がいなくなっても困らないようにと、息子たちに料理を教えた。「交通事故で突然死のことを考えればむしろありがたい。やるべきことは済ませられるのだから」と、気丈に自宅で闘病生活を送った。最後の一カ月は、美しい母親としての思い出を残したいから日々衰える姿を見せたくないと、息子たちの病室への入室を禁止した。やがて婦人は亡くなり、地元紙の広告欄に訃報とともに、「この度、私は病気により急ぎ旅立つことになりました。・・・心からお礼を申し上げ、お別れをしたいと思います」という自筆のお別れの言葉が掲載された。誰も死は訪れます。人生は長い短いに意味があるのではなく、自分の役割を全うしたか否かが大切です。逞しい心で死をきっちりと見据え、自分はこれだけのことをしたと胸を張れるように、今をしっかりと生きたいものです。
2014.07.09
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自分の命が残り少ないと知ったとき、大きくいって、自分のやりたいことをやっておこうという人と、残された時間を世のため人のために費やそうという人に分かれます。やりたいこと、やるべきことを書き出してみて下さい。「自分のやりたいことをやっておこうと考える人は、他人のことよりも自分を大切にする人です。こういう人には、周囲が協力して本人の願いをかなえてあげるといい。他人のために尽くそうとする人は、精神的にも安定していて、残された時間を有効に使って生きようと言う希望に結びつき、生きていく上で強力な支えとなる。他人のためが、本質的に自分のためにもなる。満ち足りた死を迎えることによって、家族や周囲の人たちをも安心させることができる」、と真言宗傳燈大阿闍梨池口恵観さんは言う。思い出の地を訪ねる人もいれば、会いたいと思う人に会う旅をする人もいます。また、末期ガンと宣告されたある女性は、子供たちのために彼女がその人生で聴いた美しい歌や音楽をテープに吹き込むことで、死の前の時間を過ごした。子供たちは、母の死後、そのテープを回して、彼女が彼らに歌ってくれた子守歌や童謡を、再びそのままの声で聴くことができ嬉しかったそうです。
2014.07.08
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乳ガンを手術した樹木希林さんは、「ガンになったとき、死ぬと思った。だから、その前に夫との関係だけは修復しておきたいと考えた。夫婦の仲違いなんて両方が悪い訳なんだけど、私はもう死ぬんだから、今までのことはすべて自分が悪いと思ってみたんです。それで、結果的にお互いが通じるようになり、その時初めて、これは相手の心を癒やすだけでなく、自分自身が癒やされたんだなと実感したわけです。ガンになる、死を意識する病気になるということは、心の浄化が起きるのだと思います」と語る。「自分が経験して嫌というほどわかったことは、亡くなったということは、どんなに望んでも二度といないということ。幸い夫婦そろって暮らしておられる方は、必ずどちらかが倒れて別れるときがくるということを忘れず、『私たちは、精一杯のことをお互いにやってきた』と思えるような努力をしてほしい。一緒に暮らしている相手のことを心して見て、お互いに思っていることをきちんと言葉でやりとりし、夫婦の間でもぜひほめ合っていただきたいのです。そうすることで、もっと一緒にいて楽しい夫婦になると思います」と、夫を亡くした加藤さんは言います。
2014.07.07
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聖心会シスター鈴木秀子さんは、「私は多くの死にゆく人に、心残りはないか、どんなことを今したいかを尋ねます。ほとんどの人が、まず、仲違いをしている人がある場合は、仲直りをしたいと言います。次は、家に帰りたい。そして、自分の足で手洗いに行きたい、自分の口でものを食べたい、と言います。大人になるということは自立して生きることで、自分の足で歩き、自分の口で食べることができるようになることです。つまり、人生の最後にほとんどの人が望むことは、自立した大人の人間として深い愛のうちに絆を強めることです。外部から自分を支えてくれた社会的な地位や肩書き、財産などは、もう意味を持たず、他の人々との温かい心の交わりのみが最大のものになっていきます。人間にとって、外からの支えが剥奪された後、根源的なもののみが浮かび上がってくる」と言ってみえました。私たちは死ねば、この世で築いたもの、地位も名誉も、冨も、家族も、みな置いていかなければなりません。ただ持っていけるのは、生きている間に行った善い行為と悪い行為だけです。花は咲き、散る前に芳香を放ちます。人も花のように、何か善いこと輝かしいことをして芳香を遺したいものです。
2014.07.06
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思うようにならないことを、思うままにしようとすることから『苦』が生じます。ですから、何事も自分の思うようにしようとしなければ苦は生じません。良寛さんは地震の見舞いをくれた友人に、「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難を逃るるの妙法にて候」と書き送ったが、現実を現実として受け入れる心があれば苦から逃れられます。病気になったとします。どんな病気でもすぐには治りません。それを、「なぜ私だけが」と嘆いたり、イライラしたり、治らないのではないかとクヨクヨしたり、早くよくなってほしいと願って焦ったりしがちです。そんな思いが、人間には一番よくありません。何事もイスラム教の「イン・シャー・アッラー(神の御心のままに)」ではないが、「ダメなものはしようがない」「どうあがいても患ったものはしかたがない」「死病は一度だけ、誰でもそのときが来れば死ぬ」と自然の力にまかせて生きていくことです。そう楽観するのは凡人にはなかなか難しいことが、現状を是認して明日を思い患うことなく、ウグイスが鳴けば「あらもう春なのね」などと、日々の小さなことの中に喜びを見つけていくことで乗り切っていけるはずです。
2014.07.05
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平成3年に2万1千人だった自殺者の数は、平成11年にはついに3万3千人にもなった。毎年、3万人都市が丸ごと一つ無くなる勘定です。死亡しなかった人を入れれば、この何倍かになると思います。この平和な世の中で、これだけ多数の人が自ら命を断つというのは異常です。参考 自殺の要因 平成24年1位 健康問題10.7%(60代56.4% 70代68.3% 80代72.6%)2位 経済・生活問題4.1%3位 家庭問題3.2%4位 勤務問題1.9%シェークスピア著『キング・リア』の一節に、「人は泣きながら生まれてきた」というリア王の台詞があるが、お釈迦様も「人生は苦なり」と言ったように、この世は楽しいことばかりではなく、自分の思い通りにならない苦しいことの方が多い。人生は、しんどくて無残な面もある。だからといって、人生を投げだしてしまうほどひどいものでもないはずです。小林秀雄さんは、「人間というものは、オギャアと生まれた瞬間から、死へ向かって一歩一歩、歩いて行く旅人のようなものだ」と言ったが、本当にその通りです。死というものが行く手にちゃんとあり、逃げたくても逃げられないものなんだというふうに考えれば、何もそう死に急ぐこともありません。この頃は身近に死を感じることも少なくなったが、死というものをきちんと見すえ、そこから改めて生を考え直してみることが大切だと思います。
2014.07.04
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告知を受けて、限りある時間を自分らしく生きる人がいます。「抗ガン剤が効かないと余命半年」と夏に告げられた74才の女性は、1週間はやつれた様子だったが、次第に落ち着き、年末にはおせち料理のノウハウを便せんに書いて娘さんに渡しました。娘さんは、「自分がいなくなる日のために準備する母を見ていて、私もその日が来る心構えができました」と言う。告知後は自宅で亡夫の遺影を見ながら懐メロのCDを聞いたり、思い出の品を整理したりしてマイペースで暮らしている83才の祖母を見て、「自分らしく生き続ける祖母を見て、私も余命告知を受けたいと思うようになった」と孫は言う。このように、告知は残る人にも良い影響を与えるようです。一方、49才で肺ガンが移転し完治しないと告知されて「電車のホームから突き落として欲しいと思うことがあります。覚悟できていないので、身辺整理や思いで作りなどする気にならない」と言う人もいれば、55才男性は「5年生存率50%と言われ、先のことが考えられなくなりました。寝ても覚めても『死』の文字が頭にぶら下がっていて・・・」と言い、心療内科で重度の鬱病と診断された人もいます。一般的には、若い人ほど心が定まらないようです。
2014.07.02
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人間として思うようにならない代表が「生老病死」だが、貴方は「あと3ヶ月の命です」と言われたらどうするだろうか?ある調査では、8割の人が余命告知を望んでいました。でも、経験談を聞くと、現実の告知を受け止めるのは本人はもとより家族にも重いものがあります。一般的には、余命告知をまず家族にするケースが多いが、家族は「本人に話すべきか」で迷い、亡くなってからも、本人に告知せずに後悔した人がいれば、告知したことを後悔する人もいます。「もし、告知していたら、関係の悪かった娘との仲を修復しようとしたのではないか。弟の妻が『夫を騙して辛い4ヶ月でした』と言ったのもショックでした。豊かな家族関係を作って死なせてやるべきだった」と後悔する兄がいれば、「僕は強くないから余命告知があっても言わないで欲しいと頼まれていたのに、言わないでおいては夫は思いを残す個とがあるかもしれないと思い約束を破ってしまい、見舞いに来た実母に当たり散らすのを見て夫の絶望の深さを知りました」と告知をしたことを後悔する人もいます。一般的に告知後の1週間から10日、患者は絶望や怒りを経験するが、徐々に立ち直るとのことです。
2014.07.02
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奈良興福寺の貫主さんが、「生きたい」「もっと生きたい」という思いが強い人の心は輪廻転生し、「生きるのはもういい」「もう生きたくない」という人の心は死によって消える、と言われたと時実新子さんが語る。それを受けて、龍角散の藤井康男さんは「ガンになったとき、医者の言うことを素直に信じ、指示に素直に従い、言いつけを素直に守る模範的な患者はあっさりと死んでしまう。逆にガンなんかで死んでたまるかと立ち向かっていき、時には医者に逆らって自分でいいと思った治療法を実行したりする人は、医者の診断以上にしぶとく生きる。また、俺はガンなんかに罹るわけがないと毅然として医者の診断を信じず、治療なんか受けつけない人は、最も長生きし、なかにはガンが治ってしまう人もいる」と言う。つまり、心の持ち方で生と死の様相が違ってくるということだが、死がどういう姿でやってくるかは、その時にならないとわからないものです。それを考えるよりも、私たちは「今という一瞬を生きている」のだから、今を精一杯生きていくことが大切なのではないでしょうか。そうすれば、自ずと得心して最期を迎えることができると思います。
2014.07.01
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